「美は乱調にあり」の主人公は実在の人物、伊藤野枝である。
田村俊子が明治、大正期の小説家であることを知っているのは、百人のうち一人はいるのだろうか。
おなじように伊藤野枝も明治、大正期の人であるが、その名前を聞いて答えられるひとは、百人のうち一人もいないであろう。
作者の瀬戸内晴美は、標題冒頭で次のように伊藤野枝のことを紹介している。
「伊藤野枝といっても、昭和生まれの人たちにはおそらく何の記憶もなく、大正生まれの人たちにさえ、ほとんど知られていない女の名前だろう」

瀬戸内晴美がそう書いた「美は乱調にあり」は、昭和40年に文藝春秋に発表された評伝小説である。
発表は、三島由紀夫の自衛隊乱入自決事件の五年前であるが、昭和はそれから四半世紀もつづいた。平成になってからでも、もう四半世紀になる。
つまり「美は乱調にあり」は、いまからおよそ五十年ほど前に書かれたことになる。
昭和のあとの平成に生きる人の誰一人も伊藤野枝を知らなくとも、ますます不思議でも何でもなくなった。

現在の首都圏一圓が壊滅的惨状にさらされた関東大震災が発生したのは、「美は乱調にあり」が文藝春秋に連載されるやはり四十年ほど前の大正12年9月1日正午であった。その前年に、瀬戸内晴美は生まれている。
地震後の大混乱に乗じて、大杉栄と伊藤野枝、及び大杉の六歳の甥が、路上で憲兵に拘束され、いきなり首を絞められて殺害されたのは、9月16日のことだった。大杉栄は38歳、伊藤野枝28歳であった。
二人には魔子、エマ(大杉の妹の養女となりすぐに改名される)、エマ、ルイズ、ネストルという名前の五人の子供がいた(ネストルだけ男児)。

大杉と野枝が出かけるときには、いつも必ずついてきた長女の魔子は、たまたまその日は何故か家に残ったので殺されずにすんだという。大杉の甥は二人の子供と間違えられて、結局口封じのために幼い命をうばわれた。人間の運命は微妙である。
五人の子供を成しながらも、大杉姓を名乗らず伊藤野枝のままであったのは、二人の抱く思想によるもので、大杉栄と野枝は戸籍法を認めない、無政府主義者であった。二人とも震災のドサクサを利用され、思想弾圧によって殺害されたのである。

九州福岡の寒村に生まれた伊藤野枝が大杉栄の思想に共鳴、同化するまでを描いたのが、「美は乱調にあり」である。
勉強がよくできた野枝は、さらなる向学心に突き動かされて、東京の女学校へ飛び級で入学する。15歳だった。父親の蕩尽で家はかたむき、叔母の夫の支援を仰いだ。
運命は出会いによって変る。最初の夫となる辻潤(つじうるう)は、その女学校の英語教師だった。辻潤という名前を聞いても、やはり知っている人は皆無に近いだろうが、ダダイストとして文学史に残る放浪詩人であった(講談社文芸文庫には、辻潤の「絶望の書・ですぺら」というエッセイがある)。
知識豊富な辻潤によって、野枝は社会的視野を拡げていく。

伊藤野枝の人生をさらに決定付けたのは、明治44年に創刊されたばかりの「青鞜」(せいとう)である。
  山の動く日来る。(略)すべて眠りし
  女今ぞ目覚めて動くなる。 (略)

  元始、女性は実に太陽であった。真正の人
  であった。
  今、女性は月である。他に依って生き、他の 
  光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月
  である。(略)
有名な与謝野晶子の巻頭辞と平塚らいてうの発刊の辞である。
月刊誌「青鞜」は、執筆を女性のみに限定した文芸誌として創刊されたが、女性解放への高らかな呼びかけでもあった。
社会の矛盾や理不尽な因習に目覚めつつあった野枝にとって、平塚らいてうの「青鞜」は天啓と感じたであろう。伊藤野枝は、平塚らいてうに導かれて「青鞜」に飛び込んでゆく。

瀬戸内晴美には多くの伝記文学がある。
「田村俊子」をかわきりに、「かの子繚乱」で岡本かの子を。
「美は乱調にあり」で伊藤野枝、「お蝶夫人」の三浦環、「遠い声」で大逆事件で唯一、女性で刑死させられた管野須賀子をとり上げている。「余白の春」では関東大震災で検束され、獄中で縊死した金子文子に寄り添った。「日月ふたり」の高群逸枝、「ここ過ぎて」では北原白秋の妻、福島俊子、江口章子、佐藤菊子たちを。

瀬戸内晴美62歳のとき、平塚らいてうを「青鞜」で。西行や良寛、世阿弥までも。また、エンターテインメント系のモデル小説まで含めると、その数はおびただしくなる。
瀬戸内自身も「青鞜」の序章で述べている。
「一人を書いている間に、次の一人が浮かび上がってくる。まるで今書いている人の魂魄が、次の人を連れてくるような気がしてならない」

いやいや、それにしても凄い(これでまだ書き洩らしの評伝もあるのだから)。寂聴さんはお坊さんでもあるが、文学の鬼でもあるのだ。
新潮、講談社、文春、角川、集英社、中公などたくさんの文庫があるが、発行された文庫の総目録では瀬戸内晴美・寂聴はもしかしたら、その最多の作家ではあるまいか。ひょっとしたら、あの松本清張や司馬遼太郎さえしのいでいるのではないか。

それはともあれ、さきほど伝記小説を並べたときに、一冊だけ省いておいた。
「諧調は偽りなり」である。「美は乱調にあり」を伊藤野枝の前編とすると、これはその後編にあたる。
やはり文藝春秋に連載された。

野枝が「青鞜」に飛び込んでからの「美は乱調にあり」の後半は、次のように展開されている。
「青鞜」の編集手伝いをするようになった野枝は、やがて平塚らいてうから「青鞜」を引き継ぎ、その誌面をとおして大杉栄の思想に理解を示していく。
辻潤との間には、すでに二人の男の子がいたが(その長男がのちの辻まことである)、ついには辻との仲は破綻する。
急速に近づいていく大杉と野枝に、二人の女がからまる。
大杉の妻の堀保子(社会思想家堺利彦の妻の妹)と、大杉の愛人神近市子である。
この奇妙な四角関係も、大杉にとっては自然なことであった。大杉の男女間の理想とする思想は、特定の女性にとらわれないフリーラブだったのだから。
新参の伊藤野枝が加わったこの状態を受け入れがたく抵抗したのは、当然古株の保子と市子であった。
神近市子と伊藤野枝の緊張関係は「日蔭茶屋事件」となって結末を迎える。

「日蔭茶屋事件」というのは、茶屋を舞台に錯乱した市子が大杉を刺傷してしまうのだが、「美は乱調にあり」は、この場面で唐突に終っている。続編があるわけだ。
「諧調は偽りなり」では、大杉栄暗殺の首謀者である憲兵大尉甘粕正彦や有島武郎などが登場して、よりいっそう興味深いが、もうその内容にはふれない。
なお、「日蔭茶屋事件」の主役、神近市子はのちに社会党の衆議院議員になり、女性解放運動などに尽力することになる。

このふたつの小説の題名は、
   美はただ乱調にある。諧調は偽りである。
という大杉栄の言葉から採られている。
大杉栄の本は読んだこともないので、どういう内容の文章からの言葉かはわからないが、言いえて妙で格調がある。

諧調と乱調。
瀬戸内の伝記小説の主人公達は、ほとんどが乱調の人生を歩んでいるかのようだ。自己の思う通りに生きるということが、すでにそれだけで乱調を含んでいるということだろうか。社会の決められた枠組みのなかで、順応して生きていくことは偽りであるということだろうか。
諧調からは美は生まれない、美が生まれなければ文学も生まれまい。
新しい思想の弾圧に暗躍した甘粕正彦は、形ばかりの受刑を済ますと満州に渡り、要職を得て再び脚光を浴びる。が、日本の敗戦とともに昭和20年8月20日早朝、奇妙な辞世を残して青酸カリで自裁した。
  大ばくち 身ぐるみ脱いで すってんてん
これは大杉のいう諧調の偽りであったということなのか。それとも、自ら乱調の美を最後の最後で選択したのだったか。
   春三月 縊(くび)り残され 花に舞う  大杉栄

瀬戸内晴美の最後の愛人となった作家の井上光晴は、瀬戸内を評して「遅れてきた伊藤野枝」といったという。瀬戸内の書いた伝記小説のどの主人公にも、作者自身が重なって見えてくるのだが、中でもいちばん瀬戸内に近いと思われるのは、たしかに伊藤野枝であろうか。
肉親や世間の思惑や規制をはねかえして、自分の思い通り突き進んでいく生命力旺盛な野枝の気質は、若き日の瀬戸内晴美のイメージにもつながる。

未知数の魅力を備える愛妻野枝に女性として社会的にも目覚めさせようと、辻潤は協力し応援していたのだが、「いつか野枝が家事や育児の雑用が自分の成長をさまたげるものと思い悩みはじめた時はどうすればいいのかーそこまで考えると、辻は野枝をこれ以上成長させ目覚めさせていくことへの恐怖さえ感じてくる」と、瀬戸内は書く。
たぶん、自己の実体験から引き出した文章なのだろうが、男という性のエゴと矛盾を衝いて、女性としての偽らぬ目線がよく効いている。
ここに描かれた辻と野枝の生活から、およそ百年。今日を生きる男たちは、このときの辻潤から進歩しているのだろうか。


「恋愛のある男女が一つ家に住むということほど当前のことはなく、ふたりの間にさえ極められてあれば形式的な結婚などはどうでもかまうまいと思います。ましてその結婚が女にとってきわめて不利な権利義務の規定である以上なおさらです。
それのみか今日の社会に行なわれる因習道徳は夫の親を自分の親として、不自然な義務や犠牲を当前のこととして強いるなど、いろんな不条理な束縛を加えるような不都合なことも沢山あるのですから、私は自ら好んでそんな境地に身をおくようなことはいたしたくありません」
これは瀬戸内晴美のではなく、平塚らいてうの文章である。今からみても、らいてうを中心とした「新しい女たち」の旗揚げ(「青鞜」創刊)は、たしかに画期的な革新であった。

瀬戸内晴美が掘り起こしたこれらの伝記小説の女性たちの生き様は、多くの人たちを啓発したのではないだろうか。「遅れてきた野枝」である瀬戸内晴美自身の生き方とリンクして。
瀬戸内人気を支えているのは、こうした共感にあるように思う。
瀬戸内晴美は大正11年5月15日に徳島で生まれている。もうじきに90歳になる。今でも現役の作家である(ついこの前には、テレビの週間ブックレヴューに出演していた。とても元気そうであった。瀬戸内晴美は、わたしの父と同年の生まれなのである。ちょっと信じられないような気持ちで、テレビの画面を見つめた)。

週刊現代の読書蘭は好きなページである。ほぼ毎号見る。そこに今期の芥川賞を受賞した田中慎弥がでていた。
いま、いちばん、あいたいひとは?という質問に彼は答えていた。
「瀬戸内寂聴さん」と。理由の記載はなかった。瀬戸内寂聴にとって、田中慎弥は孫の世代である、どうしてなのか、その訳を知りたく思った。

(文春文庫の「諧調は偽りなり」は、残念ながら絶版になっています。)