吉行淳之介には全集が三つある。
一つは、これまで再三触れてきた新潮社版全集(15巻)で、吉行の死から三年後(1997年)に刊行された。
あとの二つは、いずれも生前に講談社から1971年(全8巻)と1983年(全17巻、別巻3)に刊行された。昭和に直せば46年と58年で、吉行47歳および59歳ということになる。
これも昭和という時代が「ブンガク」全盛の時代であったからではあるとしても、生前に個人全集が二回もというのは、今日の作家からみれば夢のまた夢というところか。
昭和文学を集大成した「昭和文学全集」(小学館)に、昭和最後の新人として収載された村上龍だって、着実に文学的業績を積み上げてきたのに(つまり、吉行に引けを取らない業績なのに)、まとまった作品集はひとつもないのだから。村上龍と同世代で全集、作品集があるのは宮本輝、村上春樹、あるいは生前の全集刊行にこだわった車谷長吉くらいでは?中上健次も津島佑子も死後である。これからはそれさえも、どうなることやら。
その村上龍が、「群像」の吉行淳之介追悼号に一文を寄せているのに気づいたけれども、これは芥川賞選評で吉行が、「抜群の資質」の持主と村上龍を称えていたからであろう。

1924(大正13)年生れの吉行は、1949(昭和24)年生れの村上春樹や1952(昭和27)年生れの村上龍からすると、ちょうど父親世代に当たる。すなわち、昭和の時代を丸々生きた吉行の世代は、空前の活字文化隆盛の機運に巡り合わせた最も幸福な「ブンガク」世代であったかも(ただしあの戦争さえなかったら、という絶対条件は付きまとうけれども)。
特に吉行が作家としての地位を確立した昭和後半においては、生前の個人全集のみならず「昭和文学全集」に代表されるような全集本は、次から次へと各出版社から競うがごとく刊行されつづけたのだから(むろん吉行は、それらのどれにも顔を出している)。
元々が純文学畑なので作家の所得番付とは無縁だったとはいえ、吉行が時代の恩恵を受けて筆一本で稼いだ生涯収入たるや、スゴい数字だったろう(病弱であったにもかかわらず、いやそれゆえに)。遺言には、一億に近い預金が記されていたし、陋屋に孤独死を遂げた永井荷風だって多額の現金を残していた。だからこそ同居人である連れ合いはもとより、別れて暮らす妻子や「暗室」の愛人がいても、やっていけたのだ。

当時、どれほど「ブンガク」に熱気があったかは、講談社から二度目に出た吉行全集の別巻3からも読み取れる。別巻1は吉行の対談集、別巻2は吉行の各界人物評、そして別巻3は、初期習作、年譜、著書目録と併せて作家、詩人、評論家、編集者、漫画家、俳優、果ては女医などの評論文や小エッセイで埋められている、その数たるや総勢53人(こんな別巻付きの全集もめずらしいだろう)。
別巻3には、これまでにその文章を章1、章3に引用してきた瀬戸内晴美「水のように」も、安岡章太郎「吉行淳之介と自動車の関係」(「良友・悪友」)も、大久保房男「『闇のなかの祝祭』のころ」も入っているのである。
つまり、ここに収載されているすべての文章は、別のところに発表されていたものを再掲載したものなのだ、まるでそれらは、開店祝いにズラリと並べられた花輪という景観を呈している。いうなれば、別巻3は吉行淳之介讃仰の一巻といっていいだろう。

たとえば、色川武大(たけひろ、直木賞作家)の「吉行さんはいつも吉行さん」(昭和58年)という文章。
「昔、三十年ほど前のことになるが、私は小出版社の編集小僧で転々としていた頃がある。その頃の勤務先が、吉行さんが若い頃一時期、編集者をしていた雑誌社とほぼ隣り合わせていたことがある。(略)もっとも吉行さんはその当時、もう退社されて居て、療養所におられたのだと思う。
だから当時の吉行さんを私は知らない。私はいつも他の遊びばかりにかまけていてあまり読書というものをしないのだが、どうしてか(なにかが匂ってひきつけられたとしかいいようがない)吉行さんが小雑誌に発表した『原色の街』と『谷間』という作品を読んでいて、簡単にいえば、えらい人だな、と思っていた。えらい、というのは微妙だがいろいろの意味があって、とにかく不良少年あがりで世間を斜(はす)かいに眺めていた私は、めったに他人をえらいとは思わなかったのだが。

私の先輩の編集者に何人も当時の吉行さんと交際していた者が居て、彼等からよく噂をきかされていた。考えてみると吉行さんは当時まだ芥川賞もとっていなかったし、世間的にはそれほど名のある人ではなかったのである。先輩たちも吉行さんが小説を書いていることは知っていたが、同じ編集者仲間の友人という意識が濃かった。そうして彼等は、吉行さんと赤線に行った話や、ともに呑んだ話を、陶然とした表情でしゃべる。他の人と遊んだときとはあきらかに物言いがちがうのである。吉行さんと街の女をとりあった件をひとつ話のようにくりかえす先輩もいた。
『吉行の奴がねえー』
というふうに誰かが切りだすと、一座にいつも笑顔が満ちる。私たちの間ではすでにして、その頃から吉行さんは親しみぶかい有名人だった。(略)

三十年前というと、私が二十二、三、吉行さんも三十前だったはずだ。吉行さんはまもなく『驟雨』で芥川賞をとり、『焰の中』『男と女の子』だとか、短篇の『悪い夏』『娼婦の部屋』『寝台の舟』『鳥獣虫魚』など、感嘆してむさぼり読んだ。その頃、私にとって、文芸誌の創作欄に吉行淳之介の名前があるのとないのとでは大ちがいで、吉行さんの書いてない号は、なんだか冷たい他人の雑誌のような気がした。今ふりかえってみると、三十年前からその気持がまったく変化していない。私の方からだけの勝手な言いかただが、親戚か同郷の先輩のように特殊なつながりを含んだ近しい人のようにも思え、また遥かに遠い存在のようにも思える」

吉行と同業であったことは誇らしく感じても、自分はどうあがいても吉行のような存在にはなれないと、色川武大はどうやら言いたかったようだ。この後も、吉行の人となりの魅力をひとしきり述べてから、全集について触れているのでそれを引く。
「個人全集というものを、書棚に揃えてずうっとひとわたり読みかえしてみたい作家と、作品個々の評価とはまたすこしちがうのであるが、全集で読み返そうという気にそれほどならない作家とがあるようである。
吉行さんは、個人全集で読み返してみたいタイプの作家ではあるまいか。個人全集というものは、その作家の全人格とみっちりつきあって、抜きさしならない間柄になりたいという希求が、読者にとって大きいと思う。もちろん個々の作品に対する評価と無関係なのではないけれど、中には山脈の高い頂きのところを眺めればよいと思える作家も居る。(以下略)」
「麻雀放浪記」のコワモテ渡世人阿佐田哲也までをメロメロにさせトリコにした男。吉行淳之介は、何も女ばかりでなく、男にもモテた(ようだ)。

次に、吉行と同じく結核療養体験のある結城昌治(ゆうきしょうじ、直木賞作家)の「格即是風」(昭和53年)の全文。
「意外に思われるかもしれないが、吉行さんには親分の風格がある。正しく言うなら風格の格のほうだけで、風のほうは欠けている。そこが吉行さんらしいところで、肩をいからせたり、胸を張ったりという風は微塵もない。気負いも気取りもなくて、色即是空、空即是色の修辞をかりるなら格即是風、風即是格である。おかげで私なども麻雀の仲間に加えてもらっているが、その仲間というのが一癖も二癖もある連中ばかりで、とかく揉めごとが起こりやすい。
ところが、放っておいたら喧嘩になるようなことでも吉行さんが『こうしたらどうかな』と言うと大抵まるく納まってしまう。ごく自然に、みんな吉行さんに一目置いているのだ。年齢、雀歴、体力、声量からみれば近藤啓太郎さんのほうが発言力は強そうだけれど、その近藤さんが真っ先に『吉行がああ言うんだから』という具合で、仲間うちの決まりを定席の旅館N(註・近藤の親しい女将が経営していた)にちなんでNルールと呼んでいるが、実は吉行ルールなのである。

これは吉行さんの人柄というしかない。揉めごとは麻雀に限らず人事の全般にわたり、そうなると吉行さん自身がおもしろがってなかなか野次馬の席から下りてきてくれないが、とにかく親分の風格がなければこうはいかないだろう。面倒なかかわりを避けながらもちゃんと気を配っているので、やはり達人だなと思うことが再々である。
私が初めて吉行さんに紹介されたのは十数年前、新宿の酒場だった。亡くなった十返肇(註・とがえりはじめ、文芸評論家、吉行の父エイスケとも親交があった)さんや水上勉さんなどが常連だった酒場で、私もその頃はよく飲んでいたが、初対面の印象は『このひとが吉行淳之介か』という一語につきた。作品から受けていた印象と本人の印象がぴったり合っていたので、これは当り前のようで当り前ではない。『このひとがー?』と疑問符がつく場合が多いのである。男っぽい潔癖感があって、やさしい神経が快くはたらいていて、座談に妙を得ていた。私が一目も二目も置くようになったのはそれ以来で、初めて会ったときの印象は今でも変っていない。

多分そのせいだと思うけれど、いっしょに雀卓を囲んで冗談を言い合うようになっても、吉行さんが私より三つしか年上ではないということが納得できないままでいる。もちろん吉行さんが老けてみえるというのではなくて私個人の感覚だが、もっと年長のような気がしているのである。それだけ私が幼稚ということかもしれないし、風格がちがうということかもしれない。
吉行さんは落語が好きで、しゃれの精神を大切にしている。その精神の奥にあるのは都会人特有の羞恥心で、その羞恥心を踏みこたえているのが人間としての矜持ではないかと私なりに解釈している。吉行さんの場合はそれがやさしさになってあらわれるが、たとえば麻雀の帰りに駐車場から車を出すときなど、深夜過ぎまで働いている駐車場の係員に気をつかっている様子をみると、いかにも吉行さんらしいと思うのである」

吉行親分の風格を慕う中でも、その筆頭格でなかったかと思われるのが山口瞳と野坂昭如(あきゆき)であろうか(二人とも直木賞作家で、癖の強い一家言の持主)。
「吉行さんならどう考えるだろう、どう行動するか、いちいち規範としていて、それは何をどう真似たって、鵜における烏と分ってはいるのだが、一種の癖になっているのである」(「吉行さんの存在」昭和46年)と野坂昭如が称えれば、山口瞳は「私の書物机の上に、一枚の名刺が置いてある。それは吉行さんの名刺である」「机の上の名刺は、いつでも私に何かを語りかけてくるように思われる」(「吉行さんの名刺」昭和52年)と反響する。
こうなると親分どころか、もう絶対服従の教祖的存在に祭り上げられている。ま、山口瞳は吉行の旧制麻生中学の後輩でもあるのだから、割引いて考える必要もあるかも。
同じく、「素顔の作家」(昭和53年)という一文を寄せている奥野健男(文芸評論家)も中学の後輩である。次の文章にも、先輩にとり入る後輩の心情が見え隠れしていやしないか。

「(前略)『闇のなかの祝祭』は彼の三角関係の現実を、解決すべく必死に書いた小説で、遊び人の彼が愛を信じてしまった悲劇が見事に描かれている。渦の中にまきこまれながらも嫉妬と愛に狂乱する女をこの上もなく、可愛くすさまじく描いている。彼は生得の小説家というべきであろう。その頃から彼の目はらんらんと輝き、尻をまくって何でもやってやろうという妖気というか精気が漂いはじめたように思う。
そのあと『砂の上の植物群』そして『星と月は天の穴』そしてほとんど極限の部屋である『暗室』など、性と愛と憎しみをテーマにした最前衛的な作品を書き続け、今や島尾敏雄とともに純文学の極北の作家といってよい。
けれどもそういう時でも彼は肩をいからせてない。妻と別れ、家庭を破ったがまたまた同じようにとらわれ、また破ろうかと苦笑している。吉行さんはわが先輩ながら、まことにダンディであり、ドン・ジュアンである。浮気に徹するというか、女性探求の聖者殉教者という趣を呈しはじめている。彼はバーに行くと、率先して隣に来た女を(それは不思議に小柄なコケティッシュな女性だが)くどき、ぼくらに『モモヒザ三年、シリ八年』などと教えてくれる。尻を女性に警戒されず撫でるには八年の修行がいるというのである。吉行はいくら遊んでも不思議に汚らわしさがない」

もう一人の後輩が、北杜夫である。北杜夫は飼い猫が産んだ子猫を、猫好きだった吉行理恵に引き取ってもらったりしているのであるが、それは随分とのちのことで、この「もてすぎること」という文章は昭和51年の発表である(全文引用)。
「ごく稀に、吉行さんとバーで飲んだりするとき、私はおもしろからぬ心境に駆られた。なぜなら、彼一人大もてにもてて、こちらはまったく無視されるからである。それでも女性にかけては達人の人であるし、なにより中学の先輩(この中学の、というのが特別なことであって、高校や大学とは違う)であるから、私はこれを自然現象と見なし、憎らしいとは一度も思わず、ただ単にため息をついていたのである。
ところが──  日も知らず所も知らず、とにかくかなり以前、私は吉行さんのお宅に呼ばれたことがある。そこには、一人の名だけ知っている女性がいた。予想以上に、美しく、かつ可愛らしかった。

そのときの用件は、くわしくは忘れたが、多分彼女が不眠症のがあり、薬について相談されたようだ。それよりも、そのときの酒のツマミとして、ウナギの燻製が出た。それが、なにか吉行さん好みでしゃれているというか、彼女の可愛らしさと共に印象を受けた。
それから長からぬ或る期間、私はときどき彼女から電話を貰った。内容は薬の相談であったが、そのほかに彼女は、まあ言ってみればある種のグチをこぼした。彼女の声は、またこのうえなく可愛らしかった。その声と話しぶりが、むかし私と交際のあったある女性とそっくりなのである。その女性ははっきりいってヒステリー気質であった。また、私は医師として、ヒステリー、ヒステリー気質(この両者は医学的には区別されている)の患者さんをかなり知っている。
私は、彼女の電話の声と、グチの内容から、これはその多様な性格の中にヒステリー気質もかなり有する女性ではないかとつい思った。いや、そういう立場に彼女は立たされていたのかもしれない。

ヒステリー気質の女性というものは、概して優秀で、又ある状態のときは、これほど可愛く、あどけないものはない。ところが、別の状態のときには、極めて困る存在にもなる。もちろん、これは一般論である。しかし、そのころ私が、
『ああ、これは吉行さんも苦労するな。どだい、彼は女にもてすぎるからいかんのだ。いわば、身から出た銹(さび)なのだ』
と、考えたことは事実である。この診断は、なにせヤブ医者の私のことだから、まったく間違っているかもしれない。なにより、当時、彼女がつらい立場にあっての一時的現象とも考えられる。ともあれ吉行さんは、ときに鬱(うつ)になったり、或いはアレルギーのためダウンする。その根本原因は、やはり女性をヌキにしては考察できぬのではあるまいか。
しかし、このあいだも久方ぶりでバーでお目にかかったら、顔もつやつやしていて、声もすこぶるお元気であった。『強靭な人だ』と、つくづく私は感服するのである」

この女性が誰であるかを改めて述べる必要はあるまい。吉行も北杜夫もひどい躁鬱病だったので、ドウビョウアイアワレムところでもあったのか、やっぱり先輩には甘いようだ。しかし、北杜夫がほとほと「強靭な人」だと感心しているのには、同感せざるを得ない(うん、病弱という割には何といっても精力的なのだ)。
この別巻3とは別に、中央公論社で吉行の担当編集者であった村松友視(退職後、やはり直木賞を受賞)に、「ヤスケンの海」(2003年、幻冬社)という著書がある。これは同僚の編集者だった安原顯を悼んだ回想本なのだが、この中に吉行についてのこんな叙述があったので、別角度からの意見も加えておく。
「その頃、私は吉行淳之介訳『好色一代男』の連載の担当をしていた。そして、その連載のあいだに吉行氏のさまざまな場面、さまざまな言葉に接し、これまでに味わったことのない新鮮な感じを受けていた」
こう書いて迷った時の吉行頼みで相談を持ちかけ、意を得た話が挿入されているのであるが、この叙述の一端からも、吉行が如何に影響力のある個性の持主であったかが伺える(この影響あってか、のちに村松友視は、「淳之介流 柔らかい約束」という吉行回想本をも上梓しているほどだ)。

それはともかく、むつかしい吉行淳之介論や作品論などを除けば、上のようなたわいない雑文まで集めてわざわざ別巻仕立てにして持ち上げているのだから、まだまだ「ブンガク」にチカラがあった時代だったんだな、とあらためて感服する次第である。ああ昭和、だ。村上龍だって、この時代だったらまちがいなく全集の一つや二つ出ていただろう。
ところがである。意外や意外。この別巻の執筆者名を並べた目次の中にもう一人の村上、すなわち村上春樹の名前を見つけたのである。吉行淳之介合唱隊の一員に、村上春樹。まったくそぐわないというか、ずらっと並んだ大人(父親世代もしくは先行年上)の集団に、未成年者が一人まぎれこんだような感じを受けて、何かの間違いではないかと、一瞬面喰らったのである。

実はこの中に、もう一人村上春樹よりずっと若い、芳紀25歳の中沢けいの名前もみえるのだが、彼女からはそんな感じは受けなかった(おじさんに囲まれた若い女性だったからか?なお、他に女性陣は河野多恵子、森茉莉、武田百合子、瀬戸内晴美と吉行の心理分析をした女医である)。
この別巻は最終配本なので、刊行開始から二年後の1985(昭和60)年1月10日発行となっている。この日は、たまたま1月12生れの村上春樹が36歳を迎える直前であったとともに、この年は記念すべき節目の年でもあった。長篇「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を書き上げ、第21回谷崎潤一郎賞を受賞しているからである(選考委員だった吉行は、授賞に消極的賛成だったと選評に書き残している。三十代での受賞は、大江健三郎に次いで二人目だった)。
その村上春樹が、吉行についてどんなことを書いているのか。これもたわいない内容ながら、短い文章なので全文を写してみよう。「僕の出会った有名人」と題されている(昭和59年「村上朝日堂」所収。発表年は特定されていない)。


「吉行淳之介という人は我々若手・下ッ端の作家にとってはかなり畏れおおい人である。しかしなぜ吉行さんが畏れおおいかというと、これが上手く説明できないのである。他にも有名な作家や立派な作家は星の数のごとく(・・・でもないか)いるのだけれど、とくに吉行さんに限って畏れおおいという感じがあって、これは不思議だ。
吉行さんは僕が文芸誌の新人賞をとった時の選考委員でまあ一応恩義のある人でもあり、どこかで会ったりするときちんとあいさつする。すると『あ、このあいだ君の書いたものはなかなか面白かった』とか『最近目が悪くて本が読めないんだが、む、がんばって下さい』とか言われる。しかしいつもそういう風にやさしいかというとそんなこともなく、他の人がちょっと余計なことを口にしたりすると『それは君、つまらないことだよ』とか『ま、野暮はよそうよ』というようなことを軽々と言って向こうに行ってしまったりする。この辺の間あいの絶妙さが畏れおおいというか、こちらが勝手にかしこまっちゃう所以である。

だから吉行さんのそばにいる時は僕は自分からほとんど何もしゃべらないことにしている。だいたいが人前に出ると無口になる方なので、こういうのはぜんぜん苦痛ではない。むしろ楽である。だから僕はこれまで四回くらい酒場で吉行さんと同席したことがあるのだけれど、何か話を交わしたという覚えがほとんどないのである。
それでは吉行さんがそういう場所で何を話すかというと、これが本当にどうでもいいような無益な話をエンエンとやっているのである。無益な話が無益な曲折をへて、より無益な方向へと流れ、そして夜が更けていく。僕もかなり無益な方だけど、まだ若いのでなかなかあそこまでは無益にはなれない。いつも感心してしまう。そういう話をエンエンとやりながらホステスのおっぱいをさりげなくさわっちゃうところも偉い。やはりなんといっても畏れおおいのである」
ここでも、「腿膝三年、尻八年」の技巧を見せつけていたようだ(この造語は、安岡章太郎との合作だとも言われている)。

それよりも何よりも、村上春樹がクラブに出没していたとは、驚き桃の木山椒の木である。村上龍だったらまだしも、村上春樹がホステスに取り囲まれヤニ下がっている光景なんて、まったく想像もできなかった。驚いた。
文芸誌の新人賞とあるのは、1979年に第22回群像新人文学賞を受賞した「風の歌を聴け」のことである(村上春樹の前年に「海を感じる時」で受賞したのが19歳だった中沢けいである)。村上春樹については、吉行以上に丸谷才一が高く評価していた。
そんないきさつがあったからというのでもないだろうけど、村上春樹は「若い読者のための短編小説案内」という評論本で、吉行や安岡たち「第三の新人」の作品と丸谷才一「樹影譚」などを取り上げて、親近感を示していたのを思い出した。対象となった安岡の作品は「ガラスの靴」、吉行のは「水の畔り」という作品で、吉行が結核の手術をする前に小島信夫に紹介されて、千葉の佐原で療養していた時のことを書いた比較的地味な作品である(佐原は吉行が運転して、安岡と近藤啓太郎の三人でドライブに行った土地である)。
取り上げられた残りの作品は小島信夫「馬」、庄野潤三「静物」、長谷川四郎「阿久正の話」である(長谷川四郎も「第三の新人」に加えられることもある)。

作品選択について、村上春樹はこういうふうに説明している。
「僕はいわゆる自然主義的な小説、あるいは私小説はほぼ駄目でした。太宰治も駄目、三島由紀夫も駄目でした。そういう小説には、どうしても身体がうまく入っていかないのです。サイズの合わない靴に足を突っ込んでいるような気持ちになってしまうのです。言うまでもないことですが、それは僕の個人的な嗜好の問題であって、それが作品の客観的評価につながるわけではまったくありません。人間と人間のつきあいと同じことですね。僕らはどれだけ心を開いても、そのへんの誰とでも簡単に友達になれるわけでもないし、小説に関してもそれは同じことです。相性というものがあるし、また馴染むまでに時間がかかるものもあります。だから、ひょっとしたら十五年後には、僕は私小説にどっぷりと首までつかりきっているかもしれません。それはまあ誰にも予測がつかないことですけれど」
首までつかるどころか、今に至ってなお、村上春樹は私小説を書いてはいない。

そして、こう書かれている。
「僕がこれまでの段階で、日本の小説の中でいちばん心を惹かれたのは、第二次大戦後に文壇に登場した、いわゆる〈第三の新人〉と呼ばれている一群の作家たちでした。具体的に名前をあげると、安岡章太郎、小島信夫、吉行淳之介、庄野潤三、遠藤周作、といった人々です。またそれに加えて、一般的な定義においては、そのグループには属さないけれど、その前後に登場した何人かの作家にも興味を持ちました。たとえば長谷川四郎、丸谷才一、吉田健一といった作家です。
どうして僕がこのような人々の作品に個人的な興味を持つことになったのか、そして彼らの作品のあいだには何かしらの共通性のようなものがあるのだろうか?僕は少しずつそういうことを考えるようになりました」
「そういう」考察をまとめたのが、「若い読者のための短編小説案内」(1996年から1997年、「本の話」連載)だったというわけである(註)。当代きっての人気作家による「第三の新人」支持表明がなされたのであったけれども、時すでに遅しで「畏れおおい」吉行さんは、その二年前にこの世の人ではなかったのである。
(註・村上春樹が訳した「アメリカの鱒釣り」の作者リチャード・ブローティガンと吉行のあいだに交流があったというのも、二人の奇妙なつながりではある。)

昭和24年生れの村上春樹が、早稲田大学に入学したのは昭和43(1968)年である。その年に吉行は、「重厚と軽薄」(「風景」1月号)というエッセイを書いている(「暗室」執筆の前年である)。その冒頭。
「ときどき未知の読者から便りをもらうことがあるが、近年、女子大生とか女子高校生からのものが多くなった。小説が活字になりはじめた頃には、自分の作風から考えて、女性読者とは無縁とおもっていた。まさか後年、女子高校生に、娼婦のことを書いた作品についての感想を述べた手紙をもらうとは、まったく考えなかった。そういう手紙には、〈センセイの名前を見ただけで、母はオゾケをふるいます〉などという文句が出てきたりして、その〈母〉はつまり私とほぼ同世代ということになるから、あきらかな変化が起っている。こういう〈性〉についての受け取り方の変化は、多分、いや、きっと歓迎すべきことなのにちがいない」
このように書いて、「重厚と軽薄」についてのウンチクが語られるのであるが、それはどうでもいいので省略する。

このエッセイと同趣旨のことが、永井荷風作と伝えられる「四畳半襖の下張り」を雑誌「面白半分」に掲載して、野坂昭如が猥褻罪に問われた裁判で、特別弁護人として法廷に立った吉行の弁論の中にある。
「戦後私はある時期、娼婦を主人公とした小説ばかり書いていましたので、甚だいかがわしい存在だとおもわれていました(笑)。十年前でも、女子大生が卒業論文のテーマに私を取上げようとすると、担任教授に呼びつけられて説諭され、翻意を求められたと聞きます。このごろでは、ほとんどそういう事実はないようです。つまり、二十年前の女子大生にとっては、私の書くものは読んでいると口に出してはいけないものとなっている作品でした。現在では、当時の『原色の街』などの読後感を女子大生が送ってきてくれますが、私の意図を正しい角度から理解していて驚きます。ただし、そういう手紙の中に追伸があって、〈私の母はセンセイの名を聞くと怖気(おぞけ)をふるいます〉などと書いてある(笑)。その母親というのは私と同年代なわけで、ああ、二十年経ったのか、と感じますねえ」(「四畳半襖の下張〈裁判〉法廷私記」昭和49年)

村上春樹は、吉行の娼婦小説を取り上げて推奨しているわけでもないので、その系統の作品をどう評価していたかはわからないながらも、村上と同世代の女子高生や女子大生が娼婦小説に一定の理解を示してくれるのを好ましい時代傾向として、吉行は単純に喜んでいるのである。
賛同あれば拒絶あり。これらの文章を得意げに発表した時点では、ここに出てくる女学生たちと同じ世代から痛罵されるハメになろうとは、いくら優秀で自信家の吉行センセイでも思いだにしなかったであろう(吉行は番町小、麻生中学を通して、常に学年トップの成績であったという)。
「男流文学論」(1992年、筑摩書房)なる書物が刊行されたのは、吉行の死の二年前であった。男の書いた「ブンガク」を女の目線(註)で吟味、分析してコテンパンに批判した鼎談書評である。
(註・大塚英子「『暗室』のなかで」によると、この言葉を吉行は嫌っていたとある。視線が正しい書き方だ、と。)

まな板にあげられたのは、吉行淳之介「砂の上の植物群」「驟雨」「夕暮まで」、島尾敏雄「死の棘」、谷崎潤一郎「卍」「痴人の愛」、小島信夫「抱擁家族」、村上春樹「ノルウェイの森」、三島由紀夫「鏡子の家」「仮面の告白」「禁色」の諸作品である。
評者は上野千鶴子、昭和23(1948)年富山生れ、京大卒。小倉千加子、昭和27(1952)年大阪生れ、早大卒。富岡多恵子、昭和10(1935)年大阪生れ、大阪女子大卒の三人である。富岡多恵子だけは世代が異なるものの、上野も小倉もフェミニスト学者なので、小説家として実作者の立場から参画したのであったか(付言すれば、富岡多恵子は前章に登場した「暗室」のモデル、多加子と夏枝と同世代ということに)。
この六人の作家のうちで、最もやり玉に挙げられているのが吉行なのである(吉行は、これを読んだであろうが、何も書き残していない)。
さらにそれから十八年後、上野千鶴子は「女ぎらいーニッポンのミソジニー」(2010年、紀伊国屋書店)と題する著作で、再び吉行を痛烈に罵倒しているのである。

奥付の著者紹介欄には、上野千鶴子のことが「現在、東京大学大学院教授、女性学ジェンダー研究のパイオニア。1980年代以降常に時代の先端を疾走し、現代社会のさまざまな問題を問い続けてきたフェミニスト。近年は老い、福祉、ケアに専門領域をひろげている」と記されている(その後、2011年度の朝日賞を受賞)。
ここでは、この「女ぎらい」をテキストにして、どのように吉行(作品)が論難されているかを検証してみることにしたい。
まずもって、学者の文章というのは、やたらと外来語が出てくるのでかなわない。「フェミニスト」からして怪しいところへ、「ミソジニー」となると、珍紛漢紛(ちんぷんかんぷん)である。だからついつい敬遠したくなるのであるが、そこはよく心得たもので冒頭にしっかりと説明されていた。

「ミソジニー。〈女性嫌悪〉と訳される。〈女ぎらい〉とも。ミソジニーの男には女好きが多い。〈女ぎらい〉なのに〈女好き〉とはふしぎに聞こえるかもしれない。それならミソジニーにはもっとわかりやすい訳語がある。〈女性蔑視〉である。女を性欲の道具としてしか見なさないから、どんな女にもハダカやミニスカートなどという〈女という記号〉だけで反応できる。おどろくべき〈パブロフの犬〉ぶりだが、このメカニズムが男に備わっていなければ、セックス産業は成り立たない。
性別二元性のジェンダー秩序に深くふかく埋めこまれた核がミソジニーだ。このシステムのもとで男になり女になる者のなかで、ミソジニーから逃れられる者はいない。それはシステムのなかに重力のように瀰漫(びまん)しており、あまりにも自明であるために意識することすらできないほどだ。
だが、ミソジニーは男女にとって非対称に働く。男にとっては〈女性蔑視〉、女にとっては〈自己嫌悪〉。もっと卑近な言い方で言いかえよう。これまでの一生で男のうちで、〈女でなくてよかった〉と胸をなでおろさなかった者はいるだろうか。女のうちで、〈女に生まれてソンをした〉と一度でも思わなかった者はいるだろうか。

女好きの男が女ぎらい(ミソジニー)だと言えば矛盾して聞こえるかもしれない。ミソジニーという英語は、訳しにくい。ミソジニーの代わりに、女性憎悪(ウーマン・ヘイティング)ということばもあるが、もし女好きの男がウーマン・ヘイティングと言えば、読者はもっと面食らうだろう。
〈性豪〉と呼ばれる男性を思い起こせばよい。かれらは〈モノにした〉女の数を誇るが、逆に言えば女と言えばだれにでも発情するほど、あるいは女体や女性器に、あるいは女性性の記号やパーツに自動反応するほど、条件づけされた〈パブロフの犬〉であることを告白しているも同然だろう。かれらが反応しているのは、女ではなく、実のところ、女性性の記号なのだ。でなければどんな女でも〈女というカテゴリー〉のなかに溶かしこんでしまえるわけがない。(以下略)」
結構、論の立て方が強引なような気もしないでもないが、反論なんてとても無理だから、門外漢はおとなしくして、次のご高説を拝聴しようと思ったら、いきなり「吉行センセイ」の名前が出てきたので、目をパチクリして読む。

「女好きのミソジニーの男、というとき、わたしの脳裏に苦い思いで浮かぶのは、吉行淳之介である(註1)。吉行は文壇の色男として知られていた。モテた、と言われるが、かれの描く世界は、娼婦やくろうと女の世界だ。かれの芥川賞受賞の出世作『驟雨』は、永井荷風の『濹東綺譚』を意識していると言われる。荷風も商売女の世界を描いた。女好きのミソジニーの男に共通するのは、娼婦好きということだ。娼婦が好きということは、娼婦を人間として愛するということではない。カネで買った女を自由にもてあそび、ときには本人の自制に反してまで、みずからすすんで従わせることが好き、という意味である。荷風作とされる『四畳半襖の下張り』は、身を売った女に快楽で我を忘れさせるという、遊客の〈通〉の文化、究極の男性支配を言語的に遂行したテキストである。奥本大三郎(註2)は、吉行を〈まぎれもなく女性嫌悪思想の系譜に連なる作家である〉と書く。〈しかし、女性嫌悪思想の持ち主というのは、どうしても女に無関心でいられないのが、その弱点なのである〉とかれは付け加える。そして吉行に女性の読者が増えていることをさして、〈何だか猟師の鉄砲に小鳥が止まったような具合である〉と揶揄する」
(註1・吉行の「女好きの女嫌い」という指摘は、すでに阿川弘之によってなされていた。章6参照。註2・奥本大三郎は1944年大阪生れ、東大卒。フランス文学者、エッセイスト。)

「今から約二〇年前、富岡多恵子、小倉千加子と共著で『男流文学論』を出したとき、その冒頭に吉行淳之介を持ってきたのは、わたしがかれに恨みつらみを持っていたからである。べつに吉行に個人的にセクハラを受けたというわけではない。当時吉行の読者であった同世代の男たちから、セクハラまがいの発言を受け、それを甘受しなければならなかったからである。かれらはこう言った。
『吉行を読めよ。女がわかるから。』
 なかには、〈女が何か知りたくて、吉行を読んでいます〉という女さえいた。他の女がベッドでどうふるまうかは、男に訊かない限り女にはわからない。女性経験の多い男になら教えてもらえるだろうーだが、そこに描かれているのがリアルな女ではなく、女に対する男の妄想であることに気がつくのは後になってからのことなのだが。とはいえ、男の〈妄想〉の共演者になることを、吉行の著作から〈智恵〉として学んだ女もいることだろう。

吉行は文壇では〈女の通〉ということになっていた。たんにセックスした女の数と回数が多く、その経験を小説の主題にしているというだけで。性の相手が多いことは、それだけでは自慢にはならない。とりわけ相手がくろうと女性の場合には、それは性力の誇示ではなく、権力や金力の誇示にすぎない。作家吉行エイスケと美容家として成功した吉行あぐりの息子として生まれた淳之介は、カネに困らないぼんぼんだっただろう。権力、富、威信に女はかんたんになびく。吉行が銀座のバーでモテたのは、カネばなれがよいだけでなく、〈ボク、作家の吉行です〉と自己紹介したからこそだろう。その点では、昨今の流行作家、渡辺淳一センセイと変わらない。荷風のように身分を隠して女のもとへ通い、女あしらいがうまいからモテた、という話は聞かない。

吉行には妻がいたが、それとはべつに、有名な女優と夫婦同然の暮らしをしていた。死後、自分が『暗室』の女でした、と名のりでた女性がいたことで、そのほかにも晩年囲っていた女がいたことが発覚した。小説『暗室』は、ほとんど私小説というべきだろう。女優の愛人は経済力を持っていたが、もう一人の愛人は、月々の手当を受けて吉行に経済的に依存していた。『暗室』のなかで完結した関係なら、沈黙のなかに封じこめておけばよいものを、〈あの吉行の女〉だったという彼女の自尊心は、名のりでなければ満たされなかったのだろう。彼女は吉行の死後、かれとの『暗室』の暮らしを、くりかえして本に書きつづけている」

「吉行の『砂の上の植物群』 に、さえないサラリーマンの主人公が行き詰って娼婦を訪れ、〈憤怒に似た感情〉を相手にぶつけるシーンが出てくる。いや、逆だ。〈憤怒に似た感情〉を抱いたときに、それをぶつける便利な相手として娼婦がいる。しかも吉行にとって女は、それに抗するどころか、どこまでも受けいれ、やがてそれを自分の快楽にさえ変えてしまうつごうのよい存在だ。自分の怒りや鬱屈のゴミ捨て場として求めた女が、それをみずから求めて享受すらしてくれれば、男は罪の意識を感じずにすむ。そして相手の女が〈苦痛の替りに歓喜の声をあげ〉たときに、〈なんてこった、女は化け物だ〉 と、女は未知の領域へと放逐され、二重に他者化される。
実話かどうかはわからない。客が娼婦の快楽に頓着するとは考えられないし(そもそも娼婦を買うのは、相手の反応に配慮する必要がないからこそではないか)、女がほんとうに快楽を感じたのかどうかは、本人に聞いてみるまでわからない。もしかしたらそういう女が現実にいたのかもしれないし、もしそうでなくても〈歓喜の声をあげる〉 ぐらいは、女にとってお手のものだ」

「言っておくが、実際の女の快楽はこんなに便利な(つまり男に好つごうな)ものではない。あまりこの種の幻想がまき散らかされているために、ほんとうに信じこむ人たちがいるのじゃないかと心配になる。吉行はそういう性幻想をまき散らかした戦犯のひとりである。そして実際、それを信じこんだ男や、そして女も、同時代にはいたのだ。〈吉行を読めば、女がわかる〉と思いこんだ男も、そして女も、そういう人々だった。そして男にはたんにつごうのよい言説も、女には抑圧的に響く。なぜなら、〈わたしは吉行の女のように感じない。なら、わたしは女として未熟なのじゃないかしら〉と感じただろうから。吉行を女に読ませたがった男たちは、自分につごうのよい女を量産したかっただけだろう。

実際のところ、吉行を読んでも〈女はわから〉ない。かれの作品を読んでわかるのは、女とはなにか、何者であるべきか、何者であってほしいか、についての男の性幻想についてである。この事情は、オリエンタリズムと似ている。エドワード・サイードは『オリエンタリズム』を、〈オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式(スタイル)〉、言いかえれば〈東洋(オリエント)とは何かについての西洋の知〉と定義した。だからオリエントについて書かれた西洋人の書物をこれでもか、といくら読んでも、わかるのは西洋人の頭のなかにあるオリエント妄想だけであって、実際のオリエントについてはわからない、というのが、『オリエンタリズム』という書物におけるかれの発見だったのだ。

吉行の背後には、実はもうひとりの仮想敵がいる。吉行が手本とし、陋巷(ろうこう)の世界に身をおいたといわれる反俗の作家永井荷風である。戦後文学の『第三の新人』 のひとりであった吉行は、やがて日本の文学史から忘れ去られるかもしれないマイナーな作家だが(いまどき、吉行の読者はどのくらいいるだろうか)、永井荷風のほうはそうではない。荷風は今でもくりかえし参照される文学史上の大家である。吉行のみならず、今でも荷風を手本として慕う男の物書きは絶えない。それを見るたびに、奥本の言う〈女性嫌悪の系譜に連なる作家〉が再生産されていると、思わないではいられない。

荷風もまた女好きで、娼婦のもとへ通い、娼婦の客になることよりも情人になることを好んだ。吉行とちがって荷風は身分を隠し、〈なにやらいかがわしい職業の気のいいおじさん〉 として娼婦に対した。カネばなれはよかったかもしれないが、地位を餌にはせず、娼婦から情人の待遇を受けるほど彼女たちから好かれた。吉行は情人となった娼婦が他の客をとることに嫉妬を覚えたが、荷風はなじみの女にべつの客が来ると、商売の邪魔にならないように身を隠す節度を持っていた。荷風のほうが性の通人であり、女あしらいがうまいことは想像に難くない。性の技巧もなまなかでなかったことは、快楽を感じないようにセルフ・コントロールしているはずのくろうと女を絶頂に導いたこと(になっている)から推察される。こんなおじさんとお友だちになってみたかった、って?だが、荷風もまた奥本の言う〈女性嫌悪思想の系譜に連なる作家〉だと言えば、奇妙に聞こえるだろうか?」

上野千鶴子はこう分析して、荷風の代表作「濹東綺譚」の一節を引き、荷風も吉行同様に「其(娼婦の)身体のみならず其の心情をも弄(もてあそ)んだ」ことに変わりはない同じ穴のムジナだ、と断罪する。
同類ではあろうけれども、どちらかといえば吉行より荷風の方が本質的に冷酷だったのではあるまいか?荷風に比べて吉行批判が燃え盛っているのは、直接被害体験の有無によるものだろう(もっと複雑、微妙な要素もあったには違いないが。例えば、二人が父と祖父に当たる年代差、時代差とか、いろいろ)。
いましばらく吉行批判はつづいているが、ミソジニーの典型男の罪状論告引用はこのくらいで充分だろう。しかしながら(こんなことをいうのは上の村上春樹ではないが、おこがましく畏れ多いものの)、この論旨にはちょっぴり不満も残る。論拠となるトラウマ吉行論には同情しても、やや論法が大まか過ぎやしないか(ま、文学が専門ではないから仕方ないだろうけど)。動機はどうであれ、もっと委細を尽くした本格的吉行淳之介論を期待していたのに(吉行論だけが目的ではないので、これも仕方ないのだろうけれども)。

とはいえ、さすがに名うてのフェミニスト学者だけあって、しばしばその学識と知見には圧倒される(ふだん、こういう類いの書物を読み慣れていないので新鮮に感じられた)。
またしても長くなるが、二、三引例してみる。
「異性愛秩序の核心に女ぎらい(ミソジニー)があることはふしぎではない。なぜなら自分は女ではない、というアイデンティティだけが、〈男らしさ〉を支えているからだ。そして女を性的客体としてみずからが性的主体であることを証明したときにはじめて、男は同性の集団から、男として認められる、すなわちホモソーシャルな集団の正式メンバーとしての参入を承認される。輪姦(まわし)が性欲とは無関係な集団的行為であり、男らしさの儀礼であることはよく知られている」

あるいは、
「女の嫉妬は男を奪ったべつの女に向かうが、男の嫉妬は自分を裏切った女に向かう。それは所有権の侵害、女がひとり自分に所属することで保たれていた男の自我が崩壊する危機だからだ。女にとって嫉妬とは、べつの女をライバルとする、男をめぐる競争のゲームだが、男にとっては自己のプライドとアイデンティティを賭けたゲームである(女性にも嫉妬をプライドとアイデンティティのゲームと考える者はいる。その場合は、攻撃は男性同様、自分のプライドを傷つけた当の相手にむかうだろう)」

または、
「家父長制とは、言いかえれば、女と子どもの所属を決めるルールのことである。男に所属する、すなわち男の支配と統制にしたがう女と子どもには社会の指定席が与えられるが、そうでない女から生まれる子どもは、社会に登録されない。登録された結婚から生まれた子どもとそうでない子ども(最近では〈私生児〉や〈非嫡出子〉という差別的な用語に代わって、〈婚外子〉と呼ばれるようになった)とのあいだには、今日に至るまで民法上の差別がある。
どんな生まれ方をしようが、子どもは子どもだ。奇妙なことに、昨今の〈少子化対策〉を見ていると、結婚の奨励と既婚女性の出産の奨励はあるが、〈婚外子〉の出産奨励という政策的なキャンペーンはどこにも見あたらない。日本政府の少子化対策はその程度のものか、本気度が足りない、と思わざるをえない。つまり、子どもが生まれることより、家父長制を守ることのほうがまだまだ重要なのであろう」

ちょっと怖い、このような事実是認も。
「DV男も、復縁殺人も、男の究極の女性支配への欲求から来ていると思えば、よく理解できる。女が殺される可能性の最も高い相手は、見知らぬ他人ではなく夫や恋人だ。アメリカには〈配偶者とは、自分を殺す確率のもっとも高い他人である〉という、笑えないジョークまである。DV殺人が起きる可能性がもっとも高いのは、妻や恋人が逃げようとしたとき復縁を求めた男が女を殺すケースだ。だからこそ〈復縁殺人〉という用語すらある。復縁を求めて得られないとき、男は逆上する。そして他のだれにもわたさないために、女を殺す。殺人は究極の所有だからである」

これは、若き三島由紀夫が書いた次の文章に照応するものでもあろう。
「愛は相手を所有することだとしても、簡単に所有するという形は、われわれにはほんとうはできない。相手が眠っているときか相手が死んでいるときしかできないのです。相手の自由を完全に自分のものとすることは、相手を殺してしまうか眠らせてしまうしかないのであります。しかしそれが不可能だとすると、いつまでもわれわれは不安にさいなまれなければなりません。
そこで考えられたのが結婚という制度です」(昭和31年、「新恋愛講座」)

ここで意外な吉行信奉者が、一人残っていたのを思い出した。三島と同年生れの丸谷才一である。
やはり、文壇随一ともいっていい博覧強記を誇り、それこそ名うての論客でもあった丸谷才一にまで、次のように言わしめているのを読んだりすると、やっぱり吉行は、上野センセイ説くところの輪姦集団の親分さながらだったのだ、と改めて感得させられるのである。
「(吉行とは)それからいろいろのことがあつて、言い盡せないほどの義理がある。一度もお宅にうかがつたことのない、そして立ち寄つてくれたことももちろんない淡いつきあひだつたが、吉行さんの友情がなければわたしの後半生がかなり色合ひの違ふものになつてゐたことは確かだろう。あんなに魅力的な人物に兄事することができたのは、わが生涯のしあはせであつた」(「『暗室』とその方法」、「中央公論」1994年9月号)

肝心要のことが書かれてないので二人のあいだに何があったのかはわからないが、尋常ではない傾倒ぶりだ(この一文は、吉行の死去後まもなくの発表だから追悼文なのであろう)。
つづいて丸谷才一は、吉行文学の最高傑作は「暗室」であると断言、「これは同じ随筆体の小説と言つても、永井荷風の『濹東綺譚』とくらべて遥かに上のものである」とまで持ち上げ、「まともな本をあんなにすこししか読まなくてあんなに知的な人があるというのは、わたしには信じがたい話である」とまで吉行を讃美しているのである。
こうなると傾倒というよりも心酔と言うべきか。ホステスに囲まれた村上春樹が想像できなかったように、こうまで酔っぱらった丸谷センセイも想像外である。村上春樹の小説にぞっこんだったのも、丸谷センセイだったから、ごくごくのお気に入りにはそういうがあった(?)のかも。

それほどの入れ込みようなのだから、上記全集の別巻3には当然丸谷才一の名前もあり、掲載文は「花柳小説論ノート」と題する評論である。短文ながら、丸谷流の卓抜な視点で日本文学史における荷風や吉行の花柳小説を正当に位置付けし直そうとした説得に富む文章である。
つまり丸谷センセイは、荷風と吉行に関するかぎり上野センセイとは対極をなす思考の持主であるということだ。吉行のひとつ年下で、東大英文科の後輩でもある丸谷センセイは、上野センセイにとって吉行に代わる絶好の仮想敵なのである。
このことに気づいて、とっさに愚にもつかぬ希望的観測が脳裏をかすめたのである。

もしかすると、すでにどこかで荷風、吉行支持派の旧世代丸谷センセイと、それに反駁する新世代(?、すでに疑問符が付く年代となった)上野センセイ論客同士、甲論乙駁、龍虎相撃つような父娘世代論争が実施されていたのではあるまいか、と(そうであれば、どことなく残る吉行淳之介へのモヤモヤ感も一掃されるかも、との期待感交じりで)。
が、これもいつもの夢想であったようだ。「女ぎらい ーニッポンのミソジニー」刊行の二年後、それは丸谷センセイの文化勲章受章の翌年ということになるのだが、丸谷センセイはすでにこの世の人ではなかったのである(83歳)。むろん、論争を行なった形跡はなかった。もっとも、この間に上野センセイも朝日賞の栄誉に輝いていたのだから、両センセイにとてもそんなヒマなどなかったのだ(残念)。

さて、丸谷才一の追悼文は「中央公論」九月号掲載だが、これまでたびたび引用してきた「群像」十月号の吉行淳之介追悼特集には、籍が入らぬまま、その死まで吉行のパートナーであり続けた宮城まり子の短い文章が載っている(以下、抄出)。
「死ぬまでにあと二冊書きたいな、『暗室』くらいの長いものだといいました。二冊よりもっと多い方がいいわ。彼の肝臓癌のこと知ってる私は、つい励ますようなこといいました。君はまだ、書くということわかっちゃいないなと本気で叱ったあと、一冊はもう書き出しの文章もできているんだ。どうしてもそれは書きたいんだ、もどかしそうでした。でもまだ書けないな、私に書きたいなというなんて、それがどんなに彼の心をゆりうごかしているかよくわかるような気がして、私は彼の笑ってくれそうなラップをしゃべりますと彼は、君はバカだなと笑いました」
この時、その二冊の内容を宮城まり子は訊かなかったのであろうか。何も書かれてない(「淳之介さんのこと」にも記述はない)。 

しかしながら、その内容を吉行は夏枝には喋っていたようである。「『暗室』のなかで」に大塚英子は、こう綴っている。
「まあ、あと十年は大丈夫だよ、もし僕がサバイバルゲームに勝てたら、『暗室』の続篇をぜひ書きたい。こんな珍しい二人の人生は、そうやたらにはないんだから、『江安餐室』(註1)の前で一度目が合った子と、一生を共にすることになったんだもの、シバレンの占いが本当にあたったんだもの・・・(註2)」
「もう一つ、『T一族』のことを、これも是非書きたい、この二つは書きたいんだ・・・」
「T一族」とは、どこのだれの物語だったのだろう?説明はない。
(註1・江安餐室は、吉行と夏枝が最初に出会った銀座の中華料理店。夏枝は21歳だったと思われる。註2・シバレンの占いとは、柴田錬三郎が京都の易者に占ってもらった際、ついでに吉行のも頼んだところ、「この人には、将来もう一人女性が現れて、その女性と一生涯連れ添うでしょう」との卦がでたという。)

宮城まり子の文章には、吉行が「意識のなくなる前、『理不尽だ』と突然いいました」とも記されている。夢うつつの境で、吉行は何を憤(いきどお)っていたのであろうか?
「生きることのむなしさを知りつくすために生きている」
これは「暗室」の主人公中田のつぶやきである。

追記。
「吉行淳之介『闇のなかの祝祭』と『暗室』」は、これで終わりなのだが、最後の最後で吉行の長女誕生に関する決定的な文章に偶然行き当った。どうでもいいことながら(せっかく見つけたのだから)、それを蛇足として幕引きとしたい。それは、講談社版の最初の吉行全集(昭和46年、全8巻)第3巻の短い日記形式のエッセイに載っていた(以下、抄出)。

 二月某日。
R社の座談会に出席。臼井吉見、三宅艶子、渡辺道子の諸氏と同席。一人ではしご酒をして帰宅。十一時就寝。午前二時、家人に起され、陣痛を訴えられる。タクシーをひろい、高樹町日赤病院に入院させる。午前三時帰宅。

二月某日。
午前九時起床。本日より一人ぐらしである。昨日のミソ汁ののこりに、餅を入れて食う。CBC(放送)のドラマ「夕焼の色」を推敲、速達で送る。
午後三時半、病院より電話。女児出生。病院へ行く。母体の方は難産で出血多量、血圧が下ったためショックを起しているので、輸血をする。午後七時、一応帰宅、疲労甚(はなはだ)しく、横臥して回復を待つ。九時、病院へ行く。家人は病室へ戻っており、案外元気であった。安岡夫人が見舞にきてくれる。十時帰宅。(この日記は活字になる前提のもとに書いているものなので、ここに書くことのできない、いくつかの事柄のため、思い屈し)このあんばいでは、小説は出来上りそうもない(註)、と思う。
(註・省略した部分に〈二十日締切の「聲」の小説、十三枚で停頓して動かない。おもい悩む。どこか密室にこもって、三日間ほどうなってみなくてはなるまいが、いま、家を空けられない事がある〉と書かれている。文枝が出産間近だったからである。また、カッコ内の「思い屈」することは、宮城まり子との恋愛問題であったのか。)

二月某日。
隣家の人に、雨戸をたたいて起された。来客あり、という。時計をみると、午前十一時。玄関の外に千葉県鴨川在の近藤啓太郎夫人が立っている。祝いの品を持参してくれる。その祝いの品には、いろいろ注釈がついている。鯛を一匹ことづけようとおもったが、鯛が入手できず、ブリを一匹買おうとおもったが、一匹ではちと高価にすぎる。片身を手に入れ、しばらく眺めていたが、あまりうまそうなので、頭から頸(くび)あたりを切り取って(近藤夫人の説によると、この部分がもっとも旨いのだそうだ)それを肴にして祝杯をあげてくれたそうである。いかにも近藤らしい話である(註)。ブリの塩焼きで食事。
夜、阿川夫妻と田村町S飯店で食事。
(註・この訪問が、そっくり「闇のなかの祝祭」にエピソードとして使われている。)

最後の、二月某日の末尾。
夜、阿川の車で、安岡宅へゆき、雑談数刻。就寝二時、そろそろ子供の名前を考えなくてはならぬ。

この短文は、昭和34年の「文學界」4月号が初出である。初出の題は「七曜表」(のちに「日記」と改題)とあるから、日付はないが一週間の出来事を書いたものだと思われる(この記述から吉行の「父性愛」のことも頭をよぎるがもう蒸し返すまい)。
新潮社版全集には、この「日記」は収載されていなかったので気づかなかったのである(二回目の講談社の全集には当たっていない)。
全集は、それも著者死後の全集は(全集と銘打って出版するからには)、どうせなら三島由紀夫全集のように断簡零墨まで網羅した完璧な全集であって欲しいものだ。