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自由人の系譜 辻井喬「彷徨の季節の中で」(7)

「その生涯の終りに、人はどんなことを考え、何を願うのだろう。果せなかった望みに想いを馳せるのか、悔いの墓の上をぐるぐる廻るのか、あるいは残していく身近な者のゆく末を気遣うのか・・・。
それら総てのように思えるし、そのどれでもないような気もする。田能村荘吉が病状で綴った手記を読み終えた時、私の胸中に浮んできたのは、こうしたごく平凡な感慨であった」

「虹の岬」刊行の二年後、妹邦子死去の一年前の1996年に書き下ろしで発表された長編小説「終りなき祝祭」(新潮社刊)の書き出しである。
ただし「終りなき祝祭」は堤家の物語ではなく、文化勲章受章者で人間国宝でもあった陶芸家富本憲吉と、その妻で婦人解放運動家の尾竹紅吉(本名一枝)をモデルにしている。引用文の手記を読み終えた私が辻井喬(堤清二)であり、手記を綴った田能村荘吉は夫妻の長男、富本壮吉のことである。「終りなき祝祭」は荘吉の父母が、当時としては時代の最先端をゆく恋愛結婚で結ばれたにもかかわらず、時の経過につれて破綻していく過程が描かれている。つまり、壮吉も清二と同じく問題のある家庭で成長した。
(註・紅吉は明治末年、創刊したばかりの婦人解放オピニオン雑誌「青鞜」に集い、主宰者平塚らいてうの恋人と呼ばれた女性。)

同年生まれだった壮吉と清二は同じ中学、高校で学び、ともに東大に進んだ親友だった。大学では壮吉に「啓蒙された恰好で」、清二も学生運動に明け暮れた。卒業後、壮吉は大映に入社して映画監督になった。ところが、次第に映画は斜陽産業となっていき、壮吉が監督した映画は少ない。やがて壮吉はテレビに移り、〝家政婦は見た〟シリーズや山口百恵主演ドラマなどを制作、監督し、人気を博した。
が、壮吉は、本当に撮りたかった映画への夢を果たせぬまま癌に侵され、妻子を残して1989年に62歳で世を去った。だから親友の死に遭遇して、首記のような感慨に「私」は浸らざるを得なかったのである。
まことにもって、人はその人生の終わりに臨んで何を考え何を願うのであろうか・・・。


辻井喬は「深夜の読書」をはじめ、自称深夜叢書と名付けたエッセイを五冊刊行している。その五冊目「深夜の孤宴」に、〈二重性の掟〉という小文がある。
それに、「今でも時々、『ビジネスで忙しいと思うけど、いつ詩や小説を書くんですか』と質問される。この問いかけは〈朝、書きます〉とか〈深夜です〉という答えを期待しているのではないようである。経営者と詩や小説を書く人間とは、うまく同居できるはずがない、という前提に立っての追求に近い問いなのだ。そして、困ったことに私自身、この前提は正しいとひそかに思っているのだ。そこで私はその都度、思いつくままに適当な返事をしてきた。しかし、それで済まされるものではないという気分は、年とともに強くなっていた」と述べている。
このエッセイが発表されたのは1998年暮れなので(辻井71歳)、1991年にセゾングループ代表を辞任していた辻井喬は、妹を喪った前年には全役職から身を引いており、ようやく文筆一本の生活を送ったいたはずである(バブル後のグループ会社の清算処理を残していたとはいえ、執筆に費やす時間は現役時代よりはるかに確保できていたであろう)。

つまりこのエッセイは、堤清二が巨大流通グループセゾンの総帥としてビジネスの陣頭指揮をとりながら、深夜あるいは早朝に辻井喬へと変身して詩や小説を書いて来たことの、もっぱら不思議さ、困難さを振り返ったものだということもできそうである(エッセイ自体は、この年刊行した長編小説「沈める城」について述べたもの)。
辻井喬が1991年に64歳で経営の最前線を退くまでの作品を数え上げてみた。辻井喬は生涯に小説を二十三冊、詩集を(何と!)十九冊も残しているのであるが(註1)、そのうち小説七冊、詩集十一冊また深夜叢書エッセイ二冊が激務の合間を縫って上梓されたことになる。
「経済人であることと文学者であることとは、どうしても相容れない場合や、あるいは生きている風土の違いのようなものがあると認めない訳にはいかなかった」と小説の主人公に託して言わしめたのも(註)、その両刀使いの困難さを常々実感していたからでもあったろう(全くもって堤清二という男の精神の強靭さにカブトを脱ぐ)。
(註1・そのほかに深夜叢書を含む批評、エッセイ、対談集などが二十八冊もある。註2・麻子と再婚したことにより、清二の岳父となった水野成夫をモデルにした長編小説「風の生涯」にある文章。水野成夫も東大を出て共産党に入党、挫折して実業界に転じ、文学に携わりながらフジテレビ、産経新聞社長などに就任、永野重雄、小林中、桜田武と共に財界四天王と呼ばれた。)

それでは堤清二の中で、いつ頃から辻井喬となる準備が整えられつつあったのかということになると、府立第十中学(現都立西高校)の時すでに、母親操の影響もあって短歌や俳句を作り校内雑誌に投稿していたようだから(註)、もともとそういう下地があったのに加えて、(旧制)成城高校時代にある人物と出会ったことが決定的な要因となったのかもしれない。
(註・「本のある自伝」によれば、その頃の作品に「我が友の詣りたるらし師の墓に菊の一もとかゞよひおりぬ」、「月照りて静かな海に石を投ぐ」などがある。また中学で国語を金田一春彦に習ったことは幸運だったと述べている。)

ある人物とは、後に直木賞作家となる寺内大吉(註1)のことで、たまたま高校の友人(富本壮吉とは別人)に連れられて会ったのが最初であった。「成城高校の学生だった頃、僕は同じ学年の数名と〈金石〉という同人雑誌を創っていたことがあり、その中の誰かが寺内大吉を知っていて何となく彼をリーダーにした文学愛好学生の集まりのようなものが出来ていた。この同人誌は一冊出しただけで終わってしまったが、〈近代説話〉の話が起こった時、寺内大吉が僕を同人に誘ってくれたのだった」。
このように振り返っているのであるが、要するに寺内大吉との出会いによって、辻井喬は「金石」に初めての小説を発表しているのだ。
ただし、辻井喬はそれを「成城高校の学生だった頃」としているが、これは記憶錯誤か説明不足であって、一度きりの「金石」発行は、辻井喬が東大を卒業する前年の昭和25年のことである(註)。なお「金石」とは、試金石の「金石」であって試しにやるのではない、我々は本気なのだとの意気込みから付けられたようだ。
(註1・大正10年生まれ、新宿高校卒。浄土宗大仏寺住職。平成20年没。註2・この「金石」に関連して、東大時代の文学サークルに津田塾大学生であった当時の大庭みな子が参加していたことを、互いに作家になってから辻井喬は大庭本人から知らされたとある。)

清二が共産党に入党、全学連幹部として活動していた時は偽名(横瀬郁夫)を使用していたし、「金石」に短篇を載せた時も筆名(中田郁夫)を用いていた。辻井喬の名前を使い出したのは、父親の秘書から赤字続きの西武百貨店に移った翌年に出した処女詩集「不確かな朝」からである。
「・・・1955(昭和30)年、僕は初めての詩集『不確かな朝』を出版する時、辻井喬という名前を作った。この名前にするのにこれという理由はなかった。家族とか恋人とか、師事している文学上の先輩などから一字もらう、というようなこともなかった。ツツミという音に津の字を当てたり筒の字にしたり、ミに見、未をあてがってみたりしているうちに何となく辻井ということになってしまったのだ。名前の方は、前々から喬という字は一本だけ立っている樹という雰囲気があって好きだったから、辻井喬と続けて書いてみるとまとまりがいいように感じた。その時は終生この名を使うというまでのつもりはなかった」と述べている。

少し横道に逸れた。寺内大吉が誘ってくれた同人誌「近代説話」に話を戻そう。
「その寺内大吉がある日、『今度関西にいる人たちと本格的な雑誌を出すことになったから、君も参加しないか』と誘ってくれた。名前は〈近代説話〉だという。寺内大吉はその頃すでに青年作家として名が出はじめていた」
「この雑誌は司馬遼太郎、黒岩重吾、石浜恒夫、伊藤桂一、尾崎秀樹、斎藤芳樹、清水正二郎(胡桃沢耕史)、永井路子、花岡大学、三浦浩、吉田定一、杉本苑子といった、関西と関東両方に住む人々が勢揃いといった感じで並んでいた。僕もまさしくその末席を汚していたのだった。そうして司馬遼太郎が『梟の城』で、寺内大吉が『はぐれ念仏』、黒岩重吾が『背徳のメス』、伊藤桂一が『蛍の河』、杉本苑子が『孤愁の岸』、永井路子は『炎環』、そして最後に胡桃沢耕史が『黒パン俘虜記』で、いずれも直木賞を受けるという壮観を呈したのだ。それは奇蹟的というか、不思議な感じがしてくるような現象であった。

その不思議を解く鍵は、寺内大吉が指導者的要素を持っていて才能を見抜いたということもあるが、応援団も立派だった。もっとも出席率が悪く,同人だったというのも口幅ったい気がする僕でも、今東光や海音寺潮五郎といった一世代前の大家が、折にふれて会合に参加してくれ、若い者を励ましたり叱ったりしている姿を覚えている」と述懐し、これに寺内大吉の回想を補充して、源氏鶏太、藤沢桓夫、子母沢寛、角田喜久雄、富沢有為男、北町一郎たちの応援もあったとしている。
同人、応援団には知らない作家もいるけれども、これほど大量の直木賞作家を輩出した同人誌は「近代説話」をおいて他にないだろう(うち司馬遼太郎と杉本苑子は文化勲章まで受賞)。時代が下るにつれ同人誌そのものは廃れてしまったが、その当時は芥川賞、直木賞を問わず、作家で身を立てるには兎にも角にも同人誌に所属して、苦節十年そこらの文学修行は当たり前とされた時代であったのだ(清二の妹邦子も、バーに勤めながら同人誌に参加していたように)。

「それでいてこの〈近代説話〉は十一冊しか出ていない。その理由は簡単明瞭である。みんな有名作家になってしまって、同人誌に寄稿する時間がなくなったのである」という珍現象を引き起こしたのも、もっともなことであったろう。
その「近代説話」最初の直木賞作家となった司馬遼太郎のことを、辻井喬は短いエッセイにしている。
「私はその頃から社会主義に惹かれていたので、同人会には三、四回出たぐらいである。精神の発達も遅い方だったから、いつも先輩たちの(註・同人で辻井喬が一番年下だった)勇壮活発な話、『僕は日本のドストエフスキーになる』とか、『文学史を全面的に書き替える必要がある』というような〝卓見〟をかしこまって聞いていた覚えがある。そんな中で、司馬遼太郎は決して大言壮語することなく、いつもニコニコと楽しそうな様子であった。その頃は確か(註・産経新聞文化部の)京都支局にいたと思う。最初に読んだ彼の作品は『戈壁の匈奴』(ごびのきょうど)だった筈である。〈近代説話〉創刊号に載っていたもので、私も〈初老の人〉という、随筆とも掌篇小説ともつかない短い作品を発表した。
今でもはっきり覚えているのは、司馬遼太郎と寺内大吉が相次いで直木賞を受けた時のことだ。・・・私は寺内大吉が受賞した翌年、詩の賞を貰って(註)、辛うじて〈受賞経験者〉の仲間入りをしたが、何回も候補になりながらうまくいかなかったのは清水正二郎だった。その彼も、長い沈黙の後で筆名を胡桃沢耕史(くるみざわこうし)と改め、『黒パン俘虜記』で直木賞になって、私までホッとして嬉しかったのを覚えている。その間にも、司馬遼太郎の名声は上る一方であったが、そうなっても私などに対する様子は文化部記者の頃と少しも変わらなかった」
(註・第二回室生犀星詩人賞のこと。)

この文章を読んで調べてみると、胡桃沢耕史の直木賞は昭和58(1983)年なので、堤清二(56歳)は西武百貨店代表取締役会長職にあり(六年前に就任)、辻井喬としては自伝二作目の「いつもと同じ春」を刊行した年であった。
なお余談をはさめば「いつもと同じ春」は、第12回平林たい子賞を受賞した。滑稽なことに康次郎が議長に就任した際(昭和28年)、正妻でない操を同伴したことで皇室不敬だと、糾弾された時の婦人団体代表の一人が平林たい子だったのである。したがって清二が父親の代理で直接交渉した相手ということになる。
平林たい子賞も(多くの文学賞がそうであるように)、その文学的功績を顕彰して平林死後に設定された賞なので、幸いなことに(?)ご対面とはならなかったのであるが、後述する室生犀星賞のように賞を冠した本人から直接手渡される生前賞(大江健三郎賞もそうである)であったなら、受賞者を前にして平林たい子はさぞかし目をパチクリとさせたことであったろう。

辻井喬より四歳上の司馬遼太郎は、直木賞受賞後直ちに産経新聞社を退職して専業作家となり、古巣の産経新聞に連載した「竜馬がゆく」で人気を博し、大作「坂の上の雲」を書き上げ、「名声は上る一方」で漱石に並ぶ国民的作家と崇められ、胡桃沢耕史受賞の前々年に日本芸術院会員に選ばれ、前年には朝日賞を受賞していたのである。
つまり「近代説話」同人でトップを切って、司馬遼太郎が直木賞を受賞したのが昭和34(1959、司馬37歳)だから、辻井喬の言う「その間に」というのは、ほぼ四半世紀の年月を指していることになる(「近代説話」創刊が昭和32年。直木賞受賞を基準にすれば、胡桃沢耕史の文学修行は苦節10年どころではなかったということだ)。

続けて、「今から十年ほど前の(19)85年10月に、私は〈週刊朝日〉で・・・(京都をテーマに)司馬遼太郎と対談をしたことがある。・・・そこで私は、皮膚感覚のふくらみを持った歴史家としての司馬遼太郎を改めて発見したのだった。
そう言えば、東大阪にあった彼の家は、玄関先から居間、応接間へと堆(うずたか)く積まれた歴史文献の山で床が傾くようであった。・・・綿密な考証と屢々(しばしば)ひとり歩きをしかねない登場人物とを、ひとつの作品の中に共生させることが出来たのは、司馬遼太郎の、常に温みを失わない真面目さだったのかもしれない、と今になって私は思う。
最初で最後になってしまった対談の終りで、彼は、『きょうはお互いに同人雑誌時代以来、三十年ぶりでしゃべったなぁ』と懐しそうに話していたのだった。今も、その時の彼の喋り方の抑揚を私は忘れることができない」と結ばれている。

文章から分かるように、司馬遼太郎はすでに平成8(1996)年2月に(72歳で)逝去していた。この文章は、その年5月に追悼文として文藝春秋に発表されたものである(妹の死の前年、冒頭の「終りなき祝祭」刊行年)。この文章のみならず司馬遼太郎について辻井喬は、後年「司馬遼太郎覚書 『坂の上の雲』のことなど」というまとまった司馬遼太郎論を刊行している。
その中に、昭和24年11月に起きた川田順の自殺未遂失踪事件に取材して、真っ先に「老いらくの恋」の見出しを付けて報道したのが京都支局時代の司馬遼太郎だったとある(水上勉「雁の寺」の項に記した彼の金閣寺炎上取材を併せて思い出すのであるが)。年老いた歌人と若き京大教授夫人との道ならぬ恋愛を「老いらく恋」と咄嗟(とっさ)に表現するなど、たくましきジャーナリズム精神とともに、すでにして類いまれなる文才の持ち主であったことを物語るエピソードであろう(「老いらくの恋」については「虹の岬」を参照下さい)。
ついでにもう一つ確認しておくと、辻井喬が「近代説話」同人になったのと、パリの妹邦子から「流浪の人」の原稿が送られてきたのは、同じ年(昭和32年)の5月と8月なのである(「流浪の人」は同年11月に出版された)。

堤清二の最初の結婚もこの年のようだから、さらに横道へとそれてしまうがそのことにも触れておきたい。こういうインタヴュー問答が残されている。
「ところで、ご結婚は何歳のときでしたか」/「秘書の時代に知り合った女性ですから、割合早かったです。二冊目の詩集を出したときには、もう結婚していました。1957年(昭和32年、清二30歳)で、翌年に長男が生まれています。この結婚にはみんな反対しました。みんなが反対するだけのことはあって、うまくいきませんでした。若気の過ちでしょう」/「秘書の活動をしながら詩を書かれて、最終的に秘書の活動をお辞めになるのですね」/「親父が議長を辞めるから、私も必要がなくなって辞めたのです(1954年12月)」/「そしてビジネスですか」/「秘書を辞めても行くところがない。親父に『特にあてがない』と言ったら『百貨店に行って、青山(二郎)を助けてやれ』と言われたのです。青山というのは、母親の弟、私の叔父です。当時、彼が西武百貨店の支配人をやっていた。ところが毎期、赤字でどうにもならない。さらには親会社の西武鉄道とは喧嘩をしてしまう。
母親も私を西武百貨店に行かせたかったのです。自分の弟の苦戦をよく知っていたのでしょう。私には『百貨店に行くと、いろいろな商品のことを覚えるから、小説を書くときも便利よ』と勧めていました。

こうして思い出すと、私が小説を書きたかったのを、母親は知っていたことになりますね(笑)。私としては商品を知ったとしても、小説を書けるとは思っていませんでしたが、母親の気持ちはわかりましたから、行くことにしました。それに、ほかの入社試験を受けたとしても、前歴がばれてだいたい落ちるに決まっていますから。西武百貨店しか行くところがなかったのです」(2015年刊「わが記憶、わが記録」)
回想記「本のある自伝」(1998年講談社刊)では、この経緯がこう綴られている。
「かつての職場で識り合った女性との結婚には誰ひとり賛成してくれなかった。そうなると私には反撥のバネが働いて、自分の意志の力で反対にうち勝ってみせると頑張る気持になった。何もかもが予想に反し期待はずれになったのだから、ここで周囲の反対に押し切られて愛情も貫けないようでは、僕という人間も終りだというような想いの中にこちらから入りこんでいったのである」

その時の切羽詰った心情が見て取れるようであるが、大げさにいえば自己の存立をかけての結婚であったともいえるだろう(相手の山口素子が俳人の娘であることはすでに述べた)。が、結果は無残なものであった。
「その頃の私を憂鬱にしていたのは家の中の不和であった。妻は正直でしっかりした俳句を創った。もともとはその俳句の話から親しくなったのだったが、自分の感じたことはそのまま口に出す性質で、それ以外の態度は取れないのだった。男の子が昭和三十三年十月に生れたのが救いではあったが、それでも私の両親との確執は、今度は子供の教育を巡って再燃する気配であった。・・・(妻の)直感の上に立った論法はなかなか鋭いが、自分の最初の直感からもたらされた判断が、どれくらい妥当性を持っているか、と考えてみる姿勢はない。それはいつものことであった。議論しているとだんだん気分的に押されてくるようなのは、やはり相手の確信が強いからだろう」

こうして夫婦の溝は深くなっていった。二人は両親と同居する麻布の家を離れ、郊外に家を借りて溝を埋めようと努力したが、それも徒労に終わり一年ほどの別居期間を経て昭和38年3月に離婚した。ちょうどその時期、康次郎の命令で西武百貨店をアメリカに出店する計画が持ち上がり、アメリカへの出張が度重なったことも悪影響したようだ。清二36歳、素子は不明、4歳の長男が清二に残された。康次郎の死はその翌年である。
この離婚の背後に、顧問弁護士中嶋忠三郎が明かしたような事情(第2章に記述)が隠されていたのかどうかは、辻井喬の文章からは微塵も読み取れない。破局の原因が、いわゆる家族を巻き込んでの性格の不一致であったことが窺(うかが)い知れるのみである。仮に中嶋忠三郎の証言が事実であったとしても、どうして回想記に確証も持てないことを(事の性質上そういうことになるであろう)、それも血筋の恥辱に関わることを臆面もなく自伝エッセイに書けたであろうか。それに中嶋忠三郎や上林国雄の暴露文に対して、辻井喬は一言も反駁文を残していないのも、ギリギリの選択が、小説の虚構に託しての表現だったということであったのか。

さて、再び本道へ戻ろう。
「近代説話」と辻井喬という組み合わせにはいささか驚かされる。しかも(話がこんがらがってしまうけれども)、「近代説話」同人になる二年前に辻井喬(堤清二、28歳)は西武百貨店池袋店の取締役店長に昇格し、初詩集「不確かな朝」を上梓して、同人詩誌「今日」に所属する詩人だったのだから(「今日」の同人には大岡信、清岡卓行、飯島耕一などのそうそうたるメンバーがいたとある)。
後々の仕事ぶりから見ても辻井喬の場合、直木賞作家の集まりよりも詩人仲間の一員である方がはるかに似つかわしく思えるからだ。つまりは「近代説話」参加は、寺内大吉という人物にそれだけの魅力を感じていたのと、本人が小説執筆に並々ならぬ関心を寄せていた証左であろう。
なお、清二が初給与の全額をプレゼントしたという、母操(大伴道子)の「静夜」の出版は昭和28年、清二の「不確かな朝」が30年、邦子の「流浪の人」が32年と、それぞれ歌集、詩集、小説と形態は異なるものの母、長男、妹が、そろってこの時期に初著作を刊行したことになる(それも、ちゃんと長幼の序を踏んで)。

     私が私であるためには/どの仲間入りもしないことであった
     愛する人にも心のなかだけで話しかけ
     街を一つずつ建設することであった     (詩集「異邦人」より)
昭和36(1961)年発行の第二詩集「異邦人」にて、辻井喬は第二回室生犀星詩人賞を受賞した。やはり辻井喬は、この受賞の時のことも書き残している。
「(受賞を)連絡してくれたのは寺内大吉だった。『おい、君は犀星賞に決まったらしいぞ。おめでとう』と彼は電話でのっけから祝辞を言い、僕はサイセイショウという言葉を受けとめられなくて聞き返した。受賞者が決まった時、その賞を受けるかどうかを本人に確認してから公表するのが習わしだが、選考委員会で辻井喬という人間の連絡先を知っている人がいなかったらしい」
詩集の版元も発売所も社長一人で経営しているような会社だったので、連絡がつかなかったところに賞の関係者の誰かが、「近代説話」にそれらしき名前があったのを憶い出して寺内大吉に照会したのであったろう、と推測している。今日からは想像しかねるような、のどかな昭和30年代だったのである。

年末に銀座の中華料理店で行われた授賞式には、「室生犀星、中野重治、佐多稲子、堀辰雄夫人といった人たちが並んでいた。賞状は室生犀星の直筆で・・・〈金 弐万五千円〉という字が並んでいた。金額が半端なのは富岡多恵子が同時に受章したので、二人で分けたからだ。中野重治は部屋に入ってきた僕の顔を見て、『なんだ、君か』と言ってから、冗談を口にする時に言う前から自分の方がおかしいと思っている、少しくしゃくしゃな顔になって、『金持ちに賞を出すんじゃなかったな』とニヤリとした。彼はそんなふうに僕を揶揄することで会全体を楽しんだであったろう。
犀星の顔は黒ずんでいた。彼は翌1962年の3月26日に亡くなっているから、すでに深く発病していたのかもしれず、こうした会合に出たのはこの日が最後ぐらいではなかったかと思うとなんとなく申し訳ないような気になる」。
こう書かれているので、犀星賞選考委員は上記の人たちであったのだろう。
賞金が半額になったことについては、富岡多恵子からも「開口一番、『あんたが貰うから賞金が半分になってしもうたわ』と一太刀浴せ」られたとある。それもそうであったろう。この年、辻井喬ならぬ堤清二は、西武百貨店代表取締役に就いていたのだから(昭和10年、大阪生まれの富岡多恵子も、のちに辻井喬同様、小説に手を染めていった)。

受賞顔合わせ時の中野重治の反応が如実に示すように、二人はそれまでに面識があったのである。「出あいの風景」というエッセイには次のように書かれている。
「女優の原泉さんから、夫君中野重治の未発表書簡集『愛しき者へ』をいただいたのは、もう九年も前のことである。最近それを読み返していて、新日本文学会の編集部員だった頃のことを思い出していた。・・・中野さんが編集長だった一時期、私は彼の下で雑誌〈新日本文学〉の編集部員をしていた。窮乏のドン底にあったこの雑誌は印刷所に払いが溜ってしまって、交渉に行った仲間が戻ってきたら、借金のカタに上衣を先方に置いてきた、というようなことがあったりしたのを覚えている。
月末になると私は集った原稿を(世田谷区)桜町の中野邸に持ち込み、割り付けから目次の編成そして校閲などを手伝った。おかしなことに、中野さんは自分をブオトコだと固く信じていて、よく原泉さんに叱られていた。コンプレックスから訪問客の女性に優しすぎるというのである」

新日本文学会に出入りしたのは、辻井喬が東大を卒業した昭和26年(24歳)前後の一年半程である(この年10月に喀血して肺結核と診断され、28年に衆議院議長秘書になるまで療養を続けた)。
編集部には宮本百合子、佐多稲子、島尾敏雄、壺井繁治、壺井栄、徳永直、大西巨人などが集まり、寄稿者には武田泰淳、伊藤整ほか多くの評論家がいたという(武田泰淳宅へ原稿依頼に行った際の百合子夫人を交えた微笑ましい光景を書き残しているが、長くなるので割愛せざるを得ない)。
「出あいの風景」は、中野重治没後十三年の1992年に朝日新聞に掲載された回想文なのだが、上文の続きは「振返ってみて彼ぐらい、〈卑しさ〉ということから遠くにいた人はなかったのではないかと思う。もし、人間的な影響を受けた人を挙げよ、と言われれば、私は躊躇なく中野さんの名前をあげるだろう。政党(註・共産党)との関係で中野さんが孤独な怒りに耐えていた姿も目に焼きついている。『愛しき者へ』を贈って下さった原泉さんも、今では故人になってしまったが」となっている(註)。
(註・中野重治は1902〜1979年。福井県生まれ、東大卒。詩人、小説家。共産党を除名された。原泉は1905〜1989年。島根県生まれ。)

中野重治とともに当時の新日本文学会で代表的存在だったのは宮本百合子(註)であったろう。
堤清二が入党(1949年)してまもなく、共産党は所感派と国際派に分裂し激しい党内抗争が起き、この抗争が原因で、清二は堤康次郎の息子であることを理由にスパイ容疑で除名されたことは既述した。清二たち東大細胞は国際派に所属していたので、その頃国際派幹部だった宮本顕治はもちろん、彼の妻で作家でもあった宮本百合子と接触する機会も多かったようである。
除名されても活動を続けていた清二は、宮本百合子が51歳で病死したことについて、後年のインタビューでこう答えている。「(百合子を)反戦集会に引っ張り出したりしていた。亡くなる前年、宮本百合子さんは風邪を引いていたのに、それを押してやってきてくれて、それが急死する原因の一つだったと思うんです。ギルティ・コンシャス(罪の意識)ですが」。
(註・東京生まれ、1899〜1951年。日本女子大中退。「貧しき人々の群」で天才少女として17歳で作家デヴュー。プロレタリア作家の代表的存在。)

「この頃ね、風邪がすっきりしなくて、あまり元気ではないのですけどね、これは行かなければならないわねえ」と言って、昭和25(1950)年12月8日に行われた反戦集会に出席してくれた宮本百合子は、翌年1月21日に電撃性髄膜炎菌敗血症で急逝したのである。
女流作家の急逝となると、林芙美子(47歳)と有吉佐和子(53歳)の例が有名であろうか。清二と林芙美子についても、ちょっとしたエピソードがある。林芙美子が秘書を探していることを聞きつけた党仲間から、文学志望だった清二に秘書にならないかという話が持ち上がった。当時の人気作家であった林芙美子を党員に引っ張り込むのが目的であったらしい。が、この話はまもなく秘書が見つかったとのことで立ち消えになってしまったが、清二も乗り気になっていた矢先であったようだ。

     心の地図に/遠い国があるようだ/記憶の断片を集めた
     重い国/近づくと/いつも歪んでしまうのだが    (詩集「異邦人」より)

西武百貨店で「宮本百合子没後三十年展」(1981年)が企画された。その実行委員長にふさわしい人物の相談を、学生時代からの友人である上田耕一郎(註)に持ちかけたら、松本清張はどうかとのことで清二は即諾した。
芥川賞受賞作「或る『小倉日記』伝」も読んでいたが、改めて感銘を受けていたのが映画「砂の器」(1974年公開)だった。「私はこの映画を見ていて、原作者が差別される側の人間の哀しみや憤りを知っているに違いないと」確信を持っていたからである。
こうしてオープニングの日に、松本清張と辻井喬の初対面が実現し、その席で三十年ぶりに宮本顕治共産党委員長とも再会した。「今度はいろいろ御世話になりました」と頭を下げると、清張は厚い唇で「辻井君、この展覧会は君にとって憧憬(ノスタルジー)だったんだ」とささやいてニヤッと笑ったので、「そうなんです。有難うございました」と正直に答えた、とある。
(註・1927年〜2008年。清二と同年生まれ。神奈川出身、東大卒。当時は日本共産党副委員長。宮本顕治の後継委員長となった不破哲三の実兄。)

このやり取りから、学生時代に自分が宮本百合子に心酔していたこと、東大キャンパスでの反戦集会に病身の宮本百合子に講演を依頼し引っ張り出したことを、松本清張があらかじめ耳にしていたのだろうと、清二は推察している。
数年後に清二は、同じ会場で松本清張の作家生活三十五周年を記念する「松本清張展」を開催した。「松本清張に、不遇な人、差別される側の辛さを知っている人であり、その点は本質的に宮本百合子と同じ感性の人、温かい人という印象を持」ちつづけていたからである。
ここまでの松本清張に関する叙述は「私の松本清張論 タブーに挑んだ国民作家」(新日本出版社、2010刊)からであるが、上述したように辻井喬は司馬遼太郎についても、「司馬遼太郎覚書 『坂の上の雲』のことなど」(かもがわ出版、2011年刊)という作家論を立て続けに著している。その中身をここで詳述する余裕はないけれども、同時代の偉大なる二人の国民作家をリスペクトしつつも、辻井喬の軸足はどちらかというと松本清張寄りである。つまり辻井喬は清張文学の特質である差別され(虐げられ)る側の人間の痛み(怨念)により多く共感しているのである(註)。
(註・このことは量販店「西友」で韓国籍であることを理由に、買い物客の女性にクレジットカードを発行しなかった事件が発生した時、それを遅れて知った清二は経営の理念に反する行為だと会長机を拳で激しく叩くほど激怒して、自らその韓国人女性の元に謝罪に出向き、朝日、読売、毎日新聞及び韓国紙等にも謝罪広告を掲載して自社の不当行為を詫びたほど、差別的言動には鋭く反応した。又、この清二の誠意ある謝罪を朴正煕韓国大統領が高く評価したことが伝えられている。)

清張寄りに関しては、やはり上記インタビューで「同人だったけれど、司馬遼太郎さんはある一定の距離以上には近づけない感じがありましたね」/「それはどうしてですか」/「納得できない。面白くない。うまい人だとは思いますが、私だったらこうは書かないなと思うことがずっとありました」/「それは表現の問題ですか、題材ですか」/「フィロソフィー(註・哲学)でしょうね。歴史観というかな。彼は個人としては人柄がいいです。だからつき合いはずっとあるのですが、作品は別ですね。・・・」と答えているのでも明らかだ。
辻井喬と松本清張の間には、生育環境が培った心情的、心理的感性の隔てが対司馬遼太郎ほどにはなかったということになるだろう(これと関連して、堤清二が政治家吉田茂のことを自由主義者かもしれないけど民主主義者ではない、と評したことなどにも通じる分析だったろうか)。
その松本清張の文学をまったく認めなかった三島由紀夫(註)との交友も辻井喬にはあったというのだから人間関係は不思議で複雑である(ただし、松本清張との初対面は三島死後のことである)。
(註・中央公論社創業八十年記念出版の文学全集「日本の文学」に、編集委員だった谷崎潤一郎や川端康成などが収録許諾の意向を示していたにもかかわらず、三島の断固たる反対で清張は除外された。)

その三島由紀夫が組織した「盾の会」の制服を創ったのが、堤清二であり西武百貨店であったという事実にも驚かされた。ドゴールの軍服に憧れていた三島は、その軍服のデザイナーが西武百貨店と関係あることを知り、かねて顔見知りだった清二に頼み込んだのだという。それ以来、三島の死去まで親しい交流がつづいた。
その文学のみならず思想的にも、松本清張と三島由紀夫は全く異質のタイプだと思われるのだが、辻井喬は「私の人に対する見方は、政治的に、あるいはイデオロギー的にどうかということはあまり重要ではない。何と言ったらいいのかな、その人が人間としてどういうふうに生きようとしているかが大事で、人間としてまっしぐらに生きようとしていれば、右でも左でも構わない。だから三島由紀夫には賛成なのです」と、明快に言い切っている(だから三島が自衛隊乱入して割腹自決を遂げた時、公の場で三島擁護を展開したのは私くらいだったでしょう、と発言しているのもその表れであるようだ)。

こういう考え方だから、堤清二=辻井喬の交流人脈は文学界はもとより財界、政界、学界や外国の要人をも含めて驚くほど多岐に渡っているのである(例えば、あの児玉誉士夫まで登場するのだが、ここにその一人一人を挙げきれないので、文学関係に焦点を絞って拙文を書き連ねているのであるが)。
拙文ついでに恥の上塗りで、まるで見当はずれかもしれないことを。三島といえば、自己の性的嗜好を赤裸々に語った長篇第二作「仮面の告白」が有名であるが、「彷徨の季節の中で」は辻井喬の「仮面の告白」のように思えてくるのである。両作はかなり酷似したコンセプトで描かれているのではないか?(屈折度合いは辻井喬の方がいささか強いけれど)。

面白いことに、文壇セゾン派というのがあるらしい(?)。まずセゾングループ社史編纂に携わった車谷長吉を筆頭に(無職だった車谷長吉を「新潮」の編集者が清二に紹介したという)、セゾンで働いていた保坂和志と阿部和重、それにセゾングループの西洋フード大阪でアルバイトをしていたという町田康(さらに町田康の奥さんの父親は西友幹部職にあったらしい)。
もう一人、コピーライターになりたくて修行に励む若い女性がいた。ところが彼女の書くコピーは、いまひとつ切れ味が悪いのに説明文のボディコピーは非常にうまいので、清二は「あなた、小説を書いてみたらいいと思う。散文は実に簡にして要を得ていて生きている。書いてみたら」とアドバイスした。彼女は「やっぱり、私はコピーライターは駄目でしょうか」とすごく悲しそうな顔をした。
それから半年ほどして書店に並んでいたのが、「ルンルンを買っておうちに帰ろう」(1982年刊)であった。誰あろう、今日の直木賞銓衡委員林真理子である。彼女も立派に文壇セゾン派ということになるであろう(その林真理子は辻井喬のことを「知のカリスマ」と追悼した)。

井上靖、丹羽文雄などの文壇の長老や、ほぼ同世代の三島由紀夫(1925〜70)と安部公房(1924〜93)、八歳年下の大江健三郎(1935〜)などのノーベル賞級の作家たちとの交流もさることながら、辻井喬が若手作家で一番に評価していたのは「沈滞している文学界に疾風のように現れて、同じ速さでつむじ風のように去ってしまった」という中上健次であったのではなかろうか。彼の死を悼む文章は(三島由紀夫とは違った意味で)如実にそのことを語っているように思われる。
「彼の文学は今日の我が国の状態から隔絶している。それは、主人公がしばしば貴種流離の本質を持っているからばかりではない。これは、作家中上健次が卑しさと無縁の世界に生きていたことと関係がある。卑しさと見える者も彼の筆にかかると愛すべき、神話的世界の一端を担う人柄に変身してしまう。これはおそらく、彼が個人的な事情や、見栄や、打算的思考を全く持ち得ない男だったからだ。その意味で、彼にとって〝教養〟は無意味、無価値のことであった」
「彼は内輪のマレビトのみが発し得る情熱をもって、日本の、そして世界に偏在する路地の物語を語り終えた。まだ語り終えるべきではなく、これからさらに編成を大きくして語るべき時に突然姿を消したのである」

そしてこう悼む。「中上健次は今、天上の路地でガタリ(フランスの哲学者)や谷崎潤一郎や三島由紀夫と語っているだろうか。とすれば残された者は、彼の天からの目差しを感じながら、自らの文学的営みをもう一度点検し、自らに固有の疾走を、根拠地としてのそれぞれの路地を、発見しなければならないのではないか。おそらくそれが、彼が私達に遺していった無言の言葉のように思えてならないのである」(1992年、文藝)
その「路地」は、別の追悼文で「そこは彼岸と此岸、賎(せん)と聖、悪と善、反人間性と人間性が、世俗に流通している尺度とは逆の位相を示し、矛盾が発酵し爆発する領域であった。そこは世俗的に言うと差別される側の人々が住み、それゆえに神が宿っている土地でもあった。そこで人々はすべての虚飾を剥ぎ取り、魂の卑しさを捨て、正直に真直ぐに生きようとしていた」ところだと説明されている。
ここにも、松本清張やクレジットカード事件の韓国女性に注いだと同じ視線が感じられるのである。

昭和21(1946)年生まれで戦後世代初の芥川賞作家となった中上健次は、平成4(1992)年に46歳の若さで病に倒れたのであったが、中上より19歳年上であった辻井喬はその前年にセゾングループの会長引退を宣言し、それから21年もの間を執筆に専念する時間を持った。いうなればそれまでの堤清二と辻井喬の時間が逆転したのである(それまでの業績と、全業績については上述した通りである)。
その最後の著作となった詩集「死について」(2012年刊)に、迫りくる死を予感していたのか、印象的なフレーズがあった。
     そう遠くないうちに 僕も入るその空間には
     雲が流れているだろうか
     緑が滴って澄んだ水に映っているか
     ひとりで去っていくのは別れのひとつの形
     それはそよ風が欅(けやき)の梢に揺れているようなもの
     あるいは遠ざかる鈴の音を追う耳だけの緊張
     切ないけれどもそれだけのこと

「(第一、第二詩集の)『不確かな朝』か『異邦人』を出したときに、親父にこう言われたのを覚えています。『最近、年のせいかどうかわからないがなかなか眠れない。そういうときはどうするか知っているか。お前の書いた詩集を枕元に持ってくるんだ。置いただけで眠くなる』」(註)と、父康次郎についての笑い話をインタヴューで語った辻井喬は、「彷徨の季節の中で」「いつもと同じ春」「闇夜遍歴」の自伝三部作を締めくくった77歳時(康次郎の没年は75歳)の長編「父の肖像」(2004年刊、第57回野間文芸賞受賞作)に次のように記している。
(註・「本のある自伝」には、「男が家の中で音楽を聞くことは許されず、『詩を作るより田を作れ』というのは父の口癖だった」と書いている。)

「父のことを考える場合、私はいつも世間が楠次郎(堤康次郎のこと)に抱いているイメージと自分がこの目で見た父の姿との差異に立止ってしまう。同時にこの当惑のなかには私自身の年頃と立場の変化によって父に対する評価が動いてしまうという困難が絡っていた。私が父に激しい敵愾心を燃やしていたのはマルクス主義に心酔し、諸悪の根源としての資本家と大地主を倒さなければと考えていた大学生の頃であった。その時代を振り返ってみると、むしろ父への反感、生理的反撥が私をマルクス主義に近付けたのではないかと思う。しかし不思議なことに、その時私は以後のどの年齢の時よりも純粋に父に向き合っていたようなのだ」
小説の一節とはいえ、これは喜寿を迎えた息子の嘘偽りのない感想であったろう。この意味からも、左翼運動の挫折までを描いた「彷徨の季節の中で」は、辻井喬にとってどうしても対峙せねばならぬ小説であったのだ。

辻井喬が晩年になって嗜(たしな)んでいたのは、意外なことに俳句だったようだ(俳句と現代詩は相通じるところがあるとの理由で)。母親と同じ短歌への道を歩まなかったのは、短歌を作っていた中学生の頃に、単に尊敬できる歌人に出会わなかったからだという(吉井勇派の母と違ってアララギ派が好きだったようだ)。
辻井喬死去半年後に、麻子夫人が最晩年の句を毎日新聞に公表している。そのうちの五句。
     子の声を葱(ねぎ)の青さの厨(くりや)かな
     大根煮る湯気や亡き母一人旅
     わが胸は滝の水涸れ音も消え
     獅子舞の目こそ哀しき平和かな
     過し日を忘れたき朝の初鏡
一句目は、もしや三鷹下連雀の在りし日であろうか。旅をしているのは、果して母親だけなのか。父親との確執の末に胸はこっぽりと空洞となったのであろうか、それとも肺病に侵されての絶望ゆえだったのか。作者は獅子舞を観る側にいるのか、獅子舞そのものが作者であったのか。その作者は最後の最後に、過去の一切合切(いっさいがっさい)を忘却したいと鏡に映る自分に語りかけていたというのだろうか?
が、それは句に堤清二=辻井喬の人生の悲傷を読み込み過ぎであって、辻井喬の境地は前掲詩篇のごとく澄みきったものであったろう。

こうして長々と綴ってきたものの、堤清二=辻井喬の実体は何ひとつ明らかにすることはできなかった。そのように感ずる。辻井喬の自伝小説が「私」を語りながら、普通の意味での(ありのままの「私」を語った)私小説ではなく、事実(らしきこと)をまぶしながらも巧妙に虚構のベールを覆いかぶせるように叙述されているからであろうか。リアリズム私小説でなくて、観念私小説(こんな言葉あったっけ)だからだ。
経営者にして文学者というのも類例なきことなのに、加えて小説の冊数(23冊)ほどに詩集(19冊)を生涯にわたって書き続けた文人なんて、そもそもいたっけ?その点でも異例である辻井喬は自らをこういう。
「私の発想としては〈正統なき異端〉です。つまり、正統があってそれに対する異端があるのではなく、自分としての正統はない。しかし間違いなく私は異端者です。だからこの感覚から言うと、三島由紀夫さんも私は好きです。左、右はあまり関係ないのです」ということになるようだ。つまり辻井喬にとって、異端者とは他者を認めつつ、個として自由な発想と立ち位置を可能にできる人の謂なのである。

詩集「死について」刊行と同時に文化功労者に選出された辻井喬は、その翌年の平成25(2013)11月25日に死去。死因は肺不全、享年86歳。
いみじくもその日は、堤清二によって願い通りに「盾の会」の軍服を誂えた三島由紀夫が、1970年に自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決したと同じ日であった。
三島由紀夫の文庫本は、「仮面の告白」をはじめたくさんの作品が残っているのに対して、辻井喬のそれは、文春文庫に「茜色の空 哲人政治家大平正芳の生涯」が残っているのみである(やがてそれすらも遠からず消え去るであろう)。

いくら言葉を重ねても、輪郭をなぞっただけで何ひとつ辻井喬について語ったという実感が湧かないままに、生前の堤康次郎をモデルにした小説に富沢有為男「雷帝堤康次郎」(1962年刊)、石川達三「傷だらけの山河」(1964年刊)の両芥川賞作家(それぞれ第四回と第一回)の古い作品があることを書き添えて、「彷徨の季節の中で」さながらに堂々巡りに終ってしまった拙文の幕引きとしたい。
最後まで付き合ってくださったとしたら、只々、多謝、多謝。

(追記。2016年夏から秋にかけて、中村不二夫「辻井喬論」及び近藤洋太「辻井喬と堤清二」という著作が刊行されていることを、ついこの間知った。驚いた。著者は二人とも詩人だとあった。早速、一部を本文に引用させてもらった。)
(追記の追記。つい最近、児玉博著「堤清二『最後の肉声』」と題する連載記事が2015年4月号〜6月号の三回にわたって文藝春秋に掲載され、翌年の第47回大宅壮一ノンフィクション賞(雑誌部門)を受賞していることを知った。
それには「父の行状を母は知っていた訳ですから。母の姉妹にも手をつけていたり・・・、そうしたものを全て飲み込んで生活をしていたわけですね」という康次郎と操に関する清二の発言がある。出生についての踏み込んだやりとりはないけれども、このことからも清二の実母が操の姉妹であった可能性が皆無ではなくなる。なお、このノンフィクションは、「堤清二罪と業 最後の『告白』」と改題、加筆を加えて2016年に文藝春秋社から刊行されている。以上、2017年4月16日追記。)


















自由人の系譜 辻井喬「彷徨の季節の中で」(6)

「由雄(堤清二)の子供の頃の記憶にある月子(操)は部屋のなかを移動する時、足音を立てなかった。畳の上を滑るように早く歩き、身を翻したかと思うとピタリと静止する。母親が立ったまま俄かにゆさぶり難い存在に見えてくるような時、彼女は歌のことを考えているのだった。好きな食べ物は少量の海産物と果実である。久美子(邦子)を生んでから、一時治っていた結核が再発し、朝食が済むとすぐ寝るようにしていた彼女のこうした動作と食生活を考えると、母親がどこから活力を得ていたのかと、由雄は不思議な気がする時があった。鎌倉海岸に、幼い二人の子供を連れて転地したのは、かえって病状を悪化させたから、一転して北多摩郡三鷹村に居を構えたのは、貝塚市子(川崎文)と離れたこととあいまって賢明な選択であった。時々、訳もなく咳こみ、午後になると決って熱が出る身体を横たえていると、塗りたての土壁の臭いが鼻を打った。・・・」

「闇夜遍歴」から引用した。次はこの続き。
「鎌倉にいた時、彼女はもう少しで死ぬるところだったのである。もし本当に生命力があるなら、自分がいなくても子供達は生きのびてゆくだろう、そう思って傍に置いた剃刀を静脈に当てる前に、もう一度由雄と久美子の顔を見ておこうと考えて、少し前から二人の姿が見えないのに気付いた。きっと浜に出かけたのだ。もう夕方で潮が上ってきているはずだと知った時、月子はほとんど意識せずに家を走り出ていた。まだ夏になっていなくて、人影もなく広いばかりの浜辺に子供の姿はなかった。嗄(しわが)れた声で呼んでみたが、聞えるのは、砂の低い部分を浸しはじめている波の、ぴちゃぴちゃと寄せる音ばかりであった。月子は裸足になって駆けた。沖へ向って声をあげた。離れた、少し高くなった浜に二隻の漁船が引揚げられていた。

幾度か転びそうになり、水を跳ねかえしながら辿(たど)りついてみると、船の蔭で三つと二つになった由雄と久美子が湿ってきた砂を掘って遊んでいた。もう三十分も遅かったら周囲は幼児の足では渉(わた)れない海になっていたはずであった。月子の姿を見て、二人は喜んで笑い声を立てた。『お母さんが来た、お母さんが来た。歩いてきたよ』と言った。寝てばかりいる母親が浜に出てきたのが嬉しかったのである。涙が溢れ出し、月子は『夕方は冷えてお腹に悪いから、外で遊んではいけません』と言いつけを守らなかったのを叱ることが出来なかった。

(あの時、私は死ぬ機会を逃したのだ)と月子は覚った。両親は自分達を残して早々と死んでしまったが、私には子供を放り出すことは出来ないと思うと、彼女の病んだ肉体のなかに今まで経験したことのない、思想に似たものが動くようであった。生活をたてなおそう、と月子は決めた。お琴の免許はもう貰ってあるから、時々忘れないように先生に来てもらって練習をすることにし、小田村大助(康次郎)と一緒になってから中断してしまった書道の稽古もはじめよう、それに、社友になったばかりの〈昴〉には毎月短歌を送ってみよう、と計画を立てた。幸い小田村は日曜にしかやって来ない」
 発表された順序は逆になるが、自伝三部作の二作目「いつもと同じ春」にも、上記のような体験があったからであろう、母は幼い私と久美子に「幾度、死のうと思ったか分らないわ、あなた達さえ居なかったら、私の生活は変っていたのよ」とよく言った、と書かれている。

しかし、もし母が本当にこう言ったのであれば、母の言葉は二人の小さな心を傷つけたにちがいない。とりようによっては、まるであなた達が自分の子ではないと言っているにも等しいからである。
この言葉の前後に操(「いつもと同じ春」では西垣美津子)が、康次郎(同、西垣浩造)と一緒になった経緯が述べられているので、それも引用する。 

「母の実家は第一次大戦後の世界的な不況のなかで没落した銀行家であった。貴族的な環境に育った母は、倒産後の整理を手伝った野生的な父に魅かれた。自分達の家族にはない粗暴さを男らしさと錯覚した。管財人の助手として働きながら、野心に燃えていた三十代の父は、最初から母の美貌に魅かれた。持前の強引な説得力で口説いた。蝶ネクタイを締め、寸法の合わないYシャツの下から臍(へそ)を覗かせている父の様子を見て母は誰も父の身辺の世話をする人がいないのだと思った。それまでに、西垣浩造が幼い頃生みの母に捨てられて祖父の手で育てられたこと、丸和不動産という社名は、祖父西垣和左衛門(実名堤清左衛門、註・長男清と次男清二の名前の由来だと思われる)の一字を取って名づけたのだ、というような話を聞かされていた。

春も終りに近いある日、母はかねて西垣浩造と打合せていた手順に従って、丸和不動産の社員に導かれて郊外の小さな家に父親に無断で移り住んだ。出奔であった。
父が既に結婚していて、旧市内に一戸を構えているのを知らなかった。とは言え、家を出たのは自分の意志であったから、誰を非難することも出来ない。〈騙された〉 というのも事実であり、愛し合って一緒になったというのもそのとおりである矛盾のなかで、母は新古今ばりの短歌を読むことで自分を支える以外に生き続ける術を知らなかった」
こう書かれてから、上記の「幾度、死のうと思ったか・・・」につづいているのである。一応、母の苦境に同情(納得)はできても、やはり兄妹が全面的に母の言葉を受入れるには抵抗があると思われる。それにこのくだりに叙述されている父母のなれそめは、「彷徨の季節の中で」にあった〝掠奪〟とはずいぶんと事情が違う。
長くなるが、この後も引用したい。

「そのような経過で生れた子は、〈妾の子〉と呼ばれ、自分は二号さんと後ろ指を指されるのだとは、後になって世間が教えてくれた呼称であった。それでも父はフロックコートを着込み片手にシルクハットを持って、角隠しを被った母と結婚の記念写真を撮った。
せがまれてのことではなく、気位の高い家に生れ育った母の懊悩を見て父から言い出したことであった。自分を引き立ててくれている政界の指導者の世話で一緒になった本妻であるから、おいそれと別れる訳にはいかず、別れるつもりもなかったが、本当に結婚している相手はお前なのだという証しとして父が考え出した儀式である。それは詐術であって同時に詐術ではなかった。
ずっと以前に見せて貰ったことがあるが、白い貸衣装の打掛けを着、重い頭に耐えて少し上目遣いになって立つ母は可憐に撮れていた。その母を眺める父は、自分が手に入れた女の値打を確かめる家畜商のような目をしていたに違いない。生れながらにして、私は父と対立しなければならない立場にあったのだ。それ以後も父の暴君としての振舞いは変らず、そのたびに母の心はまたもや愛憎の間を揺れ動き、私と久美子は大人の男女の、赤裸々な葛藤のあいだで、幼い皮膚を擦り剥きながら成長した」

「幼い皮膚を擦り剥きながら成長した」兄清二は、これまで再三述べてきたように父親のやり方に激しく反撥してきたのだったが、妹の邦子はどうであったのか。
「私はあんなふうには生きたくない」というのが、父親を取巻く女たちを観察しながら(当然その筆頭には母親も含まれていたのだったが)、邦子(小説名久美子、註)が下した決断であった。「彷徨の季節の中で」には「お母さんのようにはならないわ」と表現されている。
以下、堤邦子の生涯を便宜上(なるべく簡潔に記すため)、主に前章で触れた「叙情と闘争 辻井喬+堤清二回顧録」に沿って追ってみる。
(註・「いつもと同じ春」「暗夜遍歴」とも、唯一邦子のみが〈久美子〉名で統一されている。)

「妹が学校から帰ってくるなり大声で泣き出した。母が訳をきくと、妾の子といっていじめられたのだという。僕は怒った。そんなことを直接母に告げる妹も許せなかった。実は数日前、僕も同級生の餓鬼大将に同じことを言われ、体力の差も忘れて喰いつき投げ倒して馬乗りになり、撲りつけて怪我をさせてしまっていたが、母には黙っていたのだった。母の顔色が変わった。そんなこともあったから兄妹の仲はいっそう緊密になる他はなかったのだ(註・この出来事は、小学二年生と描かれている小説と違って、清二が五年生の時だったようだ)。
彼女は成績がよかった。五年生の時だったか、東京中の数千人の小学生の模擬試験で二番になったぐらいである(「いつもと同じ春」には、康次郎が「久美子が男だったらなあ」と屢々嘆いた、とある)。

三鷹から麻布の屋敷に移ると、邦子は羽仁もと子の「自由学園」に通うようになったが、邦子が自由主義に染まり過ぎることを怖れた康次郎によって、一年後に府立桜町高女(現都立桜町高校)に転校させられた。
「戦争が終わった時、妹は十七で、女学校を卒業した年でもあった。当然、彼女は進学を希望したが、『女に学問は要らん』という父の頑なな一言で前途を阻まれた。仕方なく彼女は英文タイプを習って、将来、〈お父さんの役に立ちたい〉という理由で実技を身につける道を選んだ。それは毎日家を出る口実ではあったが、そのなかには本音も含まれていたのである。そこが僕と父親の場合と違うところだという感じもするのだけれども、その一方で彼女は、ひそかにダンスを習いはじめていたのだった」
これと関連して「彷徨の季節の中で」に、娘がタイプと英会話を習うと聞いた康次郎が、そのうちに(邦子は自分の)会社の渉外部長になるつもりらしいぞ、と愉快げに揶揄する場面がある。それにしても、邦子の大学進学を操がこの時、(本当の母親であるならば)体を張ってでも叶えてやっていたら、その後の邦子の人生行路は一変していただろうに(やっぱり実母ではなかったゆえか、未だ正妻になり得ていない身の上のせいだったのか。註)。
(註・前章で触れた邦子のエッセイ「パリ、女たちの日々」の奥付履歴には、しかし、早稲田大学中退、ソルボンヌ大学文科卒業となっている。)

「やがて彼女はそのダンス教室で、働きながら大学に通っていた青年と恋に落ちた。ある日彼女は、僕にだけ行く先を教えて家から姿を消した。当然、家は大騒ぎになった。報せを受けた堤康次郎は、「うぬ、男が出来よったな」と地団太を踏んで口惜しがった。僕は知らんぷりをしていた」とあるのも、「彷徨の季節の中で」の描写と寸分違わない。
が、「両親の反対を押し切って駆け落ち同様に」、彼の郷里広島で始めた新婚生活は長続きしなかった。一年半で舞い戻って来た娘に、「傷物の噂が拡がる前に」と父親が再婚を勧めたのが、やはり「働きながら大学を終えて、父が創始した丸和不動産に入社し」、「父の三番番頭ぐらいの立場にいた男」林田悟郎(註)であった。
(註・森田重郎のことで「火曜会」のメンバー。のちに参議院議員を二期務めた。)

「当然のことながら、久美子は気が進まなかった。最初の結婚に失敗した直後であったし、早く世間体をくらます形に娘を閉じ籠めてしまおうとする父親の計算が見え透いていた。『はじめての人と、ずっと一緒に暮せるのが一番幸せなのよ』と、かつて味方になってくれていた母親が、林田との結婚にどっちつかずの態度を取っているのも淋しかった。
一緒になってみると、ダンス教習所を足場にした女誑(たら)しに過ぎなかった男(註)の、気障で粗暴な振舞いが鼻についてきて、何故こんな男に夢中になったのかと、久美子の胸中にはふがいない自分への復讐心に似た感情が蠢(うごめ)いていたようだった。 我と我が身を、思いきり傷めつけてみたいと希う心と同時に、またとない出世の機会と眼を輝かせている林田悟郎を翻弄してやりたい誘惑を彼女は感じたのだろう。久美子にとって、それはそう困難なことには思えなかったはずだ。
父の方は、とにかく結婚させてしまえば、愛情は後から生れてくると確信していたようだ」(以上、引用はすべて「いつもと同じ春」)。 
(註・実際は真面目な男で、後に事業家として成功したと、「本のある自伝」で辻井喬は、妹の初婚相手について述べている。そのくだりを引いておく。「独立した自由な生活を夢見ていた彼女には、相手の現実的な手堅さが面白くなく、貧しさも辛かったのらしい。恋の蜜月は短く終り、傷心の彼女は父親の薦める会社の幹部と結婚した」。)

「叙情と闘争」の方には、「三番番頭」は、「経理担当の役員」となっているし、結婚の理由としては 「妹は自由を手に入れるために気の進まない再婚を受け容れ、堤の家を離れたという事実を跳躍台として、二度目の出奔をしなければならなかった」と書かれている。
その手助けをしたのが清二だった。「二度目の出奔の時、僕は彼女のために夜の銀座の勤め先を探した。再婚した夫とどうしても別れたい、別れることにしたという決心を妹から聞いて、それからどう生きていくつもりかを質問すると、彼女は『どうしても小説を書きたい』というのだ。『それには収入のこともあるし、バーのようなところで働いてみたい。私の今までの経験は特殊すぎると思うから、少し世間に触れてみたいのよ』そう言われて僕は、銀座の」ある店を紹介した。

「妹はその店に二年近くいた。そのうちに、どうも堤康次郎の娘がバーで働いているらしいという評判が立ち、父の追っ手がかかる形勢になって僕はあわてた。ない知恵を必死に絞って、僕にもその噂が聞こえてきたので調べたと称して、父にかなりのところまで事実を打ち明けた。その上で、この期に及んで強行手段に訴え、麻布の家に連れ戻すようなことをしても、次第に追い詰められた感じを持てば、あなたに似た性格だけに邦子は、次はどんな手段に出るか心配である。それよりも外国に留学させれば噂も立たなくなるだろうと献策した。
『そんな方法があるのか』 という父の問いに、『店の方は人目につかないように妹には裏方に廻ってもらいますが、一か月ほど時間を下さい』と猶予をもらった」
この辺り、康次郎が議長就任時に引き起こした皇室不敬事件で婦人団体からの抗議をうまく躱(かわ)した秘書時代の手際の良さを思い起こさせるのであるが。

清二は、操の遠縁になる美術蒐集家夫妻に相談して、夫妻の渡仏に合わせて邦子を同道してもらう約束を取り付けたのであった。
「1956(昭和31)年の10月、南廻りの便でパリへ向けて羽田を出発した彼女を送って麻布の家に戻ると、父はまだ起きていて、僕の顔を見るなり、『そうか、行ったか』と短く言い、僕は彼が娘の海外留学で思いもよらない打撃を受けていると感じた」
日本人が自由に海外渡航が出来出したのが1964年(康次郎の没年、東京オリンピック開催年)といわれるから、康次郎の落胆ぶりもひとしおであったろう(註)。
邦子がパリに出立した時点での堤家の主な人物の年齢をあげておく。邦子28歳、清二29歳、康次郎67歳、操48歳、恒子43歳、廃嫡になった清は恒子と同じ43歳、22歳の義明はまだ早稲田の学生だったと思われる。 二年前に別れた康次郎の前妻文は、この年に死亡したのであったか?
(註・康次郎の死後、操がパリの邦子のもとを度々訪れていたことは「暗夜遍歴」に描かれているが、邦子のエッセイ「パリ、女たちの日々」に、「政府の使節としてヨーロッパを訪れた亡父のお供でパリに来た母」と綴られているので、生前の康次郎が邦子とパリで再会していたことがわかる。)

「音という程の音ではない。が、外はしめやかに雨の気配である。立ち上って遥子(ようこ)はカァテンを寄せ、蒸気でくもった窓から外を眺めた。冬がはじまっている。・・・疑いもなくためらいもない季節の足どり。プラタァヌの葉も落ちつくし、幅ひろい舗道は夜毎の雨に濡れはじめ、パリはすでに人々が〈灰色の〉とよぶながい冬の季節に入りはじめていた。(中略)
今夜も眠れそうにないのだった。煙草に火をつけ、遥子はぼんやりと灯のあたりに眼をむけている。灯の下に微かにうずまいている潮騒に似た遠いざわめきの音。それはやがて小さく鋭い、悲鳴に似た叫び声をたて、ささやき交しながら、ひとすじの尾をひいて、次第に暗い空にのぼっていくようであった」(堤邦子「流浪の人」冒頭部)

邦子がパリで書いた四百枚ほどの原稿が届いたのは翌年の8月だった(邦子は銀座のバーに勤めながら、清二の紹介した同人雑誌で文学修行をつづけていた)。
「最初の四十枚ほどを読んで、感じとしては甘いけれども文章に力があるので本にしてもらえるかも」と思い、二年前にはじめての詩集「不確かな朝」を出版してくれた知友に相談すると、「彼は『面白かった。去年原田康子の〈挽歌〉を出した東都書房がいいと思う』と言い、僕は彼に紹介を頼んだ。話は驚くほど順調に進み、その年の11月末に小説〈流浪の人〉が出版された。
〈深窓の令嬢・傷心のフランスの日々〉というようなキャッチフレーズに続いて、本の帯には、〈パリ祭の夜ー花火がするどい音をたてて空にのぼり、やわらかく散っては消えた。あちらにもこちらにも、抱き合った恋人達の黒い影がある。河の水は黒々と光りながら、船が通るたびにつめたげな水の音を岸に寄せた。『遥子、綺麗な夜だね。』ーアンドレの唇が再び遥子の唇をおおった〉という小説の中の文章が印刷されていた・・・

本の最終頁には、原田康子の『挽歌』(註1)と同じように著者の思いに沈んでいるようなポーズの写真が掲げられ、〈著者近影 昭和32・9ーパリのリュクサンブウル公園にて〉という文字が見える。新聞にもこの本人の写真が使われていたから、五段通しの大型広告は厭でも目につき(註2)、僕は父が怒り出すかもしれないとはらはらしたが沈黙を守った。母も無言だったが僕と二人きりになると、『邦子はやりましたね』と興奮を隠さなかった。彼女も夫のいるところでは素知らぬ態度だったのである。僕はこの家族は昔から嘘をつくことに慣れているんだという、当たり前のことを念を押すように確かめていた。母も父も同じように一言も娘の出版には触れないのであった」
(註1・原田康子は堤邦子と同じく1928年東京生まれの室蘭育ち、2009年没。「挽歌」は、同人雑誌「北海文学」に連載された恋愛小説。1956年に出版されるとベストセラーになった。今も新潮文庫で読める。註2・しかも邦子は著書に本名を使っていた。)

「フランス製、イギリス製となれば灰皿でも屑籠でも飛ぶように売れた時代である。それだけに金持ちの娘がフランスを流浪しているからといってそれが何だ、という文学の外での反発もあり、本の売れ行きにもかかわらず(二十万部ほど売れたという)、作品を取り巻く世の中の一部の空気は冷たかったと言えるだろう。
もし、なぜ自分が日本を離れなければならなかったかについて、主人公遥子が生きてきた背景やその中で作られた心の構造が描かれていれば、少なくとも文学作品としての反応は変わっていたのではないかと、僕は遅ればせに考えた」

というふうに、辻井喬は「流浪の人」を回顧しているけれども、その通りで、日本娘とフランス青年のうたかたの恋を描いたこの小説は、文学作品足り得る深みには達していない気がする。
原田康子の「挽歌」も今読めば相当に甘い恋愛小説であるが、それまでになかった小悪魔的なヒロインを創出したというだけでも時代的独創性が認められる。それでも「挽歌」のヒロインは、その頃世界的ベストセラーとなっていたサガンの「悲しみよこんにちは」の意地悪なヒロインを、異国的情緒漂う北海道に移し替えたのではないかと想いたくなるほど似通ったものがある。
そういう時に、同じ出版社から後追いの形で刊行された「流浪の人」には、はしばしにみずみずしさは認められても、つまるところ「挽歌」と「悲しみよこんにちは」を中和したような、二番、三番煎じの平凡な印象しか残らないのである(それにしても「幼い皮膚を擦り剥きながら成長した」兄と妹の書いた小説の題名が「彷徨」と「流浪」とは!)。

今時、たった一冊の小説を書いたきりの堤邦子という小説家がいたことなど、誰も覚えてはいないだろう。これ以後、エッセイ「パリ、女たちの日々」しか残していないのだから。しかし外国に居住して小説とエッセイを書き残した例は、堤邦子を以って嚆矢(こうし)とするのではなかろうか?
「こうして、最初の出版が成功はしたけれども一種のスキャンダルとして扱われ、作品として正当に評価されなかったという思いを彼女は持ったかもしれない。それなら、彼女の性格からしても、第二、第三の作品へと突き進むのではないかと期待もし、幾分恐れもしたのだけれども、パリから送られてくる手紙からは、なぜか書いている気配が少しずつ淡くなったのである。僕は日本から何らかの形で、もう書くなという圧力のようなものがかかったのではないかと気を廻したりしたけれど、その兆候はなかった」
「フランスにいると、日本語で小説を書くことに無理があるような気がしちゃったのよ」というのが邦子の答えだった。清二は七年ぶりにパリで邦子と再会し、二週間ほど滞在する間に邦子のいう意味が何となくわかる気がした。そしてこうも考えた。「最初の出版で独立宣言をすることができた結果、小説に対して以前のように情熱的になれなくなったのではないか」と。

小説も書かずに、清二が帰国を促してもそのままパリに居続けた邦子は何をしていたのか。
「六〇年代に入って高度成長を実現するには日本製品の企画、デザインがもうひとつインターナショナルにならなければいけないという主張が通産省のなかに起こってきて、その結果、百貨店がイタリア展とかフランス展などを開けるようになった。僕は早速〝フランス展〟を企画し、大手を振ってパリに行けるようになった。西武百貨店は後発で、少し前までラーメンを食べる時に寄るだけという意味で〝ラーメンデパート〟などと言われていたぐらいだったので、邦子を父には相談せず駐在部長に任命し、日本の百貨店で仕入部をパリに置いているのは西武だけと主張して、オテル・ド・ヴィルという百貨店に乗り込んだ。このデパートを選んだのは妹の調査の結果だった。父親には、百貨店の仕事を少し手伝ってもらっているとだけ話しておいた。その当時の僕にとってもパリは解放区であり、妹は亡命政権的存在であった」
折しも日本は、世界に類例のない高度経済成長期に突入し、大量消費時代を迎えつつあったのである。

「パリには邦子と同じように自分の家から家族のしがらみから、故国から、革命後の社会から独立しようとやってきた(漂泊者、亡命者などとその人の状況によって呼ばれていた)人たちがたくさんいた。・・・亡命者同士は多くの場合仲が良くなかった」
そういう中で「孤独な彼女の前に、幾人もの魅力的な男性が現れたことを僕は知っているが、パリに住んでから十年以上経ってから結婚したフランス人のジル・ネレを除いて、ほとんどがスラブ系の人間だったことは、単なる趣味の問題だったろうか」と、述べているのは意味深である。つまり、妹は妹なりに虐げられた人たちにシンパシーを寄せていたことに思い及んだのであろう。
「それにしても邦子が、懲りたはずの結婚をしたことは僕を驚かせた。『よく結婚する気になったね』という僕の感想を受けて、『結婚していた方が、この国では自由が大きいのよという言葉が返ってきた』その答えには結婚していた方が相手の男も思い違いをしないで深い関係になれる、という意味も含まれているようだった」

夫のジル・ネレはかつて特派員で東京に滞在していたこともあって、清二も面識があり、その派手なプレイボーイぶりも知っている男だった。結婚直後、パリに行った清二は妹夫婦のマンションに招かれた。「この戸棚(食器棚)はね、ここからこっちが私のもので、その反対側がジルのものになっているの。いざという時に、困ったり揉めたりしないように」と、邦子はジルのいる前で僕に説明した。
この後はこう書かれている。「二人の結婚は、愛し合った結果としての結婚ではなかったし、邦子は・・・献身するタイプではなかった。その方が生きていく上で便利だからという考えからもたらされたのだと僕にも理解できた。にもかかわらず僕は新居なりにどことなく華やいだ空気が漂っているのを哀しいと思った。その頃は日仏間の貿易も活発になり、西武百貨店のパリ駐在部長として数々のブランド(エルメスやイブ・サンローランなど)の代理権獲得にも手腕を見せた彼女は、多忙な毎日を送っていたから、僕は夕方になってジルだけ誘って食事をしに街へ出ることもあった」。
そして二人は本音を言い合い、互いを認め意気投合して乾杯を重ね、義兄弟の契りを交わした、と。

またこんなことも。「邦子は日本からやって来た女性を無原則に受け容れ、励ます姿勢を見せた。彼女が応援した女性のなかには女流画家もソプラノの歌手も某国の大統領夫人だった人もいた。邦子の応援を有り難いと思った女性ばかりではなかったところに、辛いところ、妹のお嬢さんぶりもあったのだけど」。
小説「闇夜遍歴」には、「パリ六街区にある久美子の家には・・・フランスの映画監督と結婚した日本の女優、オートクチュールの世界で頭角を現している日本人のデザイナーなどが集ってきた」ともあり、デヴィ夫人や岸恵子たちと接触があったことがうかがわれる。
ともかくも出奔後、邦子は異国の地パリに永住し、駐在渉外部長としてその手腕を発揮して、西武百貨店発展に多大なる貢献を果たしたのである。

「〈昨日、久美子女史ハカジノ法違反容疑ニヨリ逮捕サレマシタ。支払ヲ法人名義ノ小切手ニテ受ケタノガ原因ト思ワレマス。女史ハ、何者カノ作為二ヨルモノトノ声明ヲ出サレマシタ。法的ニハ当社二関係ナキ事ナガラ、社会的信用上マイナスト思ワレ、小職モ苦慮シテオリマス。ナオ、他二脱税容疑モアル模様〉というテレックスを、パリ駐在部長XXが打ってきたのは、一年前のことである。
彼女が三年ほど前に、フランス人の友達とカジノをはじめた時から、私が心配していた事が起ってしまったのだ。・・・久美子がカジノの資金作りに帰国した時、私は反対したが、決心を変えさせることが出来なかった。もともと、彼女は丸和不動産の創立者であった父、西垣浩造の性格を受け継いでいて、言い出すと相手の意見を聞き容れなかった。理屈を超えた執念が胸中に燃え盛ってしまっているようで、何が久美子をそのように熱中させたのかと訝(いぶか)りながら、『やるのは君の自由だが、それなら社と縁を切ってからにしてくれ』と私は宣言した。二十数年前にフランスに渡ってから、派手な恋愛の噂が絶えなかった彼女の身辺に、今度も男の影を想像しながら」

「いつもと同じ春」前半にこのように書かれているのも、ほぼ事実をなぞったものと思われる。
回顧録にも、南仏の「観光開発に外国企業として参加しカジノを経営したが、その運営が法に触れて(19)79年に逮捕されたのが躓(つまず)きの始まりだった。カジノでの支払いは現金か小切手でという法令を無視して、手形を受け取っていたという理由だった。
カジノは大きな利権だし、セゾンの理念とは合わないという僕の忠告を彼女は拒否し、『日本人はギャンブルというと、チビた雪駄(せった)を履いて目を血走らせている、馬券売り場や競輪場の光景を想像するでしょうけど、こちらでは社交場なのよ』と、自説を譲らず方針を変えなかった。
そういう経緯があっても、逮捕されたとなれば助けなければならない。幸い間もなく保釈になったが、彼女は外資が侵入してきたと考えた既成勢力の罠にかかったのだと言いながらも、撤退勧告は頑として受け付けなかった。六十を越した頃から、彼女の父親譲りとでも考えるしかない性格が目立つようになった」と、書かれているからだ。

その責任の一端は自分にもあったのではないかと、清二は自省する。
「そうなった理由の根本は、自分(註・邦子の考え方を指す)を疎外している日本のビジネス社会という観念だったように僕は思う。そして、僕の身勝手から長いこと気付かなかったのだが、彼女の頑固さは、僕が引退を彼女に打ち明けてからひどくなったのだ。
彼女は、唯一の肉親の役に立っているという考えから、パリ駐在部長として働き、五十社を超す有名ブランドの輸入代理権を獲得したり、兄のためにフランスの勲章を、と奔走したり、世界的なレジャー企業になった地中海クラブと西洋環境開発(註)との提携をまとめたりした。それなのに、その当の本人である兄が引退するとすれば、自分は何のために働いてきたのだろう、との問いが、逆に彼女を戦闘的にしたという観測も成立するのだ。これからは自分のために働くと決めてから、彼女は、ファッションのジャン・ルイ・シェレル社を買収したりしはじめたーそう考えれば、時期的には平仄(ひょうそく)が合ってしまう。
(註・清二が立ち上げた不動産デベロッパー事業会社。バブル崩壊後の2000年に巨額の負債を残して倒産する。)

僕の方は、引退を巡るいろいろな動きと、(19)94年頃から深刻になったバブル崩壊と消費の衰退への対応、まだ創業期にあったいくつかの会社の体制固めに追われていて、駐在部の梃(てこ)入れに動くことができない状態であった。その結果、彼女はパリ駐在部の解散、本人が手掛けた事業からの資金の引き揚げという事態に追い込まれた。
はらはらしながらも、僕の力ではどうにもならない点では、男女差別の壁にぶつかって進学の道が閉ざされるのを、何とか助けたいと思いながら、見守るしかなかった頃と同じ状態になってしまっていた。彼女は赤字続きの会社を創業者だったシェレルに返却するという契約書に、無念の思いで署名した直後に倒れたのである。
すべての予定を変えて、パリに行く用意をはじめた僕を追いかけるように、『今、息を引き取られました』という報せが入った。倒れてから五時間も経っていなかった。一度も意識は回復せず、そのために苦しむということもなかったらしい」

ずいぶんと長く引用したけれど、「叙情と闘争」中の〈妹、パリに死す〉の文章である。
堤邦子の死は、1997(平成9)年6月16日とある。69歳、邦子のパリ滞在は41年を数えていたことになる。葬儀は23日に小さな教会で行われ、それでも別れを惜しむフランス人の数は多かった、と述べられこう続く。
「彼女はボードレールやサルトルとボーヴォワール、モーパッサン、マルグリット・デュラスなど、多くの芸術家が眠るモンパルナスに、唯一人の日本生まれの女性として葬られた。それは、彼女が生涯に受けたたった一度の厚遇かもしれなかった。・・・葬儀の間も、僕はもし彼女が男と女が平等の機会に恵まれている社会に生まれていたら、どんな活躍ができただろう、などと考えていた。小学生の時の成績は僕なんかより遥かに良く、それも理数系が得意だったから、学者の道が開けたかもしれない。また、感じたことや考えを文字に移す力は豊かで、パリに住むようになって間もなく完成させた、唯一の長編小説の文章も艶を持っていたから、一時期、本人が作家を志望していたのも根拠のあることであったのだ。・・・」

妹への回想はまだまだ続くのであるが、この回顧録に邦子の死因は明記されていない。倒れた時、邦子に連れ合いがいたかどうかも不明である。つまり邦子に関する付帯的情報は何もないと言っていい。
ここまで辻井喬+堤清二回顧録「叙情と闘争」を中心に邦子の軌跡の概略を綴ってきた。ところが、「いつもと同じ春」には(この小説は、妹がカジノで逮捕され無罪釈放されるまでを時間軸に、主人公私の様々な回想をちりばめて構成されているのだが)、兄と妹の物語と併行して妹の生んだ二人の子供(姉と弟)のことが重要な伏線として語られているのである。
姉はロンドンで生活しており、弟は精神を患っている。再婚した林田悟郎(森田重郎)が二人の父親である。邦子に二人の子供がいたことは、「闇夜遍歴」にもそのように描かれているので、多分虚構ではないだろう(上の女の子には久美子の孫まで生まれていたことになっている)。
しかし〈妹、パリに死す〉のどこにも、その子供たちについての言及はない。もし本当に、邦子に子供がいたとしたら(どのような親子関係にあったのか、小説通りだったのか、全くそれとは違っていたのか想像もつかないけれど)、実母の葬儀に出席していなかったとは考えにくい。この場合も辻井喬は、現実の堤清二に関する私的部分を故意に書き残さなかった、ということだったのか。

葬儀への参列ということで付け足せば、「いつもと同じ春」では、父親が東京駅で倒れた時、久美子は偶然に百貨店関係の仕事で帰国していて、病床で看護をつづけ父の最期を看取ったと描かれている。
前章に「闇夜遍歴」での、その臨終の場面を引用しておいたけど、そこに久美子の姿は全くない。どちらが本当のことなのかと、(操が実母であるかどうか同様に)分からなくなってしまうのであるけど、たまたま「叙情と闘争」に事実が書かれていた。その文章。
「長い年月パリにいて、途中から勘当が解けて西武百貨店の駐在部長になった妹の邦子がたまたま日本に来ていた時だったのも虫が報せたのではないかと僕には思われた。彼女は父親のどうにもならない男女差別の一番の被害者と言えたが、大学へも行かせてもらえず、結婚もままならない状態を単身パリに出掛けることで打ち切り、結果としては父を見返したのだった。

それでいて、彼女と堤康次郎の間には不思議な愛情が通い合っているように僕には見えたから〈虫が報せた〉というようなことを考えもしたのである。
父の遺体を焼くのに、少し長い時間がかかっているような気が僕にはしたが、やがて頭蓋骨とあばら骨、腰骨、そして手足の大きな骨がばらばらになって焼却炉から引き出されたのを見た時、邦子は思わず、『ああ、お父さん』と声をあげ、僕はその声のなかに自分を散々苦しめた父親の消滅を悼む響きを聞いた」
母の臨終には、「闇夜遍歴」に久美子(邦子)は間に合わなかった、と描かれている。これは1979年のカジノ事件の被告だった邦子の裁判が長引いていたため、出国禁止措置にでもされていて、1984年の操の死に間に合わなかったということだろうか?
実父と娘の今生の別れにはテレパシーの啓示があったけど、養母と娘のそれには何らかの社会的制約が働いていた?というのも、あまりに穿(うが)ち過ぎであろうか。

最後に、もう一度〈妹、パリに死す〉から。
「妹が他界してしまったことで、僕が引退を躊躇する条件はなくなったのであった。そこでセゾン系のなかでもしっかりした業績をあげている企業の存続と引き換えに、創業者利潤を投げ出すというのが、金融機関との交渉のベースになったのである。
言い換えれば、各企業に対する貸し渋りや融資残高の引き剝(は)がしを防ぐために、個人の犠牲が必要だったのである。堤康次郎の雅号を取って、ずっと米荘閣(註)と呼ばれていたセゾン企業のゲストハウスを提供することになったのは、両親にまつわる記憶の場が消えることでもあったが、止むを得なかった。妹の死は、そうした勇気を僕に与えてくれたのである」
(註・麻布の屋敷の中心を成した米荘閣は、康次郎の出身地が滋賀の八木荘村だったことから文字って命名された。戦時中は外国要人向けの「大東亜迎賓館」として政府に借り上げられ、東条英機などが出入りしていた。章(3)冒頭に引用した、空襲を受けて焼け落ちた建物がこの米荘閣で、それを清二が再建した。昭和62〈1987〉年、このゲストハウスに竹下登、宮沢喜一、安倍晋太郎の宰相候補が集まり三者会議が開かれ、やがて首相(中曽根康弘)裁定により、後継に指名された竹下登はバブル期に頂点に上り詰め、昭和最後の総理大臣となった。)

バブル崩壊と合わせるように、不動産デベロッパー会社西洋環境開発の業績悪化が急速に表面化、セゾングループに債務負担が重くのしかかって経営を圧迫していく。その処理に、愛憎が激しく交錯した麻布広尾の屋敷を清二は手放した。
一説によると、堤清二はグループ経営悪化の責任を取って、私財百億を提供したといわれている(その大金も、五千億ともいわれる莫大な負債の前には焼け石に水でしかなかったようだが)。
参考までにその時代背景を簡単に叙しておくと、妹邦子の死去した平成9(1997)年に、当時の四大証券会社の一角で、ちょうどその年に創業百周年を迎えていた山一證券が自主廃業に追い込まれた(戦後最大規模の倒産であったといわれる)。また同じ年、北海道拓殖銀行が都市銀行として戦後初の経営破綻に陥り、翌年には日本長期信用銀行、日本債券信用銀行が経営に行き詰まり国有化された。金融大再編の始まりである。同じように日本興業銀行が富士銀行、第一勧業銀行に吸収される形で、現在のみずほ銀行となったのが平成12(2000)年であった。堤清二の経営引退は、いわゆるバブル崩壊後の「失われた十年」(もしくは二十年)と呼ばれる時代のの最中に行われたのである。

さらに時代をさかのぼれば、昭和から平成に代わったのが1989年1月、この年6月天安門事件が勃発、12月にはベルリンの壁が崩壊。中国の民主化、東西ドイツの統合がバブル崩壊を促したともいわれる。阪神淡路大震災及び地下鉄サリン事件の発生が1995年。その前年には大江健三郎が川端康成以来二十六年ぶりにノーベル文学賞を受賞していた。
「こうしてビジネスの世界を離れ、また身軽になってしまった時、僕にはもう、子供の頃から一緒だった身内は、一人もいなくなっていたのである」
1964年に37歳で父親と、1984年に57歳で母親と、1997年「幼い皮膚を擦り剥きながら成長した」たった一人の妹と死別した堤清二=辻井喬は、この時古希(70歳)を迎えていた。堤清二としての社会的役割はほぼ終えていたものの、辻井喬に関わる分野、すなわち詩、小説、評論、エッセイ、対談等の文学部門の全業績のおよそ半分を、この引退後に成し遂げるのである。


(以下、「彷徨の季節の中で」(7)につづく。)





 

自由人の系譜 辻井喬「彷徨の季節の中で」(5)

「彼が月子の喜寿の祝いをしたいと言い出した時、彼女は内心の喜びを押えて『私は厭ですよ、なんだかお婆さんみたいだもの』と辞退した。『それなら本を出していただいて、出版記念会というのはどうですか、僕も少し長い小説を書きましたから、その頃には本になると思います』
それが夏の初めで、月子はそれからせかれるように九冊目の歌集の編集にとりかかった。本の題名はそのなかの群作の名をとって『真澄鏡』と決めた」 
以上は、辻井喬の自伝三作目「闇夜遍歴」冒頭部分の一節から引いた。文中の彼が辻井喬(堤清二)で、月子が母の操である。長寿祝いは数え年で行なうのが慣例だとすれば、月子の喜寿(77歳)の祝いは昭和58(1983)年になろう。
彼の言う長い小説とは、自伝三部作の二作目「いつもと同じ春」のことであるし、確かにこの年、操の最後となった歌集「真澄鏡」も刊行されている。つまり事実通りである。

流通グループを率いる息子が帰宅しては夜な夜な詩人(や小説家)辻井喬に変身したように、母の操も歌人大伴道子という顔を隠し持っていたのである。
その操は、「彷徨の季節の中で」の母子三人が暮らす三鷹での冒頭場面にも、「母は源氏物語や、建礼門院右京太夫の歌集を愛読していて、自分も〈スバル〉という浪漫派の歌の雑誌に時々投稿していた。父が去ったあとの母は、落着いてふたたび自分の世界に戻り、私(病気で寝ている甫)の枕元で仕事(内職の縫物)をしていた」と描かれていた。
週に一度やってくる康次郎に内緒にしながら「スバル」社友となり、吉井勇を師と仰ぎ、大伴道子の匿名で投稿を繰り返しては、ひそかに「自分の世界」を取り戻していたのである。

操が「スバル」社友になったのは、昭和4(1929)年とあるので22歳の年になる。その前年に邦子が、前々年には清二が生まれていた(二人が操の実子であったならばのことだけれども)。したがって操の歌歴は古く、九冊目の歌集の時点でゆうに半世紀を超えていたのである(しかし「真澄鏡」が最後の歌集となった)。
操の長姉(?)雪子の夫、三菱の役員を務めていた義兄(荘素彦)の手引きにより、(義兄の友人だった)憧れの吉井勇との面談が実現し、吉井勇は操(大伴道子)の第二歌集「明窓」(1958年)に五首の序歌を贈ってくれた。そのうち二首が「闇夜遍歴」に紹介されているので転記する。
     うつし世に女(おみな)生れ道けはし君の歌見てふと思ふこと
     大いなる自然のなかに生きたまへ醜(しこ)の人の世歌に逃れて
周知のように吉井勇は、伯爵の家柄に生まれながらも歌の世界に放蕩を尽くし、いわば堤康次郎とは真逆の人生を送った人物である(康次郎の3歳上。この対面の二年後病没)。操の境遇を前もって義兄から聞いて同情していたのだろう、二首の歌調はそのことを如実に物語っている。

     君は世の風雲の児よむさし野のつゆの命のわれにふさわず
     明日の日は何を思ひて生きゆかむ夜更けてひとり思ひ煩ふ
こちらは操(大伴道子)の歌である。作歌生活四半世紀を経て昭和28(1953)年に極秘出版した第一歌集「静夜」に収載された三鷹時代の作品を辻井喬が「闇夜遍歴」序章に掲げたものであるが、この〈風雲の君〉が康次郎を指しているのはいうまでもあるまい。二首ともに囲われの身となって生きるしかなかった当時のやるせない心情がそのまま詠まれている。
このように「闇夜遍歴」という小説は、操の残した歌集を基軸に虚実二つの世界を行き来した母の生涯を再追認した物語であるのだが、それはしばしさておいて、この第一歌集「静夜」には、武蔵野(三鷹下連雀)での母子三人の生活を偲ばせる歌が数多く収められている。
     提灯をさげて草野にしのびゆくくつわ虫をば採るといふ子と
     いとせめて涙少なくあらしめと十二の吾子の行く末おもふ
     女てふいのちも壊れいまのこる骨にひゞけるかなしみばかり
     泣きわらひかなしき人の世にまじる事に耐へ得でひとり生くるも
     母上のおん哀れなりと子等泣けりわれはもすでに涙渇(か)れたり
     たまゆらを吾の見えねばもしやとて胸つかるゝよと子等言ふ哀れ
     母上よよくこそ耐へてと涙のむ子よかなしみは深きこそよし

「静夜」についてはエピソードがある。辻井喬の依頼で操の遺稿詩集「天の鳥船」を編纂した大岡信(註)に、かつて操が「歌集(「静夜」のこと)を出す費用にといって、清二がはじめての給料を私にぜんぶ出してくれたんですよ」と語ったいう。
「静夜」刊行は昭和28年なので、清二が衆議院議長秘書になった年である。ところが清二はこの事に関して、「親孝行のように聞こえるけれども、妹の出版の場合と同じく(註・このことは次章で触れる)、父親に対する異議申し立ての動機の方が大きかった」と述べている。母親への心配りよりも、文学方面に全く理解を示そうとしない(すなわちそれは母親や妹の気持ちを思いやろうともしない)父親への反抗心の方が強かったというのである。
(註・昭和6年静岡生まれ。東大卒。詩人、評論家。辻井喬の詩友。平成15年文化勲章受賞。)

大岡信は「天の鳥船」の解説に「静夜」から大量の歌を引例して、「これらの歌がいかなる説明にもまさって、一つの魂の赤裸な叫びと祈り、涙と誇り、不安と愛、絶望と憧憬、怒りと諦念をかたっている」と讃えているのにも、辻井喬は後年、異議を唱えた。「しかし、僕は身内であることによって、彼女の魂に叫びと祈りをあげさせている男に対しての感情が動いてしまい、それを乗り越えようとすれば、叫びの赤裸々な姿の前に立ち止まらざるを得なくなってしまう。辛ければ叫んでもいい、祈ってもいい、しかし冷たい言い方になるかもしれないが、作品にするためにはもう一回魂から発する光に屈折を与えるべきなのではないかと考えてしまう。そうしてその問題意識は、いつの間にか小説を書こうとする際の僕自身の葛藤そのものと絡まっている」(辻井喬「叙情と闘争」)。

そう述べて「彷徨の季節の中で」の執筆について、「父に死なれてみると、彼の生存中には自伝的な小説は書けないと思っていた考えの中に、いくつかの誤りがあったことが分かってきた。
書いたら怒られてひどいことになるだろうという恐さがなかったとは言えないが、それは書けないという状態の主要な原因ではないように思われ出したのだ。むしろ僕自身が書けない状態に落ち込んでいた気もした。父親を核に据えた家族に対して、それを客観化する姿勢と力が僕になかったのではないか。だから、ひどく突き放してしまって、血が通っていない人物像になったり、憤りが烈しくて筆が浮いてしまうという欠陥が見えてしまう恐れが、僕を表現の手前で立ち止まらせていたようなのだ」と当時を振り返っている。
母の作品の限界を見据えながら、それより数歩先を目指して辻井喬がきびしく自己を律して創作に取り組んだことがよくわかる文章である。それでいて、母の世界を認めていたのは「闇夜遍歴」に多数の歌を引用しているのでも瞭然であろう。

先に紹介した猪瀬直樹「ミカドの肖像」〈プリンスホテルの謎〉にも、ちょっと面白いエピソードが書かれている。
「日本が戦争に負けそうになっても、土地買いに走った男。無資本から借金経営でのしあがり、税金の支払いを極小にして資産をつくってきた男。・・・彼の晩年の執心は、軽井沢で冬季オリンピックを開催することにあった。・・・しかし、軽井沢での冬季オリンピックの夢を抱いたまま、堤康次郎は・・・昭和39年4月24日東京駅ホームで倒れ、二日後、心筋梗塞で死んだ。
堤康次郎は、東京駅で倒れる前日、次の歌を妻の操に示していた。
     うきことの尚この上につもれかし限りある身の力ためさん
この日、康次郎は、建築中の東京プリンスホテルを視察し、一部増設を指令して帰宅した。そのため、操は赤坂プリンスホテルの会議室で番頭たちと善後策を講じるべく、広尾の堤邸から出かけることになる。康次郎が、この和歌を綴ったのは、その矢先だった。

自伝(註・堤康次郎著「叱る」のこと。康次郎の死後出版された)のあとがきで、操はそのことをやや因縁めいたエピソードとして記述している。『〈(一部増設は)大変な難問題ですから、私の苦労が一つ増えました〉と申し上げたときの(略)あなたの和歌の応答の不思議さ。いつもなら『馬鹿』と一口大喝されるところでございます。何か今後へのご教訓をこの一首でされた思いでございます』
堤康次郎には、いわゆる歌心というものがなかった。しかし、西行の〈願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月のころ〉だけは、『たいていのものは幾度お教えしても覚えていただけないあなたなのに、これだけはいつも忘れずに覚えて』いたと操が回想している。そういう男が、死の前日にふと歌を詠んだ。そう錯覚した操は、異例のこととして印象深かったのだろう。しかし、この歌が江戸時代の儒者熊沢蕃山の作であることに、操は気づかなかった。
・・・〈限りある身の力ためさん〉というフレーズは、歌心のない康次郎にも、わかりやすかった。五反百姓がブルジョア階級に成り上がれるという幻想は、能力主義に対する全面的な信奉があって初めて可能である。能力主義は、康次郎に象徴される〈大衆〉の誕生と不可分なのだ」

このエピソードは、操がこっそり歌を作っていたことを、康次郎がそれまでに気付いていたことをも併せて語っているのであろうか。
和歌の歴史は古い。膨大な数の歌が残されている。そのすべてに精通するなんて、操ならずとも出来やしないであろう。それに蕃山(ばんざん)の歌はどこか求道的で何となく素人ぽい。見落としたとしても仕方あるまい。
ついでに付け加えておくと、(このことは既述したけれども)操は、この年の東京オリンピックに合わせて落成した東京プリンスホテルの初代支配人となった(義明の結婚披露宴会場となったホテルである)。また康次郎宿願の長野での冬季オリンピック開催は、平成10(1998)年に西武王国承継者義明が実現した。

むろんのこと、康次郎死去の場面は「闇夜遍歴」にも描かれている。
「小田村大助(康次郎)が死んだ日、月子は涙を見せなかった。医師が黙礼したのを受けて、彼女は確かめるように夫の胸に耳をつけ、もう消えた心臓の鼓動を追う仕草を見せた。十数秒の後に顔をあげると、力なく垂れた小田村大助の両手を持上げて合掌の形を造り、のろのろと布団を掛けた。その作業を終えると、月子は部屋の隅に置いてある椅子まで歩いていって腰を下した。総ては無言で行われた。急を聞いて馳けつけた蓮見志乃(石塚恒子)は、恐いものを見るように病室の反対側の隅から小田村大助を眺めて、声を立てずに泣いていた。彼女と二人の男の子(義明と弟)、・・・(周囲の)泣き声とは無縁であるような静けさが、月子の周辺に漂っていた。
由雄(清二)が注目していると、部屋のなかの何も見ていない月子の顔が次第に明るくなっていった。萎えていた風船に新しい空気が注入されてゆくように、五十七歳の彼女の顔から皺が消え、由雄がはじめて見るような若々しい表情が漲ってきた。彼女は周囲には無頓着であった」

「母親の顔がにわかに輝きはじめたのは何故だったのだろう。どんなに力を持っていても、人間は死ぬのだという当然のことに心を奪われていた由雄は、母親の光り輝く顔に胸を衝かれた。狼狽して右往左往する島月正二郎(長女淑子の夫)や林田悟郎(妹邦子の元夫)、本州地所、本州ゴム(いずれも西武の会社を指す)の幹部達の様子に気付いた時、由雄は十数年前に書いた小田村家への絶縁状を思い出した。自分は今日から完全に独立出来るのだと考えたのは、月子の表情の変化の連鎖反応であった。
由雄はただ自由になっただけであったが、月子の開放感は深く喪失の感情に彩られていたのである」

このあと、月子の歌二首が添えられて次のようにつづく。
     耐へて来し心いまひろびろし部屋にひとりを見据えて棲めり
     誰れよりも激しき歌をうたひ来しその筆いづへに置くべきものか
「亡夫を想う月子の歌は、死の直後の妖しい光が拭い去られた美しさに満ちて来たのである。蓮見志乃は、通夜の晩、喪主を彼女の上の男の子に決めたあとで、月子と二人だけになると『これからは何事もお義姉さまの御指図で良いようにお取計い下さいまし。私はぼんやりしていますし、子供もまだ大学を出たばかりですので由雄さんにも助けていただきませんと』と挨拶した。
由雄が家督を相続するのを辞退したので、月子の養子になっていた蓮見志乃の上の子が嫡子になったのである。由雄の主張は月子にとっても、その方が潔い態度だと納得のいくことであった。翌日の親族会議で、島月正二郎と林田悟郎は戸惑いと安堵の混った複雑な表情を見せて由雄の意見を聞いた。遺産の分配に心を奪われていた彼等は、まず共同して由雄を押えようと相談していたのであったから。由雄の方は、かつて書いたー小田村の家は継がない、遺された財産は何も貰いたくないーという文章はこういう時にこそ守らなければならない、それは若い頃の自分への証しだ、と心に決めていた。と同時にそれはまた父親に対する最後の抵抗だったのである。

小田村大助の墓は、自分で計画して造った鎌倉の公園墓地に置かれた。残された者が、ピクニックに行く気分で墓詣りができるようにというのが、彼の発想であった。その一番高い場所に、黒の御影石を敷きつめ、人々はそれを〝土地持ちの帝王の墓〟と呼んだ。戒名は清浄院釈大信士、享年七十五歳であった」
「闇夜遍歴」は、自伝とはいえフィクションも多く混じっていようが、この康次郎死去に関わる一連の文章などは事実に近いのではなかろうか。
余分なことながら、帝王の墓についてはそれ以後、ピクニック気分どころか、西武グループ各社の輪番制で365日1日も欠かさず、墓地に建てた仮小屋に課長以上の幹部社員二、三人ずつが、泊り込んで墓守りに当ったとの信じられないような話が伝わっている。康次郎を慕う古参社員によって始められたのが慣習となったのだという(義明の逮捕まで続いていたのだと思われる。ただし清二の流通グループは不参加)。

さて、そろそろ康次郎の死を見送った二人の女、堤操と石塚恒子の死について触れなければならない。
この文章初っ端に記したごとく、「由雄が喜寿の祝いをしたいと言ってきたのを断ったところから、親子(月子と由雄)で共同の出版記念会を催すことになった」のに加えて、ちょうど「巴里在住の娘久美子(邦子のこと)の『パリ・女たちの日々』が文化出版局から上梓され」ることになったので(註)、急遽、親子三人の名目に変更して邦子不在のまま、「彼女(月子)や由雄の親しい作家や評論家、音楽家や絵かきが集まっ」て、出版記念会が開催されたのは「月子の誕生日の11月23日」であった。月子(大伴道子)は短歌同人誌「紫珠」を主催していたので、同人の編集委員も全員出席していた、とある。
(註・堤邦子著「パリ、女たちの日々」は、叙述通り昭和58年9月に文化出版局から刊行されている。)

「彼女にとっては、集まった総ての人と心を開いて話し合える会合は、ひさしぶりのことであった。異腹の二人の男の子達が、折よく揃って出席してくれたのも嬉しかった。彼等の顔を見ると、自分が小田村の家の未亡人としての役割を果している実感が湧いて来た。『家族が合同で出版記念会をするのは珍しいですね』という来客の率直な感想は月子を喜ばせた。育て方を褒められているような気がしたのである。
由雄が、『今日の会は実は母の喜寿の祝いでして、それを本人が喜ばないものですから』と経過と趣旨を打明ける短い挨拶をした。彼女は実際よりも十五、六歳は若く見えたから、由雄の話は冗談のような楽しい効果をあげたのである」
この叙述から義明兄弟(実際は三人だが、一人はこの時期カナダにいた)も出席していたことが推察できる。義明の母恒子も美人だったが、操はひときわ目立つ容貌の持ち主だったようだ。
大岡信も、西武デパートの催事場ではじめて目にした五十代の操について、「彼女が信じられないほど若々しい美貌の人であることに驚いた。その日のことはほかには何一つ記憶にない」と、「天の鳥船」解説にわざわざ記している(ほどだ)。

堤操の人生に終幕が下ろされたのは、この宴より一年後であった。「手術をすることになっても、月子は自分が死病に罹っているとは思わなかった。結核になったことのある者は癌にはならないと信じていたからである」。病名は胃癌であったが、操には胃潰瘍の手術と告げていた。
一縷(いちる)の望みを託した手術は短時間で終わった。「砂利を敷き詰めたよう」に癌細胞が拡がっていて、手を付けられなかったのである。
     思ひ重ねて咲きたる花かかげ清く足摺野路菊聴くや波音
術後のこの歌が絶筆となった。足摺野路菊については、由雄が月子に喜寿祝いの相談を持ちかけた「闇夜遍歴」冒頭場面に次のように描かれている。

「晩にはその会合(合同出版記念会)がある日の朝、彼女はいつもより早めに起きて庭に出た。池に降りる南向きの斜面に菊が眩いばかりに咲いている。たくさんの白い花をつけた茎が垂れて、腐植土を覆い隠すように拡り、朝日を受けて何か物言いたげな風情である。かたわらに〝足摺野路菊〟と名刺大の札が挿してあるのは、中学校に通うようになった由雄の子が植物の名を覚えるようにと彼女が書いたものだ。いつの間にこんな大きな株になったのかと月子は足を止めた。菊は鮮やかに、誇らしげで、それでいて何処となく淋しげである。眺めていると、朝なのに風が吹いてきて欅(けやき)の葉が一斉に花の上に落ちかかった。細かい黄ばんだ葉が、思い思いの散り方で身を翻したり、透明な空気に遊んだりして視界を横切った。明るい朝だ、と月子は思った」

この印象的な描写は、「闇夜遍歴」エピグラムに使われているリルケ(註)の詩とも対応する。その詩は、
     木の葉が落ちる  木の葉が落ちる
     まるで遠くから降るように
     大空で  いくつものはるかな庭が枯れたかのように
     木の葉が落ちる
     拒む身ぶりで  ひるがえり落ちる
というものだ。欅の葉が足摺野路菊の花の上に散る様は、この詩と相まってあたかも彼女の死を愛惜しているかのようである(小説ラストで同じ情景が繰り返し叙述され、母の物語は幕を閉じる)。
(註・リルケはオーストラリアの詩人、作家。1875年〜1926年、51歳没。)

気を利かせて月子の好きな足摺野路菊を病室に持参したのは、由雄の妻和子(清二の再婚相手麻子)である。上文の中学生になった由雄の子とあるのは、麻子との間にできた次男で、前妻(素子)の生んだ長男とともに、清二の二人の息子も異腹の兄弟となったのである。
「明後日は手術だと決った晩、最終検査のため入院していた病院から外出許可を貰って今度は由雄と和子、それにもう大学を卒業して本州食品にかよっている上の孫と、和子が生んで中学生になった下の孫の二人を呼んで月子は食卓を囲んだ」
親子三代水入らずの最後の晩餐であった。場を盛り上げる楽しい語らいの後、「由雄さんは忙しいから、病院の連絡はあなたにたのむわよ」と、月子は上の孫に声をかけた。生母とは別れて育った長男であったが、立派に成人したと彼の様子を眺めて月子は嬉しかった、と描かれている。康次郎のいない家庭は円満だったのである(註)。
この席で大岡信に依頼した詩集の題名を「天の鳥船」にするつもりだと、月子は由雄に打ち明けている。
(註・「彷徨の季節の中で」には、「麻布には父の家族は存在したが、私のための家庭はなかった」とか「父にとって家族はあるが、私達には家庭がないということであった」と、二度も主人公甫に言わしめている。)

「その日の夕方から、月子は深い昏睡に陥った。枕元に座っている由雄は、時々月子が何か言いたげに口を動かすのを見た。・・・彼女はせわしない呼吸をつづけていた。看護婦が入って来て血圧を計り、ちらっと時計を見てあわただしく出ていった。『お呼びになる方がありましたら、至急、ご連絡下さい』と戻って来て言った。医師が現れ、心電図のコードが月子の腕や胸に繋がれた。ブラウン管に現れる鼓動の波が次第に低く間遠になっていった」
堤操こと小田島月子の臨終の描写である。昭和59(1984)年11月17日のことである。堤操の死は「七十七回目の誕生日の六日前であった」。堤清二57歳、偶然にも操が康次郎を看取った年齢と同じであった。

「天の鳥船」解説文に大岡信は、やはり上記の足摺野路菊の歌を引いて、簡潔に大伴道子の死を悼んでいる。
「足摺野路菊は堤邸の庭の一隅に植えられている可憐な野菊の一種である。病床でその花を思いえがきながら、〈聴くや波音〉とよびかけた時、彼女はすでに、迫ってくる死の波音を耳にしていたのかもしれない。一緒にお聴き、と可憐な花によびかけていたのかもしれない。彼女は死に望んで、葬儀はできるだけ簡素なものにするよう言い遺したときく。実際、自邸で行われた通夜も告別式も、簡素そのものだった。そして私は、この小文を書くことによって、私が知っていた大伴道子という歌人に、やっと私の香華をたむけることができたような気がする」(1985年1月記)
躊躇する操を説き伏せて生まれた詩集は、思いがけなくも母への手向(たむ)けとなったのである(註)。
(註・この詩集とは別に清二は、このあと母の全集「大伴道子文藻集成」全六巻を文化出版局から出して追悼した。)

一つ蛇足を加えれば「暗夜遍歴」は、新潮文庫廃版後2007年に講談社文芸文庫となって再刊された。それに「著者から読者へ」という新たな添え書きがある。
「僕の母は一九八四年、夫の死後二十年経って他界した。もっとも素朴な願いとしては、少なくとも母が夫の極道で苦しんだ年月だけは一人で自由に生きてもらいたいと僕は考えていた。そのためには九十一歳まで生きてもらわなければならないのだが、それがそれほど困難ではない長寿社会になっていたのである。結局その願いは果せなかったのだけれども」
この考えは、小説中でも母に面と向かって述べられ、即座に母から打ち消されているのであるが。それほどに辻井喬の母に対する憐憫(れんびん)の情が深かったのであろう(また、この発想は、そのまま「虹の岬」での主人公川田順が妻俊子と共に過ごすべき長い歳月を思いやる場面と重なる)。

「新盆に集った人達と相談して、由雄は月子の墓を小田村大助の近くに作ることに決めた。同じ墓であれば気詰りだろうし、彼も母親を小田村大助からは離しておきたかったのである。かといって、全く別の場所であれば淋しいに違いない。気がむけば会いに行ける場所として、・・・鎌倉の墓所の一角を提案した。小田村大助の墓の斜め下に位置して、遠くに相模湾を望む場所である。同時に、月子の自由を確保する証しとして歌碑を建てたい、と話した。・・・
     なきやすくなりし心をいたはりて山に来し日よ山に雪ふる
雪の日、この歌碑は月子の代りに此処に佇立しているのだと思われた」

これより前、闘病中の月子を伝える次の記述がある。
「毎日、月子は思い出に浮ぶ人の記憶を少しづつ由雄に語った。小田村大助の話をする時だけは、由雄の胸中を慮って表現を選ぶ心が動いた。自分がいるのに、貝塚市子(康次郎の二番目の妻、川崎文)の籍を入れた経緯を話した日、由雄は『そうだったんですか。でも大将は彼なりにその頃大変だったんじゃないですか。やはり、お母さんのことを本当は一番大事に考えていたんだと思いますよ』と意見を述べたが、そう言われてみると月子は急に不愉快になった。私の胸中がよく分っていないから、そんな小賢しい言葉を吐けるのだ、由雄もいつの間にか俗物になった、と落胆して横をむいた。病室にしばらく無言の時が流れた。月子と小田村大助の関係は、どんな言葉で解説しても不正確になって、彼女を不快にさせる毒と美徳を備えていたのであった」

康次郎と文の結婚は大正4年だとされているので、その時操はわずか8歳のはずである。アレ?と思って小説前半を読み返すと、「月子(18歳)を得た時、小田村大助は三十六であった。すでに衆議院議員になっていた彼」にとって「予想外の出来事は、貝塚市子が彼女の存在に気付き、憤慨して執拗に入籍を要求しはじめたことであった。それまで彼女は男女両性の平等を唱えて、入籍によって姓が変ることに、どちらかといえば消極的であったのである」と書かれてあったのを忘れていたのである。
これは事実か否か?またこの後にはこう書かれる。
「やがて月子は男の子を生んだ。・・・二番目の子の久美子(邦子)も生れて・・・石女であった市子は顔を合せると従来にも増して入籍を迫るようになった。止むを得ず婚姻届に印を押した」とあり、「晩年になってこの時のことを月子は、『その程度の人かと分ったから、もう私は何も言わなかったのよ。でも、それからというもの、私は決して心を開くことはなかったわ』と由雄に語っ」ている。
とするなら、康次郎と文の入籍は(邦子の生まれた)昭和3年以降ということに?(しかし、いくらなんでもこれは小説上の虚構であろう)。

そして由雄は左翼運動に挫折した体験に引き寄せて、その時の貝塚市子の身の上を思いやるのである。
「相手(小田村大助)を非難しようとすれば、天に向って唾するように、それは自分(市子)にかかってしまう。どうしてあんな男と、と思えば、そんな男を愛した愚かさが浮彫になる。
最初の結婚に失敗した由雄には、貝塚市子が持てあましたであろう、どこへもやり場のない腹立たしさが他人事とは思えず、母親(月子)には言えないが、もしかしたら市子の方が小田村大助より上質の人間だったのではないかと考えたりしたのである」
「長い戦争のなかで事業を発展させて来た小田村大助の立場は、いつの間にか彼が政界に出た頃とは似ても似つかないものになっていた。・・・彼女(市子)の脳裏をゆき来する想いが、かつて自分達が理想とか思想と呼んでいたものが、結局虚しい幻影に過ぎなかったという感慨であったとしても不思議ではない。そのなかから聞こえてくるのは、老いが、静かに足下を濡らす音であったろう」

それにもまして重要な問題は、清二と邦子の出生のことである。操が二人の本当の母親ではないのではないかと、ほとんど確定的に「彷徨の季節の中で」で描かれていたのとは対照的に、「闇夜遍歴」では上記のようにあっさりと月子の生んだ子供とされている。病床の母の枕元に付き添いながら、由雄(現実の堤清二)はいったいこの問題とどう向きあっていたのだろうか?
貝塚市子の入籍に関わることが創りごとめいているのに対して、出生の件は操が実母ではないという真実を逆にぼかしているのでは、と想えて仕方ないのであるが。自分も妹も母の子ではないという出生の秘密が確信として作者に想起されていなければ、主人公の父親の非人間的放縦さを強調したいがためだとしても、母と子という人間の根幹の絆を断ち切るようなことを、どうしてわざわざ処女作「彷徨の季節の中で」に描かねばならなかったであろうか(一転、自伝最終作「父の肖像」では母親が別に存在することになっている)。

操の死から約四半世紀後の平成21(2009)年、辻井喬は前述「辻井喬+堤清二回顧録 叙情と闘争」(中央公論新社刊)を著した。そのなかに〈母の死〉及び〈歌人 大伴道子〉と題する二つの文章を載せている。
そこに書かれていることは「闇夜遍歴」の内容と大差はない。つまり、小説はほぼ事実をなぞっている。操には半年ごとの定期検診をしてほしい、と言ってあったが、母はそれを面倒臭がって一年半も怠っていた。妹のいるパリへ行ったり、主催する短歌同人誌の会合などの母自身の多忙と清二の代わりに地方の店のオープンセレモニーや企画美術展のテープカットや挨拶に出てくれたりして、検診がおろそかにされていた間に病状(胃癌)は悪化し、すでに手遅れになっていたと。そして〈母の死〉はこう結ばれている。

「僕は、聞き出せるうちに母の子供の頃の体験などを聞いておかなければ、と急(せ)き立てられるような気持ちになった。母が死ぬということは、彼女が抱えている思い出が完全に消えてしまうということなのだから。
覚悟の時間が与えられていたからだろう、母が息を引き取った時、僕はこれで何をしても親不孝にはならないという、妙なことを考えた。親の死は、悲しみと共に一種の安堵をもたらし、同時に、自分が生きている者の最前列に立たされてしまった、という意識を与えるものであることを知った」
これは辻井喬81歳の文章だと思われる。さてこの文章の、「何をしても親不孝にはならない」という言葉をキーワードに、やはり清二(と邦子)は操の実子ではなかったのではないかと憶測するのだが・・・。
「覚悟の時間」云々と断り書きがあるものの、それが即「何をしても親不孝にはならない」との言葉の間には、何の起結も整合性もないように思えるからである。それこそ「妙なこと」でしかない。

母の死は悲しみと同時に、自己抑制を強いていた母への孝心からの解放を辻井喬にもたらしたのではなかったか。つまり、実母でないと知ったがゆえにつきまとって離れなかった無意識の(あるいは意識的な)〝遠慮心〟からの解放感を。すなわちそれが親の死がもたらした「一種の安堵」の正体だったのでは?
そもそも振り返ってみて、若き辻井喬(堤清二)が父親に反逆を重ね、共産党に入党して左翼活動に浸り、親の反対を押し切って結婚したりしているのは、母への「親不孝」とは感じていなかったのだろうか?そんなことを考えたりしていると、やはり〈母の死〉の一文は、「妙なこと」にしか思えないのであるが・・・。
それとともに、この時母から聞いたのは、果して「母の子供の頃の体験など」だけであったのだろうか。「など」の中にはどういう内容が含まれていたのだろう?(しかし、この詮索そのものがそれこそ妙なものでしかないのか)。

もう一つ〈母の死〉には、必死に検査を勧める清二に操は、「(体調不良は)ちょっとした食べ合わせだと思うのよ。月末にカナダに行く予定があるから、それを終えたら検査しますよ」と言ってなだめた。操のカナダ行きの理由は、このように説明されている。
「堤康次郎が残した家族の構成はかなり複雑であったが、その中で母の系列には僕と妹の邦子とがいて、それとは違う系列には男ばかり三人の子供がいた。父親の死後、そちらの長男が家督を継いだのだが、彼は猜疑心が父親譲りで強く、出来のいい二人の弟をことごとく圧迫し、末弟は兄の抑圧を避けてカナダのトロントでホテルの経営を見ていた。僕の母は、戸籍上も妻になっていたので、系列は違うのだが、その弟たちのことも気に掛けねばならない立場に立たされていたのである。彼女のカナダ行きはその末弟を励ますのが第一の目的であった」
しかし、検査の結果は最悪だったので、カナダ行きは中止になった。
なお操が入院して死去した東京女子医科大学病院は、清二が生まれた病院だったというのも奇しき縁(えにし)であったか。

石塚恒子の死については、恒子の三人の息子たちも(物書きでもないので今のところは)何も書き残してはいないようだ。頼りの辻井喬の著作にも読んだ限りではなかった。例の中嶋忠三郎がほんのちょっぴり触れているだけである(後述)。仕方なく西武関連本を可能な限り読み漁っていたら、桐山秀樹「プリンスの墓標」(2005年新潮社刊)に記述があった(この本にも〈堤義明 怨念の家系〉と、おどろおどろしい副題が付けられている)。
「1984年(昭和59年)11月23日の昼、赤坂プリンスホテル別館の料亭〈弁慶橋・清水〉で義明と懐石料理の昼食を共にしている最中に恒子は意識を失う。救急車で慈恵医大病院に運ばれたものの、二日後の25日、〈くも膜下出血〉で死去した。関係者の証言では、康弘、猶二らと義明の血を分けた兄弟の対立が続き、それが母・恒子にとって大きな心労になったとも言われている。ともあれ、赤坂プリンスホテルは、堤義明にとって父と実母を共に亡くすきっかけを作る〈館〉となった」

二十年前のその日、康次郎も赤坂プリンスホテル(註)での「堤を囲む都会議員の会」に出席して、料亭「弁慶橋・清水」で議員たちと昼食をとりながら懇談した後、恒子同伴で熱海の別荘に向かう途中の東京駅で、突如心筋梗塞をおこし帰らぬ人となっていたのである。
「恒子の葬儀と告別式は芝・僧上寺で行われ、八千名の会葬者が集まった。その後、石塚恒子は郷里である新潟県安田町の大医山瑠璃光院に葬られた。ここでようやく〈堤恒子〉と名乗ることを許されることになるのである」
今一度、さかのぼって堤操の命日を確認して欲しい。互いに康次郎の子を成して(清二と邦子が操の実子と想定して)表面上は仲良く見せていても、その実、決して心を許してはいなかったであろう二人の女人は、わずか一週間の間に相次いで旅立ったのである(しかも恒子が倒れたその日は、操の誕生日である!)。恒子は操より六歳下だったのだから71歳であったと思われる(義明は50歳)。
(註・赤坂プリンスホテルは2016年の昨夏、東京ガーデンテラス紀尾井町に生まれ変わった。)

桐山秀樹は「恒子の大きな心労」について義明の下の弟猶ニの談話を引いて次のように説明している。
「僕が手掛けたカナダ・トロントのプリンスホテルの経営立て直しに行けと言われた時、豊島園の兄(康弘)が心配して〈今のうちに分家してもらった方がいいんじゃないか。俺が一緒に話をしてやる〉と第二夫人を住まわしていた荻窪の池畔亭に連れていってくれたのです。そこで康弘が〈自分は豊島園、弟は高輪プリンスホテルでどうですか〉と言った途端、ガーンと爆発して、そばにあった饅頭を〈食べろ、食べろ〉と頭を押えつけて僕の口に突っ込んだのです。もう口を聞くなということなのでしょう」
康弘と猶ニは兄に口答えをすると、その場で康次郎から殴られるという絶対服従の教育で躾(しつけ)られてきたのだという。

饅頭事件の後、猶ニはカナダへ行った。その「猶ニの処遇を巡って、義明が唯一逆らえない実母の石塚恒子が直接、説得することにな」り、上記の会食がセットされたようだ。向かい合って昼食をとりながら、「猶ニの話題になって恒子が〈今のままではあんまりよ。プリンスホテルの社長にでもしてあげたら〉と言ったところ、義明は激怒し〈余計な口出しはするな〉と言った。その言葉に恒子はショックを受け、〈寒い、寒い〉と言ってその場に倒れこみ、二日後にくも膜下出血で息を引き取った」というのが、関係者の証言のようだ。
「うちのお袋は、非常に物静かで、興奮する人ではありませんでした。それが興奮した結果くも膜下出血になってしまった。前会長(義明のこと)がお袋を怒らせたのか、興奮させたのか。いずれにせよ、なぜそうなったんだという悔いはありますね。まあ、その場にはお袋と前会長の二人しかいませんでしたから、真相は分かりませんが・・・」

操のカナダ行きもこれで納得できるであろう。兄弟の中で最も優秀だといわれた猶ニに、義明が病的に嫉妬してカナダへ追いやったのだともいわれている。操は自分の検査を引き延ばして、事態の収拾に動こうとしたのであった。それを知っ(てい)た恒子も操の葬儀が済んで、じっとしてはいられなくなって義明を諌(いさ)めるつもりの会食だったのだろう(猶ニは結局、異母兄清二の仕事を手伝うことになる)。
上文に「第二夫人云々」とあるのは、義明の愛人がそこに住んでいたという意味である。桐山秀樹の「プリンスの墓標」では、かなり大ぴらに父康次郎に負けず劣らずの義明の女性関係なども書き込まれているのである。だから、「堤義明 怨念の家系」なんて副題が付されているのであろうが、それらをここに一つ一つ述べるゆとりはないし、そのつもりも元々ない。

が、しかし、独裁者となった兄義明と訣別した、康弘の次の述懐をどのように解釈したらよいのであろうか。「肉親には〈吝嗇〉(りんしょく)を徹底する一方で、義明は自ら関係する女性には徹底的に甘い」と関係する女性への厚遇の実例を記した後、桐山秀樹は次のように続けているのだ。
「〈あの男が、女性にケチケチしないのは、そこに安らぎや安心感を覚えるからです〉と康弘は言う。康弘は兄・義明がとる同じ肉親とは思えぬ異常な言動に、生前、母・恒子に対して、こう詰めよったことがあるという。〈母さん。あの男は本当に僕らの兄弟なの。母さんの子供なの〉
名前からも疑問を感じると、康弘は語る。〈私の名前の康弘は、父親の康次郎から一字もらったものです。猶ニも祖父の直次郎(註)から一字を取りました。その〝次〟という字を間違えて〝ニ〟と申請したというのですが、それもおかしな話です。何より、三男なのに何故〝ニ〟なのか〉
義明が自分たち兄弟の長男であることに対して、疑念を捨て去れなかったという」
確かに義明だけ名前の由来がはっきりしない(この事実をどう捉えたらいいのだろうか)。恒子は康弘に何と答えたのか?ちなみに義明(1934年生まれ)、康弘(1938年)、猶ニ(1942年)の三兄弟は、それぞれきっかり四歳違いである。
(註・康次郎の父親、猶次郎の間違いであると思われる。)

最後に、再び中嶋忠三郎の記述を引いて締めくくろう。
操の通夜の席で「操夫人のお墓は、どこに建てるのかな、大将のお墓にするのかな」ということがささやかれた。「それは良くないですね。傍に建てるべきではありませんよ。操夫人のお墓を傍に建てるとなると、同じように貢献された恒子夫人のお墓も傍に置かなければならなくなる。霊園内に建てるとしても、少し離れた場所に建てるべきですね」と中嶋は反論。その中嶋と上記清二の意見は不思議と一致している。「操夫人のお墓は、結局、堤のお墓から少し離れた所に建てられた」。
「操夫人が亡くなられて十日も経たぬうちに、今度は恒子夫人が後を追うように亡くなられた。こちらは、操夫人の傍というわけにはいかない。結局、新潟の郷里の墓地に埋葬されることになった。この件については義明の弟康弘が随分骨を折ったという。東京での葬儀、告別式には、新潟からもお坊さんが上京して参加され、芝の増上寺で盛大に行われた。私は、あの世で、両夫人が、堤の直ぐ傍で相争わずに済んで良かったな、とホッとしたのであった」

大将(御大)の尻拭いばかりさせられていた中嶋忠三郎にとって、「表向き、バランスを保ってはいたが、妻妾間の憎悪、女同士の怨念というものには、実に恐ろしいものがあった。総身に身の毛のよだつようなことに出くわしたことも、度々あった」としても、文夫人、主君康次郎、操夫人、恒子夫人を順繰りに見送ることになったのは、忠臣中嶋忠三郎にとって深い開放感と感慨のうちに一抹の寂しさをも、同時にもたらしたのではなかったか。辻井喬が母親の死に感じた解放感とは違った意味で。


(以下、「彷徨の季節の中で」(6)につづく。)
     



 

自由人の系譜 辻井喬「彷徨の季節の中で」(4)

「彼の秘書就任を待っていたかのように、議長が正妻でない女を連れて宮中に参内した、という噂が拡った。対応を誤れば、由々しい政治問題になりかねない困難が、小田村大助議長を襲ったのである。
『貝塚市子の仲間が言い出したに違いない』小田村は公職に就いたために、事業を進める際のように、腕力で捩じ伏せることが不可能な敵が現れたことに、遣り場のない鬱憤を見せて呟いた。四角い顎の張った顔が、珍しく苦渋に彩られて、感情を爆発させる対象を探している。
敗戦の直前に珍しく訪ねて以来、貝塚市子とは更に疎遠になっていた。病気のこともあったし、占領軍の民主化政策が貝塚市子達を主役として舞台に乗せるほどでもないと分って、ほとんど忘れたような存在であったから、思い出したくない過去が、急に顔を出したような忌々(いまいま)しさに小田村は捉えられた。
『六条御息所がいるのね』月子はつとめて軽く(私はそんなこと気にもしていませんよ)と報(しら)せるような、明るい表情を作り、源氏物語の生霊の名を引用して応答した。私が耐えているのにかまけて、大事な問題をなおざりにしておいた罰だわ、と月子は言いたかったのだ」

辻井喬の自伝三作目である母の物語「闇夜遍歴」から引用した。小田村大助が堤康次郎、貝塚市子が康次郎の二人目の妻堤(川崎)文、月子が康次郎の内妻青山操である。冒頭の彼が堤清二(小説名由雄)である。
これは昭和28年に現実に起きた事件で、康次郎は宮中での議長就任認証式に操を随伴したのである。そのことが洩れ伝わって婦人運動家達が問題視したのであった。別居しているとはいえ、康次郎には歴とした正妻がいたのだから、康次郎の失策であった。
この危機を収束した一人が、私設秘書になったばかりの清二だった。「闇夜遍歴」のその描写。

「会社から国会に連れて来た秘書は、こういう問題に経験がなく大将への遠慮や恐れもあって狼狽するばかりであった。小田村大助は無言のまま由雄を見た。彼は父親に試されているのを感じた。革新的な団体と議論し交渉できるのは病みあがりの由雄しかなく、小田村はそのことを知っているのだと彼は直感した。期待されている役割を果すのが、世の中に出た者の務めなのだ。由雄は父親の目のなかに世間を見た。
『僕が交渉してみましょうか』と彼は低い声で言った。堰き止めていた仕切りのようなものが壊れ、濁った水が体内を静かに浸して来た。何だろう、どうしてこうなったんだろう。由雄はじっと内側に目を向けながら、衆議院議長室の大きな革張りの椅子の前に立っていた。小田村大助は細めた目の奥に相手を試す光を隠して『そうか、まあやってみてくれるか』といくらかの躊躇を語尾に漂わせて依頼した」

学生の分際でありながら堤家(父親)との義絶を宣言し、共産党に入党していた息子の協力を心の片隅で待ち受けてはいたものの、全幅の信頼がおけずに半信半疑で交渉を任せざるを得ない小田村大助。父親の意をいち早く読み取り、心ならずもそれに応えざるを得ない立場の由雄。互いの思惑が交錯して緊迫の場面である。
どのように由雄が解決したのかが、この後簡潔に述べられている。
「婦人団体との交渉の結果、反省の実を示す適切な慰謝料を支払えば、もう済んだことであるし、これ以上の追求はしないとの約束を取り付けたのは由雄であった。貝塚市子も戦後、新しく婦人運動に参加した者からは脱落者と見られていたので、この程度で済んだという事情もあったのだが、由雄は一応事態収拾の功績を立てたことで、父親が自分に従来にも増して警戒心を持つようになったのを感じた。由雄は『議長には私としても充分に反省を求めるつもりでいます、皆さん方の憤りも理解できますから、しばらく時間を貸してくださいませんか』と述べて相手の気勢を殺いだのである。交渉がうまくいけば月子が正妻になるのを、由雄はあまり大きなこととは考えていなかった。籍が入ったからといって、家の中での状態が変る訳ではない」

つまり、皇室不敬事件を機に文との離婚が成立し、青山操は康次郎の三番目の妻となったのであった。この離婚劇はこう説明されている。「立憲同志会の創立メンバーに参加して政治家としての歩みをはじめた小田村大助の回心は完成した。見方によっては小田村大助が婦人運動家であった貝塚市子に渡した離婚のための慰謝料は、回心の費用であった。〈別れた妻に八百万円贈る〉という見出しの記事が新聞に載った。当時としては異例な大金であった」と。
元々、堤康次郎は大隈重信の立憲同志会からスタートして政治家となり、議長になったのも吉田茂内閣に対抗して全野党の推挙で就任したのであった(つまり反主流派に属していた)。ところが乱闘国会の中で康次郎は、法案成立を目指す吉田茂の保守本流に寝返ったのである。この瞬間に、堤康次郎のなかで「事業家と政治家との合体が実現した」。すなわち「小田村大助の回心」である。


ここにもう一冊、この事件を扱ったとっておきの実録本がある。本稿章(1)で触れた中嶋忠三郎「西武王国 その炎と影」である。婦人団体との交渉をまとめたのが清二なら、中嶋忠三郎は西武グループ顧問弁護士として、もう一方の当事者である貝塚市子に離婚を要求した人物である(以下、記述は同書より)。
中央大学法科を卒業して判事や領事を歴任してきた中嶋は、終戦後に外地から引き揚げるや西武鉄道に入社した。家庭の事情で進学を諦めかけていた中島がちょっとした動機で堤家を訪ねた折、赤の他人ながら学費の面倒をみてくれたのが康次郎であり、その口利きをしてくれたのが文夫人だった、という若き日の恩義があったからである。
以後、中嶋は康次郎の側近となり(年齢は康次郎の一回り下)、西武グループの意思決定機関「火曜会」にも出席していたので操とも身近にいたけれども、それ以上に文夫人は頭の上がらない恩人だった。

こともあろうにその中嶋に、康次郎は文夫人との離婚交渉を命じたのである。身を切られるような辛い役目だったが、実行せざるを得なかった。
この時、康次郎は秘策を中嶋に授けた。それは「まず初めに文と離婚し、操を入籍する。そして三年後に操と協議離婚し、今度は恒子(堤義明の母)と結婚する。前々夫人や前夫人に悪いから、平等の原則で、恒子とも三年後に協議離婚する」というもので、そうすれば子供達はみな堤の嫡出子となり、熾烈かつ陰湿な正妻の座を巡っての女の戦いも一件落着となるではないか、という恐るべき論法である。
上記「火曜会」について補足しておくと、メンバーは康次郎、操、義明、清二、西武鉄道社長小島正治郎(長女淑子の夫)、西武化学役員森田重郎(次女邦子の元夫)、グループの経理担当役員宮内巌であった。注目すべきは席順で、清二より義明が上席であることだ。

「いずれ来る話とは思っていたけど、中嶋さん、あなたを遣(よこ)すとはね。随分残酷な人だわ」。最初は何と説明しても話にならず、説得に手こずった。中嶋は、康次郎の筋書きを打ち明けて、子供達もこのままでは私生児になってしまう、責任をもって慰謝料もはずませると約束した。「その頃、お文さんは椿山荘近くの小日向台町に住んでいたが、『ここにいつまでも住めるようにしますから』とも」話して、承諾を求めた。家も、夫人名義のものは一軒もなかったからである(破れた靴下を履いていたとの証言もある)。
こうして、康次郎の長女淑子と長男清の育て親となった文との、三十八年に及んだ結婚に終止符が打たれたのである。小説通り慰謝料は八百万円だったという。「当時、三十万から五十万が相場であったから、かなりの振る舞いであった。昭和二十八年のことであった」。
ところが、それから二年後に文は没した(病名不詳)。康次郎より二歳年上(中嶋は五歳年上と記している)だったというから、68歳だったのか。中嶋の懇請もあって文の葬儀に、「花輪なんか贈るのはよしなさい」という操の反対を一喝して康次郎が出席してくれたとあるのは、文が康次郎から性病をうつされ35歳頃より松葉杖が放せない身となっていたことも考えあわせれば、当然の弔いであったろう。中嶋は記す。「(その時の操の言動に)私は、女の怨念、確執に鳥肌の立つ思いがした」と。

さらには、「私がお文さんと昵懇(じっこん)であったためであろうか、私は操夫人には疎(うと)んじられた」とか「私がお文さんから子供のようにかわいがられたり、それに秘密もいろいろ知っている。それで操夫人は、私に憎しみを持っていた」、「恨みを抱いていた」とも。
麻布の屋敷に呉服屋が来て、操に康次郎が着物を買い与えている場面に中嶋が鉢合わせした。「ついでに『中嶋の奥さんにも・・・』と堤(康次郎)が言うと、『中嶋さんには買ってやらなくてもいいわよ!』と、操夫人は柳眉を逆立てて反対した。堤が『何を言うか!買ってやるのだ!』と叱って、私の家内にも買ってくれたこと」も、その一例に挙げている。
操が正妻になって、約束の三年が経過しても離婚に応じようとしない、これでは恒子に嘘をついたことになると康次郎に面訴されたが、いくらそのような入籍契約を操と交わしていても、この件ばかりは中嶋もどうしようもなかったらしい。公序良俗に反する契約は、法律的に無効と判断されるからである。

事実は小説よりも奇なり、を地でいくような話である。
操とは反対に義明の母恒子については、文夫人同様に「お恒さんも立派な人であった」と、中嶋は好意的である。「操夫人を立て操夫人の顔色を窺いながら」、「操夫人に気遣いするだけでなく、一歩も二歩も引き下がって、控え目にしていたし、私等にも、良く気を遣ってくれる心の優しい人であった」と。
それでも「最も温和に見えるお恒さんすら、ふと、『操とは私が控え目にやっているから仲良く出来るのよ』と漏らした程の、女の意地の張り合いがあった。それらの見えない複合気流が堤家に索漠として漂っていて、堤は不幸にも、幼少の頃から引き摺って来た家庭的な寂しさを、生涯、遂に癒されることはなかったのである」。
「今時の常識からすれば、堤は悪だとなるが、当時の男と女の間の〈悪〉というものは、若干、今日と感覚が違っていたという外はない」と、元側近らしく最後には大将を思いやり、かばうのだ。

ともかく、「真ん中に操夫人を挟んで、正妻の座を巡り熾烈且つ隠微な争いが」、康次郎の周りで「繰拡げられていた」のであったが、「文、操、恒子三人に代表されるように、いずれも美人で頭のいい女、才色兼備の女性」が、康次郎の好みだったということであって、「お文さんは堤の最初の土地事業を資金面で支え、操夫人は生死に係わる難病を献身的看護で支え、そしてお恒さんは、精神的に優しい愛で支えた。三人三様、雷帝といわれ、怪物といわれ、毀誉褒貶、喧(かまびす)しい英雄を、しっかり支えた陰の力であった」。
どうやらそういう結論のようだ。中嶋がひとつだけ操をたたえているのが、この康次郎への献身的看護なのである。昭和18年(麻布転居は16年)、康次郎は尿意を催しても小便が出なくなる難病、前立腺肥大症に突然襲われた。その都度、尿道管を差込み尿を出さなければ膀胱が破裂する危険にさらされたのである。渋る康次郎に手術を勧め、やっとのことで決断させ、衆議院議長になる前年に成功するまでの九年間を、必死の看病にあたったのが操夫人だったのである(註)。
(註・ただし操がある企みをもって長男清の嫁をこの看護に当たらせた、という上林国雄の証言への言及は、中嶋の記述にはない。)

この難病介護は「闇夜遍歴」に詳しく説明されている。
「毎晩二回は尿意を催して月子を起した。最初の尿閉の晩、膀胱が破裂しそうになり、あまり溜り過ぎると水圧のためにカテーテルも入らなくなると医師に注意された恐怖から、三、四時間眠ると目が覚めてしまうのである。枕元の鈴が鳴ると、月子は即座に布団から身体を起し、ガウンを手早く纏(まと)って台所に行く。ゴムの管を浸した容器をガスコンロにかけ、煮沸消毒を終えると小田村大助の寝室にとって返し、(戦時中の)灯火管制の暗い光線の下で片方の手で萎えた陰茎を掴み、もう一方の手でピンセットに挟んだカテーテルを亀頭の先から手際よく挿入するのだった。やがて溲瓶(しびん)に小さな音を立てて小便が流れ出す。小田村は安堵してふうーっと大きな溜息をついた」

まさに康次郎にふさわしい天罰かと思いきや、「そのような処置を繰返しながら、むしろかえって彼の漁色は烈しくなった。月子は感情を殺した能面のような表情で股を開いて幼児のように身体を預けている小田村大助の排尿を手伝った」とある。
どうやら商魂たくましい康次郎は、自分の病気から着想を得て東京の糞尿処理を思い立ち(註1)、経営する私鉄の車両を改造して糞尿列車(黄金列車とも呼ばれた)を走らせ、戦争で人手が薄くなった東京の清掃問題と農村に肥料を供給する一石二鳥の離れ業をやってのけたのである(もちろん輸送は夜に行われた。註2)。
(註1・というのは典型的な偉人伝説であって、実際は屎尿処理に困った東京府側からの要請に社内の反対を押し切って康次郎が引き受けた。註2・糞尿列車は昭和19年から28年まで運行された。その背景には西武鉄道沿線に広大な農村地帯を有していたからであったようだ。)

今しばらく「西武王国 その炎と影」からの記述をつづける。
中嶋は、操が清二の本当の母であったかという根本問題にも言及している。「清二は、『操さんの子供ですか?』と聞かれても、何時も素っ気なく、『戸籍がそうなっているからそうなんでしょう』と答えるのみであった」とし、清二が操のことを〈お母さん〉と呼ぶのを一度も耳にしたことも、二人の間に親子らしい様子を見たこともないという女中たちの感想をあげて、(清二自身も「彷徨の季節の中で」で疑っているように)中嶋も「私の目や感覚からしてもそうであろうという気がしてならない」と判定する。
ついで、三鷹下連雀近くに住んだことのある中嶋は、かつて清二たちもそこで生活していたこと、その近くには操の姉も暮していたのを偶然知ったと述べている。戦後のその頃、大学生で手先が器用だった清二は、よく三鷹へ遊びに来てはラジオの修理をしてくれた。その都度中嶋の妻が感謝してお茶を出すのであったが、その時の世間話にも清二の口からは一度たりとも「お母さん」の言葉が出ることはなかった、とも。
中嶋の証言はいずれも決定的決め手を欠いているのだけれども、近所に住んでいたという操の姉の話だけは妙な迫真性をもって、上林国雄「わが堤一族の血の秘密」にあった〈操の姉の子が清二、妹の子が邦子〉をいやが上にも思い出してしまうのであるが・・・。

堤清二は二度結婚している。つまり最初の結婚は破綻したということだが、この離婚にかかわったのも操だったと中嶋はいう。
辻井喬の年譜に当たってみても、堤清二がいつ結婚して離婚したかなど(子供の誕生を含めて)、全く記載されていない(註1)。したがって「西武王国 その炎と影」での中嶋の記述は貴重である。
それによると清二の妻は、山口素子という衆議院の事務局に勤めていた女性だったとある。康次郎の議長就任時に議長室の秘書係をしていて、やはり父親の私設秘書となった清二と知りあい恋愛へと発展したようだ。川崎文と同じ日本女子大を出ていること、素子の父が俳人であること、式も簡素なものだったということ以外は一切不詳である(註2)。
(註1・「ユリイカ」2014年2月号 特集堤清二/辻井喬。註2・「彷徨の季節の中で」の続編「若さよ膝を折れ」及びエッセイ「本のある自伝」に二人の交際の一部が描かれている。)

「二人が結婚して四、五年経った頃、操夫人が二人を離婚させようとする事件が起こった。素子は『離婚するなんてとんでもありません』と拒んだが、操夫人は、 何故か強引に二人を離婚させようとしていた。しかし、素子は何と説得されても頑として応じようとはしなかった。そこで操夫人は、子供の康二(清二の長男)を幼稚園に行く途中で連れ去り、その子を自分の手元において、それで素子に離婚を迫ってきた。実に残酷な話であった。
素子の憤りや悲しみは如何ばかりであったろうか。素子の父親もカンカンに怒って、殴り込みをしたい位だと嘆いていた」
思い余った父親は中嶋に「娘があまりにも可哀想です。何とか子供だけは返すようにしてやって下さい」と哀訴してきた。それで中嶋が離婚の条件や慰謝料を調停したのだったが、その過程で二人が本当は愛しあっていたのに、別れざるを得なかったのだと確信した(という)。

「離婚の原因としては、操夫人の行動からすれば、操夫人と素子の不仲説が考えられるが、果たしてそうであったろうか。清二は、学生運動に走って父親に反抗した程の人である。そんな清二が、操夫人が如何に素子を嫌っていたとしても、それだけの理由で離婚を承知したであろうか。嫁と姑の不仲が原因で離婚に同意したとすれば、何とも古臭く因襲的である。
しかし、私は、一応操夫人に反抗はしたと思う。しかし義理の間柄なるが故に、従わざるを得なかったのではなかろうか。実の親に対してなら、断固として自分の意見を主張し通したであろう。とすれば、操夫人と清二は、実の親子ではないという推測が真実味を帯びてくるのである。ともあれ、清二と素子の離婚、その時の操夫人の振る舞い、そして康二の育てられ方などを見るに付け、実の親と子とそして孫との関係において、そこに当然あるべき愛情、甘えというものが欠落していたことは否めない事実であった。その違和感を私も肌で感じ、清二、素子及び康二の親子関係が不憫でならなかった」

中嶋は、離婚の情況をこのように書いて、この後に唖然とするような推測を付け加えているのである。
「他にも離婚の原因として噂されていたことがあった。それは堤と素子との関係であった。その関係を操夫人が勘付いて、手を打ったのではなかったのか。それで清二も同意せざるを得なかったのではないか、ということであった。下衆(げす)の勘繰りとは思う。しかし、堤の過去の行状からすれば、あながち、否定しきれない噂ではあった。それに、この件に関しては堤の態度が、いかにも不可解であった。操夫人が中心に動いたこの離婚に、堤は何もはっきりした意見を言ったり、態度を示したりはしていない。とすれば、堤は、やはり、素子との関係において、操夫人や清二に顔向け出来ない何かをやったのではなかろうかという噂も、うなづけるのである。
それにしても、寂しい、そして悲しい出来事であった」

このくだりを読めば誰しも、章(2)につづった孫清の妻緑と津村孫次郎の関係を想い起こさずにはいられないだろう。甫(清二)を挟んで義母(操)と激しい口論となった孫清(長男清)が、涙交じりで義母に訴えた場面。父孫次郎が緑に「わしの子を産め、二人産め、今産めばわしのか孫清のか分らないー」と迫ったというあの信じがたい場面を(この件についての上林国雄の補強証言は、章〈1〉で触れておいた)。
「彷徨の季節の中で」は、あくまで小説である。事実を忠実になぞっているといわれる私小説であっても、どこかに嘘が混じっていると想って読むのが小説である。この小説特有の原理を利用して、上手くカモフラージュしているけど、この場面の孫清(と緑)は離婚渦中の清二(と素子)のそれであった可能性さえ否定できなくなる。上林証言が事実なら、二組の若夫婦の悲劇が二重写しに投影されていたということに。

孫清の母岩崎そのについても「彷徨の季節の中で」では、孫清を産んで発狂して死んだということになっているが、「清は旧制静岡高校から東大に行き経済学部を卒業し、そのまま堤の会社に入った。そして取締役にまで昇進したが、母親ソノが、『西武の後継者は清である』と触れ回ったのが、禍となり、堤の逆鱗にふれ、廃嫡の身となった」と、中嶋はまったく異なる事実をあげている。
すでに岩崎そのが小説の叙述とちがって、長生きして息子(清)に会いたがっているのを上林国雄が清に伝えると、頑なに清は拒否したという理由もこれで納得できるのである。
岩崎そのは、「細面、色白のすらっとした容姿で、堤好みのタイプであった」が、清出産時には大隈重信を介しての康次郎と川崎文との交際が始まっており、そのは徐々に康次郎から疎んじられたと中嶋は明言している。
廃嫡の理由が母親にあったとすれば、清の父親への反逆は、あるいは小説に描かれたような気違い染みたものではなかったのかも?(とはいえ、妻のこともあり、会社での地位が冷遇、剥奪されるにつれて、母を棄て子を棄て去ろうとする暴虐無慈悲な父親を逆恨みしていったのであったろうか)。

しかし、本来廃嫡になってしかるべきだったのは二度も康次郎に絶縁状を叩きつけ、共産主義に走った次男清二の方だったのではあるまいか。兄弟中、ただ一人の確信的反逆者であったということになるのだから。その清二が何故に廃嫡されなかったのか。
先に長男清を廃嫡にしていたこと、(清と清二は14歳も違うのだから)加齢に伴う忍耐と分別が康次郎にそなわっていたこと、すでに操が実質上の妻であったこと、反抗時の清二が未だ青二才の学生に過ぎなかったことなどから見逃された、そう解釈するのも可能ではないか。
さらに想像をたくましくすれば、これらに上林国雄や中嶋忠三郎の指摘する清二(と邦子)にまつわる出生の秘密が働いていたのだとすれば・・・。

廃嫡の憂き目にこそあわなかったが、清二が望んだこととはいえ事業分担の色分けを清二が流通グループ、義明が鉄道グループを率いることを見越して、事業上の実績があった清二を康次郎がはっきりと後継者に指名しなかったことで、康次郎の制裁を受けた形になったともいえるであろう。
前にも述べたように、鉄道グループの事業規模は流通グループとは比較にならないほどの差があったからである(認知され入籍しているとはいえ非嫡出子の義明よりも、兄であり正妻の息子である清二が鉄道グループを継ぐのは順序からして当然であったろう)。担当グループの規模と重要性が、そのまま「火曜会」の席順であったのでは(したがって清二は「火曜会」においても、生前の康次郎から充分に屈辱を味わされていたわけである)。
跡目争いについて中嶋は、「万が一、清二が、『私が跡取りだ』と旗上げしたとすれば大変なことになったであろう。清二の出方如何では、お家騒動にもなりかねない要素を孕(はら)んでいた。清二の心の内では、さぞかし激しい嵐が吹き荒れていたことだろう。しかし、表立っては何の争いも起こさなかった。乱も起こらなかった。清二は、父に従っていた義明を見、父に反抗して屈折していた自分を振り返り、自らの立ち場を自覚していたのではなかろうか」と、清二を評価している。

世間も清二が後継者だと見ていたし、西武内部にも清二派と目される役員の動きがあったなかで、中嶋自身は生前の康次郎の意思通りに義明を後継者だと支持、公言したのであるから、清二の態度はことさら立派に映ったのであろう。
「清二は自伝小説の中で、三鷹に住んでいた頃、〈妾の子〉として蔑まれながら、耐えて生きた少年期のことを書いている。彼の生き方の中に、本心を隠す忍従の生き方が備わっているのは、そういった生い立ちからきているのであろう。“我慢に耐える”というのは清二の生き方であったが、義明の人生を培ってきたものも、またそれであった。従って、二人共言いたいことをグッと我慢出来る強さをもっていたが故に、意見の衝突を起こさなかったといえる。実際に私は、清二と義明の二人が、真っ向から意見の衝突をしたという光景を見たことはなかった」

つづいて中嶋は、跡目争いについてこう締めくくる。
「ただ一つ疑問なのは、〈どうして操夫人が清二を後継者として強力に押して出なかったのか〉ということであった。これは確かに不思議であった。操夫人が清二を擁立するという動き等は、表立って全く見えなかった。清二が操夫人の動きを抑えたのかもしれない。素子との強引な離婚劇が、清二の心理に影を落としていて、〈操夫人の言うこと等には終生耳を貸さないぞ〉という態度を清二が常に見せていて、〈清二の”擁立劇“は無理である〉と操夫人に思わせていたのかもしれない。いずれにせよ、そのような争いは、現実には起こらなかった」
この記述などからも、操夫人を要注意人物とみていたことがわかるのだが、「闇夜遍歴」その他を読むかぎり、母操に対してここまでの拒絶反応が清二にあったとも思えないのだが。母操の方も、清二が今さら流通グループ以外を引き継ぐ気など毛頭ないことをあらかじめ見抜いていて、そのことを二人で黙認しあっただけだったのではあるまいか?

人間という生物は、どうやら死期が迫ってくると真実を明らかにしておきたくなるもののようだ。というのも、「わが堤家 血の秘密」の上林国雄が85歳、中嶋忠三郎は88歳の老体にムチ打って「西武王国 その炎と影」を著しているのであるから。
ご丁寧にも上林国雄なんかは、著作中に「年老いた私が、事実をありのままに書いておかないと、誰も事実を知らないまま、ちがった歴史がつづられることになってしまうと思うようになったのです」と、ちゃんとその理由まで述べている(真実を埋もれさせてはならない。そういうものらしい)。
ひとつだけ残念なのは、高齢での著作だからなのか、二人とも若干記述が大まかで事実かどうかの裏付けに乏しいことだ。例えば、上記の過程を経て中嶋の記述は、堤康次郎の相続対策の巧みさに及んでいくのであるが、遺産相続人についてはこう書かれるだけである。「清二の他に嫡出子が二人おり、嫡出子でない子は十人近くもいたのである」。

清二以外の二人とは、最初の結婚で生まれた長女淑子と清二の妹邦子のことで、十人近くの非嫡出子とは義明と二人の弟たちのことを指しているのであろうか?(具体的人物名はない。プライバシー問題もあるのでしょうがないだろうけど)。
また、こうも書かれる。「認知もされていないし、堤家の家系図にも出ていない人で、堤の子供であるということが明白な人も、二人や三人ではない」。
堤家の家系図にも出ていないとは、一体何のことか。いくら何でも大げさすぎはしないか(堤家は元々大地主でも何でもない) 。中嶋が康次郎の余りの放逸ぶりにおったまげて、慌てて子孫図でも作ったのかもしれないけど。ともかくも中嶋は、これら一人一人に会って「遺産相続権利放棄書」に署名してもらったというのだから、その労苦は並大抵ではなかったろう。
年齢からいっても、もう怖いものなどなかっただろうし、どうせならもっとつぶさに堤康次郎の性豪伝でも書き残しておいてくれたら、さらに面白い読み物になっていたのにと、ちょっぴり残念である。

ところがである。この「西武王国 その炎と影」(平成16年12月刊行)には、章(1)でほのめかしておいたように、隠された事情があったのである。その間の事情を中嶋忠三郎の息子が明かしている。
「父は米寿を記念して本書『西武王国 その炎と影』を上梓したが、平成2年9月発売直前に西武側に全冊買取回収され、いわゆる幻の〈発禁本〉となってしまったのである。今年(平成16年)3月の商法違反事件、10月の株式偽装工作等、西武グループの一連の不祥事を見るにつけ、私は今こそこの書を世に送り出したいと思ったのである。義明氏をはじめとする西武グループ全社員達の箍(たが)の弛(ゆる)みを懸念し、西武王国の危機を憂い、西武草創期の精神を蘇らしたいと願ってやまなかった亡き父の厚い願望を改めて世に問うべきと考えたのである」

つまり中嶋忠三郎生前には、西武側に買い占められて事実上の出版禁止にされていた同書を、一連の西武グループの不祥事を見るに見かねて、平成10年に他界していた父親に成り代わって息子が再刊行したというのである。
本著のどこが西武側の(オーナー義明の?)忌諱(きき、きい)に触れたのか?特に、義明たちの悪口を書いているわけではないので、わかるようでわからない。結局のところは、西武グループ最高幹部「火曜会」のメンバーであった者が、このような暴露本を書くこと自体が許せないということであったろうか?
堤義明がこの不祥事をきっかけに逮捕されたのは、本書再刊の翌年(2005年)の3月3日であった。中嶋忠三郎とその遺志を継いだ息子の篤き願いは徒労でしかなかったのである。

もしかしたら、今後触れる機会がないかもしれないので、清二の再婚についての中嶋忠三郎の記述を最後に引用しておきたい。
「清二は、その後(素子と離婚後)、新橋の芸妓で、後に産経新聞社の水野会長(前述した水野成夫)の養女となった女性と結婚した。名は麻子といい、子供も生まれ、家庭もすこぶる円満である。麻子夫人も清二の目に止まる位の人だから非常に立派な人であった。操夫人は性格的には濃い翳(かげ)りのある女性であり、その翳りの下で、清二は成長したのだが、大きな発展への試練という形でそれを活かしたのは、彼自身の偉大な素質という外はない」
やっぱり操への点数は辛い。清二がいつ結婚したのかは定かではない(清二自身も書き残していないし、年譜にも記載がない。中嶋の文章が唯一の文献ということになるのかも?)。ただし小説「闇夜遍歴」によると、その頃妹邦子が住んでいたパリで身内だけの挙式をしたらしいことが描き込まれている。この結婚にも堤清二という人柄の一端が垣間見えるような気がした。


(以下、「彷徨の季節の中で」(5)につづく。)

 

自由人の系譜 辻井喬「彷徨の季節の中で」(3)

「第二次世界大戦末期、帝都の住民は、大量発生したトンボの群れのように上空を覆う不吉な使者に脅えていた。B29爆撃機は爆弾を、これでもか、これでもか、と落としていく。街は火の海と化し、人びとは逃げまどう。堤康次郎はその空爆下、地下室で幾台もの電話を並べて、土地を買い漁っていた。焼け出された難民が、宏大な邸宅に避難すべく押し寄せてきた。彼は叫んだ。
『甫(はじめ)、親切が仇(あだ)になるというのを忘れるな、皆をこの屋敷に入れたら此処は取られてしまうぞ。家は燃えてもいい、然し土地は絶対に譲ってはならんぞ』
非難する眼で見た私に答えて、父は真剣に言った。その時大きな音を立てて三階の屋根が落ちた。火の粉が宙に舞上がり、孤立した中心部は、いよいよ火勢を増して傾いていった」

これは猪瀬直樹が「彷徨の季節の中で」の一場面を引いて、「ミカドの肖像」第一部〈プリンスホテルの謎〉に掲げた前文である(註1)。「彼は叫んだ」までが猪瀬直樹の文章なのだが、つづいて小説には「その晩東京の西南部の大半は焼けた。数万人の死者が出たという噂だった」とあるので、 昭和20年5月の東京大空襲の叙景だと思われる。
康次郎の凄まじい土地への執念を語って余りあるが、〈プリンスホテルの謎〉で猪瀬直樹は、「西武グループのプリンスホテルのうち最大規模を誇る新高輪プリンスホテルは、旧皇族北白川宮家の跡地に建てられている。その約四万平方メートルの土地(註2)が、北白川家から西武鉄道に売買されたのは昭和28年7月24日であった。しかし、北白川家から西武鉄道に所有権移転の登記がなされたのは昭和54年11月13日なのである。四分の一世紀のあいだ移転の登記がなされずじまいのまま、という事情のなかにいったい、どんな謎が秘められているのだろうか」と疑問を呈して、堤康次郎の土地錬金術のカラクリに迫っていく。
(註1・猪瀬直樹は昭和21年長野生まれ、信州大卒。2012年から2013年まで東京都知事。ノンフィクション「ミカドの肖像」は昭和61年小学館刊。註2・約1万2000坪になる。)

北白川家と西武鉄道が売買契約を結んだ昭和28年は、堤康次郎が衆議院議長に就任した記念すべき年でもあった。が、読み進めていくうちに、その衆議院議長のポストを活かして、巧妙極まる手段で北白川家の宏大な屋地を手に入れていく過程に唖然とさせられるのであるが、〈プリンスホテルの謎〉によれば旧宮家の邸宅地買収は他にも朝香邸、竹田邸、東伏見邸、李王邸等が含まれるという。いずれも昭和20年代に買収され、跡地には赤坂プリンスホテルをはじめ各プリンスホテルが建てられた(うち今上天皇と美智子皇后の「テニスコートの恋」で有名な千ヶ滝プリンスホテルは、軽井沢沓掛の朝香宮別邸跡に建てられたもの。プリンスホテルの起源となった。註)。
ただし、それは北白川邸のように西武鉄道に所有権が完全に移転されてからのことであるから、千ヶ滝プリンスホテルを除いては堤康次郎死後のことになるのだけれど。
(註・原武史著「レッドアローとスターハウス もうひとつの戦後思想史」によれば、「堤康次郎は、旧皇族の土地や建物ばかりか」、旧宮家を「現物保存するためと称して」、「建物の随所に刻まれた菊の紋章をそのままにし、プリンスホテルのトレードマークとし」、「デザインまでも乗っ取」ったとされている。)

これらの巨大ホテル群を次々に建築していったのは、西武鉄道グループの若き後継者堤義明である。しかし堤康次郎が後継者に残した土地は、当然ながら旧宮家のものばかりではなかった。
〈プリンスホテルの謎〉で猪瀬は、その驚愕の実態を次のように説明している。
「西武鉄道グループが所有している土地は、日本全国に四千五百万余坪、東京二十三区の四分の一に匹敵する。その土地の時価は、銀行筋の推計ではおよそ十二兆円であると伝えられている。
ちなみに、民間企業では最大の地主企業王子製紙グループは、西武鉄道グループの九倍、四億余坪の土地を所有しているが、その土地の八割は北海道の山林である。したがって、その時価評価額はせいぜい一、二兆円程度とみられている。西武鉄道グループの持つ土地の含み資産がどれほど大きなものなのか、ライバル企業との比較のなかで、いっそう明らかとなるであろう。たとえば丸の内一帯の一等地を所有している三菱地所が、二兆円。西武鉄道とことあるごとに対抗してきた東急電鉄は一兆円。それぞれ、推計だが、以上の時価評価額の土地を持つといわれている。しかし、さすがに十二兆円の前では色あせてしまう。この、とてつもない評価額の西武鉄道グループ所有の土地がすべて、先代堤康次郎の時代に、想像を絶するほどの安価で購入されたものであった」

ところが猪瀬は、堤康次郎がどこまで地価上昇を目論んでいたのかについては、疑問符をつけている。「堤康次郎が、土地に目をつけた理由はさまざまな商売に手を出した結果、ことごとく失敗したからであった。だが、彼が、どういう見通しと確信を持って、土地買いに走ったのか、その点は明らかでない」として、その根拠を示す統計数値を上げる。
昭和11年を1.00にした戦前六大都市市街地価格指数は、昭和15年で1.16倍、20年でも1.25倍だったのに対して卸売物価指数は3.02と3倍を超えていたので、土地を買っていても旨(うま)みはなかった。戦後の昭和30年になると土地が201.6、物価は331.3と両者がやや接近してくる。が、この後昭和30年から同55年の25年間に事情は一変して、物価は3.25倍の上昇に過ぎないのに土地は32.31倍に跳ね上がっていると指摘する(註・康次郎の死去は昭和39年、バブルは昭和61年より始まる)。
しかし、確かに「昭和三十年以降、土地の値上がりは物価上昇率を凌駕しはじめたが、(註・康次郎が前もって)そのような事態を予測することは、かなり困難だと思う」と述べ、(康次郎の)「土地買いのモチィーフ」そのものが「謎めいてくる」というのだ。

「同じ事業をやっても、他人は成功し、自分は失敗する。・・・ある程度までいくとひっくり返る。賽の河原の石積みである。あせればあせるほど、ロクな結果は生まれない」人が炭鉱で、船で、儲けたと聞けば手を出し、御木本の真似までして三重で真珠の養殖までやったが、「二十代に手をつけた私の事業は、ことごとく失敗に終わった」と死の直後に出版された自伝「叱る」で堤康次郎は振り返っている。悪戦苦闘の末に、どうにかこれならと導き出した事業が「人間生活にとって必要な土地」であったのだ、と。
この帰結の裏には(やはり二十代で取り組んだ)軽井沢開発事業が、資金繰りに難儀はしても最も痛手を被らずに利益を生んだという事実に遅まきながらも気付いたからではなかったか?

康次郎が国立学園都市開発に携わっている頃、それはすなわち三鷹で甫たち親子三人が生活していた頃であるが、「彷徨の季節の中で」には「その頃、事業が思うようにはかどらず父は苦労が多かったようである」とか、「私の家は貧しかった。世の中も不景気で、父の仕送りも時おりとどこおっていたようだ」、だから母は(結核の病身にもかかわらず)内職をしていたと描かれてはいるものの、不動産事業は堤康次郎に決定的な損失をもたらすことはなかったのに違いない。
土地さえ持って(転がして)いれば、(担保にしてでも)何とか飯の種にはありつけたであろうし、時には思いもかけない大儲けにも遭遇していただろう。その繰り返しの中で不動産事業の妙味に気づき、より利益を引き出すメソッド(組織だった方式)を次第に磨いていったのではなかったか。

5歳で父に死なれ母に去られ、祖父母に育てられて成長した康次郎は地元の名門彦根中学に無試験で合格していたのを、祖父の反対で進学を断念したほど祖父の薫陶、影響がとりわけ強かったといわれる。その祖父が、徹底的に康次郎に叩き込んだのが「堤家の再興」であったという。
祖母、祖父の死とともに父祖伝来の田畠を質に立身出世のみを志して上京、学業そっちのけで事業拡張に邁進するもことごとく挫折、ようやくたどり着いた答えが「人間生活にとって必要(不可欠)な土地」だったというのは、農民の末裔である堤康次郎にとって最も肌合いのいい原点回帰だった。
「わしをいかにも不身持のように言う者もあるが、どういうわけか、わしは女運に恵まれないでなあ。お祖父さんから預かった津村家を興すには、わしなりの方法でやってきたのだ。子供を作るには女子(おなご)が必要じゃった。腹は借物というからなあ」
津村孫次郎が珍しくしみじみと甫に語る「彷徨の季節の中で」のセリフである。手前勝手な自己弁護でしかないが、この発言には農民(土着民)と選良民(為政者)の発想とが混在しているが如くに感じられる。すなわち子種だけはしっかりまいておき、そのうちの出来の良いのを見極めて残せばいいのだ(出来損ないは間引いてでも)とでも言いたげな、自然淘汰の法則に叶った大らかな、それでいて冷酷無比で残忍な発想。

関東大震災で被災した皇族や華族の屋敷跡を買い上げ分譲し多大な利益をあげた康次郎が、敗戦によってGHQから全特権を取り上げられ経済的に困窮する旧皇族や華族の土地を〈本能的な嗅覚〉で取得していったのは、思うに当然のことであったろう。「プリンスホテルの謎」の記述に戻る。
「戦前における最大の地主は、天皇家であった。戦前の御料地(註1)の総面積は百三十万余町歩で新潟県の総面積に近い、あるいは東京、大阪、神奈川、香川、佐賀、鳥取の六都府県の合計に等しい広さであった。ただしその大部分(97%)は北海道や木曽などの山林であり、農地を除く宮殿と宅地、陵墓(註2)の合計は全体の0.5%(二千万余坪)にすぎなかった。
堤家は、その天皇家の〈藩屏〉(はんぺい、註3)である皇族の宮殿と宅地を収奪しそのブランドを借用することによって、新時代のチャンピオンに成り上がったといえよう。
戦前の天皇制下では、天皇家を含めて皇族はいっさいの税金を免除されるという特権を有していた。その特権によって、天皇家およびその一族は末代までその繁栄を保証されるはずであった。同じことが、〈西武王国〉においても実質的に適用されようとしている・・・」
(註1・皇室の所有地。註2・辞書には天皇・皇后・皇太后の墓を陵といい、他の皇族のものは墓というとある。註3・藩屏とは皇室を守護する者といった意味で、宮家を指す。)

つづいて猪瀬の筆先は、堤義明が君臨する国土計画(コクド)の西武鉄道グループ支配構造と帳簿上の詐術(簿価と時価評価の差額)に及んで、ちょうど同じ頃、日の出の勢いで拡張を続けていたスーパーのダイエー創業者中内功の相続資産と対比しながら、コクドを隠れ蓑にした巧妙な操作が税金対策を目論んだものであることを指摘して、再びこう結ばれる。
「西武王国は新しい天皇制を考案していた。堤家の〈土地本位制〉経営は、天皇家と同様に、万世一系のなかに受け継がれてゆきそうな気配なのである」
けれどもきっとそうはならないであろうという相反する措定を、猪瀬直樹はこの文末に込めていたのであったろうか?「西武王国」のその後を知っている今日の我々からみれば、〈プリンスホテルの謎〉が「西武王国」最盛期に書かれているにもかかわらず、その崩壊を予兆して警鐘を鳴らしていたかのようにも思えてくるからだ。

その「西武王国」繁栄に少なからぬ貢献を果たした「皇室の藩屏」についても、〈プリンスホテルの謎〉の記述から補足しておく。
明治維新時に、宮家は伏見宮を筆頭として桂、有栖川、閑院、山階の五宮家が残っていた。その後新たに十宮家がつくられて十五宮家(直宮家の秩父、高松、三笠宮を除く)に増えていたが(後継がなく断絶した四宮家もあり)、昭和20年の敗戦時には直宮家を除いて十一宮家になっていた。
ところが昭和22年10月に決定された宮家への「臣籍降下」(皇室離脱)により免税のみならず、皇族に支払われていた歳費や皇族附職員の人的支援などの一切の特権を剥奪されたのであった(秩父、高松、三笠宮は除外)。皇族籍を離れるに当たって、一時金が支給されはしたものの焼け石に水に過ぎなかった。かくして民間人扱いとなった皇族は、土地以外の財産を持たなければ(持っていてもいずれは)、土地を切り売りにでもしていく以外に生き延びる方途を有しなかったのである。
天皇家の広大な御料地は、基本的に国有地と自治体有地に移管された。すべては占領軍の方針で決定された(自然災害であった関東大震災との決定的相違点である)。

天皇家を擬して、せっかく「新時代のチャンピオンに成り上がった」堤家が「万世一系」の繁栄どころか、わずか二代目にして潰えたのである。
グループ中核会社のコクド会長堤義明が、西武鉄道総会屋利益供与事件に端を発した虚偽記載による西武鉄道有価証券取引法並びにインサイダー取引違反で逮捕されたのは、〈プリンスホテルの謎〉執筆から二十年後の平成17(2005)年3月のことであった。
それはいみじくも、猪瀬直樹が「彷徨の季節の中で」から引用した〈プリンスホテルの謎〉の上記冒頭文、「火の粉が宙に舞上がり、孤立した中心部は、いよいよ火勢を増して傾いていった」光景とオーバーラップするのである。
この事件によって堤義明の「西武王国」支配は実質的に終焉した。君臨すること実に40年、王国の絶対君主を誇った颯爽たる青年経営者の面影は薄れ遠のき、齢すでにして古希を迎えていたのである。

しかしながら王国崩壊の萌芽は、すでにして父康次郎死去の際にひそんでいたというべきだろう。
「(親父が死んで)いちばん初めに手をつけなければならなかったのは遺産相続の問題です。世間は相当の資産を蓄え込んでいるイメージを持っている。しかし、親父は用意周到と言うか、しぶちんの極と言うか、個人財産はまるでなし。すべて会社のものにしていて、自分は無一文のような状況でした。税金を払うまいという情熱がすごかったのです。ずいぶんいろいろな人に会ったけれど、親父ぐらいその情熱が強かった人はいないと思うぐらいです」と堤清二は語っている(「堤清二X辻井喬オーラルヒストリー わが記憶、わが記録」)。
しかし、「これではとても世の中で通るまいと思っ」た清二は、実情を時の総理大臣池田勇人に相談した。池田勇人は「清二君、それは君、無理だよ、それは通らない」と言って、税務コンサルタントを紹介してくれた。結局、西武グループ各社から弔意金を出してもらう形で無理やり相続財産をつくって、一億円を超す相続税を払ったと、清二は証言する。

康次郎の死去とともに、西武グループは西武鉄道グループと西武流通グループとに別れた。義明が率いた西武鉄道グループは総勢七十社にも上ったけれども、そのうちで上場していたのはわずか西武鉄道と伊豆箱根鉄道二社のみであった。グループ各社は上場二社を中心に交互に株式を持ち合う形でグループ間の結束を保ちながら、さらにその頂点に立っていたのがコクドであった。グループを牛耳るコクド自体が未上場なので、部外者がその経営実態を知ることは極めて困難である。
西武鉄道グループのコクド支配とはこの構図を指しているのであり、その中核会社コクドを統括していたのが故康次郎であり、逮捕されるまでの堤義明であったのだ。しかも康次郎は自己保有株式を信頼できるコクド社員の名義を借りての、いわゆる名義借り方式で財産を徹底的に分散していた。だから康次郎名義の相続財産が皆無だったのである。
それまでにも義明のワンマン経営で兄弟(義明の弟たち)の間柄にヒビが入っていたのに加えて、義明の逮捕でこの他人名義の隠し財産問題が明るみに出て、(清二を加えての)新たな訴訟問題に発展したようだ(が、この件はもうこれ位でとどめておく)。

西武百貨店の37歳の青年社長に過ぎなかった堤清二が、なぜ父親の相続税問題を総理大臣に相談できたのかというと、もちろん池田が父親の葬儀委員長を務めてくれるほどの仲だったからであったろうが、それより十一年前の昭和28年に父康次郎の衆議院議長就任に伴い、清二が議長秘書になっていたことも起因していただろう。
その頃の首相は吉田茂であったが、大蔵事務次官から政治家に転身し、すぐさま頭角を現していた池田勇人との接点がどの時点で出来ていたのかはつまびらかではない。昭和34年に清二は、康次郎の随員でアメリカに渡り、マッカーサーとアイゼンハワー大統領との会談に陪席している。その前後に池田との面談の機会があったのかもしれないし、また昭和37年西武百貨店は、康次郎の命令でアメリカロサンゼルスに出店(二年後閉店)しているので、その出店に伴う下相談で大蔵、通産大臣などを歴任し、総理大臣に上り詰めていた池田に面談していた可能性も。
いずれにしても父親絡みだったのは確かであろう(前章に記したように真偽は不明ながらも、池田の娘と義明の結婚話の伝聞まであるくらいだから、二人は相当に親しかったはずである)。ところが池田勇人も、清二が相談に参上した(すなわち康次郎死去の)翌年(昭和40年)に、65歳で病没した。

池田の後を継いだ佐藤栄作とも清二は親交があった。吉田茂死後、大磯の旧邸をひそかに処分することになった時、佐藤総理に声をかけられ買い上げに応じたと清二自身が告白している。そしてそのことを通じて吉田茂の長男である作家の吉田健一に感謝され交友が生まれたとも。
康次郎の死去は、すなわち政治家堤康次郎の地盤を誰が引き継ぐかという問題をも派生した。長男清が廃嫡になっているので、次男の清二に白羽の矢が立つのは当然のことであった。池田総理や当時の自民党幹事長だった田中角栄から立候補を慫慂(しょうよう)されたが、清二はそれも固辞したようだ(結局、山下元利に落ち着いた)。
と、このように若き頃より政界トップたちとの関係があったことを知れば、それ以後も多くの政治家との交際があったことは容易に窺い知れよう。その多彩さにも驚かされるのであるが(もういちいち名前を挙げないけど)、なかでも特に親しみが持てたのは三木武夫、大平正芳、宮沢喜一などだったという。大平も宮沢も池田勇人が引き立てた政治家だったし、大平正芳については、最晩年になって「茜色の空 哲人政治家大平正芳の生涯」の題名で小説化している。

これらのことからみれば、堤清二はガチガチの保守派だと勘違いしそうだけど、選挙の時どの政党に投票したか、との質問に、「共産党か社会党といった革新政党です。ただし、共産党とは喧嘩していますから、自民党よ驕(おご)るなかれという感じですね。アンチ巨人だから阪神タイガースを応援するというのと同じ。アンチ自民党であれば何でもいいという感じが強かった」と答えている。
ずいぶん思い切った発言で、これだけでも堤清二がかなり異色の経営者だったことが分るけど、この発言は経営の第一線を退いてのちの平成12(2000)年、73歳の時のものである。堤清二の経歴を知らなければ、「共産党とは・・・感じですね」の部分が何を言っているのか、よく飲み込めないであろう。議長秘書になる前、堤清二はバリバリの共産党員として精力的に活動していた過去があったのである(当時は、清二に限らず知識人や有力者の子弟が左翼運動に走る例は数多くあった)。

中学校に進学すると同時に、それまでの母子三人の三鷹での暮しから麻布で父親と一緒に住みはじめ、そこで義兄孫清(清)と父のねじくれた関係を目前にしながら、甫(清二)は私立の成城高校理科へと進学した(希望した高校に受からなかったため)。昭和19年(17歳)のことである。
理科を選んだのは徴兵を避けるためではなかった。大学の工学部に進み航空工学や船舶造船を学びたかったからだが、戦争が終わると進駐軍の命令でそれらの学科が閉鎖されたため、文科に移り直して昭和23年(21歳)に東大の経済学部に入った。
「彷徨の季節の中で」には、「大学の受験を一年遅らせて文科に転向し、本式に社会科学の勉強をしよう、孫清のようなやり方ではなく、正面から父に立向うために」(意地でも、孫清のようになってはならない)と、描かれている。
しかし、やがてはこうも。「私は父の世界と闘うために経済学部に籍を置きマルクスやレーニンの本ばかり読んできたが、社会科学の理論ではどうにもならない自分の問題と新しく対決しなおさねばならないのであった」。

つまりは挫折したのである。「父が属しているのは勝負の世界であり、支配するかされるかという権力的人間関係しか存在しない」。それが「父の世界」だったのであるが、その構造は共産党においても変わりはなかったのである。
清二が入党した頃の共産党は、国際派と所感派とに分裂して派閥争いの最中にあった。国際派に所属していた清二は、主流派だった所感派から堤康次郎の息子であることを理由にスパイ嫌疑で除名されたのである。それが「共産党とは喧嘩」発言の意味である(それでも党と完全に訣別したわけではなかった)。
時を同じくして清二は吐血した。重度の肺結核と診断された清二は絶対安静を命じられ、その後二年近く療養生活を余儀なくされたのであった(発症した年に東大は卒業していた)。
「父の世界」に反撥して後継者にはならないと勇ましく宣言していたものの、将来に何の希望も見出せぬまま父の庇護のもとに空しく病身をゆだねざるを得なかったのである。

「親子の愛情というのは一体何だろう」。「愛するとか憎むということがどんなことなのか私には分らなくなっていた。自虐に足をとられそうになる自分を支えることだけが私のただ一つの闘いになった」。
病気の進行とともに失意は深まり、自己を見失いつつあった甫の病室を父親と母親が見舞いに訪れる。二人を見送っての心境吐露。
「小学生の時、父の見舞を受けて、入院していた私はひどく気詰りな想いをした。それは医者に対する父の仰々しい礼や、大勢の従者を従えた医長の前での父の粗野な振舞のせいだと思ってきたが、気詰りの本当の理由は私達が親子であり、鏡に対い合っているように二人が似通っているからだ。その宿命から逃れようとして私は革命運動に入ったのに彼等は私を受容れなかった。私は遂に津村孫次郎の子であるという血縁に抗し得なかったのか。とすればこれからいる場所を私は何処に見つけたらいいのか。考えていると谷間から吹き上げてくる冷たい風にさらされながら、細い吊橋の上に立っているような自分の危うく脆い姿が見えてくるようだった」

追い詰められて、一歩を踏み出せば「父の世界」に通じる地点に清二は立っていた。ちょうどその時期に出回り始めていた結核特効薬ストレプトマイシンの効果(高価でもあったろう)で、奇蹟的に命拾いをした清二は、父の求めに応じて(ほとんど暗黙の応諾で)衆議院議長秘書となったのである。
「私の友人達はすでに生活を始めていた。・・・時間がたてばたつほど私は生活からも友人からも引離されて行くように思われ、脱落者という言葉が浮んできた。少し前から私はノートに詩を書きはじめていた。それが作品となっているかどうかは分らなかったが、自分ひとりの闘いを書きつけることで私は災殃(さいおう、註・災難、わざわいのこと)の閲歴に耐えなければならなかった。私の裏切りと私への裏切りという言葉のあいだを掻き分けて私は自分の本当の顔を探し出すために狭い牢獄のような病室の中で私自身と対い合っていた。
そうした隠微な闘いの反動なのか私は素朴な生き方をしている人々の話が聞きたいと思った」
しかし、これは回心であったろうか?回心であり、回帰であったではあったろうが、父への心情的な降伏を意味するものではなかったし、またマルクス主義からの転向でなかったことは上記の清二自身の回顧談が証明している。

「彷徨の季節の中で」は、この後、病も癒えた私(甫)が屈折した心を抱いて、「競争世界から脱落することによって」自由になり、「本来の自分に還る」生活を志している、かつての同志を東北に訪ねるところで幕が降ろされる(註)。
が、その前にどうしても済ましておくべきことがあった。「私の場合、宿命に反逆することで自由になれると思っていたが、反逆のための戦いのあいだ、私を支えたのが幼年時代の生活の記憶であったのは、私の思想にとって皮肉なことではなかったか」。この痛切な思いに駆られて、私は「本来の自分に還る」唯一の場所であったかつての三鷹下連雀の家を求めさ迷うのである(三鷹訪問は戦時中に次いで二度目である)。そこで目にしたものは、時の推移に変わり果てた記憶の形骸でしかなかったのである。
(註・この同志は、共産党に全財産を捧げ革命の夢破れてのち、東北で生活していた詩人の郡山弘史、吉江夫妻がモデルである。)

     素朴なものを信じて/美しく生きた人の話が聞きたい
     いつか/用意が出来たと言いきれる人の
     優しさについてすつかり聞きたい

     忍耐とは/おのれに絶望しないこと/素朴なものを信じて  
     一番暗い闇からさえ/美しく生きた人の話をききに
     人は鳩を放つと言うことを/俺は確証したいのだ
                                      (辻井喬第一詩集「不確かな朝」より)

こうして津村甫の現実回帰(議長秘書受入れ)につながっていくのであるが、それは堤清二の回帰であって、分身の辻井喬を引き連れての全面的現実回帰でなかったことは、前述の「私はノートに詩を書きはじめていた」以下の文章が明かしているだろう。
そのように想いたいのではあるが、本当にそうなのであろうか、もしかしたら逆ではないのか。辻井喬が真であって堤清二が虚ではないのか?
津村甫は堤清二なのか、辻井喬なのか、よくわからなくなってしまうのである。精巧な自画像を描いた画家との関係のごとくに。
これはつまるところ辻井喬が、作家一辺倒でないところからもたらされる(堤清二という個性が、辻井喬を上回るほどに突出していることによる)違和感の故なのか。大企業の経営者にして作家であることが反発しあってうまく像を結ばないのである(例えば、辻井喬の前に取り上げた北杜夫の本名は斎藤宗吉であるし、「彷徨の季節の中で」を書き上げた頃、交流のあった三島由紀夫の本名は
平岡公威であるけど、辻井喬X堤清二のような混乱は起こらない)。このような文学者ってかつていたっけ?

思いあぐねて、それとなく広辞苑を引っ張り出し「彷徨(ほうこう)」の欄を覗いてみた。
すると[さまようこと。うろつくこと]との語釈に次いで、【彷徨変異】という聞きなれない言葉が併載されていた。[生育環境の影響で同一種の生物の個体間に生ずる量的変異。変異の大きさは或る値を中心に連続的に分布し、遺伝しない。個体変異]と説明されている。
念のため【個体変異】も引くと、[①同一種の生物の各個体間にある変異②環境の影響で生じ遺伝的でない変異]とあった。
であるならば(学問的なことはわからないけれども、字義通りに?勝手に解釈すれば)、堤清二という人は生育環境での影響の量的変異の振り幅が相当に大きかった人なんだ、という至極真っ当な感想が改めて湧いてきて、それは一人の人間が人間としての内面の平衡を保つために、両極端であってもシーソーのように堤清二、辻井喬の二面性が必然だったのだと、独り合点してみたのではあったが・・・さて?


(以下、「彷徨の季節の中で」(4)につづく。)







自由人の系譜 辻井喬「彷徨の季節の中で」(2)

父親の津村孫次郎(堤康次郎)に、底意地の悪い反抗を執拗に繰り返していた長男孫清(清)の「結婚披露宴は、丸の内の東京會館で、盛大に(856名の参会者を得て)、まばゆいシャンデリアの下で開かれた」。「私はふと頬に視線を感じて振りむいた。すると母よりは七、八歳若い婦人が私を見詰めているのに出会った。顔の輪郭が丸くて温和な感じの女性だった」。
その女性が〈むこうの奥さん〉であるのを思い出した。「獣が嗅覚を動かして敵と味方を識別するように私は彼女を見た。だが、彼女の視線に敵意は感じられなかった。私は緊張を解き、むしろぼんやりした好意すら意識した」。
やがて父の挨拶とともに宴は終わった。「孫清と緑は出口の金屏風の前に場所を移して、帰る人々に挨拶をしていた。私は父と並んだ〈あちらの奥さん〉の姿をはじめて見た。父よりも老けた感じで、柔らかすぎる髪が鬘(かつら)のようにぴったりひたいにくっついていた。先入観があるせいか、その顔は意地悪そうに見えた」。「会釈をして顔をあげた父は、胸を張って一人で歩いている私を見て驚いた。母と美也(妹)は別の出口から出たので、私は二人の分も代表して正式の出口を通ったのであった」。

やがて廃嫡される長男の華燭の典に、彼の実母でもない父親の女たち三人が一堂に会するというのも、なかなかにドラマチックで、そしてかなり異様な光景ではあるが、甫(はじめ、辻井喬)が垣間見た〈あちらの奥さん〉も〈むこうの奥さん〉も位置を一つずらせば、そのまま甫の母多加世(青山操)の立場にすり変わるのだった。
この祝宴で、彼女らそれぞれが決して言葉など交わさなかっただろうことが想像されるように、これ以後、この三人の女がそろって顔を合わせる場面はなかったものと思われる(そして多加世と〈むこうの奥さん〉が〈あちらの奥さん〉を盗み見たのも、この日が最後であったのでは)。
ところが〈むこうの奥さん〉の方は、式後まもなく甫たち母子の前に男児(小説名孫治、康次郎の三男義明)を連れて、その姿を現わしたのである。続けて、そのくだりを「彷徨の季節の中で」から抜書きする。

「その日の新聞はイタリアが連合軍に降伏したことを告げていた」とあるので、昭和18年9月初旬のことか(だとすれば、戦争たけなわの頃なので孫清の結婚式は随分と派手に挙行されたようだ。つまりあれほどいざこざがあっても、未だ孫次郎は孫清を後継者に考えていたということにもなるのだが)。
「夕食のあと私達は不思議に静かにしていた。父が急に顔をあげて言った。『甫と美也、今晩お前らの弟が挨拶にくる。今まで話してなかったが、可愛がってやれ』私は驚いて母の顔を見た。無表情を装っていた母は私と目が合った時、カンニングを見つけられた中学生のような表情をした。母のバツの悪そうな薄笑いを見て、私は目を合わせたことを済まなく思った。・・・(女中の)報せで父と母が席を立ち、やがて私と美也が奥の間によばれた。部屋に入ると、殊更地味な紬(つむぎ)の若い婦人が、小さい男の子を連れて座っていた。・・・私に微笑みかけた、あの婦人だった。
『この人が、孫治を今日まで育ててくれた田沢静江さんだ』と父が言った。彼女と孫治を眼の前に見ると、私にははじめて異母弟がいるという実感が湧いてきた。それは奇妙な、バツの悪さを伴う不快感であった。田沢静江が、数ヶ月前、私がそうとは知らずに憧れた婦人であったことが、私の心を混乱させた。孫清が、はじめて三鷹の家にきた時、母と孫清のあいだには濃密な感情がゆきかったことを私は想起した。ちょうど結婚式場での私と田沢静江との場合のように」

このあと、甫の部屋に入ってきた孫清との問答が描かれる。「さっき孫治とその母親が来たろう」。「ええ、でも御大はあの人のことを、孫治を育ててくれた人だって言ってましたよ」(私はどういうわけか庇う姿勢になった)「育ててくれた人?違いないね」。「でも甫君には分っているはずだ、まっすぐ見なきゃあなあ、実際のところを。田沢静江は御大のこれですよ」(孫清は小指を突き出した。私は彼女のことをそんなふうに言って貰いたくなかった)「前から甫君に言おうと思っていたんだが、御大の前で、孫治とあんまり仲良くしちゃあいけないよ、僕ともだ」。
「だって考えてごらん、僕と甫君と孫治が仲良くするとするだろう、それに美也ちゃんがね。四人は御大に対して同じ立場なんだよ。みんな妾腹の子で、庶子、つまり戸籍上は、父親の認知せる生母不詳の子なんだ。この四人が結束することは御大にとって脅威だ」(呆気にとられている私を見て、孫清は自分の唇のまわりを赤い舌で舐めまわした)「勝つか負けるか、権力の座というのはそういうものなんだ。殺すか殺されるかなんだ。親と子の間だって、服従か反逆しかない」(孫清の眼は、暗いものに魅入られてゆく男の残忍な喜びに震えた)。

「僕の言うこと分らないかな」。「分るよ、分っているさ」(私は苦い薬を飲まされたような気分で答えた)「孫治のことを僕に話した時、御大は、『戦争も烈しくなったし、いつどういう事が起らんとも限らん。津村家を繁栄させるのは先祖からこの家を預かったわしの責任なのだ』って言ったさ。そんな理屈が嘘だってことぐらい僕にも分っている」(私はいらいらして言った)「だけど四人が喧嘩したら、困るのは御大じゃないか」(孫清がすかさず反問した)「どうして」。「だって御大はあとの事が心配だろう。お家騒動が起ったら困るじゃないの」(孫清は蔑〈さげす〉む眼で私を斜めに見下ろした)。
「御大は自分が死ぬなんて夢にも考えちゃいないのさ。独裁者はみんな自分を不死身だと思っているもんだ。だから子供達、庶子達を仲違いさせて、自分はその上に乗ってゆくつもりだよ。分裂させて統治せよだ」。
「人生は結局要領ですよ。それには人の気持ちを一足先に読むことだ。僕は子供の頃からその訓練をさせられてきたからね、分るかな」(と、孫清が言い足す)。

(この会話は、廊下で茶碗が割れる音がして中断された。女中に聞かれたのだ。女中の告げ口で飛んできた母が、きつい眼で孫清を詰問した)「孫清さん、あなた、まさか、お父さんをー」(孫清は母にむかって両手をついた)「そんなこと、このあいだはどうかしていたんです、義母(かあ)さん、いくら僕だって」。「そうでしょうね、甫は今試験前の大事なからだです。変なことに引張り込まないで下さいね」。「僕がいけないんだ。御大を殺すなんて」。「それならいいのよ、私だけに収めておけばいいんだから。緑は大丈夫よ、あなたよりもしっかりしてますよ」(母は優しく宥〈なだ〉める口調に変っていた)。
孫治と緑が新婚旅行から帰った後、「孫清さんはあれができなかったらしい」、「不能なのだ」(という噂がひろまり、二人は父の部屋に呼び出され長時間叱責を受けていたのだった。そのあと、母と孫清が暗い納戸〈なんど〉であたりを憚(はばか)りながら、烈しく言い争っていたのを私は偶然耳にしていたのである)。

「でも僕は辛いんです。『わしの子を産め、二人産め、今産めばわしのか孫清のか分らないー』なんて、あんまりだ。いくら僕に子供が作れないからと言ったって」(孫清の声は乱れた)「緑がそんなことを言いましたか」(母の鋭い言葉が撥〈は〉ねた)「御大はそんなことを言うはずがありません、それはこのあいだも言ったように嘘。あなたを刺激するために緑のつくった嘘なのです」(沈黙が落ちた。二人は無言のまま対峙していた。憐れみと憎悪と嫉妬が飛び交った)。
「お義母さんはそう思うでしょう、そう思いたいでしょう。だが僕には分っているんだ」(涙でくしゃくしゃになっていた孫清の顔は、脅すような口ぶりで獲物を狙う蛇になっていた)「でも、あなたは不能ではないわね」(母は孫清の凝視を気強く押し返す構えを見せて横坐りになった)「僕だって、御大のことを畜生!って思えば出来るんだ。このあいだ便所の中でやった」(父に呼び出され長い叱責を受けた後、孫清と緑が便所から出て来るのに、私は鉢合わせしていた)。

(言い終わって孫清は呆けたように、動きを止め、乾いた笑いが立ち笑いは次第に大きくなった。恐怖を撒き散らして、突然、真顔で言った)「でも、このままでは緑が死んでしまいます」(今度は母が面を伏せた。母と孫清の隠微な闘いは、上になり下になりしていつまで続くかと思われた。私は息苦しく、言葉を挟むことができなかった。堪え難さは次第に私の内部で腹立たしさに変質していった)「もう止めましょう。あなたが大それたことさえ考えなければ、それでいいのよ」。
(母は素早く立上った。襲いかかってきそうな激情からなんとかして身を避けようとしている恰好であった。孫清の顔に陰鬱な笑いが浮び、私を振返った。それを見た時、私の内部の怒りは急激に膨れあがって抑えられなくなった)「何故笑うんだ」(と私は口走った。自分が何を言い出すのか分らないほど私は怒っていた)「笑えるようなことじゃないじゃないか、孫清さん」(と、私ははじめて異母兄をさん附けで呼んだ)「正面から堂々と闘おうとしないから、こういうことになるんだ」(それだけを口にすると私の憤りは萎えた。結局私が頼りに出来るのは孤独な自負だけであった)。

つい憐れな孫清にこだわり過ぎて長い引用になったのも、このくだりが一人の男に支配される三者三様の心の襞を描いて小説前半屈指の場面であると思われるからだ。初対面の時、「僕はいつも御大(父親)の気のむくまま、恣意のままに振りまわされてきたんです」と、甫たち親子の前で語った孫清の心はすでに病んでいた。麻布の大邸宅で同居を始めた甫の母が、自分の同類かと思っていると最後には身をひるがえされる。まだ中学生の甫も同調者にはなり得ない。
小説だから誇張は当然としても、孫清のモデル清は静岡高校から東大経済学部を出た秀才ながら、「繊細で内向的な目立たない性格で、父親とは全くそりがあわなかった」というのが実情だったようだ。
こうして孫清は(望んだ通りに?)相続権を放棄させられ、「孤独な自負心だけで正々堂々と闘った」甫は、自ら放棄の文言を父親に突きつけた。結果的に漁夫の利を得た形になったのが、孫次郎に全面的に服従しながら成長したといわれる孫治であった。

「イタリア降伏」の日に、「むこうの奥さん」田沢静江に引き連れられて、突如甫たちの前に姿を現したこの孫治こそが、西武王国後継者となる堤義明であることはすでに述べたとおりである。
田沢静江は本名を石塚恒子といい、「彼女たちは(甫たちの住む)麻布の家からそう遠くない渋谷に住み、孫治はそこから小学校に通っていた。彼等は三鷹時代の私達と全く同じ境遇に生きていた」のである。
つまり孫治の出現によって、甫はかつての三鷹時代の自分を見出すと同時に、自分が孫清と同じ立場にいるのを自覚せざるを得なかったのである。甫より7歳下の孫治は、初対面のこの時9歳である(孫清は30歳)。
妾腹三人の義兄弟と父親との関係は、それぞれの個性もさることながら孫清が康次郎24歳の子、清二が38歳、義明は45歳という出生時による父親の年齢を考慮する必要もあるのかもしれない。生まれた時代環境とともに父親の年齢によっても、子供の感受する父親像は違ってくるものだろうから。
結局、父親の人格を最後まで否定したのが長男であり(父親も拒絶で以って処断した)、刃向かいながらも父親を理解しようと(半分妥協し、父親も警戒しながら半妥協)したのが次男、父親のスパルタ教育に不服ながらも全面的に忍従したのが、兄二人を見てきた(父親が後継者に引き立てた)三男であったのかも。

ここで義明の母石塚恒子について述べておく必要がある。が、恒子についても(操同様に)、彼女の父親石塚三郎と堤康次郎の関係から説明しなければなるまい。
大正13年の衆議院選挙に滋賀と新潟から出馬した康次郎と石塚三郎は、初当選同期であり、所属する政党も一緒だったことから親交を重ねた。石塚三郎は、元々新潟の歯科医師であった。
康次郎よりひと回り年上だった石塚三郎は、歯科医になるために上京して、当時唯一の歯科専門学校だった高山歯科医学院(現東京歯科大学)で働きながら学んだ。その学友に会津から出京していた野口英世がいた。二人は無二の親友となった。野口英世はその後、北里柴三郎の伝染病研究所に移り、学業を終えた石塚三郎は故郷で開業し、入院施設も兼ね備えた石塚歯科病院は繁盛した。
一方、24歳でアメリカに渡った野口英世は伝染病研究により世界的名声を得、黄熱病究明中に自ら犠牲になったのは有名な話である。51歳の生涯だった。石塚三郎は親友の偉業を讃えるため私財を投入して、東京新宿に「野口英世記念館」を創設した。友情に篤い奇特な男だったといえようか。その理事に名前を連ねたのが康次郎である。

石塚歯科病院の令嬢として、大正2年に新潟で生まれたのが石塚恒子である。偶然にも長男清と同年生まれなので康次郎より24歳、操の6歳下になる。新潟高女を卒業した恒子は、昭和5年東京の山脇学園に進んだ(操たち親子が、三鷹に移り住んだのはこの翌年である)。
康次郎が石塚三郎との交友を通して恒子と知り合ったのは確実としても、いつ知り合い、男女の仲となったのかは不明である。前掲の上林国雄の「わが堤一族 血の秘密」には、「昭和八年、先代は拓務政務次官(註)になりましたが、その時に次官室に勤務していた女性」だと書かれている。
康次郎の三男、恒子にとっては初産であろう?(註・この疑問符の意味は後章で触れる)義明の誕生が昭和9年5月なのだから、この記述はかなり信憑性があると思われる(山脇学園の卒業は昭和7年だったという)。出会いを昭和8年に特定すれば恒子は20歳、康次郎は44歳であったことになる。以後、二人の間には昭和13年に康弘、17年に猶二が生まれた。
(註・昭和17年まで設置されていた拓務省のこと。海外植民地などを統括していた。)

この事実を知った石塚三郎は切歯扼腕したと、どれかの著書にあったけど、信頼しきっていた康次郎に娘を汚された憤りと怒りは、かてて加えて怒髪は天を衝き、殺気みなぎり、気も狂わんばかりであったはずである。
ところが、上之郷利昭のノンフィクション作品「西武王国 堤一族の血と野望」には、康次郎が所有する箱根の別荘での次のような光景が書かれている。
「この頃、康次郎は正式の席とか遠くへの旅には操を伴って行き、週一度箱根あたりへ静養に出向く気のおけない旅には石塚恒子を連れて行ったようである」との前置きがあって、「恒子の父親石塚三郎が湯上がりに身内の者と冷たいビールをかたむけている。料理の上手な恒子が女中たちに手伝わせて作った肴(さかな)がテーブルに次々と運ばれてくる。石塚三郎たちはそれをつまみながらビールを飲み、アルコールをたしなまない康次郎は肴だけをほおばりながら、一同とりとめのない四方山話にひとときを過ごす。その近くでは、まだ早稲田大学の学生だった義明や、弟の康弘、猶二たちが寝そべって本を読んでいる・・・
知友の娘を手ごめ同然で妾にした男、知友に大切な娘を奪われ、その男の別荘でくつろぐ父親、その二人を眺めながらかいがいしく料理を作る女、奇妙な組み合わせのその三人の姿を眺めている息子たち・・・一人の、想像を絶するような強引な男によって同じ運命のるつぼの中に巻き込まれてしまった人々はそれぞれ何を想い何を考えていたのであろうか」。

義明が早大生になっているので(昭和27年以降か)、もうこの頃には石塚三郎の心頭に達した怒りもさすがにおさまっていたようだ。康次郎と恒子どちらがどうやって(義)父の機嫌をとったのであったか。おそらく、子供まで孕んでしまった愛娘の涙に、我が子可愛さでわけなく石塚三郎は落ちたのかもしれないが、かつて操の父親も野心溢るる康次郎を見込んでいたというからには(?)、やはり康次郎その人に男も惚れ込むような魅力があったのかも。
とはいえ、康次郎との関係が恒子の望んだことでなかったのは明白であろう(恐るべきは虎視眈々と獲物を物色する色魔の毒牙であったのだ)。「真面目で勉強がよくできて、色が白くて目元の涼しげな美人」(同級生の証言)だった国会議員の令嬢が、わざわざ二号さん(いやこの場合は三号さん?)になる必然性はどこにも見当たらないのだから(その証拠に、同級生の間で恒子の消息はぷっつり途絶えたという)。
こうして誕生した義明が後年(昭和62年、註)、世界一の富豪になろうとは母の恒子にとっても思慮分別の及ぶところではなかったであろうし、まして昭和33年に他界した石塚三郎においておやである。
堤義明の資産家への道のりを用意したのはまぎれもなく堤康次郎であるが、その康次郎にしても我が息子が長者番付世界一になろうとは夢想だにしなかったはずである(註)。
(註・1987年から都合六回資産世界一の富豪とされている。)

昭和27年に公職追放が解けて、再び衆議院議員に返り咲いた康次郎は28年に衆議院議長に就任したのであったが、終戦後すぐ公職追放処分が下されていた康次郎はそれまで何をしていたのか。
せっせと土地を買い占めていたのである。戦後の復興とやがて訪れる高度経済成長、田中角栄の「日本列島改造論」に代表される土地ブーム、その後のバブル景気等によってそれらの地所は放っておいても、時の経過とともに莫大な含み資産をもたらしたのである(註)。
堤康次郎が、日本復興を象徴する祭典となった東京オリンピック開催年の昭和39(1964)年4月26日に、心筋梗塞で75歳の生涯を終えたというのは、その意味でも劇的ともいえる。その数日前、恒子同伴で熱海に静養に向かう途中の東京駅で倒れた康次郎は、意識混濁のまま病院で息を引き取ったのであった。
(註・バブル期には、東京23区の土地の値段でアメリカ一国が丸ごと買えたという俗説まで生まれていたほどだ。)

時の首相池田勇人を葬儀委員長に、豊島園で自民党葬として政財界の歴々を集めて行われた葬儀は注目された。すでに西武百貨店社長の職にあり着々と業績を拡大していた37歳の清二、早稲田を卒業しコクドの社長ながら経営手腕は未知数の29歳の義明のどちらが喪主を務めるのか。喪主すなわち後継者を意味していたからであった。後を継ぐのは実績があり、兄である清二であろうと外部の大方はみていた。西武内部でも両派の対立があったという。が、当日の喪主を務めたのは義明であった。
既述したように、二度にわたって財産を受け継ぐ気がないことを生前の康次郎に文書で宣言していたのを、清二が実行したからである。清二の後継者レースからの棄権によって(操夫人も事態を静観したようだ)、堤家再興を誓約して康次郎がなりふり構わず築き上げた莫大な遺産は、そっくり義明に引き継がれたのである。
この時、清二があくまでも自己の権利を主張していたらどうなっていただろうか。西武は内部分裂して、収拾不能に陥っていたであろう。

といっても、清二が遺産を何一つ承継しなかったわけではない。西武百貨店を筆頭とする西武流通グループをそれまで通り清二が継ぎ、西武鉄道グループを義明が引き継ぐことを暗黙の了解としたのであった。しかしながら、相続時点での西武流通グループと西武鉄道グループの規模は、比較にならないほどの差があったので、清二に同情する声が多かったともいわれている。
しかも西武百貨店は、康次郎の無謀な計画でその二年前にアメリカ出店を企て(この葬儀の一ヶ月前に撤退してはいたけれども)膨大な損失を抱えていた上に、旗艦の池袋店は前年に火災事故を起こしていたのであった。つまり、その頃やっと三流デパートから抜け出しつつあった西武百貨店は、存亡の危機にさらされてもいたのである。
どうにかこの窮地も、清二の大胆で緻密な経営戦略で乗り切り、やがてはデパート売り上げ高日本一の座を奪取するまでに業績を拡大したことはすでに述べた通りである(二つのグループの財産分割が正式に決定されたのは、昭和45年の康次郎の七回忌においてであったといわれる)。

生前の康次郎からきびしく帝王学を仕込まれていた義明は、「十年間は動くな」という父の遺言を守って、新たな事業展開を極力控えたという。
高輪プリンスホテルだけは康次郎の死から七年後の昭和46年に完成されたが、西武鉄道グループが積極的にプリンスホテル建設に動き始めたのは、昭和49(1974)年からである。その建設ラッシュは、以後十年間だけでトロントプリンス(カナダ)と富良野プリンスが昭和49年、箱根芦ノ湖ホテル(昭和50年、以下同)、日光プリンス(51年)、十和田プリンス、新宿プリンス(52年)、成田プリンス、箱根プリンス、品川プリンス(53年)、嬬恋高原ホテル、西武長瀞ホテル(54年)、サンシャインシティプリンス(55年)、屈斜路プリンス、彦根プリンス(56年)、新高輪プリンス、軽井沢プリンス新館、ニセコ東山プリンス(57年)、赤坂プリンス新館(58年)、六本木プリンス(59年)といった具合である。
球団経営にも乗り出して、昭和54年には西武ライオンズ球場を完成させ、併行してゴルフ場、スキー場、スケート場等レジャー関連施設も次々に落成させていった。堤義明の黄金時代の到来である。銀行はもとより、全国各自治体までもが競っての西武詣で始まったといわれている。むろん銀行は西武の膨大な含み資産を見越しての無担保融資増大に、地方自治体はそれぞれの地元に西武のリゾート施設誘致の懇請に平身低頭したのである。

話半分としても物凄いことであるが、やがてはこれらの現象がバブル騒乱時代を生みだしていく。日本のバブル経済は昭和61(1986)年頃から始まったといわれるけれども、それに符節を合わせて堤義明は世界一の大富豪に上り詰めていったのである。
しかし世界一は単なるオマケのご褒美であって、その兆候はバブルになるずっと前から起きていたというべきだろう。事業家としても義明は、「日本株式会社」を代表する当時のトップ経営者たちから、抜群の経営感覚を有する新時代のカリスマ経営者と持ち上げられ、(その代表例として)あの経営の神様松下幸之助からも「君は二代目でなく、立派な創業者だ」との太鼓判を押されていたのであるから。なので堤義明については、(父康次郎や兄清二ともども)たくさんの実録本(ヨイショ本も含めて)が書かれているのであるが、上記の上之郷利昭「西武王国」(1982年講談社刊)もその一冊に加えていいだろう。それに後年、世界の億万長者になる男にふさわしい婚礼の場景が紹介されている。

式典会場は高層建築の幕開けを告げた東京プリンスホテルである。この東京プリンスホテルは、昭和39年のオリンピック開催に合わせて堤康次郎が建設を始め、その死去で落成を見ないままとなったホテルであり、プリンス系シティホテルの草分けでもある(初代支配人は操がつとめた)。
高松宮夫妻、三笠宮夫妻と令嬢をはじめ法務大臣、通産大臣、経済企画庁長官、衆参両院議長、日銀総裁、興銀頭取、経団連会長、東急社長、日本航空社長、三菱商事社長、八幡製鉄副社長、富士製鉄社長、日清製粉社長、サンケイ新聞会長、早稲田大学総長、元慶應義塾塾長、前首相池田勇人未亡人と令嬢、元首相岸信介、画家岡本太郎、在日大公使四名、在日米軍代表、県知事四人、芸能界関係など総勢千五百人がこの日の来賓だとある。
役職名の後にはもちろんその時の人物名が入っている。日清製粉社長は美智子妃父君であるし、サンケイ新聞会長水野成夫は後年堤清二の義父になる人物であり(辻井喬の伝記小説「風の生涯」の主人公でもある)、東急は康次郎の時代に激しく利権を争ったライバル会社である。媒酌人は福田赳夫であった。

昭和41(1966)年3月1日(義明31歳)に行われた式典は、NHKの人気アナ宮田輝の司会で進められ、総理大臣佐藤栄作からの祝辞が内閣官房長官によって読み上げられ、吉田茂元総理の祝電が披露された。「姿を見せなかったのは天皇御一家だけー」と雑誌に載った見出しを引いて、「西武王国」の著者は、その豪華絢爛の様を伝えているのにつづけて、「会長が生きておられたら、どんなにかお喜びだろう」と、会場を埋めた来賓に絶え間なく会釈しながら語る故堤康次郎未亡人操さんの声は、嬉しさと興奮にあふれていたーと、この日の模様を伝えている。
うん?。来賓の間をぬって満面の笑みで挨拶を交わし礼を述べるのは、本来新郎の実母である石塚恒子なのでは?
ところが、孫清の結婚式にひっそりと出席していた(小説の叙述が事実通りであるとすればだけど)はずの「むこうの奥さん」石塚恒子の姿は、息子の一世一代の晴れ舞台のどこを見回しても見当たらなかったのである。

「新郎の母としてこの席に参加することを許されなかった」「義明の母」と、文中にあるのだが、いったい誰が許さなかったのかについては記されていない。上記の文章をもう一度読み返すと、故堤康次郎未亡人操さんと紹介されているのに気付くであろう。
つまり清二の母操は、「あちらの奥さん」と離婚した康次郎の後釜に収まり、青山操からすでに堤操となっていたのである(このことにはある事情が働いていた。章をかえて後述する)。
この日、石塚恒子がどうして出席しなかったのか、もしくは出席出来なかったのだとしたらそこにはどういう事情が働いていたのだろうか?
恒子自身が自分の立場を慮って息子のために自粛したのか。それとも操が、あるいは西武の幹部たちが拒んだのか。それに同意して当の義明が出席をとどめたのか。真相は藪の中である。もし康次郎が生きていたら、どうしていただろう?(康次郎は二年前に死去していたが、この項冒頭の孫清の結婚式のように、恒子をそっと片隅に出席させていただろうか)。

西武王国後継者の新婦は、家柄閨閥とはまったく関係のない平凡なサラリーマン(三井物産勤務)の娘で、恒子はこの女性を以前から知っていて、義明本人よりも先に恒子の方が気に入った花嫁であったようだ。義明の結婚には、それまでに義明のことをたいそう見込んだ池田首相から娘との縁談を持ちかけられていたのを、いまだ存命中だった康次郎が断ったとも伝えられれている(長男清の妻の素性ははっきりしないながらも、義明よりも先に結婚していた清二の妻も平凡な家庭の娘ことを考え合わせれば、康次郎自身は子息の結婚に家柄閨閥等には全くこだわらなかったことを示す康次郎伝説の一つということになるのだろうか)。
この結婚に際しての義明の気持ちをあえて忖度(そんたく)するならば、義兄たち(清や清二)同様に母の不遇を幼少の頃よりずっと見続けてきた義明は、結婚において自分の好き嫌いなど度外視して、ここぞとばかりに母親孝行で応えたのであったろうか。
この日の新郎新婦の間には、やがて二男一女が誕生した。が、新郎にその後、幾人かの愛人が存在していたことが、西武王国の内幕を暴露した出版物などで次第に明らかにされていったのも、まさか、家庭の外に女を囲うことは男たるものの心得であり甲斐性なのだ、と帝王学の要諦として康次郎が後継ぎ息子に伝授した!わけでもあるまいに。


(以下、「彷徨の季節の中で」(3)につづく。)

自由人の系譜 辻井喬「彷徨の季節の中で」(1)

「生い立ちについて、私が受けた侮辱は、人間が生きながら味わわなければならない辛さのひとつかもしれない。私にとっての懐かしい思い出も、それを時の経過に曝してみると、いつも人間関係の亀裂を含んでいた。子供の頃、私の心は災いの影を映していた。戦争は次第に拡がり、やがて世の中の変革があった。私は革命を志向したが、それは、外部の動乱ばかりが原因ではない。私のなかに、私の裏切りと私への裏切りについて、想いを巡らさなければならない部分があった」
「彷徨の季節の中で」のページをめくると、いきなり目に飛び込んで来るのが、この前文である。それまでに詩集三冊を上梓して詩人として認知されていたものの、「彷徨の季節の中で」は辻井喬にとって初めての小説であった。処女作冒頭に、このように重苦しく意味ありげな文章が掲げられてあれば、たとえ作者を知らなくても興味を惹かれるであろうに、ましてや小説が作者の実人生に基づいた自伝に近い内容だと知れば、なおさらのことに。

小説発端で「私達、つまり私と母と妹の美也は、私が六歳の時に東京の郊外に移り住んだ」と書き出される土地は、まだその頃武蔵野の新開地だった、昭和8年前後の三鷹村下連雀(註)のことである。「できたばかりの中央線の駅前に、数件の商店が並んでいるだけ」で、「周囲は一面の麦畑で、雑木林や欅の群生が点在し、人々の家はたがいに離れて、林や木立に身を寄せるように建っていた」。「引越しは母の病気と私の健康を考えて計画されたのだと思う」とあるのは、私が生れつき病弱な体質であったのと母親が結核を患い横になっていることが多かったからである。
やがて辻井少年(小説名山野甫・はじめ)と妹の美也は、近接する町の小学校に入学する。「学校に通うようになっても、あまり友達はできなかった」私は、「蝶や蟻や蜻蛉を追い」、「野菜や草花を眺めていると」「時間を忘れた」。「気候のよい日など、母が起上って庭を歩くことがある。すると私と美也は、『お母さんが起きた、お母さんが起きた』と囃(はや)しながら、夢中になってそのまわりを跳びはねた」。
(註・小説とは関係ないが、入水自殺した太宰治が住んでいたことで有名。)

「週に一度、父が旧市内の家からやってくる日をのぞけば、三鷹での生活は、三人だけの、鳥や虫や植物たちの営みに囲まれた、閉ざされた世界だった」
なぜ父親が時たまにしか顔を見せないのか。それは私の母が正妻でなかったからである。
「父が家にいないということで、学校の友達は私を仲間はずれにした。二年生になって間もないある日、〈妾の子〉という侮蔑の言葉を投げた同級生を、私は気が狂ったように撲(なぐ)っていた。(略)その日、XXは本気で怒った私に捕らえられ、教室の入口に敷きつめた玉砂利に頭を何回か打ちつけられて、必死に助けを求めた。授業の開始を告げる鐘の音が、馬乗りになってXXを撲りつけている私の頭上に鳴り響いた。校舎から出てきた女教師が一瞬たじろいだほどに、私の小さなからだには殺気が漲(みなぎ)り、玉砂利には血が流れていた。
ようやくのことで女教師に引離されて、私は声を張りあげて泣いた。暑い太陽が喚(わめ)き叫ぶ喉の奥に焼きつき、校舎の壁がまぶしく白く光っていた。私は抗議がしたかったのだ。その抗議をすべき相手が、家にいない父なのか、病身の母なのか、あるいは私達の上に影を落している大人の世界なのか、私にはよく分らなかった」

「それから数日たって、美也が学校から泣きながら帰ってきた。私はXXに侮蔑されたことをかくしていたが、一年下の美也は母に問いただされて、学校でいじめられてきた経緯を話してしまった。『だってみんな美也のことを〈妾の子〉っていうんだもの』『バカ、美也はバカだ』と私は妹を叱りつけた。『なにを言うのよ、あんたは、そんな・・・』と絶句している母の顔を、私は見ていることができなかった。『甫も美也も、ちゃんとした、士族の、私の子供、なんだから、誰にも、指一本ささせません』言ってるうちに、母は激して叫んだ。『先生に言ってきてあげる』『よしなよ』私は自分でもびっくりするような、きつい調子で言った。母の表情の変化から、私は私達に弱みがあるのを感じていた。この話題から早く離れたかった。『美也、こっちへおいで』『甫ー』と私を呼ぶ母の声を背に聞きながら、私は美也を庭の隅に引張っていった。金魚のお墓を見ようよ」と。
「妾、という言葉が何を意味しているのか、私には分らなかった。ただそれが侮蔑を意味していること、自分には責任のないなんらかの理由によって、私達が不当に侮蔑される立場にあることを、私は感じていた。私が闘わなければ、母もそれと闘うことができないのだ、という発見に私は驚き、緊張した。その頃、代議士をやりながら、事業をはじめていた父は私達三人の生活、郊外での、閉ざされた生活の外側に住む、外部の、大人達の世界の人間であった」

母の呼びかけを無視して、妹を「金魚のお墓」へと誘い出す甫少年は最早、健気さを通り越していけ好かないねじくれた心情を垣間見せている。このおよそ子供らしくない態度には、三鷹の家にやってくる父に「いつもは寝たり起きたりしている」母が、にわかに活気づいて「女学生のように」「華やいでいる様子」を幾度も目の当たりにしていたからである。
この世で唯一の絶対的理解者であるはずの母が、たちまちにして父親と同じ「外部の、大人達の世界の人間」へと様変わりするのである。子供心には不審極まる母の裏切りと映っていただろう。
そのような三鷹での生活も、昭和14(1939)年の中学(旧制)入学の夏に終わる。父親が買収した港区の麻布広尾町(現・南麻布五丁目)の豪邸で親子四人の暮らしが始まったからである。中学入学を控えて私の名前は山野甫から父の苗字である津村甫に変わっていた。母だけが山野姓のままだったのは、別居中ではあったが父には本妻がいたからである。

しかしながら少年の日がそうであったように、父親との同居も甫(私)にとって歓迎すべきものではなかった。それどころか新居における忌まわしい事実の数々は、むしろ甫の心に父親への新たな敵愾心を植え付けたのであった。
それは麻布の家とは別に、品川と渋谷に父孫次郎の別宅があり、そこには「あちらの奥さん」である本妻と、甫の母と立場を同じくする「むこうの奥さん」と呼ばれる女がいて、「むこうの奥さん」には甫たち兄妹より年下の男の子が二人(現実には三人)いることを知るとともに、「あちらの奥さん」に子供はなかったが、「あちらの奥さん」に育てられたという長男孫清(年の離れた甫の異腹の兄)が麻布の家に同居しており、異様な反抗心で父孫次郎とことごとく対立する狂気染みた姿を、幾度も目にすることになったからである。
が、子供のない本妻を遠ざけて愛人を囲(かこ)いそれぞれに子供をつくることなど、津村孫次郎の人生哲学においては当たり前のことであったのだ。「女の腹は借物」とばかりに手当たり次第周りの女を籠絡する孫次郎の無節操ぶりに直面すれば、孫清や甫ならずとも正常な親子関係が保てるとはとうてい思われない。しかしながらこれらのことは小説上の誇張のみではなかったようである。事実そのままではないにしても事実そのものではあったようだ。

自伝というからには、それぞれの登場人物には当然モデルがいる。辻井喬について余り詳しくない人のために、ここで津村孫次郎の正体を明かせば、国会議員にして一代で西武グループをつくりあげた立志伝中の人物堤康次郎その人である。したがって小説の主人公甫こと辻井喬は、かつて西武百貨店を中心にセゾングループ総帥として華々しく実業界で活躍した堤清二(康次郎の次男)の筆名なのである。同様に甫の母は青山操といい、一歳違いの妹は堤邦子のことである。
「彷徨の季節の中で」の叙述のみならず、堤康次郎の女への執着はつとに有名で数多の証言がある。そのひとつが「(康次郎の)嫡出児でない子は十人近くもいたのである」、「認知されていないし、堤家の家系図にもでていない人で、堤の子供であるということが明白な人も、二人や三人ではない」というものだ。
これは戦後に西武グループの専属顧問弁護士をつとめ、康次郎の側近だった中嶋忠三郎の著書「西武王国ーその炎と影」にある。大げさすぎるような気もしないでもないが、全く根拠のないデタラメでもないようだ。その証拠かどうか、この中嶋の著書は平成2年の発売直前、西武側に全冊買い占められ、事実上の発禁本にされたという。
ところが、西武グループの実質上の後継者となった堤義明(康次郎の三男)が商法違反で逮捕されるや、新装版なって再刊行されたという曰く付きの本なのだから(この著書については章を改めて詳述する)。

思わぬ方向へ話が流れた。ともかく孫次郎は、自分の蒔いた種(不身持ち)によって長男(孫清)と次男(甫)の反逆にあうのであるが、これ以後「彷徨の季節の中で」に描かれるのは甫が高校を卒業し、東京大学に入り、左翼運動に挫折し、結核に罹患し、得恋と失恋を経てかつて母子三人の生活があった三鷹の家屋を訪ね、「幼時の記憶という拠り所を捨てて、私の裏切りと私への裏切りを摘発するために私は過去から自由にならなければいけないのだ」と、再自覚するまでの蹉跌の経歴である。

堤清二は昭和2(1927)年東京に生まれている(註)。辻井喬筆名での「彷徨の季節の中で」が発表されたのは昭和44(1969)年であった。その三年前に、堤清二は西武百貨店代表取締役に就任していた。登場人物全てを仮名にしているものの、辻井喬=堤清二だと知っている人たちは、この小説が堤家の内情を赤裸々に描いているのに驚いたであろう。自らの出生にまつわる疑惑にとどまらず、父親の不行跡はおろか一族の骨肉相食(は)む恥部までをさらけ出したのである(堤清二は、この作品で袋叩きになることを覚悟していたと言っているし、実際にその通りの現象が起きたという)。
しかし、辻井喬という分身名で敢えて淫靡(いんび)ともいえる家族絵図を世間に公表することによって、辻井喬=堤清二(かつての津村甫少年)は「私の裏切りと私への裏切りを摘発」し、「過去から自由に」なろうとしたのだと思われる。その意味で「彷徨の季節の中で」は、堤清二=辻井喬において、どうしても(いつかは)書かれなければならない小説であったのである(なお、父康次郎は小説発表の五年前に死去していた)。
(註・同年生まれには北杜夫、吉村昭、藤沢周平、城山三郎などがいる。)

経営者堤清二は西武百貨店を率いながら次々と事業を拡大していく一方で、文学者辻井喬も「彷徨の季節の中で」以降も事業の合間を縫って(註1)、妹美也(堤邦子)及び母(青山操)の物語ともいうべき長編小説「いつもと同じ春」(1983年、56歳)と「闇夜遍歴」(1987年、60歳)を書き継いでいくのである。これらは自伝三部作と呼ばれている。さらにその集大成として、はるか後年になってではあるが父堤康次郎を総括した大作「父の肖像」(2004年、77歳)で家族の物語を締めくくった(註2)。
経営者堤清二と文学者辻井喬ともどもが、それぞれの分野で卓越した評価を得たことは、事績が急速に忘却されていく現代において、それこそいまや知る人ぞ知ることであるのかも。
(註1・上之郷利昭著「西武王国」には「清二を知る詩人の大岡信は、堤清二をおだやかで爽やかな男であると称えながら『しかし、深夜、詩人辻井喬の顔は鬼になっているはずである』と語った」とある。註2・カッコ内は、刊行年と著者年齢。なお「虹の岬」は1994年、67歳の年に刊行されている。)

それでも今日において、どちらかというと辻井喬という仮名よりも実名である堤清二の方が通りがいいのかもしれない。堤清二こそは、1960年代から90年代のバブル経済終焉を迎えるまで、西武百貨店を中心に一大企業集団セゾングループを形成し、数々の文化的事業で時代をリードしたカリスマ経営者であり続けたのだから(最盛期の売り上げは5兆円、関連企業200社、従業員は10万人を超えていたといわれる)。
「不思議、大好き」、「じぶん新発見」や「おいしい生活」(註)、「ほしいものが、ほしいわ」など、今でも耳になじみがある(1980年代の糸井重里の)キャッチコピーとともに、それまで三流デパートに過ぎなかった西武百貨店を(三越を抜いて)売上高日本一にまで改革したのは、まぎれもなく堤清二の功績であった。渋谷パルコあるいはパルコ劇場、セゾン美術館、大型書店リブロ等の文化施設や西友、ファミリーマートもしくは「わけあって、安い」の無印良品などで堤清二の名を今以て連想する人は多いだろう。
苛烈なビジネス戦争の第一線での繁忙の日々を送りながら、深夜の書斎で堤清二はそっと辻井喬に変貌して詩や小説を書いていたのである。それは過去へと幽閉される辛く苦しい忍従の作業であったかもしれないが、同時に堤清二から解放されるひとときでもあったにちがいない。
(註・2011年刊行の「日本のコピーベスト500」によれば、「おいしい生活」は広告コピーとしてベストワンの評価を得ている。)

が、ここからは順序として堤清二の父であり、明らかに文学者辻井喬の誕生を促したと思われる堤康次郎の生涯について述べて置く必要がある。
堤康次郎は明治22(1889)年に滋賀県に農家の長男として生まれた(弟と妹あり。註)。ところが5歳の時に、父親が腸チフスで死去。母親は実家に戻りすぐさま商家に再嫁したので、祖父母の手で育てられた。祖母に次いで祖父が亡くなると、田畠を担保に資金を作り二十歳で上京、早稲田大学政治経済学部に入学。やがて早稲田の創始者で政界の重鎮大隈重信や永井柳太郎などの知遇を得て、大隈が主催する政治評論雑誌「新日本」の編集に携わる。この時の編集同人に恋愛の末、二番目の妻となった川崎文がいた(文は2歳年上で、平塚らいてう「青鞜」とも繋がる日本女子大卒の進歩的女性記者だった)。
(註・室生犀星、久保田万太郎、岡本かの子、内田百閒などが康次郎と同年生まれ。)

最初の妻は西沢コトという遠戚の女性で、二人の間には明治42(1909)年に長女(淑子)が誕生しており、上京前にして康次郎は父親だったのである。のみならず、上京後も早大生でありながら学業よりも色々な事業に手を延ばしていた康次郎には、その過程で知り合った女性(岩崎その)との間にも、大正2(1913)年生まれの長男清がいたのである。
この清が「あちらの奥さん」(川崎文)に育てられた孫清である。清二より14歳年長の清は、清二と同じく東京大学を出て康次郎の会社で働いていたのだが、のちに廃嫡された。その原因が、小説に描かれるように清本人にあったのか、妻(小説名緑)にあったのか、それとも別の理由があったのかはのちに判明する。

堤康次郎は、政治家よりも西武グループの創業者として名前が通っているだろうが、その事業の基礎となったのは大正4(1915)年の中軽井沢開発だったといわれる。
当時、沓掛(くつかけ)と呼ばれていた一帯を中心に八十万坪の土地を買い上げ、別荘地として売り出したのである。買収資金は当時の金で三万円(現在では?億円に)。それを学生服を着た康次郎が沓掛の村長相手に凄んだ、という(尾ひれの付いた)伝説になっている。文夫人が実家から工面して資金の一部を援助したというが(全額という説もある)、不足分はその頃の十円札の大きさに新聞紙を切り揃えて、その上下に本物の紙幣を重ね、それを見せ金にして居並ぶ地主を手玉に取ったというのだから、すでにして詐欺師まがいの大物ぶりを発揮していたわけだ(手付け金だけ先に渡し、残金は別荘が売れるたびに支払う契約だったという)。
この軽井沢の恩義で文夫人には頭が上がらず、長い間別居しながら離縁に踏み切れなかったのか(それとも単に慰謝料を払いたくなかったのか、それとも愛人それぞれから入籍を迫られるのが厭で独り者になりたくなかったのか、それとも・・・?)。

軽井沢開発に見通しがつくと、併行して今度は神奈川強羅に十万坪の開発用地を買収、次々に近辺の土地をも買い増しながら箱根土地株式会社を立ち上げた。これがのちの西武グループの元締め会社コクド(現在は消滅)の前身となる。
関東大震災後には、被害にあった皇族や華族たちの大邸宅を買収、敷地を分割して目白文化村と銘打って売り出し巨利を得ていく。続いて学園都市構想を掲げ国立、小平間に広大な造成地を買い占めるや東京商科大学(現一橋大学)等の誘致に奔走、実現を果たす。こうした事業を拡張していく段階で鉄道網の重要性に気づいた康次郎は、伊豆箱根鉄道や多摩湖鉄道、武蔵野鉄道などを手中にしていき、今日の西武鉄道の基礎を築いていったのである。

甫と美也(清二と邦子)が入学し、級友から「妾の子」といじめを受けたのは、つまり父親が設立した私立国立小学校だったのである。
「その頃、代議士をやりながら、事業をはじめていた父」と小説に書かれているけれども、甫少年が侮蔑した級友を玉砂利の上に殴りつけていた昭和9(1934)年頃は、「事業をはじめていた父」どころか、正確に記すなら〝事業をむやみやたらと拡張していた父〟とでもすべきだったのである。
かたや代議士の方は、大正13(1924)年に35歳で衆議院議員に初当選してから(滋賀選挙区)、戦後の公職追放処分になるまで連続七回当選しているので誤りはない。付け加えておくと、堤康次郎は公職追放解除後に代議士復帰を遂げるや、それ以後も連続六回の当選を果し、その死が訪れるまで通算十三期、三十三年間にわたって国会議員であり続け、事業と政治を使い分けたのである。

「彷徨の季節の中で」では、堤康次郎と清二の母青山操の出会いと男女の間柄となった経緯が次のように描かれている。青山操は明治40(1907)年生まれなので、康次郎より18歳年下だった。
「私の母は九人の兄弟がいた(註)。山野長則が経営していた銀行が破産した時、彼等は親戚に貰われたり、里子に出されたりして一家離散という状態になった。私の母と山野誠叔父が手元に残されたのは、両親が特に二人を可愛く思っていたからではないかと思われる」。「私の父、津村孫次郎が清算人として山野家に現れたのは母が十八歳の時であった」。
「その日は、お父さんもお母さんも、誠叔父さん以外は、山野家にいなかったんですって」、「御大の車に東郊産業の人が乗ってきて、『うちの社長が至急貴女にお目にかからねばならぬ急用が出来ましたので、お迎えにあがりました』って言うんですって。それでお母さんは(ああそうか)と思って乗ったら、車はどんどん走っていって、お母さんが全然知らない鎌倉の淋しい一軒家まで行ったらしいの。さすがに変に思って、それでも入って行ったら御大が一人で座っていたんです。気味悪くなって帰ろうと思っても、もう自動車は走っていってしまったし、第一、一人で外に出たことのないお母さんは、どうすることも出来なかったらしいの」。「お母さんはね、掠奪結婚なのよ」。
(註・「闇夜遍歴」では十一人兄妹となっている。うち姉妹は五人で、操は四女とされている。誠叔父は次男の位置付けである。)

文中の山野長則が士族の家柄を誇る操(小説名山野多加世)の父親。「私が連れ出された時だってあなた黙って見ていたんですものね」と、多加世から愚痴られることになる誠叔父は、そのことに感づいている多加世の反対に接しながら、無抵抗に孫次郎からお手付きの女性を妻にあてがわれる形となっている(むろん小説での話であろうが、この叔父はのちに清二が西武百貨店に派遣された時の支配人だった男で、当時の西武百貨店は叔父の乱脈経営のせいで赤字続きのため、西武鉄道のお荷物的存在だったといわれている。叔父を追い出す格好で清二が采配をふるい、立て直したのである)。

「掠奪結婚なのよ」と母親から聞いたままをしゃべっているのは、妹の美也であり相手はもちろん甫である。また「その頃、私の父は婦人記者をしていた女性(あちらの奥さん)と正式に結婚していた。彼女はもっとも文明開化した新婦人ということで政財界に名を知られていた。それは父の出世にとって好都合な条件であったにちがいない」ともあるので、まだ文夫人に利用価値があったから(離婚することも出来なくて)、「掠奪」するしかなかったというのである。
「掠奪婚」に関しては作中で、やはり美也が「孫清さんのお母さんはね、とても敬虔なカトリックだったのね。なんかの時に御大が彼女を見て、修道院から連れ出してしまったらしいの。そして無理矢理」掠奪した。カトリックでは自殺も堕胎も認められないので、孫清の母は狂死したのだと説明している(が、これは小説的創作で事実とは異なるようだ)。
東郊産業は西武鉄道を意味しているのだが、美也が父親を御大と言っているのは、実際に康次郎が社員などから御大、大将などと親しみと畏敬を込めて呼ばれていた(註)のに習った言い方で、この場合父親との距離感を示している。
(註・社是に「感謝と奉仕」を掲げた康次郎は、西武に「大家族主義」の社風を浸透させていったことにより、御大、大将などと敬称されるようになったようだ。)

何はともあれ、清(孫清)の母(岩崎その)にしろ、青山操にしろ、「むこうの奥さん」にしろ、他の女性にしても御大が力ずくで貞操を奪ったことは確かなことであったろう。完全な合意の上で事が運んだのは、もしかしたら最初の妻(西沢コト)と二番目の妻(あちらの奥さんである川崎文)のケースだけであったのかも。
なお、西沢コトとの間に生まれた長女淑子は西武鉄道社員と結婚。淑子の夫はゆくゆく社長に引き立てられ、のちには清二と敵対する様子が自伝三部作に書かれている(ただし淑子自身は登場しない)。このことは妹の邦子が、康次郎の強引な計らいで同じように西武鉄道社員と再婚して、夫が幹部に昇進していくのと符合する。

母多加世の「掠奪婚」の話の後で、妹は兄に重大な秘密を打ち明ける。すでにこの時、戦争は終っており、兄妹は「掠奪」された母の年齢に達していたと思われるのであるが、妹は言う。「甫兄さん知ってると思ったわ、本当の子供なんですもの」。
美也は、母「掠奪」のいきさつを多加世の本当の息子である兄は当然知ってるものだと思っていた、そして自分は父親が別の女に生ませた子なのだと主張するのである。
「美也だって、本当の子供じゃないか」、「孫清さんの話は嘘だよ。彼はいつも自分と同じような不幸な状態に周囲の人を引摺り下ろしたい情熱に駆られているんだ」と甫が反論すると、「いいのよ、それは」とさえぎって「美也が淋しそうに私に答えた。本当の母親が誰かなどということは誰にも分らないんだし、分ったところで仕方のないことなのだと考えている、幾分投げやりな調子だった」と地の文があって美也が言う。「でもね、考えてみると、お父さんはかわいそうな人よ。狡(ずる)い人ならもっとうまくやったと思うのよ。子供の頃、生母と生き別れしているでしょう、ずっとマザーコンプレックスから抜け出せなかったんじゃないかしら」。娘の美也は甫が驚くほど父親に同情的なのである。

このような情報を吹き込むのは、会話にあるように孫清(と緑の夫婦)なのであるが(緑は美也の友人の姉であったのを、美也が見込んで孫清の嫁に紹介した設定である)、これは実際に兄妹でこういう会話を交わしたことがあったのか。それとも辻井喬の創作だったのか?
というのも、この小説には最初から私(甫)が、自分の出生を疑うような場面が挿入されているからである。
それは「戸籍謄本にある私の生年月日は昭和2年2月10日で(註)、出生地は品川区上大崎十二番地となっているが、脳裏に残っている幼児の印象の切れ端が、出生地で与えられたものかどうか分らない」と書き始められ、「蛇の目傘を斜めにさした女の人が私の視界を遠ざかってゆく。その女性が私と関係のある人なのか、それを見る私が母に抱かれていたのか、その時、私の側に母がいたのかどうかも分らない。足下の腐った杭にぴたぴたと水が打ち寄せていたことだけが印象的である。こうした光景のどこまでが本当に体験した場面で、どこからがあとになって附け加えられた光景なのかさえ区別できない」とされている。
(註・戸籍上は昭和2年3月30日生まれ。妹邦子は昭和3年2月20日生まれである。)

この記憶の光景は、「あなたの本当のお母さん」は「もと芸者さんで、今は深川の方で花屋さんをやっているという話よ」と、緑に言われた時にも「私の目に茫漠とした水が拡がり、霧のような雨が降るなかを、蛇の目傘を斜めにさして若い女が歩いてゆく光景が浮んで」くるのである。
それはまた「私は母に抱かれて寝たことがない」という記憶を伴って(しかしながらこの記憶は、母が「胸を病んでいたからだろう」と半ば肯定できるのではあるけれども・・・)。
つまり妹が、自分は母の本当の子ではないのかもと本心を漏らした時、即座に打ち消したけれども、兄自身も潜在的疑惑をずっと引きずっていたのである。
「彷徨の季節の中で」が発表されて随分と経ってからではあるが、この時の甫と美也の疑惑についての、次のような証言がある。
先に自伝三部作「彷徨の季節の中で」「いつもと同じ春」「闇夜遍歴」について述べたが、一区切りとなる「闇夜遍歴」は昭和62(1987)年に文芸誌「新潮」の五月、六月、七月号に分載された。
ところがこの連載が終るのを待っていたかのように、「わが堤一族、血の秘密」と題された記事が「文藝春秋」八月号に掲載されたのである。そこには目を疑うようなことが書かれていた。以下、その文章から抜粋する。

「私が初めて、操夫人と会ったのは大正九年三月頃、倒産した東京土地の社長青山芳三氏のお宅でのことでした。操さんは当時十四歳。倒産ののち零落(れいらく)した青山家は荒れはてたバラック建てでしたが、そこに四人の姉妹がいたのです。その三番目が操さん、りりしい顔立ちの美しい女性でした。倒産したのち、先代(康次郎のこと)があとをひきうけたため、先代は青山家で好き放題の状態でした。まず、操の姉を口説き、ついで妹を口説いたのです。
そんなバカなと思われるかもしれませんが、先代はそういう方でした。よく言えば、〈英雄色を好む〉、そのことにかけては手当たり次第なのです。四姉妹の父、青山芳三氏は三菱に連なる名族だけに紳士です。一方、先代は野育ちで粗野。お嬢さん暮らしが、急に零落ーという立場になった姉妹には、康次郎が〈男らしく〉〈たのもしく〉見えたのかもしれません。何年かのち、二人ともあいついでみごもりました。
が、先代が一番めをかけていたのは、実は操でした。操は気丈で、なかなかうんといいません。が、先代もあきらめません。何年もかけて口説きました。全く無力化した父親、姉妹すべてが〈愛人化〉する家庭、抵抗しようにも、財政のすべてを握られているーこういう状況のもと操はある決心をしました。自らは子供の出来ない体にした上で、『あなたの言うことは聞きますが、東京ではイヤです』と言い放ったのです。『では、鎌倉へ行こう、別荘がある』『もう一つ条件があります。姉と妹は手放して下さい。そのかわり私が子供を引き取って育てます』操が身をまかせたのは鎌倉の腰越の別荘でした。
おわかりでしょう。姉の子が清二さん、妹の子が邦子さんなのです。二人の年齢は大変近い」

著者は85歳の上林国雄、明治35年生まれ(康次郎より13歳下、操より5歳上である)。康次郎記事掲載時の母方の従弟に当たり、19歳から康次郎に仕えたと紹介されている。先代とあるのは、とうに康次郎は鬼籍に入り、西武グループは清二の義弟堤義明に率いられていたからである(操も三年前に他界していた)。
いわば死人に口なしという時期に書かれた(操の姉妹たちがどうであったのかは不明)、この暴露記事がまことしやかなそれであるのか、はたまた側近だけの知る極秘のそれであったのか、まさに山野甫(辻井喬)の原体験に出てくる「蛇の目傘を斜めにさした若い女」の記憶の正体であったのか、もう確かめる術はないのであるが(註)。それにしても抜群のタイミングで発表されたものだ。
(註・この記事に対して、関係者がどのような反応を示したのか一切不明。肝心要の堤清二は緘黙したままだったようだ。なお記事掲載時、還暦を迎えていた清二はセゾングループ代表職にあり、妹邦子はパリに永住していた。)

康次郎と川崎文の結婚は、軽井沢開発に着手した最中の大正4年。上林国雄の記述が事実とすれば、恋女房にあれほど用地買収資金の世話になりながら、早くもその五年後には青山姉妹の成長に目をぎらつかせていたことになる。肝腎の文夫人のことはこう記されている。
「文さんに対して、先代は日に日に冷たくなりました。第一は子供ができなかったこと、第二はインテリのためか性に淡白であったことが原因と思われます。そして決定的だったのは、先代から花柳病をうつされたことでした。大正12年ごろのことです。
・・・先代はあいもかわらず商売女とおさかんな毎日を過ごし、花柳病(註・性病のこと)に感染したのです。日を経ずして、文さんもうつされ、片足が不自由になりました。赤坂の整形外科医XX博士の手術で、治りはしたものの、正座することができず、片足を出して座るような状態でした」
このような状況の中で文は、康次郎の長女淑子と長男清を育てたというのである。

さらには、「彷徨の季節の中で」を引き合いに出して小説中の描写、孫次郎が郷里から呼び寄せた女中たちに片っ端から手をつけたり、孫清の妻緑に「わしの子を産め、二人産め、今産めばわしのか孫清のか分らないー」と迫ったり、娘の美也から「それなら伺いますが、今年の夏、箱根でお父さんは私に触ったでしょう。風邪を引いて私が看病してあげた時、御自分の娘にーあれも報恩感謝なんですか」と痛烈に言わしめているのも、上林国雄によればどれも本当のことだと証言している。
女中の件は、康次郎の好みのタイプや性癖を知っている操夫人が積極的に康次郎をそそのかしたのだ、と。なぜ操夫人がそういうことをしたのかというと、康次郎への凄まじい復讐心からであったと説明されている。

操夫人はその復讐心を満たすために、自らあられもない挑発的なポーズをとったりして康次郎を誘惑して文夫人を追いやり、しばしば麻布の邸宅で要人接待の宴会を催し、デパートガールをその手伝いに呼び寄せては康次郎好みの女を仲介していたばかりでなく、その極め付けが清の嫁だったという、まさしく衝撃の告白である。
「当時、先代は前立腺を患っていて、管を使って排尿している状態でした。その世話を清さんの嫁にさせたのです。先代がどういう人かを知っていて、〝前〟の世話をさせたのです。先代は『操なんかよりいい』と言い出す始末、清さんとしては、〝危機〟だけに耐えられぬ思いだったと思います」
この後、清は父親に逆らうような言動ばかりするようになり、「西武の取締役にまで若いうちに精進しながら、いつのまにか、近江鉄道社長、そして朝日化学肥料の部長へと左遷されていった」のだと。

「以後、清さんは、ある意味で平穏、ある意味で、おびえきった生活をされています」。「実は、清さんの生母は八十八歳の長命で亡くなられました。他界される二十日ほど前まで、私も話をした仲なのです。何度も『清に会わせて』とおっしゃっていました。が、この件を清さんにご連絡しても『何も話すことはありません』と電話をガチャンときる始末。
一族の傷は深いのです。大企業のトップでありながら、私的な小説を自分を傷つけるように書きつづける清二さんもある意味では犠牲者かもしれません。邦子さんもそうでした」と言って、上林国雄は上記美也の言葉をあげて、「私もこれに近いことをきいて唖然としました。邦子さんがパリに出奔するはずです」と記している。

また、上林国雄は康次郎の母のことをこう書いて文章を閉じている。
「先代の母、みをは、私の父の妹でした。私が父に聞いたところでは、みをの義理の父、つまり、先代の祖父が、先代の父・猶次郎が死んだのち、みをにしきりに手を出そうとするので、逃げ帰ってきたというのです。北海道の兄のところまで急使を出して訴えたといいますからまちがいありません。当時の北海道にくるのは大抵のことではないのです。みをはその後も、康次郎兄弟のことが忘れられず、落ち着かなかったといいますから、決して、母であるみをが悪いわけではありません。堤家の血の問題はまだまださかのぼれるのかもしれないのです」

上林国雄が筆をとったのは、かつての大西武が清二と義明の二つのグループに分かれ、激しく競争しているのが歯がゆかったのでもあろう。その原因を作ったのは、ひとえに操夫人にあったのだと言いたかったようである。文夫人(あちらの奥さん)や義明の母(むこうの奥さん)には同情を寄せながらも、操一人を復讐の悪鬼に見なしているのだから。
その操の母親は大正11年に病死、操が大好きだったという父親青山芳三の死は、翌12年に起きた関東大震災後まもなくの割腹自殺だった、と上林国雄は書き残している(だから操が、いじめられた美也と甫を前にして士族の末裔だと強調したのでもあったろうか)。
操が四人姉妹だとしたら(五人姉妹という説もある)、引用文の一人足りない姉妹は、「彷徨の季節の中で」や「闇夜遍歴」にも登場する三菱の役員になる男(荘素彦)のもとに嫁いでいた長女(もしくは次女の)雪子だと思われる。

このような生い立ちと環境のもとで生きれば、子供はもとより誰とても「人間関係の亀裂」と「災いの影」とで常に心は蝕(むしば)まれ、「懐かしい思い出」さえもが「侮辱」にまみれて、「人間が生きながら味わわなければならない辛さ」へと褪色(たいしょく)していっただろう。思い出はただの記憶となるまでに。
堤清二(山野甫)がそうだったように邦子も、操も、義兄の清夫婦も、あるいは義弟の義明兄弟たちも、そして当然、「あちらの奥さん」と「むこうの奥さん」も。・・・ただ一人の男を除いて。
     怒つたり悲しんだりして/私の掌には/一握りの白い塩が残った
     風琴の音や魚の臭いがする白い塩は/碧い波濤の末裔/
     輝かしい夏の記憶もあれば/ 時として貝殻の色を放つ
     白い塩は苦い/人々が「人間の悲哀」と呼ぶ衣裳にくるんで/
     谷へ捨ててしまえば/それは「自由」と言うものだー。
     私は罅(ひび)割れた大地に立つて/白い塩を握りしめる/
     苦い味わいを味わうために
                                           (辻井喬第一詩集『不確かな朝』より)


(以下、「彷徨の季節の中で」(2)につづく。)


















自由人の系譜 辻井喬「虹の岬」(3)

ここからは「虹の岬」に加えて、多くを早瀬圭一「過ぎし愛のとき」に頼りながら書き進めていく(といっても、これまでにも一部引用してきたのだけれども)。
副題に「淑女の履歴書」とある「過ぎし愛のとき」(平成2年5月刊)はノンフィクション伝記である。女優の原節子や「天城山心中」の元満州国令嬢愛新覚羅慧生をはじめ、その時々に話題になった「淑女」六人の物語で構成されている。その冒頭に置かれ最も分量のあるのが、「老いらくの恋」後日譚ともいうべき「歌人・鈴鹿俊子の八十年」である。他の五編が文芸雑誌(別冊文藝春秋)に発表されているのに対し、俊子のものだけが書き下ろしとなっている。早瀬圭一(註)がこの作品を書くために、神奈川藤沢の川田邸で長い未亡人生活を送っていた俊子夫人を取材に訪ねたのは、辻井喬が同様に「虹の岬」執筆準備で俊子に会いに行く二年程前であったようだ。そのことは次の文章からもわかる。
(註・昭和12年生まれ、同志社大学卒。毎日新聞入社。ノンフィクション作家。)

「平成二年の元旦、俊子はいつもと同じ時間に目ざめた。前の年の秋から毎日新聞に週一回『読書日記』を連載している。(中略)元旦も独りで形ばかりのお祝いごとをし、早やばやと机の前に座った。今年は五冊目の歌集とあちこちの新聞や雑誌に書いた散文を集めてエッセイ集を刊行する予定になっている。
満八十歳になったが、まだまだ元気である。やることもあるし、行ってみたいところも見てみたいものもある。できれば歌集もあと一、二冊は出したい。人は長い間〈老いらくの恋〉とうしろ指をさし、批判と好奇の目でみてきた。しかし私は何も悪いことをしたわけではない。川田がよく使った言葉に〈宿命〉があった。そうなのだ。何事も〈宿命〉だったのだと思う」
この記述からだけでも取材に心を開いている鈴鹿俊子の姿が彷彿とさせられるのであるが、その期待に応えるように結構を整えた「歌人・鈴鹿俊子の八十年」は、ややもすると物語の前後が交錯してこんがらがってしまう「虹の岬」を補完するに格好の読み物となっている。

早瀬によれば、俊子の著書「黄昏記ー回想の川田順」(昭和58年刊)に、その「何事も宿命」へと至る経緯が書かれているという。
「先生(川田)が、私をみられる眼のいろに、ひとりの女を意識していられるように、時として感じたのは、いつの頃からであっただろうか。私の方がそうされるような、態度をとったのではなかっただろうか。たとえば疎遠になったと思うと、私は詠草を持って、先生の家を訪れた。歌を添削してもらうことよりも、ただ何となく逢いたかったのだ。そんなことを思い出しながら、私は羞恥を覚えた。先生の家から疎水べりを(註・今の哲学の道)十分も歩けば来られるところに、私は住んでいたので、先生の方も、浴衣姿でちょっと立ち寄ったりされた」
どちらが先に惚れたのか、相愛の甘い気分を「宿命」へと変化させる出来事がそれからまもなく起こった。

五月のある日、俊子は川田から鳥羽の竹田行きを誘われる。その文章。
「私たちは三条京阪の駅で待ち合わせて、ホームで電車を待っていたのだったが、人目を避けるため、少し離れていた。私たちは初めての遠出で、殊に私はやっとの思いで来ていた。哀しいような冒険をしているような、何とも複雑な気持でプラットホームに佇っていた。と眼の前へすうっと電車が入って来て、そこにいる人々がどっと車内に入った。私もそれに乗ればよいものと、引きずられるように車内に入った。そして見廻したが、先生のすがたがない。一瞬、自分たちはこれでおしまいかと思った。

その電車は宇治ゆきであったらしい。〈竹田〉へ行くには、大阪ゆきに乗って、途中で奈良電車に乗り換えねばならなかったのだ。先生はそのことを言われたのにちがいないのだが、心も虚ろの私は、よく呑み込まなかったものと見える。どうしたらよいのか、不安な気持でその〈竹田〉へ行ってみるより仕方がなかった。逢えるかどうかはわからないが。そして次の停車したところで乗りかえ、人に尋ねたりして、やっとのことでその駅に着いた。見ると、先生が誰もいないプラットホームの椅子にぽつんとかけていられた。
『どうしたの、先に来た電車に乗ったんだね、よくひとりで来られたね、よかった』と立ち上がって駅を出ながら言われた。私は逢えてよかった、と思った。けれども、一歩先生の方に近づいてしまった、とも感じた。あのままあきらめて、ここへ来ず、家へ帰っていたとしたら、或いは、いまの私はなかったとも思える。〈あなたはそれでよいのかね〉と何処か高いところから〈天の声〉が、私の反省をうながすために、ちょっといたずらをしたのではなかっただろうか」

この俊子の文章を、早瀬圭一は「歌人ー鈴鹿俊子の八十年」に直接引用しているのだけどこれはノンフィクションだからのやり方であって、小説ではあまりこういう方法はとらないだろう。が、この重要なシーンを小説家辻井喬が見逃すはずはない。「虹の岬」にもアレンジされて丁寧に描かれる。
「今のところは(註・夫が)恐くて仕方がないので、感づかれないように毎日神経を使っている。今日出てくるのだって、子供達のPTA関係の会はどういうことでバレるかも分らないから、同志社女専の同窓会が奈良であることにしてお弁当も持寄りということにしたのだった。でも、いつも同じ方法は使えない。森(夫・中川與之助のこと)は結構氣が付くところは気が付くのである。それは苦労して学資を稼ぎながら勉強した頃に養った生活感覚のせいだろう。
そんなふうな気遣いが人目を憚(はばか)る態度に通じているのだと祥子(俊子)には分っていた。原因はすべて自分が何の決心もつけられないこと、そして夫を恐れていることから来ている」

「そう考え出して祥子は、ああまたいつもと同じことだと思った。堂々巡りなのである。そのなかから、もっと強く川田が引張ってくれたらという気持が覗いたりする。しかし川田はいつも最後に近いところまで来ているのに踏止まってしまうのだ。そうすると祥子は、地位のある方だし、私のような者のことなど本気で考えてくれていないのだと心が萎えてしまう。
そこへ電車が入ってきた。落込みかかっていた祥子はあわてて乗った。気が付いたら、目の前に電車が来ていたといった感じだったので左右を見廻す余裕がなかった。扉はすぐ閉った。目で川田を探したが彼の姿がない。からだじゅうが熱くなってきた。市電にはよく乗るけれども、祥子は遠くに出かけたことがなかったから、大阪行きや奈良行きの電車に乗ったのは初めてだった。車内でうろうろしてしまい、近くの乗客に不審気に見られたのを知って、祥子は平静を装わなければならなかった。自分が、川田に言われたとおりに行動せず、考えごとに捕われて咄嗟に乗ってしまったのがいけないことは明らかだった。三条の駅に戻るべきだろうか。方向は間違っていないはずだが、もし行先が全然違っていたら大変だから次の駅で降りて確めるか。たしか乗替える駅は丹波橋と言った。

いろいろ迷った末に祥子は次の駅で降り、一旦外に出てから改札口で竹田駅に行く方法を教わった。もう駄目かもしれないと泣きそうになりながら、とにかく竹田まで行ってみようと決心した。もし、そこで川田と落合えなければ、自分達の関係は所詮結ばれない縁だったのだ。そう思うと、幾分ホッとする気持が動いたのが祥子には意外だった。それでいて、その束の間の安堵を覆い隠してしまうような淋しさが彼女を襲った。川田が向うにいてくれることを望んでいるのか、はぐれてしまうことを期待しているのか分らなくなってしまった足取りで、祥子は間違わずに行った時よりは四十分ほど遅れて竹田に着いた。
後ろの方に乗っていた彼女は出口から一番遠いホームに降りた。人影はなかった」が、ホーム中ほどの待合所に「近づいていくとグレイのレインコートを着た人が背中を見せて本を読んでいる。先生だ」

川田の方も「はぐれたと知った時、どう祥子を探したらいいのか分らず、そんな時の打合せをしておかなかった迂闊さが悔まれた」「(やはり縁がなかったのだ)と川田は思った。それならば一人で鳥羽宮をまわってこよう」「竹田の駅に降りて、気分を落着けようと袂から煙草を取り出し」「いつのまにかこれから自分達はどうしたらいいだろうと考えこんでいった。
電車が二本着いたが祥子は降りて来なかった。真面目な祥子は恐くなって家に戻ってしまったのかもしれない。そうは思っても彼女の家に問い合わせの電話をする訳にはいかない。あらためて自分は何をしているのだろうと思った。あと一電車、いや二電車待って来なかったら諦めよう。
その時、新しく電車が着いた。十数名の乗客が待合所の横を通り過ぎ、足音が絶えた。今度も駄目だったかと落胆した時、誰かが自分を見ている気配が伝わってきたー」

「先生だ、と思った時、祥子は思わず立止った。とうとう来てしまった。気配を感じたのだろう。彼は立上り、ゆっくり後ろに向き直った。まるでーそこに立っている人が祥子であるのを恐れているようなのろのろした動作だった。しかし、一歩待合所を出て太陽に曝(さら)された彼の顔は祥子を認めて輝いた。(よかった)と彼女も思った。
『先生』と言ったきり、次の言葉が出せなかった。『よかった。君は先に来た電車に乗ってしまったんだ。あれは急行だったからどうなるかと思った。でも、よくひとりで来られたね』彼は祥子と並んで歩きはじめながらそう労(いたわ)った。祥子は嬉しかった。今までの(註・夫との長い生活の)経験で、川田に叱責されると思いこんでいたのが、労られてみて分った。『人目なんか気にしないで、もっと近くにいてあげればよかった』と言われた時、彼女はもう耐えられなかった。ハンカチを目尻に当てながら、私の運命は決ってしまった、と思った。こんな優しさは、森三之助には絶対ないのだった」

長い引用になったがこれは昭和22年5月のことで、以後、二人の心の障壁は除かれ「抜き差しならないもの」となり、中川のいう肉体的関係に発展し、そして帰宅途中の中川に不貞を感づかれたのがこのふた月後の夜なのだ、とばかり思っていたら早とちりであった。よくよく確かめてみると辻井は(早瀬も)、この竹田行きは川田が俊子に愛の告白をする前年の5月だったと書いている。「宿命」の愛を竹田行きで啓示されながら一年間も何をもたもたしていたのか。慎重なのか、臆病なのか、もどかしい川田の爺さんであることよ。そんな川田のモタモタは、祥子には「ほとんど優しい拷問であった」しかしながら潜伏期間の長いほど恋情は燃え上がるのも真実なのだ。

とにもかくにもこうして「宿命」の人となった川田順が、「この世をばまからむ時に枕べにたれはゐずとも俊子来てゐよ」と歌った通りに、最愛の人に看取られながらこの世を去ったのは、昭和41年1月22日であった。84歳。俊子と中川が夫婦として過した年月を上廻ることは果たせなかった。「虹の岬」が、このひと月前で幕を閉じる所以である。
葬儀は住友各社の合同葬として盛大に行われ、武者小路実篤が友人代表の弔辞を献げたと年譜にある。それに倣って戦前と戦後の代表歌二首を添える。
     山空をひとすぢに行く大鷲の翼の張りの澄みも澄みたる
     相触れて帰りきたらし日のまひる天の怒りの春雷ふるふ
川田の歌は本来、雄壮な歌風であった。二首目は、いうまでもなく俊子との密会を重ねたあとの心の慄(おのの)きを歌ったものである。


「中川博士は昭和26年8月6日公職追放が解けたものの、母校京大への復職はすでにポストが埋まっていてかなわず、翌年島根大学教授として教壇にカムバックした。そしてその後、日本海に面した兵庫県竹野町に診療所を持つ女医と再婚、島根大に通うのに便利な竹野町に二女と共に移り住んだ。しかし思春期にさしかかった二女はやはり母親のもとで暮らすべきだと判断、二女の意思も確かめたうえ藤沢の川田と俊子の家へ引き取られた。俊子はもとより望むところであったし、当初から『二人の子供の教育については責任を持つ』と言明していた川田も異存なかった」と、早瀬圭一は二女が母親と住むことになった事情を述べている。
中川は島根大に奉職後、近畿大学や関西大学大学院などでも教えていたが、まもなく甲南大学に迎えられると、単身京都の自宅に戻った。女医との間もしっくりいかなくなっていたのも理由だったようである。この女医については、女医という以外の一切の付属情報はない。

また、早瀬は中川の経歴を次のように紹介する。
「博士が京都帝大を卒業したのは大正13年3月である。4月、同大学院に入り、昭和3年4月大学院を中退して経済学部の講師になっている。大学院を卒業せず、しかも助手を飛び越えていきなり講師になっているのはそのときのポストの空きぐあいなどの事情にもよるが、優秀な成績であったことを示している。帝国大学のエリートコースは京都の場合、旧制三高あるいは金沢の四高、大阪高等学校、浪速高等学校あたりから集まるし、東京帝国大学には旧制一高や仙台の二高から秀才が入ってくる。その上の大学院に入って母校帝大の教壇に立つことの出来るのはそれら秀才の中から選ばれたほんの数名にすぎない。旧制高校出身者がほとんどの中で、いったん中学の教師をしたあと学部に入ってきた高等師範出(現筑波大学)の中川博士は極端な言いかたをすれば異端者の部類である。そのような立場で帝大に残ることが出来たのはよほど秀れていたのだろう」
中川與之助の名誉のためにあえて引用した。中川の公職追放は昭和21年3月である。教授昇格は18年12月(49歳)なので、教授在任期間は敗戦前後のわずか二年程でしかない。

その中川も俊子に向かっては「結婚当初から『きみみたいなもの』と二言目には」ののしり、「持参金もないし、着物もろくに持っていない」とさげすみ、他人には「人当たりもよかったが、いわゆる外面(そとづら)がよくて内に悪いタイプだった」と、やはり早瀬もこき下ろしている。
まあ、これも仕方ないであろう。俊子の聞き取りによって書かれたものだろうから、評価は偏(かたよ)る。苦しい弁護をすれば、中川與之助という人物は必死で象牙の塔の競争を勝ち抜くために、俊子がもっと良家の子女であったら出世も楽だったのにという日頃の鬱憤が、ついつい愚痴、不平となって八つ当たり気味に口をついて出たのであろう(自分の家が裕福でなかったから余計にねじれて)。旧弊で固陋(ころう)ではあっても、当時においては平均的な考えであったとも思われる(とはいえ、言われる方からしてみれば堪えきれぬ侮辱であることに変わりはないけれども)。
その中川は、川田(と俊子)に対して「慰謝料などを一切請求していない。それどころか、長男が自分の手元から藤沢に行ったのちしばらくの間、養育費の名目でいくばくかの金を俊子のところに送り続けた」とも早瀬は記す(これも俊子が語らなければ知り得ない事実である)。内心では自分の非を認めていたのでもあったろうが、一面(苦労した分)、中川は寛大(お人好し)であったのでは?(甘いかなあ)。

昭和31年12月30日、中川(62歳)は脳溢血に突如襲われた。その朝「ふとんから起きあがれず、舌がもつれ、よだれを流していた」中川をみつけたのが増田冬子である。冬子は別居した女医が、昭和28年10月に同郷から連れて来たお手伝いだった。このとき23歳とあるので昭和5年生まれになる(大正15年生まれの長女の4歳下)。中川家の手伝いは三年間の約束で来ていたが、この日「以後亡くなるまでの十二年間、冬子は半身不随、車椅子の中川與之助に献身的につくすのである」
冬子が中川のところに来るときは、ただ「京大のえらい先生」とだけ聞かされていたが、住み込みで働くうちに「先生の前の奥さんが歌人と恋愛して家を出たこと」などを周りから教えられた。
雇い主である「京大のえらい先生」は、「酒もタバコも一切口にせず、いつも書斎に引きこもっていた」ので、「気難しい人だと思い込んでいたが、月日が経つうちに少しずつ打ちとけ、馴れていった。気難しいと思ったのは無口なせいといつも書斎にいるからだった」

先生は「ときおり冬子に『お金足りる?(註・毎月渡される食費や雑費のこと)』『休日は朝早く出かけていいよ』などと声をかけてくれた。根はやさしい人だった」「奥様の女医は竹野町からほとんど出てこなかった。たまに京都に来ることはあったが、自分の用事があるときだけで、先生と親しく話すこともほとんどなく、身の周りのことはいっさい冬子にまかせっ放しだった」
そのような情況のなかでの突然の事態に、冬子は身の振り方に困惑した。以前務めた神奈川江の島の会社社長から、子供たちも馴れているから戻ってきて欲しいと懇望され、来春からの江の島行きを承諾していた。ところが、事情を知った先方はこんな時に冬子を取り上げるわけにはいかない、病気がよくなるまでお世話してあげて、と譲歩してきた。これをこそ虫の知らせというのだろうか。倒れる二、三ヶ月前に先生が社長宛に「冬子はとってもよくしてくれます。今年いっぱいでうちを出て、そちらにお世話になるとのことですが、出来ましたら今しばらく冬子をこちらに居させていただけないでしょうか。とってもよく世話をしてくれます。勝手なお願いですが何卒ご考慮下さい」といった旨の手紙を送っていたことをはじめて知らされたのであった。

しかし病状の回復ははかばかしくなかった。一年間寝たきりのあと、ようやく車椅子で動けるようにはなったが、口はもつれ思うように話せない。勤め先の甲南大学のそばに行きたいと、先生は自宅を処分して大学の社宅に移った(このころ女医と離婚。その手続き一切も冬子に任されたという)。それでも教壇に立つことは叶わず、冬子の押す車椅子で大学周辺を散歩する毎日がつづいた。さらに一年が過ぎ、これ以上の回復は望めないと判断した先生は、大学が引き留めてくれるのを断って辞職願いを出し、冬子の実家がある竹野町に近い城崎(いずれも現豊岡市)に家を借りた。温泉療法を進められていたからでもあった。こうして毎日毎日の「地蔵湯」(註・城崎名物七湯巡りの一つ)通いが始まった。入浴客の少ない午後一番の男湯で先生を「車椅子から抱え降ろし、手早く衣服を脱がせて裸にし、背中におぶって大きな湯船に行く。温泉にゆっくりつけてから洗い場で軽くマッサージをする。

先生が片手をあげて何か言う。湯につかりたいと言っているのだ。冬子は『よっこらしょ』とかけ声をかけながら先生をだっこしてゆっくり湯につける。冬子の着ているものはびしょぬれになっている。そんなことを気にしていたら先生を温泉に入れることなど出来ない。湯からあがると再びマッサージだ。何度か繰り返す。冬子の額(ひたい)に玉のような汗が吹き出てくる。地蔵湯を出たらほっとしてぐったりするが、入っているときは無我夢中だ。『大変ですね。ご主人ですか』たまに温泉に入っている客が声をかけてくる。たしかに大変だが、これが日課だ。毎日温泉に入れるためにこの町に引越してきたのである」
そんな日々が約半年つづいたあと、城崎からほど近い豊岡市に先生は、京都の家を売った金で二百坪の土地を買い、家を建てた。ここが終の栖(ついのすみか)となった。

豊岡は鞄の産地である。冬子は新居で日がな一日ミシンを踏んで内職に励んだ。先生の年金だけでは生活費が足りないからだ。「そんな冬子を車椅子の先生は縁側からじっと見ている。先生の目がときおりうるんでみえたのは冬子に対する感謝の涙だったのだろうか」
すでに冬子は先生の世話を、いつまで続くかわからないが、このままつづけていくことを心に決めていた。考えてみればずいぶんと不思議な縁なのだが、いつのまにか先生の身の周りのことをするのが冬子の生き甲斐になっていたのだ。
そのころテレビがあるのは先生の家だけだった。最初テレビを見るために先生の家に集まっていた近隣の人たちは、そのうちに先生を囲んで世間話に花を咲かせだした。近くの住職が(この寺に先生の遺骨がおさめられた)、満足に口もきけずただ微笑むだけの車椅子の主(あるじ)を「京都帝大のえらい先生だったんだぞ」と言ったのがきっかけで、ややこしい問題や言い合いになったときなどは、必ず「えらい先生」の意見を聞き裁定を仰ぐようになった。先生はそれぞれの言うことを聞きながら、縦に横に首をふる。いつしか先生の家は地域の人々の集会所(交流の場)となっていたのである。

「(中川の)長女やその家族、藤沢に行った長男、二女たちもときどき父を訪ね、父の世話をしていてくれる冬子に感謝した。もし冬子の存在がなかったらどうであったろうか。父親思いであの修羅場のような嵐の中で、夫を説得し夫婦して実家に帰って父や幼い弟妹の面倒をみた長女といえども、脳溢血で倒れた父を引き取ることは出来なかったかも知れない。夫と二人の子供を抱えては多分そこまでは手が回らなかったのではないか。藤沢の長男、二女ではどうすることも出来ない。結局博士は病院に入るしか道はなかったはずだ」と早瀬圭一は書いているが、そのとおりであったろう。
「このままだと、冬子さんあなたの立場はあくまで他人のままだ。先生にもしものことがあっても、先生の年金ももらえない。この家も土地もあなたとは関係なくなる。先生の今日あるのもみんな冬ちゃんのおかげだ。形だけ、法律の上だけでいい。冬ちゃんに先生の奥さんになってもらおうと思う。みんなと相談してそう決めた。中川家のみなさんも異存はないと言っておられる。それに、これを最初に言うべきだったのだが、このことは誰よりも先生が望んでおられる。冬ちゃんいいね」

「博士が車椅子から身を乗り出すようにして聞いていた。そして一言一言にうなずいていた。冬子の頬に涙が伝わった。もったいない、思ってもみなかった話だった。昭和28年、23歳のとき先生のところにお手伝いとして来た。それから十余年の間ずっとそばにいてつくしてきた。それ以前、会社社長宅にいたときは将来人並みに結婚を夢みたこともあったが、先生が倒れてのちはそれどころではなかった。あっという間に今日まで来てしまった。増田冬子はこうして戸籍上中川冬子となり、中川與之助の三人目の妻となった」
冬子を説得したのは、豊岡に中川を気遣ってしばしば訪れていた甲南大学の同僚や教え子だった(この物語の随所に出てくる甲南大学関係者の何と人情味にあふれていることか)。
     死すべかりし命長らへこの春も大文字山に春の鳥きく
     すでになきいのちなりしと思ふときみるものきくものみなありがたし
後ろに回った冬子に背中をさすられながら、中川與之助が「再び眠りに落ちたようにして」息を引き取ったのは、昭和43年8月1日であった(川田順の死の二年後)。二日前に74歳の誕生日を迎えたばかりで、この日も夕食に冬子の作った散らし寿司を一粒も残さずたいらげていた、その真夜中だった。夜の庭に中川の好きな百日紅(さるすべり)の花が咲きほこっていたとある。

このあと、「歌人・鈴鹿俊子の八十年」の叙述は一気に平成2年初頭へと転換する。著者は豊岡に「還暦を過ぎてなお若々しい」中川冬子を訪ね、墓参や中川家でのひと幕が述べられているからだ。それは多分こういうことだったろう。
「別冊文藝春秋」に発表した五編で一冊の本(「過ぎし愛のとき」)にするには分量が少し足りないので、もう一つ物語を入れてページ数を補おうと、かねてより関心を寄せていた「老いらくの恋」の女主人公鈴鹿俊子を藤沢に訪問、俊子の回顧談にて前夫中川與之助の思いもよらない晩年の生活を聞き、増田冬子の存在を知らされた。そして矢も楯もたまらなくなって豊岡に駆けつけた。もうその時には俊子の八十年を書くのか、冬子の六十年を書きたいのか、ほとんどその比重は等しくなっていたのではなかったか。
「・・・今更ふりかえっても仕方ありませんが、こんな人生もあっていいのではないでしょうか。世間並みの結婚も出来ませんでしたし、この先、独りで年老いてゆく不安はありますが、先生のお世話をやりとげることが出来てよかった、幸せだったと思っています」
中川亡き後、ずっと城崎で旅館の仕事をしているという冬子はそう言って、目を伏せた。中川家の座敷でのひとときである。仏壇に手を合わせて、ふと庭をみると見事な枝振りの百日紅の大木が目の前にあった。今は花がない。白い花の季節にもう一度ここに来てみたいと思った、と早瀬の文章は閉じられている。

ここに書かれる百日紅こそは、冬子を象徴する花なのであろう(花は人を慰めるために咲くのではない。花が咲いているから人は慰められるのである)。
目の前に突然、身体の自由を失くして困っている人(先生)が現れた。その人を看る者は差し当り自分しかいない。その人も望んでいる。その人は自分に優しくしてくれた。放ってはおけない、出来ることをしなくては(して上げなくては、ではない)、懸命に。気がついたら、そのような状態が長く続いていつの間にか常態となっていた。それが私とその人(先生)との歳月であった。でも後悔はありません。
座敷での冬子の言葉はそう語っているかのようだ。

「虹の岬」では、唯一架空の人物であると想われる女性が(物語に膨らみを持たせるために)、祥子(俊子)の同志社女専時代の年下の学友として登場するのであるが、京都染織組合の労働運動に携わるその女友達が川田との恋に悩む祥子に「愛情から発する献身と制度に強制された献身とは違うのよ」と、それとなくたしなめて自省を促す場面がある。
祥子の夫への献身は旧社会「制度に強制された献身」であって時代遅れだ、これからは個別の自由な「愛情から発する献身」が可能な人(この場合は川田)との愛に生きるべきだ、ということになろう。
冬子の中川への介護も純心な個別の「愛情から発する献身」であり、自己犠牲的ともいえる献身であった。しかしながら、祥子と冬子の献身が同じ個別の愛情から発したものであるにもかかわらず、本質的に違うと感じるのは、・・・祥子にとっての川田は愛する人、恋する人、つまり祥子が自主的に選んだ人であるのに(愛情にも打算が混じり込まないとは限らないであろう)、中川への冬子の献身に祥子のような感情は含まれていないことにあるのではないか(あったとすれば、単純な先生への敬慕だったろう)。愛情も範囲が広いのである。
冬子の献身は、こう言い換えることが出来るのではないだろうか。(「愛情から発する献身」に至る前の)人間本能のもっとも原初的な発露であるシンパシー(他者への思いやり、共感)、それが冬子を突き動かし続けた原動力であった、と。
落魄老残の晩年に天女の化身ともいえる増田冬子に巡り合えたのは、中川與之助の僥倖(ぎょうこう)であった。天の配剤であり神仏、大文字山の加護であったと信じたい。「老いらくの恋」に、これほど似つかわしい天女伝説(秘話)はあるまい。
蛇足ながら「虹の岬」にも百日紅は、家出して逃れ込んだ俊子の実家の庭に花を咲かせているさまが、故事にこと寄せて描写されている。「百日紅」という章題まで付されて(これは「歌人・鈴鹿俊子の八十年」の百日紅に触発されたからではなかろうか?)。

 
また、この訪問で冬子は著者早瀬に「昨年秋、M子さんと二女のNちゃんが二人でこられました。御墓参りもかねて」と語っている。
M子とは中川の長女である。長女の夫が中川の教え子であることはすでに述べたが、夫Sは京都府綾部の素封家の八人兄弟の長男で、男兄弟五人いずれもが京大を卒業した優秀な家系だった。長女が結婚して間もないころ、そのSの実家へ中川は長女を随伴して出向いたことがあった。Sの両親に妻(俊子)と離婚するに至った事情を報告して詫びるためである。中川は長女をSのもとから引き取るつもりで(長女も覚悟していた)、そう申し出た。
Sの父親は「わざわざお越しいただいて恐縮です」と答え、さらに言葉を継ごうとしたとき、横から母親が「家にはまだ嫁入り前の娘もいることですし、困ったことです」と溜息をついた。離婚寸前の危機を救ったのは、Sだった。「結婚した相手はM子であって、義母の今度のこととは何ら関係はない。僕の妻はあくまでM子です」この説得にSの両親は折れ、夫婦の絆はいっそう強いものになった、と早瀬は明かしている。

この長女夫婦は、昭和24年生まれの長男(中川父娘がSの実家に離縁を申し出たとき、すでにこの長男を妊娠してたか、生まれていたのか?)と27年生まれの長女に恵まれ、今では長男は一流メーカーに勤め、長女はドイツに留学したあと翻訳家となって、現在母娘(長女と翻訳家の娘)は東京麻生の至近距離に暮らしている。
七つ違いの夫Sがもし生きていたら今年(平成2年)70歳になる(長女とは6歳違いであったようだ)。SはS鉱業に就職していたが、戦後復員するとS電工に転じ、S電工の将来を担(にな)って立つ人材と嘱望されていたが、取締役人事部長の現職で癌に冒され帰らぬ人となった。まだ54歳の若さであったという(俊子は、Sの加護を願って死の直前まで仏壇に手を合わせ続けたが、叶わなかった)。
企業名のS表記は別のところではS財閥とも出てくるので、住友のことだと解釈される。偶然ではあろうが、住友本社の総理事候補だった川田を連想させる、Sである。

俊子と暮らすために神奈川の県立高校へ転校した長男は、慶応大学に進み、卒業後民放に就職したが、今は財閥系メーカーの部長職にある。自宅の毎日新聞を読み終わると、庭伝いに息子の家でとっている朝日と交換する、と書かれているので長男は藤沢の同じ敷地に住んでいるようだ。
次女も慶応大学に進学、住友商事に就職して社内結婚した。その後家業を継いだ夫と都内で暮らし、長男同様に揺るぎない家庭を築き平穏な日常を送っているとある。
長男と次女が自分のもとに残るか母のところに行くか、その選択を中川は子供たちの自由に任せた。「もしあのとき、中川が意地になって二人の子供を手放さなかったらどうであったろうか。あるいは川田が、次々と自分たちのところにやってきた中川と俊子との間の子供に逡巡の表情を見せていたらまた別の局面を迎えていたことだろう」俊子はそのことを思うと二人に感謝の気持ちでいっぱいになる。

「俊子は、毎朝六時半頃二階東側の寝室でひとりでに目ざめる。顔を洗ったあと、仏壇に向かって般若心経を五回となえる。・・・毎朝仏壇に向かうのは順の死以来の習慣になっている。川田順に手を合わせ、ついで先夫中川與之助の冥福を祈る。いつの頃からか、先夫に対しても素直に祈る気持になっている自分に、俊子は驚いたりほっとしたりする。歳月がすべてを恩讐(おんしゅう)の彼方に洗い流してしまったのだろうか」
早瀬圭一が藤沢に取材に訪れたとき、鈴鹿俊子はまさしく「過ぎし愛のとき」に生きていた。むろんのこと、「歌人・鈴鹿俊子の八十年」に俊子の最期は書かれてない。
      遠ぞらにいなづま光る夕まぐれ豆の花かもすずろに白し
と、愛する人と子供たちへのせめぎ合う心を振り棄てて敢然と家出した頃に歌った俊子は、いったいいつまで生きたのだろうか(今日生きていたら俊子は116歳である)。どの本で調べたらよいのだろう?と思案しているうちに、もしかしてインターネットに?(あるとは想ってもいなかったのに)あった。
平成20(2008)年2月20日沒。98歳。
     風のなき日にも開き戸の軋(きし)むことありて亡きひと帰り来しかと
     夫と世を隔てせんなき生にして わが腕蚊がさす現(うつつ)をみつむ
「老いらくの恋」の生き証人として「うしろ指」をさされ、「批判と好奇の目」にさらされても来た。「しかし私は何も悪いことをしたわけではない」「何事も〈宿命〉だったのだ」56歳の未亡人には孤軍奮闘の長い長い後半生が待っていた。
その間に、「不倫は文化」に昇格し(この発言を俊子は耳にしていたはずである)一応の市民権を得、こうして原稿を書き継いでいるついこの頃にも、どこかで「円楽、老いらく」とかのダジャレを飛ばしていたっけ。

(追記・この文章、もうほとんど「歌人・鈴鹿俊子の八十年」の換骨奪胎、焼き直し(パクリ)状態になりました。お許しあれ、早瀬圭一先生。言うまでもなく、先生の本文ははるかに感動的です。是非ご一読を。また、濱川博「素顔の文士たち」からも一部引用した。)


(以下、辻井喬「彷徨の季節の中で」(1)につづく。)















 

自由人の系譜 辻井喬「虹の岬」(2)

先に「虹の岬」を伝記小説と述べておいたが、たしかに川田順という一人の歌人の生涯がほとんど余すところなく描かれてはいるけれども、この小説は明らかに恋愛小説とみるべきだろう。書方も普通の伝記とは異なっている。
人妻である中川俊子と不倫の恋に落ちた川田が、苦悶の果てに恋の勝利者となったにもかかわらず、自殺を図る場面から筆が起こされ、湘南での「老いらくの恋」がそれなりの完成をみたところで擱筆(かくひつ)される。川田66歳の昭和23年11月末から83歳になった昭和40年12月初旬までの、十七年間である。
なのになぜ川田順の全体像が可能になったのかというと、全編いたるところに回想場面がちりばめられているからである。俊子との恋の進展を綴りながら生い立ち、若き日の恋愛(徳川國子との)、住友時代や交友関係などがびっしりと合間合間に埋め込まれる。それらに入り組んで恋の進展具合もが回想となる。うっかり読んでいると、時間の前後を間違えそうになるくらいに。

なので必然、構成は緻密であり、描写は微に入り細をうがち、文章は川田順の風貌さながらに端正である。この長編が谷崎潤一郎賞を受賞したのも肯ける、といったら褒めすぎであるか。ともかく力作には違いない。作者辻井喬が、どうしてこのように主人公(川田順)に親近と共感を持ち得たのか、また女性心理にも長けていたのか(このことは重要なテーマなので章を変えて後述)。
例えばこういう描写はどうであろう。
「祥子(俊子のこと)には物静かで温順しいところと活気があって無邪気な性格が同居していたが、ほんの時たま梃子(てこ)でも動かない頑固さと相手を立竦ませてしまう恐い表情を見せることがあった」と説明される祥子が、川田から愛の告白を受けた場面。「主人にはすみませんが、致し方ありません」(註)と二度、祥子は繰り返したとある。短い受け答えで祥子という女の心理のあや、心の中で未だうごめいていた逡巡をも払い退けるようにして求愛に応える毅然たる女の意思を表すに、これ以上の表現はないであろう(と、思うけど評価は個人の好みの問題である。むろん)。
(註・辞書には「致し方」は「仕方」の謙譲語とある。普通なら「仕方ない」というところであろう。)

また、湘南での俊子との十七年間の暮らしについては、「川田のひそかな希いは、祥子が森三之助(中川與之助)と一緒だった年月よりも長く二人で暮すことだった。そうでなければ祥子の人生の損益計算書が合わない。しかしそのためには川田が九十一歳まで生きなければならない」と書かれる。
中川と俊子の結婚生活は二十余年にわたっていた。年老いて道ならぬ恋(中川に言わせると邪恋)に迷い込んだあげく、俊子を横奪する形となった川田の気持ちは、せめてそれを上まわなければ中川に、子供たちに、何といっても俊子に申し訳ないと感じるのである。この深い思いやりこそ、夫中川與之助に決定的に欠落していた情愛であったのか。
上述したように「虹の岬」は、昭和40年12月に83歳の川田が親しくしている編集者の車で時雨模様の中、真鶴岬に行き荒れた海の上空に「雲の切れ間が現れ、射してきた黄昏前の陽が遠くの雲に虹を作」るのを見る場面で幕引きされる。川田は岬の虹に何を見ていたのか、俊子と過ごしてきたかぐわしい過去か、それとも「ひそかな希い」のこもる未来であったのか。「虹はひと時、ひときわ鮮やかに輝いたかと思うと突然消えた」と続くのだが。

別の場面、川田の求愛を受け入れる前、逢瀬を重ね川田に惹かれていく俊子の心の動きは次のように描かれる。
「夫にどうなってもらいたいのか、自分が何を考え期待しているのか、祥子はだんだん分らなくなっていった。そんな迷いの雲のなかから、時おりぞっとするように強い眩しい光が祥子の胸に射し込むのであった。恐ろしさが先に立って彼女はその光に目をつぶろうとした。しかし恐いもの見たさのような気持には勝てず、気がついてみると祥子はその強い眩しい光のなかを、川田順の腕を取って歩いていた。
今以上に先生に近付いたら、私は後に戻れなくなる、と祥子の心は動揺した。三人の子供の顔が次々浮んできた。弟と妹の面倒を見ている長女の様子が想像された」

これに続く祥子の回想。
「あの子は小学校一年の時に重い麻疹(はしか)を患って、それがきっかけで甘え癖がついた。よく泣くのをうるさがって、『教養のない女に教育は委せられない』と、何度も撲られた。子供のことなので自分も抗い、そんななかで、ある時あの子の心がすーっと私に戻った。何がきっかけでそう素直になってくれたのか分らないけれど、それ以来、ずっと私とは心が通じている。その子に辛い思いをさせてしまう。
そう思うと気が遠くなるような悲しみと、悲しみゆえの陶酔が祥子を襲った。私が行ってしまえば、あの子達は不幸になる、と祥子は繰返して思った」
祥子を殴るのが森三之助で、麻疹を患ったのが長女である。この長女が母親の裏切行為に葛藤しながらも、理解ある態度で対応できる大人の女性に成長したことは前回に述べたとおりである。それはちょうどその頃、長女に好きな男性(結婚相手)が現れていたことも、大きかったに違いない。
この長女が、まだ幼い時に自分を守ってくれる母親に絶対的な信頼を寄せたというのも、このような環境下ではままある心理作用であろう。

それに引き替え、子供が泣くからといって妻に手を挙げる夫に描かれている中川與之助も、まことに哀れ極まる(森三之助イコール中川ではないとしても)。別の箇所では、「夫の手が彼女(祥子)に触れるのは撲る時か性交の時であった」とも書かれており(ある意味これ以上の侮蔑表現はないであろう)、教授昇格もたまたま空きポストがあったからだとか、終戦後公職追放を逃れるために自己保身に汲々としたとか、「虹の岬」での森三之助は徹底的に卑小な人物として登場する。
川田との対比も「(戦後の)激変する時流のなかで早瀬の岩のように立っている男と(川田)、必死になって犬掻き泳ぎを繰返し砂地に這い上がろうとして飛沫を周辺に散らかしている男」であるし、「黙って従ってくるはずだった妻の祥子が、家を飛び出してしまうような不埒な行動に出たのは、ひとえに時代の影響やアメリカ思想の感化、わけても川田順の誘惑のせいだと思っている」男であるし、「夫である自分が祥子を人間扱いしなかったのが原因だなどとは夢にも思えないし思わない」男であるのだ。

何とも救いようのない男、森三之助の人物設定はどこから出て来たのか。
川田の自殺未遂後、「『老いらくの恋』は怖れず」という大見出しで報道された朝日新聞に、「妻は引きずられた」と題した中川與之助博士の談話記事がある。「川田氏が、何人も子供のある家庭の母親であることを知りながら、昨夏ごろから歌作りにかこつけるなどいろいろな手段で彼女を誘惑したことを私は知っていた、その間何回も妻は『すまなかった』と前非を嘆いたこともあったが、その度ごとに川田氏の誘い出しはひどくなり、気の弱い彼女の完全な敗北となった、二人の結婚は彼らの良心が許したらやったらよいだろう」
家族ぐるみの付き合いをしていた川田の非道な裏切りに全ての原因がある、妻は川田の口車に乗って騙されているのであって、真人間に戻れないのなら悪人同士どうにでもするがいい!妻を狂わせた不良老人への恨みつらみがむき出しで記事に(昔の新聞記事は今の週刊誌のようだ)。

しかし、この反応は中川の立場からみれば至極もっともであったろう。今も昔も不倫をする方がどうかしていることに変わりはない。それが婚姻制度である。
腹も立とうがもうこれくらい(のコメントで終り)にして、覆った盆の水である逃げた女房の事など放って置くに越したことはない。緘黙するが一番だ。その方が余程男らしいし、いわんや帝国大学の教授だった男なのだから見栄だってあろうではないか。
と思いきや、どうしてどうして中川與之助は、この談話記事と同じスタンスに立って妻の恋愛事件の顚末(てんまつ)を著書にしているのである。今日の新書ほどの小冊子の著書は、「苦悩する魂の記」と題され十章からなっており、その大部分のページを第二章「業苦の記録」が占めている。
奥付けをみると昭和24年3月15日発行とある(発行元は京都の書店)。川田の自殺未遂が前年の11月30日、上記中川談話掲載の「老いらくの恋」報道が12月4日、川田と俊子の結婚式が3月23日なので、「苦悩する魂の記」は事件の渦中に出版されているのがわかる。意地悪な見方をすれば、二人の結婚の妨害を企んだかのようなタイミングで。

「血はあせて肉そげ落ちぬたまきはる命はつるかこの悲しさに」「千百の劔(つるぎ)に刺さるる苦しみもこの苦しみに及ばざるべし」著書のメインをなす「業苦の記録」は、中川が妻の不貞を確信した日から始まっている。
昭和22年7月3日の夜。「午後、八坂に於ける学友達との会合に臨んで十時頃帰つて来た。家の近くの橋の上に、折からの月光を浴びて喃々(なんなん)と語りつつある男女の姿が目にとまつた。先方も私の姿をみて驚いたように立ち上つた。それは川田氏と俊子とであつた。川田氏はとりつくろうた様子で『あなたのお帰りを待つていた』と弁解めいた挨拶をする。昨日の短冊の一件もあり(註・俊子が川田にもらった相聞歌の短冊)、今、目の前にした二人の行動、川田氏のそわそわした態度、いよいよその関係の並々ならぬことが察知された。私は騒ぐ心を抑えて、川田氏と俊子を銀閣寺橋畔まで見送つた。家に入つて、彼等が食事を摂つたあとの片附けてない、応接間をみて憤然となつた。その夜は憤りと不安の去来するまま一睡もせず苦悩し続けた。俊子が私を裏切つて居ること間違なしと断じた」
前回にも「虹の岬」のこの場面を抽出しておいたが、小説とは若干異なっている。

「業苦の記録」は、この記述から俊子の家出、離婚、翌年の川田の自殺行までの経過を、その都度書き留めておいたという手記と日記に基づいてリライトされた妻の不貞の詳細な記録なのである。むろんのこと、ここに書かれた「苦悩・悲しみ・怨恨・懺悔・絶望・愛欲などの複雑な心理のあと」は中川與之助のそれであって、このような手記にありがちの独りよがりの域を免れてはいない。俊子との間はこう述懐される。
「私はお前を愛していなかつたのではない。もし愛がないのならどうして私は二十年以上もお前のみを女性として見守つて来れただろう、又どうして三人の子の親として私達は過して来ることが出来たであろう。だが女性、母性に対する私の理想は高かつた。お前はこの私の考えているものからの距離があつた。しかしその距離はお互いの努力によつて次第にうめられるものと信じていた。だがそれは容易なことではなかつた。最近になつてその距離はますます大きくなつていつた。それには一つにはお前の性格が普通の人と違つたところがあり、一つにはお前のようなタイプの女を導く私の方法が誤つていたからだ。いな、私は女というものをお前以外には知らなかったから、お前をいかに愛すべきかについても分らなかつたのだ。かくして私にはつねに愛しつつも愛しえざる悩みがつづいた。かくしてお前は老歌人を恋人にもち、わけもなく貞操を捧げてしまつた。私はお前を愛そうとして愛しえざる悩みをよく知っていたがその愛しえざるものを乗り越えてより高き愛の世界へ行こうと思つている時、突如とお前の姿を見失つてしまつた。私は失望と落胆とで茫然としている。ああこれが返らぬ破局なのか」

ふう。ため息が出そうだ。歌にすれば「よき妻に育てんものと二十とせをたゞ一筋に守りものを」、「たましひの底にひそめるあるものは互に容れず二十年すぎぬ」ということになろう。これがちょうどこの時期、京大教授の座を追われ有り余る時間があった(ただし勉学だけは続けていた)男の懺悔の手記である。俊子離反の責任の一端は自分にもあるといいながらも、その大半を俊子の性格によるものだと結論づける。元々、今回の事件も貧乏学者の妻として女の幸福が満たされなかったところへ、敗戦による日本社会の変化、アメリカから自由や愛の思想が入り込んで来たために引き起こされたのだ、と元帝大の経済学者はその根本原因を貧乏のせいにするのである。
が、どうにも薄っぺらで、自分は悪くないと暗に道理を通そうとするものだから何とも嫌みたらしく、結局は妻の不貞への覆い隠せない嫉妬と怨念がいたるところに顔を出すといった具合なのである。「たまきはる我のいのちを真二つに斧うちこみて割きたる人等」より受けた傷は余りに深く、未だ流血止まないままに必死で綴ったのだろうから、仕方がないのではあるが。

次のエピソードを臆面もなくさらしているのを読めば、中川が如何になりふり構わずこの手記を書いたのかも推察できる。
「俊子の問題にこんなに苦しむにつけても思ひ出されるのは、青春時代の私に純真なそして熱烈な愛をもつてくれた教え子のXX子さんである。彼女からの思慕は十年以上も続いた。だが私はすでに俊子と結婚していたので、夫としての貞潔を堅く守ろうとの律儀な道徳心から遂にお互いに一指も触れず、私の気持も亦、単に私の教え子としての交り以上に出なかつた。私は冷淡にすぎたか」と嘆じ、歌まで添えている。「やうやうに女の子てふもの知る我に君はいまさずかなしからずや」「君住みし名張の里を訪はざりしを罪おかせるごとく今は悔ゆるも」
この手記には、すでに紹介してきたように、その時々の苦しい心境を詠んだ中川のおびただしい歌が収められているのであるが、結構ものになっているのでは?この歌はちょっとひねってあるのが中川らしいか(全く余分ながら、名張市は車谷長吉の直木賞受賞作「赤目四十八滝心中未遂」の舞台である)。

ともかくこの教え子の一件、京都まで遊学するとは三重名張の素封家の娘だったろうに、俊子を捨てて一緒になっていれば、きっと学者中川には内助の功が期待できたはずである。惜しいことをしたものだ。それも十年も泣かせて、女を知らない学問一筋の石部金吉先生といえども罪なことを。
と、単純に教え子が京大の女子学生と勝手に想像したものの、どうも違うようだ。女子学生(3名)を最初に受け入れた帝大は東北大学で大正2(1913)年だとは知っていたけど、調べると京大への女子入学は戦後(昭和21年、17名の女子/全入学者1505名中)になってからとある。大正9年に東大が女子聴講生受け入れたとはあるが、京大ではどうだったのか(その可能性は低い)。
「青春時代」「十年以上」「俊子と結婚」などから判断すれば、中川がドイツ留学中に俊子が学んだ同志社女子専門学校(現同志社女子大)が頭に浮かんだが昭和5年の設立になっている。今一つ、大正9年開校の京都女子専門学校(現京都女子大)もあるので、ここで中川が教えていた可能性もあるにはあるが・・・?それよりも京大入学前に、中川は奈良で教師をしていたのだから、お茶の水に次いで明治41年に開校した奈良女子高等師範学校(現奈良女子大)ということも?
教え子というからには教育機関で直接教えていたものと想定したが、もしかして俊子がそうだったように家庭教師ということも?名張は奈良との県境にあるのだし(さすがにこれは当時の交通事情を考えれば無理かな)。
あれこれ考えた末にたどり着いた結論は、中川先生のこのもて(た)話、そもそも本当のことなの?(ちなみに上記引用はその全文である)。深刻な手記にこんなノロケ話、必要だったの。

かなり脱線した(こんな脱線話必要だった?と、逆にこれを読んでいただいている貴方に深いため息を吐かれたかも)。本筋に戻る。
辻井喬の「虹の岬」で、森三之助すなわち中川與之助が無慈悲なほど俗物に書かれているのは、単に「老いらくの恋」を引き立たせるためだけでなく、これらの手記などによってより実像に近い森三之助を創案したからであったのか?
「苦悩する魂の記」には、他に「去りゆく妻に」だとか「川田順氏に」とか「いとしき子等へ」といった章題の文章もあるけど、どれも「業苦の記録」と大同小異である。陰惨な手記とは別に「若き人々へ」や「教え子からの便り」(あの教え子ではない。念のため)などこれからの世代に宛てた元大学教授らしい文章も混じっているのは微笑ましいのだが、それとて特に取り上げる程でもない。
また巻末には「子として思う」という長女の実名(それも婚家先姓名)の署名文が添えられていたのにはどきりとしたが、それよりギョッとなったのは巻頭の中川一家の口絵写真を見たときだった。和室に飾ったひな壇の前で長女を真ん中に長男と1、2歳だろうか、まだ幼い次女を抱いた和服姿の俊子が座り、中川だけは卒業写真の欠席者のように右上丸枠に顔だけが収められている。「過ぎし日」とあるだけで写された日付けの記載はないのだが、こちらも子供たちまで実名入りである。

再び、うーん。中川與之助はいったいどういうつもりで写真まで載せたのだろうか。戦前のどこかの学校の制服だと思われる服装をした長女は、著書が発行された際には成人して結婚も済ませていたから良いようなものの、長男と次女は地元の学校に通う未だ中学生と小学生であったはずである。実名まで載せて大丈夫だったのだろうか。京都の町ではこの恋愛沙汰を知らない者などいないほど公然の秘密(言葉は矛盾するが)となっていたから、隠しても無駄だと思ったのか(そうだとしても、いくらなんでも子供たちまでさらし者にしなくても)。
詳細な記録本「苦悩する魂の記」には、しかし真偽は別としていくつかの新発見があったので(長女の手記まで併載しているのだから全くのデタラメでもないだろうと推測して)、小説「虹の岬」と相違したり書かれていない事柄を拾い上げてみる。
先ず一つ目は、川田と中川家との係りの最初は中川を通しての交際だったようで、昭和18年から始まっており、戦後になっても一緒に淡路島へも旅行をしたり、以前から俊子と共に手すさびに歌を習っていた中川は、川田と知り合ってからはやがて川田からも指導添削を受けていたとある。川田も「君が行く学びの道は知らねども熱き血しほの詩人とおもふ」と学究中川を讃える歌を贈っている。俊子も内弟子となったので、夫婦共々での歌の師匠になったということだったのか(ここら辺の詳細は不明)。子供たちは「よいおぢいさん」と呼び懐いていた川田が、「子の愛を知らざる人に子の母を奪われんとして父我は怒る」驚天動地の事態を引き起こしたというのである(承知のように川田に子はなかった)。

二つ目、中川の追及に俊子は川田と肉体的にも結ばれていたことを認めている。「身も肌もつひに許せしとききしときわが事すべてうちくだかれぬ」時期は、恋仲の関係にあるのが発覚した7月の夜よりふた月前だとされる(川田の求愛告白の時期と一致する。「虹の岬」に、それを示唆する描写はない)。
三つ目は俊子の離婚と結婚を後押したのは、俊子の母であったらしいということ。この経過が面白い。娘の不貞を知った母親は、最初「何てことをしてくれた」と嘆いたが、娘の意志が固いことを知るにつれて態度が変わり、単身川田家に乗り込んで行くと初対面の川田は「平蜘蛛(ひらぐも)のように」頭を下げ、母親が「あんたと俊子とこんな関係になつてしまつて、俊子はことによつたら中川家から出されるかも知れません。あなたは俊子をどうしてくれますか?」と詰め寄った。
川田にとっては渡りに船である。そうなるのを待っていたのだ、すぐに俊子を引き取り全財産を俊子に与え、母親たちの面倒も出来るだけみます、嘘ではありません、息子(同居していた川田の養子)を証人にさせるから、と言って息子を呼びに行ったことになっている。これを聞いて母親は完全に変心した。この頃中川は、公職追放による無職の身で収入もないままに学問の研究だけを続けていたのであったから、かつて俊子との結婚をそそのかした張本人にも将来を見限られ、娘のみならずその母親にも裏切られたのである。このときの母親は還暦を過ぎたところで、川田より5、6歳下だったとある。

まだある。川田の遺書は中川にも送られていた。それには「中川與之助先生  死を以て貴下に謝罪し奉る  令室は女性にして弱者なり、希くは寛大に赦し給はんことを  十月  日  川田順」とあった。
中川はこれに対して「今更『死を以て謝罪する』とは私にはうけとれぬ。過去一年間以上、我等多勢のものに血涙を絞らせて来たのではないか。今漸く理性が目覚めたというのであろうか。そうだとすれば一年半も川田氏の理性がどこへ行つていたのだろうか。私には分らない。又、〈令室〉とは誰を指すのか、自分が執拗に手を引かなかつたから遂に離縁された俊子ではないか。母の家へ帰つてからの俊子とは遠慮のない実質的の夫婦生活をして来ている筈の二人ではないか。最早どこに私の〈令室〉があろうか。私には不可解である。川田氏が何故に自殺的行為をしたものか、私にはその理由が謎である」と言い放っている。もっともな言い分であろう。

他にも、川田の養子夫婦は俊子を川田家へ迎え入れるわけにはいかないと反対していたことや離婚届けにもいざとなったら俊子はハンを押し渋ったとか、川田が芸術的に行き詰まったのを打開しようとして始めた恋であったとか、それに引きづられ騙された俊子は、川田のいう「芸術は道徳を超越する」との芸術観にかぶれて、芸術的に結びついた場合の不義は不道徳ではないと言い出す始末で、どうしても翻意させるに至らなかったとも。
あるいは長女は母に猛反対して「母も殺して、自分も死ぬ」と組打ちの争いをしていたとか、小さなことを挙げればキリがないのだけど、神(キリスト教)にすがり仏に祈り、積んでは崩し崩しては積むという果てしない泥沼劇は、下手な小説を読むより真に迫っているかも。
この間に中川は富山の父を亡くし、「汝の不幸あはれみ嘆き淋しくも父はゆけりと母のたまはす」と詠んだ母をも相次いで喪うという文字通りの親不孝にも直面していた。(前章と同じ文句を重ねれば)まさしく中川は、この時期に人生のどん底にいたのである。

もう一つ。巻末にある手記で長女が母親になっていたことがわかる。
「時は流れ、日は過ぎ去りました。悩みにもがき、あえぎながらも、私の幸福をと切実な父母の願いの中に、ともかくも私は祝福にみちて結婚致しました。そして、今では与えられたみどり児の安らかな寝顔に幸を感じつゝ、静かに、父を母を、そして川田さんを、私なりに見つめることが出来るようになりました」と記し、「まだ幼い弟妹達の今後に少しでも暗い影が射さないように祈りますと同時に、私はようやく歩み初めた人妻として、又母としての生活に、自分の魂を燃し尽すひたむきな愛情をもつて夫と相携えて歩みたいと希つております」と結ぶ(手記の日付は昭和24年2月10日)。
父の不遇を哀れみ、母と川田の幸せを願い、弟妹の行く末を思いやりながら「神様はどうしてこんなに厳しいさだめをお与えになつたのでしようか」と悲嘆にくれる心情は、同時に「心の底で描きみる夢はたった一つ、遠い何時の日にか両親とそして弟妹達打揃つて共に語り合うことの出来る新しい日なのです」と失った世界の復元を願わずにはいられない。この心情こそが、中川が、俊子が離婚を最後の最後まで引き延ばした理由であったろう。その原因となった川田をも受け入れられる、優しくて賢い娘である。

いささか中川與之助の著書にこだわりすぎたかもしれない。再び、「虹の岬」に戻って中川親子のそれからを追ってみよう。
京都に残して来た長男が母のもとにやってきたのは、川田たちが国府津に住み始めた翌年(昭和25年)の9月ことである。高校生になった長男の「一緒に住みたい」という手紙に川田がどう反応するのか、思い惑って言い出せず悶々とした日を送っていた俊子が、意を決して川田に手紙を見せると川田は心から喜んでくれたのだった。長男を迎えて川田は家を建てる決断をした。不安定な文筆収入ではあったが、住友の銀行に相談すると「何の担保も保証もなく」気持ち良く資金の融資を受けることができた。この前後に中川は結婚したとある。相手は女医だった。
藤沢市辻堂に新居が完成したのは、昭和27年11月である。すると翌年には、小学校を卒業した次女が母親のもとに(母親と離別し一人孤独に耐えていた思春期の娘が、再会した母親と心通わすシーンはさりげなく書かれているが、感動的だ)。

再婚した女医ともうまくいかずに別居状態にあった中川が脳溢血で倒れ、半身不随の車椅子生活になったのは昭和31年暮れのことであった。情報はすべて長女からもたらされた。「母親替りの役割からやっと解放され」ても、一人になった父親の身の回りの世話を続けていたのである。
長女は「もう別れてはいるが、森の二度目の妻であった女医と相談して、彼女の同郷の実直そうな少女に住み込みで世話をしてもらう手筈を整えた」とある。女医は兵庫県の日本海に面した竹野町(現豊岡市)の出身であった(その地で開業していた)。
車椅子生活の中川與之助は次のように描かれている。
「二度の離婚で、森三之助(中川)は相手を罵ったり手をあげるような烈しい気性を失くしていた。昔より一層無口になった。もともと男でも女でも、相手を対等の立場に置いて気持を通わせることの不得意な性格であったが、続けて愛を失った体験は彼に何事も我慢してひとりで耐える、さらに頑なな姿勢をつけさせてしまった。時おり訪ねる尚子(長女)に対してさえ、決して心を開いてはいない目を向ける時があった。
しかし後遺症が重く、半身不随の車椅子の生活になると、一人で耐えるのも限界があった。彼は尚子と五歳しか違わない少女に頼るしかなかった。隣に並んでいるものは敵だという立身出世のための長い苦労の道程と、自分の権威を少しでも高く輝くものに見せようとする虚勢が崩れてしまうと、彼の意外に素直な顔が現れてきた。それは祥子(俊子)が一緒に暮した頃には見せなかった顔である」

「虹の岬」にあっては相も変わらずさんざんに書かれる中川だが、一方の川田はその中川に(小説だから森に)見舞いの品を送ることを思いつく。未だに消えぬ贖罪(しょくざい)の気持ちからだった。祥子(俊子)は「内心驚き、困惑したが、やめてくれとも有難うとも言えず、黙って」いるよりなかった。
見舞いの礼状は来ず、川田はそのうちに「森三之助が教壇への復帰を諦め、城崎温泉に家を借りて、附添いの少女と一緒に移ったという報せを受取った」とあるので、長女が知らせたのであろう(ただしこの見舞い品の件は作者の創作か?)。
繰り返すけれども、「虹の岬」に流れる時間は昭和40年12月までである。この時点で次女は大学生になっていることを知らされるのではあるが、残念ながら中川(森三之助)が登場するのは城崎温泉行きまでである。
したがってここまで述べてきた川田順と俊子、長女、長男、次女たち、及び中川輿之助のそれからがどうなったかについては、「虹の岬」ではわからない。
それを知りたいために、「虹の岬」後記の参考文献一覧にある著書を図書館で探した。川田のものはいくつかあったけれども、一番読みたかった俊子夫人の回想記を含めた著書が一冊もなかったのにはがっかりした(なのでどれ一つ読んでない)。
その代わりに見つけたのが、長々と引用した中川與之助の「苦悩する魂の記」だった。ところが、この著書は参考文献一覧には掲載されていないのに、「虹の岬」冒頭で触れられていたのだ(再読して気づいた)。

ひそかに自殺を決意した川田が(そのことは何も知らない)祥子(俊子)を伴って、川田の前に中川夫妻が短歌を習っていた老歌人にいとまごいを告げに行く場面がある。祥子の後事をそれとなく託しておきたかったのである。そこで二人は、中川が「近々本を出版」するという話を聞かされ、祥子は内心「どんな本を出版するのか気になった」と書かれている。この本が「苦悩する魂の記」であったのは間違いない。
なのに何故、辻井喬は「虹の岬」参考文献一覧にこの本を挙げていないのだろう?不思議だ。読んでいないはずはないだろうに、参考にならなかった(まさか)?
一覧には中川の著書は一冊もないのに、俊子のは五冊もリストアップされている。掲載順に「黄昏記」(1983)、「夢候よ」(1992)、「宿命の愛」(1949)、「死と愛と」(1970)「女のこころ」(1964)である。題名からも、おそらくどれもが川田との恋愛回想記だろうと思ったが、なかでも「宿命の愛」の宿命という言葉は川田の愛用語だったのを知っていたので(「老いらくの恋」を綴ったものだと確信して)、一覧にはなかった刊行年を調べてみた(カッコ内)。意外や意外「宿命の愛」は、1949年すなわち昭和24年発行となっているではないか!中川の「苦悩する魂の記」と同じ年なのだ!
中川と俊子は同時期に同内容の著作を(たぶん)、猿蟹合戦のごとく競うようにして世に送り出していたということだ。これにはもっと驚いた(俊子の「宿命の愛」にもひょっとして家族写真が?まさか、まさか)。

図書館にないのだから仕方ない。俊子の本はあきらめて、さして期待もせずに参考文献にあった別の一冊、早瀬圭一著「過ぎし愛のとき」(文藝春秋刊)を借り受けたのがラッキーであった。川田と俊子の「老いらくの恋」の一部始終のみならず、川田亡き後の俊子の暮らしや中川與之助のそれからが書かれていたのである(子供たちのことも)。
「過ぎし愛のとき」によると、城崎温泉へ同行した少女は、中川與之助にとって失意の日々の生きる支えとなったばかりでなく、三番目の夫人ともなる天女だったのである(これにも驚かされた。そして読みながら思わず、この少女に落涙したのである)。
なお、参考文献一覧に続く後記には「国府津、藤沢など川田順晩年の住いなどについては夫人の鈴鹿俊子さんに直接お話を伺うことができた」とあるので、「虹の岬」を起稿した平成5年頃に俊子夫人が健在であったことがわかる。遠い昔に「夫を我を苦しめ抜きし罪知らば死して詫ぶべき妻に非ずや」と、悪態をつかれた元中川夫人は83歳の長寿を保っていたのである。


(以下、「虹の岬」(3)につづく。)





 

自由人の系譜 辻井喬「虹の岬」(1)

夏も終わりかけた昭和24(1949)年8月30日、箱根強羅(ごうら)の山荘で避暑暮らしをしていた斎藤茂吉と宗吉親子は客人を待っていた。来客は茂吉の友人で、歌人の川田順夫妻であった。
炊事係の宗吉がもてなしに気をもむと、茂吉は「なあに、あいつは金持ちだから立派な弁当を持ってくるよ」と繰り返すばかりで取り合わなかった。それでも気を利かせて、ジャガイモと豚肉の煮物を作っておいたのがよかった。近くの国府津(こうづ、現小田原市)からやってきた夫妻は、桃と蒲鉾の土産は携えていたが、茂吉の期待した豪華弁当の持参はなかったからである。肉ジャガとご飯に、慌ててこしらえた吸物が添えられての昼食となった。

この日のことをのちに作家北杜夫となった宗吉が、それからおよそ四十年後(1987年)に「茂吉と川田順」と題するエッセイに書き残している(註)。「川田順夫妻が訪ねて来られた時のことは、かなりよく記憶している。まだ青年になりたての私は、老いらくの恋を成したという川田順という人物に興味を抱いていたし、より一層その夫人がいかような人であろうかと、茂吉に劣らず観察していた」
つまり宗吉は、そのころ新聞や雑誌などで「老いらくの恋」としてスキャンダラスに報じられていた川田夫妻(茂吉は初対面の新夫人)に多大な好奇心を募らせていたから、還暦の年になっても記憶に鮮明に残っていたというのである。
茂吉は川田順と二人きりの話がしたかったのだろう。やがて宗吉に夫人を強羅公園にでも案内するように言い付ける。
(註・このエッセイは新潮文庫「見知らぬ国へ」に収載されている。)

宗吉は川田夫人と連れ立って散歩に出た。
「その奥様は汚らしい大学生活をしていた私の目には、何とも楚々(そそ)とした美人に見えた。いや、ほんとうに美しい方であった。態度物腰もみやびなもので、京美人とはこのような女なのかと私は胸の中で驚嘆した」
そのうちに夫人と宗吉は強羅駅に差し掛かる。と、夫人は川田に煙草を買って帰ろうとしたのであったが、夫人はおもむろに宗吉に訊(たず)ねる。煙草の値段を!それに宗吉はまた仰天したとある。どうやら雅びやかな京美人は、このとき初めて夫の煙草を買ったのであろう。
こういう場面に出くわせば、宗吉ならずとも強い印象となって記憶に残ったであろう。

とはいえ川田夫人、旧姓鈴鹿俊子の行為は気取っているのでもなんでもなくて、自然な振舞いであったにちがいない。ただ宗吉が圧倒されていただけだったろう。川田順と鈴鹿俊子は、この3月に結婚したばかりであったのだから。
山荘に夫妻を出迎えた茂吉はこのとき67歳(この四年後に死去)、川田順も茂吉と同年生まれであった。それに比して俊子は39歳。しかも俊子は川田と結ばれるまで、三人の子を持つ京都大学教授中川與之助夫人だったのである。「老いらくの恋」が世間を騒がせた所以である。
なお、北杜夫のエッセイには、当日の茂吉の日記が添えられている。
「午前九時半駅頭二川田順夫妻ヲ迎フ、雑談、午食(ビール)、川田ハ白桃、かまぼこ土産、余ハビールト菓子ト汁トヲ馳走(ちそう)ス。宗吉、夫人ヲ強羅公園二案内、川田寂シイヤウナコトヲ話ス、・・・午後二時辞シ去ル・・・」

辻井喬「虹の岬」は、この「老いらくの恋」成就とその後を丹念にたどった伝記小説である。平成6(1994)年に刊行された「虹の岬」にも、茂吉親子と川田夫妻の強羅での一日がちゃんと書き込まれている。
「次男と二人の山荘暮しだと聞いていたが、川田たちも京都を逃れて来て間もない時期で、新しい生活への不安もあり、会っても差支えない人に出来るだけ会いたい心境でもあったから、斎藤茂吉のために弁当を作って持っていくというところまでは気を廻すゆとりはなかった」
茂吉の日記には、川田たちが弁当を持って来るだろうと期待した記述はないので、作者・辻井喬はたぶん北杜夫の文章を読んでいたのだろうと推察できる。
続けて「男同士の話ばかりしていても、奥さんは退屈でしょう。息子に案内させますから、この近くを少し御覧になりませんか、公園も見晴し台もあります」と、「あわてて昼食の用意をしていた次男に聞えるように」、茂吉に言わせているのをみても(ただし煙草のことまではさすがに触れてはいない)。

やっと男同士になった茂吉は、待ちかまえていたようにこのあと驚くべき発言を川田に浴びせるのだ。
「つかぬことを聞くが、あちらの方は大丈夫なのかね」と。「それはまあ、ああいうことは気持の問題だから」とあいまいな川田の答え。互いに67歳の男の会話を、辻井喬はこうつなげる。
「実は茂吉は二十七歳も違う婦人と再婚した川田の訪問の意を受けた時から、それを聞きたくて仕方がなかったのである。もし川田が男としてまだ現役なら、どうしたらそれが可能か、いい方法があるのかと医者の彼が教えてもらいたかったのだ」
当然のことに興味津々の茂吉は、「自分より四ヶ月は年とっている」友の返事に納得しなかった(川田は1月、茂吉は5月生まれ)。

茂吉の「不満気な様子を見て」、「茂吉がそのことで悩んでいるのだと思った」川田は、自分の「答えが茂吉に打撃を与えたような気もして、何か相手を慰める言葉を吐かなければ」と、とっさに思い直して「やはり僕も年だから、営みの方はだんだん間遠になるがね」と言い足した。
しかるに取り繕ったつもりで、又々まずいことを口走ってしまったことに気づき、慌てて「それに替って、いろいろと楽しみを増やしてやらなきゃならんのだ」と少し矛先を転じると、「それはどういうふうなことかね」と具合よく茂吉が食い付いてきたので、映画や芝居を見たりうまいものを喰ったりしたいのだがね、でもそれには金がいる、いま自分には満足する収入がないので妻が可哀想になったりする、と正直に現状を打ち明けた(川田たちの京都から国府津への転居は、ほとんど無一物での逃避行であった)。

それを聞いた茂吉の反応。
「茂吉は〈ふむ〉と唸り、〈馬鹿な奴だ〉という気分になった。川田がこれほど純情だと思っていなかった彼は少々鼻白み、かつ気圧(けお)されたのである。と同時に、この純情さでうまくやっていけるのだろうか、女を手懐けるには純情ばかりでは駄目なのだが、と心配になった。矛盾しているが茂吉のなかに川田への新しい友情も動くようであった」
また、やはり川田と親しかった歌人の吉井勇と比較して、「吉井勇のように花街で遊んだ経験を持たない川田は、そうでなくても生真面目で不器用なところがあった。それだからこそ大恋愛事件になったのでもあった。吉井勇などはむしろ川田のように一途になれるのは羨しい、歌人らしい直情怪行だと彼を応援したのだったが」とも書かれる。
二人に比べると川田順という男はかなり純情だったことになりそうだ。

とはいえ茂吉と川田の会話の内容までが、北杜夫のエッセイに具体的に書かれているわけではない(示唆されてはいるが)。
茂吉と川田が強羅で邂逅(かいこう)した年、すなわち川田と俊子が結婚した年の前年に川田順は、一切の役職を退き遺書を友人等に送付、京都鹿ヶ谷の川田家墓前にて自殺未遂を引き起こしていた。
茂吉も遺書を受取ったが、すぐさま無事であるとの電報に接した。そのときの川田宛返書が茂吉全集にある。
「拝啓 あゝおどろいた。あゝびつくりした。むねどきどきしたよ。どうしようかとおもつたよ。しかし電報拝見安心したが、無理なことしてはいかんよ。お互いにもうじき六十八歳ではないか。レンアイも切実な問題だがやるならおもひきつてやりなさい。一体大兄はまだ交合がうまく出来るのか。出来るなら出来なくなるまでやりなさい。とにかく無理なことしてはいかんぞ。(中略)たまには上京しろよ。ぼくはチャシューメンでもおごるよ。あゝおどろいた。もうこの老山人のおどろくやうなことしてはいかぬぞよ」

どうやらこの手紙を参考にして、強羅での男二人の密談を辻井喬は組み立てたのだと想われる。茂吉が真剣にさぐりを入れるのを、はぐらかしながらも取り合わざるを得ない川田、その大の男二人のやりとりを想像すると思わず笑いが込み上げてくるのであるが、珍妙なことにこれを書いていた辻井喬も67歳であった上に、辻井と北杜夫も同年生まれという偶然まで重なっていた。
粘液質で執拗な性格であったとされる茂吉の突っ込みに、ひたすら生真面目一方で受け答えをする川田に、少々白けながらも茂吉は新たな友情を覚える。中々にいい場面である。
それにしても性に対しての茂吉の開けっぴろげなさまは、医者故のこだわりのなさであったのか、実相観入の作歌姿勢が自然と出たものだったのか。「こぞの年あたりよりわが性欲は淡くなりつつ無くなるらしも」と茂吉が詠んだのは47歳で、「茂吉は性において早老であったと思われる」と、息子の斎藤茂太か北杜夫のいずれかがどこかに書いていたように記憶するけど、茂吉が若い愛人の永井ふさ子と関係を持ったのは、それからはるか後年のことであった(前章の北杜夫「楡家の人びと」を参照ください)。

これも摩訶不思議なことに、茂吉の恋人永井ふさ子と川田夫人俊子も明治42(1909)年の同年生まれだったのだ。
だから余計にしつこく「交合」について、川田を攻め立てたのかも(川田自体は茂吉の恋を、その時点で知らなかったわけなのでちょっとアンフェアだが)。もしかしたら茂吉がふさ子と別れた真の理由は、茂吉の「交合」の自信のなさから生じたふさ子への思いやりだったのかも?(茂吉が早老体質であったのは確かだったようだから)。
茂吉の恋は、茂吉の一方的な判断で戦前に終了していたのに対し、川田の恋は戦後になって生じたものであった。川田の前妻は戦前に亡くなっていたので、茂吉たちとは逆の組み合わせであったわけだが、もし川田たちの恋愛が戦前に起こっていたとしたら「老いらくの恋」は別の決着になっていたかも。茂吉たちと違って川田と俊子の関係は姦通罪に処されたかもしれないのだから。

これまで綴ってきた文章によって、川田順と中川俊子が京都に住んでいたこと、俊子が子を持つ人妻でありかつ夫は京都大学教授(正確には元教授、戦後公職追放処分となっていた)の地位にあったこと、川田が自殺未遂を起こしたこと、「老いらくの恋」報道が世間の耳目を集めていたこと、夫婦となった二人が京都を去って神奈川国府津に転居した晩夏に茂吉を訪ねたことなどを、どうにか了解してもらえたことと思う。
そして、この山荘のささやかな昼餉(ひるげ)から幾星霜を経て川田順の天命が尽きるまで、「老いらくの恋」の日々は湘南の地で穏やかに続いたのである。一人残された俊子は、夫と暮した年月よりはるかに長き時を歌人として過ごした。
川田順、俊子夫妻は、今日ほとんど忘れられた存在となっていると思われるが、それでもときに思いもかけない場所で(例えば、芸能界のニュースや酔客の発するだみ声などで)、「老いらくの恋」という言葉を、ひょいと耳にすることはあるやもしれない。


以下に「老いらくの恋」誕生の概略を述べる。
明治15(1882)年生まれの川田順の父親は、剛(たけし)、号を甕江(おうこう)と称し、徳川幕府最後の老中から明治天皇の下で最初の文学博士となった。明治29年、東宮(のちの大正天皇)侍読の現職で沒。母親は本多かね、浅草蔵前の商家の娘。二度の離婚後、甕江の愛妾に。順12歳、妹10歳の時、37歳で病没。翌々年甕江死去。以後、腹違いの本家長兄の庇護を受ける。次兄、長姉、次姉あり(尾崎紅葉「金色夜叉」お宮のモデルになったのが、「虹の岬」には川田の妹とあるけど、これは長姉綾子の誤りでは?「金色夜叉」執筆時期と妹の年齢が合わない)。
一高から東京帝大法科を卒業した川田は、住友本社へ入社。常務理事となり、いずれ総理事と目されたが、昭和11年54歳で突然辞職。2・26事件等に対する軍閥や財閥の対応に嫌気がさしたのだといわれる。

以後、15歳より始めていた和歌に専心。昭和17年歌集「鷲」で第一回帝国芸術院賞、昭和19年朝日文化賞。終戦後の昭和21年より東宮(のちの平成天皇)御歌指導役、23年からは宮中御歌会始の選者などを勤めていたが、中川俊子との恋愛進行中に全ての役職を辞退。同年8月中旬俊子の離婚成立、11月30日自殺未遂。12月4日「老いらくの恋」新聞報道(茂吉の前記川田宛返信はこの日付け)。翌年3月俊子と結婚、神奈川国府津に移り住む。
なお川田の初婚は明治43年、28歳の時である。夫人は和子、日本女子大卒の才媛だった。和子は昭和14年53歳で脳溢血にて死去。翌年に亡妻の母校へ「川田和子記念文庫」を寄贈している。住友を辞して三年、57歳で寡夫となった川田は和子との間に子がなかったので、41歳の時に養子に迎えていた長兄の三男夫婦、二人の孫と京都で暮らしていた。

川田には、和子と結婚する前から相愛の女性がいた。川田18歳の時、妹を通じて知り合った徳川最後の将軍慶喜の五女國子である。同い年の國子は、川田の歌が好きだと告白した。付き合いを重ねるうちに、いつか男女の一線を越えていた。
だが、時代はまだ明治である。婚姻には身分差の問題が横たわっていた。心中まで思いつめたが、結局は家格相応の結婚を選択するしかなかった。それでも時々逢瀬を重ねていたことは、晩年の著「葵の女」に川田自身が記している。
和子夫人は國子の存在に気づいていたのか、どうか。自由奔放な生涯を送ったことで有名な竹林無想庵は、川田の一高、帝大を通しての大親友であったが、山本夏彦「無想庵物語」には「(國子がいたために)当然、夫人との仲はうまくいっていない」と書かれている。國子は和子夫人死去の三年後、61歳で世を去った。
なお帝大時代に川田は、無想庵たち学友七人で同人雑誌を立ち上げている(これがのちの谷崎、芥川たちの「新思潮」になったという)。元々川田は帝大文科に入学後に法科に転じているのだから、父親の血筋からいっても文学的体質は生来のものだったと思われる。

川田と中川俊子の機縁も和歌が取り持った。かねてより俊子が参加していた京大教授宅での古典の勉強会に、川田が講師として招かれ挨拶を交わしたことがそもそもの出会いであったとされる。
川田順が高名な歌人であることを知っていた俊子は、すぐに夫の許可を得て弟子を志願、家族ぐるみの交際が始まったのが昭和19年初夏の頃であるから、川田は62歳俊子は35歳だった。「樫の実のひとり者にて終らむと思へるときに君現はれぬ」
日本の敗戦を挟んでのこの時期、師弟関係が以心伝心の恋慕へと変じていったのは、京都が空襲にさらされなかったことも大きな要因であったろう。「花賣り女いでくる街の朝露をわれも踏みゆく君に逢はむとて」「暗き夜の水のほとりにかがみゐて家には入らず君の嘆かふ」「われを待つ君の苦しみしみじみと思ひをりぬれ君をまちつつ」
川田がその胸中を告白したのは昭和22年の初夏であった。「君をのみいつくしむ吾が心にもいかに隠れて鬼の棲みしぞ」「わが心からくれなゐに燃ゆるとき茱萸(ぐみ)の赤さは淡々しけれ」人妻を恋してしまった老いた男の苦しい胸の内とそれに応える紅蓮の恋情。相聞歌である。

「板橋をあまたわたせる小川にて君が家へは五つめの橋」(まるで俵万智の歌みたいだけど、恋する老人は少年なのだ)。京都は疎水の町である。互いの住まいは疎水沿いに徒歩十分程の距離にあった。「けふの日は三たびも君にあひしかど足ることしらにいや戀ひまさる」夏の夜半、疎水べりで二人が満月を浴びて語らっているとき、学会の用事でその日は帰宅しない筈の中川與之助に見られ、秘密は露顕した。全てを覚った中川に腕をつかまれ家に引っ立てられた俊子は一切を打ち明けた。立ち去ることも乗り込んで行くことも出来ずにいた川田の耳に、「先生は蛇で、お母さんは蛙よ」という若い女の声がした、と「虹の岬」に書かれている。長女の悲鳴であった。川田の愛の告白から、ふた月後の七月初旬のことである。
翌日、川田は中川を訪れ懇願する。「奥さんと離婚し、大慈悲の心で私の方に下さいませんか」「子供さえいなかったならば問題は簡単なのですが」意外にも、罵倒もなく慇懃(いんぎん)に中川は答えた。俊子の再三の哀訴も実らず、やがて川田は「離婚は不可能、今後は決して逢ってくれるな」と改めて通告された。

「僕の家内です。煮て食おうと焼いて食おうと僕が決めるのだから」とも言い捨てた中川が、背信の妻をゆるすはずがない。「さいなまれ乱れし髪を真白手の玉手におさへ君の出で来し」「荒縄の痕を玉手に見たるとき撫でやりながら涙し流る」俊子が虐待されていることを知った川田の歌である。その姿を目にして川田もまた、全て「私の俊子に対する愛がさせる苦しみである」と苛責に陥る。「苦しさを苦しと言はずほほゑみて座りし見れば涙し流る」「わが娘にはかくさず告げて出て来しと言ひつつ君の日傘をすぼむ」長女が理解を示してくれたのか、中川の目を盗んで二人がしのび逢っていたのがわかる。
逢いびきに気づいた中川は激怒、友人を仲立ちとして川田に送り、俊子に近寄らぬことを再度厳禁誓約させる。「心を変えることは出来ませんが、周囲の事情等のためには致し方ありません。私も三人の子の母として生きましょう」俊子も承諾するしかなかった。
しかし覆水盆に返らずであった。その覚悟の上で妻は夫を裏切っていたのである。それが子を持つ女の決断であった。俊子が家出して母のところに身を寄せたのは、発覚一年後の昭和23年7月初旬だった。半年前に長女の結婚式を済ませていたことが大きく作用していただろう。ひと月後の8月、中川與之助は離婚を承諾。それまで毎朝、勤行(ごんぎょう)のようにして中川が登っていた大文字山の火祭りを、その中旬に川田と俊子は肩寄せ合って仰ぎ見ている。二人の胸臆を去来していたものは単に喜悦一色ではなかったはずである。

ちなみにこの大文字山は、「虹の岬」では、次のように書かれている。
「森三之助(中川のこと)は早起きで、しかも彼女(俊子)が自分より先に起きていなければ容赦しなかった。彼は起床すると風呂場にいって必ず水を浴びる。それが終ると、家の少し先に登り口がある大文字山に登る。その習性を雪か暴風雨の日でなければ変えない。戻ってくると神棚の水を換え、山で採った花や小枝を挿し、北陸の実家が信仰していたという仏教の経典を唱えて仏壇に手を合せる。それだけで済まず、食卓に座ってもう一度同じ文句を誦む。
それは宗派の違う寺に育った祥子(俊子)には呪文のようにしか聞えない。救いは料理に自信のない彼女の作ったものを文句を言わずによく咀嚼して喰べてくれることであった」
噛むにつれて動く顳(こめかみ)が、勤勉と感謝を現しているようだった、と続くのだが、この森三之助の日常は創作ではなく、そのままの中川の姿だったようだ(大文字山に毎朝登っていたことは、次章に後述する中川の手記に記されている)。

ほどなく二人は婚約を交わした。川田は心からの謝罪をすべく9月中旬頃、中川が借りている研究室に彼を訪ねたが不在を告げらたので、翌日再訪するも面会は果たせず、取次ぎの人を通じて渡しておいた名刺を受け取った。それには「貴下にはお会い出来ません。永久に」と、上書きされていた。
友人知己、親戚等に宛てた告別の手紙三十通余を投函したあと、川田順が法然院境内川田家墓所で(11月末)、自死を目論み深夜発見され未遂に終わったことはすでに記した。夜道であったのが幸いした。つまずき転倒してかみそりの刃を折ったため傷が浅かった。
俊子宛遺書には、「私の亡きのちを何とぞ立派に清らかに生きて下さい。これ一つが衆生輪廻の悲願です」と書かれ、歌二首が添えられていた。「世の人ら耳そばだてているものをいつよりか君を妻と呼ぶべしや」「この恋は友を裏切ぬ二重にも三重にも罪の重き我かも」友とは、中川を指しているものと思われる。
「つひにわれ生き難きかもいかさまに生きむとしても生き難きかも」「死なむと念ひ生きむと願ふ苦しびの百日続きて夏去りにけり」「膽(きも)ふとき恋をしながら膽ちさきわれにもあるか世の中を恐る」
束縛が取り払われ、かえって深い罪悪感に襲われたのか、加えて歌の行き詰まりや、天皇制を含めた戦後の世相にも失望したのであったか。と、同時に、恋は死によって永遠になるとの誘惑に捉われたのかも。若人よりも老人の自殺に至る心理は複雑怪奇であろう。俊子は「先生のお心がわかりません・・・なぜお一人で死なうとなされたのです・・・」と嘆き、詰(なじ)らずにはいられなかった。

決行前に川田は、朝日新聞社に詩文「恋の重荷」と散文「孤悶録」の草稿を渡していた。
「若き日の恋は、はにかみて/おもて赤らめ、壮子時(おさかり)の/四十路(よそじ)の恋は、世の中に/かれこれ心配(くば)れども/墓場に近く老いらくの/恋は、怖るる何ものもなし/生きて添はむと君は言ひ/いつそ死なむとわれ思ふ/・・・」
長詩「恋の重荷」の一節であるが、川田の自殺未遂はこの詩片から取られた「老いらくの恋」としてスキャンダラスに報道された(前年の刑法改正で姦通罪は廃止されていた)。「老いらくの恋」は、その頃話題になっていた太宰治(太宰と俊子は同年生まれ)の「斜陽族」ともども流行語になったという。
翌昭和24年3月23日、京都平野神社で川田と俊子の結婚式が簡素に執り行われた。別々に一泊だけして夫婦は京都を離れた。友人宅に泊まるため二度途中下車したので神奈川国府津の新居に着いたのは、それから三日後のことであった。そして夏の終りに強羅山荘に茂吉を訪ねた。


次いで中川一家について。
中川與之助は明治27(1894)年富山の農家生まれ(川田の一回り下)。村では評判の秀才であったが、家が貧しかったので授業料の要らない東京高等師範(現筑波大)に進み数年間奈良で中学教師をした後に、京都帝国大学経済学科に入り直した刻苦勉励の人であった。
大学院生だった31歳の時に、17歳の俊子と結婚。明治42年生まれの俊子は中川が下宿した寺の娘だった(中川が下宿した頃、俊子はまだ小学六年生であった)。母親の言いなりになっての結婚ではあったが、家庭教師をしてくれた中川は年の離れた頼もしい〝お兄ちゃん〟として、淡い初恋になぞらえた人でもあった。苦労人の中川に惚れ込んで、母親は自分の果たせなかった夢を長女に託したのである。
遠回りをして入った京大では傍流ではあったけれども、中川は期待通りに教授にまで出世した。大正15年に長女が誕生、昭和10年と15年に長男、次女に恵まれ、傍目には幸福そのものに見える家庭を築いていた。

長女と長男の十歳の年齢差は、単に中川のドイツ留学(二年間)の故であったのか。長男と次女の出生にも間隔がありすぎる、などとこの夫婦の結末を知ってしまえば想像がたくましくなる。
「教養のない」「持参金も、着物もろくに持たずに来た、君みたいなもの」というのが、中川の俊子に対する根本的な態度だった。それは余りにも俊子の理想とする夫のイメージとはかけ離れていた。ましてや夫は帝国大学の学者で社会の木鐸(ぼくたく)たる地位にある選良(エリート)ではないか、というのが俊子にとっての不満と軽蔑が入り混じった感情であったろう。
何の経験もなく世間知らずのままに結婚してしまった俊子は、夫のドイツ留学中に年下の女学生に混じって同志社女専(現同志社女子大)で学び直したほどに、向上心のある女性だったのだから。「大学教授夫人は聡明さで夫を助けるか、実家の経済力で出世に貢献するのが当然というのが、森(中川)の持論で、自分より栄達の早い同僚の妻をそのどちらかに分類するのを常とした」学者との夫婦生活が、俊子の自己成熟につれて隔たりが大きくなっていったのは必然であったと思われる。

そのような俊子の前に現れたのが川田順だった。「むらさきの日傘の色の匂ふゆゑ遠くより来る君のしるしも」俊子は恋に落ちた。「親しさは我が家のごとくおぼゆなり君が子達の聲を聴きつつ」の家庭は修羅場と化し、ついには俊子の家出(離婚ひと月前)となって決着がつくのであったが、「虹の岬」で辻井喬は、家出をした俊子に凄いことを言わせている。「出ることに決めて長女にだけは話しました。あの娘に悪いけど下の子を看てもらわなければなりませんから。親の我儘かもしれませんが、子のために犠牲になるのは、あとできっとその歪みを子供から返して貰おうと思うようになりますから」これを聞いた川田は「そのはっきりした考えに感心した」とある。
中川と川田と俊子三者三様、三すくみ状態の中でそのいずれにも一定の理解を示し緩衝役となり、かつ弟妹を支えたのが長女であった。特に俊子にとって、結婚と同時に誕生した長女は年齢も近く、母親に困惑、反発しながらも母親の苦境に寄り添える唯一の存在となった。
川田の歌「かかる母を持ちたることは悲しくもうれしくもあると〇〇子のいふも」の〇〇子が長女である。「父と母とわれとのなかをゆきかへりあはれ處女の今日も悩むか」という長女に、「母のみかその子の胸も苦しむる吾が罪深しされどすべなし」と歌うことしか出来ないのであったが。

「父の非現実的な烈しい性格、学者的な生活態度に対して、母の平凡であり、物質的な性格、したがって家庭は常につめたく、しかも時にちょっとしたことから発する父の怒りは、子供達がいてもたってもおられなくなる程激しいものでした。性格の違いという極めてありふれた原因が、家庭生活の現実の面では深刻な姿を描くものであるということを、私は身をもって体験して来たのです。母とは余り年が違わないので、私は姉妹のように何事でも話し合い、すべてをよく理解している積りですが、離婚に進んだ事情は決して今日の事件からではなく、父母の結婚の時すでにめばえていたと思われるのです。従って今度のことに対しては、父、母、川田先生の三人とも平等な責任を持っていると見るべきです」
「老いらくの恋」が世間に知られて、川田の「恋の重荷」が載った「週刊朝日」に同時掲載された長女の「母俊子の立場」という文章である。

神奈川国府津へと旅立つ母を京都駅に父に隠れて一人見送りに来た長女がそっと手渡した手紙を、俊子は大切に保管していた。
「とうとうお別れしなければならない日がまいりました。私どもを残して、遠い関東へ、お母さまだけ行っておしまいになるとは、夢にも考えないことでございました。長い長い間の苦悩を見つめて、いまお送りする私の心は、ただ感慨無量でございます。そして、あふれる涙は、喜びの、悲しみの、最も深刻なもののように思われます。
遠く離れても、お母さまは、いつまでもいつまでも、私たちのお母さまでいてくださいませ。今後どんなに苦しい日がつづきましても、お互いに強く生き抜いて行くことを誓いますとともに、お母さまにもかたくお願いしたい気持ちで一杯です・・・。
お慣れにならない東の地でお母さまが、どんなにお暮らしになるかと思うと、また涙が出てしまいます・・・」
東上する列車で涙にむせびながら読んだ愛娘の手紙を、子を捨てた母がどうして反故(ほご)にできたであろうか。

また、妻に去られた中川輿之助は己が心境を次のように表白した。
「私はともかく、生みの母と生別しなければならなくなった三人の我子らを思うと、父として正に断腸の思いである。何等罪のない子らをこの悲運に導いた罪をどうして子らに詫びるべきか。母と別れた子らに母ありせば母からうけるであろう慈悲を私は何をもって補うべきか。私にはなすべき術が分らない」とつづり、末娘が一緒に寝ながら母親の乳房と勘違いして自分の乳を触ってくるのが不憫でならないと嘆き、「私は学者として教育者として、我が学は正しいと信じて教壇に立って来た。所が、今この家庭問題に直面して私の人間学がガラガラと崩れて来た。私の学問の全部が、御破算されねばならないのだ。私はK氏(川田)に対し、またT(俊子)に対し、人間学的な認識の足りなかったことか、矢張私の学問の浅慮不徹底のいたすところだ。
私はあらゆる角度から厳しい自己批判を更に更に続けねばならない。今まで教壇からおこがましくも人の子に学を説いた私ではあったが、今天下万人から教えをうける好機に恵まれた」と結んだ。
およそ今から七十年前に書かれた元京大教授のいわば糾弾転じての反省文である。どこか大げさで、智と情を兼ね備えた長女のと並べると余計におかしみを誘うのだけれども、この時中川與之助は妻に去られただけでなく理不尽な公職追放処分に遭い、「生涯をかけて追い求めてきた地位と名誉」であった京大教授の座をも追放されて失意と落胆の渦中にいたのであった。

真情こもる手紙で母の出立を祝福した長女は、それより一年前に結婚していた(21歳だったと思われる)。相手は中川家に出入りしていた中川の教え子だった。俊子は、結婚相手が中川と同じく学者の道へ進むのではないか、と懸念したが民間に就職するというので安堵した。出来れば、娘を学者の妻にはしたくなかったのである。
川田順年譜の昭和23年1月20日の項に、〇〇子来訪とある。その三日後に挙式しているので、長女が挨拶に立ち寄ったものと思われる。「嫁ぎゆく君が娘は明日からの母をうれへて涙ぬぐえる」
長女の結婚式は、中川夫婦の最後の共同作業となった。新居に移った長女が中川家から姿を消すと、もはや夫婦を結ぶ紐帯(ちゅうたい)は完全に消失し、その夏の俊子の家出となったのであった。
ほどなく離婚が成立すると、長女は夫の協力を仰いで母の去った実家に戻ったのである。そのとき昭和15年生まれの妹は誕生日を迎えていれば9歳、まだであれば8歳である。10年生まれの弟は中学生であった。中川の上述文にあったように(文章全体に誇張があるとはいえ、次女の淋しさを綴ったところは真に迫っているので)、54歳の父親と伸び盛りの兄の面倒をみるには、妹はたしかに幼すぎたのである。


(以下、「虹の岬」(2)につづく。)








 

自由人の系譜 北杜夫「楡家の人びと」(下)

文学史上の姦通事件としては、北原白秋と隣家の人妻松下俊子との恋(二人は結婚し、離婚に終わった)、並びに有島武郎と「婦人公論」記者だった波多野秋子との心中事件が思い起こされる。いずれも姦通罪に問われた明治末と大正末の事件である。
この姦通罪は夫の側からのみ告訴でき、告訴する場合は離婚が前提であった。つまり妻の不貞に対してのものだった(妻の方からの告訴権はなかった)。その昔の不義密通時代のなごりであろうか。男社会を象徴するような不公平な制度でしかなかった悪法(?)姦通罪が廃止されたのは、終戦後における新憲法制定下での昭和22年になってからのことである。今から考えると隔世の感がするけど、そういうことのようだ。
したがって茂吉と永井ふさ子の恋愛も姦通罪にこそ当たらないが、そういう時代背景の中での秘め事であった(現代の言葉でいうと不倫である)。が、ふさ子のことは後回しにして、「楡家の人びと」に描かれなかった二つ目の事実について話を進める。

北杜夫は後年の著書(「茂吉彷徨」)で、「以前私は『楡家』を書く準備のために、大正七年から戦後までの新聞を通読した。この事件に関する各新聞の報道に、その時初めて接したのだった」と書いた事件が、輝子の姦通(不倫)の疑惑に関わるものだった(「楡家の人びと」の中では、茂吉夫婦(小説名は徹吉、龍子)の大げんかとして処理されている)。
昭和8年11月8日付け各紙朝刊は、いっせいに 「有閑夫人の銀座ダンスホール事件」を報道した。要するに、有閑マダムや令嬢たちがダンス教師の若い男どもに熱をあげ、目にあまる行状に及んでいるという風紀紊乱(びんらん)による検挙である。その中に某病院長夫人として輝子も取り調べを受けたのである(実名を出した新聞もあった)。日頃、頻繁に外出する輝子にいらだっていた茂吉はこれを知って激怒した。

茂吉は即刻、離婚を決意し青山脳病院院長も辞職しようとしたが、西洋と副院長の慰留にやむなく折れた。ただし輝子への怒りは解けず、徹底して拒絶した。直ちに輝子を母親の実家(秩父)に追い出し軟禁し、昭和9年春には謹慎名目で故郷上山の弟の家に送り込んだのである。外出、新聞、手紙類一切厳禁、蔵(への監禁を望んだ)には鍵をかけろと命じて(しかし弟も四六時中監視できるはずもないので、輝子は監禁どこ吹く風でしたいことをやっていたという)。弟の家に事情が出来て頼めなくなると、再度秩父に預けられたようだ(輝子の母親は世田谷松原の青山脳病院本院脇に結婚したばかりの西洋夫妻と同居していた)。しかしここでも監禁どころか自由奔放に振舞っていた。やがて輝子は西洋の家を建増ししてもらい、東京に戻った。驚くことに二人の別居は昭和20年までつづき、十二年の長きに及んだのである。

茂吉は青山の家で子供たちと暮らした。なお、輝子追放時の斎藤一家の年齢は茂吉51歳、輝子37歳、茂太は思春期真っ盛りの17歳、百子と宗吉と昌子にいたっては、それぞれ8歳6歳4歳であった(しかし子供たちは父親の目を盗んでこっそり輝子に会いに行ったとある。西洋は32歳であった)。
とうに触れた事柄ではあるが、輝子の事件をはさんで茂吉はかけがえのない友人二人を亡くしている。事件の一週間ほど前に平福百穂画伯を。輝子の事件に心痛め病床から懇切な手紙をくれた中村憲吉を。この時期を境に茂吉自らが称した「精神的負傷」時代を送らねばならなかったのである(この意味でも永井ふさ子との出会いは運命的だったといえよう)。

ダンスホール事件には続報がある。事情聴取者に歌人吉井勇の妻徳子が含まれていたことから問題は拡がった。
輝子は妹清子(四女。「楡家」の聖子のモデル)の手引きでダンスに親しみ、早くから徳子とも知り合い連れ添うことも多かったようだ。ちなみに輝子よりはるかに器量好しだったといわれる清子は、父親の決めた婚約者がありながら別の男を好きになり紀一から勘当されている(ここら辺は「楡家」と酷似している)。
吉井勇は伯爵であった。吉井家の伯爵は明治維新の武功によって爵位を授かったものであるが、徳子は旧姓柳原で実家は公家の流れをくむ貴族としての伯爵家であった。徳子の父親は柳原家の長男であり、大正天皇の生母愛子と白蓮(愛子の異母姉)は徳子の叔母にあたり、徳子と吉井の仲をとり持ったのはその白蓮だったのである。熱烈な恋愛に発展しての結婚だったものの次第に性格の相違が目立ってきて、事件の半年前には吉井との別居状態がつづいていたのであった。

柳原家で御姫様として自由奔放に育った徳子は、事情聴取にも悪びれるところもなく「私たちは人の造った古い道徳に拘束されないのがモットーなんです。自分で好いと思ったことをするならそれで好いので、姦通なんてそんなものはなんでもないんです」と放言、誰と誰が関係しているとかを洗いざらいぶちまけたという(徳子にも当然、華族の愛人がいた)。
吉井勇との間には男の子がいたが吉井が引き取って、修復不可能を悟った二人はやがて離婚した(吉井は爵位を返上した)。事件直後に吉井は、「妻と僕の性格趣味は余りにかけ離れているので家庭的には決して恵まれてゐない・・・趣味や性格の合はない夫婦の間は円満にゆくものではない、僕はそれをしみじみと感じている」と語っていた。すでに離婚の決意は固まっていたのである。
余談をはさめば、徳子の供述から文士たちがからむ麻雀賭博が暴露され里見弴、佐佐木茂索、久米正雄等多数が(その夫人たちも)検挙され、菊池寛が身元引き受け人となって落着した(吉井は妻のせいで迷惑をかけたと恐縮するしかなかった)。
この時代に徳子のような飛躍した考えが通用するわけがない。徳子と従姉妹にあたる白洲正子は、徳子のその後の生活に幸福はなかったと伝える(以上、川西政明「新・日本文壇史」を参照した)。

歌人同士で交流もあったであろう吉井勇の妻に対する処置を茂吉が知らなかったはずがない。吉井勇と徳子の間に横たわっていた「趣味や性格の合はない夫婦」の問題は、茂吉輝子とて事情はまったく同じであったのだから。
怒りに任せて追放こそしたものの、こと離婚となると結局断固たる措置はとらなかった(とれなかった)。輝子に姦通の事実があったかさえ、茂吉はもう問い質(ただ)しはしなかったであろう。これまでの輝子との生活で、「家庭的には決して恵まれて」いなかった茂吉にとって、ただただ堪忍袋の緒が切れたというのが当初の成り行きだったのではないか。どうあっても腹の虫が収まらなかった。憎しみは憎しみを増大させるし、怒りとて同様である。
大正13年7月に輝子が茂吉の留学先にはるばるやってきたことは、その帰途青山脳病院が全焼するという悲劇とともに既述したが、このとき二人が旅したイタリアでの出来事として、茂吉の滞欧随筆に次のような場面が描かれている。

「十月二日にミラノを立つてヴェネチアに向つた。仏蘭西を出てからもはや二月ほどになつた。汽車は急行で、東方へ向つて驀地(ばくち、まっしぐらに進むこと)に走つてゐる。しばらくの間無言でゐた妻は、その時何の前置もなしに僕にむいた。そして二人はかういふ会話をした。
『日本の梅干しねえ』
『何だ』
『おいしいわねえ』
会話はそのまま途切れてしまつたけれども、僕はその時、今までに経験しなかつた一つの感情を経験したのであつた。夫婦なんぞといふものは一生のうち一度ぐらゐは誰でもかういふ感情を経験するものかも知れぬ。或は運のいい夫婦はしじゆう経験してゐるのかも知れぬ」(「妻」)。

たったこれだけの引用で、茂吉の側からみた夫婦の有り様が手に取るように判る随筆である。ヴェネチアに向かって驀進している列車の中で輝子と会話を交わしながら、茂吉はこれまでに味わったことのない須臾(しゅゆ)の幸福感にひたっていたのである。「運のいい夫婦は始終経験している」であろう家庭の幸福を(茂吉は親友中村憲吉の家を訪れたとき、初めて一家団欒の家庭生活を目の当たりにしたのだといわれる)。
裏返せばこの随筆が語るところのものは、いまさら強調することでもないけれども茂吉と輝子はそういう「運のいい」夫婦ではなかったということだ(茂太は「水と油」と表現しているが、この二人ほど肌合いの異なる夫婦は珍しかったのでは)。
およそ三年ぶりの再会での夫婦水入らずの旅の日々が、必ずしもしっくりとした情感を呼び戻す時間でなかったことは、その前に宿泊したであろう「リギ山上の一夜」にも書かれているし(この文章も紹介したいが長くなるので割愛する)、茂吉の日記類も語っている。

さて、問題は輝子が口にした梅干しである。「妻はいつのまにか懐妊してゐた」のであつる。
そのため夫婦は予定を早めて帰国の途に着く。船上で青山脳病院焼失の報を聞き、紀一が茂吉の帰朝祝いとして建てた病院脇の二階家が火は入ったもののかろうじて焼け残っていたので、青山到着後、茂吉一家はとりあえずそこに住み込んだのであった。
そして輝子は、茂太に次ぐ二番目の子を大雪の日にその家で出産した(これ以前に、茂吉留学前の長崎医専教授時代に輝子は流産して茂吉を落胆させたことがあった。しかし、この長崎時代にも輝子は茂吉のそばにいたのは赴任期間の半分ほどで、始終東京長崎間を往復していたようだ)。

生まれた子は女の子であった。この子の名前が平福百穂の一字をもらって百子と名付けられたこともすでに述べた。「楡家の人びと」に描かれなかった事実の三つ目は、百子の出生にまつわる影である。具体的には、百子は茂吉の娘だったのか?という疑惑である。
輝子が茂吉とパリで再会したのが大正13年7月23日であることは、茂吉日記が証明している。百子が生まれたのは大正14年2月23日。パリに着いた日に受胎しても計算上は七ヶ月と六日、二百十五日での誕生となる。早過ぎる、輝子の日本出発は6月5日なので妊娠がこれ以前の方がつじつまが合うというのが、その理由である。
 輝子の出産はその日の朝、(外)風呂に行こうとして折からの大雪に足を滑らせての早産となったものだった(出産はその夜遅く、日付けが変わってから)。その日の茂吉日記は出産の経過をつづって何の疑いも抱いていないようである。

このこともすでに述べたけれど、輝子が渡欧する前年には関東大震災が発生、青山脳病院も火災こそ免れたものの被害は少なからずあったし、外遊自体が時期的にそぐわなかった事情も働いていただろうから、父紀一は反対の意向だったといわれているし、茂吉自身も当初積極的ではなかった。いわば二人を強引に説得したのは輝子だった。なので輝子の渡航にはのっぴきならぬ事情が隠されていた、という憶測も生じたようである。「アララギ」の同人たちにおける輝子の評判は必ずしも芳(かんば)しくはなかったので、あらぬ噂を立てられた面もあったかも。
北杜夫は六十代から七十代にかけて唯一の評伝「青年茂吉」、「壮年茂吉」、「茂吉彷徨」、「茂吉晩年」の四部作を書いた。父親の生涯を十七冊の遺歌集でひもときながら追悼したものである。百子出生についての言及が「壮年茂吉」にあった。いちばん身近にいた肉親の証言は心強い。

「茂吉の挙動を日記その他から調べると、初めのうち、百子が自分の子ではないという認識は不思議なほどない。だが、やがてそれは猜疑(さいぎ)となり、兄弟の中で百子にもっともきびしく接するようになる。もちろん、百子についての歌もあるし、東洋英和女学校の入学試験のときはついていき(註)、その学校の雑誌にわざわざ小文も書いたりしている。
私の推測はやはりこうである。断言はできぬが、百子が茂吉の子でない可能性のほうが高いと」というのが、北杜夫の結論のようである。その理由として、(顔立ちは当てにはならないとしながらも)桃子は兄弟中とびぬけて美貌であったこと、(斎藤家の人間はその傾向が少ないのに)桃子だけは極端にヒステリー体質だったこと、(輝子に似て我儘な性格だったので)女学校の上級になるとしばしば帰宅時間に遅れ茂吉の怒声を含む説教をたびたび受けていたこと、それを茂吉は輝子の影響だと考え、西洋宅に居候していた輝子に百子と出歩いたり食事したり三越をうろついたりさせないように厳命してくれと西洋に手紙で訴え、それが守られなければ百子と親子の縁を切るとまで言い切っていること、などをあげている。
(註・東洋英和女学校は柳原白蓮や村岡花子が在籍した。また茂吉は百子の結婚にも一人で骨折った。)

「母は姉百子が可愛い顔をしていたから贔屓(ひいき)で、よい服を着せ、ときどき一緒に外出していた。一方、松田の婆や(「楡家」の下田の婆や)まかせであった私や妹昌子はろくな服装は与えられなかった」(「茂吉彷徨」)ともあり、上記結論に至った理由のそれぞれは子供の頃から肌身に感じたことを列記したのだろうが、これでは百子が茂吉の実子でないと言い張るには説得力に欠けはしまいか(だから北は「断言はできぬ」と断わっているのではあるけれども)。
もっとも北杜夫は、輝子のような事例が「医学的には必ずしも例をみないわけではないとしても、昔としては早産に過ぎる」と医者らしい意見を述べてはいるけれど、肝心の茂吉輝子パリ再会の日を8月23日だとした上で六ヶ月で百子が生まれたとしているのは、どうしたことだろうか(単なるミスにしてもお粗末に過ぎる)。
息子として(作家として)斎藤家の触れたくもない禁忌(家庭の秘密)にせっかく触れるのなら、もう少し慎重にかつもっと内容のあるものにして欲しかったのに。なおこの出生秘密に関わる文章は、「姉百子は、茂太の中学時代からの友人、宮尾直哉(茂吉の百子宛手紙によれば、一高・東京帝大医科出身の海軍軍医大尉であった)と戦争中に結婚し、二子を設けたが、私のマンボウ航海中に死亡した」と締めくくられているので、百子は33、4歳の若さで亡くなったのだ(病死?)。

「楡家の人びと」で、百子は後半部の重要人物藍子として登場し、作中「彼は女の子、他人が可愛いと褒(ほ)める藍子にはとりわけ期待を抱かなかった」と描かれる。この「彼」とは徹吉(茂吉)である。また百子の夫宮尾直哉をモデルにした城木達紀とのデート中、藍子に次のようなセリフを言わせている。「・・・藍子はずっと昔から考えていたの。藍子にはどこかに別のお兄さまがいて、きっといつか帰っていらっしゃるって。だって俊一お兄さまはちっとも藍子を好きな所へ連れていってくれないんですもの。自分一人で飛行場なんかばかりへ行っていて・・・」。
俊一お兄さまが茂太である(茂太の飛行機マニアぶりはつとに有名であった)。「楡家」でも城木達紀は、俊一の同級生として描かれ、実人物に似せて海軍軍医中尉である。むろんこのセリフは、藍子の城木への求愛なのだが、もしかすると兄茂太はこの言葉通り妹百子を可愛がってはいなかったのかもしれないと想わせたりもするセリフである。

というのも茂太の著した父母回想本のどれにもあまり良い印象の百子像にお目にかかれないからだ。書かれていることといえば、百子は自己中心的で気が強くトラブルメーカーであった、結婚してからも婚家先で問題を起こしてばかりいてその都度茂太の妻が尻ぬぐいをした、といったようなことしかない。当然、母親輝子が何らかの反応を示したであろう百子の死についてもまったく触れていないし(出生の疑惑も)、級友なのに(だから?)百子の夫に関するものもない(に等しい)。何か不思議である。
百子のことを調べているうちに、茂太が父親茂吉の血液型を知らなかったとの記述にぶつかって、またまたびっくりした。あの戦争の時代に?昔は余程の緊急時を除いて、血液型など調べてはいなかったのだろうか?
百子が茂吉の子であるかどうかの大きな判定材料の一つは、その血液型にあっただろう。斎藤家は北杜夫も含めて医者一家である。血液型くらいのことは北杜夫もふれてくれればよかったのでは(と思うけど、無理な注文だったのかな?)。
ところで茂太は茂吉死後、父親がO型だったことを知ったという。輝子の血液型は不明 。このケース、子供の血液型は何でもありだっけ、どうだっけ?

ふざけている場合ではない。茂吉の血液型が載っているその著書に(前章にて紹介した「回想の父茂吉母輝子」)、茂太はさらに驚くべきことを記している。
「小学校の低学年の頃かもうさだかでないが、私は朝目ざめた。灯籠があり、芝生があり、松の木があった。立派な庭だった。いま考えると日本旅館のようであった。母がいた。母に連れられてその宿に泊ったに違いなかった。もう一人男性がいた。洋服を着た立派な紳士のようにみえた。奇妙なことに私はその人の顔を覚えていた。いや、その人に会ったのがその時だけでなく、その後何回か会ったから印象に残ったのかもしれない。・・・」
茂太の生年は大正5年(1916)、百子はその九年後、男と輝子がどういう関係か曖昧なので決め手にはならないかもしれないのだが(朝の旅館の一室で大人の男女が会ってるわけだから、それ相応の関係とみるのが妥当というものだろう)、百子誕生とぴったり一致する。こうなると長崎時代の流産だって、ダンスホールスキャンダルだって、何もかも怪しくなってくる(ではないか?)。

茂吉は輝子の秘密(があればそれ)を知っていた!
茂太の記憶を補充するような記述が、スキャンダル事件で上述した川西政明「新・日本文壇史」にある。「てる子は結婚以前に青山脳病院に勤務していた医師と親密になり、両者の関係は深い交渉があったとの証言があり、夫の留学中に小田隆二という青年と交際があったことは茂吉の日記にも証言がある」。というもので、茂太のいう「紳士」が小田隆二なのかどうかは不詳。
乳母日傘で何不自由なく大病院の令嬢として育ち、学習院女学部の教育を受け気位高く成長した斎藤輝子は、父親が決めた結婚に嫌々ながらも従った。あつらえ向きに青山脳病院には、紀一の方針で幾人かの医師の卵である書生を抱えていた。すでに頭は薄くなりはじめ陰気臭い風采の上がらぬ山形弁の茂吉よりも、ずっと輝子の好みに合う青年がいたとしても不思議ではない。人間は自己以外の他人に物事を決定せられるより、自己自身で選択したいという自我欲求(自己実現)を本能的に有している(それが成長であり、大人になるという意味であろう)。
それを実践したのが「楡家」で三島由紀夫が愛(いつく)しんだ桃子こと五女愛子で父親の命じる相手の医師と結婚したけれども、ついには三人の子供を置き去りにして家出した(註1)。前述した四女清子も然りである(註2)。結局は父への反乱であった。その点、父親紀一を絶対視していた家取り娘輝子には出来兼ねたのだろう。不承不承、紀一の説得するままに結婚を受け入れて、仮面夫婦を続ける以外に。
(註1・「楡家」で北杜夫は、叔母愛子と姉百子の名前を入れ替えて叔母桃子、姉藍子として描いている。註2・「楡家」での清子こと聖子は薄命の女性として描かれるが、茂太によると清子も愛子も幸せな晩年を送ったとある。)

ともかく茂吉は輝子の出産が早かったことへの疑惑を押し殺して、目下の急務であった焼失後の青山脳病院再建に奔走していたのではなかったか(百子の誕生と病院再建は重なった)。
「父は可愛がっていて、機嫌がわるいときでも、その姿を見ると、『百子、百子』と言って目を細めたそうである」とも、書生(茂吉の代になっても書生がいた)の相反する視点をも書き留め、茂吉はすぐに怒る怖い父親ではあったが、基本的には子煩悩であったと述べている(「茂吉彷徨」)。嫌な想像は打ち消して懸命に百子を愛していたのであろう。

結論づければ、幼な妻のころから胸内に溜まりつづけていた輝子への鬱屈した憤懣が、一気に噴出したのがダンスホール事件だったのだとみなしていい(この頃は病院の再建も目途がついていた)。そこに封印していた百子出生疑惑が沸(わ)き上り、輝子許すまじの大噴火となって十二年の別居(成敗)、というよりもほったらかしとなった。茂吉が輝子を再び家に入れたのは、昭和20年3月のことである。
この間、茂吉一人で気を揉(も)んだ昭和18年の茂太(27歳)の結婚、19年の百子(19歳)の結婚があった(いずれも於帝国ホテル)。輝子の嘆願をしりぞけて茂吉は結婚式に母親を出席させなかったのである。百子の結婚は輝子許容のわずか半年前だったのに。輝子が許された理由は、ただ単に戦争が本土に迫り青山脳病院は閉院し、一人茂吉は山形に疎開するため子供たち(宗吉と昌子、それに茂太の若妻がいた)の面倒をみるための人手が足りなくなった青山の家に呼び寄せたに過ぎなかった。つまるところ、戦争が和解をもたらしたのである(空襲激化で 明日をも知れない日々だったのだから)。

茂太の結婚までやっとたどり着いたので、ここでちょっと休憩してそれにまつわる挿話を。
茂太夫人美智子も開業医の娘で結婚時18歳の新妻だった。茂吉の歌の弟子筋の紹介でまとまったようだ。その両家顔合わせでの会席料理は(茂吉好物の)うな重であった。そういう席だから、当然美智子は食べきれない。するとそれに気づいた茂吉は、美智子のうな重を引き寄せて残りを平らげたという。青山で同居したこの若い嫁を茂吉は大変気に入って可愛がったとも。
そんな新婚のある日、茂太が何気なく「少し動悸がする」ともらしたところ、父親はひと言「過ぎぬか」と答えたという。茂吉のことだから真顔で心配したのだろう。このひと言で親子の距離がグッと縮まった感がしたと息子。「それから間もなく私は軍服を着た」とあり、茂太は陸軍軍医に徴兵された(だから茂太は百子の結婚式には出席していない)。いずれも茂太の父母回想記にある話であるが、大歌人斎藤茂吉の飾らぬ人柄があらわれておかしみを誘う。
永井ふさ子が茂吉のどんなところが好きか、と尋ねられての答え(前章に記した)の一端が、この二つのエピソードにも歴然としているようだ。

「・・・信州の伊那にしようか、山形縣の上ノ山にしようかと存じ、難儀して上ノ山にまゐり、・・・東京との間を往反せねばならぬのですが、体の工合でそれが出来ません、来る時も一夜の汽車で足に浮腫が出来ます、気候不順で、蔵王山にはまだ雪が降ります。もう遥かになりました。どうぞ御大切にして下さい。・・・」
茂吉が出した昭和20年5月19日付けの永井ふさ子への最後の便り(ハガキ)である。茂吉はしばらく弟の家に住まわせてもらい、やがて妹の嫁ぎ先で厄介になった。このあと七月にはまた居所が変わっているかもしれないと追伸があるので、このときまだ文通の意思はあったのかも。ふさ子への宛先は伊豆伊東である。ふさ子も父親が病死して家長となった兄とふさ子の母とは血のつながりがないのであるから、ふさ子の身辺も一変して母親と姉の家に移り住んでいた(妹たけ子は結婚して満州にいた)。

ふさ子が最後に茂吉に会ったのは昭和19年8月27日である。すでに疎遠になっていたが、茂吉の避暑地である箱根強羅の山荘をひと目見ておきたいと訪ねたふさ子は、そこに一人でいた茂吉に思いもかけず出会ったのだった。それが8月2日のことである。茂吉は喜んで招じ入れ、接吻を迫ったがふさ子は許さず二十分ほどで立ち去った(ただし接吻のところは真偽不明)。ふさ子はあまりの茂吉の荒れ果てた侘び住いに心痛めて、そのころ欠乏がいちじるしくなっていた米やワカメなどの食材を持って山荘を再訪したのが、ついの別れとなった(註)。
「もう遥かになりました」と万感の詠嘆をもらした茂吉は63歳に、ふさ子は35歳に、輝子は49歳になっていた。日本敗戦と東京壊滅はもはや目前に迫っていた。
(註・茂吉日記には同年10月14日にふさ子が青山の自宅を訪ねた記述があるという。)

なぜ茂吉はふさ子と結婚しなかったのだろう、と問うのは、なぜ茂吉は輝子と別れなかったのだろう、と問うに等しいような気がする。理由は子供の問題始めいろいろと並べ立てられようが、その推定根拠の全てが当てはまるだろう。要するに決断が下せなかったのだ(茂吉という男の性格は複雑怪奇である)。
本来ならば吉井勇のように事件後果断に離婚を実行しておれば、ふさ子との事情ももう少し変わっていたのかもしれない(それでも結婚に至ったかは大いに疑問符が付く)。蛇の生殺し状態の如く放置していた輝子を今さらに離婚するなど、日中戦争開戦来求められるままに天皇の忠臣として、膨大な聖戦讃歌を量産していた国民歌人にできようか。
別れを決心したとはいえ愛の迷宮に迷い込んで思いあぐねたふさ子は、茂吉との関係を「アララギ」総帥の土屋文明に相談を持ちかけた。それを受け文明が茂吉に会談を申し込むと茂吉は拒絶、烈火のごとく憤怒したあげく日記にふさ子を人外の魔(厄介者)と断じている。また、このころの日記には、ふさ子の母親から来信があったことも記されているが、ふさ子との結婚に関する談判ででもあったのか。そうだとしても、ふさ子親子の行為がやたらと道理を逸脱していたとも思えない。

 この点を鋭く指摘したのは平野謙(文芸評論家)のようだ。茂吉は「名も財もなにひとつ失うことなく、その上で若い女性を愛した」末にもてあそんでないがしろにした。そう指弾されても仕方あるまい(が、もし二人の関係が公けになっていたら、茂吉はもちろん大打撃を受けたに違いないが、一方ふさ子もふしだらな女として世間の非難にさらされたのは間違いないことであったろう。何しろ未だ姦通の概念が蠢(うごめ)いている、しかも戦時下の、世間をはばからねばならぬ密通そのものだったのだから)。
永井ふさ子はその後一生独身を貫き、空襲時には茂吉との愛の記録(書簡)をリュックサックに背負い、昭和49年(65歳)には念願の茂吉の故郷や疎開先を訪ね歩き、母亡き晩年も姉と伊東で暮らしながら平成5年6月8日82歳で逝去した(喪主は姉の息子)。若き日の愛の記憶に殉じたのである。

輝子が茂吉との別居生活をどう感じ、思っていたかは一切わからない。何の痛痒(つうよう)も感じてはいなかったのかも。輝子が守るべきは青山脳病院であり、紀一はそのために茂吉を養育したのであり、だからこそ好きでもない茂吉と夫婦になったのであり、夫が病院のために粉骨砕身で尽くすのは当然だったからであり、また茂吉は輝子にとって何の興味もわかない歌作りに外出するか、自分の書斎に一日中でも閉じこもって何やらわからぬ研究をしているだけの存在でよかったのであるから。
つまるところ輝子は、父紀一が創設した青山脳病院と結婚したのであって、茂吉は必要な時に役立てば良い、彼女の使役人であったと言っていいだろう。

関東大震災の輝子の活躍ぶりは伝えたが、茂吉がふさ子に宛てた最後の文から一週間後に、茂吉が苦心惨憺(さんたん)の上復興した青山脳病院(分院)は降り注ぐ焼夷弾の火炎に包まれ再び全焼した。燃え上がる青山脳病院の終焉を見送ったのが、うわべだけの和解を受けて帰宅していた輝子であったというのは、これまた天の配剤のしからしめるところであったのか(輝子の傍らには宗吉と昌子と茂太の妻美智子がいた)。この日の東京大空襲で、明治神宮表参道方向へ逃げたまわりの多くの人が犠牲になった火炎地獄の中、輝子の的確な状況判断によって四人は命拾いをしているのもまた。終戦後の長男茂太と住む家探しでも輝子は住宅難の中、十分に持ち前の行動力を発揮したのも、また。

茂吉は昭和22年になって、結局のところ輝子が用意した茂太の家に疎開先から転がり込んで来るのだった。怖れていた戦犯にも問われることなく、茂吉はその業績を認められて昭和26年に武者小路実篤、高浜虚子等と文化勲章の栄誉を受けた。
茂吉の臨終は昭和28年2月25日に訪れた。70歳。戒名と墓は輝子のスキャンダルの後、故郷上山に老い先が長くないことを見越し用意してあった(ふさ子は茂吉の訃報をテレビで知ったという)。
茂吉の晩年は痴呆状態がすすんでいたようだ。看病は主に輝子がした。
茂吉の日記についてはこれまでにも適宜引用してきたが、昭和8年年11月7日からの一週間分が破り取られていることを茂吉研究家が記していることに触れ、北杜夫は「輝子のしわざではなかろうか」と言っている。茂吉全集は茂吉の生前から刊行が始まったが、茂吉の看護のかたわら日記等の資料を閲覧出来たのは輝子だったからだというのだ。しかも破られた日付はスキャンダル事件と合致するので自分に都合の悪い部分を始末したのであろう、と(他にも輝子に関する記述はたくさんあるのに、何事も大雑把な輝子は気になるところだけを調べたのだろう、とも)。

昭和38年に永井ふさ子が茂吉の恋文を公表したとき、輝子はそれを読んで掲載誌「小説中央公論」を「卓の上へポイと置き、『面白いから読んでごらんなさい』と家人に言った」(小林勇「人はさびしき」)というまことしやかな話が伝えられている。が、まことのことだろう(と思う)。
ところで「小説中央公論」公表問題について記述が二転三転するけれども、北杜夫は「茂吉彷徨」で永井ふさ子のことをこの公表時まで家族は誰も知らなかったと言い切っている。つまり前章で述べた茂吉の恋文を中央公論社より公表してもいいかと打診され、弟に相談したのが昭和28年だとすると、北杜夫がいくらなんでもそんな重要なことを忘れるわけがないであろう。かくして茂太のあやふやな文章の決着がついたと思っていたら、たまたまこの原稿執筆と併行して読んでいた斎藤茂太著「ママさまは不思議の人」(昭和61年刊)に、永井ふさ子宅訪問や恋文公表時の同じ内容の記述があることに気づいた。それにはまぎらわしい表現はなく、想像通り北の証言と一致するのである(これでスッキリした。教訓。本は可能な限り刊行順で読むべし。この教訓を生かすためにも原稿は訂正しなかいことにした。ああ、疲れた)。


少し話題を変えよう。
斎藤茂吉に関する本は茂太、杜夫兄弟に限らず本当にたくさん出ている。評伝、評論、歌論など(この文章はそれらの幾冊かを参考にした)。次もそれらの一冊から学んだ知識。
戦後の高校教科書に(1950〜2002年)その短歌がもっとも多く採録された歌人は、他でもない斎藤茂吉だという。その数はのべ1522首で、第二位の石川啄木が1019首なので茂吉の採録頻度は啄木の約1.5倍でダントツであるようだ(以下、与謝野晶子、北原白秋、正岡子規、若山牧水、島木赤彦、釈迢空の順位)。
「のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて垂乳ねの母は死にたまふなり」と「死に近き母に添寝(そひね)のしんしんと遠田(とほた)のかはづ天に聞(きこ)ゆる」の二首が採録歌の双璧と説明されている(品田悦一「斎藤茂吉異形の短歌」)。
これだけを学習すれば斎藤茂吉という人はとても母親思いの純朴な人だったのだな(他家の養子になった境遇を考えてみても、母思いの息子だったのだろうが)、というイメージだけで終わってしまうだろう。たぶん歌や字句の解釈以外に、授業で夫婦の確執や葛藤、陰の愛人がいたことなんか教えないであろうから。

なのでお堅いイメージの茂吉に隠された生活があったことを知ったときの衝撃は、必ずしも小さいものではなかった。ましてやその家族にとっては、であろう。初めて夫の不貞を知った輝子が、「小説中央公論」読了後取った態度(事実と想定して)をどのように解釈したらいいのであろう。
茂太はその著書で「過去を顧みず、未来だけに生きようとする」のが、母輝子の本質だったと観察している。文化勲章を受けた茂吉だってこうだったのよ。なにさ、大したことでもないのに、大げさに騒いで私をほっぽり出して・・・何てケツの穴の小さい男だこと(当時の学習院出なのでこんな下品なことは言わないかな)というのが、輝子の言い分だったかも。

斎藤輝子はあれほど世界の隅々を駆け巡りながら一冊の著書も残さず、茂吉歿後三十年経った89歳の誕生日を迎えた五日後の昭和59年12月16日に活動を停止した。
茂太は90歳の長寿を保ち平成18年に、宗吉こと北杜夫は平成23年84歳にて没した(昌子の歿年は不明、兄たちより早世したのは確かだが)。
斎藤西洋のことを付け足しておくと、青山脳病院が再炎上する少し前に世田谷松原の青山脳病院本院は東京府に買収されていた。西洋は戦後になってその病院の院長に就任していたが(西洋が青山脳病院で働いたことは一度もない)、昭和33年に現職のまま病歿した(56、7歳ということになる)。西洋は猟銃、料理など多趣味な男であったようだ。もし西洋が欲深い性質だったら、相続問題で大変な事になっていただろう、と茂太は感謝の念を叔父にささげている。

「楡家の人びと」よりも長くなった感のあるこの斎藤家の物語もいよいよ幕引きが近づいた。
斎藤茂吉輝子夫妻の次男宗吉は、せっかく医師免許を取りながら作家の道を歩いた。そのせいかどうかは分からぬが北杜夫が猛烈な躁鬱病に苦しめられたことは知る人ぞ知るであろう(喜美子夫人はこの世の果てとも思える大苦労を、いやはやとんでもない人と結婚したものだ)。北杜夫の「マンボウ遺言状」にこんな一節があった。
「僕は作家としては大した仕事をしていないけれど、僕が世間のために役立った唯一のことは、なだいなだ君(医師にして作家、北の麻生中学の後輩で慶応の医局で知り合った)にいわせると、躁鬱病を一般に認知させることに役立ったことだと言われた。・・・僕のおかげで、躁鬱病でも一応社会人として成立しているということを世間の人は知っているから、『鬱病です』と言われても、『ああ、北さんと同じ病ですね』と、かえってほっとするらしい。これだけが僕が世間の人の役に立った唯一のことです」
またこうも。「私が躁鬱病を必要以上に宣伝するのは、なんとかして世間の人の精神病者に対する偏見を除きたかったからである。みんなが考えているほど精神病者はこわいものではない」(「どくとるマンボウ医局記」)。読んでいてなんかホッとするような ユーモアと優しさを感じるのだけど、本人が好きではなかったらしい宗吉という名前(これも百子と同じく平福百穂の命名だったけ?) の宗が躁に思えてきて、吉が・・・。

悪い冗談はやめよう。せっかく北杜夫がいいことを言ってくれているのに帳消しになる。もっと別のことが頭に浮かんでいたのだ。これまで恋は盲目なんて強調してきたけど、昔の人が言い伝えてきた言葉をすっかり忘れていた。恋患(わずら)い。盲目どころか、恋は立派な病だったのだ。恋の特徴は気分(こころ)が身を焦がすほどに昂(たかぶ)るかと思えば、次の瞬間には見るも無惨に沈み込み萎(な)えている。その両方を交互に繰り返すか、もしくはそのどちらかを一方的に味わう。この症状こそ躁鬱病そのものでなくて何であろう。
茂吉も学生の宗吉にもっぱら言って聞かせていた。「女というものは恐ろしいものだから、決して近寄ってはならぬ」と。これは精神病の一兆候をみせるであろうレンアイを体験済みの父が将来性ある息子に暗示をかけ戒めていたものだと思う(でもこんなことが役立たないのは、北杜夫の叔母たちの行動でみてきたとおりである)。
どんなに規制しても真理は一つ。人生においてレンアイを一度も経験しない人は、古今東西一人もいないであろう(ちょっと言葉の綾が入ってはいるけど)。ということにしてレンアイも躁鬱病の一種とみなせば、誰でも罹る恋患いの延長に過ぎない精神病なんて北杜夫の言うようにちっとも怖くないのかも。
怖いといえば、茂吉の次のような殺気漂(ただよ)う必殺仕掛人もどきの歌をいうのではないか。 
     めん雞(どり)ら砂あび居たれひつそりと
                                        剃刀研人(かみそりとぎ)は過ぎ行きにけり
とはいえ、こういう光景はとうの昔に過ぎ行きにけりで、失われた過去でしかないが・・・。 

(北杜夫「楡家の人びと」並びに斎藤茂吉「赤光」は新潮文庫で読める。) 

自由人の系譜 北杜夫「楡家の人びと」(中)

旧制松本高校の同窓であり、三島由紀夫とおなじ大正14年生まれの二歳年上で、北杜夫とは大変に仲の良かった作家辻邦生が、やはり「楡家の人びと」新潮文庫改版の解説に三島の文章を引きながら、「楡家」に「魂の底から感動した 」と述べ、次のように記しているのが目についた。
「『楡家の人びと』の人物が、いずれも作者をめぐる一族の人々をモデルにしていることは周知の事実である。しかし北杜夫が父に歌人斎藤茂吉をもっているため、この問題は特殊なニュアンスを帯びてくる。作中に登場する楡徹吉は種々の点で斎藤茂吉の面影を濃く伝えている。とくにミュンヘン留学当時の徹吉、老いて故郷に帰る徹吉の姿には、作者は、意識的に茂吉その人の肉体をつけ加えている。しかし他方では、楡家の没落を描くという主題上の要求と、大詩人の姿の圧倒的な巨大さの点で、楡徹吉から、歌人としての側面と、茂吉の人間臭は切りとられている。そこには活力にあふれた明治人楡基一郎の陰で、病院経営に喘(あえ)ぎながら、執念の虫となって、精神医学史を書きつづける一医学者の姿が描かれているだけである」
これをもじっていくらか詩的に表現すれば、北杜夫が打ち消した大歌人斎藤茂吉の「圧倒的な巨大さ」の放つオーラに引き寄せられるように、遠く四国松山から飛び立って来た美しい雌蝶が永井ふさ子ということであったろうか。

茂吉とふさ子の出会いは、昭和9年9月16日の正岡子規三十三回忌歌会が行われた向島百花園においてであった。ふさ子にとって初めて参加した歌会であった。会がはねて、ふさ子は茂吉に挨拶をするとともに、伊予松山から出席したことや父親が子規と幼友達であったことなどを話し、子規を信奉する茂吉はいたく喜び、ふさ子への関心を強めた。
さらに11月になって、「アララギ」の秩父吟行旅行にふさ子も加わったことにより、二人の距離はいっそう縮まったのであった(この吟行会での二人並んだ写真が残っているがい、茂吉の斜め後ろで少しまぶしそうにカメラを見つめるふさ子の表情は、あどけなく清楚でやはり美しい)。門弟たちといっしょにふさ子を青山の自宅に招いて食事会を供したりするうち、茂吉はふさ子に直接歌を指導することを約す。茂吉の直弟子となったふさ子は松山から歌を送り、どうじに茂吉からも添削と感想をつづった書簡が返送された。そして二人の書簡は徐々に私的な色合いに染められ、相聞歌が添えられるようになっていくのである。邂逅時点の年齢は、ふさ子25歳に対して茂吉は初老にさしかかった52歳であった。

永井ふさ子は、1909(明治42)年に松山市で生まれている(註)。異腹の兄(この兄が子規と又従兄弟になる)が一人いて、ふさこは後妻が産んだ五人姉妹の四女である。つまりふさ子の父親は、長男を成した前妻(彼女が正岡家の血筋を引いていた)が病弱だったため離縁していたのである。父親は、松山中学、岡山医専、東京帝大で学び、24歳で県立病院長に就任、以来四十年にわたって務めた(かつ開業もしていたという)人物で、貸家なども相当ある資産家だったようだ(兄も医者だった)。したがってふさ子(たち)は、苦労なし、不自由なしのお嬢様で育った(と思われる)。
県立松山高女(現松山南高)を出て、父親が医者になることをすすめるのを諾(うべ)なわず、東京女子高等学園に進学したものの病気(肋膜炎)で中退。昭和6年には慶應病院で腎臓摘出手術を受けたふさ子は、そのころより自然と短歌に親しむようになり、8年に子規の流れを汲む「アララギ」に入会、9年の歌会初参加となったわけである。東京では、ふさ子のすぐ上の姉が(この姉とふさ子はのちのち神奈川伊東で二人暮らしを送った)、やはり医師と結婚して世田谷に住んでいたので(こののち伊東へ転居)、そこを根城にしていた。やがて妹のたけ子(青山学院大学生)の借りた渋谷のアパート(香雲荘)に同居したりした(ここは茂吉の家とも近かった)。
(註・明治42年生まれは、太宰治、松本清張とおなじである。)

茂吉との出会いに「恋とも違う憧憬よりもさらにはげしい献身の喜悦とでも言うべき性質の」「強烈な慕情」を感じていたふさ子が茂吉の接吻を受けるのは、しかし自然なことであったろう。師弟がいつしか恋人への間柄へと進行したのは(向島の初見から一年以上を経た)、昭和11年1月18日であったとふさ子が日にちまで明記している。その日二人は、浅草寺に参詣して喜劇映画を見、うな重(うなぎは茂吉の大好物であった)を食し、夜の公園を散歩したとき、藤棚の下にて接吻を交わしたとある(2・26事件が起きたのはこの一ヶ月後であった)。
それでは恋人から男女の仲にまで発展したのは、果たしていつのことであったのか?ふさ子は明らかにしてはいない。接吻のあとふさ子は四、五日して松山へ帰ったとあり、つぎに上京するのは6月中旬なので、この6月が怪しい。というのも、6月15日付茂吉の伊東宛(ふさ子の姉の家)に出した手紙に、「御歌稿拝受、ああいふ切実な御歌でなしに、風景の御歌で誰にも分からないのを願います」と書かれている。その歌の一つは「冷やびやと暁(あかとき)に水を呑みしが心徹(とほ)りて君に寄りなむ」というものである。たしかに意味深であろう。また、7月21日付け書簡には、「〈観音以前〉にせしめねばなりません」とも、茂吉は書く。つまりは、恋人以前の師弟の関係に戻さねば、ということであろう。

さらに6月の東京で日蝕が観測された日に、二人は荻窪駅で待ち合わせていたのであったがふさ子が新宿駅のホームに来たとき、偶然茂吉がいるのに気づいた。近寄って行くと、茂吉は何やら聞き取れない言葉を唇を震わせてつぶやいたまま逃げるように去っていった。茂吉はそれほどにふさ子との関係に人目を恐れていたのである。茂吉がいくら著名であろうとも度を超えた行為に接すると、ふさ子にはやり切れない思いがして「あまりに人をおそれすぎる」と、ときには訴えたこともあったという(燃え盛る恋の前途に若いふさ子は一抹の不安を感じたにちがいない)。
いずれも根拠はいささか弱いながら、これらのことからも二人の仲に相応の進展があったと考えても良いのではないか。 これよりすぐ前にはどんなところが好きかと互いに問い合ったりもしているし、ふさ子が再上京するきっかけにもなったかと、思われる次のような手紙が6月6日に出されている。

「手紙は二人ぎりで、絶対に 他人の目に触れしめてはなりませぬ。そこでお読みずみにならば必ず灰燼にして下さい。そうして下され ばつぎつぎと、心のありたけを申しあげます、さもないと心のありたけは申しあげられませんから、虚偽になります。これを実行して下さいますか、いかがですか、わが心君に沁みなば文等(ふみら)をば焔(ほのほ)のなかにほろぼしたまへです」。(歌はいちいち挙げないが )茂吉の歌と手紙攻勢にふさ子の「強烈な慕情」は耐えきれなくなり、それこそ「献身の喜悦」にとらわれたのではなかったか。6月中旬の上京を決意したときに、すでにふさ子の気持ちは固まっていたのでは?と推測するのである。

手紙文面にあるように茂吉はどの手紙にも、読み終わったら必ず焼却することをくどいほどふさ子に言い足している(ふさ子は忠告に従って最初の頃の三十通ほどを処分したようだ)。
おもしろいことに上文の手紙をこのあと、「手紙などを世人に示すといふことは罪悪です。小生は全集に書簡を入れさせないのはつまりそのためです」と茂吉はつづけているけど、茂吉の全集にこれらふさ子に与えた百五十七通(のほとんど)の恋文はもちろん、その他膨大な私信、日記、手帳類のいわゆる断簡零墨までもが網羅され研究材料にされていることに、泉下の茂吉は実に苦々しい顔をしているのか、意外とサバサバした表情であるのか、それとも太いため息を吐いているのかどうか。いやいやそのどれでもなく、怒り狂っているようでもある。それほどに茂吉の性格は複雑怪奇な面があったことは、佐藤春夫の指摘や多くの茂吉研究家の語るところである。

何はともあれここから、本院分院を抱える大青山脳病院長にして国民歌人斎藤茂吉の狂瀾怒濤の恋文が永井ふさ子のもとに舞い込むのである。それは藤棚の下の接吻から始った昭和11年と翌12年が茂吉の恋情の最高潮期であったことを、これらの書簡が証明している。
そのもっとも有名なものは、11年11月26日に直接ふさ子に手交された一文であろう。
「ふさこさん!ふさ子さんはなぜこんなにいい女体なのですか。何ともいへない、いい女体なのですか。どうか大切にして、無理してはいけないと思います。玉を大切にするやうにしたいのです。ふさ子さん。なぜそんなにいいのですか」
またおなじころ、ふさ子に「光放つ神に守られもろともに」の上句を与え、これに下句を付けて欲しいと注文。ふさ子は「相寄りし身はうたがはなくに」と返すと、「弱い」と言われ「あはれひとつの息を息づく」と直したら、「今度は大変いい、人麿以上だ(註)」とたいそうご満悦だったことを明かしている。茂吉ふさ子の最高合作「光放つ神に守られもろともにあはれひとつの息を息づく」。この歌も、ふさ子肉体讃歌の文章ともども、茂吉評伝の語りぐさとなった。
(註・当時茂吉は柿本人麿研究に取り組んでいた。)

とはいえ恋に嫉妬はつきものである。ふさ子に男がいるのではないかと茂吉はふさ子が妹と住んでいるアパート香雲荘をこっそり見張り、それをふさ子に発見されたり 、あるいはふさ子が男と土手を歩いたり男の家に出入りしていることを攻め立てて、長い間ふさ子を苦しめるのである。その執拗さにふさ子もいささか辟易し「男に『意地』があるように、女にも『誇』がございます。これまで申上げても尚、信じて頂けなければもうよろしうございます」と切り返されたりしている。それが茂吉よりもはるか年上の70代の「アララギ」会員だというのだから笑える(だからふさ子も苦しい胸の内を吐露できたのだろうか)。まさに茂吉をみてると恋は盲目なりである。 
そうかと思えば、両親や「アララギ」の世話好きな女性会員などの持ち寄るふさ子の見合いには、積極的(?)かとも思えるほどにふさ子の身を案じるのである。茂吉の愛恋混淆(こんこう)した嫉妬と恋着に自分を見失いかけたふさ子は、一人で12月の富士見高原を訪ね茂吉との今後を考えてみるのであるが、それも何の解決案も浮かばないまま帰京。結局、この昭和11年6月のふさ子の上京は、茂吉恋しさに振り回されて翌年の1月初めになったのであった。しかも一旦は伊東の姉の家から直接松山へ帰る予定を、茂吉への恋慕つのりて熱海で上(のぼ)り方面に思わず飛び乗って(このときの二人の逢瀬は1月5日だったようだ)。

「三ケ月(みかづき)の清き眉根を歎(なげ)きつつわれに言問(ことと)ふとは(永遠)の言問(ことどひ)」。男女の仲になったと予想される夏の時季に茂吉のふさ子に示した歌である。永遠の言問いをしているのは、無論ふさ子である。茂吉は何も答えない(有効な言質を与えないで避けている?)。それどころかこの歌のあとに茂吉は「ものになりますか、秘歌です。御歌よむとぞくぞくします。然し選歌は必ず客看的の叙景歌にしてください」とはぐらかして(?)いる。これでは女心は浮かばれない。
盲目ゆえのノーテンキなのか(まさか?)、茂吉一流の韜晦(とうかい)なのかはわからないが、そんなことはお構いなしに、茂吉の恋文のすごいこと!以下、目についたところを抜き書きしてみる(順不同)。
「うつくしい脣と眉と頬と・・・(乞焼却)」。「ふつくらとした胸のあたりが眼にありありと見えます。あゝ玉なす胸、ちぶさあたり」。「にくくてにくくて噛んで呑みこんでしまひたいふさ子ふさ子さんふさ子ですもの」。が、こんなのはまだ序の口であるか。

ふさ子の写真をベッドの下に入れ、財布の中にも入れて持ち歩いていた茂吉は、それを見ては「この中には乳ぶさ、それからその下の方にもその下の方にも、すきとほつて見えます。・・・食(くら)ひつきたい!・・・このごろ御飯おいしいか、少し肥(ふと)りましたか、尊い、ありがたく、甘い味ひのしたあのへん!」。さらにふさ子と妹のたけ子が松山近辺に海水浴に行くと、念願の香雲荘の姉妹の部屋に通されて普段着姿のふさ子を見て感激していた茂吉は、今度は姉妹の水着姿の写真を送ってくれと何度も懇請する。「海辺での海水着の御写真是非見せて下さいませんか、狼になりますよ。少し御肥りになつて、◯◯◯ももつとふくふくですか、うらやましいねたましい。お大切にしてください。お嬢さんによろしく」。
いったいこの◯の中は最初からこうだったのか?焼却を厳命した茂吉がわざわざこういう伏せ字を用いたとも思えないからには、さしさわりのある人名を頭文字にしたごとく公表時のふさ子側の操作によるものだろう(返って妄想を刺激するのであるが)。それに劣らず不可解だったのが、何度も唐突に出てくる「お嬢さん」という表現であった。

もう一つ例を挙げる。ほぼ似通った文面ながら、「ふさ子さんはこのごろ少し御肥りのよし、実にこひしく御座候、お嬢さんもふくふくしくして御肥りのことならんか、◯◯したけれども夢幻の境のみゆるされ申候」。この◯◯は、茂吉のよく使う言葉(歌にもある!)交合であろうか?
このお嬢さんについてはうっかり読み落としていたのである。こういう文章があったのを。「お嬢さんこのごろどうしてゐますか。どうぞよろしくいつて下さい。僕の頑童も大丈夫ですが、寂しがつてゐます」。「頑童」とは?多分よく男たちが自分の一物のことを「ムスコ」と表現するあれではないのか?そうであれば、もう言わなくても良いであろう。最初はふさ子の妹のことなのか、しかし茂吉はたけ子のことはちゃんと妹さんによろしくと言っているのだし、もしかしたらふさ子の姪御でもいたのかと思ったのであったが。

こんなのもある。「銀座などでどんなひとにあひましても體(からだ)に変化はおこらないのに、(ふさ子からの)手紙の一行でもよんでゐるうちに體に変化が起つてまゐります。・・・體の変化といふのは御分かりでせう」。このあとが実に茂吉らしい。「とても清純にうるほふ。尊いものです」。以下、手紙は風呂場で燃やせと書く。
そして初めて会った「百花園の時にはまだ子供子供してゐましたね。それが繭(まゆ)を出た蝶の如くにてりかがやくやうになつてしまひました」とか、そのころ売出し中だった十代の原節子(1920年生まれ)を「あの女優は素人見たいでなかなか美しく、背丈がすらりとしてゐるところなどふさ子さんそっくりです、しかしふさ子さんの方が美しいと思つて僕は比較してゐました」と、ヌケヌケと言ってのける男、茂吉。
茂吉に自分のどんなところが好きかと問われ、「非常に素朴で純粋で、偉い方のようでなくて子供の様なところ」と答えたふさ子。苦労知らずのおぼこ娘は、老獪(ろうかい)な五十男に手玉にとられ翻弄(ほんろう)されているようにも思えるが、こういう恋の行く末は意外とその当事者には見えていないものである。なるほどシェークスピア劇の恋は盲目というセリフはズバリ急所を突いているようだ。
 
茂吉は本当に食えない男だったのか?
ここで少々くどくなるが、ふさ子のこれまでの足どりを整理しておくと、昭和9年9月に向島百花園で相見えたのち、秩父吟行などで急接近、師弟となりふさ子は12月末に帰郷。文通繁くなる。
世田谷に住んでいた姉が伊豆伊東に転居医院を開業したので、昭和10年11月に両親とともに上京、伊東へ。ふさ子だけそのまま居残り正月を過ごして、妹の渋谷香雲荘に移り1月23日頃に帰松した。接吻はこの18日の夜である。茂吉の手紙はますます増え、この間の2月下旬から5月末までの三十通ほどを処分した。そして6月中旬に再上京して男女の仲になった(たぶん)。で、年末には恋の行く末を考えるために、雪の富士見高原に一人旅。堪えきれず帰京すると、もう年の瀬に。大晦日にふさ子の父親が贈った浜焼鯛を茂吉が香雲荘に持ち寄ったので、折から訪れていた帝大生の母方の従兄と妹の四人で小宴会を催し、除夜の鐘がなるころ渋谷駅まで茂吉を見送るふさ子の目から涙が落ちて何も見えなくなった。正月を伊東で過ごしたふさ子は、熱海で下りに乗るべきはずが茂吉愛おしさに上りに乗ってしまったのである。こうして昭和12年初頭にふさ子は再び松山の人となった。なので茂吉の狂乱の恋文は依然とどまることを知らなかった(この間ずっと茂吉の嫉妬の手紙は継続されていた)。

驚くなかれ、松山に届いたのは恋文だけではなかった。茂吉本人がふさ子の家に現れたのである。昭和12年5月、茂吉と土屋文明は、亡友中村憲吉の長女の結婚式に広島(現三好市)に招かれたのであったが、茂吉はその当時畢生(ひっせい)の大作「柿本人麿」考察に取り組んでいたので、島根で没した人麿の終焉の地を特定する重要な目的を済ませたのち、ふさ子の家を訪問する約束を交わしていたのであった。
ふさ子の方はちょうどこの時期、両親がすすめる結婚相手と婚約のための顔合わせが予定されていた。相手は東京帝大を出た岡山にある大きな外科病院の院長だった。再び言う驚くなかれ、ふさ子はこの催事が終わったあと、茂吉と岡山で会うことを提案しているのである(実現しなかったが)。つまりは、ふさ子は茂吉を思い切るためにのみ結婚を承諾しようとしたに過ぎなかったのである。
茂吉は永井家で二日を過ごし、一家を挙げての厚いもてなしを受けたのであった。日中はふさ子の案内で子規の墓前に額ずいたり、永井家から至近にある松山城に登ったりして、三日目は道後の旅館に宿を変えた。その朝ふさ子は七時十分に茂吉の部屋を訪ねている。茂吉が永井家に挨拶を済ませ、帰京の列車に乗るのは九時五十五分だったので、二人きりの十分な時間が持てたことはいうまでもない。帰りも出迎え同様、今治までふさ子とたけ子の見送りを受けた。
茂吉も茂吉なら、ふさ子もふさ子である。盲目度合いはどっちもどっちというべきか(それにしてもいい年をしたおじさんが関係のある若い娘の家に招ばれて歌の師匠として臆面もなく接待を受ける。茂吉恐るべし、である)。

それでもふさ子は夏には婚約を済ませ、結婚の準備は着々と進んでいく。茂吉の手紙はさらにヒートアップする。
「エンゲージすめば半分は御主人ですから、私は全部あなたを寫眞の方に乗り移らせました。御寫眞は五六種ありますから、私の全心はその五六種に物いひ、抱擁し、触れてゐますから、もう決して御心配ありません」と諦念したかと思えば、ただし婚約したとて体を許してはいけないとさしでがましい口をきき、なんと呆れたことに次のようなあつかましい要求をするのである。
「誠にいひにくいがもう御唇は御許になりましたか」と問い、「M氏(婚約者)と最初のキスの時と場所のこと御仰つてくださいませんか、これも深く秘めてひと事でなく感銘させますから、岡山でなさつた時、或は松山、或は御旅行又は海辺といふやうに場面も一寸御書き下さいませんか、もう御手紙さしあげることも、出来なくなりますから、こんなことも御願するのです、永遠の恋人に最後の吾儘(わがまま)だとおもつて、委細に冩生文式に御願します」。これに限らず、M氏との進展状況を執拗に尋ね、結婚式の島田姿の写真を予約し、新居での生活も知らせて欲しいともねだっているのである!執着もこうまで極まれば・・・(谷崎潤一郎も顔色無しか)。

「私も時には嫉(ねた)ましくおもふ方がいい」といいながらも、「本当いふと、あひたいのです、ああこひしい悲しい、ふるひつきたい、こひしくてたまらない。しかしこれは明春からは絶対にいひませんから」と相反したことを告げる。
そういう最中の11月中旬、結婚の支度(買い物)の用件でふさ子は婚約者と上京した。ところがこの上京はとんでもない結果を生む。ふさ子の 哀切な文章があるのでそれを引用する。
「上京の理由は何であれ、結婚前にもう一度先生に逢えるということだけで、閉ざされていた私の心は浮き立つおもいであった。この度も妹に同行を頼んだ。汽車が東京に近づくにつれて 、周囲の風景が次第に生き生きしたものに見えはじめた。東京に来たことがこれほど嬉しく感じられたことは曾(かつ)てなかった。宿舎に向う車のそばを、折から上海陥落を祝う提灯行列が、濠ばたを取りまいて、声高らかに歌いながらの行進がつづいていた。それが恰(あたか)も自分を迎えてくれる様な感激を覚えた。宿舎では、妹と私は、Mとは離れたところに部屋をとり、すぐに先生に電話をした。久々にきく先生の声もはずんでいた」(この年夏、盧溝橋事件を皮切りに日中戦争の火蓋が切られていた。当初、上海、南京陥落と日本軍の快進撃は続いていた。)

「二三日後、Mは先に岡山に帰り 、妹と私は香雲荘へ移った。この再会は抑圧された反動となって、二人を激しく燃えたたせた。それからはしげしげと逢った」。「先生とは旅にもよく出かけた」(伊香保温泉などのようだ)。
「こうした日々は瞬く間に過ぎ、松山へ帰る予定の日は疾(と)くに経過していた。Mからは帰りのおくれる理由を問う手紙が頻々(ひんぴん)と来て、さすがに東京で何かあるという疑いを抱かない筈はなかった。その頃には、もはや私にとって他の人の愛情を受けることは苦痛でしかなかった。婚約解消を決意すると同時に、先生との恋愛をつづけることも自分にゆるせなかった。私は東京を去った。その時、自分の生涯で、これ以上に人を愛することはもはや無いであろうという切実な想いがあった。
西に向う汽車の中で、窓に顔を押しつけていたが、涙があとからあとから流れて、窓ガラスが曇るのを、前の座席にいた老婦人が見かねて、そっと窓を拭いてくれたのを記憶している」
ふさ子の帰省は年が明け、すでに昭和13年になっていた。

つまりは恋愛の高揚と失意すなわち破局が一挙にやってきたのだ。破局?だったのだろうか。このあたりが二人の関係のわかりにくさである。が、少なくともこの時点で、ふさ子の恋情が成就する見通しが閉ざされてしまったことだけはまちがいないであろう。ふさ子は西下する汽車の中であられもなく涙を流しつづけているのだから。
破局にはちがいないが、二人の関係がこれで完全に終わったわけではなかった。これから七年もの間にわたって、とりかわした数多(あまた)の相聞歌の反響ともいえる残り火がまだまだ燻(くすぶ)っていたのである。
松山に帰り着いたふさ子は全くの病人になった。肋膜炎が再発したのである。病人宅には次々と、東京からの婚礼家具が運び込まれる(ふさ子が送り先を岡山から自宅に変えていたのであった)。婚約者は翻意を促してくる。驚いたのは両親である。ふさ子は観念して、一切を白状するしかなかった。父親はそれを聞き自身も病に倒れ、ふさ子の懸命の看病もむなしく10月に息を引きとった。「総(すべ)てが自分の上に降された神罰と思われた」。

一方茂吉も流行性感冒に罹りずっと寝込んでいたようだ。茂吉の2月13日付の手紙には、ふさ子からの手紙に接したことが書かれている。ふさ子の容態を心配しながら、M氏は怒ったのかと問い、「ねつおちてこころいきづけばこほしさのむらむらわきてたえがてなくに」(原文は万葉仮名)という相変わらずの歌を添えている(風邪の熱が下がって一息ついたら恋しさがムラムラ湧き上がって堪えようがない、逢いたい!の意である)。
しかし茂吉は、一週間後の次便に「僕はやはり腎臓の方、よくないので、凡てのことあきらめることにしました。・・・渋谷桜丘の道もたえてゆくこと無之(これなく)夢のごとくに思はれ申候」と書く。あきらめるすべてのこととは何であったのか?ふさ子の婚約破棄を茂吉が知ったのは3月1日である。その日の日記に「永井ふさ子来書、結婚ヤメタル由」とだけ記した。
多いときは一日に七通も出され、昭和12年間に八十四通(11年は四十五通)を数えた茂吉のふさ子宛書簡は、この昭和13年には十一通に激減、14年六通、15年一通、16年二通、17・18・19年はゼロ、そして最後の一通は茂吉の故郷上山への疎開を告げるハガキであった(なお、約三十通を焼却処分したという10年は四通、知りあった当初の9年は三通である)。
「三ケ月の清き眉根を歎きつつわれに言問ふとはの言問」。ふさ子の言問いは、もう「ひとつの息を息づく」こともなく、こうして永遠の言問いに終わったのである。破局を迎えた昭和12年末の二人の年齢を書き添えておくと、茂吉55歳ふさ子28歳であった。
 
これら茂吉の恋文の存在を世に知らしめたのは、昭和38年の「小説中央公論」誌上に永井ふさ子が沈黙を破って公表したことによる(ふさ子;54歳の年)。
たまたまこの年が、北杜夫「楡家の人びと」執筆時期と重なったことはすでに触れた。そしてこう述べておいた。北杜夫が「楡家」に描かなかった事実といっても、父親に愛人がいたということを公表されるまで知らなかったからにはどうしようもなかったであろうと(つまり、「楡家」に描かれなかった三つの事実のうちの他の二つとは元々事情がちがうのだと)。
ところがそうではなかった。北杜夫の兄斎藤茂太に父母を題材にしたいくつかのエッセイがあることは知っていたが、だいたいその中身は同工異曲だろうと見当をつけて手に取らないでいたのを、この際だからと思い直してひととおり目を通してみた。思いもかけないことに、そのうちの一番新しい一冊「回想の父茂吉母輝子」(平成5年刊)に、「永井ふさ子さんのこと」という短い文章があるのに気づいた。

そこには茂吉の亡くなった昭和28年に、中央公論社より永井ふさ子宛の茂吉の恋文を公表してもいいか、と打診があって茂太は弟宗吉と相談の上、茂吉はもはや私人ではなく公人なのだからとの結論を得たとあるのだ。つづけてこう書かれる。「息子の私が心情的にふさ子さんへの拒否反応を示したとしても不思議はなかろう。父が必ず焼きすてるように頼んだ恋文を公表した行為は決して美しいとは言い難い」。けれども茂吉の歌を理解するには必要な文献となるにちがいないのだから、公表に賛同したという。
そもそも茂太は昭和10年に 松山高等学校受験に行き茂吉の指示で永井家を訪れているのである。「そこにきれいなおねえさまがいて、私をお城などに案内してくれた」。茂太の世話を親身に焼いたのはもちろんふさ子である。昭和10年春のことだから、茂吉とふさ子はいまだ師弟の間柄のころである。このエッセイで茂太はしかし、受験のことはおくびにも出さずに「精神的負傷」(これが輝子が関係するスキャンダル。次章で触れる)にて一人旅で松山に行ったと書いている(受験のことはふさ子宛茂吉の手紙にも記述がある)。

不合格になった受験のことなどあえて書く必要もなかったかもしれないが、やはり書きたくないことでもきちんと書いておいて欲しかったと思う。文章の信用性の問題にも関わるからだ。茂太の松山行きは19歳の誕生日を迎える直前だったかと思われる(茂太は3月21日 生まれ)。そしてきれいなおねえさんが父親の愛人だと知った昭和28年は、36、7歳である(宗吉は25、6歳で慶大医学部助手になり、同人雑誌に小説「幽霊」を発表していた)。また上記のふさ子に関わる本の出版時、茂太は77歳を数えていた(この本には偶然の出来事としてふさ子の逝去が記されているが、これも次章で述べる)。
ということで、北杜夫は「楡家」着想前に永井ふさ子の存在を知っていた。その上で「楡家」にはふさ子が登場する必要性を作者はまったく認めなかった、ということになる。

それでも別の疑問は残る。肝心の輝子には(中央公論社も)相談しなかったのか(輝子はふさ子のことをいつ知ったのか、なども)。中央公論社はどうして恋文のことを知ったのか。兄弟が承認したのに、なぜ恋文はすぐに公表されなかったのか(そもそも出版社が事前伺いをたてるのかも含めて)。
と、ここまで記してやっぱり気になるので茂太の文章を掲げよう。「(ふさ子が)愛人云々を知ったのは、昭和28年(1953)父が死んだあと、父のふさ子さん宛の『恋文』を公表していいかと中央公論社から伺いをたてられた時である。北杜夫と相談して・・・」、「私人」、「公人」、「文献」の結論を得て、そして上文の「ふさ子さんへの拒否反応」の文章につづくのだが。
最初は「昭和28年」が単純に38年の間違いでは、と思ったけど、それはあり得ない。問題は「父が死んだあと」という文言にあるのだろう。中央公論社が伺いをたてた時は、死んですぐだったのか、死んで相当の時間が経っていたのかとても文意が曖昧なのである。文章を素直に読み進めば死んですぐと捉えがちだけど、それでは「拒否反応」の文章につながらない。その文章ではふさ子さんはすでに恋文を公表しているからである。つまりは昭和38年にすっ飛んでいる。どうとも取れる何ともお手上げの文章である(文脈上は「死んだあと」十年経って、と捉える方がより自然げあろう、が)。とりあえず降参。

恋文は「小説中央公論」に五回にわたって発表されたのち(註)、昭和56年になって「斎藤茂吉・愛の手紙によせて」と題して一冊の本にまとめられた(これまでの記述の多くはこの本を参考にした。他の文献によると、「小説中央公論」初出時と例の◯◯部分や文章に若干の異動があるようだが)。ふさ子、72歳の秋である。茂吉生誕百年に合わせて出版されたとあとがきにある。そのあとがきによれば、ふさ子はこの恋文の処理でいろいろと悩んでいたが、茂吉とふさ子の事情をよく知る茂吉の高弟から茂吉死後十年くらいはそっとしておいてやってくれないかとの意見に従ったことが書かれている。
これで疑問の全部ではないけど、漠然とした当時の事情は類推できる。茂太は茂吉の長男としてふさ子に憤(いきどお)りを感じるのはある面もっともなことだけれども、交際中どこかの時点で、ふさ子が一緒になれない腹いせに茂吉との関係を暴露でもしていたらどうなっていたことだろう?結果からみればそうされても仕方がないほどに、茂吉は親子ほども年の離れた娘を弄(もてあそ)んだのではなかったか?
「天(あま)つ日の光の果てぬ冬の野にひとりをとめ(乙女)を咽(むせ)び泣かしむ」。茂太と同じく「精神的負傷」の苦境にあった父親に寄せたふさ子の献身的愛情に(ふさ子の側にもし何らかの落ち度があったとしても)、たとえ一時でも父親は救われたのかもしれないと、むしろ感謝してもいいのではと思うのであるがいかがなものだろう。
(註・「小説中央公論」の直前に茂吉とふさ子の秘めた関係は、「週刊女性セブン」の特集記事になっていた。)

「老人はしばしば欲望することを欲望する、なぜなら、彼は何ものによっても代えることのできない経験への郷愁(ノスタルジア)をもつからであり、彼の青春期あるいは壮年期が構築した色情的宇宙にいぜんとして惹かれているからである。彼はその宇宙の褪(あ)せつつある色彩を欲望によってふたたび蘇らせたいのである」(ボーヴォワール「老い」)。
「人間は無意識の決定論に支配される。無意識とは性的衝動である、すなわち人間は性欲に支配される」(ジークムント・フロイトの汎性欲主義)。
「茂吉は現代短歌史のうへにその位置を持つてゐるだけでなく、現代日本文学史の上に明らかにその位置を持つてゐるといへる」と評価したのは、中野重治である(「斎藤茂吉ノオト」)。しかし、名著といわれるこの本を中野が上梓したのは、昭和16年のことであった。茂吉の歌集はこのあとも編まれた。つまりは名歌・秀歌が追加された。
しかしながら、こうして大歌人斎藤茂吉の密(ひそ)かごとを知り得たことにより、それらひしめく名歌・秀歌を押しのけて好きになった一首がある。ボーヴォワールとフロイトの一節は歌を味わうための足しにでもなればと抄出したまでである。
        わが色欲いまだ微(かす)かに残るころ渋谷の駅にさしかかりけり
死の二年前の昭和26年作だという。渋谷はいうまでもなくふさ子が住んでいたアパート香雲荘があった場所である。ふさ子と別れてずいぶんの時間が経過している。このころかなり老衰していたといわれる茂吉の脳裏に去来していたものは何だったのか。単なる性欲の残滓(ざんし)だったのか、それとも観音菩薩の化身と崇(あが)めたふさ子のあえかな白い裸像であったのか。

(以下、北杜夫「楡家の人びと」ー下ーにつづく。)

 

自由人の系譜 北杜夫「楡家の人びと」(上)

 昭和35年刊行の「どくとるマンボウ航海記」は、北杜夫が水産庁漁業調査船の船医に応募しての欧州航路体験記をユーモラスにつづった作品である。
「どくとるマンボウ航海記」は、ベストセラーとなり一躍北杜夫の名前を広めた。このあとも「マンボウ」は続々とシリーズ化された(いったいマンボウ本は幾冊になったのだろうか?)。
また、この航海で北杜夫は、個人的に大きな獲物を釣り上げている。ドイツハンブルクで知り合った喜美子夫人である(夫人とは航海の二年後、昭和36年に結婚している)。 
「どくとるマンボウ航海記」刊行からすぐに、北杜夫は候補四度目にして芥川賞をも射止めた。受賞作は、第二次世界大戦下のドイツ・ナチスによる遺伝性精神病者の抹殺をテーマにしたシリアスな作品、「夜と霧の隅で」であった。
「どくとるマンボウ」と「夜と霧」。明と暗、ユーモアとシリアスを北杜夫は見事に描き分けたことになる(この傾向は生涯つづくことになった)。

さて、喜美子夫人と結婚した翌年、夫妻にとって一粒種となる女の子が生まれた。のちのエッセイスト斎藤由香である(由香という名前は漫画が好きだった北杜夫が、ちばてつやの「ユカを呼ぶ海」から名付けたのだという)。
この昭和37年初頭より起筆され三年の歳月をかけて完成させたのが、標題の「楡家の人びと」であった。つまり「楡家の人びと」は、小説家北杜夫、もしくは私人斎藤宗吉(本名)の人生において、一番幸福な時の産物であったやもしれない(だから傑作になった?)。
北杜夫は1927(昭和2)年生まれ。父斎藤茂吉、母輝子。茂吉はいうまでもなく「アララギ」派の有名歌人であり、当時は青山脳病院の院長で、輝子は一代で青山脳病院を築き上げた斎藤紀一の次女(長女は夭折)ながら長子の立場にあった。茂吉はつまり入り婿であった。
また北杜夫には兄茂太(11歳上、精神科医、エッセイスト)、姉百子(2歳上)、妹昌子(2歳下)がいた。なお、北杜夫自身は旧制松本高校から将来は動物学者になりたかったのを茂吉に一喝されて、やむなく東北大学医学部へ進み、芥川賞受賞時は慶大神経科助手だった。

「楡家の人びと」(註・以下、「楡家」と略す場合あり)とは、直接的にはこの斎藤家の人びとのことなのであるが、上記の人物の中では末子の昌子だけが小説に出てこない(煩雑になるためだと北は説明している)。
この他の斎藤家の登場人物としては、紀一の妻と息子二人に娘二人(註)たちが、はなはだ異彩、精彩を放つキャラクターとして描かれている。
奇妙極まりないのは息子二人の名前である。兄の実名が西洋(作中では欧州に変更)、弟は米国(他の登場人物が全て変名を用いられている中で、米国だけはそのまま使用されている。ただし読み方はよねくになのだが、これではやがて起こるアメリカとの戦争の時、さぞかし肩身の狭い思いをしただろうと思いきや、そのせいかどうか米国は終戦を待たず、昭和19年に病死している)。
兄弟の名前の由来は、紀一がドイツやアメリカ等へ箔をつけるために留学・視察に行った時に生まれた故に他ならない。立身出世を絵に描いたようなそれでいて人たらしの愛すべき桁外(けたはず)れな俗物、それが斎藤紀一であり、「楡家」の前半の主役・楡基一郎の姿にデフォルメはほとんどないようだ。
(註・整理のため紀一夫妻の子供と「楡家」登場人物の名前を併記する。長女/病死、次女・輝子/龍子、三女/病死、四女・清子/聖子、長男・西洋/欧州、五女・愛子/桃子、次男・米国/米国、六女・操と七女・田鶴は出て来ない、実人生も不明。いわゆる明治の子だくさんだが、長幼の順はちがっているかも。)

「楡家の人びと」を最も高く評価したのは、北杜夫より二歳年上の三島由紀夫であったろう。
「戦後に書かれたもっとも重要な小説の一つである。この小説の出現によって、日本文学は、真に市民的な作品をはじめて持ち、小説というものの正統性を証明するのは、その市民性に他ならないことを学んだといえる。これほど巨大で、しかも不健全な観念性をみごとに脱却した小説を、今までわれわれは夢想することもできなかった」。「これこそ小説なのだ!」
不健全であるかどうかは別にして「観念性」こそは三島の小説の一大特徴であると思われるから、三島ぐらいの優れた小説家になれば、異質の才能に出会うとうれしくなるものらしい。驚くことに三島は、「楡家」の連載中に女学生めいたファンレターまで届けてくれたと、北杜夫は書き残している。
「桃子といふ少女は、何といふ可愛い、魅力ある少女でせう。小生はこの子が可愛くてたまらず、どうか彼女が将来不幸にならぬやうにと祈らずにはゐられない・・・」と(北杜夫は、しかしこの三島の手紙は「楡家」を書く上で随分と励みになったと告白している)。

桃子というのは、徹吉(茂吉のこと)の妻龍子(輝子)の末妹(註)のことである(桃子は小説全般にわたって登場する)。三島が魅了された桃子は、楡家の令嬢とはいえ両親(特に母親)からも兄(欧州)姉(龍子と聖子・四女清子のこと)たちからも相手にされず(愛されず)、弟(米国)とも半目し合いながら、淋しさを隠して一人元気に広大な楡脳病院内を駆けずり回っている少女である。
さて、時代は経巡って少女から娘に成長した桃子に、三島の要望どおりの幸福な結末が待っていただろうか?
桃子にどのような運命が待ち受けていたかは小説を一読願いたきところであるけど、なにせ「楡家」は長大な物語なので一読するのも骨折りだろうから結果だけを記せば、答えはノーである(しかし最後、それなりの幸福は用意されている。このことも彼女の実人生と概略一致しているのだ)。
(註・小説上では末娘だが、上述したように実際は七人姉妹の五女だと思われる。)

桃子の不幸を招いたののも(桃子に限らず、聖子も米国も。もしくは徹吉と結婚させられた龍子も)楡基一郎(斎藤紀一)が築いた楡脳病科病院の存続優先こそが唯一無二であったからである。極論すれば、子供たちはみんな楡(斎藤)王国発展のための道具でしかなかったからである。
我が道を歩みながらも東北帝大医科を出て精神科の医者になった兄欧州(西洋)の家に結婚もせず同居している米国が(米国は農科出身で医者にはならなかった)、ある日、楡脳病院創立五十五周年式典をめぐって兄嫁(楡家では唯一の外部の感覚を持ち合わせている人物)と交わす言葉に楡家の問題がひそんでいる。
「ええと、何を話していたんでしたっけ?そう、そう、つまり病院の式なんかばかりを重んじて、この家はまるで病院の附随物みたいなものなんです。家があって病院があるのではなくて、すべてはその逆で、ぼくに言わせれば、それもただの病院じゃなくて、次第次第にそれがみんなに影響していると思うんです」。かくも繊細な米国青年の純潔さ故に、彼は若死にしなければならなかったのか!

ともあれ(この言葉は北杜夫の常套語のひとつだが)、「楡家の人びと」という小説は明治、大正、昭和をまたぐ楡脳病科病院(青山脳病院)の没落とそこに暮らす人びと(病院の職員や患者も含めて)を時代の流れの中で俯瞰した壮大な小説なのである(昭和の敗戦で幕を閉じる)。
主要な登場人物がそうであるように(副人物たちにもそれぞれモデルがいたようだ)、小説はかなりの部分が事実に基づいて描かれている。とはいえ、事実そのままではもちろんない。誇張もあれば設定のアレンジもたくさんある。小説を読むのに 斎藤家の事実を知らなくとも何の不都合もないし、無論事実をそれなりに知っておれば作者の作為もわかり、それはそれで楽しめるだろう。
「楡家の人びと」は、北杜夫生涯の傑作であるのはまちがいないし、三島由紀夫の言うとおり「これこそ小説なのだ」と思わせるものがある。それにしても三島は当時、どれほどの斎藤家の事実を知っていたのだろう?

事実ということでいえば、「楡家の人びと」において次の三つの事実が伏せられているのに気づいた。(繰り返すけれども、このことは「楡家」が小説である限りまったく作者の自由裁量に属することであるので、ケチをつける筋合いのものでないことは言わずもがなの上で)。まず一つ目は、明らかに作者北杜夫がその事実を知っていながら、小説では別の事柄にすりかえて小説を進行している事件。これは徹吉夫婦の夫婦喧嘩で龍子が家を追い出される形で処理される。
二つ目は、それが事実であるのかどうかの判断が危ぶまれることであり、小説の筋に加えるのがはばかられたのであろうが、いくら小説といえどもこれを書き込むことは一つ目の事実よりはるかに衝撃性が強く龍子すなわち輝子がまだ存命中のこの時期、輝子の息子である北杜夫にはとうてい出来得ないことであったろう。これは輝子と長女百子(小説では藍子)ひいては茂吉の名誉にも直結する問題であった。

三つ目は、北杜夫自身「楡家の人びと」を起草した時点では、まったく知らなかったと想われることだから伏せたというのは当たらないであろう。それは小説の中心的人物の一人(「楡家」は「楡家」自体の物語なので主人公はいない)に設定されている茂吉(徹吉)に、秘められたる愛人がいたということである。小説では徹吉は、歌人の側面は一切消去されている。これは「楡家」の没落史だから、徹吉が基一郎より偉大であってはならないためであったらしい。それでも作者はヌケヌケと歌人斎藤茂吉の名前tp戦争詠二首を一箇所のみではあるものの作中に出しているのだ!ここらへんがいかにも人を食ったような「どくとるマンボウ」らしいユーモアというべきか。
話がついそれがちになったが、妻を追い出した独り身の茂吉に若い愛人の存在があった。この事実が公けにされたのが、たまたま「楡家の人びと」を執筆真っ最中だったというのもどこか因縁じみている。しかしこれは、茂吉亡き十年後の話である。
ということで以下、斎藤茂吉の人生をたどりながら「楡家の人びと」に描かれなかおったこれら三つの事実を軸にして、今後の記述を進めてゆきたい。

そのまえに斎藤茂吉はそもそも自由人であるのかどうかの問題があるであろう。答えはどうしても否定的にならざるをえないのだが、この文章がそのへんの考察も自然と醸し出せるようになってくれればいいのだけれど。
そんなことは理想に過ぎないだろうから、凡人はすぐに結論に走りたくなる。「アララギ」派は正岡子規以来の伝統として写生を重んじた。茂吉はそれを「実相に観入して自然・自己一元の生を写す」のが、写生だと定義して(あるいは定義に導く)数多の秀歌を残した。が、その私生活においての茂吉は、決して満ち足りた生活をおくっていたわけではない。むしろ常住何らかの強いストレスを抱えて生きてきた人だと思われる。つまり自由ではなかった。
斎藤茂吉の短歌は、不自由の産物 なのだ。極論すれば、石川啄木の短歌のようにストレートに易しく歌っていないため、判りづらいところも多いけど茂吉短歌はその不自由度が強いほど秀作が産まれているような気がするほどだ。それでも作歌するときのみだけは、「実相に観入して」ひそかに精神の自由を味わっていたやもしれぬ。いやそれだけは確かなことのように想われる・・・。

斎藤茂吉は1882(明治15)年山形県(現在の)上山市に守谷家に四人兄弟の三男として生誕(註)。生家は農業。子供の頃は餓鬼大将でありながら、勉学にも秀れ「神童」と呼ばれた。
14歳のとき同郷出身の医師斉藤紀一にその才を見いだされ、養子含みで東京の 開成中学で学ぶことになる。上京時、仙台作並温泉の宿でモナカ菓子をはじめて食い、こんなうまいものがあるのかとびっくりしていたら紀一宅でもモナカを出され、この菓子が一生食えるのかと感動したという(しかしながら、モナカ菓子にはただに甘いだけではなく、苦き隠し味も含まれていることに茂吉少年が気付かなかったのも致し方ない。茂吉の自由はこのモナカで制限されたともいえなくもないからである)。
当てのない紀一の口約束にしろ、このときの花嫁候補すなわち紀一の娘輝子は、いまだ1歳にもなっていないのであった。そんなことはどうでもよろしいとばかりに、紀一はやがてドイツへ留学。出発後に待望の男子(第五子)が誕生して、西洋と名付けられた。この間茂吉は、一高受験に失敗したものの翌年合格を果たす。紀一の嫡子誕生に茂吉の心中に穏やかならぬ動揺があってもおかしくはない。これが不合格の原因にでもなったのか?
(註・末っ子妹がいた。また明治15年生まれは金田一京助や種田山頭火などがいる。)
 
二年余りを経た明治36年、紀一帰国。同じ帰国船にイギリス留学を終えた夏目漱石が乗っていたことから、ちょっぴり興味深い逸話が残った。
漱石がいつ頃帰って来るのかまったく知らされていなかった鏡子夫人は、新聞で帰朝者の記事を見て夫の帰国を知り、船着場まで迎えに行く。と、そこには出迎えを受けている精神科医斎藤紀一がいたので、鏡子夫人は胸をどきどきさせながら漱石と面会したようだ。 「見たところ洋行前と別に変った様子もなく」という言葉にそれが表れてる。というのも漱石がロンドンで、「若し噂のとほり気狂になつて帰へつて来たのでもあるまいか」と、(鏡子夫人も含めて)心配していた人も多かったからであった(以上、夏目鏡子「漱石の思ひ出」より)。付言しておくと、茂吉は一高で漱石の英語の授業を受けた。そのころに写した写真に漱石と茂吉がいるが、なるほど写真の漱石はどこか憂鬱そうで半病人のごとくだ。

紀一は帰国早々、(現)南青山四丁目に青山脳病院を建築。病院は東京中の語り草になるほどド派手な建造物だった。敷地四千五百坪、建坪二千坪に職員数約二百名、入院患者数四百名弱の大病院に、イタリア式の幾つかの尖塔(せんとう) がそびえ立つまるでおとぎの国の宮殿のごとき威容で異様な外観。
さぞかし得意泰然だったであろう紀一は、カイゼル髭をピンと立て、ドイツ仕込みの自称「ドクトル・メジチーネ」(医学博士)を何かと連発し、患者の頭に聴診器を当てる診察で患者や家族を安心納得させるという超絶技術を発揮したという。いわゆる手八丁口八丁の紀一はこのときまだ42歳の壮年期に過ぎなかったのである。
一方、一高生茂吉はこの二年前に死去していた正岡子規の「竹の里歌」に感動し、いよいよ短歌にのめり込み、ついには子規の弟子であった伊藤左千夫を訪ね、門弟となる。
入門前に一高を卒業した茂一は、紀一が定めた 規定コースの東京帝大医科に入学。未入籍のままに放置されていた守谷姓はやっと斎藤茂吉として入籍が許されたのである(つまりは帝大医科入学が入り婿の絶対要件だった)。ときに茂吉23歳、明治28(1895)生まれの輝子は9歳の少女でしかなかった。

この幼な妻と正式な祝言を挙げたのは大正3年4月だといわれるが、正確なところはわからないようだ(肝心の花嫁にちっとも記憶がないという)。この年だとすると茂吉は32歳直前、輝子は18歳である(帝大卒業後、茂吉は東京府立巣鴨病院に勤務していた)。
茂吉の生母いく(57歳)は半年前にみまかり、茂吉の歌でもっとも有名な「死にたまふ母」を詠じた第一歌集「赤光」(註)は、そのころ一躍歌壇の脚光を浴びていた(師伊藤左千夫もこの三ヶ月前に48歳で病歿している)。
当時において茂吉の「赤光」を個人レベルでもっとも高く評価したのは、茂吉より十歳年下の芥川龍之介であったろうか。「僕の詩歌に対する眼は誰の世話になつたものでもない。斎藤茂吉にあけて貰つたのである。(・・・)二、三の例外を除きさへすれば、あらゆる芸術の士の中にも、茂吉ほど時代を象徴したものは一人もゐなかつたと云はなければならぬ」(「僻言ー斎藤茂吉」新潮文庫巻末掲載)。
(註・「赤光」を含めた茂吉の生涯歌集は十七冊である。)

こののち芥川は茂吉と交友を結び(註)、やがては発狂した親友宇野浩二のことで青山脳病院に相談に来たりしているうちに、芥川自身も神経衰弱や不眠症が嵩じてゆき、茂吉が憂慮して睡眠薬などを処方していた。そんな矢先に芥川(35歳)はとうとう「将来への漠然たる不安」を抱えて、昭和2年の夏(北杜夫生誕二ヶ月後)自ら命を絶ってしまう。
その日茂吉は「アララギ」仲間の土屋文明らと外食をとっていると、輝子が血相を変えて来て芥川の急を告げた。「驚愕倒レンバカリニナリタレドモ怺(こら)へ二怺ヘ」、芥川邸へ直行し死骸と対面し焼香した。その夜の日記。「静カナル往生也。・・・芥川ノ顔ガ見エテ仕方ナイ」。
ともかくも斎藤茂吉と北杜夫親子は、芥川龍之介と三島由紀夫という当代を代表する小説家に揃って激賞されたのである。その芥川と三島が揃いも揃って自害にて生を閉じ、今日では純文学の登龍門ともいうべき賞に名を冠しているというのも不思議な縁(えにし)である。
(註・省略したが、巣鴨病院退職後茂吉は三年半ほどの長崎医専教授時代がある。その長崎へ芥川は菊池寛を伴って表敬訪問したのであった。)

三島の生まれる二年前、そのとき31歳の芥川は どこにいたのやら、関東大震災が発生したのは大正12年9月1日昼少し前であった。茂吉はちょうど留学中でドイツにいた。紀一と妻たちは箱根強羅の別荘いて、紀一だけは帰京途中の小田原で大揺れに見舞われた。それでも途中で夜を明かしながら紀一は、息も絶え絶えのへとへと状態になって青山にたどり着いた。徒歩以外に頼るものがなかったのは言うまでもないことだが、それにも増して病院のことが心配でならなかったのである。
青山脳病院の留守宅にいたのは、始業式のため小学二年生の茂太を連れて、その前日に別荘から戻っていた輝子だけであった。この未曾有の非常時に、輝子は短刀を帯にたばさみ、浴衣にたすき掛けをして、草履を紐できりりと締めつけたさっそうたるいでたちで、右往左往する職員たちに檄を飛ばし続けるという女だてらの武勇伝をやってのけたのである。

紀一が常々、「輝子が男だったらなあ・・・」と嘆息交じりに輝子の気質を惜しんだというが、そのとおりの活躍を示したのである(また、輝子にとっても紀一は絶対的崇拝の対象となりうる父親であったようだ)。 
輝子については、息子の茂太と北杜夫兄弟が微に入り細に入り、その人となりをいろいろと文章にしているのは当然としても、北杜夫の娘の斎藤由香著「猛女とよばれた淑女」にも、茂吉死後生き返ったように世界各国を旅して廻る祖母輝子の猛烈ぶりが笑いを誘うほど生き生きと描かれている。
一例をあげれば、輝子はどうしても南極へ行きたくなってついにその夢を叶えるのであるが、いったい80歳にもなって誰が氷のほかに何もない極寒(ごくかん?)の世界などに行きたがるであろうか。さらにこの「猛女とよばれた淑女」はアフリカ大陸に足を踏み入れ、エベレストにまで挑戦するのである(ここまで徹底すればもう外人流に目を丸くしてその飽くなき好奇心をたたえるしかない。ワンダフル!と)。

ドイツミュンヘンで大震災を知った茂吉は、現地新聞が報じるデタラメに満ちた東京近辺の被災状況の物凄さに、いてもたってもいられなくなる不安な日々を過ごす。その茂吉を救ったのが、9月13日に届いた親友からの電報であった。「 ユア・フアミリー・フレンズ・セーフ」。
茂吉のドイツ留学は、この震災時を除けばおおむね順調であった。ウイーンやミュンヘンでいくつかの研究論文を仕上げ、その一つは学位論文となって東京帝大医科から医学博士の称号を授与された(遅い博士号であった)。この時期、第一次大戦敗戦国ドイツでは、超インフレが進行していた。茂吉は古本屋めぐりを重ねては大量の医学書を青山の自宅へと送付していた。
この留学での日々ほど茂吉が医学に取り組んだことはかつてなかったであろう(常に歌人茂吉の比重が圧倒的に医師茂吉を凌駕していたのである)。生活を切り詰めての書籍購入の目的も帰国後において、茂吉は診療のかたわら医学の研究に重心を傾けることをひそかに期していたのである(青山脳病院には正嫡である西洋がいたことも茂吉の心理に作用していたかとも思われる)。

輝子が迎えを兼ねて、茂吉のいるヨーロッパに旅立って来たのは震災の翌年だった。二人はほぼ三年ぶりにパリで落ち合い(ずっと後年になって茂太夫妻とパリ旅行をした際、茂吉と久方ぶりに会ったこのホテルを輝子が懐かしがるだろうと、茂太がせっかくホテルの前にタクシーを走らせても、輝子はまったく関心も示さず車から降りようともなかったという)、ヨーロッパ各国を遍歴して四ヶ月後の11月末に帰国の船に乗る(異国でのこの長旅も、夫婦としての情趣に乏しい浪費でしかなかったことが、茂吉の側からも茂吉の書いた西欧滞在随筆にて読み取れる)。
帰国船は大正13年12月30日に寄港地香港を出帆すると、次は上海である。上海には輝子の妹(漢口にいた五女愛子・桃子のことか?)がいて会う予定であった。その日の昼ごろ、東京の精神病院が焼けたというニュースが耳に入ったが、 まさかの思いで一抹の不安を打ち消していた夫婦は、深夜の電報にてそれがまぎれもなく青山脳病院であるという現実を突きつけられた。 家族は無事なれど病院は全焼したとの内容だった。茂吉は紀一宛に直ちに「タンキヲオコスナ」との返電を打った。いうまでもなく自殺を懸念したのである。

年が明けての1月5日に茂吉と輝子は神戸に着いた。二人が、一夜(実際は三時間ほどだったという)にして焼け落ちた病院跡に立ったのは、それから二日後のことであった。
火災の原因は12月28日に行われた餅つきの火の不始末だったといわれる。振る舞い酒も出て皆眠りこけていた深夜に出火して気付くのが遅れたのだとも(この火災で入院患者23名が犠牲になった)。
悪運は得てして重なるものである。大正9年に国会は解散(三年前紀一は衆議院議員に当選していた)、再選に打って出た紀一は次点で落選していた。 このときも莫大な資金をつぎ込んでの思わぬ結果に斎藤家の財布は底をついていたのであった。それにも増してやる方なかったのが、病院の火災保険が失火の一ヶ月前に切れていたことであった。茂吉は紀一の杜撰(ずさん)さを呪い愚痴った。どんなに嘆こうが、誰かを非難しようが現状が改善されるわけではない。
青山脳病院の再建はひとえに茂吉の双肩にのしかかったのである。無論のこと、茂吉がせっせとドイツから送った膨大な書籍も木箱のまま、茂吉の学究生活とともに灰燼(かいじん)に帰した。青山脳病院焼失時点での紀一は63歳、茂吉42歳(紀一が病院建設に取りかかった年齢とたまたま同じ)、輝子は29歳、西洋は23歳だからまだ東北帝大の医学生であったか。

以後の再建の様子は、その年大正14年12月31日の茂吉の日記に概略総括されているのでそれを拝借する(なお、長い記述なので適宜に省略し、また文意を補足する)。
「今年ハ実ニ悲シイ年デアツタ。苦難ノ年デアツタ。帰朝シテ来テミルト家モ病院モ全ク焼ケテヰテ、図書ガ先ズ全滅デアツタ。・・・病院ヲ何トカシテ改築シヨウトスルト、(地元住民の)反対運動ガアルトカ又地主ガ退去ヲセマリ裁判沙汰ニナツタ(青山脳病院の土地は借地だった)。ソレカラ警視庁(当時は警視庁が精神病院の監督官庁だった)ニ運動ガ入ツタト見エテ、新築ヲ許サナイ。
受負師(土建業者)ニ大金ヲ出シテ無駄ニナツタ。サウイフ苦シミノウチニ父上ハ松原(現在の世田谷区松原)ニ土地ヲ借リテ受負ノコトデゴタゴタシタガ兎ニ角工事ニ著手シタ(ここに青山脳病院よりも広大な借地をして、青山と同規模の病院を建てて本院とし、青山の方を縮小して分院とした)。 ソノ間ニ茂太ガちふすニ罹ツタ。

九月ノ 下旬頃カラ金策ノコトデサシ迫リ、ドンドン話ガハヅレテ行ツテ思フヤウニ行カズ、セツパツマツタノデアルガ、十二月廿八日ノ期限前ニドウニカ片ガツイタ。カクシテ凡ベテノ苦艱ガ兎ニ角切リ抜ケラレタ。コレハ神明ノ御加護デナクテ何デアルカ。天地神明ニ感謝シ奉ル。
恩人。・・・平福百穂(茂吉の親友。画家で歌人。長女百子の名前は百穂から。病院火災の報を船上の茂吉に打電)。中村憲吉(茂吉の親友。歌人。大震災のとき、ミュンヘンに電報をくれた)。岩波茂雄(岩波書店創業者。「アララギ」発売所。茂吉とは一高、帝大の同窓)。島木赤彦(当時の「アララギ」の総帥)ノ諸氏。・・・
スッカリ頭ガ悪クナリ。神経衰弱ニナリ。夜ガドウシテモ眠ラレズ。文章ガ書ケナクナツタ。シカシ本年ハ僕ハ歌モ相等ニ作ツタ。漫筆モ書イタ。歌ニ関スル評論様ノモノモカキ。講演ヲシタ。本年ハ十年グラヰ老イタ気ガシタ。シカシ最善ヲ尽シタ。神々ヨ、小サキ弱キ僕ヲマモラセタマヘ。」 

ところで悪戦苦闘の一年をしめくくるこの日記に、茂太のチフスの記述はあっても、この2月に生まれた長女百子については一行もない。あまりに苦しきことのみ多きにて、記述は悲痛に満たされているのをみても、慶事事である百子の誕生は念頭からとびさっていたのか、それとも・・・。勘ぐっても仕方のないことながら、やはり気にならないでもない(もちろん百子誕生に際しての記述は日記にみえるのだが)。
たしかに茂吉は交渉ごとは苦手だったろうから、病院再建の労苦はそれこそ辛酸をなめるような日々の連続であったろう。原稿を書きとばし講演までしているのも、この時期の茂吉は一銭でも収入が欲しかったからではないか。ストレス発散の方は作歌がその役目を果たしたのだろうか。暮れに恩人と感謝したばかりの島木赤彦(51歳)が年明け3月に急逝すると、多忙の中で茂吉はその後の「アララギ」の編集発行人を引き受けているのをみても。とはいえ疲労は募るばかりであったろう。またこの時期、警視庁の口出しもあって茂吉は、青山脳病院院長職を紀一と交代していた。慣れぬ病院経営にもたずさわなければならなかったのである。神経衰弱と不眠症はつのり、腎臓に異常がみつかり、 茂吉の体調は限界に達していたと思われる。

バラック建ての間に合わせで診療をおこなっていた青山脳病院分院が再建されたのは、火難から十年の歳月が流れた昭和10年の春であった。しかしながら新病院は、紀一の建てた豪華絢爛な大病院とは、比べるべくもない質素でこじんまりとした建物でしかなかった。が、茂吉にはそれで何の不足も覚えなかったであろう。
この十年には、当然ながらいろいろなことがあった。百子に次いで次男宗吉が生まれ、芥川龍之介が死んだ。その前に島木赤彦が死んだ。古泉千樫(元「アララギ」幹部)が死んだ。次女昌子が生まれた。茂吉の父親(71歳)はドイツ留学中に死んでいたが、長兄が死んだ。恩師呉秀三が死んだ。「アララギ」の編集発行人は土屋文明(註)に交代してもらっていた。
しかし何を差し置いても、ここでは青山脳病院の開祖である斎藤紀一の死について述べておかなければならないだろう。 
(註・明治23年生まれ。東大卒、歌人。「アララギ」幹部。96歳で文化勲章。100歳の長寿を保った。)

紀一が死んだのは、北杜夫が生まれた翌年の昭和3年11月である(したがって「楡家の人びと」の作者である北杜夫には、祖父紀一の記憶はひとかけらもないことになる)。病院長を辞め(させられ)た紀一は、熱海の常宿で静養するのが習わしとなっていたようだ。ときには妻同伴で。朝、部屋係が行くとすでに紀一の体は冷たくなっていたという。67歳。心臓麻痺であった。つまり、紀一は家族の誰一人に看取られることなく絶息していたのである。遺体は車で輝子と茂太(12歳)が運んだ(茂吉は出張中だった)。輝子は愛する父親の手を固く握りしめていた(と、茂太が後年書いているけど、いったい車の中でどのように遺体を乗せて行ったのだろうか)。
紀一の死を知った紀一の愛人、庶子を名乗る親子が大勢詰めかけたという後日談を誰かのどこかの文章で読んだような気がするのだけど思い出せない(茂太たちにとっては、突如叔父叔母が増えたわけである)。紀一のような世故に長(た)けたかなり俗っぽい立志伝中の人物には、こういう話題がありがちだからやはりこれもそういう類のものとゴッチャになっているのかも。 

青山脳病院復興でいっきに昭和10年まで話しが進んでしまったので、時計の針を直前に戻していよいよ問題の昭和8年と9年である。
昭和8年初頭「アララギ」は、創刊二十五周年を迎えた。「アララギ」ひとすじに生きて齢(よわい)51歳を迎える茂吉にとって、病院経営もどうやら軌道に乗り、めでたい気持ちで心の底からこの日を寿いだことだろう。
ところが10月になって思いがけない平福百穂死去(56歳)の報に接し悲しみの最中にいる一週間後、よりにもよって妻輝子の乱行が新聞紙上をにぎわし世間の耳目をを集めたのである。茂吉は激怒して輝子を追い出し監禁する(なので、もし青山脳病院落成式典が開かれていたとしても、そこに院長夫人の姿はなかったことになる)。
時あたかも日本は、この年国際連盟を決然と脱退、紀一と茂吉が留学したドイツではナチスを率いるヒットラーが政権を奪取していた。前年前々年には満州事変、上海事件が立て続けに起きており、日本の上空には戦雲が立ち込め、地上では軍靴の響きが街中の喧騒をより強めていた。

昭和9年年明け早々に茂吉は院長辞任を申し出るが、西洋(すでに別の病院で医師をしていた)たちに慰留され診察日を極端に縮小する案で思いとどまる。その矢先、輝子の事件を心配して懇切な手紙で励ましてくれていた中村憲吉(44歳)病死の悲報が襲う。
満身創痍状態の茂吉の前に現れたのが、四国松山のうら若き美貌の令嬢永井ふさ子である。ふさ子は奇(く)しくも、前年に「アララギ」に入会したばかりであった。輝子を別居させ独り身だった歌人斎藤茂吉の秘められたる恋は、こうして運命に吸い寄せられるようにして始まった。燃え上がった二人の恋は、しかし「楡家の人びと」がそうであるように敗戦とともに終息を迎え、十年を費やして復興された青山脳病院も今度は空襲によって劫火(ごうか)につつまれ再び炎上するのである。その青山脳病院の最期を見とどけるのは、茂吉ではなく紀一の血肉を受け継いだ輝子(49歳)であったのだ。その輝子の傍らには、松本高校生になっていた宗吉(18歳)と女学生の昌子(15歳)がいた。茂太(29歳)は軍医として戦場にいた。百子(20歳)は前年に結婚して青山にはいなかった。茂吉(63歳)一人は故郷(上山)の妹の嫁ぎ先に疎開していたのである。

(以下、北杜夫「楡家の人びと」ー中ーにつづく。)

自由人の系譜 渡辺淳一「リラ冷えの街」と「銀のしずく降る降る」(下)

つい先日、散歩ついでに近所の書店を覘いてみた。文庫本の並ぶ棚を目的もなく漫然とながめやるうち、それこそ目に飛び込んでくるという形容そのままに、知里幸恵「アイヌ神謡集」があるのに気がついた。おおげさなようだが、ホントのことなのだ。ちょうど、この文章を綴っている最中だったので、よけいにそう感じたのかもしれない(きっとそうだ)。
それというのも、いまだに「アイヌ神謡集」が岩波文庫に残っているとは、思いだにしていなかったからである(しかも岩波文庫は申し訳程度にしか置いてないような書店だったのだから。この偶然には驚かされたし、ちょっぴりと幸福な気分にもなった)。
手に取って奥付欄を見ると、2015年7月15日第54刷発行とある(今年出たのであった)。初版は1978年8月16日である(註・知里幸恵の名前を広めるのに貢献したであろう、藤本英夫「銀のしずく降る降る」初版は1973年である。)

金田一京助の尽力によって「アイヌ神謡集」が世に送り出されたのは、1923(大正12)年8月10日だったのだから、およそ半世紀経って岩波文庫に入り、それから三十年間命脈を保っていることになる。
金田一の1937(昭和12)年の随筆に、「英仏独露の他、オランダ語、エスペラント語にまで翻訳がある『アイヌ神謡集』」との記述があるので、その頃から名著の仲間入りをしていたのも驚きである。
この随筆は「胸打つ哀愁‼」と題されて、幸恵との出会いから「アイヌ神謡集」が出来上がるまでを追想した文章である。その冒頭は、「一介のアイヌ乙女に過ぎないが、その面影を偲ぶ毎に、覚えず襟を正すのは知里幸恵さんである」と書き出されて、「一介のアイヌ乙女・・・・」云々はないだろうと思うけど、金田一の幸恵を偲ぶ文章は、どれも「アイヌ語の天才乙女」を失った無念が滲み出ているのは確かだ。
金田一京助が見送ったのは「乙女」だけではなかった。弟子であった「乙女」の弟、知里真志保にも先立たれたのである(しかしながら、金田一京助の追想文は幸恵のに比して、真志保のは少ない)。

この姉と弟がいっしょに暮したのは、幸恵が上京(大正11年春)する前の一年間に過ぎない。真志保が庁立旭川中学を不合格になり、伯母マツの家から高等小学校に通っていた時期である。幸恵客死前後の九月には親元に帰り、真志保は登別の小学校へ転入している(幸恵と真志保の旭川行きは、父高吉にからむ事情があったとされる。また長兄の高央は幸恵との同居期間はない)。
翌大正12年、真志保(14歳)は、庁立室蘭中学へ百五十人中三番で入学した。真志保にも成績順によって指名される級長問題が生じた。アイヌだということで反対する教師もいる中、あえて真志保を級長にしたのは校長裁断だった(室蘭中学での財産は、この校長はじめ幾人かの良き教師に恵まれたことであった。のちこれらの人々とは樺太で再会することになる)。
授業料捻出の問題のため、室蘭中学を卒業したとき真志保は二十歳になっていた。卒業席次は百十六人中二十番ほどだった。英語、数学、国語は抜群だったが、教練(軍事訓練のこと)と体操が最低だったからだといわれる。真志保の反抗精神であったか。また真志保は決して一番の成績をとることを避けた。それが和人からの乱暴から身を守る術だったと書かれている小説(註)もあるくらいだが、事実のようである。
(註・この小説は知里真志保をモデルにした澤田誠一「斧と楡のひつぎ」。昭和48年刊、直木賞候補となった。)

卒業後、幌別村(母ナミの出身地)の役場に入り、戸籍係に配属された真志保は、アイヌの戸籍が和人と区別されて、〈旧土人〉と書かれてあったのに反感を持ち退職、笹刈り人夫などに従事していた。
このタイミングで手を差し伸べたのが金田一京助であった。それにはこういういきさつがあった。
真志保(18歳)は室蘭中学休学中に、英語の担任にすすめられてアイヌ昔話を書いた(幸恵の「アイヌ神謡集」と同形式のローマ字表記に和訳をつけたもの)。その出来があまりに素晴らしいので、学費未納で休学しているのを知っていた担任は中央公論などに売り込んだが、アイヌ語を校正するのに手間取ると理由をつけてなかなか活字にならなかった。
その原稿が金田一の手に廻り、金田一は関係する民族雑誌に紹介文をつけて掲載した。
「此が中学生の手で成された仕事かと驚嘆するほどよくできて居る。・・・・これ程よく出来る人が、同族のうちにあらはれたかと思ふと、幸恵さんの再来のやうに思へて、一行一行涙の目を押拭ひつつ読まれた」。真志保は送られてきた望外の原稿料に驚き、「此の世のもつありとあらゆる感謝の言葉」を羅列して、金田一に礼状をしたためた。これが二人の初接点となった(昭和2年のことである)。幸恵の卒業を待ちとおしたように、このことからも真志保の卒業を気にかけていたのだと思われる。

金田一のすすめにより、受験までの数ヶ月間を猛勉強にとりくみ、翌春、150人中12位の成績で天下の秀才が集う一高に合格した(註)。昭和5年、真志保21歳。アイヌ初の快挙であった。
この入試でも知里真志保の反骨を物語る逸話がある。入試問題に「エゾ征服の歴史について書け」という設問があった。その答えに自分の似顔絵を描き「この顔を見よ」、とだけ書いて提出したというのである。歴史好きだった真志保であるのに、中学時代にも歴史の授業で蝦夷征服にふれるときは、学校を休み試験の答えを書かなかったとも。
よく似た事件が一高入学後の寮で起きた(真志保と同級だった作家の杉浦明平の証言)。
寮での自己紹介の場で、「知里君、北海道ならアイヌを見たかい」と一人の寮生が声高く聞いた。すると真志保は、むっとして、「アイヌが見たかったら、このおれがアイヌだよ」と答えて、体を寮生の方へぐっと乗り出した。その寮生は後日、ひげの濃い真志保の似顔絵を描いて、寮の壁に貼り出した。
やがては国を背負って立ったエリート中のエリートにしてこうである。勉学と人間性とは関係ない(金田一家で近所のおばあさんから、幸恵もおなじような目にあったのを金田一が目撃していた)。
この寮生の行為は、アイヌに引っかけて「あ、犬がきた」といってはしゃぎまわる幼児性と変わりない。真志保自身、このような差別づくめのなかで街角で見かけたアイスクリームの看板が、アイヌクリームに見えて仕方なかったと告白している。
(註・この年ちょうど、京助の息子・春彦と高校受験が重なり真志保の秀才ぶりに驚き、春彦は一高を避け浦和高校へ進んだとも言われる。)

当時の心情を真志保は日記に認めていた。
「〈アイヌハ害サレルモノ〉信仰的にサウ思ヒ決メテ了ツタ我々ハ、自分ノ方カラ迫害ヤ侮蔑ヲ予期」するようになり、「自分ノ行ク処、自分ノアル処、ソコニハ必ラズ迫害ヤ侮蔑ガナクテハナラヌモノト考ヘル。ソシテソレガ無カツタ場合、コンナ筈ガナイト思フ心ハ、強ヒテソレヲ作リ出サズニハオカナイ。又其レラガアッテモ自分ノ予期ニ反シテ余リニ小サイモノデアツタ場合ハ、無理ニデモソレヲ大キクシテ考ヘル。ソシテ自ラ満足スルノダ。・・・・例ヘバ誰カノ温イ心ニ接スル。ソシテコンナ筈ハナイ、屹度何カ為ニスルトコロガアルノダト(註・その人の利益の為に親切にする)頭カラ邪推シテ了フ。延イテハ自ラノ恩人ノ些細ナ言行ヲモ曲解シテ了フノデハナカラウカ」。
悲しき習性は死ぬまで真志保につきまとった。晩年、夫人にこう打ち明けた。「病気も、勉強も、就職も、自分の手で直そうと思えば直せる。しかし、僕のは違う、自分で直せないのだ」。
土地を奪われ、言葉を取り上げられ、さらには姓名までを変えさせられた民族の感情を語って余りある(その日の日記は、「神コソ呪ハレルベキデアル」と結ばれていた)。

幸恵は、近文と金田一家での限られた空間で生活を送っていた。一方、真志保は一高入学から東京へ出て、もっと広い世間で行動しているので逸話には事欠かない(が、きりがないのでこれくらいにしておく)。
三年後、東大英文科にすすんだ真志保は金田一のアイヌ語研究を手伝ううちに、金田一のアイヌ語解釈はやはり和人のものでしかない、アイヌである自分がそれにたずさわるのが民族的宿命であると考えるようになり、進路を変更して言語学科に転科、金田一の弟子となった(幸恵のことも頭にあったのかもしれない。しかし真志保は幸恵とちがって、子供のころからアイヌ語では生活してはいなかったので、母語であるはずのアイヌ語は外国語でしかなかった)。
金田一にはすでに弟子がいた。国学院大学の教え子であった久保寺逸彦である。金田一アイヌ語のあとを継いだのは、この兄弟子であった(幸恵が上京した七月、金田一は国学院大学の教授に任ぜられていた)。

藤本英夫の「知里真志保の生涯」ラストに、この師弟三人の死を綴った文章があるので引く。
「人間の死は、年齢の順番どおりにはやってこない。無常である。金田一京助と、二人の弟子においてもそうだった。二人の弟子のうち、若い方、明治42年生まれの知里真志保が先に逝き、明治35年生まれの久保寺逸彦が世を去ったのは、それより十年後の昭和46年11月5日だった。師の博士は、十日間ではあるが、さらにそれよりあとだった」。
このあと藤本英夫は、久保寺逸彦の通夜での参会者が胸をえぐられたという金田一春彦(京助の一人息子)の弔辞を引いている。それも孫引きする(それぞれの享年は、真志保52歳、久保寺69歳、金田一京助は89歳であった)。

「久保寺さん、あなたは、父京助の一番大事なお弟子だった。今ではただ一人の男の弟子といっていい。私は、京助の子として、父のあとをつぐべきだったが、私は早くからアイヌ語に背を向けた。しかも夜おそくなると、怒りっぽくなる父、父とのつきあいには、いろいろ辛いことがおありだったと想像します。あれは、ほんとうは、私がうけるべきだった。
夜ふけて、父に追いかえされて、そっと帰っていかれるあなたの後姿を、私はどんな気持ちでみたか、あなたはご存知だったろうか。が、あなたはおとなしかった。あなたはすべてにじっと耐えられた。京助がやったとおり、アイヌ部落を訪問して、アイヌとともに生活し、アイヌを自宅に泊められて、ユーカラを聞きとる、というむつかしい仕事をなさった。

あなたが非常に遠慮されながら、還暦になんなんとして、おそるおそる京助のもとに提出された学位論文は、四十年にわたる努力の結晶で、学界の水準をはるかに超えたものだった。こういういい弟子ができたからには、京助はいつ死んでもよかったはずである。それを若いあなたが先に逝かれるとは、なんということであるか。
久保寺さん、あなたはおとなしすぎた。知里真志保さんのように、ときには先生にさからい、先生を罵倒する方が人気がでる。ジャーナリズムがもてはやす。しかし、あなたはなくなられるまで京助に一言も反対されなかった。知里さんがなくなり、京助が老衰したこの数年間は、あなたはアイヌ語学、アイヌ文学の地上最高の地位だった。
久保寺さん、あなたの生涯はアイヌ語、アイヌ文学を選ばれたがために、そして常に、上に、金田一京助という重しがあったために、苦難の多いみのりの少ない地味な一生だったと思います。・・・・」

金田一春彦、このとき58歳。東大を出て、父とおなじく言語学者になりながらもアイヌ語研究を継がなかったからこそ、久保寺逸彦の後姿にひとしお同情の念が湧いたのであろう。まことに学問への精進もきびしいものだと感じ入ると同時に、この弔辞は、哀切さのうちに師弟三者三様(春彦を含め四者四様か)の人柄なりをも伝えている。
おとなしい兄弟子をしり目に、不遜な後輩はときに師に刃向かっていたのである(たぶん、兄弟子にも)。ところが、知里真志保が激しい闘争心を見せたのは、一人師だけにではなかった。
「私をシリさんなどと呼ぶ人があったら、言葉の尻を咎(とが)めるわけではないが、正しくチリと呼んでくれ、と私は抗議する。私はチリという人間であって、シリでもジリでもないからである」と(巧みな言い回しで)忠告せざるを得ないような間違いをおかして恬(てん)としている学者がいたからである。「未開社会の思惟(しい)を無視した研究態度を見せる学者たちに、真志保は声を荒げたのである。
「未開人の言葉の中には未開人の魂が棲んでいる」。それを真志保は、「言霊」と呼んだ。「アイヌの味方をのような顔をして、ほろびゆく文化を記録してやるのだと」いう学者たちの一人に、金田一も見えるときがあったのである。

金田一の弟子となってからの話が、つい真志保の終焉にまで及んでしまった。それまでの空白を簡単に埋めておかなければならない。
真志保はその後、東大大学院まで進んでいたのを中途退学して昭和15年樺太に渡り、女学校の教師をしながら樺太アイヌ語の調査に励み、三年後、太平洋戦争の真最中に北海道に帰った(この樺太の女学校で室蘭中学の校長はじめ恩師たちと偶然再会した)。北海道帝国大学嘱託の仕事が待っていたからである(ここが終生の職場となった)。真志保は34歳になっていた。

北大に勤めながら学者知里真志保が目指したのは、アイヌ語の集大成である「分類アイヌ語辞典」(全十一巻予定)完成という前人未到の大仕事であった。
その第一巻〈植物篇〉が出たとき、真志保は朝日文化賞(今日の朝日賞)の候補に挙げられようとしていた(朝日賞は朝日新聞社主催。受賞者は多く文化勲章受章者と重なる)。
ところが〈植物篇〉巻頭で、北大で当時「神様のように尊ばれている大先生」を「やり玉にあげている」のを憚(はばか)った金田一は、次の巻が出るまで「推薦を押えた」。真志保は「先生は俺を嫉妬している」と憤慨した。
権威ある学者であろうがその攻撃の鉾先が鈍ることはなかった(このような姿勢が災いしてか、真志保の博士取得と教授昇格が遅かったのは事実のようだ)。

その朝日文化賞を受賞したのは、第三巻〈人間篇〉を刊行した翌昭和29年だった(45歳の真志保の同時受賞者には84歳の仏教哲学者鈴木大拙がいた。この年金田一も高浜虚子と共に文化勲章を受賞)。
この授賞式で金田一が述べた祝辞からも「言霊」学者知里真志保の面目がうかがえる。
「男女の交接ということばが四十語もある。こんな字引きは世界のどこにもありません。まるで生理学者が生理をやるように書き、それぞれみんな語源を明らかにしているのです」。辞典の出来具合とは関係ないだろうが、真志保は猥談(艶笑譚)の名手で、座談や大学の授業などでも場を大いに和らげたという。
が、「分類アイヌ語辞典」は、この二巻を以って未完に終わった。真志保があまりに多忙であったためか、それに加えて持病の心臓病で再々入院をしなければならなかったからなのか。非情にも、アイヌのカムイは知里真志保に十分な時間を与えなかったのである。

知里真志保が心臓病で息を引き取ったのは、1961(昭和36)年6月9日のことだった(姉と弟は同病で落命した)。52歳の死は学者として早過ぎて余りある。遺言であらゆる宗派の葬式を拒んだのは、真志保にとって当然のことであったろう。(真志保とキリスト教との関係は不明)。
訃報を受けて79歳の金田一は、朝日新聞に「知里君は語学的検考のまったく天才的な直視力、人の追随を許さざるものあり、とくに語源解においてはほとんど絶倫なものがあった。これは彼の語学の永遠の光である」、と弟子を称え、空路札幌へ駆けつけた。
藤本英夫の旧著「天才アイヌ人学者の生涯」には、いつの時の入院であったのか。見舞いに訪れた笑顔の金田一と、ややうつむき加減の憔悴した、決して笑ってはいない真志保の対照的なツーショット写真が添えられている。墓は真志保の希望通り、生まれ育った登別に建てられた。

作家の武田泰淳は戦後の一時期、少しの間ではあるが出来たばかりの北大法文学部で真志保と同僚となった(泰淳は真志保より三歳下であるが、昭和6年に東大へ入学している。真志保が東大へ入ったのは昭和8年だから、いかに真志保が回り道をせざるを得なかったかがわかる)。
泰淳も同日付の朝日新聞に、「氏はおそらく、日本人の学者たちの間で孤独であったばかりでなく、〈選ばれたるもの〉であったがために、同族の間でも孤独であったのだ。・・・・」と哀悼した。
のちに大江健三郎は(昭和10年生れ、当時32歳)、「名著発掘」で真志保の「アイヌ語入門」を取り上げ、「知里真志保博士が戦いをいどみ、そして絶対に全滅させる敵は、一般的にはよきアイヌ理解者と目されている学者たちである。博士はそうしたアイヌ理解者の精神の奥底にアイヌへの見くびりや、安易な手をぬいた研究態度を見つけだして、それを叩きつける。しかもその怒りの声の背後からは切実な悲しみの声も聞こえてきて・・・・」と分析している。
いずれも鋭い指摘だと思われる。

ここで幸恵、真志保につながる人々の享年を記しておく。
「アイヌ神謡集」を幸恵に伝えた祖母モナシノウクは、幸恵の死に一時「幸恵が死んでしまった。・・・・」と悲嘆に暮れたが、幸恵死して九年後の昭和6年に83歳で他界した。真志保病没二ヶ月前には伯母マツが85歳で、父高吉は真志保の死の四ヶ月後に77歳で昇天した(ナミは同じ年に姉と息子と温厚な夫とをつづけさまに失ったのである)。マツは金田一と真志保に、ノート百冊を超えるユーカラを書き溜めて残した(マツは81歳のときユーカラ伝承者として紫綬褒章を受章)。そのユーカラの訳を手伝った兄高央は、真志保死後四年目の昭和40年、58歳で死去(高央はアイヌ語イラスト辞典も編纂している)。「私のかわいい、かわいい真志保 亡くなりました。私もなんとかして早く行きたい」と幸恵の遺品である小さなノートの余白にメモしたナミは、高央の死の前年に84歳で昇天していた。(母ナミと伯母マツの死は幸恵没後、ほぼ四十年後だったことになる)。


知里学説によると、アイヌの物語であるユーカラには動物や植物、火、風、雷などの自然神と舟、錨などの物神が語り手となる神のユーカラ(神謡)と戦争や恋愛のロマンを語り継ぐ英雄譚の人間のユーカラ(英雄詩曲)の二つがあるという。
婚約者がありながら死の十日前に結婚不可の宣告を下されて逝った姉幸恵とちがって、真志保には三度の結婚歴があった(子供は最初の妻に五人いたとある)。初婚は東大大学院時代であるが、いずれの妻も天の配剤であるかのように、それぞれの役目を果たしたといわれる(が、それは男側の勝手な言い分であろう)。三人とも和人の女性だった。真志保の葬儀には、前妻二人も参列して嗚咽をもらしたと、「知里真志保の生涯」にある。
非を認めれば目上であれ容赦なく論難しかつ恋愛にも秀でていたとなれば、それはもう十分に人間のユーカラの英雄ではないか!「アイヌ神謡集」を完成させるためだけに生れてきたような幸恵は当然、神のユーカラの化身であったであろう。つまり、知里姉弟こそは、滅亡する運命にさらされたアイヌ語にアイヌカムイが遣わしめた最後の使者だったのではなかったのか(真志保は「アイヌ神謡集」で英雄詩曲は男、神謡はもっぱら女によって次第に語られるようになった、と解説している)。

       「梟の神が歌った謡」
    「銀の滴降る降るまはりに、金の滴降る降るまはりに。」
    と云ふ歌を私は歌ひながら
    流に沿って下り、人間の村の上を 通りながら下を眺めると
    昔の貧乏人が今お金持ちになつてゐて、昔のお金持ちが
    今の貧乏人になつてゐる様です。
    ・・・・・・・・・・・・・
真志保は、これを「銀の滴降れ降れまわりに、金の滴降れ降れまわりに」と訳文をつけている。「降る」は「降れ」と訳すのがアイヌ語法上、正しいというのだ。
正邪は別として、女の訳し方と男の訳し方、あなたはどちらの語感を好むだろうか?

そんなことよりも、これを物語る梟の神は、このあと銀の滴、金の滴と何度もリフレインしながら、とうとう羽ばたきをして清らかな心根の貧者の上に「美しい宝物」「神の宝物」を降り注ぐのである。すると、それまで貧者を馬鹿にして、いじめていた村の金持ちたちも梟神のあわれみに心を動かされ、たちまち金持になった貧者と仲なおりしてコタンに平和な暮らしが戻るという、めでたしめでたしのユーカラなのである。
銀の滴、金の滴とは、つまり「恵みの滴」だったのである。このユーカラの全文を読むまでは、降り注ぐ雨の滴が陽に当たって銀色や金色に見えるさまを謡っているのだろう、と想像していたのをみごとに裏切られた。
そのときはそれで読み過ごしていた。こんどこの文章を書くために読み返してみて「恵みの滴」を銀と金と表現したのには、ただ単に滴が銀や金色に見えるということのほかに、何か別の自然の要素がそこにあったのでは?との漠然とした疑問が生じたのである。

「恵みの滴」とはいったい?という気持ちは、しかしそんなに強いものではなかった。この際、一冊くらいアイヌの本を読んでおこうと図書館で借りたのが、瀬川拓郎「アイヌ学入門」(講談社新書、2015年2月刊)だった。
ところが目次を開いて、目を疑った。第七章「アイヌは黄金の民だったか」とあるではないか!そのページを急いで繰ると、一行目から「北海道はいくどもゴールドラッシュでわいた『黄金島』です」とあり、アイヌは砂金と銀を多く産し、和人と米や綿布と交換した、と書かれている。また金の家やベッド、小袖など金の生活用具に囲まれて暮らす長者のユーカラまで存在する、金はアイヌの神話的世界にも強い影響を与えたとも!
「美しい宝物」「神の宝物」とは金と銀のことだったのである。

まったく知らなかった。金といえば佐渡、銀は生野しか、北海道が金の産地だなんて(あの岩手平泉の中尊寺金色堂金箔もアイヌの金が使われている可能性大だともある。とすれば、マルコ・ポーロ「黄金の国ジパングとは?)。
まだまだ驚くこと満載なのだが、その最もたるものは「日本列島の縄文人の特徴を色濃くとどめる人びと」がアイヌで、アイヌ語は縄文語に近く、アイヌを想わせる地名は日本列島(特に東北)に数多く存在しているという指摘であった(そういえば金田一のバチェラー邸訪問の随筆にも、金田一自体がアイヌの子孫では?と問われる場面があった)。

知らぬは我のみで、こんなこと誰でも知っていることなのかも?
先に名前を出した武田泰淳は、北大時代の真志保の印象を、「知里さんは、アイヌ民族がいかに圧迫されてきたかを力説した。おれはアイヌだ、という昂然たる気概があった。アイヌのことも、シャモ(和人)ということばの意味も知らなかった私をつかまえて、知里さんは情熱をこめて飽くことなく語られた。北海道独立論、アイヌの土地をアイヌに返せなど、するどい言葉が口をついて出た」と振り返っている。
知里真志保という強烈な人物に出会った泰淳は、数年後再び渡道してアイヌコタンを訪ね歩き、アイヌ民族問題に取り組んだ小説を書いた。「森と湖のまつり」(昭和30年発表)がそれである(当初は真志保をモデルにと考えていたという)。

この小説で登場人物の一人にアイヌ民族の歴史について語らせている場面がある。
「ずうっと前にゃ、静岡にも東京にもアイヌはいたもんだ。知ってるべえ、富士山の『フジ』ってのはアイヌ語の『火』のこった」。これは上記「アイヌ語入門」のアイヌ地名記述と合致する。
さらにこの登場人物は、アイヌが和人と混血を繰り返しながら、長い間に北海道へ追いやられ、その果てに松前藩、江戸幕府、明治政府に略奪、同化されるまでを延々としゃべり続けるのであるが、この経緯も「アイヌ学入門」と違わない。
つまりは縄文時代以降、アイヌは「アイヌとして生きるか、シャモと同化するか?」(一アイヌ人の言葉)という選択を常に迫られつづけた。いまに至る少数民族の悲劇である。

千島などを含めて北海道は、およそ日本の総面積の22%、その広さはざっと東北六県と新潟県を合わせたほどであるし、または九州と四国に沖縄、山口、広島、大阪、奈良を足した十六府県に匹敵する。北海道は広大なのである。
大正9年、はじめて国勢調査が実施された。その統計によると、およそ日本の人口7700万、北海道236万、うちアイヌはわずかに17000人。これが知里幸恵が女子実業学校を卒業した年の北海道だった。それまでのアイヌの人口の異動はわからないが、ともかく松前藩が置かれるまでの蝦夷地(註)には17000人前後のアイヌが広大な大地を自由に行き来していたのである(狩猟や漁撈で暮らすアイヌには土地所有の観念がなかった)。
「其の昔此の広い北海道は、私たちの先祖の自由な天地でありました」と「アイヌ神謡集」に幸恵が記したとおりの自然の摂理そのままの北海道だったのである。
(註・和人が北海道へ移住しだしたのは飛鳥・奈良時代で、それが本格的になったのは室町時代だといわれる。)

知里幸恵が大正11年に亡くなり、ほぼその十年後の昭和8年に生れた渡辺淳一とは、当然に生を共有した時間はない。弟の真志保が世を去った昭和36年には、渡辺淳一は医師になって大学院にすすみ、文学仲間と同人誌に作品を書いていた時期である(芥川賞候補や結婚はもう少し先である)。
地元の新聞に大きく報道されたであろう知里真志保の死を、必ずや渡辺淳一は目にしていたであろろう。医局や同人誌仲間としばしの話題になったかもしれぬが、渡辺淳一は何も書き残してはいない。医科大学に移る前、北大(理類)に入学して二年間教養課程を学んでいるのだから、大学構内で知里真志保の顔くらい見かけていたのかも。
生前の金田一京助と渡辺淳一も何の関係もなかった(朝日新聞の金田一の弔意文くらいは、そのときに読んでいたかも)。金田一死亡の昭和46年は、渡辺淳一は直木賞作家となり、「リラ冷えの街」を終え、「無影燈」を連載していた時期である。既述したように、渡辺淳一伝記文学の一冊に石川啄木の名前が加わっていたら、金田一京助は重要な人物として登場していたのは確実だ(啄木伝記企画段階で、渡辺は金田一の資料にも目を通していただろうが)。この啄木伝記が実現していたら、アイヌのことも出ていた?(もしかすれば幸恵や真志保の名前も)。

渡辺淳一が二代目道産子として誕生したのは、明治20年代に渡辺の祖父母が東京と佐渡から北海道へ入植したのに始まる。北海道のどこかで出会って夫婦になった祖父母が住んだのが空知郡の歌志内で(当時は村だった)、おもしろいことにその住所の番地が字(あざ)神威番外地だったことである(神威は残念ながらカムイではなくカモイと読むらしい)。ここで最初に生れた長男の名前を神威とつけたが5歳で亡くしている。
淳一の母ミドリが生れたのは、この長男の死の翌明治39年である(幸恵、真志保の中間に生れている)。ミドリには姉が二人いた。祖父母が歌志内で開業した雑貨店は繁盛した(だからミドリは札幌の女学校へ行けた)。姉二人が嫁いたので、ミドリが淳一の父(明治40年生れ)を入り婿として家を継ぎ、渡辺姓を残した。
父親方の祖父母も明治20年代に秋田から渡道し、炭鉱夫をしていた。父親は苦学の末、札幌師範学校を卒業して、教職に就いた(ミドリも教員をしていたので、それで知り合った)。渡辺家三代にわたるルーツはおよそそういうことになる。
渡辺家だけでなく北海道は明治になって、屯田兵はじめ日本全国からの入植者が雪崩を打つごとく増えていた(原野開拓の凄まじさは、渡辺淳一の「花埋み」にも描かれている)。

そもそもが、「リラ冷えの街」のリラそのものも北海道原産植物ではなかった。渡辺淳一は、作中でリラをこう説明している。「ライラックは英語名で、リラはフランス語である。日本名はムラサキハシドイ。トルコからヨーロッパ南東部のバルカン半島にかけての一帯が原産地・・・・」。
補足すると、リラを北海道へ移植したのは、一人のアメリカ女性で1890年のことだった(リラは北海道民への親善の花だったのである)。1890年は明治23年なので、渡辺淳一の祖父母たちと前後してもたらされたのだ。
モクセイ科の低木落葉樹のリラは、1960年に「札幌の木」に選定された。選定から十年後、故郷の新聞社より連載小説の依頼を受けた渡辺淳一は、リラが札幌市民の愛でる木(花)となっていることを充分に意識して、人工授精をからませた悲恋物語を創作したのであろう。目論見は成功し、渡辺淳一は大作家への階段を昇り始めたのである。
なお、リラは初夏(5月から6月にかけて)主に淡い紫色の花弁をつけ、「リラ冷え」とはリラが咲き誇った頃に、オホーツク海の冷たい空気が流れこみ、気温が一気に下がる現象をいうようだ(桜の時期の「花冷え」とおなじで、造語にたけた渡辺淳一は、それを「リラ冷え」ともじったのである)。
そのリラの香りは、知里真志保が横たわる死の床にも忍び込んでいたことであろう。そして真志保は夫人に、「さいなら」の一言を残して瞑目したという。命日となったその日(6月9日)は、寒風が吹きつける「リラ冷え」の日であったように想えてならない。

   人々は 何度も何度も手をすりあわせて 家の主人に罪を謝し、これからは
   仲よくする事を話し合いました。 私もみんなに拝されました。
   それが済むと、人はみな、心が柔らいで 盛んな酒宴を開きました。
   私は、火の神様や家の神様や 御幣棚の神様と話し合いながら
   人間たちの舞を舞ったり躍りをしたりするさまを 眺めて深く興がりました。
   そして 二日三日たつと酒宴は終りました。 人間たちが仲の善いありさまを見て、
   私は安心して 火の神 家の神 御幣棚の神に別れをつげました。
「銀の滴降る降る」の後半部である。梟の神は、アイヌモシリ(人間の住む土地)が平和を取り戻したことを見届けて、天空の神の国へ帰るのである。罪を謝してこの宴会に加わるべきなのは、アイヌモシリに侵入してきたシサム(隣人)であり、そのシサムを差し向けた時々の為政者である。徳川幕府であり、明治政府である。そうも読める。

誰もが自分のルーツを原初までさかのぼることはできない。
それでも、「北は北海道、東は南千島、南は琉球列島、西は対馬にまで広が」る縄文文化を色濃く残しているのがアイヌだとするならば、そのルーツにアイヌを加えてもいいのではないか。アイヌが我々の祖先である可能性は高いのだから。
図書館で借りた「アイヌ学入門」にあった一文を引いて、このとりとめのない長い文を閉じよう。
「アイヌ語を学んで感じたのは、陰影の深い言葉だということです。アイヌ語の『イランカラプテ』は『こんにちは』と訳されますが、そもそもは『あなたの心にそっとふれさせていただきます』という意味なのです」。
このような慈愛に満ちた言語を持ち続けたアイヌが、我々の先祖であることに心癒されはしないだろうか?そして誇りに思えて来やしないだろうか?
    銀の滴降る降る・・・・金の滴降れ降れ・・・・まわりに・・・・


(だんだんと文章が長くなる。書かずもがなの枝道に入り込むのを気をつけなくては!と反省しきりだが・・・・。果たして?)
















 

自由人の系譜 渡辺淳一「リラ冷えの街」と「銀のしずく降る降る」(上)

たとえば、あなたが地方に住んでいたとして、何かの用件で上京し羽田空港から帰途につくとしよう。
出発ゲートを抜けると、それまでのごったがえしていた人混みはだんだんとまばらになり、めざす待合ロビーに近づくにつれ、それまでの解放感は薄れてゆき、多少の緊張を覚えたりしたことはないであろうか。
目的地を同じくする人だかりに、ひょっとしたら誰か顔見知りに出くわすのではないかという、ちょっとした緊張感に(出来得れば知らない人ばかりでいて欲しいという気持ちの裏返しであるような)。

長篇小説「リラ冷えの街」は、その羽田空港待合ロビーに札幌便のキャンセル待ち案内が流れ、一人の女性(ヒロイン)の名前がアナウンスされるところから始まる(小説が書かれた頃は、飛行機が旅の交通手段として一般的になっていった時代であったし、絶妙な導入シーンである)。
当然、そこには出発を待つ出張帰りの男(むろん主人公)が居合わせ、アナウンスを耳にして、大学院生のときのある体験と密接する女性の名前であることに気づく。名前だけを強烈に記憶しているが、未だ会ったことのない女性だった。つまり、男のみの知る重大な秘密が、その女性との間に介在していたのである。
偶然にも、女性と座席が隣り合わせになったのを幸いに、男は必死に親しくなるきっかけをつかもうとするが、ようやく名刺を渡したきりで飛行機は千歳空港に着いてしまう。あえなくそこで別れるしかなかった。

二人が再会したのは、それからしばらく経っての男(植物学者)が勤務する札幌の(北海道大学)植物園内であった。女性が小学生の息子を連れて見学に来ているのを見つけ声をかけたのである。 二人は、この息子を介して急速にうちとけてゆくのであるが、男の心中には、この男児が自分の子供ではないのかとの想いに激しく揺さぶられていた。
もう、小説を未読であってもピンと来たかもしれない。つまりは「リラ冷えの街」という小説は、人工授精を背景にした男女の出会いと別れを描いた不倫物語なのである。 

日本初の心臓移植手術という大騒動の中で札幌医科大学を辞めざるを得なくなった渡辺淳一は、心機一転、小説家を志して札幌を後にした。
上京翌年の昭和45(1970)年夏、渡辺淳一(36歳)は候補四度目で直木賞を受賞、職業作家となった。「リラ冷えの街」は、この受賞と相前後して北海道新聞日曜版に半年間掲載された。
渡辺淳一の地元デヴュー作であった。心臓移植手術にまつわる筆禍によって(自らが招いたこととはいえ)、故郷を追われる形になった渡辺淳一が、わずか一年にして錦を飾った小説である。「リラ冷えの街」執筆に際しては、かなりの神経を注(そそ)いだにちがいない。

当初その性的内容が、日曜家庭版にそぐわないと危惧されたものの「リラ冷えの街」は、連載を重ねるごとに読者をとらえ好評裡に終えたという。おまけに「リラ冷え」という新季語までを誕生させて。
「リラ冷えの街」の連載が終るやいなやに、週刊誌(サンデー毎日)に発表された長篇が「無影燈」であった。この小説は、作者自身の経歴によく似た男が主人公だ。将来を嘱望されていた大学医学部講師職を自ら辞め、民間病院に勤めながら看護師(ヒロイン)をはじめ躊躇なく女性と関係を持つ虚無的な医師が主人公である。いろいろどさくさがあった挙句、最後に医師はヒロインを自分の故郷である札幌に招き、支笏湖畔で束の間の逢瀬を過ごしたあと投身自殺する。末期の多発性骨髄腫に冒されていたというオチである。

「リラ冷えの街」と「無影燈」によって(ともに映像化されたことも手伝って)、渡辺淳一の人気は不動のものとなっていった。どちらも適宜(てきぎ)の医学用語がちりばめられ、医師にして作家である渡辺淳一にしか描けない世界を提出していた。今読めば、いささか作り過ぎの感は否めないとしても、当時においては充分に新鮮な内容であったであろう。
この二作が、渡辺流恋愛小説の原型である。こののち渡辺流恋愛小説は、性愛の度合いをますます色濃くしてゆき、ついにはストーリー性まで排除していく。言いかえれば、性愛の純度を深めていった。渡辺淳一はそれを純愛に引っかけて淳愛だと茶化し、これらの小説を「男女小説」と呼称した。その生涯に、数ある流行語を創り出した渡辺淳一ならでは、である。

話を先に広げ過ぎたので元に戻すと、「リラ冷えの街」「無影燈」はもちろん、すでに取りあげた「冬の花火」の中城ふみ子、「阿寒に果つ」の加清純子にしても、受賞作「光と影」を除く芥川賞、直木賞候補作品、あるいは「花埋み」そのすべてが、虚構と実在の違いはあっても作中人物設定は北海道と無縁ではない。
これは渡辺淳一初期作品の一大特徴といえる(渡辺淳一自身が道産子なのだから、不思議でもなんでもないのであるが)。
とりわけ「リラ冷えの街」は、リラの花薫る札幌市街や支笏湖、サロベツ原野、釧路湿原などの風景を、男女の恋愛進行に効果的に取り入れながら北海道の四季を新鮮に描出したと好評を博したわけであるが、その反面、もうひとつの北海道である熊と鮭とアイヌの出て来ない小説でもある。
もとより北海道を描いたとて、その題材に何を選ぼうと作者の勝手であるのだから、これは無茶な言いがかりであるのは判り切ったことである。それは充分承知の上で、ここからは「リラ冷えの街」を一旦離れて、あえて渡辺淳一の描かなかった北海道にこだわり、その昔より北海道の先住民であったアイヌの人々について想像を巡らせてみたいのである。


人それぞれであろうが、アイヌというとき、まず思い当る人物の一人は国語学者の金田一京助ではあるまいか。
石川啄木(註)との交友でも有名な金田一京助は、明治15(1882)年岩手盛岡に生れた。盛岡中学、仙台二高を経て東京大学言語学科に入学後、アイヌ語を生涯の研究テーマに選んだ。
当時、もはや滅亡寸前であったアイヌ語を調査、収集するため、在学中にはじめて北海道へ渡り手ごたえをつかむと、大学卒業の年(明治40年)には、日露戦争戦勝地であった樺太(サハリン)にまで足を延ばした。以来、再三再四に及ぶ渡道をくりかえし、こつこつと積み上げた業績は文化勲章の栄誉で報われた。
(註・明治19年生れ。渡辺淳一は後年、石川啄木の伝記に取り組んだが断念した。啄木も明治40年、北海道に移住したもののすぐ舞い戻り、東京で金田一の友情に助けられながら、26歳で没した。)

渡辺淳一がことあるごとに、「阿寒に果つ」の初恋の少女のことを文章にしたのと同じように、金田一京助にも、その思い出を折にふれて書き留めたアイヌの少女がいた。「アイヌ神謡集」の著者知里幸恵(ちりゆきえ)である。
知里幸恵は、金田一京助のアイヌ語研究に少なからぬ貢献を果たし、東京の金田一家で19歳の若さにて病死した。知里幸恵には年の離れた弟がいた。この弟ものちに、金田一京助と密接な関わりを結ぶことになる。
実は、知里幸恵の名前を最初に知ったのは金田一によってではなかった。昭和48(1973)年に新潮選書の一冊として刊行された伝記本を偶然目にしたのが、そのきっかけだった。

そのころ新潮選書からは、江藤淳「漱石とその時代」、大江健三郎「核時代の想像力」や小高根二郎「詩人 伊東静雄」(当時、最も好きな詩人だった)などが出ていた。
知里幸恵の伝記本「銀のしずく降る降る」は、その新潮選書の棚に並べられていた。藤本英夫(註)という著者名もまったく知らなかったので、たぶん背文字のめずらしい題名に魅かれて手に取ったのであったろう。ところが一読、知里幸恵の名前とその薄命の生涯は忘れ得ないものとなった(もしかしたらこの下地に、小学校の頃読んでいた児童小説「コタンの口笛」の影響があったのかもしれない。やはり、アイヌの姉と弟の少年少女が主人公の、この小説は1957年刊なので知里姉弟をヒントにしたのでは?)。

「銀のしずく降る降る」の中で著者自身も、知里幸恵を知ったのは幸恵の弟の真志保を通じてだったと書いていた。それもそのはずである。藤本英夫は、「銀のしずく降る降る」の三年前に「天才アイヌ人学者の生涯」(講談社刊)を刊行していた。知里真志保の評伝である。知里真志保こそは、アイヌではじめて東京大学に進み学者として有名であったのに、当時の幸恵は無名に近かったのだから。
藤本英夫は弟の事跡を調べるうちに姉の生涯に感銘し、「銀のしずく降る降る」を著したのである。
(註・昭和2年北海道生れ、北海道大学卒。高校教師を経て考古学、民俗学にも携わった。平成17年没。)

ちょっとややこしくなるけど、藤本英夫は「銀のしずく降る降る」のほぼ十年後、おなじ新潮選書に「知里真志保の生涯」の表題で新資料を追加して書き直した(姉と弟は死後においても、仲よく新潮選書に肩を並べたのである)。その上、幸恵についても「銀のしずく降る降るまわりに」と「知里幸恵 十七歳のウエペケレ」(ウエペケレは散文物語の意味。いずれも草風館刊)を追加して知里幸恵像を更新したのである。それほどに藤本英夫の知里姉弟に寄せた思いは深かったのだろう(こういう例はめずらしいのでは)。
以下、それらの藤本英夫本と金田一京助の回想文をテキストに(簡略だけを心がけて)、アイヌの生んだ天才(といわれた)姉弟の生涯を再現してみる。

アイヌ民族の知里高吉、ナミの長女として知里幸恵が、現在の登別市に生れたのは明治36(1903)年である(この翌年に日露戦争開戦)。アイヌでは珍しくキリスト教徒であった両親から、幸恵は幼児洗礼を受け生涯信仰を貫いた。4歳と6歳下に、高央、真志保の弟二人に、1歳で死亡した末妹と日本人の養女の妹が二人いた。
登別の川と山野と海に囲まれて育った幸恵は、小学校入学を控えて旭川で伝道婦をしていた伯母(ナミの姉)の金成(かんなり)マツに預けられる。
旭川郊外の近文(ちかぶみ)コタン(部落)の教会を兼ねた小さな家屋で、マツと幸恵と祖母のモナシノウク(マツの母、未亡人だった)の女三人の貧しい暮らしが始ったのは、明治42年のことである(この年、弟の真志保誕生)。

翌年に幸恵は和人(シヤモ、日本人)と共学の小学校へ入学したが、近文に新しい小学校が完成するとアイヌの子どもたちはそこへ移らされた。
一年生は幸恵を含めて女子四人、男子は五人。全校で四十八人を当面、校長一人で管理した。和人から土人学校と蔑称されたアイヌの小学校には、内地から宮様はじめ多くの貴賓が視察に訪れた。陸軍省軍医総監であった森鴎外もその一人である。旭川には日露戦争での勇猛ぶりで知られた陸軍第七師団があったから、そのついでに立ち寄ったものか。小学校では、アイヌの古老を集めて熊祭りを披露して来賓を歓待した。子供たちはそれを真似て子供熊祭りを遊びにした。また、女の子たちはアイヌとみくびられてのいたずらをたびたび受けた。その中には教師や警官までもがいたと書かれている(なお、このアイヌ学校は幸恵の死の翌年に、民族別教育改正のにより廃止された)。

小学校を優秀な成績で卒業した幸恵は、北海道庁立旭川女学校を受験したが不合格となり、高等小学校へ進んだ。ここで最初に入学した小学校の生徒たちと再び同級となった。クラスは男子33名、女子10名で、アイヌは幸恵一人だった。
翌大正6年、幸恵は百十名中四番目の成績で旭川区立女子職業学校へ入学することができた。全校中アイヌは幸恵のみだった。この学校でも肩身の狭い思いをして過ごさねばならなかった。「ここはあんたがくるところじゃないわよ」という空気(蔑視)が支配する中で勉学の日々を幸恵は送ったのである(「コタンの口笛」の姉の少女そのままである)。子供の振る舞いは大人の鏡である。また多数は必ず少数を異端視して、排除しようとする。
成績順で指名される級長や副級長になることも遠慮して悩まねばならなかった幸恵であったが、両親宛てへの手紙には一切の泣き言も洩らさず全先生の寸評をユーモラスに語っているのに、級友の話題は級長副級長のことのみにとどめている。徒歩での片道六キロの通学路も負担になったのか。次第に幸恵は健康を害し、三学年は病に伏せることも多くなっていた。

ところで幸恵は北海道庁立旭川女学校を不合格になったと書き流しておいたが、実際は最高の成績で合格していたのを不合格にされたのだ、との噂が当時あったという。
帝国陸軍高官の子女が通う庁立の学府に、一段と低い人種のしかもクリスチャンであるアイヌを合格させるわけにはいかなかったのだとの噂である(このとき幸恵は、アイヌ出身のはじめての受験生だった。弟の真志保も六年後、庁立旭川中学校を不合格になっている)。最高点はともかく(女子実業学校の順位だって本当かどうかわからない)、その時代として大いにあり得ることで噂の信憑性は高いと思われる。
「一人で静かに遊ぶつつましい人」、「ずっと大人びてみえた」、「病弱のせい」か、「運動神経はにぶかった」などというのが高等小学校時代の担任や級友の幸恵評だが、作文と字がとてもうまかったというのは共通している。女子職業学校でもこれらに交えて、出身を意識してか服装はきちんとしていたとか、弁当に芋しか入ってなかったのでふたでかくして食べていたとかの回顧談が加わる。

そんな幸恵はあるとき、教会に遊びに来たコタンの年下の女の子が、私も幸恵のように上の学校へ行きたいというと、こうぶちまけたことがあったという。
「そんなに勉強したいー?教育なんて何さ。教育って、そんなに大事なもの?差別されてまで学校にいきたいかい?肩身のせまい思いまでして上の学校にいきたいの?それよりも、勉強がいやになったら、自由にはばたいたらいい。強くなりなさいよー」。
最後の言葉は自分自身へのやりきれない鼓舞でもあったのか。これが常に学業優等生だった知里幸恵のいつわらざる声であったのだろう。

さて、幸恵が職業女学校へ入学した翌年の大正7年は、蝦夷(えぞ)が北海道に改称(明治2年施行)されてから、ちょうど五十年目であった。
夏の暮時に幸恵が帰宅すると、一人の見知らぬ男がいた。金田一京助である。金田一は、幸恵の祖母モナウシクのユーカラ(詩曲)を聞き取りに来訪したのであった。その夜、女三人とつい時間を忘れて話しに夢中になった金田一は、すでに旭川行の最終列車が出たことに気づき、すすめられるままに泊まり込む。
この日のことを、十五年後に文章にしたのが「近文の一夜」である。

「近文の一夜」には、不意の客人に供応する食べ物や蚊を防ぐ蚊帳(かや)もないのにとまどう様子の女三人や、機転を利かせて走りまわる幸恵の姿がとても印象深くとらえられているのだが、金田一と幸恵の運命を決定する出来事は、その翌朝、金田一がいとまを告げて玄関先で靴ひもを結んでいるときに起きた。
「幸恵、ほかの方ではない。先生でいらっしゃるんだから、おまえ、作文だのお習字、見ていただきなさい」。「いやな、おっかさん」といって、照れながらも悪びれずに出してきた作品を手にした金田一は、文章が立派な上に文法、仮名遣い、漢字の字画に誤りひとつない上手な筆跡に驚嘆した。

こんなに和文が堪能ではアイヌ語は苦手では、と金田一が少し混ぜ返すと、「そのくせ、幸恵といったら、おばあさん子で、おばあさんのひざの上で育ったものですから、片言から、アイヌ語の片言で成長しましたから、今は、もう、どんな年寄りにも負けないくらい、アイヌ語は達者なんでございますよ。その上、この年で、おばあさんの口まねして、もう、ユーカラもやるのですよ」とマツが答える。
「いくらなんでも、これは、お母さんの子ぼめだろうと、思って、幸恵さんの顔を、見たら、幸恵さんはお母さんのことばを、否定も、肯定も」せずに、ひざを乗り出してきて尋ねた。
「先生は、私たちのユーカラのために、貴重なお時間、貴重なお金をお使いくださって、御苦労なさいますが、私たちのユーカラはそういう値打ちがあるものなのでしょうか」。

「だって幸恵さん、考えてごらん。あなた方は、アイヌ、アイヌとひとくちに、まるで人間と犬との合いの子でもあるかのように、人間扱いもされず、侮辱の名を忍んでがまんしている。あなた方は苦労しているじゃないか。しかし、あなた方のユーカラというものは、あなた方の祖先の戦記物語だ。言葉の形にうたい伝えている、叙事詩という口伝えの文学なんだ。人間が文字を持つまでは、かつてはヨーロッパでも、あの『イリアード』『オデッセイア』は、その最後の伝承者のホメロスのときに、文字が入って、はじめて書かれたものだよ。
叙事詩というものは、民族の歴史でもあると同時に文学でもあり、また宝典でもあり、聖典でもあった。それでもって、文学以前の人間生活が保持されてきたのだ。そういうことがわかっているけれど、いまの世にそれをなおそのまま生きて伝えている、という例は、世界にユーカラのほかにない。だからわれわれがいまこれを書きつけないと、あとではみることも、知ることもできない、貴重なあなた方の生活なんだ。だから私は、全財産をついやしても、全精力をそそいでもおしいとは思わないー」。

すると幸恵は、両眼に涙を浮かべて答える。
「先生はじめてわかりました。私たちは今まで、アイヌのことさえいったら、なにもかも、恥かしいことのようにばっかり思っていました。そういう貴重なものを、アイヌには縁もゆかりもない先生が、そのように思ってくださいますのに、その中に生れた私たちは、なんとおろかなことだったでしょう。ただいま目が覚めました。これを機会に決心いたします。私も、全生涯をあげて、祖先が遺してくれたこのユーカラの研究に身をささげます」。
後世に残る「アイヌ神謡集」誕生の瞬間であった。

マツがこのとき「幸恵はおばあさん子で、おばあさんのひざの上で育った」というおばあさんこそモナシノウクのことで、幸恵はものごころつくころから、登別の母の実家に一人住んでいたモナシノウクと二人だけの日々を送り、旭川でもいっしょだったのだから、幸恵の全生涯に占めるモナシノウクとの時間は、誰にもまして長いのであった。自然とモナシノウクの背中で傍らで、ユーカラを聞き覚えたのであろう(金田一京助はモナシノウクを「私が逢ったアイヌ最後の最大の叙事詩人」と称賛した)。
「近文の一夜」での四人の年齢は、モナシノウク70歳、マツ43歳、金田一34歳、幸恵はいまだ15歳だった。

大正9年の卒業を待ちかねるようにして、金田一は幸恵に上京を促した。幸恵は、しかし応じなかった。心臓に遺伝的疾患をかかえる幸恵は、卒業後も健康状態が思わしくなかったからである。やむなく金田一は、ユーカラでも書き留めておくようにとノートを送り、幸恵はマツにローマ字を習い、出来上がったノートを送り返していた(幸恵のローマ字表記の斬新さと見事な訳文にも、金田一は「涙がこぼれる程」感動した)。
幸恵が上京したのは、大正11年5月中旬であった。卒業から二年の月日が流れていた。この間に、真志保が旭川で同居するようになり、マツは青年に好感を抱いて賛成、ナミは青年の家が農家だというので身体の弱い幸恵にはつとまらないと猛反対する幸恵の婚約問題が生じている。

「私の書斎にいてもらって、アイヌ語の先生になってもらうと同時に、私からは英語を教えてあげつつ、お互いに心から理解し合って入神の交わりをしました。涙を流してアイヌ種族の運命を語り合うことが習慣のようになりました。併し、幸恵さんは何時でもその悲しみの嗚咽の下から、感謝の祈りを神様に捧げ捧げされました」というのが、金田一家での幸恵の日常だった。
「私が十年わからずにいた難問題を捕えて、幸恵さんに聞くと、実に、袋の中の物を取り出すように、立派に説明してくれる。その頭脳のよさ、語学の天才だったんですが、本当に天が私に遣わしてくれた、天使の様な女性だったんです」。

金田一のこの文章が引き起こしたエピソードをひとつ。
ことアイヌ語に関しては、主客転倒したような才質を示した幸恵であったが、かつて金田一に「私は頭が悪くて、先生になんのお手伝いもできませんが、弟(真志保のこと)ならば・・・・」ということを口にしたことがあった。
この幸恵の言葉を憶えていたのか。後年、金田一は真志保の進学に助力し、真志保も終生の交わりを金田一と持つことになってからの出来事である。
東京滞在中の姉の日記を金田一が保管していることを知った真志保が、姉の形見に渡して欲しいと要求したら、これは私がもらったものだからと金田一に拒否された。一時、二人の関係が冷え込む原因ともなったのに加えて、上文が発表されたとき、「入神の交わり」という表現に金田一の姉に対する情念を読み取り、真志保は不快感を募らせたともいわれる(あるいは順序は逆かも知れないが)。

幸恵が東京で過ごした夏は常にも増して暑かった。それが身体に障(さわ)ったのか、八月になって幸恵の健康は急に悪化した。日記とともに詳細な金銭出納と手紙類の受発信記録をつけていたのが、すべて二十一日を最後に途切れた。
「今一度、幼い子にかへって、御両親様のお膝元へ帰りたうございます。そして、しんみりと私が何を為すべきかを思ひ、御両親様の御示教を仰ぎたく存じます。半年か、一年ほど・・・・。旭川のおっかさんは許してくれる筈です。-」。九月四日付けの両親宛て文面である。この手紙で幸恵は今月二十五日に北海道へ帰りたいと告げていた(文中「何を為すべきか」云々は、こじれた結婚問題を指しているのだと思われる)。
しかしこのあと、往診した医師から帰郷をとどめられ、死の四日前に出した最後の手紙で十月十日に変更したことを告げ、「静かにさへしていれば長もちしますって。診断書には、結婚不可ということが書いてありました。何卒安心下さい」とナミに書き送っている。

金田一春彦は京助の長男で、やはり国語学者になった人である。幸恵が金田一家にいたころ、小学生(9歳)だった。少年の春彦には、帰郷を決意した幸恵が「日の沈むころになると、庭に立って、ぼんやり、北の空を眺めて」、「讃美歌を口ずさんでいた」姿が記憶に焼きついた(春彦は父親を通じてアイヌ嫌いになっていたが、幸恵だけは好きだったと言う)。
明日は皆で根津権現の祭りに行こうと楽しみにしていた前夜、「アイヌ神謡集」の最終校正を完了した夜に、幸恵の容態は急変した。金田一が「びっくりして抱きかかえて幸恵さん幸恵さんと連呼をした時に、二度返事をして、それっきり」であった。大正11年9月18日、幸恵19歳。死因は心臓麻痺。
登別からは、上京に反対していた父高吉が駆けつけ、わずかの遺品を持ち帰った。幸恵の墓は金田一が東京雑司ヶ谷霊園に建立した(昭和50年、春彦のはからいで登別に改葬された)。

それから六年後の昭和3年、教会側の事情で三十年の伝道生活を打ち切ったマツは、わずかな慰労金を受け取り、妹夫婦の隣へ粗末な家を建てモナシノウク(80歳)と移り住んだ。
昭和3年は真志保(19歳)が室蘭中学、兄の高央(21歳)は室蘭商業から小樽高商へとすすみ、まだ学生だった。知里家の家計のやりくりは身を粉にして働いても追いつかなかった。兄弟はしばしば授業料が払えず休学しては勉学をつづけていた。この頃の秋の一日に交わした52歳と49歳の姉妹の会話を、マツから聞いた話しとして金田一が書き残している。
「独身生活を通して来た私と、結婚をして家庭生活を作ってきた貴女(あんた)と、どっちが本当に幸福だったかわからなくなってしまう。そんなに苦労ばっかりして、あの若く美しかった貴女の、日に焼け、雨風にさらされたその姿、男のように頑固に荒れて節くれだったその指、その手をみるとあんまりかわいそうで、私はたまらない。そんなに苦労しつづけにつづけて何を楽しみに毎日が過されるの?」と姉が問う(マツは子供の時の事故で松葉づえを要する身体になっていて、結婚をしなかった)。

「私はねえ、姉さん。だけど、この苦労が、だれのための苦労でもない、みんな子供と夫のための苦労なんですもの。そう思うと、苦労が大きいほど、元気がでてくるのよ。私はこれで本望なの。朝から晩まで休まず働いて、働けなくなるまで働いた日ほど、寝しなのお祈りがねえ、力強く精いっぱい声に張りが出るの。それが何よりの楽しみで、それで私の元気がつづくのよ」。「妹は少し馬鹿なんです。そんなこといってるんですもの!」。そう笑いながらいうマツの目には、涙が光っていた、と。
このような二人の母(と祖母)に幸恵は育てられたのである。

知里幸恵が、この世に残した唯一の著書「アイヌ神謡集」は死の翌年に刊行された。アイヌによるアイヌはじめての伝承文学の活字本であった。その最も有名な「銀の滴降る降る」の冒頭一節を引く。
   「銀の滴降る降るまわりに、金の滴
   降る降るまわりに。」と云う歌を私は歌いながら
   流に沿って下り、人間の村の上を
   通りながら下を眺めると
   昔の貧乏人が今お金持ちになっていて、昔のお金持ちが 
   今の貧乏人になっている様です。
   ・・・・・・・・・・・
これは「梟(ふくろう)の神が歌った謡」と題されている。「アイヌ神謡集」とは、自然それぞれに神(カムイ)が宿ると信じるアイヌの伝承を、幸恵がアイヌ語をローマ字表記にして和訳を付けたものである。一般にユーカラ(註)と呼ばれている。伝承の種類はいくつかに分けられるようだ(このことはまた後述したい)。
(註・幸恵はユカラと表記。現在ではユカㇻと書くようだ。)

藤本英夫「銀のしずく降る降る」巻末には、両親へ送った幸恵の手紙の実物写しが載せられている(かなりの長文にもかかわらず、書き直しはただ一箇所が目につくだけである!)。流れるような筆跡と文章の見事さ。金田一ならずとも感服するであろう。藤本英夫は「ペン習字の手本にでもなりそうな」と書き、担任だった教師は、幸恵からもらった手紙を「額にいれて飾っておきたいような」と述べている。ここにそっくり引き写したいほどである。が、さすがにそうも出来ないので、かわりに、長い文章ではあるけど、これも緘黙(かんもく)して頭を垂れないではいられないような名文、「アイヌ神謡集」序文を引く。この文章を読んだ歌人の片山ひろ子(註)は、娘に「女学校をでたての少女文章とはとても思えない。金田一先生よりずっとすぐれている」と感想を洩らしたとある。
(註・明治11年生れ。芥川龍之介の思い人とされる。堀辰雄「聖家族」「菜穂子」に細木夫人、三村夫人として出てくる。また、ひろ子の娘が「菜穂子」のモデルといわれる。)

「其の昔此の広い北海道は、私たちの先祖の自由な天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活をしてゐた彼等は、真に自然の寵児、何と云ふ幸福な人たちであつたでせう。
冬の陸には林野をおほふ深雪を蹴って、天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には涼風泳ぐ緑の波、白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り、花咲く春は軟かな陽の光を浴びて、永久に囀る小鳥と共に歌ひ暮して蕗とり蓬摘み、紅葉の秋は野分に穂揃ふすすきをわけて、好いまで鮭とる篝も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、円かな月に夢を結ぶ。嗚呼何といふ楽しい生活でせう。平和の境、そも今は昔、夢は破れて幾十年、此の地は急速な変転ををなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けゆく。

太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて野辺に山辺に嬉々として暮してゐた多くの民の行方も又何処。僅かに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり。而も其の眼からは一挙一動宗教的観念に支配されてゐた昔の人の美しい魂の輝きは失はれて、不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ(註・和人のこと)、あさましい姿、おお亡びゆくもの・・・・それは今の私たちの名、何といふ悲しい名前を私たちは持つてゐるのでせう。

其の昔、幸福な私たちの先祖は、自分の此の郷土が末にかうした惨めなありさまに変らうなどとは、露ほども想像し得ないかったのでありませう。
時は絶えず流れる、世は限りなく進展してゆく。激しい競争場裡に敗残の醜をさらしてゐる、今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強いものが出て来たら、進みゆく世と歩をならべる日も、やがては来ませう。それはほんたうに私たちの切なる望み、明暮れ祈つてゐる事で御座います。けれど・・・・愛する私たちの先祖が起伏す日頃互に意を通ずる為に用ひた多くの言語,言い古し、残し伝へた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱いものと共に消失せてしまふのでせうか。おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。
アイヌに生れアイヌ語の中に生ひ立つた私は、雨の宵雪の夜、暇ある毎に打集ふて私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました。私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほんたうに無限の喜び、夢上の幸福に存じます。    大正11年3月1日    知里幸恵」

死の半年前に書かれたものだ。
今読めば少々堅苦しすぎると思うかもしれないけれど、書かれた時代と日本の同化政策の下に滅亡していく民族に生れあわせた19歳の少女の心根の純真を汲み取るべきであろう。祖母モナシノウクの背に負われて、ユーカラを耳にしながら目にした世界が幸恵の原風景になって宿っていたのである(下線を施した部分には、あるいは真志保のことでも思い起こしていたのだろうか)。
我々は学問を重ね、向上し、進歩することが幸福につながるのだと教え込まれ、単純にそう信じて生きてきた。そしていま豊かな生活にたどりついたと、どこかで満足している。明日はもっと豊かになるだろう、と。
しかしながら、進歩、進化は人類の幸福を保証するものであるのか(あったのか)、なぜ発展を遂げねばならないのか。発展の究極の目的は人類の幸福と平和にあるはずだ。であるならば、平和であるのにどうして原始的な生活をつづけていてはいけないのか、という思いに(序文を読んで)、しばしひたらされるのである。

そんなことを考えながら肝心なことを伝えきれていないのではないかと、不安になった(これは金田一が「近文の一夜」の朝、幸恵の質問への答えにあるのだが、学者金田一京助は、本当に「アイヌ」として知里幸恵を理解していたのであったかという不安でもある)。
アイヌ民族は文字を持たない民族であったということ。だからユーカラを子子孫孫、伝承(口承、口伝え)で語り継いで来た。それが民族の情念を養い、かつ生活の規範ともなってきた(そう思われる)。
「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」というのは、たしか詩人の田村隆一の詩句であったと記憶するが、これを「文字(日本語)なんかおぼえたくなかった」とすれば、そのまま幸恵の心情の根底にふれるのではないか。序文にあるように、「アイヌ神謡集」は「私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく」ためではあっただろうが、それは同時に、和人の母語への侵犯(同化政策)への抵抗を含んでいたのではないか?幸恵はやむにやまれぬ本能に突き動かされて「アイヌ神謡集」をまとめた(それほどに母語を失う悲しみは強かったと思う)。それが「近文の一夜」の涙の意味だったのであるし、教会へ遊びに来た女の子に答えた言葉の意味であったのだ(幸恵は結婚するのはおなじアイヌがいいと言っていたこともある。往々にして抑圧者側は、どんなに被抑圧者側に立っているつもりでも、被抑圧者の心を完全には理解しな得ないものである)。

このことは幸恵が体調も万全でなく、父高吉の反対までを押し切って、なぜ上京したのかということにもつながる。
金田一のたび重なる慫慂に(しょうよう)に応えて金田一の期待と恩義に少しでも副(そ)いたい。二人のおっかさんの意見が異なる結婚問題の冷却期間として。もし結婚したら二度と東京へ出る機会を失うから東京へ一度出て見たかった。ともかく上京はいまをおいてほかにない。
いずれもその理由であったのかもしれない。が、幸恵の本望は「アイヌ神謡集」を完成させることに、その目的があったのではないか(本にすることは、金田一が骨折った。どうして幸恵の死の夜に完稿していた「アイヌ神謡集」出版が一年後(の8月10日)になったのか、不明のようである。ただし、金田一は出来上がった「アイヌ神謡集」を持参し、わざわざその刊行日に会わせて近文のマツを訪ねている(付記すれば、この二十日後に関東大震災発生)。

くどくなるが、いまひとつ幸恵の心情が直接表れている文章を引く(この文章は金田一家で、幸恵が遺した日記の七月十二日にある)。
アイヌであることを黙っていればわからないのに、アイヌだとわかれば申し訳ないと、幸恵に寄稿を依頼に来た出版社の男が、善意で気づかうのを聞いての夜の記述。
「そう思って頂くのは私には不思議だ。私はアイヌだ。どこまでもアイヌだ。どこに和人(シャモ)のようなところがある。たとえ、自分でシサム(註)です、と口でいい得るにしても、私は依然アイヌではないか。つまらない。そんな口先でばかりシサムになって何になる。シサムになれば何だ。アイヌだからそれで人間でないという事もない。同じ人間ではないか。私はアイヌであったことを喜ぶ。私が若(も)しかシサムであったら、もっと湿(うるお)いのない人間であったかも知れない。
(註・シサムはアイヌ語で隣人という意味で、隣人とは和人のことだった。従って元来は友好的意味合いを含んでいたものと思われる。シャモはシサムがなまったもの。)

アイヌだの、他の哀れな人々だのの存在を知らない人であったかも知れない。しかし私は涙を知っている。神の試練の鞭(むち)を愛の鞭をうけている。それは感謝すべき事である。アイヌなるが故に世に見下げられる。それでもよい。自分の同族(ウタリ)が見下げられるのに、私ひとり、ぽつりと見上げられたって、それが何になる。多くのウタリとともに見下げられた方が嬉しいことなのだ。それに私は見上げるべき何物をも持たぬ。平々凡々、あるいは、それ以下の人間ではないか。アイヌなるが故に見下げられる。それはちっとも厭うべきことではない。ただ私の拙ない故に、アイヌ全体が、こうだと見なされることは、私にとって忍びない苦痛なのだ。おお愛する同胞よ。愛するアイヌよ」(アイヌとはもともと人間という意味だという。従ってこの文章では敬称抜きでアイヌと書いた)。

簡潔にまとめるどころか、駄文を重ね冗長になるのはいつものことであるから非才を嘆いても仕方ない。ここまで付き合っていただいた方には、ありがたいの一言である(どうか、もう少し付き合ってください)。
「近文の一夜」から、金田一京助はさらに旅をつづけたあと、札幌のバチェラー邸を訪問した。金田一にモナシノウクを紹介した英人バチェラーは、長く北海道に滞在して布教活動のかたわら(マツとナミ姉妹を信仰へ導いた)、日本初のアイヌ語辞典を編纂した人物としても知られていた。
のちに金田一は愛用していたバチェラーの辞典を泥棒に盗まれて必死に探したが見つからず落胆した。一方、知里真志保からは、事典の内容が所詮、外側の人間がアイヌを覗いた辞典にすぎず、アイヌの魂がこもっていないと激しく批判された。

このバチェラー邸で、金田一は、もう一人の少女に出会っていた。
当時、作家にとって檜舞台とされた中央公論に、17歳で「貧しき人々の群」を発表し、天才少女ともてはやされていた中条百合子(のち宮本)である(このとき19歳、幸恵より4歳上だった)。百合子もアイヌコタンを廻って、アイヌに取材した短篇を書き上げたところだった。この直後、百合子は父親と渡米したので作品は未発表のまま、百合子死後に全集に収載された(百合子は渡米中に知り合った十五歳年上の学者と恋愛結婚したが離婚。のちに共産党委員長となった九歳年下の宮本顕治と再婚した)。
この短篇は「風に乗ってくるコロポックル」と題されていた。コロポックルとは、アイヌ伝承の小人のことで、蕗の葉の下の人ともいうようだ。
幸恵のいう「自由な天地」には、風に乗ったコロポックルが森を、草原を、湖を自由に浮遊しているのを幸恵の先祖たちはたしかに目にしていたのである。

これで最後。
幸恵の弟・真志保は、明治42年生れである。といってもピンとこないであろうから、イメージをふくらませるために書き添えると、大岡昇平、中島敦、松本清張、太宰治と同年生れである(知里真志保のことは次回に)。
明治36年生れの幸恵と同年には、山本周五郎がいるが女性作家の名前を見て、思わず息をのんだ。そこには林芙美子と金子みすずの名前が!貧乏暮らしの放浪生活を澄明な作品に結晶させた芙美子と平明な調和の世界を詩に残し自殺で生を閉じたみすず。二人とも天分豊かな女性だったけど、とくに金子みすずと知里幸恵、どこかその資質(童心)に相似性をみないでもない。いや、大いにみる。
いま幸恵たちが生きていれば、112歳。どのような感慨をつぶやいたであろうか。ともあれ、明治は遠くなったのである。


(以下、渡辺淳一「リラ冷えの街」と「銀のしずく降る降る」(下)につづく。)








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