第61回★★★★(TV)
この映画を見ると、巷の韓流ブームに熱中するオバ様たちの姿が微笑ましくなってしまう。
そこには偏見が無いからだ。
かつて韓国は近くて遠い国だった。「遠い」はもちろん距離ではなく、偏見の幅のことである。
まず歴史の話。
永年に渡り、いわれの無い差別で虐げられ、その反動が「韓国」と「北朝鮮」言う国家を作った。虐げられた想いが日本への反動となったのは当然だ。
一方、虐げた側である日本は、力で国をねじ伏せた。ねじ伏せたことを正当化するために、そこに居住する民を「偏見」するよう仕向けた。
以後はご存知の通り。
これは別に日韓関係にとどまらない。イギリスとフランス、パレスチナ、白人と黒人、ドイツ人とユダヤ人、文化大革命、クメール・ルージュ、士農工商・・・。
ある特定の集団の利益の為に「偏見」は利用され、悲劇の民を生み出す。
これを歴史的悲劇ととらえ、どうか個々人同士のいがみあいであらぬことを願うばかりだ。歴史的事実を踏まえつつ、ポジティブな前進をと願う。人は必ず理解しあえる。それが動物とは違う点だからだ。橋架けが必要なら時間をかけて「建設」すればいい。「遠い」幅も時間をかけて狭まるはずだ。
この作品は少し説教臭く、そのことを青春映画という形で考えさせてくれる。
台詞の中にも出てくるが、これは「ロミオとジュリエット」の設定を拝借している。対立関係にあるモンターギュ家とキュピレット家を日本と韓国に置き換えているのは明白。ベランダで愛を告白するシーンの再現は、なかなかいいアイディアとなっている。
また「チルソク」=「七夕」でもあるように、1年に一度会う=1年に一度の姉妹都市親善陸上大会、という織姫と彦星の境遇もなぞっている。天の川のように二人の間には対馬海峡が立ちふさがる。本州と九州を結ぶ下関という街は、いまでは関門大橋で結ばれているが、天の川しかり、対馬海峡しかり、簡単には行き来できないことが「チルソク」のメタファーになっている。
「距離」と「幅」の橋架けはこの映画で常に隠喩として登場する。
主人公・郁子(水谷妃里)の恋心には障害がある。文通相手が韓国人だというだけで周囲は嘲笑と揶揄、主人公は孤軍奮闘。恋とは障害があればあるほど燃え上がるのもの。ピュアな心は大人の世界を理解できない。
周囲は日本人と韓国人の恋愛は無理と説くが、その理由は不明瞭。世間手や世間の目が強敵となり、個人の素養や才覚は全く関係ない。個人に掲げられる「国」がいけないのだ。それもまた「ロミオとジュリエット」と符合する。歴史は繰り返される。人間は懲りない生物なのだ。
劇中、関門海峡をバックに韓国青年の安は日本と韓国の関係を憂い、自分達が大人になった頃にはわだかまりも溶けてなくなって欲しいと願う。それを聞いた主人公は羨ましく思う。自分達は毎日テレビの話ばかりしていて、そんなことを真剣に考えたことがない、どうしてそんな大人びた考えができるのか?と。
返ってきた答えは意外なものだった。
「だから日本は平和なんだよ。」
「平和」このたった二文字の言葉に重みがある。
かつては舟で渡るしかなかった関門海峡も、今では橋やトンネルでつながっている。そんな風に日本と韓国も自由に行き来できる日が来るか否か、当時は想像もつくまい。
韓国では10年前まで海外旅行が自由に出来なかったのだ。朝鮮戦争も休戦状態でしかないし、日本文化は全て禁止。そんな厳しい社会情勢は「平和ボケ」といわれる日本において実感が沸くはずもない。
人は相手のことを批判したり羨ましがったりするが、それは相手の立場になってみないとわからない。
海峡を越えてラジオから聞こえてくる日本のラジオ放送。「なごり雪」を暗唱した安にとって、その歌詞以上に重要だったのは、電波には「国境」がないということだったはずだ。
平和でいいじゃないか、安はそう言いたかったのだ。
この映画は1970年代を舞台にすることによって、交流・通信手段の少なさをストーリー上の武器とし、いかにして二人の絆が持続するかを見せ続ける。
相手を思う気持ちをどこまで信じられるのか?地方の高校生という設定がまた、その純粋さを昇華させ、上野樹里扮する耳年増な親友と主人公を対比させることで観客に感情移入させる。
あえて脇役は悪者となり、親友とのわだかまりも挿入され、徐々に相互理解してゆくことでストーリーにも美しさが増す。そして主人公達が没頭する陸上にも意味がある。スポーツでは勝つことと同時に交流も意義として存在する。勝つことにこだわるよりも、友情を大切にした主人公の姿は、また国際交流のそれと符合するのだ。
下関という地方発信の映画ながら、味わい深い町並みと人々が交差し、現代人が忘れかけた社会交流と人間関係を再現している。
監督は「半落ち」が好評だった佐々部清(下関出身)。
同ポジの多いセンスのない編集、クローズアップのほとんどない教育映画のような演出と撮影。美人ピアニスト加羽沢美濃を起用しながら著作権フリーのようなセンスのない音楽(時折流れるピアノ曲にその片鱗が感じられるが・・・)、と映画的には実に冴えない出来。しかし登場人物設定がステレオタイプでしっかりしているため、古典的な物語進行にぐいぐい引き込まれるのは見事。
また日本人と韓国人の会話にあえて字幕を挿入しないあたりのセンスもいい。そうすることによって観客も言葉の壁を感じられるからだ。
注目すべきはヒロインよりもキャラ立ちしている上野樹里。この後「スウィングガールズ」で主役を張り、いまや人気急上昇なのも納得がいく。
なぜか更衣室での着替えシーンが頻繁に登場し、少女同士の初体験談が意味もなく挿入される。これさえなければ文部科学省推薦間違いなしなのだが、そこは佐々部監督の反骨精神の表れなのか、サービスカットなのか。僕は必要ないと思った。
ありきたりではあるが、最後には素敵なラストシーンが待っている。
主人公達が今ではヨン様ファンたちの年齢になっている点にとても意味がある。だからこそ舞台が1970年代なのであり、オバ様達が韓流に熱中できる背景をも最後には理解できるようになるのだ。