五胡十六国の歴史を語るブログ

五胡十六国時代の人物の覚え書き 当ブログでは正史の他に資治通鑑等の文献に登場する人物の記述を少しずつ集めていくことを目指しています…※訳は素人によるもので、解釈の誤り等が含まれる可能性があります

慕容評

慕容評について考える

前燕の慕容評は慕容の子で、この時代を代表する奸臣のひとりとされる人物です。

彼は慕容の治世になって慕容恪死後の前燕の実権を掌握し、可足渾皇太后と結託して腐敗政治を行い、東晋の将軍桓温の北伐軍を破った功臣慕容垂を嫉んでこれを前秦への亡命に追い込みました。

その後前秦の王猛が率いる軍の攻撃を受けると大軍を率いてこれに対しながら、軍需物資を私物化して士気の低迷を招いて大敗を喫し、国都の陥落に際しては慕容らを顧みることなく遠く高句麗にまで逃亡、結局前秦にその身柄を引き渡されています。

仇敵にも異様なまでに寛大であった前秦の苻堅はこれを給事中に任命していますが、慕容垂の言もあって地方官に飛ばしています。

こうしたネガティブな事柄を列挙すると、前燕を滅亡に導いた奸臣という評価が相当でしょうし、他にも悦綰が蔭戸の制度を改革しようとした際にこれを暗殺したという話さえも彼にはあります。

一方で軍事指揮官としての慕容評は王猛と戦った川の戦役での大敗が強く印象には残るものの、それまでには少なからぬ功績を残しているという事実もあります。

慕容儁の時代にはその中原進出に際して軍を率いて各地を転戦し、冉閔の太子智が守るを陥れて智以下を捕えるという結果も残しています。

この当時の彼は前燕の宗室内の有力な将軍として重きをなしており、前燕の使臣も他国にこれを称賛しています。


国政を一手に担うようになってからの彼にはいくつかの大きな失策があります。

最大のものが桓温の北伐から慕容垂の亡命、さらには前秦の侵攻を受けるに至るまでの一連の判断であることは異論がないものでしょう。

それだけではなく、前秦の苻堅に対してその宗室の諸王が反乱を起こした際にその一人である苻が救援を求めた際にも、「苻堅や王猛は人傑であって、この際に滅ぼすべき」との進言を退けて「どうして彼らが強国である我が国に対して大それた考えを抱くことがあろうか」と言っています。


慕容恪が亡くなるまで問題のなかった(と思われる)慕容評ですが、その死後は歯止めがかからなくなったように見えます。

もともと貪であったのが節制する必要がなくなって表面化したのか、年老いてから自身でも制御し得なくなったのかはわかりませんが、慕容恪が長命すればこうした問題が表面化することなく宗室の名将としてその威名を損なわなかったのではないかとも思います。

今日における「国家を滅亡に導いた奸臣」という評価に当時とどれだけの乖離があるのかはわかりませんが、慕容垂が再興した後燕において評の孫の懿が上庸王の爵位を与えられているところを見ると、今日定着している彼の評価も若干割り引いて考える必要があるのかもしれません。




慕容 評

慕容 評(ぼよう ひょう)
慕容廆の子

前燕
軍師将軍となり、慕容皝が慕容仁を撃った際には昌黎から進撃した(336)。
前軍師。石虎の将軍石成と遼西に戦ってこれを破った(339)。
のち慕容儁に従って代を撃った(343)。
慕容儁が立つと輔弼将軍とされた(349)。
後趙の旧臣賈堅を攻めて捕え、章武太守とされた(350)。
慕容恪が冉閔を捕えた後、その太子冉智らの拠る鄴を攻めて陥れ、その妻子僚属・文物を中山へ送った。
鎮南将軍・都督秦・雍・益・梁・江・揚・荊・徐・兗・豫十州諸軍事として洛水に鎮した(354)。
その後司徒・驃騎将軍・上庸王となり、張平を討ってこれを逃走させた。
のち晋将諸葛攸が北伐した際には傅顔とともに歩騎五万をもってこれと戦い、東阿においてこれを破った(359)。

慕容暐が立つと太傅として朝政に副賛することとなった。
軍を率いて許昌などを攻めて陥れ、汝南の諸郡を攻略して万余戸を幽冀に徙した。
蔭戸のん刑を受けていたらしく、悦綰の進言によって戸籍調査が行われると、賊を遣わして綰を殺害させた。

晋将桓温の北伐を退けた慕容垂の声望が高まるのを憎み、可足渾太后とともに垂を殺そうと謀り、これを前秦に奔らせる結果を招いた(369)。

秦将王猛が来攻した際には慕容暐の命を受けて四十万の大軍をもってこれを防いだ(370)。
評は貪欲な性格で軍需物資を横領し、士卒はこのために闘志を失った。
暐は侍中の蘭伊を遣わして評を責めて言った。
「王は高祖の子であり、宗廟社稷を憂うべきであるのに、どうして物資を独占して戦士を撫さないのか。国庫の貯蔵は朕は王とこれを共有するのになぜに貧を憂うのか。もし賊兵が進撃して国家が滅びれば、王は財を独占してもこれを置く場所さえなくなるだろう」
その銭帛をことごとく散じて軍士に与えさせ、秦軍と戦うように命じた。
評は叱責を受けて大いに恐れて使者を遣わして王猛に戦うよう求めたが、決戦に大敗を喫して五万人の死者を出した。

前燕の滅亡後に前秦の給事中い任命されたが、慕容垂が苻堅に言った。
「臣の叔父評は燕における悪来であり、聖朝を汚すべきではありません。願わくは燕の為にこれを戮されますように」
堅は評を朝廷の中から出して范陽太守とした。

前燕を滅亡に至らしめた奸臣といってよい人物であろう
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