そのほとんどが市販の大学ノートにつづられた野上彌生子日記は、新年ごとに更新されているわけではなく、ノート全部を使い切ったところで新しく取替えられているのであるが、その六十二年にわたる全記述を収録した「野上彌生子全集 第II期」には、丁寧にもノート取替えの都度、表紙原本の写真が掲載されている。
「昭和28(1953)年3月24日ー9.30まで」と、表紙に書かれたノートには「内的生活に記念すべき変化をもたらした年である」という走り書きが日付の脇に加えられている。
そして、次の新しくなったノートの10月2日には、「昨日三枝さんへは香水を注文した。これも私の内面生活の変化に応ずるものである」との記述がある。三枝さんとは、9月20日欄に「〈婦公〉の三枝から雑誌」云々とあるので、その人だろう(婦人公論の記者。香水は5日に届いたとある)。
いつものようにこの時季、北軽井沢の山荘に滞在していた彌生子は68歳である。68歳の老女が、馴染みの女性記者に(誰に頼めばいいか思案を巡らしただろうが)こっそりと香水を頼みたい事情、すなわち「内面の生活の変化」として考えられることはただひとつである。これまでに再三予告していたことが、まさにこのとき彌生子の身の上に起きていたのである。

事情はその前の9月29日及び30日の日記文で判明する。文中の先生は、むろん田辺元のことである。
「大極殿(京菓子)を五つ先生にとどけた。四時過ぎの散歩の時、御礼の手紙を御自分で玄関までもつて来て下すつた。御気にさわつたら破つて下さい、との言葉が、私に内容を示唆した。数首の歌がしるされてゐた。私たちの師弟の関係は、これで新しい友情に進展した。この点をつつましく守りぬく事が賢いだらう。しかしこの外皮はいかにも脆く、柔軟で、とり扱ひ一つでは容易に破れかねない。アミエル的な用心が必要だ。しかしどこまで進まうと私たちには今は拘束も障害もない。ただよいテクニクでこの関係をあくまで明るい、活き活きと自由な、さうしてゆたかな美しいものに成長させたい」(9、29)
なお日記には記載がないけれども、田辺元がこの日持ち寄った歌数首(九首)のうち三首をここに補足すれば、次のような歌が認められていた。
          生まれ月はわれ三ヶ月の兄なれど賢き君は姉にこそおはせ
          兄か姉かあらぬ不思議のエニシなり亡き妻のゆいし友情のきずな
          君と我を結ぶ心のなかだちは理性の信と学問の愛
これに対し、翌日の日記には返歌が記されている。
「今日は朝の執筆の日課をぬいて先生に返事の手紙を書き、二十八日の日記の抜粋とともにとどけた。最後に歌二首、
          寂しさを生きぬく君とは知りてあれど、ひとり置きて去るは悲しかるべし。
          浅間やま夕ただよふ浮雲の、しづ心なき昨日今日かな。
かういふ日が人生の終りに近くなつて訪れると夢にも考へたらうか。ひとの一生の不思議さよ」

この両日を経て、二人の関係が新しい段階に入ったことを彌生子は確信したのであるが、それより少し前の25日にその予感が自戒を込めてつづられていた。
「〈女は理解されると、恋されてゐると思ふ〉というアミエルの言葉は忘れてはならない。しかし異性に対する牽引力がいくつになつても、生理的な激情にまで及び得ることを知つたのはめづらしい経験である。これは私がまだ十分女性であるしるしでもある。それだけ若さの証明でもあらう。あの人にはなんらの影響をも与へないであらうか。それを知り度い興味がなくはない」
かなり大胆な記述であるが彌生子の思惑通りに先生は呼応してくれ、女性としてまだ十分魅力的であるという自覚のもとに香水を注文したにちがいない。

相聞歌を交換して、新しく日記ノートが取替えられての、「一ニ日の思ひの乱れを取り返すため、昨日は六時過ぎに床に入ったが、朝も七時近くまで熟眠したので心もからだも軽く健やかになつた」と、書き出される10月1日は長い記述となっている。抄出する。
たまたまその日に国際物理学会の面白いニュースを三男が知らせて来たので、その手紙を持って田辺山荘へ行くと、先生は「昨日はありがたう、といはれた。それについて私は多くの言葉を費やす事なく手紙をお見せした。これは私たちの変化した関係を、あまり強く意識する事からお互ひを救つた。といつたところで、特別の著しい変化があつたわけではない。今までこころの中にあつたものを、二人で承認しあつたに過ぎないといふのが一番正しいだらう」というふうに書かれている。
この日もまた、この後ハリソンの神話研究から先生の学生時代の裏話まで硬軟とりまぜての話題は尽きなかった。

そうして二人の関係についても再度、確かめられる。
「しかしあんな手紙や歌をとり交はしたあとで、こんな話に二時間半を費して、これを愉しみあへる私たちは、世にも不思議なアミだといへる。私ばかり幸福になつて、先生を少しも幸福にしてあげる事は出来なくてすまないと語つたら、いや、こんな話がしあへるだけで十分だ、ほとんど他人とは談話といふものをしないのだからと答へられた。それはたしかだ。且つ私たちはお互ひに尊敬と愛情を注ぎあふのみで、それによつて他になんらの責任や負担をかけるわけではなく、ほんとうに透明な、奉仕のおもひのみで結びつける。これは愛情としては最上に好ましい形式であらう。出来るかぎりこの線をふみ越えてはならない。情勢と心の動き次第では、私はもつと積極的な熱情にだつて応じ得られるし、またそれだけの自分の若さをうれしくも頼もしくも思へるが。先生も実に快活で、おしやべりだといつてよいほど多弁に語る。私の方が半分以上はききてである」
この場合の「アミ」は、男友達、女友達以上の間柄を意味しているものと思われる。
翌日2日(この日、香水を注文した)には再び、「昨夜もなにかこころ落ちつかず、終夜浅い眠りの中に過した」と記される。

夫豊一郎が法政大学に勤めていた関係で、野上家が北軽井沢「大学村」開村(昭和3年)以来の住民だったのに比して、京都大学哲学科教授であった田辺元が岩波茂雄の勧めによって当地に山荘を構えたのはその七年後である。
昭和20年3月に大学を停年(60歳)退官した田辺は京都を去り、妻千代を伴って疎開も兼ね北軽井沢に転住したのが7月である。夫妻(千代夫人は田辺より一回り下)に子供はなかった。以来、インクも凍てるという厳寒の冬も山を降りることはなかった(それは元々片意地な性格の上に、教え子たちを心ならずも戦争へ駆り立てることになった贖罪の念からでもあったといわれる)。
空襲で家を焼かれた彌生子も一人で山荘に疎開していた(豊一郎は仕事の都合で東京の三男の家に同居していた)。田辺山荘は歩いて十分ほどの距離にあったので、自然と彌生子は千代夫人との女同士の付き合いが始まった。が、やがて夫人は肺結核で病臥するようになる。年々に病状は重くなっていくが、せっかく雇ったお手伝いも何事につけ融通の利かない厳格主義を崩さない田辺のもとに長く居つく者はおらず、適当な看護婦も見つからない。田辺哲学を尊敬する弟子たちが、候補地を探して暖かいところへと下山を勧めても聞く耳を持たない。

このような状況下で彌生子が、千代夫人のためにやきもきする様子が日記に記述されているのであるが、しばしばそこに登場して彌生子ともども千代夫人の現状を憂い気を揉んでいるのが安倍能成の妻恭子である。
恭子が華厳の滝に飛び降り自殺した藤村操の妹であること、夫が誤解して嫉妬するほど勘助と親しかったこと、また千代夫人とは従姉妹関係にあることはすでに触れておいたけれども、安倍夫妻は田辺たちの媒酌人でもあったのである。繰り返せば田辺元は藤村操、安倍能成、中勘助たちと一高、東大の一年上で、特に勘助とは神田生まれ同士の同い年で、中学も一緒だった。
なので野上彌生子は、偶然ながらも自分と同い年の男二人を好きになったのである(首記の歌にもあるごとく、田辺は彌生子より三ヶ月の早生まれだった)。
中学高校と首席を通した田辺は、勘助たちと違って大学の途中まで理科(数学)を選択していたのを哲学へと変更し、卒業後東北大を経て京大の西田幾多郎の招聘を受け、その後日本哲学界の第一人者として多くの崇拝者に囲まれた。昭和25年に65歳で文化勲章を受章したが、親授式には病気を口実に代理を立て欠席したのは、上記の理由などで受賞自体を名誉としなかったのであろうか(もちろん、夫人の病状が重篤であったのもその理由であったろうが。のちの彌生子は親授式に代理さえ出さなかった)。

この受賞に際して彌生子はこんな感想を日記に書き付けている(むろん、まだ「アミ」になる前である)。「田辺さんへお暇乞ひ(山を去る挨拶)に行く。(略)午後田辺元氏がアイサツにみえたので、門の外まで送つて立ち話で私はカンゴ婦の必要と今度の女中の不定な状態と、またこの冬が(千代夫人にとって)非常に大切な時期であることを打ちあけた。文化勲章のお祝ひなど私は一言もいはうとはしなかつた。そんなものあげるより誠実なよい女中を一人見つけてくれる方が田辺氏にはよほどありがたいだらう」(S25、11、7、65歳)
やはり哲学を専攻していた安倍能成は、田辺のことを「学問的天才」だとしながらも、「我々は普通、常識に支配されたり、道徳的便宜に支配されたりして、拘束を受けますけれども、田辺君は、いつたん哲学あるいは哲学的思索といふことになると、もう一切をことごとく放擲して、怒つたり、泣いたり、怒鳴つたり、といふことが、本当に自然に無意識に出来」、「まるで自然児で子供のやうだつた」と評し、「学問以外では、憎めないといふばかりで尊敬に価するとは思ひません」と言い切っている(註)。要するにウマの合わない人物と見ていたようだ。
(註・安倍能成著「涓涓集」岩波書店、1968年刊。)

田辺元全集は田辺の死後急遽、昭和38(1963)年から翌年にかけて筑摩書房より出版された。全集には月報が付きものである。この月報に二人の女性作家が寄稿している(実は、安倍能成の田辺元に関する上記の文章も全集月報に発表されたもの)。その一人は網野菊(註)である。
網野菊は「田邊先生御夫妻の思い出」と題して、次のようなエピソードをつづっている。以下はその概略。
(註・1900年東京生れ、1978年没。日本女子大卒。志賀直哉を師として、主に私小説を書いた。)

網野菊は昭和5(1930)年1月、京都吉田の田邊邸をはじめて訪問する。その時奥さんから「子供がなくて淋しい」と話された。元は哲学の思索の妨げになるといって、近所の子供が遊びに来るのを嫌っていたが、岩波茂雄の北軽井沢の別荘を借りて一夏を過ごしたとき、となりの谷川徹三の一人息子俊太郎(当時4、5歳、のち詩人)に接してから子供というものを見直したという。
以来、北軽井沢を気に入った元は大学を退職後、一年中そこで暮らすことになり、夫人を喪う。菊は一周忌に近い九月初め、北軽井沢を訪れる。夫人の霊前に詣でるためと野上彌生子に会うために。その彌生子からは夫人亡き後、元の身の廻りの世話をし、入院した元を最後まで付き添い介護した夫婦者の妻の名前も偶然なことに、同じ(梅田)千代だったことを聞かされる。

その後、夫人を失い長い間孤独な生活を送らざるを得なかったであろう田邊からの、入院見舞状の代筆返信葉書に「老年の孤独というものがどんなに恐ろしいものであるか、あなたは覚悟しなければなりません」と、書かれてあった大哲学者の言葉にはショックを受けたとしながらも、奥さんを亡くされての晩年に野上弥生子が毎年夏の半年間を先生の側で哲学や詩の話し相手になっていたことは、本当によかったと悼んでいる。
まだ彌生子と田辺元の関係については知る由もなかったのである。それは仕方ないが、京都で会った元を46、7歳で千代夫人を自分より1、2歳上の32、3歳ではなかったろうかと書いているが、当時の田辺元は44歳、千代夫人はその一回り下であったので、さすがは(女性)作家らしい観察眼だといえようか(もちろん、田邊のことを菊は先生と呼んでいる)。

少し余談を挟めば、病室に付きっ切りで下の世話までして田辺を最期まで看病した梅田千代が、最初から気に入られていたわけではない。再々のトラブルが発生していた。それも、ヤマメの煮方が悪いというような、とるに足りないことでもって田辺は激怒し大喧嘩に発展し、梅田夫婦に家を出て行けとへそを曲げるのであった(田辺山荘の離れ家に彼らは住んでいた)。その度に仲裁を果たすのが彌生子の役目になったが、ややもするとその彌生子にも八つ当たりのとばっちりが飛んでくるという始末で、彌生子も涙ながらに田辺を説得するのであった。
彌生子もさすがにもうこれまでと観念したこともあったものの、幾日かすると田辺の怒りも都合よく雲散霧消しているのである。梅田千代にもいちずな面があったようで、それが油を注いだ面もあったであろうが、やがては田辺の気性に姑息で不純なものがないのを呑み込んでいったのだと思われる。彌生子も下山に際して毎年、梅田夫婦やその子供たちにも心付けを渡す気配りしている。
田辺元の死去後、遺言により梅田夫婦には感謝の印としてそれまでの住居が、田辺山荘本体は蔵書ごと群馬大学に遺贈されたとある。
 
月報の書き手のいま一人は、もちろん野上彌生子である。野上彌生子が月報で振り返っているのは、師弟二人だけの哲学講義についてである。これも要旨のみ。
大学ノートとよく削った三本の鉛筆を風呂敷に包んで、一週に二度、三日置きの午後二時から二時間、田辺山荘に通い書斎での講義を受ける。「遅れてはならないが、早過ぎてもいけない」のが規りだった。「先生の時間の鉄則は、その他朝夕の起臥から食事、散歩、入浴のすべてにわたつて厳しかつた」 
講義はとかく恐ろしく高度に変容し、「つねにかうした秩序と節度でつづいた。しかしうち明ければ、私は時々これらの空気を乱す失敗をした。それは聴講のあひだに私が思はず洩らす〈おもしろい〉なる感嘆詞によつてであつた。イデアや実体の説きあかしはもとより、あとにつづく多くの哲学者がいかにさまざまの見方、考へ方で人生の根本義を追求しようとしたか、それがまたいかに鮮やかにも見事に究明されてゐるかに驚くと、私はついおもしろいといつて仕舞ふ。先生は黙つて答へず、どうかするとあの特長のある濃い眉をしかめる。先生の哲学は求道で、生死を賭けた真剣勝負に等しいのだから、むかしの哲学者たちの偉大な著作に対して、私がなにか小説を読むやうな評し方をするのが気に喰はないのである。

しかし正直にいつて、おもしろいの感嘆詞は、私の哲学に対する興味の本体を証しするものでもあるので、先生を不機嫌にさせたのをいまでも相すまないことだと思ふ」
最後の講義となつたのはプラトンの『ポエチカ』 だった。「とにかくかうして哲学とはどんなことを、どんなふうに考へる学問であるかを教へてくだすつたのは田邊先生であり、また文学についていへば最初のほんのつづり方にも等しい文章に眼を通してくれ、思ひもよらず一生の道となつた仕事へ導いてくだすつたのは夏目(漱石)先生だから、他のことはなんにも加へないとしても、稀なる師に恵まれた点では私は最上の仕合せものとして運命に感謝しなければならない」
「講義は田邊夫人がお逝くなりになつた秋から、先生の突然の病臥の一ヶ月まへまで、ちゃうど十年間、正しくは東京暮らしの数ヶ月の欠講を除いて五年のわけだが」、つづいた。

中勘助夫妻が彌生子の招きで北軽井沢の山荘に滞在したのは、昭和26(1951)年9月7日から12日にかけてであった。千代夫人の逝去はその五日後の17日の早朝であった。
「・・・御病人亡くなられたことを梅田細君しらせて来る。私も松井(手伝いの女性)をつれて駆けつける。夫人は病床でいつものすがたで、しかしもう一つの物体となつて横はつてゐた。厳粛な死もこれからは事務である。これも殆んど私が世話するほかない。(略)今日納棺、出棺、焼くことの手配、(略)食料の買ひ入れまでしてあげなければならない。白絹で経帷子(きょうかたびら)まで縫った。生れてはじめてのこと也」(S26、9、17、66歳)
葬儀での彌生子を目にして、てっきり故人の姉だと思い込んだ人までいたとも記されている。

その後も寂寥の田辺を慰めるかのように彌生子は田辺邸に足を運ぶ。そうして言葉を交わすうちに田辺の意外な一面を発見していく。
「元氏が(永井)荷風の愛読者であることははじめて知つたが、考へれば江戸つ児の情感に基礎を同ふするものがあるのは自然だ。元氏の内生活もいろいろ想像される。かうして打ちとけて接触すると彼の正直で、すれたところのみぢんもない善さが感じられて、安倍さんなどとはまた違つた親愛感が生ずる。全く私の晩年はなんとおもしろいのだらう。日本にかけ掛えのない人間、それも異性の人がこんな親しさで友だちづきあひがやつて行けるのだから」(S26、9、24)

「午後田辺元氏来訪。亡夫人の形見としてスキヤの単衣のほか謝意として私に一万、松井に千円頂く。私は明日返すつもりで一応受とる。小一時間近くいろいろ一高時代から昔話をされた。夏目先生がコナン・ドイルを教へたが、いつもひどく不機嫌で、シニカルで、教師としては最も不親切な、いやいやながら出て来るといふ意図が露出した態度で、田辺氏は反感のみを感じさせられた。それが因をなして、盛名さくさくたる時代にも夏目先生が好きになれず、近づく気にもならなかつた云々ー中さんのことも(府立)四中時代の彼をおぼえてゐた。藤村操のこと、彼の自殺時代の一高に醸しだされてゐた精神主義。それらは明治女学校のクリスト教文化主義にも通ずるし、話のあひだにも共通に名前を知つてる人がたくさん出る有様で、彼も語るのがたのしく、聞くのもおもしろさうであつた」(9、25)
「田辺さんより返事とともに『哲学入門』(田辺の著書)とどく、(礼金を辞退する代わりに、昨日)それを頂き度いといつたのである」(9、27)

「(英国の総選挙の話をして)こんな事をほんとうの友だちのやうに率直に話しあへるのは愉しい事である。夫人は山で見出した私のもつともよい友だちであつたが、元氏も彼女の死以来、私にはそれに近いものになつた」(10、25)
「天皇に対する安倍氏の偏愛は田辺氏とも一昨年かの来山の時議論になつたさうである。私と吉田茂との交渉についても(野上夫妻は吉田の長男、健一の仲人である)話してあげたらおもしろがつた。彼は笑はない哲学者になつているが、私との話ではよく笑ふ。口をすぼめ、眼を細くして、おばあさんみたいな顔で笑ふ。私はそれを見ながら、田辺さんのおばあさんかお母さんもきつと年老いてこんな顔であつたらうと思ふ」(10、31)

この年も本格的な冬の到来となり、帰京する前日の日記。
「田辺さんがお別れに来て下すつた。応接の小室でしばらく話す。先生がこれからお独りでどう過されるかが案じられるといふと、私は非常にエゴイストだ、私よりは家内の方が高貴であつた。(略)寂しいが世界にまことにたつた一人になつたといふ自由さをも感ずること。さういふ話が率直に話された。(略)私たちにはなほ自然がどれほど不変的によい思ひ、美しい思ひを与へてくれるか、人間には親兄弟でも夫でも、子供でも、いつもいつもそんな思ひをさせてくれるものはない、といふ考へ方も同意的に話しあつた。私が山を去つたらお弟子さん達でも来訪しない限り、こんな一二時間を誰かと過すといふことは、田辺さんにはなくなるわけだ。あの方もきつと淋しいであらう。私としても、午後ふらりと出掛けて、こんなおシャベリをする相手は東京でも到底見出されない。みんなあんまり忙しすぎ、遠すぎ、悧巧過ぎ、狡過ぎ、利害もんだいに拘泥しすぎるから。
田辺夫人の死は私に山の大切な友だちを一人失はせ、またよい友人を一人与へたことになる」(11、7)

夫豊一郎の死が図らずも初恋の人と引き合わせたように、隣家の女友達の死が老年の恋を導き寄せたという巡り合わせは、いかにも閨秀作家にふさわしい劇的な展開であろう。
夫人生前の頃は、田辺と彌生子はどちらかといえば互いに敬遠し合うところがあったようだが、それが夫人の病気をきっかけにして、それにつづく死が二人の距離を瞬く間に縮めた様子が日記から直截に読みとれる。
上記の記述と並行して「中さんから二十三日に金春の能に行ったハガキ来る」(9、26)、「中さんに詩を書いて送る」(9、27)などの勘助に関する短い記述もみえるのだが(どのような詩を書き送ったのか?)、それもやがて間遠となり、この二年後、詩を書く相手は勘助から完全に田辺元に変わっているのである。

それはすなわち、はじめて互いの胸底を打ち明けた和歌の交歓があった冒頭の場面に戻ることになるのであるが、田辺元が「御気にさわつたら破つて下さい」と歌数首を持参した昭和28年9月29日は、その十日ほど前千代夫人の三周忌を済ませたばかりでもあったのである。
「今日は田辺夫人の三周忌である。午後から訪問。いつもの写真のまへにはいろいろお供物がなされてゐた。至夫人(田辺の、東京芸大卒の画家であった一歳下の弟夫人)が鎌倉から夜行でもつて見えたといふ百合やカーネーションの花が目立つ。このあたりでは手に入らないものである。(略、田辺に)亡夫人の思ひでの和歌を書いて頂いて帰る。先日見たよりひろい紙に書いて下すつたが、文字はちつとも上手でなく、和歌にはいつそうふさはしくない」(S28、9、17)

一昨年が11月8日、昨年が11月22日、そして昭和28年のこの年は11月24日が彌生子の下山日である。だんだんと下山日が繰り下がっているのは、少しでも先生の講義を受けたいためであったのか(念のためもう少し調べてみると、豊一郎の亡くなった昭和25年はやはり11月8日、昭和29、30、31年はいずれも12月の第1週であった)。
前年の下山前日には「どうも先生にかぶれたらしい、といつたら愉しさうに笑はれ、そこまで行つてくれると自分としてはうれしいといはれた。しかしこれはむづかしい天地へ新しくふみこむことだ。私には及ばないところへ引きずりこまれたといへる」(S27、11、21、67歳)という記述もみえる。
山荘でも先生に時々料理を振る舞い、先生の弟子たちが田辺山荘を訪れると、郷里名物の茶台寿しをこしらえてもてなし、下山してからも魚屋に西京漬けをわざわざ注文したり、無塩バターを求めたり、三越にまで出かけ足温器を探したりと、世話女房さながら独り山に閉じこもる田辺の健康を気遣い送り届ける。それとともに夫人の仏前に手向ける正月用の生花をも送り届けるのが、この年から慣習化された。

何といっても圧巻は冒頭の返歌よりも、彌生子が先生に与えた詩であろう。詩は幾作かあるが、ここには彌生子が日記に記した「新しい星図」と「黄金の鋲」二作の第一連、出だしの一部分のみを引く。
          あなたをなにとよびませう / 師よ、友よ、親しいひとよ
          いつそ一度に呼びませう。 / わたしの新しい三つの星と。
          みんなあなたのかづけものです / 救ひと花と幸福の星図

          わたしの人生のたそがれの扉に / 黄金の鋲をあなたが打つた
この詩を手紙に認め先生に届けたのは、昭和28年11月11日。下山の二週間前である。この日の日記。
「(先生は)私の詩にうたはれた言葉にふさはしい人になり度いといはれた。私もこの愛情と尊敬をこのあとも大切に守つて生きなければならない。しかし、思へばこの世の中はなんとふしぎなものであらう。わたしが人生のたそがれにこんな思ひを感じようとは夢想だもしなかつたやうに、彼とても決して期待しなかつた悦びに違ひない。お互ひに独立的な人格と経済力と、社会的には一定の水準以上の生活と名誉をもち、愛と、友情と、尊敬と同じ思想と学問的情熱でむすばれ、それ以外にはなんらの自己的な要求も期待もしあはないで生きるといふこと、こんな愛人同士というものが曾つて日本に存在したであらうか。あゝ、それゆえに一層この関係を理想的に保ちつづけなければならない。詩稿は残すまいとしたが、やつぱり書きとめておく方がよいといはれたのでそれに従はう」

さらに下山(24日)寸前の22日にも「生別の寂しさは、時に死別に劣らずとはいへ / いたづらに涙はせじと、あえて笑つて作りたる戯詩、と題してつくつた詩」と前置きした八連から成る慕情詩を捧げる。
これは17日に「夕方遅く先生が玄関まで御自分で手紙をもつて見えた。(略、文面の)あとに和歌が数首添へられ、私が山を去つたあとの淋しさが訴えられてゐた」とあるのに、応じたのでもあろう(言い添えておくと田辺元は「アララギ」系統の歌人であった)。
          昼と夜と / 一日も単数ではないやうに / うつし身とこころと
          ひとりわたしが / ふたりのわたし

          左様ならこころよ / 気ままな娘 / これほど誘ひ頼んでも
          いつしょには帰らないのね / あなたはおとなしかつたのに
          だんだん誰かに似て来たわ
以下、「左様ならこころよ」が繰り返され、娘には一連ごとに「いけない」、「強情な」、「呆れた」、「手に負えない」という形容詞とそれぞれの解釈が付され、最終ニ連は再びこう結ばれる。
          左様ならこころよ / 憎らしい娘、 / わたし遠くで腹をたてるわ
          ぶつてあげたい気になるわ。 / それよりいつそ嫉むだろ
          お前の帰らないわけを知つているから。

          果肉(み)とたねと / 一箇の桃も単数ではないやうに、 
          ひとりのわたしが / ふたりのわたし
 
この詩は23日、田辺邸の梅田さんに託されて届けられた。すると、この日も午後遅く先生が来訪。
「野上夫人を送ると題して和歌を数首頂く。あんな娘を残しておいてくれるので、寂しくはないだらうとのことであつたが、歌にはあとに一人残る寂しさをうたひあげてあつた。私とても思ひは変はらない。しかしこのままこの交渉をつづける事は却つて心に乱れと不安定を生ずるおそれがある。半年は東京でおちついてこの宿世を一層純粋に守り、進展させた方がよいとおもふ」(S28、11、23)
そして翌日、予定通り下山した。
改めて強調するならば、まるで女学生が初恋の相手に胸のときめきをさらけ出すに等しい(今日の女学生は決してこんなダサい文句、見向きもしないだろうけど)慕情詩を書いた野上彌生子は、この時68歳の立派な老女である(相手の田辺元も然りであるが)。当時の日本の最高峰の知性が演じたこの事実は、恋愛に年齢など全くもって関係ないことを証だてするものでもあろう(彌生子自身も勘助とのことで、日記にはっきりそう書いているのであるが)。そしてまた、肉体は老いても精神は永遠に若くあれることの証明でもあろう。また逆に、人間の動物としての第一義たる構成要素はまさにその性本能にあるのだということにもなろうか。

東京成城の自邸に息子たちに囲まれて「内的生活に記念すべき変化をもたらした年」を送る大晦日、野上彌生子は再び自戒を込めて日記を締めくくった。
「今年は私にはいろいろな意味で記念さるべき年であつた。ある特定の対象とこれほど深い知的な、また愛情をもつての繋がりが出来ることを夢にも考へたらうか。私たちの年齢においてはわけてもこれは珍しいことといへる。それだけに大切に純粋に保たなければならない」(S28、12、31)
やはり単なる女学生とは違う思慮分別が随所に働いているのも事実である。これを(亀の甲より)年の功というのだろうが。 
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かなり重複する部分もあったが、野上弥生子と田辺元の老年の恋といわれるものについて、主に昭和28年の野上弥生子日記に焦点を当ててここまで述べてきた。当然ながら「先生」と「奥様」(田辺は弥生子を常にこう呼んだという)の交流は「田辺元全集」月報に彌生子が書いたように、十年間の長きにわたって続いたのであるから膨大なもので、これは恣意的なほんの一部の摘要でしかない。その詳細を知るには、当の彌生子の「日記」はもとより、「田辺元・野上彌生子 往復書簡」(2002年、岩波書店刊)を読まれたし。
関連書として、竹田篤司著「物語『京都学派』」(2001年、中公叢書)には西田幾多郎、田辺元両巨峰を頂点とする京大哲学の山容を成した人間群像がドラマチックな物語に仕立てられているので、併せ読まれんことを(当然野上彌生子も、また田辺がドイツ留学中に知り合い猛烈に慕われつづけた謎の人妻も出て来る)。どちらの書物も(おどけていうと)、門外漢にとっては「老年の恋」並びに「哲学入門」への予習、学習の知的興奮に誘われるだろう。

野上彌生子日記から、ひとつ疑問点を上げておきたい(といっても、この日記全体をくまなく読んだわけではない。ところどころを拾い読みしただけであるが)。全集第十一巻は昭和26、27、28年の日記が記載されているので、たまたま目についたに過ぎないのだが、その27年8月19日の記述。
この日は、安倍能成やお供を引き連れて皇太子(現天皇)が野上山荘に立ち寄った日でもある。皇太子は「二十一の青年」とあり、その皇太子に向って彌生子が「安倍先生はこわい先生でございますか、ときくと笑つてゐた」と書かれているので、安倍能成が学習院院長をしていた時であろう。
ともかくも野上、安倍山荘での少々平常ならぬ様子が記されて皇太子来訪はこう締めくくられている。
「私は別に名誉とも有りがたいとも思はないが、来るものはこばまない仕方を、この青年にもしたまでである」のちの芸術院会員、文化功労者、文化勲章の時の態度を彷彿させる処し方である。

疑問点というのは、しかしこのことではない。このあとに綴られていた一文である。
「今日はうたひ会を休んだのでノンキだ。午後田辺山荘を訪ねる。『迷路』 評をきく。いろいろな話が出て、本気なうち明けをする。涙が出た。こんなことをいつて人のまへでベソをかいたのはいまだ曾つてなかつたことだ。しかし田辺さんを告白台にしてベソをかくのはかき甲斐があつたかも知れない」
いったい何を告白したのだろう。告白して「ベソをかく」ほどの本気なうち明け話とは?この前後をチラチラめくってみたが、それを想像させる記述は見つからない。突如、出てきた告白という感じである。もしかして勘助とのことだろうか、それ以外にないような気もするが、しかし・・・。

さて最後に上文に顔を出した野上彌生子畢生の大作『迷路』に関連することである。田辺元と親密になった頃、たまたま『迷路』の執筆は佳境に入っており、彌生子は田辺との会話を通していろいろ示唆を受けたようであるが、実は詩作自体も田辺の提案によるものだった。
「午後先生のところへ伺ふ。私の小説について急所をついた批評をして下すつて有りがたかつた。詩を作ることを勧められるのも、この欠点をそれによつて償ふやうにさせようとの意図がこめられているわけである。しかし先生の批評の対象は『迷路』なので、もつと他のものをよんで下すつたら、先生の望ましいと思ふものを漂はせてゐる作品があるかも知れないが・・・とにかく、私の今日までの生涯の訓練といふべきものは、情緒的なものにうち勝ち、冷静にすべてを考へ、すべてを行為する事にあつたので、作品にもそれが大きく影響することになつたのはたしかである。話のなにの序であつたか、戦時中に私が引つ張られかけたことまでうち明けた」(S28、11、15)

末尾の文章の意味は、当局から治安維持法違反の嫌疑をかけられ軽井沢警察署に何度も呼び出された舌禍事件を指している(この文章や上記の涙の告白などからも、田辺への信頼が相当に篤かったことがわかる)。
他の作品も読んでくれたらと、自尊心ものぞかせてちょっぴり不満のようだが、『迷路』に目を通した田辺は、理知的といわれる彌生子の作風の弱点が詩情の薄さにあることを見抜いたのである。
これに関連して岩橋邦枝(註)が「評伝 野上彌生子」(2011年、新潮社刊)の中で、面白い指摘をしている。
安倍能成が彌生子の作品について、やはり田辺と同じことをずいぶん昔に(昭和12年)、朝日新聞で「ポエジーが乏しく、ユーモアが少なく、ペーソスが薄い」と書評していた。なのに、当日の彌生子の日記には「文中に彼女を社交上手と書いているのが癪に障ると安倍に怒っているだけで、的確な批評は読み捨てたのか一と言もふれていない」。「彼女が、七十歳近くなってやっと素直に批判を傾聴し、うけ入れたのは相手が尊敬する恋人田辺元であればこそで、〈新しい詩の世界に私を導いて下すつたのは先生であるのを思ふ〉とのちに述懐している」
ま、安倍能成と彌生子の関係はずけずけと憎まれ口をたたきあう、「仲の良い喧嘩友達」の側面が多分にあったから無理もないだろうけど。
(註・1934年広島生れ、2014年没。お茶の水女子大卒。「評伝 野上彌生子」は紫式部文学賞、蓮如賞受賞。)

さらに岩崎邦枝はこのように書きついでいる。
「しかし彌生子は、中勘助が彼女は勉強家であるが〈詩人じゃないね〉といみじくも評したように、ついに詩とは縁遠い書き手であった。彼女の作品が示しているポエジーと音楽性の欠如は、勉強や努力で直せるものではない。田辺の勧めに従った詩作も、彼女の日記と書簡で見るかぎりヘタくそな数篇だけで、哲学を学ぶようにはつづかなかった」
勘助が口にした、詩人じゃないの言葉には解説を要するだろう。これより前に岩崎邦枝はこう書いていたのである。
「彼(勘助)は、日頃から彌生子を〝山姥〟(やまうば、やまんば)とあだ名で呼んでよく話題にしていた、と中の身近にいた長年の愛読者稲森道三郎(岩波版中勘助全集編纂委員)が思い出を書いている。彌生子も山姥を自称して、作品の題にもつけた。稲森の追想によると、彌生子が七十八歳で書きあげた長篇『秀吉と利休』(註)を、中夫人が感心して中に読ませた。彼は読後、『私は和子と全く別の意味で感心しました。まったく、よくしらべあげたものです。山姥は昔からたいへんな勉強家だったからね』と言い、ポツリと一と言つけ加えた。『しかし山姥は詩人じゃないね』」
ここにあらずもがなの一言を付け加えるならば、勘助が「森」を読んでいたらどう批評したであろうか。
(註・「秀吉と利休」は、田辺元の弟子である文芸評論家唐木順三の「千利休」を下敷きにして書き上げた小説である。)

しかしながら完成した「迷路」は、昭和32年第九回読売文学賞を受賞。選考委員宇野浩二は「日本には珍しい背骨の太い作品」「作者の一世一代の長篇であるばかりでなく、昭和文学界の最高峰の一つである」と、激賞。上記図書「田辺元・野上彌生子 往復書簡」で加賀乙彦が解説しているが、加賀は「迷路」をやはり日本一優れた長篇小説だと讃えている(加賀乙彦著「日本の十大小説」)。
また「迷路」に続いて昭和39年に刊行された長篇「秀吉と利休」は、第三回女流文学賞を受賞した。この翌年、野上彌生子は文化功労者に選ばれ、やがて46年女性二人目となる文化勲章を受賞するのである。彌生子に朝日賞受賞時(昭和56年)のような感激はなかったとはいえ、この二作品があったればこその文化功労者、勲章であったろう。
しかるに野上彌生子が文化功労者に選出された秋、すでに老年の恋人田辺元は四年前に逝き、初恋の人中勘助もその春に幽明境を異にしていたのである。


(以下、「銀の匙」と「森」(6)につづく。)