数学は難しい

November 24, 2009

不定期連載・数学は難しい(第9回)

「不定期連載」です。
過去の記事はカテゴリーの「数学は難しい」からご覧ください。


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・「数学教育」という難しさ

小学校から高校まで一貫して「数学者」を育てるというのであれば話は別であるが、「すべての人が数学者になるわけではない」ということを考えると、数学の核心部分を深く教える必要はない、という考え方はある。したがって、数学教育に対してそこまで熱心になる必要はない、という風に考えることも可能ではある。

しかし、数学というのを学ぶことによって「論理的に物事を考える力」がつき、また、「問題が出てきたときに(論理にしたがって)的確に対応する力」がつくので、その点ではやはり欠かすことのできない教科なのではないかと思う。

その点を考慮して、「数学教育」というものを今一度考え直してみてはどうだろうか。


・「ゆとり教育」の問題点(前編)

今までの時代の中で、ここまで「ゆとり」という言葉が非難されたことはないだろう。

「ゆとり教育」というものが発案され、それが現実のものとなった今、この教育課程を支持する勢力が果たしてどのくらいいるのだろうか。

昨今の文部科学省の審議会などの動きからすると、「脱ゆとり」を掲げていることは明らかであり、これは暗に「ゆとり教育の失敗を認識している」ということであろう。


数学以外の教科においてもこのゆとり教育による弊害が出ているようであるが、この制度が始まって、もっとも最初に影響を受け、そして一番被害が甚大なのが数学ではないだろうか。

小学校の算数における計算練習量の圧倒的な不足、扱う分野の上の学年への先送りや削減は、その後の教育で穴埋めすることができないほどの穴を開けている。

基本的に教育課程における大義名分として「考える力をつける」だとか「国際的に活躍できる人材を育成する」などのかなり抽象的なものをあげるが、実際にはこの掲げた大義名分にも反するようなカリキュラムを組んでいる。

また、各分野においても見た目に鮮やかなモノをちらつかせ、大枠の話しかせず、最も重要な部分の一つである「基礎訓練」を「苦行の一つ」として排除してしまう。

結果、見かけだけは立派で、中身はすっからかんの人材が育つこととなる。

どうにもそういう人材を作り出すためにこの教育課程が作られたのではないかと思えるほど、ひどい教育課程であるといえる。その意味では、意図的に「役に立たない人材を作り出す」というのが真の目的だったのであれば、その目的はかなり達成されているともいえる。



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November 15, 2009

不定期連載・数学は難しい(第8回)

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・車の両輪-計算力と論理力-(後編)

そして更に問題なのが「与えられることの多い環境」である。
昨今では、ほとんどすべての物事について「マニュアル」が存在し、また、細かいことにも対応できる道具なども存在し、「何かしたい」というときにそれに対応してくれるモノがほとんどの事柄について存在する。

そのため、何かをするときに「工夫をする」ことや「考えてみる」という経験が不足しているのではないだろうか。つまり「計算力」にあたる「手を動かすこと」、「論理力」にあたる「いろいろ思索する」ということが不足しており、その結果、「理解をする」ということができなくなってしまっているのではないだろうか。


数学を初めとする様々な学問は「すぐに理解できない」ことの方が多く、それを理解するために「手を動かす」ことや「思索する」ことが必要があるのだが、最近の環境の結果「すぐに理解できることしか理解しようとしない」という学生が増加しているように思える。


ところでこの問題は「考えられない」という人が増えるということは、社会にとっては大きな問題になる。

最近のテレビのニュースにおいては、一つのニュースに対して「コメンテーター」なる職業の人がその「感想」を述べることが多くなった。その「感想」はときに感情的であり、また、その職業の人は話すことがうまいため、その発言に引き込まれていってしまう。しかしそこで「自分であればこう考える」というモノがあれば、例えその発言が流暢でわかりやすくあっても客観的にその「感想」についてを判断することができるのであるが、「考えられない」という人はそのようなことができないのでその「感想」を自分のモノとして受け入れてしまう。

「考えられない人」が増加してしまったとき、「流暢な発言」ができる人がそれを悪用することによって、社会は劇的に悪い方向へ進んでいく恐れがある。歴史はそれを物語っている。


さて、この「考えられる人になる」ための「手を動かすこと」や「思索すること」であるが、このことについても「マニュアル」を求める傾向が最近はあるようだ。つまり、「どのようにすれば、手を動かすことができるのか」「どのようにすれば、思いを巡らすことができるのか」ということを他人に求めるという子が増えている。

一からどころか、0から手取り足取り教えなければ何もできない。そうなってしまえば、その子はただの「機械」と同じになってしまう。「手取り・足取り・命取り」という言葉も冗談ではなくなってくる。


まずなによりも、思索することや手を動かすことについてはそれまで育ってきた環境などによって個人差がある。すなわち、「ちゃんと理解した」という状況になるために必要な時間やプロセスは個々人で違うのである。

例えば、読書が好きであったという人にとっては、教科書の物事を理解するために「読書感覚で教科書を読んでみる」という手を取ってみるのが良かったり、逆に、文章にあまりなじみがないのであれば、まずは、問題をたくさん解くことで手を動かすことを先行させてみたりといった具合である。


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November 14, 2009

不定期連載・数学は難しい(第7回)

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・車の両輪-計算力と論理力-(前編)

数学ができるようになるために大切なことは、「計算力」と「論理力」の2つである。
ただこれは「計算力があるだけでもダメだし、論理力があるだけでもダメ」というよりも、この2つは相補的であるといえる。


「計算力」はその経験によって培われていくものではあるが、その経験を「一般的なもの」にしていき、計算のスピードを高めていくためには「論理力」が必要である。一方の「論理力」も様々な考える経験を通じて培われていくのであるから、その結果、計算の経験が必要となる。

したがって本来であれば、数学を学ぶ上では「問題演習」を多くしていくことが大切なのであり、その問題演習を通じて「計算力」と「論理力」の双方をつけていくこととなる。またその問題演習も様々な分野の問題に触れることで、新たな問題が出てきたときに対応するだけの論理力を培うこともできる。そしてこの「計算力」と「論理力」が付いてくると、物事を理解する力も自然と付いてくるのである。

高校数学においては教科書などに載っているような「典型的な問題」について、その存在を知り、その問題を解く方法がなぜそのような解答なのかを考え、そして、同じような問題を問題集を通じていくつもする。その結果、その問題に対する「論理」がわかり「計算力」がつき、その「典型的な問題」の「input」が完了する。これを繰り返すことによって、たくさんの問題に対する対処法が身につき、大学受験のフィールドにやっと立つことができる。


しかし、現在の数学教育においては、まず、問題の演習量が圧倒的に不足しているように思える。私は受験生には高校で配布される「問題集」をとにかくやるように勧めているのであるが、実際にそれを実践する学生は少ない。
また、ここ十数年の間で行われた教育課程の改訂にともない、数学で扱う分野がことごとく削られているため、「様々な分野に触れる」ということについても不足する自体となっている。



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October 26, 2009

不定期連載・数学は難しい(第6回)

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・中学まではよかったが・続々編


さて、近年では公立の学校までも「中高一貫」での教育を始めるようになってきた。

中高一貫で数学のカリキュラムを組むことができるのであれば、ここまで述べてきた「中学までの数学」と「高校からの数学」という分離を避けることができ、中学の頃から高校数学を見据えた「考え方」を重視した方向の数学教育を提供できるはずであろうと思われる。

しかし実際には「中学部」と「高等部」で分離していることが多く、一貫にした意味が薄くなっている学校もあるのではないだろうか。

ところで、中高一貫教育には「利点」と「欠点」がそれぞれある。

まず利点としては、中学から高校へと連続しているため、高校数学の初期の内容を中学時代に終わらせることが可能だということがある。

大学受験を前提とした場合、「高校3年で受験に特化した勉強をする」というのが理想である。したがって、高校2年までに高校での学習内容を一通り終わらせることができる中高一貫はその点でその理想を実現することが可能となる。

一方、欠点としては、進度が速くなるため、生徒の理解度を考慮する余裕が無くなることが多く、生徒が理解しないまま、置き去りで先へ進むしかないということがますある。
置いてけぼりを食らってしまった生徒はどんどん先へ進んでいく内容について行くことができず、挫折せざるを得ないようになる。

また、「高校受験」というプレッシャーがないため、中学時代に「なんとなく」で勉強を進めてしまい、その結果、高校になったら全くついて行けないということが出てくる。
さらには6年間のうちの「中弛み」の底にあたる中学3年から高校1年の辺りに、数学に対する考え方の基本として最も重要な分野である数学IAがあるため、この辺りを「なんとなく」で流してしまい、結果、さらに先の数学になったときに全く理解できないままになってしまう。

そんなこともあり、最近では「中高一貫の学校に入れたから安心」というわけでなく、中高一貫に入れたからこそ、中学1年のうちから塾に通わせるというケースも多いようである。



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September 23, 2009

不定期連載・数学は難しい(第5回)

久しぶりの「不定期連載」です。
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・中学まではよかったが・続編

さて、高校数学になってからダメになる二つ目の大きな理由は「分母の違い」であると考えられる。

小学・中学で「算数・数学ができる」というのは高校に行かない人から大学を目指す人まで、様々な人の中において「算数・数学ができる」という状況であれば良かったのであるが、高校数学においてはそうはいかない。

高校数学が受験として必要な大学は理系の各大学と文系の一部の大学である。その点において、大学受験で数学がかなり得意になるためには、「中学・高校受験」を乗り越えた集団の中での順序として上位に行く必要があるのである。

したがって、小学校・中学校での勉強において優位になった経験を大学受験に持ち込んではいけない、ということになる。いわば、「過去の栄光を捨てる」という必要も出てくる。

また、高校数学においては「解き方」そのものよりも、その解き方に対する「考え方」が重要になってくる。その点において、中学校までの数学とは勉強の仕方そのものが変わってこなければいけないはずである。

だからこそ、高校数学に入って、今までそこそことれていた点数がとれなくなり始めたときに、その時点で勉強の仕方を考え直す必要があるのである。場合によっては、中学校時代に何気なく解けていた問題に対しても、「何でそれで答えが出たのか」ということを問い直してみる必要もあるかもしれない。


ちなみに、高校数学に入って挫折をした人が復活できるチャンスが実は存在する。
数II、IIIの微積分は「解き方を覚えれば何とかなる」ので、その意味で「過去の栄光」を取り戻すことができる。今まで下降線の一途だった数学の成績がここで上昇を始め、そのおかげで数学に対しての自信が付き、それが他の分野にも波及し、総合的に数学の成績が上がっていったという受験生もいる。




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July 01, 2009

不定期連載・数学は難しい(第4回)

・中学まではよかったが


小学校の算数を乗り越えた先に待っているのが中学の数学である。

「高校数学は苦手だったけど、中学数学までなら何とかなった」

という人はかなりいるのではないだろうか。

となると、この「中学数学」と「高校数学」の間に一つギャップがあるのではないか、と考えることができる。

高校数学になってからダメになる一つ目の大きな理由は、

「解き方を覚えてなんとかなる」から「覚えてもダメ」になってくる。

ということである。

例えば中学数学では

「連立方程式x+y=3, x-y=1」

とあったとき、これを「加減法」か「代入法」かを選び、あとは選んだ「法」に従って計算を進めていけば答えが出る。
この方法さえ正しくできれば○がもらえるのである。

しかし、一方で、高校数学においては

「そもそも「連立方程式を解く」とはどういうことなのか」

ということを理解していないと解けない問題が増えてくる。

つまり、中学数学から高校数学に変わる際には

 「方法を知っていればいい」

という姿勢を

 「なぜそのような方法で解けるのか、を考える」

というものに改める必要があるのである。にもかかわらず、この姿勢の改善がなされないまま高校数学の深い部分へ入ってしまい、挫折せざるを得ない状況に陥ってしまうのである。


しかし実は、そもそも中学数学になって導入される概念自体に難しいものがあるにもかかわらず、それをただ「解法の丸暗記」という形で解決しまっていることにも問題がある。


中学数学で導入されるものとして「文字式」がある。実はこの「文字式」というのは、算数から数学への飛躍の一番の鍵の部分なのである。

ただ、「文字の変わりのようなものを小学校の算数でも扱っている」という反論があるかもしれない。実際、

 「□×3=12の□に入る数を答えなさい」

といった問題は算数でもある。この□を「文字」と考えることも可能ではある。

しかし、この場合の□は「4」という具体的な数字の代わりである。一方、中学数学以降で出てくる文字は、例えば、

 「a×bはabと表す」

といった場合、このaやbは「具体的な数字の代わり」ではなく、「一般的ないろいろな数の代わり」であり、その「抽象度合い」が算数のときの□に比べて高くなっている。

この「抽象度合い」が高くなったが故に、事実、中学数学に入ってから挫折する人もいる。

当然、中学生なのだから、「抽象度合いが高くなった」という認識で挫折するわけではない。ただ、今まで具体的な数字が「答え」として出てきたのに、文字のままで「答え」になってしまうのだから、「今までとなんか違う」という認識があり、その違和感が払拭できずに挫折してしまうのだと思われる。

本来、この「違和感」を払拭させていく必要があるのだが、実際にはこの辺りのフォローは弱いようである。文字式の扱いについては「とにかくルールに従って計算をすればいい」と教え込み、できないものは「ゲームのルールを覚えずにゲームに参加する愚か者」というラベルを貼られてしまうことが多いのではなかろうか。

しかし本当であればこの「違和感」というのは持つべきものであり、この違和感を持たずに何となくルールに従って計算している方が異常であり、この「違和感を持たない異常なもの」を認めるということは「何も文句を言わずに計算だけをこなしてくれるコンピュータのような人間を作る」ことを認めることに近い話になるのではないだろうか。


中学数学で「抽象度合いが高くなった」にもかかわらず、アタマを使わせずにひたすら「ルールに従わせる」ことのみを要求されてしまった結果、高校数学に入って混乱を来してしまうのではないだろうか。


また、教える側の中にも中学数学は教えられるが高校数学は教えられない、というものもいる。これは「ルールを教え、それに従い解いていくことを教える」ということは可能だが「試行錯誤をし、問題の解答を考えていく」というのがうまくできない人が教える側にもいるということなのかもしれない。

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May 31, 2009

不定期連載・数学は難しい(第3回)

・算数も本当は難しい

そもそも小学校で習う「算数」も本当は難しいものなのである。

自然数の足し算や引き算、かけ算や割り算といったものは、比較的容易に受け入れられるのであろうが、一方、分数のかけ算、さらには分数の割り算といった辺りは「どうしてそれでいいのか」ということがわかりにくい。

このわかりにくい部分に対して、しっかりとした説明を受け、納得して先に進めればよいのだが、この辺りを習う学年は、ちょうど習う事柄の量が多いため「四の五の言わずに、計算できるようにしなさい!」と言われておしまいになってしまうケースが多いのではないかと思う。

それがゆえ、この辺りの分野で躓き、その結果、なんとなく算数に対し不信感をもってしまい、「よくわからない」ままルールに従って問題を解けばいい、という状況になってしまうことがあるのではないだろうか。

また、「比」の話も難しい話である。比や割合といった辺りは、将来的に極めて大切な分野なのであるが、この辺りでしっかりと理解をさせることをしないで、なんとなく計算ができればいいようになってしまうと、先々の問題に対処できなくなってしまう。


さらに、小学校で習う自然数のかけ算は「九九」を覚えることを中心にしているが、そもそもかけ算は「同じものをいくつも足す」ときに使うものであることをやはり強調するべきではないだろうか。

実際に高校数学Aにある「場合の数」の分野で一番大切なのはこの「かけ算」である。
大学受験生の答案の中には、場合の数の問題で「むやみやたらにかけ算をして、むやみやたらに割り算をする」というものが見受けられる。
これは、「ものを数える際にかけ算を使う」ということに関して何も考えていないことの証拠ではないだろうか。


確かに、小学生や中学生は論理的にどうこうより「とにかくルールを覚えて繰り返す」というのが得意であるし、論理的思考力がつき始めるのは高校生くらいの年代になってからであろうとは思う。

しかし、「理屈を考え、理解する」ということは小学生のうちから身につけていくべきことであり、その蓄積が高校生になってからの「論理的思考力」を身につける土台となるのではないだろうか。


中学受験などもその弊害なのかもしれない。

とにかく問題を解ければいい、ということを中心にしているような気がする。

「2009年5月31日は日曜日。それでは2010年5月31日は何曜日?」

という問題について、

「同じ日なら1年後は曜日が一個ずれるから、この場合の答えは月曜日」

という「パターン」を覚えるだけとなってしまっている。
この問題で、間に2/29が入る場合にはこのようにいかないが、これも

「そういう場合にはもう一日ずらせばいい」

となっている。

この問題の解法を教えるに辺り、

「365を7で割ると1余るから、」

という理由を説明していないような場合もある。


数学が難しくなるのは、算数の段階での下積みの甘さによるものがあるのではないだろうか。


一昔前、小学校で論理と集合を教えていたという時代がある。

しかし残念ながら「親が教えることができない」という理由だったかでそれはなくなってしまった。
また、小学校でこの辺りまでしっかり教えられる教員が少なかった可能性も考えられる。


いずれにせよ、小学校での算数も「専門の先生」にしてみるというのはどうだろうか?

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May 23, 2009

不定期連載・数学は難しい(第2回)

・みんなが苦手な理由

「数学」と聞くと, 「高校生の頃に苦労をした」とか「難しいからあきらめた」といったことをよく口にする人がいる。実際, 数学という学問はそんなに簡単な学問ではないのは確かである。

しかし、その人たちの話をよく聞いてみると、端から数学が苦手であったというわけではないようだ。実際には「高校に入ってから数学が難しくなった」という意見が大勢を占めているように思う。

実際、中学までの数学と高校以降の数学には大きな壁がある、と私自身は思っているのだが、その壁が「数学」が苦手になる原因なのかもしれない。

また、「高校」に入る以前の段階から「数学・算数が苦手」となる理由もそれぞれあるのは確かだと思われる。

ここでは、その「苦手になる理由」について考えてみたい。


\subsection{本当に理解するのは難しい}

A:「角の三等分線を定規とコンパスだけで描くことができない」

とか、

B:「nが3以上でx^n+y^n=z^nをみたす0以上の自然数x, y, zは存在しない」

とかいう具合に「トピック」だけを見てみると、そんなに難しく感じることはないかもしれない。
しかし、これらの問題はその証明を理解するだけでも大変に「難しい」ことである。
そもそも、Bは「フェルマー・ワイルズの定理」でフェルマー予想と言われ続けて360年たった最近になってようやく証明されたものである。

Aの問題もギリシャ時代からあった問題ではあるが、解決されたのは後の時代であり、また、その証明は「代数方程式の解」についての話に帰着されるものであり、これも数学初心者にとっては証明を理解することは難しいことである。

このように「トピック」を理解することは簡単だが、その内容に踏み込むと難しい、というのは数学に限った話ではないのは確かである。

ただ、このような話に「興味を持つ」という人は多いはずで、それが故に、多少の困難を覚悟してもそれを理解しようと内容に踏み込む人も少なくないはずである。

しかしそれが「数学」の話であるが故に、拒否反応を起こしてしまう人も多くなる、というのも事実である。

統計を取ったわけではないので断言はできないが、他の分野に比べて「数学」の分野については、このような「トピック」の内容に踏み込む人が少ないように思う。


それはきっと、「学校で習った数学」のおかげで、「数学に苦手意識をもつ」、もっとひどいと「数学に拒絶反応がある」といった状態になっているからなのかもしれない。

この「拒絶反応」の原因について、次回以降で考えてみたいと思う。

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May 22, 2009

不定期連載・数学は難しい(第1回)

<不定期連載・数学は難しい>第一回

・以後、不定期に連載していく予定です。
・連続して掲載することもあれば、しばらく掲載しないこともあります。


・はじめに

「学力低下」という四字熟語は、四字熟語であるが故にインパクトが強いのかもしれない。近年、この言葉が方々で聞かれるようになってきている。そして、そのあおりを真っ先に、そして一番食らっているのが「数学」という科目であるという話もよくある。

しかし、そもそも数学という教科は難しい教科である。それは何よりも「頭を使って考える」という作業の割合が他の教科に比べて非常に多いからである。そしてそれと反比例して、「頭に入れる事柄」が他の教科に比べて極めて少ないということもある。

そういった意味で、数学という教科は「考える」こととそれを「論理的に説明する」ということの訓練をする上では重要な教科なのであろうと思う。文系の大学であっても、東大や一橋大で未だに数学が2次試験の科目となっているのは「論理的な思考力を数学によって養った人を入学させたい」という気持ちがあるからである、と私は勝手に解釈している。

成績を上げることもなかなか難しく、人によっては「水物」とされ、さらには、最も最初に諦める対象となる数学という教科。そんな教科を教えていることに携わっていると、いろいろと考えることがある。

先の「学力低下」という言葉はよく聞かれるが、そもそも数学が得意な人口は、どの世代においても同じ程度であるのではないだろうか。本当の意味で数学を理解している人は、それこそ少ないはずである。


この不定期連載ではそういった意味での「数学」というものに対して、提起をしていきたいと考えている。大きく言えば、小学校の算数から始まる「数学教育」に対して一石を投じたいと思っている。

「学力低下」の責任を他になすりつけるのは簡単ではある。しかし、それでは何の解決にならないのはどの分野でも一緒である。今、我々にできることはないのであろうか?

それを考える人が増えるきっかけとなれば幸いである。



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