石 鍳

石鍳は字を大朗といって(一に郎に作る)遵の兄、虎の第三子にあたる。
はじめ義陽王に封じられた。
遵を殺して自立すると青龍と年号を定め、死刑以下を対象として大赦を施行した。
武興公閔を大将軍として武徳王に封じ、司空李農を大司馬としてともに録尚書事とした。
張挙を太尉とし、郎闓を司空とし、秦州刺史劉羣を尚書左僕射とし、侍中盧諶を中書監とした。
鍳は楽平王苞及び中書令李松・殿中将軍張才をして夜間に閔及び農を琨華殿に襲撃させたが、勝利することができずに禁中は大混乱に陥った。
鍳は閔が変事を起こすことを懼れてこの一件を知らなかったふりをして松と才を西中華門において斬り、あわせて苞をも誅した。
新興王祗は虎の子で当時襄国に鎮していたが、姚弋仲や蒲洪と結んで中外に檄を飛ばしてともに閔・農を誅しようとした。
鍳は汝陰王琨を大都督として遣わし、太尉張挙及び侍中呼延盛とともに歩騎七万人を率いて祗らを討たせた。
中領軍石成・侍中石啓・前河東太守石暉が閔・農を誅しようと謀り、閔・農がこれらを皆殺害した。
龍驤将軍孫伏都・劉銖らが羯士三千人と結んで胡天に伏し、また閔・農を誅しようとした。
鍳は中台にあったが、伏都がこれを奉ずるべく閣道を壊してやって来るとその理由を問うた。
伏都が「閔・農らが反して東掖門におりますので、臣は衛士を率いてこれを討たんとしております。まずお知らせにあがりました」と言うと、鍳は「そなたは功臣だ。わが為に力を尽くすところを台上から観るであろう。そなたは報われぬことを慮ることはないぞ」と応じた。
ここにおいて伏都・銖らは衆を率いて閔・農を攻めたが、勝利できずに鳳陽門に駐屯した。
閔・農が衆数千を率いて金明門を破壊して中へ入ってくると、鍳は彼らに殺されるのではないかと恐れをなした。
そこで使者を遣わして閔・農を招くと門を開いてこれを内へと入らせ、「孫伏都が反した。そなたは急ぎこれを討つべし」と命じた。
閔・農は伏都を攻め、これを斬った。伏都は膂力があって尺牘をよくした。
鳳陽門から琨華殿に至るまで、死体が累々と横たわって流れる血が溝をなした。
ここにおいて内外に宣して諸夷で兵器をとって軍をなす者があれば斬るべしと命じ、胡人らで城門を無理矢理開いたり城壁を乗り越えたりして城外へと出る者は数え切れないほどにあった。
閔は尚書王朗(一に簡に作る)・少府王鬱に衆数千を率いて御龍観に閉じ込めた鍳の監視にあたらせ、食事は直接手渡すことなく吊り下げて供給した。
城中に「近日孫劉らが反逆を起こしてその余党らが誅されたが、善良なる者はこれに全く関与しておらぬ。これより官と同心する者はこのまま留まり、同心せぬ者は思いのままにせよ」との命を下して城門を開いたままにさせたところ、百里以内に住む趙人らは皆入城して胡羯らで立ち去ろうとする者が続出した。
閔は胡人らが結局は自身の命に従わぬものだと知ると、内外の趙人に命を下して胡人の首一つを鳳陽門に持参すれば文官は位を三級進め武官ならば牙門に任命すると宣伝した。
すると一日のうちに数万人の胡人の首が集まった。
閔は趙人を率いて自ら胡羯らを貴賤男女少長の区別なく皆殺害し、胡人の死者は二十余万にも及んだ。
当時鼻が高かったり鬚が濃いために殺されたものも多かった。
これらの死者の尸は皆城外にさらして野犬や豺狼の食い荒らすままにされた。
閔は四方に屯する者らに書を遣わし、趙人を将帥として胡人らを誅させた。
太宰趙鹿・太尉張挙・中軍将軍張春・光禄大夫石岳・撫軍将軍石寧・武衛将軍張季及び諸々の公侯卿校・龍騰など万余人が襄国に出奔した。
汝陰王琨が冀州に奔ってこれに拠り、撫軍将軍張沈は滏口に拠り、張賀度は石瀆に拠り、建義将軍段勤(末杯の子)は黎陽に拠り、寧南将軍楊羣は桑壁に拠り、劉国は陽城に拠り、段龕(蘭の子)は陳留に拠り、姚弋仲は混橋に拠り、蒲洪は枋頭に拠ってそれぞれ衆数万を擁し、皆閔に附こうとしなかった。
王朗と麻秋が長安から洛陽へと向かおうとしたが、秋は閔の書を受け取ると朗の部するところの胡人千余人を誅し、朗は襄国へと奔った。秋は衆を率いて蒲洪のもとへ奔った。
姚弋仲の子である曜武将軍益と武衛将軍若が禁兵数千を率いて関を斬って灄頭へと奔り、弋仲は衆を率いて閔を討って混橋に軍を置いた。
汝陰王琨及び張挙・王朗が衆七万を率いて鄴を伐ち、閔は騎千余を率いてこれを防いで城の北において戦った。
閔が両刃の矛を手にして馬を走らせつつ撃ちかかると、向かうところことごとく陥れて斬首すること三千に及んだ。
琨らは大敗を喫して冀州へと奔り帰った。
閔が李農とともに騎三万を率いて張賀度を石瀆に討つと、鍳はひそかに宦者を遣わして撫軍将軍張沈らを召して虚に乗じて鄴を襲わせようとした。
この宦者が密告すると、閔と農は急いで戻ってきて鍳を廃してこれを殺した。
あわせて虎の孫二十八人を誅し、ここにおいて石氏をことごとく殺害した。鍳は在位すること百三日だった。
虎の小男である混は永和八年に妻妾数人を連れて京師へ奔り、いったん廷尉に身柄を預けられた後に建康の市において斬られた。
虎には十三人の子があって五人は冉閔に殺され、八人は互いに殺し合い、混もここにおいて死んだ。
これより以前に予言があって石を滅ぼす者は陵であると言っていたが、石閔が蘭陵公に封ぜられたときに虎はこれを不快に思って蘭陵を改めて武興郡と改めたのだったが、ついにはこうして閔によって滅ぼされた。
勒が晋成帝の咸和三年、戊子の年に立ってから二主四子でおよそ二十三年して晋穆帝の永和六年、庚戌の年に滅亡した。