「生い立ちについて、私が受けた侮辱は、人間が生きながら味わわなければならない辛さのひとつかもしれない。私にとっての懐かしい思い出も、それを時の経過に曝してみると、いつも人間関係の亀裂を含んでいた。子供の頃、私の心は災いの影を映していた。戦争は次第に拡がり、やがて世の中の変革があった。私は革命を志向したが、それは、外部の動乱ばかりが原因ではない。私のなかに、私の裏切りと私への裏切りについて、想いを巡らさなければならない部分があった」
「彷徨の季節の中で」のページをめくると、いきなり目に飛び込んで来るのが、この前文である。それまでに詩集三冊を上梓して詩人として認知されていたものの、「彷徨の季節の中で」は辻井喬にとって初めての小説であった。処女作冒頭に、このように重苦しく意味ありげな文章が掲げられてあれば、たとえ作者を知らなくても興味を惹かれるであろうに、ましてや小説が作者の実人生に基づいた自伝に近い内容だと知れば、なおさらのことに。

小説発端で「私達、つまり私と母と妹の美也は、私が六歳の時に東京の郊外に移り住んだ」と書き出される土地は、まだその頃武蔵野の新開地だった、昭和8年前後の三鷹村下連雀(註)のことである。「できたばかりの中央線の駅前に、数件の商店が並んでいるだけ」で、「周囲は一面の麦畑で、雑木林や欅の群生が点在し、人々の家はたがいに離れて、林や木立に身を寄せるように建っていた」。「引越しは母の病気と私の健康を考えて計画されたのだと思う」とあるのは、私が生れつき病弱な体質であったのと母親が結核を患い横になっていることが多かったからである。
やがて辻井少年(小説名山野甫・はじめ)と妹の美也は、近接する町の小学校に入学する。「学校に通うようになっても、あまり友達はできなかった」私は、「蝶や蟻や蜻蛉を追い」、「野菜や草花を眺めていると」「時間を忘れた」。「気候のよい日など、母が起上って庭を歩くことがある。すると私と美也は、『お母さんが起きた、お母さんが起きた』と囃(はや)しながら、夢中になってそのまわりを跳びはねた」。
(註・小説とは関係ないが、入水自殺した太宰治が住んでいたことで有名。)

「週に一度、父が旧市内の家からやってくる日をのぞけば、三鷹での生活は、三人だけの、鳥や虫や植物たちの営みに囲まれた、閉ざされた世界だった」
なぜ父親が時たまにしか顔を見せないのか。それは私の母が正妻でなかったからである。
「父が家にいないということで、学校の友達は私を仲間はずれにした。二年生になって間もないある日、〈妾の子〉という侮蔑の言葉を投げた同級生を、私は気が狂ったように撲(なぐ)っていた。(略)その日、XXは本気で怒った私に捕らえられ、教室の入口に敷きつめた玉砂利に頭を何回か打ちつけられて、必死に助けを求めた。授業の開始を告げる鐘の音が、馬乗りになってXXを撲りつけている私の頭上に鳴り響いた。校舎から出てきた女教師が一瞬たじろいだほどに、私の小さなからだには殺気が漲(みなぎ)り、玉砂利には血が流れていた。
ようやくのことで女教師に引離されて、私は声を張りあげて泣いた。暑い太陽が喚(わめ)き叫ぶ喉の奥に焼きつき、校舎の壁がまぶしく白く光っていた。私は抗議がしたかったのだ。その抗議をすべき相手が、家にいない父なのか、病身の母なのか、あるいは私達の上に影を落している大人の世界なのか、私にはよく分らなかった」

「それから数日たって、美也が学校から泣きながら帰ってきた。私はXXに侮蔑されたことをかくしていたが、一年下の美也は母に問いただされて、学校でいじめられてきた経緯を話してしまった。『だってみんな美也のことを〈妾の子〉っていうんだもの』『バカ、美也はバカだ』と私は妹を叱りつけた。『なにを言うのよ、あんたは、そんな・・・』と絶句している母の顔を、私は見ていることができなかった。『甫も美也も、ちゃんとした、士族の、私の子供、なんだから、誰にも、指一本ささせません』言ってるうちに、母は激して叫んだ。『先生に言ってきてあげる』『よしなよ』私は自分でもびっくりするような、きつい調子で言った。母の表情の変化から、私は私達に弱みがあるのを感じていた。この話題から早く離れたかった。『美也、こっちへおいで』『甫ー』と私を呼ぶ母の声を背に聞きながら、私は美也を庭の隅に引張っていった。金魚のお墓を見ようよ」と。
「妾、という言葉が何を意味しているのか、私には分らなかった。ただそれが侮蔑を意味していること、自分には責任のないなんらかの理由によって、私達が不当に侮蔑される立場にあることを、私は感じていた。私が闘わなければ、母もそれと闘うことができないのだ、という発見に私は驚き、緊張した。その頃、代議士をやりながら、事業をはじめていた父は私達三人の生活、郊外での、閉ざされた生活の外側に住む、外部の、大人達の世界の人間であった」

母の呼びかけを無視して、妹を「金魚のお墓」へと誘い出す甫少年は最早、健気さを通り越していけ好かないねじくれた心情を垣間見せている。このおよそ子供らしくない態度には、三鷹の家にやってくる父に「いつもは寝たり起きたりしている」母が、にわかに活気づいて「女学生のように」「華やいでいる様子」を幾度も目の当たりにしていたからである。
この世で唯一の絶対的理解者であるはずの母が、たちまちにして父親と同じ「外部の、大人達の世界の人間」へと様変わりするのである。子供心には不審極まる母の裏切りと映っていただろう。
そのような三鷹での生活も、昭和14(1939)年の中学(旧制)入学の夏に終わる。父親が買収した港区の麻布広尾町(現・南麻布五丁目)の豪邸で親子四人の暮らしが始まったからである。中学入学を控えて私の名前は山野甫から父の苗字である津村甫に変わっていた。母だけが山野姓のままだったのは、別居中ではあったが父には本妻がいたからである。

しかしながら少年の日がそうであったように、父親との同居も甫(私)にとって歓迎すべきものではなかった。それどころか新居における忌まわしい事実の数々は、むしろ甫の心に父親への新たな敵愾心を植え付けたのであった。
それは麻布の家とは別に、品川と渋谷に父孫次郎の別宅があり、そこには「あちらの奥さん」である本妻と、甫の母と立場を同じくする「むこうの奥さん」と呼ばれる女がいて、「むこうの奥さん」には甫たち兄妹より年下の男の子が二人(現実には三人)いることを知るとともに、「あちらの奥さん」に子供はなかったが、「あちらの奥さん」に育てられたという長男孫清(年の離れた甫の異腹の兄)が麻布の家に同居しており、異様な反抗心で父孫次郎とことごとく対立する狂気染みた姿を、幾度も目にすることになったからである。
が、子供のない本妻を遠ざけて愛人を囲(かこ)いそれぞれに子供をつくることなど、津村孫次郎の人生哲学においては当たり前のことであったのだ。「女の腹は借物」とばかりに手当たり次第周りの女を籠絡する孫次郎の無節操ぶりに直面すれば、孫清や甫ならずとも正常な親子関係が保てるとはとうてい思われない。しかしながらこれらのことは小説上の誇張のみではなかったようである。事実そのままではないにしても事実そのものではあったようだ。

自伝というからには、それぞれの登場人物には当然モデルがいる。辻井喬について余り詳しくない人のために、ここで津村孫次郎の正体を明かせば、国会議員にして一代で西武グループをつくりあげた立志伝中の人物堤康次郎その人である。したがって小説の主人公甫こと辻井喬は、かつて西武百貨店を中心にセゾングループ総帥として華々しく実業界で活躍した堤清二(康次郎の次男)の筆名なのである。同様に甫の母は青山操といい、一歳違いの妹は堤邦子のことである。
「彷徨の季節の中で」の叙述のみならず、堤康次郎の女への執着はつとに有名で数多の証言がある。そのひとつが「(康次郎の)嫡出児でない子は十人近くもいたのである」、「認知されていないし、堤家の家系図にもでていない人で、堤の子供であるということが明白な人も、二人や三人ではない」というものだ。
これは戦後に西武グループの専属顧問弁護士をつとめ、康次郎の側近だった中嶋忠三郎の著書「西武王国ーその炎と影」にある。大げさすぎるような気もしないでもないが、全く根拠のないデタラメでもないようだ。その証拠かどうか、この中嶋の著書は平成2年の発売直前、西武側に全冊買い占められ、事実上の発禁本にされたという。
ところが、西武グループの実質上の後継者となった堤義明(康次郎の三男)が商法違反で逮捕されるや、新装版なって再刊行されたという曰く付きの本なのだから(この著書については章を改めて詳述する)。

思わぬ方向へ話が流れた。ともかく孫次郎は、自分の蒔いた種(不身持ち)によって長男(孫清)と次男(甫)の反逆にあうのであるが、これ以後「彷徨の季節の中で」に描かれるのは甫が高校を卒業し、東京大学に入り、左翼運動に挫折し、結核に罹患し、得恋と失恋を経てかつて母子三人の生活があった三鷹の家屋を訪ね、「幼時の記憶という拠り所を捨てて、私の裏切りと私への裏切りを摘発するために私は過去から自由にならなければいけないのだ」と、再自覚するまでの蹉跌の経歴である。

堤清二は昭和2(1927)年東京に生まれている(註)。辻井喬筆名での「彷徨の季節の中で」が発表されたのは昭和44(1969)年であった。その三年前に、堤清二は西武百貨店代表取締役に就任していた。登場人物全てを仮名にしているものの、辻井喬=堤清二だと知っている人たちは、この小説が堤家の内情を赤裸々に描いているのに驚いたであろう。自らの出生にまつわる疑惑にとどまらず、父親の不行跡はおろか一族の骨肉相食(は)む恥部までをさらけ出したのである(堤清二は、この作品で袋叩きになることを覚悟していたと言っているし、実際にその通りの現象が起きたという)。
しかし、辻井喬という分身名で敢えて淫靡(いんび)ともいえる家族絵図を世間に公表することによって、辻井喬=堤清二(かつての津村甫少年)は「私の裏切りと私への裏切りを摘発」し、「過去から自由に」なろうとしたのだと思われる。その意味で「彷徨の季節の中で」は、堤清二=辻井喬において、どうしても(いつかは)書かれなければならない小説であったのである(なお、父康次郎は小説発表の五年前に死去していた)。
(註・同年生まれには北杜夫、吉村昭、藤沢周平、城山三郎などがいる。)

経営者堤清二は西武百貨店を率いながら次々と事業を拡大していく一方で、文学者辻井喬も「彷徨の季節の中で」以降も事業の合間を縫って(註1)、妹美也(堤邦子)及び母(青山操)の物語ともいうべき長編小説「いつもと同じ春」(1983年、56歳)と「闇夜遍歴」(1987年、60歳)を書き継いでいくのである。これらは自伝三部作と呼ばれている。さらにその集大成として、はるか後年になってではあるが父堤康次郎を総括した大作「父の肖像」(2004年、77歳)で家族の物語を締めくくった(註2)。
経営者堤清二と文学者辻井喬ともどもが、それぞれの分野で卓越した評価を得たことは、事績が急速に忘却されていく現代において、それこそいまや知る人ぞ知ることであるのかも。
(註1・上之郷利昭著「西武王国」には「清二を知る詩人の大岡信は、堤清二をおだやかで爽やかな男であると称えながら『しかし、深夜、詩人辻井喬の顔は鬼になっているはずである』と語った」とある。註2・カッコ内は、刊行年と著者年齢。なお「虹の岬」は1994年、67歳の年に刊行されている。)

それでも今日において、どちらかというと辻井喬という仮名よりも実名である堤清二の方が通りがいいのかもしれない。堤清二こそは、1960年代から90年代のバブル経済終焉を迎えるまで、西武百貨店を中心に一大企業集団セゾングループを形成し、数々の文化的事業で時代をリードしたカリスマ経営者であり続けたのだから(最盛期の売り上げは5兆円、関連企業200社、従業員は10万人を超えていたといわれる)。
「不思議、大好き」、「じぶん新発見」や「おいしい生活」(註)、「ほしいものが、ほしいわ」など、今でも耳になじみがある(1980年代の糸井重里の)キャッチコピーとともに、それまで三流デパートに過ぎなかった西武百貨店を(三越を抜いて)売上高日本一にまで改革したのは、まぎれもなく堤清二の功績であった。渋谷パルコあるいはパルコ劇場、セゾン美術館、大型書店リブロ等の文化施設や西友、ファミリーマートもしくは「わけあって、安い」の無印良品などで堤清二の名を今以て連想する人は多いだろう。
苛烈なビジネス戦争の第一線での繁忙の日々を送りながら、深夜の書斎で堤清二はそっと辻井喬に変貌して詩や小説を書いていたのである。それは過去へと幽閉される辛く苦しい忍従の作業であったかもしれないが、同時に堤清二から解放されるひとときでもあったにちがいない。
(註・2011年刊行の「日本のコピーベスト500」によれば、「おいしい生活」は広告コピーとしてベストワンの評価を得ている。)

が、ここからは順序として堤清二の父であり、明らかに文学者辻井喬の誕生を促したと思われる堤康次郎の生涯について述べて置く必要がある。
堤康次郎は明治22(1889)年に滋賀県に農家の長男として生まれた(弟と妹あり。註)。ところが5歳の時に、父親が腸チフスで死去。母親は実家に戻りすぐさま商家に再嫁したので、祖父母の手で育てられた。祖母に次いで祖父が亡くなると、田畠を担保に資金を作り二十歳で上京、早稲田大学政治経済学部に入学。やがて早稲田の創始者で政界の重鎮大隈重信や永井柳太郎などの知遇を得て、大隈が主催する政治評論雑誌「新日本」の編集に携わる。この時の編集同人に恋愛の末、二番目の妻となった川崎文がいた(文は2歳年上で、平塚らいてう「青鞜」とも繋がる日本女子大卒の進歩的女性記者だった)。
(註・室生犀星、久保田万太郎、岡本かの子、内田百閒などが康次郎と同年生まれ。)

最初の妻は西沢コトという遠戚の女性で、二人の間には明治42(1909)年に長女(淑子)が誕生しており、上京前にして康次郎は父親だったのである。のみならず、上京後も早大生でありながら学業よりも色々な事業に手を延ばしていた康次郎には、その過程で知り合った女性(岩崎その)との間にも、大正2(1913)年生まれの長男清がいたのである。
この清が「あちらの奥さん」(川崎文)に育てられた孫清である。清二より14歳年長の清は、清二と同じく東京大学を出て康次郎の会社で働いていたのだが、のちに廃嫡された。その原因が、小説に描かれるように清本人にあったのか、妻(小説名緑)にあったのか、それとも別の理由があったのかはのちに判明する。

堤康次郎は、政治家よりも西武グループの創業者として名前が通っているだろうが、その事業の基礎となったのは大正4(1915)年の中軽井沢開発だったといわれる。
当時、沓掛(くつかけ)と呼ばれていた一帯を中心に八十万坪の土地を買い上げ、別荘地として売り出したのである。買収資金は当時の金で三万円(現在では?億円に)。それを学生服を着た康次郎が沓掛の村長相手に凄んだ、という(尾ひれの付いた)伝説になっている。文夫人が実家から工面して資金の一部を援助したというが(全額という説もある)、不足分はその頃の十円札の大きさに新聞紙を切り揃えて、その上下に本物の紙幣を重ね、それを見せ金にして居並ぶ地主を手玉に取ったというのだから、すでにして詐欺師まがいの大物ぶりを発揮していたわけだ(手付け金だけ先に渡し、残金は別荘が売れるたびに支払う契約だったという)。
この軽井沢の恩義で文夫人には頭が上がらず、長い間別居しながら離縁に踏み切れなかったのか(それとも単に慰謝料を払いたくなかったのか、それとも愛人それぞれから入籍を迫られるのが厭で独り者になりたくなかったのか、それとも・・・?)。

軽井沢開発に見通しがつくと、併行して今度は神奈川強羅に十万坪の開発用地を買収、次々に近辺の土地をも買い増しながら箱根土地株式会社を立ち上げた。これがのちの西武グループの元締め会社コクド(現在は消滅)の前身となる。
関東大震災後には、被害にあった皇族や華族たちの大邸宅を買収、敷地を分割して目白文化村と銘打って売り出し巨利を得ていく。続いて学園都市構想を掲げ国立、小平間に広大な造成地を買い占めるや東京商科大学(現一橋大学)等の誘致に奔走、実現を果たす。こうした事業を拡張していく段階で鉄道網の重要性に気づいた康次郎は、伊豆箱根鉄道や多摩湖鉄道、武蔵野鉄道などを手中にしていき、今日の西武鉄道の基礎を築いていったのである。

甫と美也(清二と邦子)が入学し、級友から「妾の子」といじめを受けたのは、つまり父親が設立した私立国立小学校だったのである。
「その頃、代議士をやりながら、事業をはじめていた父」と小説に書かれているけれども、甫少年が侮蔑した級友を玉砂利の上に殴りつけていた昭和9(1934)年頃は、「事業をはじめていた父」どころか、正確に記すなら〝事業をむやみやたらと拡張していた父〟とでもすべきだったのである。
かたや代議士の方は、大正13(1924)年に35歳で衆議院議員に初当選してから(滋賀選挙区)、戦後の公職追放処分になるまで連続七回当選しているので誤りはない。付け加えておくと、堤康次郎は公職追放解除後に代議士復帰を遂げるや、それ以後も連続六回の当選を果し、その死が訪れるまで通算十三期、三十三年間にわたって国会議員であり続け、事業と政治を使い分けたのである。

「彷徨の季節の中で」では、堤康次郎と清二の母青山操の出会いと男女の間柄となった経緯が次のように描かれている。青山操は明治40(1907)年生まれなので、康次郎より18歳年下だった。
「私の母は九人の兄弟がいた(註)。山野長則が経営していた銀行が破産した時、彼等は親戚に貰われたり、里子に出されたりして一家離散という状態になった。私の母と山野誠叔父が手元に残されたのは、両親が特に二人を可愛く思っていたからではないかと思われる」。「私の父、津村孫次郎が清算人として山野家に現れたのは母が十八歳の時であった」。
「その日は、お父さんもお母さんも、誠叔父さん以外は、山野家にいなかったんですって」、「御大の車に東郊産業の人が乗ってきて、『うちの社長が至急貴女にお目にかからねばならぬ急用が出来ましたので、お迎えにあがりました』って言うんですって。それでお母さんは(ああそうか)と思って乗ったら、車はどんどん走っていって、お母さんが全然知らない鎌倉の淋しい一軒家まで行ったらしいの。さすがに変に思って、それでも入って行ったら御大が一人で座っていたんです。気味悪くなって帰ろうと思っても、もう自動車は走っていってしまったし、第一、一人で外に出たことのないお母さんは、どうすることも出来なかったらしいの」。「お母さんはね、掠奪結婚なのよ」。
(註・「闇夜遍歴」では十一人兄妹となっている。うち姉妹は五人で、操は四女とされている。誠叔父は次男の位置付けである。)

文中の山野長則が士族の家柄を誇る操(小説名山野多加世)の父親。「私が連れ出された時だってあなた黙って見ていたんですものね」と、多加世から愚痴られることになる誠叔父は、そのことに感づいている多加世の反対に接しながら、無抵抗に孫次郎からお手付きの女性を妻にあてがわれる形となっている(むろん小説での話であろうが、この叔父はのちに清二が西武百貨店に派遣された時の支配人だった男で、当時の西武百貨店は叔父の乱脈経営のせいで赤字続きのため、西武鉄道のお荷物的存在だったといわれている。叔父を追い出す格好で清二が采配をふるい、立て直したのである)。

「掠奪結婚なのよ」と母親から聞いたままをしゃべっているのは、妹の美也であり相手はもちろん甫である。また「その頃、私の父は婦人記者をしていた女性(あちらの奥さん)と正式に結婚していた。彼女はもっとも文明開化した新婦人ということで政財界に名を知られていた。それは父の出世にとって好都合な条件であったにちがいない」ともあるので、まだ文夫人に利用価値があったから(離婚することも出来なくて)、「掠奪」するしかなかったというのである。
「掠奪婚」に関しては作中で、やはり美也が「孫清さんのお母さんはね、とても敬虔なカトリックだったのね。なんかの時に御大が彼女を見て、修道院から連れ出してしまったらしいの。そして無理矢理」掠奪した。カトリックでは自殺も堕胎も認められないので、孫清の母は狂死したのだと説明している(が、これは小説的創作で事実とは異なるようだ)。
東郊産業は西武鉄道を意味しているのだが、美也が父親を御大と言っているのは、実際に康次郎が社員などから御大、大将などと親しみと畏敬を込めて呼ばれていた(註)のに習った言い方で、この場合父親との距離感を示している。
(註・社是に「感謝と奉仕」を掲げた康次郎は、西武に「大家族主義」の社風を浸透させていったことにより、御大、大将などと敬称されるようになったようだ。)

何はともあれ、清(孫清)の母(岩崎その)にしろ、青山操にしろ、「むこうの奥さん」にしろ、他の女性にしても御大が力ずくで貞操を奪ったことは確かなことであったろう。完全な合意の上で事が運んだのは、もしかしたら最初の妻(西沢コト)と二番目の妻(あちらの奥さんである川崎文)のケースだけであったのかも。
なお、西沢コトとの間に生まれた長女淑子は西武鉄道社員と結婚。淑子の夫はゆくゆく社長に引き立てられ、のちには清二と敵対する様子が自伝三部作に書かれている(ただし淑子自身は登場しない)。このことは妹の邦子が、康次郎の強引な計らいで同じように西武鉄道社員と再婚して、夫が幹部に昇進していくのと符合する。

母多加世の「掠奪婚」の話の後で、妹は兄に重大な秘密を打ち明ける。すでにこの時、戦争は終っており、兄妹は「掠奪」された母の年齢に達していたと思われるのであるが、妹は言う。「甫兄さん知ってると思ったわ、本当の子供なんですもの」。
美也は、母「掠奪」のいきさつを多加世の本当の息子である兄は当然知ってるものだと思っていた、そして自分は父親が別の女に生ませた子なのだと主張するのである。
「美也だって、本当の子供じゃないか」、「孫清さんの話は嘘だよ。彼はいつも自分と同じような不幸な状態に周囲の人を引摺り下ろしたい情熱に駆られているんだ」と甫が反論すると、「いいのよ、それは」とさえぎって「美也が淋しそうに私に答えた。本当の母親が誰かなどということは誰にも分らないんだし、分ったところで仕方のないことなのだと考えている、幾分投げやりな調子だった」と地の文があって美也が言う。「でもね、考えてみると、お父さんはかわいそうな人よ。狡(ずる)い人ならもっとうまくやったと思うのよ。子供の頃、生母と生き別れしているでしょう、ずっとマザーコンプレックスから抜け出せなかったんじゃないかしら」。娘の美也は甫が驚くほど父親に同情的なのである。

このような情報を吹き込むのは、会話にあるように孫清(と緑の夫婦)なのであるが(緑は美也の友人の姉であったのを、美也が見込んで孫清の嫁に紹介した設定である)、これは実際に兄妹でこういう会話を交わしたことがあったのか。それとも辻井喬の創作だったのか?
というのも、この小説には最初から私(甫)が、自分の出生を疑うような場面が挿入されているからである。
それは「戸籍謄本にある私の生年月日は昭和2年2月10日で(註)、出生地は品川区上大崎十二番地となっているが、脳裏に残っている幼児の印象の切れ端が、出生地で与えられたものかどうか分らない」と書き始められ、「蛇の目傘を斜めにさした女の人が私の視界を遠ざかってゆく。その女性が私と関係のある人なのか、それを見る私が母に抱かれていたのか、その時、私の側に母がいたのかどうかも分らない。足下の腐った杭にぴたぴたと水が打ち寄せていたことだけが印象的である。こうした光景のどこまでが本当に体験した場面で、どこからがあとになって附け加えられた光景なのかさえ区別できない」とされている。
(註・戸籍上は昭和2年3月30日生まれ。妹邦子は昭和3年2月20日生まれである。)

この記憶の光景は、「あなたの本当のお母さん」は「もと芸者さんで、今は深川の方で花屋さんをやっているという話よ」と、緑に言われた時にも「私の目に茫漠とした水が拡がり、霧のような雨が降るなかを、蛇の目傘を斜めにさして若い女が歩いてゆく光景が浮んで」くるのである。
それはまた「私は母に抱かれて寝たことがない」という記憶を伴って(しかしながらこの記憶は、母が「胸を病んでいたからだろう」と半ば肯定できるのではあるけれども・・・)。
つまり妹が、自分は母の本当の子ではないのかもと本心を漏らした時、即座に打ち消したけれども、兄自身も潜在的疑惑をずっと引きずっていたのである。
「彷徨の季節の中で」が発表されて随分と経ってからではあるが、この時の甫と美也の疑惑についての、次のような証言がある。
先に自伝三部作「彷徨の季節の中で」「いつもと同じ春」「闇夜遍歴」について述べたが、一区切りとなる「闇夜遍歴」は昭和62(1987)年に文芸誌「新潮」の五月、六月、七月号に分載された。
ところがこの連載が終るのを待っていたかのように、「わが堤一族、血の秘密」と題された記事が「文藝春秋」八月号に掲載されたのである。そこには目を疑うようなことが書かれていた。以下、その文章から抜粋する。

「私が初めて、操夫人と会ったのは大正九年三月頃、倒産した東京土地の社長青山芳三氏のお宅でのことでした。操さんは当時十四歳。倒産ののち零落(れいらく)した青山家は荒れはてたバラック建てでしたが、そこに四人の姉妹がいたのです。その三番目が操さん、りりしい顔立ちの美しい女性でした。倒産したのち、先代(康次郎のこと)があとをひきうけたため、先代は青山家で好き放題の状態でした。まず、操の姉を口説き、ついで妹を口説いたのです。
そんなバカなと思われるかもしれませんが、先代はそういう方でした。よく言えば、〈英雄色を好む〉、そのことにかけては手当たり次第なのです。四姉妹の父、青山芳三氏は三菱に連なる名族だけに紳士です。一方、先代は野育ちで粗野。お嬢さん暮らしが、急に零落ーという立場になった姉妹には、康次郎が〈男らしく〉〈たのもしく〉見えたのかもしれません。何年かのち、二人ともあいついでみごもりました。
が、先代が一番めをかけていたのは、実は操でした。操は気丈で、なかなかうんといいません。が、先代もあきらめません。何年もかけて口説きました。全く無力化した父親、姉妹すべてが〈愛人化〉する家庭、抵抗しようにも、財政のすべてを握られているーこういう状況のもと操はある決心をしました。自らは子供の出来ない体にした上で、『あなたの言うことは聞きますが、東京ではイヤです』と言い放ったのです。『では、鎌倉へ行こう、別荘がある』『もう一つ条件があります。姉と妹は手放して下さい。そのかわり私が子供を引き取って育てます』操が身をまかせたのは鎌倉の腰越の別荘でした。
おわかりでしょう。姉の子が清二さん、妹の子が邦子さんなのです。二人の年齢は大変近い」

著者は85歳の上林国雄、明治35年生まれ(康次郎より13歳下、操より5歳上である)。康次郎記事掲載時の母方の従弟に当たり、19歳から康次郎に仕えたと紹介されている。先代とあるのは、とうに康次郎は鬼籍に入り、西武グループは清二の義弟堤義明に率いられていたからである(操も三年前に他界していた)。
いわば死人に口なしという時期に書かれた(操の姉妹たちがどうであったのかは不明)、この暴露記事がまことしやかなそれであるのか、はたまた側近だけの知る極秘のそれであったのか、まさに山野甫(辻井喬)の原体験に出てくる「蛇の目傘を斜めにさした若い女」の記憶の正体であったのか、もう確かめる術はないのであるが(註)。それにしても抜群のタイミングで発表されたものだ。
(註・この記事に対して、関係者がどのような反応を示したのか一切不明。肝心要の堤清二は緘黙したままだったようだ。なお記事掲載時、還暦を迎えていた清二はセゾングループ代表職にあり、妹邦子はパリに永住していた。)

康次郎と川崎文の結婚は、軽井沢開発に着手した最中の大正4年。上林国雄の記述が事実とすれば、恋女房にあれほど用地買収資金の世話になりながら、早くもその五年後には青山姉妹の成長に目をぎらつかせていたことになる。肝腎の文夫人のことはこう記されている。
「文さんに対して、先代は日に日に冷たくなりました。第一は子供ができなかったこと、第二はインテリのためか性に淡白であったことが原因と思われます。そして決定的だったのは、先代から花柳病をうつされたことでした。大正12年ごろのことです。
・・・先代はあいもかわらず商売女とおさかんな毎日を過ごし、花柳病(註・性病のこと)に感染したのです。日を経ずして、文さんもうつされ、片足が不自由になりました。赤坂の整形外科医XX博士の手術で、治りはしたものの、正座することができず、片足を出して座るような状態でした」
このような状況の中で文は、康次郎の長女淑子と長男清を育てたというのである。

さらには、「彷徨の季節の中で」を引き合いに出して小説中の描写、孫次郎が郷里から呼び寄せた女中たちに片っ端から手をつけたり、孫清の妻緑に「わしの子を産め、二人産め、今産めばわしのか孫清のか分らないー」と迫ったり、娘の美也から「それなら伺いますが、今年の夏、箱根でお父さんは私に触ったでしょう。風邪を引いて私が看病してあげた時、御自分の娘にーあれも報恩感謝なんですか」と痛烈に言わしめているのも、上林国雄によればどれも本当のことだと証言している。
女中の件は、康次郎の好みのタイプや性癖を知っている操夫人が積極的に康次郎をそそのかしたのだ、と。なぜ操夫人がそういうことをしたのかというと、康次郎への凄まじい復讐心からであったと説明されている。

操夫人はその復讐心を満たすために、自らあられもない挑発的なポーズをとったりして康次郎を誘惑して文夫人を追いやり、しばしば麻布の邸宅で要人接待の宴会を催し、デパートガールをその手伝いに呼び寄せては康次郎好みの女を仲介していたばかりでなく、その極め付けが清の嫁だったという、まさしく衝撃の告白である。
「当時、先代は前立腺を患っていて、管を使って排尿している状態でした。その世話を清さんの嫁にさせたのです。先代がどういう人かを知っていて、〝前〟の世話をさせたのです。先代は『操なんかよりいい』と言い出す始末、清さんとしては、〝危機〟だけに耐えられぬ思いだったと思います」
この後、清は父親に逆らうような言動ばかりするようになり、「西武の取締役にまで若いうちに精進しながら、いつのまにか、近江鉄道社長、そして朝日化学肥料の部長へと左遷されていった」のだと。

「以後、清さんは、ある意味で平穏、ある意味で、おびえきった生活をされています」。「実は、清さんの生母は八十八歳の長命で亡くなられました。他界される二十日ほど前まで、私も話をした仲なのです。何度も『清に会わせて』とおっしゃっていました。が、この件を清さんにご連絡しても『何も話すことはありません』と電話をガチャンときる始末。
一族の傷は深いのです。大企業のトップでありながら、私的な小説を自分を傷つけるように書きつづける清二さんもある意味では犠牲者かもしれません。邦子さんもそうでした」と言って、上林国雄は上記美也の言葉をあげて、「私もこれに近いことをきいて唖然としました。邦子さんがパリに出奔するはずです」と記している。

また、上林国雄は康次郎の母のことをこう書いて文章を閉じている。
「先代の母、みをは、私の父の妹でした。私が父に聞いたところでは、みをの義理の父、つまり、先代の祖父が、先代の父・猶次郎が死んだのち、みをにしきりに手を出そうとするので、逃げ帰ってきたというのです。北海道の兄のところまで急使を出して訴えたといいますからまちがいありません。当時の北海道にくるのは大抵のことではないのです。みをはその後も、康次郎兄弟のことが忘れられず、落ち着かなかったといいますから、決して、母であるみをが悪いわけではありません。堤家の血の問題はまだまださかのぼれるのかもしれないのです」

上林国雄が筆をとったのは、かつての大西武が清二と義明の二つのグループに分かれ、激しく競争しているのが歯がゆかったのでもあろう。その原因を作ったのは、ひとえに操夫人にあったのだと言いたかったようである。文夫人(あちらの奥さん)や義明の母(むこうの奥さん)には同情を寄せながらも、操一人を復讐の悪鬼に見なしているのだから。
その操の母親は大正11年に病死、操が大好きだったという父親青山芳三の死は、翌12年に起きた関東大震災後まもなくの割腹自殺だった、と上林国雄は書き残している(だから操が、いじめられた美也と甫を前にして士族の末裔だと強調したのでもあったろうか)。
操が四人姉妹だとしたら(五人姉妹という説もある)、引用文の一人足りない姉妹は、「彷徨の季節の中で」や「闇夜遍歴」にも登場する三菱の役員になる男(荘素彦)のもとに嫁いでいた長女(もしくは次女の)雪子だと思われる。

このような生い立ちと環境のもとで生きれば、子供はもとより誰とても「人間関係の亀裂」と「災いの影」とで常に心は蝕(むしば)まれ、「懐かしい思い出」さえもが「侮辱」にまみれて、「人間が生きながら味わわなければならない辛さ」へと褪色(たいしょく)していっただろう。思い出はただの記憶となるまでに。
堤清二(山野甫)がそうだったように邦子も、操も、義兄の清夫婦も、あるいは義弟の義明兄弟たちも、そして当然、「あちらの奥さん」と「むこうの奥さん」も。・・・ただ一人の男を除いて。
     怒つたり悲しんだりして/私の掌には/一握りの白い塩が残った
     風琴の音や魚の臭いがする白い塩は/碧い波濤の末裔/
     輝かしい夏の記憶もあれば/ 時として貝殻の色を放つ
     白い塩は苦い/人々が「人間の悲哀」と呼ぶ衣裳にくるんで/
     谷へ捨ててしまえば/それは「自由」と言うものだー。
     私は罅(ひび)割れた大地に立つて/白い塩を握りしめる/
     苦い味わいを味わうために
                                           (辻井喬第一詩集『不確かな朝』より)


(以下、「彷徨の季節の中で」(2)につづく。)