国家の尊厳的部分はその制度の有り様によってそれに投ずる国費では報いることができないほどの効果を発揮する。とりわけ政治的合理主義者が税金の無駄遣いであるかのように評するこんにちの王制にはそれが確認される。わが国の天皇制も例外ではない。非合理の故に国家に大いなる貢献をするのだ。

 今年5月、イギリスの王室に結婚式があった。ヘンリ-王子とメ-ガン・マ-クルという米国人の女優とが挙式したのだ。その費用として49億円ほどかけられたらしい。これを無駄と評した者も少なからず存在した。しかし、多くの報道が二人の挙式に依ってイギリスには760億円の経済効果が予想されると報じた。この効果は上記の評者によって余り注目されない。経済効果だけでなく世界の多くの国がそれを報道し、事を一点に集中させる王室の重みに伴うイギリスの歴史伝統と政治の統合等を示す国威発揚、俗っぽい表現でいえば、イギリスの国益には数字に表わせないほどのものがあった。首相の子息の婚姻では同じ効果を発揮できまい。ベッカムの挙式でもそうだろう。他のいかなる存在がそのような効用を発揮し得たろうか。

わが国でも浩宮皇太子(徳仁親王)と雅子妃の結婚(平成5年)に際して3億5千万ほどの国費がかけられた。しかし、当時は国内総生産(約480兆円)の0・1%(4800億円)-0・2%(9600億円)が押し上げられると予想されていた。その婚儀は国内で非常に高いテレビの視聴率を示した。婚姻に先立つ放送も尋常ではなかった。多くの国民がそれを悦びとし寿ぎ注目したのだ。アメリカのCNNは婚儀の当日の午前10時から世界の200カ国に衛星で中継したと聞く。その他に特別番組も組まれたらしい。平成13年の愛子内親王の誕生に際しても国内総生産(約497兆円)を0・1%-0・2%押し上げるという試算があった。誕生しただけでの経済効果だ。また平成18年、秋篠宮家の悠仁親王の誕生に際しては1500億円の経済効果がいわれた。もとより、わが皇室はその他の面でも国威を発揚し国益に貢献している。
 共和制の元首と異なる国王の国家貢献の分かり易い例がある。それをブ-タン
王室の例で述べる。
 2011
年の秋大国ドイツの大統領とブ-タンの国王とが一月違いでほぼ同じ期間来日したことがあった。その際、テレビは来日前からブ-タン国王夫妻の報道を続け滞在期間は朝から夜まで連日放送を続けた。また新聞や雑誌でも旋風が起きていた。当時幼稚園に通っていた筆者の孫たちもワンチュク国王夫妻のことを知った風に話題にしていた。しかし、ドイツの大統領のことは報道も極少で、多くの者が全くと言ってよいほど知らなかった。ドイツの大統領について大学生たちでさえ訪日を知らず、中にはドイツに大統領がいることさえ知らない者がいた。正確な推測ではないが、ブ-タン国王の訪日はブ-タン国が国家を宣伝あるいは国威を示すためにわが国のテレビやラジオ、新聞や雑誌等に国費を投じた場合賄い切れたか分からないほどの効果を上げたのではなかろうか。

ブ-タンの国王が世襲という政治的に非合理な方法で即位する存在であるのに対して、ドイツ大統領は直接民主制によって選ばれた存在ではないものの、遠回しの民主制によって誕生する存在であり、政治的に合理的な方法で選ばれる存在である。しかし、人々は政治に常に合理性を求め続け、全く無駄の無い政治を喜びとするとは限らない。国王は非合理な存在であったからこそ人々を動かしたのだ。ブ-タンが共和制化し、大統領夫妻として訪日したとしたら、それ程注目されなかったであろう。来年予想される習近平主席の訪日にワンチュク国王やかつて来日したエリザベス女王あるいはチャ-ルス・ダイアナ夫妻のときのような反応はわが国民の中に予想されまい。

ウォルタ-・バショットは「下層階級は実用的なものに全心を打ち込むものと思ふのは真実ではない。むしろ逆に彼等は実用といふやうな貧寒なものはてんで好かないのである。」と述べたが、「実用的なもの」で満足しないのは下層階級に限らない。その他の者も「実用的なもの」以外のものにしばしば無上の喜びを覚えるのだ。不合理を嫌いすべてに合理を求め冷めた心で政治に期待する唯物的な者もいないではないが、「日常生活上の関心よりも更に高く深く広い関心によって人心を昂揚」させるものが実用的で無駄の無いものばかりとは限らないのだ。飾っても飾らなくても合理的な生活に関わりが無い花を床の間あるいは玄関に飾るように、国政の分野でも一見無駄に覚える非合理に人々はしばしば動かされるのだ。

否、国政に限らず、たとえば日常でも、自分の健康とは関係なく、勝っても負けても自分の生活とは関わりなく腹の足しにもならないにも拘わらず、手の届かない高度な技術を駆使するプロの世界の高給取りで別世界の者たちからなるわが国の侍ジャパンが他国に勝利したり、あるいは西野ジャパンがロシア大会で勝利したりすれば、人々はわがことのように小躍りするし、実際に小躍りした。人々は自己にかかわる合理にのみ生きているわけでは決してないのだ。

災害に際して政治家は救済のための政策のお土産をもって見舞いをする。人々はその政策の良し悪しで感謝したり落胆したりする。国政権能を持たない天皇には救済のための政策のお土産はない。現実の陛下は世襲のものにしばしば生まれる人々の畏敬の衣を纏い歴史と伝統の重みを身に着けて象徴として国家を表象しながら被災者の心を親らの心とし同情の心をもって見舞われるのである。政策のお土産が無いにもかかわらず、見舞われた人の中に涙する人がいるのは何故であろうか。

王室あるいはわが皇室も人々の日常とは無関係な世界である。ところが、その国政における効用には色々な面で非常なものがあるのだ。王あるいは天皇に象徴される国の歴史伝統の重みによる国民のまとまりにはアメリカやロシアのように国の頂点に立つ者の政策の良さによらなければまとまりがなくなり、政策が不味ければ分裂し易い国家には無いものがあるのだ。それも、理屈抜きに「君臨すれども統治せず」という近代君主制の要諦を西欧に先んじて古くから実践して来たわが天皇制の歴史と現実には世界に誇り得るものがあると思う。