2007年09月

2007年09月22日

なんか今日って・・・

妙に暑くありません?
部屋の寒暖計を見ると34℃。でも体感温度は朝から35℃強。
いまだに家の中では短パンにノースリーブでほけほけ飛び回る私(^^ゞ

朝起きてまずシャワー
南南西向きのベランダに洗濯物を満艦飾に干してまたシャワー
床のワックスがけをしてまたシャワー
日課のエクササイズと瞑想をやってまたシャワー

と、もうすでに4回もシャワーを浴びてしまった。もちろん、汗はできるだけ風呂の残り湯で流して、シャワーは仕上げの水シャワーのみ。
なにせわが家は冷房を使っていないから−この夏、ついに一度もスイッチを入れずに過ごした。マイミクで環境問題に取り組んでいる唯さんに「地球人の鑑」と褒められた(^^ゞ−これでもまたすぐに汗が噴き出す。

ふと気がつくと今年お初のツクツクホウシの鳴き声。
ああ、ようやく晩夏か・・・ってもう9月も終わりだよ!?
確実に1月遅れている季節の移り変わり。

地球温暖化、かなりヤバいところまできてるんでないかい?
そして今、私たちにできることは?



2007年09月18日

のんびり各駅停車の旅

da0d57cf.jpg早いもので今回の「親孝行」ヴァカンスも今日が帰宅日。この国に住んでいる限りこうやって有休・代休をちょこちょこ使って、ヴァカンスと言うにはあまりに短い休暇をちまちまと取って慰めとするしかないのだろうか?

 

しかし、その分時間どおりで機能的、物品豊かで、最近ヤバくなってきたとはいえ、まだまだあなどれない治安の良い社会といったインフラを享受できるのだから仕方がない。何よりも世界にはヴァカンスどころか、今この一瞬に喰うものにすら事欠き、戦乱や災害で命の危険にさらされている人がゴマンといるのだ。そういうことを考えるとヴァカンスの短さを嘆くなんてあまりに小さいことだ。

・・・ と、いつものように自分に言いきかせたところで(^^ゞ
母は午後発の高速バスで帰ると言うが、明日ダンナは仕事、私は東京に出る用事ありとあってはそうそうのんびりしてもいられない。9:15のシャトルバスに乗って小淵沢まで行き、列車で帰る予定だ。車窓の右にはゴツゴツとした八ヶ岳、そして左にはあまりにも優雅な富士山のシルエット。相変わらずの対照が面白い。帰りに八ヶ岳リゾートアウトレットに行くからと母もバスに乗って見送りに来て、ついでに駅の売店で買った今が盛りの葡萄の詰め合せパックを持たせてくれた。いつまでも変わらない親の愛。ありがたいことである。

さて、私たちが乗るのは新宿まで1時間半で行ってしまう特急あずさ号ではなく、甲府までの各駅停車である。甲府で高尾行きに乗り換え、さらに八王子、町田をへて地元線に乗って帰る。こうするととてつもなく時間がかかりそうだが、実際はそうでもなく、途中でお茶休憩してもいつも16:00前には家に着いてしまう。とにかく車で中央道の大渋滞にハマったらいつ家に着くかわからないのだ。もちろん特急券も買わなくていいからリーズナブル。前回、このパターンで帰ったら思いの他快適だったので、今後もよほど急いでいない限り各駅で帰ろう、ということになったのだ。

甲府駅の乗り換え列車の待ち合わせは10数分。お昼にはちょっと早いけどここで駅弁を買って車内で食べることにする。今回は名物「元気甲斐(元気かい?)弁当」と竹の皮を編んだカゴに入った「山のお弁当」というおにぎり弁当をチョイス。(写真は前回買った「うまい甲斐」弁当)。「山のお弁当」の容器は、食べ終わった後も数回は使える。おにぎりはラップにくるむより、カゴに入れた方が蒸れないから断然おいしい♪

駅弁を食べながら、あるいは食後にうつらうつらしながら眺める車窓は、ヨーロッパのそれほど洗練された統合的な美しさはないが、それはそれで楽しい。勝沼あたりでは線路ギリギリまで葡萄畑が迫っている。前回来た時はまさに収穫寸前、たわわな実が葡萄棚をしならせんばかりにぶら下がっていたが、今は収穫も終わり、緑の葉も半分色づいている。

葡萄畑の次は、まだまだたくさんの実をつけた梨、林檎、そして短い旬を終えてやはり葉ばかりになってしまった桃と、まさにくだもの王国やまなしの芳醇な風景が次々と広がる。しかし、石和を越えて峡南地区に入るとあとは山とトンネルばかり。ゴトゴト走る列車は、渋滞がなければ並行する20号や中央道の車の方が早いくらいに見える。このころにはさすがにまぶたも重くなる。目覚めるころには高尾についているだろう。

今回も短いながらダンナがサービス精神を発揮してくれたおかげで母も大満足&終始ご機嫌の滞在だった。次回は、ここんとこ行きそびれている清里方面に足を伸ばしてみたい。



2007年09月17日

森のピッツェリア

8b53bf3f.jpg山の家のヴァカンス3日目。今日は母が前から目を付けていたカフェに行きたいと言うので、そこでランチを取ることにする。

 

 

ここいらあたりは、脱サラしたり都会の店で働いた後、念願の独立を果たしました・・・みたいな感じのカフェやベーカリー、そして家具や陶芸の工房がやたらある。そういう店を冷やかしながら散歩するのもまた田舎暮しの楽しみである。

めざすカフェは家から歩いて45分ほどの森の中の街道沿いにあった。標高1000mとはいえ晴れれば結構日差しが強く、日なたを歩けばすぐに汗が吹き出す。さらに実は昨晩、温泉のバブリックスペースにあった「スリムバランサー」なるフィットネス機器を試したおかげで下半身があからさまに筋肉痛(^^ゞ

しかしこのつらさがあるから、緑のトンネルに入った時のさわやかさは堪えられないものがある。車で来れば10分もかからない道のりだが、それではこの自然の豊かさを本当に味わうことはできない。不便さを不便と思わずにありのままの現象として受け入れればどうということはないし、必要な時はレンタカーを借りればいい。なにしろ経済的だし身体と環境にもずっとにいい。車を売っ払ったおかげで、失っていたものを取り戻していることをしみじみ感じる今日この頃。

さて、そぞろ歩きと言うにはちとハードなウォーキングの後にめざすカフェ「GROVE CAFE」に着いた。ここは若いご夫婦が脱サラ後、都内の店で修業したのち、今年の5月にオープンしたばかりのお店。売りは2日前からこねて発酵させた台に地元野菜をトッピングし、ご主人みずから築いたと言う石窯に薪をくべて焼くピッツァというので、私たちも当然それを注文。

木のインテリアで作られたお店は、オープンテラスはなかったが、林の風景をほしいままにする大きな窓がいくつもあるので、あたかも外で食べているかのような気がする。ドーム型の窯の中であかあかと燃え、バチバチとはぜる薪の音と薫りがなんともここちよい。

ちょうどお昼どきとあって一どきに込みあったせいか、注文したマルゲリータが届いたのは、アンティバスト代わりに取ったシーザーサラダと、小柱と長葱のペペロンチーノを食べおわってしばらくたってからだった。しかし、長すぎなければこの「待ち」は最高の食欲促進剤になる。 イタリアのそれより若干小振り、日本人サイズ(?)のそれをカッターで4等分してハフハフと口に放り込む。美味し〜い!トマトソースにモッツァレッラ、アクセントにバジリコの味と香りというおなじみのコンビネーションながら、空気のよいところで頬張るそれはまた格別だ。

ものの数分で空になったピッツァ皿を前にさらに待つこと数分、今度は小エビとアボカドのビッツァがやってくる。 これもトロリとしたモッツァレッラとアボカドにプリプリっとしたエビの歯ざわりの組み合わせがなんとも絶妙〜。これもほんの数分でありがたく私たちの身体の一部になっていただく。この美味しさとメタボ親子3人の食欲をもってすれば3枚目も軽くいけそうなノリだったが、後顧の憂いを考えここは2枚でやめておく。ふと窯の方を見ると「隣のさわやかお兄さん」風のご主人が数を数えながら真剣な表情でピッツァを焼いていた。

ドルチェは別荘村の管理センターで売っている滝沢牧場のジェラート、カフェは家で煎れることにして、ご主人にお礼を言って店を出る。帰りはだらだらとした上り坂。さすがにへばった母は、平山郁夫シルクロード美術館の前からシャトルバスに乗ると言い早々に戦線離脱したが、私たちは湧水を汲みにあと1kmほど歩かなくてはならない。もちろん汲んだ水を運ぶのは今日はダンナの仕事だ。

突っ込んだ手がちぎれそうなほど冷たく、しかし限りなく甘い湧水を汲んだ後は私たちもバスで家に戻った。ジェラート、カフェを経たのちのシエスタが至福の時であったことは言うまでもない。たとえ翌日まで筋肉痛をひきずったとしても(;-_-+



2007年09月16日

山はもう秋♪

0cb00079.jpg先日の夏休みに引き続き、今回は実家の母を連れて八ヶ岳の山の家に来ている。ふもとの甲府はまだ30度強の夏日が続いているが、1000m上ったここはもう長袖でないと寒いくらい。道端には「風林火山」の幟と共に満開のコスモスがそよそよと揺れている。

 

今朝は朝から母とウォーキングがてら、近くの「三分一湧水」と「女鳥湧水」でまずは水汲み。デイバッグに満タンのペットボトルを2本いれるともうずっしり重くなるが、これで作ったコーヒーと水割りはめちゃくちゃ美味しいので耐えるっきゃない!

そのあと地場野菜スタンドと母お気に入りのベーカリー「JOICHI」で3日分の食糧買い出し。このパン屋は最近人気が出て、開店と同時にでないと買いそびれてしまう。開店より遅れること5分、すでに店の前には車がたくさん止まっており、「やばい!」とばかりに水を背負ったままダッシュ!ダッシュ!無事、名物「花豆パン」の最後の2本をゲット。いぇ〜(^^ゞ

そんなこんなで両手背中共、食糧で一杯になったので帰りはシャトルバスに乗ることにする。車がないと確かに不便だけど、その代わり歩く距離は格段に増えた。バス停からさらに腰曲げて、急な階段をずりずりと上って無事ご帰還。たっぷりかいた汗もすぐに引くから気持ちいい。これぞスローライフ(^^ゞ 今日はこれから朝どり野菜ときのこでパスタを作ってランチにする予定♪

ちなみに所用により今日こちらに向かっているダンナは、大渋滞にハマってまだ相模湖どまりとのこと。いやはや〜(^^ゞ



2007年09月07日

パヴァロッティ逝去(追記あり)

また1人、オペラ界の巨星墜つ・・・。
イタリアの新聞はもちろん1面トップ、洋の東西を問わずネット上のオペラコミュニティも今はこの話題で持ちきりだ。おかげで勉強も家計簿つけも進みゃ〜せん(^^ゞ

往時の華やかさ、輝かしさは失われたとはいえ、トリノオリンピックの開会式にサプライズで登場し、世界をアッと言わせた上に「誰も寝てはならぬ "Nessun dorma"」で「キング・オブ・ハイC」の健在ぶりを示していただけにとても残念。死因のすい臓がんは、予後が悪いことで有名だ。私の父も、同じ病気で70にならずに逝った。発見から半年、私たち夫婦の入籍後、ちょうど1ヶ月後の出来事だった。

とりたててファンというわけでもなかったので、そのうちにと思いつつ、ついに生声を聞くこともなかったが、母国イタリア、特に生まれ故郷のモデナに代表される北イタリアの晴れ渡った空を彷彿とさせる輝かしい歌声は、やはり戦後のイタリア・オペラ界を語るには絶対に欠かせない。現に、選んだわけでもないのに私のAVラックには何枚もの彼のCD、ビデオ、DVDがある。特にシャイー指揮、ポネル演出、全編マントヴァ・ロケで撮影された「リゴレット」のDVDは、パラッツォ・ドゥカーレの廊下でゲラゲラ大笑いしながら歌いまくる彼のアップに−ついでにトウのたったグルヴェローヴァのジルダにも−辟易、ファンの間でも実に毀誉褒貶の激しいいわくつきの一品だが、そのアクの強い魅力ゆえか気がつくといつも手に取ってしまっている。

私にしてみれば「3大テノール」の1人というより、あくまで「1人のパヴァロッティ」だ。いくらカレーラス、ドミンゴをもってしても、あの輝かしい、スコーンと突き抜けた声にはかなわない。オペラファンには好悪を越えた存在、まさに真のスーパースターだろう。

今、手っ取り早くイタリア国営放送RAIに続いて、オーストリア放送協会ORFの追悼特集をネットで聞きながら書いているが、トーニオ、ネモリーノ、マンリーコ、ラダメス、エドガルド・・・と次から次へとイタリア・オペラの代表的テノール・キャラが出てくるのは実に圧巻。じきにマントヴァ公やロドルフォ、カヴァラドッシといった十八番も出てくるだろう。天上の人となった今では、トレードマークの高音より、歌っているというより、語っているかのような美しく明瞭なイタリア語の発音と、リリコの極みともいえる叙情的で切ないフレージング、そして絹糸のようなピアニッシモにむしろ心が揺さぶられる。しかしそれをもってしても埋められないどころか、ますます広がる喪失感に、まさしく不世出の大テノールだったことを実感。冥福を心より祈りたい。

それにしても去年から今年にかけて、シヴァルツコップ、恩師の師匠であったヘフリガー、そしてこのパヴァロッティと、私のオペラ&声楽暦を語る上で欠かすことのできない、20世紀を代表する大歌手が次々と鬼籍に入っているのは本当に残念。
やはり「巨匠の時代」はもう終わってしまったのだろうか?

【9/20追記】ルテッリ、ゼッフィレッリ、モレッティといったヨーロッパ政財・文化界の重鎮はもちろん、U2のボノ、ジョヴァノッティ、ズッケロなどポピューラー界のスターも出席し、プロディー首相が弔辞を述べ、カヴァイヴィンスカとボッチェッリが「アヴェ・マリア」をささげ、実に10万人もの人が弔問に訪れたというパヴァロッティの葬儀は、RAI-1で生放送されたが、その映像がまるまるRAIのサイトにアップされている。

TG-1 - L'addio a Pavarotti

特別ゲストとして実況に参加した同い年の幼なじみ、名ソプラノのミレッラ・フレーニが最初は気丈に思い出話を語っていたのに、最後には涙声になって話せなくなってしまうのがなんともいえない。2人の母親は同じタバコ工場に勤めていて、それぞれの休み時間に2人の子に乳を分け与えたという、まさに"fratello di latte(乳兄弟)"の間柄。共に労働者階級の出身でありながら、その才能だけでイタリアオペラ界のトップに上り詰めたという点でも、兄弟であると同時に、戦友のような間柄だったといえよう。

当初、カヴァイヴァンスカの歌った「オテッロ」の「アヴェ・マリア」はフレーニに依頼があったというが、彼女は「あまりに大きな衝撃のため胃痛がして歌えない」と断って、その代わりこの実況に参加したとのこと。因みにパヴァロッティはユヴェンティーノ、フレーニはミラニスタだったため、このことでもよくケンカしたそうだ。

棺の上に飾られたたくさんの満開のひまわりと、美しいモデナの大聖堂にまさしくオペラの1場面のように響くミサ曲の数々が、たとえ晩年は歌よりも数々のスキャンダルで話題になったといえど、この稀代のテノールの明るい性格と人懐っこい笑顔に象徴された人生そのもののようだった。
あらためて偉大な存在に、合掌。