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日本文学読書案内

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自由人の系譜 吉行淳之介「闇のなかの祝祭」と「暗室」(8)

吉行淳之介には全集が三つある。
一つは、これまで再三触れてきた新潮社版全集(15巻)で、吉行の死から三年後(1997年)に刊行された。
あとの二つは、いずれも生前に講談社から1971年(全8巻)と1983年(全17巻、別巻3)に刊行された。昭和に直せば46年と58年で、吉行47歳および59歳ということになる。
これも昭和という時代が「ブンガク」全盛の時代であったからではあるとしても、生前に個人全集が二回もというのは、今日の作家からみれば夢のまた夢というところか。
昭和文学を集大成した「昭和文学全集」(小学館)に、昭和最後の新人として収載された村上龍だって、着実に文学的業績を積み上げてきたのに(つまり、吉行に引けを取らない業績なのに)、まとまった作品集はひとつもないのだから。村上龍と同世代で全集、作品集があるのは宮本輝、村上春樹、あるいは生前の全集刊行にこだわった車谷長吉くらいでは?中上健次も津島佑子も死後である。これからはそれさえも、どうなることやら。
その村上龍が、「群像」の吉行淳之介追悼号に一文を寄せているのに気づいたけれども、これは芥川賞選評で吉行が、「抜群の資質」の持主と村上龍を称えていたからであろう。

1924(大正13)年生れの吉行は、1949(昭和24)年生れの村上春樹や1952(昭和27)年生れの村上龍からすると、ちょうど父親世代に当たる。すなわち、昭和の時代を丸々生きた吉行の世代は、空前の活字文化隆盛の機運に巡り合わせた最も幸福な「ブンガク」世代であったかも(ただしあの戦争さえなかったら、という絶対条件は付きまとうけれども)。
特に吉行が作家としての地位を確立した昭和後半においては、生前の個人全集のみならず「昭和文学全集」に代表されるような全集本は、次から次へと各出版社から競うがごとく刊行されつづけたのだから(むろん吉行は、それらのどれにも顔を出している)。
元々が純文学畑なので作家の所得番付とは無縁だったとはいえ、吉行が時代の恩恵を受けて筆一本で稼いだ生涯収入たるや、スゴい数字だったろう(病弱であったにもかかわらず、いやそれゆえに)。遺言には、一億に近い預金が記されていたし、陋屋に孤独死を遂げた永井荷風だって多額の現金を残していた。だからこそ同居人である連れ合いはもとより、別れて暮らす妻子や「暗室」の愛人がいても、やっていけたのだ。

当時、どれほど「ブンガク」に熱気があったかは、講談社から二度目に出た吉行全集の別巻3からも読み取れる。別巻1は吉行の対談集、別巻2は吉行の各界人物評、そして別巻3は、初期習作、年譜、著書目録と併せて作家、詩人、評論家、編集者、漫画家、俳優、果ては女医などの評論文や小エッセイで埋められている、その数たるや総勢53人(こんな別巻付きの全集もめずらしいだろう)。
別巻3には、これまでにその文章を章1、章3に引用してきた瀬戸内晴美「水のように」も、安岡章太郎「吉行淳之介と自動車の関係」(「良友・悪友」)も、大久保房男「『闇のなかの祝祭』のころ」も入っているのである。
つまり、ここに収載されているすべての文章は、別のところに発表されていたものを再掲載したものなのだ、まるでそれらは、開店祝いにズラリと並べられた花輪という景観を呈している。いうなれば、別巻3は吉行淳之介讃仰の一巻といっていいだろう。

たとえば、色川武大(たけひろ、直木賞作家)の「吉行さんはいつも吉行さん」(昭和58年)という文章。
「昔、三十年ほど前のことになるが、私は小出版社の編集小僧で転々としていた頃がある。その頃の勤務先が、吉行さんが若い頃一時期、編集者をしていた雑誌社とほぼ隣り合わせていたことがある。(略)もっとも吉行さんはその当時、もう退社されて居て、療養所におられたのだと思う。
だから当時の吉行さんを私は知らない。私はいつも他の遊びばかりにかまけていてあまり読書というものをしないのだが、どうしてか(なにかが匂ってひきつけられたとしかいいようがない)吉行さんが小雑誌に発表した『原色の街』と『谷間』という作品を読んでいて、簡単にいえば、えらい人だな、と思っていた。えらい、というのは微妙だがいろいろの意味があって、とにかく不良少年あがりで世間を斜(はす)かいに眺めていた私は、めったに他人をえらいとは思わなかったのだが。

私の先輩の編集者に何人も当時の吉行さんと交際していた者が居て、彼等からよく噂をきかされていた。考えてみると吉行さんは当時まだ芥川賞もとっていなかったし、世間的にはそれほど名のある人ではなかったのである。先輩たちも吉行さんが小説を書いていることは知っていたが、同じ編集者仲間の友人という意識が濃かった。そうして彼等は、吉行さんと赤線に行った話や、ともに呑んだ話を、陶然とした表情でしゃべる。他の人と遊んだときとはあきらかに物言いがちがうのである。吉行さんと街の女をとりあった件をひとつ話のようにくりかえす先輩もいた。
『吉行の奴がねえー』
というふうに誰かが切りだすと、一座にいつも笑顔が満ちる。私たちの間ではすでにして、その頃から吉行さんは親しみぶかい有名人だった。(略)

三十年前というと、私が二十二、三、吉行さんも三十前だったはずだ。吉行さんはまもなく『驟雨』で芥川賞をとり、『焰の中』『男と女の子』だとか、短篇の『悪い夏』『娼婦の部屋』『寝台の舟』『鳥獣虫魚』など、感嘆してむさぼり読んだ。その頃、私にとって、文芸誌の創作欄に吉行淳之介の名前があるのとないのとでは大ちがいで、吉行さんの書いてない号は、なんだか冷たい他人の雑誌のような気がした。今ふりかえってみると、三十年前からその気持がまったく変化していない。私の方からだけの勝手な言いかただが、親戚か同郷の先輩のように特殊なつながりを含んだ近しい人のようにも思え、また遥かに遠い存在のようにも思える」

吉行と同業であったことは誇らしく感じても、自分はどうあがいても吉行のような存在にはなれないと、色川武大はどうやら言いたかったようだ。この後も、吉行の人となりの魅力をひとしきり述べてから、全集について触れているのでそれを引く。
「個人全集というものを、書棚に揃えてずうっとひとわたり読みかえしてみたい作家と、作品個々の評価とはまたすこしちがうのであるが、全集で読み返そうという気にそれほどならない作家とがあるようである。
吉行さんは、個人全集で読み返してみたいタイプの作家ではあるまいか。個人全集というものは、その作家の全人格とみっちりつきあって、抜きさしならない間柄になりたいという希求が、読者にとって大きいと思う。もちろん個々の作品に対する評価と無関係なのではないけれど、中には山脈の高い頂きのところを眺めればよいと思える作家も居る。(以下略)」
「麻雀放浪記」のコワモテ渡世人阿佐田哲也までをメロメロにさせトリコにした男。吉行淳之介は、何も女ばかりでなく、男にもモテた(ようだ)。

次に、吉行と同じく結核療養体験のある結城昌治(ゆうきしょうじ、直木賞作家)の「格即是風」(昭和53年)の全文。
「意外に思われるかもしれないが、吉行さんには親分の風格がある。正しく言うなら風格の格のほうだけで、風のほうは欠けている。そこが吉行さんらしいところで、肩をいからせたり、胸を張ったりという風は微塵もない。気負いも気取りもなくて、色即是空、空即是色の修辞をかりるなら格即是風、風即是格である。おかげで私なども麻雀の仲間に加えてもらっているが、その仲間というのが一癖も二癖もある連中ばかりで、とかく揉めごとが起こりやすい。
ところが、放っておいたら喧嘩になるようなことでも吉行さんが『こうしたらどうかな』と言うと大抵まるく納まってしまう。ごく自然に、みんな吉行さんに一目置いているのだ。年齢、雀歴、体力、声量からみれば近藤啓太郎さんのほうが発言力は強そうだけれど、その近藤さんが真っ先に『吉行がああ言うんだから』という具合で、仲間うちの決まりを定席の旅館N(註・近藤の親しい女将が経営していた)にちなんでNルールと呼んでいるが、実は吉行ルールなのである。

これは吉行さんの人柄というしかない。揉めごとは麻雀に限らず人事の全般にわたり、そうなると吉行さん自身がおもしろがってなかなか野次馬の席から下りてきてくれないが、とにかく親分の風格がなければこうはいかないだろう。面倒なかかわりを避けながらもちゃんと気を配っているので、やはり達人だなと思うことが再々である。
私が初めて吉行さんに紹介されたのは十数年前、新宿の酒場だった。亡くなった十返肇(註・とがえりはじめ、文芸評論家、吉行の父エイスケとも親交があった)さんや水上勉さんなどが常連だった酒場で、私もその頃はよく飲んでいたが、初対面の印象は『このひとが吉行淳之介か』という一語につきた。作品から受けていた印象と本人の印象がぴったり合っていたので、これは当り前のようで当り前ではない。『このひとがー?』と疑問符がつく場合が多いのである。男っぽい潔癖感があって、やさしい神経が快くはたらいていて、座談に妙を得ていた。私が一目も二目も置くようになったのはそれ以来で、初めて会ったときの印象は今でも変っていない。

多分そのせいだと思うけれど、いっしょに雀卓を囲んで冗談を言い合うようになっても、吉行さんが私より三つしか年上ではないということが納得できないままでいる。もちろん吉行さんが老けてみえるというのではなくて私個人の感覚だが、もっと年長のような気がしているのである。それだけ私が幼稚ということかもしれないし、風格がちがうということかもしれない。
吉行さんは落語が好きで、しゃれの精神を大切にしている。その精神の奥にあるのは都会人特有の羞恥心で、その羞恥心を踏みこたえているのが人間としての矜持ではないかと私なりに解釈している。吉行さんの場合はそれがやさしさになってあらわれるが、たとえば麻雀の帰りに駐車場から車を出すときなど、深夜過ぎまで働いている駐車場の係員に気をつかっている様子をみると、いかにも吉行さんらしいと思うのである」

吉行親分の風格を慕う中でも、その筆頭格でなかったかと思われるのが山口瞳と野坂昭如(あきゆき)であろうか(二人とも直木賞作家で、癖の強い一家言の持主)。
「吉行さんならどう考えるだろう、どう行動するか、いちいち規範としていて、それは何をどう真似たって、鵜における烏と分ってはいるのだが、一種の癖になっているのである」(「吉行さんの存在」昭和46年)と野坂昭如が称えれば、山口瞳は「私の書物机の上に、一枚の名刺が置いてある。それは吉行さんの名刺である」「机の上の名刺は、いつでも私に何かを語りかけてくるように思われる」(「吉行さんの名刺」昭和52年)と反響する。
こうなると親分どころか、もう絶対服従の教祖的存在に祭り上げられている。ま、山口瞳は吉行の旧制麻生中学の後輩でもあるのだから、割引いて考える必要もあるかも。
同じく、「素顔の作家」(昭和53年)という一文を寄せている奥野健男(文芸評論家)も中学の後輩である。次の文章にも、先輩にとり入る後輩の心情が見え隠れしていやしないか。

「(前略)『闇のなかの祝祭』は彼の三角関係の現実を、解決すべく必死に書いた小説で、遊び人の彼が愛を信じてしまった悲劇が見事に描かれている。渦の中にまきこまれながらも嫉妬と愛に狂乱する女をこの上もなく、可愛くすさまじく描いている。彼は生得の小説家というべきであろう。その頃から彼の目はらんらんと輝き、尻をまくって何でもやってやろうという妖気というか精気が漂いはじめたように思う。
そのあと『砂の上の植物群』そして『星と月は天の穴』そしてほとんど極限の部屋である『暗室』など、性と愛と憎しみをテーマにした最前衛的な作品を書き続け、今や島尾敏雄とともに純文学の極北の作家といってよい。
けれどもそういう時でも彼は肩をいからせてない。妻と別れ、家庭を破ったがまたまた同じようにとらわれ、また破ろうかと苦笑している。吉行さんはわが先輩ながら、まことにダンディであり、ドン・ジュアンである。浮気に徹するというか、女性探求の聖者殉教者という趣を呈しはじめている。彼はバーに行くと、率先して隣に来た女を(それは不思議に小柄なコケティッシュな女性だが)くどき、ぼくらに『モモヒザ三年、シリ八年』などと教えてくれる。尻を女性に警戒されず撫でるには八年の修行がいるというのである。吉行はいくら遊んでも不思議に汚らわしさがない」

もう一人の後輩が、北杜夫である。北杜夫は飼い猫が産んだ子猫を、猫好きだった吉行理恵に引き取ってもらったりしているのであるが、それは随分とのちのことで、この「もてすぎること」という文章は昭和51年の発表である(全文引用)。
「ごく稀に、吉行さんとバーで飲んだりするとき、私はおもしろからぬ心境に駆られた。なぜなら、彼一人大もてにもてて、こちらはまったく無視されるからである。それでも女性にかけては達人の人であるし、なにより中学の先輩(この中学の、というのが特別なことであって、高校や大学とは違う)であるから、私はこれを自然現象と見なし、憎らしいとは一度も思わず、ただ単にため息をついていたのである。
ところが──  日も知らず所も知らず、とにかくかなり以前、私は吉行さんのお宅に呼ばれたことがある。そこには、一人の名だけ知っている女性がいた。予想以上に、美しく、かつ可愛らしかった。

そのときの用件は、くわしくは忘れたが、多分彼女が不眠症のがあり、薬について相談されたようだ。それよりも、そのときの酒のツマミとして、ウナギの燻製が出た。それが、なにか吉行さん好みでしゃれているというか、彼女の可愛らしさと共に印象を受けた。
それから長からぬ或る期間、私はときどき彼女から電話を貰った。内容は薬の相談であったが、そのほかに彼女は、まあ言ってみればある種のグチをこぼした。彼女の声は、またこのうえなく可愛らしかった。その声と話しぶりが、むかし私と交際のあったある女性とそっくりなのである。その女性ははっきりいってヒステリー気質であった。また、私は医師として、ヒステリー、ヒステリー気質(この両者は医学的には区別されている)の患者さんをかなり知っている。
私は、彼女の電話の声と、グチの内容から、これはその多様な性格の中にヒステリー気質もかなり有する女性ではないかとつい思った。いや、そういう立場に彼女は立たされていたのかもしれない。

ヒステリー気質の女性というものは、概して優秀で、又ある状態のときは、これほど可愛く、あどけないものはない。ところが、別の状態のときには、極めて困る存在にもなる。もちろん、これは一般論である。しかし、そのころ私が、
『ああ、これは吉行さんも苦労するな。どだい、彼は女にもてすぎるからいかんのだ。いわば、身から出た銹(さび)なのだ』
と、考えたことは事実である。この診断は、なにせヤブ医者の私のことだから、まったく間違っているかもしれない。なにより、当時、彼女がつらい立場にあっての一時的現象とも考えられる。ともあれ吉行さんは、ときに鬱(うつ)になったり、或いはアレルギーのためダウンする。その根本原因は、やはり女性をヌキにしては考察できぬのではあるまいか。
しかし、このあいだも久方ぶりでバーでお目にかかったら、顔もつやつやしていて、声もすこぶるお元気であった。『強靭な人だ』と、つくづく私は感服するのである」

この女性が誰であるかを改めて述べる必要はあるまい。吉行も北杜夫もひどい躁鬱病だったので、ドウビョウアイアワレムところでもあったのか、やっぱり先輩には甘いようだ。しかし、北杜夫がほとほと「強靭な人」だと感心しているのには、同感せざるを得ない(うん、病弱という割には何といっても精力的なのだ)。
この別巻3とは別に、中央公論社で吉行の担当編集者であった村松友視(退職後、やはり直木賞を受賞)に、「ヤスケンの海」(2003年、幻冬社)という著書がある。これは同僚の編集者だった安原顯を悼んだ回想本なのだが、この中に吉行についてのこんな叙述があったので、別角度からの意見も加えておく。
「その頃、私は吉行淳之介訳『好色一代男』の連載の担当をしていた。そして、その連載のあいだに吉行氏のさまざまな場面、さまざまな言葉に接し、これまでに味わったことのない新鮮な感じを受けていた」
こう書いて迷った時の吉行頼みで相談を持ちかけ、意を得た話が挿入されているのであるが、この叙述の一端からも、吉行が如何に影響力のある個性の持主であったかが伺える(この影響あってか、のちに村松友視は、「淳之介流 柔らかい約束」という吉行回想本をも上梓しているほどだ)。

それはともかく、むつかしい吉行淳之介論や作品論などを除けば、上のようなたわいない雑文まで集めてわざわざ別巻仕立てにして持ち上げているのだから、まだまだ「ブンガク」にチカラがあった時代だったんだな、とあらためて感服する次第である。ああ昭和、だ。村上龍だって、この時代だったらまちがいなく全集の一つや二つ出ていただろう。
ところがである。意外や意外。この別巻の執筆者名を並べた目次の中にもう一人の村上、すなわち村上春樹の名前を見つけたのである。吉行淳之介合唱隊の一員に、村上春樹。まったくそぐわないというか、ずらっと並んだ大人(父親世代もしくは先行年上)の集団に、未成年者が一人まぎれこんだような感じを受けて、何かの間違いではないかと、一瞬面喰らったのである。

実はこの中に、もう一人村上春樹よりずっと若い、芳紀25歳の中沢けいの名前もみえるのだが、彼女からはそんな感じは受けなかった(おじさんに囲まれた若い女性だったからか?なお、他に女性陣は河野多恵子、森茉莉、武田百合子、瀬戸内晴美と吉行の心理分析をした女医である)。
この別巻は最終配本なので、刊行開始から二年後の1985(昭和60)年1月10日発行となっている。この日は、たまたま1月12生れの村上春樹が36歳を迎える直前であったとともに、この年は記念すべき節目の年でもあった。長篇「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を書き上げ、第21回谷崎潤一郎賞を受賞しているからである(選考委員だった吉行は、授賞に消極的賛成だったと選評に書き残している。三十代での受賞は、大江健三郎に次いで二人目だった)。
その村上春樹が、吉行についてどんなことを書いているのか。これもたわいない内容ながら、短い文章なので全文を写してみよう。「僕の出会った有名人」と題されている(昭和59年「村上朝日堂」所収。発表年は特定されていない)。


「吉行淳之介という人は我々若手・下ッ端の作家にとってはかなり畏れおおい人である。しかしなぜ吉行さんが畏れおおいかというと、これが上手く説明できないのである。他にも有名な作家や立派な作家は星の数のごとく(・・・でもないか)いるのだけれど、とくに吉行さんに限って畏れおおいという感じがあって、これは不思議だ。
吉行さんは僕が文芸誌の新人賞をとった時の選考委員でまあ一応恩義のある人でもあり、どこかで会ったりするときちんとあいさつする。すると『あ、このあいだ君の書いたものはなかなか面白かった』とか『最近目が悪くて本が読めないんだが、む、がんばって下さい』とか言われる。しかしいつもそういう風にやさしいかというとそんなこともなく、他の人がちょっと余計なことを口にしたりすると『それは君、つまらないことだよ』とか『ま、野暮はよそうよ』というようなことを軽々と言って向こうに行ってしまったりする。この辺の間あいの絶妙さが畏れおおいというか、こちらが勝手にかしこまっちゃう所以である。

だから吉行さんのそばにいる時は僕は自分からほとんど何もしゃべらないことにしている。だいたいが人前に出ると無口になる方なので、こういうのはぜんぜん苦痛ではない。むしろ楽である。だから僕はこれまで四回くらい酒場で吉行さんと同席したことがあるのだけれど、何か話を交わしたという覚えがほとんどないのである。
それでは吉行さんがそういう場所で何を話すかというと、これが本当にどうでもいいような無益な話をエンエンとやっているのである。無益な話が無益な曲折をへて、より無益な方向へと流れ、そして夜が更けていく。僕もかなり無益な方だけど、まだ若いのでなかなかあそこまでは無益にはなれない。いつも感心してしまう。そういう話をエンエンとやりながらホステスのおっぱいをさりげなくさわっちゃうところも偉い。やはりなんといっても畏れおおいのである」
ここでも、「腿膝三年、尻八年」の技巧を見せつけていたようだ(この造語は、安岡章太郎との合作だとも言われている)。

それよりも何よりも、村上春樹がクラブに出没していたとは、驚き桃の木山椒の木である。村上龍だったらまだしも、村上春樹がホステスに取り囲まれヤニ下がっている光景なんて、まったく想像もできなかった。驚いた。
文芸誌の新人賞とあるのは、1979年に第22回群像新人文学賞を受賞した「風の歌を聴け」のことである(村上春樹の前年に「海を感じる時」で受賞したのが19歳だった中沢けいである)。村上春樹については、吉行以上に丸谷才一が高く評価していた。
そんないきさつがあったからというのでもないだろうけど、村上春樹は「若い読者のための短編小説案内」という評論本で、吉行や安岡たち「第三の新人」の作品と丸谷才一「樹影譚」などを取り上げて、親近感を示していたのを思い出した。対象となった安岡の作品は「ガラスの靴」、吉行のは「水の畔り」という作品で、吉行が結核の手術をする前に小島信夫に紹介されて、千葉の佐原で療養していた時のことを書いた比較的地味な作品である(佐原は吉行が運転して、安岡と近藤啓太郎の三人でドライブに行った土地である)。
取り上げられた残りの作品は小島信夫「馬」、庄野潤三「静物」、長谷川四郎「阿久正の話」である(長谷川四郎も「第三の新人」に加えられることもある)。

作品選択について、村上春樹はこういうふうに説明している。
「僕はいわゆる自然主義的な小説、あるいは私小説はほぼ駄目でした。太宰治も駄目、三島由紀夫も駄目でした。そういう小説には、どうしても身体がうまく入っていかないのです。サイズの合わない靴に足を突っ込んでいるような気持ちになってしまうのです。言うまでもないことですが、それは僕の個人的な嗜好の問題であって、それが作品の客観的評価につながるわけではまったくありません。人間と人間のつきあいと同じことですね。僕らはどれだけ心を開いても、そのへんの誰とでも簡単に友達になれるわけでもないし、小説に関してもそれは同じことです。相性というものがあるし、また馴染むまでに時間がかかるものもあります。だから、ひょっとしたら十五年後には、僕は私小説にどっぷりと首までつかりきっているかもしれません。それはまあ誰にも予測がつかないことですけれど」
首までつかるどころか、今に至ってなお、村上春樹は私小説を書いてはいない。

そして、こう書かれている。
「僕がこれまでの段階で、日本の小説の中でいちばん心を惹かれたのは、第二次大戦後に文壇に登場した、いわゆる〈第三の新人〉と呼ばれている一群の作家たちでした。具体的に名前をあげると、安岡章太郎、小島信夫、吉行淳之介、庄野潤三、遠藤周作、といった人々です。またそれに加えて、一般的な定義においては、そのグループには属さないけれど、その前後に登場した何人かの作家にも興味を持ちました。たとえば長谷川四郎、丸谷才一、吉田健一といった作家です。
どうして僕がこのような人々の作品に個人的な興味を持つことになったのか、そして彼らの作品のあいだには何かしらの共通性のようなものがあるのだろうか?僕は少しずつそういうことを考えるようになりました」
「そういう」考察をまとめたのが、「若い読者のための短編小説案内」(1996年から1997年、「本の話」連載)だったというわけである(註)。当代きっての人気作家による「第三の新人」支持表明がなされたのであったけれども、時すでに遅しで「畏れおおい」吉行さんは、その二年前にこの世の人ではなかったのである。
(註・村上春樹が訳した「アメリカの鱒釣り」の作者リチャード・ブローティガンと吉行のあいだに交流があったというのも、二人の奇妙なつながりではある。)

昭和24年生れの村上春樹が、早稲田大学に入学したのは昭和43(1968)年である。その年に吉行は、「重厚と軽薄」(「風景」1月号)というエッセイを書いている(「暗室」執筆の前年である)。その冒頭。
「ときどき未知の読者から便りをもらうことがあるが、近年、女子大生とか女子高校生からのものが多くなった。小説が活字になりはじめた頃には、自分の作風から考えて、女性読者とは無縁とおもっていた。まさか後年、女子高校生に、娼婦のことを書いた作品についての感想を述べた手紙をもらうとは、まったく考えなかった。そういう手紙には、〈センセイの名前を見ただけで、母はオゾケをふるいます〉などという文句が出てきたりして、その〈母〉はつまり私とほぼ同世代ということになるから、あきらかな変化が起っている。こういう〈性〉についての受け取り方の変化は、多分、いや、きっと歓迎すべきことなのにちがいない」
このように書いて、「重厚と軽薄」についてのウンチクが語られるのであるが、それはどうでもいいので省略する。

このエッセイと同趣旨のことが、永井荷風作と伝えられる「四畳半襖の下張り」を雑誌「面白半分」に掲載して、野坂昭如が猥褻罪に問われた裁判で、特別弁護人として法廷に立った吉行の弁論の中にある。
「戦後私はある時期、娼婦を主人公とした小説ばかり書いていましたので、甚だいかがわしい存在だとおもわれていました(笑)。十年前でも、女子大生が卒業論文のテーマに私を取上げようとすると、担任教授に呼びつけられて説諭され、翻意を求められたと聞きます。このごろでは、ほとんどそういう事実はないようです。つまり、二十年前の女子大生にとっては、私の書くものは読んでいると口に出してはいけないものとなっている作品でした。現在では、当時の『原色の街』などの読後感を女子大生が送ってきてくれますが、私の意図を正しい角度から理解していて驚きます。ただし、そういう手紙の中に追伸があって、〈私の母はセンセイの名を聞くと怖気(おぞけ)をふるいます〉などと書いてある(笑)。その母親というのは私と同年代なわけで、ああ、二十年経ったのか、と感じますねえ」(「四畳半襖の下張〈裁判〉法廷私記」昭和49年)

村上春樹は、吉行の娼婦小説を取り上げて推奨しているわけでもないので、その系統の作品をどう評価していたかはわからないながらも、村上と同世代の女子高生や女子大生が娼婦小説に一定の理解を示してくれるのを好ましい時代傾向として、吉行は単純に喜んでいるのである。
賛同あれば拒絶あり。これらの文章を得意げに発表した時点では、ここに出てくる女学生たちと同じ世代から痛罵されるハメになろうとは、いくら優秀で自信家の吉行センセイでも思いだにしなかったであろう(吉行は番町小、麻生中学を通して、常に学年トップの成績であったという)。
「男流文学論」(1992年、筑摩書房)なる書物が刊行されたのは、吉行の死の二年前であった。男の書いた「ブンガク」を女の目線(註)で吟味、分析してコテンパンに批判した鼎談書評である。
(註・大塚英子「『暗室』のなかで」によると、この言葉を吉行は嫌っていたとある。視線が正しい書き方だ、と。)

まな板にあげられたのは、吉行淳之介「砂の上の植物群」「驟雨」「夕暮まで」、島尾敏雄「死の棘」、谷崎潤一郎「卍」「痴人の愛」、小島信夫「抱擁家族」、村上春樹「ノルウェイの森」、三島由紀夫「鏡子の家」「仮面の告白」「禁色」の諸作品である。
評者は上野千鶴子、昭和23(1948)年富山生れ、京大卒。小倉千加子、昭和27(1952)年大阪生れ、早大卒。富岡多恵子、昭和10(1935)年大阪生れ、大阪女子大卒の三人である。富岡多恵子だけは世代が異なるものの、上野も小倉もフェミニスト学者なので、小説家として実作者の立場から参画したのであったか(付言すれば、富岡多恵子は前章に登場した「暗室」のモデル、多加子と夏枝と同世代ということに)。
この六人の作家のうちで、最もやり玉に挙げられているのが吉行なのである(吉行は、これを読んだであろうが、何も書き残していない)。
さらにそれから十八年後、上野千鶴子は「女ぎらいーニッポンのミソジニー」(2010年、紀伊国屋書店)と題する著作で、再び吉行を痛烈に罵倒しているのである。

奥付の著者紹介欄には、上野千鶴子のことが「現在、東京大学大学院教授、女性学ジェンダー研究のパイオニア。1980年代以降常に時代の先端を疾走し、現代社会のさまざまな問題を問い続けてきたフェミニスト。近年は老い、福祉、ケアに専門領域をひろげている」と記されている(その後、2011年度の朝日賞を受賞)。
ここでは、この「女ぎらい」をテキストにして、どのように吉行(作品)が論難されているかを検証してみることにしたい。
まずもって、学者の文章というのは、やたらと外来語が出てくるのでかなわない。「フェミニスト」からして怪しいところへ、「ミソジニー」となると、珍紛漢紛(ちんぷんかんぷん)である。だからついつい敬遠したくなるのであるが、そこはよく心得たもので冒頭にしっかりと説明されていた。

「ミソジニー。〈女性嫌悪〉と訳される。〈女ぎらい〉とも。ミソジニーの男には女好きが多い。〈女ぎらい〉なのに〈女好き〉とはふしぎに聞こえるかもしれない。それならミソジニーにはもっとわかりやすい訳語がある。〈女性蔑視〉である。女を性欲の道具としてしか見なさないから、どんな女にもハダカやミニスカートなどという〈女という記号〉だけで反応できる。おどろくべき〈パブロフの犬〉ぶりだが、このメカニズムが男に備わっていなければ、セックス産業は成り立たない。
性別二元性のジェンダー秩序に深くふかく埋めこまれた核がミソジニーだ。このシステムのもとで男になり女になる者のなかで、ミソジニーから逃れられる者はいない。それはシステムのなかに重力のように瀰漫(びまん)しており、あまりにも自明であるために意識することすらできないほどだ。
だが、ミソジニーは男女にとって非対称に働く。男にとっては〈女性蔑視〉、女にとっては〈自己嫌悪〉。もっと卑近な言い方で言いかえよう。これまでの一生で男のうちで、〈女でなくてよかった〉と胸をなでおろさなかった者はいるだろうか。女のうちで、〈女に生まれてソンをした〉と一度でも思わなかった者はいるだろうか。

女好きの男が女ぎらい(ミソジニー)だと言えば矛盾して聞こえるかもしれない。ミソジニーという英語は、訳しにくい。ミソジニーの代わりに、女性憎悪(ウーマン・ヘイティング)ということばもあるが、もし女好きの男がウーマン・ヘイティングと言えば、読者はもっと面食らうだろう。
〈性豪〉と呼ばれる男性を思い起こせばよい。かれらは〈モノにした〉女の数を誇るが、逆に言えば女と言えばだれにでも発情するほど、あるいは女体や女性器に、あるいは女性性の記号やパーツに自動反応するほど、条件づけされた〈パブロフの犬〉であることを告白しているも同然だろう。かれらが反応しているのは、女ではなく、実のところ、女性性の記号なのだ。でなければどんな女でも〈女というカテゴリー〉のなかに溶かしこんでしまえるわけがない。(以下略)」
結構、論の立て方が強引なような気もしないでもないが、反論なんてとても無理だから、門外漢はおとなしくして、次のご高説を拝聴しようと思ったら、いきなり「吉行センセイ」の名前が出てきたので、目をパチクリして読む。

「女好きのミソジニーの男、というとき、わたしの脳裏に苦い思いで浮かぶのは、吉行淳之介である(註1)。吉行は文壇の色男として知られていた。モテた、と言われるが、かれの描く世界は、娼婦やくろうと女の世界だ。かれの芥川賞受賞の出世作『驟雨』は、永井荷風の『濹東綺譚』を意識していると言われる。荷風も商売女の世界を描いた。女好きのミソジニーの男に共通するのは、娼婦好きということだ。娼婦が好きということは、娼婦を人間として愛するということではない。カネで買った女を自由にもてあそび、ときには本人の自制に反してまで、みずからすすんで従わせることが好き、という意味である。荷風作とされる『四畳半襖の下張り』は、身を売った女に快楽で我を忘れさせるという、遊客の〈通〉の文化、究極の男性支配を言語的に遂行したテキストである。奥本大三郎(註2)は、吉行を〈まぎれもなく女性嫌悪思想の系譜に連なる作家である〉と書く。〈しかし、女性嫌悪思想の持ち主というのは、どうしても女に無関心でいられないのが、その弱点なのである〉とかれは付け加える。そして吉行に女性の読者が増えていることをさして、〈何だか猟師の鉄砲に小鳥が止まったような具合である〉と揶揄する」
(註1・吉行の「女好きの女嫌い」という指摘は、すでに阿川弘之によってなされていた。章6参照。註2・奥本大三郎は1944年大阪生れ、東大卒。フランス文学者、エッセイスト。)

「今から約二〇年前、富岡多恵子、小倉千加子と共著で『男流文学論』を出したとき、その冒頭に吉行淳之介を持ってきたのは、わたしがかれに恨みつらみを持っていたからである。べつに吉行に個人的にセクハラを受けたというわけではない。当時吉行の読者であった同世代の男たちから、セクハラまがいの発言を受け、それを甘受しなければならなかったからである。かれらはこう言った。
『吉行を読めよ。女がわかるから。』
 なかには、〈女が何か知りたくて、吉行を読んでいます〉という女さえいた。他の女がベッドでどうふるまうかは、男に訊かない限り女にはわからない。女性経験の多い男になら教えてもらえるだろうーだが、そこに描かれているのがリアルな女ではなく、女に対する男の妄想であることに気がつくのは後になってからのことなのだが。とはいえ、男の〈妄想〉の共演者になることを、吉行の著作から〈智恵〉として学んだ女もいることだろう。

吉行は文壇では〈女の通〉ということになっていた。たんにセックスした女の数と回数が多く、その経験を小説の主題にしているというだけで。性の相手が多いことは、それだけでは自慢にはならない。とりわけ相手がくろうと女性の場合には、それは性力の誇示ではなく、権力や金力の誇示にすぎない。作家吉行エイスケと美容家として成功した吉行あぐりの息子として生まれた淳之介は、カネに困らないぼんぼんだっただろう。権力、富、威信に女はかんたんになびく。吉行が銀座のバーでモテたのは、カネばなれがよいだけでなく、〈ボク、作家の吉行です〉と自己紹介したからこそだろう。その点では、昨今の流行作家、渡辺淳一センセイと変わらない。荷風のように身分を隠して女のもとへ通い、女あしらいがうまいからモテた、という話は聞かない。

吉行には妻がいたが、それとはべつに、有名な女優と夫婦同然の暮らしをしていた。死後、自分が『暗室』の女でした、と名のりでた女性がいたことで、そのほかにも晩年囲っていた女がいたことが発覚した。小説『暗室』は、ほとんど私小説というべきだろう。女優の愛人は経済力を持っていたが、もう一人の愛人は、月々の手当を受けて吉行に経済的に依存していた。『暗室』のなかで完結した関係なら、沈黙のなかに封じこめておけばよいものを、〈あの吉行の女〉だったという彼女の自尊心は、名のりでなければ満たされなかったのだろう。彼女は吉行の死後、かれとの『暗室』の暮らしを、くりかえして本に書きつづけている」

「吉行の『砂の上の植物群』 に、さえないサラリーマンの主人公が行き詰って娼婦を訪れ、〈憤怒に似た感情〉を相手にぶつけるシーンが出てくる。いや、逆だ。〈憤怒に似た感情〉を抱いたときに、それをぶつける便利な相手として娼婦がいる。しかも吉行にとって女は、それに抗するどころか、どこまでも受けいれ、やがてそれを自分の快楽にさえ変えてしまうつごうのよい存在だ。自分の怒りや鬱屈のゴミ捨て場として求めた女が、それをみずから求めて享受すらしてくれれば、男は罪の意識を感じずにすむ。そして相手の女が〈苦痛の替りに歓喜の声をあげ〉たときに、〈なんてこった、女は化け物だ〉 と、女は未知の領域へと放逐され、二重に他者化される。
実話かどうかはわからない。客が娼婦の快楽に頓着するとは考えられないし(そもそも娼婦を買うのは、相手の反応に配慮する必要がないからこそではないか)、女がほんとうに快楽を感じたのかどうかは、本人に聞いてみるまでわからない。もしかしたらそういう女が現実にいたのかもしれないし、もしそうでなくても〈歓喜の声をあげる〉 ぐらいは、女にとってお手のものだ」

「言っておくが、実際の女の快楽はこんなに便利な(つまり男に好つごうな)ものではない。あまりこの種の幻想がまき散らかされているために、ほんとうに信じこむ人たちがいるのじゃないかと心配になる。吉行はそういう性幻想をまき散らかした戦犯のひとりである。そして実際、それを信じこんだ男や、そして女も、同時代にはいたのだ。〈吉行を読めば、女がわかる〉と思いこんだ男も、そして女も、そういう人々だった。そして男にはたんにつごうのよい言説も、女には抑圧的に響く。なぜなら、〈わたしは吉行の女のように感じない。なら、わたしは女として未熟なのじゃないかしら〉と感じただろうから。吉行を女に読ませたがった男たちは、自分につごうのよい女を量産したかっただけだろう。

実際のところ、吉行を読んでも〈女はわから〉ない。かれの作品を読んでわかるのは、女とはなにか、何者であるべきか、何者であってほしいか、についての男の性幻想についてである。この事情は、オリエンタリズムと似ている。エドワード・サイードは『オリエンタリズム』を、〈オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式(スタイル)〉、言いかえれば〈東洋(オリエント)とは何かについての西洋の知〉と定義した。だからオリエントについて書かれた西洋人の書物をこれでもか、といくら読んでも、わかるのは西洋人の頭のなかにあるオリエント妄想だけであって、実際のオリエントについてはわからない、というのが、『オリエンタリズム』という書物におけるかれの発見だったのだ。

吉行の背後には、実はもうひとりの仮想敵がいる。吉行が手本とし、陋巷(ろうこう)の世界に身をおいたといわれる反俗の作家永井荷風である。戦後文学の『第三の新人』 のひとりであった吉行は、やがて日本の文学史から忘れ去られるかもしれないマイナーな作家だが(いまどき、吉行の読者はどのくらいいるだろうか)、永井荷風のほうはそうではない。荷風は今でもくりかえし参照される文学史上の大家である。吉行のみならず、今でも荷風を手本として慕う男の物書きは絶えない。それを見るたびに、奥本の言う〈女性嫌悪の系譜に連なる作家〉が再生産されていると、思わないではいられない。

荷風もまた女好きで、娼婦のもとへ通い、娼婦の客になることよりも情人になることを好んだ。吉行とちがって荷風は身分を隠し、〈なにやらいかがわしい職業の気のいいおじさん〉 として娼婦に対した。カネばなれはよかったかもしれないが、地位を餌にはせず、娼婦から情人の待遇を受けるほど彼女たちから好かれた。吉行は情人となった娼婦が他の客をとることに嫉妬を覚えたが、荷風はなじみの女にべつの客が来ると、商売の邪魔にならないように身を隠す節度を持っていた。荷風のほうが性の通人であり、女あしらいがうまいことは想像に難くない。性の技巧もなまなかでなかったことは、快楽を感じないようにセルフ・コントロールしているはずのくろうと女を絶頂に導いたこと(になっている)から推察される。こんなおじさんとお友だちになってみたかった、って?だが、荷風もまた奥本の言う〈女性嫌悪思想の系譜に連なる作家〉だと言えば、奇妙に聞こえるだろうか?」

上野千鶴子はこう分析して、荷風の代表作「濹東綺譚」の一節を引き、荷風も吉行同様に「其(娼婦の)身体のみならず其の心情をも弄(もてあそ)んだ」ことに変わりはない同じ穴のムジナだ、と断罪する。
同類ではあろうけれども、どちらかといえば吉行より荷風の方が本質的に冷酷だったのではあるまいか?荷風に比べて吉行批判が燃え盛っているのは、直接被害体験の有無によるものだろう(もっと複雑、微妙な要素もあったには違いないが。例えば、二人が父と祖父に当たる年代差、時代差とか、いろいろ)。
いましばらく吉行批判はつづいているが、ミソジニーの典型男の罪状論告引用はこのくらいで充分だろう。しかしながら(こんなことをいうのは上の村上春樹ではないが、おこがましく畏れ多いものの)、この論旨にはちょっぴり不満も残る。論拠となるトラウマ吉行論には同情しても、やや論法が大まか過ぎやしないか(ま、文学が専門ではないから仕方ないだろうけど)。動機はどうであれ、もっと委細を尽くした本格的吉行淳之介論を期待していたのに(吉行論だけが目的ではないので、これも仕方ないのだろうけれども)。

とはいえ、さすがに名うてのフェミニスト学者だけあって、しばしばその学識と知見には圧倒される(ふだん、こういう類いの書物を読み慣れていないので新鮮に感じられた)。
またしても長くなるが、二、三引例してみる。
「異性愛秩序の核心に女ぎらい(ミソジニー)があることはふしぎではない。なぜなら自分は女ではない、というアイデンティティだけが、〈男らしさ〉を支えているからだ。そして女を性的客体としてみずからが性的主体であることを証明したときにはじめて、男は同性の集団から、男として認められる、すなわちホモソーシャルな集団の正式メンバーとしての参入を承認される。輪姦(まわし)が性欲とは無関係な集団的行為であり、男らしさの儀礼であることはよく知られている」

あるいは、
「女の嫉妬は男を奪ったべつの女に向かうが、男の嫉妬は自分を裏切った女に向かう。それは所有権の侵害、女がひとり自分に所属することで保たれていた男の自我が崩壊する危機だからだ。女にとって嫉妬とは、べつの女をライバルとする、男をめぐる競争のゲームだが、男にとっては自己のプライドとアイデンティティを賭けたゲームである(女性にも嫉妬をプライドとアイデンティティのゲームと考える者はいる。その場合は、攻撃は男性同様、自分のプライドを傷つけた当の相手にむかうだろう)」

または、
「家父長制とは、言いかえれば、女と子どもの所属を決めるルールのことである。男に所属する、すなわち男の支配と統制にしたがう女と子どもには社会の指定席が与えられるが、そうでない女から生まれる子どもは、社会に登録されない。登録された結婚から生まれた子どもとそうでない子ども(最近では〈私生児〉や〈非嫡出子〉という差別的な用語に代わって、〈婚外子〉と呼ばれるようになった)とのあいだには、今日に至るまで民法上の差別がある。
どんな生まれ方をしようが、子どもは子どもだ。奇妙なことに、昨今の〈少子化対策〉を見ていると、結婚の奨励と既婚女性の出産の奨励はあるが、〈婚外子〉の出産奨励という政策的なキャンペーンはどこにも見あたらない。日本政府の少子化対策はその程度のものか、本気度が足りない、と思わざるをえない。つまり、子どもが生まれることより、家父長制を守ることのほうがまだまだ重要なのであろう」

ちょっと怖い、このような事実是認も。
「DV男も、復縁殺人も、男の究極の女性支配への欲求から来ていると思えば、よく理解できる。女が殺される可能性の最も高い相手は、見知らぬ他人ではなく夫や恋人だ。アメリカには〈配偶者とは、自分を殺す確率のもっとも高い他人である〉という、笑えないジョークまである。DV殺人が起きる可能性がもっとも高いのは、妻や恋人が逃げようとしたとき復縁を求めた男が女を殺すケースだ。だからこそ〈復縁殺人〉という用語すらある。復縁を求めて得られないとき、男は逆上する。そして他のだれにもわたさないために、女を殺す。殺人は究極の所有だからである」

これは、若き三島由紀夫が書いた次の文章に照応するものでもあろう。
「愛は相手を所有することだとしても、簡単に所有するという形は、われわれにはほんとうはできない。相手が眠っているときか相手が死んでいるときしかできないのです。相手の自由を完全に自分のものとすることは、相手を殺してしまうか眠らせてしまうしかないのであります。しかしそれが不可能だとすると、いつまでもわれわれは不安にさいなまれなければなりません。
そこで考えられたのが結婚という制度です」(昭和31年、「新恋愛講座」)

ここで意外な吉行信奉者が、一人残っていたのを思い出した。三島と同年生れの丸谷才一である。
やはり、文壇随一ともいっていい博覧強記を誇り、それこそ名うての論客でもあった丸谷才一にまで、次のように言わしめているのを読んだりすると、やっぱり吉行は、上野センセイ説くところの輪姦集団の親分さながらだったのだ、と改めて感得させられるのである。
「(吉行とは)それからいろいろのことがあつて、言い盡せないほどの義理がある。一度もお宅にうかがつたことのない、そして立ち寄つてくれたことももちろんない淡いつきあひだつたが、吉行さんの友情がなければわたしの後半生がかなり色合ひの違ふものになつてゐたことは確かだろう。あんなに魅力的な人物に兄事することができたのは、わが生涯のしあはせであつた」(「『暗室』とその方法」、「中央公論」1994年9月号)

肝心要のことが書かれてないので二人のあいだに何があったのかはわからないが、尋常ではない傾倒ぶりだ(この一文は、吉行の死去後まもなくの発表だから追悼文なのであろう)。
つづいて丸谷才一は、吉行文学の最高傑作は「暗室」であると断言、「これは同じ随筆体の小説と言つても、永井荷風の『濹東綺譚』とくらべて遥かに上のものである」とまで持ち上げ、「まともな本をあんなにすこししか読まなくてあんなに知的な人があるというのは、わたしには信じがたい話である」とまで吉行を讃美しているのである。
こうなると傾倒というよりも心酔と言うべきか。ホステスに囲まれた村上春樹が想像できなかったように、こうまで酔っぱらった丸谷センセイも想像外である。村上春樹の小説にぞっこんだったのも、丸谷センセイだったから、ごくごくのお気に入りにはそういうがあった(?)のかも。

それほどの入れ込みようなのだから、上記全集の別巻3には当然丸谷才一の名前もあり、掲載文は「花柳小説論ノート」と題する評論である。短文ながら、丸谷流の卓抜な視点で日本文学史における荷風や吉行の花柳小説を正当に位置付けし直そうとした説得に富む文章である。
つまり丸谷センセイは、荷風と吉行に関するかぎり上野センセイとは対極をなす思考の持主であるということだ。吉行のひとつ年下で、東大英文科の後輩でもある丸谷センセイは、上野センセイにとって吉行に代わる絶好の仮想敵なのである。
このことに気づいて、とっさに愚にもつかぬ希望的観測が脳裏をかすめたのである。

もしかすると、すでにどこかで荷風、吉行支持派の旧世代丸谷センセイと、それに反駁する新世代(?、すでに疑問符が付く年代となった)上野センセイ論客同士、甲論乙駁、龍虎相撃つような父娘世代論争が実施されていたのではあるまいか、と(そうであれば、どことなく残る吉行淳之介へのモヤモヤ感も一掃されるかも、との期待感交じりで)。
が、これもいつもの夢想であったようだ。「女ぎらい ーニッポンのミソジニー」刊行の二年後、それは丸谷センセイの文化勲章受章の翌年ということになるのだが、丸谷センセイはすでにこの世の人ではなかったのである(83歳)。むろん、論争を行なった形跡はなかった。もっとも、この間に上野センセイも朝日賞の栄誉に輝いていたのだから、両センセイにとてもそんなヒマなどなかったのだ(残念)。

さて、丸谷才一の追悼文は「中央公論」九月号掲載だが、これまでたびたび引用してきた「群像」十月号の吉行淳之介追悼特集には、籍が入らぬまま、その死まで吉行のパートナーであり続けた宮城まり子の短い文章が載っている(以下、抄出)。
「死ぬまでにあと二冊書きたいな、『暗室』くらいの長いものだといいました。二冊よりもっと多い方がいいわ。彼の肝臓癌のこと知ってる私は、つい励ますようなこといいました。君はまだ、書くということわかっちゃいないなと本気で叱ったあと、一冊はもう書き出しの文章もできているんだ。どうしてもそれは書きたいんだ、もどかしそうでした。でもまだ書けないな、私に書きたいなというなんて、それがどんなに彼の心をゆりうごかしているかよくわかるような気がして、私は彼の笑ってくれそうなラップをしゃべりますと彼は、君はバカだなと笑いました」
この時、その二冊の内容を宮城まり子は訊かなかったのであろうか。何も書かれてない(「淳之介さんのこと」にも記述はない)。 

しかしながら、その内容を吉行は夏枝には喋っていたようである。「『暗室』のなかで」に大塚英子は、こう綴っている。
「まあ、あと十年は大丈夫だよ、もし僕がサバイバルゲームに勝てたら、『暗室』の続篇をぜひ書きたい。こんな珍しい二人の人生は、そうやたらにはないんだから、『江安餐室』(註1)の前で一度目が合った子と、一生を共にすることになったんだもの、シバレンの占いが本当にあたったんだもの・・・(註2)」
「もう一つ、『T一族』のことを、これも是非書きたい、この二つは書きたいんだ・・・」
「T一族」とは、どこのだれの物語だったのだろう?説明はない。
(註1・江安餐室は、吉行と夏枝が最初に出会った銀座の中華料理店。夏枝は21歳だったと思われる。註2・シバレンの占いとは、柴田錬三郎が京都の易者に占ってもらった際、ついでに吉行のも頼んだところ、「この人には、将来もう一人女性が現れて、その女性と一生涯連れ添うでしょう」との卦がでたという。)

宮城まり子の文章には、吉行が「意識のなくなる前、『理不尽だ』と突然いいました」とも記されている。夢うつつの境で、吉行は何を憤(いきどお)っていたのであろうか?
「生きることのむなしさを知りつくすために生きている」
これは「暗室」の主人公中田のつぶやきである。

追記。
「吉行淳之介『闇のなかの祝祭』と『暗室』」は、これで終わりなのだが、最後の最後で吉行の長女誕生に関する決定的な文章に偶然行き当った。どうでもいいことながら(せっかく見つけたのだから)、それを蛇足として幕引きとしたい。それは、講談社版の最初の吉行全集(昭和46年、全8巻)第3巻の短い日記形式のエッセイに載っていた(以下、抄出)。

 二月某日。
R社の座談会に出席。臼井吉見、三宅艶子、渡辺道子の諸氏と同席。一人ではしご酒をして帰宅。十一時就寝。午前二時、家人に起され、陣痛を訴えられる。タクシーをひろい、高樹町日赤病院に入院させる。午前三時帰宅。

二月某日。
午前九時起床。本日より一人ぐらしである。昨日のミソ汁ののこりに、餅を入れて食う。CBC(放送)のドラマ「夕焼の色」を推敲、速達で送る。
午後三時半、病院より電話。女児出生。病院へ行く。母体の方は難産で出血多量、血圧が下ったためショックを起しているので、輸血をする。午後七時、一応帰宅、疲労甚(はなはだ)しく、横臥して回復を待つ。九時、病院へ行く。家人は病室へ戻っており、案外元気であった。安岡夫人が見舞にきてくれる。十時帰宅。(この日記は活字になる前提のもとに書いているものなので、ここに書くことのできない、いくつかの事柄のため、思い屈し)このあんばいでは、小説は出来上りそうもない(註)、と思う。
(註・省略した部分に〈二十日締切の「聲」の小説、十三枚で停頓して動かない。おもい悩む。どこか密室にこもって、三日間ほどうなってみなくてはなるまいが、いま、家を空けられない事がある〉と書かれている。文枝が出産間近だったからである。また、カッコ内の「思い屈」することは、宮城まり子との恋愛問題であったのか。)

二月某日。
隣家の人に、雨戸をたたいて起された。来客あり、という。時計をみると、午前十一時。玄関の外に千葉県鴨川在の近藤啓太郎夫人が立っている。祝いの品を持参してくれる。その祝いの品には、いろいろ注釈がついている。鯛を一匹ことづけようとおもったが、鯛が入手できず、ブリを一匹買おうとおもったが、一匹ではちと高価にすぎる。片身を手に入れ、しばらく眺めていたが、あまりうまそうなので、頭から頸(くび)あたりを切り取って(近藤夫人の説によると、この部分がもっとも旨いのだそうだ)それを肴にして祝杯をあげてくれたそうである。いかにも近藤らしい話である(註)。ブリの塩焼きで食事。
夜、阿川夫妻と田村町S飯店で食事。
(註・この訪問が、そっくり「闇のなかの祝祭」にエピソードとして使われている。)

最後の、二月某日の末尾。
夜、阿川の車で、安岡宅へゆき、雑談数刻。就寝二時、そろそろ子供の名前を考えなくてはならぬ。

この短文は、昭和34年の「文學界」4月号が初出である。初出の題は「七曜表」(のちに「日記」と改題)とあるから、日付はないが一週間の出来事を書いたものだと思われる(この記述から吉行の「父性愛」のことも頭をよぎるがもう蒸し返すまい)。
新潮社版全集には、この「日記」は収載されていなかったので気づかなかったのである(二回目の講談社の全集には当たっていない)。
全集は、それも著者死後の全集は(全集と銘打って出版するからには)、どうせなら三島由紀夫全集のように断簡零墨まで網羅した完璧な全集であって欲しいものだ。



 

自由人の系譜 吉行淳之介「闇のなかの祝祭」と「暗室」(7)

昭和45(1970)年に刊行された「暗室」は、「闇のなかの祝祭」とは対照的に高く評価され、その年の第六回谷崎潤一郎賞を受賞した長篇小説である(同時受賞したのが、まぎらわしい題名の埴谷雄高「闇のなかの黒い馬」というのも、何だか因縁めいているのであるが。註)。
この回の選考委員は丹羽文雄、舟橋聖一、大岡昇平、武田泰淳、遠藤周作、円地文子、三島由紀夫であった。その贈呈式が帝国ホテルで行われたのは、11月17日。この日の三島由紀夫に関するエピソードのひとつ。
この式典に十分遅れた三島は、パーティ会場に移って二回も遅刻を詫びたという。吉行は、どうしてそんなに気にするのか、不審に思ったというのだ(吉行も約束の時間は厳守していたが、三島のそれは几帳面で厳格そのものであることが知られていた)。三島が自決したのは、それから一週間後の25日のことである。大事を控えての昂(たかぶ)りであったのか。
とまれ、吉行淳之介はこの受賞を機に、三島由紀夫と入れ替わるがごとく、文壇での存在感を増していったのである。
(註・辻井喬の「終わりなき祝祭」もまぎらわしい題名である。)

その三島由紀夫の「暗室」選評(最後の文学賞選評となった)。
「吉行淳之介氏の『暗室』は、閃光(せんこう)のようなすばらしいディテールに充ちた、性的惑溺と嫌悪との物語で、われわれは肉の感覚とインディフェレンス(註・無関心、冷淡)との、永久に解決のつかない隠微な闘争の場へ連れ込まれる。田舎の花嫁の厚化粧の、白目の黄いろっぽさを見抜く残酷な精神が、〈愛〉なしに、肉欲の只中へ落ちてゆこうとするときに、日常の部屋は『暗室』になり、苛酷さはそのまま自滅のスリルになり、性的快感は無限に・・・」
いかにも、鬼才といわれた三島ならではの核心を突いた選評である。しかし、これでは「暗室」が、具体的にどういう物語であるかは、皆目わからないであろう。
都合のいいことに、これから登場してもらう著書巻末に「暗室あらすじ」が付いているので、それをそのまま引用する。

「中年の作家中田のもとに、ある日突然、旧友津野木から電話がかかってくる。死んだ妻圭子と津野木の仲を、中田は疑っているが、問いただしたところでどうなるものでもない。津野木に連れられて行ったバーで、中田はレスビアンの少女マキと知り合い、関係を持つ。男とは〈性のないセックス〉しかできないマキは、中田の子を妊娠し、ニューヨークへ旅立つ。
中田にはすでに、多加子、夏枝という二人の恋人がいた。四年越しのつきあいになる多加子は、結婚を機に中田のもとを去り、代わって夏枝との関係が深まっていく。〈官能の世界にだけ生きる〉 夏枝は、中田にとって都合のよい、〈安全な〉存在のはずであった。が、夏枝と様々な性戯を試み、彼女の軀に溺れていくうち、中田は夏枝に心を開きかけている自分に気づく。そのような自分を持て余しながらも、中田は今日も夏枝が待つ『暗室』の扉を開ける。『暗室』へいたるまでに感じる夏枝のにおいは、もはや官能をそそるだけのものではなく、中田を物悲しくさせるに充分であった。
圭子、マキ、多加子が中田のもとから消え去り、夏枝だけが残った。
女達との危うい関わりを研ぎ澄まされた文体で描きつつ、性をめぐる様々な挿話を随所にちりばめ、究極の性の姿を問いかける吉行文学の記念碑的作品」(「『暗室』のなかで」)

このあらすじに書かれている架空の登場人物であるはずの四人の女性のうち(圭子とマキはさておいて)、作者の死後間もなくして〈多加子と夏枝は私です〉と、次々に名乗り出て来たのだから、吉行の近親者や関係者はさぞかし驚いたにちがいない。それとも、宮城まり子や一部の人は、二人の女性の存在をすでに知っていたのであろうか。
いずれにせよ、多加子と夏枝のモデルとなったのが、「『暗室』のなかで」(平成7年、河出書房新社刊)と「特別な他人」(平成8年、中央公論社刊)の著者大塚英子と高山勝美だったのである(吉行の死は平成6年)。ただし、多加子が高山勝美で、大塚英子が夏枝である。
その夏枝の写真が「『暗室』のなかで」扉(とびら)にある。「嬋娟(せんけん)として窈窕(ようちょう)たる霊感美人」だと、吉行がおどけ混じりに喩(たと)えたと本文にあるが、それにふさわしいロングヘアーの美女である。写真キャプションには、平成3年撮影とある。その年、吉行は67歳。いったい、夏枝は何歳だったのだろう。吉行の年齢に比べて、異常に若過ぎるように思われるのである。
「淳之介の背中」の吉行文枝がそうだったように、残念ながら「『暗室』のなかで」にも、著者紹介が無いのだ。これは「特別な他人」も同様である。二冊とも曰(いわ)く本の一種にちがいないのだから、仕方ないのだろうけど。

逆にその分、同じ愛の思い出を語るにしても、吉行文枝や宮城まり子の著書(「淳之介さんのこと」)とはまったく趣きが異なり、ずいぶん辛辣な内容が含まれている。戸籍上、実質上の妻であった二人とは、また違った立場にあったのだからそうなるのも仕方あるまい。
ひときわ特徴的なには、大塚英子も高山勝美も示し合わせたように、回想記の語り手を「私」とはせず、「暗室」そのままの「夏枝」、「多加子」としているのに加えて、構成の章立てにも工夫を凝らしているのである。
「『暗室』のなかで」は、三章それぞれに「『暗室』のなかへ、『暗室』のなかで、『暗室メモ』より」と章題が付され、「特別な他人」に至っては、二十数章の見出しを吉行作品の題名で統一して、吉行の呼称も「暗室」そのまま中田である。つまり、それでも回想記の体裁を保っている「『暗室』のなかで」とちがって、「特別な他人」は完全に小説形式の書き方になっているのである。それには、そうする理由があった、というべきか。

大塚英子も高山勝美も銀座と新宿のクラブのホステス時代に、吉行と知り合っているのであるが、その出会いはこう書かれている。
「夏枝は、吉行淳之介の作品を、高校生の頃から愛読していたし(初めて長いものを読んだのは、昭和三十一年『群像』四月特大号掲載の『華麗な夕暮』だった。作者の感性に強い感銘を受けた夏枝は、この切り抜きを今もって保存している)、また、その風貌も夏枝の最も惹かれるタイプの人物であった」
「華麗な夕暮」は、「焰の中」第五章を成す作品である。
「男は変わった髪型をしていた。右から分けた髪を一様に横へ流して、左の耳たぶのあたりで毛先を揃えている。髪の厚みがほとんどなく、糊づけした鬘(かつら)のように見える。だが、一重瞼の切れ長の目と細い鼻筋、薄い頰からさらに細まる顎、高貴な公家を思わせる容貌に、この特異な髪型がしっくり落ち着いている。目に染みてくるのは、男のいるそこだけ、白く静かな清潔感である。この人を、私はよく知っている」
こちらは、クラブに現れた中田を見ての多加子の感想である。なぜ、多加子は中田を知っていたか。

「『夏の休暇』(註・昭和30年の作品)に登場する少年が、多加子は好きだ。狭い塀の上をヒリヒリするするような快さをおぼえながら、いったりきたりする一郎に、皮膚感が寄り添っていく。娼婦の昼の顔に『驟雨』を見る作者の目にも共鳴する。その原作者に出会えたことは、生きている芥川龍之介や、生きているプルーストに出会えたような衝撃である」
これでわかるように、夏枝も多加子もかなりの文学少女だったわけである。つまりは、中田と特別な関係に発展するに足る養分は、出会う前から充分蓄積されていたということに(多加子の場合は、文学修行をするためにホステスになったとも書かれているほどだ)。
ほぼ同時期の作品に、二人は惹きつけられたことになるのだけれども、それではいつごろ吉行と知り合い、深い仲となっていったのか。
その時期は少し異なるのであるが、それを述べる前に時系列で「記念碑的作品」である「暗室」に至るまでの経緯を簡単に整理しておく(主要作品を含む)。

平文枝を入籍(昭和23年)、「驟雨」(29年、芥川賞)、「焰の中」(31年)、宮城まり子と出会う(32年)、長女誕生(34年)、家出(36年)、「闇のなかの祝祭」(36年)、「砂の上の植物群」(38年)、宮城まり子と外国旅行(39年)、短篇集「不意の出来事」(新潮社文学賞)及び「私の文学放浪」(百冊目の本)及び「技巧的生活」(40年)、「星と月は天の穴」(41年、芸術選奨)、「赤い歳月」(42年)、そして昭和45年の「暗室」、昭和47年に旅行記「湿った空乾いた空」、49年に短篇集「鞄の中身」で読売文学賞受賞となる。
ついでに述べておけば、この後の吉行の長篇(といっても、どれも中篇程度の長さであるが)はベストセラーになり、「夕暮族」という流行語まで生み出した「夕暮まで」(53年、野間文芸賞)がある。また昭和47年の芥川賞を始め、主要文学賞の選考委員を歴任。昭和54年に「作家としての業績」を認められ芸術院賞受賞、その二年後には57歳という若さで日本芸術院会員に選出されている。
吉行の娘が家を飛び出して来たのは(昭和56年)、「夕暮まで」が映画となり、まだブームが続いていたころである(その後、「夕暮族」と称する売春斡旋組織が摘発され、若い女性経営者が逮捕される事件まで起きた)。

「特別な他人」プロローグで高山勝美は、多加子が中田に出会った時期を「昭和三十三年夏の初め、吉行淳之介三十四歳、多加子は二十一歳になったばかりだった」と明言している。やがて「特別な他人」の関係になるや、「娼婦の部屋」(昭和34年4月刊)の新刊本をプレゼントされた、とあるのもつじつまが合う。そうすると、多加子は昭和12年生れということに。
上記年表に照らし合わせれば、昭和33年は吉行が宮城まり子と知り合った翌年にあたり、まだ二人の仲が進展する前で、文枝の妊娠判明の頃だったことになりそうだ。
ホステス業の女には男がいるものと割り切っている中田は、多加子からフィアンセがいると告げられても全く意に介さず、非情である。「いいんだよ。ぼくは別に、多加子さんを縛ろうとは思っていない。きみにかぎらず、人の生き方を左右しようなどと思うのは傲慢です」、「私生活に介入するのは、わるいことです」、「ぼくの場合は、寝てから(女とのつきあいが)始まります」などとうそぶいては、毎晩のようにクラブに現れ、多加子を車で送り、強引に関係を迫るのである。

「多加子は、週刊誌を読まないが、中田の友人たちとの話から、中田の状態を知っていた。中田は或る女優との恋のために妻子と別居し、仕事部屋と称する借家に住み、時にはホテルを転々とし、経済的にも精神的にも追い詰められている、らしい。と、わかってみると、恋愛のさ中に他の女と毎日のように逢う中田を、多加子は奇異に思わずにはいられなかった。
それは、多加子には手繰りようもない、男の本性なのだろうか。それとも、中田が小説家だから・・・。それとも、待ち時間を埋めるだけの遊び・・・。どう考えようと、胸の熱くなる答えは出てこない。中田の恋人に妬心を覚えない自分も訝(いぶか)しい。多加子が中田に目を凝らし、心を凝らしているのは、恋とは別のものかもしれなかった。それなら、この人を知りたいという強い執着がなぜ根ざしたのか。わからないままに、中田は自分に安らぎを求めているのだろうと決めている」
これが、「文学の他に熱中するものをもたない山出しの(北国の田舎の高校出身と書かれている)娘」の揺れる心情であったようだ。

「この軀が、中田を拒んだとき、中田はきっと多加子の視界から消えてしまうだろう。どうしても多加子は自分が息づく円の中に、中田を捕えておきたいのだ。なぜ、どうして・・・。円の中心は心ではなかった」
まるで不倫小説さながら、というよりそのもので展開される関係は定石通りに進み、多加子はやがて妊娠に気づく。中田に告げ得ないまま多加子は、同僚のホステスたちの噂に上っていた場末の医院で、こっそりと始末をつけるのである(三回処置したとある。「闇のなかの祝祭」の草子と同じだ)。
普通なら、ここら辺であきらめも尽きそうなものだが、そうはならないのが「ブンガク」一念に取り憑かれた純情娘のか弱さか、はたまた強(したた)かさであったのか。

「中田はたいてい穏やかな笑みを漂わせているが、自身の芯に添わない言動には、常人よりも強い反発を覚えるようだ。そして、それを口に出さない分だけ、中田の内部でわだかまり、枝を張る。この性分を垣間見るとき、多加子は自分の中にも似通ったものがあると思う。どんな幼児期を過ごしたのだろう・・・」、「一緒にいるときには、中田は誰よりも多加子を孤独にするが、離れている中田は寄り添ってくる。もしかすると、心を閉ざして距離をつくっているのは、多加子自身かもしれなかった」、「軀の交わりとは別のところで、中田とつながっていたいのだ。別のところー、何で、どんなふうに、と考えると、自分でもわからないのだが」
紆余曲折がありながらも、最大の防御姿勢である「愛していない素振りをしつづけること」によって、結局のところ二人の関係は十二年にもわたって維持された(「暗室」には、四年と書かれている)。

「特別な他人」エピローグは、「昭和四十五年(註・1970年、三島由紀夫自決の年)の六月を最後に、多加子は中田、つまり吉行氏に逢っていない」という文章から始まっている。
「暗室」は、その前年1月から12月まで「群像」に連載されたのだが、その連載開始と同時に多加子が年の離れた男と平凡な見合い結婚をしたからである。しかし、結婚と吉行との仲が完全に切れたとされるまでには、一年半程のタイムラグがある。エピローグ文の意味するところは、結婚後に至ってなお、中田との逢引を続けていたということに他ならない。その間に何が起こっていたのか。続いての文章には、衝撃的なことが綴られているのである。
「翌年の三月、多加子は男の子を産み、間もなく良人(おっと)と死別した。それからついに二十五年近い歳月が経つ。その長い年月の間、作家としての吉行氏は、現実には逢うことのなかった多加子を、晩年の小説(『鞄の中身』や)『葛飾』に至るまで意識の底に置きつづけた」

「掌篇小説の中の『光の帯』。主人公の〈私〉は、ホテルの入口で別れた女と出会う。女は男の子を連れていて、後に、〈あの子はあなたに似ていたでしょう〉と、電話をかけてくる。現実と夢の境がはっきりしない。すべて夢のようでもある。しかし、次の会話に作品を離れた現実がある。私小説作家の几帳面な意識がある。
ー『十年経つかな』『十一年よ。この子が十一だから』ー
ちなみに、『光の帯』が発表されたのは、昭和五十七年の五月であり、多加子が男の子を産んだのは、昭和四十六年の三月である」

驚くことに、男の子は吉行の子供であると示唆しているのである(小説形式とはいえ「特別な他人」ラストでは、多加子の友人である実在の女性児童文学作家を間接証人に仕立てて、妊娠した子供の父親が中田であることに現実味を持たせている)。
ここに書かれていることが事実であれば、婚外子をもうけた父親エイスケと同じことになるわけだが、「『暗室』のなかで」には、吉行が夏枝夏枝に語ったというこんな会話が記されている。
「彼は元気な頃よく言っていました。〈もし、俺が死んでも、通夜、葬儀の類は一切やるなって言ってあるんだ。大昔の変なものが出て来て、骨の奪い合いをやられたら、たまらんからね〉」
「『暗室』のなかで」にあった著者の写真が、「特別な他人」にない理由の一端もこれで了解される(子供がいては公表できない。太宰治の「斜陽」の子は広く知られているが、それは太田治子が長じて作家になったからである)。

また次の指摘も、この衝撃的告白の傍証となるのか、ならないのか。「特別な他人」プロローグには、現存の「暗室」を読んでも、絶対に気づき得ないようなことが書かれていた。
「暗室」を「単行本にするとき、作者の吉行淳之介は、(「群像」)六月号に載せた文章から次の部分を削っている。
ーどんな男にでも、相性の良い女が一人はいるもので、私にとっては多加子がそういう女である。昔の私だったら、多加子と結婚していただろう。ー
それを書き直すのではなく、そっくり省いている。〝昔の私だったら〟という箇所に躓(つまず)いて、どんな私であったか説明を加えるのが億劫になったのかもしれない。つい本音を書いてしまったが、作品の全体を眺めてみると、邪魔になったのかもしれない。いずれにしても、六月号にこの文章を載せるまでは、吉行氏にとって多加子はそういう位置にいる女であった」

これは、吉行の代表的な娼婦小説「驟雨」や「娼婦の部屋」などにみられる現象が多加子とのあいだにも生じていたということだ。最初は軀の交接でしかなかったドライな関係が、女と馴染むうち次第に愛情に転じてゆくという、吉行が気に入った女に示す特有の生理的情動である。
だから、多加子が結婚してからもしつこく会いに行き、それが叶わなくなると多加子を追想して、いくつかの小説に別れた女を登場させた。実際、高山勝美が引用している「光の帯」など、当事者にしかわからない奇妙で微妙な男心であろう。この小説を読んで、女が連れている十一歳の男児が、小説の語り手である男の子供だと類推することはできても、まさかこの男児がそれを書いた作者の子供であると見破った読者はいなかったであろう。
上に引用したプロローグの最終行は、相当な自信にあふれているが、事実その通りだったのだろう。忘れがたい女であったことは、当事者だけに了解されるそれらの小説で証明されているのだから。

さて、正真正銘の「暗室」の女、夏枝が、吉行と「深い穴」に「隠れた」時期は、これも決然たる文章で書かれている。
「夏枝は銀座という場所に完璧に訣別を告げ、昭和四十五年三月末日あらゆるしがらみを断ち切り、吉行淳之介一人のために生きる、隠遁生活に入ったのである」
となると、「暗室」の刊行が同年3月12日なので、なんだか出来過ぎのような感じもしないでもないが、ともかくホステス廃業とともに吉行の囲い者、いや失礼、完全な同伴者となったわけである。吉行は46歳直前なのだが、夏枝の文章に年齢は書かれていないけれども、「焰の中」の一章を高校生の時に読んだというのだから、多加子と同世代であろう。
多加子との交渉は、昭和33年から45年までだったのだから、ちょうど入れ替わる形で夏枝は、吉行専属となったようだ。この関係はしかし、吉行の死まで二十八年間にも及んだのである。つまり夏枝は、多加子のように結婚もせず、「暗室」に閉じこもり年を重ねたということになる(この年月に比して、やはり著書の写真は若すぎる)。

夏枝が吉行と初めての関係を持った経緯も(それは昭和四十年代初頭とある)、明快に書かれている(以下、カッコ内は地の文)。
夜の銀座の路上で、ばったりと出会した吉行は、夏枝の車に乗り込み夏枝を誘う。
「行こう・・・」「・・・」「お互い仲間うちみたいなものじゃないか。君も、相当修羅場を踏んでいるようだし」(夏枝は黙って頷いた。ホテルの前で吉行は、少し笑いながら、しかしきっぱりと言った)「ホレタ、ハレタはなしだよ」(夏枝は、微笑みながら再び頷いたが、心の中で呟いていた。・・・望むところだわ・・・)
銀座の街角で偶然すれ違い視線が合っただけなのに、その電撃的瞬間をなぜか互いに記憶していたという七年前の遭遇が二人の最初の出会いで、それ以来二ヶ月前に、せっかく夏枝の働くクラブで再会したばかりだったのにすぐさまクラブが倒産したため、その夜は一人で銀ブラを楽しんでいたところに運命的な三度目の邂逅となったという事情なのだが、うなずいて男のいう通りに振舞う夏枝こそ、まさに彼女が読んだという「焰の中(華麗な夕暮)」の「頽廃的なスゴイ娘」そのものである。もっとも、この時の夏枝には、のちにこじれた関係におちいる半同棲中の男がいたのでもあるが。
しかし、吉行の誘いにやすやすと応じたのには、愛読した小説の作者に一方ならぬ関心があったからだとしても、三度にわたる偶発的巡り合わせそのものに感電してしまったのかも。

その証拠に(?)、こんなことまで書かれている(こんなあけすけであられもない回想記って、ほかにもあったっけ)。
「だがその夜、四谷のホテルの部屋で、夏枝の身体に思わぬことが起ったのである。それまで一度も経験したことのない強烈な快感が、二時間ほどの間に、七回も八回も夏枝の身体を襲ったのである。生まれて初めての体験だった。それは、その後吉行淳之介が、夏枝の身体を次々に開発してゆく第一歩だったのだが・・。
その日の明け方、夏枝は、北千束の自宅まで吉行を送って行った。玄関の前で夏枝を待たせた彼は、まもなくサンダル履きで戻って来ると、昭和四十年十一月三十日発行の、新潮社版『吉行淳之介短編全集』を手渡してくれた。これが、吉行の手から夏枝に渡された厖大な彼の著書の、第一冊目となったのである」
合縁奇縁の極みともいうべきこの出来事は、「昭和四十一年三月末の夜で」あった、とされている。すると、「暗室」隠(ごも)りも四年後の同じ三月末なので、もしかしたらこの夜を記念してのものだった(まさか)?

これほどあからさまな内容を綴るには、やはり「私」という一人称では具合が悪いので「夏枝」としたのであったか(このような際どい文章は「特別な他人」にもみられる)。
それにしても、口説き文句も強引なやり口も、また「寝た」後で自著を女に贈る手口も、多加子の場合とまったく同じである(ただし、多加子は最初は拒否している)。「北千束」とあるのは、新居を建て上野毛に移る前に同居していた宮城まり子の家である。
その夜、夏枝をホテルに誘う前に吉行は、待ち合わせをしていた阿川弘之に夏枝を引き合わせている。「『暗室』のなかで」には、この阿川弘之とポルノ作家川上宗薫(吉行と同年生れ)の二人は、吉行と夏枝の関係を知っていたのではないか、と推察出来るように書かれている(川上は、昭和60年に死去)。
なお、変名にされているが「特別な他人」には、吉行とともに安岡章太郎、水上勉、梶山季之などが連れ立って多加子の店を訪れる場面がある。別の箇所では近藤啓太郎も登場する(ただし、重要な役回りを与えられている、中田の大学時代の親友という陽野洋介だけは正体不明。架空の人物?)。

多加子同様、夏枝も妊娠する。夏枝の場合、その処理の仕方もいさぎよい。
「昭和四十九年夏、妊娠の事実を知ったときも、夏枝はそれを恥ずべきことと理解して彼には隠し、ちょうど彼がフランス・ボルドー地方へ旅行中に、密かに処理した。一年ほど後に、そういう事実があったことだけ報告すると、彼は夏枝の頭を抱きながらいつまでも撫でてくれ、何も言わなかった」
何故か。「俺のためだけに生まれて来たんだから、観念しろよ」の言葉に応えて、「官能の世界にだけ生きる夏枝」に成り切っていたからである。まさしく、小説「暗室」の夏枝そのものである(文芸作品と実験工房「暗室」のコラボ完成といったところであったか)。
「『暗室』のなかで」に綴られているのは、何も吉行との赤裸々な「暗室」の日々のみばかりではない。吉行をめぐる二人の女にも容赦ない感情のホコ先が直接ぶつけられている。

「吉行は経済的にも大変だった。戦時下の混乱のさ中始まってしまった交際の相手が、自分の三文判で勝手に入籍し(註)、子供を産んだのを盾に、金輪際正妻の座を明け渡さない、明け渡さないことを仕事にしている、あるいは、そのことに生命をかけているしぶとい人物に、潔さを旨とする吉行は、仕送りを絶やさなかった。
そして周知の通りの、同居中のM女史との生活。
そういう状況の上に、毎年毎年上昇をし続ける渋谷区の〈暗室〉の維持は、想像しただけでも頭の中が暗くなる」
「吉行は非常に思いやり深く、やさしい心の持主である。彼程心のやさしい人を、夏枝は他に知らない。そしてまた、吉行程男っぽく、骨太の精神の男らしい男も、他に知らない。だから、ある面で何人をも寄せつけない、堅い断固とした厳しさをも持ち合わせていた。まさに外柔内剛。腸(はらわた)が煮えくり返るような場面も家の中では頻繁にあったようだ」
(註・吉行は昭和39年の短篇「紫陽花」にこれと同じことを書いている。)

そうした中にあって、「一番ひどい目に遭ったのが、吉行の一人娘A子さん」で、可哀想だと同情を示し、A子の実母やM女史の酷さ加減を言いつのる。
「普通の真当(まっとう)な結婚をしていたとしたら、彼も新たに魅力的な恋人が出来たからといって、家を出るようなことはなかったと思う。彼は、そんな人間ではない。しかし、先にも触れたように、明日をも知れぬ敗戦時の紛乱の中、強引に入籍されてしまったという苦々しさを抱いていた相手だ。そういう相手に、子供を産むことを許してしまったのは、彼の不覚だったのだろうが、その段階では、彼も諦めの境地だったようだ。まさかすぐあとに、当時スターだったM女史との出会いがあるとは思ってもいなかったのだから。だから何も知らずに生まれて来たA子さんは、いい迷惑である。彼女には何の罪もないのだ。周りの祝福と、両親の慈しみを一身にうけて成長するはずだった」

それでも、「中学、高校、大学と進むうちに、A子さんが逆境にもめげず、素晴らしい女性に成長してゆくのを目のあたりにして、吉行は誇らしげであった。そういう微妙な吉行の心理を、いち早く察知してしまうのだろう、一ヶ月に一度ずつ会っている父娘に、M女史は、激しい嫉妬の炎を燃やすようになっていった。
〈自分だけ会って、狡(ずる)い〉そう彼女は言ったという。外で会うのはけしからん、と言い出したのである。自分のいるときに自宅で会うように。
それからどのように話が進んだのか、夏枝には推察するべくもないが、若い娘の心をそそるような条件を山盛り用意して誘ったらしく、A子さんは大学在学中、実母の元を離れ、上野毛の吉行の家に住むようになった。そして、当然のことながら、様々な確執が新たに生まれ、中に入った吉行もさぞかし大変だったと思われる」そのように、夏枝は吉行から聞いたというのである。

宮城まり子「淳之介さんのこと」にあった、A子が突然家出して来たという記述とは完全にくいちがっている。どちらの言い分が本当であったのか。ここで四冊の回想書を刊行順に再確認しておくと、「『暗室』のなかで」(1995年)、「特別な他人」(1996年)、「淳之介さんのこと」(2001年)、「淳之介の背中」(2004年)という順序になる。
ただし、「淳之介さんのこと」は、1995年から2000年にかけて「別冊文藝春秋」に18回連載した文章を大幅加筆、再構成したものとある。「別冊文藝春秋」を確認してはいないから推測になるが、先にA子のことを書いたのは、恐らく「『暗室』のなかで」の方だったのではあるまいか。
であるならば、大塚英子の文章は宮城まり子の記述に反論を加えたものではないことになる。たぶん、吉行に聞いた通りのことを書いたのであろう。さりとて、当のA子からみれば即座にわかるような嘘を、反論としてわざわざ宮城まり子が書き立てたとも思えない。
真相や如何にというところであるが、A子が沈黙している限り「藪の中」である。

吉行が「暗室」を訪問するのは、もちろんM女史の目を盗んでのことで、もっぱら病院通いや文学賞選考会合などを口実にして夏枝と会っていたようである。それができない時は自室からの電話が使われている。入院中でも、M女史に気づかれないよう細心の注意を払いながら、病室の電話や病院の公衆電話で連絡を取り合い、睦言を交わすという徹底ぶりある。一日に数度もという日もあり、その回数たるや半端ではない(これでは相当な電話料金が発生しただろう)。
吉行死去一年前の虎の門病院入院中の平成5年3月6日「『暗室』日記」には、吉行から電話で聞いたのだろう、次の記述がある。
「この日、お母様(あぐり)、妹さん(和子)、阿川(弘之)氏見舞いとのこと。このメンバーは、中央公論の嶋中会長を加え大先生(註・宮城まり子のこと。二人の隠語)の許可が出ているのだという。何と許可!すごい」
M女史についての批判は、吉行の病気を絡めてまだまだ続くが、それは省略して最後の部分を引く。
「平成六年四月十二日、虎の門病院。午後四時五十分到着。もの凄い風の中、非常につらそうなのに立寄ってくれ、二ヶ月ぶりの感激の対面を果たす。新刊本『懐かしい人たち』講談社(註・最後の単行本)。頂く。同十三日、北原医院。午後三時半到着。この日、彼の古希の誕生日を、夏枝の部屋で過ごすことが出来たのである」

古希の誕生日を迎えたこの日、吉行が「暗室」を訪れた時の模様がつぶさに書かれている。
「『早く早く、いまお出ましになったところ』M女史の千載一遇の晴姿を見せなければ、という気持ちが私にはありました。だから私は、彼をテレビの前に引っ張って行ったのです。桜の季節に相応しく、艶(あで)やかなショッキングピンクのロングツーピースのM女史は、久しぶりに見ましたが、また一段とふくよかに見えました。
彼は少し見て、『もういい、消してくれ』、そう言って、ベッドの中に潜ってしまいました。
この日が、彼と逢った最後の日になったのです」
「ちょうどそのとき、〈ねむの木学園〉を天皇、皇后両陛下が視察。それのテレビ中継中」に、吉行は「暗室」に到着したのである。
それからほぼ一ヶ月後、5月9日の入院が吉行の最後の入院となった。その後も、電話連絡は欠かされることなく続いていたが、それも7月13日が最後になったとある(吉行の死は、7月26日である)。

「夏枝のいる建物の口をくぐると、空気の中にかすかに夏枝のにおいを嗅ぎ取る。いまの夏枝の軀にはにおいは無いといえる。しかし、官能を唆(そそ)ると同時に、物悲しい気分にさせるにおいが、微かに漂っている。階段を昇り、長いコンクリートの廊下を歩いてゆく。においはしだいに濃くなってゆく。それは、私にしか分らないにおいに違いない。やがてそのにおういが、鼻腔の中で噎(む)せるほどの濃さになる。
そのとき、私は夏枝の部屋の前に立っている。扉のノブを握る。その向うには暗い部屋がある」
「〈僕は、失敗した、バカだった、諸悪の根源は芹沢光治良の喘息だ〉ある雑誌の鼎談に出席するはずだった芹沢光治良氏が、喘息の発作を起し、急遽吉行が、代理で出席する羽目になったのだという。そのときの相手が、秋山庄太郎氏と、可愛らしい女優、M女史だった。そして吉行は、M女史と激しい恋に落ちたのだった。
吉行淳之介と夏枝は、恋愛をして結ばれた訳ではない。最初はちょっとした遊びから始まって、それが長びき、じわじわと時間(とき)が経つうち、彼の身体の一部になっていった。恋愛は時期がくれば褪(さ)める。しかし、とけあった二人の魂は決して褪めることはない」
「暗室」と「『暗室』のなかで」のラスト数行である。どちらも夏枝の勝利宣言のようである。

しかしながら、二十八年もの「暗室」生活に堪えるというのは、並大抵のものではなかったであろう。ひと口に二十八年間といっても、当たり前過ぎる例えだが、それは新生児が28歳の成人になる歳月であるし、もしも「暗室」入りした夏枝がその時、20歳の乙女だったとしても48歳、初老を迎えるという時の長さなのである。ただただ「暗室」に棲息しながら、じっと男の来訪を待ち続ける。
もしかしたら、終生離婚を拒んだA子の母親よりも、より一層忍耐を強いられる歳月であったかも。実際、保護者である吉行が死去すると同時に、生活の礎を失った夏枝は光射す路頭へと放り出されたのであるから(相続財産を、そっくり遺贈されたM女史とは、天と地である)。
性のつながりとは別に、夏枝の忍耐をそこまで可能ならしめたもの、それが二人を結びつけた「ブンガク」にあったのではなかろうか。「『暗室』のなかで」には、それを証するに足る、目を疑うようなことまでが書かれているのだから。

「彼は仕事を開始すると、必ず内容を話してくれた。話しながら、夏枝の意見やちょっとしたアイディアを採用してくれることも多かった。夏枝が高校一年生から三年生の初めまでつき合っていた、『蠅』の少年は、何故自分が急に夏枝に嫌われたのか、いまでもその理由がわからないままでいると思う。千曲川の堤防を二人で散歩していたとき、少年の、びっしりと夥(おびただ)しい銀蠅の貼りついたあの背中を、夏枝は忘れることが出来ない。彼女はその少年に二度と会うことはなかった。この『蠅』は、筑摩書房の〈高校生のための文章読本〉一九八六年三月号に掲載された」
掌篇小説「蠅」は、「群像」昭和46年新年号に発表されている。この場合は、単にアイデアの提供だけなので問題ではない(が、夏枝にとっては自分の体験が小説化されて、それが高校生に読まれることになったのは嬉しい出来事であったろう)。

吉行がひどい鬱病で悩まされた年のこととして、このようなことも書かれている。
「同じ昭和四十七年、〈小説新潮〉で二十枚までの短篇を対象に、〈小説新潮サロン〉が、吉行淳之介と田村泰次郎氏とが交替で選者となって始まっていた。夏枝は、二十枚のものを書いて、吉行に読んでもらった。彼は、試しに投稿してみたらどうかという意見だったので、友人の住所を使い早速出してみた。多数の応募原稿の中から、最終六篇を編集部が残し、選者のところへ届ける決まりだった。その回、吉行の選者の回に、夏枝の作品が六篇の中に残り、生原稿が吉行の書斎に届いた。彼は、残ってくると思っていなかったのだろうか、周章狼狽、まるで夏枝が、吉行の家の玄関に蹲(うずくま)って、ずっと居座ってしまったかのような反応を示した。自分で読んで出してみたらどうかと言ったはずなのに、そのあわてぶりに、夏枝は途方に暮れてしまった。彼の言を借りると、夏枝から直接持ってゆく原稿は一向に差しつかえないが、他人(編集部)に中に入られると、これはまた別物なのだということであった。結局、相当な年配の男性の作品が入賞と決まり、夏枝のものは佳作入選に落着いた」(これには続きがあるけど、略す。)

あるいは、こんなことも。
「昭和四十六年から四十七年にかけて、『暗室』に至る純文学を集大成した『吉行淳之介全集』全八巻を講談社より刊行。このときの全八巻すべてのゲラ読みを、夏枝は吉行に任命され、他の作品との重複を徹底的にチェック、修復した。またその後、記号が目ざわりだということになって、〝?〟マーク、〝‼︎〟マーク等を取り除き、それにかわるいい回しなどの作業もまかされた」
いろいろ内幕を明かしているけど、多かれ少なかれこの程度のことはあったりするだろう。さして驚くには当たらないかもしれない。が、次の記述となると、どうであろう。
「実は、唯一、夏枝の文章に一切の手を加えないで、そのまま採用、発表してくれたものが『蛾』である」
純然たる夏枝の短篇小説を、双葉社の「小説推理」(昭和52年7月号)に無修正で発表してくれたばかりでなく、昭和五十八年講談社刊行の「吉行淳之介全集」(全十七巻)にもそのまま収載してくれたのは、「吉行の夏枝に対する、最大最高の贈り物なのだった」と、打ち明けているのである。もちろん掌篇小説『蛾』は、最後の全集となった新潮社版「吉行淳之介全集」にも収録されている(この全集は、夏枝の告白後に刊行されている)。

さもありなん、これと同様なことは「特別な他人」にも書かれているのである。
「中田は題材に行きづまると、多加子が何気なく喋った話や、多加子の書いた小品を思い出して、その細部を多加子と語り合ううちに、頭の中でまとめ上げ、短篇小説を書く。ということが、これまでにもよくあった。多加子は中田の視点で捉えたと思われる事柄は、文章にしていない場合でも、中田に渡した。渡すとすぐ、それは作品になる。意識した多加子の視角は、触れ合った腕のように、中田の体温にすぐさま同化する。中田の中で温める時間はいらなかった。中田に渡してきたものは、けっして自分のところに戻ってこない、とわかっていたが、悔いは残らない。中田は磨かれた文体と巧みな構成力で、多加子が書くよりずっと立派な作品に仕上げるのだから」

昭和39年に発表された長篇に「技巧的生活」がある。失恋した純真な女がホステスとなり、夜の街での「技巧」に習熟、次第に変貌していく女の心理と生理を描いた作品なのだが、こうある。
「多加子さん、きみの原稿に『卵型の顔』というのがあったろう」「はい」「あの話、貰えないかな。忙しくて次が書けない」
夏枝と同じように、多加子も原稿を書いては文芸誌に応募を繰り返していたのである。中田に請われて断り切れずに、多加子は原稿をわたす。と、どうなったか。
「〈卵型の顔〉が『技巧的生活』の挿話として活字になってみると、題が削られて、(ある女性に貰った話。)と、前置きがついている。文章を辿っていくうちに、多加子は呆然となった。ただの一行も、ただの一字も、手直しした箇所が見あたらない。これまで、多加子が自分の発想や原稿を渡すとき、編曲者の腕の冴えといったようなものを期待し、中田はいつでも、多加子の期待に応えてくれた。だが、今度の場合は、(貰った話)ではなく、(貰った原稿)であった」

長くなるが、この箇所を最後まで引用する。
「あの十五枚ほどの女文字の原稿を、中田はどんなふうに編集者に手渡したのだろう。中田が多加子の文章をそのまま自分の書体で原稿用紙に書き写す・・・。その姿は浮かべようがない。中田は多加子の原稿の束をそのまま、〈貰った話でね〉と、編集者に渡したにちがいない。だから、初めて、前置きを付けた。そうだとすると、これまで多加子に見せたことのない、中田のしたたかな表情が浮かんでくる。ぼくほどの力量を持った作家は何をしてもだね、口を挟める編集者はいないさ。中田の声が聞こえてくるようだ。繊細な神経とストイックなダンディズムが定評になっている中田だが、反面、常人を超えるふてぶてしさも潜めている。〈おれは(時によっておれを使う)水割のグラスにゴキブリが入っていたとすれば、じっさい入っていたんだが、それをひょいとつまみ出して、水割は呑んでしまう〉と言ったことがあった。

ある友人は金に困っていた。高価なものをさりげなく置いてきた、それが思いやりのかたちである、と言ったり、書いたりもする。が、そうした優しさのかたちは、本人が口にしたときから、優しさの演出ということになる。
けれども、別の考え方をすれば、多加子の原稿を一字も直さずに活字にしてみせたことは、中田の思いやりなのかもしれなかった。あの夜の多加子の挫折感、自分の場合は書くこと自体が徒労なのだ、という思いに沈んだ多加子を察して、〈きみの文章だって、一応は通用するものだ〉と、見せてくれたのかもしれない。この考えの方が、中田に似合っている。一応の文章を書く人間は大勢いる、が、名前を持たなければ、活字にするのは難しい。
(貰った話)について、多加子は中田に一言の感想も話さなかったが、中田はしばらくの間、それに拘(こだ)わった。『一ヶ所だけ、ぼくが手を入れたんだが、わかっているか』『・・・』『ー積極的になっているー、ではないよ、きみ、あれは、積極的な心持ちになっている、と書かなければいけない』『あ、そうですね』『プロとしてはだね、その辺が大事なところだ、覚えておきなさい』『はい』

『この間、円地文子さんから手紙をいただいた。〈技巧的生活〉を読んでくださっていて、今までと違うと言うんだ、新境地を開かれたようだ、と。褒めてくださっているのか、お叱りを受けているのか』『褒めてくださっているのです』『ほう』『書き出されたとき、驚きました。とっても楽しみです』『そうか。きみにそう言われると、うれしいよ。だいたい、ぼくは褒められると頑張るたちの人間なんだ。見当違いの批評がいちばん厭だね。ぼくと(永井)荷風を比べる批評家がいる。荷風には風俗があるが、ぼくにはない、なんて言いやがる。風俗なんてもんはきみ、じきに古ぼけてしまうものだ』
自分の作品についてあまり語らない中田が珍しく饒舌になっている。自信の揺らぎから文句を言っている感じはない。むしろ、強い自負を盾にして、攻撃の姿勢になっているようだ。
『曖昧な形容詞も要らない。風景だってきみ、心理と噛み合ってなければ、書く必要はないんだ。ようく憶えておきなさい』『はい』中田は、気力も充実しているらしく、多加子を重ねて抱いた。
別れ際、振り返ると、中田は高く揚げた手を大きく振っている。遠目にも、こぼれるような笑みがわかる。見送られている気分になって、多加子も胸元で手を振った。
その二日後、外国へ旅立ったのは、中田の方であった」

これが、高山勝美が「特別な他人」を書いた三十二年前の出来事である。大塚英子は、その章題にもあるように「暗室メモ」を残していたというのだが、高山勝美はどうだったのだろう。きっと、吉行が嫌った日記を残していたのでは。記憶だけで書いたとは、とても思われない。この引用部分からも、彼女がなかなかの才筆であったのは確かである(観察に鋭いところがある)。
「技巧的生活」という題名も、元々多加子の原稿からの剽窃(ひょうせつ)だったようだし、吉行の少年物の秀作の一つ「子供の領分」という作品も、多加子が中田に最初に見せた作品の題名「大人の領分」から着想されたものであるとか(註)。ただ「星と月は天の穴」の題名に関しては、高山勝美と吉行文枝両方が吉行に示唆を与えたように書かれているのは、どういうことなのか?
(註・ただし、吉行の愛好したドビュッシーにも同じ題名の作品があることには触れられていない。)

短篇の名手であった吉行は、また随筆、対談の名手とも言われた。
「奇妙な夢」(昭和46年)という随筆で、「私は、他人のおもしろい話や文章を使うときには、かならず出典をあきらかにしておく」と、創作に携わる信条を語っているのであるが(ま、この場合は「ある女に貰った話」としているのだし、物語を換骨奪胎して使ったというのでもないし・・・、信条に反したわけではなさそうだけど)。
上記引用最後にある「外国への旅立ち」が、大喧嘩ばかりしていたという昭和39年の「湿った空乾いた空」のハネムーン(?)旅行である。宮城まり子は一足先に出立していたから(註)、中田は大手を振って多加子との逢瀬を楽しんでいたものとみえる。
(註・「湿った空乾いた空」に、「Mは二日前に出発しており」と書かれている。)

大塚英子、高山勝美、宮城まり子、吉行文枝の著書は図書館から借りて読んだ。図書館の本のオビは、通常破棄されているのであるが、「淳之介の背中」にはどうしたものか、それがカバー裏に挟み込まれてあった。オビにはこういうフレーズが記されていた。
「私たち夫婦は、ある時をさかいに、別々に暮らさなくてはならなくなりました。長い間離れて過ごした人ですが、片時も主人のことを忘れたことはありません。・・・離れて暮らした時間に比べれば、一緒に過ごした歳月はそのわずか半分に過ぎませんが、主人と交わした言葉のひとつひとつ、日日の一片一片は、少しも色褪(あ)せることなく私の中にあります」
離婚を拒否して、最後まで正妻であり続けた吉行文枝の文章である。自分を捨てて別の女に走った男を半世紀も経て、このように振り返られるなんて、よっぽど愛していたのだろう。スゴい、スゴすぎる(振り返られる男も、また)。

オビには一段と大きな活字で、キャッチコピーも添えられていた。
「だれが本当に吉行淳之介を愛していたのか?」
この答えは、しかし、容易には見いだせまい。「子供の領分」、「大人の領分」に倣(なら)っていえば、広闊、広大なのが「愛の領分」でもあるのだから。
それでは逆に、当の吉行淳之介は四人の女性のうち、だれを本当に愛していたのかと反問すれば、もう少し答えは絞りやすいかもしれない。それは当然、最後まで一緒にいた女(ひと)。それも「暗室」の若い方かも。ということになるのだろうか。でも、これも素直にはうなずけない。
フランスの作家スタンダールの有名な墓碑銘「生きた、書いた、愛した」を引き合いに出して例えれば、一つ目二つ目はともかく、果してこの三つ目の言葉が純然と吉行淳之介にも当てはまるのだろうか、という疑念が消えないせいであろうか。

蛇足を二つ。
「『暗室』のなかで」と「特別な他人」について触れた文章は、目を通した限りではたった一つ、吉行あぐり「母・あぐり淳への手紙」にあっただけである(1995年6月25日付日記として)。
「大塚英子さんの本を昨日、理恵が買ってきました。それによりますと、淳は私が病院へ見舞いに行ったのを、大層喜んでくれたとのことですね」
と、書かれているのみであった。この親にしてこの子あり(逆かな?)。目くじらひとつ立てるわけでもなく、大らかなものである(恐れ入りました、というしかない)。なお、「『暗室』のなかで」初版日は、6月20日なのですぐに読んだことがわかる。
もう一つは、その大塚英子の生年なのだが、ここに至って思いついてネットで検索したら、ちゃんとあるではないか。1938年生れ。ということは、多加子の一つ下。「『暗室』のなかで」の口絵写真は、53歳の夏枝ということに。それにしても(は)若すぎる。写真にある1991年撮影というのは、もう一枚並べられている吉行の顔写真のそれだったのだろうか、と疑いたくなる(それこそ疑念が消えない)。

蛇足の蛇足。
念のため、大塚英子「『暗室』日記」(1998年、河出書房新社)を図書館から借り受けたら、それには著者略歴が書かれていた。しかも、本文の記述から1月4日生れであることも判明(だから、ネットにあったのだと了解)。すると、春夜の銀座の路上で三度目に吉行と出会ったとき、夏枝は28歳だったことに(吉行は42歳)。
吉行との愛の日々をこと細かく記録した「『暗室』日記」には、上述文を補強、補完するいろいろ新しい発見もあったが、今更の加筆、修正はしないことにした。それにしても、吉行が「暗室」を訪れるたびに付されている意味ありげなマークは何だろう。もしかして、永井荷風の「断腸亭日乗」のそれ?


(以下、「闇のなかの祝祭」と「暗室」(8)につづく。)








 

自由人の系譜 吉行淳之介「闇のなかの祝祭」と「暗室」(6)

前章で書き洩らしたところを追加しておく。それは「湿った空乾いた空」にあった次の文章である。
「私には父性愛はない。精(くわ)しく調べれば、まったくないわけではないだろうが、親子というものは、一たん他人になってから、あらためて人間関係を付けるのがよい、というのが私の考え方なので、父性愛というものを拒否しているためだろう」
この文章は、「不意に別れたままの娘のことをおもい出した。旅情も絡んでいたのだろう」と、書かれた直後に出てくる。渡米してすぐのラスベガスでの大喧嘩の前である。
この後が、前章に引用した「噂によると、別居中の妻は名門校に入れようという考えを持って、その気持は異常なくらい強いと聞いている。私はそういう考え方にまったく反対だ。すでに娘は歪んだ環境に、置かれていて・・・」という文章に続いているのであるが、これと瓜(うり)二つの文章が「赤い歳月」にも書かれている。

「子供が生れたならば、一たん他人になって、あらためて人間関係をつけるようにしよう、と私は考えていた。そういう考えを持つことで、ともすれば肉親のつながりが生ま生ましくなりやすいことから避けようとしたわけだ。
しかし、U子が生れたとき、私はU子と離れ離れに住むことになった。そして今、U子を運の悪い子供だとおもい、不憫におもうのは、他人の眼で見た感情なのか、父親としての気持ちなのか、その境目が曖昧になっている」
母親はともかく男親には、何かにつけて子供を突き放して考える傾向は、どの父親にも程度の差はあれ潜在しているとは思うものの、このように仰々しく大上段に振りかざされると、やはりとまどうのではないだろうか。
しかし、これに近いことが自伝的色彩の濃い小説「焰の中」にあったのを、あらためて思い出すのである。

それは、空襲警報で立ち寄った娘を部屋に引っ張り込んだ「僕」が、「濡れたシャツ」を脱げなかった悔しまぎれに、今度は「モノにしてやる」と口にすると、母親が「困ることにならないように、適当にやって頂戴」と答える場面である。そして「僕」が、母親に性教育まがいの知識をふりかざしたことは、すでに述べたが、そこには次のような文章も添えられていた。
「母の口調は、自分の息子にたいするものではなかった。それはむしろ、僕の中に死んだ父の姿をみて、それに訴えている調子だった。父が死んでしばらく経ったある日のことを、僕は思い浮べた。僕の部屋へ入ってきた母が、畳の上に正座して、自分の店の婦人技術者についての報告を僕に向ってするのである。〈田中花子が結婚して北海道に行っていたのですが、こんど離婚になって戻ってきたので、また働いてもらおうとおもうけど、どうでしょう〉という具合にである。
そのころ僕はまったくの少年で、母の店の人事なぞ相談されても何も弁(わきま)えなかったが、母が僕を父の身代わりにして、自分がそのような位置に身を置くことに心の慰めを見出していることは推察することができた」

父親死亡時、吉行が16歳の中学生(旧制)だったことも述べておいた。引用をつづける。
「そして、母が美容師になり自分の店をもって働いていることは、すべて父の書いた筋書きどおりに母が動いたのだという話が、事実であることを確認した気持だった。また、地方の都市の旧家の生れである母には、派手に見える外貌の内側に古い気質が潜んでいて、夫との関係においても昔ながらの妻の位置に身を置いた方が座り心地良くおもえる場合があるらしい、ということをも推察した」
放蕩三昧の父、母は職業婦人。原因不明の蹇(あしなえ)で寝たきりの祖母。一人で塀に上り、屋根に登って遊ぶ少年が、吉行の小説にはしばしば出てくる。その父親とは年の離れた兄弟に(そういう小説がある)、母親とは姉弟に間違われたのも、17歳と16歳の父母だったゆえに他ならない(したがって祖母に至っては、三十代で〝祖母〟に)。世間一般とかけ離れた、かなり異様な環境であったと考えられる。

「焰の中」の親子(母と息子)の交わす会話もどこか変だ。
少々頭のイカれたような(例の覗き見、覗き聞の)女中の作ったホット・ケーキを親子で食べながら、「僕」が「不思議だな、肉の味がしませんか」というと、母親は「うずら豆とメリケン粉とが混ると、こんな味が出るのかしら、ともかく、あの娘はお料理にだけは妙な才能を持っているわね」と答え、「へんな具合に、このホット・ケーキみたいなものはおいしいですね」と僕が返す。
この会話が不自然だとは言い切れないけど、(語尾にこだわると)いささか他人行儀であるのは否めないであろう。つまり、吉行のいう父性愛の欠如というのも、(後天的な要素を別にすれば)養育環境に起因したものであろう(これにつながる親子、兄妹間との接触についても、驚くようなことが妹和子や理恵の文章に書かれている。追って、引用する)。

だからといって、吉行淳之介が人付き合いの悪い冷たい男であったわけではない。むしろその反対であったかもしれない。それは吉行と交流のあった人たちが(その数の多さにも驚くけれども)、男も女も「ヨシユキ礼賛」とでもいうべき文章を残していることからもわかる(このことも章を代えて述べる)。
それに想像をたくましくすれば、「ねむの木学園」創設に理解を示した理由の片隅には、子供時代の体験があったからかも。
でもなぜか、これまでみてきたように妻文枝をモデルにした女性が吉行の文章に登場するとき、吉行の筆はとたんに冷酷になるのである。
再び、上述の「赤い歳月」のつづきの部分を引用する。

「U子を、A子の手もとに置いておくことが、私には不安だ。A子の不安定の感情の放射を無意識のうちに浴びることで、U子が歪んでゆくことをおそれる。
『あなたなんかに、子供が育てられるわけがないわ』 とA子が言う。『育てなくてもいいんだ。放っておけばいいとおもうんだが』と、私は答える。
A子とU子のいる家には、私の書斎がある。立派な机をA子が買って、その部屋に置いた。その部屋には、U子を入らせないようにしつけている、という。私にとっては無用の部屋だが、A子にとってはその部屋の存在が必要なのだ。
転居通知を、私の名前で印刷して、あらゆる雑誌社新聞社友人知人に発送した。そういうハガキが届いたことを、あとから私は友人に教えてもらうことになる。念を押すように、A子は私と連名の年賀状を毎年発送する。それを差止める方法を、私は知らない。
 
私の知らぬ、私の一日というものがある。あるPR雑誌に、A子が私の一日の行動を、詳細に報告していたのが、偶然眼に触れたのだ。
朝、U子が学校へ行くときには、私はまだ眠っている。昼前にようやく起きてくると、茶を飲みながらいくぶん猫背になって、ぼんやりした顔で煙草をふかす。食事をしてから、私は仕事場へ出かけてゆく。
夜遅く、私が帰宅したころには、U子はもう眠っている。私はその顔を覗き込み、指先でその顔をかるく二度ほど叩いて、自分の部屋に引込んでしまう・・・。
そういう情景が、ことこまかに描写してあった。A子がそういうことをするエネルギーは、何に向けられているのだろうか。おそらく、その意味も、月日の経つあいだには変化したことだろう。
弁護士に向って、A子は言ったそうだ。『わたしは、もうあんな人のことは、何ともおもっていません。ただ、子供が可愛いだけです』 
その言葉にこめられたものは、私にたいする無関心よりは、憎しみのほうに比重が傾くようだ。世間体をつくろうためと、私への憎しみのために、今ではそのエネルギーは使われているのだろう」

狂気「すれすれ」の鬼気迫るA子の行状が書かれているが、これは本当のことであったのか?
例えその全てが事実通りでないとしても、これに近い形で延々と「赤い歳月」が流れ続けたのであろう。成長したU子が母親を置き去りにして、家出してきたこともすでに述べた(つまりU子は、A子が制止していた父親の禁断の書斎に足を踏み入れたのだ)。
結局、この三角関係は宙ぶらりんの状態のまま、すなわち文枝との離婚手続きがなされないまま、したがって宮城まり子とは入籍できないで内縁関係のまま、昭和36(1961)年の家出から三十三年後の吉行淳之介の死をもって、ついに終焉を迎えたのである。

「吉行淳之介全集」年譜の平成6(1994)年の項には、こう記載されている。
『1月、「ヘアヌードというより毛・毛・毛の話」(インタヴュー)を〈サンデー毎日〉に発表。2月、遺言を書く。4月、「懐かしい人たち」を講談社より刊行。5月9日より7月18日まで虎の門病院に入院。6月、医師より肝臓癌を知らされる。一瞬の間をおいて「シビアなことをおっしゃいますなあ」と呟く。7月19日、聖路加病院に転院、一週間後の7月26日、宮城まり子に看取られて死去。遺言により、葬儀・告別式は執り行なわず(註)』
古希、享年70。34歳で死んだ父親より倍生きた勘定になる。
(註・「湿った空乾いた空」に、「Mも私も、宗教とは無縁の人間である」と書かれている。)

年譜の平成4年の項目には、「C型肝炎が原因の肝臓癌と知らされるが、宮城まり子は吉行和子と相談の上、本人には知らせず」とある。宮城まり子の「淳之介さんのこと」には、吉行の死に至る経過がるる綴られているのであるが、ここでは臨終に立ち合った阿川弘之の文章から引用したい。
宮城まり子の文章には綴られていない、気にかかっていたことが書き留められているからである。それは「追悼特集・吉行淳之介」(「新潮」1994年10月号)に掲載された「追懐・淳之介との四十年」という結構長い文章である。後半三分の一ほどを、現代仮名遣いに直して引用する(カッコで年齢を加えた)。

「翌七月二十六日朝、家内がまりちゃんの電話を受けた。今度は私が、徹夜のあとで寝ていた。昼すぎ起きて、『何か、ほんとうはすぐにでも来てもらいたそうな、まり子さんの口ぶりだった』と聞かされる。生憎、三時に人の来る約束があった。その用件を片づけて家を出たのが四時十五分頃、地下鉄新富町の駅からタクシーで聖路加へ着いたのが五時二十分、結果からいうと、息を引き取る一時間十分前に、私は吉行と約一年ぶりの、生涯最後の対面をしたのだが、その時、臨終がそんなに近いとは思っていなかった。
彼の手に触れるのは初めての経験なれど、もしこれが僅かな心の安らぎにでもなるならと思って、ベッドの上の痩せた右手を握り、『阿川だよ、阿川だよ』、二度呼んでみたが反応はなかった。髪はぼさぼさ、白髪はあまり無く、鼻に管二本さしこまれて、やつれ果てた表情で、眼はつむったまま、やや間遠な吐く息吸う息を繰返していた。

『非常に深い眠りに入っておられます』
と、日野原(重明、82)院長より説明があった。日野原先生と宮城まり子(67)とは、旧知の間柄らしく、先般何処かへ講演旅行も一緒に行ったとのことで、こちらへ移したのは、いざの時報道陣の大騒ぎを避けたいのが一つ、もう一つが、やはり日野原先生の信条にしたがって安らかな最期を迎えさせてやりたいとの、まりちゃんの意向に依るもののようであった。
院長は、八階の隅の吉行の病室へ十分おきぐらいに姿を見せた。まり子さんが廊下で先生をつかまえ、何かひそひそ話していたのを中断し、私を紹介しようとするので、初対面の挨拶もそこそこに、
『あと一両日の容態なんでしょうか』
私は訊ねた。
『いやいや、もう間も無くです』
と言われ、一瞬、水を浴びたような感じになった。

集っている者、宮城まり子を始め、吉行の母親八十七歳のあぐりさん、下の妹作家の吉行理恵(55)、中央公論の嶋中鵬二会長(71)、私とも五人、あと病院の医師看護婦、〈ねむの木学園〉の関係者ら手伝いの人が七、八人いた。嶋中会長は今から四十六、七年前、吉行や中井英夫(吉行より二つ上。註)と一緒に第十四次〈新思潮〉をやっていた同人雑誌仲間である。中井英夫すでに亡く、安岡章太郎(74)、遠藤周作(71)、近藤啓太郎(74)、みな病気持ちで、臨終の床に立ち会う友人、結局嶋中さんと私と二人しかいなかった。上の妹吉行和子(58)は、仕事でネパールへ行っていて、帰って来るのが明後日の朝になる。
私は自分が何をしたらいいのか、誰に何を頼んでどうしてもらえばいいのか、不安な落ち着かぬ気分であった。嶋中さんが、眼立たぬように八方気を配って、必要な措置、次々手を打ってくれているようだが、いくら昔の同人雑誌仲間とは言え出版社の会長に、私の方から一々、〈あれ済ませた?〉〈これ頼むよ〉とは言いかねた。めぐりめぐって、凡(あら)ゆる負担が宮城まり子一人にかかってくる。
(註・参考までに付記すれば、中井英夫は渡辺淳一「冬の花火」の章に登場する。)

まり子さん自身、それは覚悟していて、〈淳之介の最期を見守り看取るのは私〉の気概のようで、ここ数日ほとんど眠っていないらしかった。戸籍上の吉行夫人(年齢不詳)、その人の生んだ一人娘麻子(35歳であったか)、麻子の子供、つまり吉行の孫、此の一族へ報らせるのか報らせないのか、判断がつかず、今単刀直入まり子さんに相談も出来ず、私は別室で休息中の母上あぐりさんに、それとなく此の件話しかけてみた。七十の息子に先立たれる老母が、じっと悲しみを耐えている姿は、見るに忍びないものだったが、
『すべてまりちゃんに聞いて頂戴。まりちゃんの考え通りやるしかありません』
予想外にしっかりした返事で、はっきり、実の嫁まり子を立てた。意識のある間、吉行当人の意志もそれと同じ、何も彼もまりちゃんに委せるつもりだったろうと察せられた。

三十余年一緒に暮していれば、二人の仲、いつも春風駘蕩太平無事とは、むろん行かなかった。時々夫婦大論争が起きたのを知っている。女優としてあれだけの演技を見せ、〈ねむの木学園〉創設運営にあれだけの手腕を発揮した人が、ただの温順平凡な女性でなかったのも、当然のことである。元気な頃吉行は、よく、
『昨日の晩又大喧嘩。どっちがどっちをやっつけたかって、あんなお前、ライオンみたいな者と言い争って勝てるわけ無いだろ』
とか、
『あゝあ、俺もねむの木の子供みたいに、少しはやさしくして貰いたいよ』
とか苦笑まじりで洩らしたが、事実は身辺のこと万事、殊に入院後はまり子さんを頼り切っていた。

・・・最期の時が近づいたようであった。ベッドの周りにみんな集まった。私は左横、足元近くに立って、吉行の入歯をはづした顔を見ていた。軽く開き加減の口が、動かなくなり、「おや」、訝(いぶか)しんでいると、暫(しばら)くして又動いて息を吸い込んだ。一人づつ進み出て、脱脂綿つけた割箸状の物を水に浸し、唇、口の中、湿してやった。苦しみの表情を見せないのが、こちら側のせめてもの慰めと思った。
瞳孔をあらため、胸に聴診器あてて心音を聞いていた日野原先生が、六時半ちょうど、
『お別れして下さい』
と言って身を起した。鼻の管ははづしてあり、吉行の顎はもう動かなかった。心臓の鼓動だけ、あと一、二分続いていたようだが、外部への発表は七月二十六日午後六時三十分とすることに決めた。

私は泣かなかったが、誰や彼やの忍び泣きの中、後の始末が始まった。かなり長い時間かけて遺体の清めがすみ、その後ナース・ステーションで若い担当医から、死に至るまでの病状経過説明が行われた。虎の門入院中のものも含めて、たくさんのレントゲン写真がライト越しに提示され、〈血管腫〉と称していた肝臓の癌がやがて処置不能の大きさになって行ったこと、さらに、肺その他へ転移して、もはや恢復は望めず、吉行の命が時間の問題になって来たことなど、極めて明快に語られた。
『今月の二十一日、こちらへ転院なさった時は、半ばもう夢を見ておられるような状態でして』
とも、担当医は言った。

まり子さんの話では、何週間か前、虎の門病院の医師が、癌の告知をしたそうである。吉行は自分の病気を癌と、八割方察していたけれど、あとの二割、やはり信じたくない気持があったのだろう。〈先生シビアなこと仰有いますなあ〉そう言って、動揺の色を見せたという。
十三、四日頃から、折々意識に混濁が生じた。若き日と只今現在との区別がつかなくなるらしく、〈お前妊娠してるんだろ。産んでもいいよ〉と、意外なことを口にした。吉行の子を身籠って産むのを許されなかった苦い経験のあるまり子さんが、秘事としてこれを語るのを、〈そうか、やっぱりずっと気にしてたんだな〉と思って私は聞いた。(註・「闇のなかの祝祭」、「赤い歳月」に描かれた妊娠のうち、少なくともどちらかは事実だったということになる)

死因病名については、『肝不全と発表なさったらどうですか』聖路加医師団よりのサゼッションがあった。
亡くなった後も、遺族は普通〈癌〉の一字を避けたがるもののようだが、私ども、ちょっと相談の上、作家なんだ、正直にまっすぐ〈肝臓癌の為死去〉、そう言おうと申し合せた。
その前、遺骸が清められるのを待つ間、私は家へ電話をかけた。『えッ』と驚きの声を挙げる女房に『驚くのをやめて、すぐ次のことをやってくれ』
吉行と格別昵懇(じっこん)だった各出版社の編集者たち、誰と誰と誰とに何としてでも連絡取って、至急聖路加病院へ来て貰うよう、その際、テレビ新聞関係に勘付かれぬよう、事情が事情だ、悪いけど自分の社の週刊誌にも伏せておいてほしい、興味本位の大騒ぎなんかされちゃ敵(かな)わない、頼む、と命じた。(註・余計な一言だが、ここら辺の妻への指図、元海軍中尉だったのを偲ばせる)嶋中さんが同じような手配、電話であちこちへしている様子であった。

退社時刻を過ぎていたにも拘(かかわ)らず、逐次連絡がつき、識り合いの編集者が次々あらわれはじめた。頼りになる人たちだが、私はその他にせめてもう一人、同世代の友人の作家がいて欲しかった。伏せておくつもりでも、テレビ局、新聞社の社会部が嗅ぎつけるのは、吉行の最期と同じく〈時間の問題〉だろうと思った。若い女性のニュースキャスターに、マイクロフォンを突きつけられて、わざとらしいお涙頂戴でしつこく感想を求められる、そういう場面、想像しただけで私は腹が立って来る。俺じゃ駄目だからと、遠藤(周作)に頼んで、三浦朱門(68)をつかまえて貰った。顔に薄く化粧を施した吉行の遺骸が地下の霊安室へ移し了えられて間もなく、私より六つ若いのに私よりずっと大人で、健康体で、冷静な判断と報道陣への落ち着いた対応の出来そうな三浦が、黒ネクタイもつけぬ儘(まま)やって来てくれた。

私の役目は、其処(そこ)までで終ったようなものである。通夜も葬儀もしないことは、嶋中さんも交えて話し合ってすでに決定ずみであった。疲労困憊(ひろうこんぱい)その極みに達しているまり子さんに、何やかや言うのは気がさしたが、霊安室に移る前、
『あれだけ純粋な芸術家だったんだから、吉行送るのに、通俗なやり方は一切避けたい』
と、私から意見を述べた。
『淳ちゃんも、それ望んでました。お葬式もしないでくれって、遺言に書いてあるはず』
まりちゃんは答えた。

その結果、遺骸は当日夜半、親しい編集者たちと一緒に、上野毛の自宅へ帰り、娘と孫と元の奥さんにも別れを告げて貰い、僧侶の姿牧師の姿無しで二た晩書斎のベッドに安置された後、吉行和子の帰国を待って、二十八日午後、桐ヶ谷の火葬場へ向う。出棺に際し、御希望の方はどうぞお見送り下さい、花はお届けになっても受けません、無宗教ですから、初七日の法事というようなものも無論致しません、これで全部おしまいとなったこと、各新聞週刊誌の伝える通り、私の思い出の記も、これを以て終りとしたい。
人々の記憶に残る洒落たやさしい言葉、私への悪口雑言、どちらも、もう吐くこと止めた吉行のしぼみ加減の口元のかたちが、わが瞼(まぶた)に未だ焼きついている」

よくぞここまで書き残してくれた。このように一人の人間の最後の模様を詳しく伝えている文章には、めったにお目にかかれるものではない。知りたいことは余さず書かれてある。これにひとつだけ付け加えるとしたら、次の遺言の内容であろう。
「○喪主は宮城まり子に託するが、通夜、告別式、葬式はこれをおこなわないのが望ましい。
○全著作権を宮城まり子に贈与する。動産、不動産は民法が定める最大可能分を宮城まり子に贈与する。動産はさくら銀行の預金9600万円、不動産は千代田区にある物件すべて」(註・さくら銀行は、現三井住友銀行。不動産というのは、市ヶ谷の居宅跡のことか。住所は麹町なのだから。)
全著作権を宮城まり子に、というのは、やはり驚いた(三島由紀夫は、妻の他に母親にも著作権の一部を与えている)。

ネパールでの仕事で兄の死に目に間に合わなかったけれども、それまで毎朝病院に電話をしていたという妹和子の兄を悼んだエッセイには、次のようなことが綴られている(いずれも「兄・淳之介と私」)。
「私が一人でお見舞に行った日、ぼくは二年前から分っていたよ、きみたちが気を使うといけないから、黙っていたんだ、と言い、おふくろには知らせないでおこう、と言いました。そして七十まで生きるとは思っていなかったから、もういいよ、とも言いました。
私はどう答えていいか分らなくなり、しどろもどろとなり、そうね、人間はいつかはみんな死ぬんですものね、と言ってしまい、取り返しがつかなくて困っていると、兄はふふふと笑いました」
「七月に入ると、兄は、ぱっちりと目を開けて、一点を見ていることが多くなりました。その目は頼りなげで、とっても幼く見えました。私はお姉さんになったみたいな気持になり、そんな兄を見つめていました」

そしてこんなことも。
「四年ぶりに兄が母のところに来た。いつも家にいる妹と、偶然家にいた私と、四人の顔が揃ったのも、だから四年ぶりだ。母と妹と私は、同じビルの別々の部屋に住んでいる。兄は離れているが一時間もかからないところにいる。お正月を祝うこともしないし、集まるという習慣も無いので、よほどのことがない限り会う機会がない
よほどのことがあったわけではないが、何かの拍子で兄が来る気になって久しぶりの再会になった。
三十分くらいはいただろうか、二十分だったかもしれない。〝まあ、来てみれば、どうということもないが、えーと、それじゃ、また〟とか言いながら、ほうほうの態でというのは大げさだが、ほっとしたように帰って行った」
会う機会がないので、和子は雑誌の対談の相手に兄を指名したこともあるとか。自分の舞台を観に来てくれたのがはっきりしているのは、一度だけだとか。兄が死んだ年の正月に兄の家に行き、母と二人でお雑煮をご馳走になったけれども、兄の家に行ったのは実に十二年ぶりだったとか、ここにも驚くことが書かれている。

作家である妹理恵も、当然追悼文を残している。その一つが「靖国通り」(「新潮」1995年1月号)である。それを抜粋する。
兄に会ってから九年が経った。私は気の使い方が下手で人を疲れさせる。兄に電話をかけるということもしない。長い間兄は数々の病気で苦しんでいた。ここ数年は入退院を繰り返している。兄が入院すると、私は市ヶ谷橋を渡り、靖国通りにある小さな神社に通う。
『あの顔、こっちまでめいっちゃう』
市ヶ谷橋で擦れ違いざまに若い人に言われた。相当私は深刻になっているようだ。(中略)
一日も休まず神社に通っていたが、結局(註・黒い蝶を見かけた)その日が最後になった。兄はすべてのものから解放されて、好きだった市ヶ谷に戻ってきているのだろうか。兄がそばにいるような気がしている」

初恋の人は詩人の立原道造で、「色の褪(あ)せた赤いポストを指して、『ポストが枯れている』と言ったり、穴のあいた靴下をはいて『イタイ、イタイ』と泣くので、ふしぎにおもっていると『靴下が痛いおもいをしている』ということで泣いていたりする」(吉行の短篇「祭礼の日」)ほどに繊細な神経の持主だった妹理恵。
吉行理恵は詩人として出発したのち、昭和56(1981)年「小さな貴婦人」で第85回芥川賞を受賞し、初の兄妹受賞となったが、寡作のままで次第に人と交わるのを避けるようになり、外出もしなくなっていたのを、兄に別れを告げるために勇を鼓してあぐりに付き添ったのであろう。その光景が「兄の似顔絵」(「新潮」1995年1月号)に書かれている。

七月二十六日、九年ぶりに会う兄はもう深い眠りに入っていた。十二時間母は兄の左手の親指と人差し指の間を軽くおさえつづけていた。心臓のはたらきがよくなると聞いたことがあったので、黙ってひたすらおさえていた。
母は生後八ヶ月の兄を祖父母のもとにおいて父のいる東京へ出た。そして美容の勉強を(住み込みで)したので二年間兄のもとへ帰れなかった。祖母から母が帰ってくると聞いた兄は、本当だね、この畳の上へ帰ってくるんだね、と畳を叩いたそうだ。
孤児のようだったと兄の書いている文章がある。十二時間母と一緒に過すのは初めてだっただろう。もうこれでいいか、母が疲れるから、と思ったのかもしれない。いつ息を引き取ったのか分からないくらい静かに逝った。
私が文学の世界に入るきっかけも兄だった。兄と最後の別れをする時、〈ありがとうございました〉と頭を下げた」「海外で仕事をしていた姉はその日間に合わなかった」

生涯を独身で通した吉行理恵は、兄の死から十二年後(平成18年)、甲状腺癌にて66歳で死去。それは、三十年前に書いた初めての小説「男嫌い」の作中人物、理恵の分身である女主人公が66歳で、しかも病名まで甲状腺癌で死んだのをなぞったような最期であった、というのだから奇怪千万である(たかが小説というなかれ)。
美容師の仕事を97歳まで続けた母あぐりが淳之介、理恵のもとへと旅立ったのは、107歳を迎えての平成27年のことであった(なお、あぐりの再婚の相手辻復は、平成9年90歳で死亡している。また、連続テレビ小説「あぐり」の放映は平成9年春である)。吉行家五人のうち、和子一人が残された。

ただ、上述「靖国通り」に理恵が、次のような昔の奇妙な出来事を挿入して兄嫁にふれているのには、どういう意味合いがあったのか。
「日中は母屋の入り口の戸を開けっぱなしにしてあった。突然、坂の上の綿屋の奥さんがどどっと入ってきた。小柄で可愛らしい人なのに、別人のように冷たいこわばった形相をして、全身埃(ほこり)まみれだった。『あっ、あなただ』と、綿屋の奥さんは人差し指を兄嫁の眼に向けた。兄嫁は震えながら壁の方へあとずさりしていった。
『あなたがこの家を滅ぼす』と怖い声で言い、出ていった。まるで一陣の風が去ったあとのようになった。
靖国神社に参拝したあと精神に異常を来たしたらしいという噂を聞いた。後日用事を頼まれて、綿屋へ入ってゆくと、奥さんに優しい声で丁寧に迎えられ、またびっくりした。

間もなく兄と義姉は別々に引っ越していった。長い別居のはじまりだった。
占い師が、〈いまのままだとお兄さんは死ぬ〉と言ったと、珍しく姉(註・和子のことだ)が深刻な顔をしている。その後の兄を、綿屋の奥さんがみたらなんて予言するだろうか」
ちょっと真意を測りかねる不思議な文章である。
その理恵のことを「何も書けないくらい兄のことを心配していたのですよ」と、自著で息子に語りかけるあぐりも同じような文章を残している。
「淳は生きることを放棄したとしか思えません。あまりにもひどい卑劣な人格の人達に、ふるふるいやになったとしか思えません。あなたを別の環境においてあげていたら、もっともっと生きてくれたと思います。先に行かれるなんてまことに、まことに悲しいです」(「母・あぐりの淳への手紙」1998年文園社刊)
理恵とあぐりは、何を言いたかったのだろう?

あぐりと理恵、和子も含めて、これ以外に兄嫁のことに触れた文章は見当たらなかった(当然、兄嫁が産んだ娘、すなわちあぐりの孫、和子理恵の姪については皆無だった)。いろいろはばかられたからであろう(宮城まり子も極力筆を抑えているし、文枝の回想記だってそうだ)。
その点、阿川弘之は第三者だからこそ踏み込んで書けたのだろう。娘(麻子さんという名前だったのだ)はともかく文枝までもが吉行の死顔に対面できたのは、明確に書かれてはいないが、宮城まり子の許諾があったればこそだったろう。
安岡章太郎、遠藤周作、近藤啓太郎はそのとき病体にあったと書かれているが(だから「第三の新人」たちが勢ぞろいした吉行の追悼座談会に安岡と近藤が出席していなかったのだ)、阿川弘之が駆けつけてくれたのは、宮城まり子にとって何よりも心強かったにちがいない。

というのも、肺腑を突き刺すような悪口雑言を浴びせ合いながら、東京オリンピック開催の日も、ケネディ大統領が暗殺された時も、川端康成が自殺した日も、娘の佐和子が石垣から落ちて頭に大怪我をした日も、齢のちがう姉が死んだ時も、果ては三男が生れた時も(註)、花札(時に麻雀)かブラックジャックに熱中していたという遊び相手が阿川弘之であり、何につけすぐカッとする阿川弘之は、「瞬間湯沸かし器」「セントラ(ルヒーティング)のひいさん(弘之)」「リトマス試験紙」などなど数多いあだ名を吉行からもつけられていた(たしか、娘の佐和子もエッセイに、父親の性格をそのように綴っていた)。
そういう阿川弘之を、宮城まり子は「淳ちゃんがぐさりと突きささるようなこと平気で言える相手、私と阿川さんだけなの」と、信頼を寄せていたようだからである。
(註・阿川弘之の三男敦之の名前は、淳之介と弘之の一字ずつをとって命名したのだが、結果的に二字もらった形になって「盗作料よこせよ」と吉行にののしられたとか。)

先の「追懐・淳之介との四十年」は、この交友関係あったればこその、皮肉たっぷりの友愛の情で書き起されている。
「吉行淳之介が亡くなって、新聞や週刊誌、女性誌、文藝誌の追悼記事みな、やさしい人だった、心があたたかく、短篇小説の名手でありながら同輩後輩を傷つけるような文学上の悪口なぞ決して言おうとせず、誰に対しても驚くほどの気配りを示し、その気の遣(つか)いようがデリケートでこよなく洒落ていてと、絶讃に近い扱い方をしてくれている。臨終に立ち会った者、肉親の理恵を除いて小説家は私だけなので、友人を代表して御礼申すべき立場かも知れないけれど、正直な話、ちょっと首をかしげたくなる、〈そうか知ら〉と思う。ジャーナリズム挙げての此の満場一致ぶりに対し、〈ほんとうは難しい人じゃったから〉と、含みの残る言辞を洩したのは、戦後文壇通の随一、元〈群像〉編集長の大久保房男ぐらいだろう。

少なくとも私の場合、識りあって以来四十二年間、終始一貫と表現しても誇張にならぬほど、いやがらせと〈傷つけるような悪口〉の言われつづけであった。これは、安岡章太郎にも庄野潤三にも、近藤啓太郎にすらじかに見せなかった吉行のえげつない一面で、〈同じことを他の連中にだって少し言ってみろ〉というと、必ず〈怖くていえない〉と答えた。どうやら私は、たった一人の怖くない友だったらしく、彼の死後それを誇りにしてよいものかどうか、すこぶる疑問であるけれど、追懐の記となれば、ともかくその微妙な線に沿うて思い出を綴ってみるしか道が無い」
同じ友人仲間でも付き合い方は、それぞれの微妙な個性が反映して自然と異なってくるものである。吉行にとって阿川弘之は、安岡章太郎や近藤啓太郎とは違うところで、腹蔵なく付き合えたのかもしれない。

しかし、阿川弘之は吉行よりもかなり年上だったのである。せっかくだから、島尾敏雄と小沼丹を加えた「第三の新人」たちを生年順に並べてみれば、小島信夫(1915年、東大)、島尾敏雄(1917、九大)、小沼丹(1918、早大)、近藤啓太郎(1920、東京芸大)と安岡章太郎(慶大)と阿川弘之(東大)の三人が同年生れ、庄野潤三(1921、九大)、遠藤周作(1923、慶大)、吉行淳之介(1924、東大)、三浦朱門(1926、東大)、曽野綾子(1931、聖心女子大)という順序になる。これに加えれば瀬戸内寂聴(1922、東京女子大)、三島由紀夫(1925、東大)。曽野綾子を除いて、皆大正世代である。
安岡や近藤と同様、阿川弘之は四つも年上だったのだ。その吉行が彼等と対等に渡り合えたのは、戦前の学制ならではの現象であったろう(ただし、ずいぶん年上の小島信夫や島尾敏雄などには、それなりの敬意を払っていたようだ)。
吉行と同年生れには安部公房、吉本隆明、武田百合子、山崎豊子、高峰秀子、相田みつを、「冷血」のアメリカの作家トルーマン・カポーティなどがいる。

ついでに没年も(女性二人はいまだに現役のバリバリである)。
三島由紀夫(1970、45)、島尾敏雄(1986、69歳)、吉行淳之介(1994、70)、遠藤周作(1996、73j、小沼丹(1996、78)、近藤啓太郎(2002、81)、小島信夫(2006、91)、庄野潤三(2009、88)、安岡章太郎(2013、92)、阿川弘之(2015、94)、三浦朱門(2017、91)というところである。
このうち、遠藤周作と阿川弘之、そして瀬戸内寂聴は文化勲章受章者となった。安岡章太郎は、小島信夫や庄野潤三などと一緒で地味な作風の上、エンターテインメント作品も書いていないので受賞出来なかったのだろう。もし、吉行がもっと長生きしていたらどうであったか。まあ、品行よろしくない花柳小説家の泰斗永井荷風だって貰っているのだから、その可能性は充分あっただろうが、果たして。
面白いのは三浦朱門で、小説家とは別の道でも才能を開花させて、文化庁長官や日本芸術院院長などを歴任している。阿川弘之が吉行の臨終に際して、手堅い人物として頼りにしたわけだ(曽野綾子さんが好きになったのもそこだった?でも、デヴュー時の三浦は、芥川龍之介の再来とも騒がれたそうだから、どうだったのか)。
なお「闇のなかの祝祭」で、主人公沼田の友人として唯一登場する松木陽吉のモデルは近藤啓太郎である。

D I G R E SS I O N  A ND  D I G R ESS I O N。(「横道また横道と訳してみるか。本筋を離れてやたらに枝葉に及ぶこと、といった意味の英語である」と、「湿った空乾いた空」にある。)
夜の巷(ちまた)での若き瀬戸内寂聴との出会いについては、いっとう最初に述べておいたが、やはり夜の銀座でのエピソードである。
「東郷青児画伯が仲間と〈数寄屋橋〉で飲んでいると、吉行淳之介が一人で入ってきて別の席に座った。やがて迎えの車が着き、東郷が席を立ち吉行の側で会釈を交わし、外国語で二人は言葉を交わした。画伯を送って(出口まで)ママは(園田静香)画伯に何と言ったのかときいた。『久しぶりにお会いしたので、ご挨拶をしただけです』と云って車のドアを閉めた。
店に戻り、吉行に確かめると、『今、何をお話しなさったのですか?』『東郷さんからは何も聞かなかったの?』『東郷先生は只ご挨拶しただけだって』『ハッハッハハハ・・・フランス語でね〝相変わらずダンディーですね〟って言われただけだよ』『へえー、それで先生は何てお答えに?』『〝貴方にはとても及びません〟とだけ』
瞬間、私は経験したことのない、めまいがするほどの言葉のカルチャーショックを受けてしまいました」(「『文壇バー』君の名は数寄屋橋」2005年、財界研究所刊)

モテるわけだ。(フランス語は静岡高校で専攻して、その時の恩師を吉行は生涯「先生」と敬愛した。吉行が先生と呼んだのは、この恩師と文学関係では佐藤春夫のみである。(東郷青児については、「自由人の系譜、宇野千代の章」を参照あれ)
「追懐・淳之介との四十年」の言辞を裏付けるがごとく、どこでも誰からも吉行大明神さながら、ことほどさようにもてはやされたようであるが、さすがに博打でののしり合った阿川弘之の目は鋭かった。大明神の相反する側面をも見逃してはいない。
「吉行の神経の繊細さ、心根の奥のやさしさを否定はしないけれど、それと裏表をなす残酷でつめたくてしつこくて嫉妬深いところ、色々書き列ねていたら際限が無くなる」

新潮社版吉行全集の第12巻(エッセイ集)の解説を、やはり阿川弘之が担当しているが、これにも吉行の裏面に関しての歯に衣を着せぬことがいろいろと書かれている。
「彼の歿後、後進の売れっ子作家たちが、吉行さんにはよくしてもらった、神経が繊細で、気の遣い方がこよなくデリケートで洒落ていて、あったかい人だったという類の、絶讃に近い追悼文を新聞雑誌に発表するのを読む度、私は〈とオんでもない〉と首振りたくなった。やさしくして貰ったのも、デリケートな心遣いを示されたのも、実際その通りであろうけれど、それは吉行の全面像と違う。賭け事最中の私に対してだけでなく、身も蓋も無いところで人を評して、彼がどんなきつい小意地の悪い言葉を使ったかは、その方々の御存じ無い部分である」
なので、阿川弘之は「何度か、本気で〈絶交〉を考えた」とまで書いている。

「彼に男兄弟は無く、妹が二人だけ、後年才能を広く世に知られる吉行和子と吉行理恵、お母さんのあぐりさんは、淳之介の少年時代銀座伊東屋上に美容室を開いていた美容師で、其処へ遊びに行って接する母親のお客さんも、当然皆女性、父親はあまり家へ寄りつかなかったようだし、三十四歳の若さで亡くなってしまう。女ばかりに囲まれて大きくなった都会っ子の吉行は、嫉妬深くてしつこいところ、妙に残酷で頑固でつめたいところ、相手によって鷺を烏と言いくるめる小意地の悪さ、女好きの女嫌い、そういう一面を、かなりたっぷり、〈生理〉として持ち合わせていた」
阿川弘之は、これらと同じような文章を別のところでも書いている。しかし、だからといって二人の交友が途絶えることはなかった。つまり、性格も信条もまったく正反対でありながら、それゆえに互いを知り尽くしての馬の合うところもあったということだ。それを、阿川弘之は「笠碁のつきあいだった」と表現している。

「男嫌い」の妹と、「女好きの女嫌い」の兄の組み合わせもおもしろいが、「女好き」の兄の女の好みについても阿川弘之は同じ文章でおもしろおかしく書いている。
「女性に対する好みも違った。酒場の女から〈タイプがきまっているのね。なんだか小児麻痺みたいなタイプがいいのね〉と言われて、半ば肯定した話を『なんのせいか』という随筆に書いている。以前は〈幽霊のように影の薄い女〉が好きだったのが、段々変化して、言われる通り、〈背の低い、美人顔でない、バランスの取れない女性を好む傾向がでてきたようだ〉と。
三浦朱門、遠藤周作、私の三人で、ひそかにこれを〈吉行の悪食〉と称したが、当人に言わせれば、〈お前たちの好きなのは分りやすーい美人、俺のは分りにくーい美人〉、その道の初心者と奥義を極めた者の違いということになる」
吉行文枝はともかく、宮城まり子を想像すると分かったような、分からないような気分になるけれども、どうやら吉行は小柄でキュートな女性が好きだったらしい。

この文章の発表が1998年9月、先の追悼文「追懐・淳之介との四十年」が1994年9月。この間の1995年と1996年に、二冊の書物が名のある出版社から公刊された。著者はいずれも女性で、その内容はいずれも吉行淳之介と特別な関係にあったことを記した、いわば愛の告白本である。
つまりは、本妻と内妻が相対していたところに、第三夫人と第四夫人が相次いで名乗り出たということになるわけで、俄然、まるでどこかの国の王様みたいな様相を呈したのである。この分では、まだまだ第五、第六夫人が現れるのではないか、と吉行の近親者は戦々恐々としたかもしれないが、その心配には及ばなかった(さぞかし胸をなでおろしたことであったろう)。とはいえ、こういう類例にも滅多にお目にかかれないのではなかろうか。


追記。
ここ数日間、ブログ作成と並行して大変興味深い本を読んでいる。それは、詩人の高橋順子著「夫・車谷長吉」である(車谷長吉は最も好きな作家だったから)。この本も追想記なのだが、読み終わった部分にこういう記述があった。
「母の妹の私(高橋順子さんのこと)の叔母は大正末年生まれで、二十歳になったとき、戦争が終わった。結婚の相手となるような男性は多く戦死し、〈男一人に女はトラック一杯〉といわれた」
だから、叔母さんは独身のままだったと。これは同時に、生年ははっきりしないものの、まさしく吉行の妻・文枝の世代、さらには昭和2年生れの宮城まり子の世代の話でもあったろう。
それに、吉行が療養した千葉の佐原の地名が出てきて、あれって思ったり、あるいは車谷長吉が「ぼくが死んだら、葬式はしてくれるな、しのぶ会などもしてくれるな。ぼくは治らないかもしれない」と、順子さんに言ったりする、ところを読んだ。
だからそれがどうした、と言われたらそれまでだけど。こういう読書体験ってママある、よね(ということ、だ)。


(以下、「闇のなかの祝祭」と「暗室」(7)につづく。)




 

自由人の系譜 吉行淳之介「闇のなかの祝祭」と「暗室」(5)

吉行淳之介にとって、ちょうど五十冊目の著書になる「私の文学放浪」を東京新聞に連載中の昭和39年、吉行は海外旅行に出立した。年譜にはこうある。
「八月から九月中旬にかけて、目的をもたずに外国旅行、主としてニューヨーク、パリ、マドリッドを見学。ラスベガスとモナコの賭博場へも行く」
やはりひと言も記載されてないが、旅行は宮城まり子が同伴していた。西暦1964年、東京オリンピック開催の年で家出から三年、吉行は不惑を迎えていた(註)。
この遅まきのハネムーン旅行(?)ともいうべき、二人だけの異国の日々をつづった旅行記が「湿った空乾いた空」である。「闇のなかの祝祭」刊行から十年後の昭和46年に「新潮」に連載された。旅行からかなりの時を置いて発表となったのは、それなりの事情が介在していたからだったか(例えば、籍が残ったままでいる妻に対しての配慮とか。そのことで訴訟中だったとか。スタアである宮城まり子の立場をおもんばかっていたとか、の)。
(註・東京オリンピックは10月10日から24日まで開催されている。)

海外旅行については、吉行文枝「淳之介の背中」に次のような記述がある。
「昭和22年秋、主人が新太陽社に勤め始めたころから一緒に暮らすようになりました。プロポーズなどと気の利いたものはありません。神経が合ったとでもいうのでしょうか。気持ちの摩擦がなく、一緒に暮らすことがことさら特別なことという感じはありませんでした。(中略)
そのころは、本当にお金がなくて、それでも貧しい思いは少しもありませんでした。ないものはしようがないという性分ですから、今思えば、そんな状況を楽しんでいたように思います。
主人の小学校の同級生の家が新聞販売店をしており、そこから新聞を二紙取っておりました。月末にその友人が集金にみえたとき、私が玄関先で、
『今、留守なんですよ』
と話していると、
『オレ、居るよ』
と、奥から主人が顔を出すので、
『貴方ではなく、お金が留守なのよ』
そう言って笑ったこともあります。
マージャンをして負けてきた日などは、
『金あるか。負けたんだ。バクチの負けは女房を質に入れても払うものだ。今に世界一周に連れて行ってやるからナ』
そう言うと、家にあったお金をみんな持って行ってしまいました。
それからは、我が家では、〈世界一周〉が、バクチ、パチンコ、バーに行くためのお金の代名詞になりました」

この約束は反故(ほご)にされ、その原因となった女とともに、吉行はここに書かれた「世界一周」へと旅立ったのである。このことを知った文枝の胸の内やいかに、というところであるが、「淳之介の背中」に、もちろんこの旅行についての記述はない。文枝の回想記は「闇のなかの祝祭」までで終っているのだから。
しかし、この世界周遊記が幸福一色で包まれていたわけでもなかったようだ。男の側の事情が解決されないままになっていることが導火線となって、旅先のいたるところで大喧嘩が繰り広げられているのであるから。
以下に「闇のなかの祝祭」後日譚として、「湿った空乾いた空」からいくつかの場面を抽出していくつもりであるが、併せて「湿った空乾いた空」と同時期を描いた短篇「赤い歳月」(昭和42年)の叙述からも適宜交えながら補完する。

外国旅行に赴くことになった前口上が面白い。
「昭和三十九年に私は四十歳になった。この時期になると、小説家や評論家のあいだでは、外国へ行った経験のない人間は珍しい存在になってきた。
友人たちをみても、遠藤周作はフランスの大学を卒業しているくらいだから別格として、阿川弘之、庄野潤三、小島信夫、安岡章太郎とつぎつぎに、ロックフェラー財団の招きで、一年間のアメリカ留学に出かけている。三浦朱門は曽野綾子と一緒に、幾度も世界のあちこちを旅行している(註)」
だけども、自分の場合は億劫(おっくう)な気持が先立ち、さして外国へ行きたかったわけではない、と弁明しながら、吉行は気持ちが変った理由を次のように弁解する。
(註・吉行がよく読んだという太宰治の「津軽」の書き出しに似ている。また「闇のなかの祝祭」のそれは、永井荷風「濹東綺譚」とそっくりである。)

「ところが、一人の女が私を外国へ引摺(ず)り出すことになった。三十五年に私は家庭を捨て、以来この女と一緒に暮している。この女は、女性という種族の特徴〈可憐さ、やさしさ、馬鹿、嫉妬心、吝嗇(りんしょく)、勘の良さ、逞(たくま)しさ、非論理性、嘘をつくこと、すべての発想が自分を中心にして出てくること、などなど〉を、すべて極端なまでに備えていた。私はこの女のことをM・Mという頭文字で、文章の中に登場させたことがある。そういう配慮など分らぬ女で、〈なぜ自分だけローマ字の符号なのか〉と拗(す)ねる。〈みんな知っていることじゃないの〉というが、この〈みんな〉という発想自体が間違っていることに気付かない。仮に世間周知としたとしても、それだから私の手で書き記していいものだとは限らぬことが分らない。このM・Mという女は、女優兼歌手である。スタアと呼ばれてブームを起していた時期もあった。すべてにバランスのとれた人間が存在するともおもえないが、スタアというのはとくに片輪なところがある。

私は、家庭を捨てる気持はなかった。
そのことは、M・Mにも、繰返し強く言って置いた。しかし、その家庭自体はきわめて危険な状態になっていた。私は慣性型体質とでも名付けたらいいだろうか、その体質が心構えに擦り替り、一つの場所から動かないことが信念のようになってしまう。億劫、という言葉では足りないくらい、動きたくなるところもある。
そういう私を、Mは家庭から引摺り出した。おそらく、強い力さえ働けば、私は結局は引摺り出されることになったであろう。そして、私はMに外国へ引摺り出されることにもなったのである」
「家庭を捨てる気持はなかった」というのには驚くが(そういう気持ちが皆無だったわけでもなかったろうが、それでも)、「慣性型体質」については「赤い歳月」に形を変えて書かれている。

「〈長いあいだ住んでいると、軀からヒゲ根のようなものが沢山生えて、その場所に深くもぐってゆく〉という意味の言葉を、誰だったかの文章で読んだことがある(註・庄野潤三か?)。
全くその通りで、これまで日常生活の習慣を切り捨てて、新しい日常生活の中に入ってゆくのはなかなかに難しいことである。そのためには、自分の軀から糸こんにゃくのように垂れ下って地面に深く根を下している沢山の根を、一つ一つ抜き取ったり、切り捨てたりしなくてはならない。それができ上らないうちは、引越しの荷造りにとりかかることはできない。引越し荷物がつくれない、ということは、つまり自分自身の荷造りができないことと同じである。
私は、荷物は全部残して家を出たが、軀にくっついている沢山の細い糸のうちの大部分は、そのまま長く伸びて元の場所につながっていた。
それらの糸のほとんど全部を切り去るために、七年という月日が必要だった(註)」
(註・この「赤い歳月」執筆時が、ちょうど七年ということになる。)

むろん、これらのすべてを事実として読むわけにはいかないが、旅行記だから事実であり、小説だから嘘だらけとも限らない。特に吉行のようなタイプの小説家は。つまり「湿った空乾いた空」と「赤い歳月」には、等分の事実が含まれていると想定してよいだろう。
 マスコミを避けて先に出発していたMとロサンゼルスで落合い、二人はラスベガス行く。と、そこでさっそく大喧嘩が始まる。
「噂によると、別居中の妻は娘を名門校に入れようという考えを持って、その気持は異常なくらい強いと聞いている。私はそういう考え方にまったく反対だ。
すでに娘は歪んだ環境に置かれていて、それは私の責任である。その上、女親の教育方針を押し付けられると、困った歪み方の人間になってゆくのではないかとおもう。いつも不憫(ふびん)さが心を離れないのだが、その気持が不意に烈しくなった」
旅行時、吉行の娘は就学前の5歳であったと思われる(なので、次の会話はこの旅行時のものではなかったと思われる。ま、そんな余計な詮索は気にせず読み進めてください)。

「娘のことが気になるんだ」「そうねえ」「学校なんか、どこだっていい。学校のことなんかあまり気にするな、と娘に言い聞かせておいてやりたいね」「わたしが、学校の帰りを待っていて、連れてきてあげましょうか」「うーむ」
「私はもう一杯ビールを飲んだ。Mはその言葉を実行に移すだけの行動力を持っている。まったく、Mの行動力は、私とはかけ離れた行動力である(註)。黙って返事をしなかった。
Mも一緒に心配してくれている、とおもった。迂闊なことであった。Mが心配してくれたのは、その性格から行って事実といえる。はじめての外国旅行に出発して間もなくのときに、こういう話題を持ち出したことが、Mの心を傷つけたことに気付かなかった」
(註・実際に宮城まり子は、その言葉通りのことを実行している。父親の代理という名目で、娘の担任の先生に面会したことが「淳之介さんのこと」に綴られている。これを踏まえて吉行は書いているのである。上述したように、この旅行記は旅行から七年後に書かれたのだから、こういう時差ボケが起こるのである。)

「気付いたのは、ホテルに戻ってからである。傷付けられると、まるく蹲(うずくま)ってしまう人間もいる。その逆に、牙を剥(む)き出して咆えかかってくるのが、Mの性癖である。 
女性に関して、私はかなり知っているつもりでいる。Mの性格についても、詳しく知っている。Mが牙を剥き出したとき、どういう言葉の使い方をすれば短時間に取り鎮めることができるかの要領を心得ている。(相変わらず、スゴイ自信だ)
しかし、私にはそういう要領を用いることを嫌う気持がある。また、Mの態度と発言内容には、真底腹の立ってくるところもある。
一たん言い争いがはじまると、短くて二時間はかかる。そのあいだに、互の意見が絡み合って進んでゆくことは、まったくない。私の考えからすると、論外の言い方なので、その許し難い発言について、怒鳴りつける。するとMは怒鳴り返す。相手の方がはるかに迫力がある。その上、Mは自分では理不尽なことを言っているつもりはない。それは意外なくらい論理的なのだが、私のかかわり合いのない平面に建物を組立られてゆくのを見ているような気分になってくる」(え、さっきの自信は何処へいったの。以上、このカッコ内は勝手な感想でした)

「阿保らしくなって、テレビをつけたりすると、狂気のようになってスイッチを押し潰すようにして消してしまう。 
同じ問題を、飽きずに繰返す。最初から歯車の噛み合う筈のない事柄を、数年に亙(わた)って合計数百時間も怒鳴り合っている。
『てめえと暮してゆけるのは、女みたいな男しかいないぞ』 
という言葉を、私は一ヵ月に五回は言うことになる。
喧嘩のあとで、セックスを使って仲直りをするということを、私は好まない。それなら別れればいい、と言う声が聞えてきそうだが、事実〈いま一人になったとしたら・・・〉 と夢想すると、もの哀しいくらいの嬉しさが私をおそってくる。
昭和三十四年からこの三十九年まで、春になって梅が開き桜が咲くのも気づかぬくらいの心労で、日が過ぎていった。
もしもMが頓死したとしたら、
『バンザーイ』 
と私は叫んで、庭に走り出て狂喜乱舞したかもしれない。そして、数日経ってから、〈それでも、あれは可愛いところのあるやつだった〉 
と、深夜おもい起して、涙ぐんだりしただろう。
しかし、私の夢想がどう繰り拡げられても、以前の家庭生活に戻ることはまったく頭の中に出てこなかった」

随分と長くなったが、ラスベガスでの大喧嘩がまだ残っている。
「ラスベガスのホテルに戻ると、Mは言いがかりをつけてきた。その内容は思い出せないが、娘のことではない。私たちの喧嘩は、必ずMが仕かけてきて、そこで開始される。窓の外が明るくなってきたとき、
『別れましょう』 
Mが言った。
『ああ、そうしよう。おれはこれから眠るから、そのあいだに出て行ってくれ』 
と、私は本気で答えた。
昼過ぎて眼を覚ますと、Mは拗(す)ねたような、気恥ずかしそうな顔をして、部屋の隅にいた」 

旅行中ばかりでなく、ずいぶん後々の喧嘩も書き込まれている。
「娘の図画が、その母親から送り届けられたことがある。封筒の裏には、フルネームで差出人が書き記されている。別居して六年も経っているのに、そういうことのできる振舞いから陰湿な性格が滲み出ていて、私を厭な気分にさせる。Mの受けたショックの余波は、長々とつづく」
「なぜ、こんなことをする人と、別れないのよ」「別れたも同然だ」「籍が抜けないじゃないの」「籍なんか、どうだっていいじゃないか。それに、いまの日本では、こういう場合はたとえ法廷で争っても、負けることになっている。つまり、悪いのはおれのほう、というわけだな」「仕送りをしなければいいのよ」「兵糧攻めか。こちらが食うや食わずなら、それも仕方ないがね。そういう遣り口は、ヤクザが殺し屋を差向けるのと同じようなものだ。厭だね」「あんた、卑怯よ、エゴイストよ」「なにが卑怯なのか、おれには分らないね」

この会話の変形も「赤い歳月」にある(A子、B子の説明は不要だろう)。
「あたし、分ってるんだわ」「なにが・・・」「どうやったらA子さんが別れてくれるか、ということ」「またか、こうやって暮しているんだから、もうこれでいいじゃないか」「すぐ、ムキになる」「そういうわけでもないが、あまり執つこいから厭になる。弁護士にまで依頼して、それでも駄目なのだから、仕方がないだろう」
この後、こう書かれる。
「弁護士に頼んでくれ、とB子が言い出してから二年くらいの間、私はそのことを拒否しつづけた。結果が分っていることを試みても無駄だ、というのが私の意見であった。
夫が別の女と恋愛して、家を出てしまう。別居という形となり、離婚してくれと、妻に頼む。妻にはその意思がない。いや、A子の場合、別れないことを自分の一生の仕事と考えている気配がある。

『答えのはっきりしている算術を、わざわざ最初から計算してみるのは厭だね』と私が言うと、B子の小鼻がむうっと膨らむ。不機嫌になった証拠で、一呼吸置いて反撃がはじまる。そのエネルギーは強烈で、その量が膨大なため、単純な内容の言い争いでも長い時間がかかる」
「離婚したいという気持をはっきりさせるために、弁護士を頼んでよ」「誰にたいして、はっきりさせるんだ」「A子さんによ」「そんなことは前から分っている。分っているから、一層意地になっているのじゃないか」「それじゃ、あたしにはっきりさせるために、そうして頂戴」「きみにはっきりさせるって、一緒に暮しているのがその証拠じゃないか」「家庭裁判所へ訴えて頂戴」「厭だね」「なぜ」「きみが負けるぞ」「負けないわ。あたしたちのほうにも、いっぱい言い分はあるもの」「ともかく、厭だ」「なぜよ」「なぜ、なぜなんて聞くんだ」「なぜなのよ」「なぜ、そのくらいのことが分らないんだ。学識経験者というおばさまがたの前で、小説書きのおれが、家庭の事情を縷々(るる)申し述べるわけなのかい」

続いて激昂したB子が、ここでもテレビを消す場面があって、このように書き継がれている。
「二年経って、私が負け、弁護士に依頼することになった。一つには、A子のための安全弁の役目をしてもらおうという気持もあった。A子が自分の正義を主張する、その聞き役の役目である。
『いいか、飛道具は使ってもらわないぜ』
と、私はB子に念を押した。
飛道具とは、生活費の送付を打切る、などという特殊な手段を指している。私はA子に送る金と同額の金をB子に渡していた。その金を合せると、それは私に苦痛を与える額になった。不得手な種類の原稿も、書かなくてはならない。
その苦痛が何年も続いている。自分を自分で罰しているのだ、という心持も混っていた。死ぬまで続くのだ。とおもう一方、もうそろそろ許されてもいいのではないかとおもう気持も働く。弁護士に依頼するとき、僥倖(ぎょうこう)を願う気持が一瞬顔を出した。しかし、結果は予測したとおりだった」
裁判で負けたことがわかる(たぶん、本当のことだろう)。

「湿った空乾いた空」には、M・Mの印象が次のように書かれている。
「Mと知り合ったとき、子供のころ曲馬団に売られたような女だ、という感じを持った。鉄の塊のような神経と肉体をもっている女だと、思いこんでしまって、そこにいじらしい気分と別世界の人間を観察する好奇心とが混り合っていた。当時のMはスタアの位置にいて、新聞の芸能欄に好意的に迎えられていたが、異様な噂も幾つか耳に入ってきた。
そういうことがあっても不思議ではない、と私は考えていた。Mの化粧は異常に濃い。たとえ五十女と分ったとしても、困るけれども、驚きはしないだろう、とおもっていた。正確には二十九歳だったのだ。
その印象は間もなく変り、数年のあいだには大きく修正された。私に近い神経の動き方をする部分もある。予想外のことだった。
しかし、まったく違う部分も勿論たくさんあった」

フランスとスイスの国境付近を、二人で車で走りながらMが鼻歌を歌い出す。
「この鼻歌が、上手とはいえない。本職の歌手のものとは、信じ難い。六年前、Mの舞台をはじめて見たとき、歌いはじめたMの小さい軀がみるみる大きく膨れ上って、舞台いっぱいになってゆく感じを受けた。この体験がなかったら、Mとの関係は深くならなかった筈である」
つまりは、惚れたということを言いたいのであろう。その惚れた女と二人きりの外国旅行に出かけながら、しかし「私」は、またしても癇癪を爆発させねばならないのである。
「若いころ有名になった人間には、共通の欠陥があるような気がする。自分を中心にして、世の中が動いているという感じ方を持ってしまうのではないか。頭脳明晰で、神経のこまかい人間でも、そうなってしまう傾向が強い。この場合のMは、〈この自分が、これだけのことをしてあげたのだから、感謝するのが当然だ〉という考え方になっている。下痢の最中に、すぐ傍にいる人間に、そういう面をみせられると、余裕のある気分にはなれない。
『きみは、だな、幡随院長兵衛(註・江戸時代の侠客)みたいな男か、シスター・ボーイ(註・女のような男)のようなやつと暮せばいいんだ』」

上はパリのホテルでの出来事なのだが、フォアグラを食べ過ぎてひどい下痢になり寝込んだ吉行に、Mがお粥をこしらえ介抱したまではよかったのだが、そのMの言動に鼻に着く何かがあって吉行の勘気にさわったのである。
もしかしたらここの部分を書いたとき、想像をたくましくすれば吉行の頭の中には、三島由紀夫のこともあったのではないだろうか。三島はこの「湿った空乾いた空」執筆の前年に自決しているし、このことは前にも述べたが実際に吉行は、三島由紀夫を実名入りで「スーパースター」(昭和49年)そのものに見立てた短篇作品を書いているくらいだから。それに、同年代の文学上のライバルとして、互いに意識しあっていたフシも見受けられることであるし。
次の部分なんかにも、大蔵官僚から華々しく文壇に登場して、瞬く間に寵児(ちょうじ)となっていた三島との対比を連想させるのである。

「Mとはじめて会ったとき、彼女はいわゆる〈大スタア〉であった。〈スタア〉と〈大スタア〉はとは、違うのである。Mの場合は幾年かの間にかなり〈兵隊の位〉が下った。それは私のせいだとMは信じている。確かにそれも影響があるだろう。
しかし、一たんブームになったら、ある意味でおしまいである。風船が膨み切ると、あとは破裂するか、凋(しぼ)んでゆくしかない。当時、私は芥川賞を受賞していたが、Mが将官とすれば任官したばかりの少尉といったところである。収入も格段の違いである。
Mに私は頭から食べられてしまって、たちまち小説が書けなくなる、と周囲のものは考えたようだ。〈ヒモ〉のようになってしまうだろう、と見ている眼もはっきり分った。〈ヒモ〉になってしまい、Mの稼ぎをどんどん使って、勝手に好きなものだけ書くという居直り方が私にはできない。性分である。別居した妻子への仕送りなどのために、不本意な仕事もずいぶんした。

こういう場合、男と女とは、たしかに食うか食われるかの関係になる。私は頭から食われたが、Mの咽喉(のど)に小骨として刺さった。
魚を食べて小骨が刺さりいつまでも取れない人間は、そのことで苦しみ、不平を言う。しかし、仮に小骨にも神経があると考えてみると、そういう状況に置かれた骨は、これも辛いのである。暗い管の途中に軀が半分突き刺さって、中途半端にぶら下っている。管の上の方からは、罵り(ののし)り喚(わめ)く声が絶え間なく聞えてくる。
会いはじめたときには、Mは舞台の上でのように振舞っていた。しかし、時日が経つと、私は家の中にいる側の人間になってきた。そういう人間は、奉仕するのが当然だ、という気持をMはもっている。こういうところがスタアの片輪のところである。

角力(すもう)に二枚腰というのがあって、寄り切られそうで最後には打棄(うっちゃ)り勝をする。私にも二枚腰のところがあって、よく粘った。しかし、Mの発言には理不尽なところが多すぎる。
具体的な例の挙げ方によっては、興醒(ざ)めてしまう。〈なんでそんな女と、いつまでも暮しているのか〉と言う声が聞えてきそうだ。もしも、いつまでも私がMの咽喉に刺さっている小骨であったなら、別れ易かっただろう。しかし、幾年かの間に立場が逆になって、Mが私の咽喉の小骨になった。
そうなっては、男として見捨てるわけにはいかない。それに、Mは困った女だが、憎めないところがある。別居中の妻については、男は弁解せず、である」
このくだりを、目を三角にして読んでいたB子の目も次第に丸くなり、ついには涙のしずくを浮かべ「淳ちゃん、愛してる」なんて、つぶやいたかもしれないけど、A子の方は、ふん、偉そうに、何を気取っているのよ、この女たらしめが、という憤りがメラメラと沸いてきて、その両眼には新たな瞋恚(しんい)の炎が燃え盛っていたにちがいない、キット。

やっぱり惚れたB子には甘くなる傾向がありそうだけど、こんなことも。
「(具体的には書かれてないが、Mは)人間として許せないとおもう論旨を展開することがある。それを私は真正面から受け止めてしまい、女のヒステリーと見做してあしらうことができない。このごろでは、二十分もあれば謝らせることができるようになったが、以前はむうっとMの小鼻が膨んで喋りはじめると、最低三時間はかかり、言い負かされているのは私のほうである。しかし、許せない。幾回か、殴り飛ばした。女に暴力を使ったのは、Mにたいしてだけである」
三時間が二十分とは、すごい進歩だ。さすがは、ヨシユキ先生。制裁の拳だって、魔法で手もなく愛のオシオキに変えたにちがいない。
二人の立場が逆転したとあるのは、「湿った空乾いた空」の執筆が昭和46年、「ねむの木学園」開園がその三年前であったことを考慮に入れる必要がある(吉行が創立に協力的だったことも述べておいた)。「喉に刺さった小骨」などと巧みな比喩を用いて、見方によっては滔々(とうとう)と自慢話をしているかのようなヨシユキ先生であるが、何も人気が下り坂になった事情ばかりでなく、以下のように書かれていることこそ、宮城まり子が「ねむの木学園」創設に踏み切った潜在的動機になっていたのではあるまいか。

やはりフランス、スイス国境付近をドライブ中(Mの鼻歌の後である)、二人は田舎のレストランで夕食をとる。小学初年級くらいの男の子が、お手伝いで料理を運んでくる。食事を済ませ車に戻って、また走り出してから、「いまの男の子、可愛かったわね。よく躾(しつけ)られた感じがいいわね」「そうだね」という、会話を交わす場面がある。
この会話に次の一行が、何の説明もなく挟まれている。「警戒して、頷くだけにしている」うなずくのは、もちろん吉行である。
これは「赤い歳月」の次の箇所と符合している(以下、カッコ内は地の文)。
「ねえ、この頃U子ちゃんに会って」(とB子は、やさしい声で訊ねる。U子というのは、私の子供の名だ。警戒をつづけながら。私は返事をする)「しばらく会わないな」「しばらくって、どのくらい」「かなり長く・・・」「会いたいとおもって」「会いたいね」(いっそう警戒しながら答える)「そうでしょうね」「気にかかるわけだ。自分の子供なのだからな」「そういうふうに言うあなたって好きよ」(その言い方は、嵐の前触れかな、と私は身構えた。これまでに数え切れぬほど繰返された口喧嘩の記憶がそうさせるのだ)

(しかし、B子の態度に変化は起らない)「一緒に住みはじめてから、五年になるわね」「もう、そんなになるかな」「そうなのよ。五年。知り合ってから数えると八年」
(窓の外に眼をむけたB子が不意に声を上げる)「あら、赤トンボがいるわ」「本当か」「本当よ、ほら、あそこに」「珍しいねえ。もう何年も見たことがないような気がする」「ほら、あの垣根の上に、二匹並んで・・・」「あら、また一つ・・・、二つだわ」「赤トンボって、いつも二匹でいるのかしら」「もう八年にもなるのね」「いろんなことがあったわね」「終ったわけじゃないんだぜ」「これから、まだ沢山いろんなことがあるんだ」
途中から地の文は省略したが、小説中めずらしく穏やかな時間が流れる場面である。B子のセリフにある年数などは、事実を踏まえている(と、思われる)。

冒頭の大喧嘩も、原因ではないものの子供の話題がきっかけとなっいるのだが、子どもの話題を「私」が避けようとする理由が、次の会話の後の地の文で明かされる。
「A子さんてね・・・」「U子ちゃんのことを、こう言うんですって。この子、とってもお金持なのよ、土地もあるし、印税もみんなこの子のものなのよ、って言うんですって」「土地なんて、いま処分できない事情があるのは、きみも知っているだろう。印税は、みんな生活費のために無くなってしまっているじゃないか」「あなたが死んだときのことを言っているのよ」「A子さんて、悪い人だわ。あたしはあなたが死んだときのことなんて、けっして考えることができないわ」「それは、きみとA子とは立場が違うからね」「また、庇うのね」
(また、喧嘩がはじまる。U子のことが絡むと、一層B子は昂奮する。それは、B子が子供を産むことを、私が許さないためだ)

このことと、入籍の問題とが、B子の神経を苛立たせ、Mの神経を逆撫でし、逆上への導火線となる火薬庫だったのである。だから、田舎のレストランの少年のことをMが口にした途端に、警戒して「私」は口を閉じたのである。
しかし、赤トンボのつがいに誘発されたように、B子は唐突に「私」に告げる。
「わたし、赤ちゃんができたらしいの」(顔が歪んだな、と咄嗟に、私は感じた。そう感じたと同時に、B子の激した声が耳に飛込んできた)「なぜ、そんな顔をするの」「よかった、よかった、と喜ぶわけにもいかないからね」「でも、顔をしかめることはないでしょ」「しかめるつもりはなかったんだ」「そんなら、なぜ、U子ちゃんを産ませたの」「U子が生れた時期には、きみとのことは始まっていなかったのだからな」「A子さんが、こわいのでしょう。だから、産ませないのでしょう」「そういう時もあった。でも、今はもうその時期は過ぎてしまっているよ」「それなら、もういいじゃないの。ねえ、きっと、可愛い男の子が生れるわよ。いい子が生れるとおもうわ」「子供を産むことが、好きじゃないんだ。それに、生れてくる子供にも、気の毒なような気がする」「それじゃ、なぜU子ちゃんを産んだの」「それで、いま困っている」「困っているなんて、可愛くないの」「不憫(ふびん)で、気にかかる。運の悪い子供だとおもうから、可愛がってやりたいがね」「わたし、U子ちゃんに悪いことしているのね。この前のとき、どうして産むのをやめたか、話しましょうか」

B子の話はややこしくなるので割愛して、再びB子と「私」の会話。
「それで、U子が可哀そうになって、子供を産むのをやめた、というのか」「それならば、その気持をずっと持ち続ければいいじゃないか」「でも・・・」「それが、今度は産みたい、というのは、話の筋道が通らないな」「だって・・・」「いまの話を聞いていると、そのときの自分の気分に溺(おぼ)れたということだな。そのときどきの気分で、考えがどんどん変るというのはよくないな」「そんなこと言ったって」「だいたい、なにもかにも、というのがよくない」「なにもかにも、といったって、なんにもありはしないじゃないの。結婚だって、できないし」「一緒に暮していれば、結婚しているのと同じだよ」「でも、籍がないもの」「籍なんか、どうだっていいじゃないか」「でも・・・」「でも、はよさないか」「だって、籍がなければ、世間が認めてくれないもの」「そんな考えのままで、子供が産めるとおもうのか」(B子は拗ねたように唇を尖らせている。そういうB子が孤独な女の子のように、ふと見えた。理詰めでばかり、会話をすすめても仕方がないか、と私はおもい、沈黙した)

「湿った空乾いた空」に「Mの答には、かならず、〈でも〉が付く」とあるけど、これら「赤い歳月」の会話部分は秀逸である(吉行作品全体にいえることでもあろうが)。
つがいの赤トンボから一転して、今度は二人の家に迷い込んできた野良猫が飼い犬と仲良くなる場面に叙述は移る。その様子を気にかけていたB子が、ある日「私」に呼びかける。
「今度は、犬と猫と同じ箱に入っているわ。ちょっと来てみない」「もう、見なくても、分るよ」「大きいほうの箱の中でね、横になっている犬のおなかのところに、小さくまるくなっているの。首だけ持上げて、こっちを向いて、にゃあと言ったわ」「鳴くようになったんだな」「そうなの、ねえ、わたし、赤ん坊を産んでもよかったのね」「いいと言った覚えはないが」「でもいいのでしょう」「生れてきた子供を、生れてきやがって、と憎むようなことはないな」「しかし、きみに覚悟ができなくては駄目だ」「覚悟はできたわ」「本当かな。きみと僕だけの問題にしたって、籍がないからなどと言っているようではね」「認知してくれなくてもいいわ。わたしだけの赤ん坊でいいの」
赤トンボに続くこの場面もうまい。あたかも、このじゃれ合う犬と猫は、B子が求め描くB子と「私」、もしくはB子と未来の赤ん坊との心象風景のようではないか。

この直後に書かれる「私」の「覚悟」は、どう決まったのだろう?
「私は黙っていたが、覚悟がきまってくるのを感じた。子供というものは、このようにいつも女のために生れてくるのだろう。すくなくとも、私においては・・・。私はもちろん上機嫌ではなかったが、不機嫌でもなかった。
追い詰められた気持で、医院を探し歩いたのは、五年前のことだった(註・「闇のなかの祝祭」の妊娠を指す)。そういう気持と現在の気持との差に、沢山の日々の積み重なりを、私は感じている」
B子は、もう興奮しないで、おだやかに「私」に言う。「ねえ、撫でてみない」「なにを」「猫の胸のところよ」「そうか、撫でてみるか」「どんな感じ・・・」「鳥の蒸焼きに触っているようだ」
「その言葉を、私は歪んだ気持で言ったわけではない。B子の機嫌の良さも、崩れない」と書かれて、小説は閉じられる。
(註・いうまでもなく、「闇のなかの祝祭」に書かれた奈々子の妊娠を指している。)

この時、「私」が撫でたのは猫の胸であって、B子の腹ではない、ともとれるし、また猫の胸はB子の腹とも見なせないでもない。どちらとも解釈できる玉虫色の終り方である。それにしても、その感触が「鳥の蒸焼き」とは言い得て妙であるものの、どのような意味を付与したのか。それよりも何よりも、この二度の妊娠は現実の出来事であったのだろうか。
はっきりしているのは、吉行と宮城まり子のあいだに子供はいないということと、こののち宮城まり子が子供のための障害者支援施設「ねむの木学園」を創設、運営に尽力したという事実だけである。

「赤い歳月」のラストとはとは対照的に「湿った空乾いた空」の二人は、又しても大喧嘩で旅行を終えることになる。
帰国を翌日に控えての(控えていたからこそ、であったのかも)、突然の言い争いが明け方までつづいた、とある。まだこの頃は、さすがの「ヨシユキ先生」も手こずっていたのである(二十分で解決できるようになったのは、立場が逆転してからのことだったのでは)。
「こうやって一緒に外国旅行ができる立場になったんだからもういいじゃないか、というのが私の考え方である。Mには、ここまでになったんだから、もっと・・・、という反対の気分がある。喧嘩の内容は、籍についてのことだったような朧(おぼろ)げな記憶がある」

「籍というのは、わが国では不思議な仕組みになっている。同棲している男女がいて、男の留守中に女が区役所へ行って三文判を押せば、委任状など不要で籍が入ってしまう(註)。その簡単さに比べて、籍を抜く場合は難事業になる。
その籍をMは欲しがる。Mの考え方が、私には不愉快で、たしなめると逆襲される。言い返しているうちに、論旨が曖昧になり、振り出しに戻してまた言い争いをはじめる。
女性に経済力と社会的地位があれば、これまでの男女関係とは違ったものが出てくる、という意見をしばしば聞くが、私は信じない。
Mも疲労気味になったところを見計らって、私はベッドに潜り込み、口の中で〈ああ、厭だなあ〉と呟いて眠ってしまった」
(註・この叙述には、妻文枝に関する苦い記憶が吉行にあったようだ。このことは章を代えて述べる。)

この後のくだりにも、ずいぶんと驚かされた。
「眼が覚めてみると、Mはソファに両脚をあげて座り、本を読んでいた。やさしい表情を向けてきて、
『約束どおり、あたしは明日出発するわ』
鯵(あじ)の干(ひ)ものの弁当を持って千葉県へ出かける馬鹿はない、というジョークがある。日本を出発するとき、私はその話をMにして、パリに一人で一週間残る、と言っておいた。
『娼婦の小説をいろいろ書いているのに、パリにきてそのまま帰ってはいけないわ』『うん』『そのためにとおもって、千フラン残しておいたから、あげるわ』
外貨が制限されているので、〈あげる〉という言葉が出てきたわけだが、不愉快である。しかし、言い争いにはもう飽きた」
そして「私」は、Mが見境もなく買いあさった大きな荷物を両手にさげて、しぶしぶ(とは書いてないが、そういう気分で)空港までMを見送りに行くのである。「ゲートのところでMは振返り、笑顔を見せて消えて行った」

独り身となった「私」は、さっそくパリの娼婦街へと繰り出すや、次々と街娼たちに声をかけ「百フラン(七千円)」で遊べる相手を物色するのである。わざわざ当時のフランと円の為替金額をカッコ内に明示しているのは、もちろん吉行である(読者にわかりやすくするためであったろう)。街娼たちが容易に応じないところをみると、千フランが決して満足できる額ではなかったことがわかる。
それはいいとしても、問題はその日の朝の吉行の態度である。「あげる」というMの言葉を、「私」は外貨制限のせいにして不愉快がっているけれども、果して原因はそれだけであったのだろうか。元々、この旅行はマスコミを避けるため別々に出発していたのだから、帰りも当然そうなる。
(以下はほとんど妄想なので、そのつもりで読んでください)
「鯵の弁当」の例えから、吉行が旅行に応じた目的の一つが、このタイムラグを利用してのパリ娼婦街の探索にあったのは明白である(もう一つは、ラスベガス、モナコでのカジノ賭博である)。だからこそ「私」は、やっと重い腰を上げたのである。内心不服ながらもそれを承認せざるを得なかったMは、出発前の約束通りに外貨制限の中から(買いたい物も我慢して?)工面しておいた千フランをぶっきらぼうに突き出した。

そのふてくされた態度と物言いに、またまた「私」のプライドが傷つけられて、「不愉快」だと憮然となったのである。Mにチラつく「スタア」意識をたびたび疎ましがっていることからも、まだこの旅行の段階では「喉に刺さった小骨」の関係が逆転していたわけではなかったはずである(「スタア」のMを気遣って、別々に出発したほどなのだから)。
ましてや、夜通しの大喧嘩の後である。Mにしても興奮の熱(ほとぼ)りが残ったままであったろうし、大喧嘩の原因にしても籍の問題だけでなく、この居残りそのものが(問題提起されて)蒸し返されていた可能性だって大いに考えられるのでは。
この場面での「あげるわ」という言葉の裏側には、いよいよ「鯵の弁当」になってしまったMの切羽詰まった複雑な感情、手渡す金の性質を考えれば屈辱の響きが多分にこもっていたはずである。
「娼婦の小説をいろいろ書いているのに、パリにきてそのまま帰ってはいけないわ」と、もしMが本当にそう言ったとしたら見上げた根性であるが、しかし、こういう局面はこれまでに何度もA子が体験してきたことでもあったのだ。少なくともこの時、MはA子のなめた苦汁を味合わされたのである。

見上げた根性と言ったけれども、今時この場面を読めば、M(あるいはかつてのA子)の献身的な心がけに驚かされるのではあるまいか。この時の「私」が、それを当然の配慮としてMの心情に微塵も思いやろうとせず、「不愉快だ」なんて呟くのにはもっと驚かされるかもしれない。
まあ、そういう世代であり時代であったのだろう(と、いうしかないのだけれども)。
かといって、繊細で鋭敏な神経の持主である「私」が、その心情にまったく気づいていなかったはずがない。充分に察知していたのを、省略した。それに触れると、自分の心情をも微細に説明しなければならなくなり、文章が込み入ってくる。それを避けるために、スッキリと「外貨制限」ひと言で済ませたのではないだろうか。
もっとも、吉行自身も気が差すところがあったのか、どうか。この後の展開で、娼婦街に入りびたっていた「私」は、原因不明の強烈なめまいに突然何度も襲われ、パリの街路をのたうちまわるところで「湿った空乾いた空」を閉じているのである。まるで、天罰に自らをさらすかのように。

千フランが気になったのでついでに調べてみたところ、「湿った空乾いた空」の旅行があった昭和39年ごろから、富裕層の海外旅行がだんだんと盛んになっていったようで(なんといっても東京オリンピックの年だから)、その年の外貨制限の額は500ドルとある。当時の為替レートは、1ドル=360円に固定されていたから500ドルは18万円で、それが持ち出し可能金額だったわけだ。二人合わせて36万円。そのうちの千フラン、約7万円を、Mが「私」に「あげる」と差し出したことになる。五分の一ほどである。
Mの愛情の分量は、少なかったのか、多かったのか?現在の為替変動相場になったのは、昭和46(1971)年からのようだ(だとすると、三島由紀夫自決の一年後ということに。へえェ、そうだったかなァ)。

こうしてみてくると、とどのつまりは「私」が惚れている以上に、Mの方が惚れているということにならないか。「私」つまり吉行淳之介の女関係のほとんどすべてが、この構図を示しているように思われる。と、こういうふうに結論づけるのは、モテない男の知らず識らずの僻(ひが)み、やっかみなのだろう。
僻み高じて、せっかくの名作旅行記につまらぬケチをつけたかもしれない。


(以下、「闇のなかの祝祭」と「暗室」(6)につづく。)










自由人の系譜 吉行淳之介「闇のなかの祝祭」と「暗室」(4)

大正13年生れの吉行淳之介の世代は戦時中に青春を迎えた世代である。したがって吉行も、昭和19年8月に岡山の聯隊に召集されたが、たまたま入営三日目に気管支喘息を発症して即刻除隊となった(これ以降、喘息は持病と化した。註)。この入隊体験から終戦までの一年間を短篇連作で描いた自伝小説が、昭和31年に刊行された「焰の中」である。
「焰」は、ほのおと読む。炎と同義語で、昭和20年晩春の東京大空襲によって火炎地獄となる様や、「焰を吹いて燃え」る夕日や、あるいは主人公「僕」の性欲の炎(ほむら)の象徴となっている。
この小説を取り上げたのは、吉行の妻となる平文枝であろうと思われる娘が出て来るからである。いや、娘は文枝であると断定してもいいだろう。
少しでも吉行淳之介についての知識があれば、小説の語り手「僕」が吉行本人だとすぐ判るし、吉行文枝の「淳之介の背中」と「焰の中」における、次の出会いの場面を並べれば誰しも納得するであろうから。
(註・除隊が「一万人に一人」の幸運だったと、「焰の中」に書かれている。)

「淳之介の背中」の記述。
「あれは、昭和十八年ごろだったと思います。市ヶ谷に住む女学校時代の友人の家を訪ねて行ったときのこと。堀の向う側の坂の途中にある家の玄関を開けると、逆光で黒いシルエットが見えました。私がとまどっておりますと、出迎えた友人が、『友達の吉行さん』と、そのシルエットの主を紹介してくれました。主人とのはじめての出会いです。
市ヶ谷に住んでいた彼は、その友人とは幼なじみだったのです。
持参した甘栗を食べながら、三人で雑談をしていました。ふと見ると、彼の細い指が別の生き物のように動いていて、私はそれを不思議な気持ちでじっと見つめていたことを覚えています。
友人との用も済み、私が帰ろうとすると、彼が一緒に帰ると言うので、市ヶ谷駅まで黙って歩きました。駅まで来たとき、彼が、
『ちょっと寄らないか』
と言いましたが、
『そのうちにね、さようなら』そう言って別れました。
もう会うこともないだろうと思っておりましたが、それから偶然に駅や電車で会うことが幾度となく続き、おつき合いをするようになりました。
つき合うといっても、会うときはいつも誰かしらお友達と一緒でした。(以下、略)」

宮城まり子がそうであったように、文枝も「偶然に駅や電車で」再会したというのは、我こそ運命的な出会いだったと主張しているようで(どちらも実際の出来事だったのだろうが)、思わず笑いがもれるのであるが。

「焰の中」の叙述。
「その娘とは、数日前の夜、近所の僕の女友達の部屋で、偶然同席することになった。娘二人は、女学校時代からの親しい友人だそうだ。著名な学者の孫娘である僕の女友達は、母屋から独立して別に出入口のある部屋に住んでいた。その部屋で、訪れてきた娘は、初対面の僕にたいする遠慮をみせずに、自分の恋愛についての相談を友人にはじめた。いや、僕にたいする遠慮を押しつぶすほどの昂奮に、その娘は捉われているように見えた。二人の娘のあいだでは、その話題は以前からしばしば話し合われてきたものらしく、断片的な言葉のやりとりで意味が通じ合っていた。僕がその断片をつづりあわせてみると、その娘は妻子のある男と恋愛しており、、そのためにいろいろ複雑な状況にまきこまれている様子だった。話の内容と、その娘の姿態とが相俟って、僕の官能がゆすぶられた。僕はその娘のことを、外国の世紀末小説に出てくる〈頽廃的なスゴイ娘〉として心の中に描いてみた」

大変なことが書かれているが、出会いの状況はピタリと一致している。この回想記と自伝小説で食い違うのは、出会いの時期である。
文枝との出会いを、「焰の中」では昭和20年の晩春としているのだが、これは小説の構成上から時期をずらした可能性が高く、文枝の記憶の方が信用できそうだ。そのとき女学生であった文枝が、大学生と高校生の区別を間違えるはずがないと思えるからである。なぜなら、昭和18年に吉行は静岡高校生で、東大生となったのが昭和20年なのだから。また「僕」の年齢も、小説では一つ下の二十歳になっている。文枝については「僕と同じ年ごろの娘」とあるだけで、あいまいにされている。
文枝が友人を訪ねた要件が、果して「焰の中」に書かれたような事情にあったのかは、これも興味をそそられるところだが知るべくもない。

「退廃的なスゴイ娘」に象徴されるように、「僕」の軍隊入隊の場面から始まっているこの小説には、全篇に異様な雰囲気がただよっている。それは主に「僕」が、まだ「童貞という濡れたシャツを脱ぐこと」が出来ていないことに起因しているようだ。そのことが常に頭にへばりついている「僕」は、その方面の知識だけは豊富に持っている。それはしかし、すべて書物から得たものでしかないので、あとは(も、へったくれもないのだけれど)初体験の機会が来るのを待ち構えているわけである。
変形された「若きウエルテルの悩み」である。もし、「童貞小説」というジャンルがあれば、間違いなくこの小説は、その筆頭候補に入るであろう(が、それは皮相な見方であって、「戦争の間は、死ぬことにばかり考えさせられてきた僕」の心の空虚さ、無力感が、この小説を貫く主題なのだろう)。
とはいえ、女の好みに気難しいところのある「僕」は、「なかなかの美人といわれていた」「僕の女友達」とは、離れの部屋で「二人きりになる機会もしばしばあったが、友人以外の気持には少しも」なれなかったとあり、入隊前に登楼(とうろう)した娼家では知識と現実とのはざまで、ついに目的を遂げずに終っていたのである。
そんな「僕」の目の前に現れたのが、妻子ある男と恋愛中の「頽廃的なスゴイ娘」だったから、「僕」の心はさぞかしときめいたことだろう(だから、自宅へ誘ってみた?)。

敵機来襲の警戒警報が鳴り響く中、たまたま(?)通りすがりに避難してきた「娘」を自分の部屋に招じ入れた「僕」は、「自分に着せられたシャツのうちのもっとも湿ったやつを押脱ぐ機会」の到来とばかりに、「娘」を畳の上に押し倒そうとしたものの、「娘の軀」の「なまなましい」重さで思わずよろめき尻もちをついたところで女中に覗かれているのに気づいて、どさくさ紛れの強姦(?)は未遂に終るのである。
しかし、この時の「娘」の訪問は、女友達の部屋で会って以来とあるから二度目の対面であるのに、やすやすと布団敷きの男の部屋へと(慌てて布団は始末したとはあるが)、入って来るのだから「スゴイ娘」にはちがいない。
余計な補足をしておくと、「娘」を部屋へ連れ込んだとき、家の者はすでに防空壕へ避難していると、「僕」は思っていたのだろう(妹たちはすでに疎開しており、母親と年若い女中の三人暮らしだった)。
先に、この小説には異様な雰囲気があると述べたけれども、警報解除で「娘」が帰った後の「僕」と母親の会話も、かなりの異様さなのである。次のような会話が交わされる(なお「僕」と「娘」に、固有名詞は付与されていない)。

棚からぼたもちの絶好の機会を逃して、「整理のつかない心持で、僕が狭い部屋の畳の上をあちこち歩きまわっていると、母が入ってきた。
『檻の中の熊みたいに動きまわっているのね。知らない顔のお嬢さんだったけど、ずいぶん派手なかんじね。なんというのかしら、コケティッシュというのかな』『そうおもいますか、学者のお嬢さんの友達で、こんど、ひとつモノにしてやろうと思ってるところですよ』
僕は母の年若いときに生れた子供で、姉弟と間違えられることもしばしばだったが、しかしこの種の事柄を話題にしたことはなかった。五年以前に父が死んで、背が高くて目鼻立ちのはっきりした母は若い未亡人というものになったわけだが、艶めかしいところもあるその単語のもつ雰囲気は一向に母の身につかず、むしろ人を寄せつけぬ厳しさが感じられて、僕には気詰まりなところもあった。だから僕の口から出て行った卑俗な言葉に、僕自身、一瞬ドギマギしてしまった。しかし、先刻の滑稽な失態を自分の心のなかで抹殺するために、〈オレは大へん背徳的な情事にまきこまれかかっているのだ〉という考えで頭の中を一ぱいにしたがっている僕は、平気な表情を装って、
『ひとつ、あの女をモノにしてやるつもりなんだ』
と、わざともう一度くりかえして言ってみた」という会話である。

地の文でもっともらしい説明を加えてはいるが、こんな会話を交わす親子なんているのだろうか。この続きにも仰天する。
「母は、驚いた表情も、意外な表情も示さなかった。昭和初年に、先端的な職業といわれた美容師になり、家庭の外に出て広い範囲の人々とも交際のあった母だから、僕の言った言葉自体に驚く筈はもちろん無かった。また僕自身に関しても、そのような言葉を言っても不思議ではない年齢だと思っているせいかもしれぬ、と思った。
『困ることにならないように、まあ適当にやって頂戴。だけど、いまの若い娘さんて、何ていうか、ちょっとわたしたちに考えられないところがあるわね。わたしたちというより、わたしだけ特別かもしれないけれど』」
母は息子を咎(とが)めるどころか、あっさり容認(というよりも奨励)さえしているのである。ここに書かれる地の文も、どこかズレている(と、感じる読み手の方が異常なのであろうか?)。

その母は続けて、こう述懐する。
「お父さんがあんなに放蕩したのは、わたしのせいもあるのじゃないか、とこのごろ思うようになったのよ。いまの娘さんて、男の人に甘えるのがみんな上手ね、少しも恥ずかしがらずに甘えているでしょう。わたしにはそういうことが出来なかった。そういう一種の機能が欠けていたのかもしれないわね」
会話を交わすうちに、母が「僕の中に死んだ父の姿を、見て」いるのではないかと感じた「僕」は、先ほどの「娘」との「昂(たかぶ)りの名残り」のまま、「わたし、インポテンツかもしれないわね」という母親にむかって、書物から得た性の知識でもって「得意になって」、いつのまにか「講義風」に「性教育を施している」のである。
まさかこの通りの展開があったのでもないだろうが、ともかく吉行家は風変わりな一面があったようである(この純情で世間オンチの母親が吉行あぐりだとしたら、彼女はこの時38歳の未亡人であった)。
この母と「僕」の会話も、覗き見(覗き聞?)をしていた女中に中断されるのであるが(母の言う「若い娘さん」には、この狂言回し役の女中も頭にあったのだろう)。

「娘」が立ち寄り、母への「性教育」があったその夜、正確には昭和20年5月24日から25日の深夜にかけての大空襲で「僕」の家は焼け、東京は完全な廃墟となった。この時吉行は、書きためた詩のノートと愛好のドビュッシーのレコードだけを持出したという(註).
やがて8月15日を迎え、本郷の講堂で天皇の終戦の詔(みことのり)を聞いた「僕」は、「娘」から(この時点では呼び名が「女」に変っている。その意味は推察できよう)、アメリカ兵が来たら何をされるかわからない(と、父親も言う)ので、「僕」の家族が疎開しているK市(甲府)の奥の田舎へ一緒に連れて行って欲しいと懇願されて、「この女と僕との関係は、いったいこれから先どういうことになるのだろうか」と考えながら、村への道を囃し立てうるさく付きまとう村童たちに取り囲まれ、「焰を吹いて燃えている」かのような夕日の中を「女」と歩いていくのである。
この光景で「焰の中」は閉じられているのであるが、その前日に「女」にせがまれて仕方なく一泊した温泉旅館でも、「なぜ、こんなことになってしまったのだろう」と思いに沈む「僕」に、「女」は「一緒に旅行するの、はじめてね。こんな日(註・8月16日)に新婚旅行しているの、わたしたちくらいのものじゃないのかしら」と浮かれて、一人はしゃぐのである。
(註・この部分と直接関係ないことながら、愛人と再婚し愛娘をもうけたドビュッシーも、自殺未遂をした最初の妻に仕送りを続けていたようだ。逆パターンとはいえ、吉行との奇妙な符合である。)

ちぐはぐで複雑な「僕」の心の内は、このように説明されている。
「その女を、僕は愛しているとは思っていない。煩わしいとさえ考えている。それなのに、僕たちはほとんど毎日のように会っていた。会えば、必ず、無理矢理にでも軀を求めてしまう。僕にとって初めての女体が、未知の翳をとどめぬようになることに、僕は心せいていた。明日という時間の中で、自分が生きて動いているということを、僕は全く信用しない毎日を繰返していたので、女体にたいする僕の態度は貪欲であった。したがって、女と僕の関係は、僕の考えていた愛とは程遠いものだ。それなのに、この際、僕は女を東京に置き去りにして自分一人だけ逃げ出してしまう気持になれない。普段、空想の中では、こういう場合には、僕は眉一つ動かさずに、自分の決めたとおりに行動できる筈だったが。僕を躊躇させているのは、後ろめたい気分だ、と僕は思った。気の弱さだとおもった」

別の箇所でも「愛してもいない女」と何度も出て来るし、「女」の父親や家族からは、不愉快な仕打ちを受けたとさえ書かれている(甲府行きは、その父親の懇請でもあったのだから、敗戦によって態度が豹変したわけである)。
しかしながら、この引用箇所には「僕」の正直な気持ちがストレートに出ていると思える。「焰の中」に流れる時間は、太平洋戦争が日本本土にもたらしたもっとも過酷な一年間である。日本中が連日連夜の空襲にさらされ、廃墟となる中で「僕」が明日をも信じられなくなったのも自然であろう。しかも若い「僕」には、除隊になったとはいえ再度の召集がかかるのは確実でもあったのだから(この年春、二度目の徴兵検査を受け、またしても甲種合格となっていた)。
「女」は、そういう「僕」の刹那的快楽のためだけに必要な存在だったのである。さんざん「女」をむさぼった「僕」は、やっと生き延びれたのに「自分一人だけ逃げ出」せないのである。やはりこれは〝大義親を滅ぼす〟という心境にはなれなかった、とあったのと同じ心理作用である。本来なら、「眉一つ動かさずに」それができたはずだったのに(これが「僕」の本心なのである)。

「娘、女」に関連する叙述だけを大雑把に抽出すれば、「焰の中」は以上のような小説である。この小説が刊行された昭和31年は(宮城まり子と出会う前年である)、「闇のなかの祝祭」の五年前なので、文枝にとって惨憺たる内容の小説がすでにして書かれていたのである。
「僕」の家庭環境(美容師の母や若くして死んだ父親)からして、「焰の中」は明らかに事実に基づいた小説、つまり自伝小説とみなせるので、「娘と女」は吉行の妻文枝であると、少しでも二人を知っている人たちはそう想像して読んだであろう。しかし、文枝にとってはいい迷惑である。
家族までをも巻き込んで文枝の過去をさらけだして、「僕に必要だったのは、女の心ではなく女体だった。そして、その女の紡錘型の軀は、申し分のない白さと弾力と曲線を持っていた」、というような勝手な女体賛美でもって、それに引きずられるまま愛してもない女と心ならずも結婚するハメとなった、ともとれる小説「焰の中」。

もし、妻子ある男とのことが本当だったら、それをさらけ出されたくなかったであろうし、それが吉行の創作であったとしても、それに疑惑の視線を向けられたであろう。それが口に出せる性質のものでないだけに、不用意に訂正するわけにもいかず、自分に注がれる視線に出合うたびに、文枝の神経はとがり、すり減らされたのではあるまいか。
もしかしたら、前章で述べた芥川賞受賞作「驟雨」のモデルとなった元娼婦の女性への、文枝のヒィステリイというのは、吉行の頻繁な娼家通い等の女性遍歴と併せて、小説「焰の中」のこの叙述にも原因の一つが求められるのではあるまいか。あながち、無理な想像ではあるまい。
芥川賞受賞が昭和29年7月、結核手術を終えての清瀬病院退院が同10月、「焰の中」初出が翌30年「群像」4月号(単行本は31年12月)、年譜には退院後の30年も31年も、吉行は「病臥のまますごす」と書かれている。
事実経過は、いずれも前章の吉行の文章と一致する。

吉行は「焰の中」を、「私のひそかな自信作」と「私の文学放浪」で自賛している。けれども、この小説には一箇所だけ瑕瑾(かきん)があるのでは。
5月の大空襲で、「僕」の家が焼失したその日に「娘」の家も焼けたとあるのに、「僕」が疎開先へ連れていくために「女」の家に行くと、父親が縁側から「僕」に「女」の荷物を背負わす場面がある。縁側だけ焼け残ったとも考えられなくもないが、やはり不自然な感じがする。まさか、物資欠乏の折、三ヶ月の間に建て替えたとはとても思われないので、これは「焰の中」が短篇連作(五篇)形態で時期を違え、内容も前後して別々の雑誌に発表されたために起ったイージーミスだったのではなかったか。
そんな取るに足りないことよりも、「焰の中」から五年後、「女」に草子という名前が与えられた「闇のなかの祝祭」では、それまでの草子との過去がどのように振り返られているのか。その断片を拾ってみる。

奈々子には燦然とあった「燦(きら)めく」ものが、最初から草子にはなかった。草子にあったのは「摑みかかろう」とする「軀」だけだったと、ここでも「僕」である沼田沼一郎は、正直に反芻(はんすう)するだけである(この正直さは、美徳と称えてもいいくらいである)。
草子が神経を病んで入院した女医から、「奥様とは恋愛結婚ですか」と問われた沼田は、「恋愛ではありません。といって、見合いでもありませんが・・・」と答えに詰まる。「そうすると、同情を愛情と勘ちがいしたというようなことですか」と重ねられると、説明が困難だと判断し、「そうですね、ま、そんなところです」とやり過ごし、すぐに地の文で「それとは違う。が、そのような気持も、彼の心の一部分に在ったことは確かだ」と補足されてはいる。
しかし、明瞭に「惚れた」と答えた奈々子の場合とちがって、甚だ歯切れが悪くなる。
これが草子との言い争いになると、出会いからしての怨恨と怨嗟が飛び交う。「こんなにわたしを苦しめておいて、まだ足りないとでもいうの。あなたは人間じゃないわ。人間の皮をかぶった鬼だ。わたしの青春を滅茶滅茶にした上に、まだ・・・」と、ののしる草子に対して、「そんなこと言うのなら、おれにも、言うことがある。おれだって君のために青春を滅茶滅茶にされたとおもっている」となり、いつのまにか被害者となっている。どんな諍(いさか)いもトドのつまりは、どちらにより非があるかという問題に帰結していく。泥沼劇の始まりである。

ここで当然の疑問が湧いてくるのではなかろうか。なぜ草子は、あるいは沼田は出産を決意したのか、という疑問である。いや、はっきりとこう言い換えてもいいであろう。何故に、沼田は愛してもいない草子の出産に同意したのか、と。
「あたし赤ちゃんができたらしいの」、「あたし赤ちゃん、ほしいわ」、「ね、産んでしまいましょう。あなたに似た顔をした赤ちゃんができるとおもうと、あたし嬉しくてたまらなくなるの」とせがまれ、困惑しながら、どのように奈々子を納得させるか、もし納得させても奈々子がスタアであるからには、「適当な医院を見付けることは、困難だ」と、沼田が困惑、思案する中で、こう書き継がれているのである。
「草子にも三度掻爬(そうは)を受けさせた。二度目、三度目のときは、その処置は比較的容易だったが、最初は戦後間もなくで、掻爬を施してくれる医院を見付けるのは難かしかった。見知らぬ街を、医院を探してあてもなく一人で歩きまわったときの、暗い重苦しい気持を、思い出した。そのときは、草子も中絶することに積極的だった。しかし、三度目のときは、説得して手術を受けさせた。四度目に妊娠したときは、自殺未遂から月日があまり経っていなかった。彼は、草子の神経をなだめるため、子供をつくることを決心した。そのときには、奈々子と深い関係が生ずることは予想できなかったのだ
彼はまたしても途方に暮れた心持に襲われた」

これこそ本当のことだろうかと、唖然とした。奈々子の妊娠は、もしかしたら小説をより効果的に展開するための創作であったかもしれないけれど、草子の出産理由までが作り事とは思えない。それこそ「説得」させられる(妊娠回数は別として)。
草子が自殺未遂をしていたとは。それが妊娠前にということであれば、昭和33年年明け前後ということに。その前提となる草子の出産の時期も(再確認しておくと)、「闇のなかの祝祭」の冒頭部分にあるいくつかのキーワードを付き合わせれば、ほぼ特定できるからである。
小説が赤児の泣き声から始まっていることもすでに引用した通りであるが、この後にすぐ「週刊誌連載の仕事がはじまった」とあること、泣き声がうるさいのを口実に外出した沼田が奈々子の映画を見て帰宅した際、家の藤棚の下から沈丁花の甘い匂いが漂ってくること、その一ヶ月前に奈々子が産院に行き、出産祝いに草子にお祝いの毛布を届けたとあることなどから勘案して、長女の誕生は昭和34年早春(2月か3月)であるのが確実だからである。

なお、小説での奈々子の妊娠判明は昭和35年早春ごろで、前年11月に別離を期してアメリカに渡った宮城まり子は、この年正月にパリで弟事故死の急報に接し、悲しみが癒えるまで外国に残るようにとの吉行の提案をさえぎって帰国している。奈々子の妊娠に矛盾はないといえばないけれども、現実のことであったかどうかまでは判定できない。
しかし、草子の自殺未遂についてはどうだったのだろう。次の沼田と奈々子の会話は、草子の自殺未遂を語ったものである。
「『あの人が死ぬというのは、嚇(おど)かしよ。死ぬ筈ないわ』『しかし、分らない。前にも一度、睡眠薬を嚥(の)んだことがあったからね』『あら、それは、いつのこと。あたしと知り合ってからのことなの』『もっと前のことだ。ぼくが病気で、半年間、門の外へ一歩も出られなかったときのことさ

そのときのことを、彼は腹立たしく思い浮べた。その半年間、彼は全く外出せず、また誰にも手数をかけず、大病の後の苦痛を自分一人で処理して寝床に横たわっていた。少しでも体力ができると、寝床の上に座って原稿を書くことに没頭した。そうすることで、生計を支えなくてはならなかった。
したがって、草子が致死量の睡眠薬を嚥(の)んだとき、彼は全く不意打を受けた。嚥下した薬を嘔(は)かせ、布団を敷いて草子を横たえ、医師を呼びに行く、それらのことは彼の軀にはなはだしい苦痛を与えた。その苦痛を与えるために、わざわざ自殺を計ったのか、と考えたほどだった。
『わたしなんかいなくたって、あなたは一人で平気で生きてゆけるじゃないの』
意識を取戻してから草子の言った言葉が、その自殺未遂の原因についての、唯一の手がかりだった。
彼が話を終えると、奈々子は昂奮した口調で言った。

『本当に死ぬ気があったのかしら。あなたを自分の方に向けようとして、したことだとおもうわ。あの人は、いつも自分が見られていないと気の済まない人なのよ、虚栄心が強いのよ』『しかし、とにかく死ぬ分量の睡眠薬が、胃の中に入ったのだからな。それに、女房が亭主を自分の方に向けようとすることと、虚栄心とは別のものだ』『嚇(おど)かしよ。死ぬ気持ちなんかありはしないわ。もう、そんなにあの人のことを庇(かば)わないで頂戴』
そして、一層昂奮した、むしろ逆上気味の口調で、奈々子は言葉をつづけた。
『あたしは本当に死ねるわよ。いますぐ、あたしを選んで。あたしだって死ねるわ』」

「そんなことは、自慢にならないさ」と、答えた沼田が目を話した隙(すき)に、大量の睡眠薬をあおった奈々子に気づいて、沼田が大慌てする滑稽かつ深刻な場面を経て、やがて発覚した菜々子の妊娠という、さらなる深刻な事態を迎える運びとなるのであるが。
一体全体、草子の自殺未遂は現実の出来事だったのだろうか?小説に書かれているだけで、何の確証もないのである。もちろん、「闇のなかの祝祭」までをつづった文枝の「淳之介の背中」にも記載はない。
頼みの綱の「私の文学放浪」にも、「受賞の年後半は、短文を二、三発表しただけである。健康状態はきわめて悪く、家の門から外へ出たことは数えるほどしかなかった。翌三十年も依然として病臥していたが、この年はほとんど毎月、文芸雑誌に短篇を書いた」とあるのみで、年譜の記述とさして変わりがない。「大病の後」の自殺未遂ならば、例のヒステリィが高じてのという筋書きも成り立ちそうだが、そうなると文枝の妊娠出産と時期が合わない。

万事休す。草子の自殺未遂は全くの作り事か、もしくは文枝がヒステリィを引起していたことを拡大敷衍(ふえん)して、草子の出産の正当性を強調するための説得材料に使ったのだろうか。
しかし引用部分をよく読んでみると、重大なことを見落としているではないか。
出産は34年早春、これは動かせない事実。四度目の懐妊はその十月十日前であろうから、33年初夏の頃か。この二つの事実と、次の叙述「大病のあと半年間の療養中に自殺未遂」とにあまりに時間差があり過ぎることから起きた混乱であったのだ。「大病のあと半年間」とあれば、どうしても結核手術を終えてから退院した29年秋から30年だと想定してしまうから。
ところが、未遂事件は沼田が奈々子と会う前だと引用下線箇所に、二度も強調しているではないか(出会いは32年11月)。
「四度目に妊娠したときは、自殺未遂から月日があまり経っていなかった。彼は、草子の神経をなだめるため、子供をつくることを決心した。そのときには、奈々子と深い関係が生ずることは予想できなかったのだ」この「あまり経っていなかった」に惑わされていたのだ。この「あまり」は、どうとでも取れる曖昧な言葉であることに気づくべきだったのである。

もしも草子の自殺未遂は事実だったとすれば、それはひょっとすると草子が、芥川賞受賞作「驟雨」にまつわる例の元娼婦へのヒステリィ症状を呈した時期と符合していたのではないか。その時期は「焰の中」が発表された昭和30年春頃である。もしくは、30年と同じように体調不良がつづいた31年だったかも(あるいは、32年だったっていっこうに構わない)。
この未遂事件を四度目の妊娠にひっかけて、「あまり」という言葉で漠然と表現した。現実ではかなりの時間の落差があっても、小説構成上は何の不自然さも不都合もないのだから。草子の自殺未遂は現実であった可能性が非常に高い。ただし、小説ではそれを出産の理由としているけれども、四回目の妊娠は奈々子との仲が深入りする前であったのだから、草子の体のことをおもんばかって沼田はやむなく同意したのではないだろうか(四回目の妊娠は本当のことだろう。わざわざ嘘を吐く必然性はないのであるから)。
これはその傍証になるのかどうか、昭和34年に発表された幻想的な短編「青い花」は、主人公の妻の睡眠薬自殺から始まっている。この時の主人公がとった行動は、奈々子がやはり睡眠薬自殺を図った時と酷似している(自殺現場から男は逃亡を図るのである)。

「私の文学放浪」には、こんなことも書かれている。
「薔薇販売人」(昭和25年)を書いた頃の「私は、精神の緊張がおのずから起るのを待っていたのだが、これがなかなか起らない。ただ、女性との入り組んだ関係ができると、昂揚が起る場合が多かった。その女性との関係を書くわけではない。関係が刺戟となって精神の緊張が起り、なにか書いてみる気持になるわけだ。この形はかなり後年までつづいた(略)」と。
「闇のなかの祝祭」にも、沼田のその頃のことだと思われる十年前の職場不倫話が挿入されている。女性との交渉は、吉行にとって欠かせない創作源だったのである。吉行の関心が赤線地帯の娼婦に向かったのも、必然の成り行きだったと言えよう。
吉行には、生活の資である小説を書くためという大義名分があったとしても、妻の文枝にとって夫の女性への耽溺は、いくら気丈に振舞ったとしてもその度に不安にかられ、神経を逆撫でされる禍事であったはずである。「淳之介の背中」には、病臥する文枝の布団を踏みつけ、女が夫の部屋に出入りしていたと書かれているくらいである。ヒステリーになるのも、自殺未遂を引き起こすのも無理からぬことであったろう。


ここで、「焰の中」及び「闇のなかの祝祭」から、別の小説の場面に話を転換する。
「内ポケットから取出した老眼鏡をかけて、ウェイターに手渡されたメニューを開くと、三輪はテーブルの向うに座っている景子に声をかけた。
『メニューというのはな、夕刊を読むように読んでいいんだよ』
その景子にも、当然メニューは渡されてある。景子は三輪より三十五歳ほど年下の少女である・・・。そういう持ってまわった言い方よりも、〈三輪と景子は父娘である〉と書いたほうがいいかもしれない。景子が三輪の実の娘であることは間違いのないところだが、ストレートな言い方では零(こぼ)れ落ちてしまう事柄が多い」
短篇「菓子祭り」(昭和54年)の冒頭文章である。この景子が、草子の産んだ赤児の十五年後の姿である。娘は差し向かいで父親と、銀座のフランス料理のレストランで食事をしている。

景子は鴨料理を、父親は舌びらめのムニエルを選び、スープはコンソメにしようと景子に確認する。と、景子は父親の提案をしりぞけて、「いいえ、コーンのクリームスープ」とはっきり答えたとあり、次に説明文がつづく。
「三輪は苦笑して、頷いた。そういう態度は、三年前に三輪が景子に教えたものである。事情があって、三輪は自分の娘の幼年のころも小学生時代も知らない。中学に通うようになったとき、一ヵ月に一度だけ、会って夕食を一緒にするきまりをつくる段取りをつけた。
そういう時間に、自分流儀の教育をしてみようと三輪はおもい、手おくれかな、ともおもった。十年ぶりで十二歳の娘に会ったとき、三輪はいきなりこう言った。
『一番ソンをしたのは、おまえだ。その点、気の毒におもっている。しかし、こういうことは、世間にいくらでもあることだから、肩身を狭くする必要はないぞ。それに、おまえがおれの娘なのは、変りはないことだ』

そのとき、ついでに言った。
『自分の意見は、はっきり言わなくてはいけないぞ。AかBか、とたずねられたとき、どちらでも、と答えるのはよくない』
三年後のいま、景子は確かにはっきり意見を述べた。
『スープはコンソメでいいだろ』『いいえ、コーンのクリームスープ』
その主張の仕方は、いささか強すぎはしないだろうか。景子の内心は掴みにくい。なついているようでもあり反撥を隠しているようでもある」
食事をしながら小説家の父親らしく、「いま、どんな本を読んでいる」のか、と問えば、「大菩薩峠」(註・中里介山の大長篇時代小説)と答える娘を、「それは頑張ったもんだ」とうなずきつつも、この父親は再び同じ感想を洩らすのである。「景子の内心は、探り兼ねる。おそらく、景子にはひどく大人の部分と、年齢よりも稚ない部分とが共存しているのだろうか」

この会食から七年後、景子は宮城まり子の著書「淳之介さんのこと」に現れる。
「ある日、玄関のベルが鳴って、出てみると、淳之介さんのお嬢さんであった。うれしいやら、びっくりするやら、『淳ちゃーん』と大声で呼びながら、彼女が思いつめたように、『家出して来ちゃった』と言ったのをきき、息がとまった」
「だまってきたのか?」「大丈夫なのか」「とつぜん、出てきては、いけない。話し合ったのか?」
「話し合ったけど駄目」
「心配するのじゃないか」
「しらない」
「いけない、約束がある。まりちゃん、君、あと、たのむよ。いいかい、変なことしちゃいけないよ、いいかい、きみ、たのむよ」
動揺を隠しきれないで娘に事情を聞いていた吉行には、その日に大事な会合があり、約束の時間が迫っていたのを思い出したのである。

「私は、それから、彼の帰るまで、なにをどうしたか、よくおぼえていない。私が淳之介さんを好きになったこと。二人とも好きになったこと。彼女はもうおなかにいたこと。いつもどんなに心配して暮らしていたかということ。あなたのお父様は、どんなに素敵で立派であなたを愛しているかということ。私のこと、どんなににくんでもいい、お父様を理解してほしいこと。いっしょうけんめい言った。彼女がどっかへ行っちゃったらどうしようと思いながら」
「私は、赤ん坊の時以来会っていないけれど、毎日毎日私の心の中で、大きくなって行く彼女がいた。毎月、淳之介さんと一度、必ず逢って食事をしていたが、今日は、こうだったと話をしてくれた。
彼女の目に、お父さんと私が並んでどう映っているのか?私一人がこがれていた。逢いたくても、逢えなかった二十二年」

つづけて、このようなことが書かれている。
「彼女の描いた女の子の絵を『どう思う』ときく淳。下地のある字をなぞった幼い字。〈パパ、わるいことをするとろうやにいれます〉岡山のおばさんのお宅で複雑な思いで見たけれど、今たずねて来てくれたお父さんの家は彼女の心やすまる家でなくてはならないのである。
どんな味がしたか、初めて飲んだ三人での紅茶の味は、わからなかった」
幼児に字をなぞらえさせようと仕組んだのは、もちろん娘の母親なのだが、そのような環境下では娘も心休まることがなかったであろうという、含意である。岡山は吉行の出身地だから、吉行と帰省した折にでも目にしたのだろう。

娘が家出してきたその日は、1981年2月9日だったとあるので、奇しくも1961年の父親の家出から、ぴったり二十年後ということに。父と娘は、それ以来一つの家で住んだともあるので、母親の元にはそれっきり帰らなかったのか。
「淳が気をつかうのは、私、であると思い、身がすくみ小さくなって外の仕事を多くした。
淳之介さんを笑わせるのは、彼女と私と、同じ洋服を買って、並んで見せることだった。同じ七号サイズで並んで見せた。
『ナンダ、二人とも、小さいんだナ』
淳は私に気をつかっていないように心がけ、私は昔からこの通りであったように、いっしょうけんめい、継母のまねをした」
そのまま二年間を三人で暮らした末、娘は結婚した。両家の記念写真には、新婦の父親から離れた片隅に母親役の宮城まり子が写っているとある。そして、「パリで挙式し、そのまま新婚旅行に出かけた」新郎新婦には、「可愛いおりこうな男の子が産まれた」とも。

というのが、娘の家出からの顛末(てんまつ)だったようである。その間、実母はどうしていたのだろう、ということにもなるが、それを宮城まり子も気を揉んだのか、どうか。宮城まり子の文章はこう結ばれている。
「家出して、上野毛にいること、本当に淳之介さんのお嬢さんは、自分のお母さんに話をしなくていいのかしら、もう二年近い家出なので、私のしらないところで通じてあるのかナ。私が心配するのは思い上がりだけど、娘の縁談を知らされないなんてことあるのだろうか?話が進むほど、気になり出した。
どうしようもなくなると、あつかましく、瀬戸内寂聴さんに電話した。
『まりちゃん、あんた、おばかさんね。ちゃんと知っていますよ。あなたね、自分のことかんがえなさい。ねむの木学園あるんでしょ』
『はい』
あの方は明るい叱り口調で、笑いながら生きて行く方を教えてくださった」


(以下、「闇のなかの祝祭」と「暗室」(5)につづく。)



 

自由人の系譜 吉行淳之介「闇のなかの祝祭」と「暗室」(3)

「作品について口を出したことは、あまりありませんし、私が何か言ったからといって変える人ではありません。
しかし、『闇のなかの祝祭』が出版されたときは、はじめて主人に文句を言いました。
すると、主人は、『そんな読み方しかできないのか』 と言いました。
『でも、世間では作品に出てくる女性は、私のことだと思っています。あなたはいつものように、自分の頭の中でつくりあげた女性を作品の中に置いて、フィクションとして組み立てたつもりでしょうけど、結果は意図と違います。事実がそっくりそのまま描かれていると、世間では思っています』
そう言って主人の眼を見ると、悲しげな眼をして黙ってお茶を飲んでおりました。
どうして涙が出るのかと思いながら、こどもを守れるのは私しかいない、そんなことを考えていました。佐藤春夫先生や柴田(錬三郎)さん御家族、特に奥様方の励ましがあって、世の片隅で石になって生きて行かなければと、私は心を決めました」

吉行文枝の回想記「淳之介の背中」の終り近くにある一節である。
ノロケ小説と評されても、当の作者は己の信ずるところを自負しておればよいけれども、見せしめにされたも同然の文枝としては、黙っておられるはずがない。当然の抗議であったろう。
とはいえ、「闇のなかの祝祭」は決して出来栄えの悪い作品ではなく、隅々にまで神経の行き届いた吉行らしいうまい小説である。吉行が兄事した島尾敏雄の「死の棘」や瀬戸内寂聴の「夏の終り」と並ぶ不倫小説の秀作であろう。あえていえば、その巧みさゆえに図式的になって、前二作より少々迫真性に欠けるきらいがあるかもしれないが。
作品評はともかく、吉行としては、何をどう書かれても黙して批判せずが、物書きの妻のたしなみということであったろうか。

しかし、小説の中で草子は、完膚(かんぷ)なきまでに嫌な女の典型として描かれている。その一つに、奈々子の家に頻繁にかかってくる真夜中の嫌がらせ無言電話が出てくる。まるで草子の呪文でもあるかのように、密会をつづける二人の背後で黒い受話器が不気味に鳴りひびくのである。これは草子の陰湿な性格の象徴でもあるのだが、奈々子と沼田はそれが草子の仕業ではないかと疑って、ある時沼田が問い詰めると、草子はしらばくれるのみなので追及をあきらめていた。
(この間に草子の腎臓病での入退院があっての)ある夜、奈々子との逢引で、行き詰ったままの三角関係に苛立ち、言い争いとなって興奮した奈々子をなだめるのに手間取って、夜も白むころ帰宅した沼田はそこで決定的な場面に遭遇する。そのくだり。

「ようやく、奈々子と別れて、彼は戻ってきた。家の玄関の前まで車を乗り入れると、その騒音で近所の眠りを覚ますといけないとおもい、近くの道に車を駐めた。足音を忍ばせて、家の中に入り、部屋の戸を開いた。
受話器を耳に押当てたまま、草子が彼を振向いた。不意を打たれた表情だ。彼が帰ったのに気付いていなかった様子に見えた。その表情がみるみる変化して、絶え入るような弱々しい声を受話器に送り込んだ。
『分りました。もういいですから・・・、もうそんなにいじめないでください・・・』
涙が頬を伝わって落ち、草子は電話を切った。
『どうしたんだ』 
彼が訊ねた瞬間、電話のベルが鳴った。草子の軀を押除けて、受話器を握った。奈々子の声が聞えてきた。
『いまの電話、あたしがかけたのじゃなくってよ。途中でがらりと調子が変ったのよ。きっとそのときあなたがその部屋に入ったのね。いじめられていたのは、あたしの方なのよ。そのことだけ分ってもらえば、いいの』 
電話が切れた。
『やっぱり、君は電話をかけているじゃないか』
『いまは、たしかにかけたわ。朝になりかかっても帰ってこないのですもの。事故でも起したのじゃないかとおもって心配でたまらなくなって、かけてみたのよ』
『二時ごろにも、電話をかけただろう』
『そんなことはしないわ。わたしじゃないわよ』
『嘘だ』
『嘘じゃないわ』
それきり、彼女は口を噤んでしまった。草子は翳のない白い顔をしていた。爪のかからぬつるつるした白い壁面のひろがりに対い合っている気持が、彼の心に拡がっていった」

沼田の追及もつるりと躱す(かわ)す能面のような顔と心の女、それが草子である。
やがて草子は精神病院へ入院するのだが、少し解説を加えておくと、この場面の直前に草子が車を家の玄関に衝突させる事故を起こしていたこと(草子は沼田に先立って運転免許を取っていたとある)、二時頃電話が鳴っているのを沼田は奈々子の家の前で聞いていたことなどが伏線となっており、その後の沼田が帰宅する前の朝方の描写などは、さすがにうまいものだと感心するのだけど。
「ふたたび、車は奈々子の家の周辺をまわりはじめ、車の中では言い争いがつづいた。空がかすかに明るみはじめた。
甘酸っぱいにおいが、彼の鼻腔に流れ込んできた。それは、パン工場から流れ出てくる原料の発酵するにおいらしい。そのにおいは、とめどなく続く言い争いによる疲労を、じわりと彼に感じさせた」
と同時に、そうは描かれてはいないが、この匂いによって沼田と奈々子の気持ちは、再び和解へと導かれていったことも想像させる。
「ぼくはマイナーポエットです。マイナーポエットこそ真の芸術家です」とたびたび記している通り、吉行淳之介の本質は短篇作家であったと思われる。

つい、話がそれる。冒頭の回想記に戻る。
吉行文枝が苦しい胸の内を打ち明け、相談に乗ってもらったのが柴田錬三郎夫人と佐藤春夫夫人であったようだ。佐藤夫人の千代は、元谷崎潤一郎夫人で、かの有名な「細君譲渡事件」の陰の主役だから、さぞや同情篤き聞き役であったろう。
昭和39年東京オリンピックの年に佐藤春夫は死没したのであったが、吉行の「追悼・佐藤春夫」に、その当時(昭和34、5年)のことが触れられているので、それを引用する(ちなみに佐藤春夫は、唯一、吉行が先生の敬称をつけて呼んだ作家である)。

「佐藤春夫先生ご夫妻には、多大のご迷惑をおかけした。私がある女性と恋愛関係になり家を出るという事態が数年前から今日までつづいているのだが、その件に関して私の配偶者がことあるごとに佐藤家に駆け込み訴えをする。その言い分に、佐藤夫人が耳をかたむけられて私を叱責されてから、訴えはますます度重なったようだ。先生は来るものは拒否しないというご気性であるから、内心迷惑とおもわれながらも、来るに委せておられることが、分っていた。しかし、私は配偶者にたいして命令を下すという夫の立場を放棄しているので、制止することができなかった。
昨年の野間賞パーティのとき、『また訴えがとどいておるぞ、新年までに弁解を用意しておきたまえ』と、重たいがユーモアの滲んだ語調で言われた。新年のご挨拶に佐藤家にうかがうのが毎年の例であるが、その際の夫人の叱責にたいしての弁解を用意せよ、という意味である。

今年の元日、私は安岡(章太郎)と庄野(潤三)と一緒にご年始に参上した。夫人が私を叱責され、私は弁解の仕様もないので、口のなかでむにゃむにゃ言った。先生は素知らぬ顔でタバコをふかしておられる。私はすこし酔ってきた。夫人が座を立たれたスキに、先生にたいしてくだをまいた。
「先生はズルイや、ズルイや」
私の立場を理解されている筈なのに、夫人がおられると知らぬ顔の先生について、私がそう言ったわけだ。そのとき先生は、重々しく、答えられた。
『達人とは、ずるいものじゃ』
私は、いつもの逃げ腰がなくなり、談笑の時が二時間ほどつづいた。先生は、大そうお元気だった。やがて、あまり長居になってはとおもって私が立上がると、先生がいつもの語調で言われた。
『半達人のまま、帰るのか』」

駆け込み訴えに関しては、(柴田夫妻に関するものは見当たらなかったけれども)もう一つ、大変おもしろい(というと語弊があるが)話がある。
当時の「群像」編集長であった大久保房男の「『闇のなかの祝祭』のころ」という文章である。
大久保房男は「純文学の鬼」とも称された人物で、芥川賞をもらってはいたものの、あまりパッとしない安岡や吉行の文学的実力を見抜き、作品発表の場を積極的に与え文壇での地歩を固めさせた、いわば、二人にとって恩人ともいえる存在であった(註)。
「闇のなかの祝祭」はもちろんのこと、妻子の入院費などで苦境にあった吉行の財布を大いにうるおしてくれた週刊誌デヴュー作「すれすれ」も、その頃創刊されたばかりの「週刊現代」の編集長を兼ねていた大久保房男の慫慂(しょうよう)によって書かれた娯楽小説であった。
相当に長くなるが、大久保房男の文章全文を書き写し、カッコで適宜に補足する。
(註・昭和31年から三年間、安岡と吉行には文芸誌「新潮」からの原稿依頼がなかったという。これは章(1)で触れた瀬戸内晴美のケースと似ている。吉行が瀬戸内を激励した一因であったかも?)

「吉行淳之介氏が『闇のなかの祝祭』以後に書いたそのヴァリエイションのような数篇の好短篇には、一人の男とA女B女の二人の女が登場する。
昭和三十四年の春、吉行氏が妙なところ、つまり東京は城南の外れにさまようことを耳にしたので、私はそこにある池の名を言って、あのあたりはどうですか、というと、吉行氏はぎょっとして、あたしはそんなとこなど、と言ったがわれながら空々しかったのか、いやちょっと、と言いかけて、あきらめたらしく、よくご存じですねえ、といった。私は老人のような作り声して、わたしもこれでジャーナリストの端くれですぞ、というと、吉行氏は困った奴に知られたもんだ、という顔をした。(宮城まり子との密会がバレたのである)

それからいろいろのことがあった。
夏の終りにA女が社(講談社)に私を訪ねてきた。厄介な話にちがいないと思って、個室の応接間に通した。A女は、
『兄ちゃんは人のいうことは聞かないんですが、あなたの言うことだけは聞くんです』
といった。兄ちゃんが誰だかよくわからなかったが、話しているうちに吉行氏であることがわかった。A女は私に、B女にうつつをぬかしている吉行氏によく言って聞かしてくれ、ということだった。私は仕事以外で作家とつき合うつもりはなく、作家がいい作品を書くためにはできるだけの世話をしようとは思うけれど、作家の世俗的な幸福とか家庭のことなどどうだっていいと思っている奴ですから、そんなことは頼まれても困ります、と答えた。
A女の言葉から、吉行氏は私のところへ行くとか、私に呼ばれているとかいっては家を出て城南方面をさまよっているにちがいない、と思った」(文章はまだまだ続くが、ここで一旦中断して解説を加える)

A女、B女が誰であるかはわかったであろう。わからないのは、文枝が吉行を何故「兄ちゃん」と呼んでいたのかということである。このことを安岡は、「吉行を『ニイちゃん』と呼んで、みずから妹のような、情婦のような顔つきをしていた吉行夫人」と書いているし、小島信夫に至っては、吉行とよく似ているのでてっきり妹だろうと思い、帰り際に「キミの妹さんは、ずっとああしていっしょに住んでいるの」と訊くと、吉行はギョッとしたように小島の眼を見て、「妹って。あれは僕の女房。うん、僕の女房。ハシタない女でして」と答えたことが記されている(註)。
なんだか文枝をすごくおとしめているような言葉つきである。吉行はちゃんと文枝のことを紹介していなかったということになる。吉行よりだいぶ年上(9歳)の小島信夫に対して、不意をつかれた吉行が謙遜してしどろもどろで答えたとも考えられなくもないが、どうもそれだけではない微妙なところを伝えている。
(註・引用は、安岡章太郎「良友・悪友」並びに、小島信夫「市ヶ谷駅前附近」より。)

「ハシタない女房という文枝のイメージは、文枝の著「淳之介の背中」末尾に併載されている二つの文章を読めば、ガラリと訂正されるのでは。
その一つは、庄野潤三の回想「あの頃の吉行家」である(平成6年、吉行の死から二ヶ月後の「週刊新潮」掲載文。たぶん聞書きであろう)。短いものなので、全文を再録してみる。

「まだ私が大阪にいた昭和二十年代の終り頃、東京に出てきたときは吉行の市ヶ谷の家で泊めてもらいました。奥さんはいつも吉行のことを〝おにいちゃん、おにいちゃん〟と言っていたのを覚えています。気さくで、親切で、控え目な人ですね。行くと、九段の『宮川』のうな重をよく取ってくれました。
吉行の家は、(母上の経営する)吉行あぐり美容室の近くにあり、四畳半と六畳の二間だったと思います。そのうち、四畳半の方は友達夫婦に貸していましたから、吉行夫婦は六畳一間で暮していました。我々が五、六人で押しかけると、奥さんは初めはニコニコともてなしてくれるんですが、後は邪魔にならないように、どっかに退いていました。今考えると、どうしていたんだろうと思いますね。私が泊めてもらうときも、寝るときは私と吉行が布団を並べて寝て、奥さんはいなかった。どこで寝ているんだろうと思いましたが、後で、ああいうときは奥さんは押入れで寝ていた、という話を聞いたことがあります。
私が吉行の家によく行った頃は、ちょうど『原色の街』が芥川賞候補になった頃で、吉行もまだ出版社に勤めていましたが、奥さんも洋裁の内職をしながら家計を助けていました。献身的に尽していましたよ。
昭和三十一年に次男が生れるとき、奥さんが布団の綿を市ヶ谷から一人で担いで持ってきてくれたんです。その後生れたときにも、わざわざお祝いを持ってきてくれて、家内はとても喜んでいました。たいして親しかったわけでもない私にまで、そこまで気を遣っていただいたくらいですから、他の文壇仲間にもいろいろ気を遣っていたんではないですか」

今一つは、「私が吉行文枝さんと初めてお会いしたのは、五十何年も前のことである。その後長くお会いしていなかったが、吉行氏が亡くなってまもなく妻と私は夫人とお会いする機会に恵まれた。そして夫人のさわやかな感触が、五十年の昔と少しも変わっていないのに驚いたものである」との書き出しで始まっている、吉行の静岡高校時代の旧友の寄稿文である。こちらは関係部分を転写する。
「ところで私が妻とともに初めて市ヶ谷の家を訪ねたのは、昭和二十年代の前半だった。
広い敷地の奥まったところに木造の平屋が建っていた。吉行夫妻の住むこの家にはふしぎな雰囲気があった。あるいは気安さがあった。それは夫人の人柄から来るもので、友人たちがみな、ぶらりと立ち寄ることのできる家だった。この家で二三の友人と集まって酒を飲む機会が幾度かあった。そんな時彼(吉行)は若者として珍しい飲みかたをした。強くは酔わず、酔いを娯しみ話を娯しんでゆっくりと飲んだ。飲みながら話すという技術を私たちは彼から学んだといってよかった。
その間、夫人はどこにいたのだろう。客がいても夫人が話に加わるということはなかった。台所だったのか、それとも庭だったのか、夫人は私たちの視野のうちにはなく、しかし彼が呼べばすぐに答えられるところにいつもいた。

夫人はある日私たち夫婦に食事を薦めた。当時は米もパンも麺類もほとんど手に入らず、私たちは一日じゅう芋や豆や果物で過ごすことが多かった。だから自宅で人に食事を出す習慣も消え、仮に誘われても遠慮することが常識になっていた。
ところがこの日夫人は巧みに私たちを誘った。結局私たちは夫人の誘いに乗った。私と妻の脳裏には、今もこの日の夫人の好意が深く刻みこまれている。
夫人自身が、何度か私の豊島区の新しい家を訪れている。そのとき吉行氏が一緒だったかどうかははっきりと覚えていない。
おかしなことに、夫人と私の妻にはどこか共通したところがあった。
ある日の吉行夫人は売りに来た薔薇の苗を有り金をはたいて買い求め、帰宅した吉行氏を驚かせた。この出来事は後に彼の『薔薇販売人』という初期短編に形を変えて実った」(この後、著者の奥さんも薔薇の苗を買ったことが綴られているのだが省略する。「薔薇販売人」は、吉行が処女作だと自認する重要な作品である。以上、鈴木重生「古い記憶の函をひらいて」より)。

これら二つの文章を読む限りにおいては、「ハシタない」どころかつつましく、献身的に夫につくすタイプの女性、という想像しかできない。文枝がネコをかぶっていたとは到底思われない。昭和21年に吉行が同人雑誌を出したとき、文枝がその挿絵を担当したとも「淳之介の背中」にある。
これらの証言から浮かび上がってくるのは、吉行はスターとの恋を貫くために糟糠(そうこう)の妻を見捨てたということである。そして文枝が「兄ちゃん」呼ばわりをしていたのは、吉行よりも年下であったからだ、という平凡な推測以外、残念ながら何の手がかりもない。
まだまだ、その頃は食糧難、住宅難だったから、あぐりの再婚によって空いた部屋を、友人夫婦に提供したのだろう(中学時代の友人とある)。吉行は肺結核の手術をするまで、東大を中退して小出版社で雑誌編集の仕事に就いていた。

(再度、大久保房男の文章に戻る)
「それから半月ほどしてB女が突然訪ねてきた。この間A女が座ったところに座ったB女は、舞台の間をぬって駆けつけて来たらしく、ドーラン化粧をし、長いつけ睫毛をつけ、瞼の縁を黒く塗っていた。私が吉行氏に、A女が訪ねてきたと言ったのを聞いて、あたしの方も聞いてもらわないと、というつもりなのか。何を頼まれても何もできはしないし、するつもりも毛頭なかったけれど、ただ、A女にしてもB女にしても、いろいろ私に話すことで気が晴れるなら、これも功徳か、と思った。

B女は自分の胸の苦しさを私に訴えた。話しているうちにこみ上げてきて、目に一ぱい涙をためた。そのうち左の目から涙があふれた。瞼の縁どりの黒い顔料を融かし、黒い涙となって、一条頬を流れた。
『こっちの方、黒い涙が流れとる・・・』 
と左の目を指して私がいうと、B女は急いでハンカチを出し、目の上の方から頬にかけて強く拭った。B女は、とれましたか、という顔をして私を見た。B女の顔がアンバランスになっているのに私はぎょっとした。
『あっ、そうだ。つけ睫毛が取れてしもたんだ』 
と私がいうと、B女は右の目も強くハンカチでふいた。両目ともつけ睫毛が取れてB女は普段の顔になった。B女の悲しげな顔が照れた笑顔になり、それがあまり崩れないうちに帰って行った。
私は吉行氏にB女の黒い涙のことを詳しく話した。吉行氏は、それはちょっといけますねえ、使えますねえ、といった。 (吉行は小説の材料に使える、と言ったのである)

それから半年ほどして、安岡章太郎氏と共に佐藤春夫氏から呼び出しを受けた。安岡氏は『海辺の光景』を書くのに社の別館に籠って苦吟していた時なので、二人で歩いて佐藤邸に行った。吉行氏は門弟三千人の一人だからA女が佐藤氏にかけ込み訴えをし、事情聴取のために吉行氏の友人として私たちが呼び出されたのである。(佐藤春夫は多くの弟子を持ち、門弟三千人ともいわれていた。大久保房男は吉行より3歳年上、安岡は4歳上であった。二人共慶大卒)
佐藤氏は気乗りしない風だった。A女の屡々(しばしば)の訴えに、佐藤夫人が同性の立場から、それでは一度皆さんに集っていただいたら、と佐藤氏にすすめたのではなかろうか。佐藤氏と私たちが雑談して本論に入らないでいると、佐藤夫人は皆さんお忙しいでしょうから、とA女を促した。A女はちょっと改まって話し出した。事情聴取というよりはA女と私あるいは安岡氏との対決というムードになった。私については、A女は私が吉行氏に言って聞かさぬ友情のなさを非難した。私は先日A女来訪の際に言ったことをまた言った。A女はそれが甚(はなは)だ不満で私を責めた。そこで佐藤氏はA女に向い、
『ひとが自分の思う通りに振舞ってくれないからといって、ひとを非難することは出来ませんね』
と判者としての判決を下した。

それでA女は他のことに移ったが、話しているうち、いつのまにか同じことになり、私に対する口調は難詰しているようであった。頭ではA女の立場に同情的だった私も、少しむっとして、
『何べんも言う通り、つまらん小説しか書けん模範的人格者よりも、放蕩無頼でも傑作を書く作家の方を私は大事にします。家庭が乱れた方が傑作が出来るんなら、私の方からすすんでその家庭を乱してやりたいくらいですよ』 
といった。
佐藤氏の表情は私の意見を認めてくれたようだ、と思ったとたん、佐藤夫人が座卓を平手でぽんと叩き、
『大久保さん、まあ、あなたはなんてひどい人でしょう。私のとこへもやはりそのつもりでいらしってたんですか』 
と声をきつくしていった。私はしまった、と思ったが、仕方がないので、
『編集者とはそんなもんです』 と答えた。
佐藤邸を辞するとすぐ別館に待っていた吉行氏に会い、安岡氏と二人で対決の模様を大袈裟に話した。吉行氏はどうも、どうも、お世話かけますなあ、といった。

それからもいろいろのことがあった。
吉行氏とA女B女の関係はバレーボールに似ていた。見物人には吉行氏はボールとなって、軽々とA女のコート、B女のコートを渡り歩いているように見えただろうが、私には、A女のところへ行ってはどつかれ、B女のところへ行ってはどつかれて、あてどなく宙を舞っているいるように見えた。私はこの題材を小説に書くことをしきりにすすめた。いろいろの事情で書かなかったが、昭和三十六年に『闇のなかの祝祭』という題で吉行氏はやっと書いた。批評はバレーの見物人の立場からのが多かった」(昭和42年、「週刊読書人」)

小説と現実どちらがより迫真に迫っているか。事実は小説よりも・・・、と言いたいような内容で、庄野潤三や吉行の旧友の話とはあまりに違う文枝の落差に驚くのでもあるが、佐藤邸の段階では夫を取り戻そうと必死のあまり、我を失い錯乱し鬼女と化していたのだろう(一女の母親になったばかりだったのだから、そうなるのもやむを得まい)。
「夫婦喧嘩は犬も食わない」とはよくいったもので、このことわざは、夫婦の揉め事にはどんな事情がひそんでいるかわからないので介入する可からず、という意味であろうから、鬼編集長の面目躍如たる大久保房男の態度は、冷たいようでいて案外正解であったかも。
ここでせっかく「薔薇販売人」(昭和25年)が出てきたので、次に吉行の芥川賞受賞作「驟雨」(昭和29年)にまつわる挿話を書き加えたい。

「その女性が赤線地帯(註・売春をする場所のこと)で働いているとき、私は彼女と会った。ほぼ三年のあいだ、私は彼女の部屋にかよった。私は彼女を微温的な心持ではあったが、やはり愛していた、といってよい。
赤線が廃止(昭和31年)になる以前に、彼女のパトロンが、彼女に堅気の仕事を見つけてきた。生活を保障して、彼女がこの地帯から抜け出す機会を与えたわけであるが、一方、私は結核になって入院し、彼女との間は疎遠となったのだが、それでも都心からはるかに離れたその病院に、彼女は三度ほど見舞にきてくれた。
入院中、彼女との交渉を書いた私の作品が賞を受け、まもなく私は退院した(註)。しかし、ほとんど動けないほどの病状であったことと、経済的に窮乏していたために、出むいていって彼女に酬いるところがなかった。もちろん、彼女は金銭の報酬を望むような人柄ではなかったが、私は彼女に会って題材にしたことについての詫びと謝意をあらわすことができないことに、気がとがめていた。
(註・芥川賞授賞式には、既述したように文枝が代理出席している。)

一つには、私の妻が、私が彼女に自著を送ったことを知って、ヒステリイ症状を呈したことも、私の行動を束縛していた。当時、私には、その症状をはねかえすだけの、気大を欠いていたのである。
彼女は、堅気の生活をつづけることができていて、ある街角のタバコ売場に座っていた。時折、私は自分の本ができると、紙につつんでその窓から彼女に手わたしていた。
一度だけ、私は彼女と喫茶店で向い合ったことがある。そのころ、私の頭の中には、一たん赤線地帯の生活形態にまきこまれて、体が馴染んでしまった女は、外の地帯へ出たとしても彼女たちの体が、じりじりと元の街の方へ引寄せられていくのではなかろうか、という考えがあった。このときは、あきらかに、私はそういう心が動いた。
彼女は生活形態が変ったとき、体の内部のバランスが崩れて、ジンマシン様のものに悩まされはじめた。その病状がまだつづいていて、彼女の顔の皮膚を傷めていた。そういう状況も私の創作欲を刺激したものとおもえる。

私がさりげなく質問をはじめたとき、不意に彼女は表情をかたくして、
『もう、私からは引出せるものは、何もないわ』
といった。その言葉は、私の心に突刺さり、私のうしろめたい心持をえぐった。私は自分をなさけない人間と感じた。
それでも、時折、私は自著を彼女の座っている窓口に差入れた。そして、また性懲りもなく、彼女を題材にした短篇を書いた。一昨年のことである。その批評が新聞に大きな活字で出た日、彼女から電話があった。私は不在だった。その電話のことを知って、私は久しぶりに彼女のいる街角へ出かけていった。しかし、そこにあった建物は取こわされて、新しいビルが建築中であった。
彼女を探す手がかりを私は知っていた。しかし、そうすることが恐かった。・・・」

これは、その三年前に廃止になった旧赤線地帯を、安岡章太郎と偵察したときの「赤線という不死鳥」というルポルタージュ文である。昭和34年の発表だから、夫婦のゴタゴタのさなかに書かれたことになる(これと同じ話が、翌年の短篇「蛸の話」に出ている)。
この文章を持出したのは、吉行の奇妙に律儀な性格の一面を伝えていることと、文枝のヒステリイに言及しているからである(文枝のヒステリイについては章を代えて触れる)。吉行淳之介という男は、本質的には他人に気を配るやさしい側面を持っていたことは、吉行と交友のあった多くの人が証言するところであるが、その陰に見え隠れする小説家のシタゴコロを俊敏に見抜いたのは、この元娼婦の職業的嗅覚によるものであったか(しかし、吉行の小説「香水瓶」などや、宮城まり子の「淳之介さんのこと」によると、この女性とは終生交際があったことが書かれている)。
このルポ文に照応するような文章が、「私の文学放浪」にあったので、つづけて引用する。それは芥川賞初候補になった出世作「原色の街」(昭和27年、註)について語った部分にある。
(註・「原色の街」を受賞作に強く押したのも舟橋聖一であった。)

「原色の街」を書いた「意図の一つは、当たり前の女性の心理と生理の間に起る断層についてであって、そのためには娼婦の町という環境が便利であったので、背景に選んだ。意図のもう一つは、娼婦の町に沈んでゆく主人公に花束をささげ、世の中ではなやいでいるもう一人の主人公の令嬢の腕の中の花束をむしり取ることであった。善と悪、美と醜についての世の中の考え方にたいして。破壊的な心持でこの作品を書いた」のであって「もともとこの作品で私は娼婦を書こうとも思わなかった」という。
娼婦小説から出発したと思われている吉行の意外な一面である。が、次にはこう書かれる。

「『原色の街』を書いた頃には、その背景として使った娼婦の町に足を踏み入れた経験はほとんど持っていなかったことは、前に書いたとおりである。その作品を書き上げてから、その町への耽溺がはじまった。想像の中のその町と実際との誤差の確認、といえばきれいごとになるが、そういう気持も働いていた。
しかし、それだけではない。なによりも見知らぬ女がやすやすと軀(からだ、註)を開くという奇怪さ不思議さに私は心を奪われた。これは〈性の捌(は)け口〉といえば済むことを、文学的修飾で彩ったのではない。すでに私は結婚していたので、性の捌け口をその町に求める必要はなかった。
結婚して間もなく娼婦の町に耽溺するようになったというのは、やはり常識に逆行していることで、その耽溺を光源として結婚に照明を当ててみれば、その結婚のかたちが浮び上ってくる筈であり、作家として食指の動く題材だが、今のところその材料を使う気持ちはない。
(註・からだと書くとき、吉行は必ずこの字体を用いた。註に無駄話もどうかと思うが、石川さゆり「天城越え」の歌詞も、この字体「軀」である。)

現在、私は配偶者を不幸な状況においてしまった。その状態から脱け出す方法について、私と彼女の考え方が正反対であるために、その状態はえんえんと続いてゆくことになる。前記の題材を書くことは、その不幸に追討ちをかけることである。文学のためにはそういうことは顧慮しないという従来の私小説作家の心構えは、私にはない。
もっとも、それに近いことをすでに私は『闇のなかの祝祭』を書くことで、二人の女性にたいして犯している」
文枝のヒステリイも無理もなかった、というべきであろう。
上の下線部分が、再び「〝大義親を滅ぼす〟という心境には、あまなれなかった」という言葉につながるのであるが、しかし続く文章にもあるように、充分大義は「妻」を滅ぼしたのではなかったか。だからこそ、正反対の考え方を生じてしまい、「私の文学放浪」が書かれた昭和40年においてなお、吉行は離婚の同意を得ることが出来ないままの中途半端な事態に立ち至ったのではないか。どうせならカッコつけていないで、「前記の題材」を書いてくれればよかったのに(と、無責任な第三者は勝手に思ったりするのだけども。そこが吉行のやさしさだったのかナ)。

やはり「私の文学放浪」に、もう一人の女性も語られているので、それを最後に引用したい。
「M・Mに出会ったことは、作家の私にとっては幸運であったといえる。小説の材料を掴むために、私が彼女に接近を計ったのだという噂(文壇関係のうわさではない)を聞いたことがあるが、その噂はもちろん間違いである。そういう愚かなたくらみを持つ人間は、おそらく小説家にはいないだろう。なぜなら、そういう形で書いた作品はロクなものになるわけがないのだから。
私はM・Mに惚れたのであり、惚れるということはエゴイズムにつながる部分はあるが、功利的な気持は這入りこむ余地はない。三十四年の私の作品『鳥獣虫魚』の評で、小島信夫が『作者の青春が復活した』という意味のことを書いたのを記憶している。たしかに、一人の女性に惚れたという状況が、私の文章にうるおいを持たせた。そのことを、言葉を積み重ねて作品をつくりながら、私ははっきりと感じていた」
この述懐にあるように、宮城まり子の家の書棚で偶然目にした古びた「世界童謡集」に触発されて書いたいくつかの短篇によって、吉行は短篇の名手との声望を勝ち得ていったのである(そして文壇の大家へと)。

「M・Mとのことで、私は作家としても人間としても成長したとおもっているが、私の生活はそのために困難なものになった。それは二人の女に挟まれてヤニ下がっているようなものとはまるで違ったものである。死んだらラクになる、とはしばしばおもったが、しかし死のうとは決しておもわなかった。困難な生活は現在もつづいているが、そのことについてはこれ以上は語りたくない。こういうことにくらべれば、前述の新潮社とのトラブルはさほど重大事とはいえない。なお、新潮社との関係は、二年半余り経った三十九年の夏に旧に復したことを付け加えておかなくてはならない」
こういう文章に接して、M・Mは飛び上るほど嬉しかっただろう。吉行に惚れられて恋の勝利者になったばかりでなく、吉行の本分である創作にも多大に寄与貢献したことになるのだから。しかし、これは惚れた腫れたと宣(のたま)わって、宮城まり子があげまん女性だったことを世間に告白しているみたいなものでもある。

光当たれば翳りあり。
ここでも勝手な想像を働かせると、困難な生活をもたらした原因がまるで別居する妻にあるかのように書かれる文枝にとっては、吉行がこの手の文章を発表するたびに(実際、大久保房男の文章冒頭にあったように、A女B女物は「闇のなかの祝祭」後にも幾篇か書かれたのだから)、戦々恐々として身のすくむ思いをしていただろう。
それでも無視することも能(あた)わず、心急くまま手にとれば、その一文字一文字が棘となって肌を胸を刺したにちがいない。
と、同時にそれとはまったく別のラチもない想像も浮かんだ(関連がないこともないが)。
現在では、母子家庭と聞いても驚かないくらい一般的な現象となっているが、吉行文枝が別居したころ、すなわち昭和35、6年頃には、(文枝の場合、法律上は母子家庭にはならないが)死別を除く離婚や未婚の母子家庭というのは、どのくらいの比率を占めていたのだろうか。まだまだ少なかったのではないだろうか。
ちなみに昭和35(1960)年は、来春、新天皇に即位される皇太子徳仁親王のご誕生の年であり、前年34年は、今上天皇と美智子皇后ご成婚の年であった。


(以下、「闇のなかの祝祭」と「暗室」(4)につづく。)
 

自由人の系譜 吉行淳之介「闇のなかの祝祭」と「暗室」(2)

「闇のなかの祝祭」は、このように書き出されている。
「赤児の泣き声が、熄(や)まない。狭い家である。その泣き声を理由にしよう、と沼田沼一郎はおもった。
『うるさくて、原稿が書けない。ちょっと散歩してくる』 
妻の草子は、黙って見送った。はっきりした目的をもって出かけてゆく充実した線が自分の背中に現れていることを感じ、その背中に貼り付いてくる妻の視線を感じ、彼はうしろめたい心持になった。長い年月、彼の姿勢にこのような充実の気配は、現れたことがなかった。それは、妻の眼から隠さねばならぬもののようにおもえた」

「狭い家」とは、昭和20年5月の空襲で焼失した市ヶ谷駅前の家の焼け跡に、戦後に建て直した六畳と四畳半二間に小さな台所が付いた家のことである。
この家の四畳半に吉行夫婦が、あぐりと和子と理恵が六畳で暮らしていた。当時の住宅難は想像を絶するほどだったのである。やがて、再婚したあぐりとともに妹たちも、敷地内に建てた義父の家に移った。
この「狭い家」に、「第三の新人」たちがぞろぞろ集い、その頃大阪に住んでいた庄野潤三なんかは、上京のたびに宿舎代りにもしていたようである。
ここに出てくる沼田沼一郎が吉行淳之介であり、草子が吉行の妻文枝(前章のH)であり、赤児は二人の長女である。すべて事実通りの叙述(人物配置)である。

沼田が向かった先は映画館で、スクリーンに映し出される都奈々子を見るためである。この奈々子が宮城まり子であるのはいうまでもないことだが、その奈々子がスクリーンに大写しになってささやきかける。
「好きよ」
あらかじめ奈々子は、このシーンを演じるにあたって沼田に告げていたのであった。「 あなたのことで頭の中をいっぱいにしておいて、好きよ、というセリフを言うわ」と。その言葉を暗い中で思い浮かべ、沼田はこみ上げてくる喜びを抑えきれずに、やに下がるのである。
やはり大粒の涙を流しながら、つい先だって奈々子が映画と同じセリフをささやいてくれたことを甘く思い出しながら帰宅すると、怖れていた現実が待っていた。再び、「闇のなかの祝祭」の叙述から。

「その疑問を心の底に蟠(わだかま)らせたまま、彼は玄関の戸を開いた。その音はかなりの大きさで響いたが、人間の動く気配は無かった。家の中へ入り、自分の部屋の襖を開いたとき、思わず彼は立竦(すく)んだ。彼の机の前に、草子が座っていた。その両肩の筋肉が、衣服の下で強張っている気配があった。両方の掌は、机の面に貼り付いたようになっており、その姿勢のまま首だけまわして、草子は彼の方を見た。周囲に、黒い破片が散乱している。それがなにか、すぐに分った。奈々子が歌を吹き込んだLPレコードの破片である。奈々子の顔写真が印刷してあるジャケットが二つに引裂かれて、屑籠に投げ込まれてあった。
「ひどいことをするじゃないか」
「ひどいのは、あなたじゃないの」 

修羅場の幕開けである。「その疑惑」とは、奈々子が贈った出産祝いの毛布に赤児をくるんで退院して来たばかり草子が、果たして二人の仲に気づいていないがゆえにそう振舞えたのかどうか。疑わしいままに草子の様子からは、沼田には判断がつかなかったのである。それまでにも、奈々子が出産祝いに駆けつけるべきか否か、どちらがより草子に疑われないかと二人で案じ迷った末に、毛布を手土産に見舞ったのであった。それというのも、奈々子は何度か沼田の家を訪問したことがあり、草子と顔なじみになっていたからである、と説明されている。
これは事実のようで、宮城まり子は吉行の女児誕生を祝って(複雑な心境であったろうが)、赤い毛布を持参したことを記している(宮城まり子著「淳之介さんのこと」)。
このあとの沼田と草子のやりとりを、地の文は省略して会話だけを抜き取る。

「どうしたんだ」「なにか聞いたのか」
「知っていたわよ。いろんなにおいを、いっぱい付けて帰ってきていたじゃないの。知らないわけはないでしょう」
「それなら、なぜ・・・」
「なぜ、とは、なんですか。いままで我慢していたのが、我慢し切れなくなっただけよ」
「なにか聞いたんだな」
「電話で教えてくれた人があったわ。でも、べつに新しいことを聞いたわけじゃないわ」
「それは、誰だ」
「誰だっていいじゃないの」「どうせ、わたしは何にもできない女よ」
「きみに特別なことができるのを望んだことは、一度も無いよ」
「それはそうだけど、わたしが何かしようとすると、いつも頭から圧(おさ)え付けて、できなくさせてしまうじゃないの」
「そんなことはない。きみがやりたいといったことを留めたことは一度もない。きみがいろいろのことをやりかけては、結局やめてしまっただけだ」
「でも、あなたと一緒にいると、手も足も出なくなるのよ。わたしの青春は、そのために滅茶滅茶になってしまったわ」
「しかし、本当の才能というものは、どんなに圧え付けられたって現れ出てくるものだよ。他人の手で芽を摘み取られるものではないさ。それに、繰り返して言うが、特別のことができることを、ぼくは望んだことはないんだぜ」
「だけど、どうしてあんな嫌な女に、選りに選ってあんな嫌な女に手を出したの」
「手を出したわけじゃない」
「じゃ、どうしたというのですか」
「惚れたんだ」

決めゼリフで一件落着、とはならないのがもつれた夫婦の仲である。長年連れ添ってきた夫の口から、ぬけぬけと究極の禁句をほざかれたら妻はどうなるか。目に見えていたはずであるのに。つづく地の文。
「その瞬間、天井から糸で釣上げられたように、ふわりと草子は立上がった。そして重心を失った格好で歩き出した。方向を決めず歩きはじめた彼女の正面に、窓があった。
彼はいそいで立上がり、草子の両肩を押えた。
『できる、できるわ。わたしだって、できる』
そう言う言葉が、草子の唇から洩れ、その眼が焦点を失ってガラス玉になった」 
草子は失神したのである。横たえた草子を覗き込んだ沼田の心に渦巻いていたのは、ただただ妻に対する「不安と怒りだけであった」。

その晩もいさかいはつづいた。草子が部屋へ入ってきて、「また、こんなものを付けてきて。この泥みたいな化粧品は、なかなか落ちなくて困ってしまう」と呟きながら、これ見よがしに居座ってベンジンで沼田のシャツの肩口を拭き取っているところに、机上の電話が鳴る。以下、主に会話部分だけ。
「 もしもし、奈々子よ」「いま、何をしているの」
「べつに・・・」
「あたしのこと、好き」
「ええ」
「誰かそこにいるのね」
「うむ、でも、かまわないよ」
「かまわないことはないでしょ」
「うむ、でもねえ・・・」
その瞬間、草子の手が伸びて、受話器を掛ける金具を押えた。
「なにをする」
「 そんな猫撫で声を出さなくたっていいじゃないの。いやらしい」
すぐにまた電話のベルが鳴った。 
「途中で切ってしまって、ひどいわ」
「うむ」
「昨日から一度も電話してくれないなんて。こっちから電話してはいけないとおもうから、ずっと待っていたのに、息を引くようにして、ずうっと待っていることが、分らないの」
「うむ」
「なんとか言って頂戴。奥さんがいて返事ができないのなら、返事ができるところから、電話して」
電話が切れた。・・・
このあと夫はどうしたか。「そうだ、あの雑誌を買ってこなくちゃいけなかった・・・」と、今度はなんとも気まずいセリフを吐き、妻の返事をそっちのけにして、奈々子への電話のためにあたふたと出掛けるのである。

「女性に惚れたときの妻子ある男の状態の悲しさを含んだ滑稽さを描き出そうとした。男の気持が真剣になればなるほど、その滑稽さは大きくなってゆく」というのが、この作品に込めた吉行の思惑だったのだが、これらの引用部分からもそれは充分に察しられよう。
草子との言い争いの終いには、「(奈々子のもとに)行ったら死んでやるわ」、「わたしを捨てたら、殺してやるわ」となるのであり、奈々子と険悪になるのは決まって「あの人と、どうしても別れられないの」「あたしのことは、浮気だったのね」のひと言から始まるのである。
二人の女の板挟みになりながら沼田は、「惚れた」弱身でもって奈々子とは別れられず、ついに草子との同居に耐え切れなくなって家出に至ってしまうのであるが、その心情はこう説明されている。

「沼田は二人の女と交互に言い争うことで、一日の大半の時間と沢山の精力を失う日々を疎ましく思いはじめた。
しかし、二人の女から交互に責め立てられている、と彼が思っていたわけではない。そう思っているならば、相手の言葉を聞き流すことによって、精力の損耗を防ぐことや、相手の心を巧みに操る言葉を口にすることで、言い争いの時間を短くする工夫を考えた筈である。
しかし、彼は懸命に頭脳を回転させて、相手の言葉を理解しようとし、またそれに応戦しようと試みた。聞き流したり、あしらってしまう姿勢を彼が取れないのは、奈々子に対しては彼女に恋着しているためだ。そして、草子に対しては、長い間の生活の重みを体内に感じてくるためである。
しかし、そのような日々の繰返しに、彼はしだいに疲労してきた。仕事をする時間を掴み出すことが困難になってきた」
どっちつかずの切羽詰まった状態にあっても、どうやら、まだ気持に余裕があることを自信家の沼田は言いたいらしい。

不毛な言い争いが続くうちに、しかし草子は腎臓を悪くして入院し、赤児は小児施設に預けられる(この間に沼田は運転免許を取り、中古自動車を購入している)。その状況はこう書かれている。
「草子と赤児の入院費、自動車の月賦の金(註・ローンのこと)、草子が退院してきたときには入院費に替る(註・家に居られないので、小説を書くために転々とする)彼自身のホテル代、奈々子と会うための金、それらのために彼の収入の全部が消えた。その金を、惜しいとはおもわなかった。事態の厄介さをある程度処理するための費用、と考えていた。
週刊誌の連載小説の稿料によって、彼の収入は以前とは比較にならないくらい増えていた」
安岡章太郎の「良友・悪友」にあった通りである。

この部分に次いで、ラスト間近にも「週刊誌の連載小説は前の年の暮に終って、彼にとっては最初の新聞小説の連載開始が近づいていた」と書かれているので、年譜で確かめると、昭和34年4月から初めての週刊誌小説「すれすれ」を「週刊現代」に12月まで連載、35年5月から初めての新聞小説「街の底で」を東京新聞夕刊に連載、とあるのとぴったり一致する。
このことから、「闇のなかの祝祭」を構成する時間軸は昭和34年から翌年までと特定できる(前章で述べた「百閒の喘息」にあった記述とも重なる)。したがって、吉行の長女誕生は昭和34年の(早?)春だったことになり、主役三人の年齢は吉行35歳、宮城まり子32歳、ただし文枝に関しては不明。

草子がひと月後に退院してくると、小説序盤から鳴り響いていた奈々子への無言電話、それに絡まる沼田と草子との深夜の応酬、神経を蝕まれた草子の精神病院 への入退院、奈々子の自殺未遂などが描かれ、とどめとして奈々子から妊娠を告げられる。産む決心を固める奈々子とはうらはらに、スターである奈々子がこっそりと堕胎できる病院を沼田が探しあぐねるところで、小説は幕となる・・・。
ここで少し視点を変えて、吉行である沼田にとって「長い間の生活の重みを体内に感じてくる」存在であった草子、すなわち生年さえ不明の吉行文枝について、寄せ集めの資料でそのシルエットなりでも探ってみたい。必定、同時進行で宮城まり子についても触れることになる。

「淳は昭和二十三年に結婚しましたが、いろいろ事情があって、結婚生活は十年ちょっとで崩壊してしまいました。
奥さんと別れるときは、まず淳が自分のほうから、家を出てしまいました。それから、奥さんにも別のところを探してそこに住まわせましたから、私のほうも淳とはさようならということになりました。ですから淳は、奥さんと別居するようになってから、私たちともずっと別れて暮らしています。
その後、淳は女優の宮城まり子さんと一緒に暮らすようになり、今日まで二十五年以上たっています」
吉行あぐり「梅桃が実るとき」(昭和60年、文園社刊)の文章である。
これには離婚の経緯も、女児(孫)のことも触れられてはいないが、結婚の年だけはきちんと語られている。吉行は24歳で正式に結婚(入籍)したようだ(念のため言い添えておけば、この本は吉行生前の出版である)。あぐりが再婚していたから、長男であるにもかかわらず、吉行は家を出やすかったのだろうか(あぐりの再婚は昭和24年である。「紫陽花」という短篇には、あぐりの再婚を吉行が後押ししたような叙述がある)。
その後、あぐり夫婦と和子、理恵姉妹は同じマンションの別々の階に住み、そこで理恵、あぐりの夫、あぐりの順で生涯を終えている。

なお、この文章の小見出しは「宮城まり子さんは一途な人」となっており、次につづきを引く。
「まりちゃんという人は、ほんとになかなかな人だと思います。彼と長いこと一緒にいるのですから、いろいろ気苦労もあることでしょうし、大変だと思います。まりちゃんがしょっちゅう外国に行ったり、映画のロケだったりして、家を留守にすることが多いから二人はいい関係でいられるのでしょう。
まりちゃんは、とても多才な人で、きっと度胸がいいのだと思います。女優をやりながら、ねむの木学園をやって、絵を描いて・・・と、ひたむきに生きていて、大した人物だと思います。なかなかできることではありません。頭のよい人なのだと、ほんとに感心します。
まりちゃんと淳とは、もともと女優とファンとの関係だったそうです。どなたかに連れられて、楽屋で紹介されたのが最初という話ですが、淳のところにはそのころはまだテレビがなくて、彼女が出演するたびに私のところに見にきていました。それで、『この人いいな』というようなことをいっていました。きっとそんなことから二人は親しくなったのでしょう」

姑からみた嫁二人の評価であったろうか。褒めっぱなしのまりちゃんと比べて、少し奥(文枝)さんが可哀想に思えてくるのであるが(これでは何もいいところがなかったかのようにも思えてくる。もちろん、あぐりに意地悪な意図があったわけでないのは当然としても、どうしてもそうなってしまう)。
とはいえあぐりが評するように、宮城まり子が「多才」で「大した人物」であった(ある)ことはその通りで、その志の高さは、何よりも「ねむの木学園」に象徴されているであろう。
日本で初めての身体障害児施設「ねむの木学園」を、宮城まり子が創設したのは昭和43(1968)年のことであるが、学園開設の経緯の一端が彼女の著書「淳之介さんのこと」(平成13年、文藝春秋刊)に綴られている。

「あのね、前から心の中にあったことで、ずっと考えてきたんだけど、病気でね、手とか足とかが不自由で知的障害があって、お家でお父さんとかお母さんとかがね、めんどうみられない子がいるの。そして、その子たち就学猶予って法律で、小学校も中学校も行かなくてもいいんですって。つまり義務教育を受ける権利がなくなるの。私、そういうの知ると考えちゃって。私、仕事で、こどもちゃんたちのいるところへ行くことが多いでしょ、それに、私自身が舞台でこどもの役が多いでしょ。だから知る機会がありすぎたんだと思うの。私、淳といっしょに暮らせて幸せすぎる気がしてるし、申し訳ないことと思ってます。私にやれることさせてほしい。お医者さんにちゃんとかかれること、教育は正しく受けられること、こどもとして愛されることのお手伝いしたい。出すぎることかも知れないけど。おかしいかも知れないけど」

この申し出を淳之介さんは快く受け入れてくれた。
「この話は十年も前から言ってたね」
「あなたと知り合った頃からね」
「昨日、今日、言い出したのならやめなさいって言うけど、ずっと前から思いつづけていたみたいだから、いいでしょう。その代わり約束」
「はい」
「一、途中でやめると言わないこと。二、愚痴はこぼさないこと。三、お金がナイと言わないこと。これ守りなさいよ。君を信じて来る人に、途中でヤメタって言うのは大変無礼だからね」
「うん」
涙があふれて何も見えなくなった。私のわがままを聞いてくれた。
そしてひとつだけ淳之介さんに相談したのは、施設にふさわしい名前についてであった、という。

約束を貫いた宮城まり子の「もみの木学園」は、幾多の困難を乗り越え子供たちとともに成長を遂げ、2018年の今年で創立半世紀の節目を迎えたことになる(宮城まり子が吉行を偲んで、学園敷地に建てた日本建築の吉行淳之介文学館を伴って)。
あぐりは吉行と宮城まり子の出会いを、まり子の楽屋としているけれども、「淳之介さんのこと」で本人自身が「ファニーフェイス」と題した女性雑誌の鼎談(昭和32年)であった、と記しているので、あぐりの勘違いか、聞き違いであろう。
鼎談の場ではあたりさわりのない会話で終わったが、「それ以来、不思議なことに、バタバタといろんなところで吉行さんと逢う。映画館で・・・喫茶店で・・・。
そしてとっても好きになって行った。どうしてだかわからない。立派な女優になるまで、恋愛しないつもりだったのに、一日も逢わずにはいられなくなった」と書かれている。

しかし昭和34(1959)年、宮城まり子はアメリカへ旅立つ。
「はじめての外国、そしてまったくの一人旅である。主としてニューヨークで、休みなく動いたら、はなれていることで、淳之介さんと別れることが出来るかと思った。つまり、一人になればいいのかと思った。恋愛を清算するための(註・ミュージカル)勉強旅行だった」
「なんとかして自分の心を変えたいという気持ちと、心のどこかでは好きだという、わかっている甘えもあった」
恋人の決心を聞かされていない吉行からは、自分にだけ便りがないのはひどい、君がいないと原稿(「週刊現代」連載の「すれすれ」)もろくに書けない、と訴える手紙が届く中、宮城まり子は九死に一生を得る大事故に遭遇する。
メキシコからニューヨークへの帰途、彼女の乗った飛行機がエンジントラブルを起こし、二時間ほどさまよった末、どこだかわからない雪面に不時着したのである(救出されたのはそれから四時間後とある)。

この災難で死の恐怖に奮(ふる)えながら宮城まり子は、「好きです淳ちゃん好きです」という愛しさの感情が沸き上がり、淳之介さんと別れられないことを確認するしかなかったのである。つまり、吉行との幾多の偶然は、必然であったことに気づいたのである。
しかし、ニューヨークからパリへ渡った彼女に、又しても新たな災厄が待ち受けていた。たった一人の弟の交通事故死の知らせである(宮城まり子は小学生の頃、母親を病気で亡くしている)。
弟は売出し中の作曲家で、弟作曲のミュージカルを演じるのが二人の夢だった。淳之介さんとのことも認めてくれていた弟だった。宮城まり子は、父親からの電話を受けながらショックの余り、その場に昏倒している。彼女を介抱したのが、パリに旅行中だった遠藤周作夫妻だった。遠藤夫妻とその日、たまたま芝居を観る約束をしていたから、彼女の異変を知り得るところとなったのである。

悲嘆に沈むパリの宮城まり子に、淳之介さんのやさしいいたわりの手紙が届く。悲しみを癒すにはそのまま留(とど)まって外国にいた方がいい、ぼくも(作家的にも)衰弱している、それは君のいないせいである、一日でも早く君に会いたいけど、それは二人が落ち着きを取り戻してからの方がいい、等々。
手紙に接した彼女は、しかし次に予定していたイギリス訪問を取りやめ、即座に帰国を決意した。
アメリカでの飛行機事故が「あと三日でクリスマス」とあり、弟の死がいつのことかは書かれてはいないが、淳之介さんからの慰みの手紙は1月8日付けとなっているので、年が明けて昭和35年になっていたのがわかる(元々、旅行は半年間の予定だった)。
この後の「淳之介さんのこと」の記述に、吉行が宮城まり子の家で同棲に踏み切ったことが、「なんだか、かんだかありまして、彼が北千束の部屋で住むようになって」、とほのめかされているものの、その時期は曖昧にされている。
これを前章「百閒の喘息」で触れた「私は35年まで五番町にいたが」という記述と照らし合わせれば、同棲は昭和36年からということになりそうである。

吉行淳之介没後三年目に刊行が始まった新潮社版全集(1997年、全15巻)の最終巻に、吉行の宮城まり子宛書簡十三通が掲載されている。これは、この全集の年譜作成に宮城まり子が参画した余禄であったろう(吉行の彼女宛書簡は百通ほどもあったというが、吉行がそのほとんどを焼却してしまったと明かしている。残念)。
掲載書簡は一通を除いて、上記のニューヨーク、パリを旅行中の彼女に宛てたものである。
これらの手紙と解説文から、ニューヨーク出立は34年11月5日、弟の事故死は35年1月3日だったことが判明した。
またそれとは別に、ほとんどの書簡に「ニンジン」という奇妙な表記が頻繁に出てくるのである。

「梅崎(春生)さんのすすめでニンジンを医者に連れていったところ、すぐに入院して睡眠療法をしなくてはいけないといわれましたが、彼女は入院はいやだ、といっています。ぼくの要求と彼女の要求と全く喰いちがっており、それは当然で、その喰いちがいを話し合いで喰いちがいのまま解決法をみつけることにしなくてはいけないのですが、いまの彼女の状態では極端なことになりかねない。それをやわらげるために、ぼくは何とかして入院治療させて、比較的正常な状態で話し合うなり、ぼくだけどんどん行動してゆくなりしたい。そこでいろいろ論争をやり、どうにか入院までこぎつけたようです。まだはっきりしませんが、入院するとすれば、一ヶ月ほどかかり、子供は愛育会にあずけるなり、トナリでめんどうをみてくれるなり、ということになります。
ぼくは留守中は、しばらくは自分の部屋に帰ってデンワの処理などしなくてはなりますまい。まだ、はっきりしませんが、二十日頃まで山の上(ホテル)にいて、入院と同時にしばらく家へ帰るということになるかもしれない。したがって手紙はおふくろ宛にたのみます」(昭和34年11月16日付け、以下同)

すぐさま、「ニンジン」が妻文枝であることは了解されるのであるが、とっさに浮かんだのは飼い犬か猫の名前だった。考えてみればこういうケースの場合、二人だけが共有する隠語はより親密度を高めるための恋の小道具であり、睦言なのだ(ただし、「ニンジン」にどういう意味を込めていたのか、解説は付いていない)。
この書簡は、腎臓病のあと精神不安定になっていた文枝に、吉行が入院を勧めたのを嫌がりながらもしぶしぶ受け入れたことを、別れを決意して旅立ったことも知らないままに愛人に報告したものである。「トナリ」とは、あぐりたちのことである。
つづけて、「ニンジン」が出てくる箇所を拾い出してみる。

「ニンジンは二十一日から入院加療です。一ト月以上かかるらしい。入れかわって、ぼくは家に戻るわけです。君は、安心して、よく見物して、元気になって帰っていらっしゃい」(11、20)
「年末になると、ニンジンが退院するので、ぼくはアパートに移ります。住所新宿区四谷1丁目11。高桑アパート101号へ手紙ください。このところ、ぼくは、セックスの欲望がなくなってしまい、精神だけが、ふわふわ漂っています。いいかげんで帰ってこい」(11、22)
「ニンジンはいま睡眠療法中で、ずっと面会謝絶中です。十二月中旬のころまで、そうでしょう。この家に戻ってきたら、たちまちゼンソクで三日寝た。仕方ないのでプレドニンを使ってる。なめくじの出る家はもう困るから、一、二月末ころに全部引はらい、ここにビルを建てます。いま、ぼくだけの住む部屋を探しているよ」(11、26)
「ニンジンは、まだしばらく退院できない」(12、13)
「ニンジンは、一度会ったら、反応がひどく、また面会謝絶の状態です。このところ気持が衰えている。君は、あまり手紙をくれないね」(12、18)

「別居。といっているのに、なぜ、ニンジンとアパートに一しょに住むの、というのですか」(12、?)
これは、吉行がニンジンと別居すると書き送っているのに、別れを決意している彼女が曲解したフリをしてワザと書いて寄こしたのを、ついつい咎(とが)めたくなったのだろう。
「君が帰ってくる頃には、この土地は引はらい、ぼくはアパートにいる。ニンジンは、借家住まいをしていることになります。しかし、『自分だけ辛いおもいはしたくない』という君の考え方は困る。これからがたいへんだということを、しっかり覚悟してください。それが厭なら、あるいはできないなら、そのように言ってください」(12、30)
「今日が八日。九日に、ニンジンは赤ん坊と青山の方に引越しをします。ぼくは、当分、市ヶ谷にいるか、あるいは山ノ上いるかします。元気をだしてください。いまの君に必要なのは、神経をいら立てないこと、といってもムリなら、抑制、ということが大切です」(S 35、1、8、この手紙が弟の死を悼んで彼女を慰めたもの)
彼女からの手紙が少ないとなじったり、彼女が胸が痛いと書いてくるのを心配して病院へ行くことを強く勧めたりしているが、おそらくこれは決別に伴う恋の痛みであったのではあるまいか。

しかし、それにしても「ニンジン」呼ばわりは酷すぎるのでは。仮にも長い年月をともにした妻なのだから、ほかに言いようもあったろうに(作家の妻などになるものではない、とつくづく同情する)。
当然に吉行文枝は、これらの書簡をこの全集で読んだことであろう。彼女にとって自分の運命を変えたこの恋愛事件が、過ぎ去った遠い昔の甘い思い出となっていた筈はないと思えるからである。
なぜなら吉行文枝は、宮城まり子に張り合うようにして(最もこれは吉行没後十年の節目ということでもあるようだが)、「淳之介さんのこと」刊行より三年後に「淳之介の背中」(平成16年、港の人刊)と題する回想記を出して、このように書き記しているからである。

「(千葉の)佐原に入院してからしばらくして、肺の一部切除の手術をすることになり、今度は清瀬の病院に入りました。入院する日が近づいて来た冬のある寒い日、主人は庭で何やら燃やし始めました。危ないのでバケツに水を入れて持って行くと、主人の足元には、ノートや原稿がたくさん積んでありました。主人は炎を見ながら言いました。
『オレが死んだら、お前が可哀想だよナ』『そんな心配しなくても、手術は大丈夫よ』『でも、一応言っておく。もしオレが死んだら、記念館や展覧会といったことは一切しないでくれ。オレは何も残したくないんだ』『気持ちはよくわかりました。その気持ちは、時が経ってもずーっと同じですか』『そうだ』『それなら、一生のことですね』『アァ、そうだ。忘れるな』
ふと見ると、主人は私の日記帳を手に持っていました。
『ア・・・、それ私のよ』『オレが日記を書かないのは知っているだろう。だから、お前も書くな』
そう言うと、あっという間に炎の中に投げ入れてしまいました。ふたりは放心したように、黙って炎を見つめておりました」

どこかこの文章おかしくないか。
すでに特効薬(ストレプトマイシン)も開発されてはいたが、当時まだまだ結核という病気は死を覚悟しなければならないような重病で、近々に大手術を控えていれば尚のこともしかしたらという不安はぬぐいきれなかったであろう。しかし、このときの吉行はまだ芥川賞作家ですらないのであるから、この吉行の言葉は、オレが文学で成功した暁(あかつき)には、という意味であろう。吉行はかなりの自信家だから、こんなこと言わないとも絶対的断言はできないけれども、わざわざ「記念館や展覧会」とまで大言壮語するであろうか。後からとって付け加えたような不自然な感じはどうしてもぬぐえない。
これはつまり、宮城まり子が吉行淳之介文学館を建てたことへの当てつけではないのか、と思ってしまうのである(文学館落成は、この文枝の文章の五年前である)。
ちなみに、吉行の芥川賞受賞は、この手術後のことである。文枝が代理で授賞式に出席した。

あるいは「淳之介の背中」には、こんなことも書かれている。
「結婚して十数年後、こどもが生まれました。産後の肥立ちが悪く、私は腎臓を悪くし、しばらく家で横になっていなければなりませんでした。
そのころからでしょうか、少しずつ市ヶ谷の家の中が変わり始めたのは。
小さな家ですので、玄関脇の部屋に蒲団を敷いて寝ておりました。主人に会いに、寝ている私の蒲団を踏んで奥の部屋に入っていくような女性(ひと)もいました。そんな中で、柴田(錬三郎)夫人だけは、私の背中を優しくさすってくださいました。その暖かさは、今日まで背中に残っております」
腎臓の病気も「闇のなかの祝祭」や上述書簡にある通りで、ここに出てきた文枝の枕元を踏みつける女性が、次に書かれるあじさいの女性でないとは言い切れないからである。
なお、梅崎春生や柴田錬三郎などは、吉行や安岡章太郎たちの兄貴分的存在で親交があった。

つづきを引用する。
「寝たり起きたりが続いたある日、勝手口の方で音がするのでのぞいて見ると、主人があじさいを掘り起こしております。
「どうするのですか」
「ウン。これを持って行こうと思ってネ」
「こっちが色が変わる七変化。花言葉は浮気。そちらは隅田の花火。どちらにしますか」
「マア、普通のにするか」
私は紐と新聞紙を持って来て、持ちやすいように包んで手渡しました。主人は、それを車に積んで女の人のところへ行きました。
それまでにも女の人の話はしょっちゅう聞かされていましたが、あの人だけはやめてほしい。そう思いながら、どうすることもできませんでした。
そのころ、主人は何かに追いかけられるように、私とこどもをドライブに連れ出しました。東京湾の埠頭、横浜の山下公園、中華街、箱根・・・そのときどきで、向かう場所は違っていました。主人の神経が突き刺すように尖り、私は疲れがたまり、横になっていることが多くなりました。
母達があじさいの女性から招待されて、その人の家に主人と一緒に出かけるのを、私は何か違った世界の出来事のように眺めていました」(この光景は、前述の昭和39年の短篇「紫陽花」に描かれている)

あじさいの女性が宮城まり子であるのはいうまでもないが、「ニンジン」とはえらく違って、この呼称は優雅である。しかし「花言葉は浮気」なのである。表面は優雅でも、その言葉裏に含まれる悪意は皆無であったろうか(いったい吉行は、この時どちらのあじさいを選んだのか?)。
それにまた、著書の題名も微妙である。「淳之介さんのこと」の敬称付きと「淳之介の背中」の呼び捨ての違いにも、内縁の妻と正妻である二人の社会的立場が表れていて、底に秘めた対抗心を感じないでもないのであるが、これは勘ぐりすぎであろうか。
招待を受けて主人と出かけた母とは、もちろんあぐりのことで、それに和子と理恵も同伴したのだろうか(それともあぐりの夫だったのだろうか)。もし、この招待が昭和35年だとしたら(文枝の腎臓病からして、その可能性は高いのだけど)、あぐり53歳、和子25歳、理恵21歳の年である。和子は「アンネの日記」の舞台主演に抜擢されて女優への道を踏み出したところであったし、理恵は早大生であったと思われる。

さらに「淳之介の背中」のつづきを引用する。
「そのころのことは正直言いますと、あまりよく覚えていません。
ただ、私の中で何かがパチッと音を立てて切れて、それからは地球のマグマに閉じ込められたように、まわりの人やいろいろなことが恐ろしく、私は言葉がうまく出なくなっていました。私の気持ちを聞いてくれる人は誰もいなくて、ベルトコンベアに乗せられたように、私の意思とは無関係にことがスルスルと運ばれて、気がついたら病院のベッドに寝かされていました。
退院後、市ヶ谷の家の敷地にビルを建てることになり、私達は十数年間を過ごした家から越すことになりました。
『自分は他に行く』
主人は、そう言って何も持たずに行きました。私には、渋谷の借家を探して来てくれました。
喧嘩も説明もありませんでした。見えない力にものすごいスピードで動かされ、私はそれにただ従うだけでした」

宮城まり子への書簡にあった通りの、そして「闇のなかの祝祭」に書かれた通りの展開だったのである(ただし、宮城まり子はこの期間に吉行との恋を清算するべく渡米していたのであるが、その彼女の決意は、同じ手紙ながら小説では巧妙にアレンジされている)。
この果てしない愛憎の確執の中で、夫は神経を尖らせただけですんだのに対して、妻の方は神経を病むまでに打ちのめされたのである。その結果として、何が何やらわからないうちに別居を強いられて、否応なしに承諾せざるを得なかったということだったようである。文枝の傷心に追い打ちをかけるようにして、「闇のなかの祝祭」が刊行されスキャンダル報道に巻き込まれていった。文枝にとっては傷口を癒す間もなく、それ粗塩をまぶしつけられたも同然だったのである。
実をいうと、吉行文枝に「淳之介の背中」という著書があることを知って、さっそく図書館から取り寄せたとき、その中身とは別にもう一つの期待を持っていた。
ところが期待はくだかれた。ほとんどの本に付いている著者紹介が、この本には無かったのである。結局、吉行文枝の生年はわからずじまいのままである。
生年どころか、上に述べた「吉行淳之介全集」最終巻で、文枝に関する不可思議なことが起きていた。

この全集年譜に、吉行と宮城まり子との出会い(註)と文枝との入籍が新しく書き込まれていることは、すでに述べた。その昭和23年の項には、他の項目は一切なくて「この年、平林文枝を入籍」とのみ、ただ一行付け足されている。
ところが、この最終巻には「平林文枝は誤りで正しくは平文枝である」、とする正誤表が挟み込まれていた。平はヒラと読むのか、タイラなのか、ルビがないので判然としない。
年譜追加項目であることを考えれば、ほとんどありえないような間違いである(全巻で誤記は、これだけである)。出版事情に疎い者には、どうしてこのようなことが起こるのかわからないのであるが、まさか当の本人からクレームがあったとは考えられないので(不可能なので)、やはり単純ミスであったのだろう。
この三角関係にふさわしいミステリアスな出来事というしかない(とはいえ、年譜作成者に宮城まり子の名前があるだけに何だか釈然としないものが残るのも確かだ。しかし、それは全くの誤読であって、もしかしたら宮城まり子が間違いを指摘したのだろうか?)。
(註・女性雑誌の鼎談があったのは、昭和32年11月だとあるので、宮城まり子が吉行との別離を期してアメリカへ渡ったのは、きっかりその二年後ということになる。)

さて、もう一度「淳之介の背中」に戻って、その最後のページの文章。
「主人は私の誕生日には、必ず赤い薔薇の花を買って来てくれました。ひとりでバーに行って夜遅くなったときでも、ホテルでカンヅメになっているときでも、決まって赤い薔薇を一輪、炬燵(こたつ)の上にポンと置いてくれました。離れて暮らすようになった後でも、その習慣は変わりませんでした。
主人との生活は楽しく、幸せな人生でした」
こう締めくくられる吉行淳之介も凄いが、こう書き留める吉行文枝はまた(まだ?)すごい。
家出から実に四十四年、このように振り返られる「背中」を見せ続けた男。それに応えて遠の昔の生活を生きるよすがにして、耐え抜いた女。それにしても男は、いったいいつまで、かつての妻に赤い薔薇の花を贈り続けたのだろう(これもずいぶんミステリアスな話ではある)。
が、しかし「闇のなかの祝祭」では、ここに書かれた文枝の述懐とはうらはらに、この赤い薔薇は忌まわしい不吉の花として物置きに打ち捨てられたまま、どす黒く変色するまで放置されるのである。あたかも、その薔薇が離婚を拒む執念深き女の象徴であるかのように。
こう述べれば、小説に描かれた薔薇の送り主とそれを放置するのが誰であるかは、容易に想像できるであろう。


(以下、「闇のなかの祝祭」と「暗室」(3)につづく。)









 

自由人の系譜 吉行淳之介「闇のなかの祝祭」と「暗室」(1)

故郷徳島に3歳の一人娘を残し、夫の教え子と駆け落ちしたものの破綻、同人雑誌仲間の妻子ある男(小田仁二郎)と半同棲生活を送りながら、生計を立てるための少女向け小説を書き継ぎ文学修行を続けていた瀬戸内晴美が、「女子大生曲愛玲」(チュイアイリン)で新潮社同人雑誌賞を受賞し、次作「花芯」を「新潮」に発表したのは、昭和32(1957)年、35歳の時だった。出奔してから十年が経っていた。
ところが、「花芯」はポルノ小説と囃(はや)し立てられ、「子宮作家」の汚名を浴びたまま、五年もの間にわたって文芸誌から締め出されたという。瀬戸内晴美が文芸誌に返り咲いたのは、同人誌掲載の伝記「田村俊子」が、第一回田村俊子賞を受賞してからである。その翌年、「新潮」に発表した「夏の終り」で第二回女流文学賞を受賞することによって、瀬戸内晴美は確固たる文壇的地位を獲得した(40歳の時である)。

悪評芬々(ふんぷん)だった「花芯」について、のちに瀬戸内晴美は次のように述べている。
「私が『花芯』という小説を書き、徹底的に文壇ジャーナリズムで叩きつけられた時だった。円地文子さんと、室生犀星氏と、吉行さんのお三人からお便りをいただき、あの小説はいいものだと励ましていただいた。もしあの時、あの三葉の葉書がいただけなかったら、私はもう完全に自信を失って再起出来なかっただろうと思う。私はお三人が私の好きな作家だったことと、それまでほとんどおつきあいもない方だったのに思いがけない強い励ましを受けた。今でも私はその時の有難さを忘れてはいない」

昭和46(1971)年に刊行された講談社版「吉行淳之介全集」月報からの引用なのだが、未だ署名は寂聴ではない(僧籍入りは、この翌々年の51歳時だった)。
この文章には、吉行淳之介との初対面の様子も述べられてはいるが、その時期は「もう二十年近い昔」とあるのみなので、激励を受けた時、すでに吉行と「おつきあい」(面識)があったのかどうかは、はっきりしない。
新宿のバーで偶然出くわしたという吉行の印象を、「もう吉行さんは颯爽とした新進作家で、その美しさダンディさは匂うようであった」と、いささか熱っぽく回想している。いかにも瀬戸内晴美らしいのであるが、この月報を書いた頃も彼女は、やはり妻子ある男(井上光晴)と親しいj関係にあったと思われる。
それはともかくとして、新宿のとある酒場で昭和32年前後に出会った新進作家と作家の卵(?)は、それからも共に浮名を流したものの、二人の間にロマンスの花は咲くことがないままに、かといって途切れることなく、ゆるやかな関係が続いたようだ。

というのも、月報執筆から二十数年後の吉行淳之介の死に際して、「吉行さんとの交流は、私にはなつかしいけれど、私が好きだったほど、吉行さんは私を好いていてはくれないんじゃないかと、いつ頃か思いはじめていた。そんな気がしだしたのは、いつ頃からかと亡くなってずいぶん昔のことをふりかえってみたら、私の思い出の中の吉行さんは、いつでも優しくて、こまやかに気をつかってくれていて、決して私に冷たくしたことなんかないのだった。それなのに、なぜ私の方で勝手にそう好かれていないように思いこんだのか、今でもわからない」と、複雑な心情で追懐しているからだ(「群像」1994年10月号、「大根鍋の約束」)。
「好かれていない」のではないか、と感じた理由をたどっていくうちに、それが「出家」にあったのではと、瀬戸内寂聴は思い至っているのであるが・・・(吉行は無信心者であったから)。
ともあれ、はるか昔日の邂逅から幾星霜、死して追悼文で弔われた吉行淳之介、生き長らえて惜別の辞を手向けた瀬戸内寂聴。そのようなめぐり合わせが生じたのも、つまるところ二人して文学的成功に恵まれたからに他ならない。

ところが、ちょっと意外なことに気がついた。この二人の年齢、何となくずっと瀬戸内寂聴の方が年下だと思っていたけれども、そうではなかったのである。
大正13(1924)年4月生まれの吉行淳之介、片や瀬戸内寂聴は大正11年5月であったのである。また昭和の年号と満年齢がぴったり一致する三島由紀夫は、大正14年なので吉行より一つ下である(註。だから吉行の満年齢はそれに一つ足せばよいことに。当然、寂聴は三つを)。
これは死者と生者との間にしばしば起こる錯覚、混同であったようだ。まあ、それもこれも、寂聴先生のいまだ衰えない、ありあまる作家魂の旺盛さに圧倒されていたからでもあろう。寂聴先生は、今年で96歳になられるはずである。こうなれば是非、野上彌生子先人を超える健筆ぶりを発揮してほしいものだ。
(註・吉行と同年生れには安部公房、吉本隆明、武田百合子、山崎豊子、相田みつを、高峰秀子、アメリカの作家トルーマン・カポーティなどがいる。)

長寿ということになれば、吉行淳之介の母、吉行あぐりも107歳という驚異的な大往生であったのも、まだ記憶に新しいのでは(明治40年生れの彼女の死は、ついこの間の2015年だったのだから)。
吉行淳之介は、そのあぐり(安久利)と吉行エイスケ(栄助)との間に生まれた。生家は岡山で常に高額納税番付上位に入る土建業だった(吉行の祖父が経営)。その後、東京で11歳と15歳違いの妹和子、理恵が生れた。
吉行エイスケは、若き日の川端康成や井伏鱒二(二人は7、8歳年上)や舟橋聖一(2歳上)等とも親交のあった超早熟の作家であったし、あぐりは朝のテレビ小説の主人公にもなった日本の美容師の草分け的存在であり、和子は日本アカデミー賞主演女優であり、理恵は詩人にして芥川賞作家である。
和子はまた女優業のかたわらエッセイにも才能の片鱗を示し、あぐりもテレビ小説の原作となった「梅桃(ゆすらうめ)の実るとき」はじめ著作に手を染め、それぞれ数冊の著書を出している。つまり一家揃って物書きであるという、前代未聞の(?)はなはだ珍しいケースである(これから順次述べていくが、吉行と関わりがあった四人の女性たちも、それぞれ吉行回想本を著していることを思い合わせれば、まことに稀有な現象である)。

この家族で特に触れておくことがあるとすれば、淳之介誕生時の父母の年齢がエイスケ17歳あぐり16歳という異例の若さであったことである。
これに関してのエピソードがある。昭和19年夏の夜十時ごろ、淳之介とあぐりは祖母危篤の報を受け慌てて病院駆けつける。以下、吉行の自伝的短篇「崖下の家」から。
「電車を下りると駅の傍に交番がある。巡査が私たちを呼び止めた。母は頭からフロシキのようなものをかぶっていたので、一層若く見えたらしい。それでなくても、母と私とはしばしば姉弟に見間違えられていた。巡査は姉弟とは見ず、学生と女との二人連れと間違えたのだ。戦争末期には、学生が女性と連れ立って歩くことは、許しがたい罪悪と見なされていたのである。
その交番で私たちはかなり長い時間引止められた。母子であるという説明も、巡査は信じない。祖母が死にかけているのだから、という説明も信じない。とうとう私たちは、その巡査を病院の前まで連れて行かなくてはならなかった」
臨終には間に合ったが、その夜祖母は死んだ、とある。実話であろう(あぐりの「梅桃が実るとき」にも、同じ話が出てくる)。

父エイスケは左翼思想や文学にかぶれて、せっかく進学した岡山一中(現岡山朝日高校)を退学処分になるほどに札付きの素行不良少年であったため、後継である放蕩息子の行状を見るに見兼ねていた祖父が、所帯を持てば少しは落ち着くだろうとの了見の下に結婚させたのであった(あぐりの方も弁護士だった父親が突然病死したという事情があった)。
ところが、淳之介が生れてもエイスケの行状は改まるどころか益々激しくなって、ついには単身上京してしまったので、あぐりと祖母までもがエイスケを追っかけての東京暮らしが始まったのである(結局、家業はエイスケの弟が継いだ)。

ところがのところがである。文学に熱中して相変わらず外泊ばかり繰り返していたエイスケが(あぐりも美容師の仕事で忙しく、吉行は家を取り仕切っていた祖母に預けられていた)、才能の限界を見極めたのか、それとも次々とあぐりの美容院の支店を(岡山にまで)拡張するうちに、すっかり経営の方にのめり込んだからであったのか、きっぱりと27歳で筆を折って髪結いの亭主を決め込み、あぐりの稼ぎ出した儲けをそっくり株式につぎ込んでいるさ中、昭和15年夏34歳の若さで、それも1歳を迎えた理恵の誕生日に狭心症で急死したのである。
父親死亡時、ひどい小児喘息を患っていた和子は養生先の伊豆に預けられており、(旧制私立)麻生中学生だった16歳の淳之介は、チフスに罹患して伝染病棟に隔離され重体で臥せっていた(父の死は退院してから告げられた)。父エイスケが残したものは、株式売買による莫大な借金と身重の囲い女の存在だったという(この子どもは戦時中に死んだとされている)。
やがて日本は太平洋戦争へと突入し、市ヶ谷にあったあぐりのハイカラな美容室は類焼を恐れて取り壊され、隣接した住居も祖母の死の翌年、昭和20年5月の東京大空襲で焼失した。

瀬戸内晴美が初めて吉行淳之介に出会ったころ(それは「花芯」発表の前後ということだが)、吉行淳之介が「新進作家」だったのはまぎれもない事実である。
昭和29(1954)年に四度目の候補となる「驟雨」(しゅうう)で第31回芥川賞を受賞して以来、次々と短篇を発表し作品集を刊行していた時期であったのだから。
また吉行の受賞と相前後して、後に「第三の新人」と称されることになる「新進作家」たちが、芥川賞を通じて続々と誕生していた。吉行受賞の前年には安岡章太郎が、直後には同時受賞で小島信夫と庄野潤三が、続いて遠藤周作が、(そして石原慎太郎を挟んで)近藤啓太郎が芥川賞作家となっている。安岡章太郎の受賞から、わずか三年間の出来事である。
「第三の新人」には、これらの芥川賞作家に加えて阿川弘之、三浦朱門、小沼丹、曽野綾子、時には島尾敏雄までもが組み入れられたりする。受賞を逃したものの、ほぼ同時期に全員が芥川賞候補に挙がっている。

以下、余談が混じる。
この落選組のなかで最も芥川賞に近かったのは、吉行淳之介と競り合った曽野綾子「遠来の客たち」であったろう。丹羽文雄や石川達三(銓衡委員)が強力に推す初候補の曽野綾子に対して、負けじと対抗したのが、初候補作「原色の街」から吉行淳之介を評価していた舟橋聖一である。際どく吉行だけの受賞となったようだが、こういう時こそ二作授賞でもよかったのでは(そうなっていれば、吉行と曽野綾子の組み合わせは、美男美女カップルということで話題になったであろう)。

吉行、曽野以上に激烈な論争は、近藤啓太郎の受賞翌年の第38回芥川賞(昭和32年)でも起きた。開高健「裸の王様」と大江健三郎「死者の奢り」の一騎打ちである。思うにこれは、芥川賞史上最大の激突だったのではあるまいか。激論果て、この時も「裸の王様」の単独受賞で決着した。
激論は、石原慎太郎「太陽の季節」でも渦巻いたのだったが、この回は二者択一をめぐってではなく、作品そのものについての賛否であった。問題となった若者の性風俗が、マスコミでセンセーショナルに取り上げられて、芥川賞は一挙に世間の注目を集める文学賞となった(後年の村上龍「限りなく透明に近いブルー」でも同様の現象が起きた)。
開高健に次いで、「飼育」で受賞した大江健三郎が(その文学的資質もさることながら)、石原慎太郎同様に学生身分での受賞だったこともあり、話題を振り撒いたのも貢献しただろう。

ともあれ、その頃の「第三の新人」たちの置かれた状況は厳しいものであったようだ。
というのも「第三の新人」たちの背後を追走するかのように、大型新人と目された石原慎太郎、開高健、大江健三郎、あるいは異色の新人「楢山節考」の深沢七郎たちが出現してきたのに加えて、「第三の新人」の前方には、戦後すぐに出発していた野間宏、椎名麟三、埴谷雄高、武田泰淳、梅崎春生等の第一次戦後派、並びに続いてデヴューした大岡昇平、三島由紀夫、安部公房等の第二次戦後派と称された長篇小説を主体に重厚な作風を示す先発群団の存在があったからである(なので「第三の新人」と呼称された)。
身辺生活に題材をとり私小説的手法で矮小な日常の出来事を短篇にするばかりで、社会的関心が希薄な小市民的世界観しか持ち合わせない「第三の新人」たちは、まさに前門の虎後門の狼といった状況下で、そのうちに自然消滅するであろうとみなされていたのである。

吉行淳之介亡き後、「群像」(平成6年10月号)誌上で「我が友吉行淳之介」と題する追悼座談会が開かれた。出席者は阿川弘之、遠藤周作、小島信夫、庄野潤三、三浦朱門である。
その中で当時の「第三の新人」たちの立場が、矮小化されておもしろおかしく語られている。「大きなタンク(註・「第一次、二次戦後派」のこと)が行った後は歩兵(註・「第三の新人」たち)がついていく」という感じだったと小島信夫が言えば、それに応えて三浦朱門が、安岡章太郎の「戦後派といわれる人たちがブルドーザーでやった後を、我々は小さな畑にしているんだ」という言葉を持ち出している。「第一次戦後派」を「左翼崩れ」、「第三の新人」を「不良少年崩れ」呼ばわりされたこともあった、との阿川弘之の発言もある。

吉行自身も、「私の文学放浪」(昭和40年)に「『第三の新人』という名称には、貶(おと)しめるニュアンスが含まれていた。この場合の『第三』には、三等重役とか三等切符通じるものがあった」と振返っているし、安岡のことにも言及して、その頃、ロックフェラー財団の招きでアメリカにいた庄野潤三に、安岡が「第三艦隊ハ沈没シカカッテル」と報せていたこともあった、と明かしている。過小評価に直面するたび、彼等なりに危機感を抱いていたのである。
もっともらしく「第三の新人」と呼称されてはいたとはいえ、若き吉行エイスケを強力に惹きつけたダダイズムやプロレタリア文学運動のように、彼等に集団としての思想性、文学的主張があったわけではなく、小粒の小説を書く新人群が一時期にたまたま固まって出てきたのを、幾分かの揶揄と軽侮を込めて便宜的に称したに過ぎず、その意味では上流階級出身の武者小路実篤や志賀直哉たちを、大雑把に「白樺派」とひとくくりにしたのと事情は似ていたかもしれない(第一次、第二次戦後派だって、同じようなものだろうが)。ともかく「第三の新人」たちは、軽んじられていたのである。

月日は流れ、それからほぼ三十年後、昭和も終り近くなって昭和文学全体を俯瞰、主要作品を網羅した、その名も「昭和文学全集」(全35巻)が小学館から刊行された。この編集委員に井上靖、山本健吉(「第三の新人」の命名者)、中村光夫等と並んで吉行淳之介が名を連ねている。ということは、とりもなおさず吉行淳之介が昭和文壇の大家となったことを証すことであろう。
事実、「第三の新人」たちの危惧もいつのまにか雲散霧消、吉行淳之介の歩みは順風満帆そのもので、新潮社文学賞受賞を皮切りに芸術選奨、谷崎潤一郎賞、読売文学賞、野間文芸賞、日本芸術院賞を次々と受賞すると昭和56(1981)年には日本芸術院会員に選出され、それらと相まって芥川賞、泉鏡花文学賞、谷崎潤一郎賞、川端康成文学賞、野間文芸賞などありとあらゆる選考委員に就任という華々しい経歴なのだ。

しかも「昭和文学全集」全配本が終了した平成2年秋に、同じ小学館から「群像日本の作家」と銘打たれた、明治以来の日本文学を代表する二十三人の詩人、作家を精選したシリーズ(全23巻)が刊行され始めると、この日本文学界の最高峰たる歴々にまじって吉行淳之介の名前も入っているのである。
と、こう書いてもピンとこないだろうから、その顔ぶれを列挙してみる。
夏目漱石、森鴎外、樋口一葉、島崎藤村、泉鏡花、与謝野晶子、石川啄木、谷崎潤一郎、志賀直哉、萩原朔太郎、芥川龍之介、宮沢賢治、川端康成、小林秀雄、中原中也、井伏鱒二、太宰治、三島由紀夫、大岡昇平、井上靖、遠藤周作、大江健三郎である。

これには少しばかり驚いたけれども、人気作家を選んだともあるので・・・まあいいとして、「昭和文学全集」の方には、上に挙げた「第三の新人」のうち近藤啓太郎一人を除いて、全員の作品が複数収録されている(小沼丹だけは、やや軽い扱いにされている)。
これでみると「第三艦隊」は、どうやら前後二つの勢力に挟撃されても沈没することなく昭和の厳しい文学戦争を生き延びたのである(まさか、編集委員に吉行がいたからではあるまい。情実が働いていたら、もっとも付き合いが頻繁だった近藤啓太郎をよもや落とすことはあるまい)。
ちなみに「昭和文学全集」に収載された「昭和最後の新人」は、「限りなく透明に近いブルー」の村上龍であり、村上春樹の名前はない。

吉行と近藤啓太郎の交遊だけでなく、こもごも盛んな交流を展開したのも「第三の新人」たちの特徴であったかも(この点も「白樺派」と似ているのかナ)。おもしろおかしく書いた仲間内の交友録の量が、その親密さ、濃密さを物語っている(ここでも小沼丹だけは登場しない。「白樺派」における有島武郎的存在だった?)。
一般に「第三の新人」を代表する存在となると、安岡章太郎と吉行淳之介ということになろうが、メンバーの接着点の位置にいたのは吉行淳之介だったろう。それは吉行淳之介が「第三の新人」の文学的リーダーという意味ではなく、メンバーそれぞれが付き合い始めたころ、吉行家が市ヶ谷駅前にあったことで集まりやすく、たまり場なったのに加えて吉行淳之介が来るものを拒まず、飲む打つ買うの三拍子揃いの遊び好きだったことも大きく作用したからであろう。ただし飲む打つ買うのうち、飲む買うは別にして(?)安岡、遠藤、三浦、島尾、小島、庄野はバクチ嫌いであったのに対して近藤、阿川、吉行はバクチ狂いだったと、吉行がエッセイに繰り返し書き残している(また、聖心女子大出身の曽野綾子はもとより三浦、遠藤、島尾はカトリック信徒であり、安岡も晩年に遠藤の導きで入信している)。

安岡章太郎の抱腹絶倒交友録「良友・悪友」(1966年新潮社刊)から、内緒話を一つ。
メンバーの中では紳士然として比較的真面目派(?)の三浦朱門は、曽野綾子嬢に恋してめでたくゴールインしたのであったが、「何を仕出かすかわからない男」と警戒していた吉行にだけは綾子嬢との交際をくれぐれも秘密にしておいてくれと、安岡に頼み込んだとか。
これは本当のようだ。吉行自らも「私の文学放浪」に、「私がガラの悪いことを言うことによって、曽野綾子との縁談が毀(こわ)れることを恐れていたようだ。結婚式の日まで、私は曽野綾子嬢を見ることができなかった」と書いているのであるから(すると、安岡は三浦との約束を律儀に守ったことに?)。

さて、吉行淳之介の身辺雑記のつもりで、無駄口ばかり並べてずいぶん遠回りしたようだ(とはいえ、これからも、そうなりそうだ)。そろそろ標題の長篇小説に触れなければ。
まず、昭和36(1961)年(吉行37歳)に発表した「闇のなかの祝祭」であるが、この作品はその四年前から続いていた吉行自身の恋愛事件を題材にしたものである。四年前はちょうど、「新進作家」の吉行が「花芯」の瀬戸内晴美を激励した(であろう)ころと重なる。
その昭和32年11月、女性雑誌が企画した「ファニーフェイス時代」と題された鼎談で(写真家秋山庄太郎が同席)吉行は、当時絶大な人気を誇っていた女優宮城まり子と初めて対面した。この出会いが口火となって、二人は恋に落ちた。この鼎談そのものも、作家の芹沢光治良(こうじろう)が急に都合が悪くなり、吉行は代理出席であったという。となれば、運命的出会いだったのか。

この恋愛に引きずられる形で、結局、吉行は妻子を捨て家を出たのである。瀬戸内晴美の男版、世間で最も多いケースである。瀬戸内晴美が戦後混乱期の真っ只中に徳島から遠路上京したのに対して、吉行は岡山生まれとはいえ東京で育ったのであり、市ヶ谷の焼跡に戦後二間だけの家を再建し、そこが夫婦の住居になっていた(「第三の新人」たちが集った家である)。なので家出といっても、行方をくらましたわけでもなく、当初は都内を自分で車を運転しながら転々としていただけなのであったけど。
「もはや戦後ではない」の経済白書が出たのは昭和31年である。その宣言通りに、日本は経済大国へと驀進中で、庶民の間に急速に普及しつつあった「三種の神器」(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)は、やがて「いざなぎ景気」とともに「新三種の神器」(カラーテレビ、クーラー、自動車)の3C時代へと移行してゆくのであるが、吉行が自家用車を購入したのは、昭和34年もしくは35年のことだったのでは(参考までに書き添えておくと、皇太子昭仁親王と美智子妃の成婚式パレードは昭和34年の春である)。

安岡章太郎は「良友・悪友」に、「戦後はじめて自動車を所有したのは舟橋聖一だそうである」と書き起こして、「第三の新人」中で自家用車に乗り始めたのは、三浦、阿川、吉行の順番だったと述べ、しかし吉行の場合は便利な麹町五番町に家があるのにと不審に思って、その理由を問いただすと、吉行は次のように答えたとある。
「それは八千子さ、八千子のおかげで、こういうハメになっちゃったんだ」「何だって、八千子さん、そんなに自動車マニヤなのか」(と、これは安岡)。「そうじゃないよ。わからないやつだな」吉行は、じれったげにこたえた。「宮木八千子くらいになると、ちょっとしたハイヤーやタクシーの運転手には、みんな顔を知られているからねえ。いや向うが気がつかなくても、こっちが落着かない気分になるから、結局困ることは同じなんだ」
(この後一行空けて、八千子なる女人の正体が明かされる)。「宮木八千子(仮名)は著名なミュージカル女優であり、彼女と吉行との間柄が、だいぶ前からかなり親密になっていることは私も聞いて知っていた。どういうキッカケで、そういうことになったかは知らない」

もうしばらく、引用を続けたい。
「とにかく、これはよっぽどの覚悟が必要だぞ。行くところまで行く、向うはそのツモリが充分にあると思わなくちゃいけないぞ」(いつもならず吉行が、この恋愛に真剣になっているのを感じた安岡が忠告すると)吉行の方はまるで憑きものでもしたように、「なァに、そうなればなったで、こちらも行くところまでは行くさ。いずれ一生面倒は見てやる気持だよ」と平然たる顔つきだった。私は吹き出さざるを得なかった。面倒をみるといったって、当時の吉行と宮木八千子を較べると、正直のところどうしたって面倒を見られるのは吉行の方だと思われたからだ。
(とあり、続けて吉行がテレビも欲しがっている話に移る)。
つまり吉行がテレビを欲しいのは、そのなかに映る宮木八千子の映像が見たいからだ。そして、そのテレビが買えないのは、すでに吉行の細君が吉行と八千子の間に何かがあることをかなり強く疑っており、吉行はそれを負担に感じているというわけだった。

(そしてこういう説明が入る)。
元来、律儀で陽性な吉行は、これまで浮気をしても細君に報告し、報告した上で納得させるという、放胆さと実直さを混合させた一種特異の方法で家庭を治めてきたのだが、こんどは八千子嬢の立場を傷つけぬために、秘密を守りぬく義務を生じたのだから、負担は重かったにちがいない。吉行としては眼に見えぬ苦痛に相当イラ立ったり、悩まされたりしたはずだ。とにかく、これまでの〝放胆・実直〟から〝小心・不正直〟に家庭内の政策の変更を余儀なくされた吉行は、いままでとは逆に傍目にも滑稽なほど細君を怖れはじめた。すると、それは八千子嬢の自尊心を傷つけることにもなり、「そんなにビクビク奥さんのことを怕(こわ)がるのは、あたしに対する誠意がないからだ」といった責められ方をするらしく、それやこれやで吉行は病気にならぬのが不思議なほど疲労困憊していた。
そんな吉行にとって、唯一の息ヌキは(人目をはばかる八千子嬢との逢いびきに使う)自動車だったかもしれない。

(さらに、説明は続く)。
とにかくそのころの吉行は、家庭と、仕事場と、隠れ家と、八千子嬢の家と、子供の病院と、そんなところを五箇所か六箇所、一日に一度は見廻らないと、たちまちどこかが噴火し、爆発し、生活全部が破壊されるという危険な状態にあったことは確かだ。そんなメンド臭いことがよくも続けられるものだと、私は傍らで見ながら感心したり、アキれたり、また人ごとながらウンザリもさせられたりしていたが、吉行としては息をぬいたら立ち上れないという倒産寸前の事業家の心境だったのだろう。いずれにしても、そんなときには自動車に乗ると、自分専用の鉄のトーチカか何かにもぐりこんだ気分で、いわば兵隊が便所でしゃがんだような開放感と気休めの孤独に浸ることが出来るのかもしれない。(以上、カッコ内を除いてが安岡章太郎の文章)

「吉行淳之介と自動車の関係」という、そのものズバリの章題をつけた安岡章太郎のこの文章は、めっきり車の運転が上手になった吉行に誘われて、安岡と近藤啓太郎の三人が、千葉の佐原(結核にかかった二十代の吉行が、小島信夫に紹介されて療養していた土地)への小旅行に行く道すがら、休憩した利根川土堤で夕日を浴びつつ、八千子嬢心配りのメロンにブランデーをかけ、うまい、うまいとパクつくところで終っている。
こうして書写してみると、この引用文に「闇のなかの祝祭」の内容のほとんどが綴られているのに気づく。「良友・悪友」は、「闇のなかの祝祭」の四年後に書かれた交友記なので、安岡章太郎は当然それを読んでもいたろう。安岡がどのように評価したかはわからないけれども、「闇のなかの祝祭」の評判は酷いものだったようである(瀬戸内晴美の「花芯」が、そうであったように)。
吉行淳之介を語る際、しばしば引き合いに出される(この文章でも再々引用した)「私の文学放浪」の中で、吉行自身が「闇のなかの祝祭」に触れているので、それを以下にかいつまんでみる。

「百七十五枚の作品『闇のなかの祝祭』を書くために、私は七ヵ月かかり、同じ枚数の原稿を破棄した」「素材のなまなましさに引摺られかけ、そうなると、これまでの私の作風とは違ってしまう。違っても、全く別の作風として成り立てばよいのだが、中途半端になって文字が原稿用紙の上にへばりついてしまい、起き上がって語りかけてこない。そういう部分を破棄することを繰り返しているうちに、ようやく、作品を組立てるための材料を実生活から引っぱがして手のうちに握ることができるようになった」
「私が狙ったものはもちろん実生活の告白ではない。それではなにかといえば、女性に惚れたときの妻子ある男の状態の悲しさを含んだ滑稽さを描き出そうとした。男の気持が真剣になればなるほど、その滑稽さは大きくなってゆく」・・・
そういう小説だったけれども、「細部を私の実生活から持ってきたことは、私の失策だったかもしれない」。「自分の掌で掴んで確かめた体温の残っている材料に対する未練が、作家としては捨て切れなかった。したがって、この作品を告白として読んだ読者を、作者の私はあながち責めるわけにはいかない。
この作品を書いたことによって、いろいろのことが起こった。まず、文芸時評の大部分によってけなされ、わずかの人によって強く褒められた。ふやけたノロケ小説という評もあったが、余計な雑音から独立して読まれる時期がきたならば、そういう評が当たっていないことが分ってもらえるというのが、作者の自負である」

吉行の「自負」たるや相当なものであるが(註)、それには次のような創作態度があったからであろう。
「僕の書くものは体験をそのまま述べたものと考えている読者がいるが、一つの主題を表現するためには、体験をそのまま書けばよいという都合のよいことはありえない。ただその主題を形作るための材料を、僕は自分の体験に求めることは事実だ。なぜなら、その方が材料に血が通って実感が出てくるからである。しかし、その主題の材料にふさわしい材料が体験の中にないときには、その材料を虚構することもしばしばである。
そういう材料を一つの主題のために再構成したものを、そのまま体験記とおもわれることは、一つには、あるいはよろこんでよいことであり、また一つには、その奥にある抽象的な主題を読み取ってもらう力が、われひとともになかったことを悲しまなくてはならぬだろう」
この文章は「闇のなかの祝祭」より三年前の昭和33年、毎日新聞に「小説における『私』」と題して私小説を論じた小文の結論部分である。
(註・この文章だけでなく、吉行のエッセイ等からはこれに相応するような表現は多々みられる。これら過剰なまでの自尊心は、吉行家の長男に生れて学業優秀、兄を崇める年の離れた妹二人という環境がもたらしたものだろうか。)

もちろんこれはリアリズムの問題に触れたもので、同時に吉行の小説作法がよくわかる文章ともなっているのであるが、こと「闇のなかの祝祭」に関しては、ここに述べた吉行の懸念がねじれた形で的中してしまったことになる。
年譜を見るに「闇のなかの祝祭」は、昭和36年11月に「群像」に発表、12月講談社より刊行とある。異例の速さで単行本化されたのは、このタイミングで「週刊新潮」が吉行と宮城まり子の関係を、「小説を下敷きにし」たスキャンダル記事を報じたからであったろうか?
「私の文学放浪」には、記事になることを事前に伝えに来た「週刊新潮」の友人の編集者から、こうなってしまったのだからどうしようもないので、少しでも誤解がなくなるようにするために取材に応じてくれと頼まれたが、吉行はそれを拒否。「自分で蒔いた種」だと観念した上で、「深いものでもないが浅くもない」関係の、「あの作品を告白記と見做して」いる新潮社との絶縁を決意したとある。

この騒動を聞きつけた作家たちが「明日はわが身」とばかりに立ち上がり、吉行の窮地を救うべく新潮社に抗議を申し込んでくれたにもかかわらず、記事の題名を訂正(やわらげてくれたという意味か)しただけの効果しかなかったという。こう書かれている。
「訂正した題名は記憶していないが、元のものは〝スキャンダルの女たち〟というもので、女を主人公にしたトラブルを四つ集めた特集記事であった。それを見て、私ははじめて怒りを感じた。残りの記事は、すべて犯罪に関係のあるものだったからである。
転んでもただでは起きないのが作家としての心構えだ、と私はおもっているから、この記事を受け止めることができるのだが、M・MおよびHは立場が立場だけに実害を受けた。余計なことを書いてしまったかな、ともおもった。〝大義親を滅ぼす〟という心境には、あまりなれなかった。私自身は、終始かなり平静を保っていたつもりでいたのだが、気が付いてみると、五十円硬貨大の神経性のハゲができていた」

抗議してくれたのは、中村真一郎、高見順、柴田錬三郎(評判小説「眠狂四郎」を、当時「週刊新潮」に連載中だった)、水上勉に安岡と阿川だったと吉行は記している。週刊誌がそれこそ雨後の筍(たけのこ)みたいに誕生していた頃で、吉行が、浅からぬ関係にあると思っていた新潮社が「私が迷惑するのがわかっていることを記事にするのは、エチケットに反しはしまいか」などと憤慨しているのは、いかにも時代を反映してのんびりしたものだ。
文中のHは吉行の妻で、M・Mはもちろん宮城まり子である。記事タイトルから判断しても、安岡章太郎が笑ったようにあくまで吉行は脇役扱いで、スター宮城まり子の略奪愛を取り上げた(中傷した)ゴシップ記事であったろう。昔も今もマスコミに追われるのはスター(芸能人)の宿命だから仕方ない。それでダメージを与えられたとしても、宮城まり子は男の愛を勝ち取った側の、恋の勝利者なのだから自尊心までは傷ついてはいない。
しかし、Hすなわち吉行の妻はそうはいかない。それまでは夫婦間の問題でしかなかった夫の不倫が、突如世間に公開されたのである。誰でもがその名前を知っている人気スターが相手だということで、当然人々の耳目を集めたであろうし、しかも夫は御丁寧にも、不倫の一部始終を誰にでもそれとわかる人物構成にして、スキャンダル報道を裏書きするような小説を発表しているのである。夫の愛を失った女として丸裸で世間の晒し者にされたような屈辱と怒りで気も狂わんばかりであったにちがいない。

漱石門弟の作家内田百閒は今でも根強い人気がある。吉行も時折愛読したようである。最後の入院時に持ち込もうとしたのも内田百閒の「東海道刈谷駅」だった、と吉行を看取った宮城まり子が、その著者「淳之介さんのこと」に綴っている。盲目の琴の名人、宮城道雄の鉄道事故死を書いた小説である。何か思うところがあったのであろうか。
晩年の吉行に「百閒の喘息」という作品がある。百閒が喘息持ちだったことに着目して、昭和64(1989)年に発表した短篇である。この病気には吉行も(妹の和子も)散々悩まされたから、関心もあったのであろう。
小説では、喘息以外にも百閒とは奇妙な縁があったと書かれている。
百閒は吉行と同郷岡山の生れで、生家は後楽園の傍にあって(後楽園は、吉行が子供の頃から好きで中学、高校生になっても帰省するたびに行った場所とある。註)、吉行の生家とも近かったと述べ、こうつづく。
「上京したあと、内田百閒は昭和十二年に牛込市谷(いちがや)仲之町から、麹町区土手三番町三七番地に転居した。私は昭和三年から同区土手三番町一九番地に住んでいた。十九年だったか、町名表記が変り、土手三番町は五番町になった。
昭和二十三年、百閒先生はすぐ傍の六番町の新築極小住宅に移った」
つまり、東京でも百閒と偶然隣同士のようなところに住んでいた、というのである(ついでにいえば、黒澤明の映画「まあだだよ」の主人公夫婦が住む小っぽけな家が、この「新築極小住宅」である)。
(註・水戸の偕楽園、金沢の兼六園と合わせて日本三名園とされる。)

上文は「私は三十五年まで五番町にいたが、百閒先生の住居の場所は今でも曖昧である」、「二十二年間、歩いて五分ほどのところに住んでいたのだし、愛読者であったのに、道で見かけたこともない。とうとう、生身の内田百閒を見ることはできなかった」、と書き継がれる。内田百閒が81歳で没したのは、昭和46年である(三島由紀夫自死の一年後)。
ここにも深くもないが、かといって浅くもない関係がみられるのだが、実をいうと「百閒の喘息」の話をわざわざ持ち出した目的は、下線を施した部分に注目したからである。
「百閒の喘息」は小説とも、随筆とも、手記とも読める作品である。これは吉行の短篇によく見られる手法で、その存在を互いに意識しあっていたと思われる三島由紀夫を短篇にした「スーパースター」では、いきなり「小説というか実話というか随筆というか、自分でも判断がつかない」と、書き出してから話を始めているほどである。
「スーパースター」同様に、熟練の技で「百閒の喘息」も小説風に巧妙にアレンジされてはいるものの、素材はすべて「実生活」の「体験」だけを寄せ集めたものである。虚構と思われるものは何一つない事実の羅列である。そう断定しても誤りではないだろう。

このことからも「私は昭和三十五年まで五番町にいた」という叙述は事実であろう。わざわざ嘘をつく必然性は全くないのだから。この一行によって、吉行がその年を最後に、市ヶ谷の家を出たことが確認できるわけである。
どうしてこんな廻りくどいことを言うのかといえば、先に触れた「昭和文学全集」の吉行の年譜には、私的な事柄が一切記載されていないからである(多かれ少なかれで、どの年譜だって同じようなものだが、瀬戸内寂聴の出奔はちゃんと記載されている)。宮城まり子との出会いもなければ、吉行が妻Hといつ出会い、いつ結婚したかも、子供がいつ誕生したのかも一切書かれてはいない。当然、家を出た時期も。

したがってそれらの事実を確認するためには、盲滅法に当たりをつけて吉行の作品を、あるいは吉行周辺の作家が書いたものとかを(安岡章太郎の「良友・悪友」みたいに)、読み進めていくしか方法がなかったのである(もちろん、「闇のなかの祝祭」にも、それがわかる年月日の具体的叙述はない)。
それで早速、吉行死後に出た新潮社版「吉行淳之介全集」(平成9年、全15巻)を図書館から借りてきて、読み始めた数篇に「百閒の喘息」があったのである。
さらに全集年譜には、吉行夫妻の入籍した年と宮城まり子との出会いだけは記載されていた。はてな、と年譜作成者を見てみると、宮城まり子の名前があった。つまりは宮城まり子が、それを入れたということになるのだろうか。

さて、「百閒の喘息」の一行の意味するところは、宮城まり子との出会いからほぼ三年の月日を経て、彼女と同棲生活に踏み切るべく、その年を限りにして家を出たということである。
「闇のなかの祝祭」の発表は、昭和36年11月なので家出から間をおかずして書かれ、「群像」発表から日を置かずして予期せぬスキャンダルに見舞われ、その経緯を振返ったのが四年後の「私の文学放浪」での回想文だった。一連の流れはそういうことのようだ。
すでに、吉行の最期を看取ったのは宮城まり子だと、さりげなく(そのつもりで)触れておいたように、スキャンダルにさらされたからといって、二人が別れるようなことはなかったのである。却って、世間公認の仲になり、吉行の小説家としての知名度に貢献したのかも。
裏返せば、吉行は妻子を置き去りにしたまま、二度と元の暮らしに戻ることはなかったということでもある。

と、ここまでこの文章を書き進めたとき、筆者(この文章を書いている私)が家人と何気ない会話を交わしているうち宗教の話になって(もちろん吉行とは関係なく)、家人が偶然口にした「釈迦(ブッダ)も生れたばかりの我が子を残し出家した」という意味のひと言に、思わず吉行のことが頭に浮かんだ。
吉行が神仏を信じていなかったのは間違いないと思われる。例えば、祖母の臨終と死を書いた前掲の短篇「崖下の家」(昭和32年)には、語り手である「私」の宗教に対する思いが書かれている。
「自分は宗教というものには、不感症といってよい。人間の知恵で計り知れない存在を神とか仏とか言うとすれば、そういう存在はあるかもしれぬとは思う。しかし、そういう存在が人間と交渉を持つということは、全く信じない。そういう存在が信心深い人間を選んで手を差しのべるという考えに至っては、ナンセンスとしか思えない」
この一文は、そのまま作者吉行の見解であると受け取ってよいだろう。これはもう、確信犯的言辞である。

このことからも、無信心者の吉行に、カトリック信徒である曽野綾子を引き合わせたくなかったというのは、始めから全くの三浦朱門の杞憂でしかなかっただろうし、瀬戸内寂聴の吉行追悼文にあった吉行観察、すなわち仏門に入った寂聴が感じた吉行の微妙な態度の変化は、必ずしも彼女の思い過ごしばかりではなかったようである。
出家と家出、文字がひっくり返っただけで大きな違いを含むこの言葉。同じく妻子を捨てながら釈迦とはちがった吉行淳之介の家出(註)。
だからといって、吉行が行方をくらましたわけではない。折にふれて、妻子のもとに足を運んではいたようである。が、それは我が子恋しさというよりも、当面の目的があって妻との話合いを持つ必要があったためと思われる。
この、世にありふれた三角関係の結末は、神仏の思し召しであったのか、それともそこには家出した男の深層心理に、なお、妻子への配慮がうごめいていたのか、こういうケースでは意外な、したがって数少ない事例を示して展開したのである。
(註・やはり、この家出は結局のところ、吉行の「ブンガク」への出家であったのかも。つまり、吉行の家出は、充分に〝大義、親をも滅ぼした〟のであったのではないか。そういう解釈もできそうだ。)


(以下、「闇のなかの祝祭」と「暗室」(2)につづく。)
(追伸。今日、2018年4月14日は吉行淳之介の誕生日である。たまたまこの日、校了となったのもお釈迦様のお導きかも。)











 

自由人の系譜 中勘助「銀の匙」と野上彌生子「森」(7)

当初の目論見では、この稿を前回で完結するつもりだったのに、そうはならなかった。何事も思惑通りにはいかないものだ。人生みたいに。
と、そういう事情なのでこの最終章は、どちらかというとこれまでの書きこぼしを拾った余録めいたものになろう。 で(註)、この場面から。
「仕事いよいよ調子よい。『愛』 と昨日ことづけた原稿できめた。私が若い人の愛をこれほどみづみづと描いたのを人は不思議がるかも知れない。私の気もちに若い時からもえつづけたものが、大にそれに役立つたわけだ。しかし、それは今はしづかにほんの名残のりの花の香のやうに胸に漂つてゐるのみだ。それが却つてたのしく、快い」(S26、10、28、66歳)
これはこの年9月に中勘助夫妻を山荘に迎えてのち、一ヶ月ばかり経っての野上彌生子日記の記述である。
(註・文の接続に頻繁に使われている中勘助独特の語法。)

絶好調ではかどっている仕事は「迷路」の執筆のことで、その原稿の章題を「愛」と名付けたというのである。つまりはようやく勘助を山荘に請じ入れ、ひとつの念願を果たしての気持ちの高揚が若き日の初恋の記憶と相まって、そのまま筆にも乗り移って思いがけないほどのよい文章が描けたいうことらしい。
しかし目の当たりにした彼は昔の彼ではない、歳月は二人の間にも充分に斧を振るった。勘助滞在中の日記には眠れぬ夜を過ごしたとあるのだから、様々な思いが去来したのだろうが、思い出は思い出として楽しむほかはない、どうやらそういう心境に達したようだ。
が、「迷路」執筆の筆先を滑らかにしていたのは、そのせいばかりでもなかったのではないか。というのも、この後10月31日の記述には、例の「彼は笑はない哲学者になつてゐるが、私との話ではよく笑ふ。口をすぼめ、眼を細くして、おばあさんみたいな顔で笑ふ」彼、田辺元との親密さがすでに相思相愛の雰囲気を漂わせる段階まで高まってもいるようだからである(夫人の死からまだ間もないのだけれども)。

この時、野上彌生子が「迷路」の章題をストレートに「愛」とした気分がわかるようである。「迷路」は昭和11年に着手され、戦争を挟んでの余儀ない中断はあったものの昭和31年に完成させているので、ちようど二十年の歳月が費やされた文字通りの大作である。その代表作に、初恋や老年の恋が思いがけない形で影響しているとすれば、小説家野上彌生子はとても幸運な人であったといえるだろう。こんなことはまず起こり得ないのだから。
そればかりでなく、老年の恋は次の傑作「秀吉と利休」の誕生にもからんでいる。田辺哲学の高弟であった唐木順三の「千利休」を彌生子が読み、小説にしたいと考え、その仲介の労を田辺がとった(このことを知った勘助の彌生子宛書簡に、実は自分も利休を書いてみたかったのだとの一文がある。茶を通じての利休の求道精神に自己を重ねるものがあったのか?)。

そして最後の作品が「森」である。
「評伝 野上彌生子」のなかで岩橋邦枝は「森」について、「私は野上彌生子の遺作『森』を初めて読んだとき、とりわけ後半の熱っぽい劇的な迫力に息をのんだ。長寿でこれほどタフな女性作家に怪物性さえ感じた。それがきっかけで野上彌生子の人と作品に関心を注ぐようになったのだが、見てきたとおり彼女は怪物に非ず、地道な勤勉努力の人であ」ったといい、最後の最後まで「若々しいしなやかな精神の活力」を失わなかった彌生子に感服している。
また「森」の主題を、明治女学校で起きた聖職者と女学生のスキャンダル事件を通して、「彌生子が田辺元の哲学講義から学んだ人間の二面性、二重性」を描くことにあったと分析、それは69歳の彌生子が田辺宛に送った「一生をかけてたゆまず勉学いたします事によつて、一歩づつでも向上の道がたどれるはづと思ふ事のみが私のわずかな期待でございます」、「私は死ぬまで女学生でゐるつもりです」という文面とリンクする、という。

「森」執筆の後押しをしたのは田辺元あったであろうし、全く岩橋邦枝の推測する通りであろう。
このように述べると、「評伝 野上彌生子」は彼女の業績を讃えるために書かれた書物のように思われるかもしれないが、さにあらず、知性的でない野上彌生子の実像をも辛辣にえぐり出してもいる。あの野上彌生子がこんなことを!というような行いも容赦なく拾い上げられているのであるが、その最もたるものが中勘助への長年にわたる慕情の矛盾であろう。
つまり、若き日の彌生子の告白について勘助が一度も書いていないのは、一方的な「彌生子の片思い」に過ぎないからだと切り捨てた「中勘助の恋」の富岡多恵子の見解同様に、岩橋邦枝も彌生子の全くの「自分本位の思いこみで解釈したかもしれないが、中が一度も書かなかったのは、彌生子を問題にしていなかったからであろう」と、きっぱり否定した上で次のように書く。

「中が長期にわたり断続連載していた日記形式の随筆は、事実そのままではなく発表の時期(年)もずれているとはいえ、彌生子はつねに読んで、時には岩波夫人や周りの人から彼の噂を聞いて、兄の発病以来の彼の〈現実的な境遇〉が、彌生子の過去の告白などかまっていられないということぐらい、察してみなかったのか。また、中が『蜜蜂』で追慕しているかけがえのない〈姉〉は別格だとしても、江木万世と妙子との長年のいきさつを彼の随筆で読むかぎりでは、この美しくて才気に富む母と娘は、彌生子よりもはるかに深く彼の生活に関わっている。どこから見ても彌生子の負けである。かないっこない。彼女たち母娘の存在にくらべたら、彌生子の告白と別れは、中にとっては青年期の一つの小さなエピソードにすぎないように見える。
しかし彌生子はどう読んだのか、思いすごしを頑として変えようとしない。安倍能成宛の手紙の一節で見るとおり、彼女は自分の若き日の告白が中勘助のその後の生活を左右する原因になったと、六十半ば過ぎても思いつづけ、自惚れた独りぎめを自省するふうもない。この自分本位の思いこみの根強さは、迷わず挫けず小説を書きつづけた彼女の持続力とつながるものがある。彼女が日記の中でくり返し責めている夫豊一郎の嫉妬深さも、彼女の思いこみを差し引いてかかるほうがよいかもしれない」

説得力満点。恋、とりわけ初恋の魔力はおそろしい、それ以外に付け加えることはないであろう。
ところで岩橋邦枝は、彌生子の告白があったのは結婚後だと推定している。「もし結婚前のできごとであれば、中が安倍といっしょに彼女たちの新家庭へよく謡いに来るような交友はしたくてもできなかったであろう」
が、そのすぐ後に、「銀の匙」の原稿を漱石に送ってから朝日新聞に載るまで、勘助は漱石に三度会っているが、二回は安倍能成が三度目は豊一郎が同伴したのだという。それでは豊一郎が彌生子の告白をいつ知ったのかという問題が残る。もちろん告白を知った上で、友人のために一肌脱いだということも不自然ではない(でも、それよりは結婚前に告白を受けていたとするほうがより自然ではあるだろう)。
結婚後だとするならば、何ゆえに豊一郎ばかりに責めを被せることが彌生子に出来たのか、やはり納得がいかない。大分臼杵の御三家に入る家柄の小手川家のお嬢さんに生まれた彌生子と、その小手川家の酒を細々小商いするしがない雑貨屋の息子の関係が、結婚生活にまで影を落としていたというのだろうか。

何はともあれ同じ漱石門下から作家として出発した中勘助と野上彌生子。野上彌生子が終生変わらず漱石を師と慕いつづけたのに対して、中勘助は漱石の作品をまともに読んだこともなかったというのが実情のようである(最初の「吾輩は猫である」からして、途中で読むに耐えなくなって放棄したほどであった)。
「銀の匙」をめぐっても、後篇をより高く評した漱石とは逆に、勘助は前篇の方を気に入っていた。その理由は前篇の方がより良く詩的であるからという理由によるものだった。
中勘助の本質は根っからの詩人だったので、不純物を排除出来た独得の日記体随筆を愛用したのは彼の体質に合っていたのである。不純物を抱え込まざるを得ない小説は書けなくなるわけだ。

勘助の兄金一が自殺であったことを初めて公表した菊野美恵子氏(この方は金一の妻未子の兄の孫だという)の前掲の文章を読んでいたら次のような一文が挿入されていた。
「中勘助は漱石の作物を読んでいないというけれど、読む以上に彼は漱石を知っていた。鈴木三重吉や森田草平は漱石門下であることを誇称していたけれど、彼らにはそういう面での漱石の血は流れていない。中勘助は自分では漱石の弟子の〈末席を汚した〉といって謙遜しているけれど、そういう意味では、ほとんど直系だと言っていい」(西尾実・近藤忠義共編「現代文学総説第二」1952年、学燈社)
この文の著者は杉森久英。調べてみると、例の1987年の岩波文庫創刊六十周年大アンケートに杉森の名前があって、やはり「銀の匙」(ほかに日本文学では梶井基次郎の「檸檬・冬の日他九篇」)を挙げていた。推薦理由には「繊細な感受性と、はっきりした自我を持つ少年の成長の記録です」とあった。

至言であるかな。「漱石の直系」というのか、まさしく中勘助は漱石的世界をそのまま生きた人であった。そう思えてならない。
先ずもって勘助の詩藻(しそう)は漱石の漢詩の世界であるのに始まって、「銀の匙」は漱石の「坊ちゃん」の繊細少年版だともいえるし(兄金一を主人公にしたら「坊ちゃん」になるのかな)、勘助と兄嫁未子との関係はまるで江藤淳が想定したところの漱石と兄嫁登世との関係みたいで(「漱石とその時代」)、則天去私の世界だって(でもこれ本当に漱石が言ったのだっけ?)、勘助が専心求道した境地であったのでは。ま、こじつければ何だって似通って見えてはくるものだけど。
が、あながち見当外れではないかもしれない(杉森久英の論旨とは、すでにだいぶん逸脱しているけれども)。富岡多恵子も「中勘助の恋」にこのように書いているのだから。

「勘助と江木定男・万世との関係は、漱石の『こゝろ』に登場する〈先生〉とKの関係と逆になっている。〈先生〉は、友人Kがお嬢さんを好きだとの告白を聞いたために、それまで彼女と結婚しようとはっきり思っていなかったにもかかわらず、急に結婚を申しこんだ。〈先生〉には、Kがお嬢さんを欲するのを知るまで彼女は欲望の対象とはならなかった。つまり自分の欲望の対象の価値を保証してくれる第三者があらわれてはじめて自分の欲望を認識する。勘助は万世に〈鋭い刃物で胸板に刻みつけるやうな〉〈消し難い印象〉を受けながら、万世から相談を受けると定男との結婚をすすめ、定男が万世と結婚するというと〈心から成功を祈〉って身を引く。つまり勘助は『こゝろ』に於けるKの立場である。〈先生〉はKの自殺後、結婚してからもずっと墓参りを欠かさないが、江木定男は勘助の苦悩をおそらく知らぬまま無頓着に暮している。
勘助にはKにはなかった苦悩がさらに重なる。万世が結婚し、派手に暮して子供をもうけながら、勘助が家庭的にも文学的にも〈危機〉であった時期に、じつはあなたの方が好きだったと告白にくる。女(万世)の側からは定男が欲望の触媒をはたしたKの立場になるが、その時すでにKとなって欲望の対象外の世界に放逐されている勘助に、女と一対一の関係で相手の価値を発見できるはずはない」

まったく漱石は、勘助のこの恋愛劇を知っていたかのように「こゝろ」を書いたのであったかと思わしめるのだけど、でもこの三人の関係、どちらかというと「それから」における代助、三千代、平岡の三角関係に酷似しているのでは?
そう想ってくると、万世は「虞美人草」の女主人公藤尾とも、「三四郎」の美禰子とも重なってしまうし(こちらは平塚らいてふモデル説もあるけど)、「行人」の神経病みの主人公はまるで勘助のようでもあるし、「門」の寂しい夫婦なぞ兄のために仕方なく結婚した勘助の心象風景めいて読めてしまうのである。
上の富岡多恵子の仮説は、勘助の小説らしい小説「提婆達多」と「犬」を論じた章にあるのだが、もし中勘助がこの系統の本格小説を(野上彌生子のように)書き残してくれていたら良かったのに。その才は充分備えていたと推測されるのに。

さて、再び野上彌生子日記に戻って、野上彌生子が(豊一郎を別にして)愛した二人の同年生まれの男の死の記録を覗いてみることにしよう。
北軽井沢での「先生と奥様」の講義は、「午後先生へ(帰京する)御別れかたがた最後の講義として先生が鈴木大拙のためにいろいろ伺つた」(S35、11、29、75歳)のが、文字通り最後となった(田辺元全集月報にはそれをプラトンの『ポエチカ』と書いていたのは、それが本格的な講義だったという意味か?)。
翌年、正月早々の1月2日に地元の人から電話で先生が倒れたことを知らされる。「先生が軽るい脳溢血、右手に少々異常。気分もたしか、言葉にも支障ない。長野原の医師が来診。先生はお弟子さんたちには知らせるなといふが、とにかく私だけに内報」したのは、「野上の奥さまだけには黙つてゐては、あとで私(先生)が叱られるからといつた由」(1、3)だと知れた。
彌生子は風邪で体調が悪かったにもかかわらず、直ちに次男の親友のいる群馬大学医学部に連絡をとり、往診の結果脳軟化症と診断されると同病院への入院手続きを手配し(10日に入院)、唐木順三にも知らせた。

彌生子が最初に先生の病室を見舞ったのは、2月27日である。
「(先生は)おカイコのやうに蒼白であつたころよりいつそ血色がよいが、しかしそれが病気のしるしなのであらう。言語障害は六分位よくなつたといふが、それでもよくききとれない部分が多い。例の一筆書いておいて貰ふことは、ゑん曲に口にだしたが、肯定、否定いづれの返事も得られなかつた。いまは〈死〉とともに横はつてゐるにひとしいのに、却つてその死ともつともレンカンのある死後の事を、シンケンに思考することを避けてゐる感じがするが、それよりむしろ今は病気について思ふ事以外にゆとりがないのかも知れない。いろいろ思惟したことが、いまは思惟通りにはいかないうんうんの言葉もあつた。もう一度講義がきかれるやうにいつて別れた時には泣かれた。それまでも(付き添いの)梅田さんが紙をもつてそばから涙をふいたのであるが・・・」
彌生子が婉曲に口にしたのは先生の死後の財産処理についてである。先生の高弟たちがそれまでに遺言の作成を願い出ていたのであるが、田辺は未だ死を問題にしてはいなかったのである(このあと遺言により、遺産が群馬大学と手伝いの梅田夫婦に贈られたことはすでに述べた)。

このことを高弟の一人から耳にしていた彌生子は、見舞いの二週間ほど前にこう記していたのである。
「この三、四年、死こそは先生の思索の主題で、つねにそれと対決してゐるらしく語られたのに、今になつてもそれを近いものとは考へられないのは不思議である。平凡人ならこれもムリではない  しかし先生ほどの人がとおもはれるが、それでも〈死〉とともにある事が実感されないのは、やつぱり〈人間〉の愚鈍さであらうか。私が二十五六日に行く事を話した。その場合、自然に機会が見つかれば、私からキリダス事になりそうだ」(2、14)
5月10日、二度目の見舞い。
「先生は二月より顔色も普通の血色で、むくんだやうなふくらみもとれて快方が眼につく。しかし左半身の不随は依然としてゐる」

この年の山荘入りは7月4日。手伝いに来てくれる梅田さん(田辺に付き添っている千代の夫)から、彌生子はあらためて先生の発病当時のことを聞く。「正月元日に梅田さんが十時ごろ 年頭のアイサツに行つた時には机で書きものをしてゐたーマラルメの訂正ならんか。ーやがて右手が少ししびれる気がするとて床をとらせて寝た。その日の午後はフロのたつ日であつた。やめた方よからんと思つたが例のキマリは決して変へない流儀で、ぬるくしてはいるといひ、入浴中にタタキにうつ伏しに倒れた。もし湯ぶねの縁にでもアタマをぶつつけたらそのままになつたかも知れなかつた。低い呼び声に梅田夫妻が駈けこみ、二人が寝床に抱へこんだ。
その晩梅田さんが書斎の方へ泊らうといつたがそれもきかれなかつた。ところで夜中大便、小便をしたたか洩らし、朝になつてその後かたづけが大変であつたときいて情けなかつた。
これがあの先生かとおもふと気の毒ともなんともいひやうがない」(7、6、76歳)

7月17日の見舞いでは「先生は数日まへ胸が痛み、幻覚が生じたりで発熱、元気なく、私のハガキにたいして見舞いには来ないでといふ返事をお千代さん代筆でだしたとのこと、行き違ひであつた。お逢ひしないで帰らうかといつたが、とにかく逢ふとの事で病室に通る」、同行した谷川徹三が去り際に握手すると、少し泣かれたとあり、ついで「心デン図などにはまだ異状なく、暑さで著しく食慾がないのと、夜もしばしばの尿意で眠りのできないのが衰弱のもとらしい」と書かれる。
さらに7月31日には「先生は熱もとれ、心臓もその後異状なくなつた。さうして夜も昼も長時間眠りをむさぼるやうになつたとのこと。また物忘れも著しく、朝来た医者を夕方わすれてゐる有様といふ。痛ましい事ながら〈生ける屍〉に近いものになりつゝあるのではなからうか」と、心臓に関する記述はつじつまが合わないけれども先生の衰弱していく様子が見て取れる。

ところが彌生子も8月2日、幾度とない下痢で伏せってしまう。食あたりであろうといろいろ原因を考えるうち、いずれにしろ早い手当をとゲンノショウコを煎じて飲んだらてきめんの効果を発揮して、よく眠れた。
その翌日の記述。「夕立のためか夜半は冷え、それに下痢もあつたので布団を一枚とりだして重ねたほどであつた。頭痛も腹痛もあつたわけではなく、たえず便がつゞいただけなのに、からだに力がない。たつた半夜のこれだけの生理の違和が肉体にすぐ作用するのだから、先生の長い病臥が、それに脳の病気だけに、精神に大きくひびくのはやむをえない事であらう」
この日先生の遺産処理の問題があらかた解決しつつある知らせがもたらされた事、しかしながらそれにもややこしい諸問題が派生するという事がこまごま記され、こう結ばれている。
「いろいろと話をきくにつけても、人間は死ぬ事も面倒な事がつきまとふ。生まれる時にはお産婆と産着ぐらゐあればすむのだから、死は生よりよほど手数がかゝる」
この日をもって新しいノートに日記が交換されるや、いよいよ新ノート表紙には「田辺先生御逝去の記事あり」との短い上書きが認められるのである。

が、それはまだ半年以上も先のことである。彌生子は11月13日にも見舞うが「先生はお変はりなし」であった。そして25日、下山する。
12月31日の日記には、先生が正月から入院したことは不幸であったとしながらも、SとY(長男と三男)が無事学位論文にパスしたことを寿ぎ、「とにかくかうして三人の息子も一人前に社会的に地歩をかためてをり、どうにか生活する収入もあり、且つみんなそろつて健康である事は感謝しなければならない」と結んで一年を閉じている。
それではこの昭和36(1961)年という年はどんな年であったのか、参考までに彌生子の日記の記述から三点ほど拾っておく。
まず1月21日、米国大統領がアイゼンハワーから43歳の若きケネディに交代。ケネディは東西冷戦中の6月、ソビエトのフルシチョフ首相とウイーンで歴史的会談を果たすが物別れに終り、翌年のキューバ危機につながる。
その対談前の4月12日、ソビエトはガガーリンによる人類史上初の宇宙有人飛行に成功して、アメリカを宇宙開発の分野でもリードしており、フルシチョフは強気だったのである(「地球は青かった」の名言とともに、一躍有名人となったガガーリンは妻と来日もしている)。これらにおける彌生子の記述は、そのスタンスから当然アメリカに対してより批判的である。

また2月2日の日記には、前日発生した中央公論社社長襲撃事件の記述がある。深沢七郎の小説「風流夢譚」を皇室を侮辱した作品だといきり立った右翼が、その掲載誌「中央公論」の社長宅を襲撃した事件である。社長は不在で、お手伝いさんが殺され社長夫人が負傷した。以来、深沢七郎は姿をくらまし全国を放浪した。
彌生子は先生が入院中もずっと書き溜めていた原稿「秀吉と利休」を、この翌年一月から「中央公論」に連載することになる。
深沢事件の六日後、(以下、繰り返しになるが)相馬黒光(新宿中村屋創業者)の七回忌の記述につづけて、「明治女学校の事や巌本(善治校長)氏の事、ほんとうは一度書いておくとよいのだが」という一文があるのは、黒光が明治女学校の先輩だからふと書き付けたのだろうが、すでにして「森」の構想は胸中に浮遊していたものと思われる。
以上、蛇足ながら。

先生危篤の連絡があったのは、昭和37年4月25日であった。「ニ、三日前より病状に変化が生じ、脳軟化が左に移つたらしく、左脚が利かなくなり、言語障害がひどくなつた上、全身の発疹、腹部の膨れなどにて食事が不振に陥つた事が判明、早急にどうといふことはないにしろ、とにかく東京の方へしらせるべきだとの事になつた由」とある。
彌生子は28日には来客があって動かれないとつづけているが、その日に延期していた豊一郎の十三回忌食事会を予定していたからである。
そのためもあって29日群馬大病院に駆けつけると、先生の親族や弟子、病院関係者などがたむろする中で「先生はまだ昏睡状態でこの病気特有のいびきに似た声をたて」ていた。
「私は奥さまの死の場合は先生が一人でこまつてゐられたので万事とりしきつた世話をしたのではあるが、今は親戚から弟子の諸氏がことごとく揃つてゐる事故、なんにも手だしをすることはないのだし、御暇乞ひはこのまへの訪問ですましたといつてよいのだから(4月6日の見舞いを指す。先生は盛んな幻覚について語ったとある)、今日は一と先づ帰るべきだと思ひ」、唐木順三などに声をかけて帰京した。

上野から電車で成城へ着いて、そこから家人に電話したその電話で先生が死んだのを知らされた。四時二十五分に前橋発の電車に乗ったのだが(それを外すとあとは連絡が悪いので)、翌日の新聞で先生は四時四十五分に死亡したことが判明した。77歳であった。
「もう少しゐたら御臨終に侍してゐられたわけだが、しかしいつそ帰つた方がよかつたらう。もう一切がビジネスなのだから」(4、30)。前日にも「死はもう事務になつてゐた」と記述されている。
「昨日のあの状態の中で急に死が来て、一切が休止したとのこと。いかにも安楽な最後といふべきであつた。夜中に解剖、脳のマヒは可なりひどいものであつた由。脳髄はそれほど重くも大きくもなかつたとのこと、マヒで縮んだのかもしれぬとのこと」(4、30のつづき)
彌生子は北軽井沢での5月6日の先生の葬儀に出席するべく、前日山に入り葬儀の模様をるる書き連ねて三たび同じ感想を記す。
「臨終とともに死が事務になるのは誰の場合にも致し方がなからう。先生の葬儀もそれを免れず、また公的なものが加はつていつそう演出味をそへたわけだ。しかしかうなればそれがなりたけ効果的に行はれるのhs望ましいわけで、とにかくその意味でそれなりに自然に都合よくことが終つたのは関係者をホッとさせたであらう」

葬儀後、いったん東京に戻り再び6月3日、山荘暮しに入る。そこに先生の看病から解放された梅田千代が手伝いに来て、先生に関するさまざまな打明け話をする。
「先生のカンシャク話もいろいろ出たが、入院後はからりと人がかはつて冗談をいふやうにもなつた。お千代さんがこの春高校に進んだ二番目の娘のために時計屋をよんで買ふ事になつたら、〈ぼくにも買つて頂戴よ〉といつた由、また食事中に小水を催すと右手で失敬をしたさうな。病気まへの先生には想像もされない。またどうかして打ち明け話をされ、千代子夫人の発病は結婚して二ヶ月目、そのため長兄の芦野氏とけんかして絶交となつていた由、
これはずつとまへの御千代さんの話だが、先生はこの二月ごろかよく御念仏を唱へる声がきこえるといひ、彼らがそれを否定すると、その方が間違つてゐるやうに考へるらしい。先生、このごろでも御念仏がきこえますか、ときく、あんた達はぼくを信用しないからもうなんにも話さない、といはれた。
西欧哲学の合理主義に徹した思考者の耳が最後にはやつぱり念仏のこゑをきいたといふ事に私はなにか愕然たるものをかんずる」(S37、6、16、77歳)

この話しに相当の衝撃を受けたのであろう。執拗にこだわる。
「先生は正月発病の時には死を覚悟したらしい。
          一と足御先へ失礼いたします。
          どうぞ御無事で
といふ死亡通知をだすことを御千代に指示した。しかしそのまへに、〈死はよいものです〉の一句をはじめは口述し、それはやめよう、ととり消させたとのこと。この間の心理はどんなふうに働いたのであらうか。たしかに死をおもふ一方、なほどこか余裕があり気に見える。ところが病院での最後では死の意識はなかつたらしい。これは麻痺がアタマにも来てゐたせゐであらうか。私の十年余の聴講において先生からもつとも多くきかされたのは〈死〉の一言であつたと信ずるが、その死を死に及んで知らずに死んだといふ事が私にさまざまな課題をなげかける」(6、28)
もっともこの執拗さが野上彌生子足らしめている粘液的な内燃力なのであろうが。

6月16日の記述には、実はもう一つ重要なことが記されていた。
「大島(康正、田辺元の高弟の一人)さんらが先生の机のヒキダシから見つけた紙ぎれに私に関するものがあつたらしい。屹度手紙の束も見つけたに違ひない。彼らとしてはもつともおもしろいものが手に入つたわけだ。しかし手紙は先生のと交換にとり返す方法がなくはない。どちらだつて構はない気もちがあるが」というものである。
彌生子がこれを誰から聞いたのか、この後大島たちが彌生子にこのことを話したのか、あるいはただ黙認したのみだったのか、手紙の束を発見していたのかを含めて、彌生子の短い記述からは一切わからない。

その答えの一部は、それから四十年後の2002年に出版された「田辺元・野上弥生子往復書簡」の「編者あとがき」にあった。編者は二人いて、一人は「野上彌生子全集 第II期」の編集者宇田健(岩波書店)である。全集編纂に携わった時、彌生子の書斎から「先生からの手紙」と上書きのある箱を見出した。
一方、田辺の遺品管理者であった下村寅太郎没後(1995年没だから、大島の発見から33年後)、書斎、書庫を整理する中に田辺宛彌生子の手紙が収められた箱を発見したのが、これも既述した「物語『京都学派』」の著者竹田篤司であった。つまり下村と大島は同じ京大哲学の流れをくむ先輩、後輩の間柄で、共に東京教育大学(現筑波大学)の教授同士であり、その教育大で下村の薫陶を受けたのが竹田だった(なお大島は下村に資料を預けたまま先に死去している)。
発見者の宇田、竹田が連絡を取り合って貴重な一冊が出来上がった。
どうやらそういう経過のようだ。ともあれ「どちらだつて構はない」という彌生子の潔い勇断があったればこそ、こうして秘められた往復書簡集を目にすることが出来たのだ。

それでは日記はどうか。岩橋邦枝は「評伝 野上彌生子」にこう書いている。
「彌生子は八十歳のとき、死後の日記公開を親しい編集者に容認した。しかし発表を意識して手を入れた形跡はない。身内や友人知人に浴びせる悪口も、その日その場の感情にまかせて書きつらねてある。創作に精魂をかたむけ、推敲に推敲を重ねる遅筆な彼女が、日記をいじり直すヒマも関心もなかったことは日記の内容が示している。
日記の公表で、彌生子が一生秘密にした初恋の体験と、老年の大恋愛も私たち読者に初めて明かされた」
日記の公刊は往復書簡集に先立つこと十六年であったのだ。

その初恋の人中勘助の死に野上彌生子日記はどのように反応したのか。
「飯田橋の日大の病院に中さんを見舞ふ。胃カイ瘍ではなかつた事判明とてひとりベッドでつれづれをかこつている有様、もつて行つてあげた英国製のジヤムをパンにつけておひるを食べたりするのをあひだにして、三、四十分ほどゐて辞去」
この後である、例の痛烈な批判が出るのは。再録する。「相かはらず愛読者、銀の匙の話が出る。幸福な人かなとあはれむ思ひで客観的に淡々と退屈を感じつつ接する自らを私は一面おどろきで見る。この一箇の存在の為に半生以上を苦悩した事はなんと奇妙な夢であつたらう。帰ると中夫人のハガキが来てをり、病気は肝硬変といふのだとガッカリしている」(S37、4、23、76歳)
この見舞いの翌々日に、彌生子は田辺元の危篤の電話に接する。

こうまで見下げ果てているくせに、自分がいま飲んでいる薬の問い合わせ電話をした序でに肝硬変の症状をも訊ねて、その返事を中夫人に知らせているのである。
それから二年後(39、5、29、79歳)、何の用事があったのか、彌生子は雨の中うろ覚えの中家を散々探し廻って訪問までしている(この日、安倍能成がめっきり衰えたことが話題に上っている)。日記の記述は念願の再会が叶った頃と比べると極端に少なくなっているけれども、要するに細々と交際はつづけていたということのようだ。
そして11月5日、「〈朝日〉賞に中勘助氏があがつてゐるとかで、その批評を求められた。他には大仏(次郎)氏だの、井上靖氏だの、私の『秀吉と利休』を推してゐるものも少しはあるとのこと。(略)ーとにかく中氏は特殊な存在といふ観点からすればわるくはないし、彼自らもさぞ悦ぶ事であらうが、大仏氏が文化勲章だけでも奇妙な受賞と思はれるのに、朝日賞までとは・・・日本の文学がその程度の事ですむのは遺憾なことかな」と、朝日新聞の文芸担当者の情報を得ての感想。彌生子は大衆文学の価値を認めてはいなかった。

明けて昭和40(1965)年1月3日、「〈朝日賞〉の発表に中さんと大仏さんがいつしよに入つてゐる。中さんに御祝ひのデンワをかける。私情としては彼の入賞はよかつたと思つても、これらの二人にどれだけの文化的な功労があつたとするのかといふ問題になれば、選択は疑問になる。しかしまあ世の中の現象はこんなものであらう」と記しながらも、すでに引用した次の日記文につながるのである(これも再引用する)。
「中さんに宗麟一本大徳寺納豆をとどけさせる。朝日賞の御祝ひに宗麟が役だつたわけである。それにしてもこんなめぐり合せになることが、染井のころに想像されたであらうか。私のこれらのプレゼントも正直にいつて彼の文学への敬意や賞讃のためではなく、私の若かつた時代の思ひいでへの捧げ物である。しかもそれを知るのは彼のみだ。思ひいでといふものは悉(ことごと)く美しいものではない。私たちのものにしろ、ー私にとつては苦しい、懊悩の数十年であつた。しかもいまとなつては彼とほんのあれだけの触れあひを超えなかつた事は、おたがひになんと幸運であつたかとおもふ。もしさうでなかつたら、私の生活はどんな事になつてしまつたか分らない。もとより文学も放棄されたらう。私の晩年の生活が現在の好ましい形式をうちたてる事ができたのは、彼と別々の道を歩いて来たためといつてよい」

この文章を再引用したのは別の理由もある。下線を引いた部分、「染井のころ」という表現である。この言葉は同じ使われ方で、他の箇所にも出てきていた。その時々から気にはなっていたものの、肝心の「染井」そのものがわからずそのままにしていた。
ふと思いついて「新潮日本文学アルバム 野上彌生子編」(1986年、新潮社刊)に当たってみると、成城に落ち着くまでの東京での彌生子旧居が全て(七ヶ所)図解入りででているではないか(19ページ)!しかもその略図には「染井霊園」との書き込みとともに、その近くには彌生子の旧宅表示がされている!そこの住所は府下巣鴨町上駒込338番地(明治39年から41年)、同334番地(明治41年から大正2年)、同329番地(大正2年から大正6年)となっている(カッコ内は居住期間)。つまり、彌生子はここで豊一郎と新居を営み、ごく近隣を二度家移りしているのである。
その一角(隣)には、まだ辻閏と夫婦であった頃の伊藤野枝の家も示されている(明治45年から大正3年)。他にも豊一郎の下宿や漱石宅、芥川龍之介宅、宮本百合子の実家や東京大学、それに明治女学校の位置も。

「染井のころ」は、明らかにこの地を指し、この時期を示しているものと想像される。彌生子の懐古するのがこの地、この時期であるならばやはり告白は結婚後にされたと考えたくなるのであるが。
彌生子は上京して明治女学校へ通うのに本郷の父方の叔父の家に寄宿した(明治33年から38年頃まで)のを、何があったのか(たぶん豊一郎との関係だろうけど)明治38年には神田に引っ越し、そして女学校を卒業した翌年に巣鴨に新婚として移り住んだ、そういう経緯であるようだ。
そういうなかでわざわざ「染井」を出すのは、やはりその場所で夫の友人として勘助に出会った。例のヒューマニズム云々というのは、夫豊一郎を裏切っての告白という意味ではなかったのか?(先に否定したが、その意味では万世と同じ告白をしたのかもしれない)。出会いも別れも一切は「染井」にあったのでは。・・・

4月25日「中さんから手紙」。「宗麟」について朝日新聞に書いたエッセイの切り抜きを勘助が送ってきたのである。「六十年のつきあひなのに、ろくに話あひをしない事を書いてゐた。これは私たち二人だけに分かる言葉だ。一度あなたと話したいのだけどともあつた。何十年と私はその日を夢見て来たやうなものだが、いまとなればいつそなにごともいはず、話しあはずに、六十年まへのイメージをその沈黙の中に保つた方がよいのではあるまいか」
それから一週間ばかり経った5月4日の朝、彌生子は健康診断を受けるために、いつもより早く執筆を切り上げ(毎日午前中を執筆の時間に充てるのが習慣となっていた)、「新聞を取りあげたところ中勘助氏の逝去の事が報じられてゐたのにうち驚ろく。三日夜七時二十分に日本医大で亡くなったとのこと。数日まへに手紙を貰つたこと、それに常のハガキには書かないことまで書いてあつたこと、それについての私のおもひをもこの日記にしるしたあとだけにショッキングであつた。しかし涙はこぼれなかつた
いつそ冷静に過ぎ去つたむかしのいろいろさまざまがあたまの中を通過したのみであつたのは老ひの落ちつきか、それとも老ひの胸の硬化か。いづれにしても私の過去の秘密の大きな部分が、地上からは去つたわけである」

かつての想われ人の感慨は別にして、中勘助は、「私は死を望んではゐない。生を望んでもゐない。私が心から望むのは〈私〉が存在しなかつたことである」(「沼のほとり」大正12年6月某日、38歳)と自ら記した世界へと旅立ったのである。

彌生子の日記は日付、曜日のあとにその日の天候が必ず書き込まれ、訃報を目にしたこの日は「美しい五月晴れ」とあり、勘助の永眠した3日は「雨」と記載されている。したがって上文4日の記述は次のようにつづいている。
「大学(三男の通う東大)に行くまで車窓に映る市街の昨日の寒いわびしい雨に代はる新鮮なみづみづした緑のいろは快(こころよ)いものであつた。燿三(ようぞう、三男)と落ちあふ約束の学士会の食堂でランチをたべて彼の(実験物理学の)研究室に行き、宮本梧楼さん(著名な実験物理学教授)を訪ね、彼の実験室を三つ遍歴。彼もそれを見て貰ふのに悦びを深くしてゐるふうであつた。宗麟一本呈上。この理学部のなんとも古色蒼然たる建物、とりわけ入口の空濠の厚いまるい壁にそうての通路から、エレヴェータのところへの暗い廊下、ロンドン塔そつくりである。しかしこの中の小さい部屋、椅子のきれさへちぎれた村役場にもいまはめつたに見いだされない小室は、いかなる権威によつても、巨万の金によつても、自由にされえない特別の世界である事が新たにしみじみ思はれた。ここの主人公だけには天皇でも、首相でもよしいくらなり度くてもなりえないのである」
アカデミック好きと言えばそれまでだけど、この精神があるから彌生子の老年の恋も生まれたのであったろう。それにしても快晴の空の下に拡がる緑の照り返しを目にしての躍動感、それに次いでのランチと実験室の見学は、生と死の鮮やかなコントラスト意外の何物でもない。勘助の死の悲しみなど微塵も感じさせない、この一連の文章は野上彌生子の真面目(しんめんぼく)というところであろうか。生者の、この日の診断の結果に異常は見られなかった。

まだ記述はつづく。その帰り道、「中野の中さんのところへ御悔みに廻はる。二十七日の夜烈しい頭痛とともに嘔吐、それは中さんの父上の病気とそつくりであつたらしく、おやぢと同じだ、あはてるな、といつた由、そのあと吐血、主治医が来ていつもの日本医大に入院、胸や腹部などに麻痺が生じ、臨終の二日まへはほとんど昏睡のままで逝かれたさうな。
七八人の弔問者が階下の部屋の一方に座してをり、和子夫人の小父さんなる山内義雄(フランス文学者、翻訳多数)夫妻、小堀杏奴、中さんの姪で、和子さんと結婚する時の仲人をつとめたといふ方など、それから中さんが話してゐた燿三夫妻とオハイオでいつしよだつたといふ石井さんといふ英語の教師の方などにお逢ひする。
このくらゐの人数でのひそやかな集りはいつそしんみりとして好ましい。
安倍能成も悔みに来た由、(以下、略)」。そしてこう結ばれる。「疲れはしたが、それでも自分で晩い夕食の支度をするのに困りはしなかつた」彌生子は5月6日生れなので、翌々日の勘助の葬儀の日に80歳の誕生日を迎えていたが、それに関わる記述はない。

5月6日。「安倍さんよりデンワ、(主に、明日の謡の稽古の話を交わしたのであるが)中さんもとうとう亡くなったのねと電話のはじめに話す。あなたも御葬式にいくでせうといふ。さてその葬儀は一時から青山一丁目の玉窓院で行はれた。狭いもとの青山の名残をとめた横町でクルマも一台がやつとといふ有様だが、寺は門からの前庭が奥深く、敷石も古びてもの静かな中さんの御葬ひの場にはふさはしいところ。表玄関が式場でまへに張つたテントの下に焼香の場が設けられてゐた。行つた時、ちようど安倍さんの弔辞の挨拶が行はれてをり、お仕舞ひのところだけ聞いた。いつもの彼流儀の脱線がなく、友情に充ちた言葉のやうであつたのはよかつた。存外につぎつぎ参拝がせまい裏小路につゞく。愛読者として生前の彼がつねになつかしがつてゐた人々も交つてゐるのであらう。山内義雄氏の挨拶を受けた。またお悔みの日に出逢つた英語教師の石井さんからも。帰りのクルマのうちで、彼の訃を耳にしてからはじめての涙がにじむ。何十年のおもひを果してやつと逢えば逢はれる日を持ちえたが、全く彼の二十三日の最後の手紙にあつたやうに、二人だけで六十年間のことを語りあつた事はない。語らなくとも分つてゐるつもりであつた。たまに交した電話の短いやり取りがそれに代つてゐたわけでもある。しかしいまは電話をかけても彼はもう現はれては来ない。しかも電話の向側にはまだ彼がもとに変はりなく存在しさうな思ひが消えない。
T(豊一郎)に対する私の情感にはかうした純粋な思慕はない。それは他のふくざつな回想がそれを乱す為だ。結局N(勘助)とは満たされなかつたが故に永久に純一でまじりつ気のない愛情でおたがひを繋ぎえたのである」

かくして「野上彌生子の恋」は幕を閉じた。田辺元の死には涙を見せなかった彌生子も、初恋の終わりを自覚した時には涙ぐんだのである。初恋も故郷も遠きにありて思うのが、どうやら賢い選択なのかもしれない。
安倍能成はこの翌年に、野上彌生子に至ってはこののちも強靭な生命力を保ち、大作「森」に「雪見にころぶまで」(註)と最期まで取り組み、この日からちょうど二十年後、脱稿まであと数頁、100歳にあと数日というところで力尽きてしまったことはすでに述べた通りである。
近来、日本は世界でも有数の最長寿国となって久しい。先だっても、医師の日野原重明さんが105歳という高齢で亡くなられたばかりであるが、日野原さんは明治44年生れのようだ。この物語でいえば江木妙子が明治41年生れなので生年が最も近いか。そう考えたらなおさら凄いことのように思えてくる。
(註・「森」巻頭の作者の言葉や「森」連載中の日記に見える言いまわし。)

当然、文学界においてもこの傾向は押し寄せ、長寿作家なんて珍しくも何ともなくなった。
まど・みちお(104歳)、石井桃子(101歳)、小島政二郎、土屋文明、丹羽文雄はいずれも100歳まで生きた。
現代作家では、佐藤愛子(大正12年生れ)がちょっとしたブームだし、ドナルド・キーン(大正11年生れ)も健在のようだ。この人は美術家だが、映画監督篠田正浩の従姉という篠田桃紅は大正2年生れだから100歳を超えている。ま、作家が短命だったのに対して画家は長命者が多いのが昔からの通り相場ではあるようだが。・・・
そういえば、大事な人を忘れてた。未だもって第一線で活躍中の瀬戸内寂聴女史も、ドナルド・キーンと同年生れだったのを。

その瀬戸内寂聴に「奇縁まんだら」という好評を博し、シリーズ化された随筆漫談がある。文壇はじめ各界著名人との交友を綴った人物点描記なのだが、その中の野上彌生子編に宇野千代(彌生子より12歳年下、この人も98歳まで長生きした)が出てくる(「奇縁まんだら 続のニ」)。
それに宇野千代はこう書かれている。。「小柄で体の背骨をしゃんと伸ばし、いつでもおだやかな表情をされていたが、体のどこにも一分の隙(すき)もなく、剣道の達人のような身構えが伝っていた」と、彌生子を形容し、「宇野千代さんは亡くなる前、私に言われた。『私の畏れ仰ぎ見る人は、天皇陛下と野上先生のお二人です』」。瀬戸内寂聴はこれ以上何も付け加えていないので、言語明瞭意味不明量のままなのだが。あの、宇野千代を畏れ入れさせたとは、いったい何があったのであろう?いや、何もなかったようにも思える。あまりに強烈な一言だったので記憶に残っていたのだが、うーん、わかる、わかるまではいかないけど、ほんのちょっぴりわかるかな?

余談ついでにもう一つ。
灘高の名物教師に橋本武先生がいた。明治45年生れの先生も101歳まで長生きされた(2013年没)。橋本先生は昭和25年から(昭和59年に教頭職で退職されるまで)「銀の匙」ただ一冊だけを教材にして、中学の国語の授業三年間を行なったことで有名になった(その間に灘高を東大進学者数全国トップの座に導いたともいわれる)。灘校は私立で、クラスも持ち上がり方式だったから可能だったらしい。
どんな授業をされたかについては、教え子たちがそれぞれ本にしているのでそれを参照してもらいたいが、昭和25年となればまだ中勘助が生前のことであり、「銀の匙」の内容に分からない箇所があれば勘助に直接問い合わせ、勘助もそれに丁寧に答えたという(実際に勘助に会いに行ったことも何度かあったという)。勘助がよく口にした愛読者の最もたる一人であったろう。
小学館文庫「銀の匙」はその橋本先生の三十五年の心血が注がれた註釈と解説付きの貴重な一冊である(でも残っているのかな)。

中勘助と野上彌生子、27歳と99歳で自伝もどきの小説「銀の匙」と「森」を書いた二人の作家、考えてみれば性別の違う、あるいはそれゆえに人生の道程も徐々に違って行ったけれども、精神的には元々時代が生んだ一卵性双生児ではなかったのか?二人の生の断面を綴ってきて、そんな気がしないでもない。
ともかくそういう括(くく)りにして、唐突ながらこの辺で決着としよう。

 

自由人の系譜 中勘助「銀の匙」と野上彌生子「森」(6)

そのほとんどが市販の大学ノートにつづられた野上彌生子日記は、新年ごとに更新されているわけではなく、ノート全部を使い切ったところで新しく取替えられているのであるが、その六十二年にわたる全記述を収録した「野上彌生子全集 第II期」には、丁寧にもノート取替えの都度、表紙原本の写真が掲載されている。
「昭和28(1953)年3月24日ー9.30まで」と、表紙に書かれたノートには「内的生活に記念すべき変化をもたらした年である」という走り書きが日付の脇に加えられている。
そして、次の新しくなったノートの10月2日には、「昨日三枝さんへは香水を注文した。これも私の内面生活の変化に応ずるものである」との記述がある。三枝さんとは、9月20日欄に「〈婦公〉の三枝から雑誌」云々とあるので、その人だろう(婦人公論の記者。香水は5日に届いたとある)。
いつものようにこの時季、北軽井沢の山荘に滞在していた彌生子は68歳である。68歳の老女が、馴染みの女性記者に(誰に頼めばいいか思案を巡らしただろうが)こっそりと香水を頼みたい事情、すなわち「内面の生活の変化」として考えられることはただひとつである。これまでに再三予告していたことが、まさにこのとき彌生子の身の上に起きていたのである。

事情はその前の9月29日及び30日の日記文で判明する。文中の先生は、むろん田辺元のことである。
「大極殿(京菓子)を五つ先生にとどけた。四時過ぎの散歩の時、御礼の手紙を御自分で玄関までもつて来て下すつた。御気にさわつたら破つて下さい、との言葉が、私に内容を示唆した。数首の歌がしるされてゐた。私たちの師弟の関係は、これで新しい友情に進展した。この点をつつましく守りぬく事が賢いだらう。しかしこの外皮はいかにも脆く、柔軟で、とり扱ひ一つでは容易に破れかねない。アミエル的な用心が必要だ。しかしどこまで進まうと私たちには今は拘束も障害もない。ただよいテクニクでこの関係をあくまで明るい、活き活きと自由な、さうしてゆたかな美しいものに成長させたい」(9、29)
なお日記には記載がないけれども、田辺元がこの日持ち寄った歌数首(九首)のうち三首をここに補足すれば、次のような歌が認められていた。
          生まれ月はわれ三ヶ月の兄なれど賢き君は姉にこそおはせ
          兄か姉かあらぬ不思議のエニシなり亡き妻のゆいし友情のきずな
          君と我を結ぶ心のなかだちは理性の信と学問の愛
これに対し、翌日の日記には返歌が記されている。
「今日は朝の執筆の日課をぬいて先生に返事の手紙を書き、二十八日の日記の抜粋とともにとどけた。最後に歌二首、
          寂しさを生きぬく君とは知りてあれど、ひとり置きて去るは悲しかるべし。
          浅間やま夕ただよふ浮雲の、しづ心なき昨日今日かな。
かういふ日が人生の終りに近くなつて訪れると夢にも考へたらうか。ひとの一生の不思議さよ」

この両日を経て、二人の関係が新しい段階に入ったことを彌生子は確信したのであるが、それより少し前の25日にその予感が自戒を込めてつづられていた。
「〈女は理解されると、恋されてゐると思ふ〉というアミエルの言葉は忘れてはならない。しかし異性に対する牽引力がいくつになつても、生理的な激情にまで及び得ることを知つたのはめづらしい経験である。これは私がまだ十分女性であるしるしでもある。それだけ若さの証明でもあらう。あの人にはなんらの影響をも与へないであらうか。それを知り度い興味がなくはない」
かなり大胆な記述であるが彌生子の思惑通りに先生は呼応してくれ、女性としてまだ十分魅力的であるという自覚のもとに香水を注文したにちがいない。

相聞歌を交換して、新しく日記ノートが取替えられての、「一ニ日の思ひの乱れを取り返すため、昨日は六時過ぎに床に入ったが、朝も七時近くまで熟眠したので心もからだも軽く健やかになつた」と、書き出される10月1日は長い記述となっている。抄出する。
たまたまその日に国際物理学会の面白いニュースを三男が知らせて来たので、その手紙を持って田辺山荘へ行くと、先生は「昨日はありがたう、といはれた。それについて私は多くの言葉を費やす事なく手紙をお見せした。これは私たちの変化した関係を、あまり強く意識する事からお互ひを救つた。といつたところで、特別の著しい変化があつたわけではない。今までこころの中にあつたものを、二人で承認しあつたに過ぎないといふのが一番正しいだらう」というふうに書かれている。
この日もまた、この後ハリソンの神話研究から先生の学生時代の裏話まで硬軟とりまぜての話題は尽きなかった。

そうして二人の関係についても再度、確かめられる。
「しかしあんな手紙や歌をとり交はしたあとで、こんな話に二時間半を費して、これを愉しみあへる私たちは、世にも不思議なアミだといへる。私ばかり幸福になつて、先生を少しも幸福にしてあげる事は出来なくてすまないと語つたら、いや、こんな話がしあへるだけで十分だ、ほとんど他人とは談話といふものをしないのだからと答へられた。それはたしかだ。且つ私たちはお互ひに尊敬と愛情を注ぎあふのみで、それによつて他になんらの責任や負担をかけるわけではなく、ほんとうに透明な、奉仕のおもひのみで結びつける。これは愛情としては最上に好ましい形式であらう。出来るかぎりこの線をふみ越えてはならない。情勢と心の動き次第では、私はもつと積極的な熱情にだつて応じ得られるし、またそれだけの自分の若さをうれしくも頼もしくも思へるが。先生も実に快活で、おしやべりだといつてよいほど多弁に語る。私の方が半分以上はききてである」
この場合の「アミ」は、男友達、女友達以上の間柄を意味しているものと思われる。
翌日2日(この日、香水を注文した)には再び、「昨夜もなにかこころ落ちつかず、終夜浅い眠りの中に過した」と記される。

夫豊一郎が法政大学に勤めていた関係で、野上家が北軽井沢「大学村」開村(昭和3年)以来の住民だったのに比して、京都大学哲学科教授であった田辺元が岩波茂雄の勧めによって当地に山荘を構えたのはその七年後である。
昭和20年3月に大学を停年(60歳)退官した田辺は京都を去り、妻千代を伴って疎開も兼ね北軽井沢に転住したのが7月である。夫妻(千代夫人は田辺より一回り下)に子供はなかった。以来、インクも凍てるという厳寒の冬も山を降りることはなかった(それは元々片意地な性格の上に、教え子たちを心ならずも戦争へ駆り立てることになった贖罪の念からでもあったといわれる)。
空襲で家を焼かれた彌生子も一人で山荘に疎開していた(豊一郎は仕事の都合で東京の三男の家に同居していた)。田辺山荘は歩いて十分ほどの距離にあったので、自然と彌生子は千代夫人との女同士の付き合いが始まった。が、やがて夫人は肺結核で病臥するようになる。年々に病状は重くなっていくが、せっかく雇ったお手伝いも何事につけ融通の利かない厳格主義を崩さない田辺のもとに長く居つく者はおらず、適当な看護婦も見つからない。田辺哲学を尊敬する弟子たちが、候補地を探して暖かいところへと下山を勧めても聞く耳を持たない。

このような状況下で彌生子が、千代夫人のためにやきもきする様子が日記に記述されているのであるが、しばしばそこに登場して彌生子ともども千代夫人の現状を憂い気を揉んでいるのが安倍能成の妻恭子である。
恭子が華厳の滝に飛び降り自殺した藤村操の妹であること、夫が誤解して嫉妬するほど勘助と親しかったこと、また千代夫人とは従姉妹関係にあることはすでに触れておいたけれども、安倍夫妻は田辺たちの媒酌人でもあったのである。繰り返せば田辺元は藤村操、安倍能成、中勘助たちと一高、東大の一年上で、特に勘助とは神田生まれ同士の同い年で、中学も一緒だった。
なので野上彌生子は、偶然ながらも自分と同い年の男二人を好きになったのである(首記の歌にもあるごとく、田辺は彌生子より三ヶ月の早生まれだった)。
中学高校と首席を通した田辺は、勘助たちと違って大学の途中まで理科(数学)を選択していたのを哲学へと変更し、卒業後東北大を経て京大の西田幾多郎の招聘を受け、その後日本哲学界の第一人者として多くの崇拝者に囲まれた。昭和25年に65歳で文化勲章を受章したが、親授式には病気を口実に代理を立て欠席したのは、上記の理由などで受賞自体を名誉としなかったのであろうか(もちろん、夫人の病状が重篤であったのもその理由であったろうが。のちの彌生子は親授式に代理さえ出さなかった)。

この受賞に際して彌生子はこんな感想を日記に書き付けている(むろん、まだ「アミ」になる前である)。「田辺さんへお暇乞ひ(山を去る挨拶)に行く。(略)午後田辺元氏がアイサツにみえたので、門の外まで送つて立ち話で私はカンゴ婦の必要と今度の女中の不定な状態と、またこの冬が(千代夫人にとって)非常に大切な時期であることを打ちあけた。文化勲章のお祝ひなど私は一言もいはうとはしなかつた。そんなものあげるより誠実なよい女中を一人見つけてくれる方が田辺氏にはよほどありがたいだらう」(S25、11、7、65歳)
やはり哲学を専攻していた安倍能成は、田辺のことを「学問的天才」だとしながらも、「我々は普通、常識に支配されたり、道徳的便宜に支配されたりして、拘束を受けますけれども、田辺君は、いつたん哲学あるいは哲学的思索といふことになると、もう一切をことごとく放擲して、怒つたり、泣いたり、怒鳴つたり、といふことが、本当に自然に無意識に出来」、「まるで自然児で子供のやうだつた」と評し、「学問以外では、憎めないといふばかりで尊敬に価するとは思ひません」と言い切っている(註)。要するにウマの合わない人物と見ていたようだ。
(註・安倍能成著「涓涓集」岩波書店、1968年刊。)

田辺元全集は田辺の死後急遽、昭和38(1963)年から翌年にかけて筑摩書房より出版された。全集には月報が付きものである。この月報に二人の女性作家が寄稿している(実は、安倍能成の田辺元に関する上記の文章も全集月報に発表されたもの)。その一人は網野菊(註)である。
網野菊は「田邊先生御夫妻の思い出」と題して、次のようなエピソードをつづっている。以下はその概略。
(註・1900年東京生れ、1978年没。日本女子大卒。志賀直哉を師として、主に私小説を書いた。)

網野菊は昭和5(1930)年1月、京都吉田の田邊邸をはじめて訪問する。その時奥さんから「子供がなくて淋しい」と話された。元は哲学の思索の妨げになるといって、近所の子供が遊びに来るのを嫌っていたが、岩波茂雄の北軽井沢の別荘を借りて一夏を過ごしたとき、となりの谷川徹三の一人息子俊太郎(当時4、5歳、のち詩人)に接してから子供というものを見直したという。
以来、北軽井沢を気に入った元は大学を退職後、一年中そこで暮らすことになり、夫人を喪う。菊は一周忌に近い九月初め、北軽井沢を訪れる。夫人の霊前に詣でるためと野上彌生子に会うために。その彌生子からは夫人亡き後、元の身の廻りの世話をし、入院した元を最後まで付き添い介護した夫婦者の妻の名前も偶然なことに、同じ(梅田)千代だったことを聞かされる。

その後、夫人を失い長い間孤独な生活を送らざるを得なかったであろう田邊からの、入院見舞状の代筆返信葉書に「老年の孤独というものがどんなに恐ろしいものであるか、あなたは覚悟しなければなりません」と、書かれてあった大哲学者の言葉にはショックを受けたとしながらも、奥さんを亡くされての晩年に野上弥生子が毎年夏の半年間を先生の側で哲学や詩の話し相手になっていたことは、本当によかったと悼んでいる。
まだ彌生子と田辺元の関係については知る由もなかったのである。それは仕方ないが、京都で会った元を46、7歳で千代夫人を自分より1、2歳上の32、3歳ではなかったろうかと書いているが、当時の田辺元は44歳、千代夫人はその一回り下であったので、さすがは(女性)作家らしい観察眼だといえようか(もちろん、田邊のことを菊は先生と呼んでいる)。

少し余談を挟めば、病室に付きっ切りで下の世話までして田辺を最期まで看病した梅田千代が、最初から気に入られていたわけではない。再々のトラブルが発生していた。それも、ヤマメの煮方が悪いというような、とるに足りないことでもって田辺は激怒し大喧嘩に発展し、梅田夫婦に家を出て行けとへそを曲げるのであった(田辺山荘の離れ家に彼らは住んでいた)。その度に仲裁を果たすのが彌生子の役目になったが、ややもするとその彌生子にも八つ当たりのとばっちりが飛んでくるという始末で、彌生子も涙ながらに田辺を説得するのであった。
彌生子もさすがにもうこれまでと観念したこともあったものの、幾日かすると田辺の怒りも都合よく雲散霧消しているのである。梅田千代にもいちずな面があったようで、それが油を注いだ面もあったであろうが、やがては田辺の気性に姑息で不純なものがないのを呑み込んでいったのだと思われる。彌生子も下山に際して毎年、梅田夫婦やその子供たちにも心付けを渡す気配りしている。
田辺元の死去後、遺言により梅田夫婦には感謝の印としてそれまでの住居が、田辺山荘本体は蔵書ごと群馬大学に遺贈されたとある。
 
月報の書き手のいま一人は、もちろん野上彌生子である。野上彌生子が月報で振り返っているのは、師弟二人だけの哲学講義についてである。これも要旨のみ。
大学ノートとよく削った三本の鉛筆を風呂敷に包んで、一週に二度、三日置きの午後二時から二時間、田辺山荘に通い書斎での講義を受ける。「遅れてはならないが、早過ぎてもいけない」のが規りだった。「先生の時間の鉄則は、その他朝夕の起臥から食事、散歩、入浴のすべてにわたつて厳しかつた」 
講義はとかく恐ろしく高度に変容し、「つねにかうした秩序と節度でつづいた。しかしうち明ければ、私は時々これらの空気を乱す失敗をした。それは聴講のあひだに私が思はず洩らす〈おもしろい〉なる感嘆詞によつてであつた。イデアや実体の説きあかしはもとより、あとにつづく多くの哲学者がいかにさまざまの見方、考へ方で人生の根本義を追求しようとしたか、それがまたいかに鮮やかにも見事に究明されてゐるかに驚くと、私はついおもしろいといつて仕舞ふ。先生は黙つて答へず、どうかするとあの特長のある濃い眉をしかめる。先生の哲学は求道で、生死を賭けた真剣勝負に等しいのだから、むかしの哲学者たちの偉大な著作に対して、私がなにか小説を読むやうな評し方をするのが気に喰はないのである。

しかし正直にいつて、おもしろいの感嘆詞は、私の哲学に対する興味の本体を証しするものでもあるので、先生を不機嫌にさせたのをいまでも相すまないことだと思ふ」
最後の講義となつたのはプラトンの『ポエチカ』 だった。「とにかくかうして哲学とはどんなことを、どんなふうに考へる学問であるかを教へてくだすつたのは田邊先生であり、また文学についていへば最初のほんのつづり方にも等しい文章に眼を通してくれ、思ひもよらず一生の道となつた仕事へ導いてくだすつたのは夏目(漱石)先生だから、他のことはなんにも加へないとしても、稀なる師に恵まれた点では私は最上の仕合せものとして運命に感謝しなければならない」
「講義は田邊夫人がお逝くなりになつた秋から、先生の突然の病臥の一ヶ月まへまで、ちゃうど十年間、正しくは東京暮らしの数ヶ月の欠講を除いて五年のわけだが」、つづいた。

中勘助夫妻が彌生子の招きで北軽井沢の山荘に滞在したのは、昭和26(1951)年9月7日から12日にかけてであった。千代夫人の逝去はその五日後の17日の早朝であった。
「・・・御病人亡くなられたことを梅田細君しらせて来る。私も松井(手伝いの女性)をつれて駆けつける。夫人は病床でいつものすがたで、しかしもう一つの物体となつて横はつてゐた。厳粛な死もこれからは事務である。これも殆んど私が世話するほかない。(略)今日納棺、出棺、焼くことの手配、(略)食料の買ひ入れまでしてあげなければならない。白絹で経帷子(きょうかたびら)まで縫った。生れてはじめてのこと也」(S26、9、17、66歳)
葬儀での彌生子を目にして、てっきり故人の姉だと思い込んだ人までいたとも記されている。

その後も寂寥の田辺を慰めるかのように彌生子は田辺邸に足を運ぶ。そうして言葉を交わすうちに田辺の意外な一面を発見していく。
「元氏が(永井)荷風の愛読者であることははじめて知つたが、考へれば江戸つ児の情感に基礎を同ふするものがあるのは自然だ。元氏の内生活もいろいろ想像される。かうして打ちとけて接触すると彼の正直で、すれたところのみぢんもない善さが感じられて、安倍さんなどとはまた違つた親愛感が生ずる。全く私の晩年はなんとおもしろいのだらう。日本にかけ掛えのない人間、それも異性の人がこんな親しさで友だちづきあひがやつて行けるのだから」(S26、9、24)

「午後田辺元氏来訪。亡夫人の形見としてスキヤの単衣のほか謝意として私に一万、松井に千円頂く。私は明日返すつもりで一応受とる。小一時間近くいろいろ一高時代から昔話をされた。夏目先生がコナン・ドイルを教へたが、いつもひどく不機嫌で、シニカルで、教師としては最も不親切な、いやいやながら出て来るといふ意図が露出した態度で、田辺氏は反感のみを感じさせられた。それが因をなして、盛名さくさくたる時代にも夏目先生が好きになれず、近づく気にもならなかつた云々ー中さんのことも(府立)四中時代の彼をおぼえてゐた。藤村操のこと、彼の自殺時代の一高に醸しだされてゐた精神主義。それらは明治女学校のクリスト教文化主義にも通ずるし、話のあひだにも共通に名前を知つてる人がたくさん出る有様で、彼も語るのがたのしく、聞くのもおもしろさうであつた」(9、25)
「田辺さんより返事とともに『哲学入門』(田辺の著書)とどく、(礼金を辞退する代わりに、昨日)それを頂き度いといつたのである」(9、27)

「(英国の総選挙の話をして)こんな事をほんとうの友だちのやうに率直に話しあへるのは愉しい事である。夫人は山で見出した私のもつともよい友だちであつたが、元氏も彼女の死以来、私にはそれに近いものになつた」(10、25)
「天皇に対する安倍氏の偏愛は田辺氏とも一昨年かの来山の時議論になつたさうである。私と吉田茂との交渉についても(野上夫妻は吉田の長男、健一の仲人である)話してあげたらおもしろがつた。彼は笑はない哲学者になつているが、私との話ではよく笑ふ。口をすぼめ、眼を細くして、おばあさんみたいな顔で笑ふ。私はそれを見ながら、田辺さんのおばあさんかお母さんもきつと年老いてこんな顔であつたらうと思ふ」(10、31)

この年も本格的な冬の到来となり、帰京する前日の日記。
「田辺さんがお別れに来て下すつた。応接の小室でしばらく話す。先生がこれからお独りでどう過されるかが案じられるといふと、私は非常にエゴイストだ、私よりは家内の方が高貴であつた。(略)寂しいが世界にまことにたつた一人になつたといふ自由さをも感ずること。さういふ話が率直に話された。(略)私たちにはなほ自然がどれほど不変的によい思ひ、美しい思ひを与へてくれるか、人間には親兄弟でも夫でも、子供でも、いつもいつもそんな思ひをさせてくれるものはない、といふ考へ方も同意的に話しあつた。私が山を去つたらお弟子さん達でも来訪しない限り、こんな一二時間を誰かと過すといふことは、田辺さんにはなくなるわけだ。あの方もきつと淋しいであらう。私としても、午後ふらりと出掛けて、こんなおシャベリをする相手は東京でも到底見出されない。みんなあんまり忙しすぎ、遠すぎ、悧巧過ぎ、狡過ぎ、利害もんだいに拘泥しすぎるから。
田辺夫人の死は私に山の大切な友だちを一人失はせ、またよい友人を一人与へたことになる」(11、7)

夫豊一郎の死が図らずも初恋の人と引き合わせたように、隣家の女友達の死が老年の恋を導き寄せたという巡り合わせは、いかにも閨秀作家にふさわしい劇的な展開であろう。
夫人生前の頃は、田辺と彌生子はどちらかといえば互いに敬遠し合うところがあったようだが、それが夫人の病気をきっかけにして、それにつづく死が二人の距離を瞬く間に縮めた様子が日記から直截に読みとれる。
上記の記述と並行して「中さんから二十三日に金春の能に行ったハガキ来る」(9、26)、「中さんに詩を書いて送る」(9、27)などの勘助に関する短い記述もみえるのだが(どのような詩を書き送ったのか?)、それもやがて間遠となり、この二年後、詩を書く相手は勘助から完全に田辺元に変わっているのである。

それはすなわち、はじめて互いの胸底を打ち明けた和歌の交歓があった冒頭の場面に戻ることになるのであるが、田辺元が「御気にさわつたら破つて下さい」と歌数首を持参した昭和28年9月29日は、その十日ほど前千代夫人の三周忌を済ませたばかりでもあったのである。
「今日は田辺夫人の三周忌である。午後から訪問。いつもの写真のまへにはいろいろお供物がなされてゐた。至夫人(田辺の、東京芸大卒の画家であった一歳下の弟夫人)が鎌倉から夜行でもつて見えたといふ百合やカーネーションの花が目立つ。このあたりでは手に入らないものである。(略、田辺に)亡夫人の思ひでの和歌を書いて頂いて帰る。先日見たよりひろい紙に書いて下すつたが、文字はちつとも上手でなく、和歌にはいつそうふさはしくない」(S28、9、17)

一昨年が11月8日、昨年が11月22日、そして昭和28年のこの年は11月24日が彌生子の下山日である。だんだんと下山日が繰り下がっているのは、少しでも先生の講義を受けたいためであったのか(念のためもう少し調べてみると、豊一郎の亡くなった昭和25年はやはり11月8日、昭和29、30、31年はいずれも12月の第1週であった)。
前年の下山前日には「どうも先生にかぶれたらしい、といつたら愉しさうに笑はれ、そこまで行つてくれると自分としてはうれしいといはれた。しかしこれはむづかしい天地へ新しくふみこむことだ。私には及ばないところへ引きずりこまれたといへる」(S27、11、21、67歳)という記述もみえる。
山荘でも先生に時々料理を振る舞い、先生の弟子たちが田辺山荘を訪れると、郷里名物の茶台寿しをこしらえてもてなし、下山してからも魚屋に西京漬けをわざわざ注文したり、無塩バターを求めたり、三越にまで出かけ足温器を探したりと、世話女房さながら独り山に閉じこもる田辺の健康を気遣い送り届ける。それとともに夫人の仏前に手向ける正月用の生花をも送り届けるのが、この年から慣習化された。

何といっても圧巻は冒頭の返歌よりも、彌生子が先生に与えた詩であろう。詩は幾作かあるが、ここには彌生子が日記に記した「新しい星図」と「黄金の鋲」二作の第一連、出だしの一部分のみを引く。
          あなたをなにとよびませう / 師よ、友よ、親しいひとよ
          いつそ一度に呼びませう。 / わたしの新しい三つの星と。
          みんなあなたのかづけものです / 救ひと花と幸福の星図

          わたしの人生のたそがれの扉に / 黄金の鋲をあなたが打つた
この詩を手紙に認め先生に届けたのは、昭和28年11月11日。下山の二週間前である。この日の日記。
「(先生は)私の詩にうたはれた言葉にふさはしい人になり度いといはれた。私もこの愛情と尊敬をこのあとも大切に守つて生きなければならない。しかし、思へばこの世の中はなんとふしぎなものであらう。わたしが人生のたそがれにこんな思ひを感じようとは夢想だもしなかつたやうに、彼とても決して期待しなかつた悦びに違ひない。お互ひに独立的な人格と経済力と、社会的には一定の水準以上の生活と名誉をもち、愛と、友情と、尊敬と同じ思想と学問的情熱でむすばれ、それ以外にはなんらの自己的な要求も期待もしあはないで生きるといふこと、こんな愛人同士というものが曾つて日本に存在したであらうか。あゝ、それゆえに一層この関係を理想的に保ちつづけなければならない。詩稿は残すまいとしたが、やつぱり書きとめておく方がよいといはれたのでそれに従はう」

さらに下山(24日)寸前の22日にも「生別の寂しさは、時に死別に劣らずとはいへ / いたづらに涙はせじと、あえて笑つて作りたる戯詩、と題してつくつた詩」と前置きした八連から成る慕情詩を捧げる。
これは17日に「夕方遅く先生が玄関まで御自分で手紙をもつて見えた。(略、文面の)あとに和歌が数首添へられ、私が山を去つたあとの淋しさが訴えられてゐた」とあるのに、応じたのでもあろう(言い添えておくと田辺元は「アララギ」系統の歌人であった)。
          昼と夜と / 一日も単数ではないやうに / うつし身とこころと
          ひとりわたしが / ふたりのわたし

          左様ならこころよ / 気ままな娘 / これほど誘ひ頼んでも
          いつしょには帰らないのね / あなたはおとなしかつたのに
          だんだん誰かに似て来たわ
以下、「左様ならこころよ」が繰り返され、娘には一連ごとに「いけない」、「強情な」、「呆れた」、「手に負えない」という形容詞とそれぞれの解釈が付され、最終ニ連は再びこう結ばれる。
          左様ならこころよ / 憎らしい娘、 / わたし遠くで腹をたてるわ
          ぶつてあげたい気になるわ。 / それよりいつそ嫉むだろ
          お前の帰らないわけを知つているから。

          果肉(み)とたねと / 一箇の桃も単数ではないやうに、 
          ひとりのわたしが / ふたりのわたし
 
この詩は23日、田辺邸の梅田さんに託されて届けられた。すると、この日も午後遅く先生が来訪。
「野上夫人を送ると題して和歌を数首頂く。あんな娘を残しておいてくれるので、寂しくはないだらうとのことであつたが、歌にはあとに一人残る寂しさをうたひあげてあつた。私とても思ひは変はらない。しかしこのままこの交渉をつづける事は却つて心に乱れと不安定を生ずるおそれがある。半年は東京でおちついてこの宿世を一層純粋に守り、進展させた方がよいとおもふ」(S28、11、23)
そして翌日、予定通り下山した。
改めて強調するならば、まるで女学生が初恋の相手に胸のときめきをさらけ出すに等しい(今日の女学生は決してこんなダサい文句、見向きもしないだろうけど)慕情詩を書いた野上彌生子は、この時68歳の立派な老女である(相手の田辺元も然りであるが)。当時の日本の最高峰の知性が演じたこの事実は、恋愛に年齢など全くもって関係ないことを証だてするものでもあろう(彌生子自身も勘助とのことで、日記にはっきりそう書いているのであるが)。そしてまた、肉体は老いても精神は永遠に若くあれることの証明でもあろう。また逆に、人間の動物としての第一義たる構成要素はまさにその性本能にあるのだということにもなろうか。

東京成城の自邸に息子たちに囲まれて「内的生活に記念すべき変化をもたらした年」を送る大晦日、野上彌生子は再び自戒を込めて日記を締めくくった。
「今年は私にはいろいろな意味で記念さるべき年であつた。ある特定の対象とこれほど深い知的な、また愛情をもつての繋がりが出来ることを夢にも考へたらうか。私たちの年齢においてはわけてもこれは珍しいことといへる。それだけに大切に純粋に保たなければならない」(S28、12、31)
やはり単なる女学生とは違う思慮分別が随所に働いているのも事実である。これを(亀の甲より)年の功というのだろうが。 
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かなり重複する部分もあったが、野上弥生子と田辺元の老年の恋といわれるものについて、主に昭和28年の野上弥生子日記に焦点を当ててここまで述べてきた。当然ながら「先生」と「奥様」(田辺は弥生子を常にこう呼んだという)の交流は「田辺元全集」月報に彌生子が書いたように、十年間の長きにわたって続いたのであるから膨大なもので、これは恣意的なほんの一部の摘要でしかない。その詳細を知るには、当の彌生子の「日記」はもとより、「田辺元・野上彌生子 往復書簡」(2002年、岩波書店刊)を読まれたし。
関連書として、竹田篤司著「物語『京都学派』」(2001年、中公叢書)には西田幾多郎、田辺元両巨峰を頂点とする京大哲学の山容を成した人間群像がドラマチックな物語に仕立てられているので、併せ読まれんことを(当然野上彌生子も、また田辺がドイツ留学中に知り合い猛烈に慕われつづけた謎の人妻も出て来る)。どちらの書物も(おどけていうと)、門外漢にとっては「老年の恋」並びに「哲学入門」への予習、学習の知的興奮に誘われるだろう。

野上彌生子日記から、ひとつ疑問点を上げておきたい(といっても、この日記全体をくまなく読んだわけではない。ところどころを拾い読みしただけであるが)。全集第十一巻は昭和26、27、28年の日記が記載されているので、たまたま目についたに過ぎないのだが、その27年8月19日の記述。
この日は、安倍能成やお供を引き連れて皇太子(現天皇)が野上山荘に立ち寄った日でもある。皇太子は「二十一の青年」とあり、その皇太子に向って彌生子が「安倍先生はこわい先生でございますか、ときくと笑つてゐた」と書かれているので、安倍能成が学習院院長をしていた時であろう。
ともかくも野上、安倍山荘での少々平常ならぬ様子が記されて皇太子来訪はこう締めくくられている。
「私は別に名誉とも有りがたいとも思はないが、来るものはこばまない仕方を、この青年にもしたまでである」のちの芸術院会員、文化功労者、文化勲章の時の態度を彷彿させる処し方である。

疑問点というのは、しかしこのことではない。このあとに綴られていた一文である。
「今日はうたひ会を休んだのでノンキだ。午後田辺山荘を訪ねる。『迷路』 評をきく。いろいろな話が出て、本気なうち明けをする。涙が出た。こんなことをいつて人のまへでベソをかいたのはいまだ曾つてなかつたことだ。しかし田辺さんを告白台にしてベソをかくのはかき甲斐があつたかも知れない」
いったい何を告白したのだろう。告白して「ベソをかく」ほどの本気なうち明け話とは?この前後をチラチラめくってみたが、それを想像させる記述は見つからない。突如、出てきた告白という感じである。もしかして勘助とのことだろうか、それ以外にないような気もするが、しかし・・・。

さて最後に上文に顔を出した野上彌生子畢生の大作『迷路』に関連することである。田辺元と親密になった頃、たまたま『迷路』の執筆は佳境に入っており、彌生子は田辺との会話を通していろいろ示唆を受けたようであるが、実は詩作自体も田辺の提案によるものだった。
「午後先生のところへ伺ふ。私の小説について急所をついた批評をして下すつて有りがたかつた。詩を作ることを勧められるのも、この欠点をそれによつて償ふやうにさせようとの意図がこめられているわけである。しかし先生の批評の対象は『迷路』なので、もつと他のものをよんで下すつたら、先生の望ましいと思ふものを漂はせてゐる作品があるかも知れないが・・・とにかく、私の今日までの生涯の訓練といふべきものは、情緒的なものにうち勝ち、冷静にすべてを考へ、すべてを行為する事にあつたので、作品にもそれが大きく影響することになつたのはたしかである。話のなにの序であつたか、戦時中に私が引つ張られかけたことまでうち明けた」(S28、11、15)

末尾の文章の意味は、当局から治安維持法違反の嫌疑をかけられ軽井沢警察署に何度も呼び出された舌禍事件を指している(この文章や上記の涙の告白などからも、田辺への信頼が相当に篤かったことがわかる)。
他の作品も読んでくれたらと、自尊心ものぞかせてちょっぴり不満のようだが、『迷路』に目を通した田辺は、理知的といわれる彌生子の作風の弱点が詩情の薄さにあることを見抜いたのである。
これに関連して岩橋邦枝(註)が「評伝 野上彌生子」(2011年、新潮社刊)の中で、面白い指摘をしている。
安倍能成が彌生子の作品について、やはり田辺と同じことをずいぶん昔に(昭和12年)、朝日新聞で「ポエジーが乏しく、ユーモアが少なく、ペーソスが薄い」と書評していた。なのに、当日の彌生子の日記には「文中に彼女を社交上手と書いているのが癪に障ると安倍に怒っているだけで、的確な批評は読み捨てたのか一と言もふれていない」。「彼女が、七十歳近くなってやっと素直に批判を傾聴し、うけ入れたのは相手が尊敬する恋人田辺元であればこそで、〈新しい詩の世界に私を導いて下すつたのは先生であるのを思ふ〉とのちに述懐している」
ま、安倍能成と彌生子の関係はずけずけと憎まれ口をたたきあう、「仲の良い喧嘩友達」の側面が多分にあったから無理もないだろうけど。
(註・1934年広島生れ、2014年没。お茶の水女子大卒。「評伝 野上彌生子」は紫式部文学賞、蓮如賞受賞。)

さらに岩崎邦枝はこのように書きついでいる。
「しかし彌生子は、中勘助が彼女は勉強家であるが〈詩人じゃないね〉といみじくも評したように、ついに詩とは縁遠い書き手であった。彼女の作品が示しているポエジーと音楽性の欠如は、勉強や努力で直せるものではない。田辺の勧めに従った詩作も、彼女の日記と書簡で見るかぎりヘタくそな数篇だけで、哲学を学ぶようにはつづかなかった」
勘助が口にした、詩人じゃないの言葉には解説を要するだろう。これより前に岩崎邦枝はこう書いていたのである。
「彼(勘助)は、日頃から彌生子を〝山姥〟(やまうば、やまんば)とあだ名で呼んでよく話題にしていた、と中の身近にいた長年の愛読者稲森道三郎(岩波版中勘助全集編纂委員)が思い出を書いている。彌生子も山姥を自称して、作品の題にもつけた。稲森の追想によると、彌生子が七十八歳で書きあげた長篇『秀吉と利休』(註)を、中夫人が感心して中に読ませた。彼は読後、『私は和子と全く別の意味で感心しました。まったく、よくしらべあげたものです。山姥は昔からたいへんな勉強家だったからね』と言い、ポツリと一と言つけ加えた。『しかし山姥は詩人じゃないね』」
ここにあらずもがなの一言を付け加えるならば、勘助が「森」を読んでいたらどう批評したであろうか。
(註・「秀吉と利休」は、田辺元の弟子である文芸評論家唐木順三の「千利休」を下敷きにして書き上げた小説である。)

しかしながら完成した「迷路」は、昭和32年第九回読売文学賞を受賞。選考委員宇野浩二は「日本には珍しい背骨の太い作品」「作者の一世一代の長篇であるばかりでなく、昭和文学界の最高峰の一つである」と、激賞。上記図書「田辺元・野上彌生子 往復書簡」で加賀乙彦が解説しているが、加賀は「迷路」をやはり日本一優れた長篇小説だと讃えている(加賀乙彦著「日本の十大小説」)。
また「迷路」に続いて昭和39年に刊行された長篇「秀吉と利休」は、第三回女流文学賞を受賞した。この翌年、野上彌生子は文化功労者に選ばれ、やがて46年女性二人目となる文化勲章を受賞するのである。彌生子に朝日賞受賞時(昭和56年)のような感激はなかったとはいえ、この二作品があったればこその文化功労者、勲章であったろう。
しかるに野上彌生子が文化功労者に選出された秋、すでに老年の恋人田辺元は四年前に逝き、初恋の人中勘助もその春に幽明境を異にしていたのである。


(以下、「銀の匙」と「森」(6)につづく。)

 

自由人の系譜 中勘助「銀の匙」と野上彌生子「森」(5)

毎年夏になると、浅間山麓の北軽井沢にある山荘で一人過ごす習慣となっていた野上彌生子が、昭和10(1935)年の夏に夫豊一郎の見送りを受けて、上野を発ったのは7月5日の朝であった。
その翌日の日記。
「孤独と静寂の生活がはじまつた。東京のあの気忙しくあはただしい明け暮れが千里の外にとんで行つたのが、なにか奇妙にさへおもはれるほどである。
食事は一日七十銭で木村から三度運ばせる。一と月に二十四円あれば暮らして行けるわけだ。こんな簡素な且つ経済的な生活法があるだらうか。東京での一度の自動車賃ですむのである。
なにをもがき苦しんであのガソリン臭い東京にゐる必要があらう。
朝のうちは少し書きものをし、午後にはうちや河合氏や平塚さん湯浅さんなどに手紙をかいた。松屋にも菓子を注文した。

夜は『思想』(岩波書店発行の雑誌)その他をよんだ。中さんの相変らずの生活。今の私にはおちついた親しさでよんでゐられる。人のこゝろはほんとうにおもしろく変るものだ。それでも死ぬまでに逢へたら嬉しからう。あんまり年をとり過ぎてはいやだけれどー私のこんどいつしよにのつてゐる随筆をあのひとがどんな顔をしてよむであらうかが好奇的に思ひめぐらされる。私があのひとをおもふやうに、ながい親しい思ひでの人のものとしてよんでくれるならうれしく思ふ。それにしても、あのひとには幾人そんな女のひとがあるだらう。かう考へても妬ましくも、なんともないのだからいとも長閑(のど)やかである。今の唯一の願ひは、この気もちのまゝで、時々逢つて気楽な話でも出来たらと思ふ事だけれど、それは許されないであらう。

(・・・略・・・)ーこの部分後述。

それにしても私たちがあれつきり逢はないのはーあの時九段で出逢つた時の彼は決して冷やかな彼ではなかつた。あの後電話で話した時も彼は優しかつた。なんともわるく思つてはゐないとさへ云つたのだ・・・彼は私の贈ものを、紅雀を籠に入れたのだ、私からと知つてゐた。さうして有りがたうと云つたのだつた。ー思へばもう何年まへになるだらう。渡辺町に越してのあとであつたから、まだ十年とはならないかもしれぬ。
もしそのまま逢はないで死んでしまつたらー私の唯一のこころ残りであらう。さうだとも。私たちは逢つて昔話をしあつても決してさし支えないわけだ。それが出来ないのがかなしく腹立たしい。しかしよの中には同じやうなすくせにおかれてゐる人がいかに多いであらう。
かうしてひとりこの山にゐる時、もし突然彼があらはれたらーかういふ空想は私をもう一度あの二十代に押しもどす。人間は決して本質的には年をとるものではない気がする。九十の女でも恋は忘れないものではないであらうか。
私のこの秘密を知らなければ、私をほんとうに解する事は出来ない」(S10、7、6)

このとき彌生子は50歳であるが、「あの二十代に押しもどす」の部分を読むと例の勘助への告白は、やはり結婚後と考えるのが無理がないのでは。年譜では(明治女学校に在籍のまま)20歳の夏に実質上結婚したとあるのだから(と、またまた結婚後説に後戻りするのであるが)。
それはさておき、偶然街で出会った勘助は自分を拒否したあの時の彼ではなかった、それが嬉しくなって紅雀を贈ったのにも彌生子からだと敏感に気づいてくれて、それにも素直に礼を言ったというのである。
実らない初恋(の思い出)は幾つになっても常にみずみずしく振り返れるという見本のような文章である。

彌生子と勘助は、彌生子が二十代にの頃に別れて以来、四十代になるまで一度も会ったことがなかった、その機会はあったけれども夫豊一郎の猛烈な嫉妬心に阻まれて諦めざるを得なかった、それは九段での偶然の再会以後も同様だった、そういうことだったようだ(勘助と豊一郎の行き来も次第に薄れていたか、ある時点で完全に無くなっていたと思われる)。
ところがこの夜の空想は思いがけない形で現実化し、「昔話」をする機会に突然恵まれたのだから人世は分からない。
「午後中勘助夫妻が見えて、丁度他の弔問客ともかちあはず、一時間あまりゆっくりして行つた。中さんにもう一度逢ふ瞬間は、三十年代四十年代五十年代を通じて私にはいろいろなかたちで考へられたものであるが、それがこんな自然さで果されようとは思はなかつた。奥さんは想像してゐたより素朴な善良さうな方で、中さんも幸福であらう。(略)

もし野上の生前にこれが出来たら一層よかつたらう。それは残念ながらかうした接触はもう彼とても咎めないに違ひない。とにかく彼の死はある意味で彼が長年私に与へなかつた解放であるが、それが斯くまで完全になされたことは私以外には誰にも感じ得ないものである。中さんは年とつたでせうとそれを早くもきいた。白髪のこわい毛をわけ、眉も半分白くなつてをり、顔もまへより細面になつていかつい。もとに変らないのはその眼つきと少ししやがれ気味になる音声で、さうして耳が遠くなつてゐる。これはむしろ意外なことであつた。奥さんと入れ代はつて私の横にすはつたが、それでも張りあげ気味な声を出さないと聞えぬらしい。これでは昔の私たち二人のひめごとなどしめやかに語ることは出来ないわけだと思ふと、なにか微笑ましく、運命の皮肉を深く感じた。さうだ運命は私のひそかな祈念を納れて私たちをめぐり逢してくれた。しかし決して人に聞かれてはならないやうなことは語らせないやうにしてくれたのだ。父さん、だからあなたも私の交際を復活させて下さるでせう。なにもかもなんとよい形に解決させてくれたのだらう。これもすべて野上が死によつて私に示した愛であり、何十年と私を苦しめた、誰も知らない彼の罪の宥(ゆ)るしのすがたであらう。帰る時、あなたもゐらつしやい、と彼はいつた。いづれその時もあるだらう。すべて自然に任せて暮らさう」(S25、3、14、彌生子も勘助も64歳)
昭和25年2月23日、豊一郎は法政大学総長在任中のまま脳溢血で急逝、66歳であった。それを知った勘助の悔やみ状に、彌生子が霊前にお参りにきて欲しいと返信していたのである。

今度は彌生子が勘助宅を訪問する。
「お早昼をすまして中さんのところへS(長男)と同道にて行く。(略)奥さんの(中野の)実家に二人とも未婚で住まつてゐる妹さんたちと同居生活である。(「銀の匙」の)水道町の邸などに比べれば昔に変はるわび住まひに於て家にある彼をはじめて見るわけである。しかし二階の茶室ふうの一と間は趣ふかく整ひ、(略)Sとはほんの赤ん坊のころいつしよにお芝居に行つたおぼえがあると語り、今の面ざしに当時の幼顔を辿るふうに語つた。Sはすぐ暇乞ひをして、私は三時過ぎまでゐた。奥さんは今日はお習字のお弟子が一人来る日でちょいちょい座を外づされたが、そのあひだの私たちの話は普通の客と主人の話しあふことに過ぎないが、それでもその底にこもる調子に秘めたものは彼と私だけに分かることである。二人の接触をこれ以上にしないことが大切である。それにはもう少し若くても、年をとり過ぎて逢つてもいけなかつたといふ思ひを今更に新にする。(略)こんな事も今度のT(豊一郎)が私たちに与へてくれたものであることに深い宿命を考へさせられる。買物に出掛ける奥さんとつれ立つて、桜のはなの散りしく門でお暇乞ひをする私を、彼は玄関でキチンと座つて見送つてくれた」(S25、4、10)
彌生子はこの日、香典返しの口実で参上したのに、長男が心配して付き添ったのである。勘助が長男と観劇していたということは(当然彌生子も一緒だったはずで)、例の告白がすでになされていたとすればあり得ない光景だろうから、結婚後とする根底が崩れるような気もする(まさか万世と同じケースでの告白?さらにあり得ない想定だろう)。また、水道町の邸に彌生子はいつ行ったのか?告白の時期は益々結婚前に傾いていきそうであるが。

日記特有の大胆な記述もみえる。
「中さんの奥さんに手紙を書いた。ほんとうは彼にあてたやうなものだ。もとは彼が野上あてに私に書いた。おかしなことだ。しかしこの感情は淡々としめやかにほの暖い春風のやうなもので、おたがひをも、また他をも傷けもせず傷めもしない。何十年のあひだの貯蔵でもたらした葡萄酒の味である」(S25、8、2、65歳)この記述も結婚後説を補強するものではなかろうか。
翌年3月には、「この数日まへ中さんに出したハガキの返事がとどかない。家のもめ事の種になりはしなかつたかと少し案じられる」(S26、3、9)とヤキモキしたが、それが勘助の皮膚病のせいだったとわかると、彌生子はその返事を、ユーモアのつもりでハガキ二枚に書いて送り、「ハガキが公明正大で一番よい」(S26、6、19)といってのける(これらのやりとりからも再会がもたらした女心の高揚感が透けて見える)。
とまれ、こうして交際は復活した。明けて昭和26年、彌生子は夏の半年間をひとり籠って執筆に過ごす北軽井沢の山荘に、勘助夫妻を請ずる算段をすると勘助もそれに応じるのである。その「祭典」の一部始終を日記と手紙から拾う。

「夏はごたごたいたしますので御出で下さるなら九月にいつての方却つてよろしうございませう  その頃は松虫草やりんだうが歩々花を拾ふといふ形容詞通りにさきます。私がいらつしやいましとお誘ひする以上あなた方がいらしつてよかつたと思はせないでお帰しは致しませんから安心しておでかけ下さいまし  中さんは昔からつむじ曲がりだからいらつしやいと申さない方がいつそ腰をあげるかもしれないと考へたりもします。もうそろそろ素直におとなしく人のいふ事をきいてもよい頃でせう  私は反対に若い頃あまりおとなしく人のいふことをきいたからせめて死ぬまでの我儘としてつむじ曲がりにならうとしてゐるところです。ほととぎすがうるさいほどなき下の渓流が淙淙(そうそう)とうたつてゐます」(S26、7、24、66歳)
これは宛名を中夫婦連名にしてある手紙文であるが、彌生子がかなり積極的な誘いかけをしていることがわかる。「銀の匙」後篇の原題名がやはり「つむじまがり」だった。彌生子はよくよく勘助の性格を飲み込んでいたものとみえる。

二人の来山を知らせる中和(子)からの手紙は9月1日に届いた。それを受けての日記。
「勘助さんは私のこのまへの手紙で来る決心をきめたに違ひない。思へば私たちのかうした交情は世にも珍しいものであらう。せめて途中で一度でもめぐり逢へたらと念じてゐた彼を、この山荘の客として招く日が来たことは、小説以上のロマンスといふべきである。而かも私の今の心では彼が奥さんと来てくれるのが、ひとりで来るよりいつそ気持よく、おちついたたのしさで待たれる。これは恋以上の恋、友情以上の友情であらう。うれしいが淡々として透明になんらの濁りも翳りもなく、この美しい自然で彼を悦ばせ、私の安らかな隠棲生活を見せて悦ばせ度いのみである。彼にも私の気もちが分つてくれてゐればこそ出掛けて来るのであらう。慾には野上も無事で私たちの気もちを理解してくれて彼を迎へるのならどれほどよかつたらう。さうしてまた和子さんに私の気もちが率直にうち明けられたら。ーしかしそれはまだ危険なことだ。

とにかくかうしたよい条件で再会される幸福はめつたにありえない。またもう数年も遅かつたら私はもつともつと老ひさらばつた姿になつてゐたかも知れないから、かうした面会も味気ないだらう。私は老ひてはゐても、彼に逢ふのを避け度いとおもふほど見すぼらしく老衰してはゐないと思ふ自信がある。四十年の歳月は思想的には彼と私のあひだには大きな距離をこさえてゐるかも知れない。彼の芸術についても、人生の歩みについても全般的に肯定はしえない。しかしそれは私たちふたりが若い時代にもつたあの過去にとつては、なんらの故障にもなりはしない。ことに私の一生の行動と情感は、その一つの秘密を摘出しないでは誰にもわからないほど、それは私を左右したものであるから。しかしプラトニックであつたことが、この愛をこれだけ成長させ、深化させ、昇華させたのであることも忘れまい。
ゲーテのマリエンバートの哀歌によつて、七十のゲーテになほこれほど若い情熱が迸(ほとばし)つたのをひとは驚ろくが、私にはいとも自然にさへおもはれる。同時に私の情熱は私のこころを若々しくはゆすぶるが、決して困るほどには燃えあがらせず、ほのぼのとして春の温まりのやうなしづかな歓びにとどまるのも、うれしいことである」(S26、9、1、66歳)

彌生子の誘いに応じる決心を勘助にさせたに違いないという手紙は、「あなた方を秋にはお迎へするつもりで離室の畳もかへてきれいに致してあります・・・山はすでに秋風颯颯(さつさつ)です(この後、ヤマメなど食膳の話題などが語られる、略)」(8月27日出状)の文面。畳替えまでして準備を整えていると聞けば、さすがのつむじ曲がりももう否応など言ってはおられなかったであろう。
和(子)代筆の応諾の知らせを受けて、彌生子は山荘までの道順、交通便あるいは気を使わせまいとしての持参品を含めての注意点を事細かに記して早速返信する(9月1日付手紙)。と、またそれの訂正、追加文を和(子)宛に出状(9月3日付速達)するという慌ただしさの末、7日に「中さんより九時の汽車に乗車のデン(ポウ)来り、松井(お手伝いの女性)を迎ひに出す。バスにてつく。
離室(三畳と七畳に炉辺があった)におちついて頂く。ヤマメの旨煮とナスのしぎ焼におみおつけにていつしよに晩食をたべる。夢にはどうかして考へたことが、現実になるとはほんとうにおもひもかけなかつた。別に興奮はしなかつたつもりなれど床につきて後、終夜不眠に近いまゝ明けた」(9月7日、日記)

「朝食後もおもひいで話さまざまに時を過す。ショウギのルールを教はる。チェカ(註)を一番戦はす。私の午前の日課が珍しく中止されたわけだ。しかし四十年からのめぐりあひの為には、これ位はよからん」(9月8日、日記)
「今日も執筆は中止、私の生涯で曾つてない祭典のためとしておかう。・・・がおもちをとどけて来たのでおヒルはそれをやいて食べる。中さんは生醤油、私たちはおサトウを入れて。午後は徳爺ヤマメをもつて来たので、中さんを呼びおろして彼にも見せる(離室は山荘から二十メートルほど離れていた)。夜はそのヤマメのソテにジャガイモの粉ふき、こんにゃく油煮のおツユ。
食事のたびに話いろいろはづむ。彼は子供らしく自分の過去の作品について語り、またファンの手紙などについても語る。私はそんなことは到底しない。彼との相違が客観的に若い時よりも一層はつきりするし、また彼をも客観的にながめられる。私がこれほどの親愛を彼に今なほ保つてゐるのは自分の若い過去への一種のノスタルジヤでもある。和子さんがよい趣味をもつて画や美術や、能について語るのは気持よい」(9月9日、日記)
(註・チェカとはどういうゲームなのか、不明。まさかチェスではないだろう?)

ちょうどこの9月8日、吉田茂首相はアメリカに渡りサンフランシスコ講和条約に調印していた。ここで一服がわりのエピソードを並べれば、吉田首相の息子、文学者となった吉田健一の媒酌人を務めたのは野上夫妻だったという。この昭和26年1月には彌生子が唯一親しくしていた宮本百合子が、そして6月にはその頃超売れっ子作家になっていた林芙美子がいずれも急逝している(この三人や下段に述べる富本一枝のことは辻井喬「彷徨の季節の中で」でも取り上げたけれども)。
以来、野上彌生子は宮本百合子の祥月命日には、自らの命がつきるまで必ず花束を届けたという。ここにも勘助に対すると同じような野上彌生子のたぐいまれな持続力が垣間見られる。なお、そのお返しとして百合子の夫だった宮本顕治も豊一郎の命日には献花を欠かさなかったという。

さて、翌日の日記で何故、安倍能成が彌生子の秘密を知っていたのかが語られる。
「入浴後ちょっと離室に出掛けて見る。彼は部屋の中に毛布をしいてごろ寝してゐた。和子さんは私のあとでまだ浴室である。ちょっと二人の過去にふれて語った。彼が来るからなににつけて私のことを果報だと口癖のやうにいふが、もし私が果報ものだとすれば、四十年後にこんな好ましいかたちでめぐり逢つたことだ。ーといつたら、私もさうだと答へた。さうして二人して和子さんのよさを語つた。炉を中にして私はキチンと座り、彼もキチンと正座しての話である。ほんのそれだけであつた。それでも私がいはなければならないことはいつた。彼はまたあの時安倍などに洩らさなくとも、自分でいへばすむことを、若かつたから下手なことをしてあなたにすまなかつた、といつたので、いや、それによつて安倍さんは私の友だちに今もなつてゐるのだ、と私は答へた。やがて和子さんが戻りなすつたので、彼女を加へて、富本一枝さんのこと、(伊藤)野枝さんのこと(註)の昔話になつたりした。野枝さんの不幸な死を語る時、私は思はず涙を落した。野枝のためにそれが流されたものか、それとも私の〈過去〉のためであつたか、それは分らない。
(註・二人とも「青鞜」のメンバー。)

かうして数日逢つて見れば、彼と私との違つた道もますますはつきりするし、彼が自分の作品についてのみ語り、いはゆるそのファンにとりまかれて自己満足してゐる心理にも深くあき足りないものを感じさせる。が、それはそれとして、とにかく彼は若い私の苦悩の原動力となつていた存在であることは事実だ。今それを客観視されることは私の成長と進歩である。実際、私は彼を彼としてでなく、一人の女の夫として迎へながら、実になんらの妬ましさも感ぜず、淡々としたおもひでその重大な変化に対することが出来てゐるのはよいことで、たのしいことだ。同時にまたそれほど心が老いた為でもあるから淋しいといへば淋しいわけだが、その淋しささへ感じない。逢はないでいろいろと過去の夢でロマンテックにされるより、かうして逢ひ、その〈過去〉へはつきりピリウドをつけたのはよいことであつた。私はこれからはもつと淡々と彼をおもふことが出来るだらう。が、それは水が無味なやうで味があるにひとしい情感ではあるが」(9、10、日記)

9月11日は、講和条約の記述のみ。
「十時十分の電車で中さん和子さんたつ。私は裏口までしか見送らず。・・・彼は私の歓待に心から悦び満足してたつた。正しくいへば、私は私の四十年のむかしの〈過去〉を歓待したわけでもある。この長い月日は彼のあたまを白く、肉体的にも腰の痛みをいひ、歩行の自由でないのをいふ老人に彼をしたやうに、私たちを別な世界に引き放してもゐるが、しかもなほ彼を考へる時、私はつねに二十二三の若い私になる。さうだ、彼によつてのみ私がさうなる意味に於て、私にはかけがえのない存在であることはたしかだ。しかし部屋に戻つてひとりになつて見ると、やつぱりなにかほつとした疲れを深く感じ、ほどよい頃に彼を去らせたとおもはないではゐられなかつた。野上はなんとしても私を育て、成長された人である。さうして彼は私を今日まで貞潔に守つてくれた異性であらう。また安倍氏は私にもつとも深い友情を教へてくれた人だ。日本の社会では一人の女がこんな異性と三様に親しむのは稀有なことであらう」(9、12、日記)
こうして常ならぬ五日間の祭典は終わった。翌13日、「今日から離室に移る。この雨でなくて、昨日の美しい晴れの日に彼らをたたせたのはなんとよかつたらう」と、あるので急に天気が崩れたようだ。14日は美しき晴れ「執筆」と記され、山荘に日常が戻った。(上記傍線部分は結婚後説の一例になるだろう。)

「拝復・・・でもほんとうにようこそいらして下さいました。御礼など仰しやる必要はございません  私がなにかおもてなし致したならそれはむしろ私自身の青春に対して致したわけにもなりますから、染井の生活をおもひあなたやら安倍さんが若々しい大声をはりあげていらして下すつた時代を思ふ時私は常に年齢をふみこえて二十年代に後戻りすることができるのですから。年をとるほど過去は貴重になります。が、その過去をこれほど美しく高貴に生かし得る人間はさう多くはないと信じます。たしかに私を育て成長さしたのは野上です。貞潔に世に生きることを教へ守つて下すつたのはあなたです。友情の尊さありがたさを知らせてくれたのは安倍氏です。慾には野上が無事にあなた方を迎へられたらと存じますがそれは天上界の望みと存じます。それからあなたの芸術の世界はますます私とは違ふものになるでせう。思想的にも世界観的にも異なるかも知れません。しかし過去の思ひ出を中核とする時私たちは常に同列に並び説明なしに同じ悦びを悦び同じたのしみをたのしむことが可能と信じます。私は世間でそれときめているほど幸福に生きたわけではありません  しかし今日においては私はその評価を肯定しませう。

お立ちのあと雨のみで一昨日だけ晴れました。その間に田辺夫人が逝去され私はすつかりその宰領をしました。経かたびらというものもはじめて縫ひました。今日は告別式です。午後からまたその世話に出かけます。思へばこれも深い宿縁でせう。今度は一緒に引張りまはしてあげられるほど元気になつてゐらして下さい。私が話してゐるうち青い顔になるのは山の生活の三四ヶ月分もおしやべりするからでせう  私は終日ほとんど十数言とは口をきかない生活ですもの。それに黙つてゐましたが夜ほとんどよく眠らなかつたからです。私は悲しい事があつても嬉しい事があつても同じ量ほど神経的に作用されるのです。その点精密機械に等しいのです。・・・奥さまがあんな乱暴なホスピタリティに厭気がおさしにならずよい休養ができたと仰しやつて下さるのが嬉しうございます。どうぞあなたもあまり気むづかしやさんにならないで大切になされておあげなさいまし・・・」(9、19、夫婦連名宛書簡)

ちょうど一週間後、勘助夫婦の礼状への返信である。この文面からも、告白は結婚後にされたのでは?という憶測にかられてしまうのであるが。
告白が豊一郎と交際中の心変わりだったのなら(実際のところ、結婚したのも東京に残って勉学を続けるための手段であったというのだから、元々豊一郎への恋情は薄かっただろう)、豊一郎も惚れた弱みで受け入れざるを得なかったであろうが、結婚後の打明けだったとすれば、恋女房の裏切りに豊一郎が怒り嫉妬するのも最もな事ではなかったか。豊一郎の狭量だけを責めるわけにはいかない(日記には豊一郎の浮気も記され、彌生子はそれに対して柳眉を逆立て豊一郎を責め立てているのである)。それでいて彌生子の日記からは根本的な自己反省の言葉は皆無で、痴話喧嘩の原因を豊一郎側の性格的欠陥のみに帰し嘆いてばかりいるのはなぜなのか?
これまでの日記と書簡の記述の間に齟齬も見られず、彌生子の性格に表裏があるとはとても想えないので、益々不思議である(ただのカカア天下でもなさそうであるし)。

公平を期すため(彌生子の名誉のためにも)、ここに山荘で豊一郎を送る場面の日記があるので、それを。
「父さんの来山中は独居のやうに行かぬ事は十二分に覚悟してゐる事ながら、実に雑用が多いので、時々気がしづむ。書きものも今月しめきりのものは全部断念しなければならぬ」(S21、1、3、60歳)
と書いた後で、「私は窓から見送り、小森さんの山荘のまへの道の曲がるところまで姿が見えるのをずつと見送つて、何度も左様ならをいつた。滞在中はその為に生ずる多くの雑事で困まるのであるが、かうして帰るのを見送る時には涙がにじむほどセンチメンタルになる。なんとかいつても、私たちは今日までの人生をともに手を引いて歩いて来た長いあひだの仲間である。いろいろな意味で彼も老境に向つて来たことが私には分かる。本統ならそばについてゐて朝夕の世話をしてあげなければならないのであるが、目下の事情はそれを許さない。他方また考へれば、かうした別居はお互ひの大事を一層深く思ひ知る方法でもある。私も自分一人の自由を欲するが、彼も私のゐない方が好きな生き方が出来るだらう」(同、1、15)
空襲で日暮里渡辺町の自宅が消失し、豊一郎は三男の成城の家に同居しながら法政大学に通い、彌生子は極寒の山荘で冬も越していた時期のことである(豊一郎の死はこの四年後)。

ところで、上の彌生子の書簡に出てくる田辺夫人とはむろん田辺元夫人のことである。夫人の死を勘助に報告しているのは、勘助と田辺元が中学以来の同級であることを彌生子が知っていたからであろう。そして田辺元は安倍能成とも同じ哲学を学んだ学友であるばかりでなく、互いの夫人の間柄が従姉妹同士という姻戚関係にあった。が、これは次章のテーマである。

この山荘招待で気持ちに一区切りがついたのであろう。年明け早々に彌生子は、親友安倍能成宛に長文の手紙を送る。
その一部はすでに前章文末に引用したが、その部分を含めて以下に全文を再掲する。この手紙は勘助への長年の思慕を彼女なりに総括し、それへの惜別を意味するものだと思われるからである。

「さて筆の序でにもう一つ書く事があります。
中さん御夫妻をこの秋北軽(井沢)に御招待いたした事をまだ御話し申あげませんでした。中さんには私はもう何十年とお逢ひしませんでした。野上の死去の節思ひがけなく御悔状を頂きましたので、御返礼を出し、どうぞ仏前にお詣りしてほしい。野上もむしろそれを悦ぶだらうと申しましたら、四十九日まへに奥様と御同道で御詣りにいらして下さいました。すつかり白髪の老翁になられ、それに耳が遠くなられ、私は演説のやうな話をしました。中さんに対する私の感情のさまざまな推移は、書けばそのまま長編になります。しかし根本的に申せば、私はあの人のことほんとうはなんにも知らず、一つの幻影を彼といふ人に拵(こしら)へてゐただけです。同時に私はあの人に対する深い感謝とともに、激しい謝罪のこころを持つてゐました。あの方がなにか一生日かげに生きてゐるやうな生活におちたのは、私の告白が一つの原因になつたのではないか、とそれはいふ事です。否、もつといろいろな複雑な原因があるのでせう。多分さうと信じますが、しかし私の打ちあけもその一つでなかつたとは思ひません。

さうして私はそれによつて成長したのに、ーさう、私が今日まで生きた道程に私によい腐ショク土となつた出来事が三つあるといつてよいでせう。一つは岩本先生(明治女学校校長巌本善治のこと)の失脚、一つは中さんとのこと、一つは法政事件(法政大学で起きた学内紛争のことで豊一郎はこの事件によって一時大学を追われた)ー成長といふことが気障なら、私にものを考へさせる事を教へてくれたのはそれらの出来事です。さうして私のやうな多感な動揺しやすい女が、自分の生活にあくまで清教徒的になり、夫婦生活においても、とにかくお点の辛らいあなたから落第点は貰はない暮らしをつづけられたのは、若い日のあの些やかな出来事が一種の種痘になつたのです。さういふ意味に於て、私は一生涯のあひだにもし中さんにめぐり逢つたら、ただ、有りがたう存じます、とそれだけいひ度いと考へてをりました。同時にまたあなたの生涯にとつて私がつまづきになつたのなら、どうぞお許し下さい、とおわびするつもりでした。しかしそんな機会があらうとも考へず、また強ゐて求めようともしませんでした。然るに野上は私の気もちを屹度知つてゐてくれたのでせう。彼は死ぬ事でその機会を私に与へてくれました。その上の慾には彼も無事で、洒々落々とこの機会をもてなかつたのが残念です。

しかし私は逢つたらいはうとしたことは一言も口に出しません。だつて、あんなツンボの方に、ラヂオの放送見たいな大声で、そんな御礼や御わびが申されますか。ーそれを考へると、私はひとりではあはあ笑ひ度くなります。ねえ、これほど私は脱却しつちまつたわけです。またそれですから北軽にお招ねき出来たのです。あの離室を一週間提供しました。三度の食事にをりて来なさる時以外は話もしませんでした。それにつけてもなによりうれしく、なにより安心なのは中夫人がとてもとても善良な方で、中さんを大切にして奉仕してゐる事です。あんな生活を送つて年とつて結婚した男は、とんでもない奥さんを貰ひだすのがおちなのに、あんな優しいいい方を見つけてほんとうによかつたと思ひます。正直にいつて、中さんの生活意識もまた芸術的傾向も私にはすべては肯定できません。しかしその存在が私の若い時代に大きな影響を与へた点で、多くの意味がある事は拒まれません。以上御報告まで、
しかし日記に書いておけばすむことを、何故あなたにだけこんな事をしらせる必要があるでせう。とにかく告悔僧といふものをもつ事は望ましいことです。且つあなたはこのもんだいに就いては唯一の資格のある方ですから。奥さんにもおしらせ下さい。ただこの手紙だけは便所でよんだり、落し紙にしたりはしないで下さい」(S27、1、2、書簡)

日記、勘助への返信、安倍能成宛報告どれも同じ内容である。しかし、そのどれにも、どういう状況で勘助への告白が行われたのかについては何も語られてはいない。
ちょっと滑稽なのは彌生子は勘助とのことで、勘助は万世とのことで長い物語が出来るであろうと、同じ思いに駆られていることであろうか。
富岡多恵子は「中勘助の恋」のラスト部分で、この安倍能成宛書簡の全文を引いて次のように断定している。
「手紙のなかで、勘助への〈愛の告白〉が彼のその後の生活を左右する原因になったと書いているのは、彌生子の片思いによる思いすごしだろう。勘助は一度も彌生子の〈愛の告白〉についは書いていない。彌生子の、おそらく片思いによる一方的な思いすごしは、万世、妙子両人の求愛、求婚をいずれも〈すげなく?聞流した〉勘助の態度を思い起させる。
作家野上彌生子が作家としての勘助の態度を批判し、その日記体随筆に対しても、また勘助の『結婚』を読んで〈中さんはどうも自分に自分で興味をもち過ぎ、作品としてはほんものにならない〉と批評し得たにもかかわらず、〈嫂さんが亡くなり、あの兄さんでなんとも困つて結婚する気もちになつたわけだが、よんで見て実に淡々として、私には一種親しい好感以外になんら異なつた気もちにもならないのに、我ながらほほ笑しかつた〉と勘助の『結婚』の真意を見のがしているのは、〈ほほ笑ましい〉。というのは、すでに昭和十年三月十六日の日記で、岩波茂雄夫人から勘助の近況を聞いたことが次のように記されているからである」

その日記文はすでに章(1)に部分引用したが、これも再掲する。
「中さんはひどい神経衰弱でやや狂的にさへなつてゐられるらしい。義姉は顔面神経で顔がおそろしく歪んでしまつた云々。(昨夏山のアベさんの家へ見えたさうな。今の私はこんな事もなにか久しく逢はないともだちの噂をきくやうな気もちできく事が出来る。)中氏が不幸だといふ事はよい気もちがしない。ことに彼が友だちなどに対して、ひどくヒガンだ考へ方をして、世間をせばめてゐるらしいことは、私には胸が痛い。少なくともその一半の責はわたしにもあるかもしれないのだから。この強い人は、ほんとうは弱い人なのだ。ー義姉さんとの親しみも、たんなる親しみではないらしい。これらの事は彼の一生の詩であらうが、しかしそれだけで生涯を果すのも残念ではなからうか」(S10、3、16、50歳)

上文カッコ内は、富岡多恵子の引用文にはないのを当方で補充した。
神経衰弱の勘助が訪ねたアベさんの山の家というのは、彌生子の山荘と同じ北軽井沢にあった安倍山荘のことである。この別荘地は、豊一郎が勤務していた法政大学が開発した土地に大学職員や学者、文化人が住みつき大学村として発展、浅間山北麓に位置したことから北軽井沢と呼ばれるようになったものである。安倍能成、岩波茂雄、谷川徹三(詩人俊太郎の父、彌生子の葬儀委員長を務めた)も大学村住民の構成員であった。
岩波夫人の話は、勘助が神奈川平塚の家を処分して赤坂の家で家族と同居をはじめ、精神不安定になり斎藤茂吉の受診を仰いだりして、末子も困惑していた時期であったから、フラフラと友人安倍を訪ねる気になったものか(これにはしかし、別の事情が働いていた。文末で再述する)。勘助が覚えていたのかどうか、彌生子に招待される遥か以前に北軽井沢を訪れていたのである。

「勘助は一度も彌生子の〈愛の告白〉については書いていない」と富岡多恵子はいうが、「愛の告白」どころか、彌生子に関することは一切、書いていないのではないか(朝日賞の祝いにもらった銘酒「宗麟」のエッセイを別にすれば)。
再三触れたが、勘助が書いた小説は「銀の匙」を含めて四編でしかない。小説の代わりに書かれたのが、「日記体随筆」と呼ばれる作品群である。
冒頭で、わざと(・・・略・・・)と目立つように省略した部分がある。実はその部分は、岩波夫人から勘助の近況を聞いての上記3月16日の記述文につながっているのである(冒頭の日記文はそれから四ヶ月後の7月6日)。以下にその省略部分を再現する。
「いつかの岩波夫人の話だと、今のあの人は可なりヒガンでつきあひにくい人になつてゐるといふ話であつたが・・・日記には一番理想化された彼の生活があらはれてゐると見なければならぬ。その点彼は一種の偽善者だ。少なくとも彼には谷川(徹三)が書いてゐるやうな宮沢賢治といふ人のやうな素朴な善良さはない。ほんとうに彼がさうなれたら、彼の芸術ははじめて本ものの光輝を発散するであらうが・・・」(S10、7、6)

すでに「海神丸」「真知子」などを書き上げ、理知的女性作家の代表格と目されていた野上彌生子の眼力は鋭かったといわねばならない。その7月6日の夜、彌生子が読んでいたのも日記体随筆「しづかな流」であった。その時点で、日記体随筆にひそむ欺瞞を彌生子は嗅ぎつけていたのである。
この勘助特有の日記体随筆を富岡多恵子はこう解読する。
「日記体随筆の〈日記体〉こそは、時間のズレを利用しての現実の擬装に適している。現実を擬装することで、自己矛盾、自己否定はすべて隠蔽可能となり、自己の絶対的肯定ーまるで聖書のコトバのような箴言(しんげん)に収斂(しゅうれん)していく。この自己の絶対的強さが、〈愛読者〉たちを惹きつけたものではなかったか」
富岡多恵子が例示する「聖書のコトバのような箴言」とは、「私の愛には対立者がない。あるべきはずがない。私の愛は愛することによつて充たされる。私の愛は自分の、または自分を愛する人びとが私の愛の蔭に、または私を愛することによつて、それぞれの地位に於けるよい家庭人であり、社会人であり、道徳人であることに於いて成就する」(「しづかな流」S、6年)、あるいは「私は近頃になつて真に、それこそ真に、愛することの喜びを知り得たやうに思ふ。私の愛が漸く無私になつたからであらう。それはただ愛することによつて充される。そこには獲得の焦慮もなければ保持の不安もない。それは奪ふこともなければ奪はれることもない」(「街路樹」S、9年)というようなもので、勘助の日記体随筆の特徴でもある。

富岡多恵子の分析は、彌生子のいう「一種の偽善者」の本質をよく解説していると思われる(さらに富岡は、日記体随筆の内容は格好の私小説の題材であったのに、何故勘助が私小説を一編も書かなかったのかという疑問と関連づけて論及しているが、それは割愛する)。
日記体随筆の魔力?で「惹きつけた愛読者」の存在についても、彌生子は作家中勘助を辛辣に批判する(上記「祭典」中の彌生子の日記にも、目指す文学の方向性が全く異なって来ているのがやんわりと表白されてはいたけれども)。
「この頃のK(勘助)の書くものを見てゐると、私の現在の情感や思考の傾向とはあまりかけ離れて仕舞つたので、あれほど激しく私の胸をかき立てた熱情も、完全に過去のものになつたかんじがする。はじめは彼の名前を見たのみでもドキンとしたこゝろが、これほど平静になり得ることはすべて〈時〉の腐蝕性の作用であらう」(S12、      )
こう書いたのは、彌生子52歳の時であったが、勘助への熱情が完全に冷めていたわけでは なかったことは、これまでみてきたとおりである。

ところが「情感や思考の傾向」は、「公明正大」な交際が復活し互いの距離が縮まるにつれて、「愛読者」を勘助が口にするたびにその溝を深めていく。
「至るところ愛読者があり、それにとりまかれるのをかくまで悦び、語る彼が可哀想になつた。それは、それほど寂しいのを示すわけだから」(S28、12、1、68歳)
「午後中さん夫妻来たり、(略)〈愛読者ー〉をすぐ口にするのには困る。寂しいからでもあらうが、自分の作品への自得のせゐでもあるに違ひない。彼の文学的な世界はそれでわるくはないにしても、新しい成長や進歩がないのはそのためである。私はなんと冷静に批判するだらう。感情は感情として、この態度ははじめから変はりはなかつた。それにつけても、熱情といふものは脆弱で愚かだ。大切なのは、美しいのは、貴重なのは知性のみである」(S29、1、11、68歳)
「相かはらず愛読者、銀の匙の話が出る。幸福な人かなとあはれむ思ひで客観的に淡々と退屈を感じつつ接する自らを私は一面おどろきで見る。この一箇の存在の為に半生以上を苦悩した事はなんと奇妙な夢であつたらう」(S37、4、23、76歳)

さすがに潮時で、恋の終わりであったのか。それとも68歳の彌生子の胸底には、すでにこの時、新たな恋が芽生えていたからなのか。彌生子が豊一郎と結婚した最大の理由が「勉強」するためであったのを思い起こせば、日本の「知性」を代表する哲学者であった田辺元に次第に心惹かれていくのは、彌生子にとっては北軽井沢で織りなされる自然の摂理となんら変わらない出来事であったろう。

話はやや舞い戻るけど、彌生子が昭和27年正月に安倍能成宛に長い手紙で、山荘での「祭典」を報告した後、すぐ安倍能成から返事が来たことがやはり日記に書かれている。
「安倍氏より長い返事来る。中さんと義姉(未子)さんとのかんけいなど書いてよこした。その事を安倍さんが新聞に書いたとて中さんが怒つて、それで今日まで絶交してゐる由、中さんは一時狂的になり、自分の主観を客観的なものとして人とも衝突したらしい。しかし恭子さん(安倍の妻)は中さんが好きで、今も書物などは彼女の名で送つて来るとのこと。安倍さんはそれでもなほ友愛をもつてをり、旧交を暖め度い気持切なるものがあると書いてゐる。もし私が仲介者となつてもとの親しみが取り返せたら、うれしい事だと思ふ。とにかく私がかうした男友達との交はりをもつていられるもは、日本の社会には珍しいことだらう」(S27、1、6、66歳)
この日記文では二人がいつから絶交したのかは分からないが、神経を病んだ勘助の北軽井沢安倍山荘行きが文句を言うためであったとすれば、この手紙文の時点で実に十七年間になるわけだが・・・。
また安倍と勘助が旧交に復したのはいつであったのか。安倍が勘助の朝日賞授賞式で、祝辞を述べたのを知るばかりであるけれども。

このちょうど一年前の記述。
「ー私のことを他の者よりは多く知つてゐる筈のA−氏(安倍能成)だつて、私の内奥のほんとうの苦悩は知つてくれてはゐないだらう。
全く、一人の人間のことを正しく知ることは、全宇宙を知るよりむづかしいくらいだ」(S26、1、18、65歳)
これは夫豊一郎を亡くして、思慕しつづけてきた初恋の人と念願の再会を果し、耳が遠くなりすっかり衰えた勘助に戸惑いながらも、北軽井沢の山荘に招くことになる年頭のひとり言であったろうが、いみじくも人間存在の本質を言い当てている(勘助の日記体随筆の箴言!)。
「一人の人間のことを正しく知ることは、全宇宙を知るよりむづかしい」
中勘助然り、安倍能成然り、野上彌生子然りである。だから幾千、幾万の文学(人間の物語)が現れるのでもあろう、か。


(以下、「銀の匙」と「森」(6)につづく。)









 

自由人の系譜 中勘助「銀の匙」と野上彌生子「森」(4)

野上彌生子が朝日賞を受賞したのは昭和56(1981)年1月(彌生子95歳)の時だから、この文章(1)冒頭で述べたように中勘助が昭和40年に79歳で受賞したのに比べると、ずいぶん遅かったような感じがする。
というのも、明治18(1885)年5月6日生まれの彌生子と22日生まれの勘助は全くの同い年で、夏目漱石の推輓によって作家デヴューしたのも同じであったが、「銀の匙」の朝日新聞掲載が勘助27歳であったのに対して、短篇ではあるものの「縁」が「ホトトギス」に載ったのは彌生子21歳の時であったのだから。作家としてのキャリアは野上彌生子の方が上廻っているし、第一、創作の数が圧倒的に違う(勘助が生涯に発表した小説はたったの四篇しかない)。
その代わりというのも変ではあるが、勘助の朝日賞受賞の年(この年5月に勘助死亡)彌生子は文化功労者に選ばれ、その六年後(朝日賞受賞の十年前になる昭和46年)には女性二人目となる文化勲章受賞の栄誉に輝いている(註)。
(註・昭和23年受賞の日本画家上村松園が女性で初めての受賞者。女性作家で野上彌生子の次に受賞したのは、昭和60年の円地文子。)

およそ国家的褒賞というものに関心もなかった野上彌生子は、文化勲章授賞の報にも「これを拒むことで巻きおこされる反響の煩はしさは、受賞さわぎよりいつそう大きい事をおもへば、あつさり受けとつておく方がよい。その受けとり方によつて、私の真意はわかつて貰へるだらう」(昭和46年10月27日)と日記に書き、その言葉通り親授式に欠席、代理出席さえ出さなかった。
ところが、「野上彌生子全集全26巻」(岩波書店)の刊行と現代文学への貢献が授賞理由とされた朝日賞には、殊の外よろこび「どんな賞もちっとも別に嬉しくなかったのよ。漱石先生が文芸欄をつくった先生とゆかりの深い朝日の賞はとても、とても嬉しいのよ」と、喜びはずんだ声で文芸評論家の小田切進に語ったという(註)。かほどに野上彌生子は自分を文学の道に導いてくれた漱石を終生崇めた。
(註・小学館刊「昭和文学全集」第8巻所載の小田切進解説より。)

その野上彌生子に死が訪れたのは、中勘助の死からちょうど二十年後になる昭和60(1985)3月30日である。99歳、満100歳にわずか37日足りないという長寿であった。
この時、昭和47年(彌生子87歳)から延々十三年間にわたって文芸誌「新潮」に断続連載されていたのが最後の小説となった「森」である。従って「森」は未完となった。
「森」については後で触れるとして野上彌生子没後の翌年から、前回に次いで再び岩波書店より「野上彌生子全集第II期全26巻」の刊行が始まった(実に、総数52巻の大全集となった)。そのうちの19巻分を占めるのが彼女の日記である(他は書簡集や「森」を含む前回全集未収録の作品である)。
日記は、大正12(1923)年38歳の夏から死去の17日前までの六十二年分が収められているので膨大な量になったのである。この日記公刊によって、野上弥生子の初恋の人が中勘助であり、また北軽井沢の別荘の隣人であった哲学者田辺元との間に老年の秘めた恋があったことを詳細に知ることになったのである(が、田辺元とのことは次章以降に述べる)。

当然、日記には中勘助の朝日賞受賞についても記されている。
「中さんに宗麟一本と大徳寺納豆を届けさせる。朝日賞のお祝ひに宗麟が役立ったわけである。それにしてもこんなめぐり合わせになることが、染井のころに(勘助を恋い焦がれたころという意味か)想像されたであろうか。私のこれらのプレゼントも正直にいって彼の文学への敬意や称賛のためではなく、私の若かった時代の思ひでへの捧げ物である。それを知るのは彼のみだ。
思ひでといものは悉(ことごと)く美しいものではない。私たちのものにしろ、私にとっては苦しい、懊悩の数十年であった。しかしいまとなっては彼とほんのあれだけの触れあひを超えなかった事は、おたがひになんと幸福であったかと思ふ。もしさうでなかったら私の生活はどんな事になってしまったか分からない。
もとより文学も放棄されたらう。私の晩年の生活が現在の好ましい形式をうちたてる事ができたのは、彼と別々の道を歩いて来たためといっていい」(昭和40年1月20日付日記。以下、S40、1、20と略記し、必要に応じて年齢を付す)

受賞祝いに彌生子が実家の銘酒宗麟(臼杵城主大友宗麟から彌生子が命名した)を勘助に贈ったことが、この記述でわかるのだが「中勘助全集」第17巻にはそれに対する1月24日付礼状が載せられている。
「わざわざ結構なお国の酒を頂きましてどうも」と書き出して、酒は愛読者と飲んだが勘助は酒を医師から止められているのでほんのちょっぴり味わったこと、朝日賞授賞式では安倍能成が勘助の業績についてスピーチしてくれたことを記し、その安倍のやつれようについて次のように書き送っている。
「弱つてゐるとはきいてゐたもののあれほどとは思はず足もとといひ声といひなにかさんたんとした気持になりました。自分はどうだといはれると困るのですが」
こう安倍を気遣った勘助の方がそれから間もなくの5月3日に、衰弱著しかった安倍能成もその翌年に落命した(唯一、安倍能成だけは野上彌生子の中勘助への秘めた恋を知っていたが、それを漏らすことはなかった)。
さらに勘助は、4月23日にも手紙を出して、「おつきあひの月日は六十年にもなりながらろくにお話したこともない」ので「あなたと一度ゆつくりお話したいと思ふけれど」と、彌生子に呼びかけていたのはどういう心境にあったのか。(奇しくも、この書簡が中勘助生前最後の手紙となったようである)。

野上彌生子が野上豊一郎と結婚(同棲)したのは、明治39(1906)年3月に明治女学校高等科を卒業した前後ではないかといわれている。同郷から初めて一高へ入学していた豊一郎に英語を教えてもらっていた関係にあったのが自然発展したのだとすれば、彌生子は20歳か21歳、豊一郎はその二つ上なので、勘助とそろって東京帝大英文科に進んでいた年である(正式入籍は豊一郎卒業の明治41年だとされる)。
後年、二人の結婚生活を振り返った「先生であり友達であつた良人」と題したごく短い彌生子52歳の文章がある。

「花嫁時代と云ふ言葉から一般に想像される華やかな初々しい悦びの生活を私はとうと知らなつたと云つてよい。幼友達のあるじがまだ大学生の頃の結婚であり、気楽ではあつたがお金は故郷から貰ふだけで贅沢は出来なかつた。寧(むし)ろ贅沢をすることも知らなかつた。私は書物ばかり読んでいた。
あるじはまた良人と云ふより先生で、友達で、兄弟で(註)、勉強仲間であつた。故郷の両方の家でも私たちの自由にさせてくれたから私は普通のお嫁さんを悩ます婚家についての気苦労は一切知らず、あるじが一人息子なので小姑の味も知らず、面倒な親類づき合ひの五月蝿(うるさ)さも知らなかつた。それだけ習俗的な交際も知らず、今から振り返つて見ると呆れるほど超然としたものであつたが、当時は 別に風変わりな生活だとも有難い条件とも考へず、学校時代と変らず勉強勉強で暮らしていた。

もし私が綺麗に生れてゐたらお洒落でもしてぶらぶら遊び歩るく気にもなつたか知れないが残念ながらそんな自信は持てないし、云つた通り贅沢をする費用もなかつた。もつとも簡単に家で出来るのは読んだり書いたりすることであったから、私はそのもつとも手軽なものを択んだ。現在の生活はそれが今日までぼそぼそ続いてゐるだけのことである。
考へればへんなお嫁さんで、ぬかみその味を八釜しく云つたり、着物の仕立てに気むづかしい注文をつけたりする旦那さんだつたら屹度追ひだされてゐたであらうと思ふ」(昭和13年、婦人公論)
(註・実際彌生子は結婚当初、豊一郎を兄さんと呼んでいた。日記にその記述がある。漱石山房でも二人は兄妹ということにしていたらしい。漱石もそのことで豊一郎をひやかしている。)

当時の結婚の生態から鑑みても、いかに野上彌生子が恵まれた結婚生活を送ったのかが瞭然とする内容である。
大分臼杵(うすき)市で酒造業を営む裕福な小手川家の長女に生まれた彌生子と(註1)、秀才ではあるが、小商いを営む雑貨店(註2)の一人息子に過ぎない豊一郎との縁組みは、当初彌生子の父親に猛反対されたのを、彌生子が既成事実を作って説得したのであったか。小手川家と野上家の家格の違いから、豊一郎の親も彌生子に対して容易に口出しが出来なかったのではないか(東京と九州という地理的条件も含めて)。
彌生子が作家として幸運なスタートを切れたのも、漱石の教え子である豊一郎が漱石山房に出入りしていたことによって(註3)、彌生子も漱石の知遇を得て指導を乞うことが出来たのである。
豊一郎は東大を卒業し徳富蘇峰の国民新聞社に入社したが、やがて私学に転じ法政大学の予科長から戦後には総長(学長)へと昇進した。のみならず、「能楽」の研究においては第一人者となるほどに研鑽を重ねた(註4)。豊一郎の影響もあって能と謡(うたい)は夫婦共通の生涯の趣味となった(それに安倍能成が加わる)。
(註1・彌生子には異母兄と妹、弟がいた。母親は美人だったが、彌生子は父親似であった。註2・小手川酒造の酒の小売もしていたようである。註3・豊一郎も中学時代から作品を投稿する文学青年であった。また漱石門下時代にも創作を数篇残している。註4・豊一郎の没後、能楽研究の業績を称えて野上記念能楽研究所が法政大学に設立された。)

作家野上彌生子は生活のために文章を一行も書いたことはない、という。だからこそ白寿にして「森」が書けたのだろうし、「森」と併行して、平塚らいてう(彌生子は一時期「青鞜」賛助員だった)や伊藤野枝(彌生子夫婦の隣に住んでいた)、宮本百合子(彌生子が最も親しくしていた)たちの世代の物語及び郷里のキリシタン大名大友宗麟の物語なども構想していたというのだから驚きである。前者の構想が結局、自伝に近い「森」へと変更されたのかもしれない。
夫婦には三人の男児が生まれたが、兄弟そろって優秀で長男は京大でイタリア文学、次男と三男は東大で理論物理学、実験物理学を学び、それぞれが母校の教授になっている。しかも戦災で家を焼かれた彌生子夫婦が世田谷区成城の三男夫婦の家から道ひとつを隔てた至近に住居を求めると、次男夫婦がその敷地内に(次いで退官した長男夫婦も合流し)家を建てて住まうという同居同然の生活を送ったのである。
まさに幸福を絵に描いたような家族の光景である。少なくとも野上夫妻を知る世の多くの人はそう思っていただろう。

しかし、そのイメージは死後、日をおかずして出版された「野上彌生子第II期全集」の日記によって、少なくともその一端は覆されたに違いない。
これから日記に散見される中勘助に関連する記述を拾集抄録していくことにするが、なにせ日記が膨大極まる量なのでその全てを読み解いていくのは大変な労力を要する(おまけに小生は目が悪いので)。
窮すれば通ず。途方にくれていたところ、折りよく「人間・野上彌生子ー野上彌生子日記からー」(1994年、思想の科学社刊)という格好の副読本があったのを、これ幸いに(日記の要所要所がコンパクトにまとめられているので)、以下の日記引用はその著者中村智子氏(註)の取捨選択にほぼ全面的に沿った叙述であることをまず断っておきたい。
(註・1929年、東京生れ。日本女子大卒、中央公論社勤務後、著述業に。)

「夜は素一(長男)と燿三(三男)の兄弟けんかがたねになつて嫌なことがあつた。私が素一をぶつたのはたしかに悪かつた。しかしあの瞬間の私といふものの激情は私の身上なのである。実に身をやく感情なのである。しかし父さんが素一を打つた私を咎めながら私に対して吐きかけた自分の雑言には平気でゐるのが腹立たしい。彼の態度はいつもさうだ。久しぶりに斯んな涙がせきあえず流れた。早く床に入る。泣きながらねた。しかしもうこの時には当面の事件に関する涙ではなかつた。あらゆる、古いすべてのおもい出で、あらゆる忍従にひめてゐた涙の洪水である」(T13、1、11、38歳)
息子を打った記述は、この時が最初で最後で、「古いすべてのおもい出で、あらゆる忍従」とは、中勘助に関わるものでこの時彌生子は涙したのだ、と中村智子は解説する。

それから二ヶ月後(再度触れておけば、彌生子の日記は大正12年7月31日、38歳から始っている)。
「私が彼の妻として来訪の客として面接するといふことーことに私の出版の用事さへある人に逢ふと云ふことがなぜ悪いのだ。彼がこんな場合に現はすいやしい嫉妬が私にどんなに影響するかをしつたなら、彼はもつと自己を抑制してよい筈である。もし私が一生斯んな屈辱の下に生活しなければならないのなら、ー私はもつと本統に考へなければならぬ。私がどんなに小さくなつてゐるか、彼の意に逆はぬやうにしているかー時々私はそれをひどく卑怯にさへおもふ位ーそれを考へやうともしない。私見たいな束縛と監視の下に生きてゐる女が一人だつて生きてゐるだらうかー少なくとも或る仕事の職業を持つた女の間には一人だつてゐないことを断言する。
男といふものは実際にくらしい獣である。いや、その鎖を絶てない私がバカなのだ。私の本統の位置と苦悩を知つたならきつと多くの人は目をまはすだらう。私は彼を憎む。心から憎む。私に娘のないことはなんといふ仕合せだらう。考へる度にさうおもふ。私のやうな苦痛は私一人で沢山だ」(T13、3、29)

「頭が痛い。昨日泣いて苦しんだためである。実際この一つの苦痛はこの美しい世を私に地獄に感じさせる。
T(豊一郎)はこの夕方は早く帰った。カステラを買つて。あはれな八重子(註)、お前はこれで償はれて行くのか。ーいつもこれである。どんなに私を苦しめても泣かせても、カステラの少しも買つて、夕方一時間でも早く帰ればそれですむとおもふてゐるなら大間違ひである。
私は何かの奇跡を待ちのぞんでゐる。もつと住みよいゆつたりした自由な世界はないものか。私はもう生きてもあと十年か二十年である。それまでに私はこんな世界を見るのみで死ぬのかとおもふと涙がこぼれる」(T13、3、30)
昨日の続きの嘆きである。絶望は人の寿命までをも縮めるようだ。この時、彌生子はまだ38歳なのである。彼女の余命は「あと十年か二十年」どころか、六十年という長き歳月が待っていたのだから。
(註・八重子の表記は一時、ペンネームでこの名前を用いていたなごりか。なお彌生子の本名はヤエである。)

豊一郎の異常な嫉妬心は外出中の態度にも及ぶ。
「朝床の中で父さんが私にまた一つの忠告を与へた。それは昨日朝デンシヤで渡辺哲夫氏に逢つたがその時私がひどく嬉しさうな風をしたといふ事に関するのだ。父さんはその事を嫉妬なんぞぢやない、兄が妹に云ふと同じ気もちだと考へて見ろといふ。・・・あはれな八重子お前は人のかほを見て笑ふ時でもその笑ひ方に注意を要するのだぞ」(T14、5、21、39歳)
あるいは何が原因だったのか、夫婦で藤田嗣治展へ出かけ、「ちよつとしたことからひどく憂鬱な気もちになり、彼を憎みながら三越前で別れる。・・・斯んな時ほど不快な、さうして彼が腹立たしい気のすることはない。他人よりもつともつと冷やかな気もちになれる。あなたは誰です。そんな人には私は逢つたこともなければ逢はうともおもはない。知らない、見たこともない人ですと心の内に叫んでやりたかつた。他人行儀に冷淡に挨拶して乗合自動車から下りてやつた。帰つてこの日記を書いてゐたら、学校から電話がかかつた。今急いできかなくてもよささうなことをきいた。屹度気が咎(とが)めたのだ。必要なだけの返事しかしなかつた。口ぢゆうが塩つぽくなり眼が濡れて来る。口惜しく腹立たしく、よの中が絶望的にかんじられる。
さあ、しづかにまた読書でもしやうか」(S4、10、10、44歳)
こだわりを解くのも、常に豊一郎の方だったようだ。

このような夫婦の感情の齟齬の(重要な部分を占める)背景に中勘助の影が(無意識にも)ちらついていたのではなかったか。中村智子はそれを「夫婦間に(刺さった)いつまでも抜けない棘(とげ)」と表現しているのであるが。であるならば根本の原因は彌生子の側にあるのではないか。
ところが彌生子がいつから日記を付けていたのかも不明のまま、現存する以前の日記は大正12年9月1日の関東大震災で焼失してしまったのだと彌生子自身が語っているけれども、震災で彌生子たちの家は焼けてはいないので、何らかの事情で彌生子が処分したのでは、という推測も成り立つ。また野上彌生子はたくさんの小説を書いたが、その中に純然たる私小説といわれるものはひとつもない。
したがって、彌生子が豊一郎と結婚した事情はもとより、二十歳前後で一緒になる馴れ初めの詳細も曖昧なままである。
それはすなわち、いつ中勘助に出会い、思いを捧げるようになったかという最大関心事をも不分明にしているのである(中勘助も野上弥生子のことを一切作品に残していない)。それを、ある人は結婚前だといい、ある人は結婚後だという、そのどちらであったのか?

「安倍(能成)さんと十日に会食すると云ふことについてまた父さんといやなごたごたがあつた。原因は茅野の奥さんがそれに出るので、野上の奥さんも出れば出ると云ふ話なので私にも出てほしいと岩波さんから電話が来たためである。中さんも出ると云ふのが父さんには気に入らないのだ。それがすべての原因だ。私とてもそんな場にゐ度いとはおもはない。自然に出くはしたのなら自然にどんな態度でもとれるが求めてそんなところに行く気はない。それが分つてゐるのに、私の断はり方が生ゆるいとかなんとか要するに焼きもちが原因でわけの分らぬ怒りをもやしてゐるのだ。理屈を云へば負けるくせに」(T15、9、9、41歳)
この日とまったく同じことが翌年1月、武者小路実篤の著作出版披露会で起き、「また不快な暴風雨が持ち上がつた」と書いた二日後。
「(会への出欠を)朗らかな自由な判断と行動に依つて極め度いのだ。私のたえ難い苦悩はその不可能を悲しむのだ。その間にいやな、たまらない不純な嫉妬や束縛や圧迫が交つて来るから腹が立つのである。要するに斯んなことでぐづぐづ云ひ合つたり、泣いたり苦しんだりするのは愚劣である。而かも何かことがある度にこの愚劣を繰り返させるのは誰の罪であるか。彼はすべての束縛を愛情の名に依つて解釈しようとする。しかし本統の愛情は相手を苦しめることではない筈である。相手のために忍ぶのこそ本統に優しい愛情である。女はどんなによくそれを知つてゐるだろう。しかし男は殆どそれを知らない」(S2、1、9)

それからほぼ七年後。
「父さんと久しぶりに下らないことから怒鳴りあひをしたのだ。はじめは私がわるかつた。しかし彼の怒りやしつっこい罵倒は他の原因と交りあつてゐたらしい事を、私はあとでこころづいた。アベさんが中勘助氏の病気のために帰京されたのだと云ふことをきいた時に。ーしかし彼はそのことで新しく私にぶっつかつて来る資格はない筈だ。過去の一つのロマンーの形さへなさない、一事件が、一生これほどしつっこくつきまとふ例も少ないかもしれない。それにしても氏の病気がどうかもう一度快方に向はれんことを祈らう」(S8、7、29、48歳)
この頃、勘助は神奈川平塚の家を処分して東京赤坂の家族の元に戻っていた。ちょうど斎藤茂吉の診察を受けた時期と一致する。
この日の記述やこの文章冒頭に引いた日記からも想像されるように、彌生子の勘助への恋情は純粋にプラトニックなものだった。それゆえに長く尾をひいたのでもあろうが、そのゆえに豊一郎にも妄想に近い疑心暗鬼を生む結果になったのではなかろうか。それに加えて勘助は東京神田生まれの良家の美男子であるのに比して、豊一郎は根は真面目ながらも見栄えのしない、出自も平凡な田舎者である。無意識下にも劣等感情に囚われていたのではあるまいか。

これに関して、安倍能成の「野上のこと」と題する文章がある(註)。
「明治三十五年の秋に初めて一高の生徒になつた時、同じ組の中に前から馴染の野上豊一郎といふ名を発見したので、先生が出席簿を呼び上げる時に注意して見た所が、私の三列位前にその人が居た。もう少し瀟洒(しょうしゃ)たる才人らしい風貌の持主かと思つたのに、存外風采の揚がらない、併し体軀は長大な、九州男子らしい男であった」
体格は勘助の方もさらに堂々としていたであろうから、どう贔屓目にみても豊一郎に勝ち目はない。
何故、安倍が豊一郎に注目していたのかといえば、豊一郎はその頃から文学少年で「中学世界」(大町桂月主筆)という雑誌の常連投書家であったのを、雑誌を愛読していた安倍が知っていたからである。
(註・安倍能成著「巷塵抄」1943年、小山書店刊。)

「人間・野上彌生子」で中村智子は、豊一郎が漱石に宛てた葉書を紹介している。
「『鳩の話』(彌生子の作品)を見て頂いた御礼を申てくれとのことです。私の小説はまだ出来ません。中と安倍が今日また謡にきました」
明治40年3月21日出状となっているので、前年に同棲を開始して処女作「縁」を発表した頃であり(彌生子21歳)、豊一郎も勘助も安倍能成も帝大生である。それが連日のように、謡をするために新婚家庭に入り浸っていたのである。
この状態がいつまで続いたのか、この時すでに勘助への思いを打ち明けていたのか?友人の妻からの思慕を知っていながら、その夫をあざむき素知らぬ風をして謡を楽しんでいたのだろうか(万世の告白を受けながら妙子を可愛がるために江木家に出入りしていた勘助である)。いったい豊一郎は、勘助への彌生子の思いをいつ知ったのであったか?
あるいは、告白はもっと後ということも考えられるが、翌41年9月にはそれぞれ大学を卒業して(勘助の兄金一が倒れたのが卒業前の7月)、二人の正式な入籍があって、豊一郎は国民新聞社に就職。43年1月に、彌生子は長男素一を出産。彌生子の告白が出産後とは考えにくいのだが。

分からないことだらけであるが、こうなると結婚前説が有力にも思えないでもない。告白を受けてはいたけれども、それだけに終わっていたから堂々と謡を楽しみに友人宅に通えた。つまり彌生子が明治女学校に在学中に告白していた(豊一郎が彌生子に好意を持ち始めた家庭教師時代かもしくはその前でも良いが、ともかく彌生子が正直にそのことを豊一郎に打ち明けていた)、という想像である。豊一郎も今までの経緯から勘助の出入りを黙認していた(安倍も一緒だから)。が、この場合もどこか無理がありそうにも思えてくる。

どうにもすっきりしないので視点を変えることにして、何故に告白が実を結ばなかったのかに注目してみよう。彌生子がそれらしき理由をポロッと洩らした記述があるのだ。
「(小説に描かれているフランス人の恋愛に比べ)而(しこう)して日本ではー形すら存在しえない。将来はしらず、少なくとも現在のところでは。それには男が我まますぎてうぬぼれがあるのと、女が浅薄で愚だから、どちらも真のロマンスの味をしらないから。ー不幸にして二十年前の自分もその非難を遁(のが)れることは出来ない。自分は当時の流行のヒューマニズムの一時的の感激のため、一生の最も美しいロマンスをずたずたにした。しかしそれもその当時の自分に取つては心的成長の一過程としてやむをえなかつたことではあるが・・・」(S4、2、12、42歳)

まことに意味深な文章で解釈に苦しむが、どうやら彌生子は自分の身の上に何らかの変事が起きて、それを勘助に衝動的正直さで打明けたのではないか。「ヒューマニズムの一時的感激」とはそういう意味だったのでは。中勘助への「一生の美しいロマンス」、すなわち初恋がそのことによってずたずたになってしまった(少なくともこれまでの引用からも、豊一郎との間に熱愛はおろか恋と呼べる感情は見当たらないのだから)。
つまり導き出した結論は、やはり彌生子の告白は結婚前であったのではなかったかということである。この想像を補完するのが、野上弥生子最後の小説「森」である。
臼杵中学に進んでいた豊一郎より二年早く上京していた彌生子は、叔父(父方)の家に止宿しながら勘助の姉たちの出身校である明治女学校へ通っていた。明治女学校は在校生わずか数十名で、学校というよりは塾であったと書かれていることからも、姉を通じて勘助と知り合ったのではという意見もあるが、角川文庫の年譜によれば、二人の姉(勘助より5歳と7歳上)が明治女学校を卒業したのは明治28年と29年となっているので、明治33年に入学した彌生子と在学期間は合わない(姉たちよりも、三つと四つ違いの勘助の妹たちの方がまだしも可能性があるのだが、二人の進学先は不明)。

その明治女学校(小説では日本女学院)が舞台となっているのが「森」である。「森」は、九州から上京した15歳目前の少女(菊地加根)が入学予定の明治女学校へ、仮名にされているが木下尚江と思われる人物に引率されて行く場面から書き起こされている(彌生子がこの少女に擬されてあるのはいうまでもない)。
先に述べたように「森」は、彌生子87歳から文芸誌に連載開始されたけれども、実際には82歳の時から少しずつ書き溜め推敲を重ねていたことが日記に書かれている。
齢八十を越した作家がはるか昔の遠い少女期の記憶を呼び戻しながら、延々十七年にわたって長大な小説を書き継いだいうことだけでも、その持続力に驚嘆するのであるが、加えてその構想力にも。この小説には実名で出てくる歴史上の人物(勝海舟や内村鑑三等)、仮名にされている人物(荻原守衛や島崎藤村、北村透谷等、こちらがずっと多い)それに仮構の人物(そんな人いるのだろうか?どの人にもモデルがありそうだが)を合わせて、優に百名を超える登場人物が交錯する小説なのだ。
野上彌生子の代表作といわれる「迷路」、「秀吉と利休」とともに、「森」も未完とはいえ(終章を残すのみだったという)、高い評価を得たのも頷ける力作になっている。

物語は当面、菊地加根をめぐって展開していくが、圧巻は後半数章にわたって繰り広げられる加部圭助と加根の同僚園部はるみとの恋愛とその破局のくだりであろう。複雑な家庭環境に育った園部はるみは、学校長岡野直巳(明治女学校二代目校長巌本善治)を崇拝する帝大医学生加部圭助に慕われ、やがて圭助の下宿で完全な恋人になったことが暗示される。
ところがはるみは書き置きで圭助に岡野校長との間にも性的関係があることを告白し、圭助から去って行く。逆上した圭助は岡野校長を殺そうとして大学の解剖室に忍び込み、盗み出したメスを握りしめて土砂降りの雨の中、森の学校(日本女学院)へ乗り込んでいく(註)。
最初、「森」のこれらの場面を読んだとき、菊地加根の物語からあまりにも逸脱しており(加部圭助が出て来る途端に、それまで脇役だと思われていた園部はるみが完全に主役となっているので)違和感にとらわれて、その迫力は認めるものの小説の構成上破綻しているのではないか、と疑ったのも事実である。
(註・校長巌本善治が引き起こした女学生とのセックススキャンダル事件が素材になっている。)

が、それは彌生子がわざわざ「森」は虚構であると断っていたのを(巻頭「作者の言葉」)、つい菊地加根に引きずりこまれて読み進むうちに、うっかり自伝小説だとして筋を追っていたせいであった。
この小説に着手した当座の日記には、「純粋には自叙伝でなくとも、それを多分に含んだものでありまた明治三十年代を背景とするので、その記述とすれば無駄でもないだらう。一方にはそんな思ひもすてきれず、とにかくペンについて行く感じである」(S42、11、7、82歳)と、書かれているのをみれば、小説「森」の真の主人公は菊地加根というよりも、明治三十年代という時代とその時代に女子教育の黎明期を担っていた森の学校「明治女学校」であったというべきだろう(註)。
(註・明治女学校は彌生子と豊一郎が入籍をした明治41年、二十三年間の歴史を閉じた。)

これに関連して、彌生子79歳時(昭和39年10月7日付)の日記に興味深い記述があった。
「午後思ひよらず臼井吉見氏来訪。彼が中央公論に発表してゐる中村屋夫妻をモデルにした小説(長篇「安曇野」のこと)の為、明治女学校の事をきくのが目的であつたらしい。私も記憶にある事をいろいろ話した。荻原碌山(守衛、「森」では篠原健)が米国へ遁げだすやうに行つた原因には清水さんとの事があり、すでにその時巌本さん(校長)との事を荻原さんがかぎつけてゐたらしいとの事をきいた。清水さんの名前はどう考へても思ひ出せず、もう一人の荻原さんを清水さんと争つたといふひとのことは、みづみさんなる名前のみ思ひだしたが、苗字の方を覚えない。おかしな事である。
しかし作家なら誰もいち早く描いたであらうこの話に私はまだ筆をそめずー何十年もまへ戯曲のかたちでそれとなく触れたがー他の人のため記憶を探したりするのは不思議である。しかし臼井さんはお良さん(「安曇野」の主役で明治女学校出身)に重点をおいてをり、私は書くとしても明治女学校を主とするだらう」
「森」を読むと、確かに二人の女学生が篠原健をめぐって恋のさや当てをする場面が出てくるのであるが、それは創作ではなかった!この清水某が園部はるみの原型だったのである。
臼井吉見との面談は「森」執筆着手の三年前になるけれども、すでに昭和36年2月7日、相馬黒光(お良さんのこと)の七回忌に際して「明治女学校の事や巌本氏の事、本当は一度書いておくとよいのだが」との記述があるのを考えても、「森」の構想を早くから抱いていたことがうかがえる。

若干、脇へそれた。元に戻そう。
中村智子は、上に引いた「ヒューマニズム」の日記文と以下に掲げる彌生子の安倍能成宛書簡の文章から次のように推断している。
「〈告白〉の内容は不明だが、〈ヒューマニズムの一時的の感激〉〈清教徒的になり〉〈種痘〉などという言葉から敢えて推察すると、彌生子は他の男性と性的経験をしたのではないか。自伝的な作品『森』に女主人公〈菊地加根〉本人ではなく友人の〈園部はるみ〉が医学生に突然求婚され、崖の裏道で抱擁されて〈恋人で完全に妻〉になる。一高出身で他人目には兄妹にみえる彼を野上豊一郎と読まれるのを防ぐために〈帰朝後、脳外科の第一人者〉とわざわざ書いて韜晦(とうかい)しているのは、かえって尻尾が出ているように見える。中勘助の『犬』(註)にみられる異常なまでの性の汚らしい描き方には、ピューリタンの憎悪がある。彌生子の告白が彼に性を嫌悪させ、幼女愛にむかわせたのではないであろうか」
(註・中勘助は長い作家生活の間に、「銀の匙」以外の小説をわずかに三作しか書いていない。妙子のために書いた「菩提樹の蔭」と性をテーマにした異色作「堤婆達多」と「犬」である。「犬」はその過激な性描写から発禁処分となった作品。)

「根本的に申せば、私はあの人のことはほんとうはなんにも知らず、一つの幻影を彼といふ人に拵(こしら)へてゐただけです。同時に私はあの人に対する深い感謝とともに、激しい謝罪のこころを持つてゐました。あの方がなにか一生日かげに生きてゐるやうな生活におちたのは、私の告白が一つの原因となつたのではないか、とそれはいふ事です。・・・私のやうな多感な動揺しやすい女が、自分の生活にあくまで清教徒的になり、夫婦生活においても、とにかくお点の辛らいあなたから落第点は貰はない暮らしをつづけられたのは、若い日のあの些やかな出来事が一種の種痘になつたのです」(S27、1、2、彌生子66歳時の書簡)

この中村智子の指摘を鋭いと首肯した上で、高良留美子(こうら、註)はその著「樋口一葉と女性作家 志・行動・愛」(2013年、翰林書房刊)の中の「野上彌生子の恋愛・結婚小説と中勘助との恋」の章で、次のように論述している。
「最晩年の未完に終わった作品『森』は、作者が冒頭で〈真実よりむしろ虚構をとることに決めた〉〈自叙伝ではない〉という作品だが、虚構のなかに真実が隠されていると思う。加部圭助が園部はるみに、崖の裏道ではじめて求愛したとき、かれははるみが篠原健のことをひと言親しげに話しただけで、嫉妬心を燃やしている。『二年あまり思いつづけた加部圭助の(略)もっとも純粋であるべき愛のうちあけが強い嫉妬に裏付けられていたのもいっそ自然とすべきであったろう』と彌生子は書く(「森」第13章)。
篠原健は二年ほど前から外遊している画家志望の青年で、夭折した彫刻家荻原守衛をモデルにしている。守衛は明治女学校の二代目校長巌本善治の好意で、巣鴨の校内に小屋を建てて住み、画学校〈不同舎〉に通っていた。
(註・1932年東京生れ、東京芸大及び慶応大卒。詩人、評論家、作家。)

圭助とはるみの性的な関係は、その翌日、圭助の下宿でのこととして、暗示されている。
圭助が〈誠実に純粋な青年〉であることに打たれたはるみは、〈到底黙っていられないひとに、今日のことを打ち明けたとしても、対手が他の青年でないことによって屹度許されるだろう〉と考える(第14章)。これが〈当時流行のヒューマニズムの一時的の感激〉ということだろうか。
これらの場面と日記から推理すると、彌生子は勘助に豊一郎とのことを〈告白〉したのだろう。豊一郎は彌生子と結婚したが、勘助とのことに嫉妬心を抱きつづけた。しかしかれは勘助と絶交したわけではなかった。
彌生子の恋愛・結婚小説にみられる理性偏重と、恋愛プロセスの欠如、とりわけ恋愛結婚へのネガティヴな姿勢は、彼女の結婚生活が上述のような抑圧のもとで営まれていたとすれば(註)、理解できなくはない。彌生子のなかで恋愛とその表現は、そしてセックスもまた、つねに監視され、点検され、抑圧されていたのだ。そのなかで彌生子自身も、しだいにこの恋愛を〈一種の種痘〉と考えるようになっていったのだろう」
(註・この前段で、高良留美子は「文筆と家庭を両立させ、三人の息子を立派に育てあげて理想的な生活を営んできたとみられる」彌生子が、1920年代から30年代の日記で、「自分の結婚生活を〈監視〉〈忍従〉〈束縛〉〈圧迫〉〈苦痛〉〈鎖〉〈獄中〉などの語彙で語っているのには、驚かされる」と書いている。)

そしてここで問題にされるべきは、「生殖の罪は人間のいかなる罪よりも罪である」と激しく性を忌避する勘助の小説「堤婆達多」(でーばだつだ)と「犬」(大正10年、11年に発表された)を野上彌生子がどう読んでいたのかということである。しかし、それはこう書かれる。「彌生子がこの二作を読まなかったはずはないが、日記は『犬』発表の一年後まで存在しない。友人に預けてあって関東大震災で焼失したと語っているようだが、破棄したのかもしれない」
したがって彌生子の反応はいっさい不明ながらも、勘助にこれら二つの問題作を書かせたのは彌生子の告白ではなくて、江木万世の告白だったのであろうと考えるのが無理がないと高良留美子は結論する。つまり中村智子の指摘とは異なる。
高良も中村同様、彌生子の告白が結婚前にあったということでは一致している。けれども、彌生子の告白が動機となって問題二作を書いたのだとすると、あまりに時間が経ち過ぎているのと、その初対面から勘助に強烈な印象を与え、友人の妻となり子供を産んでも勘助への恋情を隠さなかった万世の告白の方が(より衝撃的で)整合性があるというのがその理由である(この結論部分で高良留美子は、「中勘助の恋」における富岡多恵子説を援用している、註)。妥当なところであろう。
(註・岩波文庫「犬・堤婆達多」の解説者は富岡多恵子である。)

中村智子や高良留美子が推論するように、小説「森」は、野上彌生子が実在の人物であった清水某(園部はるみ)や荻原守衛(篠原健)あるいは野上豊一郎(加部圭助)等の登場人物に託して、巧みに若き日の自分と勘助との関係をも暗に語っていた物語であったのだろうか。彌生子の告白は結婚前であったとする高良留美子はその理由をこう述べている。
「彌生子のような世間体を大事にする女性が、結婚生活を破綻させなければ実現しない恋愛を、はじめるだろうか。恋愛は、結婚前のことだったとわたしは考える」
この見解は、愛の告白を受けた女の結婚先(しかもその夫は親しき学友である)に厚顔無恥にもしゃあしゃあと謡を怒鳴りに行けるものであろうか、とする結婚後説を覆せるだけの説得力を持っているだろうか?
告白が結婚前、結婚後いずれであったのか。それ以前の問題として、中村智子が引用したと同じ安倍能成宛書簡を引いて、「中勘助の恋」の中で富岡多恵子は、彌生子がずっと気に病んでいた告白が与えた勘助への影響そのものを、にべもなく一言で片付けている。
「彌生子の片思いによる思いすごしだろう」

野上彌生子が遺した膨大な「日記」、「手紙」、それに「作品」と文献は一つながら、それらを読み解くそれぞれによって、その数だけ解釈は生れる。またその解釈についても同様なことが起きるであろう。無限大である・・・。
ああ、この世の不可解さ、人間の不可解さよ!宇宙の世界の不可解さよ。
何だか、突き詰めて行くと華厳の滝に飛び込んだ藤村操がハンモン(煩悶)を重ねたエンセイテキカイギシン(厭世的懐疑心)にガンジガラメ(雁字搦め)にされそうだ。・・・クワバラ、桑原。


(以下、「銀の匙」と「森」(5)につづく。)












自由人の系譜 中勘助「銀の匙」と野上彌生子「森」(3)

「銀の匙」ラスト部分で、16歳の「私」は半島にある友人の別荘に行く。そこでの友人の「姉様」との邂逅と別離が叙せられて小説は閉じられるのであるが、それに至る少し前に作者中勘助のその後の人生を知っているものにとっては、決して読み過ごすことのできない場面がさりげなく挿入されているのに気づくだろう。
別荘には、「私」と「姉様」の他にお手伝いの「ばあや」がいる。「嘘はいえず、胸にはしまっておけない性」の「ばあや」に、「私」のことをひと目みたときから「ああご仏縁の深い方だに、お坊様におなりあすばいたらよかったになあ」と思ったと語らせ、さらには「あなたはええお嫁様がおもてになりません」とまで言わしめている。
しかもこの「ばあや」は、人生の辛苦を重ねて来たから信心深くなったとか、生国が名古屋であるとか、「私」の幼少時代の養護者であった伯母さん(実母の姉、註)のまるで生写しであるかのように描かれているのは、「私」の将来を戒(いまし)めての伯母さんの遺言とも読み取れなくもない。
(註・前年に「私」が名古屋に訪ねた後、すぐに伯母さんは亡くなっている。)

しかしながら「銀の匙」という小説そのものが、「私」の自己形成の一端を綴った物語ととらえるならば、「ばあや」の言葉は明らかに29歳の作者中勘助自身が抱いていた将来への見通しであったはずであろう。実際に、その後の中勘助は結婚もせず修行僧のような禁欲的生活を送ったのであるから。
ところが五十路も半ばを越えて事態は一変、突如中勘助は身を固める決意の下に妻帯したのである。その間の事情は「結婚」というエッセイに述べられている。

「姉の死と同時に私のところの家庭はもう久しく予期された行きづまりに到著(とうちゃく)した。残されたのは頭が悪くてもののいえない七十をこした兄と六十に手のとどく私.、どうにもならない。(姉の)病中は私が主婦の代役をし、お見舞いにきて下さる親戚のお知合いの婦人の好意に頼って凌(しの)いできたもののそれは余儀ない窮余の窮策で、いつまでも続くものでなく、続けるべきものでもない。
で、私は考えてたことを実行することにした。結婚。私は誰彼に候補者の物色を願いした。ある人は祝福してくれた。ある人は悲愴な顔をした。また他の人は意外なことが降って湧いたように仰天した。何でもないものを。結婚しないのも私の思慮なら結婚するのも私の思慮である。
場合に応じて適当な生活法をとるだけのことだ。永い独身生活から結婚生活への転換はなにか際立った感じを与えるだろうけれども、皆にお願いした私の言葉はいろいろだったろうが結婚条件は 健康で、善良で、地味で、兄の世話をよくしてくれる人で、少しは話のわかる人というのだった。事情が許さないから出来るだけ早く」

こうして姉末子の死からちょうど半年後になる昭和17(1942)年10月12日、太平洋戦争の最中に中勘助は57歳で結婚した。相手は退役軍人の娘、42歳の嶋田和である。嶋田和は三人姉妹の長女で、お茶の水高女の専科を出ていたが未婚のまま、長い間にわたって書道を教えていた(註)。女学校で嶋田和と友人だった勘助の姪が持ちこんだ縁談であった。
(註・妹二人も独身で、それぞれ書道と絵を教えていた。岩波版「中勘助全集」編纂委員に和の末妹嶋田豊子の名前がある。)

ところが挙式の当日になって、思わぬ異変が起きた。次のように書かれている。
「私はふとしたことから食あたりをしたのが予(かね)ての衰弱のためかいつまでもなおらず、警察の許可を得て白米の粥(かゆ)をたべたりしても効果がなく、とうとう床についたまま式日になった。その朝しかたなく起き、床屋へゆく支度をしていざ出ようという時に茶の間でばったりやはりそこへ起きてきた兄と出合った。
『床屋へいくから留守番を頼みます』
私は気軽にそういって家を出、時刻も迫ってるので行きあたりばったりの汚い家で調髪をすませて帰ったら兄が亡くなっていた。私の気もちは混乱した。私は駆けつけた今日の仲人役の間氏(姪の夫)に式の延期を希望したが、結局同氏の意見に従い喪を秘してすませてしまうことに決心がついたのが定刻二十五分前。大急ぎで礼服に著かえる・・・(略)」

このあと、新婦の父親だけに兄の急死を打ち明けて、わずかに二十人ばかりが参列した内輪だけの式を済ませたことが書かれ、ついで時節柄ならではのユーモラスな話題が挿入されている。
「披露の宴で私はあらゆる種類の酒を次つぎと飲んでよほど元気づいた。主賓である先方の伯父さんが卓子(テーブル)の向うから『山本大将はお父さんが五十六の時のお子なので五十六とつけられたということですがあなたはなんとおつけになりますか』といったので『は、五十八とつけます』と答えたら皆が一度に笑った。
それまでの堅苦しさがそこでほぐれたような気がした。宴後休憩室でも私は平静に人たちと談笑した。(新婦の)お父様はあとで 見ていてたまらなかった といったそうだ。
文枝さん(勘助の姪)に自動車で送られて家へついた時に初めて事情を知った和子は茶の間の隅で初子さん(末子の妹)に慰められながら泣いた」
そして兄の遺体が横たえられた座敷で勘助が添い寝し、新婦は次の間で初夜を過ごした。祭壇に兄の遺骨を祀って四十九日を終えるまで、その状態を続けたとある。

挙式の朝の兄の死がもたらした衝撃。兄の死から四年後に発表された「結婚」はこう結ばれている。
「兄ーそれも今は一片の記憶にすぎないがーの急死のために私の結婚は目的の大半を失った。出来るだけよく世話をしようとする念願だったものを、兄はまことに気の毒な人だった、人びとの歓心と喝采をかつえるように望みながらそれを買う術には甚(はなは)だ拙劣であった。
私との間についていえば、自分だけが歓心喝采の中心であらねばならず、少なくとも第三者のいるかぎり、兄の前で私は有って無きがごとく、否寧(いなむし)ろそれ以下であらねばならなかった。かくして自ら求めてつくった敵がこの私ではなくて〈不可能〉という恐ろしい相手であることを覚らず、永い一生をとおしてそのために自ら苦しみ、また周囲を陰惨な暗黒にした。実に五十年私の数しれぬ譲歩も、堪忍も、寛容も、慈悲も、終(つい)にこの人を覚醒させることができなかった。
四十年ただ亡くなった姉の真心こめた不断の諫言と最後にきた老齢によって晩年多少の反省と自制を見せるようになったに過ぎない。私どもの不幸な関係はここに終った。そうして私の新(あらた)な、間違いなく短い生活はこの人の通夜をもって始まったのである」

しかし「目的の大半」を失い、悲嘆し躊躇した結婚はこの時勘助が記したように、「間違いなく短い生活」では終らなかった。予想に反して、勘助の「余生」は長かったのであるが、それについては章を改めて触れることにして、ここでは万世と妙子母娘の死について述べておく。妙子の死は、やはり「結婚」の中程に「約束の日に私は出かけたが途中妙子が亡くなったという急報を得て引返した。妙子には不意に打明けて驚かしてやろうと思ってたものを。この日のことは『蜜蜂』に書いた」とだけ短く書かれている。

「約束の日」というのは見合い話が順調に運び、ちょうどその日に相手側親族との顔合わせが予定されていたので、勘助は嶋田家へ向かっていた途中にという意味である。さらに「蜜蜂」の記述から、その日が7月18日であり、妙子は前日の夜に急逝したこと、またそのわずか一週間前の11日、たまたま姉末子の百ヶ日に当たる日に妙子から電話があって、勘助がそのことを告げると「そう?偶然ね。じゃまたそのうちいくわ」との短い会話を交わしていたということまでも。
妙子は13日に発病、15日入院したまま17日に胆嚢炎で急逝していたのである。33歳11ヶ月の生涯であった(註)。35歳で死んだ父親よりも短命だったのである。三人の子、長女13歳、次女8歳、三女はわずか1歳を残して。長女は妙子が父江木定男を亡くした歳と全く同じである。
(註・富岡多恵子は妙子の死亡日を17日、18日と二つ記述し、かつ妙子の満年齢を34歳としている。単純誤記だろう。)

「結婚」にはこんなことも書かれている。姪の引合せで勘助、嶋田和双方は乗り気になったものの、軍人上がりで頑固な先方の父親は、「子煩悩なせいもあるかとても石橋を叩いて渡るほうでこれまでいくら縁談をもっていっても纏(まと)まったためしがない」状態であったから、今回も危うく壊れそうなところまでいったりしたが、「『沼のほとり』を読み、特に『孟宗の蔭』のなかの私が妙子を可愛がるところに打込んで 今度こそ私の心はきまった と事は一遍に落著してしまった。世はさまざまだ。それを読んで私を非難する人もあるかと思えばそのために大事の娘をくれる人もある」。
こう書いて勘助は少し得意然としているが、兄の死により結婚をとりやめようとしたのも又事実である。
ともかく相手の父親が、(勘助の「小児愛」的傾向を富岡多恵子に指摘される原因になった)妙子への愛の書「孟宗の蔭」を気に入ってくれたことや新婦との人縁をたどっていくと勘助の家系や友人、さらには姉末子の生家とも、あるいは妙子たちにも繋がっていることの偶然やを、妙子に「不意に打明けて驚かしてやろうと思ってた」のであったろう。その矢先の妙子の死だったのであるが、果たして妙子は勘助の結婚を祝福したであろうか?

「娘」妙子の死を「父」勘助はどのように受けとめたのか。長文になるが「蜜蜂」と書簡集「妙子への手紙」の「前書」から引用する。
「妙子の死に顔は無我夢中の子供のときは別として父親をなくしてから今まで永年見てきた生き顔のいつのそれよりも静に穏かでした。妙子はかわいそうな子でした。家庭における特殊な位置のため小さい時から苦労をしたし、力にしてた父親には早く死に別れたし、親譲りの奔放な性質と切れかかった弦(いと)みたいに響きやすい神経をもって、所詮安穏な生涯をおくれないようにさだめられていた。
妙子は最初に子供の手で私に縋りついてきた。そのつぎには娘の手で、最後には成人した女の手で。そうしてどの手も涙にぬれていた。元気のいいお嬢さん、朗らかな奥さんという専(もっぱ)らな評判だったけれど私とさし向いのときには淋しそうな顔、悲しそうな顔、つらそうな顔、苛立たしい顔、腹立たしい顔、ー不幸な顔ばかり見せた。堰のきれたように涙をながしたこともたびたびあった。
そうしてそんなことを書いた私の随筆が発表されたあと『私てれたわよ、私が泣くなんて誰も知らないから』と苦情というでもなく笑いながらいったこともあった。
気性よりも、顔かたちよりも、この点がお母さんに生き写しだった、この私をいわば懺悔僧に見立ててるところ、あらゆる感情のぶちまけどころにしてるところ。私は納棺のすむまでいました」(「蜜蜂」)
「家庭における特殊な位置」とは、母万世と祖母悦子との江木定男や妙子を挟んでの確執を指しているのか。

「(略)ある人は私が妙子に対してあまりにも寛大放任すぎるといつた。さうではない。私は妙子の性質をよく知つてゐる。たとへ善意であつても結果を顧慮しない無思慮な自己満足的な叱責を加へて相手を反撥や、自暴自棄や、逃避や、最悪の場合死にまで追ひやることは真に慈悲あるしかたではないからである。
他の人はまた妙子の死後私がはじめてその真の姿を知つて愛情の冷却をきたしたらうといつた。さうではない。昔妙子がこの膝のうへにこの腕の抱擁のうちにあつたやうに妙子はその一生をとほして善きにも悪しきにも常に私の慈悲のなかに生きてゐたのである。妙子は自ら涙の流れをもつて洗ひさるべきものを洗ひ去つた。そのうへ私が何を思ひ何を為すことがあらうか。私にとつて大切なのは過誤の有無よりも先に善悪のありかたである。何等かの規約の厳守ならばパリサイの徒も市井の無頼漢もよくするであらう。
何より肝要なのは道徳心の無私であり純粋である。深く己の凡下を省みず人間愛の不足をもつて道徳的潔癖と誤り、郷愿的偏狭(註)に閉ぢ籠つて他の放逸を嫉視するがごときは私の最も嫌悪するところである。
私は生前その両親との関係において充分達し得なかつたところの道徳的完成にまで妙子との関係において達することができた。不思議の因縁であり、大きな喜びである」(「妙子への手紙、前書」)
(註・きょうげんてき、と読む。道徳家を装って、郷里の評判を得ようとする者の意味。)

妙子の死直後に書かれた「蜜蜂」と比べて、それから五年後の「妙子への手紙」の方は硬い文章ながらも、妙子への愛惜を語ってその内容に変わりはない。
「前書」の文章(実際はもっと長い)を富岡多恵子は、「妙子への総括」文なのだというがまさにその通りであろうし、そうであるとともに母万世に向けての総括だったのではないか。
つまり「前書」は勘助62歳に書かれたのであるが、すでにこのとき万世自身もこの世の人ではなかったからである。万世は妙子急逝の翌年の昭和18(1943)年5月に57歳で(未子と同じ歳である)死去していた(また同じ月に姉末子の追悼文「蜜蜂」が刊行されているのも不思議な巡り合わせである)。
万世の死因が何であったのか、どういう死に方をしたのか、勘助は何も書き残してはいないので一切不明である。これ以後の万世を語る文章は、前章で触れたように勘助71歳時の「呪縛」まで、ほぼ十年の歳月を待たなばならなかったのである。

戦争で日本の歴史が大転換していく昭和17年4月に「姉」末子と、7月に「娘」妙子と、10月に兄金一と、翌年5月には「呪縛の人」万世と離別するという思いもかけない事態に遭遇しながら、その一方で勘助は新生活をスタートさせていたのである。当然、勘助の結婚の報は(その日の兄金一の死も)生前の万世にも届いていたはずである。それを耳にした万世の心のうちはどうであったろうか。まさか勘助の結婚の翌年に世を去るとはどうしたことであったのか。

姉末子に語りかけるように綴った日記体随筆「蜜蜂」についても不思議なことがある。
姉の死から一週間後の4月11日に起筆され、7月19日付で「妙子が死にました。・・・」、10月27日に「兄さんは今月の十二日になくなりました。私は泣きました。・・・」と語りかけているのに、結婚のことはひと言も姉に報告してはいないのである。
目ざとい富岡多恵子が、このことをむろん見逃すわけはないのでいろいろとその理由を考察し、興味深い意見を陳述しているのであるが、ここに再録するとなると益々長くなるのでそれは各自めいめいの想像に任すとして、その富岡多恵子でさえも気がついてはいなかった、というより気がつきようもなかった重大かつ仰天の事実が、その後明らかにされているのでそれを以下に述べる。

明らかにされた事実というのは兄金一の死についてである。
朝、顔を合わせて挨拶した兄が床屋から帰宅すると死んでいた。死因にはひと言も触れないで勘助は結婚を拒み、周囲に説得されて従い、やがて兄哀悼の文章を書く。この流れに不自然さが特にあるわけではない。多分、富岡多恵子も金一はどうして死んだのか?と頭の隅では思ったに違いない。が、そのまま見過ごした。それもそのはずである。「結婚」という作品にはこんな場面さえ挿入されているのだから。

「式は秋と決まったがそれまでにも始終手伝ってもらいたい。それにつけても一度先方の人たちに逢っておくことが望ましいのでその日どりを打合わせるうちにも目前の必要に迫られて幾度かきてもらった。一番困るのは兄の身につける物の世話だった。
それを頼む時に私は『兄は私より身なりが悪いと気にするからなるべくいいのを著せてあげてください』といい含めておきながらじきにそれを忘れてしまった。
間もなくある日のこと、茶の間で食卓の向うに座った兄がひどくぴかぴかするものを著てるのを見て私は家政婦さんが手当り次第に出したのだと思い『大層いい物を著ましたね』といったら兄は指で輪をこしらえ目へあてがって これが出してくれたのだ といった。お友達は眼鏡をかけている。私は そうだったのか と思って『そりゃよござんでしたねえ。いい人ですよ』といったら 我意を得た という様子をして見せた」

眼鏡のお友達は、もちろん婚約者の嶋田和である。このあとに勘助は妙子の死を知るのであるから、和は相当早い時期から中家へ出入りして金一とも接触していたことになる(だからこそ、婚礼後に金一の死を知らされて末子の妹初子に慰められるほどに泣き濡れたのでもあったか)。
この挿入文から想像されることは、金一が弟の結婚はもちろん、その結婚相手の嶋田和その人を受け入れていたのであろうということであって、だからこそ金一の死に特に不自然さを感じなかった原因にもなっていたのだろう。それに金一は元々病者なのであるから、いつ死んでもおかしくないとの心理状態にあったであろうから。

ところが、富岡多恵子「中勘助の恋」出版の八年後、文芸雑誌「新潮」(2001年7月号)に「中勘助と兄金一」と題した一文が掲載され、金一の死が自殺であったことが初めて公表されたのである。実に、金一の死からほぼ六十年(勘助の没後からでも三十五年)の歳月を経て。

「当日、赤坂の家には親類の女性たちが何人か来ていた。亡くなった末子の妹、初子もその一人だった。もともと仲の良い姉妹だったが、それぞれの夫が〈すべてを忘れたのと足腰がその用をなさなくなったとの差こそあれ、同じ脳出血の病で倒れたので、二人はますます親しくな〉っていたのである(『中勘助全集月報 松岡磐木』)。初子の、脳出血で足腰が用をなさなくなった夫は、言語学者松岡静雄であり、民俗学者柳田国男はその実兄である。
床屋から帰ってきた勘助は『兄さんに挨拶してくる』と言って二階の兄の自室に上がっていった。階下にいる人たちは長い挨拶だと思っていた。(中家の人びとは〈廃人〉であってもあくまで金一を家長として扱い、勘助もいつも兄の前にはきちんと正座して敬語で話していた。)
ずいぶんたって勘助が階段を降りてくる音がした。普段立ち居振るまいの静かな勘助が、ガタガタと壁にぶつかるような音をたてて降りてきたが座敷に入ってこない。松岡初子がいってみると、階段の下に勘助が肩で大きな息をつきながら正座していた。『その時の勘助さんのお顔はそりゃもう忘れられるものではありません』初子は後に言った。
『兄さんが死んだ』勘助はしぼり出すような声で言った。初子たちが震える足を踏みしめて這うように金一の部屋へ入ってみると、布団の上に金一は横たえられていた。縊死による自裁であった。
当日、花婿となるべき五十七歳の勘助は七十一歳の兄の遺体を降ろし、布団に寝かせて整えたのである」

「『胸がはりさけるとはあのことです』初子は言う。『ほんとうにあの時はもう・・・』あとの言葉は私が憶えていないのではなく、本当に筆舌につくしがたい思いであったろう。茫然自失のあとは混乱だった。警察が呼ばれた。
『この結婚はもう意味を失ったから取り止める』と勘助は言う。勘助の姉ちよの娘たち、ももゑ、君江姉妹は必死で勘助を説き伏せにかかった。前述のように新婦はももゑ、君江姉妹の友達で、境一郎・ももゑ夫妻は当日の仲人である。『結婚式当日にとりやめなんて、そんな屈辱的なことを』と姉妹はかきくどいた。
『この結婚はやめる』から『延期する』、そしてようやく、喪は秘して結婚式をすませることに決した。十一月十四日小宮豊隆あての手紙に、勘助は〈結婚式の日の定刻の数時間前に突然兄が死んだ。結婚式を敢行しようと決心がついたのはやつと数十分前だつた〉と書く」
式が済んでの夜に「和子は次の間に、私は座敷に屍体と床を並べて寝た」ことまでは、「結婚」に書かれていたのですでに述べておいたが、さらにその夜には近親者しか知り得ない仰天の一幕があったという。
「夜更けに戸がたたかれた。近所の鰻屋であった。『昨日、ご隠居さん(金一)が来なすって本日の花婿・花嫁にと夜届けるようおっしゃいました』何も知らない鰻屋が置いていった特上の鰻重二人前を人々は声もなく見つめた」

これが結婚式当日の真相であったようだ。その日の出来事を初子から直接聞かされた文中の「私」が、「中勘助と兄金一」の著者菊野美恵子氏である(註)。添えられた家系図をみると、末子、初子姉妹は著者にとって父方の大叔母にあたる関係になるようだ。
さらに菊野氏は「中勘助と兄金一」を補完するかのように再度、岩波の「図書」(2015年5月号から6回分)にさまざまな新事実を加えて「もう一つの中勘助」という文章を発表している。その最終回は再び金一の死が取り上げられている。
(註・「新潮」同号の執筆者紹介によれば、菊野美恵子氏は1932年東京生まれ、小説家とある。)

「金一の思考能力は当時思われていたよりずっと残されていたのではないだろうか。金一は自分の世話をするために、勘助が結婚によって〝身内〟を作ろうとしている事態を十分理解していたのであろう。
しかし、金一はそのような急ごしらえの身内に世話されることは受け入れがたかったのであろう。勘助の結婚式の始まる数時間前、自室で縊死したのである。使ったものは自分でテグスを丹念に編んだものであったというから、発作的なものではない。作り上げるには何日もかかるであろう精密に編まれたものであった。
生涯の趣味が釣りであった金一は、テグスがどんな強度を持っているかはもちろん知り抜いていたはずである。しかも、そのテグスで編んだ紐の、ちょうど両方の頸動脈に当たるところには浮きが編み込まれていた。絶対に失敗しないという、かつての医学者の金一の強い意志が感じられて怖ろしい。その浮きは既製品のものでは満足しない金一が、末子と勘助にさんざん苦労をかけて作らせたものである。二階でひとりそれを編んでいた金一の心中を思うと、胸塞がれる思いがする。勘助の結婚式の同日ということは、金一のなかでどのような意味があったのであろうか。
かくして、勘助のものごころついて以来の兄金一との確執は、すさまじい形で終焉した。
金一がこのような死を迎えたことはまわりには伏せられた」

金一の死は入念な計画による覚悟の自殺であったのである。その理由も菊野美恵子氏の言われる通りにあったのだろう。とはいえ、それが何故わざわざ結婚式当日であらねばならなかったのか、そして届けられた(「もう一つの中勘助」では夕方に鰻屋が持って来たことになっているのであるが)鰻重の意味するものは?
永遠の謎であろう。
「永い間の看護と心づかひと過労と睡眠不足は私の肉体を衰弱させ、急激な解放は精神を虚脱状態においた。食慾はは進まず、食物は消化せず、眠りは浅く濁されがちに、昼も畳のうへに寝倒れて、日にちの出来事はちやうど目をあいたまま夢を見てるやうな」(「余生」)状態に陥っていた勘助は、健康を取り戻すため妻和の親族を頼って静岡に移った。昭和18(1943)年10月のことであった(この年5月に万世の死に遭遇している)。この転居はそのまま疎開を兼ねることになった。

菊野美恵子氏によれば、昭和20年5月25日の東京大空襲によって留守にしていた(金一が自裁した)赤坂の家が全焼した。同日、「銀の匙」の舞台となった(岩波茂雄に購入してもらった)小石川の家も焼け落ちたという。
敗戦後に帰京した勘助夫妻は、焼け残った中野の妻の実家で和の妹二人と同居した。「親戚のものたちは『まあ、あのお家はご老人ばかりでどうなることやら』と噂したが、勘助は『妹たちと一緒に仲よく賑やかに幸福に暮してゐる』」と友人小宮豊隆宛に知らせている、と菊野美恵子氏の文章にみえる。
案ずるより生むが易し、であったのか。あれほど抵抗した結婚はうまくいったようである。
「『私は死に水をとつてもらふためにおまいをもらつたんだよ』冗談半分に私はをりをりそんなことをいつた、兄の急死によつて結婚の目的の大半、病兄の生涯の世話といふことはなくなつてしまつたので」という「余生」の文章を引いて、やはり菊野美恵子氏は「四十二歳の新妻、和に、結婚の目的の大半は失われたと、たとえ冗談半分としても言ったとすれば信じられない暴言だと筆者が思うのは、時代の差だけであろうか」と記しているが、もっともである。

「銀の匙」前篇の「私」が学校教育で感じた不信感を、ずっと引きずって生きて来た勘助が忌み嫌った一つが当時の封建的家族制度だったことを考えれば、このときの結婚の目的は明らかに矛盾した論理と行動である。病兄の世話をしなければならない条件での結婚など、当時だって避けて敬遠せられたことはいうまでもあるまい。決して理想的な結婚相手ではなかったろうに、嶋田和という女性はそれを含めて承諾したことになる。「結婚」を読む限り、嶋田和の方も勘助に初対面から好意を抱いていたことが分かるように書かれているのではあるが、実際のところ結婚の決め手は奈辺にあったのか?
嶋田和が書き残したものは何にもないのだから想像のしようもないのであるが、富岡多恵子が小堀杏奴の中勘助プロフィール文を引用した次の文章は参考になるのではないか。

「中勘助はどの時代の時代の写真を見ても、美男子(というより美丈夫というべきか)である。先にあげた小堀杏奴の『再会』という追悼文にもそのことが出ている。
〈彫りの深い、端正な中さんの顔立ちと、うわ背のある堂々たる体格は一寸日本人離れした感じ〉で、夫妻を駅まで送っていくと、必ずあとで近所のひとに、いったいどういうひとかたずねられたというし、銀座裏で立ち話をしていたら新橋の芸者たちが勘助を注目したという。また〈兄嫁にあたる未子さんが『中家の人たちはみんなととのつた顔立ちをしてますの!』と一寸自慢らしく嬉しそうに仰言つていたが、令兄も身体が大きく頑丈で、好みにもよるであろうが、中さんよりまた一層男性的な分子の多いかたに見えたし、妹さんたちの美しさは牡丹灯籠のお露を思わせるものがあつた〉という」
中家の女たちは美人姉妹で、金一と勘助兄弟も身長180センチの堂々たる体躯をした当時のイケメンであったと、同じことを「もう一つの中勘助」の著者菊野美恵子氏も金一の写真入りで語っている。

また富岡多恵子は、安倍能成の追悼文「中勘助の死」にある「中は男子よりも女性に対して一層影響力を持つ男である。それはなにも彼の非難すべき心事ではない。彼の天心が女を動かすのであって」との文章を引いて、こうも書く。安倍能成のいうことはすなわち、「勘助の発する男のオーラを女が敏感に感じとる、ということであり、勘助本人もそれに自覚的だった、ということであろう」と(勘助自身も自分に色魔的素質があることを認めていた)。
事実、「結婚」中の一節からもそのニュアンスは伝わる。
結婚前の儀式として、嶋田家で顔合わせに臨んだ時の勘助の評判を結婚後に聞くと、「私は見かけが北欧型で、日本に永くいらっしゃるから和服がよくお似合いになります というところだということに衆議一致したそうだ」
ここで幾分興奮し?「衆議一致」させたのは、勘助の作品を気に入ったという父親よりも何よりも、姉妹三人と母親の嶋田家の女たちであったろうし、ちょっと日本人離れした自分の容貌を臆面もなく?語る勘助の態度は充分に自覚的であると思われる(富岡多恵子は勘助をナルシストといっている)、

一高生の頃か帝大生の頃か判然としてはいないが、勘助の放つ強力なオーラに心ときめかせ、得恋ならずとも恋情を秘め続けたもう一人の女性がいた。野上彌生子である。
この事実は死後、彼女の遺した日記から公にされたのであるが、それは次章で述べることにして再度小堀杏奴の中勘助追悼文「再会」から。
「晩年、思いがけなくいい結婚をなさつて後はじめて中さんを訪れた時、挨拶に出た夫人が二階を降りて行かれると直ぐ『姉に似たところのある人でしよう』と中さんは云われ、私も同感の意を示した。そうして私は内心知らずして中さんは『銀の匙』のおばさんに再びめぐりあう機会を得られたのだなと考えるのであつた」
菊野美恵子氏の「中勘助と兄金一」の記述によると、姉代わり、伯母さん代わりとなった中和は、夫勘助没後からちょうど二十年後の昭和60(1985)年に85歳で死去したとある。「銀の匙」が岩波文庫「私の三冊大アンケート」にて第一位に選ばれる二年前である。「ここに中家の血は八代で絶えた」と結ばれているが、和の死因の記述はない。

(文中のかな遣いの違いは、単に引用文献によるものである。)

(以下、「銀の匙」と「森」(4)につづく。)



自由人の系譜 中勘助「銀の匙」と野上彌生子「森」(2)

兄嫁末子の死は、中勘助が翌月に満57歳を控えての春だった。それからちょうど四十年前に末子は中金一と結婚して、勘助にとって「姉」と呼ばれる大切な存在となった。
またその婚礼の年、中勘助は第一高等学校へ入学し、幾人かの新たな友を得た。江木定男もその一人であった。東京帝大法科に進んでいた江木定男が結婚したのは明治40(1907)年、勘助が英文から国文科に転科した年であった(そのとき江木は勘助より一つ下の21歳だった)。相手は江木と同い年の元愛媛県知事(ただし既に死亡していた)の娘関万世(ませ)。
二人の間に長女妙子が生まれたのはその翌年、すなわち金一が脳溢血で再起不能となった前年のことである(のち、妙子には双子の弟が生まれる)。
いま一度、この間の中家にまつわる出来事を確認しておくと、金一のドイツ留学と九州帝大教授就任、姉との匂い菫の思い出、勘助兄弟の父親の死、末子の父親の死などである。社会的大事件としては日露戦争の勃発があり、日本海艦隊決戦での日本側の幸運な勝利で終結していた。

末子とともに「中勘助の恋」の対象が、この友人江木定男の妻子万世と妙子であることを富岡多恵子に指摘されるまで、「銀の匙」があれほど読まれた割にだれも取り上げようとはしなかったのである(不思議なことに)。
兄が倒れてから、勘助が兄との相克ゆえに十年以上にわたっての放浪をつづけたことは前章に記したが、その間に勘助はしばしば江木家を訪れている。江木定男を訪ねるというより妙子に会うためである。会って勘助は何をしているのか。例えば日記体随筆「郊外 その二」の中の、大正6年4月19日と日付された記述。
「〈さあここへいらつしやい〉と膝をたたいてみせたら向うむきにこしかけた。〈顔が見えないから〉といへば〈ええ〉と同感なやうなことをいつてこちらむきに膝のうへへ座らうとするのを〈跨つたはうがいい〉といつてさうさせる。このはうが自由にキスができる。右の頬へいくつかそうつとキスをする、今日切つたばかりの眼が痛まないやうに。こなひだのものもらひを瞼の内側から切つたのだ」

「妙子さんは今日はなんだか沈んでる様子でしんみりと懐しさうに話す。私はまたひとつキスをして〈これどういふときするもの〉ときく。〈知らない〉〈あなた私にしてくれたぢやありませんか〉〈わかつているけれどなんだかいへない〉ほんとにどういつていいかわからないらしい。
〈私あなたが可愛くてかはいくてたまらないときするのよ。あなたも私が可愛くてかはいくてたまらないときするの?〉〈ええ、さう〉今夜はどうしたのかいつまでも誰も出てこないので存分可愛がることができた。妙子さんもいつになく膝のうへにおちついてなにかと話す。私はただもう可愛くて抱きよせては抱きよせては顔を見つめる。〈あなた私大好き?〉〈大好き〉・・・」
最初はほっぺを寄せ付けていたのを、いつのまにか妙子は唇を押しつけるようになり、やがては会えばキスをしあう仲になる。このとき勘助31歳、妙子は8歳である。

このような江木家の団欒を富岡多恵子は、次のごとくに説明して裏付けの文章を例示する。
「三十歳すぎの男と八つか九つの女の子の、こういう〈接触〉が男のたんなる〈子供好き〉によるものかどうかは、やはり問題としなければならない。(勘助の指導によって妙子の)成績の上った綴り方を見せたあと、〈膝の上で少しはにかんでる妙子さんの顔を見て私(勘助)が『さすがは中さんのお嫁さんだ』といへば江木は『口をつねつておやり』とけしかける〉というように、妙子の父親江木定男は冗談ですませているが、さすがに母親と祖母はふたりの「接触」になにかを感じとっているのが、次のようなやりとりでわかる」

「〈こないだおばあさまとお母様で中さん嫌ひだつていつてた、妙子の行儀を悪くするからつて〉お母様は狼狽して〈いつそんなことをいいました〉ときめつけてもびくともしずに子供らしい誇張を加へていい気もちにすつぱぬく。
事実はかうらしい。妙子さんがもうねついたと思つてお母様と口口口さんとで、私が妙子さんにキスしたり抱いたりするもので妙子さんがむやみにキスしたり行儀がわるくなつたりして困ると話したのを、まだ眠つていなかつた悪者がちやんと小耳にはさんでたのだ。妙子さんはしつかり私に抱かれながら〈妙子と中さんとあんまりなかがいいもんだからおばあ様が妬(ねた)むんだ〉といふ。みんな転げて笑ふ。お母様も」
このあと妙子は、ますます図に乗って小悪魔的になる。

「妙子さんはこれ見よがしに私の頸(くび)にかじりついてきついきついキスをする。ひとつしてはふりかへつてわざとお母様の顔を見る。またひとつしてはふりかへる。そして もうたまらない といふやうに両腕でしつかりしがみついて頬をおつつけてはなれない。
私も嬉しくて〈そんなことするから叱られるんぢやありませんか〉と口にはいひながら これ御覧なさい といふやうな気もちで笑ひながらお母様の顔を見る。
お母様も笑ひながら、でもやつぱり心配さうに〈そんな気ちがひのやうになるからいふんですよ〉といはれるのを、妙子さんはやけに捨鉢に私にからみついてしつかりと抱きしめさせながら〈中さんが帰つたあとできつと妙子叱られるんだ。ちやーんとわかつてる〉といつて〈今日はどうしても帰らせない。お泊りしていらつしやい〉」

どうだろう、このおマセで挑発的な態度は。これでは母親と祖母の心配も無理からぬところだろう。
富岡多恵子は「いっさいの先入観、予備知識なしに『郊外 その二』を読む者にも、ふたりの〝接触〟は三十歳をこえた男と十歳前の幼女の無邪気な〝交流〟として済ませるには〝あやうい〟気配、いやはっきりいえば擬似的な性行為であるのに気づくはずである。ただそれを、おそらく当時の、勘助と妙子のまわりの人間たちが〝無邪気な遊び〟として微苦笑とともに見送って、凝視することを避けたのと同様に、マサカと思いたがる心情から性的な気配など思いもつかぬ振りを、中勘助の〝愛読者〟もしてきたのではないか」と推断を下し、「郊外 その二」の前に書かれた「孟宗の蔭」の記述を例示して、もっと幼かった妙子におもちゃをプレゼントしながら何度も「求婚」して、妙子がそれに徐々になびていく様子にも注意を喚起している。つまりは中勘助が「小児愛的傾向」の持ち主であったのではないかとの伏線を張っているのであるが、この件は又あとで触れる。

ところで上に引用した「郊外 その二」の文章を読んで、登場人物のつながりを把握するのにとまどったのではないであろうか。つまり、おばあ様とお母様と口口口さんの関係がちんぷんかんぷんになって文脈さえもが怪しくなったのではないかということなのだが。
ここに登場するのは妙子の祖母と母親二人のみで、勘助が口にするお母様は妙子の母親という意味ではなく妙子の祖母のことで、友人江木の母親だから勘助は呼び習わした言い方でそう呼んでいるのである。また口口口さんとぼかしてあるのが妙子の母親万世のことである(口口口さんの角の中には、お万世さんと入るのか。註)
したがって、おばあ様が嫉妬したといって皆が笑い転げるシーンに母万世はいない。もしかしたら江木夫婦はかなり派手な生活を送っていたというから、その日も夫婦でどこかへ出かけていたのかもしれない。
(註・兄嫁未子を「姉」としか書かなかったと同じ理由の下に、勘助にとっては万世を口口口さんと表記することで、誰かの「妻」でも誰かの「母」でもない「女」を意味していたからだと、富岡多恵子はいう。)

ここで江木家について説明しておく。江木定男は江木写真館の裕福な息子で母親は定男を生んで早世していた。その後妻に入ったのが関悦子だった。定男が11歳のとき、父親死亡。定男は、その後を継母悦子と二人で暮らした。
定男が結婚した万世は悦子の妹なのである(姉妹の年齢差は不明)。定男を中学生の頃から知っていた安倍能成は、定男のことを「紅顔の美少年で気性の活達な若者」であったといい、「継母の悦子さんと、飯田町の黒塀の家に住み、継母の妹の万世子さんが手伝ひに来て居た」。
万世については「瞳の黒い美しい女性で、(当時、華族女学校と並んで高い学校とせられた)お茶の水高女の出身として、美人の名が高」く、「本郷あたりの青年学生のあこがれの的として有名だったらしく・・・」、「黒い瞳を見、蚊の鳴くやうな声をきいて、私もその色香に魅せられた」と、自伝(「我が生ひ立ち」)に記している(なお言添えれば、未子の通ったのが華族女学校である)。

万世に関する安倍能成の言辞を保証するような絶好の逸話がある。日本画家鏑木清方の傑作とされ、切手にもなった美人画「築地明石町」のモデルが江木万世であることを鏑木清方本人が明かしている(しかもそれは41歳時の万世だと)。
安倍能成が江木家に出入りすれば、当然、勘助とて同様である。されば勘助の前にも万世は姿を現す。その出会いからの経緯はエッセイ「呪縛」に書かれているのだが、このエッセイが昭和31年文芸誌「新潮」に発表された時、勘助は70歳である。どうしてそんな年齢になって今更に遠い過去の出来事を書きたくなったのか。まさに勘助自身が長い間万世という女に「呪縛」されていたことの証左でもあろう。「呪縛」は短かい文章なので引用はほぼ全文近くなる。

「五十年にもなる。一高のとき私は新入生の一人と友達になつて、毎週一二回は訪問しあふといふほど近しくした。楽しい期待に胸をふくらませていつて案内を乞ふと予(かね)て噂にきいた親戚の令嬢といふ美しい人が小走りに出てきて取次いでくれる。はたち前後か、背の高い、強くひいた眉の下に深くぱつちりした瞳、錦絵からぬけでた昔風のそれではなく、輪郭の鮮明な彫刻的な美人だつた。
しづかにあいた襖から小腰を屈めて現れる姿、膝のまへにしとやかに両手をつく。さてその取次ぶりだが、まるで言葉が唇からこぼれるのを惜むやうにぎりぎりのひと言しかいはない。実はこちらもその式ゆゑそれはいいとして、生来の無愛想でも不機嫌でもなささうなのに表情の影さへない、慣れれば微笑ぐらゐは普通だらうに。大理石像は冷くとも表情がある。これは血は通ひながら呪法で魂を氷らされた仮死の肉体である。そこになにか鬼気をさへ感ずる。
そんな風でその後何年か足繁く訪問するあひだつひぞ暑い寒いの挨拶もせず、ただの一度も笑顔を見たことがなかつた。とはいへその不可解な物腰はそれ故に反つて奇異に消し難い印象を私に与へた、鋭い刃物で胸板に刻みつけるやうな。彼女には懇望されての婚約者があつた」・・・・(Aの文章、後述)

ところが、女は変身する。
「そのうち何かの理由でそれ(婚約のこと)が解消されると入代りに友人の一途な恋愛が始まつた。私は心から成功を祈り且つ予想される困難について心配したが、結局それはめでたく実を結んだ。友人の話は自分の恋愛にはあまり触れずに先方から結婚を懇望されたらそれならと引受けたといふいひかたで、彼女は喜んで泣いてるともきいた。
そしてそれを裏書きするやうに彼女はそれからは別人のごとく明朗快活になつた。よく知らないが二人は性格と若気にまかせ馬勒(ばろく、馬のくつわ)をはづした派手な生活を続けたらしい。その点完全にうまの合つた夫婦であり、申分のない伴侶であつた」
「心から成功を祈り」祝福(?)したであろう友人江木定男の結婚とひきかえ、勘助は「同じ頃父を失ひ、間もなく兄の発病、廃人、それに因く深酷な家庭的紛糾のため(近衛兵への)入営も(自宅からではなしに)親戚からし、病気除隊後も家へは帰らず島に籠り、その次には谷中の寺で絶つた生活をしていた」。

気のそまぬ縁談解消によって万世の「呪縛」が一気に解けたのがよくわかるけれども、万世と江木定男の結婚までに江木の「一途」なアタックがあったとしても、果たして江木のいう通りだったのだろうか。文章自体も回りくどくてどこか奥歯に物の挟まったような書き方で、これでは万世の側から江木に結婚してくれと頼み込んだふうに受け取れる(万世の姉すなわち江木定男の義母悦子が強引にすすめたのか?そうだったらそのように書かれた筈だろう)。釈然としない。

このことは「呪縛」よりもずっと前(勘助47歳時)に書かれた「郊外 その一」(註1)にその理由が求められるようだ。放浪の無理がたたって勘助は健康を損ない入院加療を余儀なくされた(前後、何度か入院している)。そんな最中に勘助は口口口様、すなわち万世の思いがけない見舞いを受けた。
「思ひもかけぬ口口口様の笑顔が現れた。私はすくなからず狼狽したが、昔彼女のまへでゴルゴンの首(註2)のまへに立つたやうに硬くなつたほどにはしなかつた。私は布団からのり出し寝台の鉄柵によりかかりながら気楽に冗談や皮肉をいつたりして絶えて久しかつた昔の人を額から胸から指の先まで見まはした。そしてなつかしい〈昔〉をその強いうちにも強く、鮮なうちにも鮮な眉と目のあたりに見いだした。私は病んで鋭く弱くなつた神経に圧迫的な苦しい刺戟を感じた。彼女は話のあひだに包みをといてこの花籠を卓子のうへにおいた。それを私は手にとつてうちかへしうちかへし眺めながら譫言(うわごと)みたいに話しつづける」
ゴルゴンの首とは「呪縛」の最もたるものではないか!
(註1・「郊外 その一」の発表は、昭和8年。註2・ギリシャ神話に出てくる女支配者メドゥサのこと。)

それからひと月ほどした晩に、万世は再び現れた。
「私は寝台のうへに起きあがりながら〈また来てくだすつたんですか〉と元気よくいつた。今日はどこかの帰りとかでたいへん綺麗にしてゐる。そして躊躇なくするすると寝台のそばへ椅子をひきよせてなにより先に私の出した端書(ハガキ)が皮肉だとかいつて手きびしい攻撃を加へた。あんまりそばへ寄られてまぶしいやうな気がする。藤鼠?の地に桜を散らした襟をほめたら  自分で見たてたのだ といふ」
このあと、見舞品の首人形で遊んで(前回は造花の籠だった)、「一時間ばかりも話して帰る」。
これらの文章を読んで、上記Aの文章にあった「鋭い刃物で胸板に刻みつけるやうな」「消し難い印象」が何であったのかを想像できるだろう。いわゆる一目惚れである。それも完全な。男は未だその時の強烈な「呪縛」がとけぬまま、見舞いに訪れた友人の妻の姿態を「指の先」まで舐めるように見まわし、「苦しい刺戟」に酔うのである。

「郊外 その一」の文章はここで途切れて、このつづきの場面は約二十年も経ってから「呪縛」に書かれるのである。その見舞いから半年後、万世は今度は上野桜木町の寛永寺に仮寓していた勘助を訪ねて、次のような告白をする。
「(このときも)思ひもかけず彼女が訪れた。孟宗の蔭の静かな離れである。客は澄みきった空気のなかに私と対坐した。水晶に切りはめられた色濃い玉のやうに。三人の母となつて成熟した婦人のおちつきが添つた彼女はちょいと襟をかきあけるやうな指遣ひをして、これおぼえていらつしやる、ときいた。まへに私が褒めた襟だ。古くなつたけれどかけてきたといふ。そして周囲の閑寂を破るまいとするやうに静に語つた。静にではあるが意外なことを。
彼女は初めから私を思つていたといつた」
思い切った告白をするのに万世は、前に勘助が似合っていると褒めてくれた藤鼠地に桜を散らした襟を着けてきたというのである。では、「初めから私を思つていた」とは、いつの頃からなのか。

この問いの答えは「中勘助の恋」末尾にあった。
「口口口さま(つまりお万世さま〔略〕)に対する江木氏の恋情と、求婚に就いて、中さんは口口口さまから相談を受ける。そのことは、その儘口口口さまの、中さんに対する求愛にほかならぬと私には感じられる。それに対して中さんは、江木氏の人物、背景、その他いわゆる結婚の条件として、非の打ちどころ無きことを力説し、その申し出を受諾することを勧められたと云う。正直のところ、当時の若い私には中さんのお気持がよくわからなかったし、ただ、ただ、口口口さまの心情を切なく、哀れに感じた」
「哀れに感じた」文章の主は、小堀杏奴である(稲森道三郎著「一座建立 中勘助の手紙」1987年六興出版刊の「序にかえて」に書かれたものだという、註)。
(註・小堀杏奴は森鴎外の次女。勘助のふた回り年下。姉末子も親しくしていた。「蜜蜂」は姉の死後、杏奴の夫に姉の肖像画を頼みに行く場面から始まっている。稲森道三郎は、岩波版「中勘助全集」編纂委員に名前がある。「一座建立」は図書館に無く未読。)

これが真相であるならば、勘助は明らかに「呪縛」で嘘を吐いていることになる。その期に及んでも真実全体を語ってはいない(用心深きことかな)。万世の告白のつづきの部分を引いておこう。
「その頃は恋を諦め秘めて他へ嫁ぐのは常のことで珍しくも不都合でもない。そして立派な良妻になる。(万世が)さう打明けはしたもののその後何を求めるでもなく、こちらもどうしやうもないし、それにもともと私の憧憬をそそつたのは呪縛された彼女であつて、縁談が纏つて彼女の様子が変ると同時にそれはいはば第四次元の世界へ飛び去つてしまつた。
同じ一つの美しい肉体ながらそれが此世的にこちらへ近づけば近づくほど憧憬の対象は遠のいてゆく。これは形をかへた呪縛かもしれない。が、勿論私はそれをいはなかつた。さうしてしめやかに昔を語つて別れた」
後半部分はあとで再び触れるが、「呪縛」はこう締めくくられている。「これは委(くわ)しく書けば一冊の本にもなる話の梗概のまた梗概である」その一冊が書き上げられることはなかった。

さてここで時間軸をたどっておくと、寛永寺離れでの万世の告白は江木との結婚から五年後だとされている。ちょうど勘助は「銀の匙」を書き上げて原稿を漱石に送った27歳のときになる。万世は江木と同じ歳だから勘助よりひとつ下で26歳か。「呪縛」された彼女に恋していたのだと勘助は言い張るが、よしんばこのとき万世の告白を初めて聞かされていたのだとしても、すでに三人の子持ちの人妻になっていた万世を今更どうしようもなかったであろう。ましてや姦通罪で縛られている時代である。
妙子はこの時期、4歳である。「孟宗の蔭」に書かれた妙子は、だいたいこの時期から6歳頃でやはり勘助は機会を見つけては江木家に繁々と足を運び、巧みに妙子に近づき手なづけ妙子へ「求婚」を繰り返していたのである。
前述の、勘助が江木家を訪ね妙子を膝の上に乗せキスを迫る場面、「郊外 そのニ」に書かれた場面は勘助31、2歳頃であった(妙子は8歳頃)。江木に原稿を見てもらっていたことも書かれてはいるが、もしかしたらそれも万世に会うための、あるいは妙子に会うための口実であったのか(「呪縛」に書かれている万世の「生死の境を彷(さまよ)つ」た大病もこの頃だと思われる)。

妙子を勘助が異常なほどに溺愛するのは、万世というメドゥサの魔法にかかってしまった勘助が、無意識にその代償行為としたのではないかとの観測もあるいは当然成り立つであろう。そう考えたのかどうか、富岡多恵子は第二、第三の妙子的幼女の存在を示して、中勘助「小児愛」説を補強する。
岩波文庫「銀の匙」の解説者である和辻哲郎の娘京子もその対象になる。幼女京子にも会いたい、抱っこしたいとの熱烈な「恋文」(富岡多恵子の表現)攻勢をかけ、なかなか会えないとみると写真を「中おぢちやん」に送ってくれと何度も哀願する。
「私は京子ちゃんの様な小さな人達を可愛がる為に生れてきたのでせう」とあけすけに父親和辻哲郎にも書き送ってもいる勘助は、臆面もなく日記体随筆「街路樹」に記している。「子供に対する私の愛は殆んど病的であり、狂的である」
京子への偏愛は、妙子が成長し小児愛の対象から外れていく時期と一致する。妙子より6歳下の京子との交流は、京子5歳の頃から10歳頃までつづき、京子の結婚時に勘助は贈り物を届け祝福して終る。

勘助の関心が小さい男の子には比較的冷淡であることを述べた上で、幼女愛三例目として安倍能成の長女道子へのそれを簡略に触れたあと、愈々、富岡多恵子は「不思議の国のアリス」の作者、ルイス・キャロルが66歳で死ぬまで独身で、成人女性と関係を持てぬ「小児愛」性向者だったがゆえに愛する小さな女の子アリスに捧げるために「不思議の国のアリス」の物語を書いたこと、及び小児愛(ペドフィリア)の精神医学的見地とで現代の水準から判断すれば、中勘助がまぎれもない「小児愛」者であることを示唆する。
学説は難しいし、よく理解できないので触れないが、中勘助は京子のために「雁の話」を書き、妙子のために「孟宗の蔭」を書いた。それはルイス・キャロルと全く同じ小児愛者特有の心理作用であると。

これら勘助の一連の行動を、富岡多恵子は次のごとくに結論づける。
「妙子を可愛がり、京子に恋文を書く。勘助の〈不気味さ〉は万世をはじめとする女性たちとの性的な関係忌避へと繋がると思えるが、その指摘がこれまでにないのは、ひとつには勘助自身の隠蔽の巧妙さ(日記体随筆)があり、ひとつには家父長制の社会システムがあるのではないか。
強固な家父長制は、〈娘〉〈嫁〉〈母〉〈妻〉〈妾〉のような役割によって〈女〉を分断して、未分化の〈女〉が生きるステージを与えない。逆にいえば、そういう社会での〈男〉は、〈女〉と対峙しないですごすことができ、母の〈息子〉、家族には〈家長〉、妾その他奉公人の〈雇い主〉、娼妓の〈客〉というような役割に、時と場合で出入りする。たまたま男が〈幼女〉を可愛がったとしても、〈女〉以前の〈幼女〉は役割によって〈女〉が分断せられたものとは思われず、〈娘〉や〈嫁〉や〈母〉のような社会的性別からは除外されているので、そこに性行動の入りこむスキがあるとは認識されていないのだ。
哲学者和辻哲郎が、幼い長女へ届く勘助の度重なる恋文に無頓着であったのも、〈倒錯に対する親和性が極めて高〉い家父長制の社会に生きていたからであろう」

中勘助が「小児愛」者であろうとなかろうと、時は流れ少女は成長し、若人も歳を重ねる。勘助が小石川の実家を岩波茂雄に買ってもらったのが大正9年末、関東大震災が12年9月、その前年6月万世の夫江木定男が35歳で急逝。江木は農商務省に勤務する官僚だったが、「銀の匙」後篇が朝日新聞掲載が終了した翌大正5年に(寛永寺の離れでの万世の告白から四年後)、アメリカ滞在での仕事を終えて帰国した時には健康を害していたようだ。
前述の自叙伝に安倍能成は、江木は「死ぬる前あたりには、随分遊んで居たらしく、その愛妓には一度会ったこともある」と書いている(安倍は万世の人柄を未子のように高くは買っていない)。江木夫妻に何があったのか、なかったのか。

勘助は江木定男の死についても「呪縛」にこう書いている。
「細君(註)は息をひきとつた屍体に縋つて泣き崩れたさうだ。あれほど愛し合つて長年苦楽を共にした生活の伴侶との早すぎた死別はいかに悲しかつたことか。人まへで決して涙を見せない人だつたが。人目も忘れて悲嘆にくづをれた姿は一生のうち最も美しく貴いものであつたらう。未亡人はそのあと十幾年生き存へた」
問題はこのつづきの文章である。
「世間的にも家庭的にも急に淋しく頼りなくなつた彼女の私に対する感情は飛躍的に亢(たか)まり、度たびそれを訴へて結婚を望んだけれども私はすげなく? 聞流した。性格的気質的に生活の理想が殆んど背中合せの二人の結婚が何を齎(もたら)すであらうか。
そのうへ私の現実的な境遇は彼女のロマンティシズムを容れる余地がない。で、私は怨まれつつも彼女の心からの同情者、慰安者にとどまり、いつも陥穽(かんせい)にのぞみ危機に囲まれてるやうなこの美しい未亡人の心の支柱となるよりほかはなかつた」
(註・富岡多恵子は、万世のことを勘助が江木の「細君」と表記したのは、この時がはじめてではないかという。)

父親が死去した際、妙子は13歳。やがて妙子はお茶の水女学校へと進み専攻科(英文)に在籍していたが、中退した。東京商科大学助教授猪谷善一(28歳)と結婚したためである。美しい新婦は19歳になっていた。翌昭和3年、文部省留学生に決定していた夫に随伴して渡仏、パリで妙子は長女を出産、異国での暮らしや子育てに苦労しながらも、無事昭和5年に帰国した。
妙子は当然のごとくに勘助に出迎えを要請した。というのも、父親を亡くした妙子は勘助に「父」になって欲しいと訴え、勘助も「すげなくしかねて」承諾していたからである。さらに妙子は一生勘助のそばにいて世話をしたいとまで口にしていたのである。さすがに勘助もその願いだけは、「否応をいはずきき流し」ていたのだったが。その妙子は、出迎えた勘助にしがみついて泣き出し、「極めて自然に」「少しの作為もなく」、「お父様」と呼んだとある。
しかし、勘助も賛成した妙子の結婚はそれなりに幸福だったようだ。姉妹で嫁と姑の関係になっていた母万世と祖母悦子の不和という憂鬱の種を除けば。

「父」と「娘」(といっても、娘は歴とした猪谷夫人なのだが)は娘の呼び出しに応じて、時にデパートや帝展見物などで「デイト」を重ねる。そんなある日の光景を書き写す。
有楽町で待ち合わせ、三越で買い物をして大阪寿司を食べ、隅田川を船で言問まで行き団子を食べ、浅草を歩く。「吾妻橋を渡るときだつたらうか妙子は〈お母様と結婚なさいよ〉といつた。なんだか今日はひとの気をひいてみるやうなことをちよいちよいいつたりしたが、しきりに逢いたがつたのもそんな問題があつてのことだつたかもしれない。なにか私の知らない事件が醞醸(うんじょう)されてるのを感ずる。
結婚!私はそれが適当でないといふ意味のことを軽くいつてしまふ」

何故、適当でないのかがこのあとにつづく。
「私にとつて恋愛は道徳的には結婚と何等の関係もない。人びとにとつては恋愛はなによりもまづ性生活への、はた結婚への序曲であるやうにみえるけれど、私にはそれはなによりもまづ道徳的修練であり、はた仏陀の慈悲への道程である」
結局、勘助は妙子に引っ張られて口口口さんの家に行く。玄関へ出て来た口口口さんは、「私の顔を見るやいなや苦笑に似た妙な表情をした」。「おや と思ったが」勘助は妙子に二階へ案内された。それからしばらく、誰も上がって来ずひとりぼっちにされた。
やっと口口口さんが来たけれども、「落ちつかない様子で辻褄のあはない怨言めいたことをいふのを私はなにか行違ひのあることを感づいていいやうに応対しておく。口口口さんも私がなんの隔意もないことがわかつたらしくぢきに気嫌がなほつていつものやうにうちとけてよく話した」

「あとで妙子にきいたのだが、口口口さんは どうしても二階へあがらない といつてきかなかつたさうだ。幼稚園へいつてる子供のために妙子はぢきに帰つた。妙子は私たちを和解ーといつたところで先方のひとり喧嘩だけれどーさせるためにつれてきたらしい。かはいい奴!文武さん(妙子の双子の弟、文彦と武彦)は妙子をはじめ自分たちがかつぶし(だし)になつたのだといつたさうだ。
さうした役まはりは柄にもなく私にも時どきまはつてくる。私たちの三十年にもならうとする永い交際に於て、またこの人の美しさにつどひよる無数の崇拝者、追従者、等等の群のなかにあつて、私ぐらゐなんの奉仕もしなかつた者はないだらう。」

再び、こう述べる。文中の「この人」はむろん万世のことである。
「私の恋愛は屢(しばし)ば熱狂的であり、また誠実であるけれども、私は他人のするやうなギャラントリー(遊戯的恋愛という意味か)を好まないし、そのうへ世間ばなれのした生活、書斎人といふよりは寧(むし)ろ隠遁者、読書人といふよりは寧ろ瞑想者といふべき私の生活がそれをさせないのでもある。
目もあやな羽根に飾られた鳥が光り輝く日光のもとに飛びつかれ、歌ひつかれ、遊びつかれたあげくいつも静に枝をひろげて待つてる常盤木の涼しい蔭に休みにくるやうに、この人もまたいつからか私を最後の慰安所としてるのであつた。
ひとつにはお互いにほんのまだ若いじぶんからのつきあひゆゑ心おきがないといふこともあるが、ひとつには来るときにはいつもかはらず歓び迎へながら狼のやうに貪らうとしない私の態度の気安さにもよるのであらう、それはどうかすると冷淡とまちがへられることがあるけれども」

以上は、日記体随筆「しづかな流 (ニ)」にある文章である。この出来事は勘助46歳、万世45歳、妙子は23歳の師走の一日である。(平塚の家を処分して赤坂で家族と同居する前年に当たる)。
万世と勘助の結婚に妙子も弟たちも前向きであるのには驚かされるが、これも母万世の勘助への思いを察していたからこその賛同であったろうけど、肝心の勘助はいつものごとく適当に口を濁すだけなのである。これらの文章を引いて富岡多恵子はこう裁断する。
「勘助にとって〈恋愛は道徳的には結婚と何等の関係もない〉といえるだろうが、万世ばかりでなく、当時のカタギの女にとっては、恋愛は結婚でしか成就しない。いい代えれば、女の性行動は結婚のなかでしか許されていない。もちろん同時代に生きる勘助がこういう社会規制、社会習慣を知らぬはずはない。さらに作家・中勘助が、社会が無視することで抑圧している〝女の性的欲望〟を万世のなかに感じていないはずはない」

「したがって彼が万世の〈心の支柱〉となって、彼女の〝性的欲望〟を無視しているのは、きわめて意識的な行動といわねばならない。だからこそ、普通の人にとって〈なによりもまづ性生活への、はた仏陀の慈悲への道程〉だといえるのである。
〝女の性的欲望〟と書いたが、それは当然生きていく欲望といい代えることができる。三十五歳で夫を失った女のその後の生活を〈道徳的修練〉と〈仏陀の慈悲への道程〉として認識せよときめつけることは、昔なら〝髪をおろして尼になれ〟ということである。
勘助自身の、恋愛を〈道徳的修練〉だとし、〈仏陀の慈悲への道程〉とする考え方、生き方と、社会的抑圧からくる万世の現世的不機嫌や鬱屈とは対立する。勘助はあくまで、万世の〝凡人としての欲望〟を無視する。万世ばかりか、妙子のそれも聞き流し、〝父〟となって他の男と結婚させた。若い妙子の場合は〝父〟になれたが、万世には〝父〟になれない。それで〈同情者〉〈慰安者〉〈心の支柱〉つまり親しい〝友人〟にしかなれないのである」

見事な分析である。つづいて富岡多恵子の鋭利な直観力は、万世、妙子、そして万世と不仲になった姉であり義母である悦子、三人の女の男(勘助と江木定男)をめぐる確執と葛藤に及んでいくのであるが、それは割愛する。
勘助が記した諸々が事実通りであるとするならば、絶対不犯の修行僧(とは知らぬまま)に懸想してしまった女、それが関万世であり、江木万世であったということになりそうだ。
「父勘助」の娘になった妙子が勘助の赤坂の家にしばしば出入りして、末子を交えて天真爛漫に振舞う様子が勘助の日記体随筆には出てくるのに、そこで「親しい友人」のはずである万世の姿が出てくることは一度もない。万世は赤坂の家に行ったことはなかったのか、末子を避けていたのだろうか、実際はどうだったのだろう。

これへの答えもちゃんと「中勘助の恋」に書かれていた。勘助の身の廻りの面倒を長年みたインテリのお手伝いさんと呼ばれる女性の証言である。
「江木ませ様と中末子様はあまり親しくはありませんでした。私にはそう思はれました。又末子様の方でもませ様の事は更にお話しにはなりませんでした。只先生(勘助)と色々のお話しをなさつて居らるる時にませ様の事が出て来る事がありますれば、一緒にお話しの相手をなさいました位でした。末子様の方からませ様の事などお出しになりました事など一度も私は知りませんでした」
しかしながら万世は、勘助が平塚の家を家族と交代する避暑の時期に赤阪に勘助を訪ねていたのである。同女が見たませ様はこう証言されている。
「暑中赤坂の皆様と交代となりまして東京におります間に四、五回赤坂へお尋ねになりましたその時にお目にかかりましただけで御座います。
先生のお話の通り美しい方ですが、お顔の色が青白くお体などはとてもやせていらしたのでどこか病身の様に私は見受けられました。声なども小さな声を出して居られました」(註)
(註・渡辺外喜三郎「はしばみの詩ー中勘助に関する往復書簡ー」1987年刊より。この本は私家版なので未読。渡辺外喜三郎は岩波版「中勘助全集」編纂委員に名前がある。)

鏑木清方の切手にもなった代表作「築地明石町」に描かれた万世は、少し首を傾げて振り向くあだっぽさが女の仕草の凝縮美を見る人に感じさせるところが傑作たる所以であろうが、これとよく似た場面がやはり日記体随筆「街路樹」にあったので、それを最後にこの文章を締めくくりたい。なお、この場面は、妙子が勘助に万世との結婚をすすめた半年後くらいに当たるようだ。すなわち万世の機嫌は治っている。
どんな要件があったのか、それは書かれないで勘助が万世の家を訪ねると、万世はちょうど歌舞伎へ出かける身づくろいをしていたところだった。万世が帯を締める間、勘助は鏡台に向かって髪をとかしながら待つ(まるで情婦とその旦那である)。一緒に行くことになったのだ。それはこう書かれている。
「三十年来の永いつきあひの間にはをりをりものに誘はれたこともあつたやうだが私はつひぞ うん といつたことがない。三十年にこれがたしか二度めの うん である」(妙子とはしょちゅう出かけるのに)
劇場で「口口口さんは下の指定席に、飛入りの私は二階に席を都合してもらつて見る。一幕すんで下をみたら口口口さんのはうでも斜にこちらを見あげてゐた。眼鏡をかけてゐる。これは思ひもかけなかつた。はじめてだ」

「私は黙つて手をのばし 幕間五分 と出たはうを指してみせる。五分だから立たない といふのだ。わかつたとみえうなづいてそのまま席についてゐる。盛綱(歌舞伎の演目)ですこし泣く。軽い食事をとりながら食堂で話し、また幕間に廊下ではなす。ほんのすこしのひまのかうしたとりとめのない話でさへがほんたうは私たちの姿をかりた幾十年の歳月が話してるのだ。口口口さんは姉へのおみやげに小さな菓子のお重を買つてくれた。帰りに銀座まで歩いて別れる」
これが「築地明石町」の恋である。首を傾(かし)いで二階席の勘助を振り返る万世の表情が眼に浮かぶようである(眼鏡は余分だが)。この観劇は昭和7年のことと思われるが、四十代の二人の間にこれ以上の進展はあり得ず、以後、時代は昭和の戦争へと傾斜して行く。・・・

長くなったので慌てて結末をつけようと、危うく「銀の匙」後篇の「姉様」は果たして?という宿題を忘れるところであった。が、もうすでに答えは出ているだろう。「銀の匙」の「姉様」は、このように描かれている。
「大きな丸髷に結つてゐた。まつ黒な髪だつた。くつきりとした眉毛のしたにまつ黒な瞳が光つてゐた。すべての輪廓があんまり鮮明なためになんとなく馴れ親しみがたい感じがしてすこしうけ口な愛くるしい唇さへが海の底の冷たい珊瑚をきざんだかのやうに思はれたが、その口もとが気もちよくひきあがつて綺麗な歯があらはれたときに、すずしいほほゑみが一切を和らげ、白い頬に血の色がさして、彫像はそのままひとりの美しい人になつた」
この「銀の匙」「姉様」の描写と上述した「呪縛」のAの文章、及びこの描写の前にある「姉様」と接見したときの、「なにか眼にみえない縄でしばりつけられてるやうで、しまひには眉毛のあひだがひきしめられて肩のへんが焼けつきさうに熱くなつてくる」という文章の相似を指摘すれば、それでもう充分であろう。
この件に関して安倍能成が前掲自叙伝に、勘助が葉山へ避暑に行ったとき、ある佳人から桃をもらった思い出を勘助の自殺した親友山田又吉宛の手紙に書いていたと言及している。この些細な出来事を素材にして、寛永寺の離れでの万世の告白も消えやらぬうちに「姉様」を造形したものと思われる。

「銀の匙」前、後篇のラストを彩る異性との出会いと別れについても、「中勘助の恋」に鮮やかに解説される。一部分は前章の繰り返しになるけれども、それを再引用して終りとしたい。
「後篇もまた前篇と同様に、〝私〟は去っていく〝女〟にひと言も挨拶できずにいる。ただし、お蕙ちゃんの落書だらけの机を〈なつかしさが湧きおこつて〉じっとかかえていた前篇の幼い〝私〟とちがい、ここでは〝姉様〟のくれた水蜜桃ー作者の思惑はどうであれ、結果としてあまりにもわかりやすい性的メタフォアだがーを〈唇にあてて〉その〈甘い匂をかぎながら〉涙を流す十六歳の〝私〟に成長している。
漱石は〈普通の小説としては事件がない〉といったが、『銀の匙』の作者には、〈恋という事件〉が、〝私〟の形成物語にどうしても必要だったのではないか。『銀の匙』執筆当時の中勘助には現実の〝恋〟を無理に過去の事件として消し去る必要があり、それを幼い恋に擬して書き記さねばならなかったのではないか」
まさに、名作の陰に、名解説ありというところであるか。


(以下、「銀の匙」と「森」(3)につづく。)
















自由人の系譜 中勘助「銀の匙」と野上彌生子「森」(1)

「三日午後七時過ぎ、東京飯田橋の日本医大付属第一病院で脳出血のため死去、七十九歳。東京神田の生まれ、東大国文科卒。学生のころ夏目漱石の門に入り、鈴木三重吉、寺田寅彦とならんで漱石の三羽がらすといわれた。二十七歳のとき、少年の日の思い出を書いた『銀の匙』は大正二年、東京朝日新聞に連載され、いまでは古典とされている。文壇とは無縁な孤高を通し、六十歳近くまで独身だった。作品には『しづかな流』『沼のほとり』『提婆達多』などがあり、昨年度、朝日賞を受けた」
これは朝日新聞が報じた中勘助の死亡記事で、日付は昭和40(1965)年5月4日である。

文末にある朝日賞の授賞式は、この年の1月13日に行なわれていた(註1)。
その授賞理由は、「八十歳を迎えられる今日まで 静寂で自由な世界を追求して 独自の文学の道を一筋に歩みつづけられました  その小説 詩 随筆は日本語の美しさと機能をも完全に生かされていて 『中勘助全集』 は日本の文学界にとって貴重な作品集であります」というものであった。
角川書店版「中勘助全集13巻」が五年前の1960年から刊行されていて、それがやっとこの年完結予定だった。「中勘助全集」といえば、今日では岩波書店版全17巻ということになろうけれども、この全集は平成元(1989)年に刊行されたものである。
さしての感激もないまま授賞式に出席した中勘助は、ごく簡単で短い謝辞を述べた(註2)。
(註1・ちなみに、この時の受賞者には建築家の丹下健三や版画家の棟方志功、作家の大佛次郎がいた。註2・朝日賞授賞文などは、2009年岩波書店刊の鈴木範久「中勘助せんせ」による。) 

授賞理由の「日本語の美しさと機能」が「完全」かどうかは別にしても、「銀の匙」を一読しただけで「静寂で自由な世界を追求」した「独自の文学」であることは誰しも納得することであろう。
むろんそれは、中勘助から「銀の匙」草稿を託された夏目漱石とてそうであった。「銀の匙」の文章を「絹漉(ご)しの豆腐」の味(註)と高く評した漱石は、三度目の胃潰瘍で中絶した自作「行人」の後釜に「銀の匙」の掲載を取持った。
中勘助死亡の時点ですでに「古典」扱いにされていた無名新人の作品は、東京朝日新聞の専属作家であった漱石の強力な推輓によって世に送り出されたのであった。のみならず、現在の「銀の匙」後篇となる草稿が送られてくると、漱石は「面白う御座います、たゞ普通の小説としては事件がないから俗物は褒めないかも知れ」ないけれども、「私は大好きです」と賞讃し、さらに(その文学世界は)「自分と懸け離れている癖に自分とぴたりと合つたやうな親しい嬉しい感じ」までする、と前篇をしのぐ評価を与えた。後篇は、漱石晩年の作「道草」に先んじて掲載された。前篇は作者27歳、後篇は29歳の作品であった。
(註・中勘助の漱石追悼文「漱石先生と私」にある評語。)

「銀の匙」には、「虚弱」で「意気地(いくじ)なし」で、その容貌から「章魚坊主(たこぼうず)」と呼ばれた少年(作者本人)が中学生になって、友人の別荘での「姉様」との遭遇と淡い別れを体験する16歳の夏までが描かれているものの、その後この少年が「朝日賞」を受賞する八十歳まで、どのような人生を「一筋に歩みつづけ」たのかについては近年まであまり知られていなかったのではないだろうか。
つまり、「銀の匙」が多くの人々に読まれたわりには、中勘助の実人生についての関心は希薄だったということなのだが。
たいていの人は中勘助の作品を代表作である「銀の匙」を読んだきりで終っているのが実情で(「銀の匙」以外の文庫本を見かけることも少なかっただろうし、第一、「銀の匙」以外の作品を挙げられる人なんてほとんどいないだろう)、それに文壇とは没交渉だったというのだから、必然、中勘助に関する文章も生じようもなかったであろう。
「銀の匙」一作の存在があまりに大きくて、中勘助といえば誰もが通過してきた少年時代を美しい文章で「古典」にまで高めた孤高の明治の作家として、何となく偶像化しておけばそれで事は足りた、ということであったようだ。

ちょっと気になったので、老舗文庫御三家での中勘助の文庫の状況をあたってみると、岩波文庫で八冊、角川文庫で七冊、新潮文庫で二冊が、これまでの総数であった。その内容は小説、随筆、詩集などであるが、各社で収納作がダブっているものもある。岩波には「銀の匙」を含めて未だ二、三冊残っているようだが、角川も新潮も今では「銀の匙」のみである。この三社に同じ作品が文庫化されているというのは、漱石や芥川龍之介などごく限られた作家だけなので名誉なことではあろう。
文庫の状況からも見てとれるように、中勘助作品と最も繋がりが深いのは岩波書店であろう。岩波書店創設者岩波茂雄と中勘助は東大の同窓で交友があったのだから、もし岩波茂雄が昭和21年に死去してなければ、最初の全集も角川書店ではなく岩波書店から発行されていたのでは?
その岩波書店は1987年に創業六十周年を迎えたのを記念して、各界を代表する有識者に「こころに残る三冊」と銘打って文庫大アンケートを実施した。それで最も多くの支持を集めたのが「銀の匙」だったのである(註)。岩波の中勘助全集はその二年後に刊行開始されている。このアンケート結果は全集刊行とは無関係だったのだろうか。
(註・岩波書店ではその後もほぼ十年ごとに同様アンケートを実施。それなりの支持はあるものの「銀の匙」が再び首位になることはなかった。)

岩波版中勘助全集は1991年に全17巻が刊行完了した。それから二年後、タイトルも中身も大変刺激的な書物が刊行された。富岡多恵子「中勘助の恋」(1993年11月創元社刊、註)である。
「中勘助の恋」は全部で十一章から構成されているのであるが、「銀の匙」を論じた六、七、八章のうち七章末尾はこのように締めくくられている。
「漱石は『普通の小説としては事件がない』といったが、『銀の匙』の作者には、〈恋という事件〉が〈私〉の形成物語にどうしても必要だったのではないか。『銀の匙』執筆当時の中勘助には現実の〈恋〉を無理に過去の事件として消し去る必要があり、それを幼い恋に擬して書き記さねばならなかったのではないか」
「銀の匙」を富岡多恵子はそう読み解き、それまで紗幕に閉ざされたままで誰ものぞいてみようともしなかった作家、近代文学における特異な存在でしかなかった中勘助を舞台の中央に引っ張り出して鮮やかな手口でスポットライトを当てたのである。
以下、富岡多恵子の論述をガイドに「中勘助の恋」と、その生涯のあらましを追っていくことにする。
(註・富岡多恵子1935年大阪生まれ、大阪女子大卒。詩人、小説家。「中勘助の恋」は第45回読売文学賞受賞。)

明治18(1885)年に中勘助は東京神田で生まれている。男五人の一番下で次男金一を除く兄三人は夭折、姉二人、妹二人(末妹も結婚後若死にする)。家は裕福であった。伯母さん(母の姉)に育てられ、4歳の時に小石川に移っているのも、府立四中(今の都立戸山高校)に進んだ15歳の夏に伯母さんを名古屋に訪ねているのも、上述したように翌年の夏を友人の三浦半島の別荘で過ごしているのも、全て「銀の匙」に描かれていることと一致する(ただし「銀の匙」が虚実ないまぜであるのは作者自身が告白している)。

「銀の匙」前篇は、「意気地なし」の「章魚(たこ)坊主」と呼ばれた男の子がさまざまな体験を重ねながら成長していく小学高学年までの幼少年期が描かれる。幼年期から「脳のわるい」、「びりつこけ」だと家族の皆を心配させていたのが(これは虚実どちらだったのだろう)、全くの誤解で杞憂だったことを小学校入学に際して判明させたように、順調に中学へと上がった少年は全国の神童が結集する第一高等学校に進学するのである。
一高同期には藤村操、山田又吉、江木定男(後述)、安倍能成、小宮豊隆、野上豊一郎(野上彌生子夫、後述)、尾崎放哉(俳人)等がいた。翌年、藤村操が人生上の煩悶から華厳の滝へ飛び込み自殺。その自殺に影響されて落第してきた岩波茂雄が加わる。安倍能成はのちに藤村操の妹と結婚。中勘助の無二の親友だった山田又吉はその安倍夫妻の借家で自殺。小宮豊隆は角川書店版中勘助全集の編纂者となる。
明治38(1905)年の秋、20歳の中勘助は東京帝国大学英文科に入学する。一高と大学での英語の教師がイギリス留学から帰国したばかりの夏目漱石だった。漱石はやる気のないように映った藤村操を授業で叱責したことがあった。そのため藤村操が自殺したのではないかと勘ぐり、一時青ざめていたという。

中勘助にとって生涯を左右する重大事件が勃発したのは、途中で英文科から国文に転じての卒業式が間近に迫っていた七月のことだった(当時は九月入学制)。
「銀の匙」の前篇で、主人公にべったりくっついて世話をするのは伯母さんであるが、後篇では伯母さんに培われた(というより生来のというべきか)女々しい根性を叩き直すべく、たびたび登場してはことごとく主人公に辛く当たる兄の姿が描かれる(この兄は、前篇では登校を嫌がる主人公の「頬ぺた打つ」場面に一度出てくるのみ)。
その場面の一例を引くと、兄に連れられてイヤイヤ釣りに行った帰り道、疲れ切っているのを知りながら兄はわざと遠回りをするので、そのうちに夕暮れて星が輝き始める。
「それは(信心深い)伯母さんが神様や仏様がゐるところだと教へたその星を力に懐しくみとれてゐれば兄は私のおくれるのに腹をたてて『なにをぐづぐづしてる』といふ。はつと気がついて『お星様をみてたんです』といふのをききもせず『ばか。星つていへ』と怒鳴りつける」
弟は心でつぶやく。「あはれな人よ。なにかの縁あつて地獄の道づれとなつたこの人を 兄さん と呼ぶやうに、子供の憧憬が空をめぐる冷たい石を お星さん と呼ぶのがそんなに悪いことであつたらうか」

しかし「銀の匙」を読み終っても、たいていの人は〈厳しいお兄ちゃんだこと〉とは思っても、この兄を非難するかどうかは人それぞれだろう。が、事実はどうだったのか。
この出来事は、主人公が高等小学校の10歳か11歳頃のことだと思われるので、兄金一は東京帝国大学医学部を首席で卒業する前後だったと思われる。兄と弟は14も歳が違っていたのである。長兄を亡くして中家の跡取りとなった金一は前途洋々の優秀な青年だった。金一は勘助が一高に入学した年、子爵の令嬢19歳(金一より一回り年下)の野村末子と結婚するや、単身ドイツへ留学。三年後に帰国すると、福岡医科大学(現九州大学医学部)の内科教授に就任。時に、金一34歳(明治4年生まれ)である。
ところが金一の運命は暗転する、と同時に末子と勘助のそれも。帰国の翌年に兄弟の父親、三年後には末子の父親が死去。義父の葬儀を済ませ福岡へ帰る朝、来客と歓談中の金一に突如異変が起きた。脳溢血に襲われたのである。

この間の事情を漏れ聞いた漱石は「断片」に金一のことを記している。
「Uncertainty! 人事不安なり。・・・中ノ兄ガ急ニ卒倒シテ馬鹿ニナツテ仕舞ツタト云フ。中ノ兄ハ福岡医科大学ノ教授デアル。一刻ニシテ教授所デハナイ白痴ト化シテ仕舞ツタ」(冒頭の英語は、頼りなさ、変わりやすいという意味)。
その日から金一は「廃人」となってしまったのである。勘助の表現では「半痴半狂」の兄に。記憶や理解力は残っていたが、言語は不明瞭という状態であったようだ。教授を辞職した金一は、最大の趣味であった釣りに没頭した。世間からは廃人とみなされても全ての機能を喪失したわけではなかったので、金一は依然として中家の家長に変わりはない。しかしながら実質的には何も出来ない上に、収入の道が閉ざされてしまったのだから一家の経済問題がいずれ派生してくる。重圧がごっそりと勘助の双肩にのしかかってくる。
この時点で金一38歳、勘助24歳、勘助より二つ上の末子は26歳であった。

先に引用した「銀の匙」後篇には、「地獄の道づれとなつた」兄とのひそかな訣別の意思が描き込まれているのであるが、その理由として「兄はその年ごろの者が誰しも一度はもつことのある自己拡張の臭味をしたたかに帯びた好奇的親切・・・から生れつき自分とはまつたくちがつた風に形づくられて西と東に別れゆくべき人間であつた私をまことに行きとどいた厳しい教育の力によつて否応なしに自分のはうへ捩じむけようと骨を折った」と書かれ、その教育手段が「気ちがひといはれるほど」好きな釣りだったというのである。
自我意識が芽生えて、兄とは全く気質の違うことを自覚しつつある「私」に、何事にも優秀な兄はそれに気づかず、あるいはそれを寄せつけようともしないで、自己の考えを押しつけているのである。
このような兄が自分の体が不自由になったからといって、急に節を曲げて弟に全面的に屈して頭を下げるだろうか。ましてや金一は、首に行き先を書いたカードをぶら下げてでも釣りに行けるほど体力を持て余し、未だに碁石を並べるほどの知力も残しているのである。以前に増して金一は狂暴になったのである。

勘助への「厳しい教育」に比して、金一は同僚や弟子たちからは大変慕われていた(一番下の妹は、金一の教え子の医者と結婚して福岡に暮らしていた。若くして死んだ仲の良かったこの妹を看取りながら、勘助は「銀の匙」前篇を書いた)。
金一を見舞ったそれらの人々や親戚などから無職の勘助は非難された。そういうなかで勘助は体調を崩して寝込んでいると、金一が枕元に立ち暴言を吐き、勘助の枕を足蹴りにする始末であった。勘助は仕方なく家を出て、末子の里方の別荘で厄介になる。そのことを知った母親は「〈うち〉の親類に身を寄せずに姉のさとへ身を寄せたといつて顔をまつ赤にして怒つた」とある。
これを読んで、伯母さんに比べて存在感すらない影薄き実母は「産後の肥立ちが思わしくなく」と「銀の匙」に描かれているのみで、いったい少年の母親はどんな人だったのだろうといぶかしんだ記憶が俄然よみがえって来たのであったが・・・。

こうして崩壊した家庭を、それでも一人辛抱強く支え続けたのは姉だった(註1)、と勘助は書く。
末子の里方のあたたかい看護によって健康を回復した勘助は、居つく家もなくなりあちこちを放浪することになる。胸底には文筆によって身を立てるという決意を秘めて。年譜からその足取りを拾うと、近衛歩兵入隊、衛戍病院入院、青山の長姉の婚家先、野尻湖安養寺仮寓、野尻湖弁天島に籠る、帰京後入院、千駄ヶ谷知人方に仮寓、野尻湖畔で「銀の匙」執筆、福岡の妹宅、(「銀の匙」を漱石に送付)、野尻湖弁天島に籠る、上野寛永寺に仮寓、信州追分へ脚気療養、比叡山横川で「銀の匙」後篇執筆、茨城県布川の徳満寺、安倍能成宅離れ、寛永寺、千駄ヶ谷に仮寓、徳満寺、奈良旅行、東大寺に仮寓、秋田、青森旅行(註)、我孫子手賀沼畔に仮寓、やっと(勘助の譲歩もあって)大正9(1920)年になって生家の管理を任されている。兄の事故から十年の歳月が流れ、勘助はすでに35歳となっていた。
(註1・中勘助は末子のことを書くとき兄嫁、嫂、義姉などと決して表記しなかったのは、これらの呼び名が「兄の妻」を意識させるからではないか、と富岡多恵子は推察している。註2・奈良・青森旅行とはいっても実質は放浪。)

「銀の匙」の舞台となった小石川の家を、末子の実家側が買取ってやろうという親切心からの提案にも、母親は「嫁の家からの情けなど死んでも受けぬ」と抵抗した。旧幕時代の姑が明治の嫁に負けまいとする気風のせいだろうと勘助。小石川の家は、結局「漱石全集」出版等で儲けた岩波茂雄が六万五千円で買ってくれた(註)。
その資金で赤坂表町に新居を求め兄夫婦と母親をそこに住まわせ、神奈川平塚にも平家を建て勘助が住み、避暑、避寒の季節には家族と入れ替わる体制をとった。
この生活形態は昭和7(1932)年に平塚の家を処分するまでつづいた。47歳になってから勘助は赤坂で家族と同居したのである。金一が受け入れたのか、末子が兄弟を説得したのか。大学卒業(金一の発病)から二十年を上回る歳月が流れていた。
しかしながらこれで「兄との深刻な確執」が氷解していたのかどうか。真の原因は不明ながらも、この後勘助は被害妄想の神経衰弱に陥り末子までをも困惑させ、昭和8年には精神科医斎藤茂吉の診察を受けている(三歳年上の茂吉と勘助は一高の寮で知り合っていた)。その翌年、母親が85歳で死去。
(註・六万五千円の内五千円は岩波茂雄の志だった。その年に岩波書店に入社し、のち会長となった小林勇の初任給は二円五十銭と諸手当だったという。)

さらに歳月は流れ、昭和15年5月蜘蛛膜下溢血で末子が倒れる。その二年後、太平洋戦争突入後の昭和17年4月、中末子死去。59歳。
「姉は不運な人だつた。嫁入り先に困る境遇でもないのに選りによつて私の家のやうなところへきた」。勘助は中学生のとき、華族女学校に通っていた末子の可憐な姿を毎朝見かけていたという。その人が思いもせず兄の妻として中家へ嫁いできたのであった。
「凶暴になつた兄に追はれて家ぢゆう逃げまはつた姉、髪をつかみ引きずられて座敷ぢゆうを這ひまはつた姉、そんな場合のただひとりの庇護者だつた私がゐないため魂がぬけたみたいになり、時たま私の寓居へ訪ねてきてあれこれと訴へ泣いた姉、さうした家庭的業苦のうへに不治の病苦にまで悩まされとほした姉、ある時は打たれて腫れあがつた体の紫斑や爪痕をみせ声を噛み殺して泣いたことも」
またある時は「兄について外出した折に電車の乗り換え切符をもらほうとしたため帯をもつて引廻され往来で人だかりがしたといつて身をふるはせて泣いたこともあつた」

「私たち(姉と私)はお互ひの信頼と、親愛と、共力と、庇護と、慰藉と、激励によつて三十年来の家庭的業苦に堪えてきた。私たちはお互ひの信頼と、親愛と、共力と、庇護と、慰藉と、激励によつて家人に対する慈悲を維持し、倒壊する〈家〉を支持することができたのである」
ここに出てくる「三十年」は、この文章を書いた時点での経過年数であって、実際には末子が金一の妻となって他界するまでの期間は四十年という長い歳月であった。末子の死を悼んで書かれた「蜜蜂」では、それを「四十年のお互いの忍苦/四十年のお互いの慰藉/四十年のお互いの死闘/四十年のお互いの庇護」と言い直している。

勘助は「妹の死」、「母の死」そしてこの後につづく兄の死は「遺品」(註)で、それぞれ身内への哀悼の文章を残しているが、それらと比しても「蜜蜂」に流れる愛惜はひときわ切ない心情がこもっているのは当然だろう。「蜜蜂」は、幽明を異にした同志末子への深い悲しみと憐憫(れんびん)を捧げた長い弔辞だったのだと思われるから。
漱石は「銀の匙」の文章を「あれほど彫琢が施してあって、しかも真実を傷つけないのが不思議」と評していたがその通りで、かつ中家の事情を知って読めば「蜜蜂」は涙無くしては読めない慟哭の書である。
(註・「遺品」にある「ただ日に月に逼〈せま〉り来つて心身をうち拉〈ひし〉いでゆく老齢と、亡くなった姉の真実こめた諫言、涙をもつて、時には命をかけてした諫言が何程かその不幸な性格を和らげることができたばかりである」との文章が兄弟の和解に果たした未子の役割の一端を提示している。)

「四十年のお互いの忍苦、慰藉、庇護と死闘」は、「蜜蜂」ではこのような絶唱となっている。
「私たちは見ず知らずの二人だつた。それがはてしない空のまんなかで偶(たまた)ま嵐にふきよせられた渡り鳥のやうに出逢つた。そして永の年月もまれもまれて呼びかはしながら苦しい空の旅をつづけてきた。今一羽の鳥は力つきてまつ倒(さかさま)に死の海へ落ちていつた。逢はなかつたはじめのやうに。あとには残る一羽の記憶と悲しみと、胸の溢れて空に充ち滿つるまでに。四十年の苦難の友!」
・・・・・
「私の家のために心身を消耗しつくして死んだ」姉であったが、「半痴半狂」の夫とそれを介護する妻と独身の夫の弟という組み合わせは、世間の人々の好奇の目を注がれ格好のひそひそ話の対象となる。東京のど真ん中とはいえ、現代とは違い隣は何をする人ぞの世界ではなかった時代だったのだから。

その代表的な例が、野上彌生子日記にある岩波茂雄夫人から聞いたうわさ話であろう(昭和10年3月16日記述)。「(中勘助の)義姉さんとの親しみも、たんなる親しみではないらしい」というもの。
もう一つは山室静(文芸評論家)の「(中勘助の義姉への)傾倒と讃美はまことに深い、言うならば罪深いといっていいものがあった。中氏はたしかに、肉体的には知らず、心の中ではこの愛欲地獄を底までさすらったのだ」(註1)との激越な調子のもので、野上彌生子のそれが公表を前提としないプライベートな記述であるのに対して、山室静のは世間に公表した著述であるのを考えると、こちらの方がよっぽどタチが悪くて「罪深い」(が、決して山室静はそういう類いの人柄ではないだけに、より一層ことの深刻さを物語っているともいえるのであるが)。
たぶん野上彌生子(?)も山室静も、一度たりとも末子には会ったこともなかったであろうから、いわば部外者の勘ぐりである(野上彌生子と中勘助の関係については後述する)。その分、勘助と末子の身近にいたと思われる安倍能成(あべよししげ、註2)は、末子のことを次のように述べている。
(註1・昭和47年刊「山室静著作集第四巻愛読する作家たち」所収の「中勘助の世界」、発表年不詳。註2・年齢は勘助より2歳上。愛媛松山出身。学習院院長、文部大臣などを務めた。これも後述するが、野上彌生子とも親しい間柄であった。)

「中を救い、中を真人間にしたのは、幼い時には父君の妹のおばさん(註・これは安倍の勘違いで実際は母君の姉、「銀の匙」の伯母さん)、長じては中の兄金一君の細君の末子さんであった。末子さんという婦人は、私の見たあらゆる婦人の中で、最も敬愛する、好ましいと同時にえらい、しかも邪気から最も遠ざかった自然の人である」(昭和40年発表の「中勘助の死」より)
安倍と勘助は一高時代からの友人であったことは述べたが、漱石のところへ積極的に勘助を連れ出していったのも安倍である。華厳の滝で自殺した藤村操の妹と結婚してからも、勘助が安倍のところへ遊びに来ては妻と仲良く海岸を散歩するのを見て嫉妬するくらい家族ぐるみで親しく付き合っていた。
勘助がことさらに末子を偶像化して文章を書いたとはとても想えないので、末子という女性の輪郭は安倍能成が書き残したそれとほぼ一致していたのだろう。そうでなければ、26歳からの四十年にも及ぶ見返りのない献身の人生がどうして送れよう。

さて、末子を語っての話は尽きないが、そろそろ本筋に戻らなければならない。富岡多恵子が鋭く分析した「中勘助の恋」についてである。
「銀の匙」前篇の最後の場面を覚えているだろうか。主人公「私」の隣の家に引っ越して来た主人公と同学年の少女、せっかく仲良くなったお蕙(けい)ちゃんが父親が急逝したために国元へ帰ることになり、きちんとその朝挨拶にみえたのに「私」は「うじうじと襖(ふすま)のかげにかくれていた」のである。そして翌日、一番先に学校へ行ってお蕙ちゃんの席に腰かけて、去ったお蕙ちゃんを偲ぶのである。まさに金一ならずともその女々しさを叩き直してやりたいような場面で前篇は閉じられる。

が、当然富岡多恵子が問題にしたのは、「私」とそのお蕙ちゃんに関わることながら、そんなフィナーレのシーンではない。それより前、二人が仲睦まじく過ごす月夜のシーンである。「銀の匙」には、こう描かれている。
「ある晩私たちは肱かけ窓のところに並んで百日紅の葉ごしにさす月の光をあびながら歌をうたつてゐた。そのときなにげなく窓から垂れてる自分の腕をみたところ我ながら見とれるほど美しく、透きとほるやうに蒼白くみえた。それはお月様のほんの一時のいたづらだったが、 もしこれがほんとならば と頼もしいやうな気がして『こら、こんなに綺麗にみえる』といってお蕙ちゃんのまへへ腕をだした。
『まあ』さういひながら恋人は袖をまくつて『あたしだつて』といつて見せた。しなやかな腕が蠟石(ろうせき)みたいにみえる。二人はそれを不思議がつて二の腕から脛(すね)、脛から胸と、ひやひやする夜気に肌をさらしながら時のたつのも忘れて驚嘆をつづけた」

富岡多恵子は、この「幻想的なシーン」が「恋の場面(ラブ・シーン)でなくてなんであろう」といってるけど、文中に「恋人」とモロに書いているのだから、すでに本文を読んだ段階で「私」が恋人ごっこ気分になっているのだなと受け取っているわけだし、ことさらに強調するまでもないことでは?
そう思うのだが、富岡多恵子がそんな分かりきったことをわざわざ書くわけがない。「恋の場面」であることを念入りに読者に再確認を求めているのだ。その上で「果たして〈お蕙ちゃん〉は実在したのだろうか」との疑問を発するのである。前述したように「銀の匙」は事実そのままで成り立っているわけではない。大正10年12月に「銀の匙」が版を重ねたとき、「検印」という文章で勘助は「嘘やまことの古い追憶」とわざわざ断っている。
その言葉を裏付けるように見事な解析力を示して、「お蕙ちゃん」は架空の人物であり、幼い恋に擬してはいるけれども、この恋物語の「お蕙ちゃん」と「私」の実体は過ぎし若き日の姉末子と勘助を模したのであると、富岡多恵子は推量するのである。

そのように読み解く鍵は、「蜜蜂」にあった。
「姉の死後、初七日のすんだ八日目(4月11日)に書き出された」、「姉に語りかける形式の日記体随筆で」ある「蜜蜂」は、半年後の10月に次のように姉に報告されて筆をおいている。
「兄さんは今月の十二日に亡くなりました。私は泣きました。あなたも知つてのとほり兄さんはあなたの溢血以来人がかはつたやうに穏かになりましたが、あなたがゐなくなつてからは気の毒なくらゐ一層おとなしくなつたのです。あのとほりの性質で、広い意味でのひとの好意を渇するごとくに望みながら自分が真にひとを愛することができないゆゑにひとの好意をもまた素直にうけいれることができず、あのやうな状態になつてさへも終に我をすててひとに頼り、ひとの親切にすがることをし得ずに一生自分の因果な性質に苦しめられとほしてーこの点母も全く同じだつたーあなたに対してもあれほど暴君で、屢(しばし)ば狂暴でさへあつたけれどやはりなかでいちばん信頼し得たのはあなただつたのでせう。あなたに先立たれたことは不自由といふ以上によほどの打撃だつたらしい。でも釣りがあつたのでたいへんよかつた。釣りではほんたうになにもかも忘れることができた。(以下、略)」

兄の死については次章で述べる。つい長引用し過ぎてしまったが、この兄の死が勘助をある意味で姉との秘密を解き放つ要因になったのかもしれない。富岡多恵子によれば、中勘助の日記体随筆というのはその日その日の日付は打ってあるものの、それは作者本人の恣意によるもので、普通の意味での日記とは違うのだという。つまり作者が都合のいいように、日付も内容もアレンジしたものだと。しかも「蜜蜂」は珍しく雑誌に発表されず単行本で筑摩書房から刊行されたという。
それはさておき「蜜蜂」と「銀の匙」の秘密に入る前に、話を蒸し返すようだが中家における金一夫婦と勘助と母親四人の構図を、富岡多恵子が勘助の文章を引きながら鮮やかに切り取っているので、今一度再確認しておきたい(以下はそれを簡略化したもの)。

嫁入り先に困る訳でもない姉が不運にも嫁いできた家は、「他人を家族として迎へ入れ団欒(だんらん)しようなぞいふ心構へは微塵(みじん)も」持たない兄弟の母にとって、「姉は〈よそ者〉として片隅に小さくなつていつか自然が与へるであらう主婦の座の順番を待つべきであつた。それはきた。が、母の思つたやうにではなく不意に、早すぎた時に、最も不幸な事情のもとにきた、父の死後間もない兄の発病、廃人、兄夫婦の同居といふ」形で。
その後に中家を襲ったのは、「自覚のない痴呆者(兄)、老耄者(母親)の健康者(姉と私)に対するいはば権力闘争ー兄の私に、母の姉に対するーが始まつた」。それに加えて、嫁いだ姉妹が誠意からではあるが解決能力もないのにくちばしをはさみ、さらに親戚縁者が首を突っ込んでくるので事態は益々混乱するばかりで、常に矢面に立たされたのが無職の勘助と夫の妻である末子だった。

こうして勘助は家を出て放浪の十年を過ごしたのであるが、病人と家に縛りつけられた末子にそんな自由はできない。言語に絶する精神的、肉体的苦労を舐めた。財産管理を一任され岩波茂雄に家を買ってもらったのち、家族を赤坂の家に住まわせ、家人たちへの同情ゆえに「従来とは比較にならないほど生活水準を上げた」にもかかわらず、家の金を「私と姉とで勝手に」使っているとの「妄想的非難が母の口から放たれはじめた」。
「家族間、ひいては親族間の紛糾にさいなまれて」、姉は心労と疲労でとうとう、「まだ母の存命中に自分も半身不随を起し、その後は目にみえて悪くなつた頭、ついで起つた眼底出血、蜘蛛膜下の溢血、冠状動脈閉塞症等次第に壊れてゆく頭と体、窒息しさうな家庭の瘴気(しょうき)に喘ぎながら終生なほらなかつた兄の私に対する抗争心を真心こめた諫言」で最期まで兄を説得してくれた。そうして「姉は私の家のために心身を消耗しつくして朽木の倒れるやうに死んだのである」。

末子の嫁入りからをこう書いてきて、次のように富岡多恵子は総括する。
「兄が倒れたために弟が〈家〉の財政管理を引受け、兄の妻が家事をみる。〈家〉の主権者が兄から弟へ、姑から嫁へと移らざるをえなくなった。現実の生活における実行者或いは実権者は弟と兄の妻となり、兄と母は被扶養者となる。しかし、このかつての実権者たちは、一方が〈ものをいえない病者〉、一方が〈老耄者〉であっても、〈病者〉〈老人〉という特権(?)が加わって、役割を入れ替った実権者に異議を申したて、文句をいうことができる。というよりむしろ、兄の病いという〈災難〉のために、役割を替えることを余儀なくされたという気持が消えないために、理不尽な妄想、疑い、ヒガミ、嫉妬が生まれる。家の金を弟と兄の妻が〈勝手に使つてるといふ妄想的非難〉が他ならぬ母から出るのも、兄の弟に対する〈抗争心〉が増幅されるのもそのためである。しかしそれだけだろうか」

〈しかしそれだけだろうか〉と疑問を呈して、「蜜蜂」の七月二十四日付けの「けふはたうとうこれを書くことになつた」という姉との美しい思い出の記述に注目するのである。
「せんだつて私の書庫においてある姉の本箱をかたづけてるうちに立ててある本のあひだから匂ひ菫(すみれ)の押し花が出てきた。包み紙のうへに これはあなたと楽しくつくつたすみれ、うつくしい思ひ出の種(記念の品の意味)となるやうに 明治三十九年一月八日 と姉の筆で書いてある」
明治39年は勘助は20歳で一高の三年生である。その前年の11月に兄金一はドイツから帰国していたが、姉たちはまだ小石川の家にいたのである。明治35年秋の結婚後すぐに金一はドイツに留学したあと三年間を末子は「他人を家族として迎へ入れ団欒しようなぞいふ心構えは微塵もなかつた」姑と(舅とも)同居していたのである。その間に姉と弟は親密さを育んだものと想われる。

二人は、当時珍しかった匂い菫の種を入手して裏庭に花壇を作り、〈私たちはたしかそれを姉の部屋の肱かけ窓の近くにある銀杏の若木のそばにうゑた〉のだった。富岡多恵子はこの花壇づくりが「蜜蜂」に追想されてるのを精緻に分析して、若い二人の愛の交歓の秘儀に見立てているのであるが、それは割愛して「蜜蜂」の記述を追う。
「姉の部屋は南へ向つて凹字型に建てられた家の左の袖にあたる六畳で、兄から姉たち、姉たちから妹たちへと順送りに学生時代の自習室になつたもので、その肱かけ窓の敷居には中学生の私がジャックナイフでつけた無慙な大疵(おおきず)があつた」家の中で唯一気楽に振舞える場所であり、「『銀の匙』の主人公が(お惠ちゃんと)よく話し、よく遊んだのもここで」、「私が姉と話しはじめ、そして話しつづけたのもそこである」(むろん百日紅の木も左斜めにある)。
そして二人して匂い菫の種をまいた。やがて「眠つた子が目をさましてはせよる母のはうに可愛らしい両手をさしあげるやうに」、萌え出した双葉をのぞき込んで姉と弟は「顔を見合せて思はず微笑する」のである。

これが富岡多恵子の推量する「中勘助の恋」における兄嫁への恋である。「銀の匙」の「お蕙ちゃん」は姉末子の投影だったのである。
末子が勘助に重大な影響を与えたことは、友人安倍能成の追悼文を俟つまでもなく勘助自身が認めている。「蜜蜂」にこうある。姉との出会いは「私の生涯にいはば新生ともいふべき一大転機を齎(もたら)した。私はそこに未だ嘗(かつ)て夢想したこともない善良無垢な人を見出した」。
それまで家や学校や社会で「卑劣な威嚇、暴行によつて歪められ、損はれ、打摧(くだ)かれた私の中の善いもの、美しいもの、もしそれさへなければ自他の幸福にまでのびらかに、健(すこやか)に成長したであらうところのものを、姉のたぐひない純真と親切が母鶏の卵を温めるやうに、太陽の若芽を育てるやうに、目ざめさめ、蘇らせ、成長させた」と感謝する。
やはり、その認識の基になったのは一高時代にあったようである。「蜜蜂」には、こうも書かれている。
「高等学校じぶんからそうだったが私のところへ来る人たちは一目で姉が好きになった。別に努めて話をするでもなく、ほんの通り一遍の挨拶をするだけなのだけれど、姉の身辺には後光のように善良と親切が漂っているらしい」
未子の醸し出す後光を真っ先に全身に浴びるのは、本来なら夫金一であるべきはずであったのに、その弟中勘助が浴びてしまったということになるようだ。

上述の安倍能成の中末子評には続きがあって、安倍はこんなことを書き添えている。
「大正三年、叡山横川の恵心堂に同居した時、私の畳を掃くのを見て、彼が〈どんなに僕に気に入られようと思つたつてだめだよ〉といつた詞(ことば)に対しては、私は実に生意気野郎だと思つて、怒り心頭に発したことがある」
この比叡山で「銀の匙」後篇を書いたのだから、このとき勘助は29歳だと思われる。未子以外の人物に対しては、まだまだかなり狷介な偏屈者だったようだ。どうりで「中を救い、中を真人間にしたのは」伯母さんと末子さんだと安倍能成に書かれたりしたのだ。
そういえば、漱石に送った「銀の匙」後篇の題名が「つむじまがり」だったというのも、妙に納得がゆく。

こうしてみると、前篇のヒロイン「お蕙ちゃん」は姉末子だったというのはかなりの説得力を含んでいる。であるならば、その後篇で中学生になった「私」が伯母さんに会いに行き、秘かに「お暇乞(いとまご)ひ」を告げた翌年夏に、友人の別荘で束の間の邂逅をした令夫人「姉様」、「お蕙ちゃん」の時と同様に「私」がろくすっぽ挨拶もし得ずして去っていった後篇の謎めいたヒロイン「姉様」は、これもやはり「姉」未子への思慕を託したものだったのだろうか。それとも別の女人の投影だったのか。

(引用文中、特に出典表示なきものは中勘助の日記体随筆からの引用である。)


(以下、「銀の匙」と「森」(2)につづく。)






 
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