前章で書き洩らしたところを追加しておく。それは「湿った空乾いた空」にあった次の文章である。
「私には父性愛はない。精(くわ)しく調べれば、まったくないわけではないだろうが、親子というものは、一たん他人になってから、あらためて人間関係を付けるのがよい、というのが私の考え方なので、父性愛というものを拒否しているためだろう」
この文章は、「不意に別れたままの娘のことをおもい出した。旅情も絡んでいたのだろう」と、書かれた直後に出てくる。渡米してすぐのラスベガスでの大喧嘩の前である。
この後が、前章に引用した「噂によると、別居中の妻は名門校に入れようという考えを持って、その気持は異常なくらい強いと聞いている。私はそういう考え方にまったく反対だ。すでに娘は歪んだ環境に、置かれていて・・・」という文章に続いているのであるが、これと瓜(うり)二つの文章が「赤い歳月」にも書かれている。

「子供が生れたならば、一たん他人になって、あらためて人間関係をつけるようにしよう、と私は考えていた。そういう考えを持つことで、ともすれば肉親のつながりが生ま生ましくなりやすいことから避けようとしたわけだ。
しかし、U子が生れたとき、私はU子と離れ離れに住むことになった。そして今、U子を運の悪い子供だとおもい、不憫におもうのは、他人の眼で見た感情なのか、父親としての気持ちなのか、その境目が曖昧になっている」
母親はともかく男親には、何かにつけて子供を突き放して考える傾向は、どの父親にも程度の差はあれ潜在しているとは思うものの、このように仰々しく大上段に振りかざされると、やはりとまどうのではないだろうか。
しかし、これに近いことが自伝的色彩の濃い小説「焰の中」にあったのを、あらためて思い出すのである。

それは、空襲警報で立ち寄った娘を部屋に引っ張り込んだ「僕」が、「濡れたシャツ」を脱げなかった悔しまぎれに、今度は「モノにしてやる」と口にすると、母親が「困ることにならないように、適当にやって頂戴」と答える場面である。そして「僕」が、母親に性教育まがいの知識をふりかざしたことは、すでに述べたが、そこには次のような文章も添えられていた。
「母の口調は、自分の息子にたいするものではなかった。それはむしろ、僕の中に死んだ父の姿をみて、それに訴えている調子だった。父が死んでしばらく経ったある日のことを、僕は思い浮べた。僕の部屋へ入ってきた母が、畳の上に正座して、自分の店の婦人技術者についての報告を僕に向ってするのである。〈田中花子が結婚して北海道に行っていたのですが、こんど離婚になって戻ってきたので、また働いてもらおうとおもうけど、どうでしょう〉という具合にである。
そのころ僕はまったくの少年で、母の店の人事なぞ相談されても何も弁(わきま)えなかったが、母が僕を父の身代わりにして、自分がそのような位置に身を置くことに心の慰めを見出していることは推察することができた」

父親死亡時、吉行が16歳の中学生(旧制)だったことも述べておいた。引用をつづける。
「そして、母が美容師になり自分の店をもって働いていることは、すべて父の書いた筋書きどおりに母が動いたのだという話が、事実であることを確認した気持だった。また、地方の都市の旧家の生れである母には、派手に見える外貌の内側に古い気質が潜んでいて、夫との関係においても昔ながらの妻の位置に身を置いた方が座り心地良くおもえる場合があるらしい、ということをも推察した」
放蕩三昧の父、母は職業婦人。原因不明の蹇(あしなえ)で寝たきりの祖母。一人で塀に上り、屋根に登って遊ぶ少年が、吉行の小説にはしばしば出てくる。その父親とは年の離れた兄弟に(そういう小説がある)、母親とは姉弟に間違われたのも、17歳と16歳の父母だったゆえに他ならない(したがって祖母に至っては、三十代で〝祖母〟に)。世間一般とかけ離れた、かなり異様な環境であったと考えられる。

「焰の中」の親子(母と息子)の交わす会話もどこか変だ。
少々頭のイカれたような(例の覗き見、覗き聞の)女中の作ったホット・ケーキを親子で食べながら、「僕」が「不思議だな、肉の味がしませんか」というと、母親は「うずら豆とメリケン粉とが混ると、こんな味が出るのかしら、ともかく、あの娘はお料理にだけは妙な才能を持っているわね」と答え、「へんな具合に、このホット・ケーキみたいなものはおいしいですね」と僕が返す。
この会話が不自然だとは言い切れないけど、(語尾にこだわると)いささか他人行儀であるのは否めないであろう。つまり、吉行のいう父性愛の欠如というのも、(後天的な要素を別にすれば)養育環境に起因したものであろう(これにつながる親子、兄妹間との接触についても、驚くようなことが妹和子や理恵の文章に書かれている。追って、引用する)。

だからといって、吉行淳之介が人付き合いの悪い冷たい男であったわけではない。むしろその反対であったかもしれない。それは吉行と交流のあった人たちが(その数の多さにも驚くけれども)、男も女も「ヨシユキ礼賛」とでもいうべき文章を残していることからもわかる(このことも章を代えて述べる)。
それに想像をたくましくすれば、「ねむの木学園」創設に理解を示した理由の片隅には、子供時代の体験があったからかも。
でもなぜか、これまでみてきたように妻文枝をモデルにした女性が吉行の文章に登場するとき、吉行の筆はとたんに冷酷になるのである。
再び、上述の「赤い歳月」のつづきの部分を引用する。

「U子を、A子の手もとに置いておくことが、私には不安だ。A子の不安定の感情の放射を無意識のうちに浴びることで、U子が歪んでゆくことをおそれる。
『あなたなんかに、子供が育てられるわけがないわ』 とA子が言う。『育てなくてもいいんだ。放っておけばいいとおもうんだが』と、私は答える。
A子とU子のいる家には、私の書斎がある。立派な机をA子が買って、その部屋に置いた。その部屋には、U子を入らせないようにしつけている、という。私にとっては無用の部屋だが、A子にとってはその部屋の存在が必要なのだ。
転居通知を、私の名前で印刷して、あらゆる雑誌社新聞社友人知人に発送した。そういうハガキが届いたことを、あとから私は友人に教えてもらうことになる。念を押すように、A子は私と連名の年賀状を毎年発送する。それを差止める方法を、私は知らない。
 
私の知らぬ、私の一日というものがある。あるPR雑誌に、A子が私の一日の行動を、詳細に報告していたのが、偶然眼に触れたのだ。
朝、U子が学校へ行くときには、私はまだ眠っている。昼前にようやく起きてくると、茶を飲みながらいくぶん猫背になって、ぼんやりした顔で煙草をふかす。食事をしてから、私は仕事場へ出かけてゆく。
夜遅く、私が帰宅したころには、U子はもう眠っている。私はその顔を覗き込み、指先でその顔をかるく二度ほど叩いて、自分の部屋に引込んでしまう・・・。
そういう情景が、ことこまかに描写してあった。A子がそういうことをするエネルギーは、何に向けられているのだろうか。おそらく、その意味も、月日の経つあいだには変化したことだろう。
弁護士に向って、A子は言ったそうだ。『わたしは、もうあんな人のことは、何ともおもっていません。ただ、子供が可愛いだけです』 
その言葉にこめられたものは、私にたいする無関心よりは、憎しみのほうに比重が傾くようだ。世間体をつくろうためと、私への憎しみのために、今ではそのエネルギーは使われているのだろう」

狂気「すれすれ」の鬼気迫るA子の行状が書かれているが、これは本当のことであったのか?
例えその全てが事実通りでないとしても、これに近い形で延々と「赤い歳月」が流れ続けたのであろう。成長したU子が母親を置き去りにして、家出してきたこともすでに述べた(つまりU子は、A子が制止していた父親の禁断の書斎に足を踏み入れたのだ)。
結局、この三角関係は宙ぶらりんの状態のまま、すなわち文枝との離婚手続きがなされないまま、したがって宮城まり子とは入籍できないで内縁関係のまま、昭和36(1961)年の家出から三十三年後の吉行淳之介の死をもって、ついに終焉を迎えたのである。

「吉行淳之介全集」年譜の平成6(1994)年の項には、こう記載されている。
『1月、「ヘアヌードというより毛・毛・毛の話」(インタヴュー)を〈サンデー毎日〉に発表。2月、遺言を書く。4月、「懐かしい人たち」を講談社より刊行。5月9日より7月18日まで虎の門病院に入院。6月、医師より肝臓癌を知らされる。一瞬の間をおいて「シビアなことをおっしゃいますなあ」と呟く。7月19日、聖路加病院に転院、一週間後の7月26日、宮城まり子に看取られて死去。遺言により、葬儀・告別式は執り行なわず(註)』
古希、享年70。34歳で死んだ父親より倍生きた勘定になる。
(註・「湿った空乾いた空」に、「Mも私も、宗教とは無縁の人間である」と書かれている。)

年譜の平成4年の項目には、「C型肝炎が原因の肝臓癌と知らされるが、宮城まり子は吉行和子と相談の上、本人には知らせず」とある。宮城まり子の「淳之介さんのこと」には、吉行の死に至る経過がるる綴られているのであるが、ここでは臨終に立ち合った阿川弘之の文章から引用したい。
宮城まり子の文章には綴られていない、気にかかっていたことが書き留められているからである。それは「追悼特集・吉行淳之介」(「新潮」1994年10月号)に掲載された「追懐・淳之介との四十年」という結構長い文章である。後半三分の一ほどを、現代仮名遣いに直して引用する(カッコで年齢を加えた)。

「翌七月二十六日朝、家内がまりちゃんの電話を受けた。今度は私が、徹夜のあとで寝ていた。昼すぎ起きて、『何か、ほんとうはすぐにでも来てもらいたそうな、まり子さんの口ぶりだった』と聞かされる。生憎、三時に人の来る約束があった。その用件を片づけて家を出たのが四時十五分頃、地下鉄新富町の駅からタクシーで聖路加へ着いたのが五時二十分、結果からいうと、息を引き取る一時間十分前に、私は吉行と約一年ぶりの、生涯最後の対面をしたのだが、その時、臨終がそんなに近いとは思っていなかった。
彼の手に触れるのは初めての経験なれど、もしこれが僅かな心の安らぎにでもなるならと思って、ベッドの上の痩せた右手を握り、『阿川だよ、阿川だよ』、二度呼んでみたが反応はなかった。髪はぼさぼさ、白髪はあまり無く、鼻に管二本さしこまれて、やつれ果てた表情で、眼はつむったまま、やや間遠な吐く息吸う息を繰返していた。

『非常に深い眠りに入っておられます』
と、日野原(重明、82)院長より説明があった。日野原先生と宮城まり子(67)とは、旧知の間柄らしく、先般何処かへ講演旅行も一緒に行ったとのことで、こちらへ移したのは、いざの時報道陣の大騒ぎを避けたいのが一つ、もう一つが、やはり日野原先生の信条にしたがって安らかな最期を迎えさせてやりたいとの、まりちゃんの意向に依るもののようであった。
院長は、八階の隅の吉行の病室へ十分おきぐらいに姿を見せた。まり子さんが廊下で先生をつかまえ、何かひそひそ話していたのを中断し、私を紹介しようとするので、初対面の挨拶もそこそこに、
『あと一両日の容態なんでしょうか』
私は訊ねた。
『いやいや、もう間も無くです』
と言われ、一瞬、水を浴びたような感じになった。

集っている者、宮城まり子を始め、吉行の母親八十七歳のあぐりさん、下の妹作家の吉行理恵(55)、中央公論の嶋中鵬二会長(71)、私とも五人、あと病院の医師看護婦、〈ねむの木学園〉の関係者ら手伝いの人が七、八人いた。嶋中会長は今から四十六、七年前、吉行や中井英夫(吉行より二つ上。註)と一緒に第十四次〈新思潮〉をやっていた同人雑誌仲間である。中井英夫すでに亡く、安岡章太郎(74)、遠藤周作(71)、近藤啓太郎(74)、みな病気持ちで、臨終の床に立ち会う友人、結局嶋中さんと私と二人しかいなかった。上の妹吉行和子(58)は、仕事でネパールへ行っていて、帰って来るのが明後日の朝になる。
私は自分が何をしたらいいのか、誰に何を頼んでどうしてもらえばいいのか、不安な落ち着かぬ気分であった。嶋中さんが、眼立たぬように八方気を配って、必要な措置、次々手を打ってくれているようだが、いくら昔の同人雑誌仲間とは言え出版社の会長に、私の方から一々、〈あれ済ませた?〉〈これ頼むよ〉とは言いかねた。めぐりめぐって、凡(あら)ゆる負担が宮城まり子一人にかかってくる。
(註・参考までに付記すれば、中井英夫は渡辺淳一「冬の花火」の章に登場する。)

まり子さん自身、それは覚悟していて、〈淳之介の最期を見守り看取るのは私〉の気概のようで、ここ数日ほとんど眠っていないらしかった。戸籍上の吉行夫人(年齢不詳)、その人の生んだ一人娘麻子(35歳であったか)、麻子の子供、つまり吉行の孫、此の一族へ報らせるのか報らせないのか、判断がつかず、今単刀直入まり子さんに相談も出来ず、私は別室で休息中の母上あぐりさんに、それとなく此の件話しかけてみた。七十の息子に先立たれる老母が、じっと悲しみを耐えている姿は、見るに忍びないものだったが、
『すべてまりちゃんに聞いて頂戴。まりちゃんの考え通りやるしかありません』
予想外にしっかりした返事で、はっきり、実の嫁まり子を立てた。意識のある間、吉行当人の意志もそれと同じ、何も彼もまりちゃんに委せるつもりだったろうと察せられた。

三十余年一緒に暮していれば、二人の仲、いつも春風駘蕩太平無事とは、むろん行かなかった。時々夫婦大論争が起きたのを知っている。女優としてあれだけの演技を見せ、〈ねむの木学園〉創設運営にあれだけの手腕を発揮した人が、ただの温順平凡な女性でなかったのも、当然のことである。元気な頃吉行は、よく、
『昨日の晩又大喧嘩。どっちがどっちをやっつけたかって、あんなお前、ライオンみたいな者と言い争って勝てるわけ無いだろ』
とか、
『あゝあ、俺もねむの木の子供みたいに、少しはやさしくして貰いたいよ』
とか苦笑まじりで洩らしたが、事実は身辺のこと万事、殊に入院後はまり子さんを頼り切っていた。

・・・最期の時が近づいたようであった。ベッドの周りにみんな集まった。私は左横、足元近くに立って、吉行の入歯をはづした顔を見ていた。軽く開き加減の口が、動かなくなり、「おや」、訝(いぶか)しんでいると、暫(しばら)くして又動いて息を吸い込んだ。一人づつ進み出て、脱脂綿つけた割箸状の物を水に浸し、唇、口の中、湿してやった。苦しみの表情を見せないのが、こちら側のせめてもの慰めと思った。
瞳孔をあらため、胸に聴診器あてて心音を聞いていた日野原先生が、六時半ちょうど、
『お別れして下さい』
と言って身を起した。鼻の管ははづしてあり、吉行の顎はもう動かなかった。心臓の鼓動だけ、あと一、二分続いていたようだが、外部への発表は七月二十六日午後六時三十分とすることに決めた。

私は泣かなかったが、誰や彼やの忍び泣きの中、後の始末が始まった。かなり長い時間かけて遺体の清めがすみ、その後ナース・ステーションで若い担当医から、死に至るまでの病状経過説明が行われた。虎の門入院中のものも含めて、たくさんのレントゲン写真がライト越しに提示され、〈血管腫〉と称していた肝臓の癌がやがて処置不能の大きさになって行ったこと、さらに、肺その他へ転移して、もはや恢復は望めず、吉行の命が時間の問題になって来たことなど、極めて明快に語られた。
『今月の二十一日、こちらへ転院なさった時は、半ばもう夢を見ておられるような状態でして』
とも、担当医は言った。

まり子さんの話では、何週間か前、虎の門病院の医師が、癌の告知をしたそうである。吉行は自分の病気を癌と、八割方察していたけれど、あとの二割、やはり信じたくない気持があったのだろう。〈先生シビアなこと仰有いますなあ〉そう言って、動揺の色を見せたという。
十三、四日頃から、折々意識に混濁が生じた。若き日と只今現在との区別がつかなくなるらしく、〈お前妊娠してるんだろ。産んでもいいよ〉と、意外なことを口にした。吉行の子を身籠って産むのを許されなかった苦い経験のあるまり子さんが、秘事としてこれを語るのを、〈そうか、やっぱりずっと気にしてたんだな〉と思って私は聞いた。(註・「闇のなかの祝祭」、「赤い歳月」に描かれた妊娠のうち、少なくともどちらかは事実だったということになる)

死因病名については、『肝不全と発表なさったらどうですか』聖路加医師団よりのサゼッションがあった。
亡くなった後も、遺族は普通〈癌〉の一字を避けたがるもののようだが、私ども、ちょっと相談の上、作家なんだ、正直にまっすぐ〈肝臓癌の為死去〉、そう言おうと申し合せた。
その前、遺骸が清められるのを待つ間、私は家へ電話をかけた。『えッ』と驚きの声を挙げる女房に『驚くのをやめて、すぐ次のことをやってくれ』
吉行と格別昵懇(じっこん)だった各出版社の編集者たち、誰と誰と誰とに何としてでも連絡取って、至急聖路加病院へ来て貰うよう、その際、テレビ新聞関係に勘付かれぬよう、事情が事情だ、悪いけど自分の社の週刊誌にも伏せておいてほしい、興味本位の大騒ぎなんかされちゃ敵(かな)わない、頼む、と命じた。(註・余計な一言だが、ここら辺の妻への指図、元海軍中尉だったのを偲ばせる)嶋中さんが同じような手配、電話であちこちへしている様子であった。

退社時刻を過ぎていたにも拘(かかわ)らず、逐次連絡がつき、識り合いの編集者が次々あらわれはじめた。頼りになる人たちだが、私はその他にせめてもう一人、同世代の友人の作家がいて欲しかった。伏せておくつもりでも、テレビ局、新聞社の社会部が嗅ぎつけるのは、吉行の最期と同じく〈時間の問題〉だろうと思った。若い女性のニュースキャスターに、マイクロフォンを突きつけられて、わざとらしいお涙頂戴でしつこく感想を求められる、そういう場面、想像しただけで私は腹が立って来る。俺じゃ駄目だからと、遠藤(周作)に頼んで、三浦朱門(68)をつかまえて貰った。顔に薄く化粧を施した吉行の遺骸が地下の霊安室へ移し了えられて間もなく、私より六つ若いのに私よりずっと大人で、健康体で、冷静な判断と報道陣への落ち着いた対応の出来そうな三浦が、黒ネクタイもつけぬ儘(まま)やって来てくれた。

私の役目は、其処(そこ)までで終ったようなものである。通夜も葬儀もしないことは、嶋中さんも交えて話し合ってすでに決定ずみであった。疲労困憊(ひろうこんぱい)その極みに達しているまり子さんに、何やかや言うのは気がさしたが、霊安室に移る前、
『あれだけ純粋な芸術家だったんだから、吉行送るのに、通俗なやり方は一切避けたい』
と、私から意見を述べた。
『淳ちゃんも、それ望んでました。お葬式もしないでくれって、遺言に書いてあるはず』
まりちゃんは答えた。

その結果、遺骸は当日夜半、親しい編集者たちと一緒に、上野毛の自宅へ帰り、娘と孫と元の奥さんにも別れを告げて貰い、僧侶の姿牧師の姿無しで二た晩書斎のベッドに安置された後、吉行和子の帰国を待って、二十八日午後、桐ヶ谷の火葬場へ向う。出棺に際し、御希望の方はどうぞお見送り下さい、花はお届けになっても受けません、無宗教ですから、初七日の法事というようなものも無論致しません、これで全部おしまいとなったこと、各新聞週刊誌の伝える通り、私の思い出の記も、これを以て終りとしたい。
人々の記憶に残る洒落たやさしい言葉、私への悪口雑言、どちらも、もう吐くこと止めた吉行のしぼみ加減の口元のかたちが、わが瞼(まぶた)に未だ焼きついている」

よくぞここまで書き残してくれた。このように一人の人間の最後の模様を詳しく伝えている文章には、めったにお目にかかれるものではない。知りたいことは余さず書かれてある。これにひとつだけ付け加えるとしたら、次の遺言の内容であろう。
「○喪主は宮城まり子に託するが、通夜、告別式、葬式はこれをおこなわないのが望ましい。
○全著作権を宮城まり子に贈与する。動産、不動産は民法が定める最大可能分を宮城まり子に贈与する。動産はさくら銀行の預金9600万円、不動産は千代田区にある物件すべて」(註・さくら銀行は、現三井住友銀行。不動産というのは、市ヶ谷の居宅跡のことか。住所は麹町なのだから。)
全著作権を宮城まり子に、というのは、やはり驚いた(三島由紀夫は、妻の他に母親にも著作権の一部を与えている)。

ネパールでの仕事で兄の死に目に間に合わなかったけれども、それまで毎朝病院に電話をしていたという妹和子の兄を悼んだエッセイには、次のようなことが綴られている(いずれも「兄・淳之介と私」)。
「私が一人でお見舞に行った日、ぼくは二年前から分っていたよ、きみたちが気を使うといけないから、黙っていたんだ、と言い、おふくろには知らせないでおこう、と言いました。そして七十まで生きるとは思っていなかったから、もういいよ、とも言いました。
私はどう答えていいか分らなくなり、しどろもどろとなり、そうね、人間はいつかはみんな死ぬんですものね、と言ってしまい、取り返しがつかなくて困っていると、兄はふふふと笑いました」
「七月に入ると、兄は、ぱっちりと目を開けて、一点を見ていることが多くなりました。その目は頼りなげで、とっても幼く見えました。私はお姉さんになったみたいな気持になり、そんな兄を見つめていました」

そしてこんなことも。
「四年ぶりに兄が母のところに来た。いつも家にいる妹と、偶然家にいた私と、四人の顔が揃ったのも、だから四年ぶりだ。母と妹と私は、同じビルの別々の部屋に住んでいる。兄は離れているが一時間もかからないところにいる。お正月を祝うこともしないし、集まるという習慣も無いので、よほどのことがない限り会う機会がない
よほどのことがあったわけではないが、何かの拍子で兄が来る気になって久しぶりの再会になった。
三十分くらいはいただろうか、二十分だったかもしれない。〝まあ、来てみれば、どうということもないが、えーと、それじゃ、また〟とか言いながら、ほうほうの態でというのは大げさだが、ほっとしたように帰って行った」
会う機会がないので、和子は雑誌の対談の相手に兄を指名したこともあるとか。自分の舞台を観に来てくれたのがはっきりしているのは、一度だけだとか。兄が死んだ年の正月に兄の家に行き、母と二人でお雑煮をご馳走になったけれども、兄の家に行ったのは実に十二年ぶりだったとか、ここにも驚くことが書かれている。

作家である妹理恵も、当然追悼文を残している。その一つが「靖国通り」(「新潮」1995年1月号)である。それを抜粋する。
兄に会ってから九年が経った。私は気の使い方が下手で人を疲れさせる。兄に電話をかけるということもしない。長い間兄は数々の病気で苦しんでいた。ここ数年は入退院を繰り返している。兄が入院すると、私は市ヶ谷橋を渡り、靖国通りにある小さな神社に通う。
『あの顔、こっちまでめいっちゃう』
市ヶ谷橋で擦れ違いざまに若い人に言われた。相当私は深刻になっているようだ。(中略)
一日も休まず神社に通っていたが、結局(註・黒い蝶を見かけた)その日が最後になった。兄はすべてのものから解放されて、好きだった市ヶ谷に戻ってきているのだろうか。兄がそばにいるような気がしている」

初恋の人は詩人の立原道造で、「色の褪(あ)せた赤いポストを指して、『ポストが枯れている』と言ったり、穴のあいた靴下をはいて『イタイ、イタイ』と泣くので、ふしぎにおもっていると『靴下が痛いおもいをしている』ということで泣いていたりする」(吉行の短篇「祭礼の日」)ほどに繊細な神経の持主だった妹理恵。
吉行理恵は詩人として出発したのち、昭和56(1981)年「小さな貴婦人」で第85回芥川賞を受賞し、初の兄妹受賞となったが、寡作のままで次第に人と交わるのを避けるようになり、外出もしなくなっていたのを、兄に別れを告げるために勇を鼓してあぐりに付き添ったのであろう。その光景が「兄の似顔絵」(「新潮」1995年1月号)に書かれている。

七月二十六日、九年ぶりに会う兄はもう深い眠りに入っていた。十二時間母は兄の左手の親指と人差し指の間を軽くおさえつづけていた。心臓のはたらきがよくなると聞いたことがあったので、黙ってひたすらおさえていた。
母は生後八ヶ月の兄を祖父母のもとにおいて父のいる東京へ出た。そして美容の勉強を(住み込みで)したので二年間兄のもとへ帰れなかった。祖母から母が帰ってくると聞いた兄は、本当だね、この畳の上へ帰ってくるんだね、と畳を叩いたそうだ。
孤児のようだったと兄の書いている文章がある。十二時間母と一緒に過すのは初めてだっただろう。もうこれでいいか、母が疲れるから、と思ったのかもしれない。いつ息を引き取ったのか分からないくらい静かに逝った。
私が文学の世界に入るきっかけも兄だった。兄と最後の別れをする時、〈ありがとうございました〉と頭を下げた」「海外で仕事をしていた姉はその日間に合わなかった」

生涯を独身で通した吉行理恵は、兄の死から十二年後(平成18年)、甲状腺癌にて66歳で死去。それは、三十年前に書いた初めての小説「男嫌い」の作中人物、理恵の分身である女主人公が66歳で、しかも病名まで甲状腺癌で死んだのをなぞったような最期であった、というのだから奇怪千万である(たかが小説というなかれ)。
美容師の仕事を97歳まで続けた母あぐりが淳之介、理恵のもとへと旅立ったのは、107歳を迎えての平成27年のことであった(なお、あぐりの再婚の相手辻復は、平成9年90歳で死亡している。また、連続テレビ小説「あぐり」の放映は平成9年春である)。吉行家五人のうち、和子一人が残された。

ただ、上述「靖国通り」に理恵が、次のような昔の奇妙な出来事を挿入して兄嫁にふれているのには、どういう意味合いがあったのか。
「日中は母屋の入り口の戸を開けっぱなしにしてあった。突然、坂の上の綿屋の奥さんがどどっと入ってきた。小柄で可愛らしい人なのに、別人のように冷たいこわばった形相をして、全身埃(ほこり)まみれだった。『あっ、あなただ』と、綿屋の奥さんは人差し指を兄嫁の眼に向けた。兄嫁は震えながら壁の方へあとずさりしていった。
『あなたがこの家を滅ぼす』と怖い声で言い、出ていった。まるで一陣の風が去ったあとのようになった。
靖国神社に参拝したあと精神に異常を来たしたらしいという噂を聞いた。後日用事を頼まれて、綿屋へ入ってゆくと、奥さんに優しい声で丁寧に迎えられ、またびっくりした。

間もなく兄と義姉は別々に引っ越していった。長い別居のはじまりだった。
占い師が、〈いまのままだとお兄さんは死ぬ〉と言ったと、珍しく姉(註・和子のことだ)が深刻な顔をしている。その後の兄を、綿屋の奥さんがみたらなんて予言するだろうか」
ちょっと真意を測りかねる不思議な文章である。
その理恵のことを「何も書けないくらい兄のことを心配していたのですよ」と、自著で息子に語りかけるあぐりも同じような文章を残している。
「淳は生きることを放棄したとしか思えません。あまりにもひどい卑劣な人格の人達に、ふるふるいやになったとしか思えません。あなたを別の環境においてあげていたら、もっともっと生きてくれたと思います。先に行かれるなんてまことに、まことに悲しいです」(「母・あぐりの淳への手紙」1998年文園社刊)
理恵とあぐりは、何を言いたかったのだろう?

あぐりと理恵、和子も含めて、これ以外に兄嫁のことに触れた文章は見当たらなかった(当然、兄嫁が産んだ娘、すなわちあぐりの孫、和子理恵の姪については皆無だった)。いろいろはばかられたからであろう(宮城まり子も極力筆を抑えているし、文枝の回想記だってそうだ)。
その点、阿川弘之は第三者だからこそ踏み込んで書けたのだろう。娘(麻子さんという名前だったのだ)はともかく文枝までもが吉行の死顔に対面できたのは、明確に書かれてはいないが、宮城まり子の許諾があったればこそだったろう。
安岡章太郎、遠藤周作、近藤啓太郎はそのとき病体にあったと書かれているが(だから「第三の新人」たちが勢ぞろいした吉行の追悼座談会に安岡と近藤が出席していなかったのだ)、阿川弘之が駆けつけてくれたのは、宮城まり子にとって何よりも心強かったにちがいない。

というのも、肺腑を突き刺すような悪口雑言を浴びせ合いながら、東京オリンピック開催の日も、ケネディ大統領が暗殺された時も、川端康成が自殺した日も、娘の佐和子が石垣から落ちて頭に大怪我をした日も、齢のちがう姉が死んだ時も、果ては三男が生れた時も(註)、花札(時に麻雀)かブラックジャックに熱中していたという遊び相手が阿川弘之であり、何につけすぐカッとする阿川弘之は、「瞬間湯沸かし器」「セントラ(ルヒーティング)のひいさん(弘之)」「リトマス試験紙」などなど数多いあだ名を吉行からもつけられていた(たしか、娘の佐和子もエッセイに、父親の性格をそのように綴っていた)。
そういう阿川弘之を、宮城まり子は「淳ちゃんがぐさりと突きささるようなこと平気で言える相手、私と阿川さんだけなの」と、信頼を寄せていたようだからである。
(註・阿川弘之の三男敦之の名前は、淳之介と弘之の一字ずつをとって命名したのだが、結果的に二字もらった形になって「盗作料よこせよ」と吉行にののしられたとか。)

先の「追懐・淳之介との四十年」は、この交友関係あったればこその、皮肉たっぷりの友愛の情で書き起されている。
「吉行淳之介が亡くなって、新聞や週刊誌、女性誌、文藝誌の追悼記事みな、やさしい人だった、心があたたかく、短篇小説の名手でありながら同輩後輩を傷つけるような文学上の悪口なぞ決して言おうとせず、誰に対しても驚くほどの気配りを示し、その気の遣(つか)いようがデリケートでこよなく洒落ていてと、絶讃に近い扱い方をしてくれている。臨終に立ち会った者、肉親の理恵を除いて小説家は私だけなので、友人を代表して御礼申すべき立場かも知れないけれど、正直な話、ちょっと首をかしげたくなる、〈そうか知ら〉と思う。ジャーナリズム挙げての此の満場一致ぶりに対し、〈ほんとうは難しい人じゃったから〉と、含みの残る言辞を洩したのは、戦後文壇通の随一、元〈群像〉編集長の大久保房男ぐらいだろう。

少なくとも私の場合、識りあって以来四十二年間、終始一貫と表現しても誇張にならぬほど、いやがらせと〈傷つけるような悪口〉の言われつづけであった。これは、安岡章太郎にも庄野潤三にも、近藤啓太郎にすらじかに見せなかった吉行のえげつない一面で、〈同じことを他の連中にだって少し言ってみろ〉というと、必ず〈怖くていえない〉と答えた。どうやら私は、たった一人の怖くない友だったらしく、彼の死後それを誇りにしてよいものかどうか、すこぶる疑問であるけれど、追懐の記となれば、ともかくその微妙な線に沿うて思い出を綴ってみるしか道が無い」
同じ友人仲間でも付き合い方は、それぞれの微妙な個性が反映して自然と異なってくるものである。吉行にとって阿川弘之は、安岡章太郎や近藤啓太郎とは違うところで、腹蔵なく付き合えたのかもしれない。

しかし、阿川弘之は吉行よりもかなり年上だったのである。せっかくだから、島尾敏雄と小沼丹を加えた「第三の新人」たちを生年順に並べてみれば、小島信夫(1915年、東大)、島尾敏雄(1917、九大)、小沼丹(1918、早大)、近藤啓太郎(1920、東京芸大)と安岡章太郎(慶大)と阿川弘之(東大)の三人が同年生れ、庄野潤三(1921、九大)、遠藤周作(1923、慶大)、吉行淳之介(1924、東大)、三浦朱門(1926、東大)、曽野綾子(1931、聖心女子大)という順序になる。これに加えれば瀬戸内寂聴(1922、東京女子大)、三島由紀夫(1925、東大)。曽野綾子を除いて、皆大正世代である。
安岡や近藤と同様、阿川弘之は四つも年上だったのだ。その吉行が彼等と対等に渡り合えたのは、戦前の学制ならではの現象であったろう(ただし、ずいぶん年上の小島信夫や島尾敏雄などには、それなりの敬意を払っていたようだ)。
吉行と同年生れには安部公房、吉本隆明、武田百合子、山崎豊子、高峰秀子、相田みつを、「冷血」のアメリカの作家トルーマン・カポーティなどがいる。

ついでに没年も(女性二人はいまだに現役のバリバリである)。
三島由紀夫(1970、45)、島尾敏雄(1986、69歳)、吉行淳之介(1994、70)、遠藤周作(1996、73j、小沼丹(1996、78)、近藤啓太郎(2002、81)、小島信夫(2006、91)、庄野潤三(2009、88)、安岡章太郎(2013、92)、阿川弘之(2015、94)、三浦朱門(2017、91)というところである。
このうち、遠藤周作と阿川弘之、そして瀬戸内寂聴は文化勲章受章者となった。安岡章太郎は、小島信夫や庄野潤三などと一緒で地味な作風の上、エンターテインメント作品も書いていないので受賞出来なかったのだろう。もし、吉行がもっと長生きしていたらどうであったか。まあ、品行よろしくない花柳小説家の泰斗永井荷風だって貰っているのだから、その可能性は充分あっただろうが、果たして。
面白いのは三浦朱門で、小説家とは別の道でも才能を開花させて、文化庁長官や日本芸術院院長などを歴任している。阿川弘之が吉行の臨終に際して、手堅い人物として頼りにしたわけだ(曽野綾子さんが好きになったのもそこだった?でも、デヴュー時の三浦は、芥川龍之介の再来とも騒がれたそうだから、どうだったのか)。
なお「闇のなかの祝祭」で、主人公沼田の友人として唯一登場する松木陽吉のモデルは近藤啓太郎である。

D I G R E SS I O N  A ND  D I G R ESS I O N。(「横道また横道と訳してみるか。本筋を離れてやたらに枝葉に及ぶこと、といった意味の英語である」と、「湿った空乾いた空」にある。)
夜の巷(ちまた)での若き瀬戸内寂聴との出会いについては、いっとう最初に述べておいたが、やはり夜の銀座でのエピソードである。
「東郷青児画伯が仲間と〈数寄屋橋〉で飲んでいると、吉行淳之介が一人で入ってきて別の席に座った。やがて迎えの車が着き、東郷が席を立ち吉行の側で会釈を交わし、外国語で二人は言葉を交わした。画伯を送って(出口まで)ママは(園田静香)画伯に何と言ったのかときいた。『久しぶりにお会いしたので、ご挨拶をしただけです』と云って車のドアを閉めた。
店に戻り、吉行に確かめると、『今、何をお話しなさったのですか?』『東郷さんからは何も聞かなかったの?』『東郷先生は只ご挨拶しただけだって』『ハッハッハハハ・・・フランス語でね〝相変わらずダンディーですね〟って言われただけだよ』『へえー、それで先生は何てお答えに?』『〝貴方にはとても及びません〟とだけ』
瞬間、私は経験したことのない、めまいがするほどの言葉のカルチャーショックを受けてしまいました」(「『文壇バー』君の名は数寄屋橋」2005年、財界研究所刊)

モテるわけだ。(フランス語は静岡高校で専攻して、その時の恩師を吉行は生涯「先生」と敬愛した。吉行が先生と呼んだのは、この恩師と文学関係では佐藤春夫のみである。(東郷青児については、「自由人の系譜、宇野千代の章」を参照あれ)
「追懐・淳之介との四十年」の言辞を裏付けるがごとく、どこでも誰からも吉行大明神さながら、ことほどさようにもてはやされたようであるが、さすがに博打でののしり合った阿川弘之の目は鋭かった。大明神の相反する側面をも見逃してはいない。
「吉行の神経の繊細さ、心根の奥のやさしさを否定はしないけれど、それと裏表をなす残酷でつめたくてしつこくて嫉妬深いところ、色々書き列ねていたら際限が無くなる」

新潮社版吉行全集の第12巻(エッセイ集)の解説を、やはり阿川弘之が担当しているが、これにも吉行の裏面に関しての歯に衣を着せぬことがいろいろと書かれている。
「彼の歿後、後進の売れっ子作家たちが、吉行さんにはよくしてもらった、神経が繊細で、気の遣い方がこよなくデリケートで洒落ていて、あったかい人だったという類の、絶讃に近い追悼文を新聞雑誌に発表するのを読む度、私は〈とオんでもない〉と首振りたくなった。やさしくして貰ったのも、デリケートな心遣いを示されたのも、実際その通りであろうけれど、それは吉行の全面像と違う。賭け事最中の私に対してだけでなく、身も蓋も無いところで人を評して、彼がどんなきつい小意地の悪い言葉を使ったかは、その方々の御存じ無い部分である」
なので、阿川弘之は「何度か、本気で〈絶交〉を考えた」とまで書いている。

「彼に男兄弟は無く、妹が二人だけ、後年才能を広く世に知られる吉行和子と吉行理恵、お母さんのあぐりさんは、淳之介の少年時代銀座伊東屋上に美容室を開いていた美容師で、其処へ遊びに行って接する母親のお客さんも、当然皆女性、父親はあまり家へ寄りつかなかったようだし、三十四歳の若さで亡くなってしまう。女ばかりに囲まれて大きくなった都会っ子の吉行は、嫉妬深くてしつこいところ、妙に残酷で頑固でつめたいところ、相手によって鷺を烏と言いくるめる小意地の悪さ、女好きの女嫌い、そういう一面を、かなりたっぷり、〈生理〉として持ち合わせていた」
阿川弘之は、これらと同じような文章を別のところでも書いている。しかし、だからといって二人の交友が途絶えることはなかった。つまり、性格も信条もまったく正反対でありながら、それゆえに互いを知り尽くしての馬の合うところもあったということだ。それを、阿川弘之は「笠碁のつきあいだった」と表現している。

「男嫌い」の妹と、「女好きの女嫌い」の兄の組み合わせもおもしろいが、「女好き」の兄の女の好みについても阿川弘之は同じ文章でおもしろおかしく書いている。
「女性に対する好みも違った。酒場の女から〈タイプがきまっているのね。なんだか小児麻痺みたいなタイプがいいのね〉と言われて、半ば肯定した話を『なんのせいか』という随筆に書いている。以前は〈幽霊のように影の薄い女〉が好きだったのが、段々変化して、言われる通り、〈背の低い、美人顔でない、バランスの取れない女性を好む傾向がでてきたようだ〉と。
三浦朱門、遠藤周作、私の三人で、ひそかにこれを〈吉行の悪食〉と称したが、当人に言わせれば、〈お前たちの好きなのは分りやすーい美人、俺のは分りにくーい美人〉、その道の初心者と奥義を極めた者の違いということになる」
吉行文枝はともかく、宮城まり子を想像すると分かったような、分からないような気分になるけれども、どうやら吉行は小柄でキュートな女性が好きだったらしい。

この文章の発表が1998年9月、先の追悼文「追懐・淳之介との四十年」が1994年9月。この間の1995年と1996年に、二冊の書物が名のある出版社から公刊された。著者はいずれも女性で、その内容はいずれも吉行淳之介と特別な関係にあったことを記した、いわば愛の告白本である。
つまりは、本妻と内妻が相対していたところに、第三夫人と第四夫人が相次いで名乗り出たということになるわけで、俄然、まるでどこかの国の王様みたいな様相を呈したのである。この分では、まだまだ第五、第六夫人が現れるのではないか、と吉行の近親者は戦々恐々としたかもしれないが、その心配には及ばなかった(さぞかし胸をなでおろしたことであったろう)。とはいえ、こういう類例にも滅多にお目にかかれないのではなかろうか。


追記。
ここ数日間、ブログ作成と並行して大変興味深い本を読んでいる。それは、詩人の高橋順子著「夫・車谷長吉」である(車谷長吉は最も好きな作家だったから)。この本も追想記なのだが、読み終わった部分にこういう記述があった。
「母の妹の私(高橋順子さんのこと)の叔母は大正末年生まれで、二十歳になったとき、戦争が終わった。結婚の相手となるような男性は多く戦死し、〈男一人に女はトラック一杯〉といわれた」
だから、叔母さんは独身のままだったと。これは同時に、生年ははっきりしないものの、まさしく吉行の妻・文枝の世代、さらには昭和2年生れの宮城まり子の世代の話でもあったろう。
それに、吉行が療養した千葉の佐原の地名が出てきて、あれって思ったり、あるいは車谷長吉が「ぼくが死んだら、葬式はしてくれるな、しのぶ会などもしてくれるな。ぼくは治らないかもしれない」と、順子さんに言ったりする、ところを読んだ。
だからそれがどうした、と言われたらそれまでだけど。こういう読書体験ってママある、よね(ということ、だ)。


(以下、「闇のなかの祝祭」と「暗室」(7)につづく。)