masaoka2010のblog

憲政等の問題に関する愚見の開陳

2018年01月

 このところ、人権とか基本的人権ということばが一般にも一部の法曹家によっても至極濫用されていると思う。財産権とか意味不明の平等権を基本的人権とした最高裁も例外ではないと思うのだ。田上穣治「日本国憲法原論」のような慎重な用語法が懐かしくさえ思える。そこで以降、少しく憲法上の権利について一筆する。
 法律上の権利が原則として国民あるいは人々の主観的な法益を保障したものであるのに対して、憲法上の権利は必ずしも国民あるいは人々の主観的な法益を保障したものとは限らず、それは通常基本権と呼ばれる。その基本権には、国家と国民あるいは人々の消極的な関係に伴い自由権が保障され、次に積極的な関係から受益権が保障され、さらに能働的関係からその本質を権限または公務とする参政権が保障されるが、日本国憲法ではそれらの外に、国家が強者の経済的自由権を制限して弱者を救済するために弱者の利益を保障し、これは社会権と呼ばれている。この社会権の本質は強者のためには権利性はなくむしろ受忍あるいは負担であるが、弱者にとってもその保障される基準が時代の諸要素によって左右される強者の受忍あるいは負担の能力に左右されることから一定したものではなく、法律で具体化されない限り、その内容は明らかではない。それは飽くまでもプログラムに過ぎないのだ。因みに、冒頭に法律上の権利について原則としてという表現の仕方をしたのは、民法
820条の親権を有する者の子に対する監護・教育の権利の如く、法律上「権利」という表現がなされているにも拘わらず、その実質は親権者のための主観的な法益たる「権利」ではなく、子の利益のための「権限」あるいは「義務」に外ならないものがあるからである。

 通常人々の主観的な法益である権利は法律や契約によって生まれるが、基本権は憲法が規定するところのものである。その基本権のうち基本的人権は、天主が創った自然法上の権利を憲法が確認して保障したものであるが、その他の基本権は憲法が創設して保障したものである。

そのうち基本的人権について述べれば、ドイツの憲法では人権と呼ばれ、日本国憲法が定める基本的人権は不可侵永久の権利として、その11条が「与へられる」とし、その97条が「信託されたもの」しているから、既述したごとく、天主が創った自然法上のものである。不可侵永久の権利のような絶対的な権利は、永遠に存在するとは限らない国が創設することなどできず、それは元々絶対の存在である天主に由来するものなのだ。それは国家あるいは憲法に先存する権利であるから、憲法改正の限界をなすもので、憲法の改正によって廃止することはできない。その基本的人権の本質については、それが天主が創った自然法上のものである以上、国家、それ故憲法に先存するものである以上、国家、それ故権力が存在しないところには支配するものが存在しないから、それが自由を意味することは論ずるまでもない。自由以外のもので基本的人権などあり得ないのだ。

 その結果、日本国憲法が保障する自由権には、基本的人権である前国家的な自由権とその憲法によって創設された後国家的なその他の基本権に属する自由権とが存するわけである。日本国憲法はその基本的人権についてジェファ-ソンに習ってより具体的ではあるが、それでも総括的に生命、自由および幸福追求権として定めているが、さらに具体的に奴隷的拘束等からの自由(憲法18条)、思想・良心の自由(同19条)、信教の自由(同20条)、集会・結社および表現の自由(同21条)および学問の自由(同23条)が例示的に規定し、これらには明示の法律の留保はない。これら具体的に規定された基本的人権が規定上公共の福祉に留保されていないのは、一つにはそれらが総括された日本国憲法13条および12条で一括して(ロックによれば、危険の防止を意味する)公共の福祉に留保されていること、その他にはその保障の強さを示すためである。

日本国憲法が経済的自由について基本的人権としていないのは、それが生命、自由および財産を自然権すなわちいわゆる人権と考えたロックやフランスの「権利宣言」と異なり、財産権を他の自由等の行使によって取得される二次的な「市民の権利」(すなわち基本的権利)と解したジェファ-ソンの影響をGHQを通じて受けているからである。日本国憲法は、その財産に関わる権利を基本的人権ではなく基本権としての規定の仕方をして、弱者救済という政策的な公共の福祉に留保している(憲法22条、29条)。GHQの祖国米国の憲法は、生命、自由および財産を並べて規定しているが、それらのうち財産権に関連して私有財産に対する公共のための利用を明示に認め、生命や自由に対する権利と異なるものであることを明らかにし(米憲修正5条)、公共の福祉に留保した日本国憲法22条や29条の先駆的規定の仕方をしている。

このようなことについてわが最高裁は全く学理解釈(論理解釈と文理解釈)を行わず、流石に参政権については基本的人権とせず基本的権利としているものの、迅速な裁判を受ける権利や財産権をも基本的人権と看做し、また公共の福祉について分析的解釈をしていないが、憲法を専門としているとは限らず、主として法律家から成るそのような最高裁による憲法解釈には不可解さが多々存在する。

ともあれ、以上のようなことから、自然法に由来する基本的人権を制限する「公共の福祉」(憲法13条)と優れて実定法上の権利である経済的自由権を制限する「公共の福祉」とは(同22条、29条)異質であることを認識する必要があるが、わが最高裁がそのようなことを無視するのは、その組織にほぼ法律家が任命されているからであろうか。大陸法の諸国が、憲法判断をする機関として司法裁判所に任せず、政治的機関たる憲法院としたり司法的機関でも憲法裁判所を設けた理由が分かる気がする。

因みに、投票の秘密から選挙人に保障される投票の自由(憲法15条)や刑事被告人に対する不利益な供述の強要の禁止から保障される黙秘する自由(同38条)等は自由権であっても、国家の制度に伴う後国家的な基本権である。

最後に、基本的人権は自然法的な根拠を持ち人が人として等しく有するもので何人にも保障されるものであるから、特定の者が有する自由権は基本的人権ではなく、直接的・第一次的に個人の人格価値と結び付かない自由権もまた基本的人権ではない。また、基本的人権が何人もが有するものである以上、他に受忍や負担を課したり侵害するもの、あるいは、他に何らかの危険を及ぼすものであってはならない。そのような基本的人権を脅かすものを防止することこそ国家が創られた目的であり(憲法13条)、それが日本国憲法13条および12条の公共の福祉であって、同13条が明示もしているごとく、その範囲は頗る狭い。それ故、たとえば、NHK受信料訴訟における寺田最高裁が受信契約等を定めた放送法64条を合憲とするために述べた基本的人権やその他の基本権に先在する知る権利を拡充するという理由はその公共の福祉とは異なり、中華人民共和国等では自由を制限する根拠となるかも知れないが、日本国憲法の下では、一般的に近づくことができる情報源に妨げられることなく知る権利や基本的人権、その他の一部の基本権に潜在する契約の自由および財産権を制限する理由とはならない。

  最近枝野幸男立憲民主党代表が立憲主義を取り戻すとか、立憲主義を守ると発言したことは何かで読んだか、どこかで聞いた覚えがある。しかし、その発言に行動が伴っているかは寡聞にして知らない。
 立憲主義ということばは彼らによって口にされる割にはその中身が知られているわけではない。ただ口にされるだけで自分の意見を正当化する手段として政治的に用いられているだけなのだ。たとえば、憲法問題に関してほぼ学理解釈をさえしばしば怠るわが最高裁もその国政原理を重視しているとは思えず、昨年末、寺田最高裁がNHK受信料訴訟で以前に最高裁が言及した立憲主義を無視したが、立憲主義を守ると述べた枝野氏がそれにクレ-ムをつけたというニュ-スに接したことはない。
 以降では、そのように口にされる割に重視されていない立憲主義について、かつての最高裁の正確な言及を思い起こして貰うために改めて史的に述べてみる。
 故水木惣太郎法博は「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と定めて、基本的人権をより具体的であるが、総括的に規定した日本国憲法
13条を「憲法の憲法」とか「憲法の生命」(の規定)と呼ばれた。日本国憲法13条は、共同体の外からの危険や共同体の中に存在する生命、自由および財産に対する危険を防止する(すなわち同条の「公共の福祉」の実現)というジョン・ロックの考え方に由来する国家を創った(したがって、社会(すなわち国家)契約をした)目的を定めた規定なのである。その規定の趣旨は、既に18世紀のフランスの「人権および市民権の宣言」に規定され、その2条には「すべて政治的な結合の目的は、人の天賦かつ時効にかからない権利の保全にある。」とあった。それ故、国家は国防および公共の秩序と安全の維持を目的として結成されたものであって、近代立憲主義は国家に対してそれ以外の人々に対する干渉を排除する原理であった。要するに、近代立憲主義は人々の自由や権利を危険から守るという建国の目的以外における国の干渉を警戒した原理でもあったのだ。立憲主義が国すなわち権力に対する不信感に基づいた原理であることから、権力の集中に対しては寛大ではなかった。為政者に対する信頼は専制政治の親として一人あるいは一つの団体への権力集中を避けたのだ。そのような近代的な立憲主義国家の建国に先立ち、上記のフランスの宣言16条は、そのような姿勢を顕示して「およそ権利の保障が確立されておらず、権力の分立が定められていない社会は、憲法を持つものではない。」と宣している。それ故、自由主義国家の視点からいえば、共産党を信頼して権力を集中している体制を築いている中華人民共和国や北朝鮮は立憲主義国家ではなく、憲法を持っている国とは看做されないのである。それでも、それらも近代立憲主義国家に習ってかたちだけの憲法を有していることから、それらの政治原理は表見的立憲主義あるいは見せかけの立憲主義と看做されるに過ぎない。

 ところで、その近代立憲主義は近世のいわゆる神権説等に基づいた君主主権主義に則った君主の権力に対する抵抗の流れの中で自由を求めて台頭したものであった。天主に支配された中世の精神社会の中から、漸次天主に束縛されない個人が解放され人間を中心とした社会への移行が顕現した文芸復興や人権誕生の契機となった教会からの自由に端を発した宗教改革を経て、米国はイギリスの君権から独立した人々が主体となって建国した国であったから、当然のこととして国民の総意を建前として誕生した国家であった。また、18世紀革命後のフランスは、君権と戦った人々がその意思で王権を認めながらも、人々によって新たに建設された国家であった。それ故、そのような動きの中で生まれた立憲主義はその当然の内容として国民の参政を不可欠の要素とした政治原理でもあった。その国民の参政の制度の樹立に伴い、その代表が制定した法律が支配する国制が生まれ、行政や司法は原則としてそれを執行する国家作用となった。その執行に際して、モンテスキュ-によって「政治的に無」の権力とされた司法は政治の影響を受けない独立した地位を保障されるようになった。立憲主義は自由(すなわち権利の保障)を求めて権力を分かって(権力分立)独立した司法権をも内容としているのである。

 ただそのような制度が樹立されても、それが過って運用される事例には事欠かなかった。そこでそのような制度はその都度臨機に立法のかたちで成文化された。成文憲法化である。立憲主義の祖国イギリスでも実質的な憲法はかなりに成文化されているのだ。しかし、新たな国家として誕生した米国は、その制度をイギリス等の歴史を踏まえながら、自由のために権力を分立した国制を自ら考案し、立法によって動かせないかたちで成典化した。斯くして硬性の成典の憲法(国家構造)が誕生したのである。しかし、国制を成典のかたちで上手くつくり上げても、人が運用する国制は尚且つ誤まって運用される恐れがあった。そこで米国は、その制度によっても侵してはならない人々の基本的価値を権利として宣言した。「権利の章典」が憲法を増補するかたちで設けられたのである。この国家構造と「権利の章典」とを整然としたかたちでまとめたのがベルギ-憲法であり、そのベルギ-憲法の規定の仕方はその後の憲法に影響を与えている。立憲主義がかたちとして整えられたのだ。

そのベルギ-憲法が制定される以前、米国では「政治的に無」のはずの司法権が国政権力を行使していわゆる違憲審査権を簒奪した。違憲審査の制度は違憲の偶然の行為から生まれたのである。しかし、その政治的偶然から生まれた制度は評価され、後に各国でいろいろなかたちで導入されるところとなり、取り分け第二次大戦後は憲法の番人あるいは権利の番人として際立った活動をするようになった。第二次大戦後、わが国の憲法も、民主化を進めるために普通参政権を拡大する一方で、憲法の番人の制度としては不十分であるとしても、少なくとも権利の番人の制度を導入している。わが憲法はその際、自由を追求したが故に人々の格差が生じた近代立憲主義を是正すべく、政治に参加できる人の範囲を広げながら、弱者救済のための社会権の制度を謳った。

このようにして、現代の立憲主義は国民参政、人権保障、権力分立および司法の独立を内容とする近代立憲主義を基調としながら、上記のような歴史の流れの中で政治に参加する国民の拡大:普通参政権の拡充、近代立憲主義で保障された人々の基本的な権利を少しく修正して弱者を救済するための強者の経済的自由権の制限:社会権的法治国主義の採用および民主的な立法をもチェックするシステム:いわゆる違憲立法審査権の導入を特徴としている。
 しかし、飽く迄も近代の立憲主義が基本であるから、弱者救済の場合を別として「最も少なく政治する政府が、最良の政府」という原理なのである。況してや、受信料訴訟における寺田最高裁の如く自由(上記判決では「知る権利」)を拡充するためにその自由(知る権利、契約の自由、その他にも財産権)を合理的に規制できるという考え方など嫌悪する原理なのだ。
 そのような最高裁の姿勢を承知しているのであれば、国政調査権のための発言権ももつ枝野代表には是非立憲主義の保守に努力し、改めて権利の番人である司法の姿勢を問うて欲しいものだ。

 今年の元日にもネットで見たが、欧米に生育した立憲主義が権力に対する不信感を前提とした事実に鑑み、わが国の憲法の有り様はそのような立憲主義に基づくものではなく国に対する信頼の原理に基づくものであるべきとする意見が依然として述べられている。その際説かれるのが、欧米型立憲主義は君主等による絶対主義的国家体制が生み出したものという理屈である。

 確かに近代以前の時期はしばしば絶対王政の時代と看做されて来た。イングランドのチュ-ダ-王朝やフランスのブルボン王朝の時代は、その代表的な時代とされた。しかし、イギリスの王朝はかなり早くから収入や立法を自由にし得なかったから絶対ではなく、とりわけ絶対王政で描かれる存在は「朕は国家なり」ということばで表現される太陽王ルイ14世である。彼はいわゆる王権神授説によって支えられ、身分制議会の全国三部会を開かず、中央集権と重商主義を推し進め、対外戦争と領土の拡張を行い、その政策のために重税を課したり徴発を行ったりした。宗教改革の動きに反応してプロテスタントへ傾斜したイギリスはチャ-ルス8世のときロ-マ教会を離れ英国教会を樹立したが、ルイ14世はフランスのカトリック教会をロ-マ教会から独立させ教会への宗主権を主張したガリカニスムをも推進した。この王権神授説やガリカニスムを説いてルイ王を動かしたのは司教で神学者であったジャック・ベニ-ニュ・ボシュエである。

 ただその時代、フランスには売官制が存在していた。シャルル8世のとき財政政策の一環として財務官職の創設とその売却が行われるようになったが、それは後に司法、行政、軍の官職にも拡大した。官職が売りに出されると、もとより富裕者がそれを購入した。購入された官職は相続も売却も可能であった。それ故、それが一たび個人の財産となると、それに対する国王の統制が困難になった。国王は官職の売却によって一時的に財を潤し、また官僚をして五月蠅い貴族に対抗させることが出来たものの、その存在は後々の自身の敵対者をつくっているようなものであった。実際、たとえば、30年戦争によって財政危機に陥った際、官僚の俸給の支払い停止をすると、この官職保有者たちはこれに激しく抵抗した。

 おまけに当時の軍は傭兵の比率が高かった。後の革命に際してバスチ-ユを守護していたのはスイスの傭兵であったといわれる。既に常備軍の制度ができていたが、それでは十分ではなく、傭兵に依存したのだ、しかし、この傭兵には愛国心と忠誠心の問題が常に存在した。いざとなった場合に裏切り逃亡の恐れが常に存したのだ。金より命という者はいつの世もどこにでもいるからだ。同胞愛も郷土愛も関係無く、雇用主である国王も必ずしも畏敬や敬愛の対象ではなく、金の額に伴う約束事には必ずしも信頼の要素が存在しなかったのだ。したがって、国王の手足としては傭兵は十分ではなかった。

 その外に、国内には血縁、地縁、職種、学問、技能、信仰等で結び付き法人格を取得し特権を有する社会集団(社団)が多種多様に存在していた。それらは共同の利益のために結束し自治権や免税特権等を有したりしていた。国王が個人を統制するにはこれらの社団を無視することはできなかった。それらの無視あるいは軽視は国王に対する反抗の誘因となり兼ねなかったからだ。おまけにそのような社団には階層化されているものもあった。たとえば、都市労働者の場合には、親方、職人、徒弟というように、また地縁団体の場合、村落、教区、都市、州等というように、である。そのような場合には、国王の権力の末端への浸透はより複雑で弱化し兼ねなかった。このようなことから、絶対王権といわれたものもいろいろな中間団体を経て個人に浸透するというこんにちいわゆる「社団国家」の形の上に成り立っていたのだ。それ故、絶対王政は口にされるほど絶対のものではなく、脆さを秘めていたのだ。否、絶対王政とは、後の近代立憲主義を美化して呼ぶための便法であったのだ。

 なを、その間無視し得なかった中間団体を押し退けて国政に直接携わるために「国民」が頭角を現すのは1789617日に「国民議会」の設立が宣言されたときからである。しかし、それが現実化するには世紀を超さなければならなかったが。

 「前連合国最高司令官ダグラス・マツカーサー元帥が、終戦当時のわが国の混乱と窮乏とを匡救し、進んで民主主義の確立と経済の自立とを指導援助し、もつて、わが国独立の機運を促進したる偉大なる業績は、国民挙げて感激措く能わざるところなり。参議院は、特に院議をもつてこの全国民の意思を代表し衷心より感謝するとともに満腔の敬意を表す。
 右決議す」

上記は、文民統制に違反する等の理由で解任されたダグラス・マツカーサー元帥が離日するに際してなされた元帥に対する衆参両議院による感謝の決議である。

そのような決議は佐藤栄作議員外394名の議員をもって自由党、民主党および社会党の三派の提案としてなされ決議されたものである。

その提案理由によれば、マッカ-サ-は戦後の窮状のわが国に「占領軍の最高司令官というよりは、むしろ悩める敗戦国民に対する救世主」の如く進駐して来たとのことである。その業績は「日本国民の元帥に対する感銘の象徴たるのみ」ではなく「世界人文上特に記録さるべき」ものであったということである。そして、元帥がわが国民に植え付けた「民主主義国家と人類平和への理念」はわが国民の永遠の道標となったということでもあった。

元帥と会見したことがある提案理由に賛成する発言をした三木武夫議員によれば、元帥が一番努力したことは「日本人をして一日も早く敗戦の卑屈感を捨てしめて、日本人としての自尊心と自信とを取り戻」させることであったということである。また同じく賛成の発言をした浅沼稲次郎議員によれば、わが国が「平和と無欠の間に偉大なる変革を遂げた」ことに対する元帥の助言と指導は大であったということである。これに対して、反共の自由主義者を筆頭に置く進駐軍を解放軍として歓迎した日本共産党の今野武雄議員による反対意見には激しいものがあった。元帥の名前こそ出さなかったが、それは戦後の共産党から見たわが国の悪政のすべてが元帥に起因するというに等しいものであった。未だ検閲が存した時代とて、その意見の記録には非常に多く伏せられたところがあった程だ。その共産党議員には、府中刑務所から解放され、「自由戦士出獄歓迎大会」を催した後元帥が執務するいわゆるマッカ-サ-司令部前に移動し万歳を叫んで解散した往時の共産党員の姿は完全に消え、最早恨み節しかなかった。決議文には、元帥による民主主義の確立に対する指導援助とあったが、言論・表現の自由は十分で無かったのであり、否むしろ、検閲が行われただけでなく、ホワイト・パ-ジやレッド・パ-ジさえ行われたから、占領時代の民主主義は必ずしもこんにちの米国が有している価値中立的な寛容なものでは決してなかった。

日本国憲法はそのような時代にできた産物であった。日本共産党はその日本国憲法の制定に反対した勢力であった。マッカ-サ-は帰国後上下両院合同会議で「日本人はすべての東洋人と同様に勝者に追従し敗者を最大限に見下げる傾向をもっている。」と証言した。

  マッカ-サ-が勝者としてわが国に進駐して来たとき、これを最も歓迎したものの一つが日本共産党員たちであった。ところが、そのマッカ-サ-がトル-マン大統領によって解任されてしまった。マッカ-サ-には中華人民共和国内の軍事基地を攻撃するという勇敢な目的があったにも拘わらず、である。目標を持つ元帥の立場にあって解任という処分を受けたことはマッカ-サ-にとって屈辱であり敗北でもあったはずだ。ホワイト・パ-ジを受けた仲間を持つ保守の者たちや思想の違う社会党の者たちがマッカ-サ-のすべてを評価していたわけではない。特に保守層には憲法を押し付けられたことに対する屈辱感は当時もその後も存したのである。

 しかし、彼らはいわば敗残兵のごとくにわが国を去るマッカ-サ-に唾を吐きかけることばを浴びせなかった。それでも、東洋人のごとく、元帥をもっとも歓迎したもののなかに「敗者を最大限に見下げ」ていわば罵声を浴びせ、恨み節を激しくした者たちもいたが。

 ネットで見たが、西部邁元秀明大学学頭が自裁死をされたそうだ。元学頭とは研究会で一度お会いしたくらいで面識はないが、その研究会では元学頭の聡明博識雄弁さを身近にすることができた。ただ元学頭について気になることは、その「わが国は無条件降伏をした」という発言である。その際学頭が無条件降伏の根拠とされたのは、「連合国最高司令官の権限に関するマッカ-サ-元帥への通達」の内容であった。そこには、「われわれと日本との関係は、契約的基礎に立っているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである。」とあったからだ。

その見解を批判するわけではないが、米国と連合国司令官との関係はわが国を拘束することのない彼らの内部関係に過ぎない。それは、わが国内法的にたとえていえば、法規命令とは異なる行政命令の類に属するものなのだ。したがって、彼らの内部的意図がどうであろうと、わが国が拘束されるのは、「降伏文書」であり、その文書が踏襲している「ポツダム宣言」であり、その受諾に先立って行われたわが政府との文書のやり取りなのである。それらのうち「降伏文書」や「ポツダム宣言」が触れているのは「全日本国軍隊の無条件降伏」であって、「日本国の無条件降伏」ではなかった。「カイロ宣言」には、「日本国の無条件降伏」について触れられているが、そこで「日本国の無条件降伏」は、「ポツダム宣言」で履行が約束された「カイロ宣言の条項」の内容(ポ宣言8項)ではなく、単にその条項を達成するために取られる米英華による戦争継続のための理由・姿勢を示したものに過ぎなかった。

「ポツダム宣言」は「吾等の条件は、左の如し」として(ポ宣言5項)、以降に降伏の条件を定めていたから、わが国の降伏は条件付き降伏であったのだ。それも、わが国の降伏に際しては、第一次大戦に際して行われた無条件受諾という形式さえ存在せず、わが国による申し入れがなされ、これに対していわゆるバ-ンズ回答がなされたという「ポツダム宣言」を受諾するための文書の交換がなされたことは無視されてはならない。

およそ法的には「降伏文書」が調印されるまでは、彼我の関係は建前上対等であったのであり、その後も、「降伏文書」の範囲でわが国の主権が制限されることになったに過ぎないのである。

抑々「無条件降伏」についてカサブランカ会議でル-ズベルトが言明したとき、それがどの程度に法的なものとして意識されたかは疑問であった。ル-ズベルトには、第一次大戦でウイルソンによる「勝利無き平和」の考え方の下に敗戦国の基本的政治体制に干渉しなかった失敗に鑑み、そのことばの強さによって圧倒的な勝利を目指し敗戦国の国家改革を意図した政治的姿勢の節が窺われるからである。それは「無条件降伏とは、ドイツ人、イタリア人もしくは日本人の破砕を意味するものではなく、他国民の征服と服従とに基礎を置くドイツ、イタリアおよび日本の哲学そのものの破砕を意味する。」という彼のことばからも推知することができる。無条件降伏ということばが公式の外交文書に登場するのは、モスクワ会議における「四国共同宣言」であるが、そこには「米英ソ華の四国政府は、それぞれ枢軸諸国が無条件降伏の下に武器を捨てるまでは」と述べられていたが、それは飽くまでも降伏のための条件交渉を許さない姿勢を示したものであって、真に無条件降伏を求めるのであれば、武器の放棄に触れるまでもなかったのである。要するに、ル-ズベルトの基本姿勢には「他国民の征服と服従に基礎を置く」国家哲学の破砕があるのであって、それ故、それが「カイロ宣言」で用いられたとき、そこでは既に条件が示されていたのである。そして、それが、トル-マンによって継承されて「ポツダム宣言」に降伏の条件として登場したとき、それは既に「国」ではなく「軍隊」のそれに限定されていたのである。

わが最高裁も無条件降伏について深く考究することもなく、軽率にわが国が無条件降伏をしたと述べているが、上記のごとく、わが国が無条件降伏をしていないことについては誤解されてはなるまい。

最後に、上記は学頭の逝去に関連して思い出したことについての記述である。面識ある人ではなく、宗教の有無あるいは種類を知らないが故に軽率に「ご冥福を祈る」ということばを使用できないが、元学頭の新たな著書や電波を通じた言辞による博識や高見に最早接し得ないことは残念でならない。 

 

 

 

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