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自由人の系譜 中勘助「銀の匙」と野上彌生子「森」(7)

当初の目論見では、この稿を前回で完結するつもりだったのに、そうはならなかった。何事も思惑通りにはいかないものだ。人生みたいに。
と、そういう事情なのでこの最終章は、どちらかというとこれまでの書きこぼしを拾った余録めいたものになろう。 で(註)、この場面から。
「仕事いよいよ調子よい。『愛』 と昨日ことづけた原稿できめた。私が若い人の愛をこれほどみづみづと描いたのを人は不思議がるかも知れない。私の気もちに若い時からもえつづけたものが、大にそれに役立つたわけだ。しかし、それは今はしづかにほんの名残のりの花の香のやうに胸に漂つてゐるのみだ。それが却つてたのしく、快い」(S26、10、28、66歳)
これはこの年9月に中勘助夫妻を山荘に迎えてのち、一ヶ月ばかり経っての野上彌生子日記の記述である。
(註・文の接続に頻繁に使われている中勘助独特の語法。)

絶好調ではかどっている仕事は「迷路」の執筆のことで、その原稿の章題を「愛」と名付けたというのである。つまりはようやく勘助を山荘に請じ入れ、ひとつの念願を果たしての気持ちの高揚が若き日の初恋の記憶と相まって、そのまま筆にも乗り移って思いがけないほどのよい文章が描けたいうことらしい。
しかし目の当たりにした彼は昔の彼ではない、歳月は二人の間にも充分に斧を振るった。勘助滞在中の日記には眠れぬ夜を過ごしたとあるのだから、様々な思いが去来したのだろうが、思い出は思い出として楽しむほかはない、どうやらそういう心境に達したようだ。
が、「迷路」執筆の筆先を滑らかにしていたのは、そのせいばかりでもなかったのではないか。というのも、この後10月31日の記述には、例の「彼は笑はない哲学者になつてゐるが、私との話ではよく笑ふ。口をすぼめ、眼を細くして、おばあさんみたいな顔で笑ふ」彼、田辺元との親密さがすでに相思相愛の雰囲気を漂わせる段階まで高まってもいるようだからである(夫人の死からまだ間もないのだけれども)。

この時、野上彌生子が「迷路」の章題をストレートに「愛」とした気分がわかるようである。「迷路」は昭和11年に着手され、戦争を挟んでの余儀ない中断はあったものの昭和31年に完成させているので、ちようど二十年の歳月が費やされた文字通りの大作である。その代表作に、初恋や老年の恋が思いがけない形で影響しているとすれば、小説家野上彌生子はとても幸運な人であったといえるだろう。こんなことはまず起こり得ないのだから。
そればかりでなく、老年の恋は次の傑作「秀吉と利休」の誕生にもからんでいる。田辺哲学の高弟であった唐木順三の「千利休」を彌生子が読み、小説にしたいと考え、その仲介の労を田辺がとった(このことを知った勘助の彌生子宛書簡に、実は自分も利休を書いてみたかったのだとの一文がある。茶を通じての利休の求道精神に自己を重ねるものがあったのか?)。

そして最後の作品が「森」である。
「評伝 野上彌生子」のなかで岩橋邦枝は「森」について、「私は野上彌生子の遺作『森』を初めて読んだとき、とりわけ後半の熱っぽい劇的な迫力に息をのんだ。長寿でこれほどタフな女性作家に怪物性さえ感じた。それがきっかけで野上彌生子の人と作品に関心を注ぐようになったのだが、見てきたとおり彼女は怪物に非ず、地道な勤勉努力の人であ」ったといい、最後の最後まで「若々しいしなやかな精神の活力」を失わなかった彌生子に感服している。
また「森」の主題を、明治女学校で起きた聖職者と女学生のスキャンダル事件を通して、「彌生子が田辺元の哲学講義から学んだ人間の二面性、二重性」を描くことにあったと分析、それは69歳の彌生子が田辺宛に送った「一生をかけてたゆまず勉学いたします事によつて、一歩づつでも向上の道がたどれるはづと思ふ事のみが私のわずかな期待でございます」、「私は死ぬまで女学生でゐるつもりです」という文面とリンクする、という。

「森」執筆の後押しをしたのは田辺元あったであろうし、全く岩橋邦枝の推測する通りであろう。
このように述べると、「評伝 野上彌生子」は彼女の業績を讃えるために書かれた書物のように思われるかもしれないが、さにあらず、知性的でない野上彌生子の実像をも辛辣にえぐり出してもいる。あの野上彌生子がこんなことを!というような行いも容赦なく拾い上げられているのであるが、その最もたるものが中勘助への長年にわたる慕情の矛盾であろう。
つまり、若き日の彌生子の告白について勘助が一度も書いていないのは、一方的な「彌生子の片思い」に過ぎないからだと切り捨てた「中勘助の恋」の富岡多恵子の見解同様に、岩橋邦枝も彌生子の全くの「自分本位の思いこみで解釈したかもしれないが、中が一度も書かなかったのは、彌生子を問題にしていなかったからであろう」と、きっぱり否定した上で次のように書く。

「中が長期にわたり断続連載していた日記形式の随筆は、事実そのままではなく発表の時期(年)もずれているとはいえ、彌生子はつねに読んで、時には岩波夫人や周りの人から彼の噂を聞いて、兄の発病以来の彼の〈現実的な境遇〉が、彌生子の過去の告白などかまっていられないということぐらい、察してみなかったのか。また、中が『蜜蜂』で追慕しているかけがえのない〈姉〉は別格だとしても、江木万世と妙子との長年のいきさつを彼の随筆で読むかぎりでは、この美しくて才気に富む母と娘は、彌生子よりもはるかに深く彼の生活に関わっている。どこから見ても彌生子の負けである。かないっこない。彼女たち母娘の存在にくらべたら、彌生子の告白と別れは、中にとっては青年期の一つの小さなエピソードにすぎないように見える。
しかし彌生子はどう読んだのか、思いすごしを頑として変えようとしない。安倍能成宛の手紙の一節で見るとおり、彼女は自分の若き日の告白が中勘助のその後の生活を左右する原因になったと、六十半ば過ぎても思いつづけ、自惚れた独りぎめを自省するふうもない。この自分本位の思いこみの根強さは、迷わず挫けず小説を書きつづけた彼女の持続力とつながるものがある。彼女が日記の中でくり返し責めている夫豊一郎の嫉妬深さも、彼女の思いこみを差し引いてかかるほうがよいかもしれない」

説得力満点。恋、とりわけ初恋の魔力はおそろしい、それ以外に付け加えることはないであろう。
ところで岩橋邦枝は、彌生子の告白があったのは結婚後だと推定している。「もし結婚前のできごとであれば、中が安倍といっしょに彼女たちの新家庭へよく謡いに来るような交友はしたくてもできなかったであろう」
が、そのすぐ後に、「銀の匙」の原稿を漱石に送ってから朝日新聞に載るまで、勘助は漱石に三度会っているが、二回は安倍能成が三度目は豊一郎が同伴したのだという。それでは豊一郎が彌生子の告白をいつ知ったのかという問題が残る。もちろん告白を知った上で、友人のために一肌脱いだということも不自然ではない(でも、それよりは結婚前に告白を受けていたとするほうがより自然ではあるだろう)。
結婚後だとするならば、何ゆえに豊一郎ばかりに責めを被せることが彌生子に出来たのか、やはり納得がいかない。大分臼杵の御三家に入る家柄の小手川家のお嬢さんに生まれた彌生子と、その小手川家の酒を細々小商いするしがない雑貨屋の息子の関係が、結婚生活にまで影を落としていたというのだろうか。

何はともあれ同じ漱石門下から作家として出発した中勘助と野上彌生子。野上彌生子が終生変わらず漱石を師と慕いつづけたのに対して、中勘助は漱石の作品をまともに読んだこともなかったというのが実情のようである(最初の「吾輩は猫である」からして、途中で読むに耐えなくなって放棄したほどであった)。
「銀の匙」をめぐっても、後篇をより高く評した漱石とは逆に、勘助は前篇の方を気に入っていた。その理由は前篇の方がより良く詩的であるからという理由によるものだった。
中勘助の本質は根っからの詩人だったので、不純物を排除出来た独得の日記体随筆を愛用したのは彼の体質に合っていたのである。不純物を抱え込まざるを得ない小説は書けなくなるわけだ。

勘助の兄金一が自殺であったことを初めて公表した菊野美恵子氏(この方は金一の妻未子の兄の孫だという)の前掲の文章を読んでいたら次のような一文が挿入されていた。
「中勘助は漱石の作物を読んでいないというけれど、読む以上に彼は漱石を知っていた。鈴木三重吉や森田草平は漱石門下であることを誇称していたけれど、彼らにはそういう面での漱石の血は流れていない。中勘助は自分では漱石の弟子の〈末席を汚した〉といって謙遜しているけれど、そういう意味では、ほとんど直系だと言っていい」(西尾実・近藤忠義共編「現代文学総説第二」1952年、学燈社)
この文の著者は杉森久英。調べてみると、例の1987年の岩波文庫創刊六十周年大アンケートに杉森の名前があって、やはり「銀の匙」(ほかに日本文学では梶井基次郎の「檸檬・冬の日他九篇」)を挙げていた。推薦理由には「繊細な感受性と、はっきりした自我を持つ少年の成長の記録です」とあった。

至言であるかな。「漱石の直系」というのか、まさしく中勘助は漱石的世界をそのまま生きた人であった。そう思えてならない。
先ずもって勘助の詩藻(しそう)は漱石の漢詩の世界であるのに始まって、「銀の匙」は漱石の「坊ちゃん」の繊細少年版だともいえるし(兄金一を主人公にしたら「坊ちゃん」になるのかな)、勘助と兄嫁未子との関係はまるで江藤淳が想定したところの漱石と兄嫁登世との関係みたいで(「漱石とその時代」)、則天去私の世界だって(でもこれ本当に漱石が言ったのだっけ?)、勘助が専心求道した境地であったのでは。ま、こじつければ何だって似通って見えてはくるものだけど。
が、あながち見当外れではないかもしれない(杉森久英の論旨とは、すでにだいぶん逸脱しているけれども)。富岡多恵子も「中勘助の恋」にこのように書いているのだから。

「勘助と江木定男・万世との関係は、漱石の『こゝろ』に登場する〈先生〉とKの関係と逆になっている。〈先生〉は、友人Kがお嬢さんを好きだとの告白を聞いたために、それまで彼女と結婚しようとはっきり思っていなかったにもかかわらず、急に結婚を申しこんだ。〈先生〉には、Kがお嬢さんを欲するのを知るまで彼女は欲望の対象とはならなかった。つまり自分の欲望の対象の価値を保証してくれる第三者があらわれてはじめて自分の欲望を認識する。勘助は万世に〈鋭い刃物で胸板に刻みつけるやうな〉〈消し難い印象〉を受けながら、万世から相談を受けると定男との結婚をすすめ、定男が万世と結婚するというと〈心から成功を祈〉って身を引く。つまり勘助は『こゝろ』に於けるKの立場である。〈先生〉はKの自殺後、結婚してからもずっと墓参りを欠かさないが、江木定男は勘助の苦悩をおそらく知らぬまま無頓着に暮している。
勘助にはKにはなかった苦悩がさらに重なる。万世が結婚し、派手に暮して子供をもうけながら、勘助が家庭的にも文学的にも〈危機〉であった時期に、じつはあなたの方が好きだったと告白にくる。女(万世)の側からは定男が欲望の触媒をはたしたKの立場になるが、その時すでにKとなって欲望の対象外の世界に放逐されている勘助に、女と一対一の関係で相手の価値を発見できるはずはない」

まったく漱石は、勘助のこの恋愛劇を知っていたかのように「こゝろ」を書いたのであったかと思わしめるのだけど、でもこの三人の関係、どちらかというと「それから」における代助、三千代、平岡の三角関係に酷似しているのでは?
そう想ってくると、万世は「虞美人草」の女主人公藤尾とも、「三四郎」の美禰子とも重なってしまうし(こちらは平塚らいてふモデル説もあるけど)、「行人」の神経病みの主人公はまるで勘助のようでもあるし、「門」の寂しい夫婦なぞ兄のために仕方なく結婚した勘助の心象風景めいて読めてしまうのである。
上の富岡多恵子の仮説は、勘助の小説らしい小説「提婆達多」と「犬」を論じた章にあるのだが、もし中勘助がこの系統の本格小説を(野上彌生子のように)書き残してくれていたら良かったのに。その才は充分備えていたと推測されるのに。

さて、再び野上彌生子日記に戻って、野上彌生子が(豊一郎を別にして)愛した二人の同年生まれの男の死の記録を覗いてみることにしよう。
北軽井沢での「先生と奥様」の講義は、「午後先生へ(帰京する)御別れかたがた最後の講義として先生が鈴木大拙のためにいろいろ伺つた」(S35、11、29、75歳)のが、文字通り最後となった(田辺元全集月報にはそれをプラトンの『ポエチカ』と書いていたのは、それが本格的な講義だったという意味か?)。
翌年、正月早々の1月2日に地元の人から電話で先生が倒れたことを知らされる。「先生が軽るい脳溢血、右手に少々異常。気分もたしか、言葉にも支障ない。長野原の医師が来診。先生はお弟子さんたちには知らせるなといふが、とにかく私だけに内報」したのは、「野上の奥さまだけには黙つてゐては、あとで私(先生)が叱られるからといつた由」(1、3)だと知れた。
彌生子は風邪で体調が悪かったにもかかわらず、直ちに次男の親友のいる群馬大学医学部に連絡をとり、往診の結果脳軟化症と診断されると同病院への入院手続きを手配し(10日に入院)、唐木順三にも知らせた。

彌生子が最初に先生の病室を見舞ったのは、2月27日である。
「(先生は)おカイコのやうに蒼白であつたころよりいつそ血色がよいが、しかしそれが病気のしるしなのであらう。言語障害は六分位よくなつたといふが、それでもよくききとれない部分が多い。例の一筆書いておいて貰ふことは、ゑん曲に口にだしたが、肯定、否定いづれの返事も得られなかつた。いまは〈死〉とともに横はつてゐるにひとしいのに、却つてその死ともつともレンカンのある死後の事を、シンケンに思考することを避けてゐる感じがするが、それよりむしろ今は病気について思ふ事以外にゆとりがないのかも知れない。いろいろ思惟したことが、いまは思惟通りにはいかないうんうんの言葉もあつた。もう一度講義がきかれるやうにいつて別れた時には泣かれた。それまでも(付き添いの)梅田さんが紙をもつてそばから涙をふいたのであるが・・・」
彌生子が婉曲に口にしたのは先生の死後の財産処理についてである。先生の高弟たちがそれまでに遺言の作成を願い出ていたのであるが、田辺は未だ死を問題にしてはいなかったのである(このあと遺言により、遺産が群馬大学と手伝いの梅田夫婦に贈られたことはすでに述べた)。

このことを高弟の一人から耳にしていた彌生子は、見舞いの二週間ほど前にこう記していたのである。
「この三、四年、死こそは先生の思索の主題で、つねにそれと対決してゐるらしく語られたのに、今になつてもそれを近いものとは考へられないのは不思議である。平凡人ならこれもムリではない  しかし先生ほどの人がとおもはれるが、それでも〈死〉とともにある事が実感されないのは、やつぱり〈人間〉の愚鈍さであらうか。私が二十五六日に行く事を話した。その場合、自然に機会が見つかれば、私からキリダス事になりそうだ」(2、14)
5月10日、二度目の見舞い。
「先生は二月より顔色も普通の血色で、むくんだやうなふくらみもとれて快方が眼につく。しかし左半身の不随は依然としてゐる」

この年の山荘入りは7月4日。手伝いに来てくれる梅田さん(田辺に付き添っている千代の夫)から、彌生子はあらためて先生の発病当時のことを聞く。「正月元日に梅田さんが十時ごろ 年頭のアイサツに行つた時には机で書きものをしてゐたーマラルメの訂正ならんか。ーやがて右手が少ししびれる気がするとて床をとらせて寝た。その日の午後はフロのたつ日であつた。やめた方よからんと思つたが例のキマリは決して変へない流儀で、ぬるくしてはいるといひ、入浴中にタタキにうつ伏しに倒れた。もし湯ぶねの縁にでもアタマをぶつつけたらそのままになつたかも知れなかつた。低い呼び声に梅田夫妻が駈けこみ、二人が寝床に抱へこんだ。
その晩梅田さんが書斎の方へ泊らうといつたがそれもきかれなかつた。ところで夜中大便、小便をしたたか洩らし、朝になつてその後かたづけが大変であつたときいて情けなかつた。
これがあの先生かとおもふと気の毒ともなんともいひやうがない」(7、6、76歳)

7月17日の見舞いでは「先生は数日まへ胸が痛み、幻覚が生じたりで発熱、元気なく、私のハガキにたいして見舞いには来ないでといふ返事をお千代さん代筆でだしたとのこと、行き違ひであつた。お逢ひしないで帰らうかといつたが、とにかく逢ふとの事で病室に通る」、同行した谷川徹三が去り際に握手すると、少し泣かれたとあり、ついで「心デン図などにはまだ異状なく、暑さで著しく食慾がないのと、夜もしばしばの尿意で眠りのできないのが衰弱のもとらしい」と書かれる。
さらに7月31日には「先生は熱もとれ、心臓もその後異状なくなつた。さうして夜も昼も長時間眠りをむさぼるやうになつたとのこと。また物忘れも著しく、朝来た医者を夕方わすれてゐる有様といふ。痛ましい事ながら〈生ける屍〉に近いものになりつゝあるのではなからうか」と、心臓に関する記述はつじつまが合わないけれども先生の衰弱していく様子が見て取れる。

ところが彌生子も8月2日、幾度とない下痢で伏せってしまう。食あたりであろうといろいろ原因を考えるうち、いずれにしろ早い手当をとゲンノショウコを煎じて飲んだらてきめんの効果を発揮して、よく眠れた。
その翌日の記述。「夕立のためか夜半は冷え、それに下痢もあつたので布団を一枚とりだして重ねたほどであつた。頭痛も腹痛もあつたわけではなく、たえず便がつゞいただけなのに、からだに力がない。たつた半夜のこれだけの生理の違和が肉体にすぐ作用するのだから、先生の長い病臥が、それに脳の病気だけに、精神に大きくひびくのはやむをえない事であらう」
この日先生の遺産処理の問題があらかた解決しつつある知らせがもたらされた事、しかしながらそれにもややこしい諸問題が派生するという事がこまごま記され、こう結ばれている。
「いろいろと話をきくにつけても、人間は死ぬ事も面倒な事がつきまとふ。生まれる時にはお産婆と産着ぐらゐあればすむのだから、死は生よりよほど手数がかゝる」
この日をもって新しいノートに日記が交換されるや、いよいよ新ノート表紙には「田辺先生御逝去の記事あり」との短い上書きが認められるのである。

が、それはまだ半年以上も先のことである。彌生子は11月13日にも見舞うが「先生はお変はりなし」であった。そして25日、下山する。
12月31日の日記には、先生が正月から入院したことは不幸であったとしながらも、SとY(長男と三男)が無事学位論文にパスしたことを寿ぎ、「とにかくかうして三人の息子も一人前に社会的に地歩をかためてをり、どうにか生活する収入もあり、且つみんなそろつて健康である事は感謝しなければならない」と結んで一年を閉じている。
それではこの昭和36(1961)年という年はどんな年であったのか、参考までに彌生子の日記の記述から三点ほど拾っておく。
まず1月21日、米国大統領がアイゼンハワーから43歳の若きケネディに交代。ケネディは東西冷戦中の6月、ソビエトのフルシチョフ首相とウイーンで歴史的会談を果たすが物別れに終り、翌年のキューバ危機につながる。
その対談前の4月12日、ソビエトはガガーリンによる人類史上初の宇宙有人飛行に成功して、アメリカを宇宙開発の分野でもリードしており、フルシチョフは強気だったのである(「地球は青かった」の名言とともに、一躍有名人となったガガーリンは妻と来日もしている)。これらにおける彌生子の記述は、そのスタンスから当然アメリカに対してより批判的である。

また2月2日の日記には、前日発生した中央公論社社長襲撃事件の記述がある。深沢七郎の小説「風流夢譚」を皇室を侮辱した作品だといきり立った右翼が、その掲載誌「中央公論」の社長宅を襲撃した事件である。社長は不在で、お手伝いさんが殺され社長夫人が負傷した。以来、深沢七郎は姿をくらまし全国を放浪した。
彌生子は先生が入院中もずっと書き溜めていた原稿「秀吉と利休」を、この翌年一月から「中央公論」に連載することになる。
深沢事件の六日後、(以下、繰り返しになるが)相馬黒光(新宿中村屋創業者)の七回忌の記述につづけて、「明治女学校の事や巌本(善治校長)氏の事、ほんとうは一度書いておくとよいのだが」という一文があるのは、黒光が明治女学校の先輩だからふと書き付けたのだろうが、すでにして「森」の構想は胸中に浮遊していたものと思われる。
以上、蛇足ながら。

先生危篤の連絡があったのは、昭和37年4月25日であった。「ニ、三日前より病状に変化が生じ、脳軟化が左に移つたらしく、左脚が利かなくなり、言語障害がひどくなつた上、全身の発疹、腹部の膨れなどにて食事が不振に陥つた事が判明、早急にどうといふことはないにしろ、とにかく東京の方へしらせるべきだとの事になつた由」とある。
彌生子は28日には来客があって動かれないとつづけているが、その日に延期していた豊一郎の十三回忌食事会を予定していたからである。
そのためもあって29日群馬大病院に駆けつけると、先生の親族や弟子、病院関係者などがたむろする中で「先生はまだ昏睡状態でこの病気特有のいびきに似た声をたて」ていた。
「私は奥さまの死の場合は先生が一人でこまつてゐられたので万事とりしきつた世話をしたのではあるが、今は親戚から弟子の諸氏がことごとく揃つてゐる事故、なんにも手だしをすることはないのだし、御暇乞ひはこのまへの訪問ですましたといつてよいのだから(4月6日の見舞いを指す。先生は盛んな幻覚について語ったとある)、今日は一と先づ帰るべきだと思ひ」、唐木順三などに声をかけて帰京した。

上野から電車で成城へ着いて、そこから家人に電話したその電話で先生が死んだのを知らされた。四時二十五分に前橋発の電車に乗ったのだが(それを外すとあとは連絡が悪いので)、翌日の新聞で先生は四時四十五分に死亡したことが判明した。77歳であった。
「もう少しゐたら御臨終に侍してゐられたわけだが、しかしいつそ帰つた方がよかつたらう。もう一切がビジネスなのだから」(4、30)。前日にも「死はもう事務になつてゐた」と記述されている。
「昨日のあの状態の中で急に死が来て、一切が休止したとのこと。いかにも安楽な最後といふべきであつた。夜中に解剖、脳のマヒは可なりひどいものであつた由。脳髄はそれほど重くも大きくもなかつたとのこと、マヒで縮んだのかもしれぬとのこと」(4、30のつづき)
彌生子は北軽井沢での5月6日の先生の葬儀に出席するべく、前日山に入り葬儀の模様をるる書き連ねて三たび同じ感想を記す。
「臨終とともに死が事務になるのは誰の場合にも致し方がなからう。先生の葬儀もそれを免れず、また公的なものが加はつていつそう演出味をそへたわけだ。しかしかうなればそれがなりたけ効果的に行はれるのhs望ましいわけで、とにかくその意味でそれなりに自然に都合よくことが終つたのは関係者をホッとさせたであらう」

葬儀後、いったん東京に戻り再び6月3日、山荘暮しに入る。そこに先生の看病から解放された梅田千代が手伝いに来て、先生に関するさまざまな打明け話をする。
「先生のカンシャク話もいろいろ出たが、入院後はからりと人がかはつて冗談をいふやうにもなつた。お千代さんがこの春高校に進んだ二番目の娘のために時計屋をよんで買ふ事になつたら、〈ぼくにも買つて頂戴よ〉といつた由、また食事中に小水を催すと右手で失敬をしたさうな。病気まへの先生には想像もされない。またどうかして打ち明け話をされ、千代子夫人の発病は結婚して二ヶ月目、そのため長兄の芦野氏とけんかして絶交となつていた由、
これはずつとまへの御千代さんの話だが、先生はこの二月ごろかよく御念仏を唱へる声がきこえるといひ、彼らがそれを否定すると、その方が間違つてゐるやうに考へるらしい。先生、このごろでも御念仏がきこえますか、ときく、あんた達はぼくを信用しないからもうなんにも話さない、といはれた。
西欧哲学の合理主義に徹した思考者の耳が最後にはやつぱり念仏のこゑをきいたといふ事に私はなにか愕然たるものをかんずる」(S37、6、16、77歳)

この話しに相当の衝撃を受けたのであろう。執拗にこだわる。
「先生は正月発病の時には死を覚悟したらしい。
          一と足御先へ失礼いたします。
          どうぞ御無事で
といふ死亡通知をだすことを御千代に指示した。しかしそのまへに、〈死はよいものです〉の一句をはじめは口述し、それはやめよう、ととり消させたとのこと。この間の心理はどんなふうに働いたのであらうか。たしかに死をおもふ一方、なほどこか余裕があり気に見える。ところが病院での最後では死の意識はなかつたらしい。これは麻痺がアタマにも来てゐたせゐであらうか。私の十年余の聴講において先生からもつとも多くきかされたのは〈死〉の一言であつたと信ずるが、その死を死に及んで知らずに死んだといふ事が私にさまざまな課題をなげかける」(6、28)
もっともこの執拗さが野上彌生子足らしめている粘液的な内燃力なのであろうが。

6月16日の記述には、実はもう一つ重要なことが記されていた。
「大島(康正、田辺元の高弟の一人)さんらが先生の机のヒキダシから見つけた紙ぎれに私に関するものがあつたらしい。屹度手紙の束も見つけたに違ひない。彼らとしてはもつともおもしろいものが手に入つたわけだ。しかし手紙は先生のと交換にとり返す方法がなくはない。どちらだつて構はない気もちがあるが」というものである。
彌生子がこれを誰から聞いたのか、この後大島たちが彌生子にこのことを話したのか、あるいはただ黙認したのみだったのか、手紙の束を発見していたのかを含めて、彌生子の短い記述からは一切わからない。

その答えの一部は、それから四十年後の2002年に出版された「田辺元・野上弥生子往復書簡」の「編者あとがき」にあった。編者は二人いて、一人は「野上彌生子全集 第II期」の編集者宇田健(岩波書店)である。全集編纂に携わった時、彌生子の書斎から「先生からの手紙」と上書きのある箱を見出した。
一方、田辺の遺品管理者であった下村寅太郎没後(1995年没だから、大島の発見から33年後)、書斎、書庫を整理する中に田辺宛彌生子の手紙が収められた箱を発見したのが、これも既述した「物語『京都学派』」の著者竹田篤司であった。つまり下村と大島は同じ京大哲学の流れをくむ先輩、後輩の間柄で、共に東京教育大学(現筑波大学)の教授同士であり、その教育大で下村の薫陶を受けたのが竹田だった(なお大島は下村に資料を預けたまま先に死去している)。
発見者の宇田、竹田が連絡を取り合って貴重な一冊が出来上がった。
どうやらそういう経過のようだ。ともあれ「どちらだつて構はない」という彌生子の潔い勇断があったればこそ、こうして秘められた往復書簡集を目にすることが出来たのだ。

それでは日記はどうか。岩橋邦枝は「評伝 野上彌生子」にこう書いている。
「彌生子は八十歳のとき、死後の日記公開を親しい編集者に容認した。しかし発表を意識して手を入れた形跡はない。身内や友人知人に浴びせる悪口も、その日その場の感情にまかせて書きつらねてある。創作に精魂をかたむけ、推敲に推敲を重ねる遅筆な彼女が、日記をいじり直すヒマも関心もなかったことは日記の内容が示している。
日記の公表で、彌生子が一生秘密にした初恋の体験と、老年の大恋愛も私たち読者に初めて明かされた」
日記の公刊は往復書簡集に先立つこと十六年であったのだ。

その初恋の人中勘助の死に野上彌生子日記はどのように反応したのか。
「飯田橋の日大の病院に中さんを見舞ふ。胃カイ瘍ではなかつた事判明とてひとりベッドでつれづれをかこつている有様、もつて行つてあげた英国製のジヤムをパンにつけておひるを食べたりするのをあひだにして、三、四十分ほどゐて辞去」
この後である、例の痛烈な批判が出るのは。再録する。「相かはらず愛読者、銀の匙の話が出る。幸福な人かなとあはれむ思ひで客観的に淡々と退屈を感じつつ接する自らを私は一面おどろきで見る。この一箇の存在の為に半生以上を苦悩した事はなんと奇妙な夢であつたらう。帰ると中夫人のハガキが来てをり、病気は肝硬変といふのだとガッカリしている」(S37、4、23、76歳)
この見舞いの翌々日に、彌生子は田辺元の危篤の電話に接する。

こうまで見下げ果てているくせに、自分がいま飲んでいる薬の問い合わせ電話をした序でに肝硬変の症状をも訊ねて、その返事を中夫人に知らせているのである。
それから二年後(39、5、29、79歳)、何の用事があったのか、彌生子は雨の中うろ覚えの中家を散々探し廻って訪問までしている(この日、安倍能成がめっきり衰えたことが話題に上っている)。日記の記述は念願の再会が叶った頃と比べると極端に少なくなっているけれども、要するに細々と交際はつづけていたということのようだ。
そして11月5日、「〈朝日〉賞に中勘助氏があがつてゐるとかで、その批評を求められた。他には大仏(次郎)氏だの、井上靖氏だの、私の『秀吉と利休』を推してゐるものも少しはあるとのこと。(略)ーとにかく中氏は特殊な存在といふ観点からすればわるくはないし、彼自らもさぞ悦ぶ事であらうが、大仏氏が文化勲章だけでも奇妙な受賞と思はれるのに、朝日賞までとは・・・日本の文学がその程度の事ですむのは遺憾なことかな」と、朝日新聞の文芸担当者の情報を得ての感想。彌生子は大衆文学の価値を認めてはいなかった。

明けて昭和40(1965)年1月3日、「〈朝日賞〉の発表に中さんと大仏さんがいつしよに入つてゐる。中さんに御祝ひのデンワをかける。私情としては彼の入賞はよかつたと思つても、これらの二人にどれだけの文化的な功労があつたとするのかといふ問題になれば、選択は疑問になる。しかしまあ世の中の現象はこんなものであらう」と記しながらも、すでに引用した次の日記文につながるのである(これも再引用する)。
「中さんに宗麟一本大徳寺納豆をとどけさせる。朝日賞の御祝ひに宗麟が役だつたわけである。それにしてもこんなめぐり合せになることが、染井のころに想像されたであらうか。私のこれらのプレゼントも正直にいつて彼の文学への敬意や賞讃のためではなく、私の若かつた時代の思ひいでへの捧げ物である。しかもそれを知るのは彼のみだ。思ひいでといふものは悉(ことごと)く美しいものではない。私たちのものにしろ、ー私にとつては苦しい、懊悩の数十年であつた。しかもいまとなつては彼とほんのあれだけの触れあひを超えなかつた事は、おたがひになんと幸運であつたかとおもふ。もしさうでなかつたら、私の生活はどんな事になつてしまつたか分らない。もとより文学も放棄されたらう。私の晩年の生活が現在の好ましい形式をうちたてる事ができたのは、彼と別々の道を歩いて来たためといつてよい」

この文章を再引用したのは別の理由もある。下線を引いた部分、「染井のころ」という表現である。この言葉は同じ使われ方で、他の箇所にも出てきていた。その時々から気にはなっていたものの、肝心の「染井」そのものがわからずそのままにしていた。
ふと思いついて「新潮日本文学アルバム 野上彌生子編」(1986年、新潮社刊)に当たってみると、成城に落ち着くまでの東京での彌生子旧居が全て(七ヶ所)図解入りででているではないか(19ページ)!しかもその略図には「染井霊園」との書き込みとともに、その近くには彌生子の旧宅表示がされている!そこの住所は府下巣鴨町上駒込338番地(明治39年から41年)、同334番地(明治41年から大正2年)、同329番地(大正2年から大正6年)となっている(カッコ内は居住期間)。つまり、彌生子はここで豊一郎と新居を営み、ごく近隣を二度家移りしているのである。
その一角(隣)には、まだ辻閏と夫婦であった頃の伊藤野枝の家も示されている(明治45年から大正3年)。他にも豊一郎の下宿や漱石宅、芥川龍之介宅、宮本百合子の実家や東京大学、それに明治女学校の位置も。

「染井のころ」は、明らかにこの地を指し、この時期を示しているものと想像される。彌生子の懐古するのがこの地、この時期であるならばやはり告白は結婚後にされたと考えたくなるのであるが。
彌生子は上京して明治女学校へ通うのに本郷の父方の叔父の家に寄宿した(明治33年から38年頃まで)のを、何があったのか(たぶん豊一郎との関係だろうけど)明治38年には神田に引っ越し、そして女学校を卒業した翌年に巣鴨に新婚として移り住んだ、そういう経緯であるようだ。
そういうなかでわざわざ「染井」を出すのは、やはりその場所で夫の友人として勘助に出会った。例のヒューマニズム云々というのは、夫豊一郎を裏切っての告白という意味ではなかったのか?(先に否定したが、その意味では万世と同じ告白をしたのかもしれない)。出会いも別れも一切は「染井」にあったのでは。・・・

4月25日「中さんから手紙」。「宗麟」について朝日新聞に書いたエッセイの切り抜きを勘助が送ってきたのである。「六十年のつきあひなのに、ろくに話あひをしない事を書いてゐた。これは私たち二人だけに分かる言葉だ。一度あなたと話したいのだけどともあつた。何十年と私はその日を夢見て来たやうなものだが、いまとなればいつそなにごともいはず、話しあはずに、六十年まへのイメージをその沈黙の中に保つた方がよいのではあるまいか」
それから一週間ばかり経った5月4日の朝、彌生子は健康診断を受けるために、いつもより早く執筆を切り上げ(毎日午前中を執筆の時間に充てるのが習慣となっていた)、「新聞を取りあげたところ中勘助氏の逝去の事が報じられてゐたのにうち驚ろく。三日夜七時二十分に日本医大で亡くなったとのこと。数日まへに手紙を貰つたこと、それに常のハガキには書かないことまで書いてあつたこと、それについての私のおもひをもこの日記にしるしたあとだけにショッキングであつた。しかし涙はこぼれなかつた
いつそ冷静に過ぎ去つたむかしのいろいろさまざまがあたまの中を通過したのみであつたのは老ひの落ちつきか、それとも老ひの胸の硬化か。いづれにしても私の過去の秘密の大きな部分が、地上からは去つたわけである」

かつての想われ人の感慨は別にして、中勘助は、「私は死を望んではゐない。生を望んでもゐない。私が心から望むのは〈私〉が存在しなかつたことである」(「沼のほとり」大正12年6月某日、38歳)と自ら記した世界へと旅立ったのである。

彌生子の日記は日付、曜日のあとにその日の天候が必ず書き込まれ、訃報を目にしたこの日は「美しい五月晴れ」とあり、勘助の永眠した3日は「雨」と記載されている。したがって上文4日の記述は次のようにつづいている。
「大学(三男の通う東大)に行くまで車窓に映る市街の昨日の寒いわびしい雨に代はる新鮮なみづみづした緑のいろは快(こころよ)いものであつた。燿三(ようぞう、三男)と落ちあふ約束の学士会の食堂でランチをたべて彼の(実験物理学の)研究室に行き、宮本梧楼さん(著名な実験物理学教授)を訪ね、彼の実験室を三つ遍歴。彼もそれを見て貰ふのに悦びを深くしてゐるふうであつた。宗麟一本呈上。この理学部のなんとも古色蒼然たる建物、とりわけ入口の空濠の厚いまるい壁にそうての通路から、エレヴェータのところへの暗い廊下、ロンドン塔そつくりである。しかしこの中の小さい部屋、椅子のきれさへちぎれた村役場にもいまはめつたに見いだされない小室は、いかなる権威によつても、巨万の金によつても、自由にされえない特別の世界である事が新たにしみじみ思はれた。ここの主人公だけには天皇でも、首相でもよしいくらなり度くてもなりえないのである」
アカデミック好きと言えばそれまでだけど、この精神があるから彌生子の老年の恋も生まれたのであったろう。それにしても快晴の空の下に拡がる緑の照り返しを目にしての躍動感、それに次いでのランチと実験室の見学は、生と死の鮮やかなコントラスト意外の何物でもない。勘助の死の悲しみなど微塵も感じさせない、この一連の文章は野上彌生子の真面目(しんめんぼく)というところであろうか。生者の、この日の診断の結果に異常は見られなかった。

まだ記述はつづく。その帰り道、「中野の中さんのところへ御悔みに廻はる。二十七日の夜烈しい頭痛とともに嘔吐、それは中さんの父上の病気とそつくりであつたらしく、おやぢと同じだ、あはてるな、といつた由、そのあと吐血、主治医が来ていつもの日本医大に入院、胸や腹部などに麻痺が生じ、臨終の二日まへはほとんど昏睡のままで逝かれたさうな。
七八人の弔問者が階下の部屋の一方に座してをり、和子夫人の小父さんなる山内義雄(フランス文学者、翻訳多数)夫妻、小堀杏奴、中さんの姪で、和子さんと結婚する時の仲人をつとめたといふ方など、それから中さんが話してゐた燿三夫妻とオハイオでいつしよだつたといふ石井さんといふ英語の教師の方などにお逢ひする。
このくらゐの人数でのひそやかな集りはいつそしんみりとして好ましい。
安倍能成も悔みに来た由、(以下、略)」。そしてこう結ばれる。「疲れはしたが、それでも自分で晩い夕食の支度をするのに困りはしなかつた」彌生子は5月6日生れなので、翌々日の勘助の葬儀の日に80歳の誕生日を迎えていたが、それに関わる記述はない。

5月6日。「安倍さんよりデンワ、(主に、明日の謡の稽古の話を交わしたのであるが)中さんもとうとう亡くなったのねと電話のはじめに話す。あなたも御葬式にいくでせうといふ。さてその葬儀は一時から青山一丁目の玉窓院で行はれた。狭いもとの青山の名残をとめた横町でクルマも一台がやつとといふ有様だが、寺は門からの前庭が奥深く、敷石も古びてもの静かな中さんの御葬ひの場にはふさはしいところ。表玄関が式場でまへに張つたテントの下に焼香の場が設けられてゐた。行つた時、ちようど安倍さんの弔辞の挨拶が行はれてをり、お仕舞ひのところだけ聞いた。いつもの彼流儀の脱線がなく、友情に充ちた言葉のやうであつたのはよかつた。存外につぎつぎ参拝がせまい裏小路につゞく。愛読者として生前の彼がつねになつかしがつてゐた人々も交つてゐるのであらう。山内義雄氏の挨拶を受けた。またお悔みの日に出逢つた英語教師の石井さんからも。帰りのクルマのうちで、彼の訃を耳にしてからはじめての涙がにじむ。何十年のおもひを果してやつと逢えば逢はれる日を持ちえたが、全く彼の二十三日の最後の手紙にあつたやうに、二人だけで六十年間のことを語りあつた事はない。語らなくとも分つてゐるつもりであつた。たまに交した電話の短いやり取りがそれに代つてゐたわけでもある。しかしいまは電話をかけても彼はもう現はれては来ない。しかも電話の向側にはまだ彼がもとに変はりなく存在しさうな思ひが消えない。
T(豊一郎)に対する私の情感にはかうした純粋な思慕はない。それは他のふくざつな回想がそれを乱す為だ。結局N(勘助)とは満たされなかつたが故に永久に純一でまじりつ気のない愛情でおたがひを繋ぎえたのである」

かくして「野上彌生子の恋」は幕を閉じた。田辺元の死には涙を見せなかった彌生子も、初恋の終わりを自覚した時には涙ぐんだのである。初恋も故郷も遠きにありて思うのが、どうやら賢い選択なのかもしれない。
安倍能成はこの翌年に、野上彌生子に至ってはこののちも強靭な生命力を保ち、大作「森」に「雪見にころぶまで」(註)と最期まで取り組み、この日からちょうど二十年後、脱稿まであと数頁、100歳にあと数日というところで力尽きてしまったことはすでに述べた通りである。
近来、日本は世界でも有数の最長寿国となって久しい。先だっても、医師の日野原重明さんが105歳という高齢で亡くなられたばかりであるが、日野原さんは明治44年生れのようだ。この物語でいえば江木妙子が明治41年生れなので生年が最も近いか。そう考えたらなおさら凄いことのように思えてくる。
(註・「森」巻頭の作者の言葉や「森」連載中の日記に見える言いまわし。)

当然、文学界においてもこの傾向は押し寄せ、長寿作家なんて珍しくも何ともなくなった。
まど・みちお(104歳)、石井桃子(101歳)、小島政二郎、土屋文明、丹羽文雄はいずれも100歳まで生きた。
現代作家では、佐藤愛子(大正12年生れ)がちょっとしたブームだし、ドナルド・キーン(大正11年生れ)も健在のようだ。この人は美術家だが、映画監督篠田正浩の従姉という篠田桃紅は大正2年生れだから100歳を超えている。ま、作家が短命だったのに対して画家は長命者が多いのが昔からの通り相場ではあるようだが。あ、そうだ。ドナルド・キーンと同年生れに、かの瀬戸内寂聴がいたではないか。
その瀬戸内寂聴に「奇縁まんだら」という交友のあった人たちのプロフィールを綴ったおもしろい随筆漫談がある。その中の野上彌生子編に、宇野千代(この人も98歳まで長生きした。彌生子より12歳下)が出てくる(「奇縁まんだら 続のニ」)。
そこに瀬戸内寂聴はこう書いている。「小柄で体の背骨をしゃんと伸ばし、いつでもおだやかな表情をされていたが、体のどこにも一分の隙(すき)もなく、剣道の達人のような身構えが伝っていた」と、彌生子を形容し、「宇野千代さんは亡くなる前、私に言われた。『私の畏れ仰ぎ見る人は、天皇陛下と野上先生のお二人です』」。瀬戸内寂聴はこれ以上何も付け加えていないので、言語明瞭意味不明量のままなのだが。あの、宇野千代を畏れ入れさせたとは、いったい何があったのであろう?いや、何もなかったようにも思える。あまりに強烈な一言だったので記憶に残っていたのだが、うーん、わかる、わかるまではいかないけど、ほんのちょっぴりわかるかな?

余談ついでにもう一つ。
灘高の名物教師に橋本武先生がいた。明治45年生れの先生も101歳まで長生きされた(2013年没)。橋本先生は昭和25年から(昭和59年に教頭職で退職されるまで)「銀の匙」ただ一冊だけを教材にして、中学の国語の授業三年間を行なったことで有名になった(その間に灘高を東大進学者数全国トップの座に導いたともいわれる)。灘校は私立で、クラスも持ち上がり方式だったから可能だったらしい。
どんな授業をされたかについては、教え子たちがそれぞれ本にしているのでそれを参照してもらいたいが、昭和25年となればまだ中勘助が生前のことであり、「銀の匙」の内容に分からない箇所があれば勘助に直接問い合わせ、勘助もそれに丁寧に答えたという(実際に勘助に会いに行ったことも何度かあったという)。勘助がよく口にした愛読者の最もたる一人であったろう。
小学館文庫「銀の匙」はその橋本先生の三十五年の心血が注がれた註釈と解説付きの貴重な一冊である(でも残っているのかな)。

中勘助と野上彌生子、27歳と99歳で自伝もどきの小説「銀の匙」と「森」を書いた二人の作家、考えてみれば性別の違う、あるいはそれゆえに人生の道程も徐々に違って行ったけれども、精神的には元々時代が生んだ一卵性双生児ではなかったのか?二人の生の断面を綴ってきて、そんな気がしないでもない。
ともかくそういう括(くく)りにして、唐突ながらこの辺で決着としよう。

 

自由人の系譜 中勘助「銀の匙」と野上彌生子「森」(6)

そのほとんどが市販の大学ノートにつづられた野上彌生子日記は、新年ごとに更新されているわけではなく、ノート全部を使い切ったところで新しく取替えられているのであるが、その六十二年にわたる全記述を収録した「野上彌生子全集 第II期」には、丁寧にもノート取替えの都度、表紙原本の写真が掲載されている。
「昭和28(1953)年3月24日ー9.30まで」と、表紙に書かれたノートには「内的生活に記念すべき変化をもたらした年である」という走り書きが日付の脇に加えられている。
そして、次の新しくなったノートの10月2日には、「昨日三枝さんへは香水を注文した。これも私の内面生活の変化に応ずるものである」との記述がある。三枝さんとは、9月20日欄に「〈婦公〉の三枝から雑誌」云々とあるので、その人だろう(婦人公論の記者。香水は5日に届いたとある)。
いつものようにこの時季、北軽井沢の山荘に滞在していた彌生子は68歳である。68歳の老女が、馴染みの女性記者に(誰に頼めばいいか思案を巡らしただろうが)こっそりと香水を頼みたい事情、すなわち「内面の生活の変化」として考えられることはただひとつである。これまでに再三予告していたことが、まさにこのとき彌生子の身の上に起きていたのである。

事情はその前の9月29日及び30日の日記文で判明する。文中の先生は、むろん田辺元のことである。
「大極殿(京菓子)を五つ先生にとどけた。四時過ぎの散歩の時、御礼の手紙を御自分で玄関までもつて来て下すつた。御気にさわつたら破つて下さい、との言葉が、私に内容を示唆した。数首の歌がしるされてゐた。私たちの師弟の関係は、これで新しい友情に進展した。この点をつつましく守りぬく事が賢いだらう。しかしこの外皮はいかにも脆く、柔軟で、とり扱ひ一つでは容易に破れかねない。アミエル的な用心が必要だ。しかしどこまで進まうと私たちには今は拘束も障害もない。ただよいテクニクでこの関係をあくまで明るい、活き活きと自由な、さうしてゆたかな美しいものに成長させたい」(9、29)
なお日記には記載がないけれども、田辺元がこの日持ち寄った歌数首(九首)のうち三首をここに補足すれば、次のような歌が認められていた。
          生まれ月はわれ三ヶ月の兄なれど賢き君は姉にこそおはせ
          兄か姉かあらぬ不思議のエニシなり亡き妻のゆいし友情のきずな
          君と我を結ぶ心のなかだちは理性の信と学問の愛
これに対し、翌日の日記には返歌が記されている。
「今日は朝の執筆の日課をぬいて先生に返事の手紙を書き、二十八日の日記の抜粋とともにとどけた。最後に歌二首、
          寂しさを生きぬく君とは知りてあれど、ひとり置きて去るは悲しかるべし。
          浅間やま夕ただよふ浮雲の、しづ心なき昨日今日かな。
かういふ日が人生の終りに近くなつて訪れると夢にも考へたらうか。ひとの一生の不思議さよ」

この両日を経て、二人の関係が新しい段階に入ったことを彌生子は確信したのであるが、それより少し前の25日にその予感が自戒を込めてつづられていた。
「〈女は理解されると、恋されてゐると思ふ〉というアミエルの言葉は忘れてはならない。しかし異性に対する牽引力がいくつになつても、生理的な激情にまで及び得ることを知つたのはめづらしい経験である。これは私がまだ十分女性であるしるしでもある。それだけ若さの証明でもあらう。あの人にはなんらの影響をも与へないであらうか。それを知り度い興味がなくはない」
かなり大胆な記述であるが彌生子の思惑通りに先生は呼応してくれ、女性としてまだ十分魅力的であるという自覚のもとに香水を注文したにちがいない。

相聞歌を交換して、新しく日記ノートが取替えられての、「一ニ日の思ひの乱れを取り返すため、昨日は六時過ぎに床に入ったが、朝も七時近くまで熟眠したので心もからだも軽く健やかになつた」と、書き出される10月1日は長い記述となっている。抄出する。
たまたまその日に国際物理学会の面白いニュースを三男が知らせて来たので、その手紙を持って田辺山荘へ行くと、先生は「昨日はありがたう、といはれた。それについて私は多くの言葉を費やす事なく手紙をお見せした。これは私たちの変化した関係を、あまり強く意識する事からお互ひを救つた。といつたところで、特別の著しい変化があつたわけではない。今までこころの中にあつたものを、二人で承認しあつたに過ぎないといふのが一番正しいだらう」というふうに書かれている。
この日もまた、この後ハリソンの神話研究から先生の学生時代の裏話まで硬軟とりまぜての話題は尽きなかった。

そうして二人の関係についても再度、確かめられる。
「しかしあんな手紙や歌をとり交はしたあとで、こんな話に二時間半を費して、これを愉しみあへる私たちは、世にも不思議なアミだといへる。私ばかり幸福になつて、先生を少しも幸福にしてあげる事は出来なくてすまないと語つたら、いや、こんな話がしあへるだけで十分だ、ほとんど他人とは談話といふものをしないのだからと答へられた。それはたしかだ。且つ私たちはお互ひに尊敬と愛情を注ぎあふのみで、それによつて他になんらの責任や負担をかけるわけではなく、ほんとうに透明な、奉仕のおもひのみで結びつける。これは愛情としては最上に好ましい形式であらう。出来るかぎりこの線をふみ越えてはならない。情勢と心の動き次第では、私はもつと積極的な熱情にだつて応じ得られるし、またそれだけの自分の若さをうれしくも頼もしくも思へるが。先生も実に快活で、おしやべりだといつてよいほど多弁に語る。私の方が半分以上はききてである」
この場合の「アミ」は、男友達、女友達以上の間柄を意味しているものと思われる。
翌日2日(この日、香水を注文した)には再び、「昨夜もなにかこころ落ちつかず、終夜浅い眠りの中に過した」と記される。

夫豊一郎が法政大学に勤めていた関係で、野上家が北軽井沢「大学村」開村(昭和3年)以来の住民だったのに比して、京都大学哲学科教授であった田辺元が岩波茂雄の勧めによって当地に山荘を構えたのはその七年後である。
昭和20年3月に大学を停年(60歳)退官した田辺は京都を去り、妻千代を伴って疎開も兼ね北軽井沢に転住したのが7月である。夫妻(千代夫人は田辺より一回り下)に子供はなかった。以来、インクも凍てるという厳寒の冬も山を降りることはなかった(それは元々片意地な性格の上に、教え子たちを心ならずも戦争へ駆り立てることになった贖罪の念からでもあったといわれる)。
空襲で家を焼かれた彌生子も一人で山荘に疎開していた(豊一郎は仕事の都合で東京の三男の家に同居していた)。田辺山荘は歩いて十分ほどの距離にあったので、自然と彌生子は千代夫人との女同士の付き合いが始まった。が、やがて夫人は肺結核で病臥するようになる。年々に病状は重くなっていくが、せっかく雇ったお手伝いも何事につけ融通の利かない厳格主義を崩さない田辺のもとに長く居つく者はおらず、適当な看護婦も見つからない。田辺哲学を尊敬する弟子たちが、候補地を探して暖かいところへと下山を勧めても聞く耳を持たない。

このような状況下で彌生子が、千代夫人のためにやきもきする様子が日記に記述されているのであるが、しばしばそこに登場して彌生子ともども千代夫人の現状を憂い気を揉んでいるのが安倍能成の妻恭子である。
恭子が華厳の滝に飛び降り自殺した藤村操の妹であること、夫が誤解して嫉妬するほど勘助と親しかったこと、また千代夫人とは従姉妹関係にあることはすでに触れておいたけれども、安倍夫妻は田辺たちの媒酌人でもあったのである。繰り返せば田辺元は藤村操、安倍能成、中勘助たちと一高、東大の一年上で、特に勘助とは神田生まれ同士の同い年で、中学も一緒だった。
なので野上彌生子は、偶然ながらも自分と同い年の男二人を好きになったのである(首記の歌にもあるごとく、田辺は彌生子より三ヶ月の早生まれだった)。
中学高校と首席を通した田辺は、勘助たちと違って大学の途中まで理科(数学)を選択していたのを哲学へと変更し、卒業後東北大を経て京大の西田幾多郎の招聘を受け、その後日本哲学界の第一人者として多くの崇拝者に囲まれた。昭和25年に65歳で文化勲章を受章したが、親授式には病気を口実に代理を立て欠席したのは、上記の理由などで受賞自体を名誉としなかったのであろうか(もちろん、夫人の病状が重篤であったのもその理由であったろうが。のちの彌生子は親授式に代理さえ出さなかった)。

この受賞に際して彌生子はこんな感想を日記に書き付けている(むろん、まだ「アミ」になる前である)。「田辺さんへお暇乞ひ(山を去る挨拶)に行く。(略)午後田辺元氏がアイサツにみえたので、門の外まで送つて立ち話で私はカンゴ婦の必要と今度の女中の不定な状態と、またこの冬が(千代夫人にとって)非常に大切な時期であることを打ちあけた。文化勲章のお祝ひなど私は一言もいはうとはしなかつた。そんなものあげるより誠実なよい女中を一人見つけてくれる方が田辺氏にはよほどありがたいだらう」(S25、11、7、65歳)
やはり哲学を専攻していた安倍能成は、田辺のことを「学問的天才」だとしながらも、「我々は普通、常識に支配されたり、道徳的便宜に支配されたりして、拘束を受けますけれども、田辺君は、いつたん哲学あるいは哲学的思索といふことになると、もう一切をことごとく放擲して、怒つたり、泣いたり、怒鳴つたり、といふことが、本当に自然に無意識に出来」、「まるで自然児で子供のやうだつた」と評し、「学問以外では、憎めないといふばかりで尊敬に価するとは思ひません」と言い切っている(註)。要するにウマの合わない人物と見ていたようだ。
(註・安倍能成著「涓涓集」岩波書店、1968年刊。)

田辺元全集は田辺の死後急遽、昭和38(1963)年から翌年にかけて筑摩書房より出版された。全集には月報が付きものである。この月報に二人の女性作家が寄稿している(実は、安倍能成の田辺元に関する上記の文章も全集月報に発表されたもの)。その一人は網野菊(註)である。
網野菊は「田邊先生御夫妻の思い出」と題して、次のようなエピソードをつづっている。以下はその概略。
(註・1900年東京生れ、1978年没。日本女子大卒。志賀直哉を師として、主に私小説を書いた。)

網野菊は昭和5(1930)年1月、京都吉田の田邊邸をはじめて訪問する。その時奥さんから「子供がなくて淋しい」と話された。元は哲学の思索の妨げになるといって、近所の子供が遊びに来るのを嫌っていたが、岩波茂雄の北軽井沢の別荘を借りて一夏を過ごしたとき、となりの谷川徹三の一人息子俊太郎(当時4、5歳、のち詩人)に接してから子供というものを見直したという。
以来、北軽井沢を気に入った元は大学を退職後、一年中そこで暮らすことになり、夫人を喪う。菊は一周忌に近い九月初め、北軽井沢を訪れる。夫人の霊前に詣でるためと野上彌生子に会うために。その彌生子からは夫人亡き後、元の身の廻りの世話をし、入院した元を最後まで付き添い介護した夫婦者の妻の名前も偶然なことに、同じ(梅田)千代だったことを聞かされる。

その後、夫人を失い長い間孤独な生活を送らざるを得なかったであろう田邊からの、入院見舞状の代筆返信葉書に「老年の孤独というものがどんなに恐ろしいものであるか、あなたは覚悟しなければなりません」と、書かれてあった大哲学者の言葉にはショックを受けたとしながらも、奥さんを亡くされての晩年に野上弥生子が毎年夏の半年間を先生の側で哲学や詩の話し相手になっていたことは、本当によかったと悼んでいる。
まだ彌生子と田辺元の関係については知る由もなかったのである。それは仕方ないが、京都で会った元を46、7歳で千代夫人を自分より1、2歳上の32、3歳ではなかったろうかと書いているが、当時の田辺元は44歳、千代夫人はその一回り下であったので、さすがは(女性)作家らしい観察眼だといえようか(もちろん、田邊のことを菊は先生と呼んでいる)。

少し余談を挟めば、病室に付きっ切りで下の世話までして田辺を最期まで看病した梅田千代が、最初から気に入られていたわけではない。再々のトラブルが発生していた。それも、ヤマメの煮方が悪いというような、とるに足りないことでもって田辺は激怒し大喧嘩に発展し、梅田夫婦に家を出て行けとへそを曲げるのであった(田辺山荘の離れ家に彼らは住んでいた)。その度に仲裁を果たすのが彌生子の役目になったが、ややもするとその彌生子にも八つ当たりのとばっちりが飛んでくるという始末で、彌生子も涙ながらに田辺を説得するのであった。
彌生子もさすがにもうこれまでと観念したこともあったものの、幾日かすると田辺の怒りも都合よく雲散霧消しているのである。梅田千代にもいちずな面があったようで、それが油を注いだ面もあったであろうが、やがては田辺の気性に姑息で不純なものがないのを呑み込んでいったのだと思われる。彌生子も下山に際して毎年、梅田夫婦やその子供たちにも心付けを渡す気配りしている。
田辺元の死去後、遺言により梅田夫婦には感謝の印としてそれまでの住居が、田辺山荘本体は蔵書ごと群馬大学に遺贈されたとある。
 
月報の書き手のいま一人は、もちろん野上彌生子である。野上彌生子が月報で振り返っているのは、師弟二人だけの哲学講義についてである。これも要旨のみ。
大学ノートとよく削った三本の鉛筆を風呂敷に包んで、一週に二度、三日置きの午後二時から二時間、田辺山荘に通い書斎での講義を受ける。「遅れてはならないが、早過ぎてもいけない」のが規りだった。「先生の時間の鉄則は、その他朝夕の起臥から食事、散歩、入浴のすべてにわたつて厳しかつた」 
講義はとかく恐ろしく高度に変容し、「つねにかうした秩序と節度でつづいた。しかしうち明ければ、私は時々これらの空気を乱す失敗をした。それは聴講のあひだに私が思はず洩らす〈おもしろい〉なる感嘆詞によつてであつた。イデアや実体の説きあかしはもとより、あとにつづく多くの哲学者がいかにさまざまの見方、考へ方で人生の根本義を追求しようとしたか、それがまたいかに鮮やかにも見事に究明されてゐるかに驚くと、私はついおもしろいといつて仕舞ふ。先生は黙つて答へず、どうかするとあの特長のある濃い眉をしかめる。先生の哲学は求道で、生死を賭けた真剣勝負に等しいのだから、むかしの哲学者たちの偉大な著作に対して、私がなにか小説を読むやうな評し方をするのが気に喰はないのである。

しかし正直にいつて、おもしろいの感嘆詞は、私の哲学に対する興味の本体を証しするものでもあるので、先生を不機嫌にさせたのをいまでも相すまないことだと思ふ」
最後の講義となつたのはプラトンの『ポエチカ』 だった。「とにかくかうして哲学とはどんなことを、どんなふうに考へる学問であるかを教へてくだすつたのは田邊先生であり、また文学についていへば最初のほんのつづり方にも等しい文章に眼を通してくれ、思ひもよらず一生の道となつた仕事へ導いてくだすつたのは夏目(漱石)先生だから、他のことはなんにも加へないとしても、稀なる師に恵まれた点では私は最上の仕合せものとして運命に感謝しなければならない」
「講義は田邊夫人がお逝くなりになつた秋から、先生の突然の病臥の一ヶ月まへまで、ちゃうど十年間、正しくは東京暮らしの数ヶ月の欠講を除いて五年のわけだが」、つづいた。

中勘助夫妻が彌生子の招きで北軽井沢の山荘に滞在したのは、昭和26(1951)年9月7日から12日にかけてであった。千代夫人の逝去はその五日後の17日の早朝であった。
「・・・御病人亡くなられたことを梅田細君しらせて来る。私も松井(手伝いの女性)をつれて駆けつける。夫人は病床でいつものすがたで、しかしもう一つの物体となつて横はつてゐた。厳粛な死もこれからは事務である。これも殆んど私が世話するほかない。(略)今日納棺、出棺、焼くことの手配、(略)食料の買ひ入れまでしてあげなければならない。白絹で経帷子(きょうかたびら)まで縫った。生れてはじめてのこと也」(S26、9、17、66歳)
葬儀での彌生子を目にして、てっきり故人の姉だと思い込んだ人までいたとも記されている。

その後も寂寥の田辺を慰めるかのように彌生子は田辺邸に足を運ぶ。そうして言葉を交わすうちに田辺の意外な一面を発見していく。
「元氏が(永井)荷風の愛読者であることははじめて知つたが、考へれば江戸つ児の情感に基礎を同ふするものがあるのは自然だ。元氏の内生活もいろいろ想像される。かうして打ちとけて接触すると彼の正直で、すれたところのみぢんもない善さが感じられて、安倍さんなどとはまた違つた親愛感が生ずる。全く私の晩年はなんとおもしろいのだらう。日本にかけ掛えのない人間、それも異性の人がこんな親しさで友だちづきあひがやつて行けるのだから」(S26、9、24)

「午後田辺元氏来訪。亡夫人の形見としてスキヤの単衣のほか謝意として私に一万、松井に千円頂く。私は明日返すつもりで一応受とる。小一時間近くいろいろ一高時代から昔話をされた。夏目先生がコナン・ドイルを教へたが、いつもひどく不機嫌で、シニカルで、教師としては最も不親切な、いやいやながら出て来るといふ意図が露出した態度で、田辺氏は反感のみを感じさせられた。それが因をなして、盛名さくさくたる時代にも夏目先生が好きになれず、近づく気にもならなかつた云々ー中さんのことも(府立)四中時代の彼をおぼえてゐた。藤村操のこと、彼の自殺時代の一高に醸しだされてゐた精神主義。それらは明治女学校のクリスト教文化主義にも通ずるし、話のあひだにも共通に名前を知つてる人がたくさん出る有様で、彼も語るのがたのしく、聞くのもおもしろさうであつた」(9、25)
「田辺さんより返事とともに『哲学入門』(田辺の著書)とどく、(礼金を辞退する代わりに、昨日)それを頂き度いといつたのである」(9、27)

「(英国の総選挙の話をして)こんな事をほんとうの友だちのやうに率直に話しあへるのは愉しい事である。夫人は山で見出した私のもつともよい友だちであつたが、元氏も彼女の死以来、私にはそれに近いものになつた」(10、25)
「天皇に対する安倍氏の偏愛は田辺氏とも一昨年かの来山の時議論になつたさうである。私と吉田茂との交渉についても(野上夫妻は吉田の長男、健一の仲人である)話してあげたらおもしろがつた。彼は笑はない哲学者になつているが、私との話ではよく笑ふ。口をすぼめ、眼を細くして、おばあさんみたいな顔で笑ふ。私はそれを見ながら、田辺さんのおばあさんかお母さんもきつと年老いてこんな顔であつたらうと思ふ」(10、31)

この年も本格的な冬の到来となり、帰京する前日の日記。
「田辺さんがお別れに来て下すつた。応接の小室でしばらく話す。先生がこれからお独りでどう過されるかが案じられるといふと、私は非常にエゴイストだ、私よりは家内の方が高貴であつた。(略)寂しいが世界にまことにたつた一人になつたといふ自由さをも感ずること。さういふ話が率直に話された。(略)私たちにはなほ自然がどれほど不変的によい思ひ、美しい思ひを与へてくれるか、人間には親兄弟でも夫でも、子供でも、いつもいつもそんな思ひをさせてくれるものはない、といふ考へ方も同意的に話しあつた。私が山を去つたらお弟子さん達でも来訪しない限り、こんな一二時間を誰かと過すといふことは、田辺さんにはなくなるわけだ。あの方もきつと淋しいであらう。私としても、午後ふらりと出掛けて、こんなおシャベリをする相手は東京でも到底見出されない。みんなあんまり忙しすぎ、遠すぎ、悧巧過ぎ、狡過ぎ、利害もんだいに拘泥しすぎるから。
田辺夫人の死は私に山の大切な友だちを一人失はせ、またよい友人を一人与へたことになる」(11、7)

夫豊一郎の死が図らずも初恋の人と引き合わせたように、隣家の女友達の死が老年の恋を導き寄せたという巡り合わせは、いかにも閨秀作家にふさわしい劇的な展開であろう。
夫人生前の頃は、田辺と彌生子はどちらかといえば互いに敬遠し合うところがあったようだが、それが夫人の病気をきっかけにして、それにつづく死が二人の距離を瞬く間に縮めた様子が日記から直截に読みとれる。
上記の記述と並行して「中さんから二十三日に金春の能に行ったハガキ来る」(9、26)、「中さんに詩を書いて送る」(9、27)などの勘助に関する短い記述もみえるのだが(どのような詩を書き送ったのか?)、それもやがて間遠となり、この二年後、詩を書く相手は勘助から完全に田辺元に変わっているのである。

それはすなわち、はじめて互いの胸底を打ち明けた和歌の交歓があった冒頭の場面に戻ることになるのであるが、田辺元が「御気にさわつたら破つて下さい」と歌数首を持参した昭和28年9月29日は、その十日ほど前千代夫人の三周忌を済ませたばかりでもあったのである。
「今日は田辺夫人の三周忌である。午後から訪問。いつもの写真のまへにはいろいろお供物がなされてゐた。至夫人(田辺の、東京芸大卒の画家であった一歳下の弟夫人)が鎌倉から夜行でもつて見えたといふ百合やカーネーションの花が目立つ。このあたりでは手に入らないものである。(略、田辺に)亡夫人の思ひでの和歌を書いて頂いて帰る。先日見たよりひろい紙に書いて下すつたが、文字はちつとも上手でなく、和歌にはいつそうふさはしくない」(S28、9、17)

一昨年が11月8日、昨年が11月22日、そして昭和28年のこの年は11月24日が彌生子の下山日である。だんだんと下山日が繰り下がっているのは、少しでも先生の講義を受けたいためであったのか(念のためもう少し調べてみると、豊一郎の亡くなった昭和25年はやはり11月8日、昭和29、30、31年はいずれも12月の第1週であった)。
前年の下山前日には「どうも先生にかぶれたらしい、といつたら愉しさうに笑はれ、そこまで行つてくれると自分としてはうれしいといはれた。しかしこれはむづかしい天地へ新しくふみこむことだ。私には及ばないところへ引きずりこまれたといへる」(S27、11、21、67歳)という記述もみえる。
山荘でも先生に時々料理を振る舞い、先生の弟子たちが田辺山荘を訪れると、郷里名物の茶台寿しをこしらえてもてなし、下山してからも魚屋に西京漬けをわざわざ注文したり、無塩バターを求めたり、三越にまで出かけ足温器を探したりと、世話女房さながら独り山に閉じこもる田辺の健康を気遣い送り届ける。それとともに夫人の仏前に手向ける正月用の生花をも送り届けるのが、この年から慣習化された。

何といっても圧巻は冒頭の返歌よりも、彌生子が先生に与えた詩であろう。詩は幾作かあるが、ここには彌生子が日記に記した「新しい星図」と「黄金の鋲」二作の第一連、出だしの一部分のみを引く。
          あなたをなにとよびませう / 師よ、友よ、親しいひとよ
          いつそ一度に呼びませう。 / わたしの新しい三つの星と。
          みんなあなたのかづけものです / 救ひと花と幸福の星図

          わたしの人生のたそがれの扉に / 黄金の鋲をあなたが打つた
この詩を手紙に認め先生に届けたのは、昭和28年11月11日。下山の二週間前である。この日の日記。
「(先生は)私の詩にうたはれた言葉にふさはしい人になり度いといはれた。私もこの愛情と尊敬をこのあとも大切に守つて生きなければならない。しかし、思へばこの世の中はなんとふしぎなものであらう。わたしが人生のたそがれにこんな思ひを感じようとは夢想だもしなかつたやうに、彼とても決して期待しなかつた悦びに違ひない。お互ひに独立的な人格と経済力と、社会的には一定の水準以上の生活と名誉をもち、愛と、友情と、尊敬と同じ思想と学問的情熱でむすばれ、それ以外にはなんらの自己的な要求も期待もしあはないで生きるといふこと、こんな愛人同士というものが曾つて日本に存在したであらうか。あゝ、それゆえに一層この関係を理想的に保ちつづけなければならない。詩稿は残すまいとしたが、やつぱり書きとめておく方がよいといはれたのでそれに従はう」

さらに下山(24日)寸前の22日にも「生別の寂しさは、時に死別に劣らずとはいへ / いたづらに涙はせじと、あえて笑つて作りたる戯詩、と題してつくつた詩」と前置きした八連から成る慕情詩を捧げる。
これは17日に「夕方遅く先生が玄関まで御自分で手紙をもつて見えた。(略、文面の)あとに和歌が数首添へられ、私が山を去つたあとの淋しさが訴えられてゐた」とあるのに、応じたのでもあろう(言い添えておくと田辺元は「アララギ」系統の歌人であった)。
          昼と夜と / 一日も単数ではないやうに / うつし身とこころと
          ひとりわたしが / ふたりのわたし

          左様ならこころよ / 気ままな娘 / これほど誘ひ頼んでも
          いつしょには帰らないのね / あなたはおとなしかつたのに
          だんだん誰かに似て来たわ
以下、「左様ならこころよ」が繰り返され、娘には一連ごとに「いけない」、「強情な」、「呆れた」、「手に負えない」という形容詞とそれぞれの解釈が付され、最終ニ連は再びこう結ばれる。
          左様ならこころよ / 憎らしい娘、 / わたし遠くで腹をたてるわ
          ぶつてあげたい気になるわ。 / それよりいつそ嫉むだろ
          お前の帰らないわけを知つているから。

          果肉(み)とたねと / 一箇の桃も単数ではないやうに、 
          ひとりのわたしが / ふたりのわたし
 
この詩は23日、田辺邸の梅田さんに託されて届けられた。すると、この日も午後遅く先生が来訪。
「野上夫人を送ると題して和歌を数首頂く。あんな娘を残しておいてくれるので、寂しくはないだらうとのことであつたが、歌にはあとに一人残る寂しさをうたひあげてあつた。私とても思ひは変はらない。しかしこのままこの交渉をつづける事は却つて心に乱れと不安定を生ずるおそれがある。半年は東京でおちついてこの宿世を一層純粋に守り、進展させた方がよいとおもふ」(S28、11、23)
そして翌日、予定通り下山した。
改めて強調するならば、まるで女学生が初恋の相手に胸のときめきをさらけ出すに等しい(今日の女学生は決してこんなダサい文句、見向きもしないだろうけど)慕情詩を書いた野上彌生子は、この時68歳の立派な老女である(相手の田辺元も然りであるが)。当時の日本の最高峰の知性が演じたこの事実は、恋愛に年齢など全くもって関係ないことを証だてするものでもあろう(彌生子自身も勘助とのことで、日記にはっきりそう書いているのであるが)。そしてまた、肉体は老いても精神は永遠に若くあれることの証明でもあろう。また逆に、人間の動物としての第一義たる構成要素はまさにその性本能にあるのだということにもなろうか。

東京成城の自邸に息子たちに囲まれて「内的生活に記念すべき変化をもたらした年」を送る大晦日、野上彌生子は再び自戒を込めて日記を締めくくった。
「今年は私にはいろいろな意味で記念さるべき年であつた。ある特定の対象とこれほど深い知的な、また愛情をもつての繋がりが出来ることを夢にも考へたらうか。私たちの年齢においてはわけてもこれは珍しいことといへる。それだけに大切に純粋に保たなければならない」(S28、12、31)
やはり単なる女学生とは違う思慮分別が随所に働いているのも事実である。これを(亀の甲より)年の功というのだろうが。 
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かなり重複する部分もあったが、野上弥生子と田辺元の老年の恋といわれるものについて、主に昭和28年の野上弥生子日記に焦点を当ててここまで述べてきた。当然ながら「先生」と「奥様」(田辺は弥生子を常にこう呼んだという)の交流は「田辺元全集」月報に彌生子が書いたように、十年間の長きにわたって続いたのであるから膨大なもので、これは恣意的なほんの一部の摘要でしかない。その詳細を知るには、当の彌生子の「日記」はもとより、「田辺元・野上彌生子 往復書簡」(2002年、岩波書店刊)を読まれたし。
関連書として、竹田篤司著「物語『京都学派』」(2001年、中公叢書)には西田幾多郎、田辺元両巨峰を頂点とする京大哲学の山容を成した人間群像がドラマチックな物語に仕立てられているので、併せ読まれんことを(当然野上彌生子も、また田辺がドイツ留学中に知り合い猛烈に慕われつづけた謎の人妻も出て来る)。どちらの書物も(おどけていうと)、門外漢にとっては「老年の恋」並びに「哲学入門」への予習、学習の知的興奮に誘われるだろう。

野上彌生子日記から、ひとつ疑問点を上げておきたい(といっても、この日記全体をくまなく読んだわけではない。ところどころを拾い読みしただけであるが)。全集第十一巻は昭和26、27、28年の日記が記載されているので、たまたま目についたに過ぎないのだが、その27年8月19日の記述。
この日は、安倍能成やお供を引き連れて皇太子(現天皇)が野上山荘に立ち寄った日でもある。皇太子は「二十一の青年」とあり、その皇太子に向って彌生子が「安倍先生はこわい先生でございますか、ときくと笑つてゐた」と書かれているので、安倍能成が学習院院長をしていた時であろう。
ともかくも野上、安倍山荘での少々平常ならぬ様子が記されて皇太子来訪はこう締めくくられている。
「私は別に名誉とも有りがたいとも思はないが、来るものはこばまない仕方を、この青年にもしたまでである」のちの芸術院会員、文化功労者、文化勲章の時の態度を彷彿させる処し方である。

疑問点というのは、しかしこのことではない。このあとに綴られていた一文である。
「今日はうたひ会を休んだのでノンキだ。午後田辺山荘を訪ねる。『迷路』 評をきく。いろいろな話が出て、本気なうち明けをする。涙が出た。こんなことをいつて人のまへでベソをかいたのはいまだ曾つてなかつたことだ。しかし田辺さんを告白台にしてベソをかくのはかき甲斐があつたかも知れない」
いったい何を告白したのだろう。告白して「ベソをかく」ほどの本気なうち明け話とは?この前後をチラチラめくってみたが、それを想像させる記述は見つからない。突如、出てきた告白という感じである。もしかして勘助とのことだろうか、それ以外にないような気もするが、しかし・・・。

さて最後に上文に顔を出した野上彌生子畢生の大作『迷路』に関連することである。田辺元と親密になった頃、たまたま『迷路』の執筆は佳境に入っており、彌生子は田辺との会話を通していろいろ示唆を受けたようであるが、実は詩作自体も田辺の提案によるものだった。
「午後先生のところへ伺ふ。私の小説について急所をついた批評をして下すつて有りがたかつた。詩を作ることを勧められるのも、この欠点をそれによつて償ふやうにさせようとの意図がこめられているわけである。しかし先生の批評の対象は『迷路』なので、もつと他のものをよんで下すつたら、先生の望ましいと思ふものを漂はせてゐる作品があるかも知れないが・・・とにかく、私の今日までの生涯の訓練といふべきものは、情緒的なものにうち勝ち、冷静にすべてを考へ、すべてを行為する事にあつたので、作品にもそれが大きく影響することになつたのはたしかである。話のなにの序であつたか、戦時中に私が引つ張られかけたことまでうち明けた」(S28、11、15)

末尾の文章の意味は、当局から治安維持法違反の嫌疑をかけられ軽井沢警察署に何度も呼び出された舌禍事件を指している(この文章や上記の涙の告白などからも、田辺への信頼が相当に篤かったことがわかる)。
他の作品も読んでくれたらと、自尊心ものぞかせてちょっぴり不満のようだが、『迷路』に目を通した田辺は、理知的といわれる彌生子の作風の弱点が詩情の薄さにあることを見抜いたのである。
これに関連して岩橋邦枝(註)が「評伝 野上彌生子」(2011年、新潮社刊)の中で、面白い指摘をしている。
安倍能成が彌生子の作品について、やはり田辺と同じことをずいぶん昔に(昭和12年)、朝日新聞で「ポエジーが乏しく、ユーモアが少なく、ペーソスが薄い」と書評していた。なのに、当日の彌生子の日記には「文中に彼女を社交上手と書いているのが癪に障ると安倍に怒っているだけで、的確な批評は読み捨てたのか一と言もふれていない」。「彼女が、七十歳近くなってやっと素直に批判を傾聴し、うけ入れたのは相手が尊敬する恋人田辺元であればこそで、〈新しい詩の世界に私を導いて下すつたのは先生であるのを思ふ〉とのちに述懐している」
ま、安倍能成と彌生子の関係はずけずけと憎まれ口をたたきあう、「仲の良い喧嘩友達」の側面が多分にあったから無理もないだろうけど。
(註・1934年広島生れ、2014年没。お茶の水女子大卒。「評伝 野上彌生子」は紫式部文学賞、蓮如賞受賞。)

さらに岩崎邦枝はこのように書きついでいる。
「しかし彌生子は、中勘助が彼女は勉強家であるが〈詩人じゃないね〉といみじくも評したように、ついに詩とは縁遠い書き手であった。彼女の作品が示しているポエジーと音楽性の欠如は、勉強や努力で直せるものではない。田辺の勧めに従った詩作も、彼女の日記と書簡で見るかぎりヘタくそな数篇だけで、哲学を学ぶようにはつづかなかった」
勘助が口にした、詩人じゃないの言葉には解説を要するだろう。これより前に岩崎邦枝はこう書いていたのである。
「彼(勘助)は、日頃から彌生子を〝山姥〟(やまうば、やまんば)とあだ名で呼んでよく話題にしていた、と中の身近にいた長年の愛読者稲森道三郎(岩波版中勘助全集編纂委員)が思い出を書いている。彌生子も山姥を自称して、作品の題にもつけた。稲森の追想によると、彌生子が七十八歳で書きあげた長篇『秀吉と利休』(註)を、中夫人が感心して中に読ませた。彼は読後、『私は和子と全く別の意味で感心しました。まったく、よくしらべあげたものです。山姥は昔からたいへんな勉強家だったからね』と言い、ポツリと一と言つけ加えた。『しかし山姥は詩人じゃないね』」
ここにあらずもがなの一言を付け加えるならば、勘助が「森」を読んでいたらどう批評したであろうか。
(註・「秀吉と利休」は、田辺元の弟子である文芸評論家唐木順三の「千利休」を下敷きにして書き上げた小説である。)

しかしながら完成した「迷路」は、昭和32年第九回読売文学賞を受賞。選考委員宇野浩二は「日本には珍しい背骨の太い作品」「作者の一世一代の長篇であるばかりでなく、昭和文学界の最高峰の一つである」と、激賞。上記図書「田辺元・野上彌生子 往復書簡」で加賀乙彦が解説しているが、加賀は「迷路」をやはり日本一優れた長篇小説だと讃えている(加賀乙彦著「日本の十大小説」)。
また「迷路」に続いて昭和39年に刊行された長篇「秀吉と利休」は、第三回女流文学賞を受賞した。この翌年、野上彌生子は文化功労者に選ばれ、やがて46年女性二人目となる文化勲章を受賞するのである。彌生子に朝日賞受賞時(昭和56年)のような感激はなかったとはいえ、この二作品があったればこその文化功労者、勲章であったろう。
しかるに野上彌生子が文化功労者に選出された秋、すでに老年の恋人田辺元は四年前に逝き、初恋の人中勘助もその春に幽明境を異にしていたのである。


(以下、「銀の匙」と「森」(6)につづく。)

 

自由人の系譜 中勘助「銀の匙」と野上弥生子「森」(5)

毎年夏になると、浅間山麓の北軽井沢にある山荘で一人過ごす習慣となっていた野上彌生子が、昭和10(1935)年の夏に夫豊一郎の見送りを受けて、上野を発ったのは7月5日の朝であった。
その翌日の日記。
「孤独と静寂の生活がはじまつた。東京のあの気忙しくあはただしい明け暮れが千里の外にとんで行つたのが、なにか奇妙にさへおもはれるほどである。
食事は一日七十銭で木村から三度運ばせる。一と月に二十四円あれば暮らして行けるわけだ。こんな簡素な且つ経済的な生活法があるだらうか。東京での一度の自動車賃ですむのである。
なにをもがき苦しんであのガソリン臭い東京にゐる必要があらう。
朝のうちは少し書きものをし、午後にはうちや河合氏や平塚さん湯浅さんなどに手紙をかいた。松屋にも菓子を注文した。

夜は『思想』(岩波書店発行の雑誌)その他をよんだ。中さんの相変らずの生活。今の私にはおちついた親しさでよんでゐられる。人のこゝろはほんとうにおもしろく変るものだ。それでも死ぬまでに逢へたら嬉しからう。あんまり年をとり過ぎてはいやだけれどー私のこんどいつしよにのつてゐる随筆をあのひとがどんな顔をしてよむであらうかが好奇的に思ひめぐらされる。私があのひとをおもふやうに、ながい親しい思ひでの人のものとしてよんでくれるならうれしく思ふ。それにしても、あのひとには幾人そんな女のひとがあるだらう。かう考へても妬ましくも、なんともないのだからいとも長閑(のど)やかである。今の唯一の願ひは、この気もちのまゝで、時々逢つて気楽な話でも出来たらと思ふ事だけれど、それは許されないであらう。

(・・・略・・・)ーこの部分後述。

それにしても私たちがあれつきり逢はないのはーあの時九段で出逢つた時の彼は決して冷やかな彼ではなかつた。あの後電話で話した時も彼は優しかつた。なんともわるく思つてはゐないとさへ云つたのだ・・・彼は私の贈ものを、紅雀を籠に入れたのだ、私からと知つてゐた。さうして有りがたうと云つたのだつた。ー思へばもう何年まへになるだらう。渡辺町に越してのあとであつたから、まだ十年とはならないかもしれぬ。
もしそのまま逢はないで死んでしまつたらー私の唯一のこころ残りであらう。さうだとも。私たちは逢つて昔話をしあつても決してさし支えないわけだ。それが出来ないのがかなしく腹立たしい。しかしよの中には同じやうなすくせにおかれてゐる人がいかに多いであらう。
かうしてひとりこの山にゐる時、もし突然彼があらはれたらーかういふ空想は私をもう一度あの二十代に押しもどす。人間は決して本質的には年をとるものではない気がする。九十の女でも恋は忘れないものではないであらうか。
私のこの秘密を知らなければ、私をほんとうに解する事は出来ない」(S10、7、6)

このとき彌生子は50歳であるが、「あの二十代に押しもどす」の部分を読むと例の勘助への告白は、やはり結婚後と考えるのが無理がないのでは。年譜では(明治女学校に在籍のまま)20歳の夏に実質上結婚したとあるのだから(と、またまた結婚後説に後戻りするのであるが)。
それはさておき、偶然街で出会った勘助は自分を拒否したあの時の彼ではなかった、それが嬉しくなって紅雀を贈ったのにも彌生子からだと敏感に気づいてくれて、それにも素直に礼を言ったというのである。
実らない初恋(の思い出)は幾つになっても常にみずみずしく振り返れるという見本のような文章である。

彌生子と勘助は、彌生子が二十代にの頃に別れて以来、四十代になるまで一度も会ったことがなかった、その機会はあったけれども夫豊一郎の猛烈な嫉妬心に阻まれて諦めざるを得なかった、それは九段での偶然の再会以後も同様だった、そういうことだったようだ(勘助と豊一郎の行き来も次第に薄れていたか、ある時点で完全に無くなっていたと思われる)。
ところがこの夜の空想は思いがけない形で現実化し、「昔話」をする機会に突然恵まれたのだから人世は分からない。
「午後中勘助夫妻が見えて、丁度他の弔問客ともかちあはず、一時間あまりゆっくりして行つた。中さんにもう一度逢ふ瞬間は、三十年代四十年代五十年代を通じて私にはいろいろなかたちで考へられたものであるが、それがこんな自然さで果されようとは思はなかつた。奥さんは想像してゐたより素朴な善良さうな方で、中さんも幸福であらう。(略)

もし野上の生前にこれが出来たら一層よかつたらう。それは残念ながらかうした接触はもう彼とても咎めないに違ひない。とにかく彼の死はある意味で彼が長年私に与へなかつた解放であるが、それが斯くまで完全になされたことは私以外には誰にも感じ得ないものである。中さんは年とつたでせうとそれを早くもきいた。白髪のこわい毛をわけ、眉も半分白くなつてをり、顔もまへより細面になつていかつい。もとに変らないのはその眼つきと少ししやがれ気味になる音声で、さうして耳が遠くなつてゐる。これはむしろ意外なことであつた。奥さんと入れ代はつて私の横にすはつたが、それでも張りあげ気味な声を出さないと聞えぬらしい。これでは昔の私たち二人のひめごとなどしめやかに語ることは出来ないわけだと思ふと、なにか微笑ましく、運命の皮肉を深く感じた。さうだ運命は私のひそかな祈念を納れて私たちをめぐり逢してくれた。しかし決して人に聞かれてはならないやうなことは語らせないやうにしてくれたのだ。父さん、だからあなたも私の交際を復活させて下さるでせう。なにもかもなんとよい形に解決させてくれたのだらう。これもすべて野上が死によつて私に示した愛であり、何十年と私を苦しめた、誰も知らない彼の罪の宥(ゆ)るしのすがたであらう。帰る時、あなたもゐらつしやい、と彼はいつた。いづれその時もあるだらう。すべて自然に任せて暮らさう」(S25、3、14、彌生子も勘助も64歳)
昭和25年2月23日、豊一郎は法政大学総長在任中のまま脳溢血で急逝、66歳であった。それを知った勘助の悔やみ状に、彌生子が霊前にお参りにきて欲しいと返信していたのである。

今度は彌生子が勘助宅を訪問する。
「お早昼をすまして中さんのところへS(長男)と同道にて行く。(略)奥さんの(中野の)実家に二人とも未婚で住まつてゐる妹さんたちと同居生活である。(「銀の匙」の)水道町の邸などに比べれば昔に変はるわび住まひに於て家にある彼をはじめて見るわけである。しかし二階の茶室ふうの一と間は趣ふかく整ひ、(略)Sとはほんの赤ん坊のころいつしよにお芝居に行つたおぼえがあると語り、今の面ざしに当時の幼顔を辿るふうに語つた。Sはすぐ暇乞ひをして、私は三時過ぎまでゐた。奥さんは今日はお習字のお弟子が一人来る日でちょいちょい座を外づされたが、そのあひだの私たちの話は普通の客と主人の話しあふことに過ぎないが、それでもその底にこもる調子に秘めたものは彼と私だけに分かることである。二人の接触をこれ以上にしないことが大切である。それにはもう少し若くても、年をとり過ぎて逢つてもいけなかつたといふ思ひを今更に新にする。(略)こんな事も今度のT(豊一郎)が私たちに与へてくれたものであることに深い宿命を考へさせられる。買物に出掛ける奥さんとつれ立つて、桜のはなの散りしく門でお暇乞ひをする私を、彼は玄関でキチンと座つて見送つてくれた」(S25、4、10)
彌生子はこの日、香典返しの口実で参上したのに、長男が心配して付き添ったのである。勘助が長男と観劇していたということは(当然彌生子も一緒だったはずで)、例の告白がすでになされていたとすればあり得ない光景だろうから、結婚後とする根底が崩れるような気もする(まさか万世と同じケースでの告白?さらにあり得ない想定だろう)。また、水道町の邸に彌生子はいつ行ったのか?告白の時期は益々結婚前に傾いていきそうであるが。

日記特有の大胆な記述もみえる。
「中さんの奥さんに手紙を書いた。ほんとうは彼にあてたやうなものだ。もとは彼が野上あてに私に書いた。おかしなことだ。しかしこの感情は淡々としめやかにほの暖い春風のやうなもので、おたがひをも、また他をも傷けもせず傷めもしない。何十年のあひだの貯蔵でもたらした葡萄酒の味である」(S25、8、2、65歳)この記述も結婚後説を補強するものではなかろうか。
翌年3月には、「この数日まへ中さんに出したハガキの返事がとどかない。家のもめ事の種になりはしなかつたかと少し案じられる」(S26、3、9)とヤキモキしたが、それが勘助の皮膚病のせいだったとわかると、彌生子はその返事を、ユーモアのつもりでハガキ二枚に書いて送り、「ハガキが公明正大で一番よい」(S26、6、19)といってのける(これらのやりとりからも再会がもたらした女心の高揚感が透けて見える)。
とまれ、こうして交際は復活した。明けて昭和26年、彌生子は夏の半年間をひとり籠って執筆に過ごす北軽井沢の山荘に、勘助夫妻を請ずる算段をすると勘助もそれに応じるのである。その「祭典」の一部始終を日記と手紙から拾う。

「夏はごたごたいたしますので御出で下さるなら九月にいつての方却つてよろしうございませう  その頃は松虫草やりんだうが歩々花を拾ふといふ形容詞通りにさきます。私がいらつしやいましとお誘ひする以上あなた方がいらしつてよかつたと思はせないでお帰しは致しませんから安心しておでかけ下さいまし  中さんは昔からつむじ曲がりだからいらつしやいと申さない方がいつそ腰をあげるかもしれないと考へたりもします。もうそろそろ素直におとなしく人のいふ事をきいてもよい頃でせう  私は反対に若い頃あまりおとなしく人のいふことをきいたからせめて死ぬまでの我儘としてつむじ曲がりにならうとしてゐるところです。ほととぎすがうるさいほどなき下の渓流が淙淙(そうそう)とうたつてゐます」(S26、7、24、66歳)
これは宛名を中夫婦連名にしてある手紙文であるが、彌生子がかなり積極的な誘いかけをしていることがわかる。「銀の匙」後篇の原題名がやはり「つむじまがり」だった。彌生子はよくよく勘助の性格を飲み込んでいたものとみえる。

二人の来山を知らせる中和(子)からの手紙は9月1日に届いた。それを受けての日記。
「勘助さんは私のこのまへの手紙で来る決心をきめたに違ひない。思へば私たちのかうした交情は世にも珍しいものであらう。せめて途中で一度でもめぐり逢へたらと念じてゐた彼を、この山荘の客として招く日が来たことは、小説以上のロマンスといふべきである。而かも私の今の心では彼が奥さんと来てくれるのが、ひとりで来るよりいつそ気持よく、おちついたたのしさで待たれる。これは恋以上の恋、友情以上の友情であらう。うれしいが淡々として透明になんらの濁りも翳りもなく、この美しい自然で彼を悦ばせ、私の安らかな隠棲生活を見せて悦ばせ度いのみである。彼にも私の気もちが分つてくれてゐればこそ出掛けて来るのであらう。慾には野上も無事で私たちの気もちを理解してくれて彼を迎へるのならどれほどよかつたらう。さうしてまた和子さんに私の気もちが率直にうち明けられたら。ーしかしそれはまだ危険なことだ。

とにかくかうしたよい条件で再会される幸福はめつたにありえない。またもう数年も遅かつたら私はもつともつと老ひさらばつた姿になつてゐたかも知れないから、かうした面会も味気ないだらう。私は老ひてはゐても、彼に逢ふのを避け度いとおもふほど見すぼらしく老衰してはゐないと思ふ自信がある。四十年の歳月は思想的には彼と私のあひだには大きな距離をこさえてゐるかも知れない。彼の芸術についても、人生の歩みについても全般的に肯定はしえない。しかしそれは私たちふたりが若い時代にもつたあの過去にとつては、なんらの故障にもなりはしない。ことに私の一生の行動と情感は、その一つの秘密を摘出しないでは誰にもわからないほど、それは私を左右したものであるから。しかしプラトニックであつたことが、この愛をこれだけ成長させ、深化させ、昇華させたのであることも忘れまい。
ゲーテのマリエンバートの哀歌によつて、七十のゲーテになほこれほど若い情熱が迸(ほとばし)つたのをひとは驚ろくが、私にはいとも自然にさへおもはれる。同時に私の情熱は私のこころを若々しくはゆすぶるが、決して困るほどには燃えあがらせず、ほのぼのとして春の温まりのやうなしづかな歓びにとどまるのも、うれしいことである」(S26、9、1、66歳)

彌生子の誘いに応じる決心を勘助にさせたに違いないという手紙は、「あなた方を秋にはお迎へするつもりで離室の畳もかへてきれいに致してあります・・・山はすでに秋風颯颯(さつさつ)です(この後、ヤマメなど食膳の話題などが語られる、略)」(8月27日出状)の文面。畳替えまでして準備を整えていると聞けば、さすがのつむじ曲がりももう否応など言ってはおられなかったであろう。
和(子)代筆の応諾の知らせを受けて、彌生子は山荘までの道順、交通便あるいは気を使わせまいとしての持参品を含めての注意点を事細かに記して早速返信する(9月1日付手紙)。と、またそれの訂正、追加文を和(子)宛に出状(9月3日付速達)するという慌ただしさの末、7日に「中さんより九時の汽車に乗車のデン(ポウ)来り、松井(お手伝いの女性)を迎ひに出す。バスにてつく。
離室(三畳と七畳に炉辺があった)におちついて頂く。ヤマメの旨煮とナスのしぎ焼におみおつけにていつしよに晩食をたべる。夢にはどうかして考へたことが、現実になるとはほんとうにおもひもかけなかつた。別に興奮はしなかつたつもりなれど床につきて後、終夜不眠に近いまゝ明けた」(9月7日、日記)

「朝食後もおもひいで話さまざまに時を過す。ショウギのルールを教はる。チェカ(註)を一番戦はす。私の午前の日課が珍しく中止されたわけだ。しかし四十年からのめぐりあひの為には、これ位はよからん」(9月8日、日記)
「今日も執筆は中止、私の生涯で曾つてない祭典のためとしておかう。・・・がおもちをとどけて来たのでおヒルはそれをやいて食べる。中さんは生醤油、私たちはおサトウを入れて。午後は徳爺ヤマメをもつて来たので、中さんを呼びおろして彼にも見せる(離室は山荘から二十メートルほど離れていた)。夜はそのヤマメのソテにジャガイモの粉ふき、こんにゃく油煮のおツユ。
食事のたびに話いろいろはづむ。彼は子供らしく自分の過去の作品について語り、またファンの手紙などについても語る。私はそんなことは到底しない。彼との相違が客観的に若い時よりも一層はつきりするし、また彼をも客観的にながめられる。私がこれほどの親愛を彼に今なほ保つてゐるのは自分の若い過去への一種のノスタルジヤでもある。和子さんがよい趣味をもつて画や美術や、能について語るのは気持よい」(9月9日、日記)
(註・チェカとはどういうゲームなのか、不明。まさかチェスではないだろう?)

ちょうどこの9月8日、吉田茂首相はアメリカに渡りサンフランシスコ講和条約に調印していた。ここで一服がわりのエピソードを並べれば、吉田首相の息子、文学者となった吉田健一の媒酌人を務めたのは野上夫妻だったという。この昭和26年1月には彌生子が唯一親しくしていた宮本百合子が、そして6月にはその頃超売れっ子作家になっていた林芙美子がいずれも急逝している(この三人や下段に述べる富本一枝のことは辻井喬「彷徨の季節の中で」でも取り上げたけれども)。
以来、野上彌生子は宮本百合子の祥月命日には、自らの命がつきるまで必ず花束を届けたという。ここにも勘助に対すると同じような野上彌生子のたぐいまれな持続力が垣間見られる。なお、そのお返しとして百合子の夫だった宮本顕治も豊一郎の命日には献花を欠かさなかったという。

さて、翌日の日記で何故、安倍能成が彌生子の秘密を知っていたのかが語られる。
「入浴後ちょっと離室に出掛けて見る。彼は部屋の中に毛布をしいてごろ寝してゐた。和子さんは私のあとでまだ浴室である。ちょっと二人の過去にふれて語った。彼が来るからなににつけて私のことを果報だと口癖のやうにいふが、もし私が果報ものだとすれば、四十年後にこんな好ましいかたちでめぐり逢つたことだ。ーといつたら、私もさうだと答へた。さうして二人して和子さんのよさを語つた。炉を中にして私はキチンと座り、彼もキチンと正座しての話である。ほんのそれだけであつた。それでも私がいはなければならないことはいつた。彼はまたあの時安倍などに洩らさなくとも、自分でいへばすむことを、若かつたから下手なことをしてあなたにすまなかつた、といつたので、いや、それによつて安倍さんは私の友だちに今もなつてゐるのだ、と私は答へた。やがて和子さんが戻りなすつたので、彼女を加へて、富本一枝さんのこと、(伊藤)野枝さんのこと(註)の昔話になつたりした。野枝さんの不幸な死を語る時、私は思はず涙を落した。野枝のためにそれが流されたものか、それとも私の〈過去〉のためであつたか、それは分らない。
(註・二人とも「青鞜」のメンバー。)

かうして数日逢つて見れば、彼と私との違つた道もますますはつきりするし、彼が自分の作品についてのみ語り、いはゆるそのファンにとりまかれて自己満足してゐる心理にも深くあき足りないものを感じさせる。が、それはそれとして、とにかく彼は若い私の苦悩の原動力となつていた存在であることは事実だ。今それを客観視されることは私の成長と進歩である。実際、私は彼を彼としてでなく、一人の女の夫として迎へながら、実になんらの妬ましさも感ぜず、淡々としたおもひでその重大な変化に対することが出来てゐるのはよいことで、たのしいことだ。同時にまたそれほど心が老いた為でもあるから淋しいといへば淋しいわけだが、その淋しささへ感じない。逢はないでいろいろと過去の夢でロマンテックにされるより、かうして逢ひ、その〈過去〉へはつきりピリウドをつけたのはよいことであつた。私はこれからはもつと淡々と彼をおもふことが出来るだらう。が、それは水が無味なやうで味があるにひとしい情感ではあるが」(9、10、日記)

9月11日は、講和条約の記述のみ。
「十時十分の電車で中さん和子さんたつ。私は裏口までしか見送らず。・・・彼は私の歓待に心から悦び満足してたつた。正しくいへば、私は私の四十年のむかしの〈過去〉を歓待したわけでもある。この長い月日は彼のあたまを白く、肉体的にも腰の痛みをいひ、歩行の自由でないのをいふ老人に彼をしたやうに、私たちを別な世界に引き放してもゐるが、しかもなほ彼を考へる時、私はつねに二十二三の若い私になる。さうだ、彼によつてのみ私がさうなる意味に於て、私にはかけがえのない存在であることはたしかだ。しかし部屋に戻つてひとりになつて見ると、やつぱりなにかほつとした疲れを深く感じ、ほどよい頃に彼を去らせたとおもはないではゐられなかつた。野上はなんとしても私を育て、成長された人である。さうして彼は私を今日まで貞潔に守つてくれた異性であらう。また安倍氏は私にもつとも深い友情を教へてくれた人だ。日本の社会では一人の女がこんな異性と三様に親しむのは稀有なことであらう」(9、12、日記)
こうして常ならぬ五日間の祭典は終わった。翌13日、「今日から離室に移る。この雨でなくて、昨日の美しい晴れの日に彼らをたたせたのはなんとよかつたらう」と、あるので急に天気が崩れたようだ。14日は美しき晴れ「執筆」と記され、山荘に日常が戻った。(上記傍線部分は結婚後説の一例になるだろう。)

「拝復・・・でもほんとうにようこそいらして下さいました。御礼など仰しやる必要はございません  私がなにかおもてなし致したならそれはむしろ私自身の青春に対して致したわけにもなりますから、染井の生活をおもひあなたやら安倍さんが若々しい大声をはりあげていらして下すつた時代を思ふ時私は常に年齢をふみこえて二十年代に後戻りすることができるのですから。年をとるほど過去は貴重になります。が、その過去をこれほど美しく高貴に生かし得る人間はさう多くはないと信じます。たしかに私を育て成長さしたのは野上です。貞潔に世に生きることを教へ守つて下すつたのはあなたです。友情の尊さありがたさを知らせてくれたのは安倍氏です。慾には野上が無事にあなた方を迎へられたらと存じますがそれは天上界の望みと存じます。それからあなたの芸術の世界はますます私とは違ふものになるでせう。思想的にも世界観的にも異なるかも知れません。しかし過去の思ひ出を中核とする時私たちは常に同列に並び説明なしに同じ悦びを悦び同じたのしみをたのしむことが可能と信じます。私は世間でそれときめているほど幸福に生きたわけではありません  しかし今日においては私はその評価を肯定しませう。

お立ちのあと雨のみで一昨日だけ晴れました。その間に田辺夫人が逝去され私はすつかりその宰領をしました。経かたびらというものもはじめて縫ひました。今日は告別式です。午後からまたその世話に出かけます。思へばこれも深い宿縁でせう。今度は一緒に引張りまはしてあげられるほど元気になつてゐらして下さい。私が話してゐるうち青い顔になるのは山の生活の三四ヶ月分もおしやべりするからでせう  私は終日ほとんど十数言とは口をきかない生活ですもの。それに黙つてゐましたが夜ほとんどよく眠らなかつたからです。私は悲しい事があつても嬉しい事があつても同じ量ほど神経的に作用されるのです。その点精密機械に等しいのです。・・・奥さまがあんな乱暴なホスピタリティに厭気がおさしにならずよい休養ができたと仰しやつて下さるのが嬉しうございます。どうぞあなたもあまり気むづかしやさんにならないで大切になされておあげなさいまし・・・」(9、19、夫婦連名宛書簡)

ちょうど一週間後、勘助夫婦の礼状への返信である。この文面からも、告白は結婚後にされたのでは?という憶測にかられてしまうのであるが。
告白が豊一郎と交際中の心変わりだったのなら(実際のところ、結婚したのも東京に残って勉学を続けるための手段であったというのだから、元々豊一郎への恋情は薄かっただろう)、豊一郎も惚れた弱みで受け入れざるを得なかったであろうが、結婚後の打明けだったとすれば、恋女房の裏切りに豊一郎が怒り嫉妬するのも最もな事ではなかったか。豊一郎の狭量だけを責めるわけにはいかない(日記には豊一郎の浮気も記され、彌生子はそれに対して柳眉を逆立て豊一郎を責め立てているのである)。それでいて彌生子の日記からは根本的な自己反省の言葉は皆無で、痴話喧嘩の原因を豊一郎側の性格的欠陥のみに帰し嘆いてばかりいるのはなぜなのか?
これまでの日記と書簡の記述の間に齟齬も見られず、彌生子の性格に表裏があるとはとても想えないので、益々不思議である(ただのカカア天下でもなさそうであるし)。

公平を期すため(彌生子の名誉のためにも)、ここに山荘で豊一郎を送る場面の日記があるので、それを。
「父さんの来山中は独居のやうに行かぬ事は十二分に覚悟してゐる事ながら、実に雑用が多いので、時々気がしづむ。書きものも今月しめきりのものは全部断念しなければならぬ」(S21、1、3、60歳)
と書いた後で、「私は窓から見送り、小森さんの山荘のまへの道の曲がるところまで姿が見えるのをずつと見送つて、何度も左様ならをいつた。滞在中はその為に生ずる多くの雑事で困まるのであるが、かうして帰るのを見送る時には涙がにじむほどセンチメンタルになる。なんとかいつても、私たちは今日までの人生をともに手を引いて歩いて来た長いあひだの仲間である。いろいろな意味で彼も老境に向つて来たことが私には分かる。本統ならそばについてゐて朝夕の世話をしてあげなければならないのであるが、目下の事情はそれを許さない。他方また考へれば、かうした別居はお互ひの大事を一層深く思ひ知る方法でもある。私も自分一人の自由を欲するが、彼も私のゐない方が好きな生き方が出来るだらう」(同、1、15)
空襲で日暮里渡辺町の自宅が消失し、豊一郎は三男の成城の家に同居しながら法政大学に通い、彌生子は極寒の山荘で冬も越していた時期のことである(豊一郎の死はこの四年後)。

ところで、上の彌生子の書簡に出てくる田辺夫人とはむろん田辺元夫人のことである。夫人の死を勘助に報告しているのは、勘助と田辺元が中学以来の同級であることを彌生子が知っていたからであろう。そして田辺元は安倍能成とも同じ哲学を学んだ学友であるばかりでなく、互いの夫人の間柄が従姉妹同士という姻戚関係にあった。が、これは次章のテーマである。

この山荘招待で気持ちに一区切りがついたのであろう。年明け早々に彌生子は、親友安倍能成宛に長文の手紙を送る。
その一部はすでに前章文末に引用したが、その部分を含めて以下に全文を再掲する。この手紙は勘助への長年の思慕を彼女なりに総括し、それへの惜別を意味するものだと思われるからである。

「さて筆の序でにもう一つ書く事があります。
中さん御夫妻をこの秋北軽(井沢)に御招待いたした事をまだ御話し申あげませんでした。中さんには私はもう何十年とお逢ひしませんでした。野上の死去の節思ひがけなく御悔状を頂きましたので、御返礼を出し、どうぞ仏前にお詣りしてほしい。野上もむしろそれを悦ぶだらうと申しましたら、四十九日まへに奥様と御同道で御詣りにいらして下さいました。すつかり白髪の老翁になられ、それに耳が遠くなられ、私は演説のやうな話をしました。中さんに対する私の感情のさまざまな推移は、書けばそのまま長編になります。しかし根本的に申せば、私はあの人のことほんとうはなんにも知らず、一つの幻影を彼といふ人に拵(こしら)へてゐただけです。同時に私はあの人に対する深い感謝とともに、激しい謝罪のこころを持つてゐました。あの方がなにか一生日かげに生きてゐるやうな生活におちたのは、私の告白が一つの原因になつたのではないか、とそれはいふ事です。否、もつといろいろな複雑な原因があるのでせう。多分さうと信じますが、しかし私の打ちあけもその一つでなかつたとは思ひません。

さうして私はそれによつて成長したのに、ーさう、私が今日まで生きた道程に私によい腐ショク土となつた出来事が三つあるといつてよいでせう。一つは岩本先生(明治女学校校長巌本善治のこと)の失脚、一つは中さんとのこと、一つは法政事件(法政大学で起きた学内紛争のことで豊一郎はこの事件によって一時大学を追われた)ー成長といふことが気障なら、私にものを考へさせる事を教へてくれたのはそれらの出来事です。さうして私のやうな多感な動揺しやすい女が、自分の生活にあくまで清教徒的になり、夫婦生活においても、とにかくお点の辛らいあなたから落第点は貰はない暮らしをつづけられたのは、若い日のあの些やかな出来事が一種の種痘になつたのです。さういふ意味に於て、私は一生涯のあひだにもし中さんにめぐり逢つたら、ただ、有りがたう存じます、とそれだけいひ度いと考へてをりました。同時にまたあなたの生涯にとつて私がつまづきになつたのなら、どうぞお許し下さい、とおわびするつもりでした。しかしそんな機会があらうとも考へず、また強ゐて求めようともしませんでした。然るに野上は私の気もちを屹度知つてゐてくれたのでせう。彼は死ぬ事でその機会を私に与へてくれました。その上の慾には彼も無事で、洒々落々とこの機会をもてなかつたのが残念です。

しかし私は逢つたらいはうとしたことは一言も口に出しません。だつて、あんなツンボの方に、ラヂオの放送見たいな大声で、そんな御礼や御わびが申されますか。ーそれを考へると、私はひとりではあはあ笑ひ度くなります。ねえ、これほど私は脱却しつちまつたわけです。またそれですから北軽にお招ねき出来たのです。あの離室を一週間提供しました。三度の食事にをりて来なさる時以外は話もしませんでした。それにつけてもなによりうれしく、なにより安心なのは中夫人がとてもとても善良な方で、中さんを大切にして奉仕してゐる事です。あんな生活を送つて年とつて結婚した男は、とんでもない奥さんを貰ひだすのがおちなのに、あんな優しいいい方を見つけてほんとうによかつたと思ひます。正直にいつて、中さんの生活意識もまた芸術的傾向も私にはすべては肯定できません。しかしその存在が私の若い時代に大きな影響を与へた点で、多くの意味がある事は拒まれません。以上御報告まで、
しかし日記に書いておけばすむことを、何故あなたにだけこんな事をしらせる必要があるでせう。とにかく告悔僧といふものをもつ事は望ましいことです。且つあなたはこのもんだいに就いては唯一の資格のある方ですから。奥さんにもおしらせ下さい。ただこの手紙だけは便所でよんだり、落し紙にしたりはしないで下さい」(S27、1、2、書簡)

日記、勘助への返信、安倍能成宛報告どれも同じ内容である。しかし、そのどれにも、どういう状況で勘助への告白が行われたのかについては何も語られてはいない。
ちょっと滑稽なのは彌生子は勘助とのことで、勘助は万世とのことで長い物語が出来るであろうと、同じ思いに駆られていることであろうか。
富岡多恵子は「中勘助の恋」のラスト部分で、この安倍能成宛書簡の全文を引いて次のように断定している。
「手紙のなかで、勘助への〈愛の告白〉が彼のその後の生活を左右する原因になったと書いているのは、彌生子の片思いによる思いすごしだろう。勘助は一度も彌生子の〈愛の告白〉についは書いていない。彌生子の、おそらく片思いによる一方的な思いすごしは、万世、妙子両人の求愛、求婚をいずれも〈すげなく?聞流した〉勘助の態度を思い起させる。
作家野上彌生子が作家としての勘助の態度を批判し、その日記体随筆に対しても、また勘助の『結婚』を読んで〈中さんはどうも自分に自分で興味をもち過ぎ、作品としてはほんものにならない〉と批評し得たにもかかわらず、〈嫂さんが亡くなり、あの兄さんでなんとも困つて結婚する気もちになつたわけだが、よんで見て実に淡々として、私には一種親しい好感以外になんら異なつた気もちにもならないのに、我ながらほほ笑しかつた〉と勘助の『結婚』の真意を見のがしているのは、〈ほほ笑ましい〉。というのは、すでに昭和十年三月十六日の日記で、岩波茂雄夫人から勘助の近況を聞いたことが次のように記されているからである」

その日記文はすでに章(1)に部分引用したが、これも再掲する。
「中さんはひどい神経衰弱でやや狂的にさへなつてゐられるらしい。義姉は顔面神経で顔がおそろしく歪んでしまつた云々。(昨夏山のアベさんの家へ見えたさうな。今の私はこんな事もなにか久しく逢はないともだちの噂をきくやうな気もちできく事が出来る。)中氏が不幸だといふ事はよい気もちがしない。ことに彼が友だちなどに対して、ひどくヒガンだ考へ方をして、世間をせばめてゐるらしいことは、私には胸が痛い。少なくともその一半の責はわたしにもあるかもしれないのだから。この強い人は、ほんとうは弱い人なのだ。ー義姉さんとの親しみも、たんなる親しみではないらしい。これらの事は彼の一生の詩であらうが、しかしそれだけで生涯を果すのも残念ではなからうか」(S10、3、16、50歳)

上文カッコ内は、富岡多恵子の引用文にはないのを当方で補充した。
神経衰弱の勘助が訪ねたアベさんの山の家というのは、彌生子の山荘と同じ北軽井沢にあった安倍山荘のことである。この別荘地は、豊一郎が勤務していた法政大学が開発した土地に大学職員や学者、文化人が住みつき大学村として発展、浅間山北麓に位置したことから北軽井沢と呼ばれるようになったものである。安倍能成、岩波茂雄、谷川徹三(詩人俊太郎の父、彌生子の葬儀委員長を務めた)も大学村住民の構成員であった。
岩波夫人の話は、勘助が神奈川平塚の家を処分して赤坂の家で家族と同居をはじめ、精神不安定になり斎藤茂吉の受診を仰いだりして、末子も困惑していた時期であったから、フラフラと友人安倍を訪ねる気になったものか(これにはしかし、別の事情が働いていた。文末で再述する)。勘助が覚えていたのかどうか、彌生子に招待される遥か以前に北軽井沢を訪れていたのである。

「勘助は一度も彌生子の〈愛の告白〉については書いていない」と富岡多恵子はいうが、「愛の告白」どころか、彌生子に関することは一切、書いていないのではないか(朝日賞の祝いにもらった銘酒「宗麟」のエッセイを別にすれば)。
再三触れたが、勘助が書いた小説は「銀の匙」を含めて四編でしかない。小説の代わりに書かれたのが、「日記体随筆」と呼ばれる作品群である。
冒頭で、わざと(・・・略・・・)と目立つように省略した部分がある。実はその部分は、岩波夫人から勘助の近況を聞いての上記3月16日の記述文につながっているのである(冒頭の日記文はそれから四ヶ月後の7月6日)。以下にその省略部分を再現する。
「いつかの岩波夫人の話だと、今のあの人は可なりヒガンでつきあひにくい人になつてゐるといふ話であつたが・・・日記には一番理想化された彼の生活があらはれてゐると見なければならぬ。その点彼は一種の偽善者だ。少なくとも彼には谷川(徹三)が書いてゐるやうな宮沢賢治といふ人のやうな素朴な善良さはない。ほんとうに彼がさうなれたら、彼の芸術ははじめて本ものの光輝を発散するであらうが・・・」(S10、7、6)

すでに「海神丸」「真知子」などを書き上げ、理知的女性作家の代表格と目されていた野上彌生子の眼力は鋭かったといわねばならない。その7月6日の夜、彌生子が読んでいたのも日記体随筆「しづかな流」であった。その時点で、日記体随筆にひそむ欺瞞を彌生子は嗅ぎつけていたのである。
この勘助特有の日記体随筆を富岡多恵子はこう解読する。
「日記体随筆の〈日記体〉こそは、時間のズレを利用しての現実の擬装に適している。現実を擬装することで、自己矛盾、自己否定はすべて隠蔽可能となり、自己の絶対的肯定ーまるで聖書のコトバのような箴言(しんげん)に収斂(しゅうれん)していく。この自己の絶対的強さが、〈愛読者〉たちを惹きつけたものではなかったか」
富岡多恵子が例示する「聖書のコトバのような箴言」とは、「私の愛には対立者がない。あるべきはずがない。私の愛は愛することによつて充たされる。私の愛は自分の、または自分を愛する人びとが私の愛の蔭に、または私を愛することによつて、それぞれの地位に於けるよい家庭人であり、社会人であり、道徳人であることに於いて成就する」(「しづかな流」S、6年)、あるいは「私は近頃になつて真に、それこそ真に、愛することの喜びを知り得たやうに思ふ。私の愛が漸く無私になつたからであらう。それはただ愛することによつて充される。そこには獲得の焦慮もなければ保持の不安もない。それは奪ふこともなければ奪はれることもない」(「街路樹」S、9年)というようなもので、勘助の日記体随筆の特徴でもある。

富岡多恵子の分析は、彌生子のいう「一種の偽善者」の本質をよく解説していると思われる(さらに富岡は、日記体随筆の内容は格好の私小説の題材であったのに、何故勘助が私小説を一編も書かなかったのかという疑問と関連づけて論及しているが、それは割愛する)。
日記体随筆の魔力?で「惹きつけた愛読者」の存在についても、彌生子は作家中勘助を辛辣に批判する(上記「祭典」中の彌生子の日記にも、目指す文学の方向性が全く異なって来ているのがやんわりと表白されてはいたけれども)。
「この頃のK(勘助)の書くものを見てゐると、私の現在の情感や思考の傾向とはあまりかけ離れて仕舞つたので、あれほど激しく私の胸をかき立てた熱情も、完全に過去のものになつたかんじがする。はじめは彼の名前を見たのみでもドキンとしたこゝろが、これほど平静になり得ることはすべて〈時〉の腐蝕性の作用であらう」(S12、      )
こう書いたのは、彌生子52歳の時であったが、勘助への熱情が完全に冷めていたわけでは なかったことは、これまでみてきたとおりである。

ところが「情感や思考の傾向」は、「公明正大」な交際が復活し互いの距離が縮まるにつれて、「愛読者」を勘助が口にするたびにその溝を深めていく。
「至るところ愛読者があり、それにとりまかれるのをかくまで悦び、語る彼が可哀想になつた。それは、それほど寂しいのを示すわけだから」(S28、12、1、68歳)
「午後中さん夫妻来たり、(略)〈愛読者ー〉をすぐ口にするのには困る。寂しいからでもあらうが、自分の作品への自得のせゐでもあるに違ひない。彼の文学的な世界はそれでわるくはないにしても、新しい成長や進歩がないのはそのためである。私はなんと冷静に批判するだらう。感情は感情として、この態度ははじめから変はりはなかつた。それにつけても、熱情といふものは脆弱で愚かだ。大切なのは、美しいのは、貴重なのは知性のみである」(S29、1、11、68歳)
「相かはらず愛読者、銀の匙の話が出る。幸福な人かなとあはれむ思ひで客観的に淡々と退屈を感じつつ接する自らを私は一面おどろきで見る。この一箇の存在の為に半生以上を苦悩した事はなんと奇妙な夢であつたらう」(S37、4、23、76歳)

さすがに潮時で、恋の終わりであったのか。それとも68歳の彌生子の胸底には、すでにこの時、新たな恋が芽生えていたからなのか。彌生子が豊一郎と結婚した最大の理由が「勉強」するためであったのを思い起こせば、日本の「知性」を代表する哲学者であった田辺元に次第に心惹かれていくのは、彌生子にとっては北軽井沢で織りなされる自然の摂理となんら変わらない出来事であったろう。

話はやや舞い戻るけど、彌生子が昭和27年正月に安倍能成宛に長い手紙で、山荘での「祭典」を報告した後、すぐ安倍能成から返事が来たことがやはり日記に書かれている。
「安倍氏より長い返事来る。中さんと義姉(未子)さんとのかんけいなど書いてよこした。その事を安倍さんが新聞に書いたとて中さんが怒つて、それで今日まで絶交してゐる由、中さんは一時狂的になり、自分の主観を客観的なものとして人とも衝突したらしい。しかし恭子さん(安倍の妻)は中さんが好きで、今も書物などは彼女の名で送つて来るとのこと。安倍さんはそれでもなほ友愛をもつてをり、旧交を暖め度い気持切なるものがあると書いてゐる。もし私が仲介者となつてもとの親しみが取り返せたら、うれしい事だと思ふ。とにかく私がかうした男友達との交はりをもつていられるもは、日本の社会には珍しいことだらう」(S27、1、6、66歳)
この日記文では二人がいつから絶交したのかは分からないが、神経を病んだ勘助の北軽井沢安倍山荘行きが文句を言うためであったとすれば、この手紙文の時点で実に十七年間になるわけだが・・・。
また安倍と勘助が旧交に復したのはいつであったのか。安倍が勘助の朝日賞授賞式で、祝辞を述べたのを知るばかりであるけれども。

このちょうど一年前の記述。
「ー私のことを他の者よりは多く知つてゐる筈のA−氏(安倍能成)だつて、私の内奥のほんとうの苦悩は知つてくれてはゐないだらう。
全く、一人の人間のことを正しく知ることは、全宇宙を知るよりむづかしいくらいだ」(S26、1、18、65歳)
これは夫豊一郎を亡くして、思慕しつづけてきた初恋の人と念願の再会を果し、耳が遠くなりすっかり衰えた勘助に戸惑いながらも、北軽井沢の山荘に招くことになる年頭のひとり言であったろうが、いみじくも人間存在の本質を言い当てている(勘助の日記体随筆の箴言!)。
「一人の人間のことを正しく知ることは、全宇宙を知るよりむづかしい」
中勘助然り、安倍能成然り、野上彌生子然りである。だから幾千、幾万の文学(人間の物語)が現れるのでもあろう、か。


(以下、「銀の匙」と「森」(6)につづく。)









 

自由人の系譜 中勘助「銀の匙」と野上彌生子「森」(4)

野上彌生子が朝日賞を受賞したのは昭和56(1981)年1月(彌生子95歳)の時だから、この文章(1)冒頭で述べたように中勘助が昭和40年に79歳で受賞したのに比べると、ずいぶん遅かったような感じがする。
というのも、明治18(1885)年5月6日生まれの彌生子と22日生まれの勘助は全くの同い年で、夏目漱石の推輓によって作家デヴューしたのも同じであったが、「銀の匙」の朝日新聞掲載が勘助27歳であったのに対して、短篇ではあるものの「縁」が「ホトトギス」に載ったのは彌生子21歳の時であったのだから。作家としてのキャリアは野上彌生子の方が上廻っているし、第一、創作の数が圧倒的に違う(勘助が生涯に発表した小説はたったの四篇しかない)。
その代わりというのも変ではあるが、勘助の朝日賞受賞の年(この年5月に勘助死亡)彌生子は文化功労者に選ばれ、その六年後(朝日賞受賞の十年前になる昭和46年)には女性二人目となる文化勲章受賞の栄誉に輝いている(註)。
(註・昭和23年受賞の日本画家上村松園が女性で初めての受賞者。女性作家で野上彌生子の次に受賞したのは、昭和60年の円地文子。)

およそ国家的褒賞というものに関心もなかった野上彌生子は、文化勲章授賞の報にも「これを拒むことで巻きおこされる反響の煩はしさは、受賞さわぎよりいつそう大きい事をおもへば、あつさり受けとつておく方がよい。その受けとり方によつて、私の真意はわかつて貰へるだらう」(昭和46年10月27日)と日記に書き、その言葉通り親授式に欠席、代理出席さえ出さなかった。
ところが、「野上彌生子全集全26巻」(岩波書店)の刊行と現代文学への貢献が授賞理由とされた朝日賞には、殊の外よろこび「どんな賞もちっとも別に嬉しくなかったのよ。漱石先生が文芸欄をつくった先生とゆかりの深い朝日の賞はとても、とても嬉しいのよ」と、喜びはずんだ声で文芸評論家の小田切進に語ったという(註)。かほどに野上彌生子は自分を文学の道に導いてくれた漱石を終生崇めた。
(註・小学館刊「昭和文学全集」第8巻所載の小田切進解説より。)

その野上彌生子に死が訪れたのは、中勘助の死からちょうど二十年後になる昭和60(1985)3月30日である。99歳、満100歳にわずか37日足りないという長寿であった。
この時、昭和47年(彌生子87歳)から延々十三年間にわたって文芸誌「新潮」に断続連載されていたのが最後の小説となった「森」である。従って「森」は未完となった。
「森」については後で触れるとして野上彌生子没後の翌年から、前回に次いで再び岩波書店より「野上彌生子全集第II期全26巻」の刊行が始まった(実に、総数52巻の大全集となった)。そのうちの19巻分を占めるのが彼女の日記である(他は書簡集や「森」を含む前回全集未収録の作品である)。
日記は、大正12(1923)年38歳の夏から死去の17日前までの六十二年分が収められているので膨大な量になったのである。この日記公刊によって、野上弥生子の初恋の人が中勘助であり、また北軽井沢の別荘の隣人であった哲学者田辺元との間に老年の秘めた恋があったことを詳細に知ることになったのである(が、田辺元とのことは次章以降に述べる)。

当然、日記には中勘助の朝日賞受賞についても記されている。
「中さんに宗麟一本と大徳寺納豆を届けさせる。朝日賞のお祝ひに宗麟が役立ったわけである。それにしてもこんなめぐり合わせになることが、染井のころに(勘助を恋い焦がれたころという意味か)想像されたであろうか。私のこれらのプレゼントも正直にいって彼の文学への敬意や称賛のためではなく、私の若かった時代の思ひでへの捧げ物である。それを知るのは彼のみだ。
思ひでといものは悉(ことごと)く美しいものではない。私たちのものにしろ、私にとっては苦しい、懊悩の数十年であった。しかしいまとなっては彼とほんのあれだけの触れあひを超えなかった事は、おたがひになんと幸福であったかと思ふ。もしさうでなかったら私の生活はどんな事になってしまったか分からない。
もとより文学も放棄されたらう。私の晩年の生活が現在の好ましい形式をうちたてる事ができたのは、彼と別々の道を歩いて来たためといっていい」(昭和40年1月20日付日記。以下、S40、1、20と略記し、必要に応じて年齢を付す)

受賞祝いに彌生子が実家の銘酒宗麟(臼杵城主大友宗麟から彌生子が命名した)を勘助に贈ったことが、この記述でわかるのだが「中勘助全集」第17巻にはそれに対する1月24日付礼状が載せられている。
「わざわざ結構なお国の酒を頂きましてどうも」と書き出して、酒は愛読者と飲んだが勘助は酒を医師から止められているのでほんのちょっぴり味わったこと、朝日賞授賞式では安倍能成が勘助の業績についてスピーチしてくれたことを記し、その安倍のやつれようについて次のように書き送っている。
「弱つてゐるとはきいてゐたもののあれほどとは思はず足もとといひ声といひなにかさんたんとした気持になりました。自分はどうだといはれると困るのですが」
こう安倍を気遣った勘助の方がそれから間もなくの5月3日に、衰弱著しかった安倍能成もその翌年に落命した(唯一、安倍能成だけは野上彌生子の中勘助への秘めた恋を知っていたが、それを漏らすことはなかった)。
さらに勘助は、4月23日にも手紙を出して、「おつきあひの月日は六十年にもなりながらろくにお話したこともない」ので「あなたと一度ゆつくりお話したいと思ふけれど」と、彌生子に呼びかけていたのはどういう心境にあったのか。(奇しくも、この書簡が中勘助生前最後の手紙となったようである)。

野上彌生子が野上豊一郎と結婚(同棲)したのは、明治39(1906)年3月に明治女学校高等科を卒業した前後ではないかといわれている。同郷から初めて一高へ入学していた豊一郎に英語を教えてもらっていた関係にあったのが自然発展したのだとすれば、彌生子は20歳か21歳、豊一郎はその二つ上なので、勘助とそろって東京帝大英文科に進んでいた年である(正式入籍は豊一郎卒業の明治41年だとされる)。
後年、二人の結婚生活を振り返った「先生であり友達であつた良人」と題したごく短い彌生子52歳の文章がある。

「花嫁時代と云ふ言葉から一般に想像される華やかな初々しい悦びの生活を私はとうと知らなつたと云つてよい。幼友達のあるじがまだ大学生の頃の結婚であり、気楽ではあつたがお金は故郷から貰ふだけで贅沢は出来なかつた。寧(むし)ろ贅沢をすることも知らなかつた。私は書物ばかり読んでいた。
あるじはまた良人と云ふより先生で、友達で、兄弟で(註)、勉強仲間であつた。故郷の両方の家でも私たちの自由にさせてくれたから私は普通のお嫁さんを悩ます婚家についての気苦労は一切知らず、あるじが一人息子なので小姑の味も知らず、面倒な親類づき合ひの五月蝿(うるさ)さも知らなかつた。それだけ習俗的な交際も知らず、今から振り返つて見ると呆れるほど超然としたものであつたが、当時は 別に風変わりな生活だとも有難い条件とも考へず、学校時代と変らず勉強勉強で暮らしていた。

もし私が綺麗に生れてゐたらお洒落でもしてぶらぶら遊び歩るく気にもなつたか知れないが残念ながらそんな自信は持てないし、云つた通り贅沢をする費用もなかつた。もつとも簡単に家で出来るのは読んだり書いたりすることであったから、私はそのもつとも手軽なものを択んだ。現在の生活はそれが今日までぼそぼそ続いてゐるだけのことである。
考へればへんなお嫁さんで、ぬかみその味を八釜しく云つたり、着物の仕立てに気むづかしい注文をつけたりする旦那さんだつたら屹度追ひだされてゐたであらうと思ふ」(昭和13年、婦人公論)
(註・実際彌生子は結婚当初、豊一郎を兄さんと呼んでいた。日記にその記述がある。漱石山房でも二人は兄妹ということにしていたらしい。漱石もそのことで豊一郎をひやかしている。)

当時の結婚の生態から鑑みても、いかに野上彌生子が恵まれた結婚生活を送ったのかが瞭然とする内容である。
大分臼杵(うすき)市で酒造業を営む裕福な小手川家の長女に生まれた彌生子と(註1)、秀才ではあるが、小商いを営む雑貨店(註2)の一人息子に過ぎない豊一郎との縁組みは、当初彌生子の父親に猛反対されたのを、彌生子が既成事実を作って説得したのであったか。小手川家と野上家の家格の違いから、豊一郎の親も彌生子に対して容易に口出しが出来なかったのではないか(東京と九州という地理的条件も含めて)。
彌生子が作家として幸運なスタートを切れたのも、漱石の教え子である豊一郎が漱石山房に出入りしていたことによって(註3)、彌生子も漱石の知遇を得て指導を乞うことが出来たのである。
豊一郎は東大を卒業し徳富蘇峰の国民新聞社に入社したが、やがて私学に転じ法政大学の予科長から戦後には総長(学長)へと昇進した。のみならず、「能楽」の研究においては第一人者となるほどに研鑽を重ねた(註4)。豊一郎の影響もあって能と謡(うたい)は夫婦共通の生涯の趣味となった(それに安倍能成が加わる)。
(註1・彌生子には異母兄と妹、弟がいた。母親は美人だったが、彌生子は父親似であった。註2・小手川酒造の酒の小売もしていたようである。註3・豊一郎も中学時代から作品を投稿する文学青年であった。また漱石門下時代にも創作を数篇残している。註4・豊一郎の没後、能楽研究の業績を称えて野上記念能楽研究所が法政大学に設立された。)

作家野上彌生子は生活のために文章を一行も書いたことはない、という。だからこそ白寿にして「森」が書けたのだろうし、「森」と併行して、平塚らいてう(彌生子は一時期「青鞜」賛助員だった)や伊藤野枝(彌生子夫婦の隣に住んでいた)、宮本百合子(彌生子が最も親しくしていた)たちの世代の物語及び郷里のキリシタン大名大友宗麟の物語なども構想していたというのだから驚きである。前者の構想が結局、自伝に近い「森」へと変更されたのかもしれない。
夫婦には三人の男児が生まれたが、兄弟そろって優秀で長男は京大でイタリア文学、次男と三男は東大で理論物理学、実験物理学を学び、それぞれが母校の教授になっている。しかも戦災で家を焼かれた彌生子夫婦が世田谷区成城の三男夫婦の家から道ひとつを隔てた至近に住居を求めると、次男夫婦がその敷地内に(次いで退官した長男夫婦も合流し)家を建てて住まうという同居同然の生活を送ったのである。
まさに幸福を絵に描いたような家族の光景である。少なくとも野上夫妻を知る世の多くの人はそう思っていただろう。

しかし、そのイメージは死後、日をおかずして出版された「野上彌生子第II期全集」の日記によって、少なくともその一端は覆されたに違いない。
これから日記に散見される中勘助に関連する記述を拾集抄録していくことにするが、なにせ日記が膨大極まる量なのでその全てを読み解いていくのは大変な労力を要する(おまけに小生は目が悪いので)。
窮すれば通ず。途方にくれていたところ、折りよく「人間・野上彌生子ー野上彌生子日記からー」(1994年、思想の科学社刊)という格好の副読本があったのを、これ幸いに(日記の要所要所がコンパクトにまとめられているので)、以下の日記引用はその著者中村智子氏(註)の取捨選択にほぼ全面的に沿った叙述であることをまず断っておきたい。
(註・1929年、東京生れ。日本女子大卒、中央公論社勤務後、著述業に。)

「夜は素一(長男)と燿三(三男)の兄弟けんかがたねになつて嫌なことがあつた。私が素一をぶつたのはたしかに悪かつた。しかしあの瞬間の私といふものの激情は私の身上なのである。実に身をやく感情なのである。しかし父さんが素一を打つた私を咎めながら私に対して吐きかけた自分の雑言には平気でゐるのが腹立たしい。彼の態度はいつもさうだ。久しぶりに斯んな涙がせきあえず流れた。早く床に入る。泣きながらねた。しかしもうこの時には当面の事件に関する涙ではなかつた。あらゆる、古いすべてのおもい出で、あらゆる忍従にひめてゐた涙の洪水である」(T13、1、11、38歳)
息子を打った記述は、この時が最初で最後で、「古いすべてのおもい出で、あらゆる忍従」とは、中勘助に関わるものでこの時彌生子は涙したのだ、と中村智子は解説する。

それから二ヶ月後(再度触れておけば、彌生子の日記は大正12年7月31日、38歳から始っている)。
「私が彼の妻として来訪の客として面接するといふことーことに私の出版の用事さへある人に逢ふと云ふことがなぜ悪いのだ。彼がこんな場合に現はすいやしい嫉妬が私にどんなに影響するかをしつたなら、彼はもつと自己を抑制してよい筈である。もし私が一生斯んな屈辱の下に生活しなければならないのなら、ー私はもつと本統に考へなければならぬ。私がどんなに小さくなつてゐるか、彼の意に逆はぬやうにしているかー時々私はそれをひどく卑怯にさへおもふ位ーそれを考へやうともしない。私見たいな束縛と監視の下に生きてゐる女が一人だつて生きてゐるだらうかー少なくとも或る仕事の職業を持つた女の間には一人だつてゐないことを断言する。
男といふものは実際にくらしい獣である。いや、その鎖を絶てない私がバカなのだ。私の本統の位置と苦悩を知つたならきつと多くの人は目をまはすだらう。私は彼を憎む。心から憎む。私に娘のないことはなんといふ仕合せだらう。考へる度にさうおもふ。私のやうな苦痛は私一人で沢山だ」(T13、3、29)

「頭が痛い。昨日泣いて苦しんだためである。実際この一つの苦痛はこの美しい世を私に地獄に感じさせる。
T(豊一郎)はこの夕方は早く帰った。カステラを買つて。あはれな八重子(註)、お前はこれで償はれて行くのか。ーいつもこれである。どんなに私を苦しめても泣かせても、カステラの少しも買つて、夕方一時間でも早く帰ればそれですむとおもふてゐるなら大間違ひである。
私は何かの奇跡を待ちのぞんでゐる。もつと住みよいゆつたりした自由な世界はないものか。私はもう生きてもあと十年か二十年である。それまでに私はこんな世界を見るのみで死ぬのかとおもふと涙がこぼれる」(T13、3、30)
昨日の続きの嘆きである。絶望は人の寿命までをも縮めるようだ。この時、彌生子はまだ38歳なのである。彼女の余命は「あと十年か二十年」どころか、六十年という長き歳月が待っていたのだから。
(註・八重子の表記は一時、ペンネームでこの名前を用いていたなごりか。なお彌生子の本名はヤエである。)

豊一郎の異常な嫉妬心は外出中の態度にも及ぶ。
「朝床の中で父さんが私にまた一つの忠告を与へた。それは昨日朝デンシヤで渡辺哲夫氏に逢つたがその時私がひどく嬉しさうな風をしたといふ事に関するのだ。父さんはその事を嫉妬なんぞぢやない、兄が妹に云ふと同じ気もちだと考へて見ろといふ。・・・あはれな八重子お前は人のかほを見て笑ふ時でもその笑ひ方に注意を要するのだぞ」(T14、5、21、39歳)
あるいは何が原因だったのか、夫婦で藤田嗣治展へ出かけ、「ちよつとしたことからひどく憂鬱な気もちになり、彼を憎みながら三越前で別れる。・・・斯んな時ほど不快な、さうして彼が腹立たしい気のすることはない。他人よりもつともつと冷やかな気もちになれる。あなたは誰です。そんな人には私は逢つたこともなければ逢はうともおもはない。知らない、見たこともない人ですと心の内に叫んでやりたかつた。他人行儀に冷淡に挨拶して乗合自動車から下りてやつた。帰つてこの日記を書いてゐたら、学校から電話がかかつた。今急いできかなくてもよささうなことをきいた。屹度気が咎(とが)めたのだ。必要なだけの返事しかしなかつた。口ぢゆうが塩つぽくなり眼が濡れて来る。口惜しく腹立たしく、よの中が絶望的にかんじられる。
さあ、しづかにまた読書でもしやうか」(S4、10、10、44歳)
こだわりを解くのも、常に豊一郎の方だったようだ。

このような夫婦の感情の齟齬の(重要な部分を占める)背景に中勘助の影が(無意識にも)ちらついていたのではなかったか。中村智子はそれを「夫婦間に(刺さった)いつまでも抜けない棘(とげ)」と表現しているのであるが。であるならば根本の原因は彌生子の側にあるのではないか。
ところが彌生子がいつから日記を付けていたのかも不明のまま、現存する以前の日記は大正12年9月1日の関東大震災で焼失してしまったのだと彌生子自身が語っているけれども、震災で彌生子たちの家は焼けてはいないので、何らかの事情で彌生子が処分したのでは、という推測も成り立つ。また野上彌生子はたくさんの小説を書いたが、その中に純然たる私小説といわれるものはひとつもない。
したがって、彌生子が豊一郎と結婚した事情はもとより、二十歳前後で一緒になる馴れ初めの詳細も曖昧なままである。
それはすなわち、いつ中勘助に出会い、思いを捧げるようになったかという最大関心事をも不分明にしているのである(中勘助も野上弥生子のことを一切作品に残していない)。それを、ある人は結婚前だといい、ある人は結婚後だという、そのどちらであったのか?

「安倍(能成)さんと十日に会食すると云ふことについてまた父さんといやなごたごたがあつた。原因は茅野の奥さんがそれに出るので、野上の奥さんも出れば出ると云ふ話なので私にも出てほしいと岩波さんから電話が来たためである。中さんも出ると云ふのが父さんには気に入らないのだ。それがすべての原因だ。私とてもそんな場にゐ度いとはおもはない。自然に出くはしたのなら自然にどんな態度でもとれるが求めてそんなところに行く気はない。それが分つてゐるのに、私の断はり方が生ゆるいとかなんとか要するに焼きもちが原因でわけの分らぬ怒りをもやしてゐるのだ。理屈を云へば負けるくせに」(T15、9、9、41歳)
この日とまったく同じことが翌年1月、武者小路実篤の著作出版披露会で起き、「また不快な暴風雨が持ち上がつた」と書いた二日後。
「(会への出欠を)朗らかな自由な判断と行動に依つて極め度いのだ。私のたえ難い苦悩はその不可能を悲しむのだ。その間にいやな、たまらない不純な嫉妬や束縛や圧迫が交つて来るから腹が立つのである。要するに斯んなことでぐづぐづ云ひ合つたり、泣いたり苦しんだりするのは愚劣である。而かも何かことがある度にこの愚劣を繰り返させるのは誰の罪であるか。彼はすべての束縛を愛情の名に依つて解釈しようとする。しかし本統の愛情は相手を苦しめることではない筈である。相手のために忍ぶのこそ本統に優しい愛情である。女はどんなによくそれを知つてゐるだろう。しかし男は殆どそれを知らない」(S2、1、9)

それからほぼ七年後。
「父さんと久しぶりに下らないことから怒鳴りあひをしたのだ。はじめは私がわるかつた。しかし彼の怒りやしつっこい罵倒は他の原因と交りあつてゐたらしい事を、私はあとでこころづいた。アベさんが中勘助氏の病気のために帰京されたのだと云ふことをきいた時に。ーしかし彼はそのことで新しく私にぶっつかつて来る資格はない筈だ。過去の一つのロマンーの形さへなさない、一事件が、一生これほどしつっこくつきまとふ例も少ないかもしれない。それにしても氏の病気がどうかもう一度快方に向はれんことを祈らう」(S8、7、29、48歳)
この頃、勘助は神奈川平塚の家を処分して東京赤坂の家族の元に戻っていた。ちょうど斎藤茂吉の診察を受けた時期と一致する。
この日の記述やこの文章冒頭に引いた日記からも想像されるように、彌生子の勘助への恋情は純粋にプラトニックなものだった。それゆえに長く尾をひいたのでもあろうが、そのゆえに豊一郎にも妄想に近い疑心暗鬼を生む結果になったのではなかろうか。それに加えて勘助は東京神田生まれの良家の美男子であるのに比して、豊一郎は根は真面目ながらも見栄えのしない、出自も平凡な田舎者である。無意識下にも劣等感情に囚われていたのではあるまいか。

これに関して、安倍能成の「野上のこと」と題する文章がある(註)。
「明治三十五年の秋に初めて一高の生徒になつた時、同じ組の中に前から馴染の野上豊一郎といふ名を発見したので、先生が出席簿を呼び上げる時に注意して見た所が、私の三列位前にその人が居た。もう少し瀟洒(しょうしゃ)たる才人らしい風貌の持主かと思つたのに、存外風采の揚がらない、併し体軀は長大な、九州男子らしい男であった」
体格は勘助の方もさらに堂々としていたであろうから、どう贔屓目にみても豊一郎に勝ち目はない。
何故、安倍が豊一郎に注目していたのかといえば、豊一郎はその頃から文学少年で「中学世界」(大町桂月主筆)という雑誌の常連投書家であったのを、雑誌を愛読していた安倍が知っていたからである。
(註・安倍能成著「巷塵抄」1943年、小山書店刊。)

「人間・野上彌生子」で中村智子は、豊一郎が漱石に宛てた葉書を紹介している。
「『鳩の話』(彌生子の作品)を見て頂いた御礼を申てくれとのことです。私の小説はまだ出来ません。中と安倍が今日また謡にきました」
明治40年3月21日出状となっているので、前年に同棲を開始して処女作「縁」を発表した頃であり(彌生子21歳)、豊一郎も勘助も安倍能成も帝大生である。それが連日のように、謡をするために新婚家庭に入り浸っていたのである。
この状態がいつまで続いたのか、この時すでに勘助への思いを打ち明けていたのか?友人の妻からの思慕を知っていながら、その夫をあざむき素知らぬ風をして謡を楽しんでいたのだろうか(万世の告白を受けながら妙子を可愛がるために江木家に出入りしていた勘助である)。いったい豊一郎は、勘助への彌生子の思いをいつ知ったのであったか?
あるいは、告白はもっと後ということも考えられるが、翌41年9月にはそれぞれ大学を卒業して(勘助の兄金一が倒れたのが卒業前の7月)、二人の正式な入籍があって、豊一郎は国民新聞社に就職。43年1月に、彌生子は長男素一を出産。彌生子の告白が出産後とは考えにくいのだが。

分からないことだらけであるが、こうなると結婚前説が有力にも思えないでもない。告白を受けてはいたけれども、それだけに終わっていたから堂々と謡を楽しみに友人宅に通えた。つまり彌生子が明治女学校に在学中に告白していた(豊一郎が彌生子に好意を持ち始めた家庭教師時代かもしくはその前でも良いが、ともかく彌生子が正直にそのことを豊一郎に打ち明けていた)、という想像である。豊一郎も今までの経緯から勘助の出入りを黙認していた(安倍も一緒だから)。が、この場合もどこか無理がありそうにも思えてくる。

どうにもすっきりしないので視点を変えることにして、何故に告白が実を結ばなかったのかに注目してみよう。彌生子がそれらしき理由をポロッと洩らした記述があるのだ。
「(小説に描かれているフランス人の恋愛に比べ)而(しこう)して日本ではー形すら存在しえない。将来はしらず、少なくとも現在のところでは。それには男が我まますぎてうぬぼれがあるのと、女が浅薄で愚だから、どちらも真のロマンスの味をしらないから。ー不幸にして二十年前の自分もその非難を遁(のが)れることは出来ない。自分は当時の流行のヒューマニズムの一時的の感激のため、一生の最も美しいロマンスをずたずたにした。しかしそれもその当時の自分に取つては心的成長の一過程としてやむをえなかつたことではあるが・・・」(S4、2、12、42歳)

まことに意味深な文章で解釈に苦しむが、どうやら彌生子は自分の身の上に何らかの変事が起きて、それを勘助に衝動的正直さで打明けたのではないか。「ヒューマニズムの一時的感激」とはそういう意味だったのでは。中勘助への「一生の美しいロマンス」、すなわち初恋がそのことによってずたずたになってしまった(少なくともこれまでの引用からも、豊一郎との間に熱愛はおろか恋と呼べる感情は見当たらないのだから)。
つまり導き出した結論は、やはり彌生子の告白は結婚前であったのではなかったかということである。この想像を補完するのが、野上弥生子最後の小説「森」である。
臼杵中学に進んでいた豊一郎より二年早く上京していた彌生子は、叔父(父方)の家に止宿しながら勘助の姉たちの出身校である明治女学校へ通っていた。明治女学校は在校生わずか数十名で、学校というよりは塾であったと書かれていることからも、姉を通じて勘助と知り合ったのではという意見もあるが、角川文庫の年譜によれば、二人の姉(勘助より5歳と7歳上)が明治女学校を卒業したのは明治28年と29年となっているので、明治33年に入学した彌生子と在学期間は合わない(姉たちよりも、三つと四つ違いの勘助の妹たちの方がまだしも可能性があるのだが、二人の進学先は不明)。

その明治女学校(小説では日本女学院)が舞台となっているのが「森」である。「森」は、九州から上京した15歳目前の少女(菊地加根)が入学予定の明治女学校へ、仮名にされているが木下尚江と思われる人物に引率されて行く場面から書き起こされている(彌生子がこの少女に擬されてあるのはいうまでもない)。
先に述べたように「森」は、彌生子87歳から文芸誌に連載開始されたけれども、実際には82歳の時から少しずつ書き溜め推敲を重ねていたことが日記に書かれている。
齢八十を越した作家がはるか昔の遠い少女期の記憶を呼び戻しながら、延々十七年にわたって長大な小説を書き継いだいうことだけでも、その持続力に驚嘆するのであるが、加えてその構想力にも。この小説には実名で出てくる歴史上の人物(勝海舟や内村鑑三等)、仮名にされている人物(荻原守衛や島崎藤村、北村透谷等、こちらがずっと多い)それに仮構の人物(そんな人いるのだろうか?どの人にもモデルがありそうだが)を合わせて、優に百名を超える登場人物が交錯する小説なのだ。
野上彌生子の代表作といわれる「迷路」、「秀吉と利休」とともに、「森」も未完とはいえ(終章を残すのみだったという)、高い評価を得たのも頷ける力作になっている。

物語は当面、菊地加根をめぐって展開していくが、圧巻は後半数章にわたって繰り広げられる加部圭助と加根の同僚園部はるみとの恋愛とその破局のくだりであろう。複雑な家庭環境に育った園部はるみは、学校長岡野直巳(明治女学校二代目校長巌本善治)を崇拝する帝大医学生加部圭助に慕われ、やがて圭助の下宿で完全な恋人になったことが暗示される。
ところがはるみは書き置きで圭助に岡野校長との間にも性的関係があることを告白し、圭助から去って行く。逆上した圭助は岡野校長を殺そうとして大学の解剖室に忍び込み、盗み出したメスを握りしめて土砂降りの雨の中、森の学校(日本女学院)へ乗り込んでいく(註)。
最初、「森」のこれらの場面を読んだとき、菊地加根の物語からあまりにも逸脱しており(加部圭助が出て来る途端に、それまで脇役だと思われていた園部はるみが完全に主役となっているので)違和感にとらわれて、その迫力は認めるものの小説の構成上破綻しているのではないか、と疑ったのも事実である。
(註・校長巌本善治が引き起こした女学生とのセックススキャンダル事件が素材になっている。)

が、それは彌生子がわざわざ「森」は虚構であると断っていたのを(巻頭「作者の言葉」)、つい菊地加根に引きずりこまれて読み進むうちに、うっかり自伝小説だとして筋を追っていたせいであった。
この小説に着手した当座の日記には、「純粋には自叙伝でなくとも、それを多分に含んだものでありまた明治三十年代を背景とするので、その記述とすれば無駄でもないだらう。一方にはそんな思ひもすてきれず、とにかくペンについて行く感じである」(S42、11、7、82歳)と、書かれているのをみれば、小説「森」の真の主人公は菊地加根というよりも、明治三十年代という時代とその時代に女子教育の黎明期を担っていた森の学校「明治女学校」であったというべきだろう(註)。
(註・明治女学校は彌生子と豊一郎が入籍をした明治41年、二十三年間の歴史を閉じた。)

これに関連して、彌生子79歳時(昭和39年10月7日付)の日記に興味深い記述があった。
「午後思ひよらず臼井吉見氏来訪。彼が中央公論に発表してゐる中村屋夫妻をモデルにした小説(長篇「安曇野」のこと)の為、明治女学校の事をきくのが目的であつたらしい。私も記憶にある事をいろいろ話した。荻原碌山(守衛、「森」では篠原健)が米国へ遁げだすやうに行つた原因には清水さんとの事があり、すでにその時巌本さん(校長)との事を荻原さんがかぎつけてゐたらしいとの事をきいた。清水さんの名前はどう考へても思ひ出せず、もう一人の荻原さんを清水さんと争つたといふひとのことは、みづみさんなる名前のみ思ひだしたが、苗字の方を覚えない。おかしな事である。
しかし作家なら誰もいち早く描いたであらうこの話に私はまだ筆をそめずー何十年もまへ戯曲のかたちでそれとなく触れたがー他の人のため記憶を探したりするのは不思議である。しかし臼井さんはお良さん(「安曇野」の主役で明治女学校出身)に重点をおいてをり、私は書くとしても明治女学校を主とするだらう」
「森」を読むと、確かに二人の女学生が篠原健をめぐって恋のさや当てをする場面が出てくるのであるが、それは創作ではなかった!この清水某が園部はるみの原型だったのである。
臼井吉見との面談は「森」執筆着手の三年前になるけれども、すでに昭和36年2月7日、相馬黒光(お良さんのこと)の七回忌に際して「明治女学校の事や巌本氏の事、本当は一度書いておくとよいのだが」との記述があるのを考えても、「森」の構想を早くから抱いていたことがうかがえる。

若干、脇へそれた。元に戻そう。
中村智子は、上に引いた「ヒューマニズム」の日記文と以下に掲げる彌生子の安倍能成宛書簡の文章から次のように推断している。
「〈告白〉の内容は不明だが、〈ヒューマニズムの一時的の感激〉〈清教徒的になり〉〈種痘〉などという言葉から敢えて推察すると、彌生子は他の男性と性的経験をしたのではないか。自伝的な作品『森』に女主人公〈菊地加根〉本人ではなく友人の〈園部はるみ〉が医学生に突然求婚され、崖の裏道で抱擁されて〈恋人で完全に妻〉になる。一高出身で他人目には兄妹にみえる彼を野上豊一郎と読まれるのを防ぐために〈帰朝後、脳外科の第一人者〉とわざわざ書いて韜晦(とうかい)しているのは、かえって尻尾が出ているように見える。中勘助の『犬』(註)にみられる異常なまでの性の汚らしい描き方には、ピューリタンの憎悪がある。彌生子の告白が彼に性を嫌悪させ、幼女愛にむかわせたのではないであろうか」
(註・中勘助は長い作家生活の間に、「銀の匙」以外の小説をわずかに三作しか書いていない。妙子のために書いた「菩提樹の蔭」と性をテーマにした異色作「堤婆達多」と「犬」である。「犬」はその過激な性描写から発禁処分となった作品。)

「根本的に申せば、私はあの人のことはほんとうはなんにも知らず、一つの幻影を彼といふ人に拵(こしら)へてゐただけです。同時に私はあの人に対する深い感謝とともに、激しい謝罪のこころを持つてゐました。あの方がなにか一生日かげに生きてゐるやうな生活におちたのは、私の告白が一つの原因となつたのではないか、とそれはいふ事です。・・・私のやうな多感な動揺しやすい女が、自分の生活にあくまで清教徒的になり、夫婦生活においても、とにかくお点の辛らいあなたから落第点は貰はない暮らしをつづけられたのは、若い日のあの些やかな出来事が一種の種痘になつたのです」(S27、1、2、彌生子66歳時の書簡)

この中村智子の指摘を鋭いと首肯した上で、高良留美子(こうら、註)はその著「樋口一葉と女性作家 志・行動・愛」(2013年、翰林書房刊)の中の「野上彌生子の恋愛・結婚小説と中勘助との恋」の章で、次のように論述している。
「最晩年の未完に終わった作品『森』は、作者が冒頭で〈真実よりむしろ虚構をとることに決めた〉〈自叙伝ではない〉という作品だが、虚構のなかに真実が隠されていると思う。加部圭助が園部はるみに、崖の裏道ではじめて求愛したとき、かれははるみが篠原健のことをひと言親しげに話しただけで、嫉妬心を燃やしている。『二年あまり思いつづけた加部圭助の(略)もっとも純粋であるべき愛のうちあけが強い嫉妬に裏付けられていたのもいっそ自然とすべきであったろう』と彌生子は書く(「森」第13章)。
篠原健は二年ほど前から外遊している画家志望の青年で、夭折した彫刻家荻原守衛をモデルにしている。守衛は明治女学校の二代目校長巌本善治の好意で、巣鴨の校内に小屋を建てて住み、画学校〈不同舎〉に通っていた。
(註・1932年東京生れ、東京芸大及び慶応大卒。詩人、評論家、作家。)

圭助とはるみの性的な関係は、その翌日、圭助の下宿でのこととして、暗示されている。
圭助が〈誠実に純粋な青年〉であることに打たれたはるみは、〈到底黙っていられないひとに、今日のことを打ち明けたとしても、対手が他の青年でないことによって屹度許されるだろう〉と考える(第14章)。これが〈当時流行のヒューマニズムの一時的の感激〉ということだろうか。
これらの場面と日記から推理すると、彌生子は勘助に豊一郎とのことを〈告白〉したのだろう。豊一郎は彌生子と結婚したが、勘助とのことに嫉妬心を抱きつづけた。しかしかれは勘助と絶交したわけではなかった。
彌生子の恋愛・結婚小説にみられる理性偏重と、恋愛プロセスの欠如、とりわけ恋愛結婚へのネガティヴな姿勢は、彼女の結婚生活が上述のような抑圧のもとで営まれていたとすれば(註)、理解できなくはない。彌生子のなかで恋愛とその表現は、そしてセックスもまた、つねに監視され、点検され、抑圧されていたのだ。そのなかで彌生子自身も、しだいにこの恋愛を〈一種の種痘〉と考えるようになっていったのだろう」
(註・この前段で、高良留美子は「文筆と家庭を両立させ、三人の息子を立派に育てあげて理想的な生活を営んできたとみられる」彌生子が、1920年代から30年代の日記で、「自分の結婚生活を〈監視〉〈忍従〉〈束縛〉〈圧迫〉〈苦痛〉〈鎖〉〈獄中〉などの語彙で語っているのには、驚かされる」と書いている。)

そしてここで問題にされるべきは、「生殖の罪は人間のいかなる罪よりも罪である」と激しく性を忌避する勘助の小説「堤婆達多」(でーばだつだ)と「犬」(大正10年、11年に発表された)を野上彌生子がどう読んでいたのかということである。しかし、それはこう書かれる。「彌生子がこの二作を読まなかったはずはないが、日記は『犬』発表の一年後まで存在しない。友人に預けてあって関東大震災で焼失したと語っているようだが、破棄したのかもしれない」
したがって彌生子の反応はいっさい不明ながらも、勘助にこれら二つの問題作を書かせたのは彌生子の告白ではなくて、江木万世の告白だったのであろうと考えるのが無理がないと高良留美子は結論する。つまり中村智子の指摘とは異なる。
高良も中村同様、彌生子の告白が結婚前にあったということでは一致している。けれども、彌生子の告白が動機となって問題二作を書いたのだとすると、あまりに時間が経ち過ぎているのと、その初対面から勘助に強烈な印象を与え、友人の妻となり子供を産んでも勘助への恋情を隠さなかった万世の告白の方が(より衝撃的で)整合性があるというのがその理由である(この結論部分で高良留美子は、「中勘助の恋」における富岡多恵子説を援用している、註)。妥当なところであろう。
(註・岩波文庫「犬・堤婆達多」の解説者は富岡多恵子である。)

中村智子や高良留美子が推論するように、小説「森」は、野上彌生子が実在の人物であった清水某(園部はるみ)や荻原守衛(篠原健)あるいは野上豊一郎(加部圭助)等の登場人物に託して、巧みに若き日の自分と勘助との関係をも暗に語っていた物語であったのだろうか。彌生子の告白は結婚前であったとする高良留美子はその理由をこう述べている。
「彌生子のような世間体を大事にする女性が、結婚生活を破綻させなければ実現しない恋愛を、はじめるだろうか。恋愛は、結婚前のことだったとわたしは考える」
この見解は、愛の告白を受けた女の結婚先(しかもその夫は親しき学友である)に厚顔無恥にもしゃあしゃあと謡を怒鳴りに行けるものであろうか、とする結婚後説を覆せるだけの説得力を持っているだろうか?
告白が結婚前、結婚後いずれであったのか。それ以前の問題として、中村智子が引用したと同じ安倍能成宛書簡を引いて、「中勘助の恋」の中で富岡多恵子は、彌生子がずっと気に病んでいた告白が与えた勘助への影響そのものを、にべもなく一言で片付けている。
「彌生子の片思いによる思いすごしだろう」

野上彌生子が遺した膨大な「日記」、「手紙」、それに「作品」と文献は一つながら、それらを読み解くそれぞれによって、その数だけ解釈は生れる。またその解釈についても同様なことが起きるであろう。無限大である・・・。
ああ、この世の不可解さ、人間の不可解さよ!宇宙の世界の不可解さよ。
何だか、突き詰めて行くと華厳の滝に飛び込んだ藤村操がハンモン(煩悶)を重ねたエンセイテキカイギシン(厭世的懐疑心)にガンジガラメ(雁字搦め)にされそうだ。・・・クワバラ、桑原。


(以下、「銀の匙」と「森」(5)につづく。)












自由人の系譜 中勘助「銀の匙」と野上彌生子「森」(3)

「銀の匙」ラスト部分で、16歳の「私」は半島にある友人の別荘に行く。そこでの友人の「姉様」との邂逅と別離が叙せられて小説は閉じられるのであるが、それに至る少し前に作者中勘助のその後の人生を知っているものにとっては、決して読み過ごすことのできない場面がさりげなく挿入されているのに気づくだろう。
別荘には、「私」と「姉様」の他にお手伝いの「ばあや」がいる。「嘘はいえず、胸にはしまっておけない性」の「ばあや」に、「私」のことをひと目みたときから「ああご仏縁の深い方だに、お坊様におなりあすばいたらよかったになあ」と思ったと語らせ、さらには「あなたはええお嫁様がおもてになりません」とまで言わしめている。
しかもこの「ばあや」は、人生の辛苦を重ねて来たから信心深くなったとか、生国が名古屋であるとか、「私」の幼少時代の養護者であった伯母さん(実母の姉、註)のまるで生写しであるかのように描かれているのは、「私」の将来を戒(いまし)めての伯母さんの遺言とも読み取れなくもない。
(註・前年に「私」が名古屋に訪ねた後、すぐに伯母さんは亡くなっている。)

しかしながら「銀の匙」という小説そのものが、「私」の自己形成の一端を綴った物語ととらえるならば、「ばあや」の言葉は明らかに29歳の作者中勘助自身が抱いていた将来への見通しであったはずであろう。実際に、その後の中勘助は結婚もせず修行僧のような禁欲的生活を送ったのであるから。
ところが五十路も半ばを越えて事態は一変、突如中勘助は身を固める決意の下に妻帯したのである。その間の事情は「結婚」というエッセイに述べられている。

「姉の死と同時に私のところの家庭はもう久しく予期された行きづまりに到著(とうちゃく)した。残されたのは頭が悪くてもののいえない七十をこした兄と六十に手のとどく私.、どうにもならない。(姉の)病中は私が主婦の代役をし、お見舞いにきて下さる親戚のお知合いの婦人の好意に頼って凌(しの)いできたもののそれは余儀ない窮余の窮策で、いつまでも続くものでなく、続けるべきものでもない。
で、私は考えてたことを実行することにした。結婚。私は誰彼に候補者の物色を願いした。ある人は祝福してくれた。ある人は悲愴な顔をした。また他の人は意外なことが降って湧いたように仰天した。何でもないものを。結婚しないのも私の思慮なら結婚するのも私の思慮である。
場合に応じて適当な生活法をとるだけのことだ。永い独身生活から結婚生活への転換はなにか際立った感じを与えるだろうけれども、皆にお願いした私の言葉はいろいろだったろうが結婚条件は 健康で、善良で、地味で、兄の世話をよくしてくれる人で、少しは話のわかる人というのだった。事情が許さないから出来るだけ早く」

こうして姉末子の死からちょうど半年後になる昭和17(1942)年10月12日、太平洋戦争の最中に中勘助は57歳で結婚した。相手は退役軍人の娘、42歳の嶋田和である。嶋田和は三人姉妹の長女で、お茶の水高女の専科を出ていたが未婚のまま、長い間にわたって書道を教えていた(註)。女学校で嶋田和と友人だった勘助の姪が持ちこんだ縁談であった。
(註・妹二人も独身で、それぞれ書道と絵を教えていた。岩波版「中勘助全集」編纂委員に和の末妹嶋田豊子の名前がある。)

ところが挙式の当日になって、思わぬ異変が起きた。次のように書かれている。
「私はふとしたことから食あたりをしたのが予(かね)ての衰弱のためかいつまでもなおらず、警察の許可を得て白米の粥(かゆ)をたべたりしても効果がなく、とうとう床についたまま式日になった。その朝しかたなく起き、床屋へゆく支度をしていざ出ようという時に茶の間でばったりやはりそこへ起きてきた兄と出合った。
『床屋へいくから留守番を頼みます』
私は気軽にそういって家を出、時刻も迫ってるので行きあたりばったりの汚い家で調髪をすませて帰ったら兄が亡くなっていた。私の気もちは混乱した。私は駆けつけた今日の仲人役の間氏(姪の夫)に式の延期を希望したが、結局同氏の意見に従い喪を秘してすませてしまうことに決心がついたのが定刻二十五分前。大急ぎで礼服に著かえる・・・(略)」

このあと、新婦の父親だけに兄の急死を打ち明けて、わずかに二十人ばかりが参列した内輪だけの式を済ませたことが書かれ、ついで時節柄ならではのユーモラスな話題が挿入されている。
「披露の宴で私はあらゆる種類の酒を次つぎと飲んでよほど元気づいた。主賓である先方の伯父さんが卓子(テーブル)の向うから『山本大将はお父さんが五十六の時のお子なので五十六とつけられたということですがあなたはなんとおつけになりますか』といったので『は、五十八とつけます』と答えたら皆が一度に笑った。
それまでの堅苦しさがそこでほぐれたような気がした。宴後休憩室でも私は平静に人たちと談笑した。(新婦の)お父様はあとで 見ていてたまらなかった といったそうだ。
文枝さん(勘助の姪)に自動車で送られて家へついた時に初めて事情を知った和子は茶の間の隅で初子さん(末子の妹)に慰められながら泣いた」
そして兄の遺体が横たえられた座敷で勘助が添い寝し、新婦は次の間で初夜を過ごした。祭壇に兄の遺骨を祀って四十九日を終えるまで、その状態を続けたとある。

挙式の朝の兄の死がもたらした衝撃。兄の死から四年後に発表された「結婚」はこう結ばれている。
「兄ーそれも今は一片の記憶にすぎないがーの急死のために私の結婚は目的の大半を失った。出来るだけよく世話をしようとする念願だったものを、兄はまことに気の毒な人だった、人びとの歓心と喝采をかつえるように望みながらそれを買う術には甚(はなは)だ拙劣であった。
私との間についていえば、自分だけが歓心喝采の中心であらねばならず、少なくとも第三者のいるかぎり、兄の前で私は有って無きがごとく、否寧(いなむし)ろそれ以下であらねばならなかった。かくして自ら求めてつくった敵がこの私ではなくて〈不可能〉という恐ろしい相手であることを覚らず、永い一生をとおしてそのために自ら苦しみ、また周囲を陰惨な暗黒にした。実に五十年私の数しれぬ譲歩も、堪忍も、寛容も、慈悲も、終(つい)にこの人を覚醒させることができなかった。
四十年ただ亡くなった姉の真心こめた不断の諫言と最後にきた老齢によって晩年多少の反省と自制を見せるようになったに過ぎない。私どもの不幸な関係はここに終った。そうして私の新(あらた)な、間違いなく短い生活はこの人の通夜をもって始まったのである」

しかし「目的の大半」を失い、悲嘆し躊躇した結婚はこの時勘助が記したように、「間違いなく短い生活」では終らなかった。予想に反して、勘助の「余生」は長かったのであるが、それについては章を改めて触れることにして、ここでは万世と妙子母娘の死について述べておく。妙子の死は、やはり「結婚」の中程に「約束の日に私は出かけたが途中妙子が亡くなったという急報を得て引返した。妙子には不意に打明けて驚かしてやろうと思ってたものを。この日のことは『蜜蜂』に書いた」とだけ短く書かれている。

「約束の日」というのは見合い話が順調に運び、ちょうどその日に相手側親族との顔合わせが予定されていたので、勘助は嶋田家へ向かっていた途中にという意味である。さらに「蜜蜂」の記述から、その日が7月18日であり、妙子は前日の夜に急逝したこと、またそのわずか一週間前の11日、たまたま姉末子の百ヶ日に当たる日に妙子から電話があって、勘助がそのことを告げると「そう?偶然ね。じゃまたそのうちいくわ」との短い会話を交わしていたということまでも。
妙子は13日に発病、15日入院したまま17日に胆嚢炎で急逝していたのである。33歳11ヶ月の生涯であった(註)。35歳で死んだ父親よりも短命だったのである。三人の子、長女13歳、次女8歳、三女はわずか1歳を残して。長女は妙子が父江木定男を亡くした歳と全く同じである。
(註・富岡多恵子は妙子の死亡日を17日、18日と二つ記述し、かつ妙子の満年齢を34歳としている。単純誤記だろう。)

「結婚」にはこんなことも書かれている。姪の引合せで勘助、嶋田和双方は乗り気になったものの、軍人上がりで頑固な先方の父親は、「子煩悩なせいもあるかとても石橋を叩いて渡るほうでこれまでいくら縁談をもっていっても纏(まと)まったためしがない」状態であったから、今回も危うく壊れそうなところまでいったりしたが、「『沼のほとり』を読み、特に『孟宗の蔭』のなかの私が妙子を可愛がるところに打込んで 今度こそ私の心はきまった と事は一遍に落著してしまった。世はさまざまだ。それを読んで私を非難する人もあるかと思えばそのために大事の娘をくれる人もある」。
こう書いて勘助は少し得意然としているが、兄の死により結婚をとりやめようとしたのも又事実である。
ともかく相手の父親が、(勘助の「小児愛」的傾向を富岡多恵子に指摘される原因になった)妙子への愛の書「孟宗の蔭」を気に入ってくれたことや新婦との人縁をたどっていくと勘助の家系や友人、さらには姉末子の生家とも、あるいは妙子たちにも繋がっていることの偶然やを、妙子に「不意に打明けて驚かしてやろうと思ってた」のであったろう。その矢先の妙子の死だったのであるが、果たして妙子は勘助の結婚を祝福したであろうか?

「娘」妙子の死を「父」勘助はどのように受けとめたのか。長文になるが「蜜蜂」と書簡集「妙子への手紙」の「前書」から引用する。
「妙子の死に顔は無我夢中の子供のときは別として父親をなくしてから今まで永年見てきた生き顔のいつのそれよりも静に穏かでした。妙子はかわいそうな子でした。家庭における特殊な位置のため小さい時から苦労をしたし、力にしてた父親には早く死に別れたし、親譲りの奔放な性質と切れかかった弦(いと)みたいに響きやすい神経をもって、所詮安穏な生涯をおくれないようにさだめられていた。
妙子は最初に子供の手で私に縋りついてきた。そのつぎには娘の手で、最後には成人した女の手で。そうしてどの手も涙にぬれていた。元気のいいお嬢さん、朗らかな奥さんという専(もっぱ)らな評判だったけれど私とさし向いのときには淋しそうな顔、悲しそうな顔、つらそうな顔、苛立たしい顔、腹立たしい顔、ー不幸な顔ばかり見せた。堰のきれたように涙をながしたこともたびたびあった。
そうしてそんなことを書いた私の随筆が発表されたあと『私てれたわよ、私が泣くなんて誰も知らないから』と苦情というでもなく笑いながらいったこともあった。
気性よりも、顔かたちよりも、この点がお母さんに生き写しだった、この私をいわば懺悔僧に見立ててるところ、あらゆる感情のぶちまけどころにしてるところ。私は納棺のすむまでいました」(「蜜蜂」)
「家庭における特殊な位置」とは、母万世と祖母悦子との江木定男や妙子を挟んでの確執を指しているのか。

「(略)ある人は私が妙子に対してあまりにも寛大放任すぎるといつた。さうではない。私は妙子の性質をよく知つてゐる。たとへ善意であつても結果を顧慮しない無思慮な自己満足的な叱責を加へて相手を反撥や、自暴自棄や、逃避や、最悪の場合死にまで追ひやることは真に慈悲あるしかたではないからである。
他の人はまた妙子の死後私がはじめてその真の姿を知つて愛情の冷却をきたしたらうといつた。さうではない。昔妙子がこの膝のうへにこの腕の抱擁のうちにあつたやうに妙子はその一生をとほして善きにも悪しきにも常に私の慈悲のなかに生きてゐたのである。妙子は自ら涙の流れをもつて洗ひさるべきものを洗ひ去つた。そのうへ私が何を思ひ何を為すことがあらうか。私にとつて大切なのは過誤の有無よりも先に善悪のありかたである。何等かの規約の厳守ならばパリサイの徒も市井の無頼漢もよくするであらう。
何より肝要なのは道徳心の無私であり純粋である。深く己の凡下を省みず人間愛の不足をもつて道徳的潔癖と誤り、郷愿的偏狭(註)に閉ぢ籠つて他の放逸を嫉視するがごときは私の最も嫌悪するところである。
私は生前その両親との関係において充分達し得なかつたところの道徳的完成にまで妙子との関係において達することができた。不思議の因縁であり、大きな喜びである」(「妙子への手紙、前書」)
(註・きょうげんてき、と読む。道徳家を装って、郷里の評判を得ようとする者の意味。)

妙子の死直後に書かれた「蜜蜂」と比べて、それから五年後の「妙子への手紙」の方は硬い文章ながらも、妙子への愛惜を語ってその内容に変わりはない。
「前書」の文章(実際はもっと長い)を富岡多恵子は、「妙子への総括」文なのだというがまさにその通りであろうし、そうであるとともに母万世に向けての総括だったのではないか。
つまり「前書」は勘助62歳に書かれたのであるが、すでにこのとき万世自身もこの世の人ではなかったからである。万世は妙子急逝の翌年の昭和18(1943)年5月に57歳で(未子と同じ歳である)死去していた(また同じ月に姉末子の追悼文「蜜蜂」が刊行されているのも不思議な巡り合わせである)。
万世の死因が何であったのか、どういう死に方をしたのか、勘助は何も書き残してはいないので一切不明である。これ以後の万世を語る文章は、前章で触れたように勘助71歳時の「呪縛」まで、ほぼ十年の歳月を待たなばならなかったのである。

戦争で日本の歴史が大転換していく昭和17年4月に「姉」末子と、7月に「娘」妙子と、10月に兄金一と、翌年5月には「呪縛の人」万世と離別するという思いもかけない事態に遭遇しながら、その一方で勘助は新生活をスタートさせていたのである。当然、勘助の結婚の報は(その日の兄金一の死も)生前の万世にも届いていたはずである。それを耳にした万世の心のうちはどうであったろうか。まさか勘助の結婚の翌年に世を去るとはどうしたことであったのか。

姉末子に語りかけるように綴った日記体随筆「蜜蜂」についても不思議なことがある。
姉の死から一週間後の4月11日に起筆され、7月19日付で「妙子が死にました。・・・」、10月27日に「兄さんは今月の十二日になくなりました。私は泣きました。・・・」と語りかけているのに、結婚のことはひと言も姉に報告してはいないのである。
目ざとい富岡多恵子が、このことをむろん見逃すわけはないのでいろいろとその理由を考察し、興味深い意見を陳述しているのであるが、ここに再録するとなると益々長くなるのでそれは各自めいめいの想像に任すとして、その富岡多恵子でさえも気がついてはいなかった、というより気がつきようもなかった重大かつ仰天の事実が、その後明らかにされているのでそれを以下に述べる。

明らかにされた事実というのは兄金一の死についてである。
朝、顔を合わせて挨拶した兄が床屋から帰宅すると死んでいた。死因にはひと言も触れないで勘助は結婚を拒み、周囲に説得されて従い、やがて兄哀悼の文章を書く。この流れに不自然さが特にあるわけではない。多分、富岡多恵子も金一はどうして死んだのか?と頭の隅では思ったに違いない。が、そのまま見過ごした。それもそのはずである。「結婚」という作品にはこんな場面さえ挿入されているのだから。

「式は秋と決まったがそれまでにも始終手伝ってもらいたい。それにつけても一度先方の人たちに逢っておくことが望ましいのでその日どりを打合わせるうちにも目前の必要に迫られて幾度かきてもらった。一番困るのは兄の身につける物の世話だった。
それを頼む時に私は『兄は私より身なりが悪いと気にするからなるべくいいのを著せてあげてください』といい含めておきながらじきにそれを忘れてしまった。
間もなくある日のこと、茶の間で食卓の向うに座った兄がひどくぴかぴかするものを著てるのを見て私は家政婦さんが手当り次第に出したのだと思い『大層いい物を著ましたね』といったら兄は指で輪をこしらえ目へあてがって これが出してくれたのだ といった。お友達は眼鏡をかけている。私は そうだったのか と思って『そりゃよござんでしたねえ。いい人ですよ』といったら 我意を得た という様子をして見せた」

眼鏡のお友達は、もちろん婚約者の嶋田和である。このあとに勘助は妙子の死を知るのであるから、和は相当早い時期から中家へ出入りして金一とも接触していたことになる(だからこそ、婚礼後に金一の死を知らされて末子の妹初子に慰められるほどに泣き濡れたのでもあったか)。
この挿入文から想像されることは、金一が弟の結婚はもちろん、その結婚相手の嶋田和その人を受け入れていたのであろうということであって、だからこそ金一の死に特に不自然さを感じなかった原因にもなっていたのだろう。それに金一は元々病者なのであるから、いつ死んでもおかしくないとの心理状態にあったであろうから。

ところが、富岡多恵子「中勘助の恋」出版の八年後、文芸雑誌「新潮」(2001年7月号)に「中勘助と兄金一」と題した一文が掲載され、金一の死が自殺であったことが初めて公表されたのである。実に、金一の死からほぼ六十年(勘助の没後からでも三十五年)の歳月を経て。

「当日、赤坂の家には親類の女性たちが何人か来ていた。亡くなった末子の妹、初子もその一人だった。もともと仲の良い姉妹だったが、それぞれの夫が〈すべてを忘れたのと足腰がその用をなさなくなったとの差こそあれ、同じ脳出血の病で倒れたので、二人はますます親しくな〉っていたのである(『中勘助全集月報 松岡磐木』)。初子の、脳出血で足腰が用をなさなくなった夫は、言語学者松岡静雄であり、民俗学者柳田国男はその実兄である。
床屋から帰ってきた勘助は『兄さんに挨拶してくる』と言って二階の兄の自室に上がっていった。階下にいる人たちは長い挨拶だと思っていた。(中家の人びとは〈廃人〉であってもあくまで金一を家長として扱い、勘助もいつも兄の前にはきちんと正座して敬語で話していた。)
ずいぶんたって勘助が階段を降りてくる音がした。普段立ち居振るまいの静かな勘助が、ガタガタと壁にぶつかるような音をたてて降りてきたが座敷に入ってこない。松岡初子がいってみると、階段の下に勘助が肩で大きな息をつきながら正座していた。『その時の勘助さんのお顔はそりゃもう忘れられるものではありません』初子は後に言った。
『兄さんが死んだ』勘助はしぼり出すような声で言った。初子たちが震える足を踏みしめて這うように金一の部屋へ入ってみると、布団の上に金一は横たえられていた。縊死による自裁であった。
当日、花婿となるべき五十七歳の勘助は七十一歳の兄の遺体を降ろし、布団に寝かせて整えたのである」

「『胸がはりさけるとはあのことです』初子は言う。『ほんとうにあの時はもう・・・』あとの言葉は私が憶えていないのではなく、本当に筆舌につくしがたい思いであったろう。茫然自失のあとは混乱だった。警察が呼ばれた。
『この結婚はもう意味を失ったから取り止める』と勘助は言う。勘助の姉ちよの娘たち、ももゑ、君江姉妹は必死で勘助を説き伏せにかかった。前述のように新婦はももゑ、君江姉妹の友達で、境一郎・ももゑ夫妻は当日の仲人である。『結婚式当日にとりやめなんて、そんな屈辱的なことを』と姉妹はかきくどいた。
『この結婚はやめる』から『延期する』、そしてようやく、喪は秘して結婚式をすませることに決した。十一月十四日小宮豊隆あての手紙に、勘助は〈結婚式の日の定刻の数時間前に突然兄が死んだ。結婚式を敢行しようと決心がついたのはやつと数十分前だつた〉と書く」
式が済んでの夜に「和子は次の間に、私は座敷に屍体と床を並べて寝た」ことまでは、「結婚」に書かれていたのですでに述べておいたが、さらにその夜には近親者しか知り得ない仰天の一幕があったという。
「夜更けに戸がたたかれた。近所の鰻屋であった。『昨日、ご隠居さん(金一)が来なすって本日の花婿・花嫁にと夜届けるようおっしゃいました』何も知らない鰻屋が置いていった特上の鰻重二人前を人々は声もなく見つめた」

これが結婚式当日の真相であったようだ。その日の出来事を初子から直接聞かされた文中の「私」が、「中勘助と兄金一」の著者菊野美恵子氏である(註)。添えられた家系図をみると、末子、初子姉妹は著者にとって父方の大叔母にあたる関係になるようだ。
さらに菊野氏は「中勘助と兄金一」を補完するかのように再度、岩波の「図書」(2015年5月号から6回分)にさまざまな新事実を加えて「もう一つの中勘助」という文章を発表している。その最終回は再び金一の死が取り上げられている。
(註・「新潮」同号の執筆者紹介によれば、菊野美恵子氏は1932年東京生まれ、小説家とある。)

「金一の思考能力は当時思われていたよりずっと残されていたのではないだろうか。金一は自分の世話をするために、勘助が結婚によって〝身内〟を作ろうとしている事態を十分理解していたのであろう。
しかし、金一はそのような急ごしらえの身内に世話されることは受け入れがたかったのであろう。勘助の結婚式の始まる数時間前、自室で縊死したのである。使ったものは自分でテグスを丹念に編んだものであったというから、発作的なものではない。作り上げるには何日もかかるであろう精密に編まれたものであった。
生涯の趣味が釣りであった金一は、テグスがどんな強度を持っているかはもちろん知り抜いていたはずである。しかも、そのテグスで編んだ紐の、ちょうど両方の頸動脈に当たるところには浮きが編み込まれていた。絶対に失敗しないという、かつての医学者の金一の強い意志が感じられて怖ろしい。その浮きは既製品のものでは満足しない金一が、末子と勘助にさんざん苦労をかけて作らせたものである。二階でひとりそれを編んでいた金一の心中を思うと、胸塞がれる思いがする。勘助の結婚式の同日ということは、金一のなかでどのような意味があったのであろうか。
かくして、勘助のものごころついて以来の兄金一との確執は、すさまじい形で終焉した。
金一がこのような死を迎えたことはまわりには伏せられた」

金一の死は入念な計画による覚悟の自殺であったのである。その理由も菊野美恵子氏の言われる通りにあったのだろう。とはいえ、それが何故わざわざ結婚式当日であらねばならなかったのか、そして届けられた(「もう一つの中勘助」では夕方に鰻屋が持って来たことになっているのであるが)鰻重の意味するものは?
永遠の謎であろう。
「永い間の看護と心づかひと過労と睡眠不足は私の肉体を衰弱させ、急激な解放は精神を虚脱状態においた。食慾はは進まず、食物は消化せず、眠りは浅く濁されがちに、昼も畳のうへに寝倒れて、日にちの出来事はちやうど目をあいたまま夢を見てるやうな」(「余生」)状態に陥っていた勘助は、健康を取り戻すため妻和の親族を頼って静岡に移った。昭和18(1943)年10月のことであった(この年5月に万世の死に遭遇している)。この転居はそのまま疎開を兼ねることになった。

菊野美恵子氏によれば、昭和20年5月25日の東京大空襲によって留守にしていた(金一が自裁した)赤坂の家が全焼した。同日、「銀の匙」の舞台となった(岩波茂雄に購入してもらった)小石川の家も焼け落ちたという。
敗戦後に帰京した勘助夫妻は、焼け残った中野の妻の実家で和の妹二人と同居した。「親戚のものたちは『まあ、あのお家はご老人ばかりでどうなることやら』と噂したが、勘助は『妹たちと一緒に仲よく賑やかに幸福に暮してゐる』」と友人小宮豊隆宛に知らせている、と菊野美恵子氏の文章にみえる。
案ずるより生むが易し、であったのか。あれほど抵抗した結婚はうまくいったようである。
「『私は死に水をとつてもらふためにおまいをもらつたんだよ』冗談半分に私はをりをりそんなことをいつた、兄の急死によつて結婚の目的の大半、病兄の生涯の世話といふことはなくなつてしまつたので」という「余生」の文章を引いて、やはり菊野美恵子氏は「四十二歳の新妻、和に、結婚の目的の大半は失われたと、たとえ冗談半分としても言ったとすれば信じられない暴言だと筆者が思うのは、時代の差だけであろうか」と記しているが、もっともである。

「銀の匙」前篇の「私」が学校教育で感じた不信感を、ずっと引きずって生きて来た勘助が忌み嫌った一つが当時の封建的家族制度だったことを考えれば、このときの結婚の目的は明らかに矛盾した論理と行動である。病兄の世話をしなければならない条件での結婚など、当時だって避けて敬遠せられたことはいうまでもあるまい。決して理想的な結婚相手ではなかったろうに、嶋田和という女性はそれを含めて承諾したことになる。「結婚」を読む限り、嶋田和の方も勘助に初対面から好意を抱いていたことが分かるように書かれているのではあるが、実際のところ結婚の決め手は奈辺にあったのか?
嶋田和が書き残したものは何にもないのだから想像のしようもないのであるが、富岡多恵子が小堀杏奴の中勘助プロフィール文を引用した次の文章は参考になるのではないか。

「中勘助はどの時代の時代の写真を見ても、美男子(というより美丈夫というべきか)である。先にあげた小堀杏奴の『再会』という追悼文にもそのことが出ている。
〈彫りの深い、端正な中さんの顔立ちと、うわ背のある堂々たる体格は一寸日本人離れした感じ〉で、夫妻を駅まで送っていくと、必ずあとで近所のひとに、いったいどういうひとかたずねられたというし、銀座裏で立ち話をしていたら新橋の芸者たちが勘助を注目したという。また〈兄嫁にあたる未子さんが『中家の人たちはみんなととのつた顔立ちをしてますの!』と一寸自慢らしく嬉しそうに仰言つていたが、令兄も身体が大きく頑丈で、好みにもよるであろうが、中さんよりまた一層男性的な分子の多いかたに見えたし、妹さんたちの美しさは牡丹灯籠のお露を思わせるものがあつた〉という」
中家の女たちは美人姉妹で、金一と勘助兄弟も身長180センチの堂々たる体躯をした当時のイケメンであったと、同じことを「もう一つの中勘助」の著者菊野美恵子氏も金一の写真入りで語っている。

また富岡多恵子は、安倍能成の追悼文「中勘助の死」にある「中は男子よりも女性に対して一層影響力を持つ男である。それはなにも彼の非難すべき心事ではない。彼の天心が女を動かすのであって」との文章を引いて、こうも書く。安倍能成のいうことはすなわち、「勘助の発する男のオーラを女が敏感に感じとる、ということであり、勘助本人もそれに自覚的だった、ということであろう」と(勘助自身も自分に色魔的素質があることを認めていた)。
事実、「結婚」中の一節からもそのニュアンスは伝わる。
結婚前の儀式として、嶋田家で顔合わせに臨んだ時の勘助の評判を結婚後に聞くと、「私は見かけが北欧型で、日本に永くいらっしゃるから和服がよくお似合いになります というところだということに衆議一致したそうだ」
ここで幾分興奮し?「衆議一致」させたのは、勘助の作品を気に入ったという父親よりも何よりも、姉妹三人と母親の嶋田家の女たちであったろうし、ちょっと日本人離れした自分の容貌を臆面もなく?語る勘助の態度は充分に自覚的であると思われる(富岡多恵子は勘助をナルシストといっている)、

一高生の頃か帝大生の頃か判然としてはいないが、勘助の放つ強力なオーラに心ときめかせ、得恋ならずとも恋情を秘め続けたもう一人の女性がいた。野上彌生子である。
この事実は死後、彼女の遺した日記から公にされたのであるが、それは次章で述べることにして再度小堀杏奴の中勘助追悼文「再会」から。
「晩年、思いがけなくいい結婚をなさつて後はじめて中さんを訪れた時、挨拶に出た夫人が二階を降りて行かれると直ぐ『姉に似たところのある人でしよう』と中さんは云われ、私も同感の意を示した。そうして私は内心知らずして中さんは『銀の匙』のおばさんに再びめぐりあう機会を得られたのだなと考えるのであつた」
菊野美恵子氏の「中勘助と兄金一」の記述によると、姉代わり、伯母さん代わりとなった中和は、夫勘助没後からちょうど二十年後の昭和60(1985)年に85歳で死去したとある。「銀の匙」が岩波文庫「私の三冊大アンケート」にて第一位に選ばれる二年前である。「ここに中家の血は八代で絶えた」と結ばれているが、和の死因の記述はない。

(文中のかな遣いの違いは、単に引用文献によるものである。)

(以下、「銀の匙」と「森」(4)につづく。)



自由人の系譜 中勘助「銀の匙」と野上彌生子「森」(2)

兄嫁末子の死は、中勘助が翌月に満57歳を控えての春だった。それからちょうど四十年前に末子は中金一と結婚して、勘助にとって「姉」と呼ばれる大切な存在となった。
またその婚礼の年、中勘助は第一高等学校へ入学し、幾人かの新たな友を得た。江木定男もその一人であった。東京帝大法科に進んでいた江木定男が結婚したのは明治40(1907)年、勘助が英文から国文科に転科した年であった(そのとき江木は勘助より一つ下の21歳だった)。相手は江木と同い年の元愛媛県知事(ただし既に死亡していた)の娘関万世(ませ)。
二人の間に長女妙子が生まれたのはその翌年、すなわち金一が脳溢血で再起不能となった前年のことである(のち、妙子には双子の弟が生まれる)。
いま一度、この間の中家にまつわる出来事を確認しておくと、金一のドイツ留学と九州帝大教授就任、姉との匂い菫の思い出、勘助兄弟の父親の死、末子の父親の死などである。社会的大事件としては日露戦争の勃発があり、日本海艦隊決戦での日本側の幸運な勝利で終結していた。

末子とともに「中勘助の恋」の対象が、この友人江木定男の妻子万世と妙子であることを富岡多恵子に指摘されるまで、「銀の匙」があれほど読まれた割にだれも取り上げようとはしなかったのである(不思議なことに)。
兄が倒れてから、勘助が兄との相克ゆえに十年以上にわたっての放浪をつづけたことは前章に記したが、その間に勘助はしばしば江木家を訪れている。江木定男を訪ねるというより妙子に会うためである。会って勘助は何をしているのか。例えば日記体随筆「郊外 その二」の中の、大正6年4月19日と日付された記述。
「〈さあここへいらつしやい〉と膝をたたいてみせたら向うむきにこしかけた。〈顔が見えないから〉といへば〈ええ〉と同感なやうなことをいつてこちらむきに膝のうへへ座らうとするのを〈跨つたはうがいい〉といつてさうさせる。このはうが自由にキスができる。右の頬へいくつかそうつとキスをする、今日切つたばかりの眼が痛まないやうに。こなひだのものもらひを瞼の内側から切つたのだ」

「妙子さんは今日はなんだか沈んでる様子でしんみりと懐しさうに話す。私はまたひとつキスをして〈これどういふときするもの〉ときく。〈知らない〉〈あなた私にしてくれたぢやありませんか〉〈わかつているけれどなんだかいへない〉ほんとにどういつていいかわからないらしい。
〈私あなたが可愛くてかはいくてたまらないときするのよ。あなたも私が可愛くてかはいくてたまらないときするの?〉〈ええ、さう〉今夜はどうしたのかいつまでも誰も出てこないので存分可愛がることができた。妙子さんもいつになく膝のうへにおちついてなにかと話す。私はただもう可愛くて抱きよせては抱きよせては顔を見つめる。〈あなた私大好き?〉〈大好き〉・・・」
最初はほっぺを寄せ付けていたのを、いつのまにか妙子は唇を押しつけるようになり、やがては会えばキスをしあう仲になる。このとき勘助31歳、妙子は8歳である。

このような江木家の団欒を富岡多恵子は、次のごとくに説明して裏付けの文章を例示する。
「三十歳すぎの男と八つか九つの女の子の、こういう〈接触〉が男のたんなる〈子供好き〉によるものかどうかは、やはり問題としなければならない。(勘助の指導によって妙子の)成績の上った綴り方を見せたあと、〈膝の上で少しはにかんでる妙子さんの顔を見て私(勘助)が『さすがは中さんのお嫁さんだ』といへば江木は『口をつねつておやり』とけしかける〉というように、妙子の父親江木定男は冗談ですませているが、さすがに母親と祖母はふたりの「接触」になにかを感じとっているのが、次のようなやりとりでわかる」

「〈こないだおばあさまとお母様で中さん嫌ひだつていつてた、妙子の行儀を悪くするからつて〉お母様は狼狽して〈いつそんなことをいいました〉ときめつけてもびくともしずに子供らしい誇張を加へていい気もちにすつぱぬく。
事実はかうらしい。妙子さんがもうねついたと思つてお母様と口口口さんとで、私が妙子さんにキスしたり抱いたりするもので妙子さんがむやみにキスしたり行儀がわるくなつたりして困ると話したのを、まだ眠つていなかつた悪者がちやんと小耳にはさんでたのだ。妙子さんはしつかり私に抱かれながら〈妙子と中さんとあんまりなかがいいもんだからおばあ様が妬(ねた)むんだ〉といふ。みんな転げて笑ふ。お母様も」
このあと妙子は、ますます図に乗って小悪魔的になる。

「妙子さんはこれ見よがしに私の頸(くび)にかじりついてきついきついキスをする。ひとつしてはふりかへつてわざとお母様の顔を見る。またひとつしてはふりかへる。そして もうたまらない といふやうに両腕でしつかりしがみついて頬をおつつけてはなれない。
私も嬉しくて〈そんなことするから叱られるんぢやありませんか〉と口にはいひながら これ御覧なさい といふやうな気もちで笑ひながらお母様の顔を見る。
お母様も笑ひながら、でもやつぱり心配さうに〈そんな気ちがひのやうになるからいふんですよ〉といはれるのを、妙子さんはやけに捨鉢に私にからみついてしつかりと抱きしめさせながら〈中さんが帰つたあとできつと妙子叱られるんだ。ちやーんとわかつてる〉といつて〈今日はどうしても帰らせない。お泊りしていらつしやい〉」

どうだろう、このおマセで挑発的な態度は。これでは母親と祖母の心配も無理からぬところだろう。
富岡多恵子は「いっさいの先入観、予備知識なしに『郊外 その二』を読む者にも、ふたりの〝接触〟は三十歳をこえた男と十歳前の幼女の無邪気な〝交流〟として済ませるには〝あやうい〟気配、いやはっきりいえば擬似的な性行為であるのに気づくはずである。ただそれを、おそらく当時の、勘助と妙子のまわりの人間たちが〝無邪気な遊び〟として微苦笑とともに見送って、凝視することを避けたのと同様に、マサカと思いたがる心情から性的な気配など思いもつかぬ振りを、中勘助の〝愛読者〟もしてきたのではないか」と推断を下し、「郊外 その二」の前に書かれた「孟宗の蔭」の記述を例示して、もっと幼かった妙子におもちゃをプレゼントしながら何度も「求婚」して、妙子がそれに徐々になびていく様子にも注意を喚起している。つまりは中勘助が「小児愛的傾向」の持ち主であったのではないかとの伏線を張っているのであるが、この件は又あとで触れる。

ところで上に引用した「郊外 その二」の文章を読んで、登場人物のつながりを把握するのにとまどったのではないであろうか。つまり、おばあ様とお母様と口口口さんの関係がちんぷんかんぷんになって文脈さえもが怪しくなったのではないかということなのだが。
ここに登場するのは妙子の祖母と母親二人のみで、勘助が口にするお母様は妙子の母親という意味ではなく妙子の祖母のことで、友人江木の母親だから勘助は呼び習わした言い方でそう呼んでいるのである。また口口口さんとぼかしてあるのが妙子の母親万世のことである(口口口さんの角の中には、お万世さんと入るのか。註)
したがって、おばあ様が嫉妬したといって皆が笑い転げるシーンに母万世はいない。もしかしたら江木夫婦はかなり派手な生活を送っていたというから、その日も夫婦でどこかへ出かけていたのかもしれない。
(註・兄嫁未子を「姉」としか書かなかったと同じ理由の下に、勘助にとっては万世を口口口さんと表記することで、誰かの「妻」でも誰かの「母」でもない「女」を意味していたからだと、富岡多恵子はいう。)

ここで江木家について説明しておく。江木定男は江木写真館の裕福な息子で母親は定男を生んで早世していた。その後妻に入ったのが関悦子だった。定男が11歳のとき、父親死亡。定男は、その後を継母悦子と二人で暮らした。
定男が結婚した万世は悦子の妹なのである(姉妹の年齢差は不明)。定男を中学生の頃から知っていた安倍能成は、定男のことを「紅顔の美少年で気性の活達な若者」であったといい、「継母の悦子さんと、飯田町の黒塀の家に住み、継母の妹の万世子さんが手伝ひに来て居た」。
万世については「瞳の黒い美しい女性で、(当時、華族女学校と並んで高い学校とせられた)お茶の水高女の出身として、美人の名が高」く、「本郷あたりの青年学生のあこがれの的として有名だったらしく・・・」、「黒い瞳を見、蚊の鳴くやうな声をきいて、私もその色香に魅せられた」と、自伝(「我が生ひ立ち」)に記している(なお言添えれば、未子の通ったのが華族女学校である)。

万世に関する安倍能成の言辞を保証するような絶好の逸話がある。日本画家鏑木清方の傑作とされ、切手にもなった美人画「築地明石町」のモデルが江木万世であることを鏑木清方本人が明かしている(しかもそれは41歳時の万世だと)。
安倍能成が江木家に出入りすれば、当然、勘助とて同様である。されば勘助の前にも万世は姿を現す。その出会いからの経緯はエッセイ「呪縛」に書かれているのだが、このエッセイが昭和31年文芸誌「新潮」に発表された時、勘助は70歳である。どうしてそんな年齢になって今更に遠い過去の出来事を書きたくなったのか。まさに勘助自身が長い間万世という女に「呪縛」されていたことの証左でもあろう。「呪縛」は短かい文章なので引用はほぼ全文近くなる。

「五十年にもなる。一高のとき私は新入生の一人と友達になつて、毎週一二回は訪問しあふといふほど近しくした。楽しい期待に胸をふくらませていつて案内を乞ふと予(かね)て噂にきいた親戚の令嬢といふ美しい人が小走りに出てきて取次いでくれる。はたち前後か、背の高い、強くひいた眉の下に深くぱつちりした瞳、錦絵からぬけでた昔風のそれではなく、輪郭の鮮明な彫刻的な美人だつた。
しづかにあいた襖から小腰を屈めて現れる姿、膝のまへにしとやかに両手をつく。さてその取次ぶりだが、まるで言葉が唇からこぼれるのを惜むやうにぎりぎりのひと言しかいはない。実はこちらもその式ゆゑそれはいいとして、生来の無愛想でも不機嫌でもなささうなのに表情の影さへない、慣れれば微笑ぐらゐは普通だらうに。大理石像は冷くとも表情がある。これは血は通ひながら呪法で魂を氷らされた仮死の肉体である。そこになにか鬼気をさへ感ずる。
そんな風でその後何年か足繁く訪問するあひだつひぞ暑い寒いの挨拶もせず、ただの一度も笑顔を見たことがなかつた。とはいへその不可解な物腰はそれ故に反つて奇異に消し難い印象を私に与へた、鋭い刃物で胸板に刻みつけるやうな。彼女には懇望されての婚約者があつた」・・・・(Aの文章、後述)

ところが、女は変身する。
「そのうち何かの理由でそれ(婚約のこと)が解消されると入代りに友人の一途な恋愛が始まつた。私は心から成功を祈り且つ予想される困難について心配したが、結局それはめでたく実を結んだ。友人の話は自分の恋愛にはあまり触れずに先方から結婚を懇望されたらそれならと引受けたといふいひかたで、彼女は喜んで泣いてるともきいた。
そしてそれを裏書きするやうに彼女はそれからは別人のごとく明朗快活になつた。よく知らないが二人は性格と若気にまかせ馬勒(ばろく、馬のくつわ)をはづした派手な生活を続けたらしい。その点完全にうまの合つた夫婦であり、申分のない伴侶であつた」
「心から成功を祈り」祝福(?)したであろう友人江木定男の結婚とひきかえ、勘助は「同じ頃父を失ひ、間もなく兄の発病、廃人、それに因く深酷な家庭的紛糾のため(近衛兵への)入営も(自宅からではなしに)親戚からし、病気除隊後も家へは帰らず島に籠り、その次には谷中の寺で絶つた生活をしていた」。

気のそまぬ縁談解消によって万世の「呪縛」が一気に解けたのがよくわかるけれども、万世と江木定男の結婚までに江木の「一途」なアタックがあったとしても、果たして江木のいう通りだったのだろうか。文章自体も回りくどくてどこか奥歯に物の挟まったような書き方で、これでは万世の側から江木に結婚してくれと頼み込んだふうに受け取れる(万世の姉すなわち江木定男の義母悦子が強引にすすめたのか?そうだったらそのように書かれた筈だろう)。釈然としない。

このことは「呪縛」よりもずっと前(勘助47歳時)に書かれた「郊外 その一」(註1)にその理由が求められるようだ。放浪の無理がたたって勘助は健康を損ない入院加療を余儀なくされた(前後、何度か入院している)。そんな最中に勘助は口口口様、すなわち万世の思いがけない見舞いを受けた。
「思ひもかけぬ口口口様の笑顔が現れた。私はすくなからず狼狽したが、昔彼女のまへでゴルゴンの首(註2)のまへに立つたやうに硬くなつたほどにはしなかつた。私は布団からのり出し寝台の鉄柵によりかかりながら気楽に冗談や皮肉をいつたりして絶えて久しかつた昔の人を額から胸から指の先まで見まはした。そしてなつかしい〈昔〉をその強いうちにも強く、鮮なうちにも鮮な眉と目のあたりに見いだした。私は病んで鋭く弱くなつた神経に圧迫的な苦しい刺戟を感じた。彼女は話のあひだに包みをといてこの花籠を卓子のうへにおいた。それを私は手にとつてうちかへしうちかへし眺めながら譫言(うわごと)みたいに話しつづける」
ゴルゴンの首とは「呪縛」の最もたるものではないか!
(註1・「郊外 その一」の発表は、昭和8年。註2・ギリシャ神話に出てくる女支配者メドゥサのこと。)

それからひと月ほどした晩に、万世は再び現れた。
「私は寝台のうへに起きあがりながら〈また来てくだすつたんですか〉と元気よくいつた。今日はどこかの帰りとかでたいへん綺麗にしてゐる。そして躊躇なくするすると寝台のそばへ椅子をひきよせてなにより先に私の出した端書(ハガキ)が皮肉だとかいつて手きびしい攻撃を加へた。あんまりそばへ寄られてまぶしいやうな気がする。藤鼠?の地に桜を散らした襟をほめたら  自分で見たてたのだ といふ」
このあと、見舞品の首人形で遊んで(前回は造花の籠だった)、「一時間ばかりも話して帰る」。
これらの文章を読んで、上記Aの文章にあった「鋭い刃物で胸板に刻みつけるやうな」「消し難い印象」が何であったのかを想像できるだろう。いわゆる一目惚れである。それも完全な。男は未だその時の強烈な「呪縛」がとけぬまま、見舞いに訪れた友人の妻の姿態を「指の先」まで舐めるように見まわし、「苦しい刺戟」に酔うのである。

「郊外 その一」の文章はここで途切れて、このつづきの場面は約二十年も経ってから「呪縛」に書かれるのである。その見舞いから半年後、万世は今度は上野桜木町の寛永寺に仮寓していた勘助を訪ねて、次のような告白をする。
「(このときも)思ひもかけず彼女が訪れた。孟宗の蔭の静かな離れである。客は澄みきった空気のなかに私と対坐した。水晶に切りはめられた色濃い玉のやうに。三人の母となつて成熟した婦人のおちつきが添つた彼女はちょいと襟をかきあけるやうな指遣ひをして、これおぼえていらつしやる、ときいた。まへに私が褒めた襟だ。古くなつたけれどかけてきたといふ。そして周囲の閑寂を破るまいとするやうに静に語つた。静にではあるが意外なことを。
彼女は初めから私を思つていたといつた」
思い切った告白をするのに万世は、前に勘助が似合っていると褒めてくれた藤鼠地に桜を散らした襟を着けてきたというのである。では、「初めから私を思つていた」とは、いつの頃からなのか。

この問いの答えは「中勘助の恋」末尾にあった。
「口口口さま(つまりお万世さま〔略〕)に対する江木氏の恋情と、求婚に就いて、中さんは口口口さまから相談を受ける。そのことは、その儘口口口さまの、中さんに対する求愛にほかならぬと私には感じられる。それに対して中さんは、江木氏の人物、背景、その他いわゆる結婚の条件として、非の打ちどころ無きことを力説し、その申し出を受諾することを勧められたと云う。正直のところ、当時の若い私には中さんのお気持がよくわからなかったし、ただ、ただ、口口口さまの心情を切なく、哀れに感じた」
「哀れに感じた」文章の主は、小堀杏奴である(稲森道三郎著「一座建立 中勘助の手紙」1987年六興出版刊の「序にかえて」に書かれたものだという、註)。
(註・小堀杏奴は森鴎外の次女。勘助のふた回り年下。姉末子も親しくしていた。「蜜蜂」は姉の死後、杏奴の夫に姉の肖像画を頼みに行く場面から始まっている。稲森道三郎は、岩波版「中勘助全集」編纂委員に名前がある。「一座建立」は図書館に無く未読。)

これが真相であるならば、勘助は明らかに「呪縛」で嘘を吐いていることになる。その期に及んでも真実全体を語ってはいない(用心深きことかな)。万世の告白のつづきの部分を引いておこう。
「その頃は恋を諦め秘めて他へ嫁ぐのは常のことで珍しくも不都合でもない。そして立派な良妻になる。(万世が)さう打明けはしたもののその後何を求めるでもなく、こちらもどうしやうもないし、それにもともと私の憧憬をそそつたのは呪縛された彼女であつて、縁談が纏つて彼女の様子が変ると同時にそれはいはば第四次元の世界へ飛び去つてしまつた。
同じ一つの美しい肉体ながらそれが此世的にこちらへ近づけば近づくほど憧憬の対象は遠のいてゆく。これは形をかへた呪縛かもしれない。が、勿論私はそれをいはなかつた。さうしてしめやかに昔を語つて別れた」
後半部分はあとで再び触れるが、「呪縛」はこう締めくくられている。「これは委(くわ)しく書けば一冊の本にもなる話の梗概のまた梗概である」その一冊が書き上げられることはなかった。

さてここで時間軸をたどっておくと、寛永寺離れでの万世の告白は江木との結婚から五年後だとされている。ちょうど勘助は「銀の匙」を書き上げて原稿を漱石に送った27歳のときになる。万世は江木と同じ歳だから勘助よりひとつ下で26歳か。「呪縛」された彼女に恋していたのだと勘助は言い張るが、よしんばこのとき万世の告白を初めて聞かされていたのだとしても、すでに三人の子持ちの人妻になっていた万世を今更どうしようもなかったであろう。ましてや姦通罪で縛られている時代である。
妙子はこの時期、4歳である。「孟宗の蔭」に書かれた妙子は、だいたいこの時期から6歳頃でやはり勘助は機会を見つけては江木家に繁々と足を運び、巧みに妙子に近づき手なづけ妙子へ「求婚」を繰り返していたのである。
前述の、勘助が江木家を訪ね妙子を膝の上に乗せキスを迫る場面、「郊外 そのニ」に書かれた場面は勘助31、2歳頃であった(妙子は8歳頃)。江木に原稿を見てもらっていたことも書かれてはいるが、もしかしたらそれも万世に会うための、あるいは妙子に会うための口実であったのか(「呪縛」に書かれている万世の「生死の境を彷(さまよ)つ」た大病もこの頃だと思われる)。

妙子を勘助が異常なほどに溺愛するのは、万世というメドゥサの魔法にかかってしまった勘助が、無意識にその代償行為としたのではないかとの観測もあるいは当然成り立つであろう。そう考えたのかどうか、富岡多恵子は第二、第三の妙子的幼女の存在を示して、中勘助「小児愛」説を補強する。
岩波文庫「銀の匙」の解説者である和辻哲郎の娘京子もその対象になる。幼女京子にも会いたい、抱っこしたいとの熱烈な「恋文」(富岡多恵子の表現)攻勢をかけ、なかなか会えないとみると写真を「中おぢちやん」に送ってくれと何度も哀願する。
「私は京子ちゃんの様な小さな人達を可愛がる為に生れてきたのでせう」とあけすけに父親和辻哲郎にも書き送ってもいる勘助は、臆面もなく日記体随筆「街路樹」に記している。「子供に対する私の愛は殆んど病的であり、狂的である」
京子への偏愛は、妙子が成長し小児愛の対象から外れていく時期と一致する。妙子より6歳下の京子との交流は、京子5歳の頃から10歳頃までつづき、京子の結婚時に勘助は贈り物を届け祝福して終る。

勘助の関心が小さい男の子には比較的冷淡であることを述べた上で、幼女愛三例目として安倍能成の長女道子へのそれを簡略に触れたあと、愈々、富岡多恵子は「不思議の国のアリス」の作者、ルイス・キャロルが66歳で死ぬまで独身で、成人女性と関係を持てぬ「小児愛」性向者だったがゆえに愛する小さな女の子アリスに捧げるために「不思議の国のアリス」の物語を書いたこと、及び小児愛(ペドフィリア)の精神医学的見地とで現代の水準から判断すれば、中勘助がまぎれもない「小児愛」者であることを示唆する。
学説は難しいし、よく理解できないので触れないが、中勘助は京子のために「雁の話」を書き、妙子のために「孟宗の蔭」を書いた。それはルイス・キャロルと全く同じ小児愛者特有の心理作用であると。

これら勘助の一連の行動を、富岡多恵子は次のごとくに結論づける。
「妙子を可愛がり、京子に恋文を書く。勘助の〈不気味さ〉は万世をはじめとする女性たちとの性的な関係忌避へと繋がると思えるが、その指摘がこれまでにないのは、ひとつには勘助自身の隠蔽の巧妙さ(日記体随筆)があり、ひとつには家父長制の社会システムがあるのではないか。
強固な家父長制は、〈娘〉〈嫁〉〈母〉〈妻〉〈妾〉のような役割によって〈女〉を分断して、未分化の〈女〉が生きるステージを与えない。逆にいえば、そういう社会での〈男〉は、〈女〉と対峙しないですごすことができ、母の〈息子〉、家族には〈家長〉、妾その他奉公人の〈雇い主〉、娼妓の〈客〉というような役割に、時と場合で出入りする。たまたま男が〈幼女〉を可愛がったとしても、〈女〉以前の〈幼女〉は役割によって〈女〉が分断せられたものとは思われず、〈娘〉や〈嫁〉や〈母〉のような社会的性別からは除外されているので、そこに性行動の入りこむスキがあるとは認識されていないのだ。
哲学者和辻哲郎が、幼い長女へ届く勘助の度重なる恋文に無頓着であったのも、〈倒錯に対する親和性が極めて高〉い家父長制の社会に生きていたからであろう」

中勘助が「小児愛」者であろうとなかろうと、時は流れ少女は成長し、若人も歳を重ねる。勘助が小石川の実家を岩波茂雄に買ってもらったのが大正9年末、関東大震災が12年9月、その前年6月万世の夫江木定男が35歳で急逝。江木は農商務省に勤務する官僚だったが、「銀の匙」後篇が朝日新聞掲載が終了した翌大正5年に(寛永寺の離れでの万世の告白から四年後)、アメリカ滞在での仕事を終えて帰国した時には健康を害していたようだ。
前述の自叙伝に安倍能成は、江木は「死ぬる前あたりには、随分遊んで居たらしく、その愛妓には一度会ったこともある」と書いている(安倍は万世の人柄を未子のように高くは買っていない)。江木夫妻に何があったのか、なかったのか。

勘助は江木定男の死についても「呪縛」にこう書いている。
「細君(註)は息をひきとつた屍体に縋つて泣き崩れたさうだ。あれほど愛し合つて長年苦楽を共にした生活の伴侶との早すぎた死別はいかに悲しかつたことか。人まへで決して涙を見せない人だつたが。人目も忘れて悲嘆にくづをれた姿は一生のうち最も美しく貴いものであつたらう。未亡人はそのあと十幾年生き存へた」
問題はこのつづきの文章である。
「世間的にも家庭的にも急に淋しく頼りなくなつた彼女の私に対する感情は飛躍的に亢(たか)まり、度たびそれを訴へて結婚を望んだけれども私はすげなく? 聞流した。性格的気質的に生活の理想が殆んど背中合せの二人の結婚が何を齎(もたら)すであらうか。
そのうへ私の現実的な境遇は彼女のロマンティシズムを容れる余地がない。で、私は怨まれつつも彼女の心からの同情者、慰安者にとどまり、いつも陥穽(かんせい)にのぞみ危機に囲まれてるやうなこの美しい未亡人の心の支柱となるよりほかはなかつた」
(註・富岡多恵子は、万世のことを勘助が江木の「細君」と表記したのは、この時がはじめてではないかという。)

父親が死去した際、妙子は13歳。やがて妙子はお茶の水女学校へと進み専攻科(英文)に在籍していたが、中退した。東京商科大学助教授猪谷善一(28歳)と結婚したためである。美しい新婦は19歳になっていた。翌昭和3年、文部省留学生に決定していた夫に随伴して渡仏、パリで妙子は長女を出産、異国での暮らしや子育てに苦労しながらも、無事昭和5年に帰国した。
妙子は当然のごとくに勘助に出迎えを要請した。というのも、父親を亡くした妙子は勘助に「父」になって欲しいと訴え、勘助も「すげなくしかねて」承諾していたからである。さらに妙子は一生勘助のそばにいて世話をしたいとまで口にしていたのである。さすがに勘助もその願いだけは、「否応をいはずきき流し」ていたのだったが。その妙子は、出迎えた勘助にしがみついて泣き出し、「極めて自然に」「少しの作為もなく」、「お父様」と呼んだとある。
しかし、勘助も賛成した妙子の結婚はそれなりに幸福だったようだ。姉妹で嫁と姑の関係になっていた母万世と祖母悦子の不和という憂鬱の種を除けば。

「父」と「娘」(といっても、娘は歴とした猪谷夫人なのだが)は娘の呼び出しに応じて、時にデパートや帝展見物などで「デイト」を重ねる。そんなある日の光景を書き写す。
有楽町で待ち合わせ、三越で買い物をして大阪寿司を食べ、隅田川を船で言問まで行き団子を食べ、浅草を歩く。「吾妻橋を渡るときだつたらうか妙子は〈お母様と結婚なさいよ〉といつた。なんだか今日はひとの気をひいてみるやうなことをちよいちよいいつたりしたが、しきりに逢いたがつたのもそんな問題があつてのことだつたかもしれない。なにか私の知らない事件が醞醸(うんじょう)されてるのを感ずる。
結婚!私はそれが適当でないといふ意味のことを軽くいつてしまふ」

何故、適当でないのかがこのあとにつづく。
「私にとつて恋愛は道徳的には結婚と何等の関係もない。人びとにとつては恋愛はなによりもまづ性生活への、はた結婚への序曲であるやうにみえるけれど、私にはそれはなによりもまづ道徳的修練であり、はた仏陀の慈悲への道程である」
結局、勘助は妙子に引っ張られて口口口さんの家に行く。玄関へ出て来た口口口さんは、「私の顔を見るやいなや苦笑に似た妙な表情をした」。「おや と思ったが」勘助は妙子に二階へ案内された。それからしばらく、誰も上がって来ずひとりぼっちにされた。
やっと口口口さんが来たけれども、「落ちつかない様子で辻褄のあはない怨言めいたことをいふのを私はなにか行違ひのあることを感づいていいやうに応対しておく。口口口さんも私がなんの隔意もないことがわかつたらしくぢきに気嫌がなほつていつものやうにうちとけてよく話した」

「あとで妙子にきいたのだが、口口口さんは どうしても二階へあがらない といつてきかなかつたさうだ。幼稚園へいつてる子供のために妙子はぢきに帰つた。妙子は私たちを和解ーといつたところで先方のひとり喧嘩だけれどーさせるためにつれてきたらしい。かはいい奴!文武さん(妙子の双子の弟、文彦と武彦)は妙子をはじめ自分たちがかつぶし(だし)になつたのだといつたさうだ。
さうした役まはりは柄にもなく私にも時どきまはつてくる。私たちの三十年にもならうとする永い交際に於て、またこの人の美しさにつどひよる無数の崇拝者、追従者、等等の群のなかにあつて、私ぐらゐなんの奉仕もしなかつた者はないだらう。」

再び、こう述べる。文中の「この人」はむろん万世のことである。
「私の恋愛は屢(しばし)ば熱狂的であり、また誠実であるけれども、私は他人のするやうなギャラントリー(遊戯的恋愛という意味か)を好まないし、そのうへ世間ばなれのした生活、書斎人といふよりは寧(むし)ろ隠遁者、読書人といふよりは寧ろ瞑想者といふべき私の生活がそれをさせないのでもある。
目もあやな羽根に飾られた鳥が光り輝く日光のもとに飛びつかれ、歌ひつかれ、遊びつかれたあげくいつも静に枝をひろげて待つてる常盤木の涼しい蔭に休みにくるやうに、この人もまたいつからか私を最後の慰安所としてるのであつた。
ひとつにはお互いにほんのまだ若いじぶんからのつきあひゆゑ心おきがないといふこともあるが、ひとつには来るときにはいつもかはらず歓び迎へながら狼のやうに貪らうとしない私の態度の気安さにもよるのであらう、それはどうかすると冷淡とまちがへられることがあるけれども」

以上は、日記体随筆「しづかな流 (ニ)」にある文章である。この出来事は勘助46歳、万世45歳、妙子は23歳の師走の一日である。(平塚の家を処分して赤坂で家族と同居する前年に当たる)。
万世と勘助の結婚に妙子も弟たちも前向きであるのには驚かされるが、これも母万世の勘助への思いを察していたからこその賛同であったろうけど、肝心の勘助はいつものごとく適当に口を濁すだけなのである。これらの文章を引いて富岡多恵子はこう裁断する。
「勘助にとって〈恋愛は道徳的には結婚と何等の関係もない〉といえるだろうが、万世ばかりでなく、当時のカタギの女にとっては、恋愛は結婚でしか成就しない。いい代えれば、女の性行動は結婚のなかでしか許されていない。もちろん同時代に生きる勘助がこういう社会規制、社会習慣を知らぬはずはない。さらに作家・中勘助が、社会が無視することで抑圧している〝女の性的欲望〟を万世のなかに感じていないはずはない」

「したがって彼が万世の〈心の支柱〉となって、彼女の〝性的欲望〟を無視しているのは、きわめて意識的な行動といわねばならない。だからこそ、普通の人にとって〈なによりもまづ性生活への、はた仏陀の慈悲への道程〉だといえるのである。
〝女の性的欲望〟と書いたが、それは当然生きていく欲望といい代えることができる。三十五歳で夫を失った女のその後の生活を〈道徳的修練〉と〈仏陀の慈悲への道程〉として認識せよときめつけることは、昔なら〝髪をおろして尼になれ〟ということである。
勘助自身の、恋愛を〈道徳的修練〉だとし、〈仏陀の慈悲への道程〉とする考え方、生き方と、社会的抑圧からくる万世の現世的不機嫌や鬱屈とは対立する。勘助はあくまで、万世の〝凡人としての欲望〟を無視する。万世ばかりか、妙子のそれも聞き流し、〝父〟となって他の男と結婚させた。若い妙子の場合は〝父〟になれたが、万世には〝父〟になれない。それで〈同情者〉〈慰安者〉〈心の支柱〉つまり親しい〝友人〟にしかなれないのである」

見事な分析である。つづいて富岡多恵子の鋭利な直観力は、万世、妙子、そして万世と不仲になった姉であり義母である悦子、三人の女の男(勘助と江木定男)をめぐる確執と葛藤に及んでいくのであるが、それは割愛する。
勘助が記した諸々が事実通りであるとするならば、絶対不犯の修行僧(とは知らぬまま)に懸想してしまった女、それが関万世であり、江木万世であったということになりそうだ。
「父勘助」の娘になった妙子が勘助の赤坂の家にしばしば出入りして、末子を交えて天真爛漫に振舞う様子が勘助の日記体随筆には出てくるのに、そこで「親しい友人」のはずである万世の姿が出てくることは一度もない。万世は赤坂の家に行ったことはなかったのか、末子を避けていたのだろうか、実際はどうだったのだろう。

これへの答えもちゃんと「中勘助の恋」に書かれていた。勘助の身の廻りの面倒を長年みたインテリのお手伝いさんと呼ばれる女性の証言である。
「江木ませ様と中末子様はあまり親しくはありませんでした。私にはそう思はれました。又末子様の方でもませ様の事は更にお話しにはなりませんでした。只先生(勘助)と色々のお話しをなさつて居らるる時にませ様の事が出て来る事がありますれば、一緒にお話しの相手をなさいました位でした。末子様の方からませ様の事などお出しになりました事など一度も私は知りませんでした」
しかしながら万世は、勘助が平塚の家を家族と交代する避暑の時期に赤阪に勘助を訪ねていたのである。同女が見たませ様はこう証言されている。
「暑中赤坂の皆様と交代となりまして東京におります間に四、五回赤坂へお尋ねになりましたその時にお目にかかりましただけで御座います。
先生のお話の通り美しい方ですが、お顔の色が青白くお体などはとてもやせていらしたのでどこか病身の様に私は見受けられました。声なども小さな声を出して居られました」(註)
(註・渡辺外喜三郎「はしばみの詩ー中勘助に関する往復書簡ー」1987年刊より。この本は私家版なので未読。渡辺外喜三郎は岩波版「中勘助全集」編纂委員に名前がある。)

鏑木清方の切手にもなった代表作「築地明石町」に描かれた万世は、少し首を傾げて振り向くあだっぽさが女の仕草の凝縮美を見る人に感じさせるところが傑作たる所以であろうが、これとよく似た場面がやはり日記体随筆「街路樹」にあったので、それを最後にこの文章を締めくくりたい。なお、この場面は、妙子が勘助に万世との結婚をすすめた半年後くらいに当たるようだ。すなわち万世の機嫌は治っている。
どんな要件があったのか、それは書かれないで勘助が万世の家を訪ねると、万世はちょうど歌舞伎へ出かける身づくろいをしていたところだった。万世が帯を締める間、勘助は鏡台に向かって髪をとかしながら待つ(まるで情婦とその旦那である)。一緒に行くことになったのだ。それはこう書かれている。
「三十年来の永いつきあひの間にはをりをりものに誘はれたこともあつたやうだが私はつひぞ うん といつたことがない。三十年にこれがたしか二度めの うん である」(妙子とはしょちゅう出かけるのに)
劇場で「口口口さんは下の指定席に、飛入りの私は二階に席を都合してもらつて見る。一幕すんで下をみたら口口口さんのはうでも斜にこちらを見あげてゐた。眼鏡をかけてゐる。これは思ひもかけなかつた。はじめてだ」

「私は黙つて手をのばし 幕間五分 と出たはうを指してみせる。五分だから立たない といふのだ。わかつたとみえうなづいてそのまま席についてゐる。盛綱(歌舞伎の演目)ですこし泣く。軽い食事をとりながら食堂で話し、また幕間に廊下ではなす。ほんのすこしのひまのかうしたとりとめのない話でさへがほんたうは私たちの姿をかりた幾十年の歳月が話してるのだ。口口口さんは姉へのおみやげに小さな菓子のお重を買つてくれた。帰りに銀座まで歩いて別れる」
これが「築地明石町」の恋である。首を傾(かし)いで二階席の勘助を振り返る万世の表情が眼に浮かぶようである(眼鏡は余分だが)。この観劇は昭和7年のことと思われるが、四十代の二人の間にこれ以上の進展はあり得ず、以後、時代は昭和の戦争へと傾斜して行く。・・・

長くなったので慌てて結末をつけようと、危うく「銀の匙」後篇の「姉様」は果たして?という宿題を忘れるところであった。が、もうすでに答えは出ているだろう。「銀の匙」の「姉様」は、このように描かれている。
「大きな丸髷に結つてゐた。まつ黒な髪だつた。くつきりとした眉毛のしたにまつ黒な瞳が光つてゐた。すべての輪廓があんまり鮮明なためになんとなく馴れ親しみがたい感じがしてすこしうけ口な愛くるしい唇さへが海の底の冷たい珊瑚をきざんだかのやうに思はれたが、その口もとが気もちよくひきあがつて綺麗な歯があらはれたときに、すずしいほほゑみが一切を和らげ、白い頬に血の色がさして、彫像はそのままひとりの美しい人になつた」
この「銀の匙」「姉様」の描写と上述した「呪縛」のAの文章、及びこの描写の前にある「姉様」と接見したときの、「なにか眼にみえない縄でしばりつけられてるやうで、しまひには眉毛のあひだがひきしめられて肩のへんが焼けつきさうに熱くなつてくる」という文章の相似を指摘すれば、それでもう充分であろう。
この件に関して安倍能成が前掲自叙伝に、勘助が葉山へ避暑に行ったとき、ある佳人から桃をもらった思い出を勘助の自殺した親友山田又吉宛の手紙に書いていたと言及している。この些細な出来事を素材にして、寛永寺の離れでの万世の告白も消えやらぬうちに「姉様」を造形したものと思われる。

「銀の匙」前、後篇のラストを彩る異性との出会いと別れについても、「中勘助の恋」に鮮やかに解説される。一部分は前章の繰り返しになるけれども、それを再引用して終りとしたい。
「後篇もまた前篇と同様に、〝私〟は去っていく〝女〟にひと言も挨拶できずにいる。ただし、お蕙ちゃんの落書だらけの机を〈なつかしさが湧きおこつて〉じっとかかえていた前篇の幼い〝私〟とちがい、ここでは〝姉様〟のくれた水蜜桃ー作者の思惑はどうであれ、結果としてあまりにもわかりやすい性的メタフォアだがーを〈唇にあてて〉その〈甘い匂をかぎながら〉涙を流す十六歳の〝私〟に成長している。
漱石は〈普通の小説としては事件がない〉といったが、『銀の匙』の作者には、〈恋という事件〉が、〝私〟の形成物語にどうしても必要だったのではないか。『銀の匙』執筆当時の中勘助には現実の〝恋〟を無理に過去の事件として消し去る必要があり、それを幼い恋に擬して書き記さねばならなかったのではないか」
まさに、名作の陰に、名解説ありというところであるか。


(以下、「銀の匙」と「森」(3)につづく。)
















自由人の系譜 中勘助「銀の匙」と野上彌生子「森」(1)

「三日午後七時過ぎ、東京飯田橋の日本医大付属第一病院で脳出血のため死去、七十九歳。東京神田の生まれ、東大国文科卒。学生のころ夏目漱石の門に入り、鈴木三重吉、寺田寅彦とならんで漱石の三羽がらすといわれた。二十七歳のとき、少年の日の思い出を書いた『銀の匙』は大正二年、東京朝日新聞に連載され、いまでは古典とされている。文壇とは無縁な孤高を通し、六十歳近くまで独身だった。作品には『しづかな流』『沼のほとり』『提婆達多』などがあり、昨年度、朝日賞を受けた」
これは朝日新聞が報じた中勘助の死亡記事で、日付は昭和40(1965)年5月4日である。

文末にある朝日賞の授賞式は、この年の1月13日に行なわれていた(註1)。
その授賞理由は、「八十歳を迎えられる今日まで 静寂で自由な世界を追求して 独自の文学の道を一筋に歩みつづけられました  その小説 詩 随筆は日本語の美しさと機能をも完全に生かされていて 『中勘助全集』 は日本の文学界にとって貴重な作品集であります」というものであった。
角川書店版「中勘助全集13巻」が五年前の1960年から刊行されていて、それがやっとこの年完結予定だった。「中勘助全集」といえば、今日では岩波書店版全17巻ということになろうけれども、この全集は平成元(1989)年に刊行されたものである。
さしての感激もないまま授賞式に出席した中勘助は、ごく簡単で短い謝辞を述べた(註2)。
(註1・ちなみに、この時の受賞者には建築家の丹下健三や版画家の棟方志功、作家の大佛次郎がいた。註2・朝日賞授賞文などは、2009年岩波書店刊の鈴木範久「中勘助せんせ」による。) 

授賞理由の「日本語の美しさと機能」が「完全」かどうかは別にしても、「銀の匙」を一読しただけで「静寂で自由な世界を追求」した「独自の文学」であることは誰しも納得することであろう。
むろんそれは、中勘助から「銀の匙」草稿を託された夏目漱石とてそうであった。「銀の匙」の文章を「絹漉(ご)しの豆腐」の味(註)と高く評した漱石は、三度目の胃潰瘍で中絶した自作「行人」の後釜に「銀の匙」の掲載を取持った。
中勘助死亡の時点ですでに「古典」扱いにされていた無名新人の作品は、東京朝日新聞の専属作家であった漱石の強力な推輓によって世に送り出されたのであった。のみならず、現在の「銀の匙」後篇となる草稿が送られてくると、漱石は「面白う御座います、たゞ普通の小説としては事件がないから俗物は褒めないかも知れ」ないけれども、「私は大好きです」と賞讃し、さらに(その文学世界は)「自分と懸け離れている癖に自分とぴたりと合つたやうな親しい嬉しい感じ」までする、と前篇をしのぐ評価を与えた。後篇は、漱石晩年の作「道草」に先んじて掲載された。前篇は作者27歳、後篇は29歳の作品であった。
(註・中勘助の漱石追悼文「漱石先生と私」にある評語。)

「銀の匙」には、「虚弱」で「意気地(いくじ)なし」で、その容貌から「章魚坊主(たこぼうず)」と呼ばれた少年(作者本人)が中学生になって、友人の別荘での「姉様」との遭遇と淡い別れを体験する16歳の夏までが描かれているものの、その後この少年が「朝日賞」を受賞する八十歳まで、どのような人生を「一筋に歩みつづけ」たのかについては近年まであまり知られていなかったのではないだろうか。
つまり、「銀の匙」が多くの人々に読まれたわりには、中勘助の実人生についての関心は希薄だったということなのだが。
たいていの人は中勘助の作品を代表作である「銀の匙」を読んだきりで終っているのが実情で(「銀の匙」以外の文庫本を見かけることも少なかっただろうし、第一、「銀の匙」以外の作品を挙げられる人なんてほとんどいないだろう)、それに文壇とは没交渉だったというのだから、必然、中勘助に関する文章も生じようもなかったであろう。
「銀の匙」一作の存在があまりに大きくて、中勘助といえば誰もが通過してきた少年時代を美しい文章で「古典」にまで高めた孤高の明治の作家として、何となく偶像化しておけばそれで事は足りた、ということであったようだ。

ちょっと気になったので、老舗文庫御三家での中勘助の文庫の状況をあたってみると、岩波文庫で八冊、角川文庫で七冊、新潮文庫で二冊が、これまでの総数であった。その内容は小説、随筆、詩集などであるが、各社で収納作がダブっているものもある。岩波には「銀の匙」を含めて未だ二、三冊残っているようだが、角川も新潮も今では「銀の匙」のみである。この三社に同じ作品が文庫化されているというのは、漱石や芥川龍之介などごく限られた作家だけなので名誉なことではあろう。
文庫の状況からも見てとれるように、中勘助作品と最も繋がりが深いのは岩波書店であろう。岩波書店創設者岩波茂雄と中勘助は東大の同窓で交友があったのだから、もし岩波茂雄が昭和21年に死去してなければ、最初の全集も角川書店ではなく岩波書店から発行されていたのでは?
その岩波書店は1987年に創業六十周年を迎えたのを記念して、各界を代表する有識者に「こころに残る三冊」と銘打って文庫大アンケートを実施した。それで最も多くの支持を集めたのが「銀の匙」だったのである(註)。岩波の中勘助全集はその二年後に刊行開始されている。このアンケート結果は全集刊行とは無関係だったのだろうか。
(註・岩波書店ではその後もほぼ十年ごとに同様アンケートを実施。それなりの支持はあるものの「銀の匙」が再び首位になることはなかった。)

岩波版中勘助全集は1991年に全17巻が刊行完了した。それから二年後、タイトルも中身も大変刺激的な書物が刊行された。富岡多恵子「中勘助の恋」(1993年11月創元社刊、註)である。
「中勘助の恋」は全部で十一章から構成されているのであるが、「銀の匙」を論じた六、七、八章のうち七章末尾はこのように締めくくられている。
「漱石は『普通の小説としては事件がない』といったが、『銀の匙』の作者には、〈恋という事件〉が〈私〉の形成物語にどうしても必要だったのではないか。『銀の匙』執筆当時の中勘助には現実の〈恋〉を無理に過去の事件として消し去る必要があり、それを幼い恋に擬して書き記さねばならなかったのではないか」
「銀の匙」を富岡多恵子はそう読み解き、それまで紗幕に閉ざされたままで誰ものぞいてみようともしなかった作家、近代文学における特異な存在でしかなかった中勘助を舞台の中央に引っ張り出して鮮やかな手口でスポットライトを当てたのである。
以下、富岡多恵子の論述をガイドに「中勘助の恋」と、その生涯のあらましを追っていくことにする。
(註・富岡多恵子1935年大阪生まれ、大阪女子大卒。詩人、小説家。「中勘助の恋」は第45回読売文学賞受賞。)

明治18(1885)年に中勘助は東京神田で生まれている。男五人の一番下で次男金一を除く兄三人は夭折、姉二人、妹二人(末妹も結婚後若死にする)。家は裕福であった。伯母さん(母の姉)に育てられ、4歳の時に小石川に移っているのも、府立四中(今の都立戸山高校)に進んだ15歳の夏に伯母さんを名古屋に訪ねているのも、上述したように翌年の夏を友人の三浦半島の別荘で過ごしているのも、全て「銀の匙」に描かれていることと一致する(ただし「銀の匙」が虚実ないまぜであるのは作者自身が告白している)。

「銀の匙」前篇は、「意気地なし」の「章魚(たこ)坊主」と呼ばれた男の子がさまざまな体験を重ねながら成長していく小学高学年までの幼少年期が描かれる。幼年期から「脳のわるい」、「びりつこけ」だと家族の皆を心配させていたのが(これは虚実どちらだったのだろう)、全くの誤解で杞憂だったことを小学校入学に際して判明させたように、順調に中学へと上がった少年は全国の神童が結集する第一高等学校に進学するのである。
一高同期には藤村操、山田又吉、江木定男(後述)、安倍能成、小宮豊隆、野上豊一郎(野上彌生子夫、後述)、尾崎放哉(俳人)等がいた。翌年、藤村操が人生上の煩悶から華厳の滝へ飛び込み自殺。その自殺に影響されて落第してきた岩波茂雄が加わる。安倍能成はのちに藤村操の妹と結婚。中勘助の無二の親友だった山田又吉はその安倍夫妻の借家で自殺。小宮豊隆は角川書店版中勘助全集の編纂者となる。
明治38(1905)年の秋、20歳の中勘助は東京帝国大学英文科に入学する。一高と大学での英語の教師がイギリス留学から帰国したばかりの夏目漱石だった。漱石はやる気のないように映った藤村操を授業で叱責したことがあった。そのため藤村操が自殺したのではないかと勘ぐり、一時青ざめていたという。

中勘助にとって生涯を左右する重大事件が勃発したのは、途中で英文科から国文に転じての卒業式が間近に迫っていた七月のことだった(当時は九月入学制)。
「銀の匙」の前篇で、主人公にべったりくっついて世話をするのは伯母さんであるが、後篇では伯母さんに培われた(というより生来のというべきか)女々しい根性を叩き直すべく、たびたび登場してはことごとく主人公に辛く当たる兄の姿が描かれる(この兄は、前篇では登校を嫌がる主人公の「頬ぺた打つ」場面に一度出てくるのみ)。
その場面の一例を引くと、兄に連れられてイヤイヤ釣りに行った帰り道、疲れ切っているのを知りながら兄はわざと遠回りをするので、そのうちに夕暮れて星が輝き始める。
「それは(信心深い)伯母さんが神様や仏様がゐるところだと教へたその星を力に懐しくみとれてゐれば兄は私のおくれるのに腹をたてて『なにをぐづぐづしてる』といふ。はつと気がついて『お星様をみてたんです』といふのをききもせず『ばか。星つていへ』と怒鳴りつける」
弟は心でつぶやく。「あはれな人よ。なにかの縁あつて地獄の道づれとなつたこの人を 兄さん と呼ぶやうに、子供の憧憬が空をめぐる冷たい石を お星さん と呼ぶのがそんなに悪いことであつたらうか」

しかし「銀の匙」を読み終っても、たいていの人は〈厳しいお兄ちゃんだこと〉とは思っても、この兄を非難するかどうかは人それぞれだろう。が、事実はどうだったのか。
この出来事は、主人公が高等小学校の10歳か11歳頃のことだと思われるので、兄金一は東京帝国大学医学部を首席で卒業する前後だったと思われる。兄と弟は14も歳が違っていたのである。長兄を亡くして中家の跡取りとなった金一は前途洋々の優秀な青年だった。金一は勘助が一高に入学した年、子爵の令嬢19歳(金一より一回り年下)の野村末子と結婚するや、単身ドイツへ留学。三年後に帰国すると、福岡医科大学(現九州大学医学部)の内科教授に就任。時に、金一34歳(明治4年生まれ)である。
ところが金一の運命は暗転する、と同時に末子と勘助のそれも。帰国の翌年に兄弟の父親、三年後には末子の父親が死去。義父の葬儀を済ませ福岡へ帰る朝、来客と歓談中の金一に突如異変が起きた。脳溢血に襲われたのである。

この間の事情を漏れ聞いた漱石は「断片」に金一のことを記している。
「Uncertainty! 人事不安なり。・・・中ノ兄ガ急ニ卒倒シテ馬鹿ニナツテ仕舞ツタト云フ。中ノ兄ハ福岡医科大学ノ教授デアル。一刻ニシテ教授所デハナイ白痴ト化シテ仕舞ツタ」(冒頭の英語は、頼りなさ、変わりやすいという意味)。
その日から金一は「廃人」となってしまったのである。勘助の表現では「半痴半狂」の兄に。記憶や理解力は残っていたが、言語は不明瞭という状態であったようだ。教授を辞職した金一は、最大の趣味であった釣りに没頭した。世間からは廃人とみなされても全ての機能を喪失したわけではなかったので、金一は依然として中家の家長に変わりはない。しかしながら実質的には何も出来ない上に、収入の道が閉ざされてしまったのだから一家の経済問題がいずれ派生してくる。重圧がごっそりと勘助の双肩にのしかかってくる。
この時点で金一38歳、勘助24歳、勘助より二つ上の末子は26歳であった。

先に引用した「銀の匙」後篇には、「地獄の道づれとなつた」兄とのひそかな訣別の意思が描き込まれているのであるが、その理由として「兄はその年ごろの者が誰しも一度はもつことのある自己拡張の臭味をしたたかに帯びた好奇的親切・・・から生れつき自分とはまつたくちがつた風に形づくられて西と東に別れゆくべき人間であつた私をまことに行きとどいた厳しい教育の力によつて否応なしに自分のはうへ捩じむけようと骨を折った」と書かれ、その教育手段が「気ちがひといはれるほど」好きな釣りだったというのである。
自我意識が芽生えて、兄とは全く気質の違うことを自覚しつつある「私」に、何事にも優秀な兄はそれに気づかず、あるいはそれを寄せつけようともしないで、自己の考えを押しつけているのである。
このような兄が自分の体が不自由になったからといって、急に節を曲げて弟に全面的に屈して頭を下げるだろうか。ましてや金一は、首に行き先を書いたカードをぶら下げてでも釣りに行けるほど体力を持て余し、未だに碁石を並べるほどの知力も残しているのである。以前に増して金一は狂暴になったのである。

勘助への「厳しい教育」に比して、金一は同僚や弟子たちからは大変慕われていた(一番下の妹は、金一の教え子の医者と結婚して福岡に暮らしていた。若くして死んだ仲の良かったこの妹を看取りながら、勘助は「銀の匙」前篇を書いた)。
金一を見舞ったそれらの人々や親戚などから無職の勘助は非難された。そういうなかで勘助は体調を崩して寝込んでいると、金一が枕元に立ち暴言を吐き、勘助の枕を足蹴りにする始末であった。勘助は仕方なく家を出て、末子の里方の別荘で厄介になる。そのことを知った母親は「〈うち〉の親類に身を寄せずに姉のさとへ身を寄せたといつて顔をまつ赤にして怒つた」とある。
これを読んで、伯母さんに比べて存在感すらない影薄き実母は「産後の肥立ちが思わしくなく」と「銀の匙」に描かれているのみで、いったい少年の母親はどんな人だったのだろうといぶかしんだ記憶が俄然よみがえって来たのであったが・・・。

こうして崩壊した家庭を、それでも一人辛抱強く支え続けたのは姉だった(註1)、と勘助は書く。
末子の里方のあたたかい看護によって健康を回復した勘助は、居つく家もなくなりあちこちを放浪することになる。胸底には文筆によって身を立てるという決意を秘めて。年譜からその足取りを拾うと、近衛歩兵入隊、衛戍病院入院、青山の長姉の婚家先、野尻湖安養寺仮寓、野尻湖弁天島に籠る、帰京後入院、千駄ヶ谷知人方に仮寓、野尻湖畔で「銀の匙」執筆、福岡の妹宅、(「銀の匙」を漱石に送付)、野尻湖弁天島に籠る、上野寛永寺に仮寓、信州追分へ脚気療養、比叡山横川で「銀の匙」後篇執筆、茨城県布川の徳満寺、安倍能成宅離れ、寛永寺、千駄ヶ谷に仮寓、徳満寺、奈良旅行、東大寺に仮寓、秋田、青森旅行(註)、我孫子手賀沼畔に仮寓、やっと(勘助の譲歩もあって)大正9(1920)年になって生家の管理を任されている。兄の事故から十年の歳月が流れ、勘助はすでに35歳となっていた。
(註1・中勘助は末子のことを書くとき兄嫁、嫂、義姉などと決して表記しなかったのは、これらの呼び名が「兄の妻」を意識させるからではないか、と富岡多恵子は推察している。註2・奈良・青森旅行とはいっても実質は放浪。)

「銀の匙」の舞台となった小石川の家を、末子の実家側が買取ってやろうという親切心からの提案にも、母親は「嫁の家からの情けなど死んでも受けぬ」と抵抗した。旧幕時代の姑が明治の嫁に負けまいとする気風のせいだろうと勘助。小石川の家は、結局「漱石全集」出版等で儲けた岩波茂雄が六万五千円で買ってくれた(註)。
その資金で赤坂表町に新居を求め兄夫婦と母親をそこに住まわせ、神奈川平塚にも平家を建て勘助が住み、避暑、避寒の季節には家族と入れ替わる体制をとった。
この生活形態は昭和7(1932)年に平塚の家を処分するまでつづいた。47歳になってから勘助は赤坂で家族と同居したのである。金一が受け入れたのか、末子が兄弟を説得したのか。大学卒業(金一の発病)から二十年を上回る歳月が流れていた。
しかしながらこれで「兄との深刻な確執」が氷解していたのかどうか。真の原因は不明ながらも、この後勘助は被害妄想の神経衰弱に陥り末子までをも困惑させ、昭和8年には精神科医斎藤茂吉の診察を受けている(三歳年上の茂吉と勘助は一高の寮で知り合っていた)。その翌年、母親が85歳で死去。
(註・六万五千円の内五千円は岩波茂雄の志だった。その年に岩波書店に入社し、のち会長となった小林勇の初任給は二円五十銭と諸手当だったという。)

さらに歳月は流れ、昭和15年5月蜘蛛膜下溢血で末子が倒れる。その二年後、太平洋戦争突入後の昭和17年4月、中末子死去。59歳。
「姉は不運な人だつた。嫁入り先に困る境遇でもないのに選りによつて私の家のやうなところへきた」。勘助は中学生のとき、華族女学校に通っていた末子の可憐な姿を毎朝見かけていたという。その人が思いもせず兄の妻として中家へ嫁いできたのであった。
「凶暴になつた兄に追はれて家ぢゆう逃げまはつた姉、髪をつかみ引きずられて座敷ぢゆうを這ひまはつた姉、そんな場合のただひとりの庇護者だつた私がゐないため魂がぬけたみたいになり、時たま私の寓居へ訪ねてきてあれこれと訴へ泣いた姉、さうした家庭的業苦のうへに不治の病苦にまで悩まされとほした姉、ある時は打たれて腫れあがつた体の紫斑や爪痕をみせ声を噛み殺して泣いたことも」
またある時は「兄について外出した折に電車の乗り換え切符をもらほうとしたため帯をもつて引廻され往来で人だかりがしたといつて身をふるはせて泣いたこともあつた」

「私たち(姉と私)はお互ひの信頼と、親愛と、共力と、庇護と、慰藉と、激励によつて三十年来の家庭的業苦に堪えてきた。私たちはお互ひの信頼と、親愛と、共力と、庇護と、慰藉と、激励によつて家人に対する慈悲を維持し、倒壊する〈家〉を支持することができたのである」
ここに出てくる「三十年」は、この文章を書いた時点での経過年数であって、実際には末子が金一の妻となって他界するまでの期間は四十年という長い歳月であった。末子の死を悼んで書かれた「蜜蜂」では、それを「四十年のお互いの忍苦/四十年のお互いの慰藉/四十年のお互いの死闘/四十年のお互いの庇護」と言い直している。

勘助は「妹の死」、「母の死」そしてこの後につづく兄の死は「遺品」(註)で、それぞれ身内への哀悼の文章を残しているが、それらと比しても「蜜蜂」に流れる愛惜はひときわ切ない心情がこもっているのは当然だろう。「蜜蜂」は、幽明を異にした同志末子への深い悲しみと憐憫(れんびん)を捧げた長い弔辞だったのだと思われるから。
漱石は「銀の匙」の文章を「あれほど彫琢が施してあって、しかも真実を傷つけないのが不思議」と評していたがその通りで、かつ中家の事情を知って読めば「蜜蜂」は涙無くしては読めない慟哭の書である。
(註・「遺品」にある「ただ日に月に逼〈せま〉り来つて心身をうち拉〈ひし〉いでゆく老齢と、亡くなった姉の真実こめた諫言、涙をもつて、時には命をかけてした諫言が何程かその不幸な性格を和らげることができたばかりである」との文章が兄弟の和解に果たした未子の役割の一端を提示している。)

「四十年のお互いの忍苦、慰藉、庇護と死闘」は、「蜜蜂」ではこのような絶唱となっている。
「私たちは見ず知らずの二人だつた。それがはてしない空のまんなかで偶(たまた)ま嵐にふきよせられた渡り鳥のやうに出逢つた。そして永の年月もまれもまれて呼びかはしながら苦しい空の旅をつづけてきた。今一羽の鳥は力つきてまつ倒(さかさま)に死の海へ落ちていつた。逢はなかつたはじめのやうに。あとには残る一羽の記憶と悲しみと、胸の溢れて空に充ち滿つるまでに。四十年の苦難の友!」
・・・・・
「私の家のために心身を消耗しつくして死んだ」姉であったが、「半痴半狂」の夫とそれを介護する妻と独身の夫の弟という組み合わせは、世間の人々の好奇の目を注がれ格好のひそひそ話の対象となる。東京のど真ん中とはいえ、現代とは違い隣は何をする人ぞの世界ではなかった時代だったのだから。

その代表的な例が、野上彌生子日記にある岩波茂雄夫人から聞いたうわさ話であろう(昭和10年3月16日記述)。「(中勘助の)義姉さんとの親しみも、たんなる親しみではないらしい」というもの。
もう一つは山室静(文芸評論家)の「(中勘助の義姉への)傾倒と讃美はまことに深い、言うならば罪深いといっていいものがあった。中氏はたしかに、肉体的には知らず、心の中ではこの愛欲地獄を底までさすらったのだ」(註1)との激越な調子のもので、野上彌生子のそれが公表を前提としないプライベートな記述であるのに対して、山室静のは世間に公表した著述であるのを考えると、こちらの方がよっぽどタチが悪くて「罪深い」(が、決して山室静はそういう類いの人柄ではないだけに、より一層ことの深刻さを物語っているともいえるのであるが)。
たぶん野上彌生子(?)も山室静も、一度たりとも末子には会ったこともなかったであろうから、いわば部外者の勘ぐりである(野上彌生子と中勘助の関係については後述する)。その分、勘助と末子の身近にいたと思われる安倍能成(あべよししげ、註2)は、末子のことを次のように述べている。
(註1・昭和47年刊「山室静著作集第四巻愛読する作家たち」所収の「中勘助の世界」、発表年不詳。註2・年齢は勘助より2歳上。愛媛松山出身。学習院院長、文部大臣などを務めた。これも後述するが、野上彌生子とも親しい間柄であった。)

「中を救い、中を真人間にしたのは、幼い時には父君の妹のおばさん(註・これは安倍の勘違いで実際は母君の姉、「銀の匙」の伯母さん)、長じては中の兄金一君の細君の末子さんであった。末子さんという婦人は、私の見たあらゆる婦人の中で、最も敬愛する、好ましいと同時にえらい、しかも邪気から最も遠ざかった自然の人である」(昭和40年発表の「中勘助の死」より)
安倍と勘助は一高時代からの友人であったことは述べたが、漱石のところへ積極的に勘助を連れ出していったのも安倍である。華厳の滝で自殺した藤村操の妹と結婚してからも、勘助が安倍のところへ遊びに来ては妻と仲良く海岸を散歩するのを見て嫉妬するくらい家族ぐるみで親しく付き合っていた。
勘助がことさらに末子を偶像化して文章を書いたとはとても想えないので、末子という女性の輪郭は安倍能成が書き残したそれとほぼ一致していたのだろう。そうでなければ、26歳からの四十年にも及ぶ見返りのない献身の人生がどうして送れよう。

さて、末子を語っての話は尽きないが、そろそろ本筋に戻らなければならない。富岡多恵子が鋭く分析した「中勘助の恋」についてである。
「銀の匙」前篇の最後の場面を覚えているだろうか。主人公「私」の隣の家に引っ越して来た主人公と同学年の少女、せっかく仲良くなったお蕙(けい)ちゃんが父親が急逝したために国元へ帰ることになり、きちんとその朝挨拶にみえたのに「私」は「うじうじと襖(ふすま)のかげにかくれていた」のである。そして翌日、一番先に学校へ行ってお蕙ちゃんの席に腰かけて、去ったお蕙ちゃんを偲ぶのである。まさに金一ならずともその女々しさを叩き直してやりたいような場面で前篇は閉じられる。

が、当然富岡多恵子が問題にしたのは、「私」とそのお蕙ちゃんに関わることながら、そんなフィナーレのシーンではない。それより前、二人が仲睦まじく過ごす月夜のシーンである。「銀の匙」には、こう描かれている。
「ある晩私たちは肱かけ窓のところに並んで百日紅の葉ごしにさす月の光をあびながら歌をうたつてゐた。そのときなにげなく窓から垂れてる自分の腕をみたところ我ながら見とれるほど美しく、透きとほるやうに蒼白くみえた。それはお月様のほんの一時のいたづらだったが、 もしこれがほんとならば と頼もしいやうな気がして『こら、こんなに綺麗にみえる』といってお蕙ちゃんのまへへ腕をだした。
『まあ』さういひながら恋人は袖をまくつて『あたしだつて』といつて見せた。しなやかな腕が蠟石(ろうせき)みたいにみえる。二人はそれを不思議がつて二の腕から脛(すね)、脛から胸と、ひやひやする夜気に肌をさらしながら時のたつのも忘れて驚嘆をつづけた」

富岡多恵子は、この「幻想的なシーン」が「恋の場面(ラブ・シーン)でなくてなんであろう」といってるけど、文中に「恋人」とモロに書いているのだから、すでに本文を読んだ段階で「私」が恋人ごっこ気分になっているのだなと受け取っているわけだし、ことさらに強調するまでもないことでは?
そう思うのだが、富岡多恵子がそんな分かりきったことをわざわざ書くわけがない。「恋の場面」であることを念入りに読者に再確認を求めているのだ。その上で「果たして〈お蕙ちゃん〉は実在したのだろうか」との疑問を発するのである。前述したように「銀の匙」は事実そのままで成り立っているわけではない。大正10年12月に「銀の匙」が版を重ねたとき、「検印」という文章で勘助は「嘘やまことの古い追憶」とわざわざ断っている。
その言葉を裏付けるように見事な解析力を示して、「お蕙ちゃん」は架空の人物であり、幼い恋に擬してはいるけれども、この恋物語の「お蕙ちゃん」と「私」の実体は過ぎし若き日の姉末子と勘助を模したのであると、富岡多恵子は推量するのである。

そのように読み解く鍵は、「蜜蜂」にあった。
「姉の死後、初七日のすんだ八日目(4月11日)に書き出された」、「姉に語りかける形式の日記体随筆で」ある「蜜蜂」は、半年後の10月に次のように姉に報告されて筆をおいている。
「兄さんは今月の十二日に亡くなりました。私は泣きました。あなたも知つてのとほり兄さんはあなたの溢血以来人がかはつたやうに穏かになりましたが、あなたがゐなくなつてからは気の毒なくらゐ一層おとなしくなつたのです。あのとほりの性質で、広い意味でのひとの好意を渇するごとくに望みながら自分が真にひとを愛することができないゆゑにひとの好意をもまた素直にうけいれることができず、あのやうな状態になつてさへも終に我をすててひとに頼り、ひとの親切にすがることをし得ずに一生自分の因果な性質に苦しめられとほしてーこの点母も全く同じだつたーあなたに対してもあれほど暴君で、屢(しばし)ば狂暴でさへあつたけれどやはりなかでいちばん信頼し得たのはあなただつたのでせう。あなたに先立たれたことは不自由といふ以上によほどの打撃だつたらしい。でも釣りがあつたのでたいへんよかつた。釣りではほんたうになにもかも忘れることができた。(以下、略)」

兄の死については次章で述べる。つい長引用し過ぎてしまったが、この兄の死が勘助をある意味で姉との秘密を解き放つ要因になったのかもしれない。富岡多恵子によれば、中勘助の日記体随筆というのはその日その日の日付は打ってあるものの、それは作者本人の恣意によるもので、普通の意味での日記とは違うのだという。つまり作者が都合のいいように、日付も内容もアレンジしたものだと。しかも「蜜蜂」は珍しく雑誌に発表されず単行本で筑摩書房から刊行されたという。
それはさておき「蜜蜂」と「銀の匙」の秘密に入る前に、話を蒸し返すようだが中家における金一夫婦と勘助と母親四人の構図を、富岡多恵子が勘助の文章を引きながら鮮やかに切り取っているので、今一度再確認しておきたい(以下はそれを簡略化したもの)。

嫁入り先に困る訳でもない姉が不運にも嫁いできた家は、「他人を家族として迎へ入れ団欒(だんらん)しようなぞいふ心構へは微塵(みじん)も」持たない兄弟の母にとって、「姉は〈よそ者〉として片隅に小さくなつていつか自然が与へるであらう主婦の座の順番を待つべきであつた。それはきた。が、母の思つたやうにではなく不意に、早すぎた時に、最も不幸な事情のもとにきた、父の死後間もない兄の発病、廃人、兄夫婦の同居といふ」形で。
その後に中家を襲ったのは、「自覚のない痴呆者(兄)、老耄者(母親)の健康者(姉と私)に対するいはば権力闘争ー兄の私に、母の姉に対するーが始まつた」。それに加えて、嫁いだ姉妹が誠意からではあるが解決能力もないのにくちばしをはさみ、さらに親戚縁者が首を突っ込んでくるので事態は益々混乱するばかりで、常に矢面に立たされたのが無職の勘助と夫の妻である末子だった。

こうして勘助は家を出て放浪の十年を過ごしたのであるが、病人と家に縛りつけられた末子にそんな自由はできない。言語に絶する精神的、肉体的苦労を舐めた。財産管理を一任され岩波茂雄に家を買ってもらったのち、家族を赤坂の家に住まわせ、家人たちへの同情ゆえに「従来とは比較にならないほど生活水準を上げた」にもかかわらず、家の金を「私と姉とで勝手に」使っているとの「妄想的非難が母の口から放たれはじめた」。
「家族間、ひいては親族間の紛糾にさいなまれて」、姉は心労と疲労でとうとう、「まだ母の存命中に自分も半身不随を起し、その後は目にみえて悪くなつた頭、ついで起つた眼底出血、蜘蛛膜下の溢血、冠状動脈閉塞症等次第に壊れてゆく頭と体、窒息しさうな家庭の瘴気(しょうき)に喘ぎながら終生なほらなかつた兄の私に対する抗争心を真心こめた諫言」で最期まで兄を説得してくれた。そうして「姉は私の家のために心身を消耗しつくして朽木の倒れるやうに死んだのである」。

末子の嫁入りからをこう書いてきて、次のように富岡多恵子は総括する。
「兄が倒れたために弟が〈家〉の財政管理を引受け、兄の妻が家事をみる。〈家〉の主権者が兄から弟へ、姑から嫁へと移らざるをえなくなった。現実の生活における実行者或いは実権者は弟と兄の妻となり、兄と母は被扶養者となる。しかし、このかつての実権者たちは、一方が〈ものをいえない病者〉、一方が〈老耄者〉であっても、〈病者〉〈老人〉という特権(?)が加わって、役割を入れ替った実権者に異議を申したて、文句をいうことができる。というよりむしろ、兄の病いという〈災難〉のために、役割を替えることを余儀なくされたという気持が消えないために、理不尽な妄想、疑い、ヒガミ、嫉妬が生まれる。家の金を弟と兄の妻が〈勝手に使つてるといふ妄想的非難〉が他ならぬ母から出るのも、兄の弟に対する〈抗争心〉が増幅されるのもそのためである。しかしそれだけだろうか」

〈しかしそれだけだろうか〉と疑問を呈して、「蜜蜂」の七月二十四日付けの「けふはたうとうこれを書くことになつた」という姉との美しい思い出の記述に注目するのである。
「せんだつて私の書庫においてある姉の本箱をかたづけてるうちに立ててある本のあひだから匂ひ菫(すみれ)の押し花が出てきた。包み紙のうへに これはあなたと楽しくつくつたすみれ、うつくしい思ひ出の種(記念の品の意味)となるやうに 明治三十九年一月八日 と姉の筆で書いてある」
明治39年は勘助は20歳で一高の三年生である。その前年の11月に兄金一はドイツから帰国していたが、姉たちはまだ小石川の家にいたのである。明治35年秋の結婚後すぐに金一はドイツに留学したあと三年間を末子は「他人を家族として迎へ入れ団欒しようなぞいふ心構えは微塵もなかつた」姑と(舅とも)同居していたのである。その間に姉と弟は親密さを育んだものと想われる。

二人は、当時珍しかった匂い菫の種を入手して裏庭に花壇を作り、〈私たちはたしかそれを姉の部屋の肱かけ窓の近くにある銀杏の若木のそばにうゑた〉のだった。富岡多恵子はこの花壇づくりが「蜜蜂」に追想されてるのを精緻に分析して、若い二人の愛の交歓の秘儀に見立てているのであるが、それは割愛して「蜜蜂」の記述を追う。
「姉の部屋は南へ向つて凹字型に建てられた家の左の袖にあたる六畳で、兄から姉たち、姉たちから妹たちへと順送りに学生時代の自習室になつたもので、その肱かけ窓の敷居には中学生の私がジャックナイフでつけた無慙な大疵(おおきず)があつた」家の中で唯一気楽に振舞える場所であり、「『銀の匙』の主人公が(お惠ちゃんと)よく話し、よく遊んだのもここで」、「私が姉と話しはじめ、そして話しつづけたのもそこである」(むろん百日紅の木も左斜めにある)。
そして二人して匂い菫の種をまいた。やがて「眠つた子が目をさましてはせよる母のはうに可愛らしい両手をさしあげるやうに」、萌え出した双葉をのぞき込んで姉と弟は「顔を見合せて思はず微笑する」のである。

これが富岡多恵子の推量する「中勘助の恋」における兄嫁への恋である。「銀の匙」の「お蕙ちゃん」は姉末子の投影だったのである。
末子が勘助に重大な影響を与えたことは、友人安倍能成の追悼文を俟つまでもなく勘助自身が認めている。「蜜蜂」にこうある。姉との出会いは「私の生涯にいはば新生ともいふべき一大転機を齎(もたら)した。私はそこに未だ嘗(かつ)て夢想したこともない善良無垢な人を見出した」。
それまで家や学校や社会で「卑劣な威嚇、暴行によつて歪められ、損はれ、打摧(くだ)かれた私の中の善いもの、美しいもの、もしそれさへなければ自他の幸福にまでのびらかに、健(すこやか)に成長したであらうところのものを、姉のたぐひない純真と親切が母鶏の卵を温めるやうに、太陽の若芽を育てるやうに、目ざめさめ、蘇らせ、成長させた」と感謝する。
やはり、その認識の基になったのは一高時代にあったようである。「蜜蜂」には、こうも書かれている。
「高等学校じぶんからそうだったが私のところへ来る人たちは一目で姉が好きになった。別に努めて話をするでもなく、ほんの通り一遍の挨拶をするだけなのだけれど、姉の身辺には後光のように善良と親切が漂っているらしい」
未子の醸し出す後光を真っ先に全身に浴びるのは、本来なら夫金一であるべきはずであったのに、その弟中勘助が浴びてしまったということになるようだ。

上述の安倍能成の中末子評には続きがあって、安倍はこんなことを書き添えている。
「大正三年、叡山横川の恵心堂に同居した時、私の畳を掃くのを見て、彼が〈どんなに僕に気に入られようと思つたつてだめだよ〉といつた詞(ことば)に対しては、私は実に生意気野郎だと思つて、怒り心頭に発したことがある」
この比叡山で「銀の匙」後篇を書いたのだから、このとき勘助は29歳だと思われる。未子以外の人物に対しては、まだまだかなり狷介な偏屈者だったようだ。どうりで「中を救い、中を真人間にしたのは」伯母さんと末子さんだと安倍能成に書かれたりしたのだ。
そういえば、漱石に送った「銀の匙」後篇の題名が「つむじまがり」だったというのも、妙に納得がゆく。

こうしてみると、前篇のヒロイン「お蕙ちゃん」は姉末子だったというのはかなりの説得力を含んでいる。であるならば、その後篇で中学生になった「私」が伯母さんに会いに行き、秘かに「お暇乞(いとまご)ひ」を告げた翌年夏に、友人の別荘で束の間の邂逅をした令夫人「姉様」、「お蕙ちゃん」の時と同様に「私」がろくすっぽ挨拶もし得ずして去っていった後篇の謎めいたヒロイン「姉様」は、これもやはり「姉」未子への思慕を託したものだったのだろうか。それとも別の女人の投影だったのか。

(引用文中、特に出典表示なきものは中勘助の日記体随筆からの引用である。)


(以下、「銀の匙」と「森」(2)につづく。)






 

自由人の系譜 辻井喬「彷徨の季節の中で」(7)

「その生涯の終りに、人はどんなことを考え、何を願うのだろう。果せなかった望みに想いを馳せるのか、悔いの墓の上をぐるぐる廻るのか、あるいは残していく身近な者のゆく末を気遣うのか・・・。
それら総てのように思えるし、そのどれでもないような気もする。田能村荘吉が病状で綴った手記を読み終えた時、私の胸中に浮んできたのは、こうしたごく平凡な感慨であった」

「虹の岬」刊行の二年後、妹邦子死去の一年前の1996年に書き下ろしで発表された長編小説「終りなき祝祭」(新潮社刊)の書き出しである。
ただし「終りなき祝祭」は堤家の物語ではなく、文化勲章受章者で人間国宝でもあった陶芸家富本憲吉と、その妻で婦人解放運動家の尾竹紅吉(本名一枝)をモデルにしている。引用文の手記を読み終えた私が辻井喬(堤清二)であり、手記を綴った田能村荘吉は夫妻の長男、富本壮吉のことである。「終りなき祝祭」は荘吉の父母が、当時としては時代の最先端をゆく恋愛結婚で結ばれたにもかかわらず、時の経過につれて破綻していく過程が描かれている。つまり、壮吉も清二と同じく問題のある家庭で成長した。
(註・紅吉は明治末年、創刊したばかりの婦人解放オピニオン雑誌「青鞜」に集い、主宰者平塚らいてうの恋人と呼ばれた女性。)

同年生まれだった壮吉と清二は同じ中学、高校で学び、ともに東大に進んだ親友だった。大学では壮吉に「啓蒙された恰好で」、清二も学生運動に明け暮れた。卒業後、壮吉は大映に入社して映画監督になった。ところが、次第に映画は斜陽産業となっていき、壮吉が監督した映画は少ない。やがて壮吉はテレビに移り、〝家政婦は見た〟シリーズや山口百恵主演ドラマなどを制作、監督し、人気を博した。
が、壮吉は、本当に撮りたかった映画への夢を果たせぬまま癌に侵され、妻子を残して1989年に62歳で世を去った。だから親友の死に遭遇して、首記のような感慨に「私」は浸らざるを得なかったのである。
まことにもって、人はその人生の終わりに臨んで何を考え何を願うのであろうか・・・。


辻井喬は「深夜の読書」をはじめ、自称深夜叢書と名付けたエッセイを五冊刊行している。その五冊目「深夜の孤宴」に、〈二重性の掟〉という小文がある。
それに、「今でも時々、『ビジネスで忙しいと思うけど、いつ詩や小説を書くんですか』と質問される。この問いかけは〈朝、書きます〉とか〈深夜です〉という答えを期待しているのではないようである。経営者と詩や小説を書く人間とは、うまく同居できるはずがない、という前提に立っての追求に近い問いなのだ。そして、困ったことに私自身、この前提は正しいとひそかに思っているのだ。そこで私はその都度、思いつくままに適当な返事をしてきた。しかし、それで済まされるものではないという気分は、年とともに強くなっていた」と述べている。
このエッセイが発表されたのは1998年暮れなので(辻井71歳)、1991年にセゾングループ代表を辞任していた辻井喬は、妹を喪った前年には全役職から身を引いており、ようやく文筆一本の生活を送ったいたはずである(バブル後のグループ会社の清算処理を残していたとはいえ、執筆に費やす時間は現役時代よりはるかに確保できていたであろう)。

つまりこのエッセイは、堤清二が巨大流通グループセゾンの総帥としてビジネスの陣頭指揮をとりながら、深夜あるいは早朝に辻井喬へと変身して詩や小説を書いて来たことの、もっぱら不思議さ、困難さを振り返ったものだということもできそうである(エッセイ自体は、この年刊行した長編小説「沈める城」について述べたもの)。
辻井喬が1991年に64歳で経営の最前線を退くまでの作品を数え上げてみた。辻井喬は生涯に小説を二十三冊、詩集を(何と!)十九冊も残しているのであるが(註1)、そのうち小説七冊、詩集十一冊また深夜叢書エッセイ二冊が激務の合間を縫って上梓されたことになる。
「経済人であることと文学者であることとは、どうしても相容れない場合や、あるいは生きている風土の違いのようなものがあると認めない訳にはいかなかった」と小説の主人公に託して言わしめたのも(註)、その両刀使いの困難さを常々実感していたからでもあったろう(全くもって堤清二という男の精神の強靭さにカブトを脱ぐ)。
(註1・そのほかに深夜叢書を含む批評、エッセイ、対談集などが二十八冊もある。註2・麻子と再婚したことにより、清二の岳父となった水野成夫をモデルにした長編小説「風の生涯」にある文章。水野成夫も東大を出て共産党に入党、挫折して実業界に転じ、文学に携わりながらフジテレビ、産経新聞社長などに就任、永野重雄、小林中、桜田武と共に財界四天王と呼ばれた。)

それでは堤清二の中で、いつ頃から辻井喬となる準備が整えられつつあったのかということになると、府立第十中学(現都立西高校)の時すでに、母親操の影響もあって短歌や俳句を作り校内雑誌に投稿していたようだから(註)、もともとそういう下地があったのに加えて、(旧制)成城高校時代にある人物と出会ったことが決定的な要因となったのかもしれない。
(註・「本のある自伝」によれば、その頃の作品に「我が友の詣りたるらし師の墓に菊の一もとかゞよひおりぬ」、「月照りて静かな海に石を投ぐ」などがある。また中学で国語を金田一春彦に習ったことは幸運だったと述べている。)

ある人物とは、後に直木賞作家となる寺内大吉(註1)のことで、たまたま高校の友人(富本壮吉とは別人)に連れられて会ったのが最初であった。「成城高校の学生だった頃、僕は同じ学年の数名と〈金石〉という同人雑誌を創っていたことがあり、その中の誰かが寺内大吉を知っていて何となく彼をリーダーにした文学愛好学生の集まりのようなものが出来ていた。この同人誌は一冊出しただけで終わってしまったが、〈近代説話〉の話が起こった時、寺内大吉が僕を同人に誘ってくれたのだった」。
このように振り返っているのであるが、要するに寺内大吉との出会いによって、辻井喬は「金石」に初めての小説を発表しているのだ。
ただし、辻井喬はそれを「成城高校の学生だった頃」としているが、これは記憶錯誤か説明不足であって、一度きりの「金石」発行は、辻井喬が東大を卒業する前年の昭和25年のことである(註)。なお「金石」とは、試金石の「金石」であって試しにやるのではない、我々は本気なのだとの意気込みから付けられたようだ。
(註1・大正10年生まれ、新宿高校卒。浄土宗大仏寺住職。平成20年没。註2・この「金石」に関連して、東大時代の文学サークルに津田塾大学生であった当時の大庭みな子が参加していたことを、互いに作家になってから辻井喬は大庭本人から知らされたとある。)

清二が共産党に入党、全学連幹部として活動していた時は偽名(横瀬郁夫)を使用していたし、「金石」に短篇を載せた時も筆名(中田郁夫)を用いていた。辻井喬の名前を使い出したのは、父親の秘書から赤字続きの西武百貨店に移った翌年に出した処女詩集「不確かな朝」からである。
「・・・1955(昭和30)年、僕は初めての詩集『不確かな朝』を出版する時、辻井喬という名前を作った。この名前にするのにこれという理由はなかった。家族とか恋人とか、師事している文学上の先輩などから一字もらう、というようなこともなかった。ツツミという音に津の字を当てたり筒の字にしたり、ミに見、未をあてがってみたりしているうちに何となく辻井ということになってしまったのだ。名前の方は、前々から喬という字は一本だけ立っている樹という雰囲気があって好きだったから、辻井喬と続けて書いてみるとまとまりがいいように感じた。その時は終生この名を使うというまでのつもりはなかった」と述べている。

少し横道に逸れた。寺内大吉が誘ってくれた同人誌「近代説話」に話を戻そう。
「その寺内大吉がある日、『今度関西にいる人たちと本格的な雑誌を出すことになったから、君も参加しないか』と誘ってくれた。名前は〈近代説話〉だという。寺内大吉はその頃すでに青年作家として名が出はじめていた」
「この雑誌は司馬遼太郎、黒岩重吾、石浜恒夫、伊藤桂一、尾崎秀樹、斎藤芳樹、清水正二郎(胡桃沢耕史)、永井路子、花岡大学、三浦浩、吉田定一、杉本苑子といった、関西と関東両方に住む人々が勢揃いといった感じで並んでいた。僕もまさしくその末席を汚していたのだった。そうして司馬遼太郎が『梟の城』で、寺内大吉が『はぐれ念仏』、黒岩重吾が『背徳のメス』、伊藤桂一が『蛍の河』、杉本苑子が『孤愁の岸』、永井路子は『炎環』、そして最後に胡桃沢耕史が『黒パン俘虜記』で、いずれも直木賞を受けるという壮観を呈したのだ。それは奇蹟的というか、不思議な感じがしてくるような現象であった。

その不思議を解く鍵は、寺内大吉が指導者的要素を持っていて才能を見抜いたということもあるが、応援団も立派だった。もっとも出席率が悪く,同人だったというのも口幅ったい気がする僕でも、今東光や海音寺潮五郎といった一世代前の大家が、折にふれて会合に参加してくれ、若い者を励ましたり叱ったりしている姿を覚えている」と述懐し、これに寺内大吉の回想を補充して、源氏鶏太、藤沢桓夫、子母沢寛、角田喜久雄、富沢有為男、北町一郎たちの応援もあったとしている。
同人、応援団には知らない作家もいるけれども、これほど大量の直木賞作家を輩出した同人誌は「近代説話」をおいて他にないだろう(うち司馬遼太郎と杉本苑子は文化勲章まで受賞)。時代が下るにつれ同人誌そのものは廃れてしまったが、その当時は芥川賞、直木賞を問わず、作家で身を立てるには兎にも角にも同人誌に所属して、苦節十年そこらの文学修行は当たり前とされた時代であったのだ(清二の妹邦子も、バーに勤めながら同人誌に参加していたように)。

「それでいてこの〈近代説話〉は十一冊しか出ていない。その理由は簡単明瞭である。みんな有名作家になってしまって、同人誌に寄稿する時間がなくなったのである」という珍現象を引き起こしたのも、もっともなことであったろう。
その「近代説話」最初の直木賞作家となった司馬遼太郎のことを、辻井喬は短いエッセイにしている。
「私はその頃から社会主義に惹かれていたので、同人会には三、四回出たぐらいである。精神の発達も遅い方だったから、いつも先輩たちの(註・同人で辻井喬が一番年下だった)勇壮活発な話、『僕は日本のドストエフスキーになる』とか、『文学史を全面的に書き替える必要がある』というような〝卓見〟をかしこまって聞いていた覚えがある。そんな中で、司馬遼太郎は決して大言壮語することなく、いつもニコニコと楽しそうな様子であった。その頃は確か(註・産経新聞文化部の)京都支局にいたと思う。最初に読んだ彼の作品は『戈壁の匈奴』(ごびのきょうど)だった筈である。〈近代説話〉創刊号に載っていたもので、私も〈初老の人〉という、随筆とも掌篇小説ともつかない短い作品を発表した。
今でもはっきり覚えているのは、司馬遼太郎と寺内大吉が相次いで直木賞を受けた時のことだ。・・・私は寺内大吉が受賞した翌年、詩の賞を貰って(註)、辛うじて〈受賞経験者〉の仲間入りをしたが、何回も候補になりながらうまくいかなかったのは清水正二郎だった。その彼も、長い沈黙の後で筆名を胡桃沢耕史(くるみざわこうし)と改め、『黒パン俘虜記』で直木賞になって、私までホッとして嬉しかったのを覚えている。その間にも、司馬遼太郎の名声は上る一方であったが、そうなっても私などに対する様子は文化部記者の頃と少しも変わらなかった」
(註・第二回室生犀星詩人賞のこと。)

この文章を読んで調べてみると、胡桃沢耕史の直木賞は昭和58(1983)年なので、堤清二(56歳)は西武百貨店代表取締役会長職にあり(六年前に就任)、辻井喬としては自伝二作目の「いつもと同じ春」を刊行した年であった。
なお余談をはさめば「いつもと同じ春」は、第12回平林たい子賞を受賞した。滑稽なことに康次郎が議長に就任した際(昭和28年)、正妻でない操を同伴したことで皇室不敬だと、糾弾された時の婦人団体代表の一人が平林たい子だったのである。したがって清二が父親の代理で直接交渉した相手ということになる。
平林たい子賞も(多くの文学賞がそうであるように)、その文学的功績を顕彰して平林死後に設定された賞なので、幸いなことに(?)ご対面とはならなかったのであるが、後述する室生犀星賞のように賞を冠した本人から直接手渡される生前賞(大江健三郎賞もそうである)であったなら、受賞者を前にして平林たい子はさぞかし目をパチクリとさせたことであったろう。

辻井喬より四歳上の司馬遼太郎は、直木賞受賞後直ちに産経新聞社を退職して専業作家となり、古巣の産経新聞に連載した「竜馬がゆく」で人気を博し、大作「坂の上の雲」を書き上げ、「名声は上る一方」で漱石に並ぶ国民的作家と崇められ、胡桃沢耕史受賞の前々年に日本芸術院会員に選ばれ、前年には朝日賞を受賞していたのである。
つまり「近代説話」同人でトップを切って、司馬遼太郎が直木賞を受賞したのが昭和34(1959、司馬37歳)だから、辻井喬の言う「その間に」というのは、ほぼ四半世紀の年月を指していることになる(「近代説話」創刊が昭和32年。直木賞受賞を基準にすれば、胡桃沢耕史の文学修行は苦節10年どころではなかったということだ)。

続けて、「今から十年ほど前の(19)85年10月に、私は〈週刊朝日〉で・・・(京都をテーマに)司馬遼太郎と対談をしたことがある。・・・そこで私は、皮膚感覚のふくらみを持った歴史家としての司馬遼太郎を改めて発見したのだった。
そう言えば、東大阪にあった彼の家は、玄関先から居間、応接間へと堆(うずたか)く積まれた歴史文献の山で床が傾くようであった。・・・綿密な考証と屢々(しばしば)ひとり歩きをしかねない登場人物とを、ひとつの作品の中に共生させることが出来たのは、司馬遼太郎の、常に温みを失わない真面目さだったのかもしれない、と今になって私は思う。
最初で最後になってしまった対談の終りで、彼は、『きょうはお互いに同人雑誌時代以来、三十年ぶりでしゃべったなぁ』と懐しそうに話していたのだった。今も、その時の彼の喋り方の抑揚を私は忘れることができない」と結ばれている。

文章から分かるように、司馬遼太郎はすでに平成8(1996)年2月に(72歳で)逝去していた。この文章は、その年5月に追悼文として文藝春秋に発表されたものである(妹の死の前年、冒頭の「終りなき祝祭」刊行年)。この文章のみならず司馬遼太郎について辻井喬は、後年「司馬遼太郎覚書 『坂の上の雲』のことなど」というまとまった司馬遼太郎論を刊行している。
その中に、昭和24年11月に起きた川田順の自殺未遂失踪事件に取材して、真っ先に「老いらくの恋」の見出しを付けて報道したのが京都支局時代の司馬遼太郎だったとある(水上勉「雁の寺」の項に記した彼の金閣寺炎上取材を併せて思い出すのであるが)。年老いた歌人と若き京大教授夫人との道ならぬ恋愛を「老いらく恋」と咄嗟(とっさ)に表現するなど、たくましきジャーナリズム精神とともに、すでにして類いまれなる文才の持ち主であったことを物語るエピソードであろう(「老いらくの恋」については「虹の岬」を参照下さい)。
ついでにもう一つ確認しておくと、辻井喬が「近代説話」同人になったのと、パリの妹邦子から「流浪の人」の原稿が送られてきたのは、同じ年(昭和32年)の5月と8月なのである(「流浪の人」は同年11月に出版された)。

堤清二の最初の結婚もこの年のようだから、さらに横道へとそれてしまうがそのことにも触れておきたい。こういうインタヴュー問答が残されている。
「ところで、ご結婚は何歳のときでしたか」/「秘書の時代に知り合った女性ですから、割合早かったです。二冊目の詩集を出したときには、もう結婚していました。1957年(昭和32年、清二30歳)で、翌年に長男が生まれています。この結婚にはみんな反対しました。みんなが反対するだけのことはあって、うまくいきませんでした。若気の過ちでしょう」/「秘書の活動をしながら詩を書かれて、最終的に秘書の活動をお辞めになるのですね」/「親父が議長を辞めるから、私も必要がなくなって辞めたのです(1954年12月)」/「そしてビジネスですか」/「秘書を辞めても行くところがない。親父に『特にあてがない』と言ったら『百貨店に行って、青山(二郎)を助けてやれ』と言われたのです。青山というのは、母親の弟、私の叔父です。当時、彼が西武百貨店の支配人をやっていた。ところが毎期、赤字でどうにもならない。さらには親会社の西武鉄道とは喧嘩をしてしまう。
母親も私を西武百貨店に行かせたかったのです。自分の弟の苦戦をよく知っていたのでしょう。私には『百貨店に行くと、いろいろな商品のことを覚えるから、小説を書くときも便利よ』と勧めていました。

こうして思い出すと、私が小説を書きたかったのを、母親は知っていたことになりますね(笑)。私としては商品を知ったとしても、小説を書けるとは思っていませんでしたが、母親の気持ちはわかりましたから、行くことにしました。それに、ほかの入社試験を受けたとしても、前歴がばれてだいたい落ちるに決まっていますから。西武百貨店しか行くところがなかったのです」(2015年刊「わが記憶、わが記録」)
回想記「本のある自伝」(1998年講談社刊)では、この経緯がこう綴られている。
「かつての職場で識り合った女性との結婚には誰ひとり賛成してくれなかった。そうなると私には反撥のバネが働いて、自分の意志の力で反対にうち勝ってみせると頑張る気持になった。何もかもが予想に反し期待はずれになったのだから、ここで周囲の反対に押し切られて愛情も貫けないようでは、僕という人間も終りだというような想いの中にこちらから入りこんでいったのである」

その時の切羽詰った心情が見て取れるようであるが、大げさにいえば自己の存立をかけての結婚であったともいえるだろう(相手の山口素子が俳人の娘であることはすでに述べた)。が、結果は無残なものであった。
「その頃の私を憂鬱にしていたのは家の中の不和であった。妻は正直でしっかりした俳句を創った。もともとはその俳句の話から親しくなったのだったが、自分の感じたことはそのまま口に出す性質で、それ以外の態度は取れないのだった。男の子が昭和三十三年十月に生れたのが救いではあったが、それでも私の両親との確執は、今度は子供の教育を巡って再燃する気配であった。・・・(妻の)直感の上に立った論法はなかなか鋭いが、自分の最初の直感からもたらされた判断が、どれくらい妥当性を持っているか、と考えてみる姿勢はない。それはいつものことであった。議論しているとだんだん気分的に押されてくるようなのは、やはり相手の確信が強いからだろう」

こうして夫婦の溝は深くなっていった。二人は両親と同居する麻布の家を離れ、郊外に家を借りて溝を埋めようと努力したが、それも徒労に終わり一年ほどの別居期間を経て昭和38年3月に離婚した。ちょうどその時期、康次郎の命令で西武百貨店をアメリカに出店する計画が持ち上がり、アメリカへの出張が度重なったことも悪影響したようだ。清二36歳、素子は不明、4歳の長男が清二に残された。康次郎の死はその翌年である。
この離婚の背後に、顧問弁護士中嶋忠三郎が明かしたような事情(第2章に記述)が隠されていたのかどうかは、辻井喬の文章からは微塵も読み取れない。破局の原因が、いわゆる家族を巻き込んでの性格の不一致であったことが窺(うかが)い知れるのみである。仮に中嶋忠三郎の証言が事実であったとしても、どうして回想記に確証も持てないことを(事の性質上そういうことになるであろう)、それも血筋の恥辱に関わることを臆面もなく自伝エッセイに書けたであろうか。それに中嶋忠三郎や上林国雄の暴露文に対して、辻井喬は一言も反駁文を残していないのも、ギリギリの選択が、小説の虚構に託しての表現だったということであったのか。

さて、再び本道へ戻ろう。
「近代説話」と辻井喬という組み合わせにはいささか驚かされる。しかも(話がこんがらがってしまうけれども)、「近代説話」同人になる二年前に辻井喬(堤清二、28歳)は西武百貨店池袋店の取締役店長に昇格し、初詩集「不確かな朝」を上梓して、同人詩誌「今日」に所属する詩人だったのだから(「今日」の同人には大岡信、清岡卓行、飯島耕一などのそうそうたるメンバーがいたとある)。
後々の仕事ぶりから見ても辻井喬の場合、直木賞作家の集まりよりも詩人仲間の一員である方がはるかに似つかわしく思えるからだ。つまりは「近代説話」参加は、寺内大吉という人物にそれだけの魅力を感じていたのと、本人が小説執筆に並々ならぬ関心を寄せていた証左であろう。
なお、清二が初給与の全額をプレゼントしたという、母操(大伴道子)の「静夜」の出版は昭和28年、清二の「不確かな朝」が30年、邦子の「流浪の人」が32年と、それぞれ歌集、詩集、小説と形態は異なるものの母、長男、妹が、そろってこの時期に初著作を刊行したことになる(それも、ちゃんと長幼の序を踏んで)。

     私が私であるためには/どの仲間入りもしないことであった
     愛する人にも心のなかだけで話しかけ
     街を一つずつ建設することであった     (詩集「異邦人」より)
昭和36(1961)年発行の第二詩集「異邦人」にて、辻井喬は第二回室生犀星詩人賞を受賞した。やはり辻井喬は、この受賞の時のことも書き残している。
「(受賞を)連絡してくれたのは寺内大吉だった。『おい、君は犀星賞に決まったらしいぞ。おめでとう』と彼は電話でのっけから祝辞を言い、僕はサイセイショウという言葉を受けとめられなくて聞き返した。受賞者が決まった時、その賞を受けるかどうかを本人に確認してから公表するのが習わしだが、選考委員会で辻井喬という人間の連絡先を知っている人がいなかったらしい」
詩集の版元も発売所も社長一人で経営しているような会社だったので、連絡がつかなかったところに賞の関係者の誰かが、「近代説話」にそれらしき名前があったのを憶い出して寺内大吉に照会したのであったろう、と推測している。今日からは想像しかねるような、のどかな昭和30年代だったのである。

年末に銀座の中華料理店で行われた授賞式には、「室生犀星、中野重治、佐多稲子、堀辰雄夫人といった人たちが並んでいた。賞状は室生犀星の直筆で・・・〈金 弐万五千円〉という字が並んでいた。金額が半端なのは富岡多恵子が同時に受章したので、二人で分けたからだ。中野重治は部屋に入ってきた僕の顔を見て、『なんだ、君か』と言ってから、冗談を口にする時に言う前から自分の方がおかしいと思っている、少しくしゃくしゃな顔になって、『金持ちに賞を出すんじゃなかったな』とニヤリとした。彼はそんなふうに僕を揶揄することで会全体を楽しんだであったろう。
犀星の顔は黒ずんでいた。彼は翌1962年の3月26日に亡くなっているから、すでに深く発病していたのかもしれず、こうした会合に出たのはこの日が最後ぐらいではなかったかと思うとなんとなく申し訳ないような気になる」。
こう書かれているので、犀星賞選考委員は上記の人たちであったのだろう。
賞金が半額になったことについては、富岡多恵子からも「開口一番、『あんたが貰うから賞金が半分になってしもうたわ』と一太刀浴せ」られたとある。それもそうであったろう。この年、辻井喬ならぬ堤清二は、西武百貨店代表取締役に就いていたのだから(昭和10年、大阪生まれの富岡多恵子も、のちに辻井喬同様、小説に手を染めていった)。

受賞顔合わせ時の中野重治の反応が如実に示すように、二人はそれまでに面識があったのである。「出あいの風景」というエッセイには次のように書かれている。
「女優の原泉さんから、夫君中野重治の未発表書簡集『愛しき者へ』をいただいたのは、もう九年も前のことである。最近それを読み返していて、新日本文学会の編集部員だった頃のことを思い出していた。・・・中野さんが編集長だった一時期、私は彼の下で雑誌〈新日本文学〉の編集部員をしていた。窮乏のドン底にあったこの雑誌は印刷所に払いが溜ってしまって、交渉に行った仲間が戻ってきたら、借金のカタに上衣を先方に置いてきた、というようなことがあったりしたのを覚えている。
月末になると私は集った原稿を(世田谷区)桜町の中野邸に持ち込み、割り付けから目次の編成そして校閲などを手伝った。おかしなことに、中野さんは自分をブオトコだと固く信じていて、よく原泉さんに叱られていた。コンプレックスから訪問客の女性に優しすぎるというのである」

新日本文学会に出入りしたのは、辻井喬が東大を卒業した昭和26年(24歳)前後の一年半程である(この年10月に喀血して肺結核と診断され、28年に衆議院議長秘書になるまで療養を続けた)。
編集部には宮本百合子、佐多稲子、島尾敏雄、壺井繁治、壺井栄、徳永直、大西巨人などが集まり、寄稿者には武田泰淳、伊藤整ほか多くの評論家がいたという(武田泰淳宅へ原稿依頼に行った際の百合子夫人を交えた微笑ましい光景を書き残しているが、長くなるので割愛せざるを得ない)。
「出あいの風景」は、中野重治没後十三年の1992年に朝日新聞に掲載された回想文なのだが、上文の続きは「振返ってみて彼ぐらい、〈卑しさ〉ということから遠くにいた人はなかったのではないかと思う。もし、人間的な影響を受けた人を挙げよ、と言われれば、私は躊躇なく中野さんの名前をあげるだろう。政党(註・共産党)との関係で中野さんが孤独な怒りに耐えていた姿も目に焼きついている。『愛しき者へ』を贈って下さった原泉さんも、今では故人になってしまったが」となっている(註)。
(註・中野重治は1902〜1979年。福井県生まれ、東大卒。詩人、小説家。共産党を除名された。原泉は1905〜1989年。島根県生まれ。)

中野重治とともに当時の新日本文学会で代表的存在だったのは宮本百合子(註)であったろう。
堤清二が入党(1949年)してまもなく、共産党は所感派と国際派に分裂し激しい党内抗争が起き、この抗争が原因で、清二は堤康次郎の息子であることを理由にスパイ容疑で除名されたことは既述した。清二たち東大細胞は国際派に所属していたので、その頃国際派幹部だった宮本顕治はもちろん、彼の妻で作家でもあった宮本百合子と接触する機会も多かったようである。
除名されても活動を続けていた清二は、宮本百合子が51歳で病死したことについて、後年のインタビューでこう答えている。「(百合子を)反戦集会に引っ張り出したりしていた。亡くなる前年、宮本百合子さんは風邪を引いていたのに、それを押してやってきてくれて、それが急死する原因の一つだったと思うんです。ギルティ・コンシャス(罪の意識)ですが」。
(註・東京生まれ、1899〜1951年。日本女子大中退。「貧しき人々の群」で天才少女として17歳で作家デヴュー。プロレタリア作家の代表的存在。)

「この頃ね、風邪がすっきりしなくて、あまり元気ではないのですけどね、これは行かなければならないわねえ」と言って、昭和25(1950)年12月8日に行われた反戦集会に出席してくれた宮本百合子は、翌年1月21日に電撃性髄膜炎菌敗血症で急逝したのである。
女流作家の急逝となると、林芙美子(47歳)と有吉佐和子(53歳)の例が有名であろうか。清二と林芙美子についても、ちょっとしたエピソードがある。林芙美子が秘書を探していることを聞きつけた党仲間から、文学志望だった清二に秘書にならないかという話が持ち上がった。当時の人気作家であった林芙美子を党員に引っ張り込むのが目的であったらしい。が、この話はまもなく秘書が見つかったとのことで立ち消えになってしまったが、清二も乗り気になっていた矢先であったようだ。

     心の地図に/遠い国があるようだ/記憶の断片を集めた
     重い国/近づくと/いつも歪んでしまうのだが    (詩集「異邦人」より)

西武百貨店で「宮本百合子没後三十年展」(1981年)が企画された。その実行委員長にふさわしい人物の相談を、学生時代からの友人である上田耕一郎(註)に持ちかけたら、松本清張はどうかとのことで清二は即諾した。
芥川賞受賞作「或る『小倉日記』伝」も読んでいたが、改めて感銘を受けていたのが映画「砂の器」(1974年公開)だった。「私はこの映画を見ていて、原作者が差別される側の人間の哀しみや憤りを知っているに違いないと」確信を持っていたからである。
こうしてオープニングの日に、松本清張と辻井喬の初対面が実現し、その席で三十年ぶりに宮本顕治共産党委員長とも再会した。「今度はいろいろ御世話になりました」と頭を下げると、清張は厚い唇で「辻井君、この展覧会は君にとって憧憬(ノスタルジー)だったんだ」とささやいてニヤッと笑ったので、「そうなんです。有難うございました」と正直に答えた、とある。
(註・1927年〜2008年。清二と同年生まれ。神奈川出身、東大卒。当時は日本共産党副委員長。宮本顕治の後継委員長となった不破哲三の実兄。)

このやり取りから、学生時代に自分が宮本百合子に心酔していたこと、東大キャンパスでの反戦集会に病身の宮本百合子に講演を依頼し引っ張り出したことを、松本清張があらかじめ耳にしていたのだろうと、清二は推察している。
数年後に清二は、同じ会場で松本清張の作家生活三十五周年を記念する「松本清張展」を開催した。「松本清張に、不遇な人、差別される側の辛さを知っている人であり、その点は本質的に宮本百合子と同じ感性の人、温かい人という印象を持」ちつづけていたからである。
ここまでの松本清張に関する叙述は「私の松本清張論 タブーに挑んだ国民作家」(新日本出版社、2010刊)からであるが、上述したように辻井喬は司馬遼太郎についても、「司馬遼太郎覚書 『坂の上の雲』のことなど」(かもがわ出版、2011年刊)という作家論を立て続けに著している。その中身をここで詳述する余裕はないけれども、同時代の偉大なる二人の国民作家をリスペクトしつつも、辻井喬の軸足はどちらかというと松本清張寄りである。つまり辻井喬は清張文学の特質である差別され(虐げられ)る側の人間の痛み(怨念)により多く共感しているのである(註)。
(註・このことは量販店「西友」で韓国籍であることを理由に、買い物客の女性にクレジットカードを発行しなかった事件が発生した時、それを遅れて知った清二は経営の理念に反する行為だと会長机を拳で激しく叩くほど激怒して、自らその韓国人女性の元に謝罪に出向き、朝日、読売、毎日新聞及び韓国紙等にも謝罪広告を掲載して自社の不当行為を詫びたほど、差別的言動には鋭く反応した。又、この清二の誠意ある謝罪を朴正煕韓国大統領が高く評価したことが伝えられている。)

清張寄りに関しては、やはり上記インタビューで「同人だったけれど、司馬遼太郎さんはある一定の距離以上には近づけない感じがありましたね」/「それはどうしてですか」/「納得できない。面白くない。うまい人だとは思いますが、私だったらこうは書かないなと思うことがずっとありました」/「それは表現の問題ですか、題材ですか」/「フィロソフィー(註・哲学)でしょうね。歴史観というかな。彼は個人としては人柄がいいです。だからつき合いはずっとあるのですが、作品は別ですね。・・・」と答えているのでも明らかだ。
辻井喬と松本清張の間には、生育環境が培った心情的、心理的感性の隔てが対司馬遼太郎ほどにはなかったということになるだろう(これと関連して、堤清二が政治家吉田茂のことを自由主義者かもしれないけど民主主義者ではない、と評したことなどにも通じる分析だったろうか)。
その松本清張の文学をまったく認めなかった三島由紀夫(註)との交友も辻井喬にはあったというのだから人間関係は不思議で複雑である(ただし、松本清張との初対面は三島死後のことである)。
(註・中央公論社創業八十年記念出版の文学全集「日本の文学」に、編集委員だった谷崎潤一郎や川端康成などが収録許諾の意向を示していたにもかかわらず、三島の断固たる反対で清張は除外された。)

その三島由紀夫が組織した「盾の会」の制服を創ったのが、堤清二であり西武百貨店であったという事実にも驚かされた。ドゴールの軍服に憧れていた三島は、その軍服のデザイナーが西武百貨店と関係あることを知り、かねて顔見知りだった清二に頼み込んだのだという。それ以来、三島の死去まで親しい交流がつづいた。
その文学のみならず思想的にも、松本清張と三島由紀夫は全く異質のタイプだと思われるのだが、辻井喬は「私の人に対する見方は、政治的に、あるいはイデオロギー的にどうかということはあまり重要ではない。何と言ったらいいのかな、その人が人間としてどういうふうに生きようとしているかが大事で、人間としてまっしぐらに生きようとしていれば、右でも左でも構わない。だから三島由紀夫には賛成なのです」と、明快に言い切っている(だから三島が自衛隊乱入して割腹自決を遂げた時、公の場で三島擁護を展開したのは私くらいだったでしょう、と発言しているのもその表れであるようだ)。

こういう考え方だから、堤清二=辻井喬の交流人脈は文学界はもとより財界、政界、学界や外国の要人をも含めて驚くほど多岐に渡っているのである(例えば、あの児玉誉士夫まで登場するのだが、ここにその一人一人を挙げきれないので、文学関係に焦点を絞って拙文を書き連ねているのであるが)。
拙文ついでに恥の上塗りで、まるで見当はずれかもしれないことを。三島といえば、自己の性的嗜好を赤裸々に語った長篇第二作「仮面の告白」が有名であるが、「彷徨の季節の中で」は辻井喬の「仮面の告白」のように思えてくるのである。両作はかなり酷似したコンセプトで描かれているのではないか?(屈折度合いは辻井喬の方がいささか強いけれど)。

面白いことに、文壇セゾン派というのがあるらしい(?)。まずセゾングループ社史編纂に携わった車谷長吉を筆頭に(無職だった車谷長吉を「新潮」の編集者が清二に紹介したという)、セゾンで働いていた保坂和志と阿部和重、それにセゾングループの西洋フード大阪でアルバイトをしていたという町田康(さらに町田康の奥さんの父親は西友幹部職にあったらしい)。
もう一人、コピーライターになりたくて修行に励む若い女性がいた。ところが彼女の書くコピーは、いまひとつ切れ味が悪いのに説明文のボディコピーは非常にうまいので、清二は「あなた、小説を書いてみたらいいと思う。散文は実に簡にして要を得ていて生きている。書いてみたら」とアドバイスした。彼女は「やっぱり、私はコピーライターは駄目でしょうか」とすごく悲しそうな顔をした。
それから半年ほどして書店に並んでいたのが、「ルンルンを買っておうちに帰ろう」(1982年刊)であった。誰あろう、今日の直木賞銓衡委員林真理子である。彼女も立派に文壇セゾン派ということになるであろう(その林真理子は辻井喬のことを「知のカリスマ」と追悼した)。

井上靖、丹羽文雄などの文壇の長老や、ほぼ同世代の三島由紀夫(1925〜70)と安部公房(1924〜93)、八歳年下の大江健三郎(1935〜)などのノーベル賞級の作家たちとの交流もさることながら、辻井喬が若手作家で一番に評価していたのは「沈滞している文学界に疾風のように現れて、同じ速さでつむじ風のように去ってしまった」という中上健次であったのではなかろうか。彼の死を悼む文章は(三島由紀夫とは違った意味で)如実にそのことを語っているように思われる。
「彼の文学は今日の我が国の状態から隔絶している。それは、主人公がしばしば貴種流離の本質を持っているからばかりではない。これは、作家中上健次が卑しさと無縁の世界に生きていたことと関係がある。卑しさと見える者も彼の筆にかかると愛すべき、神話的世界の一端を担う人柄に変身してしまう。これはおそらく、彼が個人的な事情や、見栄や、打算的思考を全く持ち得ない男だったからだ。その意味で、彼にとって〝教養〟は無意味、無価値のことであった」
「彼は内輪のマレビトのみが発し得る情熱をもって、日本の、そして世界に偏在する路地の物語を語り終えた。まだ語り終えるべきではなく、これからさらに編成を大きくして語るべき時に突然姿を消したのである」

そしてこう悼む。「中上健次は今、天上の路地でガタリ(フランスの哲学者)や谷崎潤一郎や三島由紀夫と語っているだろうか。とすれば残された者は、彼の天からの目差しを感じながら、自らの文学的営みをもう一度点検し、自らに固有の疾走を、根拠地としてのそれぞれの路地を、発見しなければならないのではないか。おそらくそれが、彼が私達に遺していった無言の言葉のように思えてならないのである」(1992年、文藝)
その「路地」は、別の追悼文で「そこは彼岸と此岸、賎(せん)と聖、悪と善、反人間性と人間性が、世俗に流通している尺度とは逆の位相を示し、矛盾が発酵し爆発する領域であった。そこは世俗的に言うと差別される側の人々が住み、それゆえに神が宿っている土地でもあった。そこで人々はすべての虚飾を剥ぎ取り、魂の卑しさを捨て、正直に真直ぐに生きようとしていた」ところだと説明されている。
ここにも、松本清張やクレジットカード事件の韓国女性に注いだと同じ視線が感じられるのである。

昭和21(1946)年生まれで戦後世代初の芥川賞作家となった中上健次は、平成4(1992)年に46歳の若さで病に倒れたのであったが、中上より19歳年上であった辻井喬はその前年にセゾングループの会長引退を宣言し、それから21年もの間を執筆に専念する時間を持った。いうなればそれまでの堤清二と辻井喬の時間が逆転したのである(それまでの業績と、全業績については上述した通りである)。
その最後の著作となった詩集「死について」(2012年刊)に、迫りくる死を予感していたのか、印象的なフレーズがあった。
     そう遠くないうちに 僕も入るその空間には
     雲が流れているだろうか
     緑が滴って澄んだ水に映っているか
     ひとりで去っていくのは別れのひとつの形
     それはそよ風が欅(けやき)の梢に揺れているようなもの
     あるいは遠ざかる鈴の音を追う耳だけの緊張
     切ないけれどもそれだけのこと

「(第一、第二詩集の)『不確かな朝』か『異邦人』を出したときに、親父にこう言われたのを覚えています。『最近、年のせいかどうかわからないがなかなか眠れない。そういうときはどうするか知っているか。お前の書いた詩集を枕元に持ってくるんだ。置いただけで眠くなる』」(註)と、父康次郎についての笑い話をインタヴューで語った辻井喬は、「彷徨の季節の中で」「いつもと同じ春」「闇夜遍歴」の自伝三部作を締めくくった77歳時(康次郎の没年は75歳)の長編「父の肖像」(2004年刊、第57回野間文芸賞受賞作)に次のように記している。
(註・「本のある自伝」には、「男が家の中で音楽を聞くことは許されず、『詩を作るより田を作れ』というのは父の口癖だった」と書いている。)

「父のことを考える場合、私はいつも世間が楠次郎(堤康次郎のこと)に抱いているイメージと自分がこの目で見た父の姿との差異に立止ってしまう。同時にこの当惑のなかには私自身の年頃と立場の変化によって父に対する評価が動いてしまうという困難が絡っていた。私が父に激しい敵愾心を燃やしていたのはマルクス主義に心酔し、諸悪の根源としての資本家と大地主を倒さなければと考えていた大学生の頃であった。その時代を振り返ってみると、むしろ父への反感、生理的反撥が私をマルクス主義に近付けたのではないかと思う。しかし不思議なことに、その時私は以後のどの年齢の時よりも純粋に父に向き合っていたようなのだ」
小説の一節とはいえ、これは喜寿を迎えた息子の嘘偽りのない感想であったろう。この意味からも、左翼運動の挫折までを描いた「彷徨の季節の中で」は、辻井喬にとってどうしても対峙せねばならぬ小説であったのだ。

辻井喬が晩年になって嗜(たしな)んでいたのは、意外なことに俳句だったようだ(俳句と現代詩は相通じるところがあるとの理由で)。母親と同じ短歌への道を歩まなかったのは、短歌を作っていた中学生の頃に、単に尊敬できる歌人に出会わなかったからだという(吉井勇派の母と違ってアララギ派が好きだったようだ)。
辻井喬死去半年後に、麻子夫人が最晩年の句を毎日新聞に公表している。そのうちの五句。
     子の声を葱(ねぎ)の青さの厨(くりや)かな
     大根煮る湯気や亡き母一人旅
     わが胸は滝の水涸れ音も消え
     獅子舞の目こそ哀しき平和かな
     過し日を忘れたき朝の初鏡
一句目は、もしや三鷹下連雀の在りし日であろうか。旅をしているのは、果して母親だけなのか。父親との確執の末に胸はこっぽりと空洞となったのであろうか、それとも肺病に侵されての絶望ゆえだったのか。作者は獅子舞を観る側にいるのか、獅子舞そのものが作者であったのか。その作者は最後の最後に、過去の一切合切(いっさいがっさい)を忘却したいと鏡に映る自分に語りかけていたというのだろうか?
が、それは句に堤清二=辻井喬の人生の悲傷を読み込み過ぎであって、辻井喬の境地は前掲詩篇のごとく澄みきったものであったろう。

こうして長々と綴ってきたものの、堤清二=辻井喬の実体は何ひとつ明らかにすることはできなかった。そのように感ずる。辻井喬の自伝小説が「私」を語りながら、普通の意味での(ありのままの「私」を語った)私小説ではなく、事実(らしきこと)をまぶしながらも巧妙に虚構のベールを覆いかぶせるように叙述されているからであろうか。リアリズム私小説でなくて、観念私小説(こんな言葉あったっけ)だからだ。
経営者にして文学者というのも類例なきことなのに、加えて小説の冊数(23冊)ほどに詩集(19冊)を生涯にわたって書き続けた文人なんて、そもそもいたっけ?その点でも異例である辻井喬は自らをこういう。
「私の発想としては〈正統なき異端〉です。つまり、正統があってそれに対する異端があるのではなく、自分としての正統はない。しかし間違いなく私は異端者です。だからこの感覚から言うと、三島由紀夫さんも私は好きです。左、右はあまり関係ないのです」ということになるようだ。つまり辻井喬にとって、異端者とは他者を認めつつ、個として自由な発想と立ち位置を可能にできる人の謂なのである。

詩集「死について」刊行と同時に文化功労者に選出された辻井喬は、その翌年の平成25(2013)11月25日に死去。死因は肺不全、享年86歳。
いみじくもその日は、堤清二によって願い通りに「盾の会」の軍服を誂えた三島由紀夫が、1970年に自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決したと同じ日であった。
三島由紀夫の文庫本は、「仮面の告白」をはじめたくさんの作品が残っているのに対して、辻井喬のそれは、文春文庫に「茜色の空 哲人政治家大平正芳の生涯」が残っているのみである(やがてそれすらも遠からず消え去るであろう)。

いくら言葉を重ねても、輪郭をなぞっただけで何ひとつ辻井喬について語ったという実感が湧かないままに、生前の堤康次郎をモデルにした小説に富沢有為男「雷帝堤康次郎」(1962年刊)、石川達三「傷だらけの山河」(1964年刊)の両芥川賞作家(それぞれ第四回と第一回)の古い作品があることを書き添えて、「彷徨の季節の中で」さながらに堂々巡りに終ってしまった拙文の幕引きとしたい。
最後まで付き合ってくださったとしたら、只々、多謝、多謝。

(追記。2016年夏から秋にかけて、中村不二夫「辻井喬論」及び近藤洋太「辻井喬と堤清二」という著作が刊行されていることを、ついこの間知った。驚いた。著者は二人とも詩人だとあった。早速、一部を本文に引用させてもらった。)
(追記の追記。つい最近、児玉博著「堤清二『最後の肉声』」と題する連載記事が2015年4月号〜6月号の三回にわたって文藝春秋に掲載され、翌年の第47回大宅壮一ノンフィクション賞(雑誌部門)を受賞していることを知った。
それには「父の行状を母は知っていた訳ですから。母の姉妹にも手をつけていたり・・・、そうしたものを全て飲み込んで生活をしていたわけですね」という康次郎と操に関する清二の発言がある。出生についての踏み込んだやりとりはないけれども、このことからも清二の実母が操の姉妹であった可能性が皆無ではなくなる。なお、このノンフィクションは、「堤清二罪と業 最後の『告白』」と改題、加筆を加えて2016年に文藝春秋社から刊行されている。以上、2017年4月16日追記。)


















自由人の系譜 辻井喬「彷徨の季節の中で」(6)

「由雄(堤清二)の子供の頃の記憶にある月子(操)は部屋のなかを移動する時、足音を立てなかった。畳の上を滑るように早く歩き、身を翻したかと思うとピタリと静止する。母親が立ったまま俄かにゆさぶり難い存在に見えてくるような時、彼女は歌のことを考えているのだった。好きな食べ物は少量の海産物と果実である。久美子(邦子)を生んでから、一時治っていた結核が再発し、朝食が済むとすぐ寝るようにしていた彼女のこうした動作と食生活を考えると、母親がどこから活力を得ていたのかと、由雄は不思議な気がする時があった。鎌倉海岸に、幼い二人の子供を連れて転地したのは、かえって病状を悪化させたから、一転して北多摩郡三鷹村に居を構えたのは、貝塚市子(川崎文)と離れたこととあいまって賢明な選択であった。時々、訳もなく咳こみ、午後になると決って熱が出る身体を横たえていると、塗りたての土壁の臭いが鼻を打った。・・・」

「闇夜遍歴」から引用した。次はこの続き。
「鎌倉にいた時、彼女はもう少しで死ぬるところだったのである。もし本当に生命力があるなら、自分がいなくても子供達は生きのびてゆくだろう、そう思って傍に置いた剃刀を静脈に当てる前に、もう一度由雄と久美子の顔を見ておこうと考えて、少し前から二人の姿が見えないのに気付いた。きっと浜に出かけたのだ。もう夕方で潮が上ってきているはずだと知った時、月子はほとんど意識せずに家を走り出ていた。まだ夏になっていなくて、人影もなく広いばかりの浜辺に子供の姿はなかった。嗄(しわが)れた声で呼んでみたが、聞えるのは、砂の低い部分を浸しはじめている波の、ぴちゃぴちゃと寄せる音ばかりであった。月子は裸足になって駆けた。沖へ向って声をあげた。離れた、少し高くなった浜に二隻の漁船が引揚げられていた。

幾度か転びそうになり、水を跳ねかえしながら辿(たど)りついてみると、船の蔭で三つと二つになった由雄と久美子が湿ってきた砂を掘って遊んでいた。もう三十分も遅かったら周囲は幼児の足では渉(わた)れない海になっていたはずであった。月子の姿を見て、二人は喜んで笑い声を立てた。『お母さんが来た、お母さんが来た。歩いてきたよ』と言った。寝てばかりいる母親が浜に出てきたのが嬉しかったのである。涙が溢れ出し、月子は『夕方は冷えてお腹に悪いから、外で遊んではいけません』と言いつけを守らなかったのを叱ることが出来なかった。

(あの時、私は死ぬ機会を逃したのだ)と月子は覚った。両親は自分達を残して早々と死んでしまったが、私には子供を放り出すことは出来ないと思うと、彼女の病んだ肉体のなかに今まで経験したことのない、思想に似たものが動くようであった。生活をたてなおそう、と月子は決めた。お琴の免許はもう貰ってあるから、時々忘れないように先生に来てもらって練習をすることにし、小田村大助(康次郎)と一緒になってから中断してしまった書道の稽古もはじめよう、それに、社友になったばかりの〈昴〉には毎月短歌を送ってみよう、と計画を立てた。幸い小田村は日曜にしかやって来ない」
 発表された順序は逆になるが、自伝三部作の二作目「いつもと同じ春」にも、上記のような体験があったからであろう、母は幼い私と久美子に「幾度、死のうと思ったか分らないわ、あなた達さえ居なかったら、私の生活は変っていたのよ」とよく言った、と書かれている。

しかし、もし母が本当にこう言ったのであれば、母の言葉は二人の小さな心を傷つけたにちがいない。とりようによっては、まるであなた達が自分の子ではないと言っているにも等しいからである。
この言葉の前後に操(「いつもと同じ春」では西垣美津子)が、康次郎(同、西垣浩造)と一緒になった経緯が述べられているので、それも引用する。 

「母の実家は第一次大戦後の世界的な不況のなかで没落した銀行家であった。貴族的な環境に育った母は、倒産後の整理を手伝った野生的な父に魅かれた。自分達の家族にはない粗暴さを男らしさと錯覚した。管財人の助手として働きながら、野心に燃えていた三十代の父は、最初から母の美貌に魅かれた。持前の強引な説得力で口説いた。蝶ネクタイを締め、寸法の合わないYシャツの下から臍(へそ)を覗かせている父の様子を見て母は誰も父の身辺の世話をする人がいないのだと思った。それまでに、西垣浩造が幼い頃生みの母に捨てられて祖父の手で育てられたこと、丸和不動産という社名は、祖父西垣和左衛門(実名堤清左衛門、註・長男清と次男清二の名前の由来だと思われる)の一字を取って名づけたのだ、というような話を聞かされていた。

春も終りに近いある日、母はかねて西垣浩造と打合せていた手順に従って、丸和不動産の社員に導かれて郊外の小さな家に父親に無断で移り住んだ。出奔であった。
父が既に結婚していて、旧市内に一戸を構えているのを知らなかった。とは言え、家を出たのは自分の意志であったから、誰を非難することも出来ない。〈騙された〉 というのも事実であり、愛し合って一緒になったというのもそのとおりである矛盾のなかで、母は新古今ばりの短歌を読むことで自分を支える以外に生き続ける術を知らなかった」
こう書かれてから、上記の「幾度、死のうと思ったか・・・」につづいているのである。一応、母の苦境に同情(納得)はできても、やはり兄妹が全面的に母の言葉を受入れるには抵抗があると思われる。それにこのくだりに叙述されている父母のなれそめは、「彷徨の季節の中で」にあった〝掠奪〟とはずいぶんと事情が違う。
長くなるが、この後も引用したい。

「そのような経過で生れた子は、〈妾の子〉と呼ばれ、自分は二号さんと後ろ指を指されるのだとは、後になって世間が教えてくれた呼称であった。それでも父はフロックコートを着込み片手にシルクハットを持って、角隠しを被った母と結婚の記念写真を撮った。
せがまれてのことではなく、気位の高い家に生れ育った母の懊悩を見て父から言い出したことであった。自分を引き立ててくれている政界の指導者の世話で一緒になった本妻であるから、おいそれと別れる訳にはいかず、別れるつもりもなかったが、本当に結婚している相手はお前なのだという証しとして父が考え出した儀式である。それは詐術であって同時に詐術ではなかった。
ずっと以前に見せて貰ったことがあるが、白い貸衣装の打掛けを着、重い頭に耐えて少し上目遣いになって立つ母は可憐に撮れていた。その母を眺める父は、自分が手に入れた女の値打を確かめる家畜商のような目をしていたに違いない。生れながらにして、私は父と対立しなければならない立場にあったのだ。それ以後も父の暴君としての振舞いは変らず、そのたびに母の心はまたもや愛憎の間を揺れ動き、私と久美子は大人の男女の、赤裸々な葛藤のあいだで、幼い皮膚を擦り剥きながら成長した」

「幼い皮膚を擦り剥きながら成長した」兄清二は、これまで再三述べてきたように父親のやり方に激しく反撥してきたのだったが、妹の邦子はどうであったのか。
「私はあんなふうには生きたくない」というのが、父親を取巻く女たちを観察しながら(当然その筆頭には母親も含まれていたのだったが)、邦子(小説名久美子、註)が下した決断であった。「彷徨の季節の中で」には「お母さんのようにはならないわ」と表現されている。
以下、堤邦子の生涯を便宜上(なるべく簡潔に記すため)、主に前章で触れた「叙情と闘争 辻井喬+堤清二回顧録」に沿って追ってみる。
(註・「いつもと同じ春」「暗夜遍歴」とも、唯一邦子のみが〈久美子〉名で統一されている。)

「妹が学校から帰ってくるなり大声で泣き出した。母が訳をきくと、妾の子といっていじめられたのだという。僕は怒った。そんなことを直接母に告げる妹も許せなかった。実は数日前、僕も同級生の餓鬼大将に同じことを言われ、体力の差も忘れて喰いつき投げ倒して馬乗りになり、撲りつけて怪我をさせてしまっていたが、母には黙っていたのだった。母の顔色が変わった。そんなこともあったから兄妹の仲はいっそう緊密になる他はなかったのだ(註・この出来事は、小学二年生と描かれている小説と違って、清二が五年生の時だったようだ)。
彼女は成績がよかった。五年生の時だったか、東京中の数千人の小学生の模擬試験で二番になったぐらいである(「いつもと同じ春」には、康次郎が「久美子が男だったらなあ」と屢々嘆いた、とある)。

三鷹から麻布の屋敷に移ると、邦子は羽仁もと子の「自由学園」に通うようになったが、邦子が自由主義に染まり過ぎることを怖れた康次郎によって、一年後に府立桜町高女(現都立桜町高校)に転校させられた。
「戦争が終わった時、妹は十七で、女学校を卒業した年でもあった。当然、彼女は進学を希望したが、『女に学問は要らん』という父の頑なな一言で前途を阻まれた。仕方なく彼女は英文タイプを習って、将来、〈お父さんの役に立ちたい〉という理由で実技を身につける道を選んだ。それは毎日家を出る口実ではあったが、そのなかには本音も含まれていたのである。そこが僕と父親の場合と違うところだという感じもするのだけれども、その一方で彼女は、ひそかにダンスを習いはじめていたのだった」
これと関連して「彷徨の季節の中で」に、娘がタイプと英会話を習うと聞いた康次郎が、そのうちに(邦子は自分の)会社の渉外部長になるつもりらしいぞ、と愉快げに揶揄する場面がある。それにしても、邦子の大学進学を操がこの時、(本当の母親であるならば)体を張ってでも叶えてやっていたら、その後の邦子の人生行路は一変していただろうに(やっぱり実母ではなかったゆえか、未だ正妻になり得ていない身の上のせいだったのか。註)。
(註・前章で触れた邦子のエッセイ「パリ、女たちの日々」の奥付履歴には、しかし、早稲田大学中退、ソルボンヌ大学文科卒業となっている。)

「やがて彼女はそのダンス教室で、働きながら大学に通っていた青年と恋に落ちた。ある日彼女は、僕にだけ行く先を教えて家から姿を消した。当然、家は大騒ぎになった。報せを受けた堤康次郎は、「うぬ、男が出来よったな」と地団太を踏んで口惜しがった。僕は知らんぷりをしていた」とあるのも、「彷徨の季節の中で」の描写と寸分違わない。
が、「両親の反対を押し切って駆け落ち同様に」、彼の郷里広島で始めた新婚生活は長続きしなかった。一年半で舞い戻って来た娘に、「傷物の噂が拡がる前に」と父親が再婚を勧めたのが、やはり「働きながら大学を終えて、父が創始した丸和不動産に入社し」、「父の三番番頭ぐらいの立場にいた男」林田悟郎(註)であった。
(註・森田重郎のことで「火曜会」のメンバー。のちに参議院議員を二期務めた。)

「当然のことながら、久美子は気が進まなかった。最初の結婚に失敗した直後であったし、早く世間体をくらます形に娘を閉じ籠めてしまおうとする父親の計算が見え透いていた。『はじめての人と、ずっと一緒に暮せるのが一番幸せなのよ』と、かつて味方になってくれていた母親が、林田との結婚にどっちつかずの態度を取っているのも淋しかった。
一緒になってみると、ダンス教習所を足場にした女誑(たら)しに過ぎなかった男(註)の、気障で粗暴な振舞いが鼻についてきて、何故こんな男に夢中になったのかと、久美子の胸中にはふがいない自分への復讐心に似た感情が蠢(うごめ)いていたようだった。 我と我が身を、思いきり傷めつけてみたいと希う心と同時に、またとない出世の機会と眼を輝かせている林田悟郎を翻弄してやりたい誘惑を彼女は感じたのだろう。久美子にとって、それはそう困難なことには思えなかったはずだ。
父の方は、とにかく結婚させてしまえば、愛情は後から生れてくると確信していたようだ」(以上、引用はすべて「いつもと同じ春」)。 
(註・実際は真面目な男で、後に事業家として成功したと、「本のある自伝」で辻井喬は、妹の初婚相手について述べている。そのくだりを引いておく。「独立した自由な生活を夢見ていた彼女には、相手の現実的な手堅さが面白くなく、貧しさも辛かったのらしい。恋の蜜月は短く終り、傷心の彼女は父親の薦める会社の幹部と結婚した」。)

「叙情と闘争」の方には、「三番番頭」は、「経理担当の役員」となっているし、結婚の理由としては 「妹は自由を手に入れるために気の進まない再婚を受け容れ、堤の家を離れたという事実を跳躍台として、二度目の出奔をしなければならなかった」と書かれている。
その手助けをしたのが清二だった。「二度目の出奔の時、僕は彼女のために夜の銀座の勤め先を探した。再婚した夫とどうしても別れたい、別れることにしたという決心を妹から聞いて、それからどう生きていくつもりかを質問すると、彼女は『どうしても小説を書きたい』というのだ。『それには収入のこともあるし、バーのようなところで働いてみたい。私の今までの経験は特殊すぎると思うから、少し世間に触れてみたいのよ』そう言われて僕は、銀座の」ある店を紹介した。

「妹はその店に二年近くいた。そのうちに、どうも堤康次郎の娘がバーで働いているらしいという評判が立ち、父の追っ手がかかる形勢になって僕はあわてた。ない知恵を必死に絞って、僕にもその噂が聞こえてきたので調べたと称して、父にかなりのところまで事実を打ち明けた。その上で、この期に及んで強行手段に訴え、麻布の家に連れ戻すようなことをしても、次第に追い詰められた感じを持てば、あなたに似た性格だけに邦子は、次はどんな手段に出るか心配である。それよりも外国に留学させれば噂も立たなくなるだろうと献策した。
『そんな方法があるのか』 という父の問いに、『店の方は人目につかないように妹には裏方に廻ってもらいますが、一か月ほど時間を下さい』と猶予をもらった」
この辺り、康次郎が議長就任時に引き起こした皇室不敬事件で婦人団体からの抗議をうまく躱(かわ)した秘書時代の手際の良さを思い起こさせるのであるが。

清二は、操の遠縁になる美術蒐集家夫妻に相談して、夫妻の渡仏に合わせて邦子を同道してもらう約束を取り付けたのであった。
「1956(昭和31)年の10月、南廻りの便でパリへ向けて羽田を出発した彼女を送って麻布の家に戻ると、父はまだ起きていて、僕の顔を見るなり、『そうか、行ったか』と短く言い、僕は彼が娘の海外留学で思いもよらない打撃を受けていると感じた」
日本人が自由に海外渡航が出来出したのが1964年(康次郎の没年、東京オリンピック開催年)といわれるから、康次郎の落胆ぶりもひとしおであったろう(註)。
邦子がパリに出立した時点での堤家の主な人物の年齢をあげておく。邦子28歳、清二29歳、康次郎67歳、操48歳、恒子43歳、廃嫡になった清は恒子と同じ43歳、22歳の義明はまだ早稲田の学生だったと思われる。 二年前に別れた康次郎の前妻文は、この年に死亡したのであったか?
(註・康次郎の死後、操がパリの邦子のもとを度々訪れていたことは「暗夜遍歴」に描かれているが、邦子のエッセイ「パリ、女たちの日々」に、「政府の使節としてヨーロッパを訪れた亡父のお供でパリに来た母」と綴られているので、生前の康次郎が邦子とパリで再会していたことがわかる。)

「音という程の音ではない。が、外はしめやかに雨の気配である。立ち上って遥子(ようこ)はカァテンを寄せ、蒸気でくもった窓から外を眺めた。冬がはじまっている。・・・疑いもなくためらいもない季節の足どり。プラタァヌの葉も落ちつくし、幅ひろい舗道は夜毎の雨に濡れはじめ、パリはすでに人々が〈灰色の〉とよぶながい冬の季節に入りはじめていた。(中略)
今夜も眠れそうにないのだった。煙草に火をつけ、遥子はぼんやりと灯のあたりに眼をむけている。灯の下に微かにうずまいている潮騒に似た遠いざわめきの音。それはやがて小さく鋭い、悲鳴に似た叫び声をたて、ささやき交しながら、ひとすじの尾をひいて、次第に暗い空にのぼっていくようであった」(堤邦子「流浪の人」冒頭部)

邦子がパリで書いた四百枚ほどの原稿が届いたのは翌年の8月だった(邦子は銀座のバーに勤めながら、清二の紹介した同人雑誌で文学修行をつづけていた)。
「最初の四十枚ほどを読んで、感じとしては甘いけれども文章に力があるので本にしてもらえるかも」と思い、二年前にはじめての詩集「不確かな朝」を出版してくれた知友に相談すると、「彼は『面白かった。去年原田康子の〈挽歌〉を出した東都書房がいいと思う』と言い、僕は彼に紹介を頼んだ。話は驚くほど順調に進み、その年の11月末に小説〈流浪の人〉が出版された。
〈深窓の令嬢・傷心のフランスの日々〉というようなキャッチフレーズに続いて、本の帯には、〈パリ祭の夜ー花火がするどい音をたてて空にのぼり、やわらかく散っては消えた。あちらにもこちらにも、抱き合った恋人達の黒い影がある。河の水は黒々と光りながら、船が通るたびにつめたげな水の音を岸に寄せた。『遥子、綺麗な夜だね。』ーアンドレの唇が再び遥子の唇をおおった〉という小説の中の文章が印刷されていた・・・

本の最終頁には、原田康子の『挽歌』(註1)と同じように著者の思いに沈んでいるようなポーズの写真が掲げられ、〈著者近影 昭和32・9ーパリのリュクサンブウル公園にて〉という文字が見える。新聞にもこの本人の写真が使われていたから、五段通しの大型広告は厭でも目につき(註2)、僕は父が怒り出すかもしれないとはらはらしたが沈黙を守った。母も無言だったが僕と二人きりになると、『邦子はやりましたね』と興奮を隠さなかった。彼女も夫のいるところでは素知らぬ態度だったのである。僕はこの家族は昔から嘘をつくことに慣れているんだという、当たり前のことを念を押すように確かめていた。母も父も同じように一言も娘の出版には触れないのであった」
(註1・原田康子は堤邦子と同じく1928年東京生まれの室蘭育ち、2009年没。「挽歌」は、同人雑誌「北海文学」に連載された恋愛小説。1956年に出版されるとベストセラーになった。今も新潮文庫で読める。註2・しかも邦子は著書に本名を使っていた。)

「フランス製、イギリス製となれば灰皿でも屑籠でも飛ぶように売れた時代である。それだけに金持ちの娘がフランスを流浪しているからといってそれが何だ、という文学の外での反発もあり、本の売れ行きにもかかわらず(二十万部ほど売れたという)、作品を取り巻く世の中の一部の空気は冷たかったと言えるだろう。
もし、なぜ自分が日本を離れなければならなかったかについて、主人公遥子が生きてきた背景やその中で作られた心の構造が描かれていれば、少なくとも文学作品としての反応は変わっていたのではないかと、僕は遅ればせに考えた」

というふうに、辻井喬は「流浪の人」を回顧しているけれども、その通りで、日本娘とフランス青年のうたかたの恋を描いたこの小説は、文学作品足り得る深みには達していない気がする。
原田康子の「挽歌」も今読めば相当に甘い恋愛小説であるが、それまでになかった小悪魔的なヒロインを創出したというだけでも時代的独創性が認められる。それでも「挽歌」のヒロインは、その頃世界的ベストセラーとなっていたサガンの「悲しみよこんにちは」の意地悪なヒロインを、異国的情緒漂う北海道に移し替えたのではないかと想いたくなるほど似通ったものがある。
そういう時に、同じ出版社から後追いの形で刊行された「流浪の人」には、はしばしにみずみずしさは認められても、つまるところ「挽歌」と「悲しみよこんにちは」を中和したような、二番、三番煎じの平凡な印象しか残らないのである(それにしても「幼い皮膚を擦り剥きながら成長した」兄と妹の書いた小説の題名が「彷徨」と「流浪」とは!)。

今時、たった一冊の小説を書いたきりの堤邦子という小説家がいたことなど、誰も覚えてはいないだろう。これ以後、エッセイ「パリ、女たちの日々」しか残していないのだから。しかし外国に居住して小説とエッセイを書き残した例は、堤邦子を以って嚆矢(こうし)とするのではなかろうか?
「こうして、最初の出版が成功はしたけれども一種のスキャンダルとして扱われ、作品として正当に評価されなかったという思いを彼女は持ったかもしれない。それなら、彼女の性格からしても、第二、第三の作品へと突き進むのではないかと期待もし、幾分恐れもしたのだけれども、パリから送られてくる手紙からは、なぜか書いている気配が少しずつ淡くなったのである。僕は日本から何らかの形で、もう書くなという圧力のようなものがかかったのではないかと気を廻したりしたけれど、その兆候はなかった」
「フランスにいると、日本語で小説を書くことに無理があるような気がしちゃったのよ」というのが邦子の答えだった。清二は七年ぶりにパリで邦子と再会し、二週間ほど滞在する間に邦子のいう意味が何となくわかる気がした。そしてこうも考えた。「最初の出版で独立宣言をすることができた結果、小説に対して以前のように情熱的になれなくなったのではないか」と。

小説も書かずに、清二が帰国を促してもそのままパリに居続けた邦子は何をしていたのか。
「六〇年代に入って高度成長を実現するには日本製品の企画、デザインがもうひとつインターナショナルにならなければいけないという主張が通産省のなかに起こってきて、その結果、百貨店がイタリア展とかフランス展などを開けるようになった。僕は早速〝フランス展〟を企画し、大手を振ってパリに行けるようになった。西武百貨店は後発で、少し前までラーメンを食べる時に寄るだけという意味で〝ラーメンデパート〟などと言われていたぐらいだったので、邦子を父には相談せず駐在部長に任命し、日本の百貨店で仕入部をパリに置いているのは西武だけと主張して、オテル・ド・ヴィルという百貨店に乗り込んだ。このデパートを選んだのは妹の調査の結果だった。父親には、百貨店の仕事を少し手伝ってもらっているとだけ話しておいた。その当時の僕にとってもパリは解放区であり、妹は亡命政権的存在であった」
折しも日本は、世界に類例のない高度経済成長期に突入し、大量消費時代を迎えつつあったのである。

「パリには邦子と同じように自分の家から家族のしがらみから、故国から、革命後の社会から独立しようとやってきた(漂泊者、亡命者などとその人の状況によって呼ばれていた)人たちがたくさんいた。・・・亡命者同士は多くの場合仲が良くなかった」
そういう中で「孤独な彼女の前に、幾人もの魅力的な男性が現れたことを僕は知っているが、パリに住んでから十年以上経ってから結婚したフランス人のジル・ネレを除いて、ほとんどがスラブ系の人間だったことは、単なる趣味の問題だったろうか」と、述べているのは意味深である。つまり、妹は妹なりに虐げられた人たちにシンパシーを寄せていたことに思い及んだのであろう。
「それにしても邦子が、懲りたはずの結婚をしたことは僕を驚かせた。『よく結婚する気になったね』という僕の感想を受けて、『結婚していた方が、この国では自由が大きいのよという言葉が返ってきた』その答えには結婚していた方が相手の男も思い違いをしないで深い関係になれる、という意味も含まれているようだった」

夫のジル・ネレはかつて特派員で東京に滞在していたこともあって、清二も面識があり、その派手なプレイボーイぶりも知っている男だった。結婚直後、パリに行った清二は妹夫婦のマンションに招かれた。「この戸棚(食器棚)はね、ここからこっちが私のもので、その反対側がジルのものになっているの。いざという時に、困ったり揉めたりしないように」と、邦子はジルのいる前で僕に説明した。
この後はこう書かれている。「二人の結婚は、愛し合った結果としての結婚ではなかったし、邦子は・・・献身するタイプではなかった。その方が生きていく上で便利だからという考えからもたらされたのだと僕にも理解できた。にもかかわらず僕は新居なりにどことなく華やいだ空気が漂っているのを哀しいと思った。その頃は日仏間の貿易も活発になり、西武百貨店のパリ駐在部長として数々のブランド(エルメスやイブ・サンローランなど)の代理権獲得にも手腕を見せた彼女は、多忙な毎日を送っていたから、僕は夕方になってジルだけ誘って食事をしに街へ出ることもあった」。
そして二人は本音を言い合い、互いを認め意気投合して乾杯を重ね、義兄弟の契りを交わした、と。

またこんなことも。「邦子は日本からやって来た女性を無原則に受け容れ、励ます姿勢を見せた。彼女が応援した女性のなかには女流画家もソプラノの歌手も某国の大統領夫人だった人もいた。邦子の応援を有り難いと思った女性ばかりではなかったところに、辛いところ、妹のお嬢さんぶりもあったのだけど」。
小説「闇夜遍歴」には、「パリ六街区にある久美子の家には・・・フランスの映画監督と結婚した日本の女優、オートクチュールの世界で頭角を現している日本人のデザイナーなどが集ってきた」ともあり、デヴィ夫人や岸恵子たちと接触があったことがうかがわれる。
ともかくも出奔後、邦子は異国の地パリに永住し、駐在渉外部長としてその手腕を発揮して、西武百貨店発展に多大なる貢献を果たしたのである。

「〈昨日、久美子女史ハカジノ法違反容疑ニヨリ逮捕サレマシタ。支払ヲ法人名義ノ小切手ニテ受ケタノガ原因ト思ワレマス。女史ハ、何者カノ作為二ヨルモノトノ声明ヲ出サレマシタ。法的ニハ当社二関係ナキ事ナガラ、社会的信用上マイナスト思ワレ、小職モ苦慮シテオリマス。ナオ、他二脱税容疑モアル模様〉というテレックスを、パリ駐在部長XXが打ってきたのは、一年前のことである。
彼女が三年ほど前に、フランス人の友達とカジノをはじめた時から、私が心配していた事が起ってしまったのだ。・・・久美子がカジノの資金作りに帰国した時、私は反対したが、決心を変えさせることが出来なかった。もともと、彼女は丸和不動産の創立者であった父、西垣浩造の性格を受け継いでいて、言い出すと相手の意見を聞き容れなかった。理屈を超えた執念が胸中に燃え盛ってしまっているようで、何が久美子をそのように熱中させたのかと訝(いぶか)りながら、『やるのは君の自由だが、それなら社と縁を切ってからにしてくれ』と私は宣言した。二十数年前にフランスに渡ってから、派手な恋愛の噂が絶えなかった彼女の身辺に、今度も男の影を想像しながら」

「いつもと同じ春」前半にこのように書かれているのも、ほぼ事実をなぞったものと思われる。
回顧録にも、南仏の「観光開発に外国企業として参加しカジノを経営したが、その運営が法に触れて(19)79年に逮捕されたのが躓(つまず)きの始まりだった。カジノでの支払いは現金か小切手でという法令を無視して、手形を受け取っていたという理由だった。
カジノは大きな利権だし、セゾンの理念とは合わないという僕の忠告を彼女は拒否し、『日本人はギャンブルというと、チビた雪駄(せった)を履いて目を血走らせている、馬券売り場や競輪場の光景を想像するでしょうけど、こちらでは社交場なのよ』と、自説を譲らず方針を変えなかった。
そういう経緯があっても、逮捕されたとなれば助けなければならない。幸い間もなく保釈になったが、彼女は外資が侵入してきたと考えた既成勢力の罠にかかったのだと言いながらも、撤退勧告は頑として受け付けなかった。六十を越した頃から、彼女の父親譲りとでも考えるしかない性格が目立つようになった」と、書かれているからだ。

その責任の一端は自分にもあったのではないかと、清二は自省する。
「そうなった理由の根本は、自分(註・邦子の考え方を指す)を疎外している日本のビジネス社会という観念だったように僕は思う。そして、僕の身勝手から長いこと気付かなかったのだが、彼女の頑固さは、僕が引退を彼女に打ち明けてからひどくなったのだ。
彼女は、唯一の肉親の役に立っているという考えから、パリ駐在部長として働き、五十社を超す有名ブランドの輸入代理権を獲得したり、兄のためにフランスの勲章を、と奔走したり、世界的なレジャー企業になった地中海クラブと西洋環境開発(註)との提携をまとめたりした。それなのに、その当の本人である兄が引退するとすれば、自分は何のために働いてきたのだろう、との問いが、逆に彼女を戦闘的にしたという観測も成立するのだ。これからは自分のために働くと決めてから、彼女は、ファッションのジャン・ルイ・シェレル社を買収したりしはじめたーそう考えれば、時期的には平仄(ひょうそく)が合ってしまう。
(註・清二が立ち上げた不動産デベロッパー事業会社。バブル崩壊後の2000年に巨額の負債を残して倒産する。)

僕の方は、引退を巡るいろいろな動きと、(19)94年頃から深刻になったバブル崩壊と消費の衰退への対応、まだ創業期にあったいくつかの会社の体制固めに追われていて、駐在部の梃(てこ)入れに動くことができない状態であった。その結果、彼女はパリ駐在部の解散、本人が手掛けた事業からの資金の引き揚げという事態に追い込まれた。
はらはらしながらも、僕の力ではどうにもならない点では、男女差別の壁にぶつかって進学の道が閉ざされるのを、何とか助けたいと思いながら、見守るしかなかった頃と同じ状態になってしまっていた。彼女は赤字続きの会社を創業者だったシェレルに返却するという契約書に、無念の思いで署名した直後に倒れたのである。
すべての予定を変えて、パリに行く用意をはじめた僕を追いかけるように、『今、息を引き取られました』という報せが入った。倒れてから五時間も経っていなかった。一度も意識は回復せず、そのために苦しむということもなかったらしい」

ずいぶんと長く引用したけれど、「叙情と闘争」中の〈妹、パリに死す〉の文章である。
堤邦子の死は、1997(平成9)年6月16日とある。69歳、邦子のパリ滞在は41年を数えていたことになる。葬儀は23日に小さな教会で行われ、それでも別れを惜しむフランス人の数は多かった、と述べられこう続く。
「彼女はボードレールやサルトルとボーヴォワール、モーパッサン、マルグリット・デュラスなど、多くの芸術家が眠るモンパルナスに、唯一人の日本生まれの女性として葬られた。それは、彼女が生涯に受けたたった一度の厚遇かもしれなかった。・・・葬儀の間も、僕はもし彼女が男と女が平等の機会に恵まれている社会に生まれていたら、どんな活躍ができただろう、などと考えていた。小学生の時の成績は僕なんかより遥かに良く、それも理数系が得意だったから、学者の道が開けたかもしれない。また、感じたことや考えを文字に移す力は豊かで、パリに住むようになって間もなく完成させた、唯一の長編小説の文章も艶を持っていたから、一時期、本人が作家を志望していたのも根拠のあることであったのだ。・・・」

妹への回想はまだまだ続くのであるが、この回顧録に邦子の死因は明記されていない。倒れた時、邦子に連れ合いがいたかどうかも不明である。つまり邦子に関する付帯的情報は何もないと言っていい。
ここまで辻井喬+堤清二回顧録「叙情と闘争」を中心に邦子の軌跡の概略を綴ってきた。ところが、「いつもと同じ春」には(この小説は、妹がカジノで逮捕され無罪釈放されるまでを時間軸に、主人公私の様々な回想をちりばめて構成されているのだが)、兄と妹の物語と併行して妹の生んだ二人の子供(姉と弟)のことが重要な伏線として語られているのである。
姉はロンドンで生活しており、弟は精神を患っている。再婚した林田悟郎(森田重郎)が二人の父親である。邦子に二人の子供がいたことは、「闇夜遍歴」にもそのように描かれているので、多分虚構ではないだろう(上の女の子には久美子の孫まで生まれていたことになっている)。
しかし〈妹、パリに死す〉のどこにも、その子供たちについての言及はない。もし本当に、邦子に子供がいたとしたら(どのような親子関係にあったのか、小説通りだったのか、全くそれとは違っていたのか想像もつかないけれど)、実母の葬儀に出席していなかったとは考えにくい。この場合も辻井喬は、現実の堤清二に関する私的部分を故意に書き残さなかった、ということだったのか。

葬儀への参列ということで付け足せば、「いつもと同じ春」では、父親が東京駅で倒れた時、久美子は偶然に百貨店関係の仕事で帰国していて、病床で看護をつづけ父の最期を看取ったと描かれている。
前章に「闇夜遍歴」での、その臨終の場面を引用しておいたけど、そこに久美子の姿は全くない。どちらが本当のことなのかと、(操が実母であるかどうか同様に)分からなくなってしまうのであるけど、たまたま「叙情と闘争」に事実が書かれていた。その文章。
「長い年月パリにいて、途中から勘当が解けて西武百貨店の駐在部長になった妹の邦子がたまたま日本に来ていた時だったのも虫が報せたのではないかと僕には思われた。彼女は父親のどうにもならない男女差別の一番の被害者と言えたが、大学へも行かせてもらえず、結婚もままならない状態を単身パリに出掛けることで打ち切り、結果としては父を見返したのだった。

それでいて、彼女と堤康次郎の間には不思議な愛情が通い合っているように僕には見えたから〈虫が報せた〉というようなことを考えもしたのである。
父の遺体を焼くのに、少し長い時間がかかっているような気が僕にはしたが、やがて頭蓋骨とあばら骨、腰骨、そして手足の大きな骨がばらばらになって焼却炉から引き出されたのを見た時、邦子は思わず、『ああ、お父さん』と声をあげ、僕はその声のなかに自分を散々苦しめた父親の消滅を悼む響きを聞いた」
母の臨終には、「闇夜遍歴」に久美子(邦子)は間に合わなかった、と描かれている。これは1979年のカジノ事件の被告だった邦子の裁判が長引いていたため、出国禁止措置にでもされていて、1984年の操の死に間に合わなかったということだろうか?
実父と娘の今生の別れにはテレパシーの啓示があったけど、養母と娘のそれには何らかの社会的制約が働いていた?というのも、あまりに穿(うが)ち過ぎであろうか。

最後に、もう一度〈妹、パリに死す〉から。
「妹が他界してしまったことで、僕が引退を躊躇する条件はなくなったのであった。そこでセゾン系のなかでもしっかりした業績をあげている企業の存続と引き換えに、創業者利潤を投げ出すというのが、金融機関との交渉のベースになったのである。
言い換えれば、各企業に対する貸し渋りや融資残高の引き剝(は)がしを防ぐために、個人の犠牲が必要だったのである。堤康次郎の雅号を取って、ずっと米荘閣(註)と呼ばれていたセゾン企業のゲストハウスを提供することになったのは、両親にまつわる記憶の場が消えることでもあったが、止むを得なかった。妹の死は、そうした勇気を僕に与えてくれたのである」
(註・麻布の屋敷の中心を成した米荘閣は、康次郎の出身地が滋賀の八木荘村だったことから文字って命名された。戦時中は外国要人向けの「大東亜迎賓館」として政府に借り上げられ、東条英機などが出入りしていた。章(3)冒頭に引用した、空襲を受けて焼け落ちた建物がこの米荘閣で、それを清二が再建した。昭和62〈1987〉年、このゲストハウスに竹下登、宮沢喜一、安倍晋太郎の宰相候補が集まり三者会議が開かれ、やがて首相(中曽根康弘)裁定により、後継に指名された竹下登はバブル期に頂点に上り詰め、昭和最後の総理大臣となった。)

バブル崩壊と合わせるように、不動産デベロッパー会社西洋環境開発の業績悪化が急速に表面化、セゾングループに債務負担が重くのしかかって経営を圧迫していく。その処理に、愛憎が激しく交錯した麻布広尾の屋敷を清二は手放した。
一説によると、堤清二はグループ経営悪化の責任を取って、私財百億を提供したといわれている(その大金も、五千億ともいわれる莫大な負債の前には焼け石に水でしかなかったようだが)。
参考までにその時代背景を簡単に叙しておくと、妹邦子の死去した平成9(1997)年に、当時の四大証券会社の一角で、ちょうどその年に創業百周年を迎えていた山一證券が自主廃業に追い込まれた(戦後最大規模の倒産であったといわれる)。また同じ年、北海道拓殖銀行が都市銀行として戦後初の経営破綻に陥り、翌年には日本長期信用銀行、日本債券信用銀行が経営に行き詰まり国有化された。金融大再編の始まりである。同じように日本興業銀行が富士銀行、第一勧業銀行に吸収される形で、現在のみずほ銀行となったのが平成12(2000)年であった。堤清二の経営引退は、いわゆるバブル崩壊後の「失われた十年」(もしくは二十年)と呼ばれる時代のの最中に行われたのである。

さらに時代をさかのぼれば、昭和から平成に代わったのが1989年1月、この年6月天安門事件が勃発、12月にはベルリンの壁が崩壊。中国の民主化、東西ドイツの統合がバブル崩壊を促したともいわれる。阪神淡路大震災及び地下鉄サリン事件の発生が1995年。その前年には大江健三郎が川端康成以来二十六年ぶりにノーベル文学賞を受賞していた。
「こうしてビジネスの世界を離れ、また身軽になってしまった時、僕にはもう、子供の頃から一緒だった身内は、一人もいなくなっていたのである」
1964年に37歳で父親と、1984年に57歳で母親と、1997年「幼い皮膚を擦り剥きながら成長した」たった一人の妹と死別した堤清二=辻井喬は、この時古希(70歳)を迎えていた。堤清二としての社会的役割はほぼ終えていたものの、辻井喬に関わる分野、すなわち詩、小説、評論、エッセイ、対談等の文学部門の全業績のおよそ半分を、この引退後に成し遂げるのである。


(以下、「彷徨の季節の中で」(7)につづく。)





 

自由人の系譜 辻井喬「彷徨の季節の中で」(5)

「彼が月子の喜寿の祝いをしたいと言い出した時、彼女は内心の喜びを押えて『私は厭ですよ、なんだかお婆さんみたいだもの』と辞退した。『それなら本を出していただいて、出版記念会というのはどうですか、僕も少し長い小説を書きましたから、その頃には本になると思います』
それが夏の初めで、月子はそれからせかれるように九冊目の歌集の編集にとりかかった。本の題名はそのなかの群作の名をとって『真澄鏡』と決めた」 
以上は、辻井喬の自伝三作目「闇夜遍歴」冒頭部分の一節から引いた。文中の彼が辻井喬(堤清二)で、月子が母の操である。長寿祝いは数え年で行なうのが慣例だとすれば、月子の喜寿(77歳)の祝いは昭和58(1983)年になろう。
彼の言う長い小説とは、自伝三部作の二作目「いつもと同じ春」のことであるし、確かにこの年、操の最後となった歌集「真澄鏡」も刊行されている。つまり事実通りである。

流通グループを率いる息子が帰宅しては夜な夜な詩人(や小説家)辻井喬に変身したように、母の操も歌人大伴道子という顔を隠し持っていたのである。
その操は、「彷徨の季節の中で」の母子三人が暮らす三鷹での冒頭場面にも、「母は源氏物語や、建礼門院右京太夫の歌集を愛読していて、自分も〈スバル〉という浪漫派の歌の雑誌に時々投稿していた。父が去ったあとの母は、落着いてふたたび自分の世界に戻り、私(病気で寝ている甫)の枕元で仕事(内職の縫物)をしていた」と描かれていた。
週に一度やってくる康次郎に内緒にしながら「スバル」社友となり、吉井勇を師と仰ぎ、大伴道子の匿名で投稿を繰り返しては、ひそかに「自分の世界」を取り戻していたのである。

操が「スバル」社友になったのは、昭和4(1929)年とあるので22歳の年になる。その前年に邦子が、前々年には清二が生まれていた(二人が操の実子であったならばのことだけれども)。したがって操の歌歴は古く、九冊目の歌集の時点でゆうに半世紀を超えていたのである(しかし「真澄鏡」が最後の歌集となった)。
操の長姉(?)雪子の夫、三菱の役員を務めていた義兄(荘素彦)の手引きにより、(義兄の友人だった)憧れの吉井勇との面談が実現し、吉井勇は操(大伴道子)の第二歌集「明窓」(1958年)に五首の序歌を贈ってくれた。そのうち二首が「闇夜遍歴」に紹介されているので転記する。
     うつし世に女(おみな)生れ道けはし君の歌見てふと思ふこと
     大いなる自然のなかに生きたまへ醜(しこ)の人の世歌に逃れて
周知のように吉井勇は、伯爵の家柄に生まれながらも歌の世界に放蕩を尽くし、いわば堤康次郎とは真逆の人生を送った人物である(康次郎の3歳上。この対面の二年後病没)。操の境遇を前もって義兄から聞いて同情していたのだろう、二首の歌調はそのことを如実に物語っている。

     君は世の風雲の児よむさし野のつゆの命のわれにふさわず
     明日の日は何を思ひて生きゆかむ夜更けてひとり思ひ煩ふ
こちらは操(大伴道子)の歌である。作歌生活四半世紀を経て昭和28(1953)年に極秘出版した第一歌集「静夜」に収載された三鷹時代の作品を辻井喬が「闇夜遍歴」序章に掲げたものであるが、この〈風雲の君〉が康次郎を指しているのはいうまでもあるまい。二首ともに囲われの身となって生きるしかなかった当時のやるせない心情がそのまま詠まれている。
このように「闇夜遍歴」という小説は、操の残した歌集を基軸に虚実二つの世界を行き来した母の生涯を再追認した物語であるのだが、それはしばしさておいて、この第一歌集「静夜」には、武蔵野(三鷹下連雀)での母子三人の生活を偲ばせる歌が数多く収められている。
     提灯をさげて草野にしのびゆくくつわ虫をば採るといふ子と
     いとせめて涙少なくあらしめと十二の吾子の行く末おもふ
     女てふいのちも壊れいまのこる骨にひゞけるかなしみばかり
     泣きわらひかなしき人の世にまじる事に耐へ得でひとり生くるも
     母上のおん哀れなりと子等泣けりわれはもすでに涙渇(か)れたり
     たまゆらを吾の見えねばもしやとて胸つかるゝよと子等言ふ哀れ
     母上よよくこそ耐へてと涙のむ子よかなしみは深きこそよし

「静夜」についてはエピソードがある。辻井喬の依頼で操の遺稿詩集「天の鳥船」を編纂した大岡信(註)に、かつて操が「歌集(「静夜」のこと)を出す費用にといって、清二がはじめての給料を私にぜんぶ出してくれたんですよ」と語ったいう。
「静夜」刊行は昭和28年なので、清二が衆議院議長秘書になった年である。ところが清二はこの事に関して、「親孝行のように聞こえるけれども、妹の出版の場合と同じく(註・このことは次章で触れる)、父親に対する異議申し立ての動機の方が大きかった」と述べている。母親への心配りよりも、文学方面に全く理解を示そうとしない(すなわちそれは母親や妹の気持ちを思いやろうともしない)父親への反抗心の方が強かったというのである。
(註・昭和6年静岡生まれ。東大卒。詩人、評論家。辻井喬の詩友。平成15年文化勲章受賞。)

大岡信は「天の鳥船」の解説に「静夜」から大量の歌を引例して、「これらの歌がいかなる説明にもまさって、一つの魂の赤裸な叫びと祈り、涙と誇り、不安と愛、絶望と憧憬、怒りと諦念をかたっている」と讃えているのにも、辻井喬は後年、異議を唱えた。「しかし、僕は身内であることによって、彼女の魂に叫びと祈りをあげさせている男に対しての感情が動いてしまい、それを乗り越えようとすれば、叫びの赤裸々な姿の前に立ち止まらざるを得なくなってしまう。辛ければ叫んでもいい、祈ってもいい、しかし冷たい言い方になるかもしれないが、作品にするためにはもう一回魂から発する光に屈折を与えるべきなのではないかと考えてしまう。そうしてその問題意識は、いつの間にか小説を書こうとする際の僕自身の葛藤そのものと絡まっている」(辻井喬「叙情と闘争」)。

そう述べて「彷徨の季節の中で」の執筆について、「父に死なれてみると、彼の生存中には自伝的な小説は書けないと思っていた考えの中に、いくつかの誤りがあったことが分かってきた。
書いたら怒られてひどいことになるだろうという恐さがなかったとは言えないが、それは書けないという状態の主要な原因ではないように思われ出したのだ。むしろ僕自身が書けない状態に落ち込んでいた気もした。父親を核に据えた家族に対して、それを客観化する姿勢と力が僕になかったのではないか。だから、ひどく突き放してしまって、血が通っていない人物像になったり、憤りが烈しくて筆が浮いてしまうという欠陥が見えてしまう恐れが、僕を表現の手前で立ち止まらせていたようなのだ」と当時を振り返っている。
母の作品の限界を見据えながら、それより数歩先を目指して辻井喬がきびしく自己を律して創作に取り組んだことがよくわかる文章である。それでいて、母の世界を認めていたのは「闇夜遍歴」に多数の歌を引用しているのでも瞭然であろう。

先に紹介した猪瀬直樹「ミカドの肖像」〈プリンスホテルの謎〉にも、ちょっと面白いエピソードが書かれている。
「日本が戦争に負けそうになっても、土地買いに走った男。無資本から借金経営でのしあがり、税金の支払いを極小にして資産をつくってきた男。・・・彼の晩年の執心は、軽井沢で冬季オリンピックを開催することにあった。・・・しかし、軽井沢での冬季オリンピックの夢を抱いたまま、堤康次郎は・・・昭和39年4月24日東京駅ホームで倒れ、二日後、心筋梗塞で死んだ。
堤康次郎は、東京駅で倒れる前日、次の歌を妻の操に示していた。
     うきことの尚この上につもれかし限りある身の力ためさん
この日、康次郎は、建築中の東京プリンスホテルを視察し、一部増設を指令して帰宅した。そのため、操は赤坂プリンスホテルの会議室で番頭たちと善後策を講じるべく、広尾の堤邸から出かけることになる。康次郎が、この和歌を綴ったのは、その矢先だった。

自伝(註・堤康次郎著「叱る」のこと。康次郎の死後出版された)のあとがきで、操はそのことをやや因縁めいたエピソードとして記述している。『〈(一部増設は)大変な難問題ですから、私の苦労が一つ増えました〉と申し上げたときの(略)あなたの和歌の応答の不思議さ。いつもなら『馬鹿』と一口大喝されるところでございます。何か今後へのご教訓をこの一首でされた思いでございます』
堤康次郎には、いわゆる歌心というものがなかった。しかし、西行の〈願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月のころ〉だけは、『たいていのものは幾度お教えしても覚えていただけないあなたなのに、これだけはいつも忘れずに覚えて』いたと操が回想している。そういう男が、死の前日にふと歌を詠んだ。そう錯覚した操は、異例のこととして印象深かったのだろう。しかし、この歌が江戸時代の儒者熊沢蕃山の作であることに、操は気づかなかった。
・・・〈限りある身の力ためさん〉というフレーズは、歌心のない康次郎にも、わかりやすかった。五反百姓がブルジョア階級に成り上がれるという幻想は、能力主義に対する全面的な信奉があって初めて可能である。能力主義は、康次郎に象徴される〈大衆〉の誕生と不可分なのだ」

このエピソードは、操がこっそり歌を作っていたことを、康次郎がそれまでに気付いていたことをも併せて語っているのであろうか。
和歌の歴史は古い。膨大な数の歌が残されている。そのすべてに精通するなんて、操ならずとも出来やしないであろう。それに蕃山(ばんざん)の歌はどこか求道的で何となく素人ぽい。見落としたとしても仕方あるまい。
ついでに付け加えておくと、(このことは既述したけれども)操は、この年の東京オリンピックに合わせて落成した東京プリンスホテルの初代支配人となった(義明の結婚披露宴会場となったホテルである)。また康次郎宿願の長野での冬季オリンピック開催は、平成10(1998)年に西武王国承継者義明が実現した。

むろんのこと、康次郎死去の場面は「闇夜遍歴」にも描かれている。
「小田村大助(康次郎)が死んだ日、月子は涙を見せなかった。医師が黙礼したのを受けて、彼女は確かめるように夫の胸に耳をつけ、もう消えた心臓の鼓動を追う仕草を見せた。十数秒の後に顔をあげると、力なく垂れた小田村大助の両手を持上げて合掌の形を造り、のろのろと布団を掛けた。その作業を終えると、月子は部屋の隅に置いてある椅子まで歩いていって腰を下した。総ては無言で行われた。急を聞いて馳けつけた蓮見志乃(石塚恒子)は、恐いものを見るように病室の反対側の隅から小田村大助を眺めて、声を立てずに泣いていた。彼女と二人の男の子(義明と弟)、・・・(周囲の)泣き声とは無縁であるような静けさが、月子の周辺に漂っていた。
由雄(清二)が注目していると、部屋のなかの何も見ていない月子の顔が次第に明るくなっていった。萎えていた風船に新しい空気が注入されてゆくように、五十七歳の彼女の顔から皺が消え、由雄がはじめて見るような若々しい表情が漲ってきた。彼女は周囲には無頓着であった」

「母親の顔がにわかに輝きはじめたのは何故だったのだろう。どんなに力を持っていても、人間は死ぬのだという当然のことに心を奪われていた由雄は、母親の光り輝く顔に胸を衝かれた。狼狽して右往左往する島月正二郎(長女淑子の夫)や林田悟郎(妹邦子の元夫)、本州地所、本州ゴム(いずれも西武の会社を指す)の幹部達の様子に気付いた時、由雄は十数年前に書いた小田村家への絶縁状を思い出した。自分は今日から完全に独立出来るのだと考えたのは、月子の表情の変化の連鎖反応であった。
由雄はただ自由になっただけであったが、月子の開放感は深く喪失の感情に彩られていたのである」

このあと、月子の歌二首が添えられて次のようにつづく。
     耐へて来し心いまひろびろし部屋にひとりを見据えて棲めり
     誰れよりも激しき歌をうたひ来しその筆いづへに置くべきものか
「亡夫を想う月子の歌は、死の直後の妖しい光が拭い去られた美しさに満ちて来たのである。蓮見志乃は、通夜の晩、喪主を彼女の上の男の子に決めたあとで、月子と二人だけになると『これからは何事もお義姉さまの御指図で良いようにお取計い下さいまし。私はぼんやりしていますし、子供もまだ大学を出たばかりですので由雄さんにも助けていただきませんと』と挨拶した。
由雄が家督を相続するのを辞退したので、月子の養子になっていた蓮見志乃の上の子が嫡子になったのである。由雄の主張は月子にとっても、その方が潔い態度だと納得のいくことであった。翌日の親族会議で、島月正二郎と林田悟郎は戸惑いと安堵の混った複雑な表情を見せて由雄の意見を聞いた。遺産の分配に心を奪われていた彼等は、まず共同して由雄を押えようと相談していたのであったから。由雄の方は、かつて書いたー小田村の家は継がない、遺された財産は何も貰いたくないーという文章はこういう時にこそ守らなければならない、それは若い頃の自分への証しだ、と心に決めていた。と同時にそれはまた父親に対する最後の抵抗だったのである。

小田村大助の墓は、自分で計画して造った鎌倉の公園墓地に置かれた。残された者が、ピクニックに行く気分で墓詣りができるようにというのが、彼の発想であった。その一番高い場所に、黒の御影石を敷きつめ、人々はそれを〝土地持ちの帝王の墓〟と呼んだ。戒名は清浄院釈大信士、享年七十五歳であった」
「闇夜遍歴」は、自伝とはいえフィクションも多く混じっていようが、この康次郎死去に関わる一連の文章などは事実に近いのではなかろうか。
余分なことながら、帝王の墓についてはそれ以後、ピクニック気分どころか、西武グループ各社の輪番制で365日1日も欠かさず、墓地に建てた仮小屋に課長以上の幹部社員二、三人ずつが、泊り込んで墓守りに当ったとの信じられないような話が伝わっている。康次郎を慕う古参社員によって始められたのが慣習となったのだという(義明の逮捕まで続いていたのだと思われる。ただし清二の流通グループは不参加)。

さて、そろそろ康次郎の死を見送った二人の女、堤操と石塚恒子の死について触れなければならない。
この文章初っ端に記したごとく、「由雄が喜寿の祝いをしたいと言ってきたのを断ったところから、親子(月子と由雄)で共同の出版記念会を催すことになった」のに加えて、ちょうど「巴里在住の娘久美子(邦子のこと)の『パリ・女たちの日々』が文化出版局から上梓され」ることになったので(註)、急遽、親子三人の名目に変更して邦子不在のまま、「彼女(月子)や由雄の親しい作家や評論家、音楽家や絵かきが集まっ」て、出版記念会が開催されたのは「月子の誕生日の11月23日」であった。月子(大伴道子)は短歌同人誌「紫珠」を主催していたので、同人の編集委員も全員出席していた、とある。
(註・堤邦子著「パリ、女たちの日々」は、叙述通り昭和58年9月に文化出版局から刊行されている。)

「彼女にとっては、集まった総ての人と心を開いて話し合える会合は、ひさしぶりのことであった。異腹の二人の男の子達が、折よく揃って出席してくれたのも嬉しかった。彼等の顔を見ると、自分が小田村の家の未亡人としての役割を果している実感が湧いて来た。『家族が合同で出版記念会をするのは珍しいですね』という来客の率直な感想は月子を喜ばせた。育て方を褒められているような気がしたのである。
由雄が、『今日の会は実は母の喜寿の祝いでして、それを本人が喜ばないものですから』と経過と趣旨を打明ける短い挨拶をした。彼女は実際よりも十五、六歳は若く見えたから、由雄の話は冗談のような楽しい効果をあげたのである」
この叙述から義明兄弟(実際は三人だが、一人はこの時期カナダにいた)も出席していたことが推察できる。義明の母恒子も美人だったが、操はひときわ目立つ容貌の持ち主だったようだ。
大岡信も、西武デパートの催事場ではじめて目にした五十代の操について、「彼女が信じられないほど若々しい美貌の人であることに驚いた。その日のことはほかには何一つ記憶にない」と、「天の鳥船」解説にわざわざ記している(ほどだ)。

堤操の人生に終幕が下ろされたのは、この宴より一年後であった。「手術をすることになっても、月子は自分が死病に罹っているとは思わなかった。結核になったことのある者は癌にはならないと信じていたからである」。病名は胃癌であったが、操には胃潰瘍の手術と告げていた。
一縷(いちる)の望みを託した手術は短時間で終わった。「砂利を敷き詰めたよう」に癌細胞が拡がっていて、手を付けられなかったのである。
     思ひ重ねて咲きたる花かかげ清く足摺野路菊聴くや波音
術後のこの歌が絶筆となった。足摺野路菊については、由雄が月子に喜寿祝いの相談を持ちかけた「闇夜遍歴」冒頭場面に次のように描かれている。

「晩にはその会合(合同出版記念会)がある日の朝、彼女はいつもより早めに起きて庭に出た。池に降りる南向きの斜面に菊が眩いばかりに咲いている。たくさんの白い花をつけた茎が垂れて、腐植土を覆い隠すように拡り、朝日を受けて何か物言いたげな風情である。かたわらに〝足摺野路菊〟と名刺大の札が挿してあるのは、中学校に通うようになった由雄の子が植物の名を覚えるようにと彼女が書いたものだ。いつの間にこんな大きな株になったのかと月子は足を止めた。菊は鮮やかに、誇らしげで、それでいて何処となく淋しげである。眺めていると、朝なのに風が吹いてきて欅(けやき)の葉が一斉に花の上に落ちかかった。細かい黄ばんだ葉が、思い思いの散り方で身を翻したり、透明な空気に遊んだりして視界を横切った。明るい朝だ、と月子は思った」

この印象的な描写は、「闇夜遍歴」エピグラムに使われているリルケ(註)の詩とも対応する。その詩は、
     木の葉が落ちる  木の葉が落ちる
     まるで遠くから降るように
     大空で  いくつものはるかな庭が枯れたかのように
     木の葉が落ちる
     拒む身ぶりで  ひるがえり落ちる
というものだ。欅の葉が足摺野路菊の花の上に散る様は、この詩と相まってあたかも彼女の死を愛惜しているかのようである(小説ラストで同じ情景が繰り返し叙述され、母の物語は幕を閉じる)。
(註・リルケはオーストラリアの詩人、作家。1875年〜1926年、51歳没。)

気を利かせて月子の好きな足摺野路菊を病室に持参したのは、由雄の妻和子(清二の再婚相手麻子)である。上文の中学生になった由雄の子とあるのは、麻子との間にできた次男で、前妻(素子)の生んだ長男とともに、清二の二人の息子も異腹の兄弟となったのである。
「明後日は手術だと決った晩、最終検査のため入院していた病院から外出許可を貰って今度は由雄と和子、それにもう大学を卒業して本州食品にかよっている上の孫と、和子が生んで中学生になった下の孫の二人を呼んで月子は食卓を囲んだ」
親子三代水入らずの最後の晩餐であった。場を盛り上げる楽しい語らいの後、「由雄さんは忙しいから、病院の連絡はあなたにたのむわよ」と、月子は上の孫に声をかけた。生母とは別れて育った長男であったが、立派に成人したと彼の様子を眺めて月子は嬉しかった、と描かれている。康次郎のいない家庭は円満だったのである(註)。
この席で大岡信に依頼した詩集の題名を「天の鳥船」にするつもりだと、月子は由雄に打ち明けている。
(註・「彷徨の季節の中で」には、「麻布には父の家族は存在したが、私のための家庭はなかった」とか「父にとって家族はあるが、私達には家庭がないということであった」と、二度も主人公甫に言わしめている。)

「その日の夕方から、月子は深い昏睡に陥った。枕元に座っている由雄は、時々月子が何か言いたげに口を動かすのを見た。・・・彼女はせわしない呼吸をつづけていた。看護婦が入って来て血圧を計り、ちらっと時計を見てあわただしく出ていった。『お呼びになる方がありましたら、至急、ご連絡下さい』と戻って来て言った。医師が現れ、心電図のコードが月子の腕や胸に繋がれた。ブラウン管に現れる鼓動の波が次第に低く間遠になっていった」
堤操こと小田島月子の臨終の描写である。昭和59(1984)年11月17日のことである。堤操の死は「七十七回目の誕生日の六日前であった」。堤清二57歳、偶然にも操が康次郎を看取った年齢と同じであった。

「天の鳥船」解説文に大岡信は、やはり上記の足摺野路菊の歌を引いて、簡潔に大伴道子の死を悼んでいる。
「足摺野路菊は堤邸の庭の一隅に植えられている可憐な野菊の一種である。病床でその花を思いえがきながら、〈聴くや波音〉とよびかけた時、彼女はすでに、迫ってくる死の波音を耳にしていたのかもしれない。一緒にお聴き、と可憐な花によびかけていたのかもしれない。彼女は死に望んで、葬儀はできるだけ簡素なものにするよう言い遺したときく。実際、自邸で行われた通夜も告別式も、簡素そのものだった。そして私は、この小文を書くことによって、私が知っていた大伴道子という歌人に、やっと私の香華をたむけることができたような気がする」(1985年1月記)
躊躇する操を説き伏せて生まれた詩集は、思いがけなくも母への手向(たむ)けとなったのである(註)。
(註・この詩集とは別に清二は、このあと母の全集「大伴道子文藻集成」全六巻を文化出版局から出して追悼した。)

一つ蛇足を加えれば「暗夜遍歴」は、新潮文庫廃版後2007年に講談社文芸文庫となって再刊された。それに「著者から読者へ」という新たな添え書きがある。
「僕の母は一九八四年、夫の死後二十年経って他界した。もっとも素朴な願いとしては、少なくとも母が夫の極道で苦しんだ年月だけは一人で自由に生きてもらいたいと僕は考えていた。そのためには九十一歳まで生きてもらわなければならないのだが、それがそれほど困難ではない長寿社会になっていたのである。結局その願いは果せなかったのだけれども」
この考えは、小説中でも母に面と向かって述べられ、即座に母から打ち消されているのであるが。それほどに辻井喬の母に対する憐憫(れんびん)の情が深かったのであろう(また、この発想は、そのまま「虹の岬」での主人公川田順が妻俊子と共に過ごすべき長い歳月を思いやる場面と重なる)。

「新盆に集った人達と相談して、由雄は月子の墓を小田村大助の近くに作ることに決めた。同じ墓であれば気詰りだろうし、彼も母親を小田村大助からは離しておきたかったのである。かといって、全く別の場所であれば淋しいに違いない。気がむけば会いに行ける場所として、・・・鎌倉の墓所の一角を提案した。小田村大助の墓の斜め下に位置して、遠くに相模湾を望む場所である。同時に、月子の自由を確保する証しとして歌碑を建てたい、と話した。・・・
     なきやすくなりし心をいたはりて山に来し日よ山に雪ふる
雪の日、この歌碑は月子の代りに此処に佇立しているのだと思われた」

これより前、闘病中の月子を伝える次の記述がある。
「毎日、月子は思い出に浮ぶ人の記憶を少しづつ由雄に語った。小田村大助の話をする時だけは、由雄の胸中を慮って表現を選ぶ心が動いた。自分がいるのに、貝塚市子(康次郎の二番目の妻、川崎文)の籍を入れた経緯を話した日、由雄は『そうだったんですか。でも大将は彼なりにその頃大変だったんじゃないですか。やはり、お母さんのことを本当は一番大事に考えていたんだと思いますよ』と意見を述べたが、そう言われてみると月子は急に不愉快になった。私の胸中がよく分っていないから、そんな小賢しい言葉を吐けるのだ、由雄もいつの間にか俗物になった、と落胆して横をむいた。病室にしばらく無言の時が流れた。月子と小田村大助の関係は、どんな言葉で解説しても不正確になって、彼女を不快にさせる毒と美徳を備えていたのであった」

康次郎と文の結婚は大正4年だとされているので、その時操はわずか8歳のはずである。アレ?と思って小説前半を読み返すと、「月子(18歳)を得た時、小田村大助は三十六であった。すでに衆議院議員になっていた彼」にとって「予想外の出来事は、貝塚市子が彼女の存在に気付き、憤慨して執拗に入籍を要求しはじめたことであった。それまで彼女は男女両性の平等を唱えて、入籍によって姓が変ることに、どちらかといえば消極的であったのである」と書かれてあったのを忘れていたのである。
これは事実か否か?またこの後にはこう書かれる。
「やがて月子は男の子を生んだ。・・・二番目の子の久美子(邦子)も生れて・・・石女であった市子は顔を合せると従来にも増して入籍を迫るようになった。止むを得ず婚姻届に印を押した」とあり、「晩年になってこの時のことを月子は、『その程度の人かと分ったから、もう私は何も言わなかったのよ。でも、それからというもの、私は決して心を開くことはなかったわ』と由雄に語っ」ている。
とするなら、康次郎と文の入籍は(邦子の生まれた)昭和3年以降ということに?(しかし、いくらなんでもこれは小説上の虚構であろう)。

そして由雄は左翼運動に挫折した体験に引き寄せて、その時の貝塚市子の身の上を思いやるのである。
「相手(小田村大助)を非難しようとすれば、天に向って唾するように、それは自分(市子)にかかってしまう。どうしてあんな男と、と思えば、そんな男を愛した愚かさが浮彫になる。
最初の結婚に失敗した由雄には、貝塚市子が持てあましたであろう、どこへもやり場のない腹立たしさが他人事とは思えず、母親(月子)には言えないが、もしかしたら市子の方が小田村大助より上質の人間だったのではないかと考えたりしたのである」
「長い戦争のなかで事業を発展させて来た小田村大助の立場は、いつの間にか彼が政界に出た頃とは似ても似つかないものになっていた。・・・彼女(市子)の脳裏をゆき来する想いが、かつて自分達が理想とか思想と呼んでいたものが、結局虚しい幻影に過ぎなかったという感慨であったとしても不思議ではない。そのなかから聞こえてくるのは、老いが、静かに足下を濡らす音であったろう」

それにもまして重要な問題は、清二と邦子の出生のことである。操が二人の本当の母親ではないのではないかと、ほとんど確定的に「彷徨の季節の中で」で描かれていたのとは対照的に、「闇夜遍歴」では上記のようにあっさりと月子の生んだ子供とされている。病床の母の枕元に付き添いながら、由雄(現実の堤清二)はいったいこの問題とどう向きあっていたのだろうか?
貝塚市子の入籍に関わることが創りごとめいているのに対して、出生の件は操が実母ではないという真実を逆にぼかしているのでは、と想えて仕方ないのであるが。自分も妹も母の子ではないという出生の秘密が確信として作者に想起されていなければ、主人公の父親の非人間的放縦さを強調したいがためだとしても、母と子という人間の根幹の絆を断ち切るようなことを、どうしてわざわざ処女作「彷徨の季節の中で」に描かねばならなかったであろうか(一転、自伝最終作「父の肖像」では母親が別に存在することになっている)。

操の死から約四半世紀後の平成21(2009)年、辻井喬は前述「辻井喬+堤清二回顧録 叙情と闘争」(中央公論新社刊)を著した。そのなかに〈母の死〉及び〈歌人 大伴道子〉と題する二つの文章を載せている。
そこに書かれていることは「闇夜遍歴」の内容と大差はない。つまり、小説はほぼ事実をなぞっている。操には半年ごとの定期検診をしてほしい、と言ってあったが、母はそれを面倒臭がって一年半も怠っていた。妹のいるパリへ行ったり、主催する短歌同人誌の会合などの母自身の多忙と清二の代わりに地方の店のオープンセレモニーや企画美術展のテープカットや挨拶に出てくれたりして、検診がおろそかにされていた間に病状(胃癌)は悪化し、すでに手遅れになっていたと。そして〈母の死〉はこう結ばれている。

「僕は、聞き出せるうちに母の子供の頃の体験などを聞いておかなければ、と急(せ)き立てられるような気持ちになった。母が死ぬということは、彼女が抱えている思い出が完全に消えてしまうということなのだから。
覚悟の時間が与えられていたからだろう、母が息を引き取った時、僕はこれで何をしても親不孝にはならないという、妙なことを考えた。親の死は、悲しみと共に一種の安堵をもたらし、同時に、自分が生きている者の最前列に立たされてしまった、という意識を与えるものであることを知った」
これは辻井喬81歳の文章だと思われる。さてこの文章の、「何をしても親不孝にはならない」という言葉をキーワードに、やはり清二(と邦子)は操の実子ではなかったのではないかと憶測するのだが・・・。
「覚悟の時間」云々と断り書きがあるものの、それが即「何をしても親不孝にはならない」との言葉の間には、何の起結も整合性もないように思えるからである。それこそ「妙なこと」でしかない。

母の死は悲しみと同時に、自己抑制を強いていた母への孝心からの解放を辻井喬にもたらしたのではなかったか。つまり、実母でないと知ったがゆえにつきまとって離れなかった無意識の(あるいは意識的な)〝遠慮心〟からの解放感を。すなわちそれが親の死がもたらした「一種の安堵」の正体だったのでは?
そもそも振り返ってみて、若き辻井喬(堤清二)が父親に反逆を重ね、共産党に入党して左翼活動に浸り、親の反対を押し切って結婚したりしているのは、母への「親不孝」とは感じていなかったのだろうか?そんなことを考えたりしていると、やはり〈母の死〉の一文は、「妙なこと」にしか思えないのであるが・・・。
それとともに、この時母から聞いたのは、果して「母の子供の頃の体験など」だけであったのだろうか。「など」の中にはどういう内容が含まれていたのだろう?(しかし、この詮索そのものがそれこそ妙なものでしかないのか)。

もう一つ〈母の死〉には、必死に検査を勧める清二に操は、「(体調不良は)ちょっとした食べ合わせだと思うのよ。月末にカナダに行く予定があるから、それを終えたら検査しますよ」と言ってなだめた。操のカナダ行きの理由は、このように説明されている。
「堤康次郎が残した家族の構成はかなり複雑であったが、その中で母の系列には僕と妹の邦子とがいて、それとは違う系列には男ばかり三人の子供がいた。父親の死後、そちらの長男が家督を継いだのだが、彼は猜疑心が父親譲りで強く、出来のいい二人の弟をことごとく圧迫し、末弟は兄の抑圧を避けてカナダのトロントでホテルの経営を見ていた。僕の母は、戸籍上も妻になっていたので、系列は違うのだが、その弟たちのことも気に掛けねばならない立場に立たされていたのである。彼女のカナダ行きはその末弟を励ますのが第一の目的であった」
しかし、検査の結果は最悪だったので、カナダ行きは中止になった。
なお操が入院して死去した東京女子医科大学病院は、清二が生まれた病院だったというのも奇しき縁(えにし)であったか。

石塚恒子の死については、恒子の三人の息子たちも(物書きでもないので今のところは)何も書き残してはいないようだ。頼りの辻井喬の著作にも読んだ限りではなかった。例の中嶋忠三郎がほんのちょっぴり触れているだけである(後述)。仕方なく西武関連本を可能な限り読み漁っていたら、桐山秀樹「プリンスの墓標」(2005年新潮社刊)に記述があった(この本にも〈堤義明 怨念の家系〉と、おどろおどろしい副題が付けられている)。
「1984年(昭和59年)11月23日の昼、赤坂プリンスホテル別館の料亭〈弁慶橋・清水〉で義明と懐石料理の昼食を共にしている最中に恒子は意識を失う。救急車で慈恵医大病院に運ばれたものの、二日後の25日、〈くも膜下出血〉で死去した。関係者の証言では、康弘、猶二らと義明の血を分けた兄弟の対立が続き、それが母・恒子にとって大きな心労になったとも言われている。ともあれ、赤坂プリンスホテルは、堤義明にとって父と実母を共に亡くすきっかけを作る〈館〉となった」

二十年前のその日、康次郎も赤坂プリンスホテル(註)での「堤を囲む都会議員の会」に出席して、料亭「弁慶橋・清水」で議員たちと昼食をとりながら懇談した後、恒子同伴で熱海の別荘に向かう途中の東京駅で、突如心筋梗塞をおこし帰らぬ人となっていたのである。
「恒子の葬儀と告別式は芝・僧上寺で行われ、八千名の会葬者が集まった。その後、石塚恒子は郷里である新潟県安田町の大医山瑠璃光院に葬られた。ここでようやく〈堤恒子〉と名乗ることを許されることになるのである」
今一度、さかのぼって堤操の命日を確認して欲しい。互いに康次郎の子を成して(清二と邦子が操の実子と想定して)表面上は仲良く見せていても、その実、決して心を許してはいなかったであろう二人の女人は、わずか一週間の間に相次いで旅立ったのである(しかも恒子が倒れたその日は、操の誕生日である!)。恒子は操より六歳下だったのだから71歳であったと思われる(義明は50歳)。
(註・赤坂プリンスホテルは2016年の昨夏、東京ガーデンテラス紀尾井町に生まれ変わった。)

桐山秀樹は「恒子の大きな心労」について義明の下の弟猶ニの談話を引いて次のように説明している。
「僕が手掛けたカナダ・トロントのプリンスホテルの経営立て直しに行けと言われた時、豊島園の兄(康弘)が心配して〈今のうちに分家してもらった方がいいんじゃないか。俺が一緒に話をしてやる〉と第二夫人を住まわしていた荻窪の池畔亭に連れていってくれたのです。そこで康弘が〈自分は豊島園、弟は高輪プリンスホテルでどうですか〉と言った途端、ガーンと爆発して、そばにあった饅頭を〈食べろ、食べろ〉と頭を押えつけて僕の口に突っ込んだのです。もう口を聞くなということなのでしょう」
康弘と猶ニは兄に口答えをすると、その場で康次郎から殴られるという絶対服従の教育で躾(しつけ)られてきたのだという。

饅頭事件の後、猶ニはカナダへ行った。その「猶ニの処遇を巡って、義明が唯一逆らえない実母の石塚恒子が直接、説得することにな」り、上記の会食がセットされたようだ。向かい合って昼食をとりながら、「猶ニの話題になって恒子が〈今のままではあんまりよ。プリンスホテルの社長にでもしてあげたら〉と言ったところ、義明は激怒し〈余計な口出しはするな〉と言った。その言葉に恒子はショックを受け、〈寒い、寒い〉と言ってその場に倒れこみ、二日後にくも膜下出血で息を引き取った」というのが、関係者の証言のようだ。
「うちのお袋は、非常に物静かで、興奮する人ではありませんでした。それが興奮した結果くも膜下出血になってしまった。前会長(義明のこと)がお袋を怒らせたのか、興奮させたのか。いずれにせよ、なぜそうなったんだという悔いはありますね。まあ、その場にはお袋と前会長の二人しかいませんでしたから、真相は分かりませんが・・・」

操のカナダ行きもこれで納得できるであろう。兄弟の中で最も優秀だといわれた猶ニに、義明が病的に嫉妬してカナダへ追いやったのだともいわれている。操は自分の検査を引き延ばして、事態の収拾に動こうとしたのであった。それを知っ(てい)た恒子も操の葬儀が済んで、じっとしてはいられなくなって義明を諌(いさ)めるつもりの会食だったのだろう(猶ニは結局、異母兄清二の仕事を手伝うことになる)。
上文に「第二夫人云々」とあるのは、義明の愛人がそこに住んでいたという意味である。桐山秀樹の「プリンスの墓標」では、かなり大ぴらに父康次郎に負けず劣らずの義明の女性関係なども書き込まれているのである。だから、「堤義明 怨念の家系」なんて副題が付されているのであろうが、それらをここに一つ一つ述べるゆとりはないし、そのつもりも元々ない。

が、しかし、独裁者となった兄義明と訣別した、康弘の次の述懐をどのように解釈したらよいのであろうか。「肉親には〈吝嗇〉(りんしょく)を徹底する一方で、義明は自ら関係する女性には徹底的に甘い」と関係する女性への厚遇の実例を記した後、桐山秀樹は次のように続けているのだ。
「〈あの男が、女性にケチケチしないのは、そこに安らぎや安心感を覚えるからです〉と康弘は言う。康弘は兄・義明がとる同じ肉親とは思えぬ異常な言動に、生前、母・恒子に対して、こう詰めよったことがあるという。〈母さん。あの男は本当に僕らの兄弟なの。母さんの子供なの〉
名前からも疑問を感じると、康弘は語る。〈私の名前の康弘は、父親の康次郎から一字もらったものです。猶ニも祖父の直次郎(註)から一字を取りました。その〝次〟という字を間違えて〝ニ〟と申請したというのですが、それもおかしな話です。何より、三男なのに何故〝ニ〟なのか〉
義明が自分たち兄弟の長男であることに対して、疑念を捨て去れなかったという」
確かに義明だけ名前の由来がはっきりしない(この事実をどう捉えたらいいのだろうか)。恒子は康弘に何と答えたのか?ちなみに義明(1934年生まれ)、康弘(1938年)、猶ニ(1942年)の三兄弟は、それぞれきっかり四歳違いである。
(註・康次郎の父親、猶次郎の間違いであると思われる。)

最後に、再び中嶋忠三郎の記述を引いて締めくくろう。
操の通夜の席で「操夫人のお墓は、どこに建てるのかな、大将のお墓にするのかな」ということがささやかれた。「それは良くないですね。傍に建てるべきではありませんよ。操夫人のお墓を傍に建てるとなると、同じように貢献された恒子夫人のお墓も傍に置かなければならなくなる。霊園内に建てるとしても、少し離れた場所に建てるべきですね」と中嶋は反論。その中嶋と上記清二の意見は不思議と一致している。「操夫人のお墓は、結局、堤のお墓から少し離れた所に建てられた」。
「操夫人が亡くなられて十日も経たぬうちに、今度は恒子夫人が後を追うように亡くなられた。こちらは、操夫人の傍というわけにはいかない。結局、新潟の郷里の墓地に埋葬されることになった。この件については義明の弟康弘が随分骨を折ったという。東京での葬儀、告別式には、新潟からもお坊さんが上京して参加され、芝の増上寺で盛大に行われた。私は、あの世で、両夫人が、堤の直ぐ傍で相争わずに済んで良かったな、とホッとしたのであった」

大将(御大)の尻拭いばかりさせられていた中嶋忠三郎にとって、「表向き、バランスを保ってはいたが、妻妾間の憎悪、女同士の怨念というものには、実に恐ろしいものがあった。総身に身の毛のよだつようなことに出くわしたことも、度々あった」としても、文夫人、主君康次郎、操夫人、恒子夫人を順繰りに見送ることになったのは、忠臣中嶋忠三郎にとって深い開放感と感慨のうちに一抹の寂しさをも、同時にもたらしたのではなかったか。辻井喬が母親の死に感じた解放感とは違った意味で。


(以下、「彷徨の季節の中で」(6)につづく。)
     



 

自由人の系譜 辻井喬「彷徨の季節の中で」(4)

「彼の秘書就任を待っていたかのように、議長が正妻でない女を連れて宮中に参内した、という噂が拡った。対応を誤れば、由々しい政治問題になりかねない困難が、小田村大助議長を襲ったのである。
『貝塚市子の仲間が言い出したに違いない』小田村は公職に就いたために、事業を進める際のように、腕力で捩じ伏せることが不可能な敵が現れたことに、遣り場のない鬱憤を見せて呟いた。四角い顎の張った顔が、珍しく苦渋に彩られて、感情を爆発させる対象を探している。
敗戦の直前に珍しく訪ねて以来、貝塚市子とは更に疎遠になっていた。病気のこともあったし、占領軍の民主化政策が貝塚市子達を主役として舞台に乗せるほどでもないと分って、ほとんど忘れたような存在であったから、思い出したくない過去が、急に顔を出したような忌々(いまいま)しさに小田村は捉えられた。
『六条御息所がいるのね』月子はつとめて軽く(私はそんなこと気にもしていませんよ)と報(しら)せるような、明るい表情を作り、源氏物語の生霊の名を引用して応答した。私が耐えているのにかまけて、大事な問題をなおざりにしておいた罰だわ、と月子は言いたかったのだ」

辻井喬の自伝三作目である母の物語「闇夜遍歴」から引用した。小田村大助が堤康次郎、貝塚市子が康次郎の二人目の妻堤(川崎)文、月子が康次郎の内妻青山操である。冒頭の彼が堤清二(小説名由雄)である。
これは昭和28年に現実に起きた事件で、康次郎は宮中での議長就任認証式に操を随伴したのである。そのことが洩れ伝わって婦人運動家達が問題視したのであった。別居しているとはいえ、康次郎には歴とした正妻がいたのだから、康次郎の失策であった。
この危機を収束した一人が、私設秘書になったばかりの清二だった。「闇夜遍歴」のその描写。

「会社から国会に連れて来た秘書は、こういう問題に経験がなく大将への遠慮や恐れもあって狼狽するばかりであった。小田村大助は無言のまま由雄を見た。彼は父親に試されているのを感じた。革新的な団体と議論し交渉できるのは病みあがりの由雄しかなく、小田村はそのことを知っているのだと彼は直感した。期待されている役割を果すのが、世の中に出た者の務めなのだ。由雄は父親の目のなかに世間を見た。
『僕が交渉してみましょうか』と彼は低い声で言った。堰き止めていた仕切りのようなものが壊れ、濁った水が体内を静かに浸して来た。何だろう、どうしてこうなったんだろう。由雄はじっと内側に目を向けながら、衆議院議長室の大きな革張りの椅子の前に立っていた。小田村大助は細めた目の奥に相手を試す光を隠して『そうか、まあやってみてくれるか』といくらかの躊躇を語尾に漂わせて依頼した」

学生の分際でありながら堤家(父親)との義絶を宣言し、共産党に入党していた息子の協力を心の片隅で待ち受けてはいたものの、全幅の信頼がおけずに半信半疑で交渉を任せざるを得ない小田村大助。父親の意をいち早く読み取り、心ならずもそれに応えざるを得ない立場の由雄。互いの思惑が交錯して緊迫の場面である。
どのように由雄が解決したのかが、この後簡潔に述べられている。
「婦人団体との交渉の結果、反省の実を示す適切な慰謝料を支払えば、もう済んだことであるし、これ以上の追求はしないとの約束を取り付けたのは由雄であった。貝塚市子も戦後、新しく婦人運動に参加した者からは脱落者と見られていたので、この程度で済んだという事情もあったのだが、由雄は一応事態収拾の功績を立てたことで、父親が自分に従来にも増して警戒心を持つようになったのを感じた。由雄は『議長には私としても充分に反省を求めるつもりでいます、皆さん方の憤りも理解できますから、しばらく時間を貸してくださいませんか』と述べて相手の気勢を殺いだのである。交渉がうまくいけば月子が正妻になるのを、由雄はあまり大きなこととは考えていなかった。籍が入ったからといって、家の中での状態が変る訳ではない」

つまり、皇室不敬事件を機に文との離婚が成立し、青山操は康次郎の三番目の妻となったのであった。この離婚劇はこう説明されている。「立憲同志会の創立メンバーに参加して政治家としての歩みをはじめた小田村大助の回心は完成した。見方によっては小田村大助が婦人運動家であった貝塚市子に渡した離婚のための慰謝料は、回心の費用であった。〈別れた妻に八百万円贈る〉という見出しの記事が新聞に載った。当時としては異例な大金であった」と。
元々、堤康次郎は大隈重信の立憲同志会からスタートして政治家となり、議長になったのも吉田茂内閣に対抗して全野党の推挙で就任したのであった(つまり反主流派に属していた)。ところが乱闘国会の中で康次郎は、法案成立を目指す吉田茂の保守本流に寝返ったのである。この瞬間に、堤康次郎のなかで「事業家と政治家との合体が実現した」。すなわち「小田村大助の回心」である。


ここにもう一冊、この事件を扱ったとっておきの実録本がある。本稿章(1)で触れた中嶋忠三郎「西武王国 その炎と影」である。婦人団体との交渉をまとめたのが清二なら、中嶋忠三郎は西武グループ顧問弁護士として、もう一方の当事者である貝塚市子に離婚を要求した人物である(以下、記述は同書より)。
中央大学法科を卒業して判事や領事を歴任してきた中嶋は、終戦後に外地から引き揚げるや西武鉄道に入社した。家庭の事情で進学を諦めかけていた中島がちょっとした動機で堤家を訪ねた折、赤の他人ながら学費の面倒をみてくれたのが康次郎であり、その口利きをしてくれたのが文夫人だった、という若き日の恩義があったからである。
以後、中嶋は康次郎の側近となり(年齢は康次郎の一回り下)、西武グループの意思決定機関「火曜会」にも出席していたので操とも身近にいたけれども、それ以上に文夫人は頭の上がらない恩人だった。

こともあろうにその中嶋に、康次郎は文夫人との離婚交渉を命じたのである。身を切られるような辛い役目だったが、実行せざるを得なかった。
この時、康次郎は秘策を中嶋に授けた。それは「まず初めに文と離婚し、操を入籍する。そして三年後に操と協議離婚し、今度は恒子(堤義明の母)と結婚する。前々夫人や前夫人に悪いから、平等の原則で、恒子とも三年後に協議離婚する」というもので、そうすれば子供達はみな堤の嫡出子となり、熾烈かつ陰湿な正妻の座を巡っての女の戦いも一件落着となるではないか、という恐るべき論法である。
上記「火曜会」について補足しておくと、メンバーは康次郎、操、義明、清二、西武鉄道社長小島正治郎(長女淑子の夫)、西武化学役員森田重郎(次女邦子の元夫)、グループの経理担当役員宮内巌であった。注目すべきは席順で、清二より義明が上席であることだ。

「いずれ来る話とは思っていたけど、中嶋さん、あなたを遣(よこ)すとはね。随分残酷な人だわ」。最初は何と説明しても話にならず、説得に手こずった。中嶋は、康次郎の筋書きを打ち明けて、子供達もこのままでは私生児になってしまう、責任をもって慰謝料もはずませると約束した。「その頃、お文さんは椿山荘近くの小日向台町に住んでいたが、『ここにいつまでも住めるようにしますから』とも」話して、承諾を求めた。家も、夫人名義のものは一軒もなかったからである(破れた靴下を履いていたとの証言もある)。
こうして、康次郎の長女淑子と長男清の育て親となった文との、三十八年に及んだ結婚に終止符が打たれたのである。小説通り慰謝料は八百万円だったという。「当時、三十万から五十万が相場であったから、かなりの振る舞いであった。昭和二十八年のことであった」。
ところが、それから二年後に文は没した(病名不詳)。康次郎より二歳年上(中嶋は五歳年上と記している)だったというから、68歳だったのか。中嶋の懇請もあって文の葬儀に、「花輪なんか贈るのはよしなさい」という操の反対を一喝して康次郎が出席してくれたとあるのは、文が康次郎から性病をうつされ35歳頃より松葉杖が放せない身となっていたことも考えあわせれば、当然の弔いであったろう。中嶋は記す。「(その時の操の言動に)私は、女の怨念、確執に鳥肌の立つ思いがした」と。

さらには、「私がお文さんと昵懇(じっこん)であったためであろうか、私は操夫人には疎(うと)んじられた」とか「私がお文さんから子供のようにかわいがられたり、それに秘密もいろいろ知っている。それで操夫人は、私に憎しみを持っていた」、「恨みを抱いていた」とも。
麻布の屋敷に呉服屋が来て、操に康次郎が着物を買い与えている場面に中嶋が鉢合わせした。「ついでに『中嶋の奥さんにも・・・』と堤(康次郎)が言うと、『中嶋さんには買ってやらなくてもいいわよ!』と、操夫人は柳眉を逆立てて反対した。堤が『何を言うか!買ってやるのだ!』と叱って、私の家内にも買ってくれたこと」も、その一例に挙げている。
操が正妻になって、約束の三年が経過しても離婚に応じようとしない、これでは恒子に嘘をついたことになると康次郎に面訴されたが、いくらそのような入籍契約を操と交わしていても、この件ばかりは中嶋もどうしようもなかったらしい。公序良俗に反する契約は、法律的に無効と判断されるからである。

事実は小説よりも奇なり、を地でいくような話である。
操とは反対に義明の母恒子については、文夫人同様に「お恒さんも立派な人であった」と、中嶋は好意的である。「操夫人を立て操夫人の顔色を窺いながら」、「操夫人に気遣いするだけでなく、一歩も二歩も引き下がって、控え目にしていたし、私等にも、良く気を遣ってくれる心の優しい人であった」と。
それでも「最も温和に見えるお恒さんすら、ふと、『操とは私が控え目にやっているから仲良く出来るのよ』と漏らした程の、女の意地の張り合いがあった。それらの見えない複合気流が堤家に索漠として漂っていて、堤は不幸にも、幼少の頃から引き摺って来た家庭的な寂しさを、生涯、遂に癒されることはなかったのである」。
「今時の常識からすれば、堤は悪だとなるが、当時の男と女の間の〈悪〉というものは、若干、今日と感覚が違っていたという外はない」と、元側近らしく最後には大将を思いやり、かばうのだ。

ともかく、「真ん中に操夫人を挟んで、正妻の座を巡り熾烈且つ隠微な争いが」、康次郎の周りで「繰拡げられていた」のであったが、「文、操、恒子三人に代表されるように、いずれも美人で頭のいい女、才色兼備の女性」が、康次郎の好みだったということであって、「お文さんは堤の最初の土地事業を資金面で支え、操夫人は生死に係わる難病を献身的看護で支え、そしてお恒さんは、精神的に優しい愛で支えた。三人三様、雷帝といわれ、怪物といわれ、毀誉褒貶、喧(かまびす)しい英雄を、しっかり支えた陰の力であった」。
どうやらそういう結論のようだ。中嶋がひとつだけ操をたたえているのが、この康次郎への献身的看護なのである。昭和18年(麻布転居は16年)、康次郎は尿意を催しても小便が出なくなる難病、前立腺肥大症に突然襲われた。その都度、尿道管を差込み尿を出さなければ膀胱が破裂する危険にさらされたのである。渋る康次郎に手術を勧め、やっとのことで決断させ、衆議院議長になる前年に成功するまでの九年間を、必死の看病にあたったのが操夫人だったのである(註)。
(註・ただし操がある企みをもって長男清の嫁をこの看護に当たらせた、という上林国雄の証言への言及は、中嶋の記述にはない。)

この難病介護は「闇夜遍歴」に詳しく説明されている。
「毎晩二回は尿意を催して月子を起した。最初の尿閉の晩、膀胱が破裂しそうになり、あまり溜り過ぎると水圧のためにカテーテルも入らなくなると医師に注意された恐怖から、三、四時間眠ると目が覚めてしまうのである。枕元の鈴が鳴ると、月子は即座に布団から身体を起し、ガウンを手早く纏(まと)って台所に行く。ゴムの管を浸した容器をガスコンロにかけ、煮沸消毒を終えると小田村大助の寝室にとって返し、(戦時中の)灯火管制の暗い光線の下で片方の手で萎えた陰茎を掴み、もう一方の手でピンセットに挟んだカテーテルを亀頭の先から手際よく挿入するのだった。やがて溲瓶(しびん)に小さな音を立てて小便が流れ出す。小田村は安堵してふうーっと大きな溜息をついた」

まさに康次郎にふさわしい天罰かと思いきや、「そのような処置を繰返しながら、むしろかえって彼の漁色は烈しくなった。月子は感情を殺した能面のような表情で股を開いて幼児のように身体を預けている小田村大助の排尿を手伝った」とある。
どうやら商魂たくましい康次郎は、自分の病気から着想を得て東京の糞尿処理を思い立ち(註1)、経営する私鉄の車両を改造して糞尿列車(黄金列車とも呼ばれた)を走らせ、戦争で人手が薄くなった東京の清掃問題と農村に肥料を供給する一石二鳥の離れ業をやってのけたのである(もちろん輸送は夜に行われた。註2)。
(註1・というのは典型的な偉人伝説であって、実際は屎尿処理に困った東京府側からの要請に社内の反対を押し切って康次郎が引き受けた。註2・糞尿列車は昭和19年から28年まで運行された。その背景には西武鉄道沿線に広大な農村地帯を有していたからであったようだ。)

今しばらく「西武王国 その炎と影」からの記述をつづける。
中嶋は、操が清二の本当の母であったかという根本問題にも言及している。「清二は、『操さんの子供ですか?』と聞かれても、何時も素っ気なく、『戸籍がそうなっているからそうなんでしょう』と答えるのみであった」とし、清二が操のことを〈お母さん〉と呼ぶのを一度も耳にしたことも、二人の間に親子らしい様子を見たこともないという女中たちの感想をあげて、(清二自身も「彷徨の季節の中で」で疑っているように)中嶋も「私の目や感覚からしてもそうであろうという気がしてならない」と判定する。
ついで、三鷹下連雀近くに住んだことのある中嶋は、かつて清二たちもそこで生活していたこと、その近くには操の姉も暮していたのを偶然知ったと述べている。戦後のその頃、大学生で手先が器用だった清二は、よく三鷹へ遊びに来てはラジオの修理をしてくれた。その都度中嶋の妻が感謝してお茶を出すのであったが、その時の世間話にも清二の口からは一度たりとも「お母さん」の言葉が出ることはなかった、とも。
中嶋の証言はいずれも決定的決め手を欠いているのだけれども、近所に住んでいたという操の姉の話だけは妙な迫真性をもって、上林国雄「わが堤一族の血の秘密」にあった〈操の姉の子が清二、妹の子が邦子〉をいやが上にも思い出してしまうのであるが・・・。

堤清二は二度結婚している。つまり最初の結婚は破綻したということだが、この離婚にかかわったのも操だったと中嶋はいう。
辻井喬の年譜に当たってみても、堤清二がいつ結婚して離婚したかなど(子供の誕生を含めて)、全く記載されていない(註1)。したがって「西武王国 その炎と影」での中嶋の記述は貴重である。
それによると清二の妻は、山口素子という衆議院の事務局に勤めていた女性だったとある。康次郎の議長就任時に議長室の秘書係をしていて、やはり父親の私設秘書となった清二と知りあい恋愛へと発展したようだ。川崎文と同じ日本女子大を出ていること、素子の父が俳人であること、式も簡素なものだったということ以外は一切不詳である(註2)。
(註1・「ユリイカ」2014年2月号 特集堤清二/辻井喬。註2・「彷徨の季節の中で」の続編「若さよ膝を折れ」及びエッセイ「本のある自伝」に二人の交際の一部が描かれている。)

「二人が結婚して四、五年経った頃、操夫人が二人を離婚させようとする事件が起こった。素子は『離婚するなんてとんでもありません』と拒んだが、操夫人は、 何故か強引に二人を離婚させようとしていた。しかし、素子は何と説得されても頑として応じようとはしなかった。そこで操夫人は、子供の康二(清二の長男)を幼稚園に行く途中で連れ去り、その子を自分の手元において、それで素子に離婚を迫ってきた。実に残酷な話であった。
素子の憤りや悲しみは如何ばかりであったろうか。素子の父親もカンカンに怒って、殴り込みをしたい位だと嘆いていた」
思い余った父親は中嶋に「娘があまりにも可哀想です。何とか子供だけは返すようにしてやって下さい」と哀訴してきた。それで中嶋が離婚の条件や慰謝料を調停したのだったが、その過程で二人が本当は愛しあっていたのに、別れざるを得なかったのだと確信した(という)。

「離婚の原因としては、操夫人の行動からすれば、操夫人と素子の不仲説が考えられるが、果たしてそうであったろうか。清二は、学生運動に走って父親に反抗した程の人である。そんな清二が、操夫人が如何に素子を嫌っていたとしても、それだけの理由で離婚を承知したであろうか。嫁と姑の不仲が原因で離婚に同意したとすれば、何とも古臭く因襲的である。
しかし、私は、一応操夫人に反抗はしたと思う。しかし義理の間柄なるが故に、従わざるを得なかったのではなかろうか。実の親に対してなら、断固として自分の意見を主張し通したであろう。とすれば、操夫人と清二は、実の親子ではないという推測が真実味を帯びてくるのである。ともあれ、清二と素子の離婚、その時の操夫人の振る舞い、そして康二の育てられ方などを見るに付け、実の親と子とそして孫との関係において、そこに当然あるべき愛情、甘えというものが欠落していたことは否めない事実であった。その違和感を私も肌で感じ、清二、素子及び康二の親子関係が不憫でならなかった」

中嶋は、離婚の情況をこのように書いて、この後に唖然とするような推測を付け加えているのである。
「他にも離婚の原因として噂されていたことがあった。それは堤と素子との関係であった。その関係を操夫人が勘付いて、手を打ったのではなかったのか。それで清二も同意せざるを得なかったのではないか、ということであった。下衆(げす)の勘繰りとは思う。しかし、堤の過去の行状からすれば、あながち、否定しきれない噂ではあった。それに、この件に関しては堤の態度が、いかにも不可解であった。操夫人が中心に動いたこの離婚に、堤は何もはっきりした意見を言ったり、態度を示したりはしていない。とすれば、堤は、やはり、素子との関係において、操夫人や清二に顔向け出来ない何かをやったのではなかろうかという噂も、うなづけるのである。
それにしても、寂しい、そして悲しい出来事であった」

このくだりを読めば誰しも、章(2)につづった孫清の妻緑と津村孫次郎の関係を想い起こさずにはいられないだろう。甫(清二)を挟んで義母(操)と激しい口論となった孫清(長男清)が、涙交じりで義母に訴えた場面。父孫次郎が緑に「わしの子を産め、二人産め、今産めばわしのか孫清のか分らないー」と迫ったというあの信じがたい場面を(この件についての上林国雄の補強証言は、章〈1〉で触れておいた)。
「彷徨の季節の中で」は、あくまで小説である。事実を忠実になぞっているといわれる私小説であっても、どこかに嘘が混じっていると想って読むのが小説である。この小説特有の原理を利用して、上手くカモフラージュしているけど、この場面の孫清(と緑)は離婚渦中の清二(と素子)のそれであった可能性さえ否定できなくなる。上林証言が事実なら、二組の若夫婦の悲劇が二重写しに投影されていたということに。

孫清の母岩崎そのについても「彷徨の季節の中で」では、孫清を産んで発狂して死んだということになっているが、「清は旧制静岡高校から東大に行き経済学部を卒業し、そのまま堤の会社に入った。そして取締役にまで昇進したが、母親ソノが、『西武の後継者は清である』と触れ回ったのが、禍となり、堤の逆鱗にふれ、廃嫡の身となった」と、中嶋はまったく異なる事実をあげている。
すでに岩崎そのが小説の叙述とちがって、長生きして息子(清)に会いたがっているのを上林国雄が清に伝えると、頑なに清は拒否したという理由もこれで納得できるのである。
岩崎そのは、「細面、色白のすらっとした容姿で、堤好みのタイプであった」が、清出産時には大隈重信を介しての康次郎と川崎文との交際が始まっており、そのは徐々に康次郎から疎んじられたと中嶋は明言している。
廃嫡の理由が母親にあったとすれば、清の父親への反逆は、あるいは小説に描かれたような気違い染みたものではなかったのかも?(とはいえ、妻のこともあり、会社での地位が冷遇、剥奪されるにつれて、母を棄て子を棄て去ろうとする暴虐無慈悲な父親を逆恨みしていったのであったろうか)。

しかし、本来廃嫡になってしかるべきだったのは二度も康次郎に絶縁状を叩きつけ、共産主義に走った次男清二の方だったのではあるまいか。兄弟中、ただ一人の確信的反逆者であったということになるのだから。その清二が何故に廃嫡されなかったのか。
先に長男清を廃嫡にしていたこと、(清と清二は14歳も違うのだから)加齢に伴う忍耐と分別が康次郎にそなわっていたこと、すでに操が実質上の妻であったこと、反抗時の清二が未だ青二才の学生に過ぎなかったことなどから見逃された、そう解釈するのも可能ではないか。
さらに想像をたくましくすれば、これらに上林国雄や中嶋忠三郎の指摘する清二(と邦子)にまつわる出生の秘密が働いていたのだとすれば・・・。

廃嫡の憂き目にこそあわなかったが、清二が望んだこととはいえ事業分担の色分けを清二が流通グループ、義明が鉄道グループを率いることを見越して、事業上の実績があった清二を康次郎がはっきりと後継者に指名しなかったことで、康次郎の制裁を受けた形になったともいえるであろう。
前にも述べたように、鉄道グループの事業規模は流通グループとは比較にならないほどの差があったからである(認知され入籍しているとはいえ非嫡出子の義明よりも、兄であり正妻の息子である清二が鉄道グループを継ぐのは順序からして当然であったろう)。担当グループの規模と重要性が、そのまま「火曜会」の席順であったのでは(したがって清二は「火曜会」においても、生前の康次郎から充分に屈辱を味わされていたわけである)。
跡目争いについて中嶋は、「万が一、清二が、『私が跡取りだ』と旗上げしたとすれば大変なことになったであろう。清二の出方如何では、お家騒動にもなりかねない要素を孕(はら)んでいた。清二の心の内では、さぞかし激しい嵐が吹き荒れていたことだろう。しかし、表立っては何の争いも起こさなかった。乱も起こらなかった。清二は、父に従っていた義明を見、父に反抗して屈折していた自分を振り返り、自らの立ち場を自覚していたのではなかろうか」と、清二を評価している。

世間も清二が後継者だと見ていたし、西武内部にも清二派と目される役員の動きがあったなかで、中嶋自身は生前の康次郎の意思通りに義明を後継者だと支持、公言したのであるから、清二の態度はことさら立派に映ったのであろう。
「清二は自伝小説の中で、三鷹に住んでいた頃、〈妾の子〉として蔑まれながら、耐えて生きた少年期のことを書いている。彼の生き方の中に、本心を隠す忍従の生き方が備わっているのは、そういった生い立ちからきているのであろう。“我慢に耐える”というのは清二の生き方であったが、義明の人生を培ってきたものも、またそれであった。従って、二人共言いたいことをグッと我慢出来る強さをもっていたが故に、意見の衝突を起こさなかったといえる。実際に私は、清二と義明の二人が、真っ向から意見の衝突をしたという光景を見たことはなかった」

つづいて中嶋は、跡目争いについてこう締めくくる。
「ただ一つ疑問なのは、〈どうして操夫人が清二を後継者として強力に押して出なかったのか〉ということであった。これは確かに不思議であった。操夫人が清二を擁立するという動き等は、表立って全く見えなかった。清二が操夫人の動きを抑えたのかもしれない。素子との強引な離婚劇が、清二の心理に影を落としていて、〈操夫人の言うこと等には終生耳を貸さないぞ〉という態度を清二が常に見せていて、〈清二の”擁立劇“は無理である〉と操夫人に思わせていたのかもしれない。いずれにせよ、そのような争いは、現実には起こらなかった」
この記述などからも、操夫人を要注意人物とみていたことがわかるのだが、「闇夜遍歴」その他を読むかぎり、母操に対してここまでの拒絶反応が清二にあったとも思えないのだが。母操の方も、清二が今さら流通グループ以外を引き継ぐ気など毛頭ないことをあらかじめ見抜いていて、そのことを二人で黙認しあっただけだったのではあるまいか?

人間という生物は、どうやら死期が迫ってくると真実を明らかにしておきたくなるもののようだ。というのも、「わが堤家 血の秘密」の上林国雄が85歳、中嶋忠三郎は88歳の老体にムチ打って「西武王国 その炎と影」を著しているのであるから。
ご丁寧にも上林国雄なんかは、著作中に「年老いた私が、事実をありのままに書いておかないと、誰も事実を知らないまま、ちがった歴史がつづられることになってしまうと思うようになったのです」と、ちゃんとその理由まで述べている(真実を埋もれさせてはならない。そういうものらしい)。
ひとつだけ残念なのは、高齢での著作だからなのか、二人とも若干記述が大まかで事実かどうかの裏付けに乏しいことだ。例えば、上記の過程を経て中嶋の記述は、堤康次郎の相続対策の巧みさに及んでいくのであるが、遺産相続人についてはこう書かれるだけである。「清二の他に嫡出子が二人おり、嫡出子でない子は十人近くもいたのである」。

清二以外の二人とは、最初の結婚で生まれた長女淑子と清二の妹邦子のことで、十人近くの非嫡出子とは義明と二人の弟たちのことを指しているのであろうか?(具体的人物名はない。プライバシー問題もあるのでしょうがないだろうけど)。
また、こうも書かれる。「認知もされていないし、堤家の家系図にも出ていない人で、堤の子供であるということが明白な人も、二人や三人ではない」。
堤家の家系図にも出ていないとは、一体何のことか。いくら何でも大げさすぎはしないか(堤家は元々大地主でも何でもない) 。中嶋が康次郎の余りの放逸ぶりにおったまげて、慌てて子孫図でも作ったのかもしれないけど。ともかくも中嶋は、これら一人一人に会って「遺産相続権利放棄書」に署名してもらったというのだから、その労苦は並大抵ではなかったろう。
年齢からいっても、もう怖いものなどなかっただろうし、どうせならもっとつぶさに堤康次郎の性豪伝でも書き残しておいてくれたら、さらに面白い読み物になっていたのにと、ちょっぴり残念である。

ところがである。この「西武王国 その炎と影」(平成16年12月刊行)には、章(1)でほのめかしておいたように、隠された事情があったのである。その間の事情を中嶋忠三郎の息子が明かしている。
「父は米寿を記念して本書『西武王国 その炎と影』を上梓したが、平成2年9月発売直前に西武側に全冊買取回収され、いわゆる幻の〈発禁本〉となってしまったのである。今年(平成16年)3月の商法違反事件、10月の株式偽装工作等、西武グループの一連の不祥事を見るにつけ、私は今こそこの書を世に送り出したいと思ったのである。義明氏をはじめとする西武グループ全社員達の箍(たが)の弛(ゆる)みを懸念し、西武王国の危機を憂い、西武草創期の精神を蘇らしたいと願ってやまなかった亡き父の厚い願望を改めて世に問うべきと考えたのである」

つまり中嶋忠三郎生前には、西武側に買い占められて事実上の出版禁止にされていた同書を、一連の西武グループの不祥事を見るに見かねて、平成10年に他界していた父親に成り代わって息子が再刊行したというのである。
本著のどこが西武側の(オーナー義明の?)忌諱(きき、きい)に触れたのか?特に、義明たちの悪口を書いているわけではないので、わかるようでわからない。結局のところは、西武グループ最高幹部「火曜会」のメンバーであった者が、このような暴露本を書くこと自体が許せないということであったろうか?
堤義明がこの不祥事をきっかけに逮捕されたのは、本書再刊の翌年(2005年)の3月3日であった。中嶋忠三郎とその遺志を継いだ息子の篤き願いは徒労でしかなかったのである。

もしかしたら、今後触れる機会がないかもしれないので、清二の再婚についての中嶋忠三郎の記述を最後に引用しておきたい。
「清二は、その後(素子と離婚後)、新橋の芸妓で、後に産経新聞社の水野会長(前述した水野成夫)の養女となった女性と結婚した。名は麻子といい、子供も生まれ、家庭もすこぶる円満である。麻子夫人も清二の目に止まる位の人だから非常に立派な人であった。操夫人は性格的には濃い翳(かげ)りのある女性であり、その翳りの下で、清二は成長したのだが、大きな発展への試練という形でそれを活かしたのは、彼自身の偉大な素質という外はない」
やっぱり操への点数は辛い。清二がいつ結婚したのかは定かではない(清二自身も書き残していないし、年譜にも記載がない。中嶋の文章が唯一の文献ということになるのかも?)。ただし小説「闇夜遍歴」によると、その頃妹邦子が住んでいたパリで身内だけの挙式をしたらしいことが描き込まれている。この結婚にも堤清二という人柄の一端が垣間見えるような気がした。


(以下、「彷徨の季節の中で」(5)につづく。)

 

自由人の系譜 辻井喬「彷徨の季節の中で」(3)

「第二次世界大戦末期、帝都の住民は、大量発生したトンボの群れのように上空を覆う不吉な使者に脅えていた。B29爆撃機は爆弾を、これでもか、これでもか、と落としていく。街は火の海と化し、人びとは逃げまどう。堤康次郎はその空爆下、地下室で幾台もの電話を並べて、土地を買い漁っていた。焼け出された難民が、宏大な邸宅に避難すべく押し寄せてきた。彼は叫んだ。
『甫(はじめ)、親切が仇(あだ)になるというのを忘れるな、皆をこの屋敷に入れたら此処は取られてしまうぞ。家は燃えてもいい、然し土地は絶対に譲ってはならんぞ』
非難する眼で見た私に答えて、父は真剣に言った。その時大きな音を立てて三階の屋根が落ちた。火の粉が宙に舞上がり、孤立した中心部は、いよいよ火勢を増して傾いていった」

これは猪瀬直樹が「彷徨の季節の中で」の一場面を引いて、「ミカドの肖像」第一部〈プリンスホテルの謎〉に掲げた前文である(註1)。「彼は叫んだ」までが猪瀬直樹の文章なのだが、つづいて小説には「その晩東京の西南部の大半は焼けた。数万人の死者が出たという噂だった」とあるので、 昭和20年5月の東京大空襲の叙景だと思われる。
康次郎の凄まじい土地への執念を語って余りあるが、〈プリンスホテルの謎〉で猪瀬直樹は、「西武グループのプリンスホテルのうち最大規模を誇る新高輪プリンスホテルは、旧皇族北白川宮家の跡地に建てられている。その約四万平方メートルの土地(註2)が、北白川家から西武鉄道に売買されたのは昭和28年7月24日であった。しかし、北白川家から西武鉄道に所有権移転の登記がなされたのは昭和54年11月13日なのである。四分の一世紀のあいだ移転の登記がなされずじまいのまま、という事情のなかにいったい、どんな謎が秘められているのだろうか」と疑問を呈して、堤康次郎の土地錬金術のカラクリに迫っていく。
(註1・猪瀬直樹は昭和21年長野生まれ、信州大卒。2012年から2013年まで東京都知事。ノンフィクション「ミカドの肖像」は昭和61年小学館刊。註2・約1万2000坪になる。)

北白川家と西武鉄道が売買契約を結んだ昭和28年は、堤康次郎が衆議院議長に就任した記念すべき年でもあった。が、読み進めていくうちに、その衆議院議長のポストを活かして、巧妙極まる手段で北白川家の宏大な屋地を手に入れていく過程に唖然とさせられるのであるが、〈プリンスホテルの謎〉によれば旧宮家の邸宅地買収は他にも朝香邸、竹田邸、東伏見邸、李王邸等が含まれるという。いずれも昭和20年代に買収され、跡地には赤坂プリンスホテルをはじめ各プリンスホテルが建てられた(うち今上天皇と美智子皇后の「テニスコートの恋」で有名な千ヶ滝プリンスホテルは、軽井沢沓掛の朝香宮別邸跡に建てられたもの。プリンスホテルの起源となった。註)。
ただし、それは北白川邸のように西武鉄道に所有権が完全に移転されてからのことであるから、千ヶ滝プリンスホテルを除いては堤康次郎死後のことになるのだけれど。
(註・原武史著「レッドアローとスターハウス もうひとつの戦後思想史」によれば、「堤康次郎は、旧皇族の土地や建物ばかりか」、旧宮家を「現物保存するためと称して」、「建物の随所に刻まれた菊の紋章をそのままにし、プリンスホテルのトレードマークとし」、「デザインまでも乗っ取」ったとされている。)

これらの巨大ホテル群を次々に建築していったのは、西武鉄道グループの若き後継者堤義明である。しかし堤康次郎が後継者に残した土地は、当然ながら旧宮家のものばかりではなかった。
〈プリンスホテルの謎〉で猪瀬は、その驚愕の実態を次のように説明している。
「西武鉄道グループが所有している土地は、日本全国に四千五百万余坪、東京二十三区の四分の一に匹敵する。その土地の時価は、銀行筋の推計ではおよそ十二兆円であると伝えられている。
ちなみに、民間企業では最大の地主企業王子製紙グループは、西武鉄道グループの九倍、四億余坪の土地を所有しているが、その土地の八割は北海道の山林である。したがって、その時価評価額はせいぜい一、二兆円程度とみられている。西武鉄道グループの持つ土地の含み資産がどれほど大きなものなのか、ライバル企業との比較のなかで、いっそう明らかとなるであろう。たとえば丸の内一帯の一等地を所有している三菱地所が、二兆円。西武鉄道とことあるごとに対抗してきた東急電鉄は一兆円。それぞれ、推計だが、以上の時価評価額の土地を持つといわれている。しかし、さすがに十二兆円の前では色あせてしまう。この、とてつもない評価額の西武鉄道グループ所有の土地がすべて、先代堤康次郎の時代に、想像を絶するほどの安価で購入されたものであった」

ところが猪瀬は、堤康次郎がどこまで地価上昇を目論んでいたのかについては、疑問符をつけている。「堤康次郎が、土地に目をつけた理由はさまざまな商売に手を出した結果、ことごとく失敗したからであった。だが、彼が、どういう見通しと確信を持って、土地買いに走ったのか、その点は明らかでない」として、その根拠を示す統計数値を上げる。
昭和11年を1.00にした戦前六大都市市街地価格指数は、昭和15年で1.16倍、20年でも1.25倍だったのに対して卸売物価指数は3.02と3倍を超えていたので、土地を買っていても旨(うま)みはなかった。戦後の昭和30年になると土地が201.6、物価は331.3と両者がやや接近してくる。が、この後昭和30年から同55年の25年間に事情は一変して、物価は3.25倍の上昇に過ぎないのに土地は32.31倍に跳ね上がっていると指摘する(註・康次郎の死去は昭和39年、バブルは昭和61年より始まる)。
しかし、確かに「昭和三十年以降、土地の値上がりは物価上昇率を凌駕しはじめたが、(註・康次郎が前もって)そのような事態を予測することは、かなり困難だと思う」と述べ、(康次郎の)「土地買いのモチィーフ」そのものが「謎めいてくる」というのだ。

「同じ事業をやっても、他人は成功し、自分は失敗する。・・・ある程度までいくとひっくり返る。賽の河原の石積みである。あせればあせるほど、ロクな結果は生まれない」人が炭鉱で、船で、儲けたと聞けば手を出し、御木本の真似までして三重で真珠の養殖までやったが、「二十代に手をつけた私の事業は、ことごとく失敗に終わった」と死の直後に出版された自伝「叱る」で堤康次郎は振り返っている。悪戦苦闘の末に、どうにかこれならと導き出した事業が「人間生活にとって必要な土地」であったのだ、と。
この帰結の裏には(やはり二十代で取り組んだ)軽井沢開発事業が、資金繰りに難儀はしても最も痛手を被らずに利益を生んだという事実に遅まきながらも気付いたからではなかったか?

康次郎が国立学園都市開発に携わっている頃、それはすなわち三鷹で甫たち親子三人が生活していた頃であるが、「彷徨の季節の中で」には「その頃、事業が思うようにはかどらず父は苦労が多かったようである」とか、「私の家は貧しかった。世の中も不景気で、父の仕送りも時おりとどこおっていたようだ」、だから母は(結核の病身にもかかわらず)内職をしていたと描かれてはいるものの、不動産事業は堤康次郎に決定的な損失をもたらすことはなかったのに違いない。
土地さえ持って(転がして)いれば、(担保にしてでも)何とか飯の種にはありつけたであろうし、時には思いもかけない大儲けにも遭遇していただろう。その繰り返しの中で不動産事業の妙味に気づき、より利益を引き出すメソッド(組織だった方式)を次第に磨いていったのではなかったか。

5歳で父に死なれ母に去られ、祖父母に育てられて成長した康次郎は地元の名門彦根中学に無試験で合格していたのを、祖父の反対で進学を断念したほど祖父の薫陶、影響がとりわけ強かったといわれる。その祖父が、徹底的に康次郎に叩き込んだのが「堤家の再興」であったという。
祖母、祖父の死とともに父祖伝来の田畠を質に立身出世のみを志して上京、学業そっちのけで事業拡張に邁進するもことごとく挫折、ようやくたどり着いた答えが「人間生活にとって必要(不可欠)な土地」だったというのは、農民の末裔である堤康次郎にとって最も肌合いのいい原点回帰だった。
「わしをいかにも不身持のように言う者もあるが、どういうわけか、わしは女運に恵まれないでなあ。お祖父さんから預かった津村家を興すには、わしなりの方法でやってきたのだ。子供を作るには女子(おなご)が必要じゃった。腹は借物というからなあ」
津村孫次郎が珍しくしみじみと甫に語る「彷徨の季節の中で」のセリフである。手前勝手な自己弁護でしかないが、この発言には農民(土着民)と選良民(為政者)の発想とが混在しているが如くに感じられる。すなわち子種だけはしっかりまいておき、そのうちの出来の良いのを見極めて残せばいいのだ(出来損ないは間引いてでも)とでも言いたげな、自然淘汰の法則に叶った大らかな、それでいて冷酷無比で残忍な発想。

関東大震災で被災した皇族や華族の屋敷跡を買い上げ分譲し多大な利益をあげた康次郎が、敗戦によってGHQから全特権を取り上げられ経済的に困窮する旧皇族や華族の土地を〈本能的な嗅覚〉で取得していったのは、思うに当然のことであったろう。「プリンスホテルの謎」の記述に戻る。
「戦前における最大の地主は、天皇家であった。戦前の御料地(註1)の総面積は百三十万余町歩で新潟県の総面積に近い、あるいは東京、大阪、神奈川、香川、佐賀、鳥取の六都府県の合計に等しい広さであった。ただしその大部分(97%)は北海道や木曽などの山林であり、農地を除く宮殿と宅地、陵墓(註2)の合計は全体の0.5%(二千万余坪)にすぎなかった。
堤家は、その天皇家の〈藩屏〉(はんぺい、註3)である皇族の宮殿と宅地を収奪しそのブランドを借用することによって、新時代のチャンピオンに成り上がったといえよう。
戦前の天皇制下では、天皇家を含めて皇族はいっさいの税金を免除されるという特権を有していた。その特権によって、天皇家およびその一族は末代までその繁栄を保証されるはずであった。同じことが、〈西武王国〉においても実質的に適用されようとしている・・・」
(註1・皇室の所有地。註2・辞書には天皇・皇后・皇太后の墓を陵といい、他の皇族のものは墓というとある。註3・藩屏とは皇室を守護する者といった意味で、宮家を指す。)

つづいて猪瀬の筆先は、堤義明が君臨する国土計画(コクド)の西武鉄道グループ支配構造と帳簿上の詐術(簿価と時価評価の差額)に及んで、ちょうど同じ頃、日の出の勢いで拡張を続けていたスーパーのダイエー創業者中内功の相続資産と対比しながら、コクドを隠れ蓑にした巧妙な操作が税金対策を目論んだものであることを指摘して、再びこう結ばれる。
「西武王国は新しい天皇制を考案していた。堤家の〈土地本位制〉経営は、天皇家と同様に、万世一系のなかに受け継がれてゆきそうな気配なのである」
けれどもきっとそうはならないであろうという相反する措定を、猪瀬直樹はこの文末に込めていたのであったろうか?「西武王国」のその後を知っている今日の我々からみれば、〈プリンスホテルの謎〉が「西武王国」最盛期に書かれているにもかかわらず、その崩壊を予兆して警鐘を鳴らしていたかのようにも思えてくるからだ。

その「西武王国」繁栄に少なからぬ貢献を果たした「皇室の藩屏」についても、〈プリンスホテルの謎〉の記述から補足しておく。
明治維新時に、宮家は伏見宮を筆頭として桂、有栖川、閑院、山階の五宮家が残っていた。その後新たに十宮家がつくられて十五宮家(直宮家の秩父、高松、三笠宮を除く)に増えていたが(後継がなく断絶した四宮家もあり)、昭和20年の敗戦時には直宮家を除いて十一宮家になっていた。
ところが昭和22年10月に決定された宮家への「臣籍降下」(皇室離脱)により免税のみならず、皇族に支払われていた歳費や皇族附職員の人的支援などの一切の特権を剥奪されたのであった(秩父、高松、三笠宮は除外)。皇族籍を離れるに当たって、一時金が支給されはしたものの焼け石に水に過ぎなかった。かくして民間人扱いとなった皇族は、土地以外の財産を持たなければ(持っていてもいずれは)、土地を切り売りにでもしていく以外に生き延びる方途を有しなかったのである。
天皇家の広大な御料地は、基本的に国有地と自治体有地に移管された。すべては占領軍の方針で決定された(自然災害であった関東大震災との決定的相違点である)。

天皇家を擬して、せっかく「新時代のチャンピオンに成り上がった」堤家が「万世一系」の繁栄どころか、わずか二代目にして潰えたのである。
グループ中核会社のコクド会長堤義明が、西武鉄道総会屋利益供与事件に端を発した虚偽記載による西武鉄道有価証券取引法並びにインサイダー取引違反で逮捕されたのは、〈プリンスホテルの謎〉執筆から二十年後の平成17(2005)年3月のことであった。
それはいみじくも、猪瀬直樹が「彷徨の季節の中で」から引用した〈プリンスホテルの謎〉の上記冒頭文、「火の粉が宙に舞上がり、孤立した中心部は、いよいよ火勢を増して傾いていった」光景とオーバーラップするのである。
この事件によって堤義明の「西武王国」支配は実質的に終焉した。君臨すること実に40年、王国の絶対君主を誇った颯爽たる青年経営者の面影は薄れ遠のき、齢すでにして古希を迎えていたのである。

しかしながら王国崩壊の萌芽は、すでにして父康次郎死去の際にひそんでいたというべきだろう。
「(親父が死んで)いちばん初めに手をつけなければならなかったのは遺産相続の問題です。世間は相当の資産を蓄え込んでいるイメージを持っている。しかし、親父は用意周到と言うか、しぶちんの極と言うか、個人財産はまるでなし。すべて会社のものにしていて、自分は無一文のような状況でした。税金を払うまいという情熱がすごかったのです。ずいぶんいろいろな人に会ったけれど、親父ぐらいその情熱が強かった人はいないと思うぐらいです」と堤清二は語っている(「堤清二X辻井喬オーラルヒストリー わが記憶、わが記録」)。
しかし、「これではとても世の中で通るまいと思っ」た清二は、実情を時の総理大臣池田勇人に相談した。池田勇人は「清二君、それは君、無理だよ、それは通らない」と言って、税務コンサルタントを紹介してくれた。結局、西武グループ各社から弔意金を出してもらう形で無理やり相続財産をつくって、一億円を超す相続税を払ったと、清二は証言する。

康次郎の死去とともに、西武グループは西武鉄道グループと西武流通グループとに別れた。義明が率いた西武鉄道グループは総勢七十社にも上ったけれども、そのうちで上場していたのはわずか西武鉄道と伊豆箱根鉄道二社のみであった。グループ各社は上場二社を中心に交互に株式を持ち合う形でグループ間の結束を保ちながら、さらにその頂点に立っていたのがコクドであった。グループを牛耳るコクド自体が未上場なので、部外者がその経営実態を知ることは極めて困難である。
西武鉄道グループのコクド支配とはこの構図を指しているのであり、その中核会社コクドを統括していたのが故康次郎であり、逮捕されるまでの堤義明であったのだ。しかも康次郎は自己保有株式を信頼できるコクド社員の名義を借りての、いわゆる名義借り方式で財産を徹底的に分散していた。だから康次郎名義の相続財産が皆無だったのである。
それまでにも義明のワンマン経営で兄弟(義明の弟たち)の間柄にヒビが入っていたのに加えて、義明の逮捕でこの他人名義の隠し財産問題が明るみに出て、(清二を加えての)新たな訴訟問題に発展したようだ(が、この件はもうこれ位でとどめておく)。

西武百貨店の37歳の青年社長に過ぎなかった堤清二が、なぜ父親の相続税問題を総理大臣に相談できたのかというと、もちろん池田が父親の葬儀委員長を務めてくれるほどの仲だったからであったろうが、それより十一年前の昭和28年に父康次郎の衆議院議長就任に伴い、清二が議長秘書になっていたことも起因していただろう。
その頃の首相は吉田茂であったが、大蔵事務次官から政治家に転身し、すぐさま頭角を現していた池田勇人との接点がどの時点で出来ていたのかはつまびらかではない。昭和34年に清二は、康次郎の随員でアメリカに渡り、マッカーサーとアイゼンハワー大統領との会談に陪席している。その前後に池田との面談の機会があったのかもしれないし、また昭和37年西武百貨店は、康次郎の命令でアメリカロサンゼルスに出店(二年後閉店)しているので、その出店に伴う下相談で大蔵、通産大臣などを歴任し、総理大臣に上り詰めていた池田に面談していた可能性も。
いずれにしても父親絡みだったのは確かであろう(前章に記したように真偽は不明ながらも、池田の娘と義明の結婚話の伝聞まであるくらいだから、二人は相当に親しかったはずである)。ところが池田勇人も、清二が相談に参上した(すなわち康次郎死去の)翌年(昭和40年)に、65歳で病没した。

池田の後を継いだ佐藤栄作とも清二は親交があった。吉田茂死後、大磯の旧邸をひそかに処分することになった時、佐藤総理に声をかけられ買い上げに応じたと清二自身が告白している。そしてそのことを通じて吉田茂の長男である作家の吉田健一に感謝され交友が生まれたとも。
康次郎の死去は、すなわち政治家堤康次郎の地盤を誰が引き継ぐかという問題をも派生した。長男清が廃嫡になっているので、次男の清二に白羽の矢が立つのは当然のことであった。池田総理や当時の自民党幹事長だった田中角栄から立候補を慫慂(しょうよう)されたが、清二はそれも固辞したようだ(結局、山下元利に落ち着いた)。
と、このように若き頃より政界トップたちとの関係があったことを知れば、それ以後も多くの政治家との交際があったことは容易に窺い知れよう。その多彩さにも驚かされるのであるが(もういちいち名前を挙げないけど)、なかでも特に親しみが持てたのは三木武夫、大平正芳、宮沢喜一などだったという。大平も宮沢も池田勇人が引き立てた政治家だったし、大平正芳については、最晩年になって「茜色の空 哲人政治家大平正芳の生涯」の題名で小説化している。

これらのことからみれば、堤清二はガチガチの保守派だと勘違いしそうだけど、選挙の時どの政党に投票したか、との質問に、「共産党か社会党といった革新政党です。ただし、共産党とは喧嘩していますから、自民党よ驕(おご)るなかれという感じですね。アンチ巨人だから阪神タイガースを応援するというのと同じ。アンチ自民党であれば何でもいいという感じが強かった」と答えている。
ずいぶん思い切った発言で、これだけでも堤清二がかなり異色の経営者だったことが分るけど、この発言は経営の第一線を退いてのちの平成12(2000)年、73歳の時のものである。堤清二の経歴を知らなければ、「共産党とは・・・感じですね」の部分が何を言っているのか、よく飲み込めないであろう。議長秘書になる前、堤清二はバリバリの共産党員として精力的に活動していた過去があったのである(当時は、清二に限らず知識人や有力者の子弟が左翼運動に走る例は数多くあった)。

中学校に進学すると同時に、それまでの母子三人の三鷹での暮しから麻布で父親と一緒に住みはじめ、そこで義兄孫清(清)と父のねじくれた関係を目前にしながら、甫(清二)は私立の成城高校理科へと進学した(希望した高校に受からなかったため)。昭和19年(17歳)のことである。
理科を選んだのは徴兵を避けるためではなかった。大学の工学部に進み航空工学や船舶造船を学びたかったからだが、戦争が終わると進駐軍の命令でそれらの学科が閉鎖されたため、文科に移り直して昭和23年(21歳)に東大の経済学部に入った。
「彷徨の季節の中で」には、「大学の受験を一年遅らせて文科に転向し、本式に社会科学の勉強をしよう、孫清のようなやり方ではなく、正面から父に立向うために」(意地でも、孫清のようになってはならない)と、描かれている。
しかし、やがてはこうも。「私は父の世界と闘うために経済学部に籍を置きマルクスやレーニンの本ばかり読んできたが、社会科学の理論ではどうにもならない自分の問題と新しく対決しなおさねばならないのであった」。

つまりは挫折したのである。「父が属しているのは勝負の世界であり、支配するかされるかという権力的人間関係しか存在しない」。それが「父の世界」だったのであるが、その構造は共産党においても変わりはなかったのである。
清二が入党した頃の共産党は、国際派と所感派とに分裂して派閥争いの最中にあった。国際派に所属していた清二は、主流派だった所感派から堤康次郎の息子であることを理由にスパイ嫌疑で除名されたのである。それが「共産党とは喧嘩」発言の意味である(それでも党と完全に訣別したわけではなかった)。
時を同じくして清二は吐血した。重度の肺結核と診断された清二は絶対安静を命じられ、その後二年近く療養生活を余儀なくされたのであった(発症した年に東大は卒業していた)。
「父の世界」に反撥して後継者にはならないと勇ましく宣言していたものの、将来に何の希望も見出せぬまま父の庇護のもとに空しく病身をゆだねざるを得なかったのである。

「親子の愛情というのは一体何だろう」。「愛するとか憎むということがどんなことなのか私には分らなくなっていた。自虐に足をとられそうになる自分を支えることだけが私のただ一つの闘いになった」。
病気の進行とともに失意は深まり、自己を見失いつつあった甫の病室を父親と母親が見舞いに訪れる。二人を見送っての心境吐露。
「小学生の時、父の見舞を受けて、入院していた私はひどく気詰りな想いをした。それは医者に対する父の仰々しい礼や、大勢の従者を従えた医長の前での父の粗野な振舞のせいだと思ってきたが、気詰りの本当の理由は私達が親子であり、鏡に対い合っているように二人が似通っているからだ。その宿命から逃れようとして私は革命運動に入ったのに彼等は私を受容れなかった。私は遂に津村孫次郎の子であるという血縁に抗し得なかったのか。とすればこれからいる場所を私は何処に見つけたらいいのか。考えていると谷間から吹き上げてくる冷たい風にさらされながら、細い吊橋の上に立っているような自分の危うく脆い姿が見えてくるようだった」

追い詰められて、一歩を踏み出せば「父の世界」に通じる地点に清二は立っていた。ちょうどその時期に出回り始めていた結核特効薬ストレプトマイシンの効果(高価でもあったろう)で、奇蹟的に命拾いをした清二は、父の求めに応じて(ほとんど暗黙の応諾で)衆議院議長秘書となったのである。
「私の友人達はすでに生活を始めていた。・・・時間がたてばたつほど私は生活からも友人からも引離されて行くように思われ、脱落者という言葉が浮んできた。少し前から私はノートに詩を書きはじめていた。それが作品となっているかどうかは分らなかったが、自分ひとりの闘いを書きつけることで私は災殃(さいおう、註・災難、わざわいのこと)の閲歴に耐えなければならなかった。私の裏切りと私への裏切りという言葉のあいだを掻き分けて私は自分の本当の顔を探し出すために狭い牢獄のような病室の中で私自身と対い合っていた。
そうした隠微な闘いの反動なのか私は素朴な生き方をしている人々の話が聞きたいと思った」
しかし、これは回心であったろうか?回心であり、回帰であったではあったろうが、父への心情的な降伏を意味するものではなかったし、またマルクス主義からの転向でなかったことは上記の清二自身の回顧談が証明している。

「彷徨の季節の中で」は、この後、病も癒えた私(甫)が屈折した心を抱いて、「競争世界から脱落することによって」自由になり、「本来の自分に還る」生活を志している、かつての同志を東北に訪ねるところで幕が降ろされる(註)。
が、その前にどうしても済ましておくべきことがあった。「私の場合、宿命に反逆することで自由になれると思っていたが、反逆のための戦いのあいだ、私を支えたのが幼年時代の生活の記憶であったのは、私の思想にとって皮肉なことではなかったか」。この痛切な思いに駆られて、私は「本来の自分に還る」唯一の場所であったかつての三鷹下連雀の家を求めさ迷うのである(三鷹訪問は戦時中に次いで二度目である)。そこで目にしたものは、時の推移に変わり果てた記憶の形骸でしかなかったのである。
(註・この同志は、共産党に全財産を捧げ革命の夢破れてのち、東北で生活していた詩人の郡山弘史、吉江夫妻がモデルである。)

     素朴なものを信じて/美しく生きた人の話が聞きたい
     いつか/用意が出来たと言いきれる人の
     優しさについてすつかり聞きたい

     忍耐とは/おのれに絶望しないこと/素朴なものを信じて  
     一番暗い闇からさえ/美しく生きた人の話をききに
     人は鳩を放つと言うことを/俺は確証したいのだ
                                      (辻井喬第一詩集「不確かな朝」より)

こうして津村甫の現実回帰(議長秘書受入れ)につながっていくのであるが、それは堤清二の回帰であって、分身の辻井喬を引き連れての全面的現実回帰でなかったことは、前述の「私はノートに詩を書きはじめていた」以下の文章が明かしているだろう。
そのように想いたいのではあるが、本当にそうなのであろうか、もしかしたら逆ではないのか。辻井喬が真であって堤清二が虚ではないのか?
津村甫は堤清二なのか、辻井喬なのか、よくわからなくなってしまうのである。精巧な自画像を描いた画家との関係のごとくに。
これはつまるところ辻井喬が、作家一辺倒でないところからもたらされる(堤清二という個性が、辻井喬を上回るほどに突出していることによる)違和感の故なのか。大企業の経営者にして作家であることが反発しあってうまく像を結ばないのである(例えば、辻井喬の前に取り上げた北杜夫の本名は斎藤宗吉であるし、「彷徨の季節の中で」を書き上げた頃、交流のあった三島由紀夫の本名は
平岡公威であるけど、辻井喬X堤清二のような混乱は起こらない)。このような文学者ってかつていたっけ?

思いあぐねて、それとなく広辞苑を引っ張り出し「彷徨(ほうこう)」の欄を覗いてみた。
すると[さまようこと。うろつくこと]との語釈に次いで、【彷徨変異】という聞きなれない言葉が併載されていた。[生育環境の影響で同一種の生物の個体間に生ずる量的変異。変異の大きさは或る値を中心に連続的に分布し、遺伝しない。個体変異]と説明されている。
念のため【個体変異】も引くと、[①同一種の生物の各個体間にある変異②環境の影響で生じ遺伝的でない変異]とあった。
であるならば(学問的なことはわからないけれども、字義通りに?勝手に解釈すれば)、堤清二という人は生育環境での影響の量的変異の振り幅が相当に大きかった人なんだ、という至極真っ当な感想が改めて湧いてきて、それは一人の人間が人間としての内面の平衡を保つために、両極端であってもシーソーのように堤清二、辻井喬の二面性が必然だったのだと、独り合点してみたのではあったが・・・さて?


(以下、「彷徨の季節の中で」(4)につづく。)







自由人の系譜 辻井喬「彷徨の季節の中で」(2)

父親の津村孫次郎(堤康次郎)に、底意地の悪い反抗を執拗に繰り返していた長男孫清(清)の「結婚披露宴は、丸の内の東京會館で、盛大に(856名の参会者を得て)、まばゆいシャンデリアの下で開かれた」。「私はふと頬に視線を感じて振りむいた。すると母よりは七、八歳若い婦人が私を見詰めているのに出会った。顔の輪郭が丸くて温和な感じの女性だった」。
その女性が〈むこうの奥さん〉であるのを思い出した。「獣が嗅覚を動かして敵と味方を識別するように私は彼女を見た。だが、彼女の視線に敵意は感じられなかった。私は緊張を解き、むしろぼんやりした好意すら意識した」。
やがて父の挨拶とともに宴は終わった。「孫清と緑は出口の金屏風の前に場所を移して、帰る人々に挨拶をしていた。私は父と並んだ〈あちらの奥さん〉の姿をはじめて見た。父よりも老けた感じで、柔らかすぎる髪が鬘(かつら)のようにぴったりひたいにくっついていた。先入観があるせいか、その顔は意地悪そうに見えた」。「会釈をして顔をあげた父は、胸を張って一人で歩いている私を見て驚いた。母と美也(妹)は別の出口から出たので、私は二人の分も代表して正式の出口を通ったのであった」。

やがて廃嫡される長男の華燭の典に、彼の実母でもない父親の女たち三人が一堂に会するというのも、なかなかにドラマチックで、そしてかなり異様な光景ではあるが、甫(はじめ、辻井喬)が垣間見た〈あちらの奥さん〉も〈むこうの奥さん〉も位置を一つずらせば、そのまま甫の母多加世(青山操)の立場にすり変わるのだった。
この祝宴で、彼女らそれぞれが決して言葉など交わさなかっただろうことが想像されるように、これ以後、この三人の女がそろって顔を合わせる場面はなかったものと思われる(そして多加世と〈むこうの奥さん〉が〈あちらの奥さん〉を盗み見たのも、この日が最後であったのでは)。
ところが〈むこうの奥さん〉の方は、式後まもなく甫たち母子の前に男児(小説名孫治、康次郎の三男義明)を連れて、その姿を現わしたのである。続けて、そのくだりを「彷徨の季節の中で」から抜書きする。

「その日の新聞はイタリアが連合軍に降伏したことを告げていた」とあるので、昭和18年9月初旬のことか(だとすれば、戦争たけなわの頃なので孫清の結婚式は随分と派手に挙行されたようだ。つまりあれほどいざこざがあっても、未だ孫次郎は孫清を後継者に考えていたということにもなるのだが)。
「夕食のあと私達は不思議に静かにしていた。父が急に顔をあげて言った。『甫と美也、今晩お前らの弟が挨拶にくる。今まで話してなかったが、可愛がってやれ』私は驚いて母の顔を見た。無表情を装っていた母は私と目が合った時、カンニングを見つけられた中学生のような表情をした。母のバツの悪そうな薄笑いを見て、私は目を合わせたことを済まなく思った。・・・(女中の)報せで父と母が席を立ち、やがて私と美也が奥の間によばれた。部屋に入ると、殊更地味な紬(つむぎ)の若い婦人が、小さい男の子を連れて座っていた。・・・私に微笑みかけた、あの婦人だった。
『この人が、孫治を今日まで育ててくれた田沢静江さんだ』と父が言った。彼女と孫治を眼の前に見ると、私にははじめて異母弟がいるという実感が湧いてきた。それは奇妙な、バツの悪さを伴う不快感であった。田沢静江が、数ヶ月前、私がそうとは知らずに憧れた婦人であったことが、私の心を混乱させた。孫清が、はじめて三鷹の家にきた時、母と孫清のあいだには濃密な感情がゆきかったことを私は想起した。ちょうど結婚式場での私と田沢静江との場合のように」

このあと、甫の部屋に入ってきた孫清との問答が描かれる。「さっき孫治とその母親が来たろう」。「ええ、でも御大はあの人のことを、孫治を育ててくれた人だって言ってましたよ」(私はどういうわけか庇う姿勢になった)「育ててくれた人?違いないね」。「でも甫君には分っているはずだ、まっすぐ見なきゃあなあ、実際のところを。田沢静江は御大のこれですよ」(孫清は小指を突き出した。私は彼女のことをそんなふうに言って貰いたくなかった)「前から甫君に言おうと思っていたんだが、御大の前で、孫治とあんまり仲良くしちゃあいけないよ、僕ともだ」。
「だって考えてごらん、僕と甫君と孫治が仲良くするとするだろう、それに美也ちゃんがね。四人は御大に対して同じ立場なんだよ。みんな妾腹の子で、庶子、つまり戸籍上は、父親の認知せる生母不詳の子なんだ。この四人が結束することは御大にとって脅威だ」(呆気にとられている私を見て、孫清は自分の唇のまわりを赤い舌で舐めまわした)「勝つか負けるか、権力の座というのはそういうものなんだ。殺すか殺されるかなんだ。親と子の間だって、服従か反逆しかない」(孫清の眼は、暗いものに魅入られてゆく男の残忍な喜びに震えた)。

「僕の言うこと分らないかな」。「分るよ、分っているさ」(私は苦い薬を飲まされたような気分で答えた)「孫治のことを僕に話した時、御大は、『戦争も烈しくなったし、いつどういう事が起らんとも限らん。津村家を繁栄させるのは先祖からこの家を預かったわしの責任なのだ』って言ったさ。そんな理屈が嘘だってことぐらい僕にも分っている」(私はいらいらして言った)「だけど四人が喧嘩したら、困るのは御大じゃないか」(孫清がすかさず反問した)「どうして」。「だって御大はあとの事が心配だろう。お家騒動が起ったら困るじゃないの」(孫清は蔑〈さげす〉む眼で私を斜めに見下ろした)。
「御大は自分が死ぬなんて夢にも考えちゃいないのさ。独裁者はみんな自分を不死身だと思っているもんだ。だから子供達、庶子達を仲違いさせて、自分はその上に乗ってゆくつもりだよ。分裂させて統治せよだ」。
「人生は結局要領ですよ。それには人の気持ちを一足先に読むことだ。僕は子供の頃からその訓練をさせられてきたからね、分るかな」(と、孫清が言い足す)。

(この会話は、廊下で茶碗が割れる音がして中断された。女中に聞かれたのだ。女中の告げ口で飛んできた母が、きつい眼で孫清を詰問した)「孫清さん、あなた、まさか、お父さんをー」(孫清は母にむかって両手をついた)「そんなこと、このあいだはどうかしていたんです、義母(かあ)さん、いくら僕だって」。「そうでしょうね、甫は今試験前の大事なからだです。変なことに引張り込まないで下さいね」。「僕がいけないんだ。御大を殺すなんて」。「それならいいのよ、私だけに収めておけばいいんだから。緑は大丈夫よ、あなたよりもしっかりしてますよ」(母は優しく宥〈なだ〉める口調に変っていた)。
孫治と緑が新婚旅行から帰った後、「孫清さんはあれができなかったらしい」、「不能なのだ」(という噂がひろまり、二人は父の部屋に呼び出され長時間叱責を受けていたのだった。そのあと、母と孫清が暗い納戸〈なんど〉であたりを憚(はばか)りながら、烈しく言い争っていたのを私は偶然耳にしていたのである)。

「でも僕は辛いんです。『わしの子を産め、二人産め、今産めばわしのか孫清のか分らないー』なんて、あんまりだ。いくら僕に子供が作れないからと言ったって」(孫清の声は乱れた)「緑がそんなことを言いましたか」(母の鋭い言葉が撥〈は〉ねた)「御大はそんなことを言うはずがありません、それはこのあいだも言ったように嘘。あなたを刺激するために緑のつくった嘘なのです」(沈黙が落ちた。二人は無言のまま対峙していた。憐れみと憎悪と嫉妬が飛び交った)。
「お義母さんはそう思うでしょう、そう思いたいでしょう。だが僕には分っているんだ」(涙でくしゃくしゃになっていた孫清の顔は、脅すような口ぶりで獲物を狙う蛇になっていた)「でも、あなたは不能ではないわね」(母は孫清の凝視を気強く押し返す構えを見せて横坐りになった)「僕だって、御大のことを畜生!って思えば出来るんだ。このあいだ便所の中でやった」(父に呼び出され長い叱責を受けた後、孫清と緑が便所から出て来るのに、私は鉢合わせしていた)。

(言い終わって孫清は呆けたように、動きを止め、乾いた笑いが立ち笑いは次第に大きくなった。恐怖を撒き散らして、突然、真顔で言った)「でも、このままでは緑が死んでしまいます」(今度は母が面を伏せた。母と孫清の隠微な闘いは、上になり下になりしていつまで続くかと思われた。私は息苦しく、言葉を挟むことができなかった。堪え難さは次第に私の内部で腹立たしさに変質していった)「もう止めましょう。あなたが大それたことさえ考えなければ、それでいいのよ」。
(母は素早く立上った。襲いかかってきそうな激情からなんとかして身を避けようとしている恰好であった。孫清の顔に陰鬱な笑いが浮び、私を振返った。それを見た時、私の内部の怒りは急激に膨れあがって抑えられなくなった)「何故笑うんだ」(と私は口走った。自分が何を言い出すのか分らないほど私は怒っていた)「笑えるようなことじゃないじゃないか、孫清さん」(と、私ははじめて異母兄をさん附けで呼んだ)「正面から堂々と闘おうとしないから、こういうことになるんだ」(それだけを口にすると私の憤りは萎えた。結局私が頼りに出来るのは孤独な自負だけであった)。

つい憐れな孫清にこだわり過ぎて長い引用になったのも、このくだりが一人の男に支配される三者三様の心の襞を描いて小説前半屈指の場面であると思われるからだ。初対面の時、「僕はいつも御大(父親)の気のむくまま、恣意のままに振りまわされてきたんです」と、甫たち親子の前で語った孫清の心はすでに病んでいた。麻布の大邸宅で同居を始めた甫の母が、自分の同類かと思っていると最後には身をひるがえされる。まだ中学生の甫も同調者にはなり得ない。
小説だから誇張は当然としても、孫清のモデル清は静岡高校から東大経済学部を出た秀才ながら、「繊細で内向的な目立たない性格で、父親とは全くそりがあわなかった」というのが実情だったようだ。
こうして孫清は(望んだ通りに?)相続権を放棄させられ、「孤独な自負心だけで正々堂々と闘った」甫は、自ら放棄の文言を父親に突きつけた。結果的に漁夫の利を得た形になったのが、孫次郎に全面的に服従しながら成長したといわれる孫治であった。

「イタリア降伏」の日に、「むこうの奥さん」田沢静江に引き連れられて、突如甫たちの前に姿を現したこの孫治こそが、西武王国後継者となる堤義明であることはすでに述べたとおりである。
田沢静江は本名を石塚恒子といい、「彼女たちは(甫たちの住む)麻布の家からそう遠くない渋谷に住み、孫治はそこから小学校に通っていた。彼等は三鷹時代の私達と全く同じ境遇に生きていた」のである。
つまり孫治の出現によって、甫はかつての三鷹時代の自分を見出すと同時に、自分が孫清と同じ立場にいるのを自覚せざるを得なかったのである。甫より7歳下の孫治は、初対面のこの時9歳である(孫清は30歳)。
妾腹三人の義兄弟と父親との関係は、それぞれの個性もさることながら孫清が康次郎24歳の子、清二が38歳、義明は45歳という出生時による父親の年齢を考慮する必要もあるのかもしれない。生まれた時代環境とともに父親の年齢によっても、子供の感受する父親像は違ってくるものだろうから。
結局、父親の人格を最後まで否定したのが長男であり(父親も拒絶で以って処断した)、刃向かいながらも父親を理解しようと(半分妥協し、父親も警戒しながら半妥協)したのが次男、父親のスパルタ教育に不服ながらも全面的に忍従したのが、兄二人を見てきた(父親が後継者に引き立てた)三男であったのかも。

ここで義明の母石塚恒子について述べておく必要がある。が、恒子についても(操同様に)、彼女の父親石塚三郎と堤康次郎の関係から説明しなければなるまい。
大正13年の衆議院選挙に滋賀と新潟から出馬した康次郎と石塚三郎は、初当選同期であり、所属する政党も一緒だったことから親交を重ねた。石塚三郎は、元々新潟の歯科医師であった。
康次郎よりひと回り年上だった石塚三郎は、歯科医になるために上京して、当時唯一の歯科専門学校だった高山歯科医学院(現東京歯科大学)で働きながら学んだ。その学友に会津から出京していた野口英世がいた。二人は無二の親友となった。野口英世はその後、北里柴三郎の伝染病研究所に移り、学業を終えた石塚三郎は故郷で開業し、入院施設も兼ね備えた石塚歯科病院は繁盛した。
一方、24歳でアメリカに渡った野口英世は伝染病研究により世界的名声を得、黄熱病究明中に自ら犠牲になったのは有名な話である。51歳の生涯だった。石塚三郎は親友の偉業を讃えるため私財を投入して、東京新宿に「野口英世記念館」を創設した。友情に篤い奇特な男だったといえようか。その理事に名前を連ねたのが康次郎である。

石塚歯科病院の令嬢として、大正2年に新潟で生まれたのが石塚恒子である。偶然にも長男清と同年生まれなので康次郎より24歳、操の6歳下になる。新潟高女を卒業した恒子は、昭和5年東京の山脇学園に進んだ(操たち親子が、三鷹に移り住んだのはこの翌年である)。
康次郎が石塚三郎との交友を通して恒子と知り合ったのは確実としても、いつ知り合い、男女の仲となったのかは不明である。前掲の上林国雄の「わが堤一族 血の秘密」には、「昭和八年、先代は拓務政務次官(註)になりましたが、その時に次官室に勤務していた女性」だと書かれている。
康次郎の三男、恒子にとっては初産であろう?(註・この疑問符の意味は後章で触れる)義明の誕生が昭和9年5月なのだから、この記述はかなり信憑性があると思われる(山脇学園の卒業は昭和7年だったという)。出会いを昭和8年に特定すれば恒子は20歳、康次郎は44歳であったことになる。以後、二人の間には昭和13年に康弘、17年に猶二が生まれた。
(註・昭和17年まで設置されていた拓務省のこと。海外植民地などを統括していた。)

この事実を知った石塚三郎は切歯扼腕したと、どれかの著書にあったけど、信頼しきっていた康次郎に娘を汚された憤りと怒りは、かてて加えて怒髪は天を衝き、殺気みなぎり、気も狂わんばかりであったはずである。
ところが、上之郷利昭のノンフィクション作品「西武王国 堤一族の血と野望」には、康次郎が所有する箱根の別荘での次のような光景が書かれている。
「この頃、康次郎は正式の席とか遠くへの旅には操を伴って行き、週一度箱根あたりへ静養に出向く気のおけない旅には石塚恒子を連れて行ったようである」との前置きがあって、「恒子の父親石塚三郎が湯上がりに身内の者と冷たいビールをかたむけている。料理の上手な恒子が女中たちに手伝わせて作った肴(さかな)がテーブルに次々と運ばれてくる。石塚三郎たちはそれをつまみながらビールを飲み、アルコールをたしなまない康次郎は肴だけをほおばりながら、一同とりとめのない四方山話にひとときを過ごす。その近くでは、まだ早稲田大学の学生だった義明や、弟の康弘、猶二たちが寝そべって本を読んでいる・・・
知友の娘を手ごめ同然で妾にした男、知友に大切な娘を奪われ、その男の別荘でくつろぐ父親、その二人を眺めながらかいがいしく料理を作る女、奇妙な組み合わせのその三人の姿を眺めている息子たち・・・一人の、想像を絶するような強引な男によって同じ運命のるつぼの中に巻き込まれてしまった人々はそれぞれ何を想い何を考えていたのであろうか」。

義明が早大生になっているので(昭和27年以降か)、もうこの頃には石塚三郎の心頭に達した怒りもさすがにおさまっていたようだ。康次郎と恒子どちらがどうやって(義)父の機嫌をとったのであったか。おそらく、子供まで孕んでしまった愛娘の涙に、我が子可愛さでわけなく石塚三郎は落ちたのかもしれないが、かつて操の父親も野心溢るる康次郎を見込んでいたというからには(?)、やはり康次郎その人に男も惚れ込むような魅力があったのかも。
とはいえ、康次郎との関係が恒子の望んだことでなかったのは明白であろう(恐るべきは虎視眈々と獲物を物色する色魔の毒牙であったのだ)。「真面目で勉強がよくできて、色が白くて目元の涼しげな美人」(同級生の証言)だった国会議員の令嬢が、わざわざ二号さん(いやこの場合は三号さん?)になる必然性はどこにも見当たらないのだから(その証拠に、同級生の間で恒子の消息はぷっつり途絶えたという)。
こうして誕生した義明が後年(昭和62年、註)、世界一の富豪になろうとは母の恒子にとっても思慮分別の及ぶところではなかったであろうし、まして昭和33年に他界した石塚三郎においておやである。
堤義明の資産家への道のりを用意したのはまぎれもなく堤康次郎であるが、その康次郎にしても我が息子が長者番付世界一になろうとは夢想だにしなかったはずである(註)。
(註・1987年から都合六回資産世界一の富豪とされている。)

昭和27年に公職追放が解けて、再び衆議院議員に返り咲いた康次郎は28年に衆議院議長に就任したのであったが、終戦後すぐ公職追放処分が下されていた康次郎はそれまで何をしていたのか。
せっせと土地を買い占めていたのである。戦後の復興とやがて訪れる高度経済成長、田中角栄の「日本列島改造論」に代表される土地ブーム、その後のバブル景気等によってそれらの地所は放っておいても、時の経過とともに莫大な含み資産をもたらしたのである(註)。
堤康次郎が、日本復興を象徴する祭典となった東京オリンピック開催年の昭和39(1964)年4月26日に、心筋梗塞で75歳の生涯を終えたというのは、その意味でも劇的ともいえる。その数日前、恒子同伴で熱海に静養に向かう途中の東京駅で倒れた康次郎は、意識混濁のまま病院で息を引き取ったのであった。
(註・バブル期には、東京23区の土地の値段でアメリカ一国が丸ごと買えたという俗説まで生まれていたほどだ。)

時の首相池田勇人を葬儀委員長に、豊島園で自民党葬として政財界の歴々を集めて行われた葬儀は注目された。すでに西武百貨店社長の職にあり着々と業績を拡大していた37歳の清二、早稲田を卒業しコクドの社長ながら経営手腕は未知数の29歳の義明のどちらが喪主を務めるのか。喪主すなわち後継者を意味していたからであった。後を継ぐのは実績があり、兄である清二であろうと外部の大方はみていた。西武内部でも両派の対立があったという。が、当日の喪主を務めたのは義明であった。
既述したように、二度にわたって財産を受け継ぐ気がないことを生前の康次郎に文書で宣言していたのを、清二が実行したからである。清二の後継者レースからの棄権によって(操夫人も事態を静観したようだ)、堤家再興を誓約して康次郎がなりふり構わず築き上げた莫大な遺産は、そっくり義明に引き継がれたのである。
この時、清二があくまでも自己の権利を主張していたらどうなっていただろうか。西武は内部分裂して、収拾不能に陥っていたであろう。

といっても、清二が遺産を何一つ承継しなかったわけではない。西武百貨店を筆頭とする西武流通グループをそれまで通り清二が継ぎ、西武鉄道グループを義明が引き継ぐことを暗黙の了解としたのであった。しかしながら、相続時点での西武流通グループと西武鉄道グループの規模は、比較にならないほどの差があったので、清二に同情する声が多かったともいわれている。
しかも西武百貨店は、康次郎の無謀な計画でその二年前にアメリカ出店を企て(この葬儀の一ヶ月前に撤退してはいたけれども)膨大な損失を抱えていた上に、旗艦の池袋店は前年に火災事故を起こしていたのであった。つまり、その頃やっと三流デパートから抜け出しつつあった西武百貨店は、存亡の危機にさらされてもいたのである。
どうにかこの窮地も、清二の大胆で緻密な経営戦略で乗り切り、やがてはデパート売り上げ高日本一の座を奪取するまでに業績を拡大したことはすでに述べた通りである(二つのグループの財産分割が正式に決定されたのは、昭和45年の康次郎の七回忌においてであったといわれる)。

生前の康次郎からきびしく帝王学を仕込まれていた義明は、「十年間は動くな」という父の遺言を守って、新たな事業展開を極力控えたという。
高輪プリンスホテルだけは康次郎の死から七年後の昭和46年に完成されたが、西武鉄道グループが積極的にプリンスホテル建設に動き始めたのは、昭和49(1974)年からである。その建設ラッシュは、以後十年間だけでトロントプリンス(カナダ)と富良野プリンスが昭和49年、箱根芦ノ湖ホテル(昭和50年、以下同)、日光プリンス(51年)、十和田プリンス、新宿プリンス(52年)、成田プリンス、箱根プリンス、品川プリンス(53年)、嬬恋高原ホテル、西武長瀞ホテル(54年)、サンシャインシティプリンス(55年)、屈斜路プリンス、彦根プリンス(56年)、新高輪プリンス、軽井沢プリンス新館、ニセコ東山プリンス(57年)、赤坂プリンス新館(58年)、六本木プリンス(59年)といった具合である。
球団経営にも乗り出して、昭和54年には西武ライオンズ球場を完成させ、併行してゴルフ場、スキー場、スケート場等レジャー関連施設も次々に落成させていった。堤義明の黄金時代の到来である。銀行はもとより、全国各自治体までもが競っての西武詣で始まったといわれている。むろん銀行は西武の膨大な含み資産を見越しての無担保融資増大に、地方自治体はそれぞれの地元に西武のリゾート施設誘致の懇請に平身低頭したのである。

話半分としても物凄いことであるが、やがてはこれらの現象がバブル騒乱時代を生みだしていく。日本のバブル経済は昭和61(1986)年頃から始まったといわれるけれども、それに符節を合わせて堤義明は世界一の大富豪に上り詰めていったのである。
しかし世界一は単なるオマケのご褒美であって、その兆候はバブルになるずっと前から起きていたというべきだろう。事業家としても義明は、「日本株式会社」を代表する当時のトップ経営者たちから、抜群の経営感覚を有する新時代のカリスマ経営者と持ち上げられ、(その代表例として)あの経営の神様松下幸之助からも「君は二代目でなく、立派な創業者だ」との太鼓判を押されていたのであるから。なので堤義明については、(父康次郎や兄清二ともども)たくさんの実録本(ヨイショ本も含めて)が書かれているのであるが、上記の上之郷利昭「西武王国」(1982年講談社刊)もその一冊に加えていいだろう。それに後年、世界の億万長者になる男にふさわしい婚礼の場景が紹介されている。

式典会場は高層建築の幕開けを告げた東京プリンスホテルである。この東京プリンスホテルは、昭和39年のオリンピック開催に合わせて堤康次郎が建設を始め、その死去で落成を見ないままとなったホテルであり、プリンス系シティホテルの草分けでもある(初代支配人は操がつとめた)。
高松宮夫妻、三笠宮夫妻と令嬢をはじめ法務大臣、通産大臣、経済企画庁長官、衆参両院議長、日銀総裁、興銀頭取、経団連会長、東急社長、日本航空社長、三菱商事社長、八幡製鉄副社長、富士製鉄社長、日清製粉社長、サンケイ新聞会長、早稲田大学総長、元慶應義塾塾長、前首相池田勇人未亡人と令嬢、元首相岸信介、画家岡本太郎、在日大公使四名、在日米軍代表、県知事四人、芸能界関係など総勢千五百人がこの日の来賓だとある。
役職名の後にはもちろんその時の人物名が入っている。日清製粉社長は美智子妃父君であるし、サンケイ新聞会長水野成夫は後年堤清二の義父になる人物であり(辻井喬の伝記小説「風の生涯」の主人公でもある)、東急は康次郎の時代に激しく利権を争ったライバル会社である。媒酌人は福田赳夫であった。

昭和41(1966)年3月1日(義明31歳)に行われた式典は、NHKの人気アナ宮田輝の司会で進められ、総理大臣佐藤栄作からの祝辞が内閣官房長官によって読み上げられ、吉田茂元総理の祝電が披露された。「姿を見せなかったのは天皇御一家だけー」と雑誌に載った見出しを引いて、「西武王国」の著者は、その豪華絢爛の様を伝えているのにつづけて、「会長が生きておられたら、どんなにかお喜びだろう」と、会場を埋めた来賓に絶え間なく会釈しながら語る故堤康次郎未亡人操さんの声は、嬉しさと興奮にあふれていたーと、この日の模様を伝えている。
うん?。来賓の間をぬって満面の笑みで挨拶を交わし礼を述べるのは、本来新郎の実母である石塚恒子なのでは?
ところが、孫清の結婚式にひっそりと出席していた(小説の叙述が事実通りであるとすればだけど)はずの「むこうの奥さん」石塚恒子の姿は、息子の一世一代の晴れ舞台のどこを見回しても見当たらなかったのである。

「新郎の母としてこの席に参加することを許されなかった」「義明の母」と、文中にあるのだが、いったい誰が許さなかったのかについては記されていない。上記の文章をもう一度読み返すと、故堤康次郎未亡人操さんと紹介されているのに気付くであろう。
つまり清二の母操は、「あちらの奥さん」と離婚した康次郎の後釜に収まり、青山操からすでに堤操となっていたのである(このことにはある事情が働いていた。章をかえて後述する)。
この日、石塚恒子がどうして出席しなかったのか、もしくは出席出来なかったのだとしたらそこにはどういう事情が働いていたのだろうか?
恒子自身が自分の立場を慮って息子のために自粛したのか。それとも操が、あるいは西武の幹部たちが拒んだのか。それに同意して当の義明が出席をとどめたのか。真相は藪の中である。もし康次郎が生きていたら、どうしていただろう?(康次郎は二年前に死去していたが、この項冒頭の孫清の結婚式のように、恒子をそっと片隅に出席させていただろうか)。

西武王国後継者の新婦は、家柄閨閥とはまったく関係のない平凡なサラリーマン(三井物産勤務)の娘で、恒子はこの女性を以前から知っていて、義明本人よりも先に恒子の方が気に入った花嫁であったようだ。義明の結婚には、それまでに義明のことをたいそう見込んだ池田首相から娘との縁談を持ちかけられていたのを、いまだ存命中だった康次郎が断ったとも伝えられれている(長男清の妻の素性ははっきりしないながらも、義明よりも先に結婚していた清二の妻も平凡な家庭の娘ことを考え合わせれば、康次郎自身は子息の結婚に家柄閨閥等には全くこだわらなかったことを示す康次郎伝説の一つということになるのだろうか)。
この結婚に際しての義明の気持ちをあえて忖度(そんたく)するならば、義兄たち(清や清二)同様に母の不遇を幼少の頃よりずっと見続けてきた義明は、結婚において自分の好き嫌いなど度外視して、ここぞとばかりに母親孝行で応えたのであったろうか。
この日の新郎新婦の間には、やがて二男一女が誕生した。が、新郎にその後、幾人かの愛人が存在していたことが、西武王国の内幕を暴露した出版物などで次第に明らかにされていったのも、まさか、家庭の外に女を囲うことは男たるものの心得であり甲斐性なのだ、と帝王学の要諦として康次郎が後継ぎ息子に伝授した!わけでもあるまいに。


(以下、「彷徨の季節の中で」(3)につづく。)

自由人の系譜 辻井喬「彷徨の季節の中で」(1)

「生い立ちについて、私が受けた侮辱は、人間が生きながら味わわなければならない辛さのひとつかもしれない。私にとっての懐かしい思い出も、それを時の経過に曝してみると、いつも人間関係の亀裂を含んでいた。子供の頃、私の心は災いの影を映していた。戦争は次第に拡がり、やがて世の中の変革があった。私は革命を志向したが、それは、外部の動乱ばかりが原因ではない。私のなかに、私の裏切りと私への裏切りについて、想いを巡らさなければならない部分があった」
「彷徨の季節の中で」のページをめくると、いきなり目に飛び込んで来るのが、この前文である。それまでに詩集三冊を上梓して詩人として認知されていたものの、「彷徨の季節の中で」は辻井喬にとって初めての小説であった。処女作冒頭に、このように重苦しく意味ありげな文章が掲げられてあれば、たとえ作者を知らなくても興味を惹かれるであろうに、ましてや小説が作者の実人生に基づいた自伝に近い内容だと知れば、なおさらのことに。

小説発端で「私達、つまり私と母と妹の美也は、私が六歳の時に東京の郊外に移り住んだ」と書き出される土地は、まだその頃武蔵野の新開地だった、昭和8年前後の三鷹村下連雀(註)のことである。「できたばかりの中央線の駅前に、数件の商店が並んでいるだけ」で、「周囲は一面の麦畑で、雑木林や欅の群生が点在し、人々の家はたがいに離れて、林や木立に身を寄せるように建っていた」。「引越しは母の病気と私の健康を考えて計画されたのだと思う」とあるのは、私が生れつき病弱な体質であったのと母親が結核を患い横になっていることが多かったからである。
やがて辻井少年(小説名山野甫・はじめ)と妹の美也は、近接する町の小学校に入学する。「学校に通うようになっても、あまり友達はできなかった」私は、「蝶や蟻や蜻蛉を追い」、「野菜や草花を眺めていると」「時間を忘れた」。「気候のよい日など、母が起上って庭を歩くことがある。すると私と美也は、『お母さんが起きた、お母さんが起きた』と囃(はや)しながら、夢中になってそのまわりを跳びはねた」。
(註・小説とは関係ないが、入水自殺した太宰治が住んでいたことで有名。)

「週に一度、父が旧市内の家からやってくる日をのぞけば、三鷹での生活は、三人だけの、鳥や虫や植物たちの営みに囲まれた、閉ざされた世界だった」
なぜ父親が時たまにしか顔を見せないのか。それは私の母が正妻でなかったからである。
「父が家にいないということで、学校の友達は私を仲間はずれにした。二年生になって間もないある日、〈妾の子〉という侮蔑の言葉を投げた同級生を、私は気が狂ったように撲(なぐ)っていた。(略)その日、XXは本気で怒った私に捕らえられ、教室の入口に敷きつめた玉砂利に頭を何回か打ちつけられて、必死に助けを求めた。授業の開始を告げる鐘の音が、馬乗りになってXXを撲りつけている私の頭上に鳴り響いた。校舎から出てきた女教師が一瞬たじろいだほどに、私の小さなからだには殺気が漲(みなぎ)り、玉砂利には血が流れていた。
ようやくのことで女教師に引離されて、私は声を張りあげて泣いた。暑い太陽が喚(わめ)き叫ぶ喉の奥に焼きつき、校舎の壁がまぶしく白く光っていた。私は抗議がしたかったのだ。その抗議をすべき相手が、家にいない父なのか、病身の母なのか、あるいは私達の上に影を落している大人の世界なのか、私にはよく分らなかった」

「それから数日たって、美也が学校から泣きながら帰ってきた。私はXXに侮蔑されたことをかくしていたが、一年下の美也は母に問いただされて、学校でいじめられてきた経緯を話してしまった。『だってみんな美也のことを〈妾の子〉っていうんだもの』『バカ、美也はバカだ』と私は妹を叱りつけた。『なにを言うのよ、あんたは、そんな・・・』と絶句している母の顔を、私は見ていることができなかった。『甫も美也も、ちゃんとした、士族の、私の子供、なんだから、誰にも、指一本ささせません』言ってるうちに、母は激して叫んだ。『先生に言ってきてあげる』『よしなよ』私は自分でもびっくりするような、きつい調子で言った。母の表情の変化から、私は私達に弱みがあるのを感じていた。この話題から早く離れたかった。『美也、こっちへおいで』『甫ー』と私を呼ぶ母の声を背に聞きながら、私は美也を庭の隅に引張っていった。金魚のお墓を見ようよ」と。
「妾、という言葉が何を意味しているのか、私には分らなかった。ただそれが侮蔑を意味していること、自分には責任のないなんらかの理由によって、私達が不当に侮蔑される立場にあることを、私は感じていた。私が闘わなければ、母もそれと闘うことができないのだ、という発見に私は驚き、緊張した。その頃、代議士をやりながら、事業をはじめていた父は私達三人の生活、郊外での、閉ざされた生活の外側に住む、外部の、大人達の世界の人間であった」

母の呼びかけを無視して、妹を「金魚のお墓」へと誘い出す甫少年は最早、健気さを通り越していけ好かないねじくれた心情を垣間見せている。このおよそ子供らしくない態度には、三鷹の家にやってくる父に「いつもは寝たり起きたりしている」母が、にわかに活気づいて「女学生のように」「華やいでいる様子」を幾度も目の当たりにしていたからである。
この世で唯一の絶対的理解者であるはずの母が、たちまちにして父親と同じ「外部の、大人達の世界の人間」へと様変わりするのである。子供心には不審極まる母の裏切りと映っていただろう。
そのような三鷹での生活も、昭和14(1939)年の中学(旧制)入学の夏に終わる。父親が買収した港区の麻布広尾町(現・南麻布五丁目)の豪邸で親子四人の暮らしが始まったからである。中学入学を控えて私の名前は山野甫から父の苗字である津村甫に変わっていた。母だけが山野姓のままだったのは、別居中ではあったが父には本妻がいたからである。

しかしながら少年の日がそうであったように、父親との同居も甫(私)にとって歓迎すべきものではなかった。それどころか新居における忌まわしい事実の数々は、むしろ甫の心に父親への新たな敵愾心を植え付けたのであった。
それは麻布の家とは別に、品川と渋谷に父孫次郎の別宅があり、そこには「あちらの奥さん」である本妻と、甫の母と立場を同じくする「むこうの奥さん」と呼ばれる女がいて、「むこうの奥さん」には甫たち兄妹より年下の男の子が二人(現実には三人)いることを知るとともに、「あちらの奥さん」に子供はなかったが、「あちらの奥さん」に育てられたという長男孫清(年の離れた甫の異腹の兄)が麻布の家に同居しており、異様な反抗心で父孫次郎とことごとく対立する狂気染みた姿を、幾度も目にすることになったからである。
が、子供のない本妻を遠ざけて愛人を囲(かこ)いそれぞれに子供をつくることなど、津村孫次郎の人生哲学においては当たり前のことであったのだ。「女の腹は借物」とばかりに手当たり次第周りの女を籠絡する孫次郎の無節操ぶりに直面すれば、孫清や甫ならずとも正常な親子関係が保てるとはとうてい思われない。しかしながらこれらのことは小説上の誇張のみではなかったようである。事実そのままではないにしても事実そのものではあったようだ。

自伝というからには、それぞれの登場人物には当然モデルがいる。辻井喬について余り詳しくない人のために、ここで津村孫次郎の正体を明かせば、国会議員にして一代で西武グループをつくりあげた立志伝中の人物堤康次郎その人である。したがって小説の主人公甫こと辻井喬は、かつて西武百貨店を中心にセゾングループ総帥として華々しく実業界で活躍した堤清二(康次郎の次男)の筆名なのである。同様に甫の母は青山操といい、一歳違いの妹は堤邦子のことである。
「彷徨の季節の中で」の叙述のみならず、堤康次郎の女への執着はつとに有名で数多の証言がある。そのひとつが「(康次郎の)嫡出児でない子は十人近くもいたのである」、「認知されていないし、堤家の家系図にもでていない人で、堤の子供であるということが明白な人も、二人や三人ではない」というものだ。
これは戦後に西武グループの専属顧問弁護士をつとめ、康次郎の側近だった中嶋忠三郎の著書「西武王国ーその炎と影」にある。大げさすぎるような気もしないでもないが、全く根拠のないデタラメでもないようだ。その証拠かどうか、この中嶋の著書は平成2年の発売直前、西武側に全冊買い占められ、事実上の発禁本にされたという。
ところが、西武グループの実質上の後継者となった堤義明(康次郎の三男)が商法違反で逮捕されるや、新装版なって再刊行されたという曰く付きの本なのだから(この著書については章を改めて詳述する)。

思わぬ方向へ話が流れた。ともかく孫次郎は、自分の蒔いた種(不身持ち)によって長男(孫清)と次男(甫)の反逆にあうのであるが、これ以後「彷徨の季節の中で」に描かれるのは甫が高校を卒業し、東京大学に入り、左翼運動に挫折し、結核に罹患し、得恋と失恋を経てかつて母子三人の生活があった三鷹の家屋を訪ね、「幼時の記憶という拠り所を捨てて、私の裏切りと私への裏切りを摘発するために私は過去から自由にならなければいけないのだ」と、再自覚するまでの蹉跌の経歴である。

堤清二は昭和2(1927)年東京に生まれている(註)。辻井喬筆名での「彷徨の季節の中で」が発表されたのは昭和44(1969)年であった。その三年前に、堤清二は西武百貨店代表取締役に就任していた。登場人物全てを仮名にしているものの、辻井喬=堤清二だと知っている人たちは、この小説が堤家の内情を赤裸々に描いているのに驚いたであろう。自らの出生にまつわる疑惑にとどまらず、父親の不行跡はおろか一族の骨肉相食(は)む恥部までをさらけ出したのである(堤清二は、この作品で袋叩きになることを覚悟していたと言っているし、実際にその通りの現象が起きたという)。
しかし、辻井喬という分身名で敢えて淫靡(いんび)ともいえる家族絵図を世間に公表することによって、辻井喬=堤清二(かつての津村甫少年)は「私の裏切りと私への裏切りを摘発」し、「過去から自由に」なろうとしたのだと思われる。その意味で「彷徨の季節の中で」は、堤清二=辻井喬において、どうしても(いつかは)書かれなければならない小説であったのである(なお、父康次郎は小説発表の五年前に死去していた)。
(註・同年生まれには北杜夫、吉村昭、藤沢周平、城山三郎などがいる。)

経営者堤清二は西武百貨店を率いながら次々と事業を拡大していく一方で、文学者辻井喬も「彷徨の季節の中で」以降も事業の合間を縫って(註1)、妹美也(堤邦子)及び母(青山操)の物語ともいうべき長編小説「いつもと同じ春」(1983年、56歳)と「闇夜遍歴」(1987年、60歳)を書き継いでいくのである。これらは自伝三部作と呼ばれている。さらにその集大成として、はるか後年になってではあるが父堤康次郎を総括した大作「父の肖像」(2004年、77歳)で家族の物語を締めくくった(註2)。
経営者堤清二と文学者辻井喬ともどもが、それぞれの分野で卓越した評価を得たことは、事績が急速に忘却されていく現代において、それこそいまや知る人ぞ知ることであるのかも。
(註1・上之郷利昭著「西武王国」には「清二を知る詩人の大岡信は、堤清二をおだやかで爽やかな男であると称えながら『しかし、深夜、詩人辻井喬の顔は鬼になっているはずである』と語った」とある。註2・カッコ内は、刊行年と著者年齢。なお「虹の岬」は1994年、67歳の年に刊行されている。)

それでも今日において、どちらかというと辻井喬という仮名よりも実名である堤清二の方が通りがいいのかもしれない。堤清二こそは、1960年代から90年代のバブル経済終焉を迎えるまで、西武百貨店を中心に一大企業集団セゾングループを形成し、数々の文化的事業で時代をリードしたカリスマ経営者であり続けたのだから(最盛期の売り上げは5兆円、関連企業200社、従業員は10万人を超えていたといわれる)。
「不思議、大好き」、「じぶん新発見」や「おいしい生活」(註)、「ほしいものが、ほしいわ」など、今でも耳になじみがある(1980年代の糸井重里の)キャッチコピーとともに、それまで三流デパートに過ぎなかった西武百貨店を(三越を抜いて)売上高日本一にまで改革したのは、まぎれもなく堤清二の功績であった。渋谷パルコあるいはパルコ劇場、セゾン美術館、大型書店リブロ等の文化施設や西友、ファミリーマートもしくは「わけあって、安い」の無印良品などで堤清二の名を今以て連想する人は多いだろう。
苛烈なビジネス戦争の第一線での繁忙の日々を送りながら、深夜の書斎で堤清二はそっと辻井喬に変貌して詩や小説を書いていたのである。それは過去へと幽閉される辛く苦しい忍従の作業であったかもしれないが、同時に堤清二から解放されるひとときでもあったにちがいない。
(註・2011年刊行の「日本のコピーベスト500」によれば、「おいしい生活」は広告コピーとしてベストワンの評価を得ている。)

が、ここからは順序として堤清二の父であり、明らかに文学者辻井喬の誕生を促したと思われる堤康次郎の生涯について述べて置く必要がある。
堤康次郎は明治22(1889)年に滋賀県に農家の長男として生まれた(弟と妹あり。註)。ところが5歳の時に、父親が腸チフスで死去。母親は実家に戻りすぐさま商家に再嫁したので、祖父母の手で育てられた。祖母に次いで祖父が亡くなると、田畠を担保に資金を作り二十歳で上京、早稲田大学政治経済学部に入学。やがて早稲田の創始者で政界の重鎮大隈重信や永井柳太郎などの知遇を得て、大隈が主催する政治評論雑誌「新日本」の編集に携わる。この時の編集同人に恋愛の末、二番目の妻となった川崎文がいた(文は2歳年上で、平塚らいてう「青鞜」とも繋がる日本女子大卒の進歩的女性記者だった)。
(註・室生犀星、久保田万太郎、岡本かの子、内田百閒などが康次郎と同年生まれ。)

最初の妻は西沢コトという遠戚の女性で、二人の間には明治42(1909)年に長女(淑子)が誕生しており、上京前にして康次郎は父親だったのである。のみならず、上京後も早大生でありながら学業よりも色々な事業に手を延ばしていた康次郎には、その過程で知り合った女性(岩崎その)との間にも、大正2(1913)年生まれの長男清がいたのである。
この清が「あちらの奥さん」(川崎文)に育てられた孫清である。清二より14歳年長の清は、清二と同じく東京大学を出て康次郎の会社で働いていたのだが、のちに廃嫡された。その原因が、小説に描かれるように清本人にあったのか、妻(小説名緑)にあったのか、それとも別の理由があったのかはのちに判明する。

堤康次郎は、政治家よりも西武グループの創業者として名前が通っているだろうが、その事業の基礎となったのは大正4(1915)年の中軽井沢開発だったといわれる。
当時、沓掛(くつかけ)と呼ばれていた一帯を中心に八十万坪の土地を買い上げ、別荘地として売り出したのである。買収資金は当時の金で三万円(現在では?億円に)。それを学生服を着た康次郎が沓掛の村長相手に凄んだ、という(尾ひれの付いた)伝説になっている。文夫人が実家から工面して資金の一部を援助したというが(全額という説もある)、不足分はその頃の十円札の大きさに新聞紙を切り揃えて、その上下に本物の紙幣を重ね、それを見せ金にして居並ぶ地主を手玉に取ったというのだから、すでにして詐欺師まがいの大物ぶりを発揮していたわけだ(手付け金だけ先に渡し、残金は別荘が売れるたびに支払う契約だったという)。
この軽井沢の恩義で文夫人には頭が上がらず、長い間別居しながら離縁に踏み切れなかったのか(それとも単に慰謝料を払いたくなかったのか、それとも愛人それぞれから入籍を迫られるのが厭で独り者になりたくなかったのか、それとも・・・?)。

軽井沢開発に見通しがつくと、併行して今度は神奈川強羅に十万坪の開発用地を買収、次々に近辺の土地をも買い増しながら箱根土地株式会社を立ち上げた。これがのちの西武グループの元締め会社コクド(現在は消滅)の前身となる。
関東大震災後には、被害にあった皇族や華族たちの大邸宅を買収、敷地を分割して目白文化村と銘打って売り出し巨利を得ていく。続いて学園都市構想を掲げ国立、小平間に広大な造成地を買い占めるや東京商科大学(現一橋大学)等の誘致に奔走、実現を果たす。こうした事業を拡張していく段階で鉄道網の重要性に気づいた康次郎は、伊豆箱根鉄道や多摩湖鉄道、武蔵野鉄道などを手中にしていき、今日の西武鉄道の基礎を築いていったのである。

甫と美也(清二と邦子)が入学し、級友から「妾の子」といじめを受けたのは、つまり父親が設立した私立国立小学校だったのである。
「その頃、代議士をやりながら、事業をはじめていた父」と小説に書かれているけれども、甫少年が侮蔑した級友を玉砂利の上に殴りつけていた昭和9(1934)年頃は、「事業をはじめていた父」どころか、正確に記すなら〝事業をむやみやたらと拡張していた父〟とでもすべきだったのである。
かたや代議士の方は、大正13(1924)年に35歳で衆議院議員に初当選してから(滋賀選挙区)、戦後の公職追放処分になるまで連続七回当選しているので誤りはない。付け加えておくと、堤康次郎は公職追放解除後に代議士復帰を遂げるや、それ以後も連続六回の当選を果し、その死が訪れるまで通算十三期、三十三年間にわたって国会議員であり続け、事業と政治を使い分けたのである。

「彷徨の季節の中で」では、堤康次郎と清二の母青山操の出会いと男女の間柄となった経緯が次のように描かれている。青山操は明治40(1907)年生まれなので、康次郎より18歳年下だった。
「私の母は九人の兄弟がいた(註)。山野長則が経営していた銀行が破産した時、彼等は親戚に貰われたり、里子に出されたりして一家離散という状態になった。私の母と山野誠叔父が手元に残されたのは、両親が特に二人を可愛く思っていたからではないかと思われる」。「私の父、津村孫次郎が清算人として山野家に現れたのは母が十八歳の時であった」。
「その日は、お父さんもお母さんも、誠叔父さん以外は、山野家にいなかったんですって」、「御大の車に東郊産業の人が乗ってきて、『うちの社長が至急貴女にお目にかからねばならぬ急用が出来ましたので、お迎えにあがりました』って言うんですって。それでお母さんは(ああそうか)と思って乗ったら、車はどんどん走っていって、お母さんが全然知らない鎌倉の淋しい一軒家まで行ったらしいの。さすがに変に思って、それでも入って行ったら御大が一人で座っていたんです。気味悪くなって帰ろうと思っても、もう自動車は走っていってしまったし、第一、一人で外に出たことのないお母さんは、どうすることも出来なかったらしいの」。「お母さんはね、掠奪結婚なのよ」。
(註・「闇夜遍歴」では十一人兄妹となっている。うち姉妹は五人で、操は四女とされている。誠叔父は次男の位置付けである。)

文中の山野長則が士族の家柄を誇る操(小説名山野多加世)の父親。「私が連れ出された時だってあなた黙って見ていたんですものね」と、多加世から愚痴られることになる誠叔父は、そのことに感づいている多加世の反対に接しながら、無抵抗に孫次郎からお手付きの女性を妻にあてがわれる形となっている(むろん小説での話であろうが、この叔父はのちに清二が西武百貨店に派遣された時の支配人だった男で、当時の西武百貨店は叔父の乱脈経営のせいで赤字続きのため、西武鉄道のお荷物的存在だったといわれている。叔父を追い出す格好で清二が采配をふるい、立て直したのである)。

「掠奪結婚なのよ」と母親から聞いたままをしゃべっているのは、妹の美也であり相手はもちろん甫である。また「その頃、私の父は婦人記者をしていた女性(あちらの奥さん)と正式に結婚していた。彼女はもっとも文明開化した新婦人ということで政財界に名を知られていた。それは父の出世にとって好都合な条件であったにちがいない」ともあるので、まだ文夫人に利用価値があったから(離婚することも出来なくて)、「掠奪」するしかなかったというのである。
「掠奪婚」に関しては作中で、やはり美也が「孫清さんのお母さんはね、とても敬虔なカトリックだったのね。なんかの時に御大が彼女を見て、修道院から連れ出してしまったらしいの。そして無理矢理」掠奪した。カトリックでは自殺も堕胎も認められないので、孫清の母は狂死したのだと説明している(が、これは小説的創作で事実とは異なるようだ)。
東郊産業は西武鉄道を意味しているのだが、美也が父親を御大と言っているのは、実際に康次郎が社員などから御大、大将などと親しみと畏敬を込めて呼ばれていた(註)のに習った言い方で、この場合父親との距離感を示している。
(註・社是に「感謝と奉仕」を掲げた康次郎は、西武に「大家族主義」の社風を浸透させていったことにより、御大、大将などと敬称されるようになったようだ。)

何はともあれ、清(孫清)の母(岩崎その)にしろ、青山操にしろ、「むこうの奥さん」にしろ、他の女性にしても御大が力ずくで貞操を奪ったことは確かなことであったろう。完全な合意の上で事が運んだのは、もしかしたら最初の妻(西沢コト)と二番目の妻(あちらの奥さんである川崎文)のケースだけであったのかも。
なお、西沢コトとの間に生まれた長女淑子は西武鉄道社員と結婚。淑子の夫はゆくゆく社長に引き立てられ、のちには清二と敵対する様子が自伝三部作に書かれている(ただし淑子自身は登場しない)。このことは妹の邦子が、康次郎の強引な計らいで同じように西武鉄道社員と再婚して、夫が幹部に昇進していくのと符合する。

母多加世の「掠奪婚」の話の後で、妹は兄に重大な秘密を打ち明ける。すでにこの時、戦争は終っており、兄妹は「掠奪」された母の年齢に達していたと思われるのであるが、妹は言う。「甫兄さん知ってると思ったわ、本当の子供なんですもの」。
美也は、母「掠奪」のいきさつを多加世の本当の息子である兄は当然知ってるものだと思っていた、そして自分は父親が別の女に生ませた子なのだと主張するのである。
「美也だって、本当の子供じゃないか」、「孫清さんの話は嘘だよ。彼はいつも自分と同じような不幸な状態に周囲の人を引摺り下ろしたい情熱に駆られているんだ」と甫が反論すると、「いいのよ、それは」とさえぎって「美也が淋しそうに私に答えた。本当の母親が誰かなどということは誰にも分らないんだし、分ったところで仕方のないことなのだと考えている、幾分投げやりな調子だった」と地の文があって美也が言う。「でもね、考えてみると、お父さんはかわいそうな人よ。狡(ずる)い人ならもっとうまくやったと思うのよ。子供の頃、生母と生き別れしているでしょう、ずっとマザーコンプレックスから抜け出せなかったんじゃないかしら」。娘の美也は甫が驚くほど父親に同情的なのである。

このような情報を吹き込むのは、会話にあるように孫清(と緑の夫婦)なのであるが(緑は美也の友人の姉であったのを、美也が見込んで孫清の嫁に紹介した設定である)、これは実際に兄妹でこういう会話を交わしたことがあったのか。それとも辻井喬の創作だったのか?
というのも、この小説には最初から私(甫)が、自分の出生を疑うような場面が挿入されているからである。
それは「戸籍謄本にある私の生年月日は昭和2年2月10日で(註)、出生地は品川区上大崎十二番地となっているが、脳裏に残っている幼児の印象の切れ端が、出生地で与えられたものかどうか分らない」と書き始められ、「蛇の目傘を斜めにさした女の人が私の視界を遠ざかってゆく。その女性が私と関係のある人なのか、それを見る私が母に抱かれていたのか、その時、私の側に母がいたのかどうかも分らない。足下の腐った杭にぴたぴたと水が打ち寄せていたことだけが印象的である。こうした光景のどこまでが本当に体験した場面で、どこからがあとになって附け加えられた光景なのかさえ区別できない」とされている。
(註・戸籍上は昭和2年3月30日生まれ。妹邦子は昭和3年2月20日生まれである。)

この記憶の光景は、「あなたの本当のお母さん」は「もと芸者さんで、今は深川の方で花屋さんをやっているという話よ」と、緑に言われた時にも「私の目に茫漠とした水が拡がり、霧のような雨が降るなかを、蛇の目傘を斜めにさして若い女が歩いてゆく光景が浮んで」くるのである。
それはまた「私は母に抱かれて寝たことがない」という記憶を伴って(しかしながらこの記憶は、母が「胸を病んでいたからだろう」と半ば肯定できるのではあるけれども・・・)。
つまり妹が、自分は母の本当の子ではないのかもと本心を漏らした時、即座に打ち消したけれども、兄自身も潜在的疑惑をずっと引きずっていたのである。
「彷徨の季節の中で」が発表されて随分と経ってからではあるが、この時の甫と美也の疑惑についての、次のような証言がある。
先に自伝三部作「彷徨の季節の中で」「いつもと同じ春」「闇夜遍歴」について述べたが、一区切りとなる「闇夜遍歴」は昭和62(1987)年に文芸誌「新潮」の五月、六月、七月号に分載された。
ところがこの連載が終るのを待っていたかのように、「わが堤一族、血の秘密」と題された記事が「文藝春秋」八月号に掲載されたのである。そこには目を疑うようなことが書かれていた。以下、その文章から抜粋する。

「私が初めて、操夫人と会ったのは大正九年三月頃、倒産した東京土地の社長青山芳三氏のお宅でのことでした。操さんは当時十四歳。倒産ののち零落(れいらく)した青山家は荒れはてたバラック建てでしたが、そこに四人の姉妹がいたのです。その三番目が操さん、りりしい顔立ちの美しい女性でした。倒産したのち、先代(康次郎のこと)があとをひきうけたため、先代は青山家で好き放題の状態でした。まず、操の姉を口説き、ついで妹を口説いたのです。
そんなバカなと思われるかもしれませんが、先代はそういう方でした。よく言えば、〈英雄色を好む〉、そのことにかけては手当たり次第なのです。四姉妹の父、青山芳三氏は三菱に連なる名族だけに紳士です。一方、先代は野育ちで粗野。お嬢さん暮らしが、急に零落ーという立場になった姉妹には、康次郎が〈男らしく〉〈たのもしく〉見えたのかもしれません。何年かのち、二人ともあいついでみごもりました。
が、先代が一番めをかけていたのは、実は操でした。操は気丈で、なかなかうんといいません。が、先代もあきらめません。何年もかけて口説きました。全く無力化した父親、姉妹すべてが〈愛人化〉する家庭、抵抗しようにも、財政のすべてを握られているーこういう状況のもと操はある決心をしました。自らは子供の出来ない体にした上で、『あなたの言うことは聞きますが、東京ではイヤです』と言い放ったのです。『では、鎌倉へ行こう、別荘がある』『もう一つ条件があります。姉と妹は手放して下さい。そのかわり私が子供を引き取って育てます』操が身をまかせたのは鎌倉の腰越の別荘でした。
おわかりでしょう。姉の子が清二さん、妹の子が邦子さんなのです。二人の年齢は大変近い」

著者は85歳の上林国雄、明治35年生まれ(康次郎より13歳下、操より5歳上である)。康次郎記事掲載時の母方の従弟に当たり、19歳から康次郎に仕えたと紹介されている。先代とあるのは、とうに康次郎は鬼籍に入り、西武グループは清二の義弟堤義明に率いられていたからである(操も三年前に他界していた)。
いわば死人に口なしという時期に書かれた(操の姉妹たちがどうであったのかは不明)、この暴露記事がまことしやかなそれであるのか、はたまた側近だけの知る極秘のそれであったのか、まさに山野甫(辻井喬)の原体験に出てくる「蛇の目傘を斜めにさした若い女」の記憶の正体であったのか、もう確かめる術はないのであるが(註)。それにしても抜群のタイミングで発表されたものだ。
(註・この記事に対して、関係者がどのような反応を示したのか一切不明。肝心要の堤清二は緘黙したままだったようだ。なお記事掲載時、還暦を迎えていた清二はセゾングループ代表職にあり、妹邦子はパリに永住していた。)

康次郎と川崎文の結婚は、軽井沢開発に着手した最中の大正4年。上林国雄の記述が事実とすれば、恋女房にあれほど用地買収資金の世話になりながら、早くもその五年後には青山姉妹の成長に目をぎらつかせていたことになる。肝腎の文夫人のことはこう記されている。
「文さんに対して、先代は日に日に冷たくなりました。第一は子供ができなかったこと、第二はインテリのためか性に淡白であったことが原因と思われます。そして決定的だったのは、先代から花柳病をうつされたことでした。大正12年ごろのことです。
・・・先代はあいもかわらず商売女とおさかんな毎日を過ごし、花柳病(註・性病のこと)に感染したのです。日を経ずして、文さんもうつされ、片足が不自由になりました。赤坂の整形外科医XX博士の手術で、治りはしたものの、正座することができず、片足を出して座るような状態でした」
このような状況の中で文は、康次郎の長女淑子と長男清を育てたというのである。

さらには、「彷徨の季節の中で」を引き合いに出して小説中の描写、孫次郎が郷里から呼び寄せた女中たちに片っ端から手をつけたり、孫清の妻緑に「わしの子を産め、二人産め、今産めばわしのか孫清のか分らないー」と迫ったり、娘の美也から「それなら伺いますが、今年の夏、箱根でお父さんは私に触ったでしょう。風邪を引いて私が看病してあげた時、御自分の娘にーあれも報恩感謝なんですか」と痛烈に言わしめているのも、上林国雄によればどれも本当のことだと証言している。
女中の件は、康次郎の好みのタイプや性癖を知っている操夫人が積極的に康次郎をそそのかしたのだ、と。なぜ操夫人がそういうことをしたのかというと、康次郎への凄まじい復讐心からであったと説明されている。

操夫人はその復讐心を満たすために、自らあられもない挑発的なポーズをとったりして康次郎を誘惑して文夫人を追いやり、しばしば麻布の邸宅で要人接待の宴会を催し、デパートガールをその手伝いに呼び寄せては康次郎好みの女を仲介していたばかりでなく、その極め付けが清の嫁だったという、まさしく衝撃の告白である。
「当時、先代は前立腺を患っていて、管を使って排尿している状態でした。その世話を清さんの嫁にさせたのです。先代がどういう人かを知っていて、〝前〟の世話をさせたのです。先代は『操なんかよりいい』と言い出す始末、清さんとしては、〝危機〟だけに耐えられぬ思いだったと思います」
この後、清は父親に逆らうような言動ばかりするようになり、「西武の取締役にまで若いうちに精進しながら、いつのまにか、近江鉄道社長、そして朝日化学肥料の部長へと左遷されていった」のだと。

「以後、清さんは、ある意味で平穏、ある意味で、おびえきった生活をされています」。「実は、清さんの生母は八十八歳の長命で亡くなられました。他界される二十日ほど前まで、私も話をした仲なのです。何度も『清に会わせて』とおっしゃっていました。が、この件を清さんにご連絡しても『何も話すことはありません』と電話をガチャンときる始末。
一族の傷は深いのです。大企業のトップでありながら、私的な小説を自分を傷つけるように書きつづける清二さんもある意味では犠牲者かもしれません。邦子さんもそうでした」と言って、上林国雄は上記美也の言葉をあげて、「私もこれに近いことをきいて唖然としました。邦子さんがパリに出奔するはずです」と記している。

また、上林国雄は康次郎の母のことをこう書いて文章を閉じている。
「先代の母、みをは、私の父の妹でした。私が父に聞いたところでは、みをの義理の父、つまり、先代の祖父が、先代の父・猶次郎が死んだのち、みをにしきりに手を出そうとするので、逃げ帰ってきたというのです。北海道の兄のところまで急使を出して訴えたといいますからまちがいありません。当時の北海道にくるのは大抵のことではないのです。みをはその後も、康次郎兄弟のことが忘れられず、落ち着かなかったといいますから、決して、母であるみをが悪いわけではありません。堤家の血の問題はまだまださかのぼれるのかもしれないのです」

上林国雄が筆をとったのは、かつての大西武が清二と義明の二つのグループに分かれ、激しく競争しているのが歯がゆかったのでもあろう。その原因を作ったのは、ひとえに操夫人にあったのだと言いたかったようである。文夫人(あちらの奥さん)や義明の母(むこうの奥さん)には同情を寄せながらも、操一人を復讐の悪鬼に見なしているのだから。
その操の母親は大正11年に病死、操が大好きだったという父親青山芳三の死は、翌12年に起きた関東大震災後まもなくの割腹自殺だった、と上林国雄は書き残している(だから操が、いじめられた美也と甫を前にして士族の末裔だと強調したのでもあったろうか)。
操が四人姉妹だとしたら(五人姉妹という説もある)、引用文の一人足りない姉妹は、「彷徨の季節の中で」や「闇夜遍歴」にも登場する三菱の役員になる男(荘素彦)のもとに嫁いでいた長女(もしくは次女の)雪子だと思われる。

このような生い立ちと環境のもとで生きれば、子供はもとより誰とても「人間関係の亀裂」と「災いの影」とで常に心は蝕(むしば)まれ、「懐かしい思い出」さえもが「侮辱」にまみれて、「人間が生きながら味わわなければならない辛さ」へと褪色(たいしょく)していっただろう。思い出はただの記憶となるまでに。
堤清二(山野甫)がそうだったように邦子も、操も、義兄の清夫婦も、あるいは義弟の義明兄弟たちも、そして当然、「あちらの奥さん」と「むこうの奥さん」も。・・・ただ一人の男を除いて。
     怒つたり悲しんだりして/私の掌には/一握りの白い塩が残った
     風琴の音や魚の臭いがする白い塩は/碧い波濤の末裔/
     輝かしい夏の記憶もあれば/ 時として貝殻の色を放つ
     白い塩は苦い/人々が「人間の悲哀」と呼ぶ衣裳にくるんで/
     谷へ捨ててしまえば/それは「自由」と言うものだー。
     私は罅(ひび)割れた大地に立つて/白い塩を握りしめる/
     苦い味わいを味わうために
                                           (辻井喬第一詩集『不確かな朝』より)


(以下、「彷徨の季節の中で」(2)につづく。)


















自由人の系譜 辻井喬「虹の岬」(3)

ここからは「虹の岬」に加えて、多くを早瀬圭一「過ぎし愛のとき」に頼りながら書き進めていく(といっても、これまでにも一部引用してきたのだけれども)。
副題に「淑女の履歴書」とある「過ぎし愛のとき」(平成2年5月刊)はノンフィクション伝記である。女優の原節子や「天城山心中」の元満州国令嬢愛新覚羅慧生をはじめ、その時々に話題になった「淑女」六人の物語で構成されている。その冒頭に置かれ最も分量のあるのが、「老いらくの恋」後日譚ともいうべき「歌人・鈴鹿俊子の八十年」である。他の五編が文芸雑誌(別冊文藝春秋)に発表されているのに対し、俊子のものだけが書き下ろしとなっている。早瀬圭一(註)がこの作品を書くために、神奈川藤沢の川田邸で長い未亡人生活を送っていた俊子夫人を取材に訪ねたのは、辻井喬が同様に「虹の岬」執筆準備で俊子に会いに行く二年程前であったようだ。そのことは次の文章からもわかる。
(註・昭和12年生まれ、同志社大学卒。毎日新聞入社。ノンフィクション作家。)

「平成二年の元旦、俊子はいつもと同じ時間に目ざめた。前の年の秋から毎日新聞に週一回『読書日記』を連載している。(中略)元旦も独りで形ばかりのお祝いごとをし、早やばやと机の前に座った。今年は五冊目の歌集とあちこちの新聞や雑誌に書いた散文を集めてエッセイ集を刊行する予定になっている。
満八十歳になったが、まだまだ元気である。やることもあるし、行ってみたいところも見てみたいものもある。できれば歌集もあと一、二冊は出したい。人は長い間〈老いらくの恋〉とうしろ指をさし、批判と好奇の目でみてきた。しかし私は何も悪いことをしたわけではない。川田がよく使った言葉に〈宿命〉があった。そうなのだ。何事も〈宿命〉だったのだと思う」
この記述からだけでも取材に心を開いている鈴鹿俊子の姿が彷彿とさせられるのであるが、その期待に応えるように結構を整えた「歌人・鈴鹿俊子の八十年」は、ややもすると物語の前後が交錯してこんがらがってしまう「虹の岬」を補完するに格好の読み物となっている。

早瀬によれば、俊子の著書「黄昏記ー回想の川田順」(昭和58年刊)に、その「何事も宿命」へと至る経緯が書かれているという。
「先生(川田)が、私をみられる眼のいろに、ひとりの女を意識していられるように、時として感じたのは、いつの頃からであっただろうか。私の方がそうされるような、態度をとったのではなかっただろうか。たとえば疎遠になったと思うと、私は詠草を持って、先生の家を訪れた。歌を添削してもらうことよりも、ただ何となく逢いたかったのだ。そんなことを思い出しながら、私は羞恥を覚えた。先生の家から疎水べりを(註・今の哲学の道)十分も歩けば来られるところに、私は住んでいたので、先生の方も、浴衣姿でちょっと立ち寄ったりされた」
どちらが先に惚れたのか、相愛の甘い気分を「宿命」へと変化させる出来事がそれからまもなく起こった。

五月のある日、俊子は川田から鳥羽の竹田行きを誘われる。その文章。
「私たちは三条京阪の駅で待ち合わせて、ホームで電車を待っていたのだったが、人目を避けるため、少し離れていた。私たちは初めての遠出で、殊に私はやっとの思いで来ていた。哀しいような冒険をしているような、何とも複雑な気持でプラットホームに佇っていた。と眼の前へすうっと電車が入って来て、そこにいる人々がどっと車内に入った。私もそれに乗ればよいものと、引きずられるように車内に入った。そして見廻したが、先生のすがたがない。一瞬、自分たちはこれでおしまいかと思った。

その電車は宇治ゆきであったらしい。〈竹田〉へ行くには、大阪ゆきに乗って、途中で奈良電車に乗り換えねばならなかったのだ。先生はそのことを言われたのにちがいないのだが、心も虚ろの私は、よく呑み込まなかったものと見える。どうしたらよいのか、不安な気持でその〈竹田〉へ行ってみるより仕方がなかった。逢えるかどうかはわからないが。そして次の停車したところで乗りかえ、人に尋ねたりして、やっとのことでその駅に着いた。見ると、先生が誰もいないプラットホームの椅子にぽつんとかけていられた。
『どうしたの、先に来た電車に乗ったんだね、よくひとりで来られたね、よかった』と立ち上がって駅を出ながら言われた。私は逢えてよかった、と思った。けれども、一歩先生の方に近づいてしまった、とも感じた。あのままあきらめて、ここへ来ず、家へ帰っていたとしたら、或いは、いまの私はなかったとも思える。〈あなたはそれでよいのかね〉と何処か高いところから〈天の声〉が、私の反省をうながすために、ちょっといたずらをしたのではなかっただろうか」

この俊子の文章を、早瀬圭一は「歌人ー鈴鹿俊子の八十年」に直接引用しているのだけどこれはノンフィクションだからのやり方であって、小説ではあまりこういう方法はとらないだろう。が、この重要なシーンを小説家辻井喬が見逃すはずはない。「虹の岬」にもアレンジされて丁寧に描かれる。
「今のところは(註・夫が)恐くて仕方がないので、感づかれないように毎日神経を使っている。今日出てくるのだって、子供達のPTA関係の会はどういうことでバレるかも分らないから、同志社女専の同窓会が奈良であることにしてお弁当も持寄りということにしたのだった。でも、いつも同じ方法は使えない。森(夫・中川與之助のこと)は結構氣が付くところは気が付くのである。それは苦労して学資を稼ぎながら勉強した頃に養った生活感覚のせいだろう。
そんなふうな気遣いが人目を憚(はばか)る態度に通じているのだと祥子(俊子)には分っていた。原因はすべて自分が何の決心もつけられないこと、そして夫を恐れていることから来ている」

「そう考え出して祥子は、ああまたいつもと同じことだと思った。堂々巡りなのである。そのなかから、もっと強く川田が引張ってくれたらという気持が覗いたりする。しかし川田はいつも最後に近いところまで来ているのに踏止まってしまうのだ。そうすると祥子は、地位のある方だし、私のような者のことなど本気で考えてくれていないのだと心が萎えてしまう。
そこへ電車が入ってきた。落込みかかっていた祥子はあわてて乗った。気が付いたら、目の前に電車が来ていたといった感じだったので左右を見廻す余裕がなかった。扉はすぐ閉った。目で川田を探したが彼の姿がない。からだじゅうが熱くなってきた。市電にはよく乗るけれども、祥子は遠くに出かけたことがなかったから、大阪行きや奈良行きの電車に乗ったのは初めてだった。車内でうろうろしてしまい、近くの乗客に不審気に見られたのを知って、祥子は平静を装わなければならなかった。自分が、川田に言われたとおりに行動せず、考えごとに捕われて咄嗟に乗ってしまったのがいけないことは明らかだった。三条の駅に戻るべきだろうか。方向は間違っていないはずだが、もし行先が全然違っていたら大変だから次の駅で降りて確めるか。たしか乗替える駅は丹波橋と言った。

いろいろ迷った末に祥子は次の駅で降り、一旦外に出てから改札口で竹田駅に行く方法を教わった。もう駄目かもしれないと泣きそうになりながら、とにかく竹田まで行ってみようと決心した。もし、そこで川田と落合えなければ、自分達の関係は所詮結ばれない縁だったのだ。そう思うと、幾分ホッとする気持が動いたのが祥子には意外だった。それでいて、その束の間の安堵を覆い隠してしまうような淋しさが彼女を襲った。川田が向うにいてくれることを望んでいるのか、はぐれてしまうことを期待しているのか分らなくなってしまった足取りで、祥子は間違わずに行った時よりは四十分ほど遅れて竹田に着いた。
後ろの方に乗っていた彼女は出口から一番遠いホームに降りた。人影はなかった」が、ホーム中ほどの待合所に「近づいていくとグレイのレインコートを着た人が背中を見せて本を読んでいる。先生だ」

川田の方も「はぐれたと知った時、どう祥子を探したらいいのか分らず、そんな時の打合せをしておかなかった迂闊さが悔まれた」「(やはり縁がなかったのだ)と川田は思った。それならば一人で鳥羽宮をまわってこよう」「竹田の駅に降りて、気分を落着けようと袂から煙草を取り出し」「いつのまにかこれから自分達はどうしたらいいだろうと考えこんでいった。
電車が二本着いたが祥子は降りて来なかった。真面目な祥子は恐くなって家に戻ってしまったのかもしれない。そうは思っても彼女の家に問い合わせの電話をする訳にはいかない。あらためて自分は何をしているのだろうと思った。あと一電車、いや二電車待って来なかったら諦めよう。
その時、新しく電車が着いた。十数名の乗客が待合所の横を通り過ぎ、足音が絶えた。今度も駄目だったかと落胆した時、誰かが自分を見ている気配が伝わってきたー」

「先生だ、と思った時、祥子は思わず立止った。とうとう来てしまった。気配を感じたのだろう。彼は立上り、ゆっくり後ろに向き直った。まるでーそこに立っている人が祥子であるのを恐れているようなのろのろした動作だった。しかし、一歩待合所を出て太陽に曝(さら)された彼の顔は祥子を認めて輝いた。(よかった)と彼女も思った。
『先生』と言ったきり、次の言葉が出せなかった。『よかった。君は先に来た電車に乗ってしまったんだ。あれは急行だったからどうなるかと思った。でも、よくひとりで来られたね』彼は祥子と並んで歩きはじめながらそう労(いたわ)った。祥子は嬉しかった。今までの(註・夫との長い生活の)経験で、川田に叱責されると思いこんでいたのが、労られてみて分った。『人目なんか気にしないで、もっと近くにいてあげればよかった』と言われた時、彼女はもう耐えられなかった。ハンカチを目尻に当てながら、私の運命は決ってしまった、と思った。こんな優しさは、森三之助には絶対ないのだった」

長い引用になったがこれは昭和22年5月のことで、以後、二人の心の障壁は除かれ「抜き差しならないもの」となり、中川のいう肉体的関係に発展し、そして帰宅途中の中川に不貞を感づかれたのがこのふた月後の夜なのだ、とばかり思っていたら早とちりであった。よくよく確かめてみると辻井は(早瀬も)、この竹田行きは川田が俊子に愛の告白をする前年の5月だったと書いている。「宿命」の愛を竹田行きで啓示されながら一年間も何をもたもたしていたのか。慎重なのか、臆病なのか、もどかしい川田の爺さんであることよ。そんな川田のモタモタは、祥子には「ほとんど優しい拷問であった」しかしながら潜伏期間の長いほど恋情は燃え上がるのも真実なのだ。

とにもかくにもこうして「宿命」の人となった川田順が、「この世をばまからむ時に枕べにたれはゐずとも俊子来てゐよ」と歌った通りに、最愛の人に看取られながらこの世を去ったのは、昭和41年1月22日であった。84歳。俊子と中川が夫婦として過した年月を上廻ることは果たせなかった。「虹の岬」が、このひと月前で幕を閉じる所以である。
葬儀は住友各社の合同葬として盛大に行われ、武者小路実篤が友人代表の弔辞を献げたと年譜にある。それに倣って戦前と戦後の代表歌二首を添える。
     山空をひとすぢに行く大鷲の翼の張りの澄みも澄みたる
     相触れて帰りきたらし日のまひる天の怒りの春雷ふるふ
川田の歌は本来、雄壮な歌風であった。二首目は、いうまでもなく俊子との密会を重ねたあとの心の慄(おのの)きを歌ったものである。


「中川博士は昭和26年8月6日公職追放が解けたものの、母校京大への復職はすでにポストが埋まっていてかなわず、翌年島根大学教授として教壇にカムバックした。そしてその後、日本海に面した兵庫県竹野町に診療所を持つ女医と再婚、島根大に通うのに便利な竹野町に二女と共に移り住んだ。しかし思春期にさしかかった二女はやはり母親のもとで暮らすべきだと判断、二女の意思も確かめたうえ藤沢の川田と俊子の家へ引き取られた。俊子はもとより望むところであったし、当初から『二人の子供の教育については責任を持つ』と言明していた川田も異存なかった」と、早瀬圭一は二女が母親と住むことになった事情を述べている。
中川は島根大に奉職後、近畿大学や関西大学大学院などでも教えていたが、まもなく甲南大学に迎えられると、単身京都の自宅に戻った。女医との間もしっくりいかなくなっていたのも理由だったようである。この女医については、女医という以外の一切の付属情報はない。

また、早瀬は中川の経歴を次のように紹介する。
「博士が京都帝大を卒業したのは大正13年3月である。4月、同大学院に入り、昭和3年4月大学院を中退して経済学部の講師になっている。大学院を卒業せず、しかも助手を飛び越えていきなり講師になっているのはそのときのポストの空きぐあいなどの事情にもよるが、優秀な成績であったことを示している。帝国大学のエリートコースは京都の場合、旧制三高あるいは金沢の四高、大阪高等学校、浪速高等学校あたりから集まるし、東京帝国大学には旧制一高や仙台の二高から秀才が入ってくる。その上の大学院に入って母校帝大の教壇に立つことの出来るのはそれら秀才の中から選ばれたほんの数名にすぎない。旧制高校出身者がほとんどの中で、いったん中学の教師をしたあと学部に入ってきた高等師範出(現筑波大学)の中川博士は極端な言いかたをすれば異端者の部類である。そのような立場で帝大に残ることが出来たのはよほど秀れていたのだろう」
中川與之助の名誉のためにあえて引用した。中川の公職追放は昭和21年3月である。教授昇格は18年12月(49歳)なので、教授在任期間は敗戦前後のわずか二年程でしかない。

その中川も俊子に向かっては「結婚当初から『きみみたいなもの』と二言目には」ののしり、「持参金もないし、着物もろくに持っていない」とさげすみ、他人には「人当たりもよかったが、いわゆる外面(そとづら)がよくて内に悪いタイプだった」と、やはり早瀬もこき下ろしている。
まあ、これも仕方ないであろう。俊子の聞き取りによって書かれたものだろうから、評価は偏(かたよ)る。苦しい弁護をすれば、中川與之助という人物は必死で象牙の塔の競争を勝ち抜くために、俊子がもっと良家の子女であったら出世も楽だったのにという日頃の鬱憤が、ついつい愚痴、不平となって八つ当たり気味に口をついて出たのであろう(自分の家が裕福でなかったから余計にねじれて)。旧弊で固陋(ころう)ではあっても、当時においては平均的な考えであったとも思われる(とはいえ、言われる方からしてみれば堪えきれぬ侮辱であることに変わりはないけれども)。
その中川は、川田(と俊子)に対して「慰謝料などを一切請求していない。それどころか、長男が自分の手元から藤沢に行ったのちしばらくの間、養育費の名目でいくばくかの金を俊子のところに送り続けた」とも早瀬は記す(これも俊子が語らなければ知り得ない事実である)。内心では自分の非を認めていたのでもあったろうが、一面(苦労した分)、中川は寛大(お人好し)であったのでは?(甘いかなあ)。

昭和31年12月30日、中川(62歳)は脳溢血に突如襲われた。その朝「ふとんから起きあがれず、舌がもつれ、よだれを流していた」中川をみつけたのが増田冬子である。冬子は別居した女医が、昭和28年10月に同郷から連れて来たお手伝いだった。このとき23歳とあるので昭和5年生まれになる(大正15年生まれの長女の4歳下)。中川家の手伝いは三年間の約束で来ていたが、この日「以後亡くなるまでの十二年間、冬子は半身不随、車椅子の中川與之助に献身的につくすのである」
冬子が中川のところに来るときは、ただ「京大のえらい先生」とだけ聞かされていたが、住み込みで働くうちに「先生の前の奥さんが歌人と恋愛して家を出たこと」などを周りから教えられた。
雇い主である「京大のえらい先生」は、「酒もタバコも一切口にせず、いつも書斎に引きこもっていた」ので、「気難しい人だと思い込んでいたが、月日が経つうちに少しずつ打ちとけ、馴れていった。気難しいと思ったのは無口なせいといつも書斎にいるからだった」

先生は「ときおり冬子に『お金足りる?(註・毎月渡される食費や雑費のこと)』『休日は朝早く出かけていいよ』などと声をかけてくれた。根はやさしい人だった」「奥様の女医は竹野町からほとんど出てこなかった。たまに京都に来ることはあったが、自分の用事があるときだけで、先生と親しく話すこともほとんどなく、身の周りのことはいっさい冬子にまかせっ放しだった」
そのような情況のなかでの突然の事態に、冬子は身の振り方に困惑した。以前務めた神奈川江の島の会社社長から、子供たちも馴れているから戻ってきて欲しいと懇望され、来春からの江の島行きを承諾していた。ところが、事情を知った先方はこんな時に冬子を取り上げるわけにはいかない、病気がよくなるまでお世話してあげて、と譲歩してきた。これをこそ虫の知らせというのだろうか。倒れる二、三ヶ月前に先生が社長宛に「冬子はとってもよくしてくれます。今年いっぱいでうちを出て、そちらにお世話になるとのことですが、出来ましたら今しばらく冬子をこちらに居させていただけないでしょうか。とってもよく世話をしてくれます。勝手なお願いですが何卒ご考慮下さい」といった旨の手紙を送っていたことをはじめて知らされたのであった。

しかし病状の回復ははかばかしくなかった。一年間寝たきりのあと、ようやく車椅子で動けるようにはなったが、口はもつれ思うように話せない。勤め先の甲南大学のそばに行きたいと、先生は自宅を処分して大学の社宅に移った(このころ女医と離婚。その手続き一切も冬子に任されたという)。それでも教壇に立つことは叶わず、冬子の押す車椅子で大学周辺を散歩する毎日がつづいた。さらに一年が過ぎ、これ以上の回復は望めないと判断した先生は、大学が引き留めてくれるのを断って辞職願いを出し、冬子の実家がある竹野町に近い城崎(いずれも現豊岡市)に家を借りた。温泉療法を進められていたからでもあった。こうして毎日毎日の「地蔵湯」(註・城崎名物七湯巡りの一つ)通いが始まった。入浴客の少ない午後一番の男湯で先生を「車椅子から抱え降ろし、手早く衣服を脱がせて裸にし、背中におぶって大きな湯船に行く。温泉にゆっくりつけてから洗い場で軽くマッサージをする。

先生が片手をあげて何か言う。湯につかりたいと言っているのだ。冬子は『よっこらしょ』とかけ声をかけながら先生をだっこしてゆっくり湯につける。冬子の着ているものはびしょぬれになっている。そんなことを気にしていたら先生を温泉に入れることなど出来ない。湯からあがると再びマッサージだ。何度か繰り返す。冬子の額(ひたい)に玉のような汗が吹き出てくる。地蔵湯を出たらほっとしてぐったりするが、入っているときは無我夢中だ。『大変ですね。ご主人ですか』たまに温泉に入っている客が声をかけてくる。たしかに大変だが、これが日課だ。毎日温泉に入れるためにこの町に引越してきたのである」
そんな日々が約半年つづいたあと、城崎からほど近い豊岡市に先生は、京都の家を売った金で二百坪の土地を買い、家を建てた。ここが終の栖(ついのすみか)となった。

豊岡は鞄の産地である。冬子は新居で日がな一日ミシンを踏んで内職に励んだ。先生の年金だけでは生活費が足りないからだ。「そんな冬子を車椅子の先生は縁側からじっと見ている。先生の目がときおりうるんでみえたのは冬子に対する感謝の涙だったのだろうか」
すでに冬子は先生の世話を、いつまで続くかわからないが、このままつづけていくことを心に決めていた。考えてみればずいぶんと不思議な縁なのだが、いつのまにか先生の身の周りのことをするのが冬子の生き甲斐になっていたのだ。
そのころテレビがあるのは先生の家だけだった。最初テレビを見るために先生の家に集まっていた近隣の人たちは、そのうちに先生を囲んで世間話に花を咲かせだした。近くの住職が(この寺に先生の遺骨がおさめられた)、満足に口もきけずただ微笑むだけの車椅子の主(あるじ)を「京都帝大のえらい先生だったんだぞ」と言ったのがきっかけで、ややこしい問題や言い合いになったときなどは、必ず「えらい先生」の意見を聞き裁定を仰ぐようになった。先生はそれぞれの言うことを聞きながら、縦に横に首をふる。いつしか先生の家は地域の人々の集会所(交流の場)となっていたのである。

「(中川の)長女やその家族、藤沢に行った長男、二女たちもときどき父を訪ね、父の世話をしていてくれる冬子に感謝した。もし冬子の存在がなかったらどうであったろうか。父親思いであの修羅場のような嵐の中で、夫を説得し夫婦して実家に帰って父や幼い弟妹の面倒をみた長女といえども、脳溢血で倒れた父を引き取ることは出来なかったかも知れない。夫と二人の子供を抱えては多分そこまでは手が回らなかったのではないか。藤沢の長男、二女ではどうすることも出来ない。結局博士は病院に入るしか道はなかったはずだ」と早瀬圭一は書いているが、そのとおりであったろう。
「このままだと、冬子さんあなたの立場はあくまで他人のままだ。先生にもしものことがあっても、先生の年金ももらえない。この家も土地もあなたとは関係なくなる。先生の今日あるのもみんな冬ちゃんのおかげだ。形だけ、法律の上だけでいい。冬ちゃんに先生の奥さんになってもらおうと思う。みんなと相談してそう決めた。中川家のみなさんも異存はないと言っておられる。それに、これを最初に言うべきだったのだが、このことは誰よりも先生が望んでおられる。冬ちゃんいいね」

「博士が車椅子から身を乗り出すようにして聞いていた。そして一言一言にうなずいていた。冬子の頬に涙が伝わった。もったいない、思ってもみなかった話だった。昭和28年、23歳のとき先生のところにお手伝いとして来た。それから十余年の間ずっとそばにいてつくしてきた。それ以前、会社社長宅にいたときは将来人並みに結婚を夢みたこともあったが、先生が倒れてのちはそれどころではなかった。あっという間に今日まで来てしまった。増田冬子はこうして戸籍上中川冬子となり、中川與之助の三人目の妻となった」
冬子を説得したのは、豊岡に中川を気遣ってしばしば訪れていた甲南大学の同僚や教え子だった(この物語の随所に出てくる甲南大学関係者の何と人情味にあふれていることか)。
     死すべかりし命長らへこの春も大文字山に春の鳥きく
     すでになきいのちなりしと思ふときみるものきくものみなありがたし
後ろに回った冬子に背中をさすられながら、中川與之助が「再び眠りに落ちたようにして」息を引き取ったのは、昭和43年8月1日であった(川田順の死の二年後)。二日前に74歳の誕生日を迎えたばかりで、この日も夕食に冬子の作った散らし寿司を一粒も残さずたいらげていた、その真夜中だった。夜の庭に中川の好きな百日紅(さるすべり)の花が咲きほこっていたとある。

このあと、「歌人・鈴鹿俊子の八十年」の叙述は一気に平成2年初頭へと転換する。著者は豊岡に「還暦を過ぎてなお若々しい」中川冬子を訪ね、墓参や中川家でのひと幕が述べられているからだ。それは多分こういうことだったろう。
「別冊文藝春秋」に発表した五編で一冊の本(「過ぎし愛のとき」)にするには分量が少し足りないので、もう一つ物語を入れてページ数を補おうと、かねてより関心を寄せていた「老いらくの恋」の女主人公鈴鹿俊子を藤沢に訪問、俊子の回顧談にて前夫中川與之助の思いもよらない晩年の生活を聞き、増田冬子の存在を知らされた。そして矢も楯もたまらなくなって豊岡に駆けつけた。もうその時には俊子の八十年を書くのか、冬子の六十年を書きたいのか、ほとんどその比重は等しくなっていたのではなかったか。
「・・・今更ふりかえっても仕方ありませんが、こんな人生もあっていいのではないでしょうか。世間並みの結婚も出来ませんでしたし、この先、独りで年老いてゆく不安はありますが、先生のお世話をやりとげることが出来てよかった、幸せだったと思っています」
中川亡き後、ずっと城崎で旅館の仕事をしているという冬子はそう言って、目を伏せた。中川家の座敷でのひとときである。仏壇に手を合わせて、ふと庭をみると見事な枝振りの百日紅の大木が目の前にあった。今は花がない。白い花の季節にもう一度ここに来てみたいと思った、と早瀬の文章は閉じられている。

ここに書かれる百日紅こそは、冬子を象徴する花なのであろう(花は人を慰めるために咲くのではない。花が咲いているから人は慰められるのである)。
目の前に突然、身体の自由を失くして困っている人(先生)が現れた。その人を看る者は差し当り自分しかいない。その人も望んでいる。その人は自分に優しくしてくれた。放ってはおけない、出来ることをしなくては(して上げなくては、ではない)、懸命に。気がついたら、そのような状態が長く続いていつの間にか常態となっていた。それが私とその人(先生)との歳月であった。でも後悔はありません。
座敷での冬子の言葉はそう語っているかのようだ。

「虹の岬」では、唯一架空の人物であると想われる女性が(物語に膨らみを持たせるために)、祥子(俊子)の同志社女専時代の年下の学友として登場するのであるが、京都染織組合の労働運動に携わるその女友達が川田との恋に悩む祥子に「愛情から発する献身と制度に強制された献身とは違うのよ」と、それとなくたしなめて自省を促す場面がある。
祥子の夫への献身は旧社会「制度に強制された献身」であって時代遅れだ、これからは個別の自由な「愛情から発する献身」が可能な人(この場合は川田)との愛に生きるべきだ、ということになろう。
冬子の中川への介護も純心な個別の「愛情から発する献身」であり、自己犠牲的ともいえる献身であった。しかしながら、祥子と冬子の献身が同じ個別の愛情から発したものであるにもかかわらず、本質的に違うと感じるのは、・・・祥子にとっての川田は愛する人、恋する人、つまり祥子が自主的に選んだ人であるのに(愛情にも打算が混じり込まないとは限らないであろう)、中川への冬子の献身に祥子のような感情は含まれていないことにあるのではないか(あったとすれば、単純な先生への敬慕だったろう)。愛情も範囲が広いのである。
冬子の献身は、こう言い換えることが出来るのではないだろうか。(「愛情から発する献身」に至る前の)人間本能のもっとも原初的な発露であるシンパシー(他者への思いやり、共感)、それが冬子を突き動かし続けた原動力であった、と。
落魄老残の晩年に天女の化身ともいえる増田冬子に巡り合えたのは、中川與之助の僥倖(ぎょうこう)であった。天の配剤であり神仏、大文字山の加護であったと信じたい。「老いらくの恋」に、これほど似つかわしい天女伝説(秘話)はあるまい。
蛇足ながら「虹の岬」にも百日紅は、家出して逃れ込んだ俊子の実家の庭に花を咲かせているさまが、故事にこと寄せて描写されている。「百日紅」という章題まで付されて(これは「歌人・鈴鹿俊子の八十年」の百日紅に触発されたからではなかろうか?)。

 
また、この訪問で冬子は著者早瀬に「昨年秋、M子さんと二女のNちゃんが二人でこられました。御墓参りもかねて」と語っている。
M子とは中川の長女である。長女の夫が中川の教え子であることはすでに述べたが、夫Sは京都府綾部の素封家の八人兄弟の長男で、男兄弟五人いずれもが京大を卒業した優秀な家系だった。長女が結婚して間もないころ、そのSの実家へ中川は長女を随伴して出向いたことがあった。Sの両親に妻(俊子)と離婚するに至った事情を報告して詫びるためである。中川は長女をSのもとから引き取るつもりで(長女も覚悟していた)、そう申し出た。
Sの父親は「わざわざお越しいただいて恐縮です」と答え、さらに言葉を継ごうとしたとき、横から母親が「家にはまだ嫁入り前の娘もいることですし、困ったことです」と溜息をついた。離婚寸前の危機を救ったのは、Sだった。「結婚した相手はM子であって、義母の今度のこととは何ら関係はない。僕の妻はあくまでM子です」この説得にSの両親は折れ、夫婦の絆はいっそう強いものになった、と早瀬は明かしている。

この長女夫婦は、昭和24年生まれの長男(中川父娘がSの実家に離縁を申し出たとき、すでにこの長男を妊娠してたか、生まれていたのか?)と27年生まれの長女に恵まれ、今では長男は一流メーカーに勤め、長女はドイツに留学したあと翻訳家となって、現在母娘(長女と翻訳家の娘)は東京麻生の至近距離に暮らしている。
七つ違いの夫Sがもし生きていたら今年(平成2年)70歳になる(長女とは6歳違いであったようだ)。SはS鉱業に就職していたが、戦後復員するとS電工に転じ、S電工の将来を担(にな)って立つ人材と嘱望されていたが、取締役人事部長の現職で癌に冒され帰らぬ人となった。まだ54歳の若さであったという(俊子は、Sの加護を願って死の直前まで仏壇に手を合わせ続けたが、叶わなかった)。
企業名のS表記は別のところではS財閥とも出てくるので、住友のことだと解釈される。偶然ではあろうが、住友本社の総理事候補だった川田を連想させる、Sである。

俊子と暮らすために神奈川の県立高校へ転校した長男は、慶応大学に進み、卒業後民放に就職したが、今は財閥系メーカーの部長職にある。自宅の毎日新聞を読み終わると、庭伝いに息子の家でとっている朝日と交換する、と書かれているので長男は藤沢の同じ敷地に住んでいるようだ。
次女も慶応大学に進学、住友商事に就職して社内結婚した。その後家業を継いだ夫と都内で暮らし、長男同様に揺るぎない家庭を築き平穏な日常を送っているとある。
長男と次女が自分のもとに残るか母のところに行くか、その選択を中川は子供たちの自由に任せた。「もしあのとき、中川が意地になって二人の子供を手放さなかったらどうであったろうか。あるいは川田が、次々と自分たちのところにやってきた中川と俊子との間の子供に逡巡の表情を見せていたらまた別の局面を迎えていたことだろう」俊子はそのことを思うと二人に感謝の気持ちでいっぱいになる。

「俊子は、毎朝六時半頃二階東側の寝室でひとりでに目ざめる。顔を洗ったあと、仏壇に向かって般若心経を五回となえる。・・・毎朝仏壇に向かうのは順の死以来の習慣になっている。川田順に手を合わせ、ついで先夫中川與之助の冥福を祈る。いつの頃からか、先夫に対しても素直に祈る気持になっている自分に、俊子は驚いたりほっとしたりする。歳月がすべてを恩讐(おんしゅう)の彼方に洗い流してしまったのだろうか」
早瀬圭一が藤沢に取材に訪れたとき、鈴鹿俊子はまさしく「過ぎし愛のとき」に生きていた。むろんのこと、「歌人・鈴鹿俊子の八十年」に俊子の最期は書かれてない。
      遠ぞらにいなづま光る夕まぐれ豆の花かもすずろに白し
と、愛する人と子供たちへのせめぎ合う心を振り棄てて敢然と家出した頃に歌った俊子は、いったいいつまで生きたのだろうか(今日生きていたら俊子は116歳である)。どの本で調べたらよいのだろう?と思案しているうちに、もしかしてインターネットに?(あるとは想ってもいなかったのに)あった。
平成20(2008)年2月20日沒。98歳。
     風のなき日にも開き戸の軋(きし)むことありて亡きひと帰り来しかと
     夫と世を隔てせんなき生にして わが腕蚊がさす現(うつつ)をみつむ
「老いらくの恋」の生き証人として「うしろ指」をさされ、「批判と好奇の目」にさらされても来た。「しかし私は何も悪いことをしたわけではない」「何事も〈宿命〉だったのだ」56歳の未亡人には孤軍奮闘の長い長い後半生が待っていた。
その間に、「不倫は文化」に昇格し(この発言を俊子は耳にしていたはずである)一応の市民権を得、こうして原稿を書き継いでいるついこの頃にも、どこかで「円楽、老いらく」とかのダジャレを飛ばしていたっけ。

(追記・この文章、もうほとんど「歌人・鈴鹿俊子の八十年」の換骨奪胎、焼き直し(パクリ)状態になりました。お許しあれ、早瀬圭一先生。言うまでもなく、先生の本文ははるかに感動的です。是非ご一読を。また、濱川博「素顔の文士たち」からも一部引用した。)


(以下、辻井喬「彷徨の季節の中で」(1)につづく。)















 
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