masaoka2010のblog

憲政等の問題に関する愚見の開陳

2017年12月

 かつて、「紅白」が終わるころになると除夜の鐘が遠く近く聞こえて来た。近くの大きな団地からであろう、初詣でに向かうらしい善男善女の話し声も微かに聞こえた。

 今では「紅白」など見なくなった。筆者のような古びた耳と何とない懐古趣味を持つ変人には、「紅白」の歌っているのか踊っているのか分からない音楽がいつしか五月蠅く聞こえるようになったからだ。近年では「紅白」に年末年始の筆者が勝手に求める荘厳さを壊すものとして騒々しさや嫌悪さえ覚えるようになっている。早く就寝することもあって、この十年以上「紅白」など全く見たことがないのだ。しかし、年を越す時間になると、不思議に目覚めることがある。

 数年前気が付いたが、その年越しの時の流れに流されるように聞こえ来たはずの除夜の鐘が聞こえなくなっているようだ。耳を澄ましても聞こえないのだ。そのこともあってか、目覚めさえすれば床の中にいても感じられた年越しの時の移り変わりが感じられなくなってしまった。

 昨年のことだが、翌朝初詣でに行くと、寺の鐘はひっきりなしに鳴っていた。鐘を撞くために並んでいる人の数は決して少なくない。そのような人の数から推測すれば、除夜の鐘も鳴り続けていたのであろう。しかし、その音が何となく籠って聞こえる気がした。響かない感じがするのだ。音が抑えられているのであろうか。わが家に除夜の鐘が聞こえない理由が分かったような気がした。

 そういえば近年、直ぐ近くの中学校の運動会の拡声器の音も聞こえない。以前に聞こえた運動会らしい音楽も聞こえないのだ。五月蠅いとクレ-ムがつけられた由である。

新聞によれば、幼稚園や保育園等の子供たちの声にも「騒音」問題が彼方此方で起きているらしい。子供時代騒ぐことなく成育した大人たちの怒りなのだろう。

 一昨年は、中学校のテニス・コ-トに接した家の主婦が生徒たちの練習声にクレ-ムをつけたと述べていた話し声を耳にしたこともある。知人の中にも、クレ-ムをつけている人がいたのだ。

 テニス・コ-トではないが、テニスといえば、中学の裏庭で、多分にテニス部の女生徒たちであろう、面白い動作で練習している光景を目にしたことがある。その動作が面白かったので、筆者の関心は高まった。そして、思わずベランダからその動作に見入ってしまった。すると、筆者が見ていることに気が付いたコ-チの先生?らしい人が女生徒たちに早速避難を命じた。多分に「変態親爺が女生徒たちに妙な好奇心を示している」とでも感じたのであろう。女生徒たちを守護する真面目な行為だ。筆者は普通の練習光景であれば、特に見入ることなどなかったのであるが。それでも、女生徒たちを避難させる結果を生じてしまった自分の行為に改めて罪悪感を覚えさせられた。誰にでも見えるところで、公然となされていると思っていたのに、見てはならないらしいのだ。

 近くの公園には、ある程度離れている高校の陸上部の女生徒たちが時々トレ-ニングに来ている。その鍛えられ方をも偶に見入ることがある。その鍛えられ方次第では取り分け関心が高まる。ここにもコ-チの先生?らしい人がついている。長いこと見入らないように努めているものの、未だ警戒されたことはないようだ。

 随分以前、妻と散歩中に重い荷物を辛そうに運ぶ老婦人に声をかけた。そして、その老婦人の自宅前まで荷物を手伝ったことがある。数日前、筆者は散歩中に同じような老婦人を目にした。声をかけようと思ったが、躊躇してしまった。最近、帰宅途中で遭遇した老婦人を手助けする積りが警戒されてしまったからだ。
  親切や好意も示し難くなった。一寸したことばがセクハラ、パワハラ、差別用語とみなされるようになった。

 大晦日、床の中では24時をまわっても、昨日と今日に何の変哲もない。しかし、昨日が昨年になり、今日が今年になった。何にも変わってないようで、徐々にすべてが変わっている。

 英語が読めるわけではないが、米国憲法修正1条は次のような規定である。

 Congress shall make nolaw respecting an establishment of religion, or prohibiting the free exercisethereof; or abridging the freedom of speech, or of the press; or the right ofthe people peaceably to assemble, and to petition the Government for a redressof grievances.

 ここでof the press”についての和訳については、「出版の」とする者がおり、また「報道の」とする者もいる。修正1条で「出版の自由」が保障されているとする者や「報道の自由」が保障されているとする者がいるわけである。

 日本国憲法ではその21条と82条に「出版」ということばがある。その正式な英訳憲法において「出版」に対する英語は“press”となっている。

 筆者には米国憲法修正1条の“the press”に対するいかなる訳が正しいか分からないから、以降では「プレス」と述べるが、米国の裁判所は修正1条の「プレスの自由」の問題を「言論の自由」の問題として扱う傾向にあるから、したがって、そのことばはを然程に重要視されていないようだ。

 序に述べれば、米国憲法修正1条で「平穏に集会する人々の権利」について規定しているが、米国の裁判所はこのいわゆる集会の自由についても然程に注目しない。むしろ、「集会」を一時的な人々の集まりとし、「結社」を恒常的な人々の集まりと解しながら、前者は言論の自由の範疇で扱い、むしろ憲法に明示の規定のない「結社の自由」の問題と多く取り組んでいるようである。

 米国の連邦最高裁は「言論の自由」「プレスの自由」「平穏に集会する人々の権利」「苦情を救済するために政府に請願する権利」を「同根のもの」と解するから、少なくともわが国の憲法学界の通説的な憲法、それも基本権の理解とは異なる。それらの中でいわゆる請願権については、わが国では自由権の範疇ではなく、受益権の範疇で理解されるからである。

 再び戻って、実際には大して支障はないが、「プレスの自由」を「出版の自由」と訳した場合、たとえば、ラジオやテレビ等の「報道の自由」が少なくともその文言によっては保障されないところとなる。ただ日本語でプレス・ル-ムとか、プレス・クラブ等という場合にそこからラジオ関係者やテレビ関係者とか通信社等が外されるわけではあるまい。その意味では、「プレスの自由」に対する「出版の自由」という訳語は不自然となるのであろうか。

 これに対してそれを「報道の自由」と訳した場合、それによって、たとえば、漫画雑誌とか小説本とか写真集とかその他の報道以外の印刷物あるいは活字等にかかる自由が少なくともその文言においては排除されることになるのであろう。

 「press」という訳語を有する日本国憲法21条の場合、その日本語が出版であっても、「その他一切の表現の自由」が保障されているから、大して問題は生じない。ただ日本国憲法822項但書は「但し、政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利が問題となってゐる事件の対審は、常にこれを公開しなければならない。」規定しているが、そこでなぜ「出版に関する犯罪」を上げながら、広く「言論に関する犯罪」あるいは「表現に関する犯罪」としていないのかは解せないところである。改憲論議には全く上がっていないようであるが、今や言論あるいは表現の中で「出版」の地位が高かった時代ではなくなっているのである。

 ともあれ、“the press”の日本語の適訳あるいは正訳はどのようなものであろう。あるいは、日本国憲法21条や同82条で殊更に「出版」だけについて定めていることについて問題はないのであろうか。

 日本国憲法について学ぼうとする場合、どうしても戦後のわが国の憲法学界をリ-ドした故宮沢俊義法博の著書に目が向く。今日も暇に任せて何となくその著書『日本国憲法』を開いたところ、日本国憲法11条の「『基本的人権の享有を妨げられない』とは、憲法はすべての国民が人間たることにもとづいて、国家以前において、『基本的人権』を享有するとする原理を承認し、これを尊重する方針であることを意味する。」と認めた頁が現れた。

 そのような宮沢見解に異論はない。ところが、その前頁に目を向けると、「『基本的人権』は、はじめは自由権だけを意味していたが、やがて、それを実質的ならしめるために、参政権や社会権までも含むようになつた。」とある。そして、日本国憲法にいう基本的人権はそのようなもので、世界人権宣言における人権と同じものということであった。ただ世界人権宣言の場合、法理的思考が窺われる日本国憲法の基本的人権と異なり、その用語法に法理的思考の形跡がない。「人権」「基本的人権」「基本的自由」「基本的権利」ということばが多分に識別されることなく用いられており、その人権の理解は至難なのだ。それを日本国憲法の基本的人権と同視するのは軽率だ。宮沢見解とこのような世界人権宣言の人権と同視された基本的人権の説明を合わせ読むと、そこで説かれている基本的人権の内容が分からなくなる。一体、参政権や社会権は国家以前のものではなく、人間たることに基づいた権利でもないのだ。

日本国憲法は基本的人権について「侵すことのできない永久の権利」とも規定している。この点に関して宮沢『前掲書』は「基本的人権が人間の本質に伴うものだという性質をあらわした言葉」と説いている。このような説き方は多くの支持するところであろう。

『同書』は、そのような基本的人権を「『自然』によつて、あるいは、『造物主』によつて、与えられ」たものと解している。およそわが憲法学と無関係に振る舞う最高裁は無視しているが、日本国憲法を沿革解釈すれば、それは自然の結論と思う。

このように基本的人権が国家以前に享有されるものであれば、自由以外にあり得ないはずだ。およそ支配するものがない国家が出来る前の状態では、天主あるいは(欧米の思想にある)天主が創った自然の法則(自然法)の外に支配するものがなく、存在するのは支配する権力がない故の「自由」だけなのだ。

これに対して、参政権は「国民が人間たることにもとづいて」有するものではない。政治に参加する能力あるいは資格をもつ者が運命共同体の共通の担い手として有するだけである。その本質は自分の利益のために行使できる権利などではなく、全国民のために行使される権限または公務である。また、社会権は弱者を救済するために創設されたものであって、その本質は強者にとっては権利などでは決してない。その本質は、強者にとっては弱者救済のために経済的自由権を制限される負担あるいは受忍に過ぎない。社会権がなければ、強者は経済的自由をより広範に享有できるのだ。参政権や社会権は天主あるいは天主が創った自然法によって与えられたものでは決してなく、国家が与えたものであって国家以前に存在するものではないのだ。

一体、基本的人権はドイツの憲法にいわゆる人権のことであるが、田上穣治『日本国憲法原論』に説かれているように、それは人類各個人に普遍的に認められるものであって、特定のものが有するものは基本的人権では決してない。第二に、基本的人権は天主が創った自然法に根拠を持つものであって、日本国憲法はそれを確認しているに過ぎない。田上『前掲書』はその基本的人権を理性の必然、近代精神における人類の信念(から生まれたもの・・・筆者註)と表現している。そのような基本的人権は、第三に、他人に受忍その他の義務を課すものではなく、また他人の権利を侵害するものでもない。他に義務を課したり、他の権利を侵害するものは最早基本的人権であり得ないのだ。そのような基本的人権は個人の人格価値の尊厳に含まれているものである。

そのような基本的人権は日本国憲法12条の「自由及び権利」のうち「自由」の中に属するものである。ただ自由と基本的人権は同一ではなく、その自由のすべてが基本的人権であるわけでは決してない。たとえば、日本国憲法154項の投票の秘密に伴う投票の自由は国家を前提とし、選挙人だけが有するものであるから、基本的人権ではなく、同法381項の不利益な供述の拒否にともなう黙秘する自由権も刑事制度上の自由であって後国家的なもので基本的人権ではないのだ。

宮沢説は日本国憲法17条の賠償請求権と40条の刑事補償請求権については基本的人権と認めることに消極的であるが、これらは国家の存在を前提としたもので、固より、基本的人権であるはずもない。

なを、最高裁による基本的人権解釈は理解し難いが、その最高裁も選挙権について、宮沢説とは異なり、基本的人権とは解せず、基本的権利と解している。

ともあれ、以上のような愚見によれば、碩学の教えにも必ずしも得心が行かないものがある。碩学の教えも読めば読むほど承服し難くなるのだ。

 ある雑誌に日本中国友好協会会長丹羽宇一郎氏のインタビュ-記事が掲載されていた。

  この御仁は民主党政権時代に大使として中華人民共和国へ派遣された人物だ。

 この丹羽氏によれば、南シナ海や尖閣諸島で領有権を主張している中華人民共和国の姿勢は日本人の目から見れば非常に傲慢なものに映るかも知れず、日本やアメリカだけでなく国際社会の多くの国が中華人民共和国の行為を「力による現状変更」と捉えて問題視しているが、そのような見方は誤まりということである。

 丹羽氏は習近平氏の「中華民族の夢」をじっくり考える必要を説く。彼によれば、その夢とは過去に「主権を侵害されるという耐え難い屈辱を受けた中華民族の誇りと大国の地位を取り戻す試み」であり、中華人民共和国は「過去の債権回収に入ったということ」だそうだ。そして「過去の屈辱をそそぎたいという中国の想いはわからないことではありません」というのだ。

 丹羽氏は習近平氏の「中華民族の夢」を当然の如く容認し、いわば復讐心を理解できるとしているわけだ。しかし、「中華民族」という流動的で意味不明のことばをそのまま受け入れ、その「夢」というより「野望」あるいは「野心」の実現を認めて良いものか、一考する必要がある。

「中華民族」というが、これは習近平氏らの勝手なことばだ。チベットやウイグルの人々等自分たちが「中華民族」とされることに反発するところは少なからずある。中華人民共和国による弾圧の恐怖を浴びせる強権が無ければ、自らを「中華民族」とされることに反発する民族は決して少なくない。抑々伍廷芳に習ってそのことばを用いた外交官経験をもつ梁啓超は「中華民族」にモンゴル族やチベット族や満州族を含めていなかったのだ。にも拘わらず、中国共産党はその範囲を勝手に拡大しているのである。丹羽氏は中国共産党のそのことばを素直に受け入れ、習近平氏の「夢」を過去の債権回収と尤もらしく肯定しているが、一体この正体不明のものによる債権の範囲をどこまで認めようというのか。

南シナ海や東シナ海が余り大きくなかった中華民国の領海であったことはない。交易を行った宋や明の時代でも領海としたわけではなかっのだ。況してや、新興の中華人民共和国の領海などでは絶対にない。丹羽氏は南シナ海の中華人民共和国の行動を海南島の潜水艦基地の防衛と当然のごとくに擁護している。しかし、中華人民共和国を攻撃しようとしている国がどこにあるというのか。ベトナム、マレ-シア、インドネシア、フイリピン、ブルネイ、台湾のどの国も中華人民共和国侵攻の意図など有していないのだ。存在するのは中華人民共和国の侵出だけである。中華人民共和国は人工島までつくり軍事化して海域支配を図っているのだ。それは債権回収などでは絶対にない。抑々中華人民共和国は自らに他国侵攻の意図が無ければ、潜水艦など必要としないし、人工島増設とその軍事化など不必要な国なのだ。

 その丹羽氏はわが尖閣諸島の問題を「漁業権と資源開発の問題に尽きる」とも述べている。柿の実がたわわになる自分のうちの庭に「温泉が出る」ことが分かった途端に、隣人から「その庭は私のものだ」と所有権を主張されるや、その「庭の問題は柿の実と温泉の問題に尽きる」というような者はいまい。命そのものを狙われた人が、にも拘らず、「命ではなく、私の金と身ぐるみの問題」と高をくくるようなものだ。しかし、そのような安易な考えを持った者がわが国の大使であったのだ。習近平氏は軍の幹部会で尖閣での武力行使をさえ口にしているのである。それも「債権回収」として理解できるのか。

 台湾も、かつて清国の領土であったわけではなかった。清が真に台湾全土を支配したことはなかったのだ。むしろ、その住民を化外の民とさえ述べていたのである。康熙帝の地図を見ても、台湾のかたちをいびつに描き、中央の山地より東側はその版図に含めていない。中華人民共和国はその台湾についてもまた領有権を主張している。武力解放を断言さえしているのだ。それも、その軍機等をもって台湾を現に周回させてもいる。これも「債権回収」として認めるのか。

 それどころではない。習近平氏の「新型大国関係」には太平洋を米中で二分する考え方さえ潜んでいる。その版図拡大の意図は妄想に近いのだ。「債権回収」どころではないのだ。

 東シナ海を「友愛の海」とする考えで中華人民共和国船舶侵入のためのいわば招待状を出したル-ピ-鳩山由紀夫なる首相がいた。その結果、尖閣周辺には数多くの中華人民共和国の漁船や公船が侵入し始めた。それを継いだ極楽とんぼにしか思えなかった菅直人首相は、選りにも選って飛んでもない大使人事を行った。わが国が中華人民共和国の属国になっても構わないと発言したとも言われている上記のような人物を彼の国への大使としたのだ。
 民主党政権には外交など全くなかった。歴史をいい加減に理解し、国際情勢を正しく見ようとしない丹羽氏の中華人民共和国大使人事はその一例に過ぎなかった。

  

 日本国憲法前文第一段には、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」と謳われている。

 そのうち国政に関する国民の信託思想がジョン・ロックに由来することは何人も否定しまい。

 次に「その権威は国民に由来し、その権力は国民代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」という部分がリンカ-ンのゲティスバ-グにおける宣言に由来することについても疑う者はいまい。そのゲティスバ-グの演説でリンカ-ンが「国民の、国民による、国民のための政治」(government of the people,by the people,and for the people)と宣したことは広く知られているところだ。

 少しく横道に逸れるが、このリンカ-ンの宣言については必ずしも意味が明らかでない部分があり、その解釈に異論が存する。「国民の政治」と「国民による政治」との異同の問題があるのだ。この点に関して多くはgovernment of the people”における「国民」を主格として理解しているが、それを主格と捉えず「目的格」と解する見解があるのだ。そのように解してリンカ-ンのことばを国民自治を宣べたものと解するのだ。リンカ-ンは「国民を、国民が、国民のために統治すること」を宣したのではないかというわけである。これに対して、多くは意識的解釈か無意識的解釈かはともかく、そのことばに律動感を覚え、リンカ-ンもそれをことばの流れとして述べたに過ぎないと解しているようだ。したがって、結果的に「国民の政治」と「国民による政治」との間に差異を感得しないようなのだ。

 ところで、上記の「その権威は国民に由来し、その権力は国民代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」に関してわが国の戦後の憲法学界をリ-ドした故宮沢俊義法博はリンカ-ンのことばを連想しながら、日本国憲法前文はリンカ-ンの「国民の、国民による、国民のための政治」を人類普遍の原理と宣したと解説している。そして日本国憲法前文は「従来の日本にあつた憲法以下のすべての成文法だけでなく、将来成立するであろうあらゆる成文法を、上にのべた『人類普遍の原理』に反するかぎり、みとめない意味である。『憲法、法令及び詔勅』とあるは、その名称の何であるかを問わず、いつさいの成文法(正確にいえば、成文の形式を有する法律的意味を持つ行為)を意味する。」と説明している。

 上記に「法律的意味」とはそこに憲法も含まれるようであるから、日本国憲法41条による立法の形式である「法律」という意味ではなく、広く成文の「法」を意味し、成文の「法的意味」に等しいものと思われる。

 ともあれ、宮沢説では、「国民の、国民による、国民のための政治」に反するすべての国の行為は認められないことになり、したがって、それは憲法改正の限界をなすことになる。

 ただその説は少しく緻密さに欠ける。日本国憲法前文が宣しているのは「国民の、国民による、国民のための政治」ではなく、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」であるからである。リンカ-ンは民主制の具体的な在り方に触れていないが、日本国憲法はその民主制を代表民主制と明示に宣言しているのだ。抑々日本国憲法を押し付けたGHQの祖国米国にはギリシアの民主政やクロムウェル政治への想いから直接民主制に対する不信感があったのだ。GHQの原案にそのような考え方が自然に反映されたと解することも間違いではあるまい。

 にも拘わらず、宮沢説が日本国憲法が人類普遍の原理とした代表民主制を無視したかは不明である。このような姿勢は最高裁竹崎コ-トにも確認される。裁判員制度訴訟における判決では、強く排除を宣せられた直接民主制が結果的に尊重され、日本国憲法の代表民主制は全く無視されたのである。要するに、日本国憲法の文言は自分の想いや結論に都合が悪ければ無視してもよいもののようである。わが戦後の憲法学界をリ-ドした碩学やいわゆる違憲立法審査権を有する最高裁のそのような姿勢に合点が行かない者は決して少なくあるまい。

 

↑このページのトップヘ