「闇のなかの祝祭」は、このように書き出されている。
「赤児の泣き声が、熄(や)まない。狭い家である。その泣き声を理由にしよう、と沼田沼一郎はおもった。
『うるさくて、原稿が書けない。ちょっと散歩してくる』 
妻の草子は、黙って見送った。はっきりした目的をもって出かけてゆく充実した線が自分の背中に現れていることを感じ、その背中に貼り付いてくる妻の視線を感じ、彼はうしろめたい心持になった。長い年月、彼の姿勢にこのような充実の気配は、現れたことがなかった。それは、妻の眼から隠さねばならぬもののようにおもえた」

「狭い家」とは、昭和20年5月の空襲で焼失した市ヶ谷駅前の家の焼け跡に、戦後に建て直した六畳と四畳半二間に小さな台所が付いた家のことである。
この家の四畳半に吉行夫婦が、あぐりと和子と理恵が六畳で暮らしていた。当時の住宅難は想像を絶するほどだったのである。やがて、再婚したあぐりとともに妹たちも、敷地内に建てた義父の家に移った。
この「狭い家」に、「第三の新人」たちがぞろぞろ集い、その頃大阪に住んでいた庄野潤三なんかは、上京のたびに宿舎代りにもしていたようである。
ここに出てくる沼田沼一郎が吉行淳之介であり、草子が吉行の妻文枝(前章のH)であり、赤児は二人の長女である。すべて事実通りの叙述(人物配置)である。

沼田が向かった先は映画館で、スクリーンに映し出される都奈々子を見るためである。この奈々子が宮城まり子であるのはいうまでもないことだが、その奈々子がスクリーンに大写しになってささやきかける。
「好きよ」
あらかじめ奈々子は、このシーンを演じるにあたって沼田に告げていたのであった。「 あなたのことで頭の中をいっぱいにしておいて、好きよ、というセリフを言うわ」と。その言葉を暗い中で思い浮かべ、沼田はこみ上げてくる喜びを抑えきれずに、やに下がるのである。
やはり大粒の涙を流しながら、つい先だって奈々子が映画と同じセリフをささやいてくれたことを甘く思い出しながら帰宅すると、怖れていた現実が待っていた。再び、「闇のなかの祝祭」の叙述から。

「その疑問を心の底に蟠(わだかま)らせたまま、彼は玄関の戸を開いた。その音はかなりの大きさで響いたが、人間の動く気配は無かった。家の中へ入り、自分の部屋の襖を開いたとき、思わず彼は立竦(すく)んだ。彼の机の前に、草子が座っていた。その両肩の筋肉が、衣服の下で強張っている気配があった。両方の掌は、机の面に貼り付いたようになっており、その姿勢のまま首だけまわして、草子は彼の方を見た。周囲に、黒い破片が散乱している。それがなにか、すぐに分った。奈々子が歌を吹き込んだLPレコードの破片である。奈々子の顔写真が印刷してあるジャケットが二つに引裂かれて、屑籠に投げ込まれてあった。
「ひどいことをするじゃないか」
「ひどいのは、あなたじゃないの」 

修羅場の幕開けである。「その疑惑」とは、奈々子が贈った出産祝いの毛布に赤児をくるんで退院して来たばかり草子が、果たして二人の仲に気づいていないがゆえにそう振舞えたのかどうか。疑わしいままに草子の様子からは、沼田には判断がつかなかったのである。それまでにも、奈々子が出産祝いに駆けつけるべきか否か、どちらがより草子に疑われないかと二人で案じ迷った末に、毛布を手土産に見舞ったのであった。それというのも、奈々子は何度か沼田の家を訪問したことがあり、草子と顔なじみになっていたからである、と説明されている。
これは事実のようで、宮城まり子は吉行の女児誕生を祝って(複雑な心境であったろうが)、赤い毛布を持参したことを記している(宮城まり子著「淳之介さんのこと」)。
このあとの沼田と草子のやりとりを、地の文は省略して会話だけを抜き取る。

「どうしたんだ」「なにか聞いたのか」
「知っていたわよ。いろんなにおいを、いっぱい付けて帰ってきていたじゃないの。知らないわけはないでしょう」
「それなら、なぜ・・・」
「なぜ、とは、なんですか。いままで我慢していたのが、我慢し切れなくなっただけよ」
「なにか聞いたんだな」
「電話で教えてくれた人があったわ。でも、べつに新しいことを聞いたわけじゃないわ」
「それは、誰だ」
「誰だっていいじゃないの」「どうせ、わたしは何にもできない女よ」
「きみに特別なことができるのを望んだことは、一度も無いよ」
「それはそうだけど、わたしが何かしようとすると、いつも頭から圧(おさ)え付けて、できなくさせてしまうじゃないの」
「そんなことはない。きみがやりたいといったことを留めたことは一度もない。きみがいろいろのことをやりかけては、結局やめてしまっただけだ」
「でも、あなたと一緒にいると、手も足も出なくなるのよ。わたしの青春は、そのために滅茶滅茶になってしまったわ」
「しかし、本当の才能というものは、どんなに圧え付けられたって現れ出てくるものだよ。他人の手で芽を摘み取られるものではないさ。それに、繰り返して言うが、特別のことができることを、ぼくは望んだことはないんだぜ」
「だけど、どうしてあんな嫌な女に、選りに選ってあんな嫌な女に手を出したの」
「手を出したわけじゃない」
「じゃ、どうしたというのですか」
「惚れたんだ」

決めゼリフで一件落着、とはならないのがもつれた夫婦の仲である。長年連れ添ってきた夫の口から、ぬけぬけと究極の禁句をほざかれたら妻はどうなるか。目に見えていたはずであるのに。つづく地の文。
「その瞬間、天井から糸で釣上げられたように、ふわりと草子は立上がった。そして重心を失った格好で歩き出した。方向を決めず歩きはじめた彼女の正面に、窓があった。
彼はいそいで立上がり、草子の両肩を押えた。
『できる、できるわ。わたしだって、できる』
そう言う言葉が、草子の唇から洩れ、その眼が焦点を失ってガラス玉になった」 
草子は失神したのである。横たえた草子を覗き込んだ沼田の心に渦巻いていたのは、ただただ妻に対する「不安と怒りだけであった」。

その晩もいさかいはつづいた。草子が部屋へ入ってきて、「また、こんなものを付けてきて。この泥みたいな化粧品は、なかなか落ちなくて困ってしまう」と呟きながら、これ見よがしに居座ってベンジンで沼田のシャツの肩口を拭き取っているところに、机上の電話が鳴る。以下、主に会話部分だけ。
「 もしもし、奈々子よ」「いま、何をしているの」
「べつに・・・」
「あたしのこと、好き」
「ええ」
「誰かそこにいるのね」
「うむ、でも、かまわないよ」
「かまわないことはないでしょ」
「うむ、でもねえ・・・」
その瞬間、草子の手が伸びて、受話器を掛ける金具を押えた。
「なにをする」
「 そんな猫撫で声を出さなくたっていいじゃないの。いやらしい」
すぐにまた電話のベルが鳴った。 
「途中で切ってしまって、ひどいわ」
「うむ」
「昨日から一度も電話してくれないなんて。こっちから電話してはいけないとおもうから、ずっと待っていたのに、息を引くようにして、ずうっと待っていることが、分らないの」
「うむ」
「なんとか言って頂戴。奥さんがいて返事ができないのなら、返事ができるところから、電話して」
電話が切れた。・・・
このあと夫はどうしたか。「そうだ、あの雑誌を買ってこなくちゃいけなかった・・・」と、今度はなんとも気まずいセリフを吐き、妻の返事をそっちのけにして、奈々子への電話のためにあたふたと出掛けるのである。

「女性に惚れたときの妻子ある男の状態の悲しさを含んだ滑稽さを描き出そうとした。男の気持が真剣になればなるほど、その滑稽さは大きくなってゆく」というのが、この作品に込めた吉行の思惑だったのだが、これらの引用部分からもそれは充分に察しられよう。
草子との言い争いの終いには、「(奈々子のもとに)行ったら死んでやるわ」、「わたしを捨てたら、殺してやるわ」となるのであり、奈々子と険悪になるのは決まって「あの人と、どうしても別れられないの」「あたしのことは、浮気だったのね」のひと言から始まるのである。
二人の女の板挟みになりながら沼田は、「惚れた」弱身でもって奈々子とは別れられず、ついに草子との同居に耐え切れなくなって家出に至ってしまうのであるが、その心情はこう説明されている。

「沼田は二人の女と交互に言い争うことで、一日の大半の時間と沢山の精力を失う日々を疎ましく思いはじめた。
しかし、二人の女から交互に責め立てられている、と彼が思っていたわけではない。そう思っているならば、相手の言葉を聞き流すことによって、精力の損耗を防ぐことや、相手の心を巧みに操る言葉を口にすることで、言い争いの時間を短くする工夫を考えた筈である。
しかし、彼は懸命に頭脳を回転させて、相手の言葉を理解しようとし、またそれに応戦しようと試みた。聞き流したり、あしらってしまう姿勢を彼が取れないのは、奈々子に対しては彼女に恋着しているためだ。そして、草子に対しては、長い間の生活の重みを体内に感じてくるためである。
しかし、そのような日々の繰返しに、彼はしだいに疲労してきた。仕事をする時間を掴み出すことが困難になってきた」
どっちつかずの切羽詰まった状態にあっても、どうやら、まだ気持に余裕があることを自信家の沼田は言いたいらしい。

不毛な言い争いが続くうちに、しかし草子は腎臓を悪くして入院し、赤児は小児施設に預けられる(この間に沼田は運転免許を取り、中古自動車を購入している)。その状況はこう書かれている。
「草子と赤児の入院費、自動車の月賦の金(註・ローンのこと)、草子が退院してきたときには入院費に替る(註・家に居られないので、小説を書くために転々とする)彼自身のホテル代、奈々子と会うための金、それらのために彼の収入の全部が消えた。その金を、惜しいとはおもわなかった。事態の厄介さをある程度処理するための費用、と考えていた。
週刊誌の連載小説の稿料によって、彼の収入は以前とは比較にならないくらい増えていた」
安岡章太郎の「良友・悪友」にあった通りである。

この部分に次いで、ラスト間近にも「週刊誌の連載小説は前の年の暮に終って、彼にとっては最初の新聞小説の連載開始が近づいていた」と書かれているので、年譜で確かめると、昭和34年4月から初めての週刊誌小説「すれすれ」を「週刊現代」に12月まで連載、35年5月から初めての新聞小説「街の底で」を東京新聞夕刊に連載、とあるのとぴったり一致する。
このことから、「闇のなかの祝祭」を構成する時間軸は昭和34年から翌年までと特定できる(前章で述べた「百閒の喘息」にあった記述とも重なる)。したがって、吉行の長女誕生は昭和34年の(早?)春だったことになり、主役三人の年齢は吉行35歳、宮城まり子32歳、ただし文枝に関しては不明。

草子がひと月後に退院してくると、小説序盤から鳴り響いていた奈々子への無言電話、それに絡まる沼田と草子との深夜の応酬、神経を蝕まれた草子の精神病院 への入退院、奈々子の自殺未遂などが描かれ、とどめとして奈々子から妊娠を告げられる。産む決心を固める奈々子とはうらはらに、スターである奈々子がこっそりと堕胎できる病院を沼田が探しあぐねるところで、小説は幕となる・・・。
ここで少し視点を変えて、吉行である沼田にとって「長い間の生活の重みを体内に感じてくる」存在であった草子、すなわち生年さえ不明の吉行文枝について、寄せ集めの資料でそのシルエットなりでも探ってみたい。必定、同時進行で宮城まり子についても触れることになる。

「淳は昭和二十三年に結婚しましたが、いろいろ事情があって、結婚生活は十年ちょっとで崩壊してしまいました。
奥さんと別れるときは、まず淳が自分のほうから、家を出てしまいました。それから、奥さんにも別のところを探してそこに住まわせましたから、私のほうも淳とはさようならということになりました。ですから淳は、奥さんと別居するようになってから、私たちともずっと別れて暮らしています。
その後、淳は女優の宮城まり子さんと一緒に暮らすようになり、今日まで二十五年以上たっています」
吉行あぐり「梅桃が実るとき」(昭和60年、文園社刊)の文章である。
これには離婚の経緯も、女児(孫)のことも触れられてはいないが、結婚の年だけはきちんと語られている。吉行は24歳で正式に結婚(入籍)したようだ(念のため言い添えておけば、この本は吉行生前の出版である)。あぐりが再婚していたから、長男であるにもかかわらず、吉行は家を出やすかったのだろうか(あぐりの再婚は昭和24年である。「紫陽花」という短篇には、あぐりの再婚を吉行が後押ししたような叙述がある)。
その後、あぐり夫婦と和子、理恵姉妹は同じマンションの別々の階に住み、そこで理恵、あぐりの夫、あぐりの順で生涯を終えている。

なお、この文章の小見出しは「宮城まり子さんは一途な人」となっており、次につづきを引く。
「まりちゃんという人は、ほんとになかなかな人だと思います。彼と長いこと一緒にいるのですから、いろいろ気苦労もあることでしょうし、大変だと思います。まりちゃんがしょっちゅう外国に行ったり、映画のロケだったりして、家を留守にすることが多いから二人はいい関係でいられるのでしょう。
まりちゃんは、とても多才な人で、きっと度胸がいいのだと思います。女優をやりながら、ねむの木学園をやって、絵を描いて・・・と、ひたむきに生きていて、大した人物だと思います。なかなかできることではありません。頭のよい人なのだと、ほんとに感心します。
まりちゃんと淳とは、もともと女優とファンとの関係だったそうです。どなたかに連れられて、楽屋で紹介されたのが最初という話ですが、淳のところにはそのころはまだテレビがなくて、彼女が出演するたびに私のところに見にきていました。それで、『この人いいな』というようなことをいっていました。きっとそんなことから二人は親しくなったのでしょう」

姑からみた嫁二人の評価であったろうか。褒めっぱなしのまりちゃんと比べて、少し奥(文枝)さんが可哀想に思えてくるのであるが(これでは何もいいところがなかったかのようにも思えてくる。もちろん、あぐりに意地悪な意図があったわけでないのは当然としても、どうしてもそうなってしまう)。
とはいえあぐりが評するように、宮城まり子が「多才」で「大した人物」であった(ある)ことはその通りで、その志の高さは、何よりも「ねむの木学園」に象徴されているであろう。
日本で初めての身体障害児施設「ねむの木学園」を、宮城まり子が創設したのは昭和43(1968)年のことであるが、学園開設の経緯の一端が彼女の著書「淳之介さんのこと」(平成13年、文藝春秋刊)に綴られている。

「あのね、前から心の中にあったことで、ずっと考えてきたんだけど、病気でね、手とか足とかが不自由で知的障害があって、お家でお父さんとかお母さんとかがね、めんどうみられない子がいるの。そして、その子たち就学猶予って法律で、小学校も中学校も行かなくてもいいんですって。つまり義務教育を受ける権利がなくなるの。私、そういうの知ると考えちゃって。私、仕事で、こどもちゃんたちのいるところへ行くことが多いでしょ、それに、私自身が舞台でこどもの役が多いでしょ。だから知る機会がありすぎたんだと思うの。私、淳といっしょに暮らせて幸せすぎる気がしてるし、申し訳ないことと思ってます。私にやれることさせてほしい。お医者さんにちゃんとかかれること、教育は正しく受けられること、こどもとして愛されることのお手伝いしたい。出すぎることかも知れないけど。おかしいかも知れないけど」

この申し出を淳之介さんは快く受け入れてくれた。
「この話は十年も前から言ってたね」
「あなたと知り合った頃からね」
「昨日、今日、言い出したのならやめなさいって言うけど、ずっと前から思いつづけていたみたいだから、いいでしょう。その代わり約束」
「はい」
「一、途中でやめると言わないこと。二、愚痴はこぼさないこと。三、お金がナイと言わないこと。これ守りなさいよ。君を信じて来る人に、途中でヤメタって言うのは大変無礼だからね」
「うん」
涙があふれて何も見えなくなった。私のわがままを聞いてくれた。
そしてひとつだけ淳之介さんに相談したのは、施設にふさわしい名前についてであった、という。

約束を貫いた宮城まり子の「もみの木学園」は、幾多の困難を乗り越え子供たちとともに成長を遂げ、2018年の今年で創立半世紀の節目を迎えたことになる(宮城まり子が吉行を偲んで、学園敷地に建てた日本建築の吉行淳之介文学館を伴って)。
あぐりは吉行と宮城まり子の出会いを、まり子の楽屋としているけれども、「淳之介さんのこと」で本人自身が「ファニーフェイス」と題した女性雑誌の鼎談(昭和32年)であった、と記しているので、あぐりの勘違いか、聞き違いであろう。
鼎談の場ではあたりさわりのない会話で終わったが、「それ以来、不思議なことに、バタバタといろんなところで吉行さんと逢う。映画館で・・・喫茶店で・・・。
そしてとっても好きになって行った。どうしてだかわからない。立派な女優になるまで、恋愛しないつもりだったのに、一日も逢わずにはいられなくなった」と書かれている。

しかし昭和34(1959)年、宮城まり子はアメリカへ旅立つ。
「はじめての外国、そしてまったくの一人旅である。主としてニューヨークで、休みなく動いたら、はなれていることで、淳之介さんと別れることが出来るかと思った。つまり、一人になればいいのかと思った。恋愛を清算するための(註・ミュージカル)勉強旅行だった」
「なんとかして自分の心を変えたいという気持ちと、心のどこかでは好きだという、わかっている甘えもあった」
恋人の決心を聞かされていない吉行からは、自分にだけ便りがないのはひどい、君がいないと原稿(「週刊現代」連載の「すれすれ」)もろくに書けない、と訴える手紙が届く中、宮城まり子は九死に一生を得る大事故に遭遇する。
メキシコからニューヨークへの帰途、彼女の乗った飛行機がエンジントラブルを起こし、二時間ほどさまよった末、どこだかわからない雪面に不時着したのである(救出されたのはそれから四時間後とある)。

この災難で死の恐怖に奮(ふる)えながら宮城まり子は、「好きです淳ちゃん好きです」という愛しさの感情が沸き上がり、淳之介さんと別れられないことを確認するしかなかったのである。つまり、吉行との幾多の偶然は、必然であったことに気づいたのである。
しかし、ニューヨークからパリへ渡った彼女に、又しても新たな災厄が待ち受けていた。たった一人の弟の交通事故死の知らせである(宮城まり子は小学生の頃、母親を病気で亡くしている)。
弟は売出し中の作曲家で、弟作曲のミュージカルを演じるのが二人の夢だった。淳之介さんとのことも認めてくれていた弟だった。宮城まり子は、父親からの電話を受けながらショックの余り、その場に昏倒している。彼女を介抱したのが、パリに旅行中だった遠藤周作夫妻だった。遠藤夫妻とその日、たまたま芝居を観る約束をしていたから、彼女の異変を知り得るところとなったのである。

悲嘆に沈むパリの宮城まり子に、淳之介さんのやさしいいたわりの手紙が届く。悲しみを癒すにはそのまま留(とど)まって外国にいた方がいい、ぼくも(作家的にも)衰弱している、それは君のいないせいである、一日でも早く君に会いたいけど、それは二人が落ち着きを取り戻してからの方がいい、等々。
手紙に接した彼女は、しかし次に予定していたイギリス訪問を取りやめ、即座に帰国を決意した。
アメリカでの飛行機事故が「あと三日でクリスマス」とあり、弟の死がいつのことかは書かれてはいないが、淳之介さんからの慰みの手紙は1月8日付けとなっているので、年が明けて昭和35年になっていたのがわかる(元々、旅行は半年間の予定だった)。
この後の「淳之介さんのこと」の記述に、吉行が宮城まり子の家で同棲に踏み切ったことが、「なんだか、かんだかありまして、彼が北千束の部屋で住むようになって」、とほのめかされているものの、その時期は曖昧にされている。
これを前章「百閒の喘息」で触れた「私は35年まで五番町にいたが」という記述と照らし合わせれば、同棲は昭和36年からということになりそうである。

吉行淳之介没後三年目に刊行が始まった新潮社版全集(1997年、全15巻)の最終巻に、吉行の宮城まり子宛書簡十三通が掲載されている。これは、この全集の年譜作成に宮城まり子が参画した余禄であったろう(吉行の彼女宛書簡は百通ほどもあったというが、吉行がそのほとんどを焼却してしまったと明かしている。残念)。
掲載書簡は一通を除いて、上記のニューヨーク、パリを旅行中の彼女に宛てたものである。
これらの手紙と解説文から、ニューヨーク出立は34年11月5日、弟の事故死は35年1月3日だったことが判明した。
またそれとは別に、ほとんどの書簡に「ニンジン」という奇妙な表記が頻繁に出てくるのである。

「梅崎(春生)さんのすすめでニンジンを医者に連れていったところ、すぐに入院して睡眠療法をしなくてはいけないといわれましたが、彼女は入院はいやだ、といっています。ぼくの要求と彼女の要求と全く喰いちがっており、それは当然で、その喰いちがいを話し合いで喰いちがいのまま解決法をみつけることにしなくてはいけないのですが、いまの彼女の状態では極端なことになりかねない。それをやわらげるために、ぼくは何とかして入院治療させて、比較的正常な状態で話し合うなり、ぼくだけどんどん行動してゆくなりしたい。そこでいろいろ論争をやり、どうにか入院までこぎつけたようです。まだはっきりしませんが、入院するとすれば、一ヶ月ほどかかり、子供は愛育会にあずけるなり、トナリでめんどうをみてくれるなり、ということになります。
ぼくは留守中は、しばらくは自分の部屋に帰ってデンワの処理などしなくてはなりますまい。まだ、はっきりしませんが、二十日頃まで山の上(ホテル)にいて、入院と同時にしばらく家へ帰るということになるかもしれない。したがって手紙はおふくろ宛にたのみます」(昭和34年11月16日付け、以下同)

すぐさま、「ニンジン」が妻文枝であることは了解されるのであるが、とっさに浮かんだのは飼い犬か猫の名前だった。考えてみればこういうケースの場合、二人だけが共有する隠語はより親密度を高めるための恋の小道具であり、睦言なのだ(ただし、「ニンジン」にどういう意味を込めていたのか、解説は付いていない)。
この書簡は、腎臓病のあと精神不安定になっていた文枝に、吉行が入院を勧めたのを嫌がりながらもしぶしぶ受け入れたことを、別れを決意して旅立ったことも知らないままに愛人に報告したものである。「トナリ」とは、あぐりたちのことである。
つづけて、「ニンジン」が出てくる箇所を拾い出してみる。

「ニンジンは二十一日から入院加療です。一ト月以上かかるらしい。入れかわって、ぼくは家に戻るわけです。君は、安心して、よく見物して、元気になって帰っていらっしゃい」(11、20)
「年末になると、ニンジンが退院するので、ぼくはアパートに移ります。住所新宿区四谷1丁目11。高桑アパート101号へ手紙ください。このところ、ぼくは、セックスの欲望がなくなってしまい、精神だけが、ふわふわ漂っています。いいかげんで帰ってこい」(11、22)
「ニンジンはいま睡眠療法中で、ずっと面会謝絶中です。十二月中旬のころまで、そうでしょう。この家に戻ってきたら、たちまちゼンソクで三日寝た。仕方ないのでプレドニンを使ってる。なめくじの出る家はもう困るから、一、二月末ころに全部引はらい、ここにビルを建てます。いま、ぼくだけの住む部屋を探しているよ」(11、26)
「ニンジンは、まだしばらく退院できない」(12、13)
「ニンジンは、一度会ったら、反応がひどく、また面会謝絶の状態です。このところ気持が衰えている。君は、あまり手紙をくれないね」(12、18)

「別居。といっているのに、なぜ、ニンジンとアパートに一しょに住むの、というのですか」(12、?)
これは、吉行がニンジンと別居すると書き送っているのに、別れを決意している彼女が曲解したフリをしてワザと書いて寄こしたのを、ついつい咎(とが)めたくなったのだろう。
「君が帰ってくる頃には、この土地は引はらい、ぼくはアパートにいる。ニンジンは、借家住まいをしていることになります。しかし、『自分だけ辛いおもいはしたくない』という君の考え方は困る。これからがたいへんだということを、しっかり覚悟してください。それが厭なら、あるいはできないなら、そのように言ってください」(12、30)
「今日が八日。九日に、ニンジンは赤ん坊と青山の方に引越しをします。ぼくは、当分、市ヶ谷にいるか、あるいは山ノ上いるかします。元気をだしてください。いまの君に必要なのは、神経をいら立てないこと、といってもムリなら、抑制、ということが大切です」(S 35、1、8、この手紙が弟の死を悼んで彼女を慰めたもの)
彼女からの手紙が少ないとなじったり、彼女が胸が痛いと書いてくるのを心配して病院へ行くことを強く勧めたりしているが、おそらくこれは決別に伴う恋の痛みであったのではあるまいか。

しかし、それにしても「ニンジン」呼ばわりは酷すぎるのでは。仮にも長い年月をともにした妻なのだから、ほかに言いようもあったろうに(作家の妻などになるものではない、とつくづく同情する)。
当然に吉行文枝は、これらの書簡をこの全集で読んだことであろう。彼女にとって自分の運命を変えたこの恋愛事件が、過ぎ去った遠い昔の甘い思い出となっていた筈はないと思えるからである。
なぜなら吉行文枝は、宮城まり子に張り合うようにして(最もこれは吉行没後十年の節目ということでもあるようだが)、「淳之介さんのこと」刊行より三年後に「淳之介の背中」(平成16年、港の人刊)と題する回想記を出して、このように書き記しているからである。

「(千葉の)佐原に入院してからしばらくして、肺の一部切除の手術をすることになり、今度は清瀬の病院に入りました。入院する日が近づいて来た冬のある寒い日、主人は庭で何やら燃やし始めました。危ないのでバケツに水を入れて持って行くと、主人の足元には、ノートや原稿がたくさん積んでありました。主人は炎を見ながら言いました。
『オレが死んだら、お前が可哀想だよナ』『そんな心配しなくても、手術は大丈夫よ』『でも、一応言っておく。もしオレが死んだら、記念館や展覧会といったことは一切しないでくれ。オレは何も残したくないんだ』『気持ちはよくわかりました。その気持ちは、時が経ってもずーっと同じですか』『そうだ』『それなら、一生のことですね』『アァ、そうだ。忘れるな』
ふと見ると、主人は私の日記帳を手に持っていました。
『ア・・・、それ私のよ』『オレが日記を書かないのは知っているだろう。だから、お前も書くな』
そう言うと、あっという間に炎の中に投げ入れてしまいました。ふたりは放心したように、黙って炎を見つめておりました」

どこかこの文章おかしくないか。
すでに特効薬(ストレプトマイシン)も開発されてはいたが、当時まだまだ結核という病気は死を覚悟しなければならないような重病で、近々に大手術を控えていれば尚のこともしかしたらという不安はぬぐいきれなかったであろう。しかし、このときの吉行はまだ芥川賞作家ですらないのであるから、この吉行の言葉は、オレが文学で成功した暁(あかつき)には、という意味であろう。吉行はかなりの自信家だから、こんなこと言わないとも絶対的断言はできないけれども、わざわざ「記念館や展覧会」とまで大言壮語するであろうか。後からとって付け加えたような不自然な感じはどうしてもぬぐえない。
これはつまり、宮城まり子が吉行淳之介文学館を建てたことへの当てつけではないのか、と思ってしまうのである(文学館落成は、この文枝の文章の五年前である)。
ちなみに、吉行の芥川賞受賞は、この手術後のことである。文枝が代理で授賞式に出席した。

あるいは「淳之介の背中」には、こんなことも書かれている。
「結婚して十数年後、こどもが生まれました。産後の肥立ちが悪く、私は腎臓を悪くし、しばらく家で横になっていなければなりませんでした。
そのころからでしょうか、少しずつ市ヶ谷の家の中が変わり始めたのは。
小さな家ですので、玄関脇の部屋に蒲団を敷いて寝ておりました。主人に会いに、寝ている私の蒲団を踏んで奥の部屋に入っていくような女性(ひと)もいました。そんな中で、柴田(錬三郎)夫人だけは、私の背中を優しくさすってくださいました。その暖かさは、今日まで背中に残っております」
腎臓の病気も「闇のなかの祝祭」や上述書簡にある通りで、ここに出てきた文枝の枕元を踏みつける女性が、次に書かれるあじさいの女性でないとは言い切れないからである。
なお、梅崎春生や柴田錬三郎などは、吉行や安岡章太郎たちの兄貴分的存在で親交があった。

つづきを引用する。
「寝たり起きたりが続いたある日、勝手口の方で音がするのでのぞいて見ると、主人があじさいを掘り起こしております。
「どうするのですか」
「ウン。これを持って行こうと思ってネ」
「こっちが色が変わる七変化。花言葉は浮気。そちらは隅田の花火。どちらにしますか」
「マア、普通のにするか」
私は紐と新聞紙を持って来て、持ちやすいように包んで手渡しました。主人は、それを車に積んで女の人のところへ行きました。
それまでにも女の人の話はしょっちゅう聞かされていましたが、あの人だけはやめてほしい。そう思いながら、どうすることもできませんでした。
そのころ、主人は何かに追いかけられるように、私とこどもをドライブに連れ出しました。東京湾の埠頭、横浜の山下公園、中華街、箱根・・・そのときどきで、向かう場所は違っていました。主人の神経が突き刺すように尖り、私は疲れがたまり、横になっていることが多くなりました。
母達があじさいの女性から招待されて、その人の家に主人と一緒に出かけるのを、私は何か違った世界の出来事のように眺めていました」(この光景は、前述の昭和39年の短篇「紫陽花」に描かれている)

あじさいの女性が宮城まり子であるのはいうまでもないが、「ニンジン」とはえらく違って、この呼称は優雅である。しかし「花言葉は浮気」なのである。表面は優雅でも、その言葉裏に含まれる悪意は皆無であったろうか(いったい吉行は、この時どちらのあじさいを選んだのか?)。
それにまた、著書の題名も微妙である。「淳之介さんのこと」の敬称付きと「淳之介の背中」の呼び捨ての違いにも、内縁の妻と正妻である二人の社会的立場が表れていて、底に秘めた対抗心を感じないでもないのであるが、これは勘ぐりすぎであろうか。
招待を受けて主人と出かけた母とは、もちろんあぐりのことで、それに和子と理恵も同伴したのだろうか(それともあぐりの夫だったのだろうか)。もし、この招待が昭和35年だとしたら(文枝の腎臓病からして、その可能性は高いのだけど)、あぐり53歳、和子25歳、理恵21歳の年である。和子は「アンネの日記」の舞台主演に抜擢されて女優への道を踏み出したところであったし、理恵は早大生であったと思われる。

さらに「淳之介の背中」のつづきを引用する。
「そのころのことは正直言いますと、あまりよく覚えていません。
ただ、私の中で何かがパチッと音を立てて切れて、それからは地球のマグマに閉じ込められたように、まわりの人やいろいろなことが恐ろしく、私は言葉がうまく出なくなっていました。私の気持ちを聞いてくれる人は誰もいなくて、ベルトコンベアに乗せられたように、私の意思とは無関係にことがスルスルと運ばれて、気がついたら病院のベッドに寝かされていました。
退院後、市ヶ谷の家の敷地にビルを建てることになり、私達は十数年間を過ごした家から越すことになりました。
『自分は他に行く』
主人は、そう言って何も持たずに行きました。私には、渋谷の借家を探して来てくれました。
喧嘩も説明もありませんでした。見えない力にものすごいスピードで動かされ、私はそれにただ従うだけでした」

宮城まり子への書簡にあった通りの、そして「闇のなかの祝祭」に書かれた通りの展開だったのである(ただし、宮城まり子はこの期間に吉行との恋を清算するべく渡米していたのであるが、その彼女の決意は、同じ手紙ながら小説では巧妙にアレンジされている)。
この果てしない愛憎の確執の中で、夫は神経を尖らせただけですんだのに対して、妻の方は神経を病むまでに打ちのめされたのである。その結果として、何が何やらわからないうちに別居を強いられて、否応なしに承諾せざるを得なかったということだったようである。文枝の傷心に追い打ちをかけるようにして、「闇のなかの祝祭」が刊行されスキャンダル報道に巻き込まれていった。文枝にとっては傷口を癒す間もなく、それ粗塩をまぶしつけられたも同然だったのである。
実をいうと、吉行文枝に「淳之介の背中」という著書があることを知って、さっそく図書館から取り寄せたとき、その中身とは別にもう一つの期待を持っていた。
ところが期待はくだかれた。ほとんどの本に付いている著者紹介が、この本には無かったのである。結局、吉行文枝の生年はわからずじまいのままである。
生年どころか、上に述べた「吉行淳之介全集」最終巻で、文枝に関する不可思議なことが起きていた。

この全集年譜に、吉行と宮城まり子との出会い(註)と文枝との入籍が新しく書き込まれていることは、すでに述べた。その昭和23年の項には、他の項目は一切なくて「この年、平林文枝を入籍」とのみ、ただ一行付け足されている。
ところが、この最終巻には「平林文枝は誤りで正しくは平文枝である」、とする正誤表が挟み込まれていた。平はヒラと読むのか、タイラなのか、ルビがないので判然としない。
年譜追加項目であることを考えれば、ほとんどありえないような間違いである(全巻で誤記は、これだけである)。出版事情に疎い者には、どうしてこのようなことが起こるのかわからないのであるが、まさか当の本人からクレームがあったとは考えられないので(不可能なので)、やはり単純ミスであったのだろう。
この三角関係にふさわしいミステリアスな出来事というしかない(とはいえ、年譜作成者に宮城まり子の名前があるだけに何だか釈然としないものが残るのも確かだ。しかし、それは全くの誤読であって、もしかしたら宮城まり子が間違いを指摘したのだろうか?)。
(註・女性雑誌の鼎談があったのは、昭和32年11月だとあるので、宮城まり子が吉行との別離を期してアメリカへ渡ったのは、きっかりその二年後ということになる。)

さて、もう一度「淳之介の背中」に戻って、その最後のページの文章。
「主人は私の誕生日には、必ず赤い薔薇の花を買って来てくれました。ひとりでバーに行って夜遅くなったときでも、ホテルでカンヅメになっているときでも、決まって赤い薔薇を一輪、炬燵(こたつ)の上にポンと置いてくれました。離れて暮らすようになった後でも、その習慣は変わりませんでした。
主人との生活は楽しく、幸せな人生でした」
こう締めくくられる吉行淳之介も凄いが、こう書き留める吉行文枝はまた(まだ?)すごい。
家出から実に四十四年、このように振り返られる「背中」を見せ続けた男。それに応えて遠の昔の生活を生きるよすがにして、耐え抜いた女。それにしても男は、いったいいつまで、かつての妻に赤い薔薇の花を贈り続けたのだろう(これもずいぶんミステリアスな話ではある)。
が、しかし「闇のなかの祝祭」では、ここに書かれた文枝の述懐とはうらはらに、この赤い薔薇は忌まわしい不吉の花として物置きに打ち捨てられたまま、どす黒く変色するまで放置されるのである。あたかも、その薔薇が離婚を拒む執念深き女の象徴であるかのように。
こう述べれば、小説に描かれた薔薇の送り主とそれを放置するのが誰であるかは、容易に想像できるであろう。


(以下、「闇のなかの祝祭」と「暗室」(3)につづく。)