五胡十六国の歴史を語るブログ

五胡十六国時代の人物の覚え書き 当ブログでは正史の他に資治通鑑等の文献に登場する人物の記述を少しずつ集めていくことを目指しています…※訳は素人によるもので、解釈の誤り等が含まれる可能性があります

後涼

姜 飛

(*1)(きょう ひ)

(*1)陳連慶は「氐族と考えられる」とする。

 

前秦

後涼

陵江将軍。呂光の西域征伐に際し、これに従った(382)。

 

のち光が梁煕を伐った際、その前鋒として安弥に煕の子胤と戦ってこれを捕えた(385)。

尉祐が叛くと、これを允吾に攻めて破った。

楊 軌

軌(よう き)

略陽氐

 

後涼

揚武将軍。呂光が乞伏乾帰・彭奚念を伐った際、左南に屯した。

呂纂に従って乞伏乾帰を伐ち、金城を攻略した。

 

のち後将軍となったが、郭が叛くと歩騎二万を率いてこれに投じ、盟主に立てられて大将軍・涼州牧・西平公と自称した(397)。

このとき配下の将軍程肇が諌めて「卿は龍頭を棄てて蛇尾に従おうとしていますが、これは良計ではありません」と言ったが、軌はこれを容れなかった。

軌はその衆を恃んで呂光と決戦しようとしたが、その都度郭が天道を理由にしてこれを制した。

段業が呂弘を迎え入れようとすると、軌は「呂弘は精兵一万を率いており、もしこれが光と合流することになれば姑蔵はさらに強大となって取ることができなくなるだろう」と言った。

呂纂と戦って大敗し、南の廉川(*1)に奔って田胡王乞基を頼った。

(*1)方輿紀要に「廉川城は鎮西南百二十里にあり。」とある。

廉川で夷夏万余人を集めたが乞基の進言を容れて南涼の禿髪利鹿孤に降り、その後羌酋梁飢に敗れて西の零海へ奔り、乙弗鮮卑を襲ってその地に拠った(*2)。

(*2)甘粛通志に「鎮蕃県は晋ののち後涼呂氏の将楊軌が拠ったところである」とある。

 

南涼においては賓客として遇されたが、利鹿孤を殺そうと謀って逆に殺された(*3)(400)。

(*3)周偉洲によると、「賓客の職は軍務に参賛する閑職である。楊軌はもと後涼の後将軍であり、南涼に降って賓客とされたことを不満とし、のち叛いて誅された。」とのこと。

呂 他

他(りょ た) 呂佗

光の弟

 

後涼

巴西公。纂が殺された際には、隴西公緯とともに北城にあった(401)。

緯が超らを討とうとすると、妻の言によりこれに与するのをやめた(*1)。

(*1)佗の妻である梁氏は「緯も超も同じく兄弟の子であるというのに、どうして超を捨てて緯を助けて禍首となろうとされるのでしょうか」と言うと、佗は緯に「超はことすでに成り、武庫に拠り精兵を擁していてこれを図るのはたいそう困難である上、わしは年老いていて何も出来ぬ」と言った。

 

後秦の姚碩徳が来攻して超らを大破すると、東苑の衆二万五千を率いてこれに降った(*2)。

(*2)新出魏晋南北朝墓誌疏證に呂他墓誌を挙げる。墓表には「墓表/弘始四年十二月/乙未朔廿七日辛/酉、秦故幽州刺史/略陽呂他、葬於常/安北陵、去城廿里」とある。

疏證には「入葬は後秦姚興弘始四年十二月(403)である。」「呂他は呂光の弟で、後秦姚興弘始三年(401)に後秦に降った。」「呂他は後涼の降将であり、姚興が遠方の刺史とするのは当時の通行に符合するものである。呂他は秦を国号とする後秦において死に、その嬪葬は随意のものではなく、墓表の寫刻については当然後秦の官員の審査を経たものであり、後秦政府が直接経弁した可能性もあって、そうした情況下で墓表のは前秦でないのは当然である。呂他は降将であり、降って一年後の同日に同じく降将である呂憲と入葬したということから急死と考えられるが、死因についてはわからない。これは姚秦に迫られての死ではあるが、墓表の形制や書寫を看るに顕らかな誅ではなく、死後は哀栄を享けたものである。」という。

綦毋 詡

綦毋 詡(きぶ く)

 

後涼

事蹟は不明。かつて馬権の兄を殺したため、のちに権によって殺された。

(*1)北涼録に「馬権の兄は涼将綦毋詡に殺された。権はのち詡を殺し、その肝を喰らった。」とある。

孫 峙

峙(そん じ)

 

後涼

白土都尉(*1)。彭奚念が白土へ攻め入ると、興城へ奔った。

(*1)魏俊杰<十六国時期的准政区考>に「両漢魏晋の時代に都尉の主な職掌に一郡の軍事を管掌するというものがあり、都尉は往々にして太守と彊域を分治し、一部分地域の軍民両政を単独管理し、実際上の政区となった。」とある。

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