増田俊也公式ブログ|Toshinari MASUDA

小説家です。「シャトゥーン ヒグマの森」(宝島社)でこのミステリーがすごい!大賞優秀賞。「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」(新潮社)で大宅賞&新潮ドキュメント賞。他著に青春小説「七帝柔道記」(角川書店)、ノンフィクション集『VTJ前夜の中井祐樹』(イースト・プレス)など。

高専柔道の歴史の連載第2回「熱狂の団体戦」をアップしました。

YouTubeで連載している高専柔道の歴史、第2回をアップしました。

 

戦前の旧制高校の気風を解説しました。

「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」(新潮社)の漫画版「KIMURA」(原田久仁信先生作画)について、とくに七高と五高の定期戦について語っています。

六高


膝十字固め

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「柔道史」のロング連載を始めました。

YouTubeチャンネルで柔道史の連載を始めました。

初回は高専柔道に関するさわりの部分、プロローグです。ここから何回かかるかわかりませんが、こつこつと頑張ります。

 

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吉田秀彦vs.金野潤、柔道史に残る死闘。全日本選手権決勝1994年。

吉田秀彦vs金野潤、柔道史に残る死闘です。



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木村政彦先生がUFC参戦! ホイス・グレイシーと因縁の一戦。

YouTubeチャンネルのほうで木村政彦vs.ホイス・グレイシーのUFCでの試合をアップしました。



これは荒木さんという方がPS4のゲームをアレンジして作ってくれたものです。ほかにも木村政彦vs.ノゲイラ、木村政彦vs.ヒョードルなどの試合を観ることができます。

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「キネマ旬報」最新号は田中邦衛特集。なんといっても表紙の顔の表情がいい。

「キネマ旬報」の最新号に映画評論を書きました。

表紙は田中邦衛さんです。本当に映画や俳優を大切にしている雑誌であるのが伝わってくる追悼号でした。専門誌のあるべき姿を見せられた気がします。

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【対談】田所勇二×増田俊也「古賀稔彦と吉田秀彦に十字固めを極めた男」

田所勇二×増田俊也

古賀稔彦と吉田秀彦を極めた男

 

 

かつて柔道界には、紛うことなき〝怪物〞がいた。特に80年代後半から90年代にかけて、彼らの歩く道の後ろには同階級の強豪選手たちの屍が累々と積み重なっていた。その上をのし歩いた怪物の名は、古賀稔彦と吉田秀彦。しかし、この古賀と吉田の腕を極め、破壊した男がいる。田所勇二だ。寝技師・柏崎克彦の弟子として、師匠直伝の関節技で次々と猛者たちを極めていったベテランは、トップクラスの実力を持ちながら、脚光を浴びることがなかった。柔の、修羅の道を進んだ、田所の終わらない夏をたどった。

 


 ───増田俊也さんがロンドン五輪後に本誌で発表したノンフィクション、堀越英範が古賀稔彦を背負い投げで破るまでの軌跡を追った『超二流と呼ばれた柔道家』(『VTJ前夜の中井祐樹』所蔵)が大変話題になりました。
 その作品のなかで、やはり打倒古賀にかける大ベテランの寝技師・田所勇二選手が腕挫ぎ十字固めで古賀の右ヒジを破壊して、反則をとられながらも一瞬の光を放ったシーンが読者の話題になり、ぜひ田所選手のことをもっと知りたいという要望が多かったため、今回はこの田所先生(東海大学出身、現在茨城県立上郷高教員)を招いて対談していただくことになりました。
 田所先生は高校時代からの柏崎克彦先生の直接の愛弟子で、師匠ゆずりの寝技で活躍されました。
 柔道引退後はボディビルに転向し日本一を目指して全国大会で活躍、さらにボディビル引退後に今度はサーフィンの全国大会で活躍し続け、一流アスリートとして〝終わらない夏〞を戦い続けています。先生、今日は遠い所ありがとうございました。どうぞよろしくお願いします。

 

田所 こちらこそよろしくお願いします。
 

増田 よろしくお願いします。(田所が古賀に腕十字を極めた写真を見ながら)勝負に「もし」はないですけど、これ「待て」がかからなかったら完全に──
 

田所 折れてますね。バリバリ音しましたから。
 

増田 古賀は次の試合で戦えなかったんで。古賀の肩も、これ抜けそうですもん。ぶら下がると肩に負担かかるんですよね。柔道では十字をかけられてよく肩をこういう形で脱臼します。
 

田所 古賀も執念でしょうね。この状態でよく持ち上げたなっていう。ラテラルレイズ(ボディビルでダンベルを片手で持って横へ持ち上げ、肩の三角筋を鍛える種目)で80㎏のダンベル持ち上げるようなもんですから。常識で考えて無理です。人間の限界を超えた火事場のパワーなんでしょう。
 

増田 よく見てください、この写真。古賀稔彦に持ち上げられながら田所さんの眼は下を見て畳との距離を測ってるんですよ。古賀は眼を閉じて必死に持ち上げてる。一流選手同士の、立技で一世を風靡してる古賀と、寝技の鬼の田所さんの、一瞬の交錯。これをみんなまわりで、柏崎克彦先生も佐藤宣践先生も山下泰裕先生もみんな見ているわけです。斉藤仁先生もいたり、酒井英幸さんもいたり。小川直也とか吉田秀彦とか、みんないたんでしょうね。その会場すべての視線、そしてプレス席の記者のカメラも全部向けられているなかで、ガーンと入って。古賀は意地でも手を叩いて参ったしないでしょうから折るしかない。

スクリーンショット 2021-06-18 17.29.38

 

田所 そうなんです。だからこそ抑えたり関節とるしかない。はっきり白黒つけないとだめですよね。
 

増田 当然、五輪が頭に。
 

田所 そうですね。タイミングが合えば、食ってやろうと。
 

増田 ちょうど講道学舎(1975年に設立された6年一貫の柔道私塾。塾生たちは弦巻中学・世田谷学園高の生徒として大会に出場。現在は閉塾)、つまり世田谷学園高が台頭してきたころで、いろんなスターが出てきて、古賀だ、吉田だっていう、そういうのを食ってやろうっていう……
 

田所 一番のモチベーションでした。間違いないですよ。それこそ古賀の兄貴の古賀元博から始まって、持田達人、吉田秀彦と。
 

増田 いまはこうして田所さんも穏やかな感じですが、現役時代はかなりピリピリしてたと思うんですけれど、試合に臨むときはどんな心境だったんですか?
 

田所 自分では全然意識してないんですけど、まわりから見ると「狂ってる」って言う。集中して。自分で全然そういうのはないですよ。先輩とか後輩とか「田所みたいに狂えない」って。次の試合に対しての練習の取組みとか、私は普通に、自分がそうしたいからしてるだけなんですけども、それがまわりから見ると異様な取り組み方っていうか集中の仕方だったんでしょうね。
 

増田 柏崎克彦先生は後に国際武道大学の学生たちに氷の張った冬のプールに飛び込めって言って、躊躇なく飛び込めるやつじゃないと強くなれないと仰ってたそうです。木村政彦先生のお弟子さんも拓大時代に氷張ってるプールに飛び込めって泳がされたとか言ってましたけど。一流は、ある意味発火点というか、スイッチがバンって入る部分があるんでしょうか。生まれつきのスイッチみたいのがあるんですかね。
 

田所 そうなんですかね。人から言われてできるもんではないし。
 

増田 まずはこの対古賀戦をじっくりとお聞かせください。古賀と戦ったあの大会、試合前から1回戦で古賀と当たることは事前にわかっていたんですよね。
 

田所 ええ。トーナメント表は大会の何日か前に発表されます。ですから古賀と1回戦で当たるというのは試合前からわかっていて、このとき私は32歳ですから、期するものがありました。
 

増田 柔道家の競技者としてのピークは20歳代半ばです。他の一流選手が26歳とか27歳には引退していくなかで、32歳で現役を続けていたのは、凄まじい執念です。
 

田所 この大会の古賀との一回戦で負ければ私は強化選手を外されるのがわかっていましたから、最後の試合になるかもしれないという覚悟がありました。
 

増田 引退をかけた試合だと。
 

田所 はい。
 

増田 五輪代表を狙うには強化選手であり続けなくてはいけません。強化選手から外されると、この講道館杯や選抜体重別などの代表選考会の大会に出られなくなりますから実質引退です。でもこの大会で古賀に勝てば一気にマスコミに注目されますし、まだ五輪代表の目もある。逆に負ければ強化選手を外されて引退する、二つに一つの大勝負です。腕挫ぎ十字固めを狙っていくことは試合前から頭にあったんですか?
 

田所 得意技のひとつですから。
 

増田 古賀が71㎏級から78㎏級に上げてきた時点で、古賀を倒さない限り世界選手権も五輪も当然出られないわけですから練習のときからずっと古賀対策をシミュレートしてこられたと思います。寝技に引きずり込んで絶対に取ってやると。下から十字固めを取ることも想定して。
 

田所 得意技なんで、たしかに狙ってはいましたけども、どのタイミングでっていうのはありました。どういう形からでもかかるものでもないですから。出稽古で最終調整をしていた筑波大学では「ちょっとやってくるからよ」なんてみんなに言いながら士気を高めて練習に取組んでました。岡田弘隆(エッセン世界選手権78㎏級金・バルセロナ世界選手権86㎏級金など。現在は筑波大監督)とか筑波大の連中も、みんな「やってくださいよ、これ一発で」って。
 

増田 これは引き込み十字だったんですか? 巴十字だったんですか?
 

田所 厳密に言うと巴投げではないんですけども、普通に言う巴十字ですね。
 

増田 巴で投げる気はない巴十字。
 

田所 そうですね。
 

増田 柏崎先生の巴とかそういうのは?
 

田所 基本は教わったものなんですけども、自分なりにアレンジして、もう選手生活も長いんで、徐々に微妙にポイントをずらしながら完成させたものです。
 

増田 振り子巴なんですか?
 

田所 ではないですね。あくまでも完全に十字固めに入るための入り方なので。柏崎先生とか普通の人が巴十字やる場合には、当然普通に、私が投げる巴投げは左足なんですよ、右利きですけど、左足の巴投げなんですけども、この巴に入るときには右足を、しかも腹にはかけないんですよ。ヒザのちょっと上、このへんを。
 

増田 蹴って流すんですか、相手の足を。
 

田所 ええ。相手がパッと四つん這いになるような形をつくらせると。
 

増田 このときは古賀の足は流れたんですか? 蹴ったとき。
 

田所 完全に流れてますね。1回跪くような感じにはなってますからね。そこから古賀が必死に持ち上げた。
 

増田 田所さんの頭が畳から離れる前に腕は極まってたんですか。

田所 同時ぐらいですね。古賀が持ち上げるときにバキバキッと。

増田 「いった!」っていう感覚はあったんですか。
 

田所 私は取るつもりで入ってますから。
 

増田 『近代柔道』の写真説明は《腕挫ぎ十字固めにきた田所を古賀は持ち上げて「待て」がかかるが、審判の声が聞こえなかった田所が技を継続して反則負け》とありますが、本当に主審の声は聞こえなかったんですか?
 

田所 このときは会場が下品な応援でほんとうるさくて聞こえなかった。9割ぐらいは古賀の応援だったと思うんですけど、大騒ぎになって。お互い興奮してますから、あとはもう主審が2人の間に入らない限りは外さないんで。
 

増田 主審が両者の背中を叩いて「待て」と、技を解くように促すシーンは柔道の試合ではよく見られます。
 

田所 『近代柔道』の記事は私が反則負けになったと書いてありますけど、これ警告もらっただけなんですよね。警告もらってそのまま続行してるんです、試合を。1分ぐらいたぶん残りやってるんですよ。
 

増田 じゃあ優勢負けなんですね。
 

田所 そうなんですよ。
 

増田 でも田所さんの体が一瞬だけ上がっても、たとえば1秒で落とすと。
 

田所 ええ。落ちる可能性があるんですよ。上げそうでも潰れる場合もあるんで。でもここは俺サイドから言っちゃうと、ここまでとられる古賀がお粗末なんですよ。俺と対戦するとわかって、長年強化合宿なんかも一緒にやってて。
 

───古賀選手も当然知ってるわけですね。
 

田所 当然知ってます。
 

増田 試合はどんな展開からこの十字に? 最初から覚えていらっしゃいますか?
 

田所 組み手争いがメインで、ほとんどお互い技をかけない状態で、当然ポイントも何もない状態でした。
 

増田 古賀はやっぱり寝技を警戒して。
 

田所 そうですね、はい。
 

増田 田所さんはこれは対古賀ですけど、いつもの試合の展開としては、古賀じゃなくても、柔道ですから当然相手は立技得意な人ですけども、どんな感じで試合を組立てられてたんですか? 相手の頭を下げさせて帯取り返しとかでしょうか。
 

田所 対戦相手にもよるんですけども、私は絶対相四つにはならないんですよ。相手が右組みのときには私が左組みになり、相手が左組みなら私は意識的に右に組みます。必ず体が開くような状態で試合を進めます。
 

増田 じゃあとくに右組み左組みっていうのはない。ないというか、相手に合わせて。立技に関しては右があるけれども。
 

田所 そうですね。組手に関しては必ず体を開くという状態をつくります。常にもう開いて、自分の攻め以外は開いて、相手の立技を受けないようにしています。
 

増田 決めるときは寝技で決めるという。
 

田所 そうですね。たまに立技で転んでくれる選手もいましたけれども。
 

増田 田所さんの立技にはどんな技が?
 

田所 ポイント取れるのは巴投げとか背負い投げとかになりますね。あと二段小外です。この二段小外では吉田秀彦からもポイントとってるし、岡田弘隆からもポイントとってる。
 

増田 古賀とはこの試合が初めての顔合わせですか。
 

田所 乱取りは何度か合宿でやってます。でも階級が違ったから実戦では初めてです。この試合から78㎏級に上げてきた。組み手争いがどういう状況になるか、ある程度はわかるんですけども、実際そのとおりいくかどうかわからなかった。たぶん彼も、こう組んできますからね。右利きだけども、反対で。例の一本背負いは左組のように組んで右で担ぐから。考えて動いたわけではなくて私の体が一瞬で反応して技に入ったから、たぶん巴十字にいける状況になったんですよ。たまたま私がこっち側をとれたんですよ。落としたんです。じゃないといかないですから。
 

───落としたというのは相手の。
 

田所 釣り手を。
 

増田 これはじゃあ持ったまま巴いくんじゃなくて、落として巴なんですね。
 

田所 両方あります。あんまり無理しては落とさないで、落ちれば落として突っ張ったままここからいくんですけども。持っててもらったほうがいい場合もあるんですよ。
 

増田 ベテランの最後の執念、気迫っていうんですか、それは凄いですね。まわりの盛り上がりもすごいですし。
 

田所 あんまり言いたくないが、好きじゃなかったんですよ、俺。古賀とか吉田とか講道学舎の連中は。かっこよすぎるから。
 

増田 かっこよすぎるというのは、身なりもあれですけど。
 

田所 スター選手ですからね。
 

増田 野村克也ふうにいえば「古賀は太平洋に咲くひまわり、俺は日本海に咲く月見草」というわけですね。野村克也も田所さんも、長嶋茂雄や古賀稔彦に実力で劣っているわけではない。でも古賀の背負いだとずっと派手な系譜があって判定になれば古賀が有利。逆に田所さんのほうは佐藤宣践(柏崎克彦や山下泰裕の師匠、一九七四全日本選手権優勝、ローザンヌ世界選手権93㎏級金など)先生、柏崎克彦(田所の師匠。モスクワ五輪幻の代表、マーストリヒト世界選手権65㎏級金など)先生、そして田所さんっていう寝技の系譜があって、佐藤先生にしても柏崎先生にしても、やっぱり寝技師だから、ずっと不利を蒙ってきたはずですよね。判定になれば不利ですから。そういう中で、いかに一本をとっていくかっていう苦労の系譜があって。古賀はいわゆる〝古賀背負い〞で高い位置で大きく相手を回転させて投げて、決まれば女性のファンからもキャーキャー言われる。それに対するいぶし銀の寝技師としての意地ですね。あの試合でのイメージトレーニングでは巴十字っていうのはやっぱりファーストチョイスにあったんですね。
 

田所 そうですね。その形、自分がいけるっていう形になればもう絶対いきますね。ただ他の技と違って普段の乱取りで巴十字なんかいつも使ってるわけではない。
 

増田 いわゆる奇襲ですからね。乱取りで同じ大学の人にはだんだんかからなくなるし。ほんとに奇襲、飛び道具ですよね。
 

田所 そうなんです。試合前に技術を確認してやるわけなんですよ。打ち込みみたく毎日何十本何百本やってる技ではない。でも型にはまれば面白い。この前の年かな、2年ぐらい前になるのかな。鏑木とか。
 

増田 足立学園高から日体大の鏑木文隆(ブルガリア国際78級優勝・フィンランド国際78㎏優勝など。現在慶応高校教員)ですね。いい選手でした。
 

田所 はい。あと、持田達人(世田谷学園高から日大卒。フランス国際78㎏級優勝・ロシア国際78㎏級優勝など。現在警視庁指導者)とか、トーナメントであそこ全部3連続ぐらい、全部すべて巴十字で取ったことがある。(当時の雑誌のコピーを指さしながら)この試合か。これ東京武道館かどっかですかね。
 

増田 ああ、あの試合。僕たちファンの伝説になってますけど、十字で全部バンバン極めて───      
 

田所 持田を極め、その前に、鏑木もいい選手だったんで、そこもやっつけ、3連続ぐらい。あと誰でしたっけ、講道学舎出身の……思い出せないけど3連発みんな同じ技でいって決勝まで上がったんですよ。
 

増田 これほんと、決まったときの沸き方がすごいんですよね。飛び道具だから、わーってなる。田所さんの得意技だとわかっていて警戒されてて一流どころを3人ならべて極めてったんですからすごい。
 

田所 これはここまで入らせた古賀がお粗末なんですよ、こんなの。対戦相手わかっててこれしかねぇっていうのが。
 

増田 いや、でも鏑木文隆とか持田達人とか一流を3人、目の前でトーナメント見てた3人を全部同じ技で極めたわけですから、田所さんのこの技の洗練度、完成度というのがかなり高かったんじゃないでしょうか。
 

田所 そうかもしれないですね。
 

増田 田所さんが取り組んでいた本格的なボディビルについてはあとで詳しくお聞きしますが、やはりヘビーウェイトで取り組んでいたボディビルで培ったパワーの差が出たんだと思うんです。スポーツ選手が一般にやってるウェイトトレーニングの範疇におさまらないボディビル的なトレーニングを長年やったパワー。ボディビルって大きな筋肉だけじゃなくて前腕とか胸筋まわりとか太腿の内転筋とかいろんな細かい筋肉も鍛えるじゃないですか。ガチッと極めるパワーっていうのがそうとう付いてたっていうのがありますよね。

45-11

 

田所 それはありますよね、当然ね。
 

増田 古賀としては日体大でやってた先輩で巴十字がうまい人たちと比べると、やっぱりガーンッてくるときのパワーが二桁くらい違ったと思うんです。
 

田所 パワーには自信あった。誰にも組み負けしたことないから、俺。組み合って古賀の立技なんか全然かかる気しなかったですもん。グッと組んで古賀の頭を下げさせた。吉田秀彦とは3回ぐらい試合やってますけど、1回も内股やられてないですもん。内股警戒しすぎて足払われて有効かなんかとられたことはありますけど、やっぱり頭下げさせた。
 

増田 ボディビルでのヘビーウェイトのトレーニングが効いてますね。
 

田所 そうですね。型にはまればいつでも抑えたり十字をとったりする自信はありましたね(91年の講道館杯の吉田秀彦戦の写真を指さしながら)。このとき足が抜ければっていうところまでいってるんです。
 

増田 腕縛って、足首まで抜いたんですか。
 

田所 はい。あのとき吉田は、亀になってるとき、たぶん帯ほどいたんですよね、下で(笑)。腕くくったときに帯と道衣が(両手を広げて)こんなになってたんですよね。わかるでしょう(笑)。昔は今より全然寝技の時間がとれたんで、帯とって、帯取り返しの俵返しでひっくり返して腕くくったけども、そのときにこうなってた。亀んとき下でほどいたんじゃねえかなんて。そのときの動画を見ましたよ。家で撮っててくれて。あのとき吉村(和郎=講道学舎の元指導者。ローザンヌ世界選手権71㎏級銅。元全柔連強化委員長)さんとかの表情が映ってましたよ、助かったみたいな(笑)。
 

増田 そのときもものすごい声援とか。
 

田所 東海大対講道学舎出身者の試合ですから両方から。
 

増田 田所さんといえば、マスコミが〝柏崎克彦のコピー〞と名付けたくらい師匠である柏崎先生の影響を受けてその寝技を受け継いだといわれています。柏崎先生は東海大学で佐藤宣践先生に師事して寝技を磨き、東海大卒業後は茨城県の高校教員をしながら世界を目指していました。県立多賀高校時代に、田所さんが入学して出会うわけですが。
 

田所 私が通ってた小中高ってくっついてるんですよ、3つ。私の家もそこから歩いて5分ぐらいのところなんで。
 

増田 柏崎先生が走ってたりするのを見てたってことですか。
 

田所 はい。私は小学校2年生で柔道を始めて中学でも柔道部に入部するんですが、その中学の頃、登校するときにちょうど柏崎先生がロードワークから戻ってくるくらいの時間で、何度も見てましたんで。
 

増田 それで憧れて多賀高を目指したと。
 

田所 はい。そうです。
 

増田 公立高校ですから特待生として入試免除とかはないですよね。

田所 ないです。普通にペーパーテストの入試を受けて入学しました。
 

増田 多賀高に入学したときは、もう柏崎先生は世界チャンピオンのときですか?
 

田所 そのときはまだ獲ってないです。モスクワ五輪は、私が高校2年か3年のときでしたっけ。マーストリヒト世界選手権が私が東海大学1年のときです。
 

増田 ずっとなぞるというか、柏崎先生の軌跡、世界出たりとか、寝技技術であるとか、やっぱり憧れの尊敬する先生をいろいろ吸収しようというのはあったんですか。
 

田所 そうですね。当然基本となるものは先生がやってこられた技ですので。ただ65㎏級と78㎏級ということで、背丈も違うし筋力も違う。反応も変わってくるんで。自分なりにアレンジしながらっていうふうにやってきました。
 

増田 田所さんが多賀高にいるときは、柏崎先生は世界を目指すために一人で工夫した練習を重ねていた。柏崎先生の普段の多賀高校での練習はどんなものでしたか。
 

田所 とにかく走ってました。私もずっと入学時から朝練一緒にやってたんですけども、授業が始まるのが8時半ぐらいなんで、7時前には2人で合流して走りました。だいたい10kmぐらい、ガンガン走りました。
 

増田 それはスピードトレーニング?
 

田所 長い距離を走る場合もあるし、スピード重視のダッシュだったり。もうほんとに陸上の長距離選手並みに走ってましたね。
 

増田 部員のなかで田所さんだけが特別に一緒に参加してたんですか?
 

田所 もともとは柏崎先生が一人でされてた朝練なんですけども、入学してすぐのころ私が朝練を一人でグラウンドで、ほんの何日かやっていたら、それが先生の目に留まって「どうせ来てるんだから一緒にやろうぜ」って言われて。2人の練習が始まったんです。
 

増田 2人だけの濃密な時間ですね。柏崎先生の寝技指導っていうのは、当時の昔の柔道の寝技だとあんまり他の先生方って理論立てて段階を踏んでというのは無かったと思いますが、理論派の柏崎先生はやはりひとつずつ、たとえば縦返しとかそういうものに関しても、きちっと理論的に……
 

田所 そうですね。今でこそ当たり前のように寝技の打ち込みとか反復練習とか研究とかっていう名前でどこの高校でも大学でもやってますけど、あの当時って寝技の入り方を何回も何十回も反復する練習法っていうのは定着してないような時代でした。柏崎先生の教え方は、その時代にもう、それがメインなんだよっていう。
 

増田 立技のように打ち込みをやるってことですね。
 

田所 はい。我々は研究とか反復練習っていう形で言ってたんですけど。じっくり時間をかけて。
 

増田 当時多賀高ですと、公立ですからとくに団体でインターハイとかいうことはなかったのでしょうか。
 

田所 インターハイは行けませんでしたね。最高は県大会2位でした。土浦日大高という強いところがあったんで。
 

増田 でも2位って、公立がそこまでっていうのはすごいですよね。
 

田所 そうですね。土浦日大は関東大会優勝したチームですからね。東海大相模と決勝やって相模に勝ったチームですから。
 

───総合格闘技をやっている小見川道大選手や桜井〝マッハ〞速人選手も土浦日大の柔道部出身です。
 

増田 その点、多賀高は公立ですから高校から始めた選手も何人もいるんですね
 

田所 そうですね。はい。
 

増田 その中で、柏崎先生の理論立てた教え方でみんな寝技が得意だったんですか?
 

田所 そうですね。関節技が得意な人もいれば、抑えが得意な先輩なんかもいて。
 

増田 他校からはやっぱり寝技の多賀高みたいなふうに思われる。

田所 私の現役時代と同じなんですけど、相手からすればできればやりたくないタイプだったと思います。
 

増田 田所さん個人ではインターハイは?
 

田所 インターハイは3年生のときに行きました。
 

増田 全国ではどんな感じでしたか。
 

田所 インターハイはベスト8かベスト16だったですかね。
 

増田 県予選でもそうだし本戦でも寝技を駆使して?
 

田所 はい。もうそれしかなかったんで。
 

増田 高校時代も得意は十字っていうのはあったんですか?
 

田所 当然ありました。大学時代や教員時代ほどは使わなかったんですが、やっぱりチャンスがあればとりましたね。
 

増田 この十字の原形は柏崎先生のやり方。
 

田所 そうですね。いくつかパターンをもって。古賀とやったときは立技からのですけども、寝技でも上からのも下からのもあります。
 

増田 そういえば後に1988年の講道館杯で吉田秀彦を寝技で下から十字固めに極めてヒジを破壊したこともありました。吉田が先に立技でポイント取ってましたから試合は田所さんの負けでしたが、吉田はヒジの怪我で次戦以降を棄権しました。
 

田所 ありましたね。
 

増田 田所さんは十字固めで古賀と吉田の腕を2本破壊した世界唯一の柔道家ですね(笑)。
 

田所 いやあ……(笑)。
 

増田 これは寝技師の勲章ですよ。話を戻しますが、多賀高を出てから東海大学へ進学しますが、東海大を選んだのも柏崎先生の影響が?
 

田所 もちろんそうです。高校3年生のときにC級強化選手(当時ジュニア強化選手はこう呼ばれた)に入ったので、一番強い大学でやってみたいっていう気持ちはありました。インターハイはほんとに優勝するつもりで臨んだんですけども、負けてがっくりきたんです。ああ、こんな強い選手がいるんだなって、もう柔道やめようかなぐらいの気持ちでもいたんですけども、夏が終わってから出た国体で茨城が団体優勝して、そのあと全日本ジュニアで3位になって、全日本のC級強化選手に入ったんです。
 

増田 当時の東海大学には他にも柏崎先生みたいになりたいということで寝技を中心にしてる選手というのはいましたか?
 

田所 先生前後の階級、60㎏級、65㎏級、71㎏級、78㎏級ぐらいまでの選手が集まって、よく大学の練習とは別に柏崎グループとして一緒にトレーニングをしたり寝技の研究をしたりしてました。
 

増田 東海大の同期にはどんな方がいましたか。
 

田所 キャプテンは数年前に亡くなった松島享一郎。他に世界選手権獲った須貝等とか斉藤和男。一期上は滝吉直樹さんや田代光恭さん。一期下が樋川純とか三好明広、二期下に村田正夫とか。
 

増田 錚々たる顔ぶれですね。東海大学は全国の強豪高校から集められた部員が100人以上いますし、多賀高と比べたら、本当に猛者ばかり。
 

田所 柔道をやる上での環境としては世界一ですけども、はっきり言ってしまうと、世界一の練習をしてたかって言ったらまた別で。私は社会人になってから現役の内の9年間を筑波大でお世話になったり、出稽古で岡野功先生の流通経済大に顔を出したりしたんですが、学生時代は全然わかんなかったんですけども、そういう部員が少ない、20人か30人しかいない大学から見ると全然違うんですよね。たしかに環境としては部員はね、全国トップクラスのやつが1学年20名以上集まってきて全部員で100人もいて、しょっちゅう国内外からいろんな海外のナショナルチームが来て、練習相手、環境としては間違いなく世界一だと思うんですけども、そこまで追い込んだ練習をやってるかって言ったらまた別です。
 

増田 かえってみんな恵まれすぎちゃってということですか。
 

田所 そうなんです。もうその環境にいることに。当然誰でも試合前は練習やるんですけども、それ以外の部分で普段から追い込んだ練習をしてるかって言ったら、他の大学行ったら全然違いました。
 

増田 掛かり稽古とかで疲れさせ、追い込むっていうには、20人から30人、あるいは40人が適性というところ?
 

田所 私もそのぐらいが適当かなと。勘弁してくれっていうぐらい、1本1本が試合のような練習をするんですよ、筑波も流通経済も日大も。
 

増田 それが100人を超えると……
 

田所 なかなか難しいですよね。
 

増田 なるほど。意識の差もちょっとずつ出てくるし、よく言われるんですが、進学校でも、灘高校とか開成高校とか行って、できる子ばかり集まっても、その中でやっぱり差ができちゃって。
 

田所 当然中にはそうではない、自分で目的をもって毎日の練習に取組んでる学生もいると思いますけども、ほとんどがたぶん、東海大柔道部で練習してるっていうとこに満足しちゃって、どこかしら甘えが出ちゃってる部分も、私が学生時代も感じたことなんですけども。
 

増田 大学を出るころにはかなり力をつけ、就職してからさらに一気に頭角を現してきます。1987年(昭和62年)には78㎏級3位に。先ほどの吉田秀彦の腕を縛って抑え込みかけた試合です。ここまでどう技が練り上がっていったのか、あるいは意識が変わっていったのでしょうか。
 

田所 基本的にはテクニックどうこうの変化っていうのはあんまりないですね。社会人になった時点で。たぶんもうこの当時は、年間50日ぐらいしか柔道衣着た練習やってなかったんですよ。強化合宿も出なくなった。そこまで必要性を感じなくなってたんで。さっき言ったように、テクニック的には固まっていたんで、それよりも別な部分で伸ばそうと。
 

増田 フィジカルの徹底した強化ですね。
 

田所 はい。最初は教員になって、練習計画も自分で全部決められますからね。大学生のように練習時間から何から全部上に決められるっていうわけじゃなくて、自分で組立てられるので試合でのスタミナを作ろうと思ってかなり走り込みました。それこそマラソン大会目指してみたり。
 

───柏崎先生が教員をやりながら一人で強くなっていったような、そういう姿をご自身に重ね合わせることもありましたか。
 

田所 当然あります。
 

増田 50日ぐらいしか道衣を着なかったっていうのに驚く読者もいるかもしれませんが、これは現在の欧米のトップスポーツ選手だと案外当たり前なんですよね。いかに効率的に試合に向けてパフォーマンスを上げていき、試合の5分間に集中させるかっていう考え方が。当時、どのスポーツも柔道もそうですけど、くたくたのボロ雑巾になるまで疲れる実戦練習っていうのが主流でした。でもそこまで疲れちゃったら1本1本の乱取りの精度が下がる。
 

田所 そうなんです。そのへんをいろいろ考えながら。
 

増田 昔の柔道部員って、残りの乱取り本数を無意識に数えながらちょっとスタミナ残しとこうみたいなのが、そうは思わなくてもやっちゃうところがある。
 

田所 ほんとに必要なのは、何時間やったかじゃなくて、1回の練習でどんだけいい1本があったかだと思うんです。そのへんは外国人選手はうまいんですよね。
 

増田 恐らく練習環境が日本より悪いから。
 

田所 そうなんでしょうね。だから1本1本を必死にいくんですよ。試合練習なんです。それを最初から、もと立ち6分10本を2セット3セットって、全力出せないですよね。国によっては1本乱取り入ったら1本休んでっていうようなシステムをとってるところもある。その代わり内容はほぼ試合のように必死で集中して。
 

増田 田所さんはやはり当時東海大学に来てた外国の一流選手を見ていて……
 

田所 2時間半、3時間やる練習でも、前半1時間ぐらいやったら、はい終了って下行ってウェイトやってるチームもあったし。
 

増田 まわりの年輩の先生から見ると「田所君、もっと乱取りにびっしり全部参加してくれよ」みたいに言われることは?
 

田所 あの当時はそうですよね。でもそのころから直感的に思ってたんで。やるときにガーッとやって、あとは壁に突っ立ってましたもん。冬の稽古だともうほんとに寒くて我慢できないぐらい身体冷えちゃうぐらい、最初のもと立ちで全部出し切るだけ出しちゃって、あとは見てるだけという感じでした。
 

増田 当時としては新しい考え方ですから、田所さんはいろんなところで反発を受けただろうと思います。今の海外では当たり前なんですけど。どんなに長くても試合は5分以上にならないわけですからね。今ならちょっと延長がありますけど、せいぜい7〜8分。それが日本では2時間も3時間も乱取りしてる。合宿になると朝晩で5時間とか6時間やってるところもある。乱取りを続けてやるスタミナはつきますけど。
 

田所 今でも記憶にあるんですけども、生涯一番いい練習をやったなと思うのは、筑波大へ出稽古に行っている時代。ドイツのナショナルチーム、代表が全階級来てたんですけど。そのとき、その78㎏級、86㎏級、95㎏級の3選手と1本おきに3本やって、その日の練習終了してさっさと帰ってきたっていうのがあるんですけど、後にも先にもこの練習が一番、よかったですね。
 

───それはイメージどおりというか、その3本だけにものすごく集中してできた。
 

田所 それこそ1本やると控室行って大の字になって動けずに、全力で試合で出し切ったような感じで、もう放心状態。そういう思い出もあります。だから、東海大学が結構先端をいっててウェイトはやる時間はあったんですけど、大学時代は私はそれほど真剣には取組んでなかったです。やれる時間は与えられてたんですけども、適当に流してたっていうか、柔道の稽古でいっぱいいっぱいの状態っていうのもあったんで。
 

増田 本格的にボディビルに取組まれたのはどういうきっかけだったんですか?
 

田所 教員になって、さらに上を目指していくのに柔道以外に何か試合にプラスになるものはないか。まずスタミナだなと。がんがん走り込んで、でも目的なくただ走るのはつまらないからマラソン大会目指してっていうふうにやったんですが、いくら走るタイムが縮んでも、結局柔道やると疲れるんです。
 

増田 柔道のスタミナって、ハイパワーでヘビーウェイトのスタミナなんですよね。
 

田所 そうなんでしょうね。力をマックス使いながら動き回る。だから違うんですよ、ランニングのスタミナとは。そういうのが教員になって2〜3年あったんですかね。長距離走るのは速くなったんだけど、いまいち活かされてないなって。日本人がいつも嫌うのはどういうタイプなのか、いつもソ連の選手とやって、今ソ連はロシアですか、ロシア系の選手とやったり、ヨーロッパ系のフランスの選手とやったりすると、「あいつ力強え、やりづれえ」って必ず言うんですよね。負けて帰ってきたり、勝つには勝っても苦戦したり。じゃあ俺はそういうタイプになってやろうと。職場近くのそういうジムに行って、少しずつ習いながらやりました。2425歳ですかね。ランニングからヘビーウェイトでのボディビルトレーニングに中心を移行したのは。その時代はまだ若かったんで、柔道の練習も結構頻度は高めでやってましたけど。
 

増田 もちろん高校や大学でも、ある程度ベンチプレスとかスクワットとかデッドリフトとかはやってたんですよね。
 

田所 そうですね。
 

増田 そこからボディビルトレーニングを本格的にやったと。
 

田所 はい。それで少しずつですけども、組み手が安定したりっていうのが実感できました。
 

増田 まだどっか伸びるところがあるはずだと。よくある五角形の図があるじゃないですか。スピード、パワー、スタミナ、メンタル、テクニックとか。その筋力の部分をできるだけ大きく伸ばしてやろうと。
 

田所 そうなんですよ。伸びるならば、なるべく伸びしろのある部分に時間を費やした方がいい。ボディビルは本当にいい経験でした。栄養学から生理学から何から、ちょっとでもかじった人はボディビルの素晴らしさがわかると思いますけど、スポーツの中では一番科学的。ドーピングじゃなくナチュラルで少しでも大きくしようと思ってる人は、ほんとに考えてやってます。今でこそ他のスポーツでもサプリメントとか使うのは当たり前ですけども、我々が柔道やってたころはサプリメントなんて……
 

増田 まだ練習中に水飲むな、なんて言う人がいたぐらいですから。
 

田所 強化選手でも水飲むなと言われた。俺は平気で飲んでたんですよ、もう晩年は。若い選手はみんな隠れて便所の水飲んだりしてた。
 

───中には揶揄する人がいるじゃないですか。ボディビルは使えない筋肉だとか。
 

増田 いやいや、使えますよ。木村政彦先生の発言を聞いていると、これはスポーツ選手のウェイトトレではなくてボディビル的だなと感じることが多い。それは木村先生はもともと若木竹丸の『怪力法並に肉体改造体力増進法』を教科書にしてやってたから。若木竹丸はボディビルダーですから。だからボディビルが使えない筋肉なんてありえないです。

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田所 全柔連のコーチがウェイトはよくないよ、身体固くなっちゃうよって言ってくるんですから。それで「どうしたら力強くなるんですか?」って聞いたら、「大きい人とやってください」って。じゃあ重量級はどうやってやればいいんですかって。東海大にはいろんな外国選手が来るんですよ。そうすると柔道の練習を半分にしてまでトレーニングやってる。世界制したサイゼンバッハ(オーストリア)とかあのへんが来て、ウェイトやるわけなんですよ。そこで影響されたっていうのがありますよね。
 

増田 他国に来てまでウェイトを欠かさないというのは。
 

田所 わざわざ柔道修行に来てまでやんなくていいじゃねえかと思うんですけども、やるんですよ。
 

増田 中何日っていうのを決めてるからバルクとパワーを落としたくないんでしょう。
 

田所 そうなんでしょうね。
 

───本格的にボディビルに取組むことによって奥深さを知ったと。栄養学や生理学も。
 

田所 はい。一番影響を受けたのがボディビルの減量法です。今までの減量はなんだったのっていうぐらい。
 

増田 筋量を落とさないように。
 

田所 そうですね。時間をかけてゆっくりという。極端な急激なウェイトコントロールをしないっていうこと。当時の柔道家がやってたのは単なる脱水なんですよね。3〜4㎏の場合はそれで十分コントロールできてしまうんですけど、10㎏近いとか、それはもう絶対脂肪を落としていかないと。
 

増田 東海大学自体ももともと新しい大学であり、いろんな考え方の人が練習できる環境にあった。
 

田所 はい。ですからさまざまな出会いに恵まれてました。
 

増田 ボディビルではとくにどんな種目が役に立ちますかね、柔道に。
 

田所 攻撃においては引っ張るトレーニングですよね。
 

増田 ケーブル系の。
 

田所 ええ。こういう引きつける動作だと思いますよ。ボディビルやって本当によかったと思います。減量によるダメージっていうのも最小限に抑えられたし、少しずつパワーがついてきて、柔道生活の後半は力負けしたっていうのはほとんどない。吉田(秀彦)とやったときも吉田の頭、ここにありましたから(組み合う動作をして自分の胸のあたりを指さす)。とにかく力負けしたことはなかった。篠原(信一)とやったときも頭下げさせましたから。
 

増田 そして柔道を32歳で引退されてからボディビルに本格的に取組むようになりました。
 

田所 はい。すでに柔道現役時代から補助的ウェイトトレーニングというよりもボディビルに近いトレーニングをしていましたから、トレーニング仲間たちの励ましもあって。ただ古賀とのあの戦いの次の年に、もう強化選手ではなかったのですが、一度は無差別の全日本選手権に挑戦しようと出場し、その後はボディビルに完全に。

増田 ネット上に公開されてる動画で田所さんのポージングを拝見したんですけど、凄いバルク(筋肉量)とディフィニッション(皮下脂肪を絞った筋肉の切れ)です。どういうきっかけからここまでのめりこんだのですか。
 

田所 それこそ柔道をこのぐらいに取組んでたらオリンピック3回ぐらい行ってたよな、というぐらい追い込んでやってたんですよ、実は(笑)。
 

増田 ずっと柔道でのピーク、トップを目指して、こちらもトップを目指してっていうのは。
 

田所 そうですね。やるからにはいい加減にはできないんで。
 

増田 日本一を目指して。
 

───田所先生の中では、いつまでも勝負の中にいたいというお気持ちもあったんですか?
 

増田 ひりひりするような、トップでしのぎを削る。
 

田所 どうなんでしょうね。自分でもわかんないんですよ。どうなんでしょう。
 

増田 好きなんでしょうね。
 

田所 好きなんでしょうね(笑)。どっぷりはまっちゃったんです。最初に茨城の大会(1995年)に出て、1発目で優勝しちゃったんですよ。ぶっちぎって。
 

増田 柔道時代からヘビーウェイトを扱ってたから筋量が大きかった?
 

田所 たぶんね、地方レベルの筋量ではなかったっていう。自分では3年ぐらいかけて優勝できればいいやぐらいに思ってたんですけど、それでますます気をよくしちゃったんでしょうね。次の日から関東大会目指して、全日本目指してと、どんどんレベルを上げてって。でももう完全に7年前にスパッとそれもやめちゃいまして。これ70歳、80歳まで続けるんだと思ってましたけども、スパッとやめちゃいました。
 

増田 何かきっかけはあったんですか? 今サーフィンをされてますが。
 

田所 サーフィンもとことん上を目指してやってるんですけども。日立に住んでますから、どこでもできる。
 

増田 サーフィンは何歳から始められたんですか?
 

田所 初めてやったのは大学時代なんですよ。これは遊びで、ですけどね。大学から大磯海岸があって。そのときちょこっとかじって、その面白さは知ってたんですけど。就職してすぐが筑波でしたから、海まで遠いんで、そんなには行ってなくて。就職して10年目にやっと生まれ故郷の日立に戻ってきて、今から20年ぐらい前からちょこちょこ遊びでやるようになって。ただ、当時は柔道がメインだったし、そのあとボディビルをやったし。
 

───スパッとやめられたのは?
 

田所 ボディビルと同時にサーフィンの大会も出始めたんですよ。これもはまっちゃったんです、がっつり。ただ、両立はなかなか難しくて。ボディビルは15年ぐらいやったんですかね。大会出始めてから15年ぐらい。それと同時に、サーフィンの大会も出るようになって、燃え尽きちゃったんですね、両方の大会出るのに。それが一番の原因です。朝出勤前にサーフィンやって、退勤後に帰りにジム行ってバーベル持ってやってたんですけど、それがあまりにもオーバーワークだったんでしょうね。あとはもうナチュラルではボディビルこれ以上無理だよっていう。自分の中に限界みたいなのをちょうど感じてたときなんで、スパッとやめちゃったんですよ。トレーニング一切やらなくなったんですよね。
 

増田 今はもう全然、ベンチもやらないんですか?
 

田所 やらないです。もうサーフボードより重いものは持たないですね(笑)。アマ全日本トップを目指してます。まあ当然年齢別にありますんで、今私がやってるロングボード、これは45歳を境にメインクラスとマスタークラスっていうのがありまして。そのマスタークラスのほうで頑張ってます。
 

増田 とにかくトップを取って。
 

田所 取れればいいかなっていうところです。
 

増田 表彰台に昇るとき、そういうところに昇って立ったときの、柔道もボディビルもそうだし、サーフィンもそうですけど、その喜びって言うんですか、またあそこに立ちたいという気持ちがあるんですか。
 

田所 微妙なところなんですけども、その順番ではないんですよね。自分の目標というか、自分のこだわりが破れたかどうかみたいな、達成できたかみたいなところに。
 

増田 一つひとつ自分に勝ってくプロセスで、結果としてここに立つっていうことなんですね。自分との戦いみたいなところが。そこまで何をしてきたかっていう。
 

田所 もう自分の中がそういうふうに中途半端にはしておけないと。やるんだったらばとことんやってやろうかなと。ただ基本になってるのは間違いなく柔道です。柔道を通してボディビルやサーフィンも考えてしまいます。それは必ずありますね。
 

増田 ある意味次の目標ができるトップ選手って、幸せですよね。けっこうみんなプツッとやめて、目標をなくしてしまう人もいるんですよね。
 

田所 やりすぎちゃったんだと思うんですよ……、俺は、柔道を。長かったですからね。たまに結構やる人もいますけども、私は高校3年からナショナルチームに入って、32歳までいましたんで。

増田 でもある意味で、古賀や吉田というスターがいたから、まわりも盛り上がったし田所さんもモチベーションを保てた。
 

田所 それはありますよね。もしかしたらもうとっくに現役退いてたかもしれないですね、彼らがいなかったら。
 

増田 お互いに輝かせる存在なんですよね。古賀がいたから盛り上がるし。それを追う田所さんや堀越さんたち、一流の選手たちが鎬を削って。(古賀に十字を極める写真を手にして)この写真はかっこいいですよ。このときに一緒の時代にトップでやったっていうのは幸せだったんじゃないですか。
 

田所 はい。ほんとに。
 

増田 こんな花形がいるからこそ自分も輝けるし。
 

田所 もう、そのとおりですよ。
 

増田 これが古賀がいなくて、ただここに田所先生が表彰台の一番上に立ってるだけの写真だったら、みんなそこまで感動しないと思います。でもここに古賀っていう怪物が立ってて、それを追って一流たちが鎬を削る、そこに人間ドラマがあるし、出場選手全員のバックボーンに何万本という乱取りがあるスクリーンショット 2021-06-18 17.30.36
わけじゃないですか。雨の日もカッパ着て走り、小っちゃいときからずっと積み重ねた時間が、わずか数秒の主審の判断で「待て」がかかるか見てる、その一瞬に、畳の方向見ながら十字を極め続ける。
 

田所 (しみじみと見ながら)いい写真ですよね。
 

増田 いい写真です……
 

田所 頭上がってなければよかった……。うちの亡くなった父親も、「これはいい写真だ」って言って『近代柔道』にお願いしてパネルを。今でも実家にあるんですよ。
 

───柔道ではこうして下から関節技をかけている相手を畳から持ち上げると主審から「待て」がかかりますが、ブラジリアン柔術やMMAでは簡単には「待て」がかからないので一本勝ちです。
 

増田 そうですね。柔術的にいったら完勝だったんですよね……

田所 はい……
 

───いまサーフィンをしていて動きとか、あるいはバランス感覚とかが、柔道に通ずるものがあると感じることも?
 

田所 バランスというか、抑えの部分で通常のサーファーにはない脚力は活きます。当然それは柔道やってきたのもあるし、ボディビルで重いスクワット担いでたのもあるだろうし。
 

───抑えるっていうのは脚力でボードを抑えるということですか?
 

田所 ええ。ボトムターンっていう、下りてから1発目に曲がる技があるんですけども。そのターンは、「他の人ではできない技だね」ということは専門家の人から。
 

増田 それはやっぱり柔道とかボディビルで鍛えた、踏ん張りですよね。
 

田所 古賀君ぐらいだったらもっとうまいボトムターンができますよ。あの脚力だったら。
 

増田 田所先生は柔道をやってきてよかったなって改めて思うことってどんなことでしょう。
 

田所 柔道やってなかったら今はなかったとはっきり言えますよね。
 

───自分のすべてをつくった原点のようなものですか。
 

田所 はい。もう断言できます。ほんとうに柔道には感謝しています。吉田が一時、格闘技のPRIDEに上がってたでしょう。TV放映とかされてるから、柔道とか知らない人も見るでしょう。「田所、お前やれよ」って、私の現役時代を知る先輩なんかは。
 

増田 言われましたか。どう思いました? もうちょっと若かったら出たかったですか。
 

田所 そうですね。
 

増田 たとえば吉田vsホイス・グレイシーとか見て、俺もやってみたいと。
 

田所 公務員じゃなかったらやっちゃったかもしれないですね。
 

増田 証明したいですよね、自分の寝技のほうが上だとか。とくにやっぱり、みんな寝技中心のスタイルだから、田所さんみたいにトップで寝技師としてやられた人は、ギリギリまだ当時だったら四十歳前後ですか。PRIDE全盛の頃は柔道ファンが集まるとよく先生の名前が出てましたから。ヒクソンと田所先生とやったら、どうなるだろうかって。いや、今だってヒクソンと歳が近いから実現できるかもしれません。いまヒクソンとやってみたいですか?
 

田所 私が? どうでしょうね(笑)。
 

増田 僕たちファンからすると、ちょうど年齢も身長も体重も同じぐらいだし、いま道衣着てヒクソンと田所先生がデスマッチで寝技をやったらどうなるんだろうって。
 

田所 やってみたいっていう気持ちはあっても、それを実現するにはやっぱりいろんなハードルが高すぎちゃって。公務員ですし、まず練習環境が整わなければ、こればっかりは一人ではできないでしょうから。公務員じゃなくなって、今でも準備期間1年ぐらいいただけるんならば。
 

───勝負師の魂がふつふつと。
 

増田 いま教えてる柔道部の生徒たちは、先生がこうやって、若いころ五輪を目指して古賀や吉田と死闘してたのは知ってるんですか?
 

田所 知らないんじゃないですか。私も言わないですもん。
 

増田 柔道部以外の生徒とか先生方はもっと知らない?
 

田所 私は直接は言わないですけど、他の授業の先生が「お前らの担任が昔どんな活躍してたのか知ってんのか」みたいな感じで言うときはあるかもしれないんですけど、それが柔道部の生徒に伝わってるかどうかはわからないです。公立ですから、うちに来て柔道部へ入るけども、そこまで上は目指してないという生徒らが多いんで、なかなか難しいです。私は「軟式柔道部」と冗談で言ってますけど、私も楽しみながらやってます。
 

───こんな先生に柔道を教えてもらえる生徒たちが羨ましいです。教え子には優しくて自分には厳しくて、自分は一流アスリートとしてさまざまな競技に挑戦し続ける。その背中を見て生徒たちも勉強やスポーツで頑張っていけると思います。
 

増田 今回お会いする前に、僕も編集部も、田所先生のことを『エンドレス・サマー』(終わらない夏)というアメリカのサーフィンのドキュメンタリー映画をかぶらせてイメージしてましたが、まさにイメージ通りの方でした。柔道で、ボディビルで、サーフィンで、ずっと夏の盛りを求めて生きるその姿は、きっと格闘技に取り組む現役選手たちの目標と希望になるでしょう。先生、今日はどうもありがとうございました。
 

田所 こちらこそありがとうございました。

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Yuji Tadokoro 1962年、茨城県出身。小学2年で多賀道場に入門。中総体ベスト8。多賀高校で柏崎克彦に師事し、東海大卒業後、上郷高校教員に。198182年、全日本新人体重別78kg級優勝。84年、正力杯国際学生優勝。87年、講道館杯3位。91年、講道館杯2位。8791年、全日本選抜体重別3位。91年、太平洋選手権優勝。95年、ボディビルで茨城選手権初出場優勝。東大柔道部コーチも務め「柴山縦」の原型を伝えた。サーフィン歴は15年以上に及ぶ。179cm 
(ゴング格闘技、掲載対談記事) 

 

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小林まこと×増田俊也【対談】我が柔道部物語!!


◉2万字対談!目指せ「日本柔道人口100万人」計画
小林まこと×増田俊也
     (「ゴング格闘技」2016年11月号掲載)

スクリーンショット 2021-06-11 4.16.46


五十嵐先生の接骨院の待合室に『柔道部物語』が全巻並んでいると聞いて、漫画家になってよかったと思った(小林)

──本日は、多くの柔道家・格闘家に影響を与えた、あの伝説的な漫画『柔道部物語』の作者で、今夏、新連載として『女子柔道部物語』もスタートされた小林まこと先生を迎え、『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』『七帝柔道記』の著者・増田俊也さんと柔道の魅力について、存分に語り合ってい
ただきたいと思います。

増田 新連載『女子柔道部物語』が掲載された『イブニング』が入手できなくて、ネット上で大変な騒ぎになっていますね。

小林 売り切れみたいな苦情の投稿がいっぱい載ってるみたいですね(苦笑)。

増田 漫画の世界のこととか、出版のことを抜きにして、柔道関係者として僕は、小林まこと先生は柔道の魅力をマスコミを通して発信できるクリエイターのなかの「大将」だと思うんですよ。僕は「副将」だった。僕ら若いクリエイターが総力を挙げたけれど副将までに柔道界が勝利をつかむことができスクリーンショット 2021-06-11 4.16.26なかったので、柔道の物語を描く最後の大将が、大将決戦で柔道人気回復のために出てきてくださった。今回の連載が新しく始まるっていう第一報のときも、SNSで柔道関係者の反響がものすごかったんですよ。

小林 いやいや、大将なんてガラじゃないけど、たしかに反響はすごかったね。

増田 全柔連の人たちが競技人口の減少を心配しているけど、あの盛り上がりを見たときに、柔道の結束感って凄いなと感じました。道場に対する想い、自分たちの青春を賭けた柔道に対する思い入れは、独特のものがありますよね。

小林 他のスポーツってこうはいかないでしょうね。

増田 おそらくそれって畳の上でみんなで生活したっていう感覚なんですよ。道場って練習中は厳しい場所だけど、練習後は家にいる気分になれる。だって畳敷きですから。フィールドでラグビーやサッカーをやった思い出と少し異なって、畳の上で、『柔道部物語』のように練習前後にみんなで寝っ転がって話して、合宿では布団を敷いて泊まり込んだ。それって茶の間で兄弟同士でプロレスごっこをやったイメージの延長線上にあるような気が僕はしているんです。その畳の上で青春を過ごした柔道家たちが、小林先生がもう一度、柔道を描くと知って爆発的に盛り上がった。ついに切り札の大将決戦で小林先生が帰ってきたっていう。

小林 この対談もタイミングが合うのに1年ごしだったよね。去年さ、対談の話があった時点では、この漫画をやるなんて想像もつかなかったから、もしあの時だったら全然違う話になってたと思うんだけど、1年後にはこうして『女子柔道部物語』が始まった。今回に限っては、なんか見えない力に動かされたとしか思えないんだ。

増田 それは僕も感じます。『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』を書いたときも、木村政彦先生や岩釣兼生先生、牛島辰熊先生、神永昭夫先生やたくさんの人たちの思いに動かされたんです。だから、ピンチがあってもぎりぎり助かったことが何度もあって……。どこかでお前、頑張ってくれっていう念のようなものをすごく感じるんです。

小林 そうだろうね。『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』を読んでいてそんな気がしたな。これを書かせてるのは別の力だっていう。それにしてもこの本、すごく面白かった。最初はね、この分
スクリーンショット 2021-06-11 4.38.26厚い本を見た瞬間、あちゃーと思ったの。さらに開いたら二段組みになってるし(笑)。読み切れるのかなと思ったけど、全然あっという間に読み終わった。聞いたら、編集部でもみんな読んでるって。

増田 各社に中学・高校時代、柔道をやってたっていう編集者がいるんですよね。どこへ行っても別の編集部からでも若い人がぶわーって走ってきて、読みましたって。『柔道部物語』もまさしくそういう作品だと思います。

小林 そうだね。柔道経験者っているんだよね、各ジャンルに。漫画の業界にも1人いたってことですよ。

──1人、ですか。最初に柔道をテーマに、と編集部に言ったときはどんな感じだったんですか?


全国の柔道部員から『柔道部物語』を読んでる反応がきはじめた。これはいい加減にやれないなって(小林) 


小林 もう最悪ですよ。えー? なんて感じで。柔道漫画なんて……みたいな、顔に書いてあるんだよね(苦笑)。あの当時は、部活ものの漫画があまり無かったし、ましてや柔道の人気は全然、無かったから。「だっせえ」っていうイメージしかなかった。

増田 『1・2の三四郎』の柔道編もありましたよね。あれがあっても?小林 あれは柔道そのものの漫画ではなかったしね。

増田 そうですね。ラグビーとプロレスもありましたからね。

小林 そうそう。東三四郎はキャラクターが強力だから、どんなスポーツをやらしてもあの漫画は成立したと思うんだけど……。

増田 柔道自体を描きたかった。

小林 どのくらい期待されてなかったかというと……『ヤングマガジン』で『柔道部物語』を連載していて、最初の1年ぐらい人気投票ってやつでは人気なかったんだ。そうしたら、『少年マガジン』のほ
うから、ウチの方で書いてくれって言われてね。俺もじゃあ、この続きを『少年マガジン』でやりましょうか? って言ったら、それはいらないって言われた(笑)。

増田 でも、僕は大学の頃に「ヤンマガ」連載中に、柔道部員みんなで奪い合うように読んでましたよ。

小林 北大時代?

増田 北大時代ですね。1986年に大学に入ったから、まさにリアルタイムですよ。

小林 連載も最初は自分の思い出話をちょっと描いてやるかみたいな感覚ですよね。あのときは『What’s Michael?』がもう爆発的な人気だったから。こっち(『柔道部物語』)はもう趣味で、ほとんど力まず、スタートからそんなに話を引っ張ってもいないし、静かに始まってね。でも、途中からだな、全国の柔道部員がこれを読んでるみたいだっていう反応が来はじめて。これはいい加減にやれないなって気分になった。

増田 読者の顔が見えてきたんですね。以前、小林先生の言葉で僕がすごく感銘を受けたのは「ヒットさせようと思って大多数のいろんな顔を思い浮かべたやつは失敗してる。やっぱり的が絞れてないとダメだ」という言葉でした。その点で、『柔道部物語』は、柔道部部員に向けて、あるいは柔道経験者を楽しませようという思いがヒシヒシと伝わってきました。その分、異常にマニアックな部分もあったんですけど(笑)。柔道マニアではある僕たちにはすごく受けてたんです。きっとマニアに受けないものは大勢にも受けないんですよね。

小林 そうだね。


『七帝柔道記』に書いたんですが、北大にも「セッキョー」や「おはつ」と同じような伝統行事「カンノヨウセイ」があったんです(増田)

増田 ここの背負い投げ違うじゃん、ここの抑え込み違うじゃんって、ディテールが異なる部分があると、コアな人たちの熱狂が冷めちゃうのかなっていう。

小林 そうだよね。メジャーな売れ線の作品は他の人でも作れちゃう。この作者じゃなきゃ作れないっていう作品はなかなか貴重だなとは思うんだけど。

増田 マニアックといえば、僕も『七帝柔道記』で書いたんですけど、『柔道部物語』の「セッキョー」と同じような行事が、北大にもあったんです。

小林 やっぱり自分の思い出? 1年間、それを楽しみに2年生になるまで耐えるような。
 
増田 そうですね。「カンノヨウセイ」という行事で、最初の新入生歓迎合宿が5月に1週間あるんですけど、その最終日に北大OBが100人ぐらい来て。

小林 100人も来るの!?

増田 上級生たちの説明では、OBは酒が入ってるから俺たちには止められないと。だから寮歌を10曲ぐらい、全部覚えてくれって言うんです。漢字ばっかりの歌を。1週間覚えるんですけど、それでも何となく1年生はキツネにつままれたような感じなんですが、最終日にいきなり先輩が、夜7時からやるからって言って、5時ぐらいに今から札幌の最高級ホテルに連れていく、と。セッキョーと同じで、急に先輩たちの態度が変わって、坊主にしろっていうのと、白いブリーフを履いてこいと。トランクスだったら大変なことになるって言うんです。

小林 トランクスだと大変なことに(笑)。白いブリーフがもう伝統になってるんだね。

増田 目隠しでブリーフ一丁で部室の中に正座して。でも外で大騒ぎになってるんです。実際には現役の上級生部員しかいないんですが(笑)、上級生たちがOBの声色を真似て、扉をガンガン叩くんですよ。「増田ってヤツはいるかー」って。上級生たちは「これ以上、やらないでください!」みたいに嘘ばっかり言ってるんですけど。暗闇の中で寮歌を歌わされて。最後に目隠しを取られるっていう。

小林 面白いねー。今もやってるのかな、そういうこと。

増田 今はさすがになくなったらしいです。

小林 それってもしかしたら戦前から続いてる伝統かもしれないよね。

増田 当時、先輩に聞いたんですけど、新入生歓迎の変わった行事は、全国の伝統ある柔道部には必ずスクリーンショット 2021-06-11 4.17.15あると。おそらくどこかで始まったものが、合同合宿を繰り返すたびに、少しずつ形を変えて伝わっていったんじゃないかって。北大も昔、某実業団柔道部に合同合宿に行ったときにそこの柔道部員たちから受けて、「これは俺たちも後輩にやらねば気がすまない」と言って受け継いだらしいです(笑)。それぞれアレンジされたものが、全国の歴史ある高校や大学に伝わっている。

──フォークロアというか、民間伝承としても面白いですね。

小林 そういえば、『柔道部物語』を描いたときは、古賀稔彦さんと付き合いがあったから、昔の日体大の話も聞いてたんだけど、あそこでも「おはつ」っていう、成人式を迎えたら丸坊主からスポーツ刈りが許されるようになった後輩に、先輩が好きなもので後輩の頭を殴ってもよいという、謎の儀式を教えてくれたね。

増田 「おはあーつ」の掛け声とともにバコーンと(笑)。作中では3年の鷲尾弘美が、2年になって五厘刈りから髪を伸ばすことを許された三五十五の前に、こたつを持って現れるという(笑)。

小林 あれもね、本当にこたつの天板を持ってきた先輩がいたんですよ。しかも、電車に乗って持ってきた(笑)。この行事も今では無くなったそうだけどね。

増田 おおらかな時代の名残ですね。昭和20年代の焼け跡世代の延長線上に日本人がいた。昭和の終わりは昭和のはじめと地続きだったんです。

小林 そうだね。指導者も戦前生まれの人が多かったから、ずっと続いたんでしょう。今は指導者もみんな戦後生まれになっちゃったけど、俺のときは先生も兵隊上りだとか、そんな先生ばっかりだったからね。

増田 『柔道部物語』では、当初は田舎の高校にある柔道部の面白おかしい日常が多く描かれていましたが、途中からどんどん練習や試合の描写がリアルになっていきました。さきほど小林先生が仰られた柔道経験者の読者からの反応を感じたからでしょうか。

小林 1巻に関しては、単なる田舎の柔道部の毎日みたいな緩い部分を描くつもりでいたんですよ。どのへんだったかな。たしか古賀稔彦さんから手紙が来て……。

増田 読んでます、という?

小林 そう。ファンレターは結構いろいろ来てたんですけどね。ほぼ99%『What’s Michael?』のファンレター。でも、そこに封筒に入った手紙が届いて、裏を見たら、日体大・古賀稔彦ってKOGA1書いてある。え? あの古賀? みたいに驚いて。

増田 きちんと封書で届いた。

小林 大スターだよね。ソウルオリンピック前ではあったけど、柔道をちょっとでも知ってる人なら大スターっていう。手紙には、「毎週、部員で読んでます。柔道部はいろいろと誤解もされてるし、肩身
が狭いのですが、この漫画のおかげで助かります。頑張ってください」というようなことが書かれていた。こんなすごい人が読んでるのかと思って。これはちょっと田舎の柔道部の日常だけで終わらしちゃいかんなと考えて、ちゃんと王道に則って三五を強くしていこうと思ったんです。

増田 そこでどう成長させるかですよね。古賀稔彦さんも、今回の『女子柔道部物語』のモデルのアトランタ五輪金メダリストの恵本裕子さんも本物ですよね、雲の上の。でも彼らに対する敬意の気持ちKOGA2が、小林先生も僕も、雲の上の人たちを書くって敬意が、例えば三五がインターハイで活躍するシーンひとつとってもすごいリアリティーを持って感じられる。当時、あらゆるスポーツ漫画でここまでリアルな練習量とか、打ち込みや投げ技の細部や迫力を描いた作品って無かった。

小林 そのへんは自分がやってた強みもあったしね。

増田 『1・2の三四郎』のときから、戦う場面を描くときは、デッサンのために自らパンツ一丁になって、三十五ミリのカメラで撮影もされていたそうですね。

小林 そう。それでそのへんの1時間現像に出して取りに行くと、「これですか?」って確認のために見せられるのが、パンツ一丁で奇妙なポーズをした自分の姿。店の人はどう思ってたのかなって(笑)。


スポーツ漫画をリアルに描いても面白いと、小林先生が示してくれた。『柔道部物語』が多くの柔道家・ファイターを生んだんです(増田) 

増田 でも、そのディテールがどんどん漫画に反映されていった。三五が1年のとき、木場工の飛崎守に背負い投げを封じられて、釣り手だけの片手背負いを決めましたが、あの技も古賀稔彦さんから聞いた技をヒントにされたとか。

小林 あれは古賀稔彦オリジナルですよ。どの試合だったかちょっと忘れたんだけど、俺がビデオカメラ持って撮ってたんです。古賀がバーンと投げて、もう鳥肌立つようなきれいな背負い投げが決まっスクリーンショット 2021-06-11 4.17.33て。ウチへ帰ってじっくり見直してたら、何かがおかしい。引き手の左手が胴体の横にあるわけ。動きが速いからブレてるけど、これ手だよな? と思いながら。左手が何でここにあんだろう、と思ってもう1回ビデオを回して見たら、どうもこれ片手でやってるぞと。たしかその日のうちに本人に電話してるの。あれ片手だったみたいだけど? って聞いたら、ああ気付きましたか、なんて感じで。実はあれ練習してたんですって言うんだ。テレビのインタビューでは、咄嗟に出ましたって答えてたけどね(笑)。これ漫画で描きたいって言ったら、描いてくださいと。

増田 三五の因縁のライバル西野新二との試合で、劣勢に追い込まれた三五が袖釣り込み腰で試合を振り出しに戻す、あのとき三五がズボンも掴むのも……。

小林 あれも古賀の得意技だね。今じゃ反則だけど。技が無くなっちゃうっていうのは、ちょっとやりすぎなルール改正だったかなと思うけど……、まあこれからは俺もいちいちルールが変わったって文句を言わないようにしようと思って。また違う技も生まれるわけだし。

増田 そうですね。


釣り手だけの片手背負いは、古賀稔彦の試合を見直していて気付いた。本人に確認したら、「実はあれ練習してたんです」と(小林) 

小林 この前、工学者の武田邦彦と佐藤嘉洋さんが対談している動画を見たら、ミャンマーの素手で殴る競技(ラウェイ)があって、そっちこそがほんとうの格闘技だと言う人がいるという話になったときに、佐藤嘉洋さんがその人たちとスパーリングしたら、競技的には全然弱かったっていうわけ。グローブで練習したほうが強くなるんだと。それはそれでわかる気がする。柔道も、どうしても昔の柔道・柔術こそ本物だっていう考え方もあるんだけど、果たしてそうかなと思う面もある。そもそも今の柔道は蹴りも当て身も禁止だし、すごく限られたことしかやれてないんだけど、その分、限定された動きに磨きがかけられて、とても層の厚いなかで切磋琢磨している。そこにもし昔の柔術家と今の柔道オリンピック選手が戦ったら、今の柔道選手のほうが勝つような気もするんだ

増田 僕もそう思います。乱取りの圧倒的な量、体全体のパワー、科学的なフィジカルが全然今のほうがあると思いますね。僕がこの『柔道部物語』で胸躍ったシーンは、三五が西野との戦いに負けて肉体改造に取り組む、リアルにサイズが大きくなってくところなんです。実際にいろんな柔道部で、突然強スクリーンショット 2021-06-11 4.17.40くなる選手っているんですよね。それまでおちゃらけだった部員が本気で強くなろうって思うと、この年頃の子って半年見ないと大化けする。元々、吹奏楽部出身の三五がほんとにリアルに大きくなる。この第1巻では細い体が今のそれこそベイカー茉秋みたいな体に、打ち込みやウェイトで変わっていく。
それで三五もクラスメイトたちに言われますよね。なんか大きくなったんじゃない? って。まさに柔道家あるある、でした。『七帝柔道記』でも、漫画で連載している一丸先生との最初の打ち合わせで僕が言ったのは、柔道家の強さや成長って首に現れますよと。1年、2年、3年生と上がるにつれて、首が太くなって柔道衣が似合ってくる。表情も変わって、全然うろたえなくなって大舞台に立てば立つほど凛々しく見える。

小林 ほんとだよね。大野将平を見てても年上かと思っちゃうもんね。あの貫禄って何だろう。

増田 大将とか代表戦に出る人たちの凛々しさはしびれますよね。ましてや、五輪で頂点に立つような選手では……。大野のはだけた柔道衣から見える鋼の肉体も凄くて。

小林 そういえば、吉田秀彦とホイス・グレイシーが互いに道衣でやったとき、組んだ瞬間にもう吉田の体幹の強さが感じられて、これが〝表の柔道〞の強さだと思ったんだ。

増田 エリオ・グレイシー戦でマラカナンに登場する木村政彦先生も堂々としていて、生き物の頂点にいるように見えますよ。

小林 木村との試合前に、エリオは加藤幸夫五段を絞め落としてるのにね。しかし、あの木村の大外刈りは度肝を抜く。エリオ、死んだんじゃないかっていう。

増田 あのとき、木村先生は戦前の昭和15年の天覧武道大会優勝から戦争を経て、11年も経っていたんです。

小林 そうか。あの当時でいくつ? 大正6年生まれだから、もう35歳だったんだ……。ただ、グレイシーといえば、PRIDEのときに、グレイシー一族をすごく悪役扱いしてた時期があるじゃない。あれは、俺かなり反発心があってさ。同じ柔道から生まれた同根で、彼らの戦いの哲学からいろいろ主張していたのに、一方的に悪者扱いはないんじゃないのと思ってたけどね。

増田 グレイシーはすごいですよね。日本の柔道界みたいに、競技者が山のようにいた頂点じゃなくて、兄弟で全員が才能あるわけでもないのに、あの環境の中だけで強くなった。そして強くするシステムを創り上げた。すごいことです。


柔道の結束感って凄い。畳の上でみんなで生活した感覚なんですよ。練習前後に話し合って、合宿では布団を敷いて泊まり込んだ(増田) 

小林 柔術にも柔道にもそれぞれの良さがあるね。『女子柔道部物語』の恵本さんの現役時代のタンクトップ姿の写真を見せてもらったことがあって、女子柔道のトップ選手の体ってこうなんだって驚いたよ。Tシャツ着るのがもったいないくらい。高校生の頃は普通の女の子だったんだろうけど、オリンピックのときにはこんなすごい体になってたんだと。

増田 フィジカルの描写では、『柔道部物語』では、西野の存在が物語を盛り上げましたね。

小林 そうだね。あの漫画は西野が出てきてからレベルアップした感じするね。

増田 西野というキャラクターはどこから生まれたのでしょうか。

小林 それは……『1・2の三四郎』まで遡っちゃうんだけど、あれが終わったときに、当時の編集長に言われたんだ。「小林さんはほんとの敵っていうのを、結局描かずに終わったね」って。それがずっと引っかかってて。たしかに、三四郎とほんとに対等にやるようなライバルは出てきてない。仲間はつスクリーンショット 2021-06-11 4.18.27くったけど、敵はつくってない。それが頭の中に宿題みたいな感じで残っていて……そういうほんとうの敵をつくるというのは、この西野が出てくるまでは描いてないんですよ。

増田 なるほど。対西野で印象に残ってるシーンは、金鷲旗のとき三五がマッサージを呼んで、肩甲骨の裏に指が入っていって、筋肉がすごく柔らかい。大丈夫、あなたが勝つと太鼓判を押される場面です。あそこはすごい玄人好みでした。ギリギリのところで強い人たちがせめぎ合っていくときに、最後に筋肉の質が大事というのは、説得力がありました。

小林 ちょっと思い出してきたな……。あれ、それなりに苦労したんですよ。

増田 あのマッサージのシーンはどう思い付かれたんですか? 絶対的な強者を相手に、どこかで逆転できるという可能性を読者に匂わせるシーンですよね。

小林 うーん。もう勝ち目がない敵をつくったわけですよ。でも、勝つなら読者が納得する形で勝たせなきゃいけない。努力したから勝ちましただけじゃ、説得力に欠けると思って。あの筋肉はただ鍛え上げるだけではダメなんだと。もともと持っている資質も重要で、それをどう活かすかということを、あのマッサージでやろうって思い付いた。

増田 あれはすごいシーンですよ。その後の死闘の伏線としても。最後の最後に勝敗を分けるものを示していました。共に才能を持ちながら、ライトスタッフ(己にしかない正しい資質)というべきものを
育ませる岬高の五十嵐先生のキャラクターも抜群でしたね。「俺って天才だあぁ」「俺ってストロングだぜぇ」と自己暗示にかけ、「俺ってバカだあぁー」と客観視もさせる。あの先生は……。小林 実際はあんなにひょうきんじゃないです。あの当時、この漫画を描いてたらヤバい(苦笑)。元五輪出場候補選手というのは本当ですが、あの国士館の番長だったというのが、もう怖くてね。世間話なんてしたことないし。

──本物の五十嵐先生は教員を引退後、接骨院を開業され、その待合室に『柔道部物語』が全巻並んでいると聞きました。

小林 漫画家になってよかったと思いましたね。

増田 ああ……、それはいい話ですね。以前、岡野功先生が仰ってましたけど、昔は九州の一番南へ行っても、北海道の一番北へ行っても、絶対の技をひとつ持った選手が必ずいて、五輪の強化選手がボコられるような強い柔道家がこんな小さな町にいるんだというようなことがあったと。それぐらい柔道っていうのはすごい、豊かなものだったんだと思います。

──多くの人にとってたしなみだった。小林先生が柔道を始められたのは……。

小林 高校で吹奏楽部に入りたかったんだけど、『柔道部物語』と同じような感じで、無理矢理入れられちゃって。で、入ったらそれなりに面白くてね。最初は、いい受け身だねぇなんて褒められるし(笑)。

増田 柔道界得意ですよね、褒め殺し(笑)。北大でも褒めるところがない新入生に「、この足は強くなるねー」とか先輩が言っていて。秋田犬の子犬じゃないんだから(笑)、この足は大きくなるみたいな(笑)。

小林 そうか、俺も褒められたの、あれ嘘だったんだな、今気付いた(笑)。柔道部入ったときに、先生が「今年はいいのが入った……」ってつぶやいて。俺のことを言ってるんだ、頑張ろうと思ってたなあ(笑)。

増田 北大で中井祐樹を勧誘するときは別のパターンでしたね。彼はレスリング部出身で寝技ばかりの柔道に興味を持って見学に来たので、高校で中井と同期で先に入部していた柔道部員を相手に、中井のスクリーンショット 2021-06-11 4.18.02前で派手な技、跳びつき腕十字とかオモプラッタとかをがんがん極めたんです。そうしたら俄然、目の
色が変わって入部しましたよ。見学に来た相手の雰囲気によるんですよね。名古屋くん(※『柔道部物語』で入部後、天才的なサボり方法を身につけ「流しの名古屋」と呼ばれる)のような子には、楽しそう、楽そうっていうイメージでいかないと(笑)。

小林 そうだね。前向きな人にはそれなりに強さを見せて、そうでない人には楽しさを前面に押し出して。

増田 ほんと柔道って、陸上みたいな才能の競技と違って、誰が伸びるかやってみないとわからない部分もありますからね。背が高い人も低い人も、自分の特質に合わせた柔道を伸ばしていくことが出来る。まずは始めてもらえれば……。


西野を描くまで、仲間は描いたけど、ほんとうの敵は描いていなかった。それが頭の中に、ずっと宿題みたいな感じで残っていた(小林) 

小林 俺なんてスポーツは駄目な人間だと思い込んで絵なんか描いて、中学までなんもやってなかったしね。足も遅いし、運動会嫌いなタイプで。柔道やっててよかったのは、自信が付いたっていうこと。俺ごときでもやれた、みたいな。体育の時間も嫌じゃなくなったし。毎日練習してんだから足も速くなる。

増田 それは子どもじゃなくても、その達成感でほんのちょっと背筋が伸びて、上を向いて歩けるじゃないですか。

小林 それぞれ人によってレベルが違うけどさ、絶対プラスになるもんね。漫画家になって徹夜続きになっても、あの合宿に比べりゃ楽かなとかね。あれやったんだからこのぐらい何でもないって思えるんだ。

増田 あの合宿の絶望感たるや……あと何日って。進まない進まない。

小林 カレンダーにバッテンつけてね。次の練習時間が来るのも嫌で嫌でさ。2時から練習だっていうけど、もう1時間しかなくて、この秒針がたったの60回回ると練習かぁ……と。

増田 そういう文化はもともと嘉納治五郎先生がつくったときから、寒稽古とか理不尽じゃないですか。寒いときにやったら怪我しそうなんだけど、わざわざ朝やったりして。もともと体だけじゃなくて、心構えとかいろんなものを養成するスポーツだったんでしょうね。小林 それはそう思うな。

増田 しかも対人でコンタクトする。空手の有段者と話したときに、見てると相撲とか柔道って簡単そうだけど、組み合ったら当たり前だけど相手にも力があるわけで、ぶつかる。それをコントロールするのは大変だと言ったんです。人間って相手がいると簡単に思い通りにはいかないんだっていうのを人が、たとえば子どものうちに気付くって大事なことですよね。

小林 よく柔道関係者から言われるのは、柔道人口の減少をどうにかしたいと。近所の美容院の娘さんが中学生で柔道部に入ったんだけど、そしたら楽しくてしょうがないと言うんだ。学校の授業やってる時間ももったいないぐらい練習したいんだって。やっぱり柔道は元来、楽しい競技なんだなって思ったね。それをもっと伝えられれば……。

増田 楽しいですよね、重心の崩し合い。相手をコントロールするのも柔道で対話するのも。吉田秀彦がバルセロナで金メダル獲ったときに、東京の街を歩きながら、全てのビルの重心の傾きが見えたっていうんです。まさに今でいうゾーンに入っちゃってる。僕でさえも高校時代に、やたらと廊下を歩いてるクラスメイトたちの足を払いたくて払いたくて(笑)。柔道部員から見ると隙だらけじゃないですか。

小林 やってる人間からしたらね。体育の授業が楽しくなる。

増田 『柔道部物語』でも、中学時代に柔道が強かった子が三五のクラスメイトで出てきて、先輩の勧誘を断ってラグビー部に入る。三五に「いつか体育の授業で対決するのが楽しみだね」って嫌味を言ってる場面。あそこは両者の気持ちがすごくわかりますね。

小林 ほとんど体験したり聞いたりした実話をもとに作ってるんで、あのラグビー部のやつも実際にいたんですよ。俺はへなちょこみたいに描いちゃったけど、実は全然逆で。中学のとき天才って言われてた子で顔つきもすごいかっこよくて。俺らが勧誘に行ったら肩すぼめて、柔道怖いからもうやりたくないですと。こっちも根性ねえやつだな、こんなやつ入れてもしょうがねえみたいな感じだったんだけど、それが芝居だった。本人はラグビーがやりたくて、柔道部入りたくないために、俺らの前で芝居して弱そうなふりしてた。絞め技とか怖いんでって。そしたらそいつ、うちの学校始まって以来の天才で、その後明治に行って、1年でレギュラーになった。

増田 明大ラグビー部で1年でレギュラー……、それは怪物ですね。小林 ほんとの怪物だったんだよ。

──厳しい合宿もあるなか、小林先生ご自身はどんな柔道家だったのでしょうか。

小林 もう俺なんて語るほどの柔道家じゃないですよ。どっかで賞状もらってるレベルだったら、多少自慢話も入ると思うんだけど、弱かったおかげでこれが描けたんだと、自分ではそう思ってるんだけど。

増田 まさに僕もそうで。弱かったからこそ『七帝柔道記』や木村先生の物語を書けた。柔道でやり残した感もあったから……。


小林 そうそう。こうなりたかったっていう悔いや憧れみたいなものが漫画にする動機になった。あと、強い人を尊敬できる。

増田 そういった気持ちで取材で「一般マスコミに話さないことも知りたいです」っていうと、向こうもわかってくださいますよね。

小林 そうそう。これもし俺が、インターハイに出てた選手とかだったら、やっぱりちょっとプライドが邪魔して描けないかもしれないね。


柔道のおかげで今の自分がある。日本の柔道界全体が盛り上がって、100万人に柔道をやってほしい(増田) 

増田 夢枕獏先生がよく仰いますが、男の子はみんな横綱とかそういう強い人に憧れる。だけどみんな途中でその夢を諦めてサラリーマンになったり作家になったり、いろんな道に散らばっていくけど、実はみんな、山下泰裕、古賀稔彦、千代の富士みたいになりたいっていう夢があるんだと。

小林 そうだよね。男の子のヒーローはやっぱそっちですよ。でも今、恵本裕子さんや北田典子(ソウスクリーンショット 2021-06-11 4.18.11ル五輪61㎏級銅メダル)さんによく会うんだけど、2人はもう俺の漫画についてすごく尊敬してくれてるんですよ、ありがたいことに。でも俺は同じ才能があるんなら柔道がよかった。

増田 僕もそうですね(笑)。

──でもその弱者の視点があるから描けることもある。『柔道部物語』でも名古屋も岡も、脇役がいいんですよね。

増田 必ずいるんですよ。どこの柔道部にも腕立て伏せの数をごまかしたり、掃除のときにやってるふりをする部員が1人ぐらい(笑)。

小林 俺自分の狭ーい範囲の柔道部の体験で描いて、ほぼどこの柔道部にも当てはまったんだなっていう(笑)。名古屋も……実際にいたんですよ。合宿行くとみんなだいたい2、3キロ痩せるのが普通じゃないですか。もう朝昼晩と練習だし。

増田 あれも実話ですか!?

小林 うん。合宿の間に1人だけ太って帰ってくる(笑)。

増田 つわものですね(笑)。さきほどあの合宿に比べれば……、と仰っていましたけど、80年代当時の『少年マガジン』の熱気や小林先生の仕事ぶりも壮絶だったようですね。『青春少年マガジン1978〜1983』に、一番描かれてた頃の話が出てきますけど。実は、奥谷通教さんが僕が原作を書いた『シャトゥーン〜ヒグマの森〜』の漫画版を描いてくださって……。

小林 奥谷って、漫画家の? うちのアシスタントをやってた。

増田 はい。彼はいなかったけど、80年代当時の話を聞くと、ほんとうに寝る間も削って分単位のスケジュールで描いて描いて、1週間の平均睡眠時間が8時間だったと。

小林 小説家も大変なんだろうけど、漫画家はネームと作画でも時間取っちゃうからね……。

増田 『1・2の三四郎』や『柔道部物語』の制作の裏にこんな苛烈な現場があったんだと知りました。

小林 この頃、なんかボクシングの試合を見てて、もう顔がボッコボコになって、血だらけで最後まで気力で立ってるような試合を見て感動したんですよ。でも、漫画家も負けてないなとちょっと思った。このボロボロ具合は。足かけ5日ぐらい徹夜したときの状態はもうほぼこんな状態だなと。

増田 同時期にデビューした小野新二さんと大和田夏希さんの2人が亡くなられて……小林先生自身も、マンションのベランダで思わず柵にしがみついてしゃがみこんでしまう場面を描かれていました。小林 2人のことを描いて自分のことは描かないというわけにはいかなかったからね……。会えば漫画の話ばっかりしてた。ただ、あれだけ入れ込んで命がけでやったから、これほどの漫画の時代ができたんだろうとは思うけどね。

増田 驚いたのが、小林先生のこの言葉だったんです。「亡くなった2人にしても可哀想だとは思わない。ご家族ともお話をしたけど、大和田さんは幸せだったと思います」と。その言葉に、自ら選択したことをやれる幸せ、漫画に携わることの誇りのようなものを感じたんです。苦しくてもやっていける。それはきっと柔道家や格闘家も同じ想いだろうなと。

小林 そうかもしれないね。でも、今だからそう言えるところもある。そのときは、サラリーマンがうらやましかったりもした。担当ではないけど、編集者たちがね、当時出版社が儲かってたんで、毎晩銀座で飲み歩いてるわけですよ。漫画家は連れて行かずに。それで、いいですね編集者は、って嫌味を言ったら、天才は凡人に憧れるもんじゃないとか誤魔化されたりしてね。

増田 力のある漫画家が減ったっていう若い世代へのエールも感じました。表現の現場も、いまは制約が増えたり、売れるフォーマット、データが蓄積されてきたから、小説でもこのフォーマット、この流れで成長物語として描いてくれ、っていう提示がよくあって。でもそれやって名前隠したら誰の作品かわかんないじゃんっていうこともあるんです。

小林 漫画家もやたらと編集者の陰口を言う。ツイッターとかでも直しを食らったとか言うんだけど、直に喧嘩しろよと思うわけ。俺らのときは、もう俺ド新人だったし、周りもみんなド新人ばっかり。でスクリーンショット 2021-06-11 4.25.39も編集者がああしろこうしろなんて指図したら全部突っぱねてた。俺も表紙でこんな構図でこんなふうに描いてくださいって言われたのを見てね、もうド新人だったけど、つまんねえなって、全然違うのを描いて、はい、って渡してた。ド新人がそれをやれてた。

増田 以前から、編集者がプロットまで決めるやり方は出来ない、と仰ってましたね。僕が小林先生の描き方で感銘を受けたのは、「俺の中ではアイディアが動きとセットにになっているから、アイディアを描くためにその動きも描かないとできない。だから、内容は口では言えないんだ」という言葉でした。映像的なんですね。

小林 そう。それに担当編集者を最初の読者だと思っていて、その読者を驚かそうとしているのに、次はこうなるなんて言ったら驚かせる意欲が失せちゃうでしょう。とにかく、若い漫画家たちにもそのぐらいの根性があったんです。編集者の陰口なんてする暇あったら、自分の描きたいことを優先してたし、それを描く力もあった。編集者の悪口ばっかり言ってる漫画家の漫画を実際に見ると、これじゃ言いたくもなるよなっていう漫画だったりするわけですよ。

増田 エネルギーの噴出先が違うんですね。

小林 でも、増田さんのこの本もすごいよ。牛島、木村、岩釣という師弟が架空の人みたいだけど、ほんとにいたんだもんね。面白かったのは、木村政彦の不良ぶりを丁寧に書いてること。すごく人間臭さを感じて、もちろんお会いしたこともない、雲の上の人なんだけど、ちょっと親しみを持てましたね。

増田 好きなんですね。厳しさの中にある笑いが。なんでそういったエピソードを皆が覚えているかっていうと、厳しい練習の合間にそういうくだらないことがあったから、やたらとそこが光り輝いて思い出になってるんですね。きっと練習がなくて面白いことばっかりやってたら、記憶に残らなかった。2部練習で、またこの濡れた道衣を着るのか、っていう辛さの記憶と交互にあるから立ち昇るんですよね。

小林 ああ、そうかもしれないね。あとは集中力だね。いきなり岩釣兼生から入るじゃないですか。それがラストにつながっていく。すごく時間のかかった連載でその間、ずっと出だしからラストにつなげ51R4J5BewULる集中力がすごいなと。気持ちを切らさずそこに持っていくわけだから。

増田 『柔道部物語』でもさっきのラグビー部に入る選手のことを最初に伏線を打っておいて後の対決につなげてますよね。きっとそこなんですよね、物語をつくる力って。伏線を置くことを怖がる人もいるけど、その集中力とスタミナを、小林先生も僕も柔道で培ったのかもしれませんね。

小林 そうだな。その胆力をどうつけるか。『柔道部物語』って『What’s Michael?』と同時に連載していて、あんまり大変だったから、ちょっと仮眠と思って横になると、目の前にすぐ柔道衣が出てくるんですよ。目をつぶっても柔道衣ばっかり出てくる……。ずっと『巨人の星』や『あしたのジョー』はどうやって週刊誌のスケジュールで書いてたんだろうと不思議だった。きっと何か仕掛けがあるんだろうと思っていたら、自分がプロになって、仕掛けなんてないと分かった(笑)。 ただ、当時編集者に言われたんだけど、原作者の梶原一騎先生って何本も連載持ってるわけでしょう。そして1本の漫画の中にもものすごい数のキャラクターがいる。それ全部ぶら下げて、全部引き連れて梶原一騎は歩いてると。あの人はものすごいパワーだって言ってたね。

増田 たしかにすごい。そのイメージを実生活の中で引き連れて歩いてるんですよね。そのキャラクターが残り3割のところで何をやるか、ラストに何をやるのかという変わっても行くけど、イメージできてないと途中で消えちゃうんですよね、頭の中から。だから常に一緒に生活してる。

小林 完璧に把握してないと成長させられないんだ、キャラクターっていうのは。ボンヤリとしてちゃ駄目なんだよね。こいつはどんなやつって完璧に把握してないと。それが1本の作品の中に何人もいて、梶原先生はそれをさらに何本も持ってた。もうやっぱり化けモンだなと。それに、少年誌だけど、子どもに媚びてもいないんだ。増田 子どもってすごく感受性が高い。手塚先生や梶原先生の漫画って、今思うとけっこう大人向けに描いてるんですよね。青年誌がなかったから、当時の少年誌って、大人も小学生も一緒に読んでた。小林 あの『空手バカ一代』で「力なき正義は無力なり、正義なき力は
暴力なり」なんて深い言葉が、少年漫画に載っていたんだから。学校は正義が一番大事だって教えるけex-image.phpど、梶原先生は力もなきゃ駄目なんだっていうのを付け加えてくるわけじゃない。それは子ども心にも残るよね。こっちも読むときの集中力が違う。単行本を買う金はないから俺『、あしたのジョー』なんて『少年マガジン』の連載でしか読んでないんですよ。1回しか読んでない。でもほぼ暗記してる。集中して読んでるから。

増田 『巨人の星』とか『あしたのジョー』を当時、手塚先生が見て、これの何が面白いのかわからないって言ったそうですね。手塚先生には梶原先生ののびのびしたストーリーがなぜ受けるのか理解できなかった。

小林 小学生にとっては、『巨人の星』を読めばもう野球選手になるしかない。野球やって下手みたいだなって気付いたら『、あしたのジョー』がヒットしはじめて、ボクシングやるしかないって。

増田 そうやって『空手バカ一代』でも空手をする人が全国に広がった。ほんとに漫画が世界でしたね。世の中を変えてしまう力がある。

小林 柔道部に入っていたときに梶原先生が『柔道讃歌』って漫画やってたんだ。これは何としてもヒットしてほしいと思ってた。そうすりゃ部員も増えそうだって。だけどあんまりヒットしなかった。

増田 アニメになりましたよね?

小林 なったけどイマイチだった。部員としては柔道の漫画がヒットしてくれたら嬉しいよね。

増田 それでも小林先生が『柔道部物語』で多くの柔道家・ファイターを生んだわけですから。空気投げは出てこないけど、練習後に歩道橋をガクガクになった足で下りるシーンは出て来る。スポーツ漫画をリアルに描いても面白いんだって、小林先生が示してくれた。

小林 実際、練習後はそうだったからね。

増田 ところで先日、あらためて調べたら、梶原先生が亡くなったのは、50歳なんですよ。いまの僕と同じ歳なんです。

小林 えっ、そんなに若く……。

増田 手塚先生は60歳なんです。それを改めて見たときに、若くして亡くなっていった人たちができなかったことを、自分は生きてるんだからやんなきゃって。自分の能力を出し切らないと申し訳ないなって思ったんです。

小林 この本もたぶん……、木村さんが書かせたんだと思うな。

増田 そう思いますね。でも、ほんとにちょっとした日常生活とか仕事とかであっても、木村先生にずっと助けてもらってるような気がするんです。

小林 その気持ちはわかりますよ。俺も『青春少年マガジン』を描いてるとき、大和田さんと小野さんが見てるかなって、感じて描いてたから……。

増田 今回の『女子柔道部物語』も、いろんなものが動かしてくれてるってさきほど仰いましたけど、スクリーンショット 2021-06-11 4.17.54主役のモデル、恵本裕子さんが偶然、近くに住んでおられたと。

小林 歩いて1分ですよ。

増田 柔道の神様が動かしてるとしか思えないですよね……。

小林 そうとしか思えない。俺はもうほんとにね、引退してたんですよ。だって梶原先生は50歳で亡くなってるんでしょう。俺ももう58だしね。昔の基準でいえば定年。人よりも早めに始めた(※講談社漫画賞少年部門を史上最年少の23歳で受賞)から、書きたいものもないし、きれいさっぱり引退してた。それが、突如として恵本さんが目の前に現れて……。

増田 どちらでお知り合いに?

小林 フェイスブックで。よく面白い投稿してる人なんですよ。そしたらなんか見覚えのある景色が出てくる(笑)。よく見たら近所どころじゃない距離だった。聞けば、引っ越してきたという。それで、お会いしてこちらはオリンピックの話を聞きたいんだけど、ほぼ話してくれない。何とか聞き出していくうちに、こっちが想像するよりオリンピックってすごいなって。世界選手権とも全然、違う。中でも金メダルを獲る人の迫力は抜けている。そこに表の柔道のすごみを感じたんです。

増田 以前『ゴング格闘技』で『超二流と呼ばれた柔道家』という、古賀稔彦のライバルの物語を書いたのですが、古賀のように数々の一流選手の屍の上を踏みしめて歩くプレイヤーが五輪にはいるんですよね。まさしく百獣の王のような選手が。

小林 戦国時代の真剣勝負なら、三百何十人殺してるという塚原卜伝のような存在かもしれない。『柔道部物語』では、その後の三五たちでオリンピックを描くほどの知識がなかったし、感覚的に全然分からない世界だから描けなかった。でも、今回は描けます、本人がいますから。

増田 一般の人が知りえない、新たな柔道のリアルが読めるわけですね。

小林 柔道が強い人の何が強いのかというね。恵本さんも岩みたいに動かないんだ。俺より体重軽いのに何で動かないんだ? って。

増田 道場で実感されたのですか?

小林 旭川行ったときに柔道衣を着たんで、ちょっと組んでやりましょうなんてやったら……、もう五十嵐先生とやってるような感覚だったね。技はかけていないのに、頭を上げられない。上げたらもう立ってらんないだろうから、腰を引くしかない。女性に対して、あれほど太刀打ちできません感はめったにないですよ(苦笑)。

増田 恵本さんは旭川南高校でしたね。進学校ですよね。

小林 そうです。柔道的にいえば東海大相模とか世田谷学園とか天理とかの名門ではない。でも地方の公立高校なのに、オリンピックと世界選手権で金メダリストを4人(恵本裕子、上野雅恵、上野順恵、佐藤愛子)も出してるんですよ。

増田 当時の旭川南は高校から柔道を始める選手がほとんどだったんですよね。

小林 不思議ですよね。部員が百人いるような部でもない。ただ、よそと違うなと思ったのは練習量。719g7oW4SEL練習量が聞いてて信じられないぐらい長いし多い。それなのにあんまり体育会系、柔道部っぽくない。あの時代にしてはそうとうあか抜けているんです。中野政美先生の指導と……きっかけをつくったのは、やっぱり恵本裕子なんですよ。あの人がまず育った、そこの空気をつくっちゃった。だって、あの練習量で楽しくてしょうがなかったって言うんですよ。

増田 なるほど。そのあたりがこれから明かされていくわけですね。

小林 楽しみにしていてください。それにしても今日は「日本柔道人口100万人計画」の対談というくらい、柔道について熱く語りましたね。

増田 ほんとにこの対談を機に日本の柔道界全体が盛り上がって、100万人に柔道をやってほしいですね。大山倍達先生が『100万人の空手』を打ち出したように、柔道衣を持って歩いてる小中学生が街にあふれるぐらいに。そのぐらい楽しいものだから。
 
小林 そうだよね。フランスみたいにあか抜けた感じが日本もほしいね。これは恵本さんが言ってたんだけど「試合がしたくてわくわくしてた」って。こういう感覚、俺は持ってなかったな。試合が嫌で嫌で。そういう気持ちでやればよかったんだって、今は思ってる。増田さんは、今も柔道やったりしているの?

増田 柔術のジムで1年半ぐらい前から、週に1回か2週間に1回ぐらいですけど、体を動かしています。そうしたら古傷のヒザも曲がんなかったのが曲がるようになったり、腰の痛みもだいぶよくなったんです。柔術はほとんど寝技の展開ですから怪我の心配もあまりしなくていいですし。

小林 ああ、寝技のほうが怪我は少ないかも。なんか運動したいなと思ったら、柔術もいいね。ちゃんと真面目にやったスポーツって柔道しかないし。以前、柔術のジムへ見学に行ったら、みんなパッチつけて、楽し気にやってたな。

増田 柔道場で見かけるフルパワーの乱取りもあまりなくて、6〜7割で動きを楽しんでる感じです。

小林 年配にはいいね。

増田 あとは、大学のときと違って、参ったしたら離してくれる(笑)。

小林 柔道で不満なのは、柔道場が少なすぎることなんだ。普通のサラリーマンが会社帰りにちょっと汗流していこうという場所がほとんどない。柔道をやってるところはガチなところしかないじゃない。みんな学校出たらもう柔道をやる機会が無くなっちゃう。すごくもったいないと思う。スポーツクラブスクリーンショット 2021-06-11 4.38.33でも、健康のために何かやろうかなって見ると、合気道とかはあるのに、柔道クラスはない。

増田 昔あった町道場が地上げで随分なくなってしまった。都会は柔道場と銭湯がなくなったんですね。
 
小林 柔術の道場は増えてるけど、柔道場は少ないよね。やっぱりきちんとお金を払って、きちんと指導があって、経営できるようでないと。恵本さんのように、柔道の練習が楽しくて、試合にわくわくできるように、もっと柔道の魅力を伝えたいね。

──今日は長時間にわたり、『柔道部物語』『女子柔道部物語』の制作秘話や、柔道の魅力を語っていただき、ありがとうございました。格闘技界にとっても、子どもたちから大人まで幅広い層が柔道をやることで、あるいは柔術でもレスリングでも空手でも、ファイトスポーツをやることで、未来の格闘技に向けて大きな財産になると信じています。『柔道部物語』を読んでどれほどのファイターが生まれたか。これからは、新連載の『女子柔道部物語』から、新たな格闘技の魅力が伝わることを願っています。では、最後にお二方からも対談の結びの言葉を。

増田 こうやって憧れの先生に会えるのも柔道のおかげです。ほんとにありがたいです。柔道のおかげで今の自分があるって言う人、多いですよね。『柔道部物語』でも、最後に強かった先輩の鷲尾が警察官になって、三五と再会する。柔道を通って、次の世界へ行く、小林先生の作品のあの明るさがすごく好きです。僕も柔道に感謝と、恩返しをいろんな形でできればと思っています。

小林 僕は、これだけ柔道を愛している作家さんがいるってことがまず嬉しいです。この木村政彦の本に関してもここまで粘着質というか(笑)、徹底的にやってもらって面白いものをつくってもらった。こちらこそ感謝という感じです。『女子柔道部物語』では、あまり馴染みがなかった女子の柔道が、恵本裕子さんと知り合ったことで、興味をもって話を聞いたり取材してると、知らなかった分、新鮮なことばかりなんです。そのこっちが感じてる新鮮さが伝われば絶対面白くなるだろうと思っていますので、些細なことでも大切にして、面白いと思うところを描いていきたいと思います。ぜひ、連載を読んでみてください。今日はこちらこそありがとうございました。

“Yuki Nakai on the eve of Vale Tudo Japan Open 1995. ”

Yuki Nakai on the eve of Vale Tudo Japan Open 1995. 

              【written by Toshinari MASUDA

 

 

 It was noon on April 21st, 1995.

 I was at a Zen temple of the Soto sect in Tokyo for the ceremony of Kanyuu Yoshidas first death anniversary.

 Yes, it was the day after I watched the legendary Vale Tudo Japan Open 95 at the Nippon Budokan.

 I thought that Yuki Nakai would be there, but there was no sign of him.

 Looking back, he had woken up in the morning and realized he couldn't see out of his right eye, so he went to the hospital and was shocked to hear that he was going blind.

 In addition to manager Makoto Iwai and the coaches, dozens of young alumni of the Hokkaido University Judo Club from all over Japan, including Sapporo, Osaka, and Fukuoka, gathered at the ceremony and those of us who watched the match were bombarded with questions.

What was it like against Gordeau?”

"How did Nakai fight? ”

Is Rickson that strong?”

 The monk must have been listening bitterly behind his back as we talked during the sutra reading. But I spoke politely, thinking that Kanyuu Yoshida would want to know the details of the game.

 The other alumni must have felt the same way.

 At first, they were reserved and whispered, but eventually they got excited and became louder than the sutra reading.

 I think Yoshida was the one who wanted to see this match the most, and Nakai wanted to show it to him the most.

 That's why I wanted to let Yoshida hear it. Nakai's courageous battle. Nakai really did his best

 On that day, Yuki Nakai was in the ring with the souls of the two men on his back.

 

       * *

 

Nakai immediately dropped out of Hokkaido University after finishing the final Nanatei-Judo tournament in his fourth year and proceeded to professional shooting (later known as “professional shooto”) . This was in the summer vtjof 1992. Three years later, he participated in the Vale Tudo Japan Open 95, and in those three years, he lost two important men.They were Nakai's rival, Taisuke Kai (captain of Kyushu University) and Nakai's close friend, Kanyuu Yoshida (captain of Hokkaido University). 

Nakai, who was vice-captain of Hokkaido University, was with them at the height of the Seven-Imperial Universitiy judo(Nanatei-Judo) era.

 Taisuke Kai of Kyushu University was an incredibly strong man. He was probably one of the best ground fighters in the Japanese weight class at the time.

 No one could stop him because he was 110 kilograms but he fought on the ground like a lightweight. Nanatei-judo is a 15 vs 15 team elimination tournament where the winner of the round stays to fight the next opponent. Therefore, Kyushu University would place the weakest player in the club as the 15th player and have Kai would be the 14th. Then, he would bring victory to Kyushu University by annihilating all of the players left on the opponent’s team, whether there were 5 or 6 of them left. Yuki Nakai was the only one in the seven universities who could stop him for sure.

 Kosen judo(the predecessor of nanatei-judo) before the war also produced many famous players such as Masaru Hayakawa, Chikao Nogami, Masahiko Kimura, and Mitsuo Kimura, but Kai may have been the strongest player in postwar Nanatei-Judo history. Niwa Gompei (former president of the Kyoto University Judo Club), who coached the Kyoto University Judo Club for a long time and has written a major book on the history of Nanatei-Judo, also said "I think Kai is the strongest in history.”
 
 Kanyuu Yoshida, on the other hand, was small but a man full of fighting spirit. He was behind Yuki Nakai in the precision of his ground fighting, but was superior in terms of his overall strength, including his throwing techniques. However, when he took off his judo-gi, he was a good looking man with a bold smile.

 When he first entered the club, Yoshida was opposed to the club's policy of focusing on ground fighting, but he was inspired by the tears his seniors would show at each of the Nanatei-Judo matches, and by the time he became captain, he had grown into a man who seemed to be the epitome of the spirit of the Hokkaido University Judo Club.

 When Yoshida passed away, I visited his home a few days late to pay my respects and offer incense. I remember how painful it was for me to hear his mother say, "I feel as if the Hokkaido University Judo Club has taken Kanyuu from me…” That is how much he was absorbed in the Hokkaido University Judo Club.

 I am three years above Yuki Nakai, Kanyuu Yoshida, and Taisuke Kai. In other words, I was in my fourth year when they were in their first year. At the time, Kyoto University was on a winning streak. Hokkaido University, on the other hand, was in the worst possible situation, having been in last place for five consecutive years.

 Our desperate efforts to strengthen the club over a long period of time finally bore fruit, and during our year, we got third place, the following year also took third place, and when Nakai and his club were in their third year, they finally defeated Kyoto University, which had won ten consecutive titles in the semifinals. However, Kyushu University, with their monster Taisuke Kai, was waiting for us in the finals.

 The fight could not be decided in both captains decisive match, and it lead to a representative match.

 Kyushu University, of course, would bring out Kai. Hokkaido University brought out fourth-year vice-captain Yasutomo Goto, a huge man of 128 kilograms who had stopped Kai in the second round. Goto was at a disadvantage standing up, so he pulled Kai into ground fighting and worked on his legs from underneath, but Kai soon got one leg over him. Goto was defending himself with a half guard, but Kai choked him out by changing the posture to a cross choke.

 In 1992, Yuki Nakai, Kanyuu Yoshida, and others who had become the most senior students, took countermeasures for a year under the slogan of "defeating Kai. They battled Kyushu University in the first round of the Nanatei-Judo tournament and Nakai defeated Kai as planned, leading to victory with one man left behind. They met again in the finals after Kyushu University won the repechage bracket and defeated them again to regain the championship banner for the first time in twelve years.

 Taisuke Kai had been practicing hard for his fifth year against the Tournament to get his revenge against Hokkaido University, but died of acute pancreatitis at the short age of 22. Kanyuu Yoshida followed him and passed away at the age of 24.

 Young passion collided on the stage of the Nanatei-Judo war, and then burst apart. ......

 I was a member of the editorial board of the "History of the Hokkaido University Judo Club" dfad8f52-spublished in 2010 to commemorate the 100th anniversary of the founding of the club, so I was able to read Yuki Nakai's contribution at home when it was in the manuscript stage.

 As I read it, I couldn't hold back the tears that welled up in my eyes.

 The reason is that the memories of Kanyuu Yoshida were written in Nakai's typical gentle and unhurried style.

 

<<I'm remembering something from the spring of 1991. Or was it early summer?

 On that day, I was alone with my classmate Kanyuu Yoshida after practice (for the first and last time) at a public bath (for some reason, I actually rarely go out alone with someone).

 I was in my third year at the time, and I was frustrated. Nishioka-san and the other senior members who were in their fourth year also seemed to be in pain. I was proud that I was taking over a traditional club (Masuda's note: the club won the Kosen-Judo Tournament in 1934) that had once won the national championship. However, even if we wanted to, the reality was that we couldn't make it happen again because we lacked the strength. Everything seemed so far away.

 Soaking in the bathtub, we talked endlessly about what we should do. Yoshida seemed to be a little surprised. Perhaps he thought I was not very pessimistic about the current situation. No, it wasn't pessimism, it was just a desire to cry. Yoshida accepted me positively, as I had been thinking of betting on this club until the seventh game of my fourth year. I was so relieved that I turned off my negative thoughts.

 As a result, I finished as the runner-up that year, which was as close to victory as possible. Nishioka's seoi-nage is still burned into my mind. In the fall, I played in the individual tournament as a backup for Yoshida, and unexpectedly got a ticket to the Shoriki Cup. The next year we succeeded in winning the cup back. Then I left Hokkaido University.

 More than 15 years have passed since then, but I am still asking myself the same question. Stand-up or ground fighting. Martial arts or sports. To live or to die. It has become my life's work to 99758c5f-ee79-4812-a704-0e7aba78b4f1ask the world what they enjoy about fighting and its meaning. Even now, my time at Hokkaido University is a good memory for me." (History of the Hokkaido University Judo Club in Commemoration of the Club's 100th Anniversary)>>

 

 As the text says, "I was thinking of betting on this club until the seventh game of my fourth year ......," Nakai had probably already made up his mind to go to shooting in his third year.

 I first met Yuki Nakai in early April of 1989.

 As a fourth-year vice-captain, I was struggling with my clubmates to find a way to avoid being last place for five years in a row.

 At that time, there was no trace of the Hokkaido University who was always listed as one of the candidates to win the Nanatei-Judo Tournament with a lineup of heavyweights coming from national level high schools, and when they were able to compete on equal terms with the top universities in Japan in the Kodokan Rules championships. (a seven-man tournament to determine the best college player in Japan)

 Legend has it that an alumnus of the University of Tokyo wrote the following when Hokkaido University was strong.

Hokaido University is a university with a low admission difficulty level, where even judo idiots who've been doing nothing but judo since high school can enter, so it's no surprise that they won.”

 I looked for this text in the club room several times when I was an active member, but I couldn't find it after all, so I don't know if it actually existed. However, the fact that such a legend exists shows how strong Hokkaido University used to be.

 In order to get out of the rut of being in last place, the club leaders each year continued to devise various ways to improve and even increased the amount of practice to the utmost limit, but they just couldn't win and continued to be in last place.

 It was a vicious cycle.

 The most important thing was to increase the number of club members anyway, but no matter how many they brought in, new students quit because of how difficult the practice was.

 The Battle of the Tournament, a battle of fifteen men, is a war of combined power. Number is power. The clubs strength would not improve unless the competition for the starting members became fierce. At any rate, we had to bring in new members one way or another, even if it meant deceiving them to enter and have them train.

 During our time, it was impossible to even think about defeating the invincible Kyoto University and suddenly winning the championship.

 The first thing we had to do was to get out of the bottom of the standings. Then, in order to realize our dream of winning the championship for the future, we needed to increase the number of members in the club and find a man to be our core and entrust this dream.

 It would be a man with a strong will to win, not because of his achievements in high school or his physique.

 In the Nanatei-Judo, which is centered on the art of ground fighting, it is impossible for a competitor's ranking to remain unchanged from his first year until his fourth year.

 You will nver know who will grow until they actually try.

 That may be the most fascinating aspect of Nanatei-Judo.

 I don't think there is anything more exciting ...... where you don't know who will be stronger in four years, a heavyweight athlete who won a top prize at an all-national high school tournament or a thin white belt boy with no athletic experience until high school.

 That day, we were gloomily engaged in a prolonged ground fighting brawl, as usual.

 All of us were injured in some way, but we couldn't just sit around and watch.

 The Battle of the Tournament was coming up in three months. We had to train the players who could become our weak point.

 As I was holding down one of our younger players and giving him a pep talk, I met eyes with Hiromasa Tatsuzawa, the captain of the club, who was also holding down someone next to me and yelling, "Pretend this is the actual match and break loose!

 Then, Tatsuzawa pointed with his chin as if to say, "Look over there.

 It was in the direction of the dojo entrance.

 I twisted my head to look and saw one of the first year observers sitting on the workout bench.

 But that was not what Tatsuzawa wanted to point out.

 Next to the first year observer, Takahiro Naga, a first year who had just joined the club, crossed his arms and was giving a lecture. Naga was the captain of the judo club at Sapporo Kita High School, so he had often come to Hokkaido University for training since his high school days. So, even though he was a first-year student, he seemed to be explaining the club to the visitors as if he were a senior.

 I looked into Tatsuzawa's eyes and nodded.

 I knew what Tatsuzawa wanted from me. That's what it's like to be a comrade after four years of hard work.

 I released my hold when the signal was given for the "randori change," gave my opponent a final bow, and immediately went to Naga.

"Naga, is this a first year?

 I asked knowingly, wiping sweat from my face.

"Yes. This guy was my classmate at Kita High School, and he was the captain of the wrestling team.”

 The first-year visitor stood up with crisp movements and bowed his head, "My name is Yuki Nakai.

 When I held out my right hand and said, "I'm Masuda, fourth year," Nakai grasped it firmly in return. He didn't break eye contact. He was a strong man, and I knew I wanted him in the club.

"As you can see, we don't do normal judo. It's all about ground fighting. Players with a wrestling background will grow. When I was a freshman, there was a fifth-year senior who started as a white belt in wrestling and ended up being the strongest. Have you decided to join yet?

No, it's …” Nakai said and scratched his head.

 I later learned that Nakai was planning to join the Kyokushin Karate Hokkaido branch dojo, which was located in front of the main gate of Hokkaido University at the time.

 He had heard that the judo club was a special kind of club that was all about ground fighting, so he just came to take a peek. Since he had done kumite in high school, he wanted to learn striking in college. He already had mixed martial arts (MMA) in his mind. In his mind, the idea of mixed martial arts (MMA stands for mixed martial arts, which allows throwing and sleeping techniques such as judo and wrestling, as well as striking techniques such as karate and boxing) had already sprouted.

I see. Well, watch us practice.”

 With that, I decided to start with what Tatsuzawa was asking me to do.

"Good. Naga, Let’s practice.”

"What? Me?

 Naga bowed his head happily, saying, "Yes please. He seemed to be proud that he had been asked by name to do a randori with a fourth year in front of his high school classmate.

 Normally, I would move to the middle of the dojo before starting the randori, but I started grappling with Naga right in front of Nakai. I then gave him a pretty hard flying armbar. Naga screamed and slapped my hands. I quickly let go.

 When Naga stood up, he tilted his head and crossed his arms. When he was training with us as a high school student, I was going easy against him, so he had been held down by me but never been submitted. As soon as I had one hand on him, I gave him a near-illegal armpit hold this time. Naga again shouted, "Ouch!” and slapped the tatami.

 Nakai leaned forward to watch. The eighteen-year-old's eyes shined with curiosity.

 From that point on, I didn't let Naga stand and continued to use locking techniques. I used as many 吉田寛裕と中井祐樹flashy techniques as I could to attract Nakai's attention, such as ude-juji, ude-garami, triangle to ude-gatame, and even omoplattas, which I didn't know at the time had a name on the other side of the world.

 At the end of the six minutes, the signal was given to switch.

 Naga gave a last bow, wobbling unsteadily. He sat down next to Nakai and tried to rest. But then came Tatsuzawa.

"Oh, Naga-kun. Is he a first year?

 He asked the same thing I did. I smirked and looked sideways at him.

Oh, yes. His name is Nakai, my classmate from Kita High School. Hes from the wrestling club.”  Naga said, breathing hard.

"Oh, wrestling. Sounds like hell grow.”  Tatsuzawa smiled happily.

I'm Tatsuzawa, the captain. Nice to meet you.”

 When Tatsuzawa held out his right hand, Nakai grabbed Tatsuzawa's hand back with both hands, this time with a look of obvious longing in his eyes.

 When Tatsuzawa said, "Join us," his attitude became quite positive, "Yes, yes.

 My eyes met Tatsuzawa's.

 I said with my eyes, "We're almost there," and Tatsuzawa replied with his eyes, "Leave it to me.

 Tatsuzawa said. "So, Naga, do you want to practice with me, too?

 Naga pulled away with a "What?. He had realized our intentions. But there was no way he could run away now.

Okay, come on. “ As soon as Tatsuzawa paired up, he pulled Naga into a ground fight and flipped him over, and from there demonstrated more techniques than I did.

 He strangled Naga with a lateral triangle, then loosened the technique each time Naga tapped. He then used locking and strangulation techniques in each direction Naga tried to get away.

 Tatsuzawa didn't throw him since he was still a new student but Naga kept screaming in pain and agony. Front triangles, back triangles, and all kinds of ude-garami patterns.

 Nakai leaned forward so far that half of his buttocks fell off the bench, excitedly mesmerized by the array of techniques.

 At the meeting after practice, Nakai declared, "I'm joining the club!

 My retirement match against the Tournament was held in the middle of July, so I overlapped Nakai's active period by only three months.

 I must have done thirty or forty randori with Nakai, but I can only remember one.

 At that time, we were busy training the second and third year players, who would be the thirteenth, 中井祐樹fourteenth, and fifteenth members of the tournament and so a randori with a first year player was not at all important. Moreover, Nakai was still a white belt.

 However, there is a reason why I remember only one randori with Nakai.

 He threw me.

 I can still clearly remember the scene and feeling of that moment more than 20 years later.

 It was an ura-nage.

 No, it wasn't an ura-nage. It was a backdrop in pro wrestling, or a back throw in amateur wrestling.

 If it had been a ura-nage, I wouldve avoided it, no matter how much I let my guard down.

 It was a backdrop, so my timing to avoid it was off.

 Then, with a bridging backdrop, I was slammed backwards headfirst into the tatami.

 I stood up, laughing in embarrassment.

 That's where the problem began.

 As I stood up, Nakai said, "Okay! and Nakai was already waiting for me to grapple with him.

 He was in a semi-crouching pose, with his arms firmly by his sides, and hands open like an eagle trying to catch its prey.

 It was a wrestling stance.

 The look on his face showed that he was wanting to throw me again.

 Normally, a first year white belt would not have this attitude towards a fourth year.

 Of course, there was no such thing as meaningless hazing in the Hokkaido University Judo Club, but it was still a martial arts club. You knew that if you do something, you will get it done back to you many times over.

 Even if you are a very strong third year whose strength is on par with that of a fourth year, you will often become scared and mentally withdraw after winning over someone. I was the same. This was of course the case when I was a junior student, and even after I became a senior student, I tended to be scared and mentally withdraw after winning over a higher ranked player in a training session.

 From the time he was a white belt, Nakai was a man who was not at all afraid of such things. He had an innate boldness that was not acquired through training.

 Three months later, after the last of the Nanatei-Judo Tournament in my fourth year, I dropped out of Hokkaido University to become a newspaper reporter. I was so busy that I stopped going to the dojo.

 However, by the fall of that year, I had started to hear rumors through the coaches that Nakai's ground fightingwas getting stronger and stronger. I was glad to hear it.

 In his second year, he had already overtaken his seniors to become a starting member in the Nanatei-Judo Tournament, and had been playing his part as a player who would fight for a draw with the strongest of opponents.

 At that time, there were about forty-five members in the club. Nakai, who started as a white belt, was able to join the fifteen-member club after only one year and three months of training, which was an amazing improvement in his ability.

 In his third year, he became a full-fledged ground fighting master who could use his legs from below, and in the final match against the Tournament, he flipped an opponent who was ranked third in the national high school tournament from below and easily subdued him by binding his arms from the side triangle.

 He also won the preliminary round of Hokkaidos individual tournament under international weight rules by utilizing his ground fighting, and finished in the top 16 of the Shoriki Cup (intercollegiate tournament) by doing the same. This was the best 16 because it was under international rules, but if it had been under the Nanatei-Judo rules, where there is a pull-in and no waiting or stalling for a ground fight, he would have ranked much higher.

 It was hard to believe that Nakai had started as a white belt in college, but he had grown into a monstrous ground fighting master.

 Of course, compared to the current Nakai, who has become a top-notch Brazilian Jiu-Jitsu practitioner, his skills were obviously lower, but it is safe to say he definitely had the highest level of ground fighting techniques in Japan at the time when Brazilian Jiu-Jitsu had not yet entered the country.

 Coach Yoichi Sasaki, who has been coaching the Hokkaido University Judo Club for a long time, once shared with me the secret of how Nakai became so strong in such a short time.

After night practices are finished, those who are dedicated stay behind to study techniques, do a thousand push-ups, and weight training. The guys who did that all got stronger, didn’t they? If you work hard, you will naturally get stronger. But Nakai didn't do any of those things. That's why he became much stronger than those guys.”

What was he doing?”

"Lying on his back in the middle of the dojo, stuck there for an hour, looking up at the ceiling.”

".........?

That's how much effort he put into his randori. He never cut corners on each randori. That's why he didn't have any power left to do any research or weights. I've seen nearly 200 fighters, and Nakai was the only one who would do that.”

How was his technique?

"He absorbs everything I teach him. And then he rearranges it to make it his own way. Then he would come back again and again, asking me to teach him more. He was very persistent. Eventually, I had nothing left to teach and he just rose to the top on his own.”

 In the summer of his fourth year, Nakai won his long-held dream of winning the Nanatei-Judo Tournament, dropped out of Hokkaido University, and moved to Yokohama to get into shooting.

 The older alumni were very opposed to the idea of dropping out of school to go into shooting, and I remember that Makoto Iwai, the coach at the time, and I were probably the only two people who actively supported it.

 There is a club magazine called "Hokkaido University Judo" published every year by the Hokkaido University Judo Club's Old Friendship Association (Alumni Association). In addition to students, alumni and instructors contribute to the magazine, and I'll pick up the part where Coach Iwai mentioned Nakai the year he and his fellows retired.

 

Nakai, the vice-captain of the club, started judo in college and has grown to become one of Hokkaido University's leading ground fighting masters. In his third year, he was the runner-up in the 71kg and under weight class, and at the All Japan Championships, he defeated a representative of the Kansai region in a ground fighting match, demonstrating that Hokkaido University's ground fighting can be used throughout Japan and under international rules.

 What makes him special is his guts and energy during practice. When the windows of the dojo were open, I could hear him shouting as we approached the dojo, and when the windows were closed, I could hear him shouting 日本武道館just as I opened the dojo door, and I would feel myself tensing up.

 At the departure ceremony in July, Nakai said, "Ill take on Kai this year." I felt his loyalty and enthusiasm for the team and the Nanatei-Judo tournament in his words, and our strategy against Kyushu University, which I was slowly putting together, was solidified.

 He dropped out of college in August to pursue a martial art called "Shooting. Some may ask, "Why? But it is a way of life, and I myself look forward to his future activities. (Hokkaido University Judo Published in 1992)

 

 Nakai himself, who had a part-time job and was immersed in Shooting practice, sent us this manuscript from Yokohama titled "Don't Look Back.

 

<<How are you all doing? I'm keeping myself busy with part-time work and practice. There are times when I feel like it's too much work, but I’m somehow pulling through. This is the last time I'll be writing the club magazine as an active member, so I'm a little nervous as I sit at my desk.

 The reason why I can look back on my three years and four months at Hokkaido University and say that they were wonderful is because of judo. Judo, to which I devoted almost all of my days, including 中井祐樹 2meals and sleep, and in which I became passionately devoted to; Judo, in which I learned what it means to create my own techniques and the joy of doing so; Judo (and the club), in which became the driving force (or standard, or antithesis) of my own way of thinking; and also Kodokan judo, Nanatei-Judo, I really felt that there were so many aspects of judo within me. Considering my devotion, the fact that we were able to win the Nanatei-Judo tournament meant that we had done what we had to do. That's why I'm here now. 

(Omitted)

 At the pep rally before the Nanatei-Judo tournament, a drunk Kabashima (Masuda's note: the next captain) told me, "I want you to do one more year (even though I know his next career path). But I replied, "It's easy for me to stay in the judo club" (Masuda's note: Nakai had to do another year in school, so he was eligible to participate in the Nanatei-Judo Tournament in his fifth year). I don't know if he understood my intentions, but I thought it would be better for me in the long run to leave the judo club and Hokkaido University, which had been a place where I felt at peace. That was all I was thinking. 

(Omitted)

 Thank you very much to my seniors, my 14 peers, and my juniors. Whenever I have a hard time, I will remember your words of encouragement and try to cheer myself up.

 Now, I'm off to the gym.

 I won't look back on the past anymore.

 Thank you. Bye.

              October 3

 

 Nakai was starting to run forward.

 However, in March 1993, just five months after Nakai wrote this article, he received the tragic news of the sudden death of Taisuke Kai of Kyushu University.

 It was acute pancreatitis, he was only twenty-two years old, and it was so sudden.

 The alumni of other universities also mourned the sudden death of a good man who had been practicing hard for the fifth year's game against the Tournament to defeat Hokkaido University.

 

 In April, I received a letter from Nakai.

 

<<It's getting warmer around here. How is everyone doing?

 It's been eight months since I started Shooting in Yokohama.

 And now, on Monday, April 26th at Korakuen Hall, my debut match has been decided as the first match of the day. (Doors will open at 6:00 and the match will start at 6:30 on that day.) It is thanks to your support that I have managed to get this far. I can't thank you enough.

 For me, this is the starting point, and I will continue to devote myself to achieving my goals. I look forward to your continued guidance.           Best regards,>>

 

 Normally, this is the time when one graduates from college and starts working. In that sense, his debut game was like a coming of age ceremony, a combination of graduation and new entrance ceremony.

 I couldn't make it to this fight because of work, but he did get a nice win over Hironori Noritsugi in 53 seconds. Two months later, on June 24, he won again with a heel hold in 1:36 of the second round against Masakazu Kuramochi.

 Three weeks later, I met Nakai at the Nanatei-Judo Tournament in Kyoto.

 Of course, Nakai also came to support the students as an alumnus.

 It may be hard to imagine from his current quiet vibe, but Nakai was quite excited to see the alumni at the dormitory after a long time. He seemed to be very excited.

 No, to be more precise- for me, who was rooting for Nakai's entry into Shooting in the first place; he didn't look like he was full of himself, but apparently thats what it seemed like to most of the other alumni, especially the heavyweights.

 He was talkative.

 He named some famous professional wrestlers and said, "If it's a serious match, I can easily win.

 Many of the alumni were snickering.

 At the time, the public knew next to nothing about the realities of professional wrestlers.

 I tried to lighten the mood by saying something like, "Try to put a heel hold on me to see how much it hurts. Nakai applied it with a lot of force. I screamed.

"How is it? It hurts, doesn't it?” 

 Nakai smiled with a friendly expression on his face.

 But I could tell the light behind his eyes was serious. Nakai wanted me to know what he was doing through pain.

 I knew he was being talkative because he was trying to inspire himself. The sport of shooting itself was still a lost cause.

"Shooting? What's the point of all those little guys messing around? They'll just get twisted to pieces by wrestlers.” The wrestling fans would say and laugh. 

 There were still a lot of people who thought wrestling was a serious fight.

 This was a time when the "wall of pro wrestling" was still that high.

 At that time, there was only one professional organization fighting against the ignorance of the public, and that was Shooting.

 Nakai's eloquence seemed to be an expression of anger at the ignorance.

 Even the alumni of Hokkaido University, who were supposed to have been judo competitors in the past, did not know much about it. In order to convey the truth to the average fan who has never experienced martial arts, it was necessary to overcome a tremendously high hurdle.

 Nakai must have felt as if he was running in the dark, even though he had left Yokohama alone to join the shooting team.

 He was aware that he was getting stronger, but he couldn't see the future.

 Of course, I'm not talking about financial stability or anything like that.

 Nakai is not a man who cares about such things.

 Rather, there was an impatience because there were no means of showing the truth to the ignorant public.

 At the time, the only fair ring was in shooting.

 However, there were no famous professional wrestlers who would get in that ring.

 The borderline between match-fixing and serious fights was determined by the balance of the fight money pile.

 However, as long as the fight money was determined by the amount of box office revenue, there was no way shooting could compete with wrestling at the time.

 The only reason why professional wrestlers were later forced to get up and lose in mixed martial arts rings such as PRIDE was because of the huge reversal in fight money.

 It was impossible for shooting, a serious competition, and mixed martial arts to gain public recognition and become viable on their own. There was no other way except to wait for some divine intervention.

 Nakai and the other shooters at the time were frustrated with the situation of having to rely on other people's help.

 After cheering at the Nanatei-Judo Tournament in Kyoto, Nakai and I took the same bullet train to go home together since we had time to spare.

 Nakai calmed down as we went from a place with many people to a space where it was just the two of us, and spoke calmly. I thought it was because he was only facing me, who was cheering for him to go to Shooting.

I heard Kanyuu Yoshida was also there for your debut.”

"Yes. With his parents. They said they really wanted to see this game, so they forced him to come along. I'm really grateful. I'm glad I was able to win in front of him.”

 At this point, Nakai had a slightly complicated expression on his face.

 I think I had a complicated look on my face as well.

 There was a sense of regret and sadness that Yoshida, who had been a man of fighting spirit and a symbol of cheerfulness, had somehow lost his mental balance and had to take a leave of absence from university, and that he could not even go to Korakuen Hall, which was not far from his parents' home in Tokyo, without being accompanied by his parents.

 There was a feeling of pain imagining the gloominess of Yoshida, who, as a close friend, or rather as the former captain, saying to himself, "I must attend Nakai's debut at any cost in spite of his condition.

 I could understand Nakai's feelings.

 Tatsuzawa, the captain during my time, fell into a situation like Yoshida's, and I wondered how I would feel if I ヒクソン2were in Nakai's position. The position of captain was a symbol and a source of pride for our clubmates. This feeling may be particularly strong among those who have been vice captains.

 Nakai said.

To tell you the truth, I couldn't help but think of Kai's face in the ring during my debut match.”

Kai, do you mean Kai from Kyushu University who died the other day?”

"Yes. I've been thinking about Kai ever since I got in the ring.”

............”

 On November 25 of the same year, Nakai fought a full five rounds against senior ground fighting master Asahi Noboru and lost by decision. It is not clear whether Nakai regarded this as a good fight or a disappointing one.

 However, just before this match, the shooters, including Nakai, must have started to feel the long-awaited divine intervention that could change the ignorance of the public.

 On November 12th, the first UFC was held in Denver, Colorado, USA.

 UFC is an abbreviation for "Ultimate Fighting Championship," but at that time it was not yet called UFC in Japan, but "Ultimate Tournament. Fights were fought in an octagonal ring surrounded by a wire mesh, with almost no rules and no gloves. Only biting, eye poking, and groin attacks were prohibited, and anything else was allowed, literally making it the “ultimate” martial arts tournament. The press release to the media used the extreme phrase, "Two men go into a metal net and only one man comes out," but the matches really turned out to be a brawl, with many injuries.

 The winner of this extreme one-day tournament of eight fighters was a skinny young Brazilian man named Royce Gracie, who was trained in a minor martial art called Gracie Jiu-Jitsu.

 At that time, it was said that if a karate fighter or a heavyweight boxer punched his opponent in the face with his bare hands, his opponent would die, and it was said that it was impossible to hold a match under a near no-rules condition. Because of this illusion, karate fighters and boxers were thought to be the strongest in actual combat. However, when the fights actually began, we found out that even if you get punched or kicked, you only bled and no one died, and rather, those with a background of Kumite-type martial arts had the advantage. In particular, this Royce Gracie won the tournament single-handedly with his very technical fighting style, keeping his distance from karate fighters and boxers, tackling them, and then taking them into a ground fight for strangulation and locking techniques.

 The martial arts media was all over the place, reporting on the details of the fight, writing about the authenticity of the fights (there was even a rumor of match fixing) and the behind-the-scenes details.

 In retrospect, the dawn of mixed martial arts around the world was just about to begin.

 After the new year, Kaiki Ichihara of Daido Juku participated in the third UFC event on March 11, 1994, and was completely defeated by a kata ha jime by Royce.

 The Japanese martial arts media was now thrown into utter confusion. 

 Kanyuu Yoshida passed away the following month, in April. He was twenty-four years old.

Why Yoshida, along with Kai…?

 The people involved were shocked.

 Perhaps Yoshida lost his mental balance because he was burned out from the tournament and lost sight of his goal.

 Or perhaps the sudden death of his rival, Kai of Kyushu University, may have been one of the triggers.

 But then, why couldn't we, as seniors, take care of him?

 I felt such shame continuously rising in my heart as well.

 However, it must have been Nakai, his best friend, who was the most shocked.

 It was during this time that Shooting invited Rickson Gracie, the brother of Royce Gracie, to participate in a one-day tournament called "Vale Tudo Japan Open 94".

 It was the 29th of July.

 Rickson, who is considered the strongest of the Gracie clan, was the strongest in the tournament. It proved what Royce had said, about his brother Rickson being ten times stronger than him. 

 But even more shocking was the fact that the two shooting aces, Kenji Kawaguchi and Kazuhiro Kusayanagi, were beaten full of blood by a striker.

 I heard a rumor that Nakai had been appealing directly to Satoshi Sayama before this fight, saying "Please let me fight! I can't say for sure since I haven't talked to him about it, but it was quite possible in his state of mind at that time.

 Satoshi Sayama must have begun to realize that he would have to rely on Nakai's ground fighting after these disastrous defeats of Kawaguchi and Kusayanagi.

 That's why he put together a match between Brazilian jiu-jitsu black belt Artu Kacha (a direct pupil of Royler Gracie) and Yuki Nakai at the September tournament, which was the first time it was held under the title of "Vale Tudo Access" and used the Vale Tudo Japan Open rules.

 Nakai fought through 8 minutes of three rounds and took it to a draw.

 This gave us a sense that he can do it

 Then, on November 7, he won by decision in a title match against Kazuhiro Kusayanagi, and rose to become the welterweight champion.

 This set the rails for Nakai to compete in the following year's Vale Tudo Japan Open 95.

 Nakai was the big gun for Shooting.

 However, as soon as Nakai's participation and the cards were announced, the media called out on the danger.

 His first round opponent was Gerard Gordeau, the runner-up for the first UFC.

 He was 198 centimeters tall and 100 kilograms. There was a difference of 28 centimeters in height and 29 kilograms in weight between him and Nakai, who was only 170 centimeters tall and 71 kilograms.

 When I heard that the opponent was Gordeau, I thought to myself, "This is a bit too much......"

 A few weeks before the game, I received a phone call. It was from Tatsuzawa, who had become a dam engineer and was working at a site in Chichibu.

Nakai is going to die in the ring.” he said.

 Apparently, Nakai is saying he might die in the tournament.

 Nakai must have told someone and it leaked from Makoto Iwai, the manager. Of course, I was planning to go to the tournament at the Nippon Budokan from the beginning, but this phone call made me think, "I definitely have to see him through until the end.

 His opponent was the ferocious Gordeau, who had done so much in the UFC. It's not just the size difference, hes dangerous. I didn't think it was going to be a win or lose kind of fight at all.

 On the day of the competition, I met up with two of my clubmates from the Hokkaido University Judo Club, Tatsuzawa and Matsui Takashi, and went to cheer him on.

 We got our seats in the front row of the second floor.

gg At first, I thought I would get the best seats at ringside, but then I thought it would be easier to watch the fight from above since it would be a contest of ground fighting. The first-floor seats were packed, and the ringside area was lined with celebrities such as sumo wrestlers Konishiki and Musashimaru, President Ishii of Seidokaikan, and Kyokushin's Tatsuya Iwasaki, but the second floor seats were 60% full, not quite empty, but not quite full.

I want to go to Nakai's locker room.” Tatsuzawa said as he brushed his bangs. It's his habit when he's getting nervous.

You can't do that. We’re not authorized.” My heart was already beating faster, too.

But I want to go out there and show him that we're watching, that we're with him.”

"Then let’s give him an encouragement award.”

"An encouragement award?

 I explained that it was something thats normal at boxing and other martial arts competitions, like a prize in sumo. It would be delivered directly to the players' locker room.

 I immediately bought an envelope, a ballpoint pen, and glue at the store. I put a 10,000-yen bill into the envelope, with the words "Encouragement Award, Yuki Nakai" on the front and "Hokkaido University Judo Club Alumni, Hiromasa Tatsuzawa, Toshinari Masuda, and Takashi Matsui" on the back. As I was about to seal it, I suddenly thought of something.

I wonder if I can find a piece of paper. I want to write a note.”.

"Is anything ok?”

 Matsui pulled out a receipt from a convenience store or something from his pocket. I took the receipt, wrote "Don't forget the spirit of Hokkaido University Judo Club" on the back, put it in an envelope, and sealed it. I had to hurry or the match would start. I went out into the hallway and told the part-time attendant, "Make sure you hand it to him. Before the match, I mean. Please.” I reminded him. It would be meaningless if it didn't reach him before the match.

 I stood up to use the bathroom again and again. The other two were also fidgety and restless.

 At the opening ceremony, all the competitors were lined up in the ring, but Nakai looked terribly small and poor.

 I wondered if the encouragement award had reached Nakai. We questioned each other several times. Is Nakai afraid? I was terribly nervous. 

I remembered him saying, "I couldn't help but think of Kai's face in the ring during my debut fight," and I wondered if Nakai was thinking about Kanyuu Yoshida and Taisuke Kai at that moment.

 Nakai vs. Gordeau was the second match of the tournament.

 I didn't pay attention to the first match. All I could think about was Nakai's match.

 Both men entered the ring.

<In the blue corner, the professional shooting welterweight champion, Yuki Nakai!>

 An announcement was made.

 Nakai responded by raising his right hand while re-chewing his mouthpiece several times. Not much cheering could be heard, even if we included ourselves. 

 On the other hand, when Gordeau was introduced, the crowd erupted in unison. Clearly, the crowd was expecting the brutality that Gordeau had shown in the UFC. It seemed that more than 80% of the crowd was made up of wrestling fans, as Rings Yoshihisa Yamamoto was also in the tournament.

 The bell rang.

 Nakai swings his upper body and goes for a tackle. He gets a hold.

Good!”  Tatsuzawa said.

3 However, Gordeau stayed back and held the top rope with his left arm to prevent being knocked down, and then held Nakai's head with his right arm. Nakai tried to put his left leg over the back of Gordeau's right knee to take him down, but he couldn't because Gordeau was holding the ropes.

Nakai, don't let go!” I shouted out.

 Immediately, the referee and the staff at ringside started talking about something. Then the referee said, "Stop! Thumbing! The referee raised his thumb and said, "Caution!” 

The 1st caution for Gerard Gordeau” When the announcement was made, the crowd erupted.

 By this time, Nakai's right eye had already been gouged out to the back of the eyeball by Gordeau's thumbnail.

 But Nakai remained silent and kept holding onto Gordeau.

 As we cheered from the second floor, we could see that there had been a thumbing, but we never realized that the damage was so severe that he would lose his eyesight.

 Nakai's mental strength was beyond human.

 The crowd's manners at the time were terrible. During this standoff, they said, "What are you doing? or "Don't keep hugging each other, faggots! and the other crowds would laugh. 

 The first round ended in the same position. Nakais second cooled the area around Nakai's right eye with an ice pack during the break.

 Nakai jumps out of the corner as the second round begins.

 Blood was flowing from Nakai's right eye.

 As Nakai went for a light front kick, Gordeau made a low right kick, and Nakai slid in to catch Gordeau's right leg and tangled both legs from underneath.

 Hes going for the heel hold.

 However, Gordeau grabbed the ropes with one hand again and pounded hard from above.

 The place was filled with cheers.

"Gordeau! Kill him!” 

 Each time Gordeau's fist struck down, the back of Nakai's head hit the mat with a loud thud, and fresh blood spattered from his right eye.

 The three of us kept shouting, "Nakai, run!

 But the whole place grew excited, and the crowd was filled with killing intent.

 The audience around us was also repeating some horrible heckling. 

"Just go ahead and kill Nakai!” A spectator behind me shouted.

"Hey, you guys, shut up.” The hot-blooded Tatsuzawa turned around and scoffed.

 The group of about five people who were watching were scared into silence, but after a while, they started yelling again. I don't think they ever dreamed that we were Nakai's seniors. That's why they didn't understand why Tatsuzawa was so angry.

Kill him!” The crowd behind me started shouting again.

Can you guys go watch somewhere else?” I turned around and said this time.

 They fell silent again.

 As I turned around to face forward, we could hear them whispering to each other and finally said to us, "You're the one who's being loud.

 At that moment, Matsui, who was sitting beside me, turned around, stood up and shouted Enough!. His face was bright red. Tatsuzawa and I had always been quick to fight, but this was the first time we had seen Matsui get angry, so we were surprised.

 The group was surprised by Matsui's ferocious behavior and finally clucked their tongues and moved to other seats as Tatsuzawa and I turned around and glared at them.

 The match had been horrendous.

 Another round of hard pounding by Gordeau begins.

 Nakai escapes from the ropes to the apron side. Still, Gordeau kept pounding away. Unable to watch, I looked away.

Its ok to give up now…” Matsui murmured bitterly.

 I felt the same way. All right, we get it Nakai I got your spirit well enough give up the fight

 The booing and heckling from the entire crowd only got worse.

"Don't move.”  The referee stopped both fighters and moved them to the center of the ring.

 The place was abuzz.

 They think that they will be able to see the cruel scene again. But from there, Gordeau stood and put his hands on his hips and didn't attack, while Nakai lay on his back and used his hands to say, "Come on!. It was like Inoki vs. Ali. 

 The heckling got worse again.

 However, Nakai didn't seem to care about that and kept inviting Gordeau to get on the ground with him, saying "Come on. Nakai's heart was not broken.

 The long, long second round was over.

 When he returned to his corner, Nakai's face was greatly swollen and his right eye was bleeding quite badly.

 While it was being cooled with an ice pack, Nakai's left eye kept looking at Gordeau in the red corner.

 Although what was in front of Nakai was fighting Gordeau; what Nakai was really trying to do was to flip over the ignorant world.

 I felt like Nakai was showing his eloquence and the fire in his heart- which I felt when I saw him in Kyoto, in the ring. Now, Nakai has the opportunity to express his fire not with words, but with his body. In between rounds, we talked about how Nakai must be enjoying this fight. I felt a little better when I thought about it that way.

 The match distastefully continued on and on. 

 The audience was beginning to get tired of the same storyline.

 But we were the only ones biting our teeth and trying to share the pain with Nakai in the ring.

 I was determined not to look away from the scene, no matter how cruel it was. It would be so shameful if we, the senior members of the team, turned a blind eye to Nakai's unrelenting fight.

 In the ring, Nakai fought endlessly for eight minutes of unrestricted rounds.

 Nakai grabs him by the tackle. Gordeau holds the ropes again.

"Nakai!” We kept screaming at Nakai, who held onto Gordeau, who was still holding the rope.

 However, the ring was too far away for our voice to reach him. I knew we should have gotten a ringside seat. Thinking that, I just kept shouting "Nakai! It was frustrating that there was nothing else I could do for him.

 In the fourth round, Nakai tackled Gordeaus both legs and pushed him into the corner.

 Gordeau is working for a front choke.

 It looked like it was working.

 But Nakai removed it as he slowly lowered his body and tangled his own legs against Gordeaus left leg.

 The crowd was buzzing with anticipation of another brutal pounding.

 But just as Gordeau was about to pound on him, Nakai applied a heel hold with all his might. I remember the scene as if it were yesterday, as Gordeau's upper body swayed and he slowly fell.

 Gordeau hit the mat.

 The shouts of the crowd in the Budokan turned into loud cheers.

 This was the moment when Nakai flipped the world with his own power.

 My mind went blank as I repeatedly shook hands with Tatsuzawa and Matsui.

 The opponent for the semifinals, Craig Pittman, was also a heavyweight weighing 115 kg. In addition, he is a former champion in the 130kg class of the U.S. Amateur Wrestling Championships, so it seemed to be more troublesome than the Gordeau match, but Nakai was able to secure a ude hishigi juji gatame from the bottom.

 The opponent in the finals, Rickson Gracie, fought in a way that seemed to pay homage to the smaller Nakai, who came into the finals with his face swollen severely. We were mesmerized by the two's smooth ground fighting battle.

 This tournament became the pioneer of MMA in Japan in the true sense of the word.

 It was indeed the Gracie family and the UFC that created the breeze.

 However, breezes only create big waves, and if there are no surfers who can ride the waves, they will just crash into the shore and disappear.

 It was because of Yuki Nakai, who was able to ride the huge wave created by the breeze in exchange for a death sentence of having his professional license revoked due to blindness in his right eye, that mixed martial arts was able to take root in Japan. Martial arts fans must never forget that.

 This is what literary editors and critics say to me. "Why are you writing about such a niche topic? Since you've taken the trouble to become a writer, you should write more entertaining novels and aim for the big crowds.

 The niche topic is my autobiographical novel "The story of the Nanatei-Judo," which is being serialized in the martial arts magazine "Gekkan Hiden.

 I don't know what to say to convince everyone, so I'll keep my mouth shut, but here's what I really think. To be clear, this is not a niche topic.

 It's a great story.

 It is a requiem for Taisuke Kai, who passed away at the age of 22, and for Kanyuu Yoshida, who passed away at the age of 24, after devoting all the energy of their youth to the team sport of Nanatei-Judo.

 It is also a requiem for "mixed martial artist Yuki Nakai," who lost two dear friends, pursued only strength, and disappeared after shining a brilliant light for just one day in the ring to overturn the ignorance and prejudices of the world.

 Until I finish the series and hand it over to Yoshida and Kai's parents in book form, my Nanatei-Judo battles will not be over. No, I don't think I'll ever be able to finish summing up the history of martial arts in Japan without it.

 If Nakai had entered Kyokushin Karate in April 1989 instead of visiting the Hokkaido Univeristy Dojo, he would not be where he is today. Even if he had moved on from Kyokushin to shooting, he would not have been able to beat Gordeau.

 On that day, a rare competitive fighter named Yuki Nakai happened to visit the Hokkaido University dojo, happened to join the club, met two good men there, his best friend Yoshida and his rival Kai, and fell in love with ground fighting. There is no doubt that this was the start of a huge trend in the current mixed martial arts scene.

 It's nothing short of a miracle, isn't it?

 If I don't write about this miracle, who will?


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東孝先生が逝去。集合写真を見て思うことなど。

大道塾の東孝先生が癌で逝去されました。

御存知のとおり、東先生は極真空手時代に全日本優勝を果たし、のちに大道塾空手を起ち上げて独立しました。大道塾ではつかみや投げを認め、スーパーセーフ着用での顔面パンチを取り入れて、当時の先進的な総合格闘技を模索していきます。

Azuma_Takashi


『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(新潮社)を評価してくださり、一夜酒席を持っていただいたこともあります。下の写真は大宅賞授賞式のものです。みんな笑ってます。左から吉田豪さん、板垣恵介さん、増田俊也、夢枕獏先生、東孝先生、松原隆一郎先生です。

格闘技界勢揃い3 2

時間が流れるのはわかっています。前から後ろへしか進みません。それでも人間は「時を巻き戻したい」と思うことがときどきあります。

古賀稔彦追悼『超二流と呼ばれた柔道家』を全文掲載。

ロンドン五輪のときに「ゴング格闘技」誌に発表した『超二流と呼ばれた柔道家』という短編があります。古賀稔彦を追って、最後に背負い投げで古賀を投げる堀越英範を書いた作品ですが、じつはこの作品を出したとき、中学の友人(柔道未経験者)から電話をもらいました。

「あれ読んで思ったのは、堀越がすごいというよりも『テレビでよく見ていた古賀ってこんなに強かったんだ』っていうことなんだ。どんだけ強かったんだよって思って震えがきた」

という言葉でした。

彼は柔道を見るのはせいぜい五輪くらいで、だからこそ、勝ち抜いてテレビに出ている古賀しか知らず、そのライバルたちが文字通り命がけで彼に挑んでいることなど知りませんでした。古賀は五輪うんぬんの前に、あらゆる予選でずっと勝ち続けていたのです。怪物でした。

『超二流と呼ばれた柔道家』という作品は、だから古賀を追った衛星たちの鎮魂歌ですが、その中心にある古賀という偉大なる男、つまり巨大な太陽を描いた作品でもあります。 

古賀さんへの感謝と、柔道のすごみを知って欲しいという気持ちで、しばらくネット上に『超二流と呼ばれた柔道家』を掲載します。ぜひ読んでください。

写真は左が現役時代の古賀稔彦、右が酒井英幸。酒井は沖縄尚学高校、筑波大学、自衛隊体育学校と、寝技師として一世を風靡した天才で、大学団体日本一を決める大会で小川直也と代表戦を戦い71kgの軽量で寝技に引きずり込んで互角以上に戦った。酒井は五輪を目指して古賀と対峙することじつに15回、しかし結局古賀には1度も勝てなかった。酒井だけではなく古賀を追って多くの怪物たちが挑んでいったが、古賀は頂点に立ち続けた。彼らライバルもまたあらゆる大会で強豪たちを寄せ付けぬ怪物ぶりを発揮していたが、その怪物たちを踏みしめて立つ古賀は、怪物のなかの怪物だった。

酒井



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超二流と呼ばれた柔道家
(文=増田俊也、初出「ゴング格闘技」)


【古賀背負われ沈む】
   【全日本選抜体重別柔道】
 アトランタ五輪の代表最終選考会を兼ねて七階級を行い、五輪2連覇をねらう八六キロ級の吉田秀彦(新日鉄)と七八キロ級の古賀稔彦(慈雄会)は明暗を分けた。吉田は右足の故障に苦しみながらも大会2連覇を達成したが、古賀は準決勝で堀越英範 (三重・名張高教)に背負い投げで一本負けする波乱があった。堀越は3年ぶり2度目の優勝。
 注目された中村3兄弟は、九五キロ級の長男・佳央、六五キロ級の二男・行成、七一キロ級の三男・兼三(いずれも旭化成)がそろって優勝した。3兄弟優勝は大会初。
 六〇キロ級は野村忠宏(天理大)が元世界チャンピオンの園田隆二(警視庁)を、九五キロ超級では真喜志慶治(警視庁)が小川直也(日本中央競馬会)を下して、それぞれ初優勝した。(産経新聞一九九六年四月八日付朝刊)

 堀越英範は、父にすすめられ、小さな頃から火木土は柔道場、月水金は剣道場通いする武道好きの少年だった。
 中学で柔道部に入ると、剣道場通いをやめて柔道ひとつにしぼり、激しい乱取りだけではなく毎日五〇メートルダッシュを五〇本やってフィジカルも鍛えぬき、中学三年で三重県チャンピオンになった。
 中学生としては図抜けた練習量を続けていたので、名張桔梗丘高校に進学したときもある程度の自信があった。
 だが、ある日、堀越の打ち込みを見ていた宮下豊師範に言われた。
「おまえ、そんな背負いじゃ駄目や。俺の天理(大学)の同期に野村ちゅうやつがおる。いま和歌山工業や。行って、教えてもらえ」
 堀越は素直に従った。
 宮下が言う野村とは一九七二年ミュンヘン五輪金メダル・一九七三年ローザンヌ世界選手権金メダルの野村豊和(野村忠宏の叔父)のことだった。かつて背負い投げの天才と謳われ、世界にその名を轟かせた野村豊和であった。
 五試合で実に七回も背負いを決めたミュンヘンでのオール一本勝ちは伝説になっている。

 野村豊和○合技(背負+背負)
          ワン
 野村豊和○合技(背負+袈裟)
          ドルバント
 野村豊和○合技(背負+上四)
          ザイコウスキー
 野村豊和○合技(背負+背負)
          ノビコフ
 野村豊和○一本(背負)
          ザイコウスキー
 
 堀越は柔道を武道と捉え、強くなることしか考えていなかった。柔道界のことには驚くほど疎い。堀越の興味は「柔道」であって「柔道界」ではない。だから柔道の過去の歴史に疎く、野村豊和という金メダリストの名前すら知らなかった。
 宮下先生が言うんやからすごい人なんやろ——。
 その程度の認識で和歌山工業高校を訪ねた。
 だが、目の前で野村の背負いを見て驚いた。
 速いのだ。
 あまりに速い。
 桁外れのスピードだった。
 現役時代のフィルムも観せてもらった。
 見えない。まったく見えない。背負いに入るや、影がサッと走り、相手が畳に叩きつけられている。それほど速い。
 ——俺もこんな背負いをやりたい。
 堀越の血流が速まった。
「教えてください!」
 野村は相好を崩した。
 その日から堀越の「野村教室」通いが始まった。
 野村の説明は論理的で一つひとつ段階をおっており、高校一年の堀越にも理解はできたが、肝心の体の方が教えられたとおり動かない。
 一般的に普通の背負い投げは相手の懐に飛び込んでかけるが、この野村式背負いは、自分は後ろに下がりながら相手を引っぱり出して投げる。野村は何度もゆっくり打ち込んで見せてくれた。真似てみた。うまくいかない。
 野村が「見ときいや」と目配せし、重量級の生徒との乱取りに入り、その背負い投げで軽々と畳に投げ捨てた。野村の体さばきはあくまで柔らかく、体のどこにも力が入っていなかった。まるで手品を見ているようだった。
 野村のもとに数カ月通ううちに打ち込みや投げ込みではどうにかできるようになったが、いつまで経っても乱取りで使えない。
 柔道の投げ技には一般に三段階の動きがある。
 ①崩し↓②作り↓③掛け
 この基本どおりに技に入れば、入った時にはすでに相手の体は死んでいるはずである。
 だが、この崩しはできそうでできない。
 野村が教える手首による崩しはあまりに繊細であまりに絶妙だった。
 パワーがある者はパワーで投げることができるので、本物の投技を覚えずに試合に勝ってしまう。欧州にはこのパワーがある選手が多く、世界の柔道はそれが主流になりつつある。しかし、野村の背負い投げは崩しを使った基本に完全に則っていた。手首を使って崩し、相手との間合いをとり、足の運び、引き手や釣り手のタイミング、すべてのディテールが実に細かく理論的に整理されていた。
「これが本物の背負い投げや」
 野村はことあるごとにそう言った。
「時間はかかるが、これを身に着けるのが強くなる最も早い近道なんやで」
 堀越は夏休みや連休のたびに野村のもとを訪れ、和歌山工業高校の合宿所に寝泊まりさせてもらいながら背負い投げの特訓を受けた。高校三年間、黙々と、愚直に通い続けた。
 野村教室は、堀越が天理大学に進学しても続いた。
 大学の練習が休みのときは、野村の家に泊まり込んだ。それでも体得できなかった。
「強くなりたかったらチューブ引きせいや」
 野村にアドバイスされてから、堀越は練習の後、どれだけ疲れていてもチューブ引きをするようになった。このトレーニングは、野村式背負いの完成の根幹をなすものだった。
 自転車のチューブを何本もより合わせて柱に結わえ、それを引っ張って一人打ち込みでフォームを固め、引き手を鍛える。
 イメージのなかで手首の返しで相手を崩し、背負いに入る。手首の返しによる崩し、完璧なフォーム、人間の目では捉えきれないほどの回転の速さが必要だと野村は言った。
 これを毎日左右千回ずつやって技の完成を目指した。途中から腕の感覚はなくなり、五百回を越える頃には意識が飛んでいく。朦朧としたなかで堀越は愚直にチューブ引きを繰り返した。
 ある日、堀越は野村に聞いた。
「この背負いを覚えたのは何人くらいおるんですか?」
「誰もおらん」
「………?」
「まだ誰もおらん」
 野村はこれまでに何十人もに指導を請われ、懇切丁寧に教えたという。だが、誰もこの背負いをマスターできなかったと言った。
 ——俺にそれができるのか……。
 堀越は思ったが、しばらくすると、かえって闘争心が湧き起こってきた。逆にいえば、この背負いを身に着ければ、野村先生のように五輪で優勝できるほどの強さになるんだ——。

 天理大学は柔道界の名門中の名門である。
 だから部員も高校柔道界の選りすぐりの強者たちだ。堀越のインターハイ個人戦ベスト16という肩書きは、天理大では名乗れば笑われるレベルだった。
 学生優勝大会(七人制で大学団体日本一を決める大会)近畿大会では京産大や近大、大体大などを軽く抑え、全国へ行っても東海大や明治大など東の強豪を倒して何度も日本一になっている。個人でも堀越の師である野村豊和だけではなく五輪や世界選手権の代表を綺羅星のごとく生み出している。
 
 前島延行(第五回世界選手権重量級銀)
 金義泰(東京五輪中量級銅)
 山中圏一(第四回世界選手権中量級銀)
 平尾勝司(第六回世界選手権中量級銀)
 笹原富美雄(第六回・七回世界選手権軽重量級連覇)
 湊谷弘(第五回・第六回世界選手権軽中量級連覇)
 二宮和弘(モントリオール五輪軽重量級金)
 呉勝立(ミュンヘン五輪中量級銀)
 川端智幸(第六回世界選手権軽重量級銅)
 野村豊和(ミュンヘン五輪軽中量級金)
 藤猪省太(第七回〜第十一回世界選手権中量級四連覇)
 細川伸二(ロサンゼルス五輪六〇キロ級金)
 高橋政男(第十一回世界選手権八六キロ級銅)
 正木嘉美(第十三回世界選手権無差別級金)
 野村忠宏(アトランタ・シドニー・アテネ五輪六〇級三連覇)
 篠原信一(シドニー五輪一〇〇キロ超級銀)
 
 思いつくだけでもずらりと並ぶ。
 このエリート集団の中で、堀越は伸び悩んだ。
 原因は堀越の生来の不器用さかもしれないし、あまりに野村式の背負い投げ習得にこだわりすぎてのことだったかもしれない。
 そのうち、堀越を抜いて個人戦(正力杯)や団体戦(優勝大会)に出場する後輩もたくさん出てきた。
 それでも堀越は、天理の柔道部の練習が終わったあと一人で道場に残ってチューブ引きをし、一人打ち込みを繰り返し、背負い投げのフォームの完成に没頭した。誰もいない道場で延々と練習し続けた。「これが本物の背負い投げや。時間はかかるが、これを身に着けるのが強くなる最も早い近道なんやで」という師匠野村豊和の言葉だけを胸に、地道で過酷な練習を続けた。
 堀越が道場を出る頃には畳はバケツを引っ繰り返したように大量の汗でびしょ濡れだった。酒も女も雑音でしかなかった。頭のなかには柔道のことしかなかった。背負い投げの完成しかなかった。
 堀越にとって柔道はスポーツではなく命のやりとりをする武道である。負けはすなわち死。ならば絶対の銘刀を持たなければならない。相手を必ず一刀両断する日本刀を。
 斬れるときは斬れるが失敗することもある——そんな刀では、殺されるかもしれないではないか。百発百中で相手を投げる背負い投げこそが必要なんだ——。

 堀越が、まだ一年か二年の頃だ。
 全日本強化合宿が天理大であった。
 強化選手のなかには、小杉高校から東海大学に進んでいたあの高波善行がいた。七八キロ級のトップの一人だった。堀越は走り寄っていって乱取りを所望した。
 ——同階級だからいつか試合をするやろう。
 そう考えてのことだ。
 現実には、高波はいつか五輪を狙いにいく超一流選手であり、堀越は個人戦の近畿予選にさえ出してもらえない無名選手だ。だから堀越が高波と試合をすることは、普通に考えれば、永劫ありえないことだった。
 しかし堀越は「勝負するときが必ずくる」と、大まじめに考えていた。だからその高波との乱取りでは、自分の開発中の武器である背負いは見せず、払腰などをかけながら相手の技を探った。師の野村から「どんな強い相手にも必ず弱点があるもんや。勝負のときにそこをついて勝機を見いだすんや。勝負のときのために徹底的に研究しときいや」と教えられていた。
 高波得意の内股で何度も何度も畳に叩きつけられた。高波の内股は高内股といって跳ね腰に近く、高く跳ね上げられるので堀越はふらふらになった。だが、その朦朧とする意識のなかで高波の内股を防ぐタイミングを見つけ、頭に刻み込んだ。実際に数年後に対戦したとき、堀越は高波の内股を完封し、背負いで投げ勝った。執念だった。
 古賀稔彦が天理大に来たのはその後の強化合宿だった。ソウル五輪(一九八八年)の前だったと記憶している。
 堀越が二年、古賀が日体大の三年だ。
 古賀はすでにスーパースターだった。
 世田谷学園高時代はチームを牽引して各高校大会を軒並み制し、個人でもインターハイの七一キロ級を連覇、一本背負いの師である兄の古賀元博(元博は岡野功に一本背負いを習い、それを稔彦に教えた)を倒し、世界選手権王者でロス五輪代表の中西英敏をも倒した。日体大に入ってからも、立ちはだかるライバルたちをことごとく一本背負いで畳に叩きつけ、国際大会でも連戦連勝していた。いくら柔道界のことに疎い堀越でも古賀の存在は知っていた。その古賀にとって堀越は“その他大勢”のゴミでしかなかった。
 堀越は「お願いします」と古賀に乱取りを所望した。
 組んだ瞬間、堀越は古賀の技のあまりの力強さに驚いた。古賀に背負われたと思った瞬間、高い位置まで一気に担ぎ上げられ、凄まじいパワーで畳に叩きつけられていた。何もさせてもらえなかった。
 ——強すぎる……。
 堀越はなんとかこの一本背負いを防げないかといろいろな方法を試したが駄目だった。いったん一本背負いに入られると、堀越がこらえようとしても強引に畳から引き抜かれ、天地が引っ繰り返って畳に叩きつけられる。これが超一流の技なのか——。
 だが、ふとした瞬間、堀越が手首でさばきながらパッと崩したら古賀がグラリとして膝を着いた。
 ——あっ!
 俺の背負いが完成さえすれば、古賀は投げることができる。 
 堀越はそう確信した。
 だが古賀は七一キロ級で、堀越とは一階級違う。このときは、まさか後に古賀が七八キロ級に階級を上げ、堀越と五輪代表を争って戦うとは夢思わなかった。
 古賀もまた「柔道の畳は戦場と同じ。細い糸の上での殺し合い」と考えていた。古賀の歩く道の後ろには同階級の一流選手たちの屍が累々と積み重なっていた。
 高校三年時に兄の古賀元博を倒し、ベテラン中西英敏を倒し、日体大に入ってからはカミソリ背負いの吉鷹幸春を倒し、天才寝技師酒井英幸を倒し、他の多くの一流選手たちの屍も累々としていた。古賀はすでに日本のトップに立っていた。彼ら古賀が倒したライバルたちも同階級の強豪たちを圧倒する怪物だった。しかし彼ら怪物たちが何度も何度も己の尊厳をかけて挑んでも、それらをすべて退けていた。
 古賀稔彦は彼ら怪物たちの屍の上を踏みしめて歩く、怪物のなかの怪物だった。岡野功以来の中量級の怪物だった。

 四年生になった。
 堀越は団体戦七人のレギュラーにはもちろん入れなかった。重量級の層が厚い天理大で、中量級の堀越がレギュラー入りするためには、よほどの力がなければならない。
 ある日、堀越は正木嘉美監督に呼ばれた。
「おう。そこに座れよ」
 正木が大きな体をソファに沈めた。
「なんでしょうか……」
 堀越はいぶかりながら向かいに浅く座った。
 正木が悪戯っぽくニヤリと笑った。
「今度の近畿大会な、ここぞという試合で秘密兵器として出すから、その気でいろ」
 団体戦の補欠入りである。
 堀越なら、どの大学にも研究されていないから勝負時に使える——。
 天理の指導陣はそう考えたのだ。
 堀越の努力に報いてやりたいという気持もあった。正木は一五〇キロもある大柄だが、気持は優しく繊細で、人の心根をよく観察していた。それは山下泰裕と斉藤仁の二強時代と、次の小川直也の時代の狭間で苦しみながら現役時代を過ごしたことによるのかもしれない。
 堀越が練習後いつも道場に残って一人で背負い投げのチューブ引きを繰り返しているのを陰から見ていた。堀越の努力が報われるのを祈っていたのだ。
 近畿大会の当日。
 堀越にはずっと出番がなかった。
 今日の出番はないだろうな、と堀越が考え出した頃、準決勝前に正木監督に呼ばれた。
「堀越、次いくで」
 相手は優勝候補の一角である京産大だ。
 堀越は先鋒で出た。
 先鋒は動きがよく絶対に負けない選手を充てるのが通例である。先鋒同士の戦いがその日のチームのムードを決めてしまうからだ。
 だが、堀越はあっさり一本負けしてしまった。チームは勝ち進んで決勝で近大との接戦を制し優勝したが、堀越はレギュラー獲りのチャンスをものにできず、それ以後、卒業まで声はかけられなかった。
 だが、堀越は別のことを考えていた。
 自分の背負い投げさえ完成すればそれですべては解決する。この背負いさえ完成すれば……。
 すでに尻尾は見えていた。
 堀越はさらに背負いの習得に没頭した。
 そして、ある日、ふとタイミングをつかんだ。
 高校一年から、実に六年以上かけて野村豊和の背負い投げを完全マスターしたのである。自分の形にもっていけば相手が誰だろうと必ず投げることができるようになった。だが、それだけの力がついてきたころには天理大柔道部も代替わりしていた。だから堀越の柔道が大化けしていることに誰も気づかなかった。
 しかし、事件が起きた。
 四年生の正月が明け、そろそろ卒業という頃、ある先輩に「全日本選手権の三重県予選に出てみいや」と笑いながら言われた。
 堀越は深い考えもなく「そうすね。わかりました」と言って、三重県の予選トーナメントに出場し、そこで勝ちあがって優勝してしまった。天理大に帰った堀越が三重県チャンピオンになったことを伝えると、正木監督の表情が変わった。
「ええっ! 凄いやんか!」
「はあ……」
 堀越は正木がどうしてそんなに驚くのかわからなかった。正木は「東海ブロックも頑張りいや」と社交辞令のように笑った。
 堀越は東海ブロックの試合がどんなものか、なぜ行うのかすら理解していなかった。それ以前に全日本選手権というのが何なのかも知らなかった。それほど柔道界のに疎いのだ。先輩に聞くと、それは日本の各地区代表の数十人が日本武道館でやる体重無差別の大会だということだった。二十万人の柔道家のトップを決めるのだ。日本柔道界ではオリンピックや世界選手権より格上だという。
 ——それならテレビで観たことがある。
 堀越は思った。その程度の知識だった。
 別の先輩が言うには、あの古賀稔彦が一年前にその大会に出て大きな選手を翻弄して決勝までいったという。それを聞いて、堀越は俄然やる気になった。
 数週間後、東海ブロック予選が名古屋で行われた。
 各県のチャンピオンが八人集まって代表枠の二つを争う変則的な総当たり戦で、全部で五試合だった。
 その試合で、堀越は簡単に全勝してしまった。
 しかもすべて背負い投げの一本勝ち。
 本部席に座る東海地区柔道界の重鎮たちが身を乗り出して見ていた。堀越の名前は誰も知らなかった。大会名簿からは天理大学出身であることと三重県の高校の先生であることしかわからない。
 会場全体がざわついていた。
 堀越が投げた相手が弱いわけではない。全国警察大会個人戦連覇中で一五〇キロ以上ある佐藤広幸(愛知県警、同志社大出身)ら全員が一流選手である。堀越ひとりだけ無名選手だったのだ。
 騒ぎをよそに、堀越は涼しい顔だった。
 あたりまえだからだ。
 なにしろ背負い投げが完成したのだ。きちんと組みさえすれば誰でも投げる自信がある。重量級の選手は引き手を切ったりせず、がっぷりと組んでくれたので簡単に投げることができた。
 このニュースを聞いていちばん驚いたのは正木嘉美監督ら天理大関係者だった。なにしろ七八キロ級の堀越である。しかも大学時代は落ちこぼれでレギュラーにさえ入れなかった選手だ。だから、この時点でもまだ半信半疑だった。だが全日本選手権本番の大舞台でも堀越は驚くべき結果を残した。
 全日本選手権は毎年四月二十九日に日本武道館で行われる。
 前夜、宿も取らずに鞄ひとつ持って上京した堀越は知人の部屋に泊めてもらった。そのときに「付き人いないから探してください」と頼んだのを憶えている。
 古賀がエントリーしていないことを知り、堀越はがっかりしたが、背負い投げを駆使してベスト16に入り、日本武道館を大きく沸かせた。これで無名の堀越が俄然注目を浴びるようになった。
 全柔連(全日本柔道連盟)の指定選手(準強化選手)になったのはこの後である。「全日本選手権ベスト16」というのが、世界切符を争う国内予選大会にエントリーされる条件を満たすものだからだ。
 普通は高校や大学時代に指定選手となり、すぐにその上の強化選手に昇格する。だから堀越の二十三歳の指定選手入りはかなり珍しいことだった。
 この一九九一年全日本選手権初出場を契機として、堀越は着実に世界への階段を昇っていくことになる。
 その年、バルセロナで世界選手権が行われ、古賀稔彦が七一キロ級で優勝した。
 
 全日本選手権初出場の次の年一九九二年、バルセロナ五輪の選考会が行われた。

 講道館杯体重別(開催地は東京)
 選抜体重別(開催地は福岡)

 当時の五輪や世界選手権の選考は、この二つの大会のウェートが大きかった。古賀はこの二つを手堅く勝ってバルセロナ五輪出場を決めた。
 堀越は講道館杯でベスト8、選抜体重別で三位に入り、強化選手に昇格した。二十五歳だった。この年齢は、柔道家にとってすでに引退に近い歳である。しかしここから堀越の快進撃が始まり、古賀との距離も少しずつ詰まっていった。だが古賀はそんなことはまったく眼中になかった。

 古賀稔彦は絶好調を維持したままバルセロナ五輪へ向けた稽古を消化しているらしかった。しかし、バルセロナ入りしてからの調整練習中、七八キロ級に出る講道学舎の後輩・吉田秀彦との乱取りで膝を捻って靱帯に大怪我を負ってしまった。膝に直接針を刺して痛み止めを射ち、テーピングでびっちりと固定した古賀が、精神力だけで勝ちあがり、ついに奇蹟の優勝をしたときは堀越もテレビで観ていて「おおっ」と思った。
 バルセロナ五輪が終わり、古賀は試合に出なくなった。
 引退したんだな、とまわりは思っていたし、堀越もそう思っていた。
 堀越は絶好調だった。
 愛知国体が追い風になっていた。
 三重県も徹底して各種目の強化に入っていた。三重には柔道に力を入れている私企業がないので、成年柔道男子は実業団ではなく、教師や警察官、学生などの混成でチームを組んだ。三重県チャンピオンの堀越は、ポイントゲッターとして期待され、県は堀越に最大限のバックアップをした。勤務する名張高校には臨時講師を充てて、堀越は午後からは毎日フリーになった。昼飯を食べると、車で一時間の天理大学まで行き、そこで激しい稽古を繰り返した。
 この年、堀越は一九九二の講道館杯ベスト8と選抜体重別三位を上回る成績を残した。さらに翌年もその成績を上回った。

 一九九三年 講道館杯三位
       選抜体重別優勝

 一九九四年 講道館杯優勝
       選抜体重別二位

 堀越は自分の実力がまだ伸び続けているのに驚いていた。
 かつて二流だった堀越が、いつのまにか怪物たちの仲間入りをしようとしていた。だが、古賀稔彦ばかり追いかけるマスコミは堀越の存在に気づいていなかった。いや、堀越だけではなく、命を賭けて厳しい練習をこなしている多くの怪物たちが柔道界にいることを、五輪の華やかな舞台にしか目を向けていないマスコミは知らなかった。国内にこそ怪物たちが己のプライドをかけてしのぎを削るドラマがあることを知らなかった。

 バルセロナ五輪(一九九二年)から二年五カ月後、古賀が階級をひとつ上げ、七八キロ級で現役復帰した。一九九四年、警視庁武道館で行われた日本柔道体重別が復帰初戦である。福岡で戦われる選抜体重別と名前が似ているが、重要度ではランクはひとつ落ちる。しかし、今回も世界選手権の一次選考会を兼ねていた。
 堀越と古賀は初めて同じ階級になった。
 堀越は「対決できる」と浮き足だった。トーナメント表をみると、順調にいけば準決勝で当たることになる。
 だが、まず古賀がつまずいた。一回戦で大ベテラン田所勇二得意の寝技に引きずり込まれたのだ。古賀が立ち上がろうとしたが、田所の下からの腕挫き十字固めに捕らえられた。田所もまた打倒古賀に闘志を燃やす怪物の一人だった。
 場内は騒然となり総立ちになった。
「古賀! 早く持ち上げろ!」
「田所、折っちまえ!」
 古賀は咆吼しながら田所を持ち上げた。主審が「待て」をかけたが、田所が十字固めを離さない。
 柔道では下から関節技などをかけている選手の体が畳からすべて離れると技を外さなければならない。これは下の人間が上から叩きつけられて頸椎を損傷する危険を避けるためだ。主審は「待て」に従わない田所に反則負けを宣した。
 古賀は肘を押さえながらうずくまった。
 田所にも期するものがあった。
 なにしろ古賀よりさらに五歳年上である。次回のアトランタ五輪が最後のチャンスだ。ビッグネーム古賀の腕を捕らえたのだ。師である“柏崎克彦のコピー”と言われ、いくつもの国際大会を寝技で制してきた寝技師の最後の意地だった。引退をかけた意地だった。
 古賀の肘は思った以上の重傷だった。この怪我で古賀は二回戦以降を手負いで戦い途中で負けてしまった。堀越も古賀の怪我を見てモチベーションを落とし、やはり途中で敗れて直接対決はならなかった。
 ——俺は古賀と背負い投げで勝負したかった。
 心中に渇きがあった。
 自分の背負いの方が上だと証明したい。
 直接対決で証明したい。
 だが、勝負の神の悪戯か、講道館杯でも選抜体重別でも直接対決の機会がなかなか訪れなかった。片方が出場しなかったり、片方が怪我をしていたりした。
 しかしその頃には、堀越の背負い投げは完璧なものにブラッシュアップされており、組みさえすれば、相手を選ばず、絶対投げる自信を持っていた。
 古賀の強さは本物だと思う。
 神懸かり的でさえある。
 だが、古賀の背負い投げを堀越はあまり評価していない。
 胸さえ合えば技が効くという基本に則ってはいる。しかし、本来は手首を使って相手を崩すところを、相手の袖を切って絞り、崩しの代わりをしているだけだ。打ち込みは基本どおり綺麗にやっているが、試合の時は右足が流れていることもある。この投げ方は、古賀のように体全体に並はずれたパワーを持っている者にしかできない。
 堀越は、背負い投げの完成度としては自分の背負い投げが何段階も上であると思っていた。野村豊和の背負いこそ世界最高峰だと信じていた。
 かつて世田谷学園高が高校柔道界を席巻し出した頃、柔道界は極端に引き手を切る柔道をし始めた。小さなサイズの柔道衣を着て相手の引き手を切りやすくしていた。後に厳しく柔道衣の大きさなどのルールができた。
 それでも世界では組まない柔道が増えている。片手で組んで時間稼ぎをする柔道が増えている。
 堀越は、そういう柔道を武道とは思わない。むしろパラリンピックは凄いと思う。組んでから始まり、投げても相手の道衣を放さないブラインド柔道は、手首の使い方がみんなすごく巧い。あれが本来の柔道の姿だ。
 天理大学のOBはみな手首を使うのが巧い。
 人によって技への入り方は違うが、手首の返しで相手を崩してから投げるのが天理大の柔道だ。現役時代一五〇キロを超えた正木嘉美でさえ手首の返しで崩していた。誰も先輩たちは教えてくれない。ただ、先輩たちと乱取りしていると間合いが近いので、手首をたてないと簡単に投げられてしまう。だから自然に覚えていくのだ。

 平成七年(一九九五)の全日本選手権では小川直也と当たった。
 試合前、堀越は天理大学の後輩である篠原信一に言った。
「おい信一っ! おまえ優勝せえよ。俺が小川つぶしとくから」
 篠原はすでに講道館杯やフランス国際などで優勝し、次代の重量級のエースとして嘱望されるホープだった。
「なに言っとんすか」
 篠原が笑った。
「背負ったるで」
 堀越は本気だった。
 しかし小川と組んだ瞬間、「まるで壁やないか、これ」と思った。
 小川は一九三センチ一四〇キロのスーパーヘビー級である。だが、体が大きいだけではなく、その膂力がけた外れだったのである。奧襟をぐいっと引っ張っられて頭を抑えられた。
 小川も堀越が背負い投げで勝負をかけてくるのがわかったのだ。背負いを防ぐために腹を出して圧力をかけてくる。首が軋み、背骨が軋んだ。堀越はその圧力に耐えながら背負うチャンスを窺っていたが、これでは背負いはかけられない。もう少し体が崩れれば投げる自信があった。だが、そこまで試合を運べなかった。
 結局、その背負い封じの体勢のまま旗判定になった。
 小川に二本。
 武道館が沸いた。小さい堀越への「よくやった」という賛辞だ。
 ——次に当たった時は必ず投げたる。
 堀越は本気でそう思った。
 小川はスタミナがあるから相手が疲れるのを待って投げる。しかし、人一倍の努力を重ねてきた堀越のスタミナは最後までもった。五年前の全日本選手権では、古賀が決勝まで勝ち上がったが、小川の足車で一本負けしていた。古賀が一本負けした相手に旗判定だったことで堀越は自信をつけた。
 この平成七年(1995)は幕張世界選手権の年でもあった。久々の地元日本での開催である。
 その幕張世界選手権の代表選考会を兼ねた五月の選抜体重別七八キロ級では、堀越は一回戦を勝ったが、準決勝の持田達人戦を落としてしまった。決勝では古賀稔彦がその持田達人を得意の一本背負いで叩きつけて一本勝ちした。古賀強しを印象づけ、文句なしで代表に選ばれた。その顔は自信に満ちていた。
 本番の幕張で古賀は観衆の期待に応えた。
 
 古賀○(一本背負い)ブヤン
 古賀○(腰車)サフチースキン
 古賀○(袖釣り込み腰)シウペ
 古賀○(袖釣り込み腰)ブーラ
 古賀○(一本背負い)スマジャ

 決勝までオール一本勝ちである。
 決勝戦の後、場内は「古賀」コールがうねって、しばらくやまなかった。
 バルセロナ五輪から丸三年を経て、古賀は完全復活していた。これでアトランタ五輪の七八キロ級は、古賀が一歩リードした。三回連続の五輪出場は目の前に見えていた。

 そして、あの日が来た。
 一九九六年四月七日。
 全日本選抜体重別。
 アトランタ五輪最終選考会である。
 よほどのアクシデントがなければ古賀の優勝は堅いとの見方が多かった。幕張世界選手権のオール一本勝ちで完全復活をアピールしている。マスコミもすでに古賀が優勝した予定稿を書いて待っていた。
 堀越は、アジア大会準Vで気持が切れて講道館杯を落としていた。この全日本選抜体重別でかなりのアピールしなければ、五輪には届かない。
 天理大関係者に「もし優勝しても五輪代表に選ばれるのは五分五分だ」と言われていた。「出場を確実なものにするには、古賀に派手な技で一本勝ちするしかない」とも。
 だが、あの古賀稔彦を相手にして、そんな奇蹟のようなことが起こるとは誰も思っていなかった。堀越本人を除いては——。
 この日、堀越は自分でも信じられないほど集中していた。自分の精神のすべてが試合のこと、準決勝で当たるであろう古賀のことに向いていた。
「絶対に古賀を背負いで投げます」
 試合前、会場にいる天理大関係者に触れ回っていたらしい。「らしい」と言うのは堀越自身は憶えていないのだ。それほど気持ちが試合に集中していた。
 精神が冴え冴えとして、究極の精神状態にあった。古賀だろうが誰だろうが、必ず背負いで投げて勝つ自信があった。
 古賀は初顔合わせだと思っているに違いなかった。
 憶えていないに決まっている。八年前、堀越が天理大二年、古賀が日体大三年のときに一度だけ乱取りをしたことを。
 確かに堀越は人形のように繰り返し投げられた。だが、堀越の手首を効かせた崩しで、一度だけだが、古賀が膝を着いた。あのとき堀越は古賀を投げる算段をつけていた。古賀が七八キロ級で現役復帰したニュースを聞いたその瞬間から、堀越の頭は古賀を投げるイメージトレーニングを繰り返していた。
 古賀は右組、堀越は左組の喧嘩四つ。
 古賀は必ず堀越の左釣り手を右手で切りにくる。そしてその袖を絞って押してくるはずだ。そのときが堀越の左一本背負いのチャンスだ。
 順当に二人は準決勝まで上がった。
 堀越の研ぎ澄まされた五感は、すでに控え室の向こう側にいる古賀の息遣いを捉えていた。
 係が堀越を呼びに来た。
 通路に出た。
 堀越が歩きながら試合場の向こう側を見ると、古賀が全身から怒気をみなぎらせて歩いていた。
 堀越も腹の底から荒ぶった。
 しばらく試合場の下で精神集中した。
 名前をアナウンスされた。
 心中に抜き身の日本刀を提げ、堀越はゆっくりと畳に上がった。古賀も日本刀を提げていた。堀越の目には、すでに古賀の姿しか見えなかった。
 試合場脇にずらりと並んだ各社の一眼レフカメラが一斉に古賀に向けられた。古賀が一本背負いで堀越を投げる決定的瞬間を狙っていた。
「はじめ!」
 主審の声が響いた。
 古賀がいつものように両手を上げて気合いの一声をあげた。
 堀越は一歩前に出た。
 一メートルほどおいて視線が交錯した。
 三度目の五輪出場に執念を燃やす古賀と、その古賀を背負いで叩きつけることに執念を燃やし続けてきた堀越。
 堀越から組んだ。
 切られた。
 激しく組み手争い。
 組めない。
 まだ組めない。
 組んだ。
 瞬間、堀越は勝てると思った。
 応援の声や会場のざわめきはまったく聞こえなかった。古賀の息遣いだけが耳元で聞こえた。
 開始十秒、堀越は前に出てくる古賀を背負った。両者もつれるように場外へ倒れた。
 開始線に戻る。
 古賀はまた組み手争いで前へ前へとプレッシャーをかけてくる。堀越が背負った。しかしこれも浅すぎた。
 また組み手争い。
 激しい組み手争い。
 組めない。
 まだ組めない。
 組んだ。
 古賀が堀越の左釣り手を切って絞った。
 堀越はこれを待っていた。
 切られた左釣り手で古賀の右腕ごと引っぱり出して抱え、左一本背負いで叩きつけた。一瞬のことだ。あまりに速い背負い投げだった。
 会場の福岡市民体育館はしばらく水を打ったように静まり返り、そして揺り戻すような大歓声が上がった。
 その瞬間、堀越は我に返った。
 勝った……。
 わずか三十九秒の出来事だった。
 古賀が一本負けしたのは一九九〇年の全日本選手権決勝で小川直也の足車に屈して以来、同階級の日本人に一本負けしたのは生まれて初めてだった。自身得意の背負い投げで投げられたのは中学一年のとき一度きりである。
 試合後も会場のどよめきは収まらなかった。
 腕章を巻いた記者たちが狭い通路を走り回っている。控え室に戻る古賀を追いかけているのだ。勝った堀越より負けた古賀に注目がいっていた。
 堀越は横目でそれを醒めて見ていた。通路ロビーに数人の報道陣が待っていて前方を遮られた。しかたなく質問を受けた。若い記者が無表情にテレコを堀越の前に突き出し、丸めた大学ノートを片手で広げた。
「古賀さんを投げてどう思いますか?」
 その記者が聴いた。他の四、五人の記者たちはノートにペンを立てたまま耳を寄せてきた。
「嬉しいですけど……」
「古賀に勝ったんですから五輪ですね」
「それはわかりません」
「しかし最終選考会ですよ」
 よく見掛けるベテラン記者が横から言った。
 堀越がそちらを見るとロビーの先に大きな人の塊ができていた。二十人、いや三十人以上いそうだ。TVカメラも二台あった。おそらくその真ん中に古賀がいて、記者たちの詰問に参っているのだろう。
 堀越はしばらく黙った後、記者たちに言った。
「とりあえず控え室に戻ります。申し訳ありません」
 
 決勝の相手に軽く勝って、テレビの優勝インタビューを受けたあと、ロビー通路を横切った。記者が数人走ってきた。
「どうですか。選ばれると思いますか」
「わかりません」
「半々だという話もありますが」
「わかりません」
 堀越は繰り返した。
 堀越だって五輪に出られれば嬉しい。しかし、それは世界中の柔道家数百万人から選ばれた見知らぬ強豪たちと背負い投げを武器に戦えるからであって、五輪自体に魅力を感じているわけではない。
 しばらくして全柔連から五輪代表の発表があった。
 誰だ……?
 選手もマスコミも固唾を呑んだ。
 ざわめきが一瞬静まった。
 代表になったのは古賀稔彦だった。
 堀越は、また記者連中にとり囲まれた。
「どうして選ばれなかったんでしょう?」
 早く解放してほしかった。
「選ぶのは先生方だもんで。選手がとやかく言える立場ではないし……」
「選考方法に問題があるとは思いませんか?」
「決まったものはしかたがありません。『古賀さん、頑張って下さい』という感じです。古賀さんを投げたときも自分のなかで驚きはなかったし、代表に選ばれへんかったのにも驚きはありません」
 気持ちは高揚したままだった。
 なにしろ、世界最強の古賀と畳の上の殺し合いができたのだ。そして自分が十五歳のときから十数年かけて磨き上げてきた野村豊和ゆずりの背負い投げという銘刀で、袈裟懸けに一刀両断できたのだ……。
 堀越は、記者連中がまばらになる頃、親しい記者にサシで話した。
「五輪出るために柔道やってたわけではない……。でも、俺がほんの少しでも色気を持って柔道やってたら、五輪にも届いたかもしれないですね……。本来ならこの試合とこの試合に勝たなきゃいかんという試合があるんですが、俺はそういうふうに考えなかった。意味のない試合で全力を出し、大事な試合を落としたりした。それは目標を五輪ではなく技術の習得だけに当てていたからです。そして最高に研ぎ澄まされた技を習得できたんです。満足しています」
 汗に濡れて重くなった柔道着を脱ぐと、つい先ほどまで熱を持っていた体はすでに冷たくなっていた。
 風邪をひいたら稽古にさしつかえる——そう思ったが、すぐに“引退すればもう稽古もしなくていいんだな”と思い、ひとりで苦笑いした。
 荷物をまとめ、関係者に礼を言い、その場を辞した。
 夕方に放送されたTV録画中継では、堀越のインタビューシーンはカットされていた。
 
 堀越はすでに二十八歳になっていた。 
 引退を考えていた。
 だが、尊敬する天理大の先輩・細川伸二(ロサンゼルス五輪六〇キロ級金)から「次の世界選手権を目指せよ」と言われ、とりあえずは続けることにした。
 しかし、体はガタガタだった。
 減量も若い頃のようにはいかなくなっていた。毎回六キロ以上落とすたびに筋肉も一緒に落ち、筋肉が支えていた肩やら膝の関節の古傷がぶり返した。天理大学での出稽古も続けたが、疲れがとれなくなっていた。稽古ができるのはせいぜい一日おきで、間には柔道着を着ないウエイトトレーニングなどをしてお茶を濁した。気持ちに体がついてきてくれなくなっていた。
 次の年の選抜体重別で何もできずに準決勝で敗退したとき、気持ちがガクッときた。相手が誰かさえ覚えていない。若い選手であったのは確かだ。
 さらに、ベスト8なら自動的に講道館杯にエントリーされるはずなのが、勝手にはずされた。 
 年齢枠である。
 堀越への実質的な肩たたきだった。
 五輪の後はこうして若い選手とベテランの入れ替えが常である。
 結局、燃え尽きる前に終わってしまった。
 指定選手(準強化選手)になったのが二十三歳、強化選手になったのが二十五歳。短期間に一気に突っ走ったので、体に無理がかかっていた。
 その頃、全柔連は、ヨーロッパや韓国に倣って連戦できる選手を求めていた。国際大会や国内の大会を連続で制すことができる選手を。だが、それに適うには、堀越はすでに歳をとりすぎていた。
 まわりには「励みになるからもっとやってくれ」と言われた。
 大学時代に無名だった堀越が、ピークを過ぎてから強くなり、全日本選手権や選抜体重別で活躍して世界を狙うのを、すでに引退して社会生活を送る先輩後輩たちは応援し続けていた。スーツ姿で会場に駆けつけては声援を送ってくれた。
「俺の子供におまえの名前をつけたんだ。おまえみたいな人間になってほしいんだ」
 天理大の先輩にそう言われた。
 堀越は嬉しかったが、少し恥ずかしくてうつむいた。
 俺は全日本選手権に六度出場した。
 あの小川直也と旗判定まで持ち込んだ。
 天才古賀稔彦を背負いで投げた。
 これ以上、俺に何が必要なんだ。 

吉田

小川



古賀稔彦
 
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北海道の4コマ漫画、4話あります。

僕は意外に器用で、小説もノンフィクションも漫画原作も書きますが、漫画それ自体も描きます。今回、第二の故郷北海道を舞台にした4コマ漫画を4作紹介します。


北海道から1

北海道から2

岩釣兼生対ジャイアント馬場はなぜ流れたのか。

昭和51年の夏、拓大柔道部出身で木村政彦先生の最強の愛弟子、岩釣兼生は全日本プロレス入りを控えて猛特訓を行っていた。しかも「セメントになっても対応できる」バーリトゥード用の技術を磨いていた。もちろん師匠の木村が力道山にやられた復讐をしようとしていたからだ。

しかし結局その全日入りは流れてしまった。それらの経緯は以下の動画に上げた。



しかしもしこの全日入りが実現していたらどうなっていただろうと考えると、消滅してよかったのではと思うのだ。拓大OBに死者が出たかもしれないし、全日側にも死者が出たかもしれない。そうなれば「プロレス」というジャンルは消滅していただろう。どちらも傷つかないように着地できてよかったのではないか。

北尾光司の「この八百長野郎」発言の真意について。

北尾光司は最後までプロレスに馴染めなかった。

ジョン・テンタとの一戦では試合直後にマイクを握って「この八百長野郎」と怒鳴ったのは有名な話だ。動画を見ると、リングを降りてすぐのマイクであり、挙措からしてアングルではなかったのがわかる。

こん

こんなことをやればこの世界にいられなくなってしまうのは誰でもわかる。しかし北尾はそれを繰り返した。「元横綱の意地だろう」という人もいる。しかし横綱にそれくらいこだわりがあるならあのとき相撲界をやめたりしなかったはずだ。彼のなかのなにがプロレスで自身を暴走させたのか。私は「木村政彦はなぜ〜」の取材で彼に会おうとしたがすれ違いがあり会えなかった。若くして亡くなったため彼に聞くことは永遠にできなくなった。しかし死んだ者の気持ちを汲んでやるのも書き手の仕事だと思う。いつか周辺取材をしようと思っている。

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木村政彦先生と牛島辰熊先生のお墓。

木村政彦先生も牛島辰熊先生も地元熊本にお墓があります。

現役のスポーツ選手はぜひ訪ねてください。













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増田俊也ツイッター

▶増田俊也(ますだとしなり) 小説家。1965年生。北海道大学中退。2006年「シャトゥーン ヒグマの森」(宝島社)で「このミステリーがすごい!」大賞優秀賞。2012年「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」(新潮社)で大宅賞と新潮ドキュメント賞。他著に北海道大学を舞台にした自伝的青春小説「七帝柔道記」(角川書店)、「北海タイムス物語」(新潮社)など。「週刊大衆」誌上で原田久仁信先生(「プロレススーパースター列伝」「男の星座」などの漫画家)と組み、木村政彦先生の生涯を描く漫画「KIMURA(キムラ)」を長期連載、全13巻で完結しました。ビッグコミックオリジナルで漫画版「七帝柔道記」の連載も完結。こちらは全6巻です。























KIMURA7

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七帝柔道記帝マンガ2

七帝柔道記帝マンガ2

七帝柔道記帝マンガ2

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シャトゥーン漫画1

シャトゥーン漫画2

シャトゥーン漫画3

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