毎年夏になると、浅間山麓の北軽井沢にある山荘で一人過ごす習慣となっていた野上彌生子が、昭和10(1935)年の夏に夫豊一郎の見送りを受けて、上野を発ったのは7月5日の朝であった。
その翌日の日記。
「孤独と静寂の生活がはじまつた。東京のあの気忙しくあはただしい明け暮れが千里の外にとんで行つたのが、なにか奇妙にさへおもはれるほどである。
食事は一日七十銭で木村から三度運ばせる。一と月に二十四円あれば暮らして行けるわけだ。こんな簡素な且つ経済的な生活法があるだらうか。東京での一度の自動車賃ですむのである。
なにをもがき苦しんであのガソリン臭い東京にゐる必要があらう。
朝のうちは少し書きものをし、午後にはうちや河合氏や平塚さん湯浅さんなどに手紙をかいた。松屋にも菓子を注文した。

夜は『思想』(岩波書店発行の雑誌)その他をよんだ。中さんの相変らずの生活。今の私にはおちついた親しさでよんでゐられる。人のこゝろはほんとうにおもしろく変るものだ。それでも死ぬまでに逢へたら嬉しからう。あんまり年をとり過ぎてはいやだけれどー私のこんどいつしよにのつてゐる随筆をあのひとがどんな顔をしてよむであらうかが好奇的に思ひめぐらされる。私があのひとをおもふやうに、ながい親しい思ひでの人のものとしてよんでくれるならうれしく思ふ。それにしても、あのひとには幾人そんな女のひとがあるだらう。かう考へても妬ましくも、なんともないのだからいとも長閑(のど)やかである。今の唯一の願ひは、この気もちのまゝで、時々逢つて気楽な話でも出来たらと思ふ事だけれど、それは許されないであらう。

(・・・略・・・)ーこの部分後述。

それにしても私たちがあれつきり逢はないのはーあの時九段で出逢つた時の彼は決して冷やかな彼ではなかつた。あの後電話で話した時も彼は優しかつた。なんともわるく思つてはゐないとさへ云つたのだ・・・彼は私の贈ものを、紅雀を籠に入れたのだ、私からと知つてゐた。さうして有りがたうと云つたのだつた。ー思へばもう何年まへになるだらう。渡辺町に越してのあとであつたから、まだ十年とはならないかもしれぬ。
もしそのまま逢はないで死んでしまつたらー私の唯一のこころ残りであらう。さうだとも。私たちは逢つて昔話をしあつても決してさし支えないわけだ。それが出来ないのがかなしく腹立たしい。しかしよの中には同じやうなすくせにおかれてゐる人がいかに多いであらう。
かうしてひとりこの山にゐる時、もし突然彼があらはれたらーかういふ空想は私をもう一度あの二十代に押しもどす。人間は決して本質的には年をとるものではない気がする。九十の女でも恋は忘れないものではないであらうか。
私のこの秘密を知らなければ、私をほんとうに解する事は出来ない」(S10、7、6)

このとき彌生子は50歳であるが、「あの二十代に押しもどす」の部分を読むと例の勘助への告白は、やはり結婚後と考えるのが無理がないのでは。年譜では(明治女学校に在籍のまま)20歳の夏に実質上結婚したとあるのだから(と、またまた結婚後説に後戻りするのであるが)。
それはさておき、偶然街で出会った勘助は自分を拒否したあの時の彼ではなかった、それが嬉しくなって紅雀を贈ったのにも彌生子からだと敏感に気づいてくれて、それにも素直に礼を言ったというのである。
実らない初恋(の思い出)は幾つになっても常にみずみずしく振り返れるという見本のような文章である。

彌生子と勘助は、彌生子が二十代にの頃に別れて以来、四十代になるまで一度も会ったことがなかった、その機会はあったけれども夫豊一郎の猛烈な嫉妬心に阻まれて諦めざるを得なかった、それは九段での偶然の再会以後も同様だった、そういうことだったようだ(勘助と豊一郎の行き来も次第に薄れていたか、ある時点で完全に無くなっていたと思われる)。
ところがこの夜の空想は思いがけない形で現実化し、「昔話」をする機会に突然恵まれたのだから人世は分からない。
「午後中勘助夫妻が見えて、丁度他の弔問客ともかちあはず、一時間あまりゆっくりして行つた。中さんにもう一度逢ふ瞬間は、三十年代四十年代五十年代を通じて私にはいろいろなかたちで考へられたものであるが、それがこんな自然さで果されようとは思はなかつた。奥さんは想像してゐたより素朴な善良さうな方で、中さんも幸福であらう。(略)

もし野上の生前にこれが出来たら一層よかつたらう。それは残念ながらかうした接触はもう彼とても咎めないに違ひない。とにかく彼の死はある意味で彼が長年私に与へなかつた解放であるが、それが斯くまで完全になされたことは私以外には誰にも感じ得ないものである。中さんは年とつたでせうとそれを早くもきいた。白髪のこわい毛をわけ、眉も半分白くなつてをり、顔もまへより細面になつていかつい。もとに変らないのはその眼つきと少ししやがれ気味になる音声で、さうして耳が遠くなつてゐる。これはむしろ意外なことであつた。奥さんと入れ代はつて私の横にすはつたが、それでも張りあげ気味な声を出さないと聞えぬらしい。これでは昔の私たち二人のひめごとなどしめやかに語ることは出来ないわけだと思ふと、なにか微笑ましく、運命の皮肉を深く感じた。さうだ運命は私のひそかな祈念を納れて私たちをめぐり逢してくれた。しかし決して人に聞かれてはならないやうなことは語らせないやうにしてくれたのだ。父さん、だからあなたも私の交際を復活させて下さるでせう。なにもかもなんとよい形に解決させてくれたのだらう。これもすべて野上が死によつて私に示した愛であり、何十年と私を苦しめた、誰も知らない彼の罪の宥(ゆ)るしのすがたであらう。帰る時、あなたもゐらつしやい、と彼はいつた。いづれその時もあるだらう。すべて自然に任せて暮らさう」(S25、3、14、彌生子も勘助も64歳)
昭和25年2月23日、豊一郎は法政大学総長在任中のまま脳溢血で急逝、66歳であった。それを知った勘助の悔やみ状に、彌生子が霊前にお参りにきて欲しいと返信していたのである。

今度は彌生子が勘助宅を訪問する。
「お早昼をすまして中さんのところへS(長男)と同道にて行く。(略)奥さんの(中野の)実家に二人とも未婚で住まつてゐる妹さんたちと同居生活である。(「銀の匙」の)水道町の邸などに比べれば昔に変はるわび住まひに於て家にある彼をはじめて見るわけである。しかし二階の茶室ふうの一と間は趣ふかく整ひ、(略)Sとはほんの赤ん坊のころいつしよにお芝居に行つたおぼえがあると語り、今の面ざしに当時の幼顔を辿るふうに語つた。Sはすぐ暇乞ひをして、私は三時過ぎまでゐた。奥さんは今日はお習字のお弟子が一人来る日でちょいちょい座を外づされたが、そのあひだの私たちの話は普通の客と主人の話しあふことに過ぎないが、それでもその底にこもる調子に秘めたものは彼と私だけに分かることである。二人の接触をこれ以上にしないことが大切である。それにはもう少し若くても、年をとり過ぎて逢つてもいけなかつたといふ思ひを今更に新にする。(略)こんな事も今度のT(豊一郎)が私たちに与へてくれたものであることに深い宿命を考へさせられる。買物に出掛ける奥さんとつれ立つて、桜のはなの散りしく門でお暇乞ひをする私を、彼は玄関でキチンと座つて見送つてくれた」(S25、4、10)
彌生子はこの日、香典返しの口実で参上したのに、長男が心配して付き添ったのである。勘助が長男と観劇していたということは(当然彌生子も一緒だったはずで)、例の告白がすでになされていたとすればあり得ない光景だろうから、結婚後とする根底が崩れるような気もする(まさか万世と同じケースでの告白?さらにあり得ない想定だろう)。また、水道町の邸に彌生子はいつ行ったのか?告白の時期は益々結婚前に傾いていきそうであるが。

日記特有の大胆な記述もみえる。
「中さんの奥さんに手紙を書いた。ほんとうは彼にあてたやうなものだ。もとは彼が野上あてに私に書いた。おかしなことだ。しかしこの感情は淡々としめやかにほの暖い春風のやうなもので、おたがひをも、また他をも傷けもせず傷めもしない。何十年のあひだの貯蔵でもたらした葡萄酒の味である」(S25、8、2、65歳)この記述も結婚後説を補強するものではなかろうか。
翌年3月には、「この数日まへ中さんに出したハガキの返事がとどかない。家のもめ事の種になりはしなかつたかと少し案じられる」(S26、3、9)とヤキモキしたが、それが勘助の皮膚病のせいだったとわかると、彌生子はその返事を、ユーモアのつもりでハガキ二枚に書いて送り、「ハガキが公明正大で一番よい」(S26、6、19)といってのける(これらのやりとりからも再会がもたらした女心の高揚感が透けて見える)。
とまれ、こうして交際は復活した。明けて昭和26年、彌生子は夏の半年間をひとり籠って執筆に過ごす北軽井沢の山荘に、勘助夫妻を請ずる算段をすると勘助もそれに応じるのである。その「祭典」の一部始終を日記と手紙から拾う。

「夏はごたごたいたしますので御出で下さるなら九月にいつての方却つてよろしうございませう  その頃は松虫草やりんだうが歩々花を拾ふといふ形容詞通りにさきます。私がいらつしやいましとお誘ひする以上あなた方がいらしつてよかつたと思はせないでお帰しは致しませんから安心しておでかけ下さいまし  中さんは昔からつむじ曲がりだからいらつしやいと申さない方がいつそ腰をあげるかもしれないと考へたりもします。もうそろそろ素直におとなしく人のいふ事をきいてもよい頃でせう  私は反対に若い頃あまりおとなしく人のいふことをきいたからせめて死ぬまでの我儘としてつむじ曲がりにならうとしてゐるところです。ほととぎすがうるさいほどなき下の渓流が淙淙(そうそう)とうたつてゐます」(S26、7、24、66歳)
これは宛名を中夫婦連名にしてある手紙文であるが、彌生子がかなり積極的な誘いかけをしていることがわかる。「銀の匙」後篇の原題名がやはり「つむじまがり」だった。彌生子はよくよく勘助の性格を飲み込んでいたものとみえる。

二人の来山を知らせる中和(子)からの手紙は9月1日に届いた。それを受けての日記。
「勘助さんは私のこのまへの手紙で来る決心をきめたに違ひない。思へば私たちのかうした交情は世にも珍しいものであらう。せめて途中で一度でもめぐり逢へたらと念じてゐた彼を、この山荘の客として招く日が来たことは、小説以上のロマンスといふべきである。而かも私の今の心では彼が奥さんと来てくれるのが、ひとりで来るよりいつそ気持よく、おちついたたのしさで待たれる。これは恋以上の恋、友情以上の友情であらう。うれしいが淡々として透明になんらの濁りも翳りもなく、この美しい自然で彼を悦ばせ、私の安らかな隠棲生活を見せて悦ばせ度いのみである。彼にも私の気もちが分つてくれてゐればこそ出掛けて来るのであらう。慾には野上も無事で私たちの気もちを理解してくれて彼を迎へるのならどれほどよかつたらう。さうしてまた和子さんに私の気もちが率直にうち明けられたら。ーしかしそれはまだ危険なことだ。

とにかくかうしたよい条件で再会される幸福はめつたにありえない。またもう数年も遅かつたら私はもつともつと老ひさらばつた姿になつてゐたかも知れないから、かうした面会も味気ないだらう。私は老ひてはゐても、彼に逢ふのを避け度いとおもふほど見すぼらしく老衰してはゐないと思ふ自信がある。四十年の歳月は思想的には彼と私のあひだには大きな距離をこさえてゐるかも知れない。彼の芸術についても、人生の歩みについても全般的に肯定はしえない。しかしそれは私たちふたりが若い時代にもつたあの過去にとつては、なんらの故障にもなりはしない。ことに私の一生の行動と情感は、その一つの秘密を摘出しないでは誰にもわからないほど、それは私を左右したものであるから。しかしプラトニックであつたことが、この愛をこれだけ成長させ、深化させ、昇華させたのであることも忘れまい。
ゲーテのマリエンバートの哀歌によつて、七十のゲーテになほこれほど若い情熱が迸(ほとばし)つたのをひとは驚ろくが、私にはいとも自然にさへおもはれる。同時に私の情熱は私のこころを若々しくはゆすぶるが、決して困るほどには燃えあがらせず、ほのぼのとして春の温まりのやうなしづかな歓びにとどまるのも、うれしいことである」(S26、9、1、66歳)

彌生子の誘いに応じる決心を勘助にさせたに違いないという手紙は、「あなた方を秋にはお迎へするつもりで離室の畳もかへてきれいに致してあります・・・山はすでに秋風颯颯(さつさつ)です(この後、ヤマメなど食膳の話題などが語られる、略)」(8月27日出状)の文面。畳替えまでして準備を整えていると聞けば、さすがのつむじ曲がりももう否応など言ってはおられなかったであろう。
和(子)代筆の応諾の知らせを受けて、彌生子は山荘までの道順、交通便あるいは気を使わせまいとしての持参品を含めての注意点を事細かに記して早速返信する(9月1日付手紙)。と、またそれの訂正、追加文を和(子)宛に出状(9月3日付速達)するという慌ただしさの末、7日に「中さんより九時の汽車に乗車のデン(ポウ)来り、松井(お手伝いの女性)を迎ひに出す。バスにてつく。
離室(三畳と七畳に炉辺があった)におちついて頂く。ヤマメの旨煮とナスのしぎ焼におみおつけにていつしよに晩食をたべる。夢にはどうかして考へたことが、現実になるとはほんとうにおもひもかけなかつた。別に興奮はしなかつたつもりなれど床につきて後、終夜不眠に近いまゝ明けた」(9月7日、日記)

「朝食後もおもひいで話さまざまに時を過す。ショウギのルールを教はる。チェカ(註)を一番戦はす。私の午前の日課が珍しく中止されたわけだ。しかし四十年からのめぐりあひの為には、これ位はよからん」(9月8日、日記)
「今日も執筆は中止、私の生涯で曾つてない祭典のためとしておかう。・・・がおもちをとどけて来たのでおヒルはそれをやいて食べる。中さんは生醤油、私たちはおサトウを入れて。午後は徳爺ヤマメをもつて来たので、中さんを呼びおろして彼にも見せる(離室は山荘から二十メートルほど離れていた)。夜はそのヤマメのソテにジャガイモの粉ふき、こんにゃく油煮のおツユ。
食事のたびに話いろいろはづむ。彼は子供らしく自分の過去の作品について語り、またファンの手紙などについても語る。私はそんなことは到底しない。彼との相違が客観的に若い時よりも一層はつきりするし、また彼をも客観的にながめられる。私がこれほどの親愛を彼に今なほ保つてゐるのは自分の若い過去への一種のノスタルジヤでもある。和子さんがよい趣味をもつて画や美術や、能について語るのは気持よい」(9月9日、日記)
(註・チェカとはどういうゲームなのか、不明。まさかチェスではないだろう?)

ちょうどこの9月8日、吉田茂首相はアメリカに渡りサンフランシスコ講和条約に調印していた。ここで一服がわりのエピソードを並べれば、吉田首相の息子、文学者となった吉田健一の媒酌人を務めたのは野上夫妻だったという。この昭和26年1月には彌生子が唯一親しくしていた宮本百合子が、そして6月にはその頃超売れっ子作家になっていた林芙美子がいずれも急逝している(この三人や下段に述べる富本一枝のことは辻井喬「彷徨の季節の中で」でも取り上げたけれども)。
以来、野上彌生子は宮本百合子の祥月命日には、自らの命がつきるまで必ず花束を届けたという。ここにも勘助に対すると同じような野上彌生子のたぐいまれな持続力が垣間見られる。なお、そのお返しとして百合子の夫だった宮本顕治も豊一郎の命日には献花を欠かさなかったという。

さて、翌日の日記で何故、安倍能成が彌生子の秘密を知っていたのかが語られる。
「入浴後ちょっと離室に出掛けて見る。彼は部屋の中に毛布をしいてごろ寝してゐた。和子さんは私のあとでまだ浴室である。ちょっと二人の過去にふれて語った。彼が来るからなににつけて私のことを果報だと口癖のやうにいふが、もし私が果報ものだとすれば、四十年後にこんな好ましいかたちでめぐり逢つたことだ。ーといつたら、私もさうだと答へた。さうして二人して和子さんのよさを語つた。炉を中にして私はキチンと座り、彼もキチンと正座しての話である。ほんのそれだけであつた。それでも私がいはなければならないことはいつた。彼はまたあの時安倍などに洩らさなくとも、自分でいへばすむことを、若かつたから下手なことをしてあなたにすまなかつた、といつたので、いや、それによつて安倍さんは私の友だちに今もなつてゐるのだ、と私は答へた。やがて和子さんが戻りなすつたので、彼女を加へて、富本一枝さんのこと、(伊藤)野枝さんのこと(註)の昔話になつたりした。野枝さんの不幸な死を語る時、私は思はず涙を落した。野枝のためにそれが流されたものか、それとも私の〈過去〉のためであつたか、それは分らない。
(註・二人とも「青鞜」のメンバー。)

かうして数日逢つて見れば、彼と私との違つた道もますますはつきりするし、彼が自分の作品についてのみ語り、いはゆるそのファンにとりまかれて自己満足してゐる心理にも深くあき足りないものを感じさせる。が、それはそれとして、とにかく彼は若い私の苦悩の原動力となつていた存在であることは事実だ。今それを客観視されることは私の成長と進歩である。実際、私は彼を彼としてでなく、一人の女の夫として迎へながら、実になんらの妬ましさも感ぜず、淡々としたおもひでその重大な変化に対することが出来てゐるのはよいことで、たのしいことだ。同時にまたそれほど心が老いた為でもあるから淋しいといへば淋しいわけだが、その淋しささへ感じない。逢はないでいろいろと過去の夢でロマンテックにされるより、かうして逢ひ、その〈過去〉へはつきりピリウドをつけたのはよいことであつた。私はこれからはもつと淡々と彼をおもふことが出来るだらう。が、それは水が無味なやうで味があるにひとしい情感ではあるが」(9、10、日記)

9月11日は、講和条約の記述のみ。
「十時十分の電車で中さん和子さんたつ。私は裏口までしか見送らず。・・・彼は私の歓待に心から悦び満足してたつた。正しくいへば、私は私の四十年のむかしの〈過去〉を歓待したわけでもある。この長い月日は彼のあたまを白く、肉体的にも腰の痛みをいひ、歩行の自由でないのをいふ老人に彼をしたやうに、私たちを別な世界に引き放してもゐるが、しかもなほ彼を考へる時、私はつねに二十二三の若い私になる。さうだ、彼によつてのみ私がさうなる意味に於て、私にはかけがえのない存在であることはたしかだ。しかし部屋に戻つてひとりになつて見ると、やつぱりなにかほつとした疲れを深く感じ、ほどよい頃に彼を去らせたとおもはないではゐられなかつた。野上はなんとしても私を育て、成長された人である。さうして彼は私を今日まで貞潔に守つてくれた異性であらう。また安倍氏は私にもつとも深い友情を教へてくれた人だ。日本の社会では一人の女がこんな異性と三様に親しむのは稀有なことであらう」(9、12、日記)
こうして常ならぬ五日間の祭典は終わった。翌13日、「今日から離室に移る。この雨でなくて、昨日の美しい晴れの日に彼らをたたせたのはなんとよかつたらう」と、あるので急に天気が崩れたようだ。14日は美しき晴れ「執筆」と記され、山荘に日常が戻った。(上記傍線部分は結婚後説の一例になるだろう。)

「拝復・・・でもほんとうにようこそいらして下さいました。御礼など仰しやる必要はございません  私がなにかおもてなし致したならそれはむしろ私自身の青春に対して致したわけにもなりますから、染井の生活をおもひあなたやら安倍さんが若々しい大声をはりあげていらして下すつた時代を思ふ時私は常に年齢をふみこえて二十年代に後戻りすることができるのですから。年をとるほど過去は貴重になります。が、その過去をこれほど美しく高貴に生かし得る人間はさう多くはないと信じます。たしかに私を育て成長さしたのは野上です。貞潔に世に生きることを教へ守つて下すつたのはあなたです。友情の尊さありがたさを知らせてくれたのは安倍氏です。慾には野上が無事にあなた方を迎へられたらと存じますがそれは天上界の望みと存じます。それからあなたの芸術の世界はますます私とは違ふものになるでせう。思想的にも世界観的にも異なるかも知れません。しかし過去の思ひ出を中核とする時私たちは常に同列に並び説明なしに同じ悦びを悦び同じたのしみをたのしむことが可能と信じます。私は世間でそれときめているほど幸福に生きたわけではありません  しかし今日においては私はその評価を肯定しませう。

お立ちのあと雨のみで一昨日だけ晴れました。その間に田辺夫人が逝去され私はすつかりその宰領をしました。経かたびらというものもはじめて縫ひました。今日は告別式です。午後からまたその世話に出かけます。思へばこれも深い宿縁でせう。今度は一緒に引張りまはしてあげられるほど元気になつてゐらして下さい。私が話してゐるうち青い顔になるのは山の生活の三四ヶ月分もおしやべりするからでせう  私は終日ほとんど十数言とは口をきかない生活ですもの。それに黙つてゐましたが夜ほとんどよく眠らなかつたからです。私は悲しい事があつても嬉しい事があつても同じ量ほど神経的に作用されるのです。その点精密機械に等しいのです。・・・奥さまがあんな乱暴なホスピタリティに厭気がおさしにならずよい休養ができたと仰しやつて下さるのが嬉しうございます。どうぞあなたもあまり気むづかしやさんにならないで大切になされておあげなさいまし・・・」(9、19、夫婦連名宛書簡)

ちょうど一週間後、勘助夫婦の礼状への返信である。この文面からも、告白は結婚後にされたのでは?という憶測にかられてしまうのであるが。
告白が豊一郎と交際中の心変わりだったのなら(実際のところ、結婚したのも東京に残って勉学を続けるための手段であったというのだから、元々豊一郎への恋情は薄かっただろう)、豊一郎も惚れた弱みで受け入れざるを得なかったであろうが、結婚後の打明けだったとすれば、恋女房の裏切りに豊一郎が怒り嫉妬するのも最もな事ではなかったか。豊一郎の狭量だけを責めるわけにはいかない(日記には豊一郎の浮気も記され、彌生子はそれに対して柳眉を逆立て豊一郎を責め立てているのである)。それでいて彌生子の日記からは根本的な自己反省の言葉は皆無で、痴話喧嘩の原因を豊一郎側の性格的欠陥のみに帰し嘆いてばかりいるのはなぜなのか?
これまでの日記と書簡の記述の間に齟齬も見られず、彌生子の性格に表裏があるとはとても想えないので、益々不思議である(ただのカカア天下でもなさそうであるし)。

公平を期すため(彌生子の名誉のためにも)、ここに山荘で豊一郎を送る場面の日記があるので、それを。
「父さんの来山中は独居のやうに行かぬ事は十二分に覚悟してゐる事ながら、実に雑用が多いので、時々気がしづむ。書きものも今月しめきりのものは全部断念しなければならぬ」(S21、1、3、60歳)
と書いた後で、「私は窓から見送り、小森さんの山荘のまへの道の曲がるところまで姿が見えるのをずつと見送つて、何度も左様ならをいつた。滞在中はその為に生ずる多くの雑事で困まるのであるが、かうして帰るのを見送る時には涙がにじむほどセンチメンタルになる。なんとかいつても、私たちは今日までの人生をともに手を引いて歩いて来た長いあひだの仲間である。いろいろな意味で彼も老境に向つて来たことが私には分かる。本統ならそばについてゐて朝夕の世話をしてあげなければならないのであるが、目下の事情はそれを許さない。他方また考へれば、かうした別居はお互ひの大事を一層深く思ひ知る方法でもある。私も自分一人の自由を欲するが、彼も私のゐない方が好きな生き方が出来るだらう」(同、1、15)
空襲で日暮里渡辺町の自宅が消失し、豊一郎は三男の成城の家に同居しながら法政大学に通い、彌生子は極寒の山荘で冬も越していた時期のことである(豊一郎の死はこの四年後)。

ところで、上の彌生子の書簡に出てくる田辺夫人とはむろん田辺元夫人のことである。夫人の死を勘助に報告しているのは、勘助と田辺元が中学以来の同級であることを彌生子が知っていたからであろう。そして田辺元は安倍能成とも同じ哲学を学んだ学友であるばかりでなく、互いの夫人の間柄が従姉妹同士という姻戚関係にあった。が、これは次章のテーマである。

この山荘招待で気持ちに一区切りがついたのであろう。年明け早々に彌生子は、親友安倍能成宛に長文の手紙を送る。
その一部はすでに前章文末に引用したが、その部分を含めて以下に全文を再掲する。この手紙は勘助への長年の思慕を彼女なりに総括し、それへの惜別を意味するものだと思われるからである。

「さて筆の序でにもう一つ書く事があります。
中さん御夫妻をこの秋北軽(井沢)に御招待いたした事をまだ御話し申あげませんでした。中さんには私はもう何十年とお逢ひしませんでした。野上の死去の節思ひがけなく御悔状を頂きましたので、御返礼を出し、どうぞ仏前にお詣りしてほしい。野上もむしろそれを悦ぶだらうと申しましたら、四十九日まへに奥様と御同道で御詣りにいらして下さいました。すつかり白髪の老翁になられ、それに耳が遠くなられ、私は演説のやうな話をしました。中さんに対する私の感情のさまざまな推移は、書けばそのまま長編になります。しかし根本的に申せば、私はあの人のことほんとうはなんにも知らず、一つの幻影を彼といふ人に拵(こしら)へてゐただけです。同時に私はあの人に対する深い感謝とともに、激しい謝罪のこころを持つてゐました。あの方がなにか一生日かげに生きてゐるやうな生活におちたのは、私の告白が一つの原因になつたのではないか、とそれはいふ事です。否、もつといろいろな複雑な原因があるのでせう。多分さうと信じますが、しかし私の打ちあけもその一つでなかつたとは思ひません。

さうして私はそれによつて成長したのに、ーさう、私が今日まで生きた道程に私によい腐ショク土となつた出来事が三つあるといつてよいでせう。一つは岩本先生(明治女学校校長巌本善治のこと)の失脚、一つは中さんとのこと、一つは法政事件(法政大学で起きた学内紛争のことで豊一郎はこの事件によって一時大学を追われた)ー成長といふことが気障なら、私にものを考へさせる事を教へてくれたのはそれらの出来事です。さうして私のやうな多感な動揺しやすい女が、自分の生活にあくまで清教徒的になり、夫婦生活においても、とにかくお点の辛らいあなたから落第点は貰はない暮らしをつづけられたのは、若い日のあの些やかな出来事が一種の種痘になつたのです。さういふ意味に於て、私は一生涯のあひだにもし中さんにめぐり逢つたら、ただ、有りがたう存じます、とそれだけいひ度いと考へてをりました。同時にまたあなたの生涯にとつて私がつまづきになつたのなら、どうぞお許し下さい、とおわびするつもりでした。しかしそんな機会があらうとも考へず、また強ゐて求めようともしませんでした。然るに野上は私の気もちを屹度知つてゐてくれたのでせう。彼は死ぬ事でその機会を私に与へてくれました。その上の慾には彼も無事で、洒々落々とこの機会をもてなかつたのが残念です。

しかし私は逢つたらいはうとしたことは一言も口に出しません。だつて、あんなツンボの方に、ラヂオの放送見たいな大声で、そんな御礼や御わびが申されますか。ーそれを考へると、私はひとりではあはあ笑ひ度くなります。ねえ、これほど私は脱却しつちまつたわけです。またそれですから北軽にお招ねき出来たのです。あの離室を一週間提供しました。三度の食事にをりて来なさる時以外は話もしませんでした。それにつけてもなによりうれしく、なにより安心なのは中夫人がとてもとても善良な方で、中さんを大切にして奉仕してゐる事です。あんな生活を送つて年とつて結婚した男は、とんでもない奥さんを貰ひだすのがおちなのに、あんな優しいいい方を見つけてほんとうによかつたと思ひます。正直にいつて、中さんの生活意識もまた芸術的傾向も私にはすべては肯定できません。しかしその存在が私の若い時代に大きな影響を与へた点で、多くの意味がある事は拒まれません。以上御報告まで、
しかし日記に書いておけばすむことを、何故あなたにだけこんな事をしらせる必要があるでせう。とにかく告悔僧といふものをもつ事は望ましいことです。且つあなたはこのもんだいに就いては唯一の資格のある方ですから。奥さんにもおしらせ下さい。ただこの手紙だけは便所でよんだり、落し紙にしたりはしないで下さい」(S27、1、2、書簡)

日記、勘助への返信、安倍能成宛報告どれも同じ内容である。しかし、そのどれにも、どういう状況で勘助への告白が行われたのかについては何も語られてはいない。
ちょっと滑稽なのは彌生子は勘助とのことで、勘助は万世とのことで長い物語が出来るであろうと、同じ思いに駆られていることであろうか。
富岡多恵子は「中勘助の恋」のラスト部分で、この安倍能成宛書簡の全文を引いて次のように断定している。
「手紙のなかで、勘助への〈愛の告白〉が彼のその後の生活を左右する原因になったと書いているのは、彌生子の片思いによる思いすごしだろう。勘助は一度も彌生子の〈愛の告白〉についは書いていない。彌生子の、おそらく片思いによる一方的な思いすごしは、万世、妙子両人の求愛、求婚をいずれも〈すげなく?聞流した〉勘助の態度を思い起させる。
作家野上彌生子が作家としての勘助の態度を批判し、その日記体随筆に対しても、また勘助の『結婚』を読んで〈中さんはどうも自分に自分で興味をもち過ぎ、作品としてはほんものにならない〉と批評し得たにもかかわらず、〈嫂さんが亡くなり、あの兄さんでなんとも困つて結婚する気もちになつたわけだが、よんで見て実に淡々として、私には一種親しい好感以外になんら異なつた気もちにもならないのに、我ながらほほ笑しかつた〉と勘助の『結婚』の真意を見のがしているのは、〈ほほ笑ましい〉。というのは、すでに昭和十年三月十六日の日記で、岩波茂雄夫人から勘助の近況を聞いたことが次のように記されているからである」

その日記文はすでに章(1)に部分引用したが、これも再掲する。
「中さんはひどい神経衰弱でやや狂的にさへなつてゐられるらしい。義姉は顔面神経で顔がおそろしく歪んでしまつた云々。(昨夏山のアベさんの家へ見えたさうな。今の私はこんな事もなにか久しく逢はないともだちの噂をきくやうな気もちできく事が出来る。)中氏が不幸だといふ事はよい気もちがしない。ことに彼が友だちなどに対して、ひどくヒガンだ考へ方をして、世間をせばめてゐるらしいことは、私には胸が痛い。少なくともその一半の責はわたしにもあるかもしれないのだから。この強い人は、ほんとうは弱い人なのだ。ー義姉さんとの親しみも、たんなる親しみではないらしい。これらの事は彼の一生の詩であらうが、しかしそれだけで生涯を果すのも残念ではなからうか」(S10、3、16、50歳)

上文カッコ内は、富岡多恵子の引用文にはないのを当方で補充した。
神経衰弱の勘助が訪ねたアベさんの山の家というのは、彌生子の山荘と同じ北軽井沢にあった安倍山荘のことである。この別荘地は、豊一郎が勤務していた法政大学が開発した土地に大学職員や学者、文化人が住みつき大学村として発展、浅間山北麓に位置したことから北軽井沢と呼ばれるようになったものである。安倍能成、岩波茂雄、谷川徹三(詩人俊太郎の父、彌生子の葬儀委員長を務めた)も大学村住民の構成員であった。
岩波夫人の話は、勘助が神奈川平塚の家を処分して赤坂の家で家族と同居をはじめ、精神不安定になり斎藤茂吉の受診を仰いだりして、末子も困惑していた時期であったから、フラフラと友人安倍を訪ねる気になったものか(これにはしかし、別の事情が働いていた。文末で再述する)。勘助が覚えていたのかどうか、彌生子に招待される遥か以前に北軽井沢を訪れていたのである。

「勘助は一度も彌生子の〈愛の告白〉については書いていない」と富岡多恵子はいうが、「愛の告白」どころか、彌生子に関することは一切、書いていないのではないか(朝日賞の祝いにもらった銘酒「宗麟」のエッセイを別にすれば)。
再三触れたが、勘助が書いた小説は「銀の匙」を含めて四編でしかない。小説の代わりに書かれたのが、「日記体随筆」と呼ばれる作品群である。
冒頭で、わざと(・・・略・・・)と目立つように省略した部分がある。実はその部分は、岩波夫人から勘助の近況を聞いての上記3月16日の記述文につながっているのである(冒頭の日記文はそれから四ヶ月後の7月6日)。以下にその省略部分を再現する。
「いつかの岩波夫人の話だと、今のあの人は可なりヒガンでつきあひにくい人になつてゐるといふ話であつたが・・・日記には一番理想化された彼の生活があらはれてゐると見なければならぬ。その点彼は一種の偽善者だ。少なくとも彼には谷川(徹三)が書いてゐるやうな宮沢賢治といふ人のやうな素朴な善良さはない。ほんとうに彼がさうなれたら、彼の芸術ははじめて本ものの光輝を発散するであらうが・・・」(S10、7、6)

すでに「海神丸」「真知子」などを書き上げ、理知的女性作家の代表格と目されていた野上彌生子の眼力は鋭かったといわねばならない。その7月6日の夜、彌生子が読んでいたのも日記体随筆「しづかな流」であった。その時点で、日記体随筆にひそむ欺瞞を彌生子は嗅ぎつけていたのである。
この勘助特有の日記体随筆を富岡多恵子はこう解読する。
「日記体随筆の〈日記体〉こそは、時間のズレを利用しての現実の擬装に適している。現実を擬装することで、自己矛盾、自己否定はすべて隠蔽可能となり、自己の絶対的肯定ーまるで聖書のコトバのような箴言(しんげん)に収斂(しゅうれん)していく。この自己の絶対的強さが、〈愛読者〉たちを惹きつけたものではなかったか」
富岡多恵子が例示する「聖書のコトバのような箴言」とは、「私の愛には対立者がない。あるべきはずがない。私の愛は愛することによつて充たされる。私の愛は自分の、または自分を愛する人びとが私の愛の蔭に、または私を愛することによつて、それぞれの地位に於けるよい家庭人であり、社会人であり、道徳人であることに於いて成就する」(「しづかな流」S、6年)、あるいは「私は近頃になつて真に、それこそ真に、愛することの喜びを知り得たやうに思ふ。私の愛が漸く無私になつたからであらう。それはただ愛することによつて充される。そこには獲得の焦慮もなければ保持の不安もない。それは奪ふこともなければ奪はれることもない」(「街路樹」S、9年)というようなもので、勘助の日記体随筆の特徴でもある。

富岡多恵子の分析は、彌生子のいう「一種の偽善者」の本質をよく解説していると思われる(さらに富岡は、日記体随筆の内容は格好の私小説の題材であったのに、何故勘助が私小説を一編も書かなかったのかという疑問と関連づけて論及しているが、それは割愛する)。
日記体随筆の魔力?で「惹きつけた愛読者」の存在についても、彌生子は作家中勘助を辛辣に批判する(上記「祭典」中の彌生子の日記にも、目指す文学の方向性が全く異なって来ているのがやんわりと表白されてはいたけれども)。
「この頃のK(勘助)の書くものを見てゐると、私の現在の情感や思考の傾向とはあまりかけ離れて仕舞つたので、あれほど激しく私の胸をかき立てた熱情も、完全に過去のものになつたかんじがする。はじめは彼の名前を見たのみでもドキンとしたこゝろが、これほど平静になり得ることはすべて〈時〉の腐蝕性の作用であらう」(S12、      )
こう書いたのは、彌生子52歳の時であったが、勘助への熱情が完全に冷めていたわけでは なかったことは、これまでみてきたとおりである。

ところが「情感や思考の傾向」は、「公明正大」な交際が復活し互いの距離が縮まるにつれて、「愛読者」を勘助が口にするたびにその溝を深めていく。
「至るところ愛読者があり、それにとりまかれるのをかくまで悦び、語る彼が可哀想になつた。それは、それほど寂しいのを示すわけだから」(S28、12、1、68歳)
「午後中さん夫妻来たり、(略)〈愛読者ー〉をすぐ口にするのには困る。寂しいからでもあらうが、自分の作品への自得のせゐでもあるに違ひない。彼の文学的な世界はそれでわるくはないにしても、新しい成長や進歩がないのはそのためである。私はなんと冷静に批判するだらう。感情は感情として、この態度ははじめから変はりはなかつた。それにつけても、熱情といふものは脆弱で愚かだ。大切なのは、美しいのは、貴重なのは知性のみである」(S29、1、11、68歳)
「相かはらず愛読者、銀の匙の話が出る。幸福な人かなとあはれむ思ひで客観的に淡々と退屈を感じつつ接する自らを私は一面おどろきで見る。この一箇の存在の為に半生以上を苦悩した事はなんと奇妙な夢であつたらう」(S37、4、23、76歳)

さすがに潮時で、恋の終わりであったのか。それとも68歳の彌生子の胸底には、すでにこの時、新たな恋が芽生えていたからなのか。彌生子が豊一郎と結婚した最大の理由が「勉強」するためであったのを思い起こせば、日本の「知性」を代表する哲学者であった田辺元に次第に心惹かれていくのは、彌生子にとっては北軽井沢で織りなされる自然の摂理となんら変わらない出来事であったろう。

話はやや舞い戻るけど、彌生子が昭和27年正月に安倍能成宛に長い手紙で、山荘での「祭典」を報告した後、すぐ安倍能成から返事が来たことがやはり日記に書かれている。
「安倍氏より長い返事来る。中さんと義姉(未子)さんとのかんけいなど書いてよこした。その事を安倍さんが新聞に書いたとて中さんが怒つて、それで今日まで絶交してゐる由、中さんは一時狂的になり、自分の主観を客観的なものとして人とも衝突したらしい。しかし恭子さん(安倍の妻)は中さんが好きで、今も書物などは彼女の名で送つて来るとのこと。安倍さんはそれでもなほ友愛をもつてをり、旧交を暖め度い気持切なるものがあると書いてゐる。もし私が仲介者となつてもとの親しみが取り返せたら、うれしい事だと思ふ。とにかく私がかうした男友達との交はりをもつていられるもは、日本の社会には珍しいことだらう」(S27、1、6、66歳)
この日記文では二人がいつから絶交したのかは分からないが、神経を病んだ勘助の北軽井沢安倍山荘行きが文句を言うためであったとすれば、この手紙文の時点で実に十七年間になるわけだが・・・。
また安倍と勘助が旧交に復したのはいつであったのか。安倍が勘助の朝日賞授賞式で、祝辞を述べたのを知るばかりであるけれども。

このちょうど一年前の記述。
「ー私のことを他の者よりは多く知つてゐる筈のA−氏(安倍能成)だつて、私の内奥のほんとうの苦悩は知つてくれてはゐないだらう。
全く、一人の人間のことを正しく知ることは、全宇宙を知るよりむづかしいくらいだ」(S26、1、18、65歳)
これは夫豊一郎を亡くして、思慕しつづけてきた初恋の人と念願の再会を果し、耳が遠くなりすっかり衰えた勘助に戸惑いながらも、北軽井沢の山荘に招くことになる年頭のひとり言であったろうが、いみじくも人間存在の本質を言い当てている(勘助の日記体随筆の箴言!)。
「一人の人間のことを正しく知ることは、全宇宙を知るよりむづかしい」
中勘助然り、安倍能成然り、野上彌生子然りである。だから幾千、幾万の文学(人間の物語)が現れるのでもあろう、か。


(以下、「銀の匙」と「森」(6)につづく。)