2015年12月

【演奏会場】
京都バロックザール (京都青山音楽記念館)

【演奏曲目】
(省略)

演奏: ソプラノ 吉川真澄
     ギター 佐藤紀雄

【管理人コメント】
私は、このコンサートを聴きに行ってはいません。丁度、コンサートが進行しているさなか、東京の自宅でパソコンを開いてこの文章を書き始めました。今頃は、吉川真澄さんが文字通り全身全霊を込めて歌いあげる、あの圧倒的な「秋の歌」を歌い終えた頃でしょうか?力強くリズムを刻むボディーパーカッション、煌めきわたるヴォーカル、荒々しい息遣い…歌唱という言葉の範疇から大きくはみ出す、驚異のパフォーマンス。会場のどよめきと賞賛の拍手が聞こえてくるようです。

既に東京の近江楽堂で行われたコンサートの感想を書いていますが、まだ書き足りない気がしてパソコンに向かっています。何としても触れておきたいのは、プログラムのご挨拶にある最後の文章です。

「2015年はどんな一年でしたでしょうか?昨日の事、先月の事、春の夕暮れ、夏の夜、幾歳も前に見た秋の空、ご自分ではなくあの人が過ごしたあの時間、前世に感じた冬の匂い…いのちの巡りを想いながら太古より続く風景や遠い街角の気配など、遥かな時空を超えて想像の旅にお出かけいただけたら嬉しいです。それでは最後までごゆっくりお楽しみください」

一体、どのような想像力、どのような感性を持っていれば、こういう素敵な文章が書けるのでしょうか?私はこの文章に、人の想いに寄り添える歌手吉川真澄さんの心の温かさを感じます。プログラムの片隅にさりげなく置かれたこの一文は、しかし、彼女の芸術活動への想いを凝縮したものでもあるようです。つまりそれは、私たち聴衆を様々な桎梏から解き放ち、自由な想像に浸るひと時を与えることではないかと私は思うのです。

大ホールでのオーケストラをバックにした演奏ではなくて、せいぜい100から200人規模の小さな、聴衆のひとりひとりの表情が見て取れるホールで、しかも、評価・解釈が固まった古典(クラシック)だけではなく、自由な想像を喚起できる良質のコンテンポラリー音楽を中心としたプログラムを演奏して行きたい、という話を吉川真澄さんは常々されていました。とはいっても極度に専門化・技巧化した現代音楽ではなく、あくまでも普通の音楽愛好家に向けて、そういう人に受け入れられる形で音楽を届けたい。その人たちを歌により祝ぐ(ほぐ)、つまり「うたほぎ」を目的として歌手活動をして行きたいと。

この「DUOうたほぎリサイタル -春夏秋冬-」には、東京公演を終えて多くの賞賛の言葉がよせられているようです。それに対する吉川真澄さんの反応は、前衛的な音楽であるにも関わらず、聴衆の方々が心を開いて、素直に音楽と演奏を受け止めてくれたことが嬉しい、というものでした。人の想いに寄り添える歌手の歌は、聴衆もまた心を開いて受け入れるのだと思いました。

京都ではもう公演は終わり、ロビーに出て聴衆の方々と言葉を交わし、見送っている頃でしょうか?
もうすぐ公演の反響についての知らせも入ってくるでしょう。とても楽しみです。

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三美人

【演奏会場】
東京オペラシティ 近江楽堂

【演奏曲目】
武満徹:(ギターの為の12の歌)より 早春賦
平野一郎:春の歌 ~女声独唱の為の~
フランチェスコ・パオロ・トスティ:四月
ステファノ・ドナウディ:どうか吹いておくれ
ガエタノ・ロッシーニ:フィレンツェの花売り娘
武満徹:(ギターの為の12の歌)より ロンドンデリーの歌
武満徹:(ギターの為の12の歌)より サマータイム
平野一郎:夏の歌 ~女声独唱の為の~

(休憩)

平野一郎:秋の歌 ~女声独唱の為の~
エベルト・バスケス:落ち葉の時間
ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ:(ヘルダーリンの三つの断章)より 明るい青空に
ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ:(三つのテンスト)より トランクィラメンテ
フランツ・シューベルト:(ミニヨンの歌)より そのままの姿でいさせてください
間宮芳生:(三つの聖詞)より アレグレット・トランクィロ
平野一郎:冬の歌 ~女声独唱の為の~
ジョン・ダウランド:来たれ、深い眠りよ

演奏: ソプラノ 吉川真澄
     ギター 佐藤紀雄

【管理人コメント】
クラシックの歌曲には様々なジャンルがありますが、吉川真澄さんはどのジャンルでも第一級の歌唱ができる方だと私は思っています。それなのに何故一般受けする正統(?)クラシックではなく、敷居の高い現代音楽にそれ程まで力を注ぐのか尋ねたことがあります。その時聞いた彼女の決意に私は強く胸を打たれました。

吉川真澄さんは、今日の中心プログラムとなっている春・夏・秋・冬の歌を作曲した平野一郎さんの作品をはじめとした現代音楽のジャンルに大きな芸術的可能性を見出し、演奏家としてその分野に係わり、貢献していくことが自分の使命だと考えておられるようでした。彼女の決意に触れ私の心に浮かんだのは、少年時代に読んだアンドレ・ジイドの『狭き門』に引用されていたあの有名な聖書の一節です。

「力を尽くして狭き門より入れ。滅びにいたる門は大きくその路は広く、之より入る者おほし。命にいたる門は狭くその路は細く、之を見出すもの少なし。」

その決意を見届けようと、私はこの演奏会に臨みました。そしてそこで見出したのは、まさしく狭き門に導かれた、命のうごめきを感じる音の世界、プログラムの言葉を借りれば、「生きとし生けるものの命と魂のドラマ」でした。

佐藤紀雄さんのギター独奏、早春賦に続き、まず「春の歌」が演奏されます。口笛、舌打ち、呼吸音など様々な擬音をちりばめて春の命のうごめきが表現されていました。初めて聞くその表現の多彩さ、斬新さに衝撃を受けたのか、ちょっとした戸惑いが一瞬会場を支配したように感じたのは私だけでしょうか?しかし、プログラムが進むにつれ私はどんどん引き込まれていきました。

第一部の最後に歌われた「夏の歌」は、平野一郎さんのウェブサイトで見ると「重い陽光に照らし焼かれた日本の浜辺の原風景」を表わしたとあります。私が音楽を聴いてイメージしたのは、むしろ白々とした月のあかりに照らされた、日本海のリアス式海岸の山の端に張り付いている細長い砂浜(私の故郷の風景です)。そしてそこを歩くお遍路の一行。波が穿った洞窟の奥に棲むいたこ、といったものです。吉川真澄さんが歌う平野作品を聴くと、こういった具体的イメージが、聴く人の人生やその時の心理状態に応じて、鮮やかに湧き上がってくるところが魅力です。そしてこの時点で、一連の四季の歌は、完全に私を虜にしました。

第二部の冒頭に歌われた「秋の歌」は、唯一以前に聴いたことのある曲です。この感想は1年前のリサイタルの報告の中で述べていますが、今日はまた全く別の印象がありました。吉川真澄さんの故郷のだんじりをイメージしたという前知識に影響を受けたのか、最初に聴いた時より更に荒々しく、圧倒的でした。会場の雰囲気も最高潮に盛り上がったように思います。

最後の「冬の歌」は、時折命の蘇りを促す「蘇生の呪文」が響き渡るなか、全体的に静謐さに溢れる美しい旋律が流れて行きます。そして、その静謐さは、全く自然に、16世紀のイギリスの作曲家ジョン・ダウランドの「来たれ、深い眠りよ」に引き継がれていきます。

このダウランドの曲は、もう10年も前、初めて吉川真澄×佐藤紀雄のデュオ・リサイタルに伺ってから何度もお二人の演奏を聴いてきた、私の大好きな曲です。DUOうたほぎのリサイタルを締めくくるに相応しいエンディングでした。

演奏会が終わって、吉川真澄さんに握手を求めたい、一言声を掛けたいという人たちの長い列ができました。それがこの演奏会の素晴らしさを物語っていると思います。あっぱれ、吉川真澄!

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