五胡十六国の歴史を語るブログ

五胡十六国時代の人物の覚え書き 当ブログでは正史の他に資治通鑑等の文献に登場する人物の記述を少しずつ集めていくことを目指しています…※訳は素人によるもので、解釈の誤り等が含まれる可能性があります

2022年12月

蘭 審

審(らん しん)

慕容垂の舅子(*1)

(*1)榎本あゆちは「蘭汗の子息だと思われる」とする。

 

後燕

慕容垂が事業を起こすとこれに参加して王爵を賜った(384)。

裴 邁

邁(はい まい)

裴峙の子

 

後趙

裴憲の一族だったが、憲が継嗣なくして死去するとその後を嗣がせられた。

范 隆

范隆

范隆は字を玄嵩といい、父の方は魏の雁門太守となった。

隆は妊娠十五ヶ月して出生したが、年四歳にして父を失った。

のち母が亡くなると、哀号する声は道行く者をも感動させるほどだった。

かくして孤児として身よりもなくなったが、一族の范広(注、冊府には広について史は官を載せずという)が憐れんでこれを養育した。

書を教えて祠堂を立て、隆は学問を好んで広に仕えること父に対するかのようだった。

広く経籍に通じて目にしないものはなく、春秋三伝を著し三礼吉凶宗紀を撰して内容の伴ったものだった。

恵帝のとき天下は大乱に見舞われたが、隠居して州郡の辟命に応じることなく昼は耕し夜は読書という生活を送った。

秘歴陰陽の学を習得して并州の地に王気のあることを知り、また仕えようとしなかった。

上党の朱紀とは友人として親しかったが、ともに山へ出かけたおりに山間の川辺で出会った一人の老人が「お二人はどうしてここにおられるのか。」と語りかけてきた。

隆らがこれを拝してから顔を上げたところ、老人の姿は消え失せていた。

その後紀とともに淵に身を寄せると、淵は隆を大鴻臚とし紀を太常としてともに公に封じた。

隆は累遷して尚書令・儀同三司となり、曜が立つと太尉に進められた。

亡くなると、太師を追贈された。

賈 模

模(か ぼ)

涼州の大姓

張寔の妻の弟

 

前涼

勢は西方の地を傾けるほどだったが、張茂によって殺された(*1)。

(*1)晋書には「賈摹に作る。謡あって『手莫頭図涼州』といい、茂は信じ誘ってこれを殺す。」とある。太平御覧所引十六国春秋前涼録に「敦煌主簿である張宅は『馬を走らせて山に上り、建物の周囲を三周巡ったものの松柏を見るばかりで門の場所がわからない』という夢を見た。索紞がこれを解して言うには『三年した後にきっと大きな禍があろう』とのことだったが、宅は果たして賈摹らと反を謀って誅に伏した。」とある。馮培紅「敦煌大族前涼王国」に、「張軌が中風を病んだ際には張茂に州事を摂らせており、軌が亡くなって張寔が継ぐと兄弟間に怨恨をもたらしたと考えられる。張寔と賈が結婚したことが、張茂の時に賈誅滅を招いた。」とある。

桓 謐

謐(かん ひつ)

 

後秦

桓玄の左衛将軍だったが、玄の敗死後姚興のもとに降った。

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