2017年11月

次の予定まで少し時間があったので、久しぶりに日本モンキーパークに隣接する日本モンキーセンターを駆け足で回りました。
霊長類の飼育展示種数は、ゴリラ・オランウータン・マントヒヒなど60種以上・約900頭と世界最多を誇り、園内には京都大学霊長類研究所が入ります。かつて、ウルトラセブンにも登場しました。
アフリカ館の前に記念写真用の檻。ヒト(英名:Human、学名:Homo sapiens)と記された檻に入った姿を撮影することが出来ます。
<特徴>
● 尻尾が無く、体の毛は少ない。
● 優れた知能を持ち、大きな可能性を秘めているが、失敗した時にまわりに与える影響も大きい。それを忘れたとき地球上で最も危険な動物となる。


岐阜小学校運営協議会(コミュニティスクール)委員の授業参観。
全てのクラスを観て回る中、4年2組は道徳の授業。
題材は「お母さんの請求書」。道徳の定番ですが、児童の素直な思いを引き出す担任の先生の進め方が上手で、つい見入ってしまいました。
物語は以下のあらすじです…
〇 たかし君はある日、お母さんに1枚の紙を渡しました。
<請求書>
お使い代 200円
お掃除代 100円
留守番代 200円
合 計 500円
〇 お母さんはちょっと驚いた顔。そしてにっこり笑って何も言いませんでした。
暫くして、たかし君が気付くと、500円玉と1枚の紙が置いてありました。
上手くいった!と喜びながら紙を開くと、
<お母さんの請求書>
看病代 0円
洗濯代 0円
服・くつ代 0円
食事おやつ代 0円
合 計 0円
〇 たかし君は、お母さんの元へ行き、涙をポロポロと流しながら500円玉を返しました。
…児童たちも、感じるものがあった様でした。




BRTトランジットモールが、長良橋通り(若宮町交差点~金宝町交差点の約500m)で、土日の2日間にわたって開催されました。バス交通の利用促進と中心市街地の賑わい創出を目指します。
一般車両の進入を禁止して、4車線の内、中央寄り2車線をバスだけが走行。歩道側の車線を歩行者天国にします。そこに市商連が、ぎふ信長楽市として、飲食や名産品など55店舗を出店。欧米諸国では各地で導入されている姿が出現しました。
両日とも様子を見て回り、2日目は「カードを集めてバスdeチャンス」のミッションにも参加。9箇所のポイントで入手する信長バス(市内ループ線)デザインの9枚のカードを並び替え、謎の言葉を完成させました。


井の口まちづくり会10周年記念講演会「金華山ロープウェーをめぐる秘話」(講師=岐阜市歴史博物館館長:大塚清史氏)が、妙照寺で開催されました。
現在の金華山ロープウェー(岐阜観光索道株式会社)は、昭和29年に、岐阜市、名古屋鉄道(株)など11者が出資して会社設立。昭和31年に営業運転を開始しました。
しかし、そのずっと昔、大正元年に、金華山登覧の旅客を輸送するとして、金華山登山鉄道(株)が免許を受け、索条による路線を計画。昭和3年には金華山鋼索鉄道(株)が免許を受け、ケーブルカーによる輸送を計画しました。昭和10年には岐阜安全バス索道自動車(株)がロープウェイの設置を出願しています。
技術的、資金的な問題や、戦争に向かう影響などもあって、それぞれ見送りとなり、現在の形になったというお話。色々と参考になりました。






金華地区防災訓練が約800人の参加(関係者含む)で実施されました。
「おはようございます。こちらは金華自主防災隊です。訓練、訓練。本日7時45分、南海トラフ巨大地震が発生しました。金華地区の皆さんは、火の元、戸締りを確かめ、町内の指定場所で、点呼・確認をお願いします(2回繰り返す)」。5箇所の防災無線放送と巡回する消防車両(松原)がアナウンスします。それを合図に家を出て、町内ごとに岐阜小学校まで避難しました。
点呼確認のあと、ふた地区ごとに分かれ、救出(ジャッキ等)・三角巾・簡易担架・消火器・煙道避難・土のう・マンホールトイレ・AED等の体験訓練を実施。
岐阜中学校生徒が、防災について発表。また、婦人会が炊き出し訓練で作成した非常食のアルファ米が、全員に配布されました。
最期に、消防団と市民消火隊が一斉放水。消防団は県大会メンバーで出場ですが、指揮者が用事で欠席のため、代理で私が指揮者を務めました。放水の水が弧を描くと、地域の皆さんから、大きな拍手をいただきました。




沖縄本島は、アメリカ軍が上陸し、1945年3月から6月、国内唯一(樺太、硫黄島を除く)の地上戦の戦地となりました。
旧海軍司令部壕は、ツルハシなど人力で掘り進んだ450メートルに及ぶ地下陣地で、当時の姿のまま残されています。この地で、将兵や軍に召集された沖縄県民など約4000人が最後を遂げました。
幕僚室には当時の幕僚が自決に使った手榴弾の破片の痕も残っています。
現在は、平和を祈念する施設として、資料室とともに公開されています。
アメリカ軍の本土上陸を遅らせるため、沖縄を捨て石とした結果、鉄の暴風とも例えられる激烈な戦火によって、日本側の戦没者は18万8千人。内、沖縄県民が12万2千人で、軍人より一般住民の犠牲の方が多かったということです。
以下は、太田實司令官が1945年6月、米軍の激しい攻撃で孤立した司令部から本土参謀本部へ発信した有名な電文「沖縄県民斯ク戦ヘリ」。この中には、当時決別電文の常套句であった「天皇陛下万歳」や「皇国ノ弥栄」などの文言は一切無く、ひたすら沖縄県民の献身と健闘を称えています。
この電文を打電後に自決。
長文ですが、参考となされる方は、ご一読いただければと存じます。
【現代口語訳】
沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。
敵が沖縄本島に対し攻撃を開始して以降、帝国陸海軍は防衛戦に専念し、県民の保護に関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集にすすんで応募。残された老人・子供・女性は頼る者がなくなったため自分達だけで、相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれながらも、ただ着の身着のまま軍の作戦の邪魔にならないよう狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも、風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。
しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。
どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女性は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。
看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。
さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜のうちに遥か遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。
つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして、草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。
食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。
沖縄県民はこのように戦い抜いた。
県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。
【発】沖縄根拠地隊司令官 太田實
【宛】海軍次官
・岐阜小PTA会計監査(元会長)
・岐阜小野球部コーチ
・金華自治会連合会副会長
・金華子ども会副会長
・金華体育振興会副会長
・金華消防団班長
・名鉄労連相談役
・愛知大学同窓会相談役