故郷徳島に3歳の一人娘を残し、夫の教え子と駆け落ちしたものの破綻、同人雑誌仲間の妻子ある男(小田仁二郎)と半同棲生活を送りながら、生計を立てるための少女向け小説を書き継ぎ文学修行を続けていた瀬戸内晴美が、「女子大生曲愛玲」(チュイアイリン)で新潮社同人雑誌賞を受賞し、次作「花芯」を「新潮」に発表したのは、昭和32(1957)年、35歳の時だった。出奔してから十年が経っていた。
ところが、「花芯」はポルノ小説と囃(はや)し立てられ、「子宮作家」の汚名を浴びたまま、五年もの間にわたって文芸誌から締め出されたという。瀬戸内晴美が文芸誌に返り咲いたのは、同人誌掲載の伝記「田村俊子」が、第一回田村俊子賞を受賞してからである。その翌年、「新潮」に発表した「夏の終り」で第二回女流文学賞を受賞することによって、瀬戸内晴美は確固たる文壇的地位を獲得した(40歳の時である)。

悪評芬々(ふんぷん)だった「花芯」について、のちに瀬戸内晴美は次のように述べている。
「私が『花芯』という小説を書き、徹底的に文壇ジャーナリズムで叩きつけられた時だった。円地文子さんと、室生犀星氏と、吉行さんのお三人からお便りをいただき、あの小説はいいものだと励ましていただいた。もしあの時、あの三葉の葉書がいただけなかったら、私はもう完全に自信を失って再起出来なかっただろうと思う。私はお三人が私の好きな作家だったことと、それまでほとんどおつきあいもない方だったのに思いがけない強い励ましを受けた。今でも私はその時の有難さを忘れてはいない」

昭和46(1971)年に刊行された講談社版「吉行淳之介全集」月報からの引用なのだが、未だ署名は寂聴ではない(僧籍入りは、この翌々年の51歳時だった)。
この文章には、吉行淳之介との初対面の様子も述べられてはいるが、その時期は「もう二十年近い昔」とあるのみなので、激励を受けた時、すでに吉行と「おつきあい」(面識)があったのかどうかは、はっきりしない。
新宿のバーで偶然出くわしたという吉行の印象を、「もう吉行さんは颯爽とした新進作家で、その美しさダンディさは匂うようであった」と、いささか熱っぽく回想している。いかにも瀬戸内晴美らしいのであるが、この月報を書いた頃も彼女は、やはり妻子ある男(井上光晴)と親しいj関係にあったと思われる。
それはともかくとして、新宿のとある酒場で昭和32年前後に出会った新進作家と作家の卵(?)は、それからも共に浮名を流したものの、二人の間にロマンスの花は咲くことがないままに、かといって途切れることなく、ゆるやかな関係が続いたようだ。

というのも、月報執筆から二十数年後の吉行淳之介の死に際して、「吉行さんとの交流は、私にはなつかしいけれど、私が好きだったほど、吉行さんは私を好いていてはくれないんじゃないかと、いつ頃か思いはじめていた。そんな気がしだしたのは、いつ頃からかと亡くなってずいぶん昔のことをふりかえってみたら、私の思い出の中の吉行さんは、いつでも優しくて、こまやかに気をつかってくれていて、決して私に冷たくしたことなんかないのだった。それなのに、なぜ私の方で勝手にそう好かれていないように思いこんだのか、今でもわからない」と、複雑な心情で追憶しているからだ(「群像」1994年10月号、「大根鍋の約束」)。
「好かれていない」のではないか、と感じた理由をたどっていくうちに、それが「出家」にあったのではと、瀬戸内寂聴は思い至っているのであるが(吉行は無信心者であったから)。
ともあれ、はるか昔日の邂逅から幾星霜、死して追悼文で弔われた吉行淳之介、生き長らえて惜別の辞を手向けた瀬戸内寂聴。そのようなめぐり合わせが生じたのも、つまるところ二人して文学的成功に恵まれたからに他ならない。

ところが、ちょっと意外なことに気がついた。この二人の年齢、何となくずっと瀬戸内寂聴の方が年下だと思っていたけれども、そうではなかったのである。
大正13(1924)年4月生まれの吉行淳之介、片や瀬戸内寂聴は大正11年5月であったのである。昭和の年号と満年齢がぴったり一致する三島由紀夫は、大正14年なので吉行より一つ下である(註)。だから吉行の満年齢はそれに一つ足せばよいことに(当然、寂聴は三つを)。
これは死者と生者との間にしばしば起こる錯覚、混同であったようだ。(それもこれも、瀬戸内寂聴先生のいまだ衰えない、ありあまる作家魂の旺盛さに圧倒されていたからでもあろう。寂聴先生は、今年で96歳になられるはずである。こうなれば是非、野上彌生子先人を超える健筆ぶりを発揮してほしいものだ。エイスケの
(註・吉行と同年生れには安部公房、吉本隆明、武田百合子、山崎豊子、相田みつを、高峰秀子、アメリカの作家トルーマン・カポーティなどがいる。)

長寿ということになれば、吉行淳之介の母、吉行あぐりも107歳という驚異的な大往生であったのもよく知られているのでは(明治40年生れの彼女の死は、ついこの間の2015年だったのだから)。
吉行淳之介は、そのあぐり(安久利)と吉行エイスケ(栄助)との間に生まれた。生家は岡山で常に高額納税番付上位に入る土建業だった(吉行の祖父が経営)。その後、東京で11歳年下の妹和子、15歳下の理恵が生まれた。
吉行エイスケは、若き日の川端康成や井伏鱒二(エイスケより7、8歳年上ながら)、舟橋聖一(2歳上)等とも親交のあった超早熟の作家であったし、あぐりは朝のテレビ小説の主人公にもなった日本の美容師の草分け的存在であり、和子は日本アカデミー賞主演女優であり、理恵は詩人にして芥川賞作家である。
その和子は女優業のかたわらエッセイにも才能の片鱗を示し、あぐりもまたテレビ小説の原作となった「梅桃(ゆすらうめ)の実るとき」はじめ著作に手を染め、それぞれ数冊の著書を出している。つまり吉行淳之介一家は、五人全員が物書きでもあるという、はなはだ珍しい例になろう(これから順次述べていくが、吉行と関わりがあった四人の女性たちも、それぞれが回想記を出していることを思い合わせれば、稀有な現象である)。

この家族で特に触れておくことがあるとすれば、淳之介誕生時の父母の年齢がエイスケ17歳あぐり16歳という異例の若さであったことである。
これに関してのエピソードがある。昭和19年夏の夜十時ごろ、淳之介とあぐりは祖母危篤の報を受け慌てて病院駆けつける。以下、吉行の自伝的短篇「崖下の家」から。
「電車を下りると駅の傍に交番がある。巡査が私たちを呼び止めた。母は頭からフロシキのようなものをかぶっていたので、一層若く見えたらしい。それでなくても、母と私とはしばしば姉弟に見間違えられていた。巡査は姉弟とは見ず、学生と女との二人連れと間違えたのだ。戦争末期には、学生が女性と連れ立って歩くことは、許しがたい罪悪と見なされていたのである。
その交番で私たちはかなり長い時間引止められた。母子であるという説明も、巡査は信じない。祖母が死にかけているのだから、という説明も信じない。とうとう私たちは、その巡査を病院の前まで連れて行かなくてはならなかった」
臨終には間に合ったが、その夜祖母は死んだ、とある。実話であろう(あぐりの「梅桃が実るとき」にも、同じ話が出てくる)。

父エイスケは左翼思想や文学にかぶれて、せっかく進学した岡山一中(現岡山朝日高校)を退学処分になるほどに札付きの素行不良少年であったため、後継である放蕩息子の行状を見るに見兼ねていた祖父が、所帯を持てば少しは落ち着くだろうとの了見の下に結婚させたのであった(あぐりの方も弁護士だった父親が突然病死したという事情があった)。
ところが、淳之介が生まれてもエイスケの行状は改まるどころか益々激しくなって、ついには単身上京してしまったので、あぐりと祖母までもがエイスケを追っかけての東京暮らしが始まったのである(結局、家業はエイスケの弟が継いだ)。

ところがのところがである。文学に熱中して相変わらず外泊ばかり繰り返していたエイスケが(あぐりも美容師の仕事で忙しく、子供たちは家を取り仕切っていた祖母に預けられていた)、才能の限界を見極めたのか、それとも次々とあぐりの美容院の支店を(岡山にまで)拡張するうちに、すっかり経営の方にのめり込んだからであったのか、きっぱりと二十七歳で筆を折って髪結いの亭主を決め込み、あぐりの稼ぎ出した儲けをそっくり株式につぎ込んでいるさ中、昭和15年夏34歳の若さで、それも一歳を迎えた理恵の誕生日に狭心症で急死したのである。
父親死亡時、ひどい小児喘息を患っていた和子は養生先の伊豆に預けられており、(旧制私立)麻生中学生だった16歳の淳之介は、チフスに罹患して伝染病棟に隔離され重体で臥せっていた(退院してから父の死を告げられた)。父エイスケが残したものは、株式売買による莫大な借金と身重の囲い女の存在だったという(この子どもは戦時中に死んだという)。
やがて日本は太平洋戦争へと突入し、市ヶ谷にあったあぐりのハイカラな美容室は類焼を恐れて取り壊され、隣接した住居も祖母の死の翌年、昭和20年5月の東京大空襲で焼失した。

瀬戸内晴美が初めて吉行淳之介に出会ったころ(それは「花芯」バッシングの前後ということだが)、吉行淳之介が「新進作家」だったのはまぎれもない事実である。
昭和29(1954)年に四度目の候補となる「驟雨」(しゅうう)で第31回芥川賞を受賞して以来、次々と短篇を発表し作品集を刊行していた時期であったのだから。
また吉行の受賞と相前後して、後に「第三の新人」と称されることになる「新進作家」たちが、芥川賞を通じて続々と誕生していた。吉行受賞の前年には安岡章太郎が、直後には同時受賞で小島信夫と庄野潤三が、続いて遠藤周作が、(そして石原慎太郎を挟んで)近藤啓太郎が芥川賞作家となっている。安岡章太郎の受賞から、わずか三年間の出来事である。
「第三の新人」には、これらの芥川賞作家に加えて阿川弘之、三浦朱門、小沼丹、曽野綾子、時には島尾敏雄までもが組み入れられたりする。受賞を逃したもののほぼ同時期に、全員が芥川賞候補に挙がっている。

以下、余談が混じる。
この落選組のなかで最も芥川賞に近かったのは、吉行淳之介と競り合った曽野綾子「遠来の客たち」であったろう。丹羽文雄や石川達三(銓衡委員)が強力に推す初候補の曽野綾子に対して、負けじと対抗したのが、初候補作「原色の街」から吉行淳之介を評価していた舟橋聖一である。際どく吉行だけの受賞となったようだが、こういう時こそ二作授賞でもよかったのでは(そうなっていれば、吉行と曽野綾子の組み合わせは、美男美女カップルということで話題になったであろう)。

吉行、曽野以上に激烈な論争は、近藤啓太郎の受賞翌年の第38回芥川賞(昭和32年)でも起きた。開高健「裸の王様」と大江健三郎「死者の奢り」の一騎打ちである。思うにこれは、芥川賞史上最大の激突だったのではあるまいか。激論果て、この時も「裸の王様」の単独受賞で決着した。
激論は、石原慎太郎「太陽の季節」でも渦巻いたのだったが、この回は二者択一をめぐってではなく、作品そのものについての賛否であった。問題となった若者の性風俗が、マスコミでセンセーショナルに取り上げられて、芥川賞は一挙に世間の注目を集める文学賞となった(後年の村上龍「限りなく透明に近いブルー」でも同様の現象が起きた)。
開高健に次いで、「飼育」で受賞した大江健三郎が(その文学的資質もさることながら)、石原慎太郎同様に学生身分での受賞だったこともあり、話題を振り撒いたのも貢献しただろう。

ともあれ、その頃の「第三の新人」たちの置かれた状況は厳しいものであったようだ。
というのも「第三の新人」たちの背後を追走するかのように、大型新人と目された石原慎太郎、開高健、大江健三郎、あるいは異色の新人「楢山節考」の深沢七郎たちが出現してきたのに加えて、「第三の新人」の前方には、戦後すぐに出発していた野間宏、椎名麟三、埴谷雄高、武田泰淳、梅崎春生等の第一次戦後派、並びに続いてデヴューした大岡昇平、三島由紀夫、安部公房等の第二次戦後派と称された長篇小説を主体に重厚な作風を示す先発群団の存在があったからである(なので「第三の新人」と呼称された)。
身辺生活に題材をとり私小説的手法で矮小な日常の出来事を短篇にするばかりで、社会的関心が希薄な小市民的世界観しか持ち合わせない「第三の新人」たちは、まさに前門の虎後門の狼といった状況下で、そのうちに自然消滅するであろうとみなされていたのである。

吉行淳之介亡き後、「群像」(平成6年10月号)誌上で「我が友吉行淳之介」と題する追悼座談会が開かれた。出席者は阿川弘之、遠藤周作、小島信夫、庄野潤三、三浦朱門である。
その中で当時の「第三の新人」たちの立場が、矮小化されておもしろおかしく語られている。「大きなタンク(註・「第一次、二次戦後派」のこと)が行った後は歩兵(註・「第三の新人」たち)がついていく」という感じだったと小島信夫が言えば、それに応えて三浦朱門が、安岡章太郎の「戦後派といわれる人たちがブルドーザーでやった後を、我々は小さな畑にしているんだ」という言葉を持ち出している。「第一次戦後派」を「左翼崩れ」、「第三の新人」を「不良少年崩れ」呼ばわりされたこともあった、との阿川弘之の発言もある。

吉行自身も、「私の文学放浪」(昭和40年)に「『第三の新人』という名称には、貶(おと)しめるニュアンスが含まれていた。この場合の『第三』には、三等重役とか三等切符通じるものがあった」と振返っているし、安岡のことにも言及して、その頃、ロックフェラー財団の招きでアメリカにいた庄野潤三に、安岡が「第三艦隊ハ沈没シカカッテル」と報せていたこともあった、と明かしている。過小評価に直面するたび、彼等なりに危機感を抱いていたのである。
もっともらしく「第三の新人」と呼称されてはいたとはいえ、若き吉行エイスケを強力に惹きつけたダダイズムやプロレタリア文学運動のように、彼等に集団としての思想性、文学的主張があったわけではなく、小粒の小説を書く新人群が一時期にたまたま固まって出てきたのを、幾分かの揶揄と軽侮を込めて便宜的に称したに過ぎず、その意味では上流階級出身の武者小路実篤や志賀直哉たちを、大雑把に「白樺派」とひとくくりにしたのと事情は似ていたかもしれない(第一次、第二次戦後派だって、同じようなものだろうが)。ともかく「第三の新人」たちは、軽んじられていたのである。

月日は流れ、それからほぼ三十年後、昭和も終り近くなって昭和文学全体を俯瞰、主要作品を網羅した、その名も「昭和文学全集」(全35巻)が小学館から刊行された。この編集委員に井上靖、山本健吉(「第三の新人」の命名者)、中村光夫等と並んで吉行淳之介が名を連ねている。ということは、とりもなおさず吉行淳之介が昭和文壇の大家となったことを証すことであろう。
事実、「第三の新人」たちの危惧もいつのまにか雲散霧消、吉行淳之介の歩みは順風満帆そのもので、新潮社文学賞受賞を皮切りに芸術選奨、谷崎潤一郎賞、読売文学賞、野間文芸賞、日本芸術院賞を次々と受賞すると昭和56(1981)年には日本芸術院会員に選出され、それらと相まって芥川賞、泉鏡花文学賞、谷崎潤一郎賞、川端康成文学賞、野間文芸賞などありとあらゆる選考委員に就任という華々しい経歴なのだ。

しかも「昭和文学全集」全配本が終了した平成2年秋に、同じ小学館から「群像日本の作家」と銘打たれた、明治以来の日本文学を代表する二十三人の詩人、作家を精選したシリーズ(全23巻)が刊行され始めると、この日本文学界の最高峰たる歴々にまじって吉行淳之介の名前も入っているのである。
と、こう書いてもピンとこないだろうから、その顔ぶれを列挙してみる。
夏目漱石、森鴎外、樋口一葉、島崎藤村、泉鏡花、与謝野晶子、石川啄木、谷崎潤一郎、志賀直哉、萩原朔太郎、芥川龍之介、宮沢賢治、川端康成、小林秀雄、中原中也、井伏鱒二、太宰治、三島由紀夫、大岡昇平、井上靖、遠藤周作、大江健三郎である。

これには少しばかり驚いたけれども、人気作家を選んだともあるので・・・まあいいとして、「昭和文学全集」の方には、上に挙げた「第三の新人」のうち近藤啓太郎一人を除いて、全員の作品が複数収録されている(小沼丹だけは、やや軽い扱いにされている)。
これでみると「第三艦隊」は、どうやら前後二つの勢力に挟撃されても沈没することなく昭和の厳しい文学戦争を生き延びたのである(まさか、編集委員に吉行がいたからではあるまい。情実が働いていたら、もっとも付き合いが頻繁だった近藤啓太郎をよもや落とすことはあるまい)。
ちなみに「昭和文学全集」に収載された「昭和最後の新人」は、「限りなく透明に近いブルー」の村上龍であり、村上春樹の名前はない。

吉行と近藤啓太郎の交遊だけでなく、こもごも盛んな交流を展開したのも「第三の新人」たちの特徴であったかも(この点も「白樺派」と似ているのかナ)。おもしろおかしく書いた仲間内の交友録の量が、その親密さ、濃密さを物語っている(ここでも小沼丹だけは登場しない。「白樺派」における有島武郎的存在だった?)。
一般に「第三の新人」を代表する存在となると、安岡章太郎と吉行淳之介ということになろうが、メンバーの接着点の位置にいたのは吉行淳之介だったろう。それは吉行淳之介が「第三の新人」の文学的リーダーという意味ではなく、メンバーそれぞれが付き合い始めたころ、吉行家が市ヶ谷駅前にあったことで集まりやすく、たまり場なったのに加えて吉行淳之介が来るものを拒まず、飲む打つ買うの三拍子揃いの遊び好きだったことも大きく作用したからであろう。ただし飲む打つ買うのうち、飲む買うは別にして(?)安岡、遠藤、三浦、島尾、小島、庄野はバクチ嫌いであったのに対して近藤、阿川、吉行はバクチ狂いだったと、吉行がエッセイに繰り返し書き残している(また、聖心女子大出身の曽野綾子はもとより三浦、遠藤、島尾はカトリック信徒であり、安岡も晩年に遠藤の導きで入信している)。

安岡章太郎の抱腹絶倒交友録「良友・悪友」(1966年新潮社刊)から、内緒話を一つ。
メンバーの中では紳士然として比較的真面目派(?)の三浦朱門は、曽野綾子嬢に恋してめでたくゴールインしたのであったが、「何を仕出かすかわからない男」と警戒していた吉行にだけは綾子嬢との交際をくれぐれも秘密にしておいてくれと、安岡に頼み込んだとか。
これは本当のようだ。吉行自らも「私の文学放浪」に、「私がガラの悪いことを言うことによって、曽野綾子との縁談が毀(こわ)れることを恐れていたようだ。結婚式の日まで、私は曽野綾子嬢を見ることができなかった」と書いているのであるから(すると、安岡は三浦との約束を律儀に守ったことに?)。

さて、吉行淳之介の身辺雑記のつもりで、無駄口ばかり並べてずいぶん遠回りしたようだ(とはいえ、これからも、そうなりそうだ)。そろそろ標題の長篇小説に触れなければ。
まず、昭和36(1961)年(吉行37歳)に発表した「闇のなかの祝祭」であるが、この作品はその四年前から続いていた吉行自身の恋愛事件を題材にしたものである。四年前はちょうど、「新進作家」の吉行が「花芯」の瀬戸内晴美を激励した(であろう)ころと重なる。
その昭和32年11月、女性雑誌が企画した「ファニーフェイス時代」と題された鼎談で(写真家秋山庄太郎が同席)吉行は、当時絶大な人気を誇っていた女優宮城まり子と初めて対面した。この出会いが口火となって、二人は恋に落ちた。この鼎談そのものも、作家の芹沢光治良(こうじろう)が急に都合が悪くなり、吉行は代理出席であったという。となれば、運命的出会いだったのか。

この恋愛に引きずられる形で、結局、吉行は妻子を捨て家を出たのである。瀬戸内晴美の男版、世間で最も多いケースである。瀬戸内晴美が戦後混乱期の真っ只中に徳島から遠路上京したのに対して、吉行は岡山生まれとはいえ東京で育ったのであり、市ヶ谷の焼跡に戦後二間だけの家を再建し、そこが夫婦の住居になっていた(「第三の新人」たちが集った家である)。なので家出といっても、行方をくらましたわけでもなく、当初は都内を自分で車を運転しながら転々としていただけなのであったけど。
「もはや戦後ではない」の経済白書が出たのは昭和31年である。その宣言通りに、日本は経済大国へと驀進中で、庶民の間に急速に普及しつつあった「三種の神器」(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)は、やがて「いざなぎ景気」とともに「新三種の神器」(カラーテレビ、クーラー、自動車)の3C時代へと移行してゆくのであるが、吉行が自家用車を購入したのは、昭和34年もしくは35年のことだったのでは(参考までに書き添えておくと、皇太子昭仁親王と美智子妃の成婚式パレードは昭和34年の春である)。

安岡章太郎は「良友・悪友」に、「戦後はじめて自動車を所有したのは舟橋聖一だそうである」と書き起こして、「第三の新人」中で自家用車に乗り始めたのは、三浦、阿川、吉行の順番だったと述べ、しかし吉行の場合は便利な麹町五番町に家があるのにと不審に思って、その理由を問いただすと、吉行は次のように答えたとある。
「それは八千子さ、八千子のおかげで、こういうハメになっちゃったんだ」「何だって、八千子さん、そんなに自動車マニヤなのか」(と、これは安岡)。「そうじゃないよ。わからないやつだな」吉行は、じれったげにこたえた。「宮木八千子くらいになると、ちょっとしたハイヤーやタクシーの運転手には、みんな顔を知られているからねえ。いや向うが気がつかなくても、こっちが落着かない気分になるから、結局困ることは同じなんだ」
(この後一行空けて、八千子なる女人の正体が明かされる)。「宮木八千子(仮名)は著名なミュージカル女優であり、彼女と吉行との間柄が、だいぶ前からかなり親密になっていることは私も聞いて知っていた。どういうキッカケで、そういうことになったかは知らない」

もうしばらく、引用を続けたい。
「とにかく、これはよっぽどの覚悟が必要だぞ。行くところまで行く、向うはそのツモリが充分にあると思わなくちゃいけないぞ」(いつもならず吉行が、この恋愛に真剣になっているのを感じた安岡が忠告すると)吉行の方はまるで憑きものでもしたように、「なァに、そうなればなったで、こちらも行くところまでは行くさ。いずれ一生面倒は見てやる気持だよ」と平然たる顔つきだった。私は吹き出さざるを得なかった。面倒をみるといったって、当時の吉行と宮木八千子を較べると、正直のところどうしたって面倒を見られるのは吉行の方だと思われたからだ。
(とあり、続けて吉行がテレビも欲しがっている話に移る)。
つまり吉行がテレビを欲しいのは、そのなかに映る宮木八千子の映像が見たいからだ。そして、そのテレビが買えないのは、すでに吉行の細君が吉行と八千子の間に何かがあることをかなり強く疑っており、吉行はそれを負担に感じているというわけだった。

(そしてこういう説明が入る)。
元来、律儀で陽性な吉行は、これまで浮気をしても細君に報告し、報告した上で納得させるという、放胆さと実直さを混合させた一種特異の方法で家庭を治めてきたのだが、こんどは八千子嬢の立場を傷つけぬために、秘密を守りぬく義務を生じたのだから、負担は重かったにちがいない。吉行としては眼に見えぬ苦痛に相当イラ立ったり、悩まされたりしたはずだ。とにかく、これまでの〝放胆・実直〟から〝小心・不正直〟に家庭内の政策の変更を余儀なくされた吉行は、いままでとは逆に傍目にも滑稽なほど細君を怖れはじめた。すると、それは八千子嬢の自尊心を傷つけることにもなり、「そんなにビクビク奥さんのことを怕(こわ)がるのは、あたしに対する誠意がないからだ」といった責められ方をするらしく、それやこれやで吉行は病気にならぬのが不思議なほど疲労困憊していた。
そんな吉行にとって、唯一の息ヌキは(人目をはばかる八千子嬢との逢いびきに使う)自動車だったかもしれない。

(さらに、説明は続く)。
とにかくそのころの吉行は、家庭と、仕事場と、隠れ家と、八千子嬢の家と、子供の病院と、そんなところを五箇所か六箇所、一日に一度は見廻らないと、たちまちどこかが噴火し、爆発し、生活全部が破壊されるという危険な状態にあったことは確かだ。そんなメンド臭いことがよくも続けられるものだと、私は傍らで見ながら感心したり、アキれたり、また人ごとながらウンザリもさせられたりしていたが、吉行としては息をぬいたら立ち上れないという倒産寸前の事業家の心境だったのだろう。いずれにしても、そんなときには自動車に乗ると、自分専用の鉄のトーチカか何かにもぐりこんだ気分で、いわば兵隊が便所でしゃがんだような開放感と気休めの孤独に浸ることが出来るのかもしれない。(以上、カッコ内を除いてが安岡章太郎の文章)

「吉行淳之介と自動車の関係」という、そのものズバリの章題をつけた安岡章太郎のこの文章は、めっきり車の運転が上手になった吉行に誘われて、安岡と近藤啓太郎の三人が、千葉の佐原(結核にかかった二十代の吉行が、小島信夫に紹介されて療養していた土地)への小旅行に行く道すがら、休憩した利根川土堤で夕日を浴びつつ、八千子嬢心配りのメロンにブランデーをかけ、うまい、うまいとパクつくところで終っている。
こうして書写してみると、この引用文に「闇のなかの祝祭」の内容のほとんどが綴られているのに気づく。「良友・悪友」は、「闇のなかの祝祭」の四年後に書かれた交友記なので、安岡章太郎は当然それを読んでもいたろう。安岡がどのように評価したかはわからないけれども、「闇のなかの祝祭」の評判は酷いものだったようである(瀬戸内晴美の「花芯」が、そうであったように)。
吉行淳之介を語る際、しばしば引き合いに出される(この文章でも再々引用した)「私の文学放浪」の中で、吉行自身が「闇のなかの祝祭」に触れているので、それを以下にかいつまんでみる。

「百七十五枚の作品『闇のなかの祝祭』を書くために、私は七ヵ月かかり、同じ枚数の原稿を破棄した」「素材のなまなましさに引摺られかけ、そうなると、これまでの私の作風とは違ってしまう。違っても、全く別の作風として成り立てばよいのだが、中途半端になって文字が原稿用紙の上にへばりついてしまい、起き上がって語りかけてこない。そういう部分を破棄することを繰り返しているうちに、ようやく、作品を組立てるための材料を実生活から引っぱがして手のうちに握ることができるようになった」
「私が狙ったものはもちろん実生活の告白ではない。それではなにかといえば、女性に惚れたときの妻子ある男の状態の悲しさを含んだ滑稽さを描き出そうとした。男の気持が真剣になればなるほど、その滑稽さは大きくなってゆく」・・・
そういう小説だったけれども、「細部を私の実生活から持ってきたことは、私の失策だったかもしれない」。「自分の掌で掴んで確かめた体温の残っている材料に対する未練が、作家としては捨て切れなかった。したがって、この作品を告白として読んだ読者を、作者の私はあながち責めるわけにはいかない。
この作品を書いたことによって、いろいろのことが起こった。まず、文芸時評の大部分によってけなされ、わずかの人によって強く褒められた。ふやけたノロケ小説という評もあったが、余計な雑音から独立して読まれる時期がきたならば、そういう評が当たっていないことが分ってもらえるというのが、作者の自負である」

吉行の「自負」たるや相当なものであるが(註)、それには次のような創作態度があったからであろう。
「僕の書くものは体験をそのまま述べたものと考えている読者がいるが、一つの主題を表現するためには、体験をそのまま書けばよいという都合のよいことはありえない。ただその主題を形作るための材料を、僕は自分の体験に求めることは事実だ。なぜなら、その方が材料に血が通って実感が出てくるからである。しかし、その主題の材料にふさわしい材料が体験の中にないときには、その材料を虚構することもしばしばである。
そういう材料を一つの主題のために再構成したものを、そのまま体験記とおもわれることは、一つには、あるいはよろこんでよいことであり、また一つには、その奥にある抽象的な主題を読み取ってもらう力が、われひとともになかったことを悲しまなくてはならぬだろう」
この文章は「闇のなかの祝祭」より三年前の昭和33年、毎日新聞に「小説における『私』」と題して私小説を論じた小文の結論部分である。
(註・この文章だけでなく、吉行のエッセイ等からはこれに相応するような表現は多々みられる。これら過剰なまでの自尊心は、吉行家の長男に生れて学業優秀、兄を崇める年の離れた妹二人という環境がもたらしたものだろうか。)

もちろんこれはリアリズムの問題に触れたもので、同時に吉行の小説作法がよくわかる文章ともなっているのであるが、こと「闇のなかの祝祭」に関しては、ここに述べた吉行の懸念がねじれた形で的中してしまったことになる。
年譜を見るに「闇のなかの祝祭」は、昭和36年11月に「群像」に発表、12月講談社より刊行とある。異例の速さで単行本化されたのは、このタイミングで「週刊新潮」が吉行と宮城まり子の関係を、「小説を下敷きにし」たスキャンダル記事を報じたからであったろうか?
「私の文学放浪」には、記事になることを事前に伝えに来た「週刊新潮」の友人の編集者から、こうなってしまったのだからどうしようもないので、少しでも誤解がなくなるようにするために取材に応じてくれと頼まれたが、吉行はそれを拒否。「自分で蒔いた種」だと観念した上で、「深いものでもないが浅くもない」関係の、「あの作品を告白記と見做して」いる新潮社との絶縁を決意したとある。

この騒動を聞きつけた作家たちが「明日はわが身」とばかりに立ち上がり、吉行の窮地を救うべく新潮社に抗議を申し込んでくれたにもかかわらず、記事の題名を訂正(やわらげてくれたという意味か)しただけの効果しかなかったという。こう書かれている。
「訂正した題名は記憶していないが、元のものは〝スキャンダルの女たち〟というもので、女を主人公にしたトラブルを四つ集めた特集記事であった。それを見て、私ははじめて怒りを感じた。残りの記事は、すべて犯罪に関係のあるものだったからである。
転んでもただでは起きないのが作家としての心構えだ、と私はおもっているから、この記事を受け止めることができるのだが、M・MおよびHは立場が立場だけに実害を受けた。余計なことを書いてしまったかな、ともおもった。〝大義親を滅ぼす〟という心境には、あまりなれなかった。私自身は、終始かなり平静を保っていたつもりでいたのだが、気が付いてみると、五十円硬貨大の神経性のハゲができていた」

抗議してくれたのは、中村真一郎、高見順、柴田錬三郎(評判小説「眠狂四郎」を、当時「週刊新潮」に連載中だった)、水上勉に安岡と阿川だったと吉行は記している。週刊誌がそれこそ雨後の筍(たけのこ)みたいに誕生していた頃で、吉行が、浅からぬ関係にあると思っていた新潮社が「私が迷惑するのがわかっていることを記事にするのは、エチケットに反しはしまいか」などと憤慨しているのは、いかにも時代を反映してのんびりしたものだ。
文中のHは吉行の妻で、M・Mはもちろん宮城まり子である。記事タイトルから判断しても、安岡章太郎が笑ったようにあくまで吉行は脇役扱いで、スター宮城まり子の略奪愛を取り上げた(中傷した)ゴシップ記事であったろう。昔も今もマスコミに追われるのはスター(芸能人)の宿命だから仕方ない。それでダメージを与えられたとしても、宮城まり子は男の愛を勝ち取った側の、恋の勝利者なのだから自尊心までは傷ついてはいない。
しかし、Hすなわち吉行の妻はそうはいかない。それまでは夫婦間の問題でしかなかった夫の不倫が、突如世間に公開されたのである。誰でもがその名前を知っている人気スターが相手だということで、当然人々の耳目を集めたであろうし、しかも夫は御丁寧にも、不倫の一部始終を誰にでもそれとわかる人物構成にして、スキャンダル報道を裏書きするような小説を発表しているのである。夫の愛を失った女として丸裸で世間の晒し者にされたような屈辱と怒りで気も狂わんばかりであったにちがいない。

漱石門弟の作家内田百閒は今でも根強い人気がある。吉行も時折愛読したようである。最後の入院時に持ち込もうとしたのも内田百閒の「東海道刈谷駅」だった、と吉行を看取った宮城まり子が、その著者「淳之介さんのこと」に綴っている。盲目の琴の名人、宮城道雄の鉄道事故死を書いた小説である。何か思うところがあったのであろうか。
晩年の吉行に「百閒の喘息」という作品がある。百閒が喘息持ちだったことに着目して、昭和64(1989)年に発表した短篇である。この病気には吉行も(妹の和子も)散々悩まされたから、関心もあったのであろう。
小説では、喘息以外にも百閒とは奇妙な縁があったと書かれている。
百閒は吉行と同郷岡山の生れで、生家は後楽園の傍にあって(後楽園は、吉行が子供の頃から好きで中学、高校生になっても帰省するたびに行った場所とある。註)、吉行の生家とも近かったと述べ、こうつづく。
「上京したあと、内田百閒は昭和十二年に牛込市谷(いちがや)仲之町から、麹町区土手三番町三七番地に転居した。私は昭和三年から同区土手三番町一九番地に住んでいた。十九年だったか、町名表記が変り、土手三番町は五番町になった。
昭和二十三年、百閒先生はすぐ傍の六番町の新築極小住宅に移った」
つまり、東京でも百閒と偶然隣同士のようなところに住んでいた、というのである(ついでにいえば、黒澤明の映画「まあだだよ」の主人公夫婦が住む小っぽけな家が、この「新築極小住宅」である)。
(註・水戸の偕楽園、金沢の兼六園と合わせて日本三名園とされる。)

上文は「私は三十五年まで五番町にいたが、百閒先生の住居の場所は今でも曖昧である」、「二十二年間、歩いて五分ほどのところに住んでいたのだし、愛読者であったのに、道で見かけたこともない。とうとう、生身の内田百閒を見ることはできなかった」、と書き継がれる。内田百閒が81歳で没したのは、昭和46年である(三島由紀夫自死の一年後)。
ここにも深くもないが、かといって浅くもない関係がみられるのだが、実をいうと「百閒の喘息」の話をわざわざ持ち出した目的は、下線を施した部分に注目したからである。
「百閒の喘息」は小説とも、随筆とも、手記とも読める作品である。これは吉行の短篇によく見られる手法で、その存在を互いに意識しあっていたと思われる三島由紀夫を短篇にした「スーパースター」では、いきなり「小説というか実話というか随筆というか、自分でも判断がつかない」と、書き出してから話を始めているほどである。
「スーパースター」同様に、熟練の技で「百閒の喘息」も小説風に巧妙にアレンジされてはいるものの、素材はすべて「実生活」の「体験」だけを寄せ集めたものである。虚構と思われるものは何一つない事実の羅列である。そう断定しても誤りではないだろう。

このことからも「私は昭和三十五年まで五番町にいた」という叙述は事実であろう。わざわざ嘘をつく必然性は全くないのだから。この一行によって、吉行がその年を最後に、市ヶ谷の家を出たことが確認できるわけである。
どうしてこんな廻りくどいことを言うのかといえば、先に触れた「昭和文学全集」の吉行の年譜には、私的な事柄が一切記載されていないからである(多かれ少なかれで、どの年譜だって同じようなものだが、瀬戸内寂聴の出奔はちゃんと記載されている)。宮城まり子との出会いもなければ、吉行が妻Hといつ出会い、いつ結婚したかも、子供がいつ誕生したのかも一切書かれてはいない。当然、家を出た時期も。

したがってそれらの事実を確認するためには、盲滅法に当たりをつけて吉行の作品を、あるいは吉行周辺の作家が書いたものとかを(安岡章太郎の「良友・悪友」みたいに)、読み進めていくしか方法がなかったのである(もちろん、「闇のなかの祝祭」にも、それがわかる年月日の具体的叙述はない)。
それで早速、吉行死後に出た新潮社版「吉行淳之介全集」(平成9年、全15巻)を図書館から借りてきて、読み始めた数篇に「百閒の喘息」があったのである。
さらに全集年譜には、吉行夫妻の入籍した年と宮城まり子との出会いだけは記載されていた。はてな、と年譜作成者を見てみると、宮城まり子の名前があった。つまりは宮城まり子が、それを入れたということになるのだろうか。

さて、「百閒の喘息」の一行の意味するところは、宮城まり子との出会いからほぼ三年の月日を経て、彼女と同棲生活に踏み切るべく、その年を限りにして家を出たということである。
「闇のなかの祝祭」の発表は、昭和36年11月なので家出から間をおかずして書かれ、「群像」発表から日を置かずして予期せぬスキャンダルに見舞われ、その経緯を振返ったのが四年後の「私の文学放浪」での回想文だった。一連の流れはそういうことのようだ。
すでに、吉行の最期を看取ったのは宮城まり子だと、さりげなく(そのつもりで)触れておいたように、スキャンダルにさらされたからといって、二人が別れるようなことはなかったのである。却って、世間公認の仲になり、吉行の小説家としての知名度に貢献したのかも。
裏返せば、吉行は妻子を置き去りにしたまま、二度と元の暮らしに戻ることはなかったということでもある。

と、ここまでこの文章を書き進めたとき、筆者(この文章を書いている私)が家人と何気ない会話を交わしているうち宗教の話になって(もちろん吉行とは関係なく)、家人が偶然口にした「釈迦(ブッダ)も生れたばかりの我が子を残し出家した」という意味のひと言に、思わず吉行のことが頭に浮かんだ。
吉行が神仏を信じていなかったのは間違いないと思われる。例えば、祖母の臨終と死を書いた前掲の短篇「崖下の家」(昭和32年)には、語り手である「私」の宗教に対する思いが書かれている。
「自分は宗教というものには、不感症といってよい。人間の知恵で計り知れない存在を神とか仏とか言うとすれば、そういう存在はあるかもしれぬとは思う。しかし、そういう存在が人間と交渉を持つということは、全く信じない。そういう存在が信心深い人間を選んで手を差しのべるという考えに至っては、ナンセンスとしか思えない」
この一文は、そのまま作者吉行の見解であると受け取ってよいだろう。これはもう、確信犯的言辞である。

このことからも、無信心者の吉行に、カトリック信徒である曽野綾子を引き合わせたくなかったというのは、始めから全くの三浦朱門の杞憂でしかなかっただろうし、瀬戸内寂聴の吉行追悼文にあった吉行観察、すなわち仏門に入った寂聴が感じた吉行の微妙な態度の変化は、必ずしも彼女の思い過ごしばかりではなかったようである。
出家と家出、文字がひっくり返っただけで大きな違いを含むこの言葉。同じく妻子を捨てながら釈迦とはちがった吉行淳之介の家出(註)。
だからといって、吉行が行方をくらましたわけではない。折にふれて、妻子のもとに足を運んではいたようである。が、それは我が子恋しさというよりも、当面の目的があって妻との話合いを持つ必要があったためと思われる。
この、世にありふれた三角関係の結末は、神仏の思し召しであったのか、それともそこには家出した男の深層心理に、なお、妻子への配慮がうごめいていたのか、こういうケースでは意外な、したがって数少ない事例を示して展開したのである。
(註・やはり、この家出は結局のところ、吉行の「ブンガク」への出家であったのかも。つまり、吉行の家出は、充分に〝大義、親をも滅ぼした〟のであったのではないか。そういう解釈もできそうだ。)


(以下、「闇のなかの祝祭」と「暗室」(2)につづく。)
(追伸。今日、2018年4月14日は吉行淳之介の誕生日である。たまたまこの日、校了となったのもお釈迦様のお導きかも。)