五胡十六国の歴史を語るブログ

五胡十六国時代の人物の覚え書き 当ブログでは正史の他に資治通鑑等の文献に登場する人物の記述を少しずつ集めていくことを目指しています…※訳は素人によるもので、解釈の誤り等が含まれる可能性があります

佛図澄

五胡十六国時代の怪異譚388

石虎に名を斌という子があって、のち勒はこれを養子とするとたいへん愛重した。

ある日突然の病気で急死してしまったが、二日して勒は「朕の聞くところによれば、虢の太子が死んだのを扁鵲がよく生かしめたという。大和尚は国の神人ゆえ、急ぎこれに告げれば必ずや福をもたらすであろう。」と言った。

澄が楊枝を手にして呪したところすぐさま蘇り、しばらくすると平復したのだった。

それからというもの、勒は子供たちを佛寺において育てさせた。

毎年四月八日になると、勒は自身で寺へ詣でては灌仏して子の為に発願したのである。

佛図澄の姓

封氏聞見記に、以下のような一文があります。

邢州内丘県の西に古中丘城があり、寺に碑あって後趙石勒光初(金石録 趙浮図澄造釋伽像碑跋に「光初というのは劉曜の年号であるのに石勒の時とするのは、演の誤りだろう」とある)五年に立てられたものである。碑に「太和上佛図澄願(この四字を金石録は引いて「竺浮図澄」に作る)は、天竺の大国である罽賓の小王の元子であり(この句を金石録は引いて「天竺の大国に附庸する小国王の元子である」と作る)、本姓は濕という。『濕』というのは思潤里(原注、一に「理」に作る)国、澤被無外(「無外」を負喧雑録は引いて「四方」に作る)、是以号之為『濕』」(この句を負喧雑録は引いて「是以『濕』為姓」に作る)。
高僧伝・名僧伝・晋書芸術伝を按ずるに、佛図澄にこの姓はなく、今姓を「濕」というのは異聞である。大暦年間に私はこの寺に休み、碑を読むとこれを見て写して陸長源にあげた。長源は大いに喜び、返信をよこして謝意を述べた。


石勒の支配したエリアに佛図澄に関連する碑があることは何ら不思議でもありませんが、そこに「光初」という年号が見られることから「石勒のときだとするのは誤りだろう」としています。
石勒は靳準の乱が平定された後に長安の劉曜政権と距離を置いていますが、光初五年というのは決定的に対立するまでにはまだ早いと思われます。





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五胡十六国時代の怪異譚137

佛図澄のはなし

 

佛図澄が死んだとき、衆官はみなその葬儀に参じた。

彼が生前用いていた金の錫杖と銀の鉢盆を遺骸とともに棺に納めて埋葬した。

 

葬ってから何年も経ったのちに冉閔がその棺を開かせてみると、遺骨はなく錫杖と鉢盆があるだけだった。



佛図澄12

佛図澄

虎が太武殿を完成させたとき、古の賢聖・忠臣・孝子・烈士・貞女の図を描かせたが、これらがみな胡人の様子に変じ、十日余りすると頭が縮んでその肩の中にめり込んでしまい、冠や髪が僅かに出ているだけという状態になった。

虎はこの異変を非常に不快に思ったが、これを誰にも言わなかった。

佛図澄はこれに対して流涕し、自ら申し出て墓を鄴の西の紫陌につくり、寺に還ると独り言を言った。

「三年を得られるだろうか」

自分で答えて言った。

「得られない」

また自分に問いかけて言った。

「二年、一年、百日、一月を得られるだろうか」

また自分で答えて言った。

「得られない」

そのまま黙り込んだ。

やがてその弟子法祚に向かって言った。

「戊申の年に禍乱の兆しが現れ、己酉には石氏は滅びるだろう。吾はその乱の前に遷化するだろう」

鄴宮の寺において亡くなった。

のち雍州からやって来た沙門が佛図澄が西方の関中で見かけたと報告したため、虎が命じてその墓を掘らせてみると尸はなく、ただ石がひとつあるだけだった。

虎はこれを不快がって言った。

「石は朕である。我を葬って去ったということは、吾がまさに死ぬということであろうか」

ここにおいて病を発した。

翌年虎が亡くなり、国は大乱に陥った。




佛図澄11

佛図澄

石宣が石韜を殺そうとしていたときにたまたま宣が佛図澄と寺で同席していると、浮屠の鈴が鳴った。

佛図澄が言った。

「鈴の音によれば『胡子洛度』とのことです」

宣は色を変じて言った。

「どういうことか」

佛図澄は偽って言った。

「老胡が山に住んでおり、美しい服を重ね着しております。これを洛度といいます」

石韜がやって来ると、佛図澄はこれをじっと凝視した。

韜が何事かと懼れて問うと、佛図澄は対して言った。

「公から血の臭いがいたしますので、見ておりました」

虎が龍が西南に向かって飛んで行き、天から落ちるという夢を見て問い、佛図澄は対して言った。

「禍が起きようとしております。どうか父子で仲良く睦みあい、深く行動を慎まれますように」

虎は佛図澄を東閣に引き入れて、その后杜氏とともにこれを聞いた。

佛図澄が言った。

「賊が近くに現れます。十日以内に浮図以西、この殿の東において血が流れることになります。東には行かれませんように」

杜后が言った。

「和尚は耄碌したのですか。どこに賊がいると言うのですか」

佛図澄は言葉をかえて言った。

「六情の受けるところみな賊です。老は耄ですが、少ない者は昏ではありません」

言葉を包んではっきりとは言わなかった。

二日後に果たして宣が韜を仏寺の中において殺害し、その葬儀への参列に乗じて虎をも殺害しようとした。

虎はさきに佛図澄の諫言を聞いていたために、これを免れた。

宣が刑に伏するとき、佛図澄は虎を諌めて言った。

「みな陛下の子ではありませんか。どうして禍を重ねるようなことをされるのですか。陛下がもし怒りをおさめて仁慈の心を加えれば、六十年の寿命をさらに加えることができるでしょう。これを誅すれば、宣は彗星となって鄴宮に災いをなすでしょう」

虎は従わなかった。

一ヶ月あまりして、一頭の妖馬が出現した。

焼けるような髦・尾をしており、中陽門から入って顕陽門を出、東宮に向かったが入ることができずに東北へ走り去り、突然姿が見えなくなった。

佛図澄は歎じて言った。

「災いが及ぶことになるだろう」

虎が群臣と太武前殿において宴を催した際、佛図澄が吟じて言った。

「殿に棘が林を成し、人の衣を傷つけるだろう」

虎が殿石を起こしてみると、棘が生じていた。

冉閔の小字は棘奴である。





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