「作品について口を出したことは、あまりありませんし、私が何か言ったからといって変える人ではありません。
しかし、『闇のなかの祝祭』が出版されたときは、はじめて主人に文句を言いました。
すると、主人は、『そんな読み方しかできないのか』 と言いました。
『でも、世間では作品に出てくる女性は、私のことだと思っています。あなたはいつものように、自分の頭の中でつくりあげた女性を作品の中に置いて、フィクションとして組み立てたつもりでしょうけど、結果は意図と違います。事実がそっくりそのまま描かれていると、世間では思っています』
そう言って主人の眼を見ると、悲しげな眼をして黙ってお茶を飲んでおりました。
どうして涙が出るのかと思いながら、こどもを守れるのは私しかいない、そんなことを考えていました。佐藤春夫先生や柴田(錬三郎)さん御家族、特に奥様方の励ましがあって、世の片隅で石になって生きて行かなければと、私は心を決めました」

吉行文枝の回想記「淳之介の背中」の終り近くにある一節である。
ノロケ小説と評されても、当の作者は己の信ずるところを自負しておればよいけれども、見せしめにされたも同然の文枝としては、黙っておられるはずがない。当然の抗議であったろう。
とはいえ、「闇のなかの祝祭」は決して出来栄えの悪い作品ではなく、隅々にまで神経の行き届いた吉行らしいうまい小説である。吉行が兄事した島尾敏雄の「死の棘」や瀬戸内寂聴の「夏の終り」と並ぶ不倫小説の秀作であろう。あえていえば、その巧みさゆえに図式的になって、前二作より少々迫真性に欠けるきらいがあるかもしれないが。
作品評はともかく、吉行としては、何をどう書かれても黙して批判せずが、物書きの妻のたしなみということであったろうか。

しかし、小説の中で草子は、完膚(かんぷ)なきまでに嫌な女の典型として描かれている。その一つに、奈々子の家に頻繁にかかってくる真夜中の嫌がらせ無言電話が出てくる。まるで草子の呪文でもあるかのように、密会をつづける二人の背後で黒い受話器が不気味に鳴りひびくのである。これは草子の陰湿な性格の象徴でもあるのだが、奈々子と沼田はそれが草子の仕業ではないかと疑って、ある時沼田が問い詰めると、草子はしらばくれるのみなので追及をあきらめていた。
(この間に草子の腎臓病での入退院があっての)ある夜、奈々子との逢引で、行き詰ったままの三角関係に苛立ち、言い争いとなって興奮した奈々子をなだめるのに手間取って、夜も白むころ帰宅した沼田はそこで決定的な場面に遭遇する。そのくだり。

「ようやく、奈々子と別れて、彼は戻ってきた。家の玄関の前まで車を乗り入れると、その騒音で近所の眠りを覚ますといけないとおもい、近くの道に車を駐めた。足音を忍ばせて、家の中に入り、部屋の戸を開いた。
受話器を耳に押当てたまま、草子が彼を振向いた。不意を打たれた表情だ。彼が帰ったのに気付いていなかった様子に見えた。その表情がみるみる変化して、絶え入るような弱々しい声を受話器に送り込んだ。
『分りました。もういいですから・・・、もうそんなにいじめないでください・・・』
涙が頬を伝わって落ち、草子は電話を切った。
『どうしたんだ』 
彼が訊ねた瞬間、電話のベルが鳴った。草子の軀を押除けて、受話器を握った。奈々子の声が聞えてきた。
『いまの電話、あたしがかけたのじゃなくってよ。途中でがらりと調子が変ったのよ。きっとそのときあなたがその部屋に入ったのね。いじめられていたのは、あたしの方なのよ。そのことだけ分ってもらえば、いいの』 
電話が切れた。
『やっぱり、君は電話をかけているじゃないか』
『いまは、たしかにかけたわ。朝になりかかっても帰ってこないのですもの。事故でも起したのじゃないかとおもって心配でたまらなくなって、かけてみたのよ』
『二時ごろにも、電話をかけただろう』
『そんなことはしないわ。わたしじゃないわよ』
『嘘だ』
『嘘じゃないわ』
それきり、彼女は口を噤んでしまった。草子は翳のない白い顔をしていた。爪のかからぬつるつるした白い壁面のひろがりに対い合っている気持が、彼の心に拡がっていった」

沼田の追及もつるりと躱す(かわ)す能面のような顔と心の女、それが草子である。
やがて草子は精神病院へ入院するのだが、少し解説を加えておくと、この場面の直前に草子が車を家の玄関に衝突させる事故を起こしていたこと(草子は沼田に先立って運転免許を取っていたとある)、二時頃電話が鳴っているのを沼田は奈々子の家の前で聞いていたことなどが伏線となっており、その後の沼田が帰宅する前の朝方の描写などは、さすがにうまいものだと感心するのだけど。
「ふたたび、車は奈々子の家の周辺をまわりはじめ、車の中では言い争いがつづいた。空がかすかに明るみはじめた。
甘酸っぱいにおいが、彼の鼻腔に流れ込んできた。それは、パン工場から流れ出てくる原料の発酵するにおいらしい。そのにおいは、とめどなく続く言い争いによる疲労を、じわりと彼に感じさせた」
と同時に、そうは描かれてはいないが、この匂いによって沼田と奈々子の気持ちは、再び和解へと導かれていったことも想像させる。
「ぼくはマイナーポエットです。マイナーポエットこそ真の芸術家です」とたびたび記している通り、吉行淳之介の本質は短篇作家であったと思われる。

つい、話がそれる。冒頭の回想記に戻る。
吉行文枝が苦しい胸の内を打ち明け、相談に乗ってもらったのが柴田錬三郎夫人と佐藤春夫夫人であったようだ。佐藤夫人の千代は、元谷崎潤一郎夫人で、かの有名な「細君譲渡事件」の陰の主役だから、さぞや同情篤き聞き役であったろう。
昭和39年東京オリンピックの年に佐藤春夫は死没したのであったが、吉行の「追悼・佐藤春夫」に、その当時(昭和34、5年)のことが触れられているので、それを引用する(ちなみに佐藤春夫は、唯一、吉行が先生の敬称をつけて呼んだ作家である)。

「佐藤春夫先生ご夫妻には、多大のご迷惑をおかけした。私がある女性と恋愛関係になり家を出るという事態が数年前から今日までつづいているのだが、その件に関して私の配偶者がことあるごとに佐藤家に駆け込み訴えをする。その言い分に、佐藤夫人が耳をかたむけられて私を叱責されてから、訴えはますます度重なったようだ。先生は来るものは拒否しないというご気性であるから、内心迷惑とおもわれながらも、来るに委せておられることが、分っていた。しかし、私は配偶者にたいして命令を下すという夫の立場を放棄しているので、制止することができなかった。
昨年の野間賞パーティのとき、『また訴えがとどいておるぞ、新年までに弁解を用意しておきたまえ』と、重たいがユーモアの滲んだ語調で言われた。新年のご挨拶に佐藤家にうかがうのが毎年の例であるが、その際の夫人の叱責にたいしての弁解を用意せよ、という意味である。

今年の元日、私は安岡(章太郎)と庄野(潤三)と一緒にご年始に参上した。夫人が私を叱責され、私は弁解の仕様もないので、口のなかでむにゃむにゃ言った。先生は素知らぬ顔でタバコをふかしておられる。私はすこし酔ってきた。夫人が座を立たれたスキに、先生にたいしてくだをまいた。
「先生はズルイや、ズルイや」
私の立場を理解されている筈なのに、夫人がおられると知らぬ顔の先生について、私がそう言ったわけだ。そのとき先生は、重々しく、答えられた。
『達人とは、ずるいものじゃ』
私は、いつもの逃げ腰がなくなり、談笑の時が二時間ほどつづいた。先生は、大そうお元気だった。やがて、あまり長居になってはとおもって私が立上がると、先生がいつもの語調で言われた。
『半達人のまま、帰るのか』」

駆け込み訴えに関しては、(柴田夫妻に関するものは見当たらなかったけれども)もう一つ、大変おもしろい(というと語弊があるが)話がある。
当時の「群像」編集長であった大久保房男の「『闇のなかの祝祭』のころ」という文章である。
大久保房男は「純文学の鬼」とも称された人物で、芥川賞をもらってはいたものの、あまりパッとしない安岡や吉行の文学的実力を見抜き、作品発表の場を積極的に与え文壇での地歩を固めさせた、いわば、二人にとって恩人ともいえる存在であった(註)。
「闇のなかの祝祭」はもちろんのこと、妻子の入院費などで苦境にあった吉行の財布を大いにうるおしてくれた週刊誌デヴュー作「すれすれ」も、その頃創刊されたばかりの「週刊現代」の編集長を兼ねていた大久保房男の慫慂(しょうよう)によって書かれた娯楽小説であった。
相当に長くなるが、大久保房男の文章全文を書き写し、カッコで適宜に補足する。
(註・昭和31年から三年間、安岡と吉行には文芸誌「新潮」からの原稿依頼がなかったという。これは章(1)で触れた瀬戸内晴美のケースと似ている。吉行が瀬戸内を激励した一因であったかも?)

「吉行淳之介氏が『闇のなかの祝祭』以後に書いたそのヴァリエイションのような数篇の好短篇には、一人の男とA女B女の二人の女が登場する。
昭和三十四年の春、吉行氏が妙なところ、つまり東京は城南の外れにさまようことを耳にしたので、私はそこにある池の名を言って、あのあたりはどうですか、というと、吉行氏はぎょっとして、あたしはそんなとこなど、と言ったがわれながら空々しかったのか、いやちょっと、と言いかけて、あきらめたらしく、よくご存じですねえ、といった。私は老人のような作り声して、わたしもこれでジャーナリストの端くれですぞ、というと、吉行氏は困った奴に知られたもんだ、という顔をした。(宮城まり子との密会がバレたのである)

それからいろいろのことがあった。
夏の終りにA女が社(講談社)に私を訪ねてきた。厄介な話にちがいないと思って、個室の応接間に通した。A女は、
『兄ちゃんは人のいうことは聞かないんですが、あなたの言うことだけは聞くんです』
といった。兄ちゃんが誰だかよくわからなかったが、話しているうちに吉行氏であることがわかった。A女は私に、B女にうつつをぬかしている吉行氏によく言って聞かしてくれ、ということだった。私は仕事以外で作家とつき合うつもりはなく、作家がいい作品を書くためにはできるだけの世話をしようとは思うけれど、作家の世俗的な幸福とか家庭のことなどどうだっていいと思っている奴ですから、そんなことは頼まれても困ります、と答えた。
A女の言葉から、吉行氏は私のところへ行くとか、私に呼ばれているとかいっては家を出て城南方面をさまよっているにちがいない、と思った」(文章はまだまだ続くが、ここで一旦中断して解説を加える)

A女、B女が誰であるかはわかったであろう。わからないのは、文枝が吉行を何故「兄ちゃん」と呼んでいたのかということである。このことを安岡は、「吉行を『ニイちゃん』と呼んで、みずから妹のような、情婦のような顔つきをしていた吉行夫人」と書いているし、小島信夫に至っては、吉行とよく似ているのでてっきり妹だろうと思い、帰り際に「キミの妹さんは、ずっとああしていっしょに住んでいるの」と訊くと、吉行はギョッとしたように小島の眼を見て、「妹って。あれは僕の女房。うん、僕の女房。ハシタない女でして」と答えたことが記されている(註)。
なんだか文枝をすごくおとしめているような言葉つきである。吉行はちゃんと文枝のことを紹介していなかったということになる。吉行よりだいぶ年上(9歳)の小島信夫に対して、不意をつかれた吉行が謙遜してしどろもどろで答えたとも考えられなくもないが、どうもそれだけではない微妙なところを伝えている。
(註・引用は、安岡章太郎「良友・悪友」並びに、小島信夫「市ヶ谷駅前附近」より。)

「ハシタない女房という文枝のイメージは、文枝の著「淳之介の背中」末尾に併載されている二つの文章を読めば、ガラリと訂正されるのでは。
その一つは、庄野潤三の回想「あの頃の吉行家」である(平成6年、吉行の死から二ヶ月後の「週刊新潮」掲載文。たぶん聞書きであろう)。短いものなので、全文を再録してみる。

「まだ私が大阪にいた昭和二十年代の終り頃、東京に出てきたときは吉行の市ヶ谷の家で泊めてもらいました。奥さんはいつも吉行のことを〝おにいちゃん、おにいちゃん〟と言っていたのを覚えています。気さくで、親切で、控え目な人ですね。行くと、九段の『宮川』のうな重をよく取ってくれました。
吉行の家は、(母上の経営する)吉行あぐり美容室の近くにあり、四畳半と六畳の二間だったと思います。そのうち、四畳半の方は友達夫婦に貸していましたから、吉行夫婦は六畳一間で暮していました。我々が五、六人で押しかけると、奥さんは初めはニコニコともてなしてくれるんですが、後は邪魔にならないように、どっかに退いていました。今考えると、どうしていたんだろうと思いますね。私が泊めてもらうときも、寝るときは私と吉行が布団を並べて寝て、奥さんはいなかった。どこで寝ているんだろうと思いましたが、後で、ああいうときは奥さんは押入れで寝ていた、という話を聞いたことがあります。
私が吉行の家によく行った頃は、ちょうど『原色の街』が芥川賞候補になった頃で、吉行もまだ出版社に勤めていましたが、奥さんも洋裁の内職をしながら家計を助けていました。献身的に尽していましたよ。
昭和三十一年に次男が生れるとき、奥さんが布団の綿を市ヶ谷から一人で担いで持ってきてくれたんです。その後生れたときにも、わざわざお祝いを持ってきてくれて、家内はとても喜んでいました。たいして親しかったわけでもない私にまで、そこまで気を遣っていただいたくらいですから、他の文壇仲間にもいろいろ気を遣っていたんではないですか」

今一つは、「私が吉行文枝さんと初めてお会いしたのは、五十何年も前のことである。その後長くお会いしていなかったが、吉行氏が亡くなってまもなく妻と私は夫人とお会いする機会に恵まれた。そして夫人のさわやかな感触が、五十年の昔と少しも変わっていないのに驚いたものである」との書き出しで始まっている、吉行の静岡高校時代の旧友の寄稿文である。こちらは関係部分を転写する。
「ところで私が妻とともに初めて市ヶ谷の家を訪ねたのは、昭和二十年代の前半だった。
広い敷地の奥まったところに木造の平屋が建っていた。吉行夫妻の住むこの家にはふしぎな雰囲気があった。あるいは気安さがあった。それは夫人の人柄から来るもので、友人たちがみな、ぶらりと立ち寄ることのできる家だった。この家で二三の友人と集まって酒を飲む機会が幾度かあった。そんな時彼(吉行)は若者として珍しい飲みかたをした。強くは酔わず、酔いを娯しみ話を娯しんでゆっくりと飲んだ。飲みながら話すという技術を私たちは彼から学んだといってよかった。
その間、夫人はどこにいたのだろう。客がいても夫人が話に加わるということはなかった。台所だったのか、それとも庭だったのか、夫人は私たちの視野のうちにはなく、しかし彼が呼べばすぐに答えられるところにいつもいた。

夫人はある日私たち夫婦に食事を薦めた。当時は米もパンも麺類もほとんど手に入らず、私たちは一日じゅう芋や豆や果物で過ごすことが多かった。だから自宅で人に食事を出す習慣も消え、仮に誘われても遠慮することが常識になっていた。
ところがこの日夫人は巧みに私たちを誘った。結局私たちは夫人の誘いに乗った。私と妻の脳裏には、今もこの日の夫人の好意が深く刻みこまれている。
夫人自身が、何度か私の豊島区の新しい家を訪れている。そのとき吉行氏が一緒だったかどうかははっきりと覚えていない。
おかしなことに、夫人と私の妻にはどこか共通したところがあった。
ある日の吉行夫人は売りに来た薔薇の苗を有り金をはたいて買い求め、帰宅した吉行氏を驚かせた。この出来事は後に彼の『薔薇販売人』という初期短編に形を変えて実った」(この後、著者の奥さんも薔薇の苗を買ったことが綴られているのだが省略する。「薔薇販売人」は、吉行が処女作だと自認する重要な作品である。以上、鈴木重生「古い記憶の函をひらいて」より)。

これら二つの文章を読む限りにおいては、「ハシタない」どころかつつましく、献身的に夫につくすタイプの女性、という想像しかできない。文枝がネコをかぶっていたとは到底思われない。昭和21年に吉行が同人雑誌を出したとき、文枝がその挿絵を担当したとも「淳之介の背中」にある。
これらの証言から浮かび上がってくるのは、吉行はスターとの恋を貫くために糟糠(そうこう)の妻を見捨てたということである。そして文枝が「兄ちゃん」呼ばわりをしていたのは、吉行よりも年下であったからだ、という平凡な推測以外、残念ながら何の手がかりもない。
まだまだ、その頃は食糧難、住宅難だったから、あぐりの再婚によって空いた部屋を、友人夫婦に提供したのだろう(中学時代の友人とある)。吉行は肺結核の手術をするまで、東大を中退して小出版社で雑誌編集の仕事に就いていた。

(再度、大久保房男の文章に戻る)
「それから半月ほどしてB女が突然訪ねてきた。この間A女が座ったところに座ったB女は、舞台の間をぬって駆けつけて来たらしく、ドーラン化粧をし、長いつけ睫毛をつけ、瞼の縁を黒く塗っていた。私が吉行氏に、A女が訪ねてきたと言ったのを聞いて、あたしの方も聞いてもらわないと、というつもりなのか。何を頼まれても何もできはしないし、するつもりも毛頭なかったけれど、ただ、A女にしてもB女にしても、いろいろ私に話すことで気が晴れるなら、これも功徳か、と思った。

B女は自分の胸の苦しさを私に訴えた。話しているうちにこみ上げてきて、目に一ぱい涙をためた。そのうち左の目から涙があふれた。瞼の縁どりの黒い顔料を融かし、黒い涙となって、一条頬を流れた。
『こっちの方、黒い涙が流れとる・・・』 
と左の目を指して私がいうと、B女は急いでハンカチを出し、目の上の方から頬にかけて強く拭った。B女は、とれましたか、という顔をして私を見た。B女の顔がアンバランスになっているのに私はぎょっとした。
『あっ、そうだ。つけ睫毛が取れてしもたんだ』 
と私がいうと、B女は右の目も強くハンカチでふいた。両目ともつけ睫毛が取れてB女は普段の顔になった。B女の悲しげな顔が照れた笑顔になり、それがあまり崩れないうちに帰って行った。
私は吉行氏にB女の黒い涙のことを詳しく話した。吉行氏は、それはちょっといけますねえ、使えますねえ、といった。 (吉行は小説の材料に使える、と言ったのである)

それから半年ほどして、安岡章太郎氏と共に佐藤春夫氏から呼び出しを受けた。安岡氏は『海辺の光景』を書くのに社の別館に籠って苦吟していた時なので、二人で歩いて佐藤邸に行った。吉行氏は門弟三千人の一人だからA女が佐藤氏にかけ込み訴えをし、事情聴取のために吉行氏の友人として私たちが呼び出されたのである。(佐藤春夫は多くの弟子を持ち、門弟三千人ともいわれていた。大久保房男は吉行より3歳年上、安岡は4歳上であった。二人共慶大卒)
佐藤氏は気乗りしない風だった。A女の屡々(しばしば)の訴えに、佐藤夫人が同性の立場から、それでは一度皆さんに集っていただいたら、と佐藤氏にすすめたのではなかろうか。佐藤氏と私たちが雑談して本論に入らないでいると、佐藤夫人は皆さんお忙しいでしょうから、とA女を促した。A女はちょっと改まって話し出した。事情聴取というよりはA女と私あるいは安岡氏との対決というムードになった。私については、A女は私が吉行氏に言って聞かさぬ友情のなさを非難した。私は先日A女来訪の際に言ったことをまた言った。A女はそれが甚(はなは)だ不満で私を責めた。そこで佐藤氏はA女に向い、
『ひとが自分の思う通りに振舞ってくれないからといって、ひとを非難することは出来ませんね』
と判者としての判決を下した。

それでA女は他のことに移ったが、話しているうち、いつのまにか同じことになり、私に対する口調は難詰しているようであった。頭ではA女の立場に同情的だった私も、少しむっとして、
『何べんも言う通り、つまらん小説しか書けん模範的人格者よりも、放蕩無頼でも傑作を書く作家の方を私は大事にします。家庭が乱れた方が傑作が出来るんなら、私の方からすすんでその家庭を乱してやりたいくらいですよ』 
といった。
佐藤氏の表情は私の意見を認めてくれたようだ、と思ったとたん、佐藤夫人が座卓を平手でぽんと叩き、
『大久保さん、まあ、あなたはなんてひどい人でしょう。私のとこへもやはりそのつもりでいらしってたんですか』 
と声をきつくしていった。私はしまった、と思ったが、仕方がないので、
『編集者とはそんなもんです』 と答えた。
佐藤邸を辞するとすぐ別館に待っていた吉行氏に会い、安岡氏と二人で対決の模様を大袈裟に話した。吉行氏はどうも、どうも、お世話かけますなあ、といった。

それからもいろいろのことがあった。
吉行氏とA女B女の関係はバレーボールに似ていた。見物人には吉行氏はボールとなって、軽々とA女のコート、B女のコートを渡り歩いているように見えただろうが、私には、A女のところへ行ってはどつかれ、B女のところへ行ってはどつかれて、あてどなく宙を舞っているいるように見えた。私はこの題材を小説に書くことをしきりにすすめた。いろいろの事情で書かなかったが、昭和三十六年に『闇のなかの祝祭』という題で吉行氏はやっと書いた。批評はバレーの見物人の立場からのが多かった」(昭和42年、「週刊読書人」)

小説と現実どちらがより迫真に迫っているか。事実は小説よりも・・・、と言いたいような内容で、庄野潤三や吉行の旧友の話とはあまりに違う文枝の落差に驚くのでもあるが、佐藤邸の段階では夫を取り戻そうと必死のあまり、我を失い錯乱し鬼女と化していたのだろう(一女の母親になったばかりだったのだから、そうなるのもやむを得まい)。
「夫婦喧嘩は犬も食わない」とはよくいったもので、このことわざは、夫婦の揉め事にはどんな事情がひそんでいるかわからないので介入する可からず、という意味であろうから、鬼編集長の面目躍如たる大久保房男の態度は、冷たいようでいて案外正解であったかも。
ここでせっかく「薔薇販売人」(昭和25年)が出てきたので、次に吉行の芥川賞受賞作「驟雨」(昭和29年)にまつわる挿話を書き加えたい。

「その女性が赤線地帯(註・売春をする場所のこと)で働いているとき、私は彼女と会った。ほぼ三年のあいだ、私は彼女の部屋にかよった。私は彼女を微温的な心持ではあったが、やはり愛していた、といってよい。
赤線が廃止(昭和31年)になる以前に、彼女のパトロンが、彼女に堅気の仕事を見つけてきた。生活を保障して、彼女がこの地帯から抜け出す機会を与えたわけであるが、一方、私は結核になって入院し、彼女との間は疎遠となったのだが、それでも都心からはるかに離れたその病院に、彼女は三度ほど見舞にきてくれた。
入院中、彼女との交渉を書いた私の作品が賞を受け、まもなく私は退院した(註)。しかし、ほとんど動けないほどの病状であったことと、経済的に窮乏していたために、出むいていって彼女に酬いるところがなかった。もちろん、彼女は金銭の報酬を望むような人柄ではなかったが、私は彼女に会って題材にしたことについての詫びと謝意をあらわすことができないことに、気がとがめていた。
(註・芥川賞授賞式には、既述したように文枝が代理出席している。)

一つには、私の妻が、私が彼女に自著を送ったことを知って、ヒステリイ症状を呈したことも、私の行動を束縛していた。当時、私には、その症状をはねかえすだけの、気大を欠いていたのである。
彼女は、堅気の生活をつづけることができていて、ある街角のタバコ売場に座っていた。時折、私は自分の本ができると、紙につつんでその窓から彼女に手わたしていた。
一度だけ、私は彼女と喫茶店で向い合ったことがある。そのころ、私の頭の中には、一たん赤線地帯の生活形態にまきこまれて、体が馴染んでしまった女は、外の地帯へ出たとしても彼女たちの体が、じりじりと元の街の方へ引寄せられていくのではなかろうか、という考えがあった。このときは、あきらかに、私はそういう心が動いた。
彼女は生活形態が変ったとき、体の内部のバランスが崩れて、ジンマシン様のものに悩まされはじめた。その病状がまだつづいていて、彼女の顔の皮膚を傷めていた。そういう状況も私の創作欲を刺激したものとおもえる。

私がさりげなく質問をはじめたとき、不意に彼女は表情をかたくして、
『もう、私からは引出せるものは、何もないわ』
といった。その言葉は、私の心に突刺さり、私のうしろめたい心持をえぐった。私は自分をなさけない人間と感じた。
それでも、時折、私は自著を彼女の座っている窓口に差入れた。そして、また性懲りもなく、彼女を題材にした短篇を書いた。一昨年のことである。その批評が新聞に大きな活字で出た日、彼女から電話があった。私は不在だった。その電話のことを知って、私は久しぶりに彼女のいる街角へ出かけていった。しかし、そこにあった建物は取こわされて、新しいビルが建築中であった。
彼女を探す手がかりを私は知っていた。しかし、そうすることが恐かった。・・・」

これは、その三年前に廃止になった旧赤線地帯を、安岡章太郎と偵察したときの「赤線という不死鳥」というルポルタージュ文である。昭和34年の発表だから、夫婦のゴタゴタのさなかに書かれたことになる(これと同じ話が、翌年の短篇「蛸の話」に出ている)。
この文章を持出したのは、吉行の奇妙に律儀な性格の一面を伝えていることと、文枝のヒステリイに言及しているからである(文枝のヒステリイについては章を代えて触れる)。吉行淳之介という男は、本質的には他人に気を配るやさしい側面を持っていたことは、吉行と交友のあった多くの人が証言するところであるが、その陰に見え隠れする小説家のシタゴコロを俊敏に見抜いたのは、この元娼婦の職業的嗅覚によるものであったか(しかし、吉行の小説「香水瓶」などや、宮城まり子の「淳之介さんのこと」によると、この女性とは終生交際があったことが書かれている)。
このルポ文に照応するような文章が、「私の文学放浪」にあったので、つづけて引用する。それは芥川賞初候補になった出世作「原色の街」(昭和27年、註)について語った部分にある。
(註・「原色の街」を受賞作に強く押したのも舟橋聖一であった。)

「原色の街」を書いた「意図の一つは、当たり前の女性の心理と生理の間に起る断層についてであって、そのためには娼婦の町という環境が便利であったので、背景に選んだ。意図のもう一つは、娼婦の町に沈んでゆく主人公に花束をささげ、世の中ではなやいでいるもう一人の主人公の令嬢の腕の中の花束をむしり取ることであった。善と悪、美と醜についての世の中の考え方にたいして。破壊的な心持でこの作品を書いた」のであって「もともとこの作品で私は娼婦を書こうとも思わなかった」という。
娼婦小説から出発したと思われている吉行の意外な一面である。が、次にはこう書かれる。

「『原色の街』を書いた頃には、その背景として使った娼婦の町に足を踏み入れた経験はほとんど持っていなかったことは、前に書いたとおりである。その作品を書き上げてから、その町への耽溺がはじまった。想像の中のその町と実際との誤差の確認、といえばきれいごとになるが、そういう気持も働いていた。
しかし、それだけではない。なによりも見知らぬ女がやすやすと軀(からだ、註)を開くという奇怪さ不思議さに私は心を奪われた。これは〈性の捌(は)け口〉といえば済むことを、文学的修飾で彩ったのではない。すでに私は結婚していたので、性の捌け口をその町に求める必要はなかった。
結婚して間もなく娼婦の町に耽溺するようになったというのは、やはり常識に逆行していることで、その耽溺を光源として結婚に照明を当ててみれば、その結婚のかたちが浮び上ってくる筈であり、作家として食指の動く題材だが、今のところその材料を使う気持ちはない。
(註・からだと書くとき、吉行は必ずこの字体を用いた。註に無駄話もどうかと思うが、石川さゆり「天城越え」の歌詞も、この字体「軀」である。)

現在、私は配偶者を不幸な状況においてしまった。その状態から脱け出す方法について、私と彼女の考え方が正反対であるために、その状態はえんえんと続いてゆくことになる。前記の題材を書くことは、その不幸に追討ちをかけることである。文学のためにはそういうことは顧慮しないという従来の私小説作家の心構えは、私にはない。
もっとも、それに近いことをすでに私は『闇のなかの祝祭』を書くことで、二人の女性にたいして犯している」
文枝のヒステリイも無理もなかった、というべきであろう。
上の下線部分が、再び「〝大義親を滅ぼす〟という心境には、あまなれなかった」という言葉につながるのであるが、しかし続く文章にもあるように、充分大義は「妻」を滅ぼしたのではなかったか。だからこそ、正反対の考え方を生じてしまい、「私の文学放浪」が書かれた昭和40年においてなお、吉行は離婚の同意を得ることが出来ないままの中途半端な事態に立ち至ったのではないか。どうせならカッコつけていないで、「前記の題材」を書いてくれればよかったのに(と、無責任な第三者は勝手に思ったりするのだけども。そこが吉行のやさしさだったのかナ)。

やはり「私の文学放浪」に、もう一人の女性も語られているので、それを最後に引用したい。
「M・Mに出会ったことは、作家の私にとっては幸運であったといえる。小説の材料を掴むために、私が彼女に接近を計ったのだという噂(文壇関係のうわさではない)を聞いたことがあるが、その噂はもちろん間違いである。そういう愚かなたくらみを持つ人間は、おそらく小説家にはいないだろう。なぜなら、そういう形で書いた作品はロクなものになるわけがないのだから。
私はM・Mに惚れたのであり、惚れるということはエゴイズムにつながる部分はあるが、功利的な気持は這入りこむ余地はない。三十四年の私の作品『鳥獣虫魚』の評で、小島信夫が『作者の青春が復活した』という意味のことを書いたのを記憶している。たしかに、一人の女性に惚れたという状況が、私の文章にうるおいを持たせた。そのことを、言葉を積み重ねて作品をつくりながら、私ははっきりと感じていた」
この述懐にあるように、宮城まり子の家の書棚で偶然目にした古びた「世界童謡集」に触発されて書いたいくつかの短篇によって、吉行は短篇の名手との声望を勝ち得ていったのである(そして文壇の大家へと)。

「M・Mとのことで、私は作家としても人間としても成長したとおもっているが、私の生活はそのために困難なものになった。それは二人の女に挟まれてヤニ下がっているようなものとはまるで違ったものである。死んだらラクになる、とはしばしばおもったが、しかし死のうとは決しておもわなかった。困難な生活は現在もつづいているが、そのことについてはこれ以上は語りたくない。こういうことにくらべれば、前述の新潮社とのトラブルはさほど重大事とはいえない。なお、新潮社との関係は、二年半余り経った三十九年の夏に旧に復したことを付け加えておかなくてはならない」
こういう文章に接して、M・Mは飛び上るほど嬉しかっただろう。吉行に惚れられて恋の勝利者になったばかりでなく、吉行の本分である創作にも多大に寄与貢献したことになるのだから。しかし、これは惚れた腫れたと宣(のたま)わって、宮城まり子があげまん女性だったことを世間に告白しているみたいなものでもある。

光当たれば翳りあり。
ここでも勝手な想像を働かせると、困難な生活をもたらした原因がまるで別居する妻にあるかのように書かれる文枝にとっては、吉行がこの手の文章を発表するたびに(実際、大久保房男の文章冒頭にあったように、A女B女物は「闇のなかの祝祭」後にも幾篇か書かれたのだから)、戦々恐々として身のすくむ思いをしていただろう。
それでも無視することも能(あた)わず、心急くまま手にとれば、その一文字一文字が棘となって肌を胸を刺したにちがいない。
と、同時にそれとはまったく別のラチもない想像も浮かんだ(関連がないこともないが)。
現在では、母子家庭と聞いても驚かないくらい一般的な現象となっているが、吉行文枝が別居したころ、すなわち昭和35、6年頃には、(文枝の場合、法律上は母子家庭にはならないが)死別を除く離婚や未婚の母子家庭というのは、どのくらいの比率を占めていたのだろうか。まだまだ少なかったのではないだろうか。
ちなみに昭和35(1960)年は、来春、新天皇に即位される皇太子徳仁親王のご誕生の年であり、前年34年は、今上天皇と美智子皇后ご成婚の年であった。


(以下、「闇のなかの祝祭」と「暗室」(4)につづく。)