2009年09月11日
女の子ものがたり
第614回
★★★★(劇場)
(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)
「人はなぜ幸せになろうとしないのか?」
これは、黒澤明監督の言葉である。
その疑問と願いは、クロサワ映画の中に欠かせないメッセージとして練り込まれていた。
誰もが「幸せになりたい」と願いながら、世の中では諍いが絶えない。
「戦争は人間の歴史だ」と宣い、実際、永久な世界的平和など幻想だと殆どの人が自覚している。
それでも個人個人は「幸せでありたい」と願い、願わなくとも「幸せにこした事ない」と心のどこかで思っている。
今年亡くなった忌野清志郎も「人間は馬鹿だ」と前置きして、
「僕らが子供の頃から平和を訴えているけれど、未だ世界のどこかで戦争をやっている」
と世界の混沌を嘆いていた。
話がややこしくなるので、とりあえず世界平和だとか壮大な理想は置いておくとして、単純な話、例えば自分の友達が悪い男(または女)と付合っているのを知って「やめとけばいいのに」と思った類いの事は誰しもあるだろう。
しかし当の本人にとっては「幸せ」である事には違いなく「余計なお世話」とあしらわれるのが世の常。
「駄目だ駄目だ」と言われれば言われる程に天の邪鬼が顔を出し、それを「幸せ」とどんどん思い込むもの。
つまり、どんな状況であっても、結局「幸せ」なのである。
多くの人は「道を外す」というリスク回避を行うものだが、それが本当にいいのか悪いのかはまた別の話。
誰にだって幸せになれる権利はあるけれど、その「ものさし」は人それぞれなのだから。
「女の子ものがたり」も、そんなお話なのかな?と思っていたら、そうではなかった。
劇中、暴力を振るう彼氏に対して、きみこ(波瑠)は「良くない相手と解っているけれど」というような台詞を吐く場面がある。
「わかっているけどやめられない」のは植木等だけではない。
世の多くの人が「幸せになりたい」と願いながら果たせていないだけなのだ。
その「果たせない」事は、人生における目標や夢、にどこか似ている。
例えば、他人からすれば理解を越えた努力を重ねるスポーツ選手の日常は誰もが真似出来るものではない。
どちらかと言えば辛いもののように思えるが、本人にとってその辛さは「幸せ」の為であることは言う由もがな。
「女の子ものがたり」は、いっけん若き日々の感傷に浸る作品のように見える。
しかし、映画後半に繰り広げられる大げんかを挟んで、本作は「人それぞれ」である事の重要さと覚悟を観客に投げかけ、若き日々ではなく「今」を描こうとしている事に気付かされる。
それがこの作品を強いものにしているのだ。
天候に恵まれなかったせいで残念なショットがいくつかあるが、その分(恐らくあえて)色調にこだわった衣装の数々に登場人物の心情を内包させ、見事なサブリミナル効果を発揮しているのが見事(説明すると長くなるので割愛するが、主要登場人物それぞれの衣装に注目)。
3世代に別れてそれぞれの役を演じた少女たちの成長に違和感を持たせない細やかな演技(外見だけでなく、例えば同じ癖のようなものも含んだ役作り)は、即ち彼女たちへの評価へと繋がる事請け合いで、成長しながら友情を深める過程にも違和感がないのがいい。
あまりにも「スタンド・バイ・ミー」(1986)を意識しすぎた台詞の数々に気恥ずかしさを感じない訳でもないが、ラストで言及されるように、大人になると「ともだち」が出来にくくなるのは、残念ながら、本当である。
本作の勝因は、原作に無かった大人の「わたし」が過去のエピソードを繋ぐ「鎹(かすがい)」の役目を担っている点にある。
過去を描くノスタルジーだけでなく、時間を経た現在だから思える過去への反省や後悔は誰にでもある共通の想いだ。
それは誰もが抱えるものだといえる。
映画終盤はただ、ただ、泣けてくる。
「おんなのこ」の話でありながら、「おとこのこ」に置き換えても充分成立する人間の機微が、我々の琴線を揺らしまくるのだ。
今、高校生や大学生の人たちは、10年後くらいにこの映画を見て欲しいと思う。
今、社会人として世に出た人たちは、人生に悩んだり、立ち止まった時にこの映画を見て欲しいと思う。
今、30代後半以降の人たちは、今、この映画を見て欲しい。
きっと後悔した事や反省した事、昔は気付かなかったけれど今なら理解出来る事が走馬灯のように駆け巡り、取り戻せない何かに哀しみを感じながらも、明日生きてゆく覚悟を決意出来るに違いない。
僕にとって主人公「なっちゃん」が僕自身の分身であるかのように感じた如く、きっとこの映画を見た人にとって「なっちゃん」が自分自身だったり、遠くで頑張っている友人だったりするはずなのだ。
人生に正解は無いし、幸せの基準はひとそれぞれ。
アニメ映画「時をかける少女」(2006)でストーンズの曲を引き合いに出して、「Time Waits For No One」と訴えていたように、この映画でもまた、今を生きるしかない、と多くの人を鼓舞させてくれるに違いない。
★★★★(劇場)
(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)
「人はなぜ幸せになろうとしないのか?」
これは、黒澤明監督の言葉である。
その疑問と願いは、クロサワ映画の中に欠かせないメッセージとして練り込まれていた。
誰もが「幸せになりたい」と願いながら、世の中では諍いが絶えない。
「戦争は人間の歴史だ」と宣い、実際、永久な世界的平和など幻想だと殆どの人が自覚している。
それでも個人個人は「幸せでありたい」と願い、願わなくとも「幸せにこした事ない」と心のどこかで思っている。
今年亡くなった忌野清志郎も「人間は馬鹿だ」と前置きして、
「僕らが子供の頃から平和を訴えているけれど、未だ世界のどこかで戦争をやっている」
と世界の混沌を嘆いていた。
話がややこしくなるので、とりあえず世界平和だとか壮大な理想は置いておくとして、単純な話、例えば自分の友達が悪い男(または女)と付合っているのを知って「やめとけばいいのに」と思った類いの事は誰しもあるだろう。
しかし当の本人にとっては「幸せ」である事には違いなく「余計なお世話」とあしらわれるのが世の常。
「駄目だ駄目だ」と言われれば言われる程に天の邪鬼が顔を出し、それを「幸せ」とどんどん思い込むもの。
つまり、どんな状況であっても、結局「幸せ」なのである。
多くの人は「道を外す」というリスク回避を行うものだが、それが本当にいいのか悪いのかはまた別の話。
誰にだって幸せになれる権利はあるけれど、その「ものさし」は人それぞれなのだから。
「女の子ものがたり」も、そんなお話なのかな?と思っていたら、そうではなかった。
劇中、暴力を振るう彼氏に対して、きみこ(波瑠)は「良くない相手と解っているけれど」というような台詞を吐く場面がある。
「わかっているけどやめられない」のは植木等だけではない。
世の多くの人が「幸せになりたい」と願いながら果たせていないだけなのだ。
その「果たせない」事は、人生における目標や夢、にどこか似ている。
例えば、他人からすれば理解を越えた努力を重ねるスポーツ選手の日常は誰もが真似出来るものではない。
どちらかと言えば辛いもののように思えるが、本人にとってその辛さは「幸せ」の為であることは言う由もがな。
「女の子ものがたり」は、いっけん若き日々の感傷に浸る作品のように見える。
しかし、映画後半に繰り広げられる大げんかを挟んで、本作は「人それぞれ」である事の重要さと覚悟を観客に投げかけ、若き日々ではなく「今」を描こうとしている事に気付かされる。
それがこの作品を強いものにしているのだ。
天候に恵まれなかったせいで残念なショットがいくつかあるが、その分(恐らくあえて)色調にこだわった衣装の数々に登場人物の心情を内包させ、見事なサブリミナル効果を発揮しているのが見事(説明すると長くなるので割愛するが、主要登場人物それぞれの衣装に注目)。
3世代に別れてそれぞれの役を演じた少女たちの成長に違和感を持たせない細やかな演技(外見だけでなく、例えば同じ癖のようなものも含んだ役作り)は、即ち彼女たちへの評価へと繋がる事請け合いで、成長しながら友情を深める過程にも違和感がないのがいい。
あまりにも「スタンド・バイ・ミー」(1986)を意識しすぎた台詞の数々に気恥ずかしさを感じない訳でもないが、ラストで言及されるように、大人になると「ともだち」が出来にくくなるのは、残念ながら、本当である。
本作の勝因は、原作に無かった大人の「わたし」が過去のエピソードを繋ぐ「鎹(かすがい)」の役目を担っている点にある。
過去を描くノスタルジーだけでなく、時間を経た現在だから思える過去への反省や後悔は誰にでもある共通の想いだ。
それは誰もが抱えるものだといえる。
映画終盤はただ、ただ、泣けてくる。
「おんなのこ」の話でありながら、「おとこのこ」に置き換えても充分成立する人間の機微が、我々の琴線を揺らしまくるのだ。
今、高校生や大学生の人たちは、10年後くらいにこの映画を見て欲しいと思う。
今、社会人として世に出た人たちは、人生に悩んだり、立ち止まった時にこの映画を見て欲しいと思う。
今、30代後半以降の人たちは、今、この映画を見て欲しい。
きっと後悔した事や反省した事、昔は気付かなかったけれど今なら理解出来る事が走馬灯のように駆け巡り、取り戻せない何かに哀しみを感じながらも、明日生きてゆく覚悟を決意出来るに違いない。
僕にとって主人公「なっちゃん」が僕自身の分身であるかのように感じた如く、きっとこの映画を見た人にとって「なっちゃん」が自分自身だったり、遠くで頑張っている友人だったりするはずなのだ。
人生に正解は無いし、幸せの基準はひとそれぞれ。
アニメ映画「時をかける少女」(2006)でストーンズの曲を引き合いに出して、「Time Waits For No One」と訴えていたように、この映画でもまた、今を生きるしかない、と多くの人を鼓舞させてくれるに違いない。
2009年09月10日
サブウェイ123 激突
第613回
★★★(劇場)
(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)
「地下鉄の方が断然速い」
この作品で何度か登場する台詞である。
ニューヨークといえば、地下鉄、というくらい街の風景や人々の生活に密着している印象があるが、実のところ広大なアメリカ国内で鉄道網が充実している場所は少ない。
実際、あれだけ多くの人間を運びながら、ニューヨークの地下鉄乗客数は世界第3位でしかない(我々の住む日本は東京が世界第1位だったりする)。
東京の街に暮らすと、(人口比からだけでなく)交通網として「鉄道」の利便さを実感せざるを得ない。
街中を移動するなら「車」よりも「鉄道」の方が確実なのは、地方都市に比べて東京人の多くが携帯電話で鉄道の乗り換え情報を検索している事からも伺える。
網の目のように張り巡らされた鉄道網を利用すれば「A地点」から「B地点」までの移動を様々な経路で行くことが出来、たとえどこかの路線で事故が起こって鉄道が止まっても別のルートで「B地点」まで移動出来るからだ。
これは第二の都市圏といわれる関西においてでも、なかなか成せない事である。
渋滞とは無縁で安価、更に移動に要する時間に見当がつく事は、何事においてもスピード化めまぐるしい現代社会において、鉄道は欠かせない足であり、都市圏の若者が車を買わない理由を納得させるに充分(もちろん経済的な様々な要素があるけれどここでは長くなるので、またの機会に)と思わせる。
まさに「地下鉄の方が断然速い」=「鉄道は便利だ」と解釈して問題ないだろう。
「サブウェイ123 激突」は、地下鉄を乗っ取り、身代金を要求する犯人とたまたま司令室にいた地下鉄職員との頭脳戦を描いた作品。
本作が一般市民にとっての地下鉄での恐怖を描きながら、同時に地下鉄の利便性を訴えている事で、ステレオタイプな印象を与えがちなハリウッド映画の「恐怖」を「緩和」しているのが出色。
その意図を脚本から読み取り、撮影に協力を惜しまなかったニューヨーク地下鉄の英断も見事であったといえる。
つまり本作を見たところで「恐くて地下鉄には乗りたくない」などとは思わせないのである。
これまでのパニック映画、例えば「エアポート」シリーズ(1970〜)の類いを見れば飛行機に乗る事を躊躇らわせるだろうし、「ジョーズ」シリーズ(1975〜)であれば、海へ出かけるのを躊躇わせる力を作品自体が持っている。
そういう意味で、本作が映画として欄客へ「恐怖」を植え付けられなかったのが作品自体の「弱さ」と解釈もできるが、同時に、単純にニューヨークを恐怖に陥れるというパニック映画とは一線を画した街に対する「愛」も感じさせるのである(ラストに登場する、ある野球球団に関する会話がその象徴ではないか!)。
多くの映画ファンが知っているように、本作は「リメイク」作品である。
つまり、映画史上に残る、見事な幕切れを持つ名作「サブウェイ・パニック」(1974)と比較される運命にある訳だ。
僕自身がそうであったように、恐らく、オリジナル版を知る映画ファンにとってこの映画は「凡作」であると評価するに違いない。
だからこそ、僕は「サブウェイ・パニック」を見た事がない観客の反応が知りたいと願う。
それはリメイクとしてオリジナル版には負けているけれど、演出面や台詞の応酬、演技合戦等、本作が映画としてそれほど悪い作品だとは思えないからだ。
脚本家としてのみならず「ペイバック」(1999)や「ROCK YOU! [ロック・ユー]」(2001)で監督としての手腕も発揮しているブライアン・ヘルゲランドの脚本は流石であるし、近年、個人的にはハズレ作品が無く、兄リドリーよりも面白い作品の多くなったトニー・スコットのシャープな演出は本作でも冴えている。
犯人の極悪さの対比として「負」の要素を盛り込んだデンゼル・ワシントンの役柄は秀逸で、そのことがまた観客の倫理観を微妙に麻痺させているのだ。
劇中の「日本」の役割や「ウォルター」という名前、デンゼル・ワシントンの服装など、リメイクとしてオリジナル版へのオマージュが要所要所に見え隠れするのも映画ファンの心をくすぐるが、無駄に多くの命が失われる点において、頭脳戦を装いつつもやはり「芸」がないと思わせてしまうのが痛恨。
魅力的な密室劇に仕立てられる設定でありながら脇役の描き方が雑であるとか、ウェブ映像のからくりの使い方が放りっぱなしだとか、穴がありまくりの展開ではあるが、全ては「なぜヘリコプターを使わないのか?」という(間抜けな)台詞にも集約されている(事故を起こすのは何なのか?)。
本作は鉄道におけるパニックを描きながら、結局は鉄道の利便性と安全性を説き、とどのつまり、大いにニューヨーク地下鉄の広告塔となっているのである。
※こちらもご参照下さい → 過去記事「サブウェイ・パニック」
★★★(劇場)
(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)
「地下鉄の方が断然速い」
この作品で何度か登場する台詞である。
ニューヨークといえば、地下鉄、というくらい街の風景や人々の生活に密着している印象があるが、実のところ広大なアメリカ国内で鉄道網が充実している場所は少ない。
実際、あれだけ多くの人間を運びながら、ニューヨークの地下鉄乗客数は世界第3位でしかない(我々の住む日本は東京が世界第1位だったりする)。
東京の街に暮らすと、(人口比からだけでなく)交通網として「鉄道」の利便さを実感せざるを得ない。
街中を移動するなら「車」よりも「鉄道」の方が確実なのは、地方都市に比べて東京人の多くが携帯電話で鉄道の乗り換え情報を検索している事からも伺える。
網の目のように張り巡らされた鉄道網を利用すれば「A地点」から「B地点」までの移動を様々な経路で行くことが出来、たとえどこかの路線で事故が起こって鉄道が止まっても別のルートで「B地点」まで移動出来るからだ。
これは第二の都市圏といわれる関西においてでも、なかなか成せない事である。
渋滞とは無縁で安価、更に移動に要する時間に見当がつく事は、何事においてもスピード化めまぐるしい現代社会において、鉄道は欠かせない足であり、都市圏の若者が車を買わない理由を納得させるに充分(もちろん経済的な様々な要素があるけれどここでは長くなるので、またの機会に)と思わせる。
まさに「地下鉄の方が断然速い」=「鉄道は便利だ」と解釈して問題ないだろう。
「サブウェイ123 激突」は、地下鉄を乗っ取り、身代金を要求する犯人とたまたま司令室にいた地下鉄職員との頭脳戦を描いた作品。
本作が一般市民にとっての地下鉄での恐怖を描きながら、同時に地下鉄の利便性を訴えている事で、ステレオタイプな印象を与えがちなハリウッド映画の「恐怖」を「緩和」しているのが出色。
その意図を脚本から読み取り、撮影に協力を惜しまなかったニューヨーク地下鉄の英断も見事であったといえる。
つまり本作を見たところで「恐くて地下鉄には乗りたくない」などとは思わせないのである。
これまでのパニック映画、例えば「エアポート」シリーズ(1970〜)の類いを見れば飛行機に乗る事を躊躇らわせるだろうし、「ジョーズ」シリーズ(1975〜)であれば、海へ出かけるのを躊躇わせる力を作品自体が持っている。
そういう意味で、本作が映画として欄客へ「恐怖」を植え付けられなかったのが作品自体の「弱さ」と解釈もできるが、同時に、単純にニューヨークを恐怖に陥れるというパニック映画とは一線を画した街に対する「愛」も感じさせるのである(ラストに登場する、ある野球球団に関する会話がその象徴ではないか!)。
多くの映画ファンが知っているように、本作は「リメイク」作品である。
つまり、映画史上に残る、見事な幕切れを持つ名作「サブウェイ・パニック」(1974)と比較される運命にある訳だ。
僕自身がそうであったように、恐らく、オリジナル版を知る映画ファンにとってこの映画は「凡作」であると評価するに違いない。
だからこそ、僕は「サブウェイ・パニック」を見た事がない観客の反応が知りたいと願う。
それはリメイクとしてオリジナル版には負けているけれど、演出面や台詞の応酬、演技合戦等、本作が映画としてそれほど悪い作品だとは思えないからだ。
脚本家としてのみならず「ペイバック」(1999)や「ROCK YOU! [ロック・ユー]」(2001)で監督としての手腕も発揮しているブライアン・ヘルゲランドの脚本は流石であるし、近年、個人的にはハズレ作品が無く、兄リドリーよりも面白い作品の多くなったトニー・スコットのシャープな演出は本作でも冴えている。
犯人の極悪さの対比として「負」の要素を盛り込んだデンゼル・ワシントンの役柄は秀逸で、そのことがまた観客の倫理観を微妙に麻痺させているのだ。
劇中の「日本」の役割や「ウォルター」という名前、デンゼル・ワシントンの服装など、リメイクとしてオリジナル版へのオマージュが要所要所に見え隠れするのも映画ファンの心をくすぐるが、無駄に多くの命が失われる点において、頭脳戦を装いつつもやはり「芸」がないと思わせてしまうのが痛恨。
魅力的な密室劇に仕立てられる設定でありながら脇役の描き方が雑であるとか、ウェブ映像のからくりの使い方が放りっぱなしだとか、穴がありまくりの展開ではあるが、全ては「なぜヘリコプターを使わないのか?」という(間抜けな)台詞にも集約されている(事故を起こすのは何なのか?)。
本作は鉄道におけるパニックを描きながら、結局は鉄道の利便性と安全性を説き、とどのつまり、大いにニューヨーク地下鉄の広告塔となっているのである。
※こちらもご参照下さい → 過去記事「サブウェイ・パニック」
2009年05月22日
映画館大賞
第611回
邦画市場は活況、と報じられている昨今。
世間では「邦画バブル」という言葉が広まり、ちょっとした映画ファンにとって(映画興行にそれほど興味がなくとも)「日本映画が元気なんだよ」という事の代名詞となっている。
ところが、現状はそんな楽観できるような状態にない。
何せ「バブル」である、とどのつまりは「弾ける」という末路が待っているのは言う由もがな。
ここ数年、確かに邦画のヒット作が以前に比べて多くなった、と同時に、邦画の制作本数は異常なくらい増加していた。
それは「儲かっている」からだと思いがちだが、実はそうではない。
難しい話を抜きには語れない故、ざっくり説明すると・・・2008年に公開された邦画は約400本。
それに対してスクリーン数(映画館数ではない)は約3000。
さらに洋画の上映もあるわけだから、単純に割り算して都道府県の数と年間週を考えれば劇場数が足りないのは自ずと理解できるはず。
例えば「崖の上のポニョ」(2008)のように高収入の見込める全国公開作ともなると、全国数百館の劇場が同時に同じ作品を上映するという現象が起こる。
当然、そこにインディペンデント系の作品が入り込む余地などあろうはずもない。
裏話をすれば、IMAGICA(映画の現像最大手)に持ち込まれる年間の作品数が、上映された映画の作品の数を上回っていたという時期があった。
つまり、作品として仕上げ、フィルムに現像もされ、あとは劇場に流すだけなのに、その上映できる映画館がなく(それは作品の質どうこうでないのは、某大河ドラマ主演女優の出演作が、同じ理由で長く陽の目を見なかった事が全てを物語っている)、多くの作品がお蔵入りしているのだ。
「邦画バブル」であると思わせる所以は、単純にヒット作が目立っているからだけで、大半の作品は制作費を回収できないという状態に陥っているのだ。
2008年の全邦画の興行収入合計は約1150億円。
一方、2008年の邦画TOP30の興行収入合計は約800億円。
お判りだろうか?
大ヒットしている映画がある一方で、多くの映画(つまり残りの約370本)で約350億円の収入を奪い合っているのだ(因みに30位の「隠し砦の三悪人 THE LAST PRINCESS」の興行収入は約9億3千万円なので、単純に370本では割り算出来ない事情もある)。
映画の制作費を考えれば、ほとんどの映画が「赤字」であることが頷けるはず(もちろんDVDやテレビ放映の二次使用売り上げがあるのだが、長くなるのでそれはまたの機会に)。
だが、そんな実情を知らない人々が、ここ数年、邦画の活況を信じて、邦画に投資してきた。
映画は、撮影から完成、上映まで、おおよそ1年以上はかかるもの。
興行の結果を経て、これまで投資してきた人々が、そろそろ、その「幻想」に気付き始めてきたのである。
それを証拠に、今、映画の現場は「バブル」が弾けて仕事にありつけない人で溢れている。
制作本数が激減しているのだ。
世の中が不況、不況で、単純に就職することさえ難しい時代なのだから、当然と言えば当然なのだが・・・。
実は2008年の邦画興行収入ベスト10のうち、2位「花より男子ファイナル」、3位「容疑者Xの献身」、4位「劇場版ポケットモンスター ダイヤモンド&パール ギラティナと氷空の花束シェイミ」、5位「相棒−劇場版−」、8位「映画ドラえもん のび太と緑の巨人伝」と、5本がテレビ番組関連作品。
もちろん観客が喜んで映画館に足を運んでいる事実を、映画ファンとして揶揄するつもりはないが、どうもTVドラマやTVアニメの力を借りているだけで、純粋に「映画」を見に来てくれているのかという点においては疑問を感じてしまうのだ。
しかし憂う事ばかりではない。
作品によりけりはあるけれども、確かに邦画のレベルは以前に比べて平均的に高くなったように見受けられる。
それは技術的なことだけでなく、公開作品が多い事で、これまで映画化には向いていないと思われ敬遠されてきた内容の作品が映画化されたから、という点も指摘できる。
例えばアカデミー外国語映画賞を受賞した「おくりびと」(2008)などはその好例といえ、10年前ならとても映画化される類の作品ではなかったと誰もが思うはず。
「数撃ちゃ当たる」ではないが、内容のバリエーションが増えたことで、邦画自体が面白くなったのも事実。
しかし残念なことに、その傑作・佳作の多くは人々の目に触れることなく、一部の映画ファンの間で評価されるに留まっている。
そこで(いつもながら前置きが長くなったが)、映画館大賞である。
本屋の店員さんたちが、既存の文学賞に頼るのではなく、自分たちが本当に「売りたい」と思う本に賞を与えて書籍の売り上げを活性化させた「本屋大賞」に倣い、日本全国のシネコンではない独立系映画館100館のスタッフが「映画館ごとのその年のベスト10」選んで集計したものが、今年始まった「映画館大賞」である。
参考までに今回発表されたベスト10を挙げると・・・
1位「ダークナイト」(2008・米)
2位「ぐるりのこと」(2008・日本)
3位「おくりびと」(2008・日本)
4位「歩いても、歩いても」(2008・日本)
5位「トウキョウソナタ」(2008・日・蘭・香)
6位「イントゥ・ザ・ワイルド」(2007・米)
7位「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」(2008・日本)
8位「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」(2007・米)
9位「ノーカントリー」(2007・米)
10位「崖の上のポニョ」(2008・日本)
という(意見は分かれるだろうが)映画ファンとして順当と思える結果。
そしてこれらの作品が、本日より東京は渋谷のユーロスペースでトークゲストを交えて29日まで上映されます。
詳しくは → http://eigakantaisho.com/event.html
「映画館大賞」が伝えるもの。
それは要するに、映画館という興行の現場に身を置く人達は現状に危機感を持っている、という事なのだ。
観客に触れる「映画館」の側から「現状を変えてゆきたい」という想いは痛いほど伝わる。
しかし、「キネマ旬報5月上旬号」(146p)で槍玉に挙げられているように、「映画館大賞」にはいくつかの問題点が存在する。
ある意味「生モノ」である映画は、先述の「二次使用」によっても利益を生み出すという特殊な性格を持っている。
つまり、映画が公開された後に授けられた賞が、果たして「観客動員」という映画館の活性に繋がるか否かが定かではない、という点に議論があるのだ。
さらに、ただでさえスクリーン数が足りない状況で、経営の苦しい独立系映画館がリバイバル上映のような事をすべきか否か、という議論(そこには、無論「スクリーン体験」を提唱しながらも、既にDVDが発売されてしまっている作品が大半という問題も横たわっている)。
今回の上映もそれを反映してか、渋谷のユーロスペースのみでの上映に留まっている。
が、あえて個人的見解を申せば「現状を憂い、とりあえずは現状脱却のために何かを始める事に意味がある」と世間の揶揄に反論したい。
問題点を理解しつつ、年々、賞の精度を上げてゆく、そこに社会的な接点を求めて観客との距離を縮めてゆく。
そういう意味で、映画館側からのアプローチに対して僕は大いに期待しているのだ。
何よりも「映画館大賞」の1位は、「まつさんの2008年ベスト10」の1位と同じ「ダークナイト」(2008)。
全米で「スターウォーズ」(1977)を抜いて歴代2位の興行成績を残したにもかかわらず、日本では惨敗の1作。
内容云々の素晴らしさは過去記事(→「ダークナイト」)を読んでいただくとして、IMAXで撮影された場面は、やはり大きなスクリーンで楽しみたいもの。
また、他作品も黒沢清監督、是枝裕和監督、リリーフランキー氏、など作品にゆかりのある方々のトークが間近で聞けるのが魅力。
近隣の方々は、映画界活性のため、ぜひぜひ足をお運びあそばせ。
※「映画館大賞」について →公式HP http://eigakantaisho.com/index.html
邦画市場は活況、と報じられている昨今。
世間では「邦画バブル」という言葉が広まり、ちょっとした映画ファンにとって(映画興行にそれほど興味がなくとも)「日本映画が元気なんだよ」という事の代名詞となっている。
ところが、現状はそんな楽観できるような状態にない。
何せ「バブル」である、とどのつまりは「弾ける」という末路が待っているのは言う由もがな。
ここ数年、確かに邦画のヒット作が以前に比べて多くなった、と同時に、邦画の制作本数は異常なくらい増加していた。
それは「儲かっている」からだと思いがちだが、実はそうではない。
難しい話を抜きには語れない故、ざっくり説明すると・・・2008年に公開された邦画は約400本。
それに対してスクリーン数(映画館数ではない)は約3000。
さらに洋画の上映もあるわけだから、単純に割り算して都道府県の数と年間週を考えれば劇場数が足りないのは自ずと理解できるはず。
例えば「崖の上のポニョ」(2008)のように高収入の見込める全国公開作ともなると、全国数百館の劇場が同時に同じ作品を上映するという現象が起こる。
当然、そこにインディペンデント系の作品が入り込む余地などあろうはずもない。
裏話をすれば、IMAGICA(映画の現像最大手)に持ち込まれる年間の作品数が、上映された映画の作品の数を上回っていたという時期があった。
つまり、作品として仕上げ、フィルムに現像もされ、あとは劇場に流すだけなのに、その上映できる映画館がなく(それは作品の質どうこうでないのは、某大河ドラマ主演女優の出演作が、同じ理由で長く陽の目を見なかった事が全てを物語っている)、多くの作品がお蔵入りしているのだ。
「邦画バブル」であると思わせる所以は、単純にヒット作が目立っているからだけで、大半の作品は制作費を回収できないという状態に陥っているのだ。
2008年の全邦画の興行収入合計は約1150億円。
一方、2008年の邦画TOP30の興行収入合計は約800億円。
お判りだろうか?
大ヒットしている映画がある一方で、多くの映画(つまり残りの約370本)で約350億円の収入を奪い合っているのだ(因みに30位の「隠し砦の三悪人 THE LAST PRINCESS」の興行収入は約9億3千万円なので、単純に370本では割り算出来ない事情もある)。
映画の制作費を考えれば、ほとんどの映画が「赤字」であることが頷けるはず(もちろんDVDやテレビ放映の二次使用売り上げがあるのだが、長くなるのでそれはまたの機会に)。
だが、そんな実情を知らない人々が、ここ数年、邦画の活況を信じて、邦画に投資してきた。
映画は、撮影から完成、上映まで、おおよそ1年以上はかかるもの。
興行の結果を経て、これまで投資してきた人々が、そろそろ、その「幻想」に気付き始めてきたのである。
それを証拠に、今、映画の現場は「バブル」が弾けて仕事にありつけない人で溢れている。
制作本数が激減しているのだ。
世の中が不況、不況で、単純に就職することさえ難しい時代なのだから、当然と言えば当然なのだが・・・。
実は2008年の邦画興行収入ベスト10のうち、2位「花より男子ファイナル」、3位「容疑者Xの献身」、4位「劇場版ポケットモンスター ダイヤモンド&パール ギラティナと氷空の花束シェイミ」、5位「相棒−劇場版−」、8位「映画ドラえもん のび太と緑の巨人伝」と、5本がテレビ番組関連作品。
もちろん観客が喜んで映画館に足を運んでいる事実を、映画ファンとして揶揄するつもりはないが、どうもTVドラマやTVアニメの力を借りているだけで、純粋に「映画」を見に来てくれているのかという点においては疑問を感じてしまうのだ。
しかし憂う事ばかりではない。
作品によりけりはあるけれども、確かに邦画のレベルは以前に比べて平均的に高くなったように見受けられる。
それは技術的なことだけでなく、公開作品が多い事で、これまで映画化には向いていないと思われ敬遠されてきた内容の作品が映画化されたから、という点も指摘できる。
例えばアカデミー外国語映画賞を受賞した「おくりびと」(2008)などはその好例といえ、10年前ならとても映画化される類の作品ではなかったと誰もが思うはず。
「数撃ちゃ当たる」ではないが、内容のバリエーションが増えたことで、邦画自体が面白くなったのも事実。
しかし残念なことに、その傑作・佳作の多くは人々の目に触れることなく、一部の映画ファンの間で評価されるに留まっている。
そこで(いつもながら前置きが長くなったが)、映画館大賞である。
本屋の店員さんたちが、既存の文学賞に頼るのではなく、自分たちが本当に「売りたい」と思う本に賞を与えて書籍の売り上げを活性化させた「本屋大賞」に倣い、日本全国のシネコンではない独立系映画館100館のスタッフが「映画館ごとのその年のベスト10」選んで集計したものが、今年始まった「映画館大賞」である。
参考までに今回発表されたベスト10を挙げると・・・
1位「ダークナイト」(2008・米)
2位「ぐるりのこと」(2008・日本)
3位「おくりびと」(2008・日本)
4位「歩いても、歩いても」(2008・日本)
5位「トウキョウソナタ」(2008・日・蘭・香)
6位「イントゥ・ザ・ワイルド」(2007・米)
7位「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」(2008・日本)
8位「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」(2007・米)
9位「ノーカントリー」(2007・米)
10位「崖の上のポニョ」(2008・日本)
という(意見は分かれるだろうが)映画ファンとして順当と思える結果。
そしてこれらの作品が、本日より東京は渋谷のユーロスペースでトークゲストを交えて29日まで上映されます。
詳しくは → http://eigakantaisho.com/event.html
「映画館大賞」が伝えるもの。
それは要するに、映画館という興行の現場に身を置く人達は現状に危機感を持っている、という事なのだ。
観客に触れる「映画館」の側から「現状を変えてゆきたい」という想いは痛いほど伝わる。
しかし、「キネマ旬報5月上旬号」(146p)で槍玉に挙げられているように、「映画館大賞」にはいくつかの問題点が存在する。
ある意味「生モノ」である映画は、先述の「二次使用」によっても利益を生み出すという特殊な性格を持っている。
つまり、映画が公開された後に授けられた賞が、果たして「観客動員」という映画館の活性に繋がるか否かが定かではない、という点に議論があるのだ。
さらに、ただでさえスクリーン数が足りない状況で、経営の苦しい独立系映画館がリバイバル上映のような事をすべきか否か、という議論(そこには、無論「スクリーン体験」を提唱しながらも、既にDVDが発売されてしまっている作品が大半という問題も横たわっている)。
今回の上映もそれを反映してか、渋谷のユーロスペースのみでの上映に留まっている。
が、あえて個人的見解を申せば「現状を憂い、とりあえずは現状脱却のために何かを始める事に意味がある」と世間の揶揄に反論したい。
問題点を理解しつつ、年々、賞の精度を上げてゆく、そこに社会的な接点を求めて観客との距離を縮めてゆく。
そういう意味で、映画館側からのアプローチに対して僕は大いに期待しているのだ。
何よりも「映画館大賞」の1位は、「まつさんの2008年ベスト10」の1位と同じ「ダークナイト」(2008)。
全米で「スターウォーズ」(1977)を抜いて歴代2位の興行成績を残したにもかかわらず、日本では惨敗の1作。
内容云々の素晴らしさは過去記事(→「ダークナイト」)を読んでいただくとして、IMAXで撮影された場面は、やはり大きなスクリーンで楽しみたいもの。
また、他作品も黒沢清監督、是枝裕和監督、リリーフランキー氏、など作品にゆかりのある方々のトークが間近で聞けるのが魅力。
近隣の方々は、映画界活性のため、ぜひぜひ足をお運びあそばせ。
※「映画館大賞」について →公式HP http://eigakantaisho.com/index.html
2009年02月19日
まつさんの2008映画ベスト10 【邦画編】
第610回
まつさんです。
かなりブランクがありましたが、前回に引き続き今回は「2008年映画ベスト10」の邦画をご紹介します。
ベスト10は昨年劇場で鑑賞した邦画100本から選出。基本的に2008年公開作品ですが、単館ロードショー作品に関しては公開時期が全国各地でズレるため、一部2008年公開作品でないと思われる作品もありますがご了承下さい。
【2008年ベスト10 邦画編】
1位 PASSION
日本の学生映画としては初めて東京フィルメックスで上映された本作。そんな前置きが愚鈍に思えるほど、映画としての完成度と新しい波を感じさせる。かつてのトレンディドラマのような設定における会話劇だけで、人間の本質を抉り出す緊張感は随一。監督の濱口竜介は確実に次世代の映画作家の代表となる事に異論はあるまい。
2位 トウキョウソナタ
黒沢清監督初の家族劇と思わせながら、実は現実社会の怖さを描いたホラーでもある本作は彼でないと描けない、また今の黒沢清でないと描けなかったと言える。残忍な事件の多発する昨今、家の外だけでなくその内側さえも安全ではないという現実の例えが、テロを主とした戦火にある諸外国で評価される所以にも思える。
3位 うた魂♪
とてつもなくテンポが悪く、演出と演技が時折噛み合わず、コメディとしては及第点レベルではあるが、尾崎豊やモンゴル800だけでなくエノケンまでも魅力的に歌い上げる劇中歌の数々は、「音楽」の普遍性と素晴らしさを再認識させてくれる。その歌声(合唱)だけで、ラスト爽快な気分にさせてくれるのは何事にも変え難い。
4位 百万円と苦虫女
後半の恋愛物語になると途端に面白くなくなる本作だが、ラストの幕切れの切なさとそのセンスは近年の邦画で稀に見る出来。蒼井優という女優ありきの企画というプレッシャーに負けない彼女の演技力にも舌を巻く。蛇足ではあるが、本作の「裏版」とも言えるWOWOW制作の「四つの嘘」におけるタナダユキ監督版の前日談は「百万円と苦虫女」以上に彼女の才能を感じさせるものであった。
5位 パコと魔法の絵本
中島哲也ワールド全開のやりたい放題にも係わらず、破綻することなくエンタテインメント性と作家性を両立させる怒涛の映像表現が凄まじい。CMばりに徹底した作りこんだ映像の洪水は、その手間暇を考えただけでも気が遠くなる。が、おかしな物語と登場人物を前面に出しつつ、実は人間の持つ「優しさ」を真摯に描き、監督自身の「照れ」とシンクロしているのがミソなのである。
6位 アフタースクール
騙されるぞ、と身構えながら、結局、騙されてしまう本作。どんでん返しのバリエーションが出尽くした昨今、それを売りにするのは至難の業だが、それをやってのけた事を評価しつつ、それだけを今後売りにするとシャマラン作品の類になってしまう危惧もある。大泉洋、堺雅人、佐々木蔵之介と旬先取りのキャスティングもまた勝利の証である。
7位 きみの友だち
地方でロケ、小規模の制作、それでも良い映画は出来るという見本のような作品。生きてゆくことは辛い、でも諦めてはいけない。そんな単純なことが重圧になる若者に「そんなに悩まなくていいんだよ」と語りかける重松清の小説群は、殺伐とした近代日本において映画企画の宝庫である。
8位 地球でたったふたり
「萌えるヤクザ映画」ともいえる本作。絶望と暴力に満ちた設定ながら、希望を感じさせる微かな優しさが心洗わせる救いとなり、現代のファンタジーとして見れば主人公の美少女二人にこの上なく癒される。格差社会と言われる今だからこそ生まれ得たアイドル「的」映画の変化球である。
9位 クライマーズ・ハイ
NHKドラマ版(佐藤浩市主演)と時期を経ずして制作されたにも係わらず、双頭の出来となった本作は、社会派群像劇を得意としてきた原田眞人監督の良さが引き出せていたように見える。しかし、それを支えているのが、常時複数のカメラで撮られ続ける有名無名の俳優陣であることも忘れてはならないし(現在公開中の群像劇「感染列島」と比較すれば自ずと理解できるはず)、劇中の悲劇もまた風化させるべからず、である。
10位 ブタがいた教室
ドキュメント作品として既に成立している作品をわざわざフィクションとして描く理由があると思えなかったが、本作を見れば「手法」によって、それは限りなく同等に近い作品に成りえる事を証明した。ドキュメントの手法をそのまま劇映画に取り入れる、そこに「子役」という要素が加わった事で目新しくない手法もまた進化を遂げているのである。
次点 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程
映画を作りたいという監督の情熱、それだけがこの映画の支えである。その情熱が陳腐なセットも安上がりな衣装も多くの(一般観客にとって)無名俳優達も凌駕する「熱意」となってスクリーンから滲み出てくる。何より「複数の立場」を描く事で、かつての「時代」をステレオタイプに描くことなく、疑似ドキュメントのフリをしながら事件の全貌を俯瞰して見せた手法の見事さにも尽きるのである。
「歩いても、歩いても」、「ぐるりのこと」、「パークアンドラブホテル」、「接吻」、「蛇にピアス」、「おくりびと」、「ガチ★ボーイ」などなど選漏れが惜しまれるほど邦画は本当に豊作だったが、邦画バブルも弾け、徐々に野心的な企画が映画化されなくなってきているのが心配。
個人的には「西の魔女が死んだ」はランク外ではあるが、サチ・パーカーの好演とともに泣ける人生訓的台詞の多い佳作であった。
また「PASSION」だけでなく瀬田なつき監督の「彼方からの手紙」など今年で開校5年を迎える東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻による作品群は、(作品ごとの優劣はあれど)新たなムーブメントの始まりを感じさせ、将来が期待できる事も手前味噌ながら一筆付け加えたい。
以上の順位は、あくまでも「個人的趣味」によるもので、作品そのものの評価(各記事リンクの★取りを参照下さい)によって順位付けしたものではないので、ご了承下さい。
最後にこれまた恒例の「2009年まつさんの注目作」20本一覧、以下公開予定日時順です。
★「ハルフウェイ」・・・岩井俊二プロデュースによる北川悦吏子初監督作品(2/21)。
★「ドラゴンボール エボルーション」・・・どちらかというとシリアス路線を期待したい(3/10)。
★「ワルキューレ」・・・紆余曲折の後、やっと公開されるトム・クルーズ最新「主演」作(3/20)。
★「トワイライト〜初恋〜」・・・青春吸血鬼モノに佳作が多いジンクスの踏襲となるか?(4/4)。
★「レインフォール/雨の牙」・・・ゲイリー・オールドマンが邦画に出演、良い時代になったものです(4月)。
★「GOEMON」・・・映像だけでなく、今回は物語も期待したい紀里谷和明監督最新作(5/1)。
★「鈍獣」・・・舞台版は「超」傑作だった宮藤官九郎脚本作品、キャストも個性的(5月)。
★「ターミネーター4」・・・問答無用、シュワちゃん不在でも成立する事を証明いたせ!(6/13)。
★「剱岳 点の記」・・・近年稀に見る長期ロケ、CGに頼らない実景主義、凄くないわけがない!(6/20)。
★「ウルトラミラクルラブストーリー」・・・「ジャーマン+雨」の横浜聡子監督メジャーデビュー作は松山ケンイチ主演(6月)。
★「ガマの油」・・・役所広司初監督作品、撮影監督は我が栗田豊通師匠!スーパー16での技術的挑戦にも注目(6月)。
★「ハゲタカ」・・・NHKドラマ版と同じキャストで映画化、傑作ドラマの焼直しに果たして意義はあるのか?(6月)。
★「スタートレック」・・・アメリカ版予告編のトリッキーな作りに大いに期待させるリニューアル最新シリーズ(7月)。
★「おと・な・り」・・・「演技」が純粋に見たいと思わせる、麻生久美子、岡田准一主演作(初夏)。
★「トランスフォーマー リベンジ」・・・これ以上進化しても人間の「目」が動きについて行けない特撮大祭の第二弾(夏)。
★「MW‐ムウ‐」・・・手塚治虫生誕80周年にして、映画原作ネタ宝庫解禁か?(夏)。
★「イングロリアス・バスターズ」・・・クエンティン・タランティーノ最新作はブラッド・ピット主演、イタリアB級アクション「地獄のバスターズ」のリメイク!(秋)。
★「カムイ外伝」・・・「蟹工船」にしろ、「カムイ」にしろ、時代は繰り返す・・・悪い意味で(秋)。
★「サブウェイ・パニック」・・・個人的に大好きな傑作70年代アクションのリメイクはトニー・スコットとデンゼル・ワシントンのゴールデンコンビ再び!(秋)。
★「アバター」・・・映画は果たして3D主流の時代となるのか?その試金石的大作はジェームズ・キャメロン久々の監督作(冬)。
そして最注目は、3月20日公開の「フィッシュストーリー」を皮切りに、「重力ピエロ」(5/23)、「ラッシュライフ」(初夏)という伊坂幸太郎原作映画化作品三連発!
今年もあまり更新出来ないかとは思いますが、これからもどうぞよろしく。
※「2008年映画ベスト10 洋画編」もご参照下さい。
まつさんです。
かなりブランクがありましたが、前回に引き続き今回は「2008年映画ベスト10」の邦画をご紹介します。
ベスト10は昨年劇場で鑑賞した邦画100本から選出。基本的に2008年公開作品ですが、単館ロードショー作品に関しては公開時期が全国各地でズレるため、一部2008年公開作品でないと思われる作品もありますがご了承下さい。
【2008年ベスト10 邦画編】
1位 PASSION
日本の学生映画としては初めて東京フィルメックスで上映された本作。そんな前置きが愚鈍に思えるほど、映画としての完成度と新しい波を感じさせる。かつてのトレンディドラマのような設定における会話劇だけで、人間の本質を抉り出す緊張感は随一。監督の濱口竜介は確実に次世代の映画作家の代表となる事に異論はあるまい。
2位 トウキョウソナタ
黒沢清監督初の家族劇と思わせながら、実は現実社会の怖さを描いたホラーでもある本作は彼でないと描けない、また今の黒沢清でないと描けなかったと言える。残忍な事件の多発する昨今、家の外だけでなくその内側さえも安全ではないという現実の例えが、テロを主とした戦火にある諸外国で評価される所以にも思える。
3位 うた魂♪
とてつもなくテンポが悪く、演出と演技が時折噛み合わず、コメディとしては及第点レベルではあるが、尾崎豊やモンゴル800だけでなくエノケンまでも魅力的に歌い上げる劇中歌の数々は、「音楽」の普遍性と素晴らしさを再認識させてくれる。その歌声(合唱)だけで、ラスト爽快な気分にさせてくれるのは何事にも変え難い。
4位 百万円と苦虫女
後半の恋愛物語になると途端に面白くなくなる本作だが、ラストの幕切れの切なさとそのセンスは近年の邦画で稀に見る出来。蒼井優という女優ありきの企画というプレッシャーに負けない彼女の演技力にも舌を巻く。蛇足ではあるが、本作の「裏版」とも言えるWOWOW制作の「四つの嘘」におけるタナダユキ監督版の前日談は「百万円と苦虫女」以上に彼女の才能を感じさせるものであった。
5位 パコと魔法の絵本
中島哲也ワールド全開のやりたい放題にも係わらず、破綻することなくエンタテインメント性と作家性を両立させる怒涛の映像表現が凄まじい。CMばりに徹底した作りこんだ映像の洪水は、その手間暇を考えただけでも気が遠くなる。が、おかしな物語と登場人物を前面に出しつつ、実は人間の持つ「優しさ」を真摯に描き、監督自身の「照れ」とシンクロしているのがミソなのである。
6位 アフタースクール
騙されるぞ、と身構えながら、結局、騙されてしまう本作。どんでん返しのバリエーションが出尽くした昨今、それを売りにするのは至難の業だが、それをやってのけた事を評価しつつ、それだけを今後売りにするとシャマラン作品の類になってしまう危惧もある。大泉洋、堺雅人、佐々木蔵之介と旬先取りのキャスティングもまた勝利の証である。
7位 きみの友だち
地方でロケ、小規模の制作、それでも良い映画は出来るという見本のような作品。生きてゆくことは辛い、でも諦めてはいけない。そんな単純なことが重圧になる若者に「そんなに悩まなくていいんだよ」と語りかける重松清の小説群は、殺伐とした近代日本において映画企画の宝庫である。
8位 地球でたったふたり
「萌えるヤクザ映画」ともいえる本作。絶望と暴力に満ちた設定ながら、希望を感じさせる微かな優しさが心洗わせる救いとなり、現代のファンタジーとして見れば主人公の美少女二人にこの上なく癒される。格差社会と言われる今だからこそ生まれ得たアイドル「的」映画の変化球である。
9位 クライマーズ・ハイ
NHKドラマ版(佐藤浩市主演)と時期を経ずして制作されたにも係わらず、双頭の出来となった本作は、社会派群像劇を得意としてきた原田眞人監督の良さが引き出せていたように見える。しかし、それを支えているのが、常時複数のカメラで撮られ続ける有名無名の俳優陣であることも忘れてはならないし(現在公開中の群像劇「感染列島」と比較すれば自ずと理解できるはず)、劇中の悲劇もまた風化させるべからず、である。
10位 ブタがいた教室
ドキュメント作品として既に成立している作品をわざわざフィクションとして描く理由があると思えなかったが、本作を見れば「手法」によって、それは限りなく同等に近い作品に成りえる事を証明した。ドキュメントの手法をそのまま劇映画に取り入れる、そこに「子役」という要素が加わった事で目新しくない手法もまた進化を遂げているのである。
次点 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程
映画を作りたいという監督の情熱、それだけがこの映画の支えである。その情熱が陳腐なセットも安上がりな衣装も多くの(一般観客にとって)無名俳優達も凌駕する「熱意」となってスクリーンから滲み出てくる。何より「複数の立場」を描く事で、かつての「時代」をステレオタイプに描くことなく、疑似ドキュメントのフリをしながら事件の全貌を俯瞰して見せた手法の見事さにも尽きるのである。
「歩いても、歩いても」、「ぐるりのこと」、「パークアンドラブホテル」、「接吻」、「蛇にピアス」、「おくりびと」、「ガチ★ボーイ」などなど選漏れが惜しまれるほど邦画は本当に豊作だったが、邦画バブルも弾け、徐々に野心的な企画が映画化されなくなってきているのが心配。
個人的には「西の魔女が死んだ」はランク外ではあるが、サチ・パーカーの好演とともに泣ける人生訓的台詞の多い佳作であった。
また「PASSION」だけでなく瀬田なつき監督の「彼方からの手紙」など今年で開校5年を迎える東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻による作品群は、(作品ごとの優劣はあれど)新たなムーブメントの始まりを感じさせ、将来が期待できる事も手前味噌ながら一筆付け加えたい。
以上の順位は、あくまでも「個人的趣味」によるもので、作品そのものの評価(各記事リンクの★取りを参照下さい)によって順位付けしたものではないので、ご了承下さい。
最後にこれまた恒例の「2009年まつさんの注目作」20本一覧、以下公開予定日時順です。
★「ハルフウェイ」・・・岩井俊二プロデュースによる北川悦吏子初監督作品(2/21)。
★「ドラゴンボール エボルーション」・・・どちらかというとシリアス路線を期待したい(3/10)。
★「ワルキューレ」・・・紆余曲折の後、やっと公開されるトム・クルーズ最新「主演」作(3/20)。
★「トワイライト〜初恋〜」・・・青春吸血鬼モノに佳作が多いジンクスの踏襲となるか?(4/4)。
★「レインフォール/雨の牙」・・・ゲイリー・オールドマンが邦画に出演、良い時代になったものです(4月)。
★「GOEMON」・・・映像だけでなく、今回は物語も期待したい紀里谷和明監督最新作(5/1)。
★「鈍獣」・・・舞台版は「超」傑作だった宮藤官九郎脚本作品、キャストも個性的(5月)。
★「ターミネーター4」・・・問答無用、シュワちゃん不在でも成立する事を証明いたせ!(6/13)。
★「剱岳 点の記」・・・近年稀に見る長期ロケ、CGに頼らない実景主義、凄くないわけがない!(6/20)。
★「ウルトラミラクルラブストーリー」・・・「ジャーマン+雨」の横浜聡子監督メジャーデビュー作は松山ケンイチ主演(6月)。
★「ガマの油」・・・役所広司初監督作品、撮影監督は我が栗田豊通師匠!スーパー16での技術的挑戦にも注目(6月)。
★「ハゲタカ」・・・NHKドラマ版と同じキャストで映画化、傑作ドラマの焼直しに果たして意義はあるのか?(6月)。
★「スタートレック」・・・アメリカ版予告編のトリッキーな作りに大いに期待させるリニューアル最新シリーズ(7月)。
★「おと・な・り」・・・「演技」が純粋に見たいと思わせる、麻生久美子、岡田准一主演作(初夏)。
★「トランスフォーマー リベンジ」・・・これ以上進化しても人間の「目」が動きについて行けない特撮大祭の第二弾(夏)。
★「MW‐ムウ‐」・・・手塚治虫生誕80周年にして、映画原作ネタ宝庫解禁か?(夏)。
★「イングロリアス・バスターズ」・・・クエンティン・タランティーノ最新作はブラッド・ピット主演、イタリアB級アクション「地獄のバスターズ」のリメイク!(秋)。
★「カムイ外伝」・・・「蟹工船」にしろ、「カムイ」にしろ、時代は繰り返す・・・悪い意味で(秋)。
★「サブウェイ・パニック」・・・個人的に大好きな傑作70年代アクションのリメイクはトニー・スコットとデンゼル・ワシントンのゴールデンコンビ再び!(秋)。
★「アバター」・・・映画は果たして3D主流の時代となるのか?その試金石的大作はジェームズ・キャメロン久々の監督作(冬)。
そして最注目は、3月20日公開の「フィッシュストーリー」を皮切りに、「重力ピエロ」(5/23)、「ラッシュライフ」(初夏)という伊坂幸太郎原作映画化作品三連発!
今年もあまり更新出来ないかとは思いますが、これからもどうぞよろしく。
※「2008年映画ベスト10 洋画編」もご参照下さい。
2009年01月08日
まつさんの2008映画ベスト10 【洋画編】
第609回
まつさんです。
あけましておめでとうございます。
相変わらずのご無沙汰ですが、元気に過しております。今年も突然更新されるであろう「まつさんの映画伝道師」を宜しくお願いいたします。
新年の初回は毎年恒例のベスト10を勝手に発表させて頂きます。個人的見解による選出ではございますが、ご興味あればお付き合い下さいませ。
2008年に劇場公開された作品から選出しておりますが、単館ロードショー作品に関しては公開時期が日本各地でズレるため、一部公開が2008年でないと思われる作品もあるかも知れませんがご了承下さい。
ちなみに2008年に劇場鑑賞した231本(洋画131本+邦画100本)から洋画・邦画のベスト10を選出。訳あって鑑賞本数が停滞している故、昨年同様にまつさん未見の傑作もあるかと思いますが、レビュー未掲載作品について皆様からの御指導等頂ければ幸いです。
【2008年ベスト10 洋画編】
1位 ダークナイト
全米で歴代2位の驚異的興行記録を打ち立てるも、日本では惨敗。その理由は様々だが、黒沢清の「トウキョウソナタ」(2008)同様、国民と国家の不均衡を「外」に理由付けしながらも、「内」=「一般家庭・市民」にこそ其を打ち破る力があるのだと説いている事で、この二作品が欧米の支持を得ている共通項に、日本における「平和ボケ」というキーワードを導き出せる点を見逃せない。
2位 ミスト
近年の「ハリウッド映画」としては類を見ない後味の悪さだが、人間の根源的暗部を抉り出している点でカタルシスに近いのがミソ。原作者スティーブン・キングも嫉妬したこの終幕の重さにしばらく席を立つ事ができなかったのは、延々と続くエンドロールのバックに微かに響き続ける本来「平和」を導き出すノイズによるものである事に異論はあるまい。
3位 ノー・カントリー
正体のない「悪」を描く事は根拠がないだけに難しいし、それを演出する事も演じることも難しいのは言わずもがな。そこに湧き上がる不安や緊張を三つ巴の構成で描きつつ、その正体を解体することなく「何となくまとまる」全体像を作り上げた脚本と演出の見事さはアカデミー賞上等、と評価できる。勿論、ハビエル・バルデムの怪演は「ダークナイト」でヒース・レジャー演じたジョーカーと共に映画史に残るであろう。
4位 潜水服は蝶の夢を見る
出尽くした感のある映画表現において「まだまだやれる事がある」と実践してくれた監督の意気込みは、説明されることなく観客が主人公の病状を体感しながら同時進行で理解してゆける点において評価出来るだろう。ジガ・ヴェルドフの「カメラを持った男」(1929)のごとく、「カメラ」=「眼」という原点に着目した手法の数々は、映画製作の更なる可能性を感じさせつつ、過酷な病状にある主人公の可能性とシンクロさせているのが心憎い。
5位 アクロス・ザ・ユニバース
「まず、ビートルズありき」の映画である。歌詞を台詞に変換し、歌詞をビートルズが活躍した時代の歴史に変換し、歌詞がそれぞれの愛を語り、求愛する。映像の洪水は長編ミュージックビデオとも揶揄できるが、「ミュージカルを映像化する」というよりも「映像を紡いでミュージカルに仕上げる」という姿勢が、本作を「映画」であると思わせる所以である。
6位 イントゥ・ザ・ワイルド
いっけん最近はやりの「自分探し」モノのように思えるが、何を捨て、何を否定するのかという自己意識がはっきりしている点で、能天気な課題を提示しないのがいい。主人公の人生そのものを「自由社会」に例えて鑑賞すれば、自己努力と自己責任が「自由」には伴う事が自ずと判るはず。そういう意味で本作は「自分探し」の体をとったアンチ「自分探し」映画なのである。
7位 僕らのミライへ逆回転
DVDがブルーレイという規格に変わろうとしている時代に、あえて「ビデオテープ」を題材にしなければならなかったのは、磁気によって「消去」されるためだけではないのがミソ。「映画」というメディアを持ち歩けるようになった点でDVDとビデオは同じ性格を持っているが、原題「Be Kind Rewind」=「巻き戻し返却願います」が示す通り、実は人と人がソフトを通じて繋がりあう点で大きく異なるのだと示唆しており、真の映画ファンならラストの映画愛に涙せずにいられないだろう。
8位 ホット・ファズ −俺たちスーパーポリスメン!−
80年代ポリスアクション映画への愛情溢れる1本。それ即ち、近年のポリスアクション映画にはある種の「魅力」が失われているという事でもある。リアリティを追求する反面、映画だからこそつける「嘘」という演出が失われつつあるが、実はその「嘘」こそが映画自体を面白くさせ、物語の中だけのリアリティを生んでいたのだと本作鑑賞後改めて思い知らされるに至る。
9位 その土曜日、7時58分
80年代以降凡作が続いていた御歳84才となるシドニー・ルメット監督が見事復活!それだけで十分ではないか、と思わせる本作。時間軸を解体して全体像を明らかにしようとする演出は、近年けっして目新しくはないが、人間描写の見事さによって市井の人々の悪意と欲望を格調高く描き出しているのが見事。日本未公開に終っているヴィン・ディーゼル主演の法廷劇「Find Me Guilty」(2006)の日本公開を待望!
10位 マイ・ブルーベリー・ナイツ
アメリカに渡っても、クリストファー・ドイルが不在でも、ウォン・カーウァイはウォン・カーウァイであったと、良くも悪くも再確認。ライ・クーダーの音楽とも相性がよく、単純に香港での映画制作がアメリカで通用するか否かを課題に撮ってみた、と理解すれば、目くじら立てる程の作品ではない。個人的にはノラ・ジョーンズをキャスティングしたセンスだけで、もうお腹一杯なのである。
次点 ゼア・ウィル・ビー・ブラッド
「石油を掘る」=「どこにあるのか分からないものを探し当てる」ことを筆頭に、過去の物語でありながら様々な劇中アイテムが現代アメリカのメタファーとして機能しているのが素晴らしい。まるでドス黒い血液の如き石油の利権は、人間を迷走させ、神だけでなく人間さえも信じさせない不和には救いの欠片もないが、石油を掘る事を再現するために大金を次ぎ込むこんな「アメリカ映画」が登場し続ける限り「映画は死なない」と言い切れる。
相変わらずアメリカ映画(決して「ハリウッド映画」でない点がミソ)ばかりのラインナップですが・・・以上の順位は、あくまでも「個人的趣味」によるもので、作品そのものの評価(各記事リンクの★取りを参照下さい)によって順位付けしたものではないので、ご了承下さい。
※次回は「2008年映画ベスト10 邦画編」をお送りします。
まつさんです。
あけましておめでとうございます。
相変わらずのご無沙汰ですが、元気に過しております。今年も突然更新されるであろう「まつさんの映画伝道師」を宜しくお願いいたします。
新年の初回は毎年恒例のベスト10を勝手に発表させて頂きます。個人的見解による選出ではございますが、ご興味あればお付き合い下さいませ。
2008年に劇場公開された作品から選出しておりますが、単館ロードショー作品に関しては公開時期が日本各地でズレるため、一部公開が2008年でないと思われる作品もあるかも知れませんがご了承下さい。
ちなみに2008年に劇場鑑賞した231本(洋画131本+邦画100本)から洋画・邦画のベスト10を選出。訳あって鑑賞本数が停滞している故、昨年同様にまつさん未見の傑作もあるかと思いますが、レビュー未掲載作品について皆様からの御指導等頂ければ幸いです。
【2008年ベスト10 洋画編】
1位 ダークナイト
全米で歴代2位の驚異的興行記録を打ち立てるも、日本では惨敗。その理由は様々だが、黒沢清の「トウキョウソナタ」(2008)同様、国民と国家の不均衡を「外」に理由付けしながらも、「内」=「一般家庭・市民」にこそ其を打ち破る力があるのだと説いている事で、この二作品が欧米の支持を得ている共通項に、日本における「平和ボケ」というキーワードを導き出せる点を見逃せない。
2位 ミスト
近年の「ハリウッド映画」としては類を見ない後味の悪さだが、人間の根源的暗部を抉り出している点でカタルシスに近いのがミソ。原作者スティーブン・キングも嫉妬したこの終幕の重さにしばらく席を立つ事ができなかったのは、延々と続くエンドロールのバックに微かに響き続ける本来「平和」を導き出すノイズによるものである事に異論はあるまい。
3位 ノー・カントリー
正体のない「悪」を描く事は根拠がないだけに難しいし、それを演出する事も演じることも難しいのは言わずもがな。そこに湧き上がる不安や緊張を三つ巴の構成で描きつつ、その正体を解体することなく「何となくまとまる」全体像を作り上げた脚本と演出の見事さはアカデミー賞上等、と評価できる。勿論、ハビエル・バルデムの怪演は「ダークナイト」でヒース・レジャー演じたジョーカーと共に映画史に残るであろう。
4位 潜水服は蝶の夢を見る
出尽くした感のある映画表現において「まだまだやれる事がある」と実践してくれた監督の意気込みは、説明されることなく観客が主人公の病状を体感しながら同時進行で理解してゆける点において評価出来るだろう。ジガ・ヴェルドフの「カメラを持った男」(1929)のごとく、「カメラ」=「眼」という原点に着目した手法の数々は、映画製作の更なる可能性を感じさせつつ、過酷な病状にある主人公の可能性とシンクロさせているのが心憎い。
5位 アクロス・ザ・ユニバース
「まず、ビートルズありき」の映画である。歌詞を台詞に変換し、歌詞をビートルズが活躍した時代の歴史に変換し、歌詞がそれぞれの愛を語り、求愛する。映像の洪水は長編ミュージックビデオとも揶揄できるが、「ミュージカルを映像化する」というよりも「映像を紡いでミュージカルに仕上げる」という姿勢が、本作を「映画」であると思わせる所以である。
6位 イントゥ・ザ・ワイルド
いっけん最近はやりの「自分探し」モノのように思えるが、何を捨て、何を否定するのかという自己意識がはっきりしている点で、能天気な課題を提示しないのがいい。主人公の人生そのものを「自由社会」に例えて鑑賞すれば、自己努力と自己責任が「自由」には伴う事が自ずと判るはず。そういう意味で本作は「自分探し」の体をとったアンチ「自分探し」映画なのである。
7位 僕らのミライへ逆回転
DVDがブルーレイという規格に変わろうとしている時代に、あえて「ビデオテープ」を題材にしなければならなかったのは、磁気によって「消去」されるためだけではないのがミソ。「映画」というメディアを持ち歩けるようになった点でDVDとビデオは同じ性格を持っているが、原題「Be Kind Rewind」=「巻き戻し返却願います」が示す通り、実は人と人がソフトを通じて繋がりあう点で大きく異なるのだと示唆しており、真の映画ファンならラストの映画愛に涙せずにいられないだろう。
8位 ホット・ファズ −俺たちスーパーポリスメン!−
80年代ポリスアクション映画への愛情溢れる1本。それ即ち、近年のポリスアクション映画にはある種の「魅力」が失われているという事でもある。リアリティを追求する反面、映画だからこそつける「嘘」という演出が失われつつあるが、実はその「嘘」こそが映画自体を面白くさせ、物語の中だけのリアリティを生んでいたのだと本作鑑賞後改めて思い知らされるに至る。
9位 その土曜日、7時58分
80年代以降凡作が続いていた御歳84才となるシドニー・ルメット監督が見事復活!それだけで十分ではないか、と思わせる本作。時間軸を解体して全体像を明らかにしようとする演出は、近年けっして目新しくはないが、人間描写の見事さによって市井の人々の悪意と欲望を格調高く描き出しているのが見事。日本未公開に終っているヴィン・ディーゼル主演の法廷劇「Find Me Guilty」(2006)の日本公開を待望!
10位 マイ・ブルーベリー・ナイツ
アメリカに渡っても、クリストファー・ドイルが不在でも、ウォン・カーウァイはウォン・カーウァイであったと、良くも悪くも再確認。ライ・クーダーの音楽とも相性がよく、単純に香港での映画制作がアメリカで通用するか否かを課題に撮ってみた、と理解すれば、目くじら立てる程の作品ではない。個人的にはノラ・ジョーンズをキャスティングしたセンスだけで、もうお腹一杯なのである。
次点 ゼア・ウィル・ビー・ブラッド
「石油を掘る」=「どこにあるのか分からないものを探し当てる」ことを筆頭に、過去の物語でありながら様々な劇中アイテムが現代アメリカのメタファーとして機能しているのが素晴らしい。まるでドス黒い血液の如き石油の利権は、人間を迷走させ、神だけでなく人間さえも信じさせない不和には救いの欠片もないが、石油を掘る事を再現するために大金を次ぎ込むこんな「アメリカ映画」が登場し続ける限り「映画は死なない」と言い切れる。
相変わらずアメリカ映画(決して「ハリウッド映画」でない点がミソ)ばかりのラインナップですが・・・以上の順位は、あくまでも「個人的趣味」によるもので、作品そのものの評価(各記事リンクの★取りを参照下さい)によって順位付けしたものではないので、ご了承下さい。
※次回は「2008年映画ベスト10 邦画編」をお送りします。
2008年08月04日
ダークナイト
第607回
★★★★☆(劇場)
(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)
「同時に二つの事件が起こった場合、注意して取り扱わねばならない」
「ツインピークス」でカイル・マクラクラン扮するクーパー捜査官そう名言を吐いた。
バットマンシリーズの最新作「ダークナイト」には度々、二つ、またはそれ以上の事件が同時多発する。
そして劇中、様々な登場人物はそれぞれの「選択」を迫られる。
人生の岐路、それは二手に分かれた道の「右」へ行くのか「左」に行くのかと例えられるが、それになぞられる様に「選択」はそれぞれの人物にとって未来への重大な結果を生み出す。
連続する事件によって2時間半を飽きさせない本作の脚本は、単純でありがちなトリックでありながらも観客の先読みを不安にさせているのが見事で、「悪」のなんたるかを考察させた哲学的台詞を練り込んで、数あるアメリカンコミック映画化作品とは一線を画する作品に仕上がっている。
アーロン・エッカート扮するデント検事は劇中こう語る。
「夜明け前はいちばん暗い、しかし夜明けは必ずやってくる」
本作の原題「The Dark Knight」=「暗黒の騎士」は、つまり「Dark Night」=「暗黒の夜」であるとも理解できる。
夜が明ければ朝がやってくる、そこから想起させる「希望」が対義語としてメタファーになっているのだ。
映画冒頭、映像は街の全景が空撮で映し出される。
この映像によって本作の舞台となる「街」=「ゴッサムシティ」を見せているのだが、その「街」がこれまでのバットマンシリーズとは異なり「虚構ではない」という感覚を観客に植え付ける事に成功している。
本作におけるリアルな感覚、それはセットという作り物ではなく、ロケ撮影にこだわった賜物。
撮影場所が本物(リアル)だからこそ生まれる「リアルな感覚」は、これまで誰も試した事がなかった漫画的な世界観を凌駕する奇抜さを発揮し、身近な出来事のように「バットマン」を体感できる演出を可能にしたのである。
前作「バットマン ビギンズ」(2005)に続いて、本作も極力CGに頼らない、いわばCGで映像を作りこむのではなく、CGで映像に何かを足すという足し算的CGを試みている。
更にセットによる世界観の構築の多いアメコミ作品の中にあって前作以上にロケ撮影にこだわり、その撮影設計(場面ごとのカメラの選択、照明やフィルムの選択、DI等々)においてもリアルさを加速させ、同時に爆破やカーチェイスの数々においても「実写」へのこだわりを見せ、圧倒的な迫力を生んでいるのだ。
中国を悪者に描く傾向は近年のハリウッドの流行(はやり)だが、そのこともアメコミヒーローらしからぬ(特にティム・バートン版「バットマン」以来受け継がれた「架空性」を否定)リアルさの源泉となっていることが伺え、「香港」という実名もまたそれを後押しする。
また、ヒーロー中心ではなく市井の人々を描き、彼らの「選択」をも演出してみせている事で更なるドラマ性を生み出しているのも見事。
クリストファー・ノーラン監督の新生「バットマン」シリーズの真骨頂は「善悪の哲学」にある。
本作では混沌を生む容易さとその危険性を示唆し、それはまた法律で守られた国家(や国民)の不均衡を暗喩させ、搾取にとどまる現状が、実は混沌(カオス)を生む準備段階にある危うさをも示している。
それは、本作の中盤から「悪」への戦いが「攻撃」から「防衛」へと変化している事が如実に表し、守れば守るほど力を増し、悪意を増殖させるジョーカーという「悪」がそれを象徴している。
特筆すべきはこれが遺作となったヒース・レジャー扮する悪役ジョーカーの役作り。
本作における役作りの源泉が「バットマン」(1989)でジャック・ニコルソンが演じたジョーカーにあったと言えども、ヒース・レジャーの演じたジョーカーが映画史に残る「悪役」に成るであろう事に異論は無いだろう。
映画後半の鍵となるトゥー・フェイスの登場ひとつ取っても、トミー・リー・ジョーンズが演じた同じトゥー・フェイスの登場する過去作「バットマン フォーエヴァー」(1995)とは志が異なる事は一目瞭然。
脚本の素晴らしさは、レイチェル役のマギー・ギレンホール以外、ほぼ前作の主要キャストが揃っていることにも表れているが、前作に続いてハンス・ジマーとジェームス・ニュートン・ハワードというハリウッド音楽界の二大巨頭による贅沢な音楽は「ブラック・レイン」(1989)のスコアを思わせる重厚ぶりで、主要スタッフもまた前作通り。
加えて脇を演じたエリック・ロバーツやアンソニー・マイケル・ホールなど、80年代ハリウッド映画ファンには嬉しいキャスティングと巷で噂のエディソン・チャンのあまりにもエキストラ的な出演はご愛嬌。
何より本作が「続編」として素晴らしいのは、これまでの作品どころか前作「バットマン ビギンズ」を知らない観客、さらにはバットマン自体を知らない観客でも独立して鑑賞可能な作品に仕上げている点だ。
その自信は、邦題にさえ「バットマン」の記述が見つからない点にも言及出来る。
「ダークナイト」は壮絶な銀行強盗場面で幕を開ける。
そこには漫画的要素よりも犯罪映画的要素が色濃く出ているのはご覧の通り。
つまり、本作は映画冒頭から「これは犯罪映画ですよ」と映画全体を告知しているにほかならない。
それはまた、映画の結末、ヒーローであるはずのバットマンの行く末がハリウッド映画の脈々たる歴史を築いた「犯罪映画」のそれと符合させるのである。
ジョーカーの起す犯罪のリアルさと怖さは「金目当てでなく、犯罪そのものを楽しんでいる」ことにある。
恐るべき事に近年日本でも「犯罪そのものを楽しんでいる」と思わしき凶悪犯罪が起こり、被告自身も平然とそれを匂わす証言を行っている。
前作で「復讐は正義でない」と学んだ「バットマン」=「ブルース・ウェイン」同様の精神を持つ正義の味方が必要なのは、本作が驚異的なヒットとなっているアメリカの「対岸の火事」なのではなく、我々自身の社会なのかも知れない。
が、本作の終盤に示される「希望」のありかが、正義の味方ではなく、大衆にあることこそ、現在の社会構造の欠陥の何であるかを「ダークナイト」は教えてくれるのである。
※前作のレビューはこちら → 「バットマン ビギンズ」(2005)
★★★★☆(劇場)
(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)
「同時に二つの事件が起こった場合、注意して取り扱わねばならない」
「ツインピークス」でカイル・マクラクラン扮するクーパー捜査官そう名言を吐いた。
バットマンシリーズの最新作「ダークナイト」には度々、二つ、またはそれ以上の事件が同時多発する。
そして劇中、様々な登場人物はそれぞれの「選択」を迫られる。
人生の岐路、それは二手に分かれた道の「右」へ行くのか「左」に行くのかと例えられるが、それになぞられる様に「選択」はそれぞれの人物にとって未来への重大な結果を生み出す。
連続する事件によって2時間半を飽きさせない本作の脚本は、単純でありがちなトリックでありながらも観客の先読みを不安にさせているのが見事で、「悪」のなんたるかを考察させた哲学的台詞を練り込んで、数あるアメリカンコミック映画化作品とは一線を画する作品に仕上がっている。
アーロン・エッカート扮するデント検事は劇中こう語る。
「夜明け前はいちばん暗い、しかし夜明けは必ずやってくる」
本作の原題「The Dark Knight」=「暗黒の騎士」は、つまり「Dark Night」=「暗黒の夜」であるとも理解できる。
夜が明ければ朝がやってくる、そこから想起させる「希望」が対義語としてメタファーになっているのだ。
映画冒頭、映像は街の全景が空撮で映し出される。
この映像によって本作の舞台となる「街」=「ゴッサムシティ」を見せているのだが、その「街」がこれまでのバットマンシリーズとは異なり「虚構ではない」という感覚を観客に植え付ける事に成功している。
本作におけるリアルな感覚、それはセットという作り物ではなく、ロケ撮影にこだわった賜物。
撮影場所が本物(リアル)だからこそ生まれる「リアルな感覚」は、これまで誰も試した事がなかった漫画的な世界観を凌駕する奇抜さを発揮し、身近な出来事のように「バットマン」を体感できる演出を可能にしたのである。
前作「バットマン ビギンズ」(2005)に続いて、本作も極力CGに頼らない、いわばCGで映像を作りこむのではなく、CGで映像に何かを足すという足し算的CGを試みている。
更にセットによる世界観の構築の多いアメコミ作品の中にあって前作以上にロケ撮影にこだわり、その撮影設計(場面ごとのカメラの選択、照明やフィルムの選択、DI等々)においてもリアルさを加速させ、同時に爆破やカーチェイスの数々においても「実写」へのこだわりを見せ、圧倒的な迫力を生んでいるのだ。
中国を悪者に描く傾向は近年のハリウッドの流行(はやり)だが、そのこともアメコミヒーローらしからぬ(特にティム・バートン版「バットマン」以来受け継がれた「架空性」を否定)リアルさの源泉となっていることが伺え、「香港」という実名もまたそれを後押しする。
また、ヒーロー中心ではなく市井の人々を描き、彼らの「選択」をも演出してみせている事で更なるドラマ性を生み出しているのも見事。
クリストファー・ノーラン監督の新生「バットマン」シリーズの真骨頂は「善悪の哲学」にある。
本作では混沌を生む容易さとその危険性を示唆し、それはまた法律で守られた国家(や国民)の不均衡を暗喩させ、搾取にとどまる現状が、実は混沌(カオス)を生む準備段階にある危うさをも示している。
それは、本作の中盤から「悪」への戦いが「攻撃」から「防衛」へと変化している事が如実に表し、守れば守るほど力を増し、悪意を増殖させるジョーカーという「悪」がそれを象徴している。
特筆すべきはこれが遺作となったヒース・レジャー扮する悪役ジョーカーの役作り。
本作における役作りの源泉が「バットマン」(1989)でジャック・ニコルソンが演じたジョーカーにあったと言えども、ヒース・レジャーの演じたジョーカーが映画史に残る「悪役」に成るであろう事に異論は無いだろう。
映画後半の鍵となるトゥー・フェイスの登場ひとつ取っても、トミー・リー・ジョーンズが演じた同じトゥー・フェイスの登場する過去作「バットマン フォーエヴァー」(1995)とは志が異なる事は一目瞭然。
脚本の素晴らしさは、レイチェル役のマギー・ギレンホール以外、ほぼ前作の主要キャストが揃っていることにも表れているが、前作に続いてハンス・ジマーとジェームス・ニュートン・ハワードというハリウッド音楽界の二大巨頭による贅沢な音楽は「ブラック・レイン」(1989)のスコアを思わせる重厚ぶりで、主要スタッフもまた前作通り。
加えて脇を演じたエリック・ロバーツやアンソニー・マイケル・ホールなど、80年代ハリウッド映画ファンには嬉しいキャスティングと巷で噂のエディソン・チャンのあまりにもエキストラ的な出演はご愛嬌。
何より本作が「続編」として素晴らしいのは、これまでの作品どころか前作「バットマン ビギンズ」を知らない観客、さらにはバットマン自体を知らない観客でも独立して鑑賞可能な作品に仕上げている点だ。
その自信は、邦題にさえ「バットマン」の記述が見つからない点にも言及出来る。
「ダークナイト」は壮絶な銀行強盗場面で幕を開ける。
そこには漫画的要素よりも犯罪映画的要素が色濃く出ているのはご覧の通り。
つまり、本作は映画冒頭から「これは犯罪映画ですよ」と映画全体を告知しているにほかならない。
それはまた、映画の結末、ヒーローであるはずのバットマンの行く末がハリウッド映画の脈々たる歴史を築いた「犯罪映画」のそれと符合させるのである。
ジョーカーの起す犯罪のリアルさと怖さは「金目当てでなく、犯罪そのものを楽しんでいる」ことにある。
恐るべき事に近年日本でも「犯罪そのものを楽しんでいる」と思わしき凶悪犯罪が起こり、被告自身も平然とそれを匂わす証言を行っている。
前作で「復讐は正義でない」と学んだ「バットマン」=「ブルース・ウェイン」同様の精神を持つ正義の味方が必要なのは、本作が驚異的なヒットとなっているアメリカの「対岸の火事」なのではなく、我々自身の社会なのかも知れない。
が、本作の終盤に示される「希望」のありかが、正義の味方ではなく、大衆にあることこそ、現在の社会構造の欠陥の何であるかを「ダークナイト」は教えてくれるのである。
※前作のレビューはこちら → 「バットマン ビギンズ」(2005)
2008年05月01日
さよなら。いつかわかること
第606回
★★★★(劇場)
(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)
人間の存在証明は、誰かがその人物を「そこにいる」と認識する事で成立する。
しかし現実社会では、必ずしもその人物が生きていなくとも、つまり生死にかかわらず「そこにいる」と存在証明が成されている事に気付く。
例えば、貴方がある友人の訃報を聞くとする。
その訃報は亡くなって間もなく、という事もあれば、場合によっては亡くなって何年も経ってからその事実を聞かされる事だってある。
実際には亡くなってこの世に存在しない間にも、我々はその人物の生死を認識していないというだけで、現実として個人の中では「そこにいる」ということになっていることはしばしばだ。
実際にはこの世にいない人物の事を、その姿を確認したわけでもないのに「そこにいる」と思い込む不可思議。
今、こうしている間にも、誰かの命が失われ、その存在を確認していないにもかかわらず、「そこにいる」と認識されているのが世の常。
人は死ぬことによって、その存在が無くなるように思われるが、それは「形」としてであって、文字通り「心の中」で生き続ける事は嘘でも何でもない事が判る。
「さよなら。いつかわかること」は、イラク戦争に従軍した女性兵士の妻が突然戦死し、その事実を子供達に告げられない夫(ジョン・キューザック)が、その場逃れで子供達を遊園地へ連れてゆく道程を描いた作品。
お涙頂戴映画に仕上げようと思えばいくらでも叙情的な作品に成りえた題材を、あえて静かに描ききった本作は、イラク戦争を題材にしながら「問題提起」をあえて前面に出さなかった点においても分かるように、徹底して家族の肖像だけを追い続けた「家族映画」として成立させようとしている。
しかしこれは「ファミリー映画」=「家族映画」ではなく、「家族映画」=「社会構造映画」として理解しておく必要がある。
それは本作が母親を失った家族の喪失を描く事で、結局「反戦」を感じさせる作品になっているからである。
劇中、イラク戦争についての是非や愛国心への賛成と批判が「会話」として何度か登場するが、そのことは物語において大した意味を持たない。むしろ戦場の詳細を全く描かず、観客にその情報さえ与えることなく一個人の「悲しみ」や「苦悩」を丁寧に描いた事で、主人公の発言に反した「反戦」を静かに訴える事を可能にしているのだ。
勿論、アメリカ社会における女性兵士(さらには家庭を持つ母親の兵士)がいかに多いのかというあまり知られていない事実を提示し問題意識を高めているのだが、これもまた「母親」である事によって引き起こる「家族の悲劇」タイプが特有のものである事を示すものでしかない。
ありふれた家庭で母親を失う事の意味、女性兵士である設定はそのためのツールでしかない故、「家族映画」であるといえないか。
地味ながら役作りのために体型を作り込んだジョン・キューザックは勿論、本作がデビューとなる二人の子役の演技が素晴らしい。
さらに特筆すべきは音楽。
本作の音楽はクリント・イーストウッドが手掛けているのだが、その繊細な旋律はズルいくらい涙を誘う素晴らしい出来。
本作は彼にとって初の音楽専任担当となるが、イーストウッドと音楽は以前より切っては切れない関係にあるのは「センチメンタル・アドベンチャー」(1982)や「バード」(1988)などのフィルモグラフィからも分かるように、ファンなら周知の事実。
「パーフェクト・ワールド」(1993)頃から自身の曲を劇中に使用し始め、「ミスティック・リバー」(2003)の音楽を担当した点でも、その才能は既に認められたものであったが、今や「アクション俳優」ではなく映画監督として「巨匠」扱いされる御大が他人の作品のためにわざわざ音楽を提供した点は多くのファンが驚いたに違いない。
「さよなら。いつかわかること」の原題は「Garace is Gone」=「グレースがいなくなった」または「グレースは去った」である。
本作は主人公の妻であり子供達の母親である「グレース」が「死んだ」と言葉で説明される事が一切ない。
例えば映画冒頭事実を告げる軍人や牧師も「死」とは言葉にしないし、映画の終盤においても告白の核心となる「言葉」は音楽によってかき消されてしまう徹底ぶり。
つまり本作は誰かが不可抗力で「死んだ」ことではなく「いなくなった」ことを描きたかったのだと理解できる。
ロードムービーの体をとりながら、主人公たちが向った遊園地の名前は奇しくも「魔法の庭園」=「ENCHANTED GARDEN」であった。
魔法によって「事実」が変わるわけではない。むしろ「事実」を受け入れることで何かが変わり成長すると本作は説いている。
そこにいない母親との約束を示す「ある音」が物語の鍵を握り、既に亡くなった誰かが「そこにいる」と想う事、その「心の中で生き続ける」事が尊いのだと我々に教えてくれる。
自分自身の存在証明。
誰かが貴方を思い続ける限り(生死を問わず)貴方は「そこにいる」ことになるんだよ、と僕は思うのだ。
★★★★(劇場)
(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)
人間の存在証明は、誰かがその人物を「そこにいる」と認識する事で成立する。
しかし現実社会では、必ずしもその人物が生きていなくとも、つまり生死にかかわらず「そこにいる」と存在証明が成されている事に気付く。
例えば、貴方がある友人の訃報を聞くとする。
その訃報は亡くなって間もなく、という事もあれば、場合によっては亡くなって何年も経ってからその事実を聞かされる事だってある。
実際には亡くなってこの世に存在しない間にも、我々はその人物の生死を認識していないというだけで、現実として個人の中では「そこにいる」ということになっていることはしばしばだ。
実際にはこの世にいない人物の事を、その姿を確認したわけでもないのに「そこにいる」と思い込む不可思議。
今、こうしている間にも、誰かの命が失われ、その存在を確認していないにもかかわらず、「そこにいる」と認識されているのが世の常。
人は死ぬことによって、その存在が無くなるように思われるが、それは「形」としてであって、文字通り「心の中」で生き続ける事は嘘でも何でもない事が判る。
「さよなら。いつかわかること」は、イラク戦争に従軍した女性兵士の妻が突然戦死し、その事実を子供達に告げられない夫(ジョン・キューザック)が、その場逃れで子供達を遊園地へ連れてゆく道程を描いた作品。
お涙頂戴映画に仕上げようと思えばいくらでも叙情的な作品に成りえた題材を、あえて静かに描ききった本作は、イラク戦争を題材にしながら「問題提起」をあえて前面に出さなかった点においても分かるように、徹底して家族の肖像だけを追い続けた「家族映画」として成立させようとしている。
しかしこれは「ファミリー映画」=「家族映画」ではなく、「家族映画」=「社会構造映画」として理解しておく必要がある。
それは本作が母親を失った家族の喪失を描く事で、結局「反戦」を感じさせる作品になっているからである。
劇中、イラク戦争についての是非や愛国心への賛成と批判が「会話」として何度か登場するが、そのことは物語において大した意味を持たない。むしろ戦場の詳細を全く描かず、観客にその情報さえ与えることなく一個人の「悲しみ」や「苦悩」を丁寧に描いた事で、主人公の発言に反した「反戦」を静かに訴える事を可能にしているのだ。
勿論、アメリカ社会における女性兵士(さらには家庭を持つ母親の兵士)がいかに多いのかというあまり知られていない事実を提示し問題意識を高めているのだが、これもまた「母親」である事によって引き起こる「家族の悲劇」タイプが特有のものである事を示すものでしかない。
ありふれた家庭で母親を失う事の意味、女性兵士である設定はそのためのツールでしかない故、「家族映画」であるといえないか。
地味ながら役作りのために体型を作り込んだジョン・キューザックは勿論、本作がデビューとなる二人の子役の演技が素晴らしい。
さらに特筆すべきは音楽。
本作の音楽はクリント・イーストウッドが手掛けているのだが、その繊細な旋律はズルいくらい涙を誘う素晴らしい出来。
本作は彼にとって初の音楽専任担当となるが、イーストウッドと音楽は以前より切っては切れない関係にあるのは「センチメンタル・アドベンチャー」(1982)や「バード」(1988)などのフィルモグラフィからも分かるように、ファンなら周知の事実。
「パーフェクト・ワールド」(1993)頃から自身の曲を劇中に使用し始め、「ミスティック・リバー」(2003)の音楽を担当した点でも、その才能は既に認められたものであったが、今や「アクション俳優」ではなく映画監督として「巨匠」扱いされる御大が他人の作品のためにわざわざ音楽を提供した点は多くのファンが驚いたに違いない。
「さよなら。いつかわかること」の原題は「Garace is Gone」=「グレースがいなくなった」または「グレースは去った」である。
本作は主人公の妻であり子供達の母親である「グレース」が「死んだ」と言葉で説明される事が一切ない。
例えば映画冒頭事実を告げる軍人や牧師も「死」とは言葉にしないし、映画の終盤においても告白の核心となる「言葉」は音楽によってかき消されてしまう徹底ぶり。
つまり本作は誰かが不可抗力で「死んだ」ことではなく「いなくなった」ことを描きたかったのだと理解できる。
ロードムービーの体をとりながら、主人公たちが向った遊園地の名前は奇しくも「魔法の庭園」=「ENCHANTED GARDEN」であった。
魔法によって「事実」が変わるわけではない。むしろ「事実」を受け入れることで何かが変わり成長すると本作は説いている。
そこにいない母親との約束を示す「ある音」が物語の鍵を握り、既に亡くなった誰かが「そこにいる」と想う事、その「心の中で生き続ける」事が尊いのだと我々に教えてくれる。
自分自身の存在証明。
誰かが貴方を思い続ける限り(生死を問わず)貴方は「そこにいる」ことになるんだよ、と僕は思うのだ。