2018年07月13日

知識は営業の武器になる!

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安積疏水、郡山の歴史、を知れば営業の武器になると思います。今の時刻午前2時30分です!書き込みは2時間かかるかと思います。飲みながら食べながらですから、ブログに書き込む事で私の記憶に残ります。・・・その後ボケモンGOで駅前を徘徊します。

この書き込みは郡山の歴史的知名人「今泉久三郎」氏が残した日記です。・・・慶応四年1868年八月七日

夜がほのぼのと開け始めたが、賊が来なかった。少し安心してるうちに、間もなく会津兵が押しかけて来て、如宝寺辺りからしきりに鉄砲を撃ってくる。

所々へ放火もし出した。会津兵の人数もはっきりせず、町中の人々は大変狼狽して、あっちこっちへ逃げ去る。多くは横塚村へ行く。その様子はまるで蜘蛛の子を散らすようである。私も鉄砲を持って横塚へ行くが、途中で町の方を振り返って見ると、所々から火が燃え上がり、折からの西北の風が激しくて大火になってしまう。しかし官軍の出兵はまだないので、阿久津の渡り船場へ行く。数日前から大雨だったから阿武隈川が大水で、途中の玉ケ淵の辺りや畑の中は腰の辺りまで水があり、私はこの水の中を漕いでいく。渡し場についてみると一船に五十人ほどが乗り、こちら側に渡りその後を追い次々と渡って来る。その人数は四百人ほどになる。私がそこに進み出て、事の顛末を報告し、すぐに出兵を依頼する。

案内には芳賀忠右衛門のほか一名に命じて、一隊は大重より町の西裏に出て、もう一隊は、阿弥陀町の方から西に回る手筈になる。しばらくして官軍の兵が郡山の町に着いたと見えて、合図の鉄砲を打ち上げると、鉄砲の音がおびただしく聞こいるようになる。その後賊は逃げ去ったとして官軍は阿久津へ引き揚げて行った。私と阿部茂兵衛・武田太左衛門の三名で阿久津村にいる太田衛太郎殿に面会を求め、今の形態を話す。暫く休息してくる。

郡山宿火の勢いはますます場盛んで、夕までに、上町の西側の二軒を残して南側残らず焼失し、下町は安楽屋兵四郎・井枡屋久兵衞まで焼失した。阿弥陀町・東町・北町・稲荷町も焼失する。その内東町の端六軒、十日町の西の方三十軒ほどは残る。蔵場町郷蔵・如宝寺とその門前も焼失、馬頭観世音の御堂もこのとき焼失してしまう。三代官役宅や町足軽宅、牢獄も共に焼失する。私の本宅と長屋が焼失。土蔵は三つは雨覆いのみ焼失して無事であった。七日午後三時頃横塚村へ立ち寄っていると、またまた賊が来て、焼け残った善導寺その他に放火したり略奪などしたので、多数逃げて来る者ある。止むを得ず、東阿部家家族一同安原村へ行き、安原四郎宅に滞在する。

八月八日・・・・横塚から郡山宿へ戻って町中を見ると、まだ所々に焼け炭煙をだしている千戸の宿駅が燃え尽き、目も当てられない有様に変わった。夜になるとあっちこっちの焼け残りの土蔵に明かりが見入るのみである。淋しい事言うに言われない。


八月九日

焼け炭の片付けに取り掛かる。この日守山藩の兵士が出張してくる。その内町中で、一人の悪者を捕らえ切首の刑にした。その者の首を青竹の先へ刺して善導寺入り口道路の傍に掲げ、町の人に晒すこと三日間。日々賊軍が押しかけるという噂があり、町の人々は落ちつかない。



日記は続くのでしょうが・・・・郡山の戊辰戦争・・・・ー庶民の史料から見る戦争の実際ー

でした、私も写す事に労力を使いましたが「郡山と会津、そして郡山宿の人々の結束力に感心しました」郡山の歴史をお客様に語れる引き出しが増えました。

鮨が美味しいのは基本、郡山を語れるレベルに来てます。・・・私のお店も古文書の地図を見ると「大槻代官、片平代官、郡山代官」の裏側のお堀があった所の場所だったらしいです。・・・だから陣屋通り松喜鮨です。・・・善導寺さんは昔は今のうすい駐車場にあったらしいです。






matukizusi at 03:40│Comments(0)clip!

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