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沖縄本島は、アメリカ軍が上陸し、1945年3月から6月、国内唯一(樺太、硫黄島を除く)の地上戦の戦地となりました。
旧海軍司令部壕は、ツルハシなど人力で掘り進んだ450メートルに及ぶ地下陣地で、当時の姿のまま残されています。この地で、将兵や軍に召集された沖縄県民など約4000人が最後を遂げました。
幕僚室には当時の幕僚が自決に使った手榴弾の破片の痕も残っています。
現在は、平和を祈念する施設として、資料室とともに公開されています。
アメリカ軍の本土上陸を遅らせるため、沖縄を捨て石とした結果、鉄の暴風とも例えられる激烈な戦火によって、日本側の戦没者は18万8千人。内、沖縄県民が12万2千人で、軍人より一般住民の犠牲の方が多かったということです。


以下は、太田實司令官が1945年6月、米軍の激しい攻撃で孤立した司令部から本土参謀本部へ発信した有名な電文「沖縄県民斯ク戦ヘリ」。この中には、当時決別電文の常套句であった「天皇陛下万歳」や「皇国ノ弥栄」などの文言は一切無く、ひたすら沖縄県民の献身と健闘を称えています。
この電文を打電後に自決。
長文ですが、参考となされる方は、ご一読いただければと存じます。

【現代口語訳】
 沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。

 敵が沖縄本島に対し攻撃を開始して以降、帝国陸海軍は防衛戦に専念し、県民の保護に関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集にすすんで応募。残された老人・子供・女性は頼る者がなくなったため自分達だけで、相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれながらも、ただ着の身着のまま軍の作戦の邪魔にならないよう狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも、風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。

 しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。
 どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女性は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。
 看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。
 さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜のうちに遥か遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。

 つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして、草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。
 食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。

 沖縄県民はこのように戦い抜いた。
 県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。

【発】沖縄根拠地隊司令官 太田實
【宛】海軍次官