当初の目論見では、この稿を前回で完結するつもりだったのに、そうはならなかった。何事も思惑通りにはいかないものだ。人生みたいに。
と、そういう事情なのでこの最終章は、どちらかというとこれまでの書きこぼしを拾った余録めいたものになろう。 で(註)、この場面から。
「仕事いよいよ調子よい。『愛』 と昨日ことづけた原稿できめた。私が若い人の愛をこれほどみづみづと描いたのを人は不思議がるかも知れない。私の気もちに若い時からもえつづけたものが、大にそれに役立つたわけだ。しかし、それは今はしづかにほんの名残のりの花の香のやうに胸に漂つてゐるのみだ。それが却つてたのしく、快い」(S26、10、28、66歳)
これはこの年9月に中勘助夫妻を山荘に迎えてのち、一ヶ月ばかり経っての野上彌生子日記の記述である。
(註・文の接続に頻繁に使われている中勘助独特の語法。)

絶好調ではかどっている仕事は「迷路」の執筆のことで、その原稿の章題を「愛」と名付けたというのである。つまりはようやく勘助を山荘に請じ入れ、ひとつの念願を果たしての気持ちの高揚が若き日の初恋の記憶と相まって、そのまま筆にも乗り移って思いがけないほどのよい文章が描けたいうことらしい。
しかし目の当たりにした彼は昔の彼ではない、歳月は二人の間にも充分に斧を振るった。勘助滞在中の日記には眠れぬ夜を過ごしたとあるのだから、様々な思いが去来したのだろうが、思い出は思い出として楽しむほかはない、どうやらそういう心境に達したようだ。
が、「迷路」執筆の筆先を滑らかにしていたのは、そのせいばかりでもなかったのではないか。というのも、この後10月31日の記述には、例の「彼は笑はない哲学者になつてゐるが、私との話ではよく笑ふ。口をすぼめ、眼を細くして、おばあさんみたいな顔で笑ふ」彼、田辺元との親密さがすでに相思相愛の雰囲気を漂わせる段階まで高まってもいるようだからである(夫人の死からまだ間もないのだけれども)。

この時、野上彌生子が「迷路」の章題をストレートに「愛」とした気分がわかるようである。「迷路」は昭和11年に着手され、戦争を挟んでの余儀ない中断はあったものの昭和31年に完成させているので、ちようど二十年の歳月が費やされた文字通りの大作である。その代表作に、初恋や老年の恋が思いがけない形で影響しているとすれば、小説家野上彌生子はとても幸運な人であったといえるだろう。こんなことはまず起こり得ないのだから。
そればかりでなく、老年の恋は次の傑作「秀吉と利休」の誕生にもからんでいる。田辺哲学の高弟であった唐木順三の「千利休」を彌生子が読み、小説にしたいと考え、その仲介の労を田辺がとった(このことを知った勘助の彌生子宛書簡に、実は自分も利休を書いてみたかったのだとの一文がある。茶を通じての利休の求道精神に自己を重ねるものがあったのか?)。

そして最後の作品が「森」である。
「評伝 野上彌生子」のなかで岩橋邦枝は「森」について、「私は野上彌生子の遺作『森』を初めて読んだとき、とりわけ後半の熱っぽい劇的な迫力に息をのんだ。長寿でこれほどタフな女性作家に怪物性さえ感じた。それがきっかけで野上彌生子の人と作品に関心を注ぐようになったのだが、見てきたとおり彼女は怪物に非ず、地道な勤勉努力の人であ」ったといい、最後の最後まで「若々しいしなやかな精神の活力」を失わなかった彌生子に感服している。
また「森」の主題を、明治女学校で起きた聖職者と女学生のスキャンダル事件を通して、「彌生子が田辺元の哲学講義から学んだ人間の二面性、二重性」を描くことにあったと分析、それは69歳の彌生子が田辺宛に送った「一生をかけてたゆまず勉学いたします事によつて、一歩づつでも向上の道がたどれるはづと思ふ事のみが私のわずかな期待でございます」、「私は死ぬまで女学生でゐるつもりです」という文面とリンクする、という。

「森」執筆の後押しをしたのは田辺元あったであろうし、全く岩橋邦枝の推測する通りであろう。
このように述べると、「評伝 野上彌生子」は彼女の業績を讃えるために書かれた書物のように思われるかもしれないが、さにあらず、知性的でない野上彌生子の実像をも辛辣にえぐり出してもいる。あの野上彌生子がこんなことを!というような行いも容赦なく拾い上げられているのであるが、その最もたるものが中勘助への長年にわたる慕情の矛盾であろう。
つまり、若き日の彌生子の告白について勘助が一度も書いていないのは、一方的な「彌生子の片思い」に過ぎないからだと切り捨てた「中勘助の恋」の富岡多恵子の見解同様に、岩橋邦枝も彌生子の全くの「自分本位の思いこみで解釈したかもしれないが、中が一度も書かなかったのは、彌生子を問題にしていなかったからであろう」と、きっぱり否定した上で次のように書く。

「中が長期にわたり断続連載していた日記形式の随筆は、事実そのままではなく発表の時期(年)もずれているとはいえ、彌生子はつねに読んで、時には岩波夫人や周りの人から彼の噂を聞いて、兄の発病以来の彼の〈現実的な境遇〉が、彌生子の過去の告白などかまっていられないということぐらい、察してみなかったのか。また、中が『蜜蜂』で追慕しているかけがえのない〈姉〉は別格だとしても、江木万世と妙子との長年のいきさつを彼の随筆で読むかぎりでは、この美しくて才気に富む母と娘は、彌生子よりもはるかに深く彼の生活に関わっている。どこから見ても彌生子の負けである。かないっこない。彼女たち母娘の存在にくらべたら、彌生子の告白と別れは、中にとっては青年期の一つの小さなエピソードにすぎないように見える。
しかし彌生子はどう読んだのか、思いすごしを頑として変えようとしない。安倍能成宛の手紙の一節で見るとおり、彼女は自分の若き日の告白が中勘助のその後の生活を左右する原因になったと、六十半ば過ぎても思いつづけ、自惚れた独りぎめを自省するふうもない。この自分本位の思いこみの根強さは、迷わず挫けず小説を書きつづけた彼女の持続力とつながるものがある。彼女が日記の中でくり返し責めている夫豊一郎の嫉妬深さも、彼女の思いこみを差し引いてかかるほうがよいかもしれない」

説得力満点。恋、とりわけ初恋の魔力はおそろしい、それ以外に付け加えることはないであろう。
ところで岩橋邦枝は、彌生子の告白があったのは結婚後だと推定している。「もし結婚前のできごとであれば、中が安倍といっしょに彼女たちの新家庭へよく謡いに来るような交友はしたくてもできなかったであろう」
が、そのすぐ後に、「銀の匙」の原稿を漱石に送ってから朝日新聞に載るまで、勘助は漱石に三度会っているが、二回は安倍能成が三度目は豊一郎が同伴したのだという。それでは豊一郎が彌生子の告白をいつ知ったのかという問題が残る。もちろん告白を知った上で、友人のために一肌脱いだということも不自然ではない(でも、それよりは結婚前に告白を受けていたとするほうがより自然ではあるだろう)。
結婚後だとするならば、何ゆえに豊一郎ばかりに責めを被せることが彌生子に出来たのか、やはり納得がいかない。大分臼杵の御三家に入る家柄の小手川家のお嬢さんに生まれた彌生子と、その小手川家の酒を細々小商いするしがない雑貨屋の息子の関係が、結婚生活にまで影を落としていたというのだろうか。

何はともあれ同じ漱石門下から作家として出発した中勘助と野上彌生子。野上彌生子が終生変わらず漱石を師と慕いつづけたのに対して、中勘助は漱石の作品をまともに読んだこともなかったというのが実情のようである(最初の「吾輩は猫である」からして、途中で読むに耐えなくなって放棄したほどであった)。
「銀の匙」をめぐっても、後篇をより高く評した漱石とは逆に、勘助は前篇の方を気に入っていた。その理由は前篇の方がより良く詩的であるからという理由によるものだった。
中勘助の本質は根っからの詩人だったので、不純物を排除出来た独得の日記体随筆を愛用したのは彼の体質に合っていたのである。不純物を抱え込まざるを得ない小説は書けなくなるわけだ。

勘助の兄金一が自殺であったことを初めて公表した菊野美恵子氏(この方は金一の妻未子の兄の孫だという)の前掲の文章を読んでいたら次のような一文が挿入されていた。
「中勘助は漱石の作物を読んでいないというけれど、読む以上に彼は漱石を知っていた。鈴木三重吉や森田草平は漱石門下であることを誇称していたけれど、彼らにはそういう面での漱石の血は流れていない。中勘助は自分では漱石の弟子の〈末席を汚した〉といって謙遜しているけれど、そういう意味では、ほとんど直系だと言っていい」(西尾実・近藤忠義共編「現代文学総説第二」1952年、学燈社)
この文の著者は杉森久英。調べてみると、例の1987年の岩波文庫創刊六十周年大アンケートに杉森の名前があって、やはり「銀の匙」(ほかに日本文学では梶井基次郎の「檸檬・冬の日他九篇」)を挙げていた。推薦理由には「繊細な感受性と、はっきりした自我を持つ少年の成長の記録です」とあった。

至言であるかな。「漱石の直系」というのか、まさしく中勘助は漱石的世界をそのまま生きた人であった。そう思えてならない。
先ずもって勘助の詩藻(しそう)は漱石の漢詩の世界であるのに始まって、「銀の匙」は漱石の「坊ちゃん」の繊細少年版だともいえるし(兄金一を主人公にしたら「坊ちゃん」になるのかな)、勘助と兄嫁未子との関係はまるで江藤淳が想定したところの漱石と兄嫁登世との関係みたいで(「漱石とその時代」)、則天去私の世界だって(でもこれ本当に漱石が言ったのだっけ?)、勘助が専心求道した境地であったのでは。ま、こじつければ何だって似通って見えてはくるものだけど。
が、あながち見当外れではないかもしれない(杉森久英の論旨とは、すでにだいぶん逸脱しているけれども)。富岡多恵子も「中勘助の恋」にこのように書いているのだから。

「勘助と江木定男・万世との関係は、漱石の『こゝろ』に登場する〈先生〉とKの関係と逆になっている。〈先生〉は、友人Kがお嬢さんを好きだとの告白を聞いたために、それまで彼女と結婚しようとはっきり思っていなかったにもかかわらず、急に結婚を申しこんだ。〈先生〉には、Kがお嬢さんを欲するのを知るまで彼女は欲望の対象とはならなかった。つまり自分の欲望の対象の価値を保証してくれる第三者があらわれてはじめて自分の欲望を認識する。勘助は万世に〈鋭い刃物で胸板に刻みつけるやうな〉〈消し難い印象〉を受けながら、万世から相談を受けると定男との結婚をすすめ、定男が万世と結婚するというと〈心から成功を祈〉って身を引く。つまり勘助は『こゝろ』に於けるKの立場である。〈先生〉はKの自殺後、結婚してからもずっと墓参りを欠かさないが、江木定男は勘助の苦悩をおそらく知らぬまま無頓着に暮している。
勘助にはKにはなかった苦悩がさらに重なる。万世が結婚し、派手に暮して子供をもうけながら、勘助が家庭的にも文学的にも〈危機〉であった時期に、じつはあなたの方が好きだったと告白にくる。女(万世)の側からは定男が欲望の触媒をはたしたKの立場になるが、その時すでにKとなって欲望の対象外の世界に放逐されている勘助に、女と一対一の関係で相手の価値を発見できるはずはない」

まったく漱石は、勘助のこの恋愛劇を知っていたかのように「こゝろ」を書いたのであったかと思わしめるのだけど、でもこの三人の関係、どちらかというと「それから」における代助、三千代、平岡の三角関係に酷似しているのでは?
そう想ってくると、万世は「虞美人草」の女主人公藤尾とも、「三四郎」の美禰子とも重なってしまうし(こちらは平塚らいてふモデル説もあるけど)、「行人」の神経病みの主人公はまるで勘助のようでもあるし、「門」の寂しい夫婦なぞ兄のために仕方なく結婚した勘助の心象風景めいて読めてしまうのである。
上の富岡多恵子の仮説は、勘助の小説らしい小説「提婆達多」と「犬」を論じた章にあるのだが、もし中勘助がこの系統の本格小説を(野上彌生子のように)書き残してくれていたら良かったのに。その才は充分備えていたと推測されるのに。

さて、再び野上彌生子日記に戻って、野上彌生子が(豊一郎を別にして)愛した二人の同年生まれの男の死の記録を覗いてみることにしよう。
北軽井沢での「先生と奥様」の講義は、「午後先生へ(帰京する)御別れかたがた最後の講義として先生が鈴木大拙のためにいろいろ伺つた」(S35、11、29、75歳)のが、文字通り最後となった(田辺元全集月報にはそれをプラトンの『ポエチカ』と書いていたのは、それが本格的な講義だったという意味か?)。
翌年、正月早々の1月2日に地元の人から電話で先生が倒れたことを知らされる。「先生が軽るい脳溢血、右手に少々異常。気分もたしか、言葉にも支障ない。長野原の医師が来診。先生はお弟子さんたちには知らせるなといふが、とにかく私だけに内報」したのは、「野上の奥さまだけには黙つてゐては、あとで私(先生)が叱られるからといつた由」(1、3)だと知れた。
彌生子は風邪で体調が悪かったにもかかわらず、直ちに次男の親友のいる群馬大学医学部に連絡をとり、往診の結果脳軟化症と診断されると同病院への入院手続きを手配し(10日に入院)、唐木順三にも知らせた。

彌生子が最初に先生の病室を見舞ったのは、2月27日である。
「(先生は)おカイコのやうに蒼白であつたころよりいつそ血色がよいが、しかしそれが病気のしるしなのであらう。言語障害は六分位よくなつたといふが、それでもよくききとれない部分が多い。例の一筆書いておいて貰ふことは、ゑん曲に口にだしたが、肯定、否定いづれの返事も得られなかつた。いまは〈死〉とともに横はつてゐるにひとしいのに、却つてその死ともつともレンカンのある死後の事を、シンケンに思考することを避けてゐる感じがするが、それよりむしろ今は病気について思ふ事以外にゆとりがないのかも知れない。いろいろ思惟したことが、いまは思惟通りにはいかないうんうんの言葉もあつた。もう一度講義がきかれるやうにいつて別れた時には泣かれた。それまでも(付き添いの)梅田さんが紙をもつてそばから涙をふいたのであるが・・・」
彌生子が婉曲に口にしたのは先生の死後の財産処理についてである。先生の高弟たちがそれまでに遺言の作成を願い出ていたのであるが、田辺は未だ死を問題にしてはいなかったのである(このあと遺言により、遺産が群馬大学と手伝いの梅田夫婦に贈られたことはすでに述べた)。

このことを高弟の一人から耳にしていた彌生子は、見舞いの二週間ほど前にこう記していたのである。
「この三、四年、死こそは先生の思索の主題で、つねにそれと対決してゐるらしく語られたのに、今になつてもそれを近いものとは考へられないのは不思議である。平凡人ならこれもムリではない  しかし先生ほどの人がとおもはれるが、それでも〈死〉とともにある事が実感されないのは、やつぱり〈人間〉の愚鈍さであらうか。私が二十五六日に行く事を話した。その場合、自然に機会が見つかれば、私からキリダス事になりそうだ」(2、14)
5月10日、二度目の見舞い。
「先生は二月より顔色も普通の血色で、むくんだやうなふくらみもとれて快方が眼につく。しかし左半身の不随は依然としてゐる」

この年の山荘入りは7月4日。手伝いに来てくれる梅田さん(田辺に付き添っている千代の夫)から、彌生子はあらためて先生の発病当時のことを聞く。「正月元日に梅田さんが十時ごろ 年頭のアイサツに行つた時には机で書きものをしてゐたーマラルメの訂正ならんか。ーやがて右手が少ししびれる気がするとて床をとらせて寝た。その日の午後はフロのたつ日であつた。やめた方よからんと思つたが例のキマリは決して変へない流儀で、ぬるくしてはいるといひ、入浴中にタタキにうつ伏しに倒れた。もし湯ぶねの縁にでもアタマをぶつつけたらそのままになつたかも知れなかつた。低い呼び声に梅田夫妻が駈けこみ、二人が寝床に抱へこんだ。
その晩梅田さんが書斎の方へ泊らうといつたがそれもきかれなかつた。ところで夜中大便、小便をしたたか洩らし、朝になつてその後かたづけが大変であつたときいて情けなかつた。
これがあの先生かとおもふと気の毒ともなんともいひやうがない」(7、6、76歳)

7月17日の見舞いでは「先生は数日まへ胸が痛み、幻覚が生じたりで発熱、元気なく、私のハガキにたいして見舞いには来ないでといふ返事をお千代さん代筆でだしたとのこと、行き違ひであつた。お逢ひしないで帰らうかといつたが、とにかく逢ふとの事で病室に通る」、同行した谷川徹三が去り際に握手すると、少し泣かれたとあり、ついで「心デン図などにはまだ異状なく、暑さで著しく食慾がないのと、夜もしばしばの尿意で眠りのできないのが衰弱のもとらしい」と書かれる。
さらに7月31日には「先生は熱もとれ、心臓もその後異状なくなつた。さうして夜も昼も長時間眠りをむさぼるやうになつたとのこと。また物忘れも著しく、朝来た医者を夕方わすれてゐる有様といふ。痛ましい事ながら〈生ける屍〉に近いものになりつゝあるのではなからうか」と、心臓に関する記述はつじつまが合わないけれども先生の衰弱していく様子が見て取れる。

ところが彌生子も8月2日、幾度とない下痢で伏せってしまう。食あたりであろうといろいろ原因を考えるうち、いずれにしろ早い手当をとゲンノショウコを煎じて飲んだらてきめんの効果を発揮して、よく眠れた。
その翌日の記述。「夕立のためか夜半は冷え、それに下痢もあつたので布団を一枚とりだして重ねたほどであつた。頭痛も腹痛もあつたわけではなく、たえず便がつゞいただけなのに、からだに力がない。たつた半夜のこれだけの生理の違和が肉体にすぐ作用するのだから、先生の長い病臥が、それに脳の病気だけに、精神に大きくひびくのはやむをえない事であらう」
この日先生の遺産処理の問題があらかた解決しつつある知らせがもたらされた事、しかしながらそれにもややこしい諸問題が派生するという事がこまごま記され、こう結ばれている。
「いろいろと話をきくにつけても、人間は死ぬ事も面倒な事がつきまとふ。生まれる時にはお産婆と産着ぐらゐあればすむのだから、死は生よりよほど手数がかゝる」
この日をもって新しいノートに日記が交換されるや、いよいよ新ノート表紙には「田辺先生御逝去の記事あり」との短い上書きが認められるのである。

が、それはまだ半年以上も先のことである。彌生子は11月13日にも見舞うが「先生はお変はりなし」であった。そして25日、下山する。
12月31日の日記には、先生が正月から入院したことは不幸であったとしながらも、SとY(長男と三男)が無事学位論文にパスしたことを寿ぎ、「とにかくかうして三人の息子も一人前に社会的に地歩をかためてをり、どうにか生活する収入もあり、且つみんなそろつて健康である事は感謝しなければならない」と結んで一年を閉じている。
それではこの昭和36(1961)年という年はどんな年であったのか、参考までに彌生子の日記の記述から三点ほど拾っておく。
まず1月21日、米国大統領がアイゼンハワーから43歳の若きケネディに交代。ケネディは東西冷戦中の6月、ソビエトのフルシチョフ首相とウイーンで歴史的会談を果たすが物別れに終り、翌年のキューバ危機につながる。
その対談前の4月12日、ソビエトはガガーリンによる人類史上初の宇宙有人飛行に成功して、アメリカを宇宙開発の分野でもリードしており、フルシチョフは強気だったのである(「地球は青かった」の名言とともに、一躍有名人となったガガーリンは妻と来日もしている)。これらにおける彌生子の記述は、そのスタンスから当然アメリカに対してより批判的である。

また2月2日の日記には、前日発生した中央公論社社長襲撃事件の記述がある。深沢七郎の小説「風流夢譚」を皇室を侮辱した作品だといきり立った右翼が、その掲載誌「中央公論」の社長宅を襲撃した事件である。社長は不在で、お手伝いさんが殺され社長夫人が負傷した。以来、深沢七郎は姿をくらまし全国を放浪した。
彌生子は先生が入院中もずっと書き溜めていた原稿「秀吉と利休」を、この翌年一月から「中央公論」に連載することになる。
深沢事件の六日後、(以下、繰り返しになるが)相馬黒光(新宿中村屋創業者)の七回忌の記述につづけて、「明治女学校の事や巌本(善治校長)氏の事、ほんとうは一度書いておくとよいのだが」という一文があるのは、黒光が明治女学校の先輩だからふと書き付けたのだろうが、すでにして「森」の構想は胸中に浮遊していたものと思われる。
以上、蛇足ながら。

先生危篤の連絡があったのは、昭和37年4月25日であった。「ニ、三日前より病状に変化が生じ、脳軟化が左に移つたらしく、左脚が利かなくなり、言語障害がひどくなつた上、全身の発疹、腹部の膨れなどにて食事が不振に陥つた事が判明、早急にどうといふことはないにしろ、とにかく東京の方へしらせるべきだとの事になつた由」とある。
彌生子は28日には来客があって動かれないとつづけているが、その日に延期していた豊一郎の十三回忌食事会を予定していたからである。
そのためもあって29日群馬大病院に駆けつけると、先生の親族や弟子、病院関係者などがたむろする中で「先生はまだ昏睡状態でこの病気特有のいびきに似た声をたて」ていた。
「私は奥さまの死の場合は先生が一人でこまつてゐられたので万事とりしきつた世話をしたのではあるが、今は親戚から弟子の諸氏がことごとく揃つてゐる事故、なんにも手だしをすることはないのだし、御暇乞ひはこのまへの訪問ですましたといつてよいのだから(4月6日の見舞いを指す。先生は盛んな幻覚について語ったとある)、今日は一と先づ帰るべきだと思ひ」、唐木順三などに声をかけて帰京した。

上野から電車で成城へ着いて、そこから家人に電話したその電話で先生が死んだのを知らされた。四時二十五分に前橋発の電車に乗ったのだが(それを外すとあとは連絡が悪いので)、翌日の新聞で先生は四時四十五分に死亡したことが判明した。77歳であった。
「もう少しゐたら御臨終に侍してゐられたわけだが、しかしいつそ帰つた方がよかつたらう。もう一切がビジネスなのだから」(4、30)。前日にも「死はもう事務になつてゐた」と記述されている。
「昨日のあの状態の中で急に死が来て、一切が休止したとのこと。いかにも安楽な最後といふべきであつた。夜中に解剖、脳のマヒは可なりひどいものであつた由。脳髄はそれほど重くも大きくもなかつたとのこと、マヒで縮んだのかもしれぬとのこと」(4、30のつづき)
彌生子は北軽井沢での5月6日の先生の葬儀に出席するべく、前日山に入り葬儀の模様をるる書き連ねて三たび同じ感想を記す。
「臨終とともに死が事務になるのは誰の場合にも致し方がなからう。先生の葬儀もそれを免れず、また公的なものが加はつていつそう演出味をそへたわけだ。しかしかうなればそれがなりたけ効果的に行はれるのhs望ましいわけで、とにかくその意味でそれなりに自然に都合よくことが終つたのは関係者をホッとさせたであらう」

葬儀後、いったん東京に戻り再び6月3日、山荘暮しに入る。そこに先生の看病から解放された梅田千代が手伝いに来て、先生に関するさまざまな打明け話をする。
「先生のカンシャク話もいろいろ出たが、入院後はからりと人がかはつて冗談をいふやうにもなつた。お千代さんがこの春高校に進んだ二番目の娘のために時計屋をよんで買ふ事になつたら、〈ぼくにも買つて頂戴よ〉といつた由、また食事中に小水を催すと右手で失敬をしたさうな。病気まへの先生には想像もされない。またどうかして打ち明け話をされ、千代子夫人の発病は結婚して二ヶ月目、そのため長兄の芦野氏とけんかして絶交となつていた由、
これはずつとまへの御千代さんの話だが、先生はこの二月ごろかよく御念仏を唱へる声がきこえるといひ、彼らがそれを否定すると、その方が間違つてゐるやうに考へるらしい。先生、このごろでも御念仏がきこえますか、ときく、あんた達はぼくを信用しないからもうなんにも話さない、といはれた。
西欧哲学の合理主義に徹した思考者の耳が最後にはやつぱり念仏のこゑをきいたといふ事に私はなにか愕然たるものをかんずる」(S37、6、16、77歳)

この話しに相当の衝撃を受けたのであろう。執拗にこだわる。
「先生は正月発病の時には死を覚悟したらしい。
          一と足御先へ失礼いたします。
          どうぞ御無事で
といふ死亡通知をだすことを御千代に指示した。しかしそのまへに、〈死はよいものです〉の一句をはじめは口述し、それはやめよう、ととり消させたとのこと。この間の心理はどんなふうに働いたのであらうか。たしかに死をおもふ一方、なほどこか余裕があり気に見える。ところが病院での最後では死の意識はなかつたらしい。これは麻痺がアタマにも来てゐたせゐであらうか。私の十年余の聴講において先生からもつとも多くきかされたのは〈死〉の一言であつたと信ずるが、その死を死に及んで知らずに死んだといふ事が私にさまざまな課題をなげかける」(6、28)
もっともこの執拗さが野上彌生子足らしめている粘液的な内燃力なのであろうが。

6月16日の記述には、実はもう一つ重要なことが記されていた。
「大島(康正、田辺元の高弟の一人)さんらが先生の机のヒキダシから見つけた紙ぎれに私に関するものがあつたらしい。屹度手紙の束も見つけたに違ひない。彼らとしてはもつともおもしろいものが手に入つたわけだ。しかし手紙は先生のと交換にとり返す方法がなくはない。どちらだつて構はない気もちがあるが」というものである。
彌生子がこれを誰から聞いたのか、この後大島たちが彌生子にこのことを話したのか、あるいはただ黙認したのみだったのか、手紙の束を発見していたのかを含めて、彌生子の短い記述からは一切わからない。

その答えの一部は、それから四十年後の2002年に出版された「田辺元・野上弥生子往復書簡」の「編者あとがき」にあった。編者は二人いて、一人は「野上彌生子全集 第II期」の編集者宇田健(岩波書店)である。全集編纂に携わった時、彌生子の書斎から「先生からの手紙」と上書きのある箱を見出した。
一方、田辺の遺品管理者であった下村寅太郎没後(1995年没だから、大島の発見から33年後)、書斎、書庫を整理する中に田辺宛彌生子の手紙が収められた箱を発見したのが、これも既述した「物語『京都学派』」の著者竹田篤司であった。つまり下村と大島は同じ京大哲学の流れをくむ先輩、後輩の間柄で、共に東京教育大学(現筑波大学)の教授同士であり、その教育大で下村の薫陶を受けたのが竹田だった(なお大島は下村に資料を預けたまま先に死去している)。
発見者の宇田、竹田が連絡を取り合って貴重な一冊が出来上がった。
どうやらそういう経過のようだ。ともあれ「どちらだつて構はない」という彌生子の潔い勇断があったればこそ、こうして秘められた往復書簡集を目にすることが出来たのだ。

それでは日記はどうか。岩橋邦枝は「評伝 野上彌生子」にこう書いている。
「彌生子は八十歳のとき、死後の日記公開を親しい編集者に容認した。しかし発表を意識して手を入れた形跡はない。身内や友人知人に浴びせる悪口も、その日その場の感情にまかせて書きつらねてある。創作に精魂をかたむけ、推敲に推敲を重ねる遅筆な彼女が、日記をいじり直すヒマも関心もなかったことは日記の内容が示している。
日記の公表で、彌生子が一生秘密にした初恋の体験と、老年の大恋愛も私たち読者に初めて明かされた」
日記の公刊は往復書簡集に先立つこと十六年であったのだ。

その初恋の人中勘助の死に野上彌生子日記はどのように反応したのか。
「飯田橋の日大の病院に中さんを見舞ふ。胃カイ瘍ではなかつた事判明とてひとりベッドでつれづれをかこつている有様、もつて行つてあげた英国製のジヤムをパンにつけておひるを食べたりするのをあひだにして、三、四十分ほどゐて辞去」
この後である、例の痛烈な批判が出るのは。再録する。「相かはらず愛読者、銀の匙の話が出る。幸福な人かなとあはれむ思ひで客観的に淡々と退屈を感じつつ接する自らを私は一面おどろきで見る。この一箇の存在の為に半生以上を苦悩した事はなんと奇妙な夢であつたらう。帰ると中夫人のハガキが来てをり、病気は肝硬変といふのだとガッカリしている」(S37、4、23、76歳)
この見舞いの翌々日に、彌生子は田辺元の危篤の電話に接する。

こうまで見下げ果てているくせに、自分がいま飲んでいる薬の問い合わせ電話をした序でに肝硬変の症状をも訊ねて、その返事を中夫人に知らせているのである。
それから二年後(39、5、29、79歳)、何の用事があったのか、彌生子は雨の中うろ覚えの中家を散々探し廻って訪問までしている(この日、安倍能成がめっきり衰えたことが話題に上っている)。日記の記述は念願の再会が叶った頃と比べると極端に少なくなっているけれども、要するに細々と交際はつづけていたということのようだ。
そして11月5日、「〈朝日〉賞に中勘助氏があがつてゐるとかで、その批評を求められた。他には大仏(次郎)氏だの、井上靖氏だの、私の『秀吉と利休』を推してゐるものも少しはあるとのこと。(略)ーとにかく中氏は特殊な存在といふ観点からすればわるくはないし、彼自らもさぞ悦ぶ事であらうが、大仏氏が文化勲章だけでも奇妙な受賞と思はれるのに、朝日賞までとは・・・日本の文学がその程度の事ですむのは遺憾なことかな」と、朝日新聞の文芸担当者の情報を得ての感想。彌生子は大衆文学の価値を認めてはいなかった。

明けて昭和40(1965)年1月3日、「〈朝日賞〉の発表に中さんと大仏さんがいつしよに入つてゐる。中さんに御祝ひのデンワをかける。私情としては彼の入賞はよかつたと思つても、これらの二人にどれだけの文化的な功労があつたとするのかといふ問題になれば、選択は疑問になる。しかしまあ世の中の現象はこんなものであらう」と記しながらも、すでに引用した次の日記文につながるのである(これも再引用する)。
「中さんに宗麟一本大徳寺納豆をとどけさせる。朝日賞の御祝ひに宗麟が役だつたわけである。それにしてもこんなめぐり合せになることが、染井のころに想像されたであらうか。私のこれらのプレゼントも正直にいつて彼の文学への敬意や賞讃のためではなく、私の若かつた時代の思ひいでへの捧げ物である。しかもそれを知るのは彼のみだ。思ひいでといふものは悉(ことごと)く美しいものではない。私たちのものにしろ、ー私にとつては苦しい、懊悩の数十年であつた。しかもいまとなつては彼とほんのあれだけの触れあひを超えなかつた事は、おたがひになんと幸運であつたかとおもふ。もしさうでなかつたら、私の生活はどんな事になつてしまつたか分らない。もとより文学も放棄されたらう。私の晩年の生活が現在の好ましい形式をうちたてる事ができたのは、彼と別々の道を歩いて来たためといつてよい」

この文章を再引用したのは別の理由もある。下線を引いた部分、「染井のころ」という表現である。この言葉は同じ使われ方で、他の箇所にも出てきていた。その時々から気にはなっていたものの、肝心の「染井」そのものがわからずそのままにしていた。
ふと思いついて「新潮日本文学アルバム 野上彌生子編」(1986年、新潮社刊)に当たってみると、成城に落ち着くまでの東京での彌生子旧居が全て(七ヶ所)図解入りででているではないか(19ページ)!しかもその略図には「染井霊園」との書き込みとともに、その近くには彌生子の旧宅表示がされている!そこの住所は府下巣鴨町上駒込338番地(明治39年から41年)、同334番地(明治41年から大正2年)、同329番地(大正2年から大正6年)となっている(カッコ内は居住期間)。つまり、彌生子はここで豊一郎と新居を営み、ごく近隣を二度家移りしているのである。
その一角(隣)には、まだ辻閏と夫婦であった頃の伊藤野枝の家も示されている(明治45年から大正3年)。他にも豊一郎の下宿や漱石宅、芥川龍之介宅、宮本百合子の実家や東京大学、それに明治女学校の位置も。

「染井のころ」は、明らかにこの地を指し、この時期を示しているものと想像される。彌生子の懐古するのがこの地、この時期であるならばやはり告白は結婚後にされたと考えたくなるのであるが。
彌生子は上京して明治女学校へ通うのに本郷の父方の叔父の家に寄宿した(明治33年から38年頃まで)のを、何があったのか(たぶん豊一郎との関係だろうけど)明治38年には神田に引っ越し、そして女学校を卒業した翌年に巣鴨に新婚として移り住んだ、そういう経緯であるようだ。
そういうなかでわざわざ「染井」を出すのは、やはりその場所で夫の友人として勘助に出会った。例のヒューマニズム云々というのは、夫豊一郎を裏切っての告白という意味ではなかったのか?(先に否定したが、その意味では万世と同じ告白をしたのかもしれない)。出会いも別れも一切は「染井」にあったのでは。・・・

4月25日「中さんから手紙」。「宗麟」について朝日新聞に書いたエッセイの切り抜きを勘助が送ってきたのである。「六十年のつきあひなのに、ろくに話あひをしない事を書いてゐた。これは私たち二人だけに分かる言葉だ。一度あなたと話したいのだけどともあつた。何十年と私はその日を夢見て来たやうなものだが、いまとなればいつそなにごともいはず、話しあはずに、六十年まへのイメージをその沈黙の中に保つた方がよいのではあるまいか」
それから一週間ばかり経った5月4日の朝、彌生子は健康診断を受けるために、いつもより早く執筆を切り上げ(毎日午前中を執筆の時間に充てるのが習慣となっていた)、「新聞を取りあげたところ中勘助氏の逝去の事が報じられてゐたのにうち驚ろく。三日夜七時二十分に日本医大で亡くなったとのこと。数日まへに手紙を貰つたこと、それに常のハガキには書かないことまで書いてあつたこと、それについての私のおもひをもこの日記にしるしたあとだけにショッキングであつた。しかし涙はこぼれなかつた
いつそ冷静に過ぎ去つたむかしのいろいろさまざまがあたまの中を通過したのみであつたのは老ひの落ちつきか、それとも老ひの胸の硬化か。いづれにしても私の過去の秘密の大きな部分が、地上からは去つたわけである」

かつての想われ人の感慨は別にして、中勘助は、「私は死を望んではゐない。生を望んでもゐない。私が心から望むのは〈私〉が存在しなかつたことである」(「沼のほとり」大正12年6月某日、38歳)と自ら記した世界へと旅立ったのである。

彌生子の日記は日付、曜日のあとにその日の天候が必ず書き込まれ、訃報を目にしたこの日は「美しい五月晴れ」とあり、勘助の永眠した3日は「雨」と記載されている。したがって上文4日の記述は次のようにつづいている。
「大学(三男の通う東大)に行くまで車窓に映る市街の昨日の寒いわびしい雨に代はる新鮮なみづみづした緑のいろは快(こころよ)いものであつた。燿三(ようぞう、三男)と落ちあふ約束の学士会の食堂でランチをたべて彼の(実験物理学の)研究室に行き、宮本梧楼さん(著名な実験物理学教授)を訪ね、彼の実験室を三つ遍歴。彼もそれを見て貰ふのに悦びを深くしてゐるふうであつた。宗麟一本呈上。この理学部のなんとも古色蒼然たる建物、とりわけ入口の空濠の厚いまるい壁にそうての通路から、エレヴェータのところへの暗い廊下、ロンドン塔そつくりである。しかしこの中の小さい部屋、椅子のきれさへちぎれた村役場にもいまはめつたに見いだされない小室は、いかなる権威によつても、巨万の金によつても、自由にされえない特別の世界である事が新たにしみじみ思はれた。ここの主人公だけには天皇でも、首相でもよしいくらなり度くてもなりえないのである」
アカデミック好きと言えばそれまでだけど、この精神があるから彌生子の老年の恋も生まれたのであったろう。それにしても快晴の空の下に拡がる緑の照り返しを目にしての躍動感、それに次いでのランチと実験室の見学は、生と死の鮮やかなコントラスト意外の何物でもない。勘助の死の悲しみなど微塵も感じさせない、この一連の文章は野上彌生子の真面目(しんめんぼく)というところであろうか。生者の、この日の診断の結果に異常は見られなかった。

まだ記述はつづく。その帰り道、「中野の中さんのところへ御悔みに廻はる。二十七日の夜烈しい頭痛とともに嘔吐、それは中さんの父上の病気とそつくりであつたらしく、おやぢと同じだ、あはてるな、といつた由、そのあと吐血、主治医が来ていつもの日本医大に入院、胸や腹部などに麻痺が生じ、臨終の二日まへはほとんど昏睡のままで逝かれたさうな。
七八人の弔問者が階下の部屋の一方に座してをり、和子夫人の小父さんなる山内義雄(フランス文学者、翻訳多数)夫妻、小堀杏奴、中さんの姪で、和子さんと結婚する時の仲人をつとめたといふ方など、それから中さんが話してゐた燿三夫妻とオハイオでいつしよだつたといふ石井さんといふ英語の教師の方などにお逢ひする。
このくらゐの人数でのひそやかな集りはいつそしんみりとして好ましい。
安倍能成も悔みに来た由、(以下、略)」。そしてこう結ばれる。「疲れはしたが、それでも自分で晩い夕食の支度をするのに困りはしなかつた」彌生子は5月6日生れなので、翌々日の勘助の葬儀の日に80歳の誕生日を迎えていたが、それに関わる記述はない。

5月6日。「安倍さんよりデンワ、(主に、明日の謡の稽古の話を交わしたのであるが)中さんもとうとう亡くなったのねと電話のはじめに話す。あなたも御葬式にいくでせうといふ。さてその葬儀は一時から青山一丁目の玉窓院で行はれた。狭いもとの青山の名残をとめた横町でクルマも一台がやつとといふ有様だが、寺は門からの前庭が奥深く、敷石も古びてもの静かな中さんの御葬ひの場にはふさはしいところ。表玄関が式場でまへに張つたテントの下に焼香の場が設けられてゐた。行つた時、ちようど安倍さんの弔辞の挨拶が行はれてをり、お仕舞ひのところだけ聞いた。いつもの彼流儀の脱線がなく、友情に充ちた言葉のやうであつたのはよかつた。存外につぎつぎ参拝がせまい裏小路につゞく。愛読者として生前の彼がつねになつかしがつてゐた人々も交つてゐるのであらう。山内義雄氏の挨拶を受けた。またお悔みの日に出逢つた英語教師の石井さんからも。帰りのクルマのうちで、彼の訃を耳にしてからはじめての涙がにじむ。何十年のおもひを果してやつと逢えば逢はれる日を持ちえたが、全く彼の二十三日の最後の手紙にあつたやうに、二人だけで六十年間のことを語りあつた事はない。語らなくとも分つてゐるつもりであつた。たまに交した電話の短いやり取りがそれに代つてゐたわけでもある。しかしいまは電話をかけても彼はもう現はれては来ない。しかも電話の向側にはまだ彼がもとに変はりなく存在しさうな思ひが消えない。
T(豊一郎)に対する私の情感にはかうした純粋な思慕はない。それは他のふくざつな回想がそれを乱す為だ。結局N(勘助)とは満たされなかつたが故に永久に純一でまじりつ気のない愛情でおたがひを繋ぎえたのである」

かくして「野上彌生子の恋」は幕を閉じた。田辺元の死には涙を見せなかった彌生子も、初恋の終わりを自覚した時には涙ぐんだのである。初恋も故郷も遠きにありて思うのが、どうやら賢い選択なのかもしれない。
安倍能成はこの翌年に、野上彌生子に至ってはこののちも強靭な生命力を保ち、大作「森」に「雪見にころぶまで」(註)と最期まで取り組み、この日からちょうど二十年後、脱稿まであと数頁、100歳にあと数日というところで力尽きてしまったことはすでに述べた通りである。
近来、日本は世界でも有数の最長寿国となって久しい。先だっても、医師の日野原重明さんが105歳という高齢で亡くなられたばかりであるが、日野原さんは明治44年生れのようだ。この物語でいえば江木妙子が明治41年生れなので生年が最も近いか。そう考えたらなおさら凄いことのように思えてくる。
(註・「森」巻頭の作者の言葉や「森」連載中の日記に見える言いまわし。)

当然、文学界においてもこの傾向は押し寄せ、長寿作家なんて珍しくも何ともなくなった。
まど・みちお(104歳)、石井桃子(101歳)、小島政二郎、土屋文明、丹羽文雄はいずれも100歳まで生きた。
現代作家では、佐藤愛子(大正12年生れ)がちょっとしたブームだし、ドナルド・キーン(大正11年生れ)も健在のようだ。この人は美術家だが、映画監督篠田正浩の従姉という篠田桃紅は大正2年生れだから100歳を超えている。ま、作家が短命だったのに対して画家は長命者が多いのが昔からの通り相場ではあるようだが。あ、そうだ。ドナルド・キーンと同年生れに、かの瀬戸内寂聴がいたではないか。
その瀬戸内寂聴に「奇縁まんだら」という交友のあった人たちのプロフィールを綴ったおもしろい随筆漫談がある。その中の野上彌生子編に、宇野千代(この人も98歳まで長生きした。彌生子より12歳下)が出てくる(「奇縁まんだら 続のニ」)。
そこに瀬戸内寂聴はこう書いている。「小柄で体の背骨をしゃんと伸ばし、いつでもおだやかな表情をされていたが、体のどこにも一分の隙(すき)もなく、剣道の達人のような身構えが伝っていた」と、彌生子を形容し、「宇野千代さんは亡くなる前、私に言われた。『私の畏れ仰ぎ見る人は、天皇陛下と野上先生のお二人です』」。瀬戸内寂聴はこれ以上何も付け加えていないので、言語明瞭意味不明量のままなのだが。あの、宇野千代を畏れ入れさせたとは、いったい何があったのであろう?いや、何もなかったようにも思える。あまりに強烈な一言だったので記憶に残っていたのだが、うーん、わかる、わかるまではいかないけど、ほんのちょっぴりわかるかな?

余談ついでにもう一つ。
灘高の名物教師に橋本武先生がいた。明治45年生れの先生も101歳まで長生きされた(2013年没)。橋本先生は昭和25年から(昭和59年に教頭職で退職されるまで)「銀の匙」ただ一冊だけを教材にして、中学の国語の授業三年間を行なったことで有名になった(その間に灘高を東大進学者数全国トップの座に導いたともいわれる)。灘校は私立で、クラスも持ち上がり方式だったから可能だったらしい。
どんな授業をされたかについては、教え子たちがそれぞれ本にしているのでそれを参照してもらいたいが、昭和25年となればまだ中勘助が生前のことであり、「銀の匙」の内容に分からない箇所があれば勘助に直接問い合わせ、勘助もそれに丁寧に答えたという(実際に勘助に会いに行ったことも何度かあったという)。勘助がよく口にした愛読者の最もたる一人であったろう。
小学館文庫「銀の匙」はその橋本先生の三十五年の心血が注がれた註釈と解説付きの貴重な一冊である(でも残っているのかな)。

中勘助と野上彌生子、27歳と99歳で自伝もどきの小説「銀の匙」と「森」を書いた二人の作家、考えてみれば性別の違う、あるいはそれゆえに人生の道程も徐々に違って行ったけれども、精神的には元々時代が生んだ一卵性双生児ではなかったのか?二人の生の断面を綴ってきて、そんな気がしないでもない。
ともかくそういう括(くく)りにして、唐突ながらこの辺で決着としよう。