昭和45(1970)年に刊行された「暗室」は、「闇のなかの祝祭」とは対照的に高く評価され、その年の第六回谷崎潤一郎賞を受賞した長篇小説である(同時受賞したのが、まぎらわしい題名の埴谷雄高「闇のなかの黒い馬」というのも、何だか因縁めいているのであるが。註)。
この回の選考委員は丹羽文雄、舟橋聖一、大岡昇平、武田泰淳、遠藤周作、円地文子、三島由紀夫であった。その贈呈式が帝国ホテルで行われたのは、11月17日。この日の三島由紀夫に関するエピソードのひとつ。
この式典に十分遅れた三島は、パーティ会場に移って二回も遅刻を詫びたという。吉行は、どうしてそんなに気にするのか、不審に思ったというのだ(吉行も約束の時間は厳守していたが、三島のそれは几帳面で厳格そのものであることが知られていた)。三島が自決したのは、それから一週間後の25日のことである。大事を控えての昂(たかぶ)りであったのか。
とまれ、吉行淳之介はこの受賞を機に、三島由紀夫と入れ替わるがごとく、文壇での存在感を増していったのである。
(註・辻井喬の「終わりなき祝祭」もまぎらわしい題名である。)

その三島由紀夫の「暗室」選評(最後の文学賞選評となった)。
「吉行淳之介氏の『暗室』は、閃光(せんこう)のようなすばらしいディテールに充ちた、性的惑溺と嫌悪との物語で、われわれは肉の感覚とインディフェレンス(註・無関心、冷淡)との、永久に解決のつかない隠微な闘争の場へ連れ込まれる。田舎の花嫁の厚化粧の、白目の黄いろっぽさを見抜く残酷な精神が、〈愛〉なしに、肉欲の只中へ落ちてゆこうとするときに、日常の部屋は『暗室』になり、苛酷さはそのまま自滅のスリルになり、性的快感は無限に・・・」
いかにも、鬼才といわれた三島ならではの核心を突いた選評である。しかし、これでは「暗室」が、具体的にどういう物語であるかは、皆目わからないであろう。
都合のいいことに、これから登場してもらう著書巻末に「暗室あらすじ」が付いているので、それをそのまま引用する。

「中年の作家中田のもとに、ある日突然、旧友津野木から電話がかかってくる。死んだ妻圭子と津野木の仲を、中田は疑っているが、問いただしたところでどうなるものでもない。津野木に連れられて行ったバーで、中田はレスビアンの少女マキと知り合い、関係を持つ。男とは〈性のないセックス〉しかできないマキは、中田の子を妊娠し、ニューヨークへ旅立つ。
中田にはすでに、多加子、夏枝という二人の恋人がいた。四年越しのつきあいになる多加子は、結婚を機に中田のもとを去り、代わって夏枝との関係が深まっていく。〈官能の世界にだけ生きる〉 夏枝は、中田にとって都合のよい、〈安全な〉存在のはずであった。が、夏枝と様々な性戯を試み、彼女の軀に溺れていくうち、中田は夏枝に心を開きかけている自分に気づく。そのような自分を持て余しながらも、中田は今日も夏枝が待つ『暗室』の扉を開ける。『暗室』へいたるまでに感じる夏枝のにおいは、もはや官能をそそるだけのものではなく、中田を物悲しくさせるに充分であった。
圭子、マキ、多加子が中田のもとから消え去り、夏枝だけが残った。
女達との危うい関わりを研ぎ澄まされた文体で描きつつ、性をめぐる様々な挿話を随所にちりばめ、究極の性の姿を問いかける吉行文学の記念碑的作品」(「『暗室』のなかで」)

このあらすじに書かれている架空の登場人物であるはずの四人の女性のうち(圭子とマキはさておいて)、作者の死後間もなくして〈多加子と夏枝は私です〉と、次々に名乗り出て来たのだから、吉行の近親者や関係者はさぞかし驚いたにちがいない。それとも、宮城まり子や一部の人は、二人の女性の存在をすでに知っていたのであろうか。
いずれにせよ、多加子と夏枝のモデルとなったのが、「『暗室』のなかで」(平成7年、河出書房新社刊)と「特別な他人」(平成8年、中央公論社刊)の著者大塚英子と高山勝美だったのである(吉行の死は平成6年)。ただし、多加子が高山勝美で、大塚英子が夏枝である。
その夏枝の写真が「『暗室』のなかで」扉(とびら)にある。「嬋娟(せんけん)として窈窕(ようちょう)たる霊感美人」だと、吉行がおどけ混じりに喩(たと)えたと本文にあるが、それにふさわしいロングヘアーの美女である。写真キャプションには、平成3年撮影とある。その年、吉行は67歳。いったい、夏枝は何歳だったのだろう。吉行の年齢に比べて、異常に若過ぎるように思われるのである。
「淳之介の背中」の吉行文枝がそうだったように、残念ながら「『暗室』のなかで」にも、著者紹介が無いのだ。これは「特別な他人」も同様である。二冊とも曰(いわ)く本の一種にちがいないのだから、仕方ないのだろうけど。

逆にその分、同じ愛の思い出を語るにしても、吉行文枝や宮城まり子の著書(「淳之介さんのこと」)とはまったく趣きが異なり、ずいぶん辛辣な内容が含まれている。戸籍上、実質上の妻であった二人とは、また違った立場にあったのだからそうなるのも仕方あるまい。
ひときわ特徴的なには、大塚英子も高山勝美も示し合わせたように、回想記の語り手を「私」とはせず、「暗室」そのままの「夏枝」、「多加子」としているのに加えて、構成の章立てにも工夫を凝らしているのである。
「『暗室』のなかで」は、三章それぞれに「『暗室』のなかへ、『暗室』のなかで、『暗室メモ』より」と章題が付され、「特別な他人」に至っては、二十数章の見出しを吉行作品の題名で統一して、吉行の呼称も「暗室」そのまま中田である。つまり、それでも回想記の体裁を保っている「『暗室』のなかで」とちがって、「特別な他人」は完全に小説形式の書き方になっているのである。それには、そうする理由があった、というべきか。

大塚英子も高山勝美も銀座と新宿のクラブのホステス時代に、吉行と知り合っているのであるが、その出会いはこう書かれている。
「夏枝は、吉行淳之介の作品を、高校生の頃から愛読していたし(初めて長いものを読んだのは、昭和三十一年『群像』四月特大号掲載の『華麗な夕暮』だった。作者の感性に強い感銘を受けた夏枝は、この切り抜きを今もって保存している)、また、その風貌も夏枝の最も惹かれるタイプの人物であった」
「華麗な夕暮」は、「焰の中」第五章を成す作品である。
「男は変わった髪型をしていた。右から分けた髪を一様に横へ流して、左の耳たぶのあたりで毛先を揃えている。髪の厚みがほとんどなく、糊づけした鬘(かつら)のように見える。だが、一重瞼の切れ長の目と細い鼻筋、薄い頰からさらに細まる顎、高貴な公家を思わせる容貌に、この特異な髪型がしっくり落ち着いている。目に染みてくるのは、男のいるそこだけ、白く静かな清潔感である。この人を、私はよく知っている」
こちらは、クラブに現れた中田を見ての多加子の感想である。なぜ、多加子は中田を知っていたか。

「『夏の休暇』(註・昭和30年の作品)に登場する少年が、多加子は好きだ。狭い塀の上をヒリヒリするするような快さをおぼえながら、いったりきたりする一郎に、皮膚感が寄り添っていく。娼婦の昼の顔に『驟雨』を見る作者の目にも共鳴する。その原作者に出会えたことは、生きている芥川龍之介や、生きているプルーストに出会えたような衝撃である」
これでわかるように、夏枝も多加子もかなりの文学少女だったわけである。つまりは、中田と特別な関係に発展するに足る養分は、出会う前から充分蓄積されていたということに(多加子の場合は、文学修行をするためにホステスになったとも書かれているほどだ)。
ほぼ同時期の作品に、二人は惹きつけられたことになるのだけれども、それではいつごろ吉行と知り合い、深い仲となっていったのか。
その時期は少し異なるのであるが、それを述べる前に時系列で「記念碑的作品」である「暗室」に至るまでの経緯を簡単に整理しておく(主要作品を含む)。

平文枝を入籍(昭和23年)、「驟雨」(29年、芥川賞)、「焰の中」(31年)、宮城まり子と出会う(32年)、長女誕生(34年)、家出(36年)、「闇のなかの祝祭」(36年)、「砂の上の植物群」(38年)、宮城まり子と外国旅行(39年)、短篇集「不意の出来事」(新潮社文学賞)及び「私の文学放浪」(百冊目の本)及び「技巧的生活」(40年)、「星と月は天の穴」(41年、芸術選奨)、「赤い歳月」(42年)、そして昭和45年の「暗室」、昭和47年に旅行記「湿った空乾いた空」、49年に短篇集「鞄の中身」で読売文学賞受賞となる。
ついでに述べておけば、この後の吉行の長篇(といっても、どれも中篇程度の長さであるが)はベストセラーになり、「夕暮族」という流行語まで生み出した「夕暮まで」(53年、野間文芸賞)がある。また昭和47年の芥川賞を始め、主要文学賞の選考委員を歴任。昭和54年に「作家としての業績」を認められ芸術院賞受賞、その二年後には57歳という若さで日本芸術院会員に選出されている。
吉行の娘が家を飛び出して来たのは(昭和56年)、「夕暮まで」が映画となり、まだブームが続いていたころである(その後、「夕暮族」と称する売春斡旋組織が摘発され、若い女性経営者が逮捕される事件まで起きた)。

「特別な他人」プロローグで高山勝美は、多加子が中田に出会った時期を「昭和三十三年夏の初め、吉行淳之介三十四歳、多加子は二十一歳になったばかりだった」と明言している。やがて「特別な他人」の関係になるや、「娼婦の部屋」(昭和34年4月刊)の新刊本をプレゼントされた、とあるのもつじつまが合う。そうすると、多加子は昭和12年生れということに。
上記年表に照らし合わせれば、昭和33年は吉行が宮城まり子と知り合った翌年にあたり、まだ二人の仲が進展する前で、文枝の妊娠判明の頃だったことになりそうだ。
ホステス業の女には男がいるものと割り切っている中田は、多加子からフィアンセがいると告げられても全く意に介さず、非情である。「いいんだよ。ぼくは別に、多加子さんを縛ろうとは思っていない。きみにかぎらず、人の生き方を左右しようなどと思うのは傲慢です」、「私生活に介入するのは、わるいことです」、「ぼくの場合は、寝てから(女とのつきあいが)始まります」などとうそぶいては、毎晩のようにクラブに現れ、多加子を車で送り、強引に関係を迫るのである。

「多加子は、週刊誌を読まないが、中田の友人たちとの話から、中田の状態を知っていた。中田は或る女優との恋のために妻子と別居し、仕事部屋と称する借家に住み、時にはホテルを転々とし、経済的にも精神的にも追い詰められている、らしい。と、わかってみると、恋愛のさ中に他の女と毎日のように逢う中田を、多加子は奇異に思わずにはいられなかった。
それは、多加子には手繰りようもない、男の本性なのだろうか。それとも、中田が小説家だから・・・。それとも、待ち時間を埋めるだけの遊び・・・。どう考えようと、胸の熱くなる答えは出てこない。中田の恋人に妬心を覚えない自分も訝(いぶか)しい。多加子が中田に目を凝らし、心を凝らしているのは、恋とは別のものかもしれなかった。それなら、この人を知りたいという強い執着がなぜ根ざしたのか。わからないままに、中田は自分に安らぎを求めているのだろうと決めている」
これが、「文学の他に熱中するものをもたない山出しの(北国の田舎の高校出身と書かれている)娘」の揺れる心情であったようだ。

「この軀が、中田を拒んだとき、中田はきっと多加子の視界から消えてしまうだろう。どうしても多加子は自分が息づく円の中に、中田を捕えておきたいのだ。なぜ、どうして・・・。円の中心は心ではなかった」
まるで不倫小説さながら、というよりそのもので展開される関係は定石通りに進み、多加子はやがて妊娠に気づく。中田に告げ得ないまま多加子は、同僚のホステスたちの噂に上っていた場末の医院で、こっそりと始末をつけるのである(三回処置したとある。「闇のなかの祝祭」の草子と同じだ)。
普通なら、ここら辺であきらめも尽きそうなものだが、そうはならないのが「ブンガク」一念に取り憑かれた純情娘のか弱さか、はたまた強(したた)かさであったのか。

「中田はたいてい穏やかな笑みを漂わせているが、自身の芯に添わない言動には、常人よりも強い反発を覚えるようだ。そして、それを口に出さない分だけ、中田の内部でわだかまり、枝を張る。この性分を垣間見るとき、多加子は自分の中にも似通ったものがあると思う。どんな幼児期を過ごしたのだろう・・・」、「一緒にいるときには、中田は誰よりも多加子を孤独にするが、離れている中田は寄り添ってくる。もしかすると、心を閉ざして距離をつくっているのは、多加子自身かもしれなかった」、「軀の交わりとは別のところで、中田とつながっていたいのだ。別のところー、何で、どんなふうに、と考えると、自分でもわからないのだが」
紆余曲折がありながらも、最大の防御姿勢である「愛していない素振りをしつづけること」によって、結局のところ二人の関係は十二年にもわたって維持された(「暗室」には、四年と書かれている)。

「特別な他人」エピローグは、「昭和四十五年(註・1970年、三島由紀夫自決の年)の六月を最後に、多加子は中田、つまり吉行氏に逢っていない」という文章から始まっている。
「暗室」は、その前年1月から12月まで「群像」に連載されたのだが、その連載開始と同時に多加子が年の離れた男と平凡な見合い結婚をしたからである。しかし、結婚と吉行との仲が完全に切れたとされるまでには、一年半程のタイムラグがある。エピローグ文の意味するところは、結婚後に至ってなお、中田との逢引を続けていたということに他ならない。その間に何が起こっていたのか。続いての文章には、衝撃的なことが綴られているのである。
「翌年の三月、多加子は男の子を産み、間もなく良人(おっと)と死別した。それからついに二十五年近い歳月が経つ。その長い年月の間、作家としての吉行氏は、現実には逢うことのなかった多加子を、晩年の小説(『鞄の中身』や)『葛飾』に至るまで意識の底に置きつづけた」

「掌篇小説の中の『光の帯』。主人公の〈私〉は、ホテルの入口で別れた女と出会う。女は男の子を連れていて、後に、〈あの子はあなたに似ていたでしょう〉と、電話をかけてくる。現実と夢の境がはっきりしない。すべて夢のようでもある。しかし、次の会話に作品を離れた現実がある。私小説作家の几帳面な意識がある。
ー『十年経つかな』『十一年よ。この子が十一だから』ー
ちなみに、『光の帯』が発表されたのは、昭和五十七年の五月であり、多加子が男の子を産んだのは、昭和四十六年の三月である」

驚くことに、男の子は吉行の子供であると示唆しているのである(小説形式とはいえ「特別な他人」ラストでは、多加子の友人である実在の女性児童文学作家を間接証人に仕立てて、妊娠した子供の父親が中田であることに現実味を持たせている)。
ここに書かれていることが事実であれば、婚外子をもうけた父親エイスケと同じことになるわけだが、「『暗室』のなかで」には、吉行が夏枝夏枝に語ったというこんな会話が記されている。
「彼は元気な頃よく言っていました。〈もし、俺が死んでも、通夜、葬儀の類は一切やるなって言ってあるんだ。大昔の変なものが出て来て、骨の奪い合いをやられたら、たまらんからね〉」
「『暗室』のなかで」にあった著者の写真が、「特別な他人」にない理由の一端もこれで了解される(子供がいては公表できない。太宰治の「斜陽」の子は広く知られているが、それは太田治子が長じて作家になったからである)。

また次の指摘も、この衝撃的告白の傍証となるのか、ならないのか。「特別な他人」プロローグには、現存の「暗室」を読んでも、絶対に気づき得ないようなことが書かれていた。
「暗室」を「単行本にするとき、作者の吉行淳之介は、(「群像」)六月号に載せた文章から次の部分を削っている。
ーどんな男にでも、相性の良い女が一人はいるもので、私にとっては多加子がそういう女である。昔の私だったら、多加子と結婚していただろう。ー
それを書き直すのではなく、そっくり省いている。〝昔の私だったら〟という箇所に躓(つまず)いて、どんな私であったか説明を加えるのが億劫になったのかもしれない。つい本音を書いてしまったが、作品の全体を眺めてみると、邪魔になったのかもしれない。いずれにしても、六月号にこの文章を載せるまでは、吉行氏にとって多加子はそういう位置にいる女であった」

これは、吉行の代表的な娼婦小説「驟雨」や「娼婦の部屋」などにみられる現象が多加子とのあいだにも生じていたということだ。最初は軀の交接でしかなかったドライな関係が、女と馴染むうち次第に愛情に転じてゆくという、吉行が気に入った女に示す特有の生理的情動である。
だから、多加子が結婚してからもしつこく会いに行き、それが叶わなくなると多加子を追想して、いくつかの小説に別れた女を登場させた。実際、高山勝美が引用している「光の帯」など、当事者にしかわからない奇妙で微妙な男心であろう。この小説を読んで、女が連れている十一歳の男児が、小説の語り手である男の子供だと類推することはできても、まさかこの男児がそれを書いた作者の子供であると見破った読者はいなかったであろう。
上に引用したプロローグの最終行は、相当な自信にあふれているが、事実その通りだったのだろう。忘れがたい女であったことは、当事者だけに了解されるそれらの小説で証明されているのだから。

さて、正真正銘の「暗室」の女、夏枝が、吉行と「深い穴」に「隠れた」時期は、これも決然たる文章で書かれている。
「夏枝は銀座という場所に完璧に訣別を告げ、昭和四十五年三月末日あらゆるしがらみを断ち切り、吉行淳之介一人のために生きる、隠遁生活に入ったのである」
となると、「暗室」の刊行が同年3月12日なので、なんだか出来過ぎのような感じもしないでもないが、ともかくホステス廃業とともに吉行の囲い者、いや失礼、完全な同伴者となったわけである。吉行は46歳直前なのだが、夏枝の文章に年齢は書かれていないけれども、「焰の中」の一章を高校生の時に読んだというのだから、多加子と同世代であろう。
多加子との交渉は、昭和33年から45年までだったのだから、ちょうど入れ替わる形で夏枝は、吉行専属となったようだ。この関係はしかし、吉行の死まで二十八年間にも及んだのである。つまり夏枝は、多加子のように結婚もせず、「暗室」に閉じこもり年を重ねたということになる(この年月に比して、やはり著書の写真は若すぎる)。

夏枝が吉行と初めての関係を持った経緯も(それは昭和四十年代初頭とある)、明快に書かれている(以下、カッコ内は地の文)。
夜の銀座の路上で、ばったりと出会した吉行は、夏枝の車に乗り込み夏枝を誘う。
「行こう・・・」「・・・」「お互い仲間うちみたいなものじゃないか。君も、相当修羅場を踏んでいるようだし」(夏枝は黙って頷いた。ホテルの前で吉行は、少し笑いながら、しかしきっぱりと言った)「ホレタ、ハレタはなしだよ」(夏枝は、微笑みながら再び頷いたが、心の中で呟いていた。・・・望むところだわ・・・)
銀座の街角で偶然すれ違い視線が合っただけなのに、その電撃的瞬間をなぜか互いに記憶していたという七年前の遭遇が二人の最初の出会いで、それ以来二ヶ月前に、せっかく夏枝の働くクラブで再会したばかりだったのにすぐさまクラブが倒産したため、その夜は一人で銀ブラを楽しんでいたところに運命的な三度目の邂逅となったという事情なのだが、うなずいて男のいう通りに振舞う夏枝こそ、まさに彼女が読んだという「焰の中(華麗な夕暮)」の「頽廃的なスゴイ娘」そのものである。もっとも、この時の夏枝には、のちにこじれた関係におちいる半同棲中の男がいたのでもあるが。
しかし、吉行の誘いにやすやすと応じたのには、愛読した小説の作者に一方ならぬ関心があったからだとしても、三度にわたる偶発的巡り合わせそのものに感電してしまったのかも。

その証拠に(?)、こんなことまで書かれている(こんなあけすけであられもない回想記って、ほかにもあったっけ)。
「だがその夜、四谷のホテルの部屋で、夏枝の身体に思わぬことが起ったのである。それまで一度も経験したことのない強烈な快感が、二時間ほどの間に、七回も八回も夏枝の身体を襲ったのである。生まれて初めての体験だった。それは、その後吉行淳之介が、夏枝の身体を次々に開発してゆく第一歩だったのだが・・。
その日の明け方、夏枝は、北千束の自宅まで吉行を送って行った。玄関の前で夏枝を待たせた彼は、まもなくサンダル履きで戻って来ると、昭和四十年十一月三十日発行の、新潮社版『吉行淳之介短編全集』を手渡してくれた。これが、吉行の手から夏枝に渡された厖大な彼の著書の、第一冊目となったのである」
合縁奇縁の極みともいうべきこの出来事は、「昭和四十一年三月末の夜で」あった、とされている。すると、「暗室」隠(ごも)りも四年後の同じ三月末なので、もしかしたらこの夜を記念してのものだった(まさか)?

これほどあからさまな内容を綴るには、やはり「私」という一人称では具合が悪いので「夏枝」としたのであったか(このような際どい文章は「特別な他人」にもみられる)。
それにしても、口説き文句も強引なやり口も、また「寝た」後で自著を女に贈る手口も、多加子の場合とまったく同じである(ただし、多加子は最初は拒否している)。「北千束」とあるのは、新居を建て上野毛に移る前に同居していた宮城まり子の家である。
その夜、夏枝をホテルに誘う前に吉行は、待ち合わせをしていた阿川弘之に夏枝を引き合わせている。「『暗室』のなかで」には、この阿川弘之とポルノ作家川上宗薫(吉行と同年生れ)の二人は、吉行と夏枝の関係を知っていたのではないか、と推察出来るように書かれている(川上は、昭和60年に死去)。
なお、変名にされているが「特別な他人」には、吉行とともに安岡章太郎、水上勉、梶山季之などが連れ立って多加子の店を訪れる場面がある。別の箇所では近藤啓太郎も登場する(ただし、重要な役回りを与えられている、中田の大学時代の親友という陽野洋介だけは正体不明。架空の人物?)。

多加子同様、夏枝も妊娠する。夏枝の場合、その処理の仕方もいさぎよい。
「昭和四十九年夏、妊娠の事実を知ったときも、夏枝はそれを恥ずべきことと理解して彼には隠し、ちょうど彼がフランス・ボルドー地方へ旅行中に、密かに処理した。一年ほど後に、そういう事実があったことだけ報告すると、彼は夏枝の頭を抱きながらいつまでも撫でてくれ、何も言わなかった」
何故か。「俺のためだけに生まれて来たんだから、観念しろよ」の言葉に応えて、「官能の世界にだけ生きる夏枝」に成り切っていたからである。まさしく、小説「暗室」の夏枝そのものである(文芸作品と実験工房「暗室」のコラボ完成といったところであったか)。
「『暗室』のなかで」に綴られているのは、何も吉行との赤裸々な「暗室」の日々のみばかりではない。吉行をめぐる二人の女にも容赦ない感情のホコ先が直接ぶつけられている。

「吉行は経済的にも大変だった。戦時下の混乱のさ中始まってしまった交際の相手が、自分の三文判で勝手に入籍し(註)、子供を産んだのを盾に、金輪際正妻の座を明け渡さない、明け渡さないことを仕事にしている、あるいは、そのことに生命をかけているしぶとい人物に、潔さを旨とする吉行は、仕送りを絶やさなかった。
そして周知の通りの、同居中のM女史との生活。
そういう状況の上に、毎年毎年上昇をし続ける渋谷区の〈暗室〉の維持は、想像しただけでも頭の中が暗くなる」
「吉行は非常に思いやり深く、やさしい心の持主である。彼程心のやさしい人を、夏枝は他に知らない。そしてまた、吉行程男っぽく、骨太の精神の男らしい男も、他に知らない。だから、ある面で何人をも寄せつけない、堅い断固とした厳しさをも持ち合わせていた。まさに外柔内剛。腸(はらわた)が煮えくり返るような場面も家の中では頻繁にあったようだ」
(註・吉行は昭和39年の短篇「紫陽花」にこれと同じことを書いている。)

そうした中にあって、「一番ひどい目に遭ったのが、吉行の一人娘A子さん」で、可哀想だと同情を示し、A子の実母やM女史の酷さ加減を言いつのる。
「普通の真当(まっとう)な結婚をしていたとしたら、彼も新たに魅力的な恋人が出来たからといって、家を出るようなことはなかったと思う。彼は、そんな人間ではない。しかし、先にも触れたように、明日をも知れぬ敗戦時の紛乱の中、強引に入籍されてしまったという苦々しさを抱いていた相手だ。そういう相手に、子供を産むことを許してしまったのは、彼の不覚だったのだろうが、その段階では、彼も諦めの境地だったようだ。まさかすぐあとに、当時スターだったM女史との出会いがあるとは思ってもいなかったのだから。だから何も知らずに生まれて来たA子さんは、いい迷惑である。彼女には何の罪もないのだ。周りの祝福と、両親の慈しみを一身にうけて成長するはずだった」

それでも、「中学、高校、大学と進むうちに、A子さんが逆境にもめげず、素晴らしい女性に成長してゆくのを目のあたりにして、吉行は誇らしげであった。そういう微妙な吉行の心理を、いち早く察知してしまうのだろう、一ヶ月に一度ずつ会っている父娘に、M女史は、激しい嫉妬の炎を燃やすようになっていった。
〈自分だけ会って、狡(ずる)い〉そう彼女は言ったという。外で会うのはけしからん、と言い出したのである。自分のいるときに自宅で会うように。
それからどのように話が進んだのか、夏枝には推察するべくもないが、若い娘の心をそそるような条件を山盛り用意して誘ったらしく、A子さんは大学在学中、実母の元を離れ、上野毛の吉行の家に住むようになった。そして、当然のことながら、様々な確執が新たに生まれ、中に入った吉行もさぞかし大変だったと思われる」そのように、夏枝は吉行から聞いたというのである。

宮城まり子「淳之介さんのこと」にあった、A子が突然家出して来たという記述とは完全にくいちがっている。どちらの言い分が本当であったのか。ここで四冊の回想書を刊行順に再確認しておくと、「『暗室』のなかで」(1995年)、「特別な他人」(1996年)、「淳之介さんのこと」(2001年)、「淳之介の背中」(2004年)という順序になる。
ただし、「淳之介さんのこと」は、1995年から2000年にかけて「別冊文藝春秋」に18回連載した文章を大幅加筆、再構成したものとある。「別冊文藝春秋」を確認してはいないから推測になるが、先にA子のことを書いたのは、恐らく「『暗室』のなかで」の方だったのではあるまいか。
であるならば、大塚英子の文章は宮城まり子の記述に反論を加えたものではないことになる。たぶん、吉行に聞いた通りのことを書いたのであろう。さりとて、当のA子からみれば即座にわかるような嘘を、反論としてわざわざ宮城まり子が書き立てたとも思えない。
真相や如何にというところであるが、A子が沈黙している限り「藪の中」である。

吉行が「暗室」を訪問するのは、もちろんM女史の目を盗んでのことで、もっぱら病院通いや文学賞選考会合などを口実にして夏枝と会っていたようである。それができない時は自室からの電話が使われている。入院中でも、M女史に気づかれないよう細心の注意を払いながら、病室の電話や病院の公衆電話で連絡を取り合い、睦言を交わすという徹底ぶりある。一日に数度もという日もあり、その回数たるや半端ではない(これでは相当な電話料金が発生しただろう)。
吉行死去一年前の虎の門病院入院中の平成5年3月6日「『暗室』日記」には、吉行から電話で聞いたのだろう、次の記述がある。
「この日、お母様(あぐり)、妹さん(和子)、阿川(弘之)氏見舞いとのこと。このメンバーは、中央公論の嶋中会長を加え大先生(註・宮城まり子のこと。二人の隠語)の許可が出ているのだという。何と許可!すごい」
M女史についての批判は、吉行の病気を絡めてまだまだ続くが、それは省略して最後の部分を引く。
「平成六年四月十二日、虎の門病院。午後四時五十分到着。もの凄い風の中、非常につらそうなのに立寄ってくれ、二ヶ月ぶりの感激の対面を果たす。新刊本『懐かしい人たち』講談社(註・最後の単行本)。頂く。同十三日、北原医院。午後三時半到着。この日、彼の古希の誕生日を、夏枝の部屋で過ごすことが出来たのである」

古希の誕生日を迎えたこの日、吉行が「暗室」を訪れた時の模様がつぶさに書かれている。
「『早く早く、いまお出ましになったところ』M女史の千載一遇の晴姿を見せなければ、という気持ちが私にはありました。だから私は、彼をテレビの前に引っ張って行ったのです。桜の季節に相応しく、艶(あで)やかなショッキングピンクのロングツーピースのM女史は、久しぶりに見ましたが、また一段とふくよかに見えました。
彼は少し見て、『もういい、消してくれ』、そう言って、ベッドの中に潜ってしまいました。
この日が、彼と逢った最後の日になったのです」
「ちょうどそのとき、〈ねむの木学園〉を天皇、皇后両陛下が視察。それのテレビ中継中」に、吉行は「暗室」に到着したのである。
それからほぼ一ヶ月後、5月9日の入院が吉行の最後の入院となった。その後も、電話連絡は欠かされることなく続いていたが、それも7月13日が最後になったとある(吉行の死は、7月26日である)。

「夏枝のいる建物の口をくぐると、空気の中にかすかに夏枝のにおいを嗅ぎ取る。いまの夏枝の軀にはにおいは無いといえる。しかし、官能を唆(そそ)ると同時に、物悲しい気分にさせるにおいが、微かに漂っている。階段を昇り、長いコンクリートの廊下を歩いてゆく。においはしだいに濃くなってゆく。それは、私にしか分らないにおいに違いない。やがてそのにおういが、鼻腔の中で噎(む)せるほどの濃さになる。
そのとき、私は夏枝の部屋の前に立っている。扉のノブを握る。その向うには暗い部屋がある」
「〈僕は、失敗した、バカだった、諸悪の根源は芹沢光治良の喘息だ〉ある雑誌の鼎談に出席するはずだった芹沢光治良氏が、喘息の発作を起し、急遽吉行が、代理で出席する羽目になったのだという。そのときの相手が、秋山庄太郎氏と、可愛らしい女優、M女史だった。そして吉行は、M女史と激しい恋に落ちたのだった。
吉行淳之介と夏枝は、恋愛をして結ばれた訳ではない。最初はちょっとした遊びから始まって、それが長びき、じわじわと時間(とき)が経つうち、彼の身体の一部になっていった。恋愛は時期がくれば褪(さ)める。しかし、とけあった二人の魂は決して褪めることはない」
「暗室」と「『暗室』のなかで」のラスト数行である。どちらも夏枝の勝利宣言のようである。

しかしながら、二十八年もの「暗室」生活に堪えるというのは、並大抵のものではなかったであろう。ひと口に二十八年間といっても、当たり前過ぎる例えだが、それは新生児が28歳の成人になる歳月であるし、もしも「暗室」入りした夏枝がその時、20歳の乙女だったとしても48歳、初老を迎えるという時の長さなのである。ただただ「暗室」に棲息しながら、じっと男の来訪を待ち続ける。
もしかしたら、終生離婚を拒んだA子の母親よりも、より一層忍耐を強いられる歳月であったかも。実際、保護者である吉行が死去すると同時に、生活の礎を失った夏枝は光射す路頭へと放り出されたのであるから(相続財産を、そっくり遺贈されたM女史とは、天と地である)。
性のつながりとは別に、夏枝の忍耐をそこまで可能ならしめたもの、それが二人を結びつけた「ブンガク」にあったのではなかろうか。「『暗室』のなかで」には、それを証するに足る、目を疑うようなことまでが書かれているのだから。

「彼は仕事を開始すると、必ず内容を話してくれた。話しながら、夏枝の意見やちょっとしたアイディアを採用してくれることも多かった。夏枝が高校一年生から三年生の初めまでつき合っていた、『蠅』の少年は、何故自分が急に夏枝に嫌われたのか、いまでもその理由がわからないままでいると思う。千曲川の堤防を二人で散歩していたとき、少年の、びっしりと夥(おびただ)しい銀蠅の貼りついたあの背中を、夏枝は忘れることが出来ない。彼女はその少年に二度と会うことはなかった。この『蠅』は、筑摩書房の〈高校生のための文章読本〉一九八六年三月号に掲載された」
掌篇小説「蠅」は、「群像」昭和46年新年号に発表されている。この場合は、単にアイデアの提供だけなので問題ではない(が、夏枝にとっては自分の体験が小説化されて、それが高校生に読まれることになったのは嬉しい出来事であったろう)。

吉行がひどい鬱病で悩まされた年のこととして、このようなことも書かれている。
「同じ昭和四十七年、〈小説新潮〉で二十枚までの短篇を対象に、〈小説新潮サロン〉が、吉行淳之介と田村泰次郎氏とが交替で選者となって始まっていた。夏枝は、二十枚のものを書いて、吉行に読んでもらった。彼は、試しに投稿してみたらどうかという意見だったので、友人の住所を使い早速出してみた。多数の応募原稿の中から、最終六篇を編集部が残し、選者のところへ届ける決まりだった。その回、吉行の選者の回に、夏枝の作品が六篇の中に残り、生原稿が吉行の書斎に届いた。彼は、残ってくると思っていなかったのだろうか、周章狼狽、まるで夏枝が、吉行の家の玄関に蹲(うずくま)って、ずっと居座ってしまったかのような反応を示した。自分で読んで出してみたらどうかと言ったはずなのに、そのあわてぶりに、夏枝は途方に暮れてしまった。彼の言を借りると、夏枝から直接持ってゆく原稿は一向に差しつかえないが、他人(編集部)に中に入られると、これはまた別物なのだということであった。結局、相当な年配の男性の作品が入賞と決まり、夏枝のものは佳作入選に落着いた」(これには続きがあるけど、略す。)

あるいは、こんなことも。
「昭和四十六年から四十七年にかけて、『暗室』に至る純文学を集大成した『吉行淳之介全集』全八巻を講談社より刊行。このときの全八巻すべてのゲラ読みを、夏枝は吉行に任命され、他の作品との重複を徹底的にチェック、修復した。またその後、記号が目ざわりだということになって、〝?〟マーク、〝‼︎〟マーク等を取り除き、それにかわるいい回しなどの作業もまかされた」
いろいろ内幕を明かしているけど、多かれ少なかれこの程度のことはあったりするだろう。さして驚くには当たらないかもしれない。が、次の記述となると、どうであろう。
「実は、唯一、夏枝の文章に一切の手を加えないで、そのまま採用、発表してくれたものが『蛾』である」
純然たる夏枝の短篇小説を、双葉社の「小説推理」(昭和52年7月号)に無修正で発表してくれたばかりでなく、昭和五十八年講談社刊行の「吉行淳之介全集」(全十七巻)にもそのまま収載してくれたのは、「吉行の夏枝に対する、最大最高の贈り物なのだった」と、打ち明けているのである。もちろん掌篇小説『蛾』は、最後の全集となった新潮社版「吉行淳之介全集」にも収録されている(この全集は、夏枝の告白後に刊行されている)。

さもありなん、これと同様なことは「特別な他人」にも書かれているのである。
「中田は題材に行きづまると、多加子が何気なく喋った話や、多加子の書いた小品を思い出して、その細部を多加子と語り合ううちに、頭の中でまとめ上げ、短篇小説を書く。ということが、これまでにもよくあった。多加子は中田の視点で捉えたと思われる事柄は、文章にしていない場合でも、中田に渡した。渡すとすぐ、それは作品になる。意識した多加子の視角は、触れ合った腕のように、中田の体温にすぐさま同化する。中田の中で温める時間はいらなかった。中田に渡してきたものは、けっして自分のところに戻ってこない、とわかっていたが、悔いは残らない。中田は磨かれた文体と巧みな構成力で、多加子が書くよりずっと立派な作品に仕上げるのだから」

昭和39年に発表された長篇に「技巧的生活」がある。失恋した純真な女がホステスとなり、夜の街での「技巧」に習熟、次第に変貌していく女の心理と生理を描いた作品なのだが、こうある。
「多加子さん、きみの原稿に『卵型の顔』というのがあったろう」「はい」「あの話、貰えないかな。忙しくて次が書けない」
夏枝と同じように、多加子も原稿を書いては文芸誌に応募を繰り返していたのである。中田に請われて断り切れずに、多加子は原稿をわたす。と、どうなったか。
「〈卵型の顔〉が『技巧的生活』の挿話として活字になってみると、題が削られて、(ある女性に貰った話。)と、前置きがついている。文章を辿っていくうちに、多加子は呆然となった。ただの一行も、ただの一字も、手直しした箇所が見あたらない。これまで、多加子が自分の発想や原稿を渡すとき、編曲者の腕の冴えといったようなものを期待し、中田はいつでも、多加子の期待に応えてくれた。だが、今度の場合は、(貰った話)ではなく、(貰った原稿)であった」

長くなるが、この箇所を最後まで引用する。
「あの十五枚ほどの女文字の原稿を、中田はどんなふうに編集者に手渡したのだろう。中田が多加子の文章をそのまま自分の書体で原稿用紙に書き写す・・・。その姿は浮かべようがない。中田は多加子の原稿の束をそのまま、〈貰った話でね〉と、編集者に渡したにちがいない。だから、初めて、前置きを付けた。そうだとすると、これまで多加子に見せたことのない、中田のしたたかな表情が浮かんでくる。ぼくほどの力量を持った作家は何をしてもだね、口を挟める編集者はいないさ。中田の声が聞こえてくるようだ。繊細な神経とストイックなダンディズムが定評になっている中田だが、反面、常人を超えるふてぶてしさも潜めている。〈おれは(時によっておれを使う)水割のグラスにゴキブリが入っていたとすれば、じっさい入っていたんだが、それをひょいとつまみ出して、水割は呑んでしまう〉と言ったことがあった。

ある友人は金に困っていた。高価なものをさりげなく置いてきた、それが思いやりのかたちである、と言ったり、書いたりもする。が、そうした優しさのかたちは、本人が口にしたときから、優しさの演出ということになる。
けれども、別の考え方をすれば、多加子の原稿を一字も直さずに活字にしてみせたことは、中田の思いやりなのかもしれなかった。あの夜の多加子の挫折感、自分の場合は書くこと自体が徒労なのだ、という思いに沈んだ多加子を察して、〈きみの文章だって、一応は通用するものだ〉と、見せてくれたのかもしれない。この考えの方が、中田に似合っている。一応の文章を書く人間は大勢いる、が、名前を持たなければ、活字にするのは難しい。
(貰った話)について、多加子は中田に一言の感想も話さなかったが、中田はしばらくの間、それに拘(こだ)わった。『一ヶ所だけ、ぼくが手を入れたんだが、わかっているか』『・・・』『ー積極的になっているー、ではないよ、きみ、あれは、積極的な心持ちになっている、と書かなければいけない』『あ、そうですね』『プロとしてはだね、その辺が大事なところだ、覚えておきなさい』『はい』

『この間、円地文子さんから手紙をいただいた。〈技巧的生活〉を読んでくださっていて、今までと違うと言うんだ、新境地を開かれたようだ、と。褒めてくださっているのか、お叱りを受けているのか』『褒めてくださっているのです』『ほう』『書き出されたとき、驚きました。とっても楽しみです』『そうか。きみにそう言われると、うれしいよ。だいたい、ぼくは褒められると頑張るたちの人間なんだ。見当違いの批評がいちばん厭だね。ぼくと(永井)荷風を比べる批評家がいる。荷風には風俗があるが、ぼくにはない、なんて言いやがる。風俗なんてもんはきみ、じきに古ぼけてしまうものだ』
自分の作品についてあまり語らない中田が珍しく饒舌になっている。自信の揺らぎから文句を言っている感じはない。むしろ、強い自負を盾にして、攻撃の姿勢になっているようだ。
『曖昧な形容詞も要らない。風景だってきみ、心理と噛み合ってなければ、書く必要はないんだ。ようく憶えておきなさい』『はい』中田は、気力も充実しているらしく、多加子を重ねて抱いた。
別れ際、振り返ると、中田は高く揚げた手を大きく振っている。遠目にも、こぼれるような笑みがわかる。見送られている気分になって、多加子も胸元で手を振った。
その二日後、外国へ旅立ったのは、中田の方であった」

これが、高山勝美が「特別な他人」を書いた三十二年前の出来事である。大塚英子は、その章題にもあるように「暗室メモ」を残していたというのだが、高山勝美はどうだったのだろう。きっと、吉行が嫌った日記を残していたのでは。記憶だけで書いたとは、とても思われない。この引用部分からも、彼女がなかなかの才筆であったのは確かである(観察に鋭いところがある)。
「技巧的生活」という題名も、元々多加子の原稿からの剽窃(ひょうせつ)だったようだし、吉行の少年物の秀作の一つ「子供の領分」という作品も、多加子が中田に最初に見せた作品の題名「大人の領分」から着想されたものであるとか(註)。ただ「星と月は天の穴」の題名に関しては、高山勝美と吉行文枝両方が吉行に示唆を与えたように書かれているのは、どういうことなのか?
(註・ただし、吉行の愛好したドビュッシーにも同じ題名の作品があることには触れられていない。)

短篇の名手であった吉行は、また随筆、対談の名手とも言われた。
「奇妙な夢」(昭和46年)という随筆で、「私は、他人のおもしろい話や文章を使うときには、かならず出典をあきらかにしておく」と、創作に携わる信条を語っているのであるが(ま、この場合は「ある女に貰った話」としているのだし、物語を換骨奪胎して使ったというのでもないし・・・、信条に反したわけではなさそうだけど)。
上記引用最後にある「外国への旅立ち」が、大喧嘩ばかりしていたという昭和39年の「湿った空乾いた空」のハネムーン(?)旅行である。宮城まり子は一足先に出立していたから(註)、中田は大手を振って多加子との逢瀬を楽しんでいたものとみえる。
(註・「湿った空乾いた空」に、「Mは二日前に出発しており」と書かれている。)

大塚英子、高山勝美、宮城まり子、吉行文枝の著書は図書館から借りて読んだ。図書館の本のオビは、通常破棄されているのであるが、「淳之介の背中」にはどうしたものか、それがカバー裏に挟み込まれてあった。オビにはこういうフレーズが記されていた。
「私たち夫婦は、ある時をさかいに、別々に暮らさなくてはならなくなりました。長い間離れて過ごした人ですが、片時も主人のことを忘れたことはありません。・・・離れて暮らした時間に比べれば、一緒に過ごした歳月はそのわずか半分に過ぎませんが、主人と交わした言葉のひとつひとつ、日日の一片一片は、少しも色褪(あ)せることなく私の中にあります」
離婚を拒否して、最後まで正妻であり続けた吉行文枝の文章である。自分を捨てて別の女に走った男を半世紀も経て、このように振り返られるなんて、よっぽど愛していたのだろう。スゴい、スゴすぎる(振り返られる男も、また)。

オビには一段と大きな活字で、キャッチコピーも添えられていた。
「だれが本当に吉行淳之介を愛していたのか?」
この答えは、しかし、容易には見いだせまい。「子供の領分」、「大人の領分」に倣(なら)っていえば、広闊、広大なのが「愛の領分」でもあるのだから。
それでは逆に、当の吉行淳之介は四人の女性のうち、だれを本当に愛していたのかと反問すれば、もう少し答えは絞りやすいかもしれない。それは当然、最後まで一緒にいた女(ひと)。それも「暗室」の若い方かも。ということになるのだろうか。でも、これも素直にはうなずけない。
フランスの作家スタンダールの有名な墓碑銘「生きた、書いた、愛した」を引き合いに出して例えれば、一つ目二つ目はともかく、果してこの三つ目の言葉が純然と吉行淳之介にも当てはまるのだろうか、という疑念が消えないせいであろうか。

蛇足を二つ。
「『暗室』のなかで」と「特別な他人」について触れた文章は、目を通した限りではたった一つ、吉行あぐり「母・あぐり淳への手紙」にあっただけである(1995年6月25日付日記として)。
「大塚英子さんの本を昨日、理恵が買ってきました。それによりますと、淳は私が病院へ見舞いに行ったのを、大層喜んでくれたとのことですね」
と、書かれているのみであった。この親にしてこの子あり(逆かな?)。目くじらひとつ立てるわけでもなく、大らかなものである(恐れ入りました、というしかない)。なお、「『暗室』のなかで」初版日は、6月20日なのですぐに読んだことがわかる。
もう一つは、その大塚英子の生年なのだが、ここに至って思いついてネットで検索したら、ちゃんとあるではないか。1938年生れ。ということは、多加子の一つ下。「『暗室』のなかで」の口絵写真は、53歳の夏枝ということに。それにしても(は)若すぎる。写真にある1991年撮影というのは、もう一枚並べられている吉行の顔写真のそれだったのだろうか、と疑いたくなる(それこそ疑念が消えない)。

蛇足の蛇足。
念のため、大塚英子「『暗室』日記」(1998年、河出書房新社)を図書館から借り受けたら、それには著者略歴が書かれていた。しかも、本文の記述から1月4日生れであることも判明(だから、ネットにあったのだと了解)。すると、春夜の銀座の路上で三度目に吉行と出会ったとき、夏枝は28歳だったことに(吉行は42歳)。
吉行との愛の日々をこと細かく記録した「『暗室』日記」には、上述文を補強、補完するいろいろ新しい発見もあったが、今更の加筆、修正はしないことにした。それにしても、吉行が「暗室」を訪れるたびに付されている意味ありげなマークは何だろう。もしかして、永井荷風の「断腸亭日乗」のそれ?


(以下、「闇のなかの祝祭」と「暗室」(8)につづく。)