複数の胸騒ぎ[ブログ版]

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2017年04月

朴正恵[IV-075]Saturday
中村一成(1969- )さんの『ルポ思想としての朝鮮籍』岩波書店、2017)は、「朝鮮籍」を持つ六人の日本在住者に対する取材を基にした文字通りの「ルポ」だが、《一九三〇年代、慶尚南道から渡日した祖父母、二人から生まれた私の母は、自らの来歴や在日する思いについて私にほとんど話さなかった》(p. 219)という中村さんの「出自」と、生育歴が、本全体に通奏低音のようにして流れているために、見かけ上も「透明」な「ルポ」ではありえず、それどころか読者にまで、一人の「ダブル」として「朝鮮籍保有者」たちの声に耳を傾けるよう促してくる、ふしぎな「ルポ」である。
その意味では、六人のなかでも、日本人の母を有し、最初は日本籍だったのを、自分の意志で「朝鮮籍」に切り替え、その後、大阪で「民族学級」の講師を務めながら、独自の足跡を刻んでこられた朴正恵(1942- )を扱う「第4部」が、とりわけ緊張感に富む内容だったように思う。
朴正恵さんには『この子らに民族の心を』(新幹社、2008)という著作があるが、そこでも曖昧にぼかされていたさま...ざまなことが、中村さんの手慣れた取材技術を通して、ごっそりと引き出されているのだが、なかでも「ダブル」として育った過去に対する次のようなくだりは、中村さんの「耳」を想像しながら聴くと、いっそう臨場感が増す。
《家庭訪問を繰り返せば親の悩みにも向き合う。多くは夫婦の属性の違いに起因してた。「民族学級で活き活きとして帰ってくるけど、(朝鮮人の)アボジとの会話は弾む一方で私は寂しい思いをしている」とこぼす日本人の母もいた》(p. 139)――こうした思いは、日本人の夫を持ち、子どもを自動的に日本の戸籍に入れて、自分らの「来歴や在日する思い」を話すことをすら封印してしまった中村さんの母親を想像させるに足る内容だったと、想像できる。
また、《一度は、「子どもが使い分けする」って日本人のお母ちゃんが抗議に来てね。「民族学級で朝鮮人やいうても地域では日本人になってる。都合よく使い分けをする子どもになってほしくて民族学級にやったんじゃない」って。あ、自分もそうやったなって思った》(同前)――たとえば、このような朴さんの語りに耳を澄ませる中村さんもまた、ご自身が「ダブル」でいらっしゃるかぎりにおいて、「自分もそうかもしれない」と感じられたに違いないのだ。そして、読んでいる私もまたそう感じる。
それこそ、《一九六二年秋、前年の軍事クーデターで事実上の独裁体制を確立した朴正煕の片腕、金鍾泌が〔中略〕「請求権」交渉で来日するとの報に、朝鮮大学校生たち》が《いきり立》ち、抗議デモに参加したら、《「全員、降りて外登証を提示しろ。持ってない者は連行する!」》と、どやしつけられて、《日本国籍だから外登証を持ってない》ことに気づいたのが、そもそも《朝鮮籍にしようとした理由》だったと語る朴正恵さんの《快活》(pp. 125-6)な笑いを、中村さんの「耳」は、どうとらえたのか?
中村さんの筆致は、元ジャーナリストらしく、自らの「来歴」に関して、じつに控えめなのだが、それでも、読者としては、そこを補わないではいられない。
そして、朴さんが職場にされていた大阪市西成区の長橋小学校の教室に向かった日の思いが次のように書かれている箇所を読み進めながら、私という読者は、ある種のカタルシスに浸ったのだった――《控室に向かいながら、自らを解き放つ子どもたちの歓声が飛び交う様を想像した。週二時間でも民族に触れる時間を持つ意味がいかに大きいかは、その機会を持てなかった者の一人として十分想像できる》(p. 142)。
「その機会を持てなかった者」である中村さんは、朝鮮系だった母親や祖父母が、息子、そして孫を純粋な日本人であるかのように育てようとした、その《決断を批判するつもりはまったくない》と『声を刻む』(インパクト出版会、2005)の「あとがき」(p. 229)に書いておられる。しかし、かりに父親が日本人であっても「民族学級」に子どもを通わせるという選択が、戦後の大阪でならありえたのだ。父親が朝鮮人で、母親が日本人だという朴正恵さんがたどられたような人生が、中村一成さんのような「ダブル」に対しても用意されえたと言えるのかどうか、そこはまさに家父長制という大きな問題が横たわっているので、難しい問いだとは思うのだが、少なくとも、朴正恵さんに対する聴き取りのなかで、中村さんは、ご自身の「ありえたかもしれない過去」をはげしく妄想されたと想像する。少なくともそう想像させてもらったことによって、私の読書体験は、じつに豊かなものになった。
「もしも自分が在日だったら」という想像を膨らませる上で、『ルポ思想としての朝鮮籍』という本は、六人の「朝鮮籍保有者」のお話のかけがえなさもさることながら、耳を立てて、その声を聴き取ろうとされた中村一成さんという一人の「日本国籍保有者」の「胸騒ぎ」が、これまた切々と迫ってくる、そんな一冊である。

思想としての朝鮮籍[IV-074]Wednesday
中村一成(なかむら・いるそん、1969- )さんの『ルポ思想としての朝鮮籍』岩波書店、2017)は、「朝鮮籍」を持つ在日の古老六名に突撃取材を試みた、中村さん渾身の新刊だが、「在日」と一言で言っても、「日本国籍保有者」「韓国籍保有者」、そして「朝鮮籍保有者」といったように、法的な地位はまちまちである。また国籍が同じでも、生きてきた足跡も、韓国や北朝鮮(DPRK)、そして日本に対する思いは、それぞれだろう。
それぞれの人生のなかで、彼ら彼女らは衝突してきたこともあれば、助け合ってきたこともあるはずで、その「声」は「在日」として生きてきた人々の「私的な語り」として聴くことも可能だが、それを「集合的な言説」の一部としてとらえようとすることもありうる。
「第1部」で、《朝鮮語は父親の怒鳴り声と長屋のオバハンたちの賑やかなやり取りだけでした。結局、朝鮮語を学ぶにも日本語を通して学ぶことになるのですよ》という高史明さんの言葉を引きながら、中村さんは《朝鮮人であるけど朝鮮語が分からない。この苦悩は高の執筆活動、とりわけ初期の...切実な動機だった》と書いておられる。
そして、この話題が「「半」日本人」(=パンチョッパリ)としての山村正明や、金嬉老、そして李珍宇の話へと移っていく――《とりわけ李珍宇には大きな共感を持ちました。彼は母親が聾唖者でコミュニケーションが成り立たない。父親は日雇い労働者で家庭内教育などできない。言葉を知らないで育った人間がアイデンティティ表明しようとすれば、他者を殺すしかなくなる。彼は自分の殺人があったか否かを新聞社に電話して確認しましたね。私なりに言うと、彼はそこまで自らを喪失した者だった。〔中略〕私の彼への共感は言葉をもたない者の次元です。それに彼の犯罪は民族差別の歪みだけによるのでなく、歴史的、社会的な人間存在全体の奈落によると思います》。
高がここまで言うのは、親鸞に傾倒したという、その宗教思想によるところも大きいだろうが、中村さんがこの次に引いている次の言葉に私は深く頷いた――《やはり彼を生かして社会全体で一緒に考えるべきだった。李珍宇を描き切った作家は今のところいないと思う。それは私の宿題だと認識してます》(p. 11)。
そう、李珍宇という「「半」日本人」(=パンチョッパリ)については、大江健三郎らの日本人作家(あるいは大島渚のような映画人)ばかりでなく、李恢成や金石範らの在日朝鮮人作家も文学という形での挑戦を試みているのだが、高さんからすれば「まだまだ」だということなのだろう。それは「彼を生かして社会全体で一緒に考えるべきだった」というその思いゆえの認識なのだと思う。
李珍宇のような「「半」日本人」(=パンチョッパリ)を前にするときは、日本人だの、在日だのの区別なく、日本社会の構成員全員が「人間存在全体の奈落」について考えるつもりで臨むべきなのだ。
そして、李珍宇のそれに限らず、「死刑」一般を否定する高の死刑廃止論は、どこまでも首尾一貫している――《これを言うと批判されたりしますけど、そもそも私はA級戦犯だって処刑すべきではなかったと思う。あれだけの死を経験したはずの日本で、さらなる死を許容してしまった。それで自分たちの体験を聞く道を閉ざしてしまった。「もう国家による死は認めない」と、連合国に対して声明を出してもよかったと思うのに、むしろA級戦犯に罪を押し付ける形で、「良し」としてしまった。人間の善悪の物差しで処理するとき、自らを問わない思考は、近代以降、より強まっていると思う》。
そして話はさらに「BC級戦犯」の話にまで及び、《BC級戦犯とは、少なくとも明治維新以降の日本とアジア諸国、そして世界全体を取り巻く問題を根本から問い直す存在なのに処刑で蓋をした。李珍宇もそう。〔中略〕罪を処罰の問題に矮小化してしまった》(pp. 37-8)というのである。
私は親鸞をくぐり抜けたことがないが、基本的に高と同じことをずっと考えてきた。「罪」に手を染めた人間を、その属性(国籍や性別や障害の有無など)に閉じ込めずに、あくまでも「人間存在全体」を構成する一人ひとりの問題として、「全体で一緒に考える」ということの大切さを思う気持ちが、現在社会からは抜け落ちている。
「被害者に寄り添うこと」は大切だが、「加害者を追い詰めること」ではなく、「加害者にもまた寄り添うこと」こそが、これと対をなすべき社会の使命なのである。悪人正機説から行き着くのは、そういう物の見方なのだと思う。

声を刻む

[IV-073]Tuesday
元毎日新聞記者で、いまはフリージャーナリストの中村一成(なかむら・いるそん、1969- )さんとは、知り合ってから、もう十年以上になるので、日本国籍保有者でありながら、朝鮮系の血を引いた一人としての、その立ち位置が、そのお仕事のなかで、つねづね独特の緊張感を醸しだしていることに、一読者として過敏に反応してしまう。
小熊英二・姜尚中編の『在日一世の記憶』(集英社新書、2008)は、今でも版を重ね、昨年は『在日二世の記憶』(小熊英二/髙賛侑/高秀美編、集英社文庫)も刊行されて、いわゆる「在日」の人々の「声」(=オーラルヒストリー)に触れる最も手っ取り早い入門編がこの二冊だということになる。
しかし、『在日一世の記憶』の「はじめに」のなかで、姜さんが《彼ら在日一世たちの証言はあたかもわたしの歴史の一部、わたしの血となり、肉となった歴史の一部を語っているように思えてならない》(p. 6)と、まさに「在日二世」の立ち位置を確認するように書かれ、他方、小熊さんは「あとがき」で、《「在日」の存在は今後もなくならないと思う》(p. 780)と書くのに先立って《傍観者的立場から語ることを許していただけるなら》(p. 779)と断り書きを添えておられる。この記念碑的な本は、姜さんと小熊さんという軸にブレのない二人の「あいだ」に成立したものだ。
しかし、「在日二世」という当事者性を引き受けるしかない姜さんや、「傍観者」としての役割を演じる小熊さんを呑みこみながら、それこそ「チョーセン(人)」という言葉が、「名指すもの」と「名指されるもの」の犇めくなかで、飛び交ってきたのが、近代以降の東アジアだった。
『声を刻む』(インパクト出版会、2005)のなかで、中村さんは、在日無年金訴訟・京都訴訟団の原告団長であった玄順任さんにインタビューするなかで、《身のすくむような思いをし》た(p. 191)と述懐されている。
玄さんが、自分の子育てをふり返りながら、こうおっしゃった時のことだという――《「私はね、『お前はチョーセンや。小学校出たから意見聴いてから決める。日本の学校にも申請はしてる。朝鮮人であることはごまかしきれへんで。お前はあくまでチョーセンなんやで』って言ったんです。お金もかかるけど、朝鮮人はあくまで民族意識持ってもらわんとあかんし、国のこと知らんと困ると思って。朝鮮人の学校あるのに教えへんのはあかん。後で『ぼく(民族学校があったことを)知らなんだ』って言われたら、親としてあまりに無責任やと思って。朝鮮人は朝鮮人らしい教育してもらいたくて》(p. 190)。
同書の「あとがき」のなかで、中村さんは《玄順任さんの発言は、その言葉の「正しさ」と「切れの良さ」ゆえに私をしばしば困惑させずにはおかなかった》(p. 229)と書いておられる。中村さんもまたお母さんが韓国・朝鮮系でいらっしゃるようなのだが、《彼女らがどこから来て、どのようにして今に至るのか、私には決して語ろうとはしなかった。朝鮮系であることなど認めないこの社会で、私は彼女たちのとった決断を批判するつもりはまったくない。とはいえ、血を分けた肉親の来歴という、およそ人が人であることの根底ともいうべきものを「空白にされた」という屈折した感情は、隠しきれないものとして私の中にある》(同前)とのこと。
「在日二世」ではなく、《日本籍のハーフ》(『ルポ思想としての朝鮮籍』岩波書店、2017、p. 5)を名乗るしかない中村さんは、「在日」という話題に関しては「傍観者」などではありえない。彼はそれこそ「空白にされた」ルーツを追い求めるようにして、「在日」の男女の声に、そしてその声にひそむ「思想」に耳を傾けるのだ。
そして、彼が玄順任さんの言葉を耳にして「身のすくむ」ような思いをしたことには、もうひとつの理由があったそうだ――《「チョーセン」。〔中略〕私自身、何度も聞いた音だ。それは学生時代であったり、日雇い労働をしていた時代だったりした。侮蔑的な意味以外でこの音を聞くことなどまずなかった。そこにいる人が全員、日本人であることを疑わないような人々が使う言葉ゆえ、侮蔑や嫌悪の感情は、より露骨だった。》(『声を刻む』p. 191)
そのような純粋培養的な日本人の用いる「チョーセン」という罵倒語に、自分や自分の親を見出してしまう。しかも、自分がそうした「純粋培養的な日本語使用」によって結束する「国民共同体」の一員であると感じないではおられないやるせなさ。そうしたすべてが中村さんを「いるそん」さんに変えたのだ。
そして、具体的に「朝鮮系」の「血」を引く中村さんでなくても、「チョーセン」という言葉に触れるたび、「身のすくむような思い」を味わうことは誰にでもありうる。
私は、フランツ・カフカ(1883-1924)が『変身』Die Verwandlung(1915)の着想を得たのは、父ヘルマンが、息子フランツの友人(ユダヤ人)を「害虫」Ungezieferの名で呼んだ時だったと考えているが、ひとは「害虫」の血を引いていようと、いるまいと、ある朝、とつぜん、「害虫」になってしまうことがありうるのだ。
いまから30年近く前のことだが、私は博多駅で、一人の酔っ払いから「おまえ、チョーセンか」といって絡まれたことがある。私はユダヤ関係の研究施設を訪ねて、何度か「あなたは日本のユダヤ人か」と、にじり寄られたことがあるのだが、今のところ「そうだ」と答えたことは一度もない。しかし、その晩は、反射的に、「それで何が悪い」と答えた(頭に血がのぼっていたから正確には覚えていないのだが)。
あとから、このことを友人に話したら、「その答え方は卑怯だ」と諭され、であればこそ、その「過去」はいまだに私のなかで「大きな傷」となってはいるのだが、いずれにしても私にとって「チョーセン」とは、そういう経緯に結びついた言葉だ。「それで何が悪い」と私に発語させた罵倒語としての「チョーセン」。
そういった「過去」もあったからこそ、私は『クレオール事始』(紀伊國屋書店、1999)を次の一文から始めたのだ――《「おれはクレオールだ」と口にすることで、日本人だとか、在日だとか、アイヌだとか、ウチナンチュウだとか、想像上のエスニック共同体に媚びるような自己定義を回避することができるかもしれない》(p. 5)。
しかし、それから長い年月を経て、今の私は、相変わらず「日本国籍保有者」だし、先祖にも日本人以外を見出すことはできずにいるのだが、しかし、部分的には「在日」だし「アイヌ」だし「ウチナンチュウ」だと思っている。もし私をそれらの範疇にはめて罵ってこようとするものがいたら「それで何が悪い」と答えたいという意味だ。「クレオール」という概念が切り拓く可能性のひとつは、「多重アイデンティティ」を否認しないことにある。
いずれにしても、姜尚中さん的な「在日」という立場と、小熊英二さんがひとまずは正直にそう名乗られた「傍観者」という立場のあいだには、中村一成さんや私のような「中間的存在」(=「チョーセン」という言葉の響きに慄然としてしまう感性)が、そこかしこに蠢いているのだということ。
日本国籍保有者の集合が、さまざまな「中間的存在」の集合体としての相貌をあらわしたとき、中村さんが『声を刻む』から『ルポ京都朝鮮学校襲撃事件/〈ヘイトクライム〉に抗して』(岩波書店、2014)を経て、『ルポ思想としての朝鮮籍』へと至る著作のなかで聴き取りをされた「在日」の語り手たちの生き生きとした「多様性」に対して、「日本国民」ははじめて顔向けができるようになっていくのだと思っている。


ペインティッド・バード
[III-044]Friday

2008年以来、京都の松籟社から「東欧の想像力」というシリーズ物の刊行が続いている。「東西冷戦」が終結した後に「東欧」という概念がどこまで有効かという議論はさておいて、北はポーランドから南は旧ユーゴ、アルバニアまで(「東西ドイツの統一」以降、東独は含まれない)、基本的には東欧の言語で書かれた現代文学をラインナップに揃えて定期的に刊行されており、今年(2015年)はルーマニアの現代作家、ミルチャ・カルタレスクの『ぼくらが女性を愛する理由』(住谷春也訳)が刊行され、これで11冊目になる。
http://shoraisha.com/main/category/east-europe.html
...
私は京都に住んでいることもあり、編集の木村浩之さんとは付き合いも長く、東欧ではないが、ブラジルの日本人作家、松井太郎の小説集を二冊 (『うつろ舟』『遠い声』)を出してもらったのも、松籟社からだ。
じつは、その松籟社から「東欧の想像力」のシリーズの一冊として、イェジー・コシンスキ(1933-91)の『ペインティッド・バード』The Painted Bird(1965)を刊行していただくにあたっては、少し強引な理屈をこねた経緯がある。
コシンスキは、ポーランド生れで、第二次大戦もポーランドで経験してはいたが、小説を書くようになったのは渡米後で、それも英語での執筆だった。であればこそ、『異端の鳥』(青木日出夫訳、 角川書店、1972)が出まわった時代は、もっぱら米文学の異色作という位置づけだった。
東欧系の作家のなかには、ゴンブローヴィチのように本国で名をなした後、国外に出て、その後も東欧の言語で書き続けた作家もいれば、ナボコフ(東欧ではなくロシアだが)やクンデラ(彼は早くから「東欧」という呼称を嫌い、「中欧」という概念を主張しつづけたが)のように、「西」に出てからは、積極的に「西の言語」で書くようになった作家もいた。しかし、コシンスキの場合は、まさにコンラッドがそうであったように、「西」に出てからはじめて作家になったタイプで、その名声はあくまでも「英文学」や「米文学」の枠組みのなかで得られたものであった。そういう作家をまで「東欧文学」のなかに含めてよいかどうかという問題があったのだ。
もっとも、角川では一旦文庫にまでなった『異端の鳥』だが、その後、これらは絶版になり、要するに「米文学」としての賞味期限が切れたところで、あらたに「東欧文学」としての「延命」に多少なりとも役立ちたいというのが私なりの思いだった。
そもそも私は、イディッシュ文学研究にも深入りしているため、イディッシュ文学は基本的に「東欧」(この場合はラトヴィア、リトアニアからベラルーシ、ウクライナ、モルドヴァをまで含む)を拠点にして世界に広がっていった文学だという意識が強い。しかも、イディッシュ語で書く作家と言えば、バシェヴィス・シンガーがそうなように、基本的に「東欧生れ」なのだ。したがって、「イディッシュ文学」の大半は「東欧文学」でもあるというのが、私なりの立場なのである。だから、第二次世界大戦後のイディッシュ文学で目ぼしいものがあったら、「東欧の想像力」の一冊としての刊行を要請もしていただろうし、それこそカーツェトニク135633(イェヒェル・デヌール、ポーランド領ソスノーヴィェツ生れ、1909-2001)やアーロン・アッペルフェルド(旧ルーマニア出身、1932- )のようなヘブライ語作家はもとより、アウシュヴィッツで数か月を過ごしたにすぎないプリモ・レーヴィ(トリノ生れ、1919-87)あたりまで、「東欧文学」の範疇に当てはめても構わないと思っていた。「東欧文学」は、「東欧語で書かれた文学」や「東欧で書かれた文学」には閉じない範疇であるはずなのだ。
そして、こうした「グレーゾーン」に属する「東欧文学」のなかに、ユダヤ系が高い確率で混じっているのである。
もちろん、狭義の「東欧文学」のなかには、ハンガリーが産んだノーベル賞作家、ケルテース・イムレ(1929- )のようなユダヤ系がいるし、旧ユーゴのダニロ・キシュ(1935-89)のように父親がユダヤ系だという作家もいる。しかし「ホロコースト」を生き延びたユダヤ人のなかには、エリ・ヴィーゼル(ルーマニア領シゲトゥ生れ、1928- )がフランス語で書き始めたように、後天的に習得した言語で書きはじめる作家が少なくないのだ
『ペインティッド・バード』のコシンスキは、作中で主人公の血筋を明らかには示していないが、作家自身は、ウッチ生れのユダヤ人で、であればこそ、大戦中は、キリスト教徒を装い、それこそ教会で聖体拝領の儀式までくぐり抜けて生き延びたサバイバーだった。そこで主人公の少年がたどるサバイバルは、ポーランド系ユダヤ人の運命として、決して例外的なものではなかった。それは自伝ではないが、少なくとも英語圏の読者は、これをまず自伝的な小説として受け止めたのだった。
というわけで、私の理屈を受け入れてもらって、『ペインティッド・バード』は、2011年、ふたたび日本で日の目を見ることになったのだった。
これならば、あとひと押しすれば、「東欧」の出身ではなく、フランス東部のメスで生れたにすぎないアンドレ・シュヴァルツバルト(1928-2006)の『最後の正しき人』 Le dernier des Justes(1959)だって、「東欧文学」という枠にはめて、「東欧の想像力」の一冊に収めさせてもらうことも無理難題にはあたらないかもしれない。少なくとも、それが「東欧系ユダヤ人」の文学であることに間違いはなく、しかも、小説の第2章と第8章は、ポーランドが舞台なのである。最終章は、おもにアウシュヴィッツに向かう汽車のなかではあるけれど。

Le dernier des Justes
[III-043]Wednesday

2015年11月13日の夜、パリで起こった連続テロのニュースを聞いたときに、咄嗟に思ったのは、「13日の金曜日」に狙いを定めた攻撃のかもしれないということだったが、事情通に言わせれば、これは第一次世界大戦終結後の英仏連合軍によるイスタンブール占領が始まった日付でもあるのだという。
第一次世界大戦の終結(欧州では1918年の11月11日)は、ポーランドをはじめとする東欧諸民族には、晴れて独立という恵みをもたらしたのだが、オスマン帝国に対しては、帝国の解体とともに、元帝国領であった広大な地域の英仏両国による割譲という屈辱的な経験を強いることになった。「民族自決」というスローガンが生きたのは、ヨーロッパ内のことにすぎなかったのである。そして、1920年のセーヴル条約以降、シリア(今日のレバノンを含む)はフランスの委任統治下に置かれた。イラクとパレスチナが英国の委任統...治下に置かれたのも同じ条約によってだ。そういう過去をふり返らないまま、「文明と野蛮」の図式だけでテロ掃討がおこなわれていくのは、「これが未来志向」ということかと暗澹たる気持ちになる。平和とは「文明を名乗る国家の軍隊や警察権力が圧倒的な法維持暴力によって地域を平定すること」以上でも以下でもないのだとしても。

ともあれ、第一次世界大戦の終わりは、中東地域の人々にとっては、新しい植民地支配の始まりを意味した。そして、じつは東欧諸国(とくにポーランドやルーマニア)のユダヤ人にとっても、そうした諸国の独立は、結果的にナショナリズムを高揚させ、マイノリティにとってはいっそう生きづらい時代の到来を意味したのである。
もちろん、それでもポーランドに同化する道を選んだエリートもいたし、生れ育った土地にしがみつき、それが「ポーランド領」であることを受け入れて、「郷里」を優先したユダヤ人も少なくなかった。であればこそ、第二次大戦の勃発時に、300万人ものユダヤ人がポーランドに住んでいたのだ。
しかし、その後の「ホロコースト」で滅ぼされた「ヨーロッパのユダヤ人」のなかには、もともと「ポーランド出身だったユダヤ人とその子ども」が多数含まれていた。ジョルジュ・ペレックやボリス・シリュルニクは、「ポーランド」への「送還」を運よく免れた「ヨーロッパのユダヤ人」にすぎなかった。少なくとも彼らは奇跡的な生き残りであって、1920年前後にポーランドを出た「ユダヤ人とその子ども」は、その大半が「抹殺」されるためだけにドイツ軍占領下のポーランドに送り返されたのだった。
ペレックやシリュルニクよりもひとまわり年長で、「ポーランド系ユダヤ人」の子として生れたアンドレ・シュヴァルツバルト(1928-2006)は、ドイツ軍占領下のフランスでパルティザンに加わりながら、自身は生き延びたものの、両親はアウシュヴィッツ送りになった。しかも、戦後もフランスに留まって、作家を目指すようになった彼は、『最後の正しき人』Le dernier des Justes(1959)で、センセーショナルなデビューを飾ったのだが、そこで彼は自分と等身大のユダヤ人を描くのではなく、みずからもまた家族とともにアウシュヴィッツ送りとなった「ドイツ生れの東欧系ユダヤ人」の青年を描いたのだった。
その父は、生まれ故郷が「ポーランド」になった時期に、「ポーランド脱出」を考える。まさに「反ユダヤ主義的」なポグロムが絶えなかった時代のポーランドからだ。移住先は英国でも米国でもフランスでもよかったのだが、選んだ国はドイツだった。ドイツの「シュティレンシュタット」Stillenstadtという町で静かに暮らしていた父は、家庭を設け、子どもをも授かる。ところが、そこにナチが台頭し、やむなく彼らはフランスに避難場所を求めることになる。ポーランドよりもドイツがマシだと考えた過去の選択は誤りだった。
ところが、ドイツで「ユダヤ人」と見なされていたものが、フランスに渡ったとたんに今度は「ドイツ人」の扱いを受ける。であればこそ、主人公のエルニは、「外人部隊」に志願してでも「ドイツ人」としての肩書を返上しようと必死になるのだが、結局、ドイツに占領されてしまえば、どんなに「フランス人」としてふるまおうとしても、やっぱり「ユダヤ人」でしかない。ハナ・アーレントにも似た「不条理」を経験したエルニは、しかし、もはや大西洋の向こう側に逃げる余裕はないまま、望まずして「父祖の地」であったポーランドに送り返され、「ガス室」が終焉の場所となった。
どこにあっても結局は「異邦人」でありつづけるしかなかった一家にとって、「出身地」であったポーランドが図らずも「終焉の地」でもあったという「アイロニー」。『最後の正しき人』がフランスでベストセラーになったのは、「異邦から来て異邦に帰っていく者」たちへのフランス人ならではの共感とともに、そうした「共感」に訴えてでも「フランスへの帰属」を希望しようとした「ユダヤ人作家」の情熱に対するフランス的な応答でもあったのだろう。
しかし、アンドレ・シュヴァルツバルト自身も、結局はフランス本国を離れ、カリブ海のグアドループで息を引き取ることになったし、フランスはすべての「異邦人」に「同化」を促して、それに成功した国ではない。「異邦人」を受け入れつつ、しかも、その国土を完全に「平定」するということは、きわめて困難なことなのである。
20年以上前のアルフォンソ・リンギスの言葉が、今さらのように身に沁みる――《私たちの世代は、つきつめれば、カンボジアやソマリアの人びと、そして私たち自身の都市の路上で生活する、社会から追放された人びとを見捨てることによって、今まさに審判を受けているのだ》(『何も共有していない者たちの共同体』野谷啓二訳、洛北出版、2006、p. 12)
「審判を受け」なければならない人間は、自分が誰を「見捨て」ているのかをまず考えなければ、その「審判」の場から逃げ出せない。
話を戻せば、アウシュヴィッツで「抹殺」された「異邦人」たちは、どこでどんなにあがいても「見捨て」られている自分に呆然とさせられるしかない人々だった。第一次世界大戦の結果を受けて独立したばかりのポーランドを棄てたユダヤ人の「終焉の地」がアウシュヴィッツでなければならなかった運命を、ポーランド人は決して「不運」だなどと考えてはならないのだ。むしろ、ポーランド人は幸福だ。自分が一旦は「見捨て」た人々が目の前で、それこそ目の背けようのない形で、死んでいってくれたのだから。
私のなかの「ポーランド人」の血が騒ぐ。

そして、植民地を手放した後も、旧植民地から多くの移民を受け入れてきたフランスが、「人種主義」から自由でありえないことの帰結としてのテロの連鎖に苦しむさまは、「脱植民地化」という道の困難さを語ってあまりあると感じる。「フランス人の困惑」は正当なものであり、その「困惑」は全人類が分有すべき「困惑」である。

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