2005年09月30日

ヒトラー〜最期の12日間〜

わが闘争は降伏の拒否?第226回

★★★★(劇場)

(政治的発言含まれますので、ご注意あそばせ)

 戦後60年を迎えた日本。

 原爆の爆心地である二つの都市の名前を言える人は年々減ってきているそうだ。さらに投下された日を言える人は、その広島・長崎に在住の者おいても減少傾向にあるという。

 実はこれは若者に限った話ではない。60年もの年月によって大人たちもまた戦争を知らない世代ばかりになったことが大きな要因となっている。

 彼らのように高度成長期からバブル期の間に幼少期を迎えた人々は豊かな生活を享受し、平和に何の疑問もわかないまま「親」となっている。

 つまり戦争を語るべき「層」が核家族化によって欠落しはじめた歪みの世代だといえる。

 もちろん戦争を知らないからこそ語れないのであって、それは平和の証拠であり、ありがたいことでもある。しかしながら同時に戦争を知らないことで「興味」を持つものも出てくる。その「興味」の方向性には充分注意をしなければならない。

 戦争はなぜいけないのか?

 それは「なぜ人を殺してはいけないのか」と同じ構造を持つ疑問だ。経験しないとその真意は理解できないない、と同時に経験してもその真意を理解しないという人間根本の疑問であるからだ。

 だが、経験してこそ後進のものに語り継ぐべき「真実」があるはずであり、それを「知る」ことと「知らない」ことでは大きな違いがある。

「ヒトラー〜最期の12日間」は「ヒトラー」と題されているが、これはヒトラーの映画ではない。

 あくまでも客観的な視点で降伏直前のナチスドイツの姿を描いている。それはまるでドキュメントの撮影班が首相官邸を拠点としてベルリンの各地の事件を撮影しているようである。

 よってこの映画に「主役」は存在しない。映画はヒトラーの自決後も延々と続く、つまりヒトラーは主役ではない。

 原題名である「Der Untergang」=「Downfall」(英題)=「破滅」が示すように、「破滅寸前のナチスドイツ」が主役なのだ。

 映画は語り部として実在の人物であるヒトラーの秘書トラウドゥル・ユンゲ(アレクサンドラ・マリア・ララ)を登場させ、彼女の回想録によって知られざるヒトラーの一面を描写しながら、ナチスドイツ破滅までの12日間を描いている。

 ユンゲ本人が映画の冒頭と終わりに語る「後悔」は、戦争の或る一面を象徴している。

 それは「無知」ということだ。

 ナチスドイツによるユダヤ人虐殺は、当時機密事項であったためその実態が明るみになったのは戦後のことだった。

 もちろん、ゲットーや収容所の存在によってユダヤ人への迫害は誰もが知るところだったのだが、これほどまでの残虐な行為が行われていたことを国民の多くが知らなかったのだ。

 600万人もの人間が「消された」というのにだ。

 だが、この「無知」は太平洋戦争中の日本と殆ど変わらない。検閲によって情報は操作され、国民は正しい情報を知る由もなかった。

 一部の有識者が実情を話すと「非国民」呼ばわりされていたことを忘れてはならない。

 映画のラストには、ユンゲが生前に語ったコメント映像が登場する。

「若さは無知の言い訳にならない」

 そう彼女は自己批判する。つまり劇中においてユンゲはナチスドイツに傾倒し、ヒトラーと死を共にしようとまで考えている人物として登場し、そこに疑問などなく盲目的に狂信しているからだ。

 それは「当時」の「国」が行う「正義」が正しいと信じていたからにほかならない。実情を知らず、国に踊らされていたことは「罪」であるか否か。

 ここでユンゲは自らを断罪し、「知らないこと」も「同罪」だといっているのだ。

 戦争の二面性というパラドックスは「善悪」だけでは語れないややこしさがある。敵味方に分かれて戦うのだが、それは双方の主観に過ぎない。敵にとって自分たちは敵であり、自分たちにとって敵は敵でしかない。

 つまり立場によって視点が異なるのだ。

 結局戦争は負けた方が「悪」の烙印を押される。「正義」は勝つからだ。

 だが、本当はそれだけでは済まない。それは原爆の被害にあった日本だからこそ実感できることではないだろうか?

 第二次世界大戦において敗戦国である日本は「悪」である。アメリカにはいまだに「Remember Pearl Harber」と真珠湾攻撃を根に持っている人々がいる。「奇襲攻撃」は許せない、と。

 その一方で「原爆」に対する謝罪はない。それどころか「原爆」によって戦争が早期解決を果たしたと学校で教えているくらいだ。

 では、罪もなく死んでいった広島や長崎の市民は「悪」なのか?

 ここに「戦争」は駄目だという根本的な理由がある。

 それは誰もが「悪」に成りえるからであり、誰もが「悪」に加担することになるからだ。

 先日も「選挙」について述べたが、その結果が引き起こることを「知らなかった」で済ませないことと同じように、「無知」でいないことを心がけなければならない。

 なぜなら「都合の悪いこと」は誰も教えてくれないからだ。誰にも知られたくないから教えないという心理、それはあなた自身だって同じだろう。

 最近では「アイランド」(2005)や「忍 SHINOBI」(2005)がそうであったように、常に「無知」が悲劇を引き起こすことを忘れてはならない。

 それは「無知は言い訳にならない」からにほかならない。

 チャップリンの「独裁者」(1940)のヒンケルに代表されるように、ヒトラーを演じることは、どこか「モノマネ」的なデフォルメが否めない。それは「敬礼」や「制服」、「カギ十字」に代表されるように、徹底的にビジュアルにこだわったナチスドイツのイメージ戦略の賜物でもある。

 そこに息吹を吹き込んだ出演者たちの熱演が素晴らしい。ブルーノ・ガンツ演じるヒトラーだけでなく、ゲーリング、ゲッペルス、ヒムラーといった側近たちまで外見を似せているのは見事で、それがまた「モノマネ」以上の凄みが顔の「皺」に刻まれているのが素晴らしい。

 監督のオリヴァー・ヒルシュビーゲルは「es」(2001)で人間の極限状態を「人体実験」として描いていたが、ここでも壊滅前のナチスを極限状態として描き、首相官邸の地下要塞の閉塞感を利用して、死を待つモルモットのように「人間観察」を描いているような「悪意」が見え隠れする。

 この映画は「歴史」や「戦争」を語り継ぐべき方法について考えさせられる作品でもある。

 それは、この映画で極悪非道であるヒトラーの人間性を描いているからだ。

 これは好意的にとれば、近年の伝記映画にありがちな「知られざる一面」を描いていると考えられる。

 だが一方でこの映画がはらむ危険性も考慮しなければならない。

 それは「戦争を知らない」人々がこの映画を見たとき、それまでの「戦争犯罪人」としてのヒトラーの印象が変わってしまうという点だ。

 人間味溢れる描き方をした、という裏を知らなければこれは単なる戦争犯罪人に対する弁護になってしまう。ヒトラーだって「人間なのだ」と解釈できなくもないからだ。結果的にその「甘さ」は、ユダヤ人虐殺が描かれていないためにヒトラーを美化することにつながる。

 それはラストでベルリンから脱出を図る感動の場面が、収容所から脱出するユダヤ人と同じように描かれていることが象徴している。

 そういう意味でも様々な観点から物事を考察し、「無知」にならないことを心がけて「平和」を享受したいものである。


※昨日(9/30)当記事の本文が正しくアップされていませんでした。当方のミスにて、訂正させていただきました。当ブログへご来店いただいた方々、申し訳ありませんでした。

  

Posted by matusan at 23:04Comments(6)TrackBack(20)

2005年09月29日

CQ

ロマンのロマン第225回

 近年ホテル経営にばかり力を注ぎ、他人の作品のプロデュースに留まっていたフランシス・フォード・コッポラが、「レインメーカー」(1997)以来の監督作を製作!しかも小規模作品ということで、コッポラの実験性あふれる作風がドラマに練りこまれることが期待できる。

 この作品は「Youth without youth」(原題)というルーマニアの作家、ミルチャ・エリアーデの短編を原作にしたもの。ここ何年か、彼の元にやってくる脚本はマフィア物ばかりですねていたらしく、「おぼろげな現実」を描いたこの作品に意欲を見せている模様。ティム・ロスやブルーノ・ガンツが出演。来月3日からブカレストで撮影開始とのこと(ヴァラエティ紙調べ)。

 というわけで前置きが長くなりましたが今回は「ロスト・イン・トランスレーション」(2003)の陰に隠れて話題とならなかった息子ロマン・コッポラの才気溢れる監督デビュー作品をご紹介します。


「CQ」 ★★★★
監督・脚本:ロマン・コッポラ
出演:ジェレミー・デイヴィス アンジェラ・リンドヴァル
(2001年作品・アメリカ)

 映画「ドラゴンフライ」の撮影は難航、エンディングをめぐってプロデューサー(ジャンカルロ・ジャニーニ)と監督(ジェラール・ドパルデュー)は衝突。結局監督は解雇され、編集マンであるポール(ジェレミー・デイヴィス)に白羽の矢が立つのだが・・・。

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

 映画製作現場が幼少の頃から身近にあるということは我々凡人には想像もつかない。

 映画製作が身近にあると、当然、映画に対する視点が変わってくる。フェリーニやトリュフォーといったヨーロッパの巨匠が好んで映画製作の舞台裏を映画の題材にしたように、この「CQ」は映画好きが作った私的なスタジオムービーとでも言うべき作品。

 これまで父であるフランシス・フォード・コッポラの裏方として仕事をしてきた息子ロマンが、満を持して劇場映画の監督デビューを果たした。

 これまで我々の目に触れてきた彼の名前は、父フランシスの作品におけるスタッフであったり、ミュージックビデオの監督(プレジデント・オブ・ユナイテッドステイツの作品が有名)だった。

「ゴッド・ファーザーPart掘廖複隠坑坑亜砲妊Εノナ・ライダーの代役として悲惨な女優デビューを果たした後、「ヴァージン・スーサイズ」(1999)で監督デビューをした妹ソフィアの元夫スパイク・ジョーンズとの愛の橋渡しとなったのもロマンとの交流によるもの。

 彼はどちらかと言うと、芸能一家であるコッポラ家(タリア・シャイア=妹、ニコラス・ケイジ=甥、ジェイソン・シュワルツマン=甥、カーマイン・コッポラ=父を含む)の中では裏方的な存在であった。

 かなり余談ではあるが、コッポラ家にはもう一人息子がいたのだが、ライアンの息子にしてテイタムの弟グリフィン・オニールの運転するボートの事故で亡くなっている(ちなみにそのグリフィンが初主演を果たした「マジック・ボーイ」(1982)のプロデューサーはフランシスである)。

 そのロマンが映画愛いっぱいに撮り上げたのがこの「CQ」である。

 この「映画のおもちゃ箱」のような作品は、キッチュでアーティスティックな面を持ちながらも、時代設定を1969年にしたことで、チープさを逆にファッショナブルに変身させているのが見事!

 映像感覚はもちろん音楽へのこだわりは、さすがビデオクリップの監督らしく妹ソフィアと同じ感性を持っていることを実感させられる(「ヴァージン・スーサイズ」はその内容以上にサントラが注目された)。

 ソフィアがフランスのAIR(エール)を起用したように、ロマンは自身がビデオクリップを監督したフランスのMELLOWを音楽監督に起用。まるで「バーバレラ」(1968)のようなどこか懐かしいレトロフューチャーなサウンドを聞かせている。

 実はこの作品の劇中劇である「ドラゴンフライ」はどう見ても「バーバレラ」なのだ。

 アンジェラ・リンドヴァル演じるドラゴンフライのコスチューム及びセットは酷似しているし、「バーバレラ」でジェーン・フォンダの相手役を務めたジョン・フィリップ・ローが上官役で出演しているのはもはや確信犯。

 また、ジャン・カルロ・ジャニーニ扮する大物プロデューサーは「バーバレラ」のプロデューサーであった(「私は英語が上手く喋れない」と言いながらベラベラ喋る辺りも)ディノ・デ・ラウレンティスをモデルにしているようだし、その愛人はジュリエッタ(演じるは妹のソフィア)ときている。映画ファンならニヤリとする小ネタ満載。

 ジェレミー・デイヴィス扮する主人公はシネマ・ヴェリテに夢中で、まるでゴダールのような私的映画(ゴダールは「私的」だとは思っていなかったのだが)も撮影している。

「現実」と「虚構」、「劇映画」と「ドキュメント」との境目を見失いながらも、困難を乗り越える事で新しい自分と作品に向き合う事が出来る。

 その橋渡しとなるのが劇中劇の主人公と映画でのヒロインを演じるアンジェラ・リンドヴァルの存在。ノーメイクの彼女と、ドラゴンフライを演じる彼女とが見事に交錯し、主人公の心を、映画制作においても、私生活においても癒してくれるのだ。

 とどのつまり「ドラゴンフライ」のラストシーンにおいても二人のドラゴンフライが事件を解決へと向かわせる訳である。

「現実」と「虚構」、「嘘」と「誠」。これらの二面性が主人公の「ねじれ」であり、それが作家性へと昇華させてゆくのだ。

 まさに原題名「CQ」=「Seek You」であるように、自らの存在確認こそ創作意欲の原点なのかも知れない。

 初監督作品ながら、ジェラール・ドパルデュー、ディーン・ストックウェル、ビリー・ゼーン、エロディ・ブシェーズ、前述のジョン・フィリップ・ロー、ジャン・カルロ・ジャニーニといった国際色溢れる大物スターが脇を固めている。

 これが映画初出演、そして一児の母と言うのが信じられないモデルのアンジェラ・リドヴァルは見事に二役をこなし、ノーメイクの自分をさらけ出す事で、ドラゴンフライの魅力を引き立たせていた。

 また、主人公を演じたジェレミー・デイヴィスは「プライベート・ライアン」(1998)のアバム上等兵(通訳)役以降、同期のヴィン・ディーゼル、バリー・ペッパー、ジョバンニ・リビジ同様ハリウッドで活躍しており、ヴィム・ヴェンダース監督の「ミリオンダラー・ホテル」(2000)では主役に抜擢されており、いまやバイプレイヤーに成長。

 この映画で描かれているような事は映画制作の現場ではよくある話だ。交代劇や降板、撮影現場でのロマンス、盗難、衝突 etc・・・。

 これらをかつての映画製作、特にゴダール、ヴァディム、アントニオーニ、フェリーニなどのヨーロッパ映画作家に対するオマージュとパロディで包んだ愛すべき作品、それが「CQ」である。

 よって、ある程度のヨーロッパ映画経験、映画鑑賞経験がないとチープなSF映画、奇抜で不条理な作品として捉えてしまうかもしれない。

 つまりロマン・コッポラの「映画愛」によって映画ファンの「映画愛」が呼応する作品であるからして、映画ファン以外には「立ち入り禁止」というメタファーが作品中に込められていることがまた奥ゆかしいのである。

  
Posted by matusan at 14:15Comments(0)TrackBack(0)

2005年09月28日

シンデレラマン

実録!拳も下半身も暴れん坊将軍!!第224回

★★★☆(劇場)

(ありきたりな感想なので、ご注意あそばせ)

 毎日のように新聞の片隅を飾る数々の「家族」がらみの事件。

 親が子供に盗みをさせ、器物破損を指示。親が子を傷つけ、子が親を傷つける。親が子を殺め、子が親を殺す。

 断絶した親と子、子と親の関係。そこにはお互いを「思いやる気持ち」が不在であることが原因のように思う。

「シンデレラマン」には本来あるべき「家族の姿」が描かれている。

 ジム(ラッセル・クロウ)は連戦連破のボクサーだったが、大恐慌時代とともに負け犬ボクサーとなり、日雇いの港湾仕事にありつくことで日銭を稼ぎ、家族を養っている。

 1929年の株価暴落をきっかけとする「大恐慌」は、豊かなアメリカに大きな影を落とし、永い不景気の時代を迎えることとなる。

 郊外の一軒家に住んでいたジムの家族も大恐慌によって財産を失い、貧しいアパート暮らしへと転落する。食べるものもままならず、電気・ガスは滞納によってストップ。そんな暮らしの中でもジムは「家族優先」で物事を考える。

 子供たちの前では決して愚痴らず、明るく振舞う。過去の栄光に溺れることなく、家族を養うためには不本意なボクシング試合にも出場する姿は父親の鏡のようだ。

 この映画には「お金」に関する描写や台詞が多く登場する。しかし意外にもジムがお金に執着していないことが伺える。毎日暮らしてゆければそれでいい、という態度はとても「誇らしい」。

「名誉」や「栄光」、「金」や「欲望」よりも「家族」や「実直さ」を重んじるジムの姿は、現代社会への警鐘のようにさえ思えてくる。

 それを象徴する場面がある。

 長男がサラミを肉屋から盗んだことを知ったジムは、一緒に盗んだサラミを肉屋へ返しに行く。そして「いくら貧しくても、盗みは駄目だ」と正す。

 自分の身辺が「貧しい」とき、独自の倫理観が形成されがちだ。それは「自分が生き残るためには仕方がない」という考え方。食べ物を盗むのも仕方がない、ひったくりをするのも仕方がない、自分が生きるためだから、そう思考回路が働いてしまうのだ。

 だが、そこには「盗られた側」の気持ちが無視されているということに気付いていない。

 ジムは長男にそのことを教えるために盗んだサラミを返しに行く。自助努力、自分の出来る範囲内での我慢をしないと人が人を傷つけることになるのだと喩しているのだ。

 一方で、ジムは決して子供に手を上げない。何が良くて何が悪いのかを「言葉」や「態度」で子供に伝えている。

 これは現代の「家族」において最も失われていることのように思う。

 子は親の背中を見て育つ。子は親の発言を親の行動と照らし合わせて理解するものだ。親が子供に言ったことを守らずに、子供が守るはずがない。

 ジムは子供との約束を守り、子供のためにはプライドも捨てる。

「そんなことはきれい事」と言い切ってしまう現代社会であるからこそ、ピュアなジムの家族愛に観客は涙するのかもしれない。

「シンデレラマン」はボクシング映画の体をとりながら「家族」を描いた人間ドラマだ。

 見所は何といっても数々のボクシング試合場面。カメラを担いだカメラマンにパンチを食らわせる撮影方法によって迫力のクローズアップを捉え、フラッシュの連射によるカット割りは、否応にも「レイジング・ブル」(1980)を想起せずにはいられない。

 ラッセル・クロウの熱演によってファイトシーンの迫力は出色の出来。ジムのマネージャーであるジョーを演じるポール・ジアマッティの好演もあって、彼がジムを陰ながら支えている事実が明らかになる場面は見事な仕上がりになっている。

 この「家族愛」は監督のロン・ハワード自身が体現しており、彼の監督作品にはいつも兄弟であるクリント・ハワードが出演している。

 ハワード一家は俳優一家で、ロン・ハワード自身もともと「アメリカン・グラフィティ」(1973)のスティーブ役やテレビドラマ「ハッピー・デイズ」の主役で鳴らした俳優だったのはご存知の通り。

 監督に転向してからは「コクーン」(1985)以降、「バックマン家の人々」(1989)、「バックドラフト」(1991)、「遙かなる大地へ」(1992)、「身代金」(1996)と常に「家族愛」を描いてきたことがそれを裏付けている。

「ビューティフル・マインド」(2001)で待望のアカデミー監督賞を受賞し、今回はそのスタッフである「プロデューサー」=「ブライアン・グレイザー」、「脚本」=「アキヴァ・ゴールズマン」、加えて「主演」=「ラッセル・クロウ」などを再集結させている点においても「仲間」=「家族」思いであることがわかる(多くの監督がそうであるようにロン・ハワードにも常連スタッフが多く存在する)。

 いまや巨匠の仲間入りをしたロン・ハワードだが「ビューティフル・マインド」以降、キャリアは絶不調。

 この作品も全米公開時にラッセル・クロウが暴行で逮捕されことでケチが付き、おかげで興行は不本意な結果に終わった。

 ここ数年、製作を担当した「D−TOX」(2002)や「アラモ」(2004)は不入り、監督作「ミッシング」(2003)も惨敗。唯一、製作総指揮を担当しているテレビシリーズ「24 TWENTY FOUR」が当たっているくらい。

 次回作「ダ・ヴィンチ・コード」(2006)では「アポロ13」(1995)以来10年ぶりとなる朋友トム・ハンクスとのコラボレーションだけに、ヒットメーカー復活を期待したい。

「シンデレラマン」は取り立てて欠点もない「優等生的」作品なのだが、天邪鬼的に言うと「家族愛」や「セカンドチャンス」について説教的な分だけありきたりで、刺激がない作品であるとも言える。

 演出も物語の展開もオーソドックスで、ラストの結果は予想通り。「意外性」という言葉とは無縁の作品だ。

 贅沢な話だが、その「意外性」のない「手堅い出来」が物足りなさを感じさせるのが残念。

 この映画が奏でる「真摯な姿勢」と「悪に染まらない純粋さ」が主演のラッセル・クロウの実生活に全く備わっていないのが痛々しい。もちろん俳優の実生活と映画の評価は別物なのだが・・・。

 ちなみに。

「ロッキー」(1976)を創作したシルベスター・スタローンが、実在のボクサーであるロッキー・マルシアーノをモデルにしたように、本作のジム・ブラドックはチャック・ノリスの当たり役「地獄のヒーロー」(1984)シリーズのジェームズ・ブラドック大佐のモデルとなっていることはあまり知られていない。

  
Posted by matusan at 05:04Comments(11)TrackBack(29)

2005年09月27日

忍 SHINOBI

耐え難きに耐え、忍び難きに忍!第223回

★★★(劇場)

 クリントン政権時代のお話。

 ある長官は大統領であるクリントンの方針が面白くなかった。CIA長官である。

 レーガン政権時に米ソは手を結び、ブッシュ政権時には冷戦が終結しソビエト連邦は崩壊した。

 クリントンにとって、もはや仮想敵国は存在しない。「のんびり楽しくやろう」主義のクリントンは目の上のたんこぶであった諜報機関を目の敵にした。大統領のスキャンダル漏洩さえ防げなかったCIAにもはや政治的意味がなかったのだ。

 腹いせにクリントンはCIAに各国要人のスキャンダル探しを要請した。これではまるで場末の探偵事務所と変わりない。世界は一応平和、確かに我々の出る幕はないとわかっていた長官は、CIA職員を食いつながせるためにも大統領の要請に従った。

 それでもクリントンは面白くない。各国の諜報拠点を引き揚げさせ、CIAはどんどん縮小されていった。

 それでもCIAは独自に動き、アラブ周辺の不穏な動きをキャッチしていた。ところがクリントンは自身のスキャンダルで手一杯。何とか退陣だけは避けたいと海外の動きに耳を貸さなかったのだ。

 そして息子ブッシュ政権下、ニューヨークは地獄と化した。

 隠密行動の必要性と使い捨て性。

 山田風太郎の大ベストセラーである「甲賀忍法帖」は現代にも通じるそんな太平の世にある時代遅れな「隠密集団」の悲劇をドラマティックなトーナメント制「忍者バトル」として描いた作品だ。

 終盤における虐殺場面における構造と図式は、アメリカのそれを否応にも想起させる。

「甲賀忍法帖」は漫画「バジリスク」としてリメイクされ、2004年に講談社漫画賞を受賞、その後アニメ化までされている。それは根底に流れる考え方が現代に通じるものがあるからにほかならない。

「忍 SHINOBI」はこの「甲賀忍法帖」を原作に伊賀忍者と甲賀忍者の因縁の対決に徳川世継ぎ問題を絡ませて描いたアクション大作。

 長年のいがみ合っていた両者の次期頭領である朧(仲間由紀恵)と弦之介(オダギリジョー)は恋に落ちるのだが、幕府の策略によって「次期将軍争い」を名目に伊賀と甲賀が対決することとなる・・・。

「忍」のはもちろん「隠密行動」であり「恋」でもある。

「忍者ハットリくん」で「伊賀」=「ハットリくん」vs「甲賀」=「ケムマキ」という図式が刷り込まれている世代にとっては、歴史物であるというハードルをクリアできて意外と鑑賞しやすいかもしれない。その分、劇中に挿入される登場人物の紹介スーパーが邪魔のように思えた。

 原作(「バジリスク」においても)ではもともと10対10の頂上対決であった物語を5対5に凝縮した点は評価できる。忍者同士の対決は荒唐無稽だがスピード感があり、それなりに迫力もあってCGの使い方も妥当のように思えた。

 だがこの映画における最大の見所はオープンセットで、その迫力はやはりCGでは表現できないものだ。それは駿府城場面と比較すれば一目瞭然。

 つまりCGのおかげで日本映画における様々な障害が解消されたのだが、一方で実写の迫力には勝てないという事実を浮き彫りにしたかたちとなっている。

 かつて真田広之は「戦国自衛隊」(1979)でヘリコプターから飛び降りるというスタントを行い話題となった。その落下する映像の迫力は、この映画の冒頭に出てくる修行場面で崖を飛び降りる忍者たちの映像が足元にも及ばないものだった。

 CGによって「何でも出来る」ことは何も悪いことではない。しかし結果的に「スパイダーマン」(2002)もどきの忍者アクション場面が作れても、人間のスタントには勝てないことを改めて実感させられたのも事実だ。

 この作品は主演の二人以上に魅力的な共演陣の魅力も忘れられない。中でも「VERSUS−ヴァーサス−」(2001)を思い出させる山中のバトルを演じた坂口拓と虎牙光揮のバトルは見所。また黒谷友香の妖艶美と「あずみ」(2003)でオダギリジョーが演じた美女丸を髣髴とさせる椎名桔平の天膳役もなかなかいい。

 残念なのは個人的イチ押しの沢尻エリカが魅力ゼロだったこと。死に様もあっけなく、せっかくのキャスティングだけに勿体ない。彼女は今年、「パッチギ!」(2005)、「阿修羅城の瞳」(2005)、テレビドラマ「あいくるしい」に続いて「1リットルの涙」(10月スタート)での主演と今後大化けすること必至。

 また、ラストに見せ場がないのは致命的。通常この種のアクション映画はラストに一番の見せ場がある。だが中盤が一番盛り上がる「山型」の展開になっていてなんとなく寂しい感じがしたのは残念だった。

「忍 SHINOBI」は「映画ファンド」によって製作されたことで話題となった。 

 松竹は総製作費15億円の一部を、一口10万円単位で個人投資家向けの投資参加を呼びかけた。このファンドによる資金調達は大手映画会社としては初の試みであった。

 元本60%確保と元本90%確保の2タイプが用意され、興行収益に応じて配当金が出る仕組み。結果的に5億円近くが集まったといわれている(日経調べ)。

 これまでにも「アイドルファンド」や「ゲームファンド」が行われ、高配当と話題になったことから映画界が追随したものだが、ここには映画界の抱える製作費高騰と銀行の利率低下が影響している。

 ファンドは投資のプロに金を預けて運用してもらい分配金を得る金融商品。「映画ファンド」のように証券会社が投資家から資金を集めて運用する投資信託は、「株」とは異なって製作に参加しているような気分になり、映画がヒットすれば高配当が見込める。さらに運用明細報告がしっかりなされることからこれからも人気が高まる可能性がある。

 集まった資金は映画の製作費に回されるのだが、ここには松竹の思惑もある。

 前述どおり映画の製作費は年々高騰傾向にある。日本映画の好調とともに大作映画の製作も可能になった訳だが、現状はテレビ局や新聞・出版・広告代理店など複数の会社に出資を募って「製作委員会」を作品ごとに作っている(エンドロールの最後に「パートナーズ」や「製作委員会」などとよく表記されているのでご注目)。

 これは映画がヒットしなかった時のためにリスクを分散させるためなのだが、ファンドで出資金を確保することで松竹が「製作委員会」の中でも主導権を握れるというメリットがある。そうすれば「製作委員会」の各社の思惑による衝突を回避することも出来る。つまり映画製作に集中でき、結果的に作品の完成度を高めることになるというわけだ。

 だが現実は厳しい。

「忍 SHINOBI」における配当金獲得収益ラインは興行収入20億円(日経調べ)。昨年2004年公開されたアニメを除く実写日本映画で興行収入20億円を越えたのは「世界の中心で、愛をさけぶ」(2004)、「いま、会いにゆきます」(2004)、「クイール」(2004)、「スウィングガールズ」(2004)の4本しかない。

 今月、深田恭子主演の新作「天使」や、阿部寛がケンシロウを吹替えするアニメ映画「北斗の拳」の「北斗ファンド」の募集が開始されると報道された。

 今後の邦画の資金調達のモデルケースとなるだけに成功を祈りたいのだが、「映画ファンド」の先進国である韓国では「シュリ」(1999)のヒット以降投資が加速したものの、現在ヒット作が少なく残念ながら投資額は減少傾向にある。

 一時の話題ではなく、今後の製作形態の母体とするためには、作品の内容も伴わなければならないということを忘れないようにしなければならない。

  
Posted by matusan at 15:17Comments(13)TrackBack(42)

2005年09月26日

四月の雪

「ペ様」と呼ばれるとです第222回

★★★☆(劇場)

 四月の雪、つまり「ありえない」ことだ。

 主人公の二人は「ありえない」事故によって「ありえない」真相を知り、「あってはならない」関係へと堕ちてゆく。

 この作品、日本では「ヨン様」ことペ・ヨンジュン主演作として話題となっているが、映画を読み解くためには監督であるホ・ジノの考察をしなければならない。

 ホ・ジノはハン・ソッキュ主演の「八月のクリスマス」(1998)によって現在の日本における「韓流」の礎を築いた監督である。これまでの韓国映画にはない「やわらかな時間」を描いた作風で、本国では大ヒット。一躍名監督となった人物だ。

 特に3部作という訳ではないのだが、ここでは「八月のクリスマス」、「春の日は過ぎ行く」(2001)、「四月の雪」というホ・ジノ監督過去3作品を比較してゆく。

 この3作に共通点は多い。そして似たような描写も多いことにも気付く。その点においても、これは「ヨン様」映画ではなく「ホ・ジノ」映画だといえる。

 ホ・ジノ映画は「女に翻弄される男」を描いている。しかし「男優の映画」ではなく、「女優の映画」として成立させている。

 男は常にナイーブな性格で、女はそんな男の隙間に付け込んで「誘惑」する。ところがこの「誘惑」は悪女の類のものではなく、あっけらかんとしているのが特徴だ。

 つまり自然と隙間に入り込み、男を虜にしてゆくのだ。

 であるから「八月のクリスマス」のシム・ウナも、「春の日は過ぎ行く」のイ・ヨンエも、「四月の雪」のソン・イェジンもすこぶる魅力的に描かれている。どちらかというと男側が「腑抜け」にさえ描かれる。

 愛を渇望し始めるのは男の方であって、それは女が窓から男を観察する描写が過去3作品に必ず挿入されることからも伺える。女は客観的であって、その冷静さが男を翻弄するのだ。

「四月の雪」においても「誘惑」するのは女のほうだ。

 妻の事故の知らせを聞いたインス(ペ・ヨンジュン)は病院へ急行するが、同乗者も重傷を負っていることを知り、妻が不倫していたことを察する。そして同乗者の妻ソヨン(ソン・イェジン)と出会う。

 酒に酔ったソヨンは「不倫でもしましょうか」と冗談めいてインスに話す。妻への復讐と悪ぶりながらインスはソヨンと関係を持つが、純粋に愛し始めてしまう・・・。

 ここでソヨンのファッションに注目してみると、パンツ姿だったソヨンはインスとの初デート以降スカートをはいていることがわかる。美脚を露出しているのだ。これは「無意識」に「誘惑している」こと、「誘惑されたい」ことを示唆している。

 この女を「卑怯」と描かないあたりに、ホ・ジノ作品の「美しさ」があるといって過言ではない。そういう意味でも「女優の映画」なのだ。

 また、本作のポスターデザインにもなっている「ベンチに横並びで座る」姿も3作品に登場する共通点だ。

 この場面は必ず映画の冒頭に登場する。その横に寄り添う姿がその後の展開を示唆していることは言うまでもない。

 男の仕事にも共通点がある。

 それは「八月のクリスマス」=「写真屋」、「春の日は過ぎ行く」=「録音技師」、「四月の雪」=「照明監督」という「アート」を支える技術スタッフである点だ。これはつまり「アート」=「美」=「女性」を支えることを暗喩している。

 これらの共通点をベースにして、ホ・ジノ作品には「語り過ぎない」という鉄則がある。極限にまで台詞を削り、心情を表現しているのだ。

 これは「映像」として当たり前のことのように思えるが、気性の激しい韓国人にとっては判りにくいきらいがある。そこで「八月のクリスマス」では主人公のナレーションが挿入されることになったのだが、本作においてペ・ユンジュンがほとんど台詞をしゃべらないことに気付くだろう。

 さらにこの映画においてインスとソヨンはお互いの名前を呼び合わない。

 名前に頼らない「恋」。ここに本作の真髄があるといっていい。

「愛」にとって必要なものは何か?

 人目を忍ぶ恋とともに、目覚めぬ妻を看病する夫。その彼が決意する結末に全てが集約される。

 不倫相手の夫と妻が出会い結ばれるという物語は、これまでにも野沢尚脚本のテレビドラマ「恋人よ」やハリソン・フォードとクリスティン・スコット・トーマスが共演した「ランダム・ハーツ」(1999)などでも描かれており、目新しさはない。

 何よりも「不倫」を美化した表現に共感できるかどうかがネックだろう。

 それでもホ・ジノらしい静かで美しい映像によって、本来ならドロドロとした愛憎劇が美しいラブストーリーとなったのは見事といえる。

 このような要素によって、この「四月の雪」は韓国人よりも日本人にとって共鳴しやすい作品となっている。

 で、実はここからが本題。

 観客の多くは「ヨン様」ファンだ。年齢層はすこぶる高い。そして「よかったわね〜」と多くの観客が口々に漏らす。

 だが、良かったのは「映画」なのか「ヨン様」なのか?

 答えは明白、「ヨン様」が「よかった」のだ。

 この映画の出来はそれほど悪くない。本来ならばアート系劇場で上映すべき内容と思えるくらいだ。

 しかし「ヨン様」主演作という冠が、この映画の評価を阻害しているように思う。

「よかった」という「ヨン様」ファンの方々、それほどいい映画なのなら自分の子供たちに勧めることが出来るだろうか?

 答えは恐らく「NO」だ。

 禁断の愛を描いた作品に群がり、ミーハー的に熱狂するのはどうかと思う。もっと正当に評価してこそ「ヨン様」の地位向上に繋がるはずなのに、劇場の売店でグッズを買いあさる方々にそんな事を示威するのは「やぶへび」なのだろうか?

 既に1億円以上を売り上げているグッズの販売動向こそ「四月の雪」くらい「ありえない」ことだと思うのは僕だけだろうか?

  
Posted by matusan at 19:03Comments(14)TrackBack(28)

2005年09月25日

メゾン・ド・ヒミコ

欲望なんだよ・・・第221回

★★★(劇場)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

 数年前、仕事上で知り合った方が転居されることになった。

 転居先を聞くと、こんなことを言っていた。

「岡山の山間部にね、夜の商売を引退した人たちで作った住宅地があるの」

 そこに「空き」ができたので引っ越すというのだ。

 親類縁者は殆どいないらしく「本当なら貴方ぐらいの子供がいてもいいはずなんだけれどね」とよく後悔されていたのを思い出す。

 若さに甘んじて無茶ばかりやって、交際相手を転々とし、そのときが寂しくなければそれでいいと思っていたはずが、年老いたときに、ふと将来が不安になったそうだ。

 近隣の人たちが自分をどんな人間なのかを知るたびに住居を転々とした結果、今では近所づきあいさえ出来ず、一日の会話は殆どない。飼っている子犬だけが「家族」だと話していた。

 その後どうなったのかは知らない。

 今から思えば、そんな住宅地が本当にあるのかどうかさえ定かではない。

 ただ「メゾン・ド・ヒミコ」を見て、同じような「虚飾」の後に訪れる「寂しさ」を思い出したことは確かだった。

 しがない事務員の沙織(柴咲コウ)は春彦(オダギリジョー)から父親(田中泯)が末期がんであることを知らされ、彼の主催するゲイ専用の老人ホームで手伝いをしないかと持ちかけられる・・・。

 沙織は自分たちを捨ててゲイの道を選んだ父親を許せないでいる。しかし「借金」返済のために仕方なく手伝うこととなる。

 蛙の子は蛙、父親の水商売に嫌悪感を覚える沙織もまた生活のために風俗誌の求人欄に目を通す。「父」という「人」に捨てられた経験は、「人」を使い捨てする生活に疑問を持たせなくする。それが良くないとわかっていても「仕方ない」と諦めている。この「諦め」によって、これといった人生も目標もない沙織は「金」の捻出が生きがいになっている。

 それが父に対しての「復讐」であり、自分の人生に対しての「復讐」でもあるのだ。

 人付き合いを回避してきたように思える沙織は、ホームに暮らすゲイたちと交流するうちに変化を遂げてゆく。

 その変化は「人間性」を取り戻すなどという大上段のものではなく、「笑顔」というものであるからこそ、観客は沙織にシンパを感じるのだ。

 ここで重要なのは、シンパを感じるのがゲイたちではなく沙織というノンケの登場人物だという点だ。

 さらに沙織をまるで「おこげ」(注:オカマにくっつく女、つまり釜にくっつくおこげが語源)のごとく、ゲイコミニュティに同化させている。

 つまりゲイを描きながらもゲイに共感させようとはしていないのだ。

 これは、この作品が掲げる問題提起や知られざる世界の認知という「表面的」なテーマが「嘘」であることを示している。

 登場するゲイたちは個性豊かだが、かなりデフォルメされている。つまり「判りやすく」キャラクター設定されているのだ。そのために彼らが抱える葛藤や問題が結果的に先送りされ、発言にも一貫性がないことがわかる。

 それは沙織のキャラクターの不安定さに象徴されている。

 ゲイ嫌いだった沙織は徐々にゲイを理解し、クラブで絡まれたときも「あやまれ!」とゲイの味方をする。そしてゲイたちが仲間を身内に引き取らせたとき「こんなとこ嘘じゃん、インチキじゃん」と一喝する。で、ラストである。

 ここに彼女の心境の「整理」はまったくなされていない。問題も丸投げ。

 だが、よくよく考えるとそれはゲイたちの設定がその場その場で不安定なのが、ストーリーの牽引者である沙織に影響していることがわかる。つまり振り回されている。

 終盤近く、春彦は沙織に「関係ないんだけど、お前は。ここはゲイのための老人ホームだから」と言い放つ。

 散々巻き込んでおいて沙織を追い返すことで、それまでの結束も、ゲイ同士の思いやりもぶち壊しである。それはまるで「メゾン・ド・ヒミコ」が夢物語であると言っている様なものだ。

「我々だけの世界」

 その「世界」は閉鎖されたものというのではなく、頭の中にだけ存在する」というニュアンスに思える。

 これは「表面的」に好意的な表現をしながらも「悪意」たっぷりの犬童一心監督らしさの表れであるように思う。

 彼は好意的に「ゲイ」を描こうとはしていない。どこか「見世物」的な現実をあえて見せしめているのだ。

 これまでも犬童監督は「金髪の草原」(1999)や「死に花」(2004)でも老人を扱ってきたが、そこにはファンタジー的な現実を超越した「悪意」があった。それは「金髪の草原」での若返りや「死に花」での強盗など「到底無理」なことをやってのけることに対するシニカルな視点だ。

 このシニカルな視点は現代社会で同じ「マイノリティ」という意味合いを持つ障害者を主人公にした「ジョゼと虎と魚たち」(2003)にも現れている。

 つまり犬童作品に登場する「マイノリティ」たちは、魅力的に描かれているのだが、現実的ではないという共通点を持つ。ここに「愛情」はなく、「悪意」によって引き出される悲劇が観客の琴線を「揺らしている」に過ぎない。

 よって、この作品を「ファンタジー」として捉えないと、なかなか共感は出来ないだろう。

 それは登場人物が綺麗事ばかり楽しそうに語り、現実問題に直面すると目を背けているからにほかならない。

 もう一点、犬童作品に見られる特徴は「フェチ」なエロスだ。

 彼の作品には「食事」場面が必ず登場する。「食」=「セックス」を想起させるように、「旺盛な食欲」=「欲望」という図式が見え隠れする。

 春彦が「欲望なんだよ」と告白するように、彼らを結びつけるものは「愛」ではないと言及している。これまでの作品群においても「食」は「欲望」であり、結果「食」に魅せられると破局を迎えていることが判るだろう。

 その意味で、末期がんによって「食」がノドを通らない沙織の父・ヒミコは「欲望」ではなく、「愛」を渇望しているといえる。だからこそ沙織のことを「好きよ」と告白できたのだと考えられないか?

 この作品を読み解くのに有効なのは脚本を担当した渡辺あやが「ムーミン」を引き合いに出している点だ。

 ムーミン谷の住人たちは統一性がなく、思想・言語・習慣もバラバラ、生物としても多種多様。で、喧嘩が絶えない。まさに「メゾン・ド・ヒミコ」の住人たちのようではないか。

 つまり人間社会における多種多様さの縮図を「メゾン・ド・ヒミコ」に展開しているのだ。

 住人は統一が取れているようで、それまでのそれぞれの人生観を元に生活している、いわば「むちゃくちゃ」、やりたい放題だ。

 だが、結果として老後の「寂しさ」と「不安」を抱えている。

 沙織はヒミコが家族を捨てたことを正当化しているが、私にとっては正当化できないはずと詰問する。だが、ヒミコは黙して語らない。

 それは「正当化」などできない理由がわかっているからにほかならない。因果応報、自分が選んだ道によって生まれた「悲劇」は、いまや自分に返ってきているからだ。だからこそ「好きよ」と告白する重みが伝わってくる。

 ヒミコの退廃的な高貴さを演じきった田中泯はゲイを演じても、浪人を演じても凄みがある。その凄みに退廃的な「美しさ」で太刀打ちしたオダギリジョーと枯れた花のような「卑屈さ」で応じた柴咲コウの好演は誰もが認めるところだろう。

 細野晴臣の、どこか「はっぴいえんど」的なメロディラインに実験的な音色を絡ませたスコアも素晴らしい。

 ただ、結局何を描きたかったのかが中途半端に終わってしまったのが惜しまれる。渡辺あやの脚本における独特の台詞回しが素晴らしいだけに残念だ。

 家族を捨てた者、単にゲイの道を選んで社会から外れた者。

 彼らを差別をする理由はない。だが、逆に言うとその行動には責任を持たねばならないと思う。それは選んだ道が「ゲイ」であっても、「芸」を選んだ人や、転職をした人たちとなんら変わらないからだ。何よりも「リスク」をしょって生きていく覚悟があったはずだからだ。

 だから僕は同情しない。

 いくら「寂しさ」を感じようとも、家族のことを人知れず思いを馳せようと知ったことではない。

 だが「赦し」によって救われることはある。

「赦し」、それは誰かにされるのではなく、自分自身を「赦す」のだということを勘違いしてはいけない。そうでなければ誰も救われないからだ。

 僕はいまでも岡山のどこかに夜の商売の人たちのコミュニティが存在することを願っている。

 そうでないと彼らもまた救われないからだ。

  
Posted by matusan at 10:46Comments(17)TrackBack(56)

2005年09月24日

リチャード・ニクソン暗殺を企てた男

ボク、悪くないもん・・・第220回

★★★★(劇場)

 人は誰しも自分の考えや行動がおかしいなどとは考えない。

 それぞれの尺度で、それぞれの倫理観や価値観で物事に対応するからだ。物事の良し悪しもまた個人の判断によって異なる。だから「犯罪」が起こる。そこに如何なる理由が介在しようとも、人間社会には「きまり」がある。

「法」だ。

 それを尺度に社会は善悪を判断し、断罪する。

「リチャード・ニクソン暗殺を企てた男」は、1974年当時のアメリカ大統領であるリチャード・ニクソン暗殺を計画して失敗した実在の人物をモデルにした作品。

 サム・ビック(ショーン・ペン)は、兄(マイケル・ウィンコト)の経営するタイヤ店を辞めて事務家具店で働き始める。妻(ナオミ・ワッツ)とは別居中だが、店長(ジャック・トンプソン)には嘘をついて伏せている。

 主人公のサムはどこにでもいそうな「普通」の男だ。しかも繊細で正義感も強い。

 なぜそのような男が国家反逆的犯罪を起すに至ったのかを、冷静な視線で克明に描いている。

 店長はサムにセールスマンたる者の「極意」を伝授する。自己啓発のカセットテープを貸し、カーネギーの著書を読めと手渡す。

 その商売哲学は、簡単に言うと「客」を騙すことによって「利益」を得るというものだ。

 もちろん「損」させるという意味でも「違法」という意味ではない。「利益」を得るために「こちら都合」で商売を成立させ、納得させるということだ。

 しかし「正直者」のサムは、どうしても客を欺くことができない。商品の良いところも悪いところも含めて納得の上で商売を成立させたいと思っているからだ。結局兄のタイヤ店を辞めたのも利ざやが大きいことに後ろめたさを感じたからだった。

 サムの正直な姿には共感を覚える。本来の人間のあるべき姿のように見える。

 だが、一方では「綺麗事」でしかない。

 客商売を一度でもしたことのある方なら、売り上げのために「適当」なことを言って客に商品を買わせたことがあるはずだ。

 例えば、自分の好きなものでなくても、仕事であれば「自信」をもって売らなければならない。アルバイトの売り子などはその好例だろう。

 だが、それは責められないことだ。その行為が違法でない限り「商行為」として認められており、誰もがそうやって商品を売り、経済を活性化させているからだ。それが資本主義社会を維持させている。

 金は必要だが、嘘はつきたくない。サムの持つジレンマは観客の誰もが理解できるだろう。その不器用さが次第に本人を追い詰めてゆくことになる。

 社会から拒絶されたサムは、社会不適合者として疎まれてゆく。妻への愛も空回り、子供もなつかず、「孤独」が彼を襲い始める。

「正直者はバカを見る」とサムは言う。だが、サムには「正直者」と少し違う点がある。

 それは「嘘」である。

 彼は「嘘」をつきたくないと言うが、自分をよく見せるためには平気で「嘘」をついている。店長や同僚、妻、友人に虚飾の自分を見せている。そこが問題なのだ。

 その「嘘」は次第に、物事に対する責任を果たせず、他人のせいにすることで自己を正当化しているに至る。

 劇中、兄との再会によってサムの「自分勝手」さが明白となる。そして「理解者」の不在となったサムは徐々に精神的に追い詰められてゆくのだ。

「異常」というよりも精神的に追い詰められる姿に「タクシー・ドライバー」(1976)の主人公トラヴィスを思い出す人もいるだろう。彼もまた社会正義のために大統領候補「暗殺」を企てていた。

 だが、トラヴィスの異常行動が「自己犠牲」に基づいているのに対して、サムの異常行動が「保身」に基づいている点に大きな違いがある。プライドが高く、自分の弱さを他人の責任にするという「妄想」は次第に加速し、狂気へと駆り立てる起爆剤となって「仮想敵」を作り上げるのだ。

 ここでサムの「仮想敵」を作り出すのがテレビである。

 劇中、何度もニクソンの映像が挿入される。テレビという受動的「機械」が一方的送信するメッセージ。それは店長が「一方的」に放つメッセージと呼応し、「世界一の商売人は大統領だ」という言葉の真意がシンクロして、サムの「一方的」な憎悪がニクソンへと向けられる。

「世界一の商売人」

 つまり「嘘」だらけの公約を国民に売りつけて、まんまと2度も大統領の座を手に入れたニクソンのことを指しているのは言うまでも無い。

「大統領」=「商売人」=「店長」と憎悪は擦り返られ、本来の憎悪を超越して、サムは「法」を破る「犯罪者」と化す。

 この作品を見ると、ショーン・ペンの演技の素晴らしさを改めて実感できる。

 気性の激しい役から、本作のような気弱な役まで、演じる役柄の幅広さに驚愕する。しかも「狂気」へと静かに魅せられてゆく様を自然に、しかも魅力的に演じているのは見事。5年もの資金調達期間を待ち、ギャラ度外視で出演した選択眼もまた天晴れ。

 監督・脚本のニルス・ミュラーはこれが初監督作品だが、あえてサムの視点だけで描ききったドキュメントタッチの粗さには将来性を感じる。平面的な画面の中に照明へのこだわりがうかがえ、決して「美しい映像」でななく、そこにあるような「映像」を目指しているのがあざとくなく、好感が持てる。

 製作総指揮に「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」(2004)や「天国の口、終わりの楽園」(2001)の監督アルフォンソ・キュアロンやレオナルド・ディカプリオ、「サイドウェイ」(2004)のアレクサンダー・ペインが名を連ねているのも、この映画の期待を裏切らない。

 この映画はサムが旅客機を乗っ取ってホワイトハウスへ突っ込もうとしたという類似性から「9.11テロ」の影響を邪推されているが、これはこの小規模作品の製作促進をしたに過ぎないように思う。

 それは現代にも通じるアメリカ社会の「闇」と「病み」を描いているからだ。

 ご存知のようにアメリカは「自由の国」だ。

 だが「自由」は「平等」を阻害するという側面も持つ。「自由」には働く自由もあれば、働くことを辞めさせる自由もある。持つものと持たざる者を生み、貧富の差は開くばかり。だが、いまだに「夢はかなう」と「アメリカンドリーム」を提唱する。

 だが、現実は厳しい。「平等」でない自由は「落ちこぼれ」を生み、助けはしない。その歪みの境目の奈落へ落ちたのがサムだと言える。

 つまり誰もがその「奈落」へ落ちる可能性を秘めているということだ。

 この映画が過去を描いているのは「希望」という可能性ではなく、「絶望」という可能性を秘めているのが何も「9.11」によってではなく、慢性的な「病」となっていたというアンチテーゼのように思えるのだ。

 ならば、サムの「暗殺」対象は「大統領」だけでなく「国」そのものだったのかも知れない。

  
Posted by matusan at 23:27Comments(1)TrackBack(8)

2005年09月23日

魁!!クロマティ高校 THE★MOVIE

僕たち誰〜だ?第219回

★★★(劇場)

「ピンチはチャンス」

 これは我が友人が、人にアドバイスするときによく使っている言葉だ。ピンチが訪れたことを「好機」と捉えることで、新たな切り開きのきっかけと成す。

 物事の本質は、当人の考え方によって多角的に捉えることができるということだ。

 しかし、それは捉えることができるというだけで「本質」は「本質」であるから変わるものではない。

 ならば多角的な捉え方が出来ても、それは全てが正しいということではなく、「間違い」を「正しい」と思い込んでいるともとれる。逆に「正しいこと」が「間違い」可能性があるならば、「チャンスはピンチ」と成り得えるかもしれない・・・。

 この映画の原作漫画「魁!!クロマティ高校」(以下「クロマティ高校」と表記)の魅力は、このような「意味」がありそうで「ゴタク」を並べているだけの哲学的台詞にある。

 一応主人公と思われる(この漫画はシュールなエピソードの連続なので、実質的な主人公はいない)神山(須賀貴匡)は、個性的なキャラクター達の中で一見まともに見える。

 ところがこの男の頭の中では、常に「勝手に」ピンチを作り出している。悩まなくて良いことを大問題にし、悩むべきことに気付かない大ボケぶりを発揮し、「笑い」を喚起する。

 この「勝手にピンチを作る」人間はデフォルメされているように思えるが、現実の社会にも存在する。貴方の周囲にも、慌てなくてもいいことにオドオドしたり、突かなくても良いような小さなミスを指摘して大問題にする人間がいるのではないだろうか?

「クロマティ高校」の面白さは「ありえない」キャラクター達が、実は「近所の変人さん」である点にある。

 人はどこか「おかしな」側面を持ち合わせている。もちろんその基準は人それぞれであるけれども、誰もが自分が「変」だとは思っていないところがミソ。その「おかしさ」をデフォルメしただけで、身の回りの人間に似通っているからこそ、このシュールでバカバカしい漫画に共感するのだ。

 男前の神山が頭の中ではとんでもないことを考えている反面、単なるヤンキーの前田(山本浩司)が冷静に「場」を分析して常識的なコメントを発していることに気付くだろう。

「品行方正な黒髪の詰襟男」=「神山」と「自堕落な金髪学ラン男」=「前田」。

 この判りやすい描写からは「外見」は当てにならないことの痛烈批判が伺える。

 この「批判精神」が「まやかし」でないこと、そして「共感」を得ていることは、原作漫画13巻までの売り上げが450万部に達し、数ある漫画の中から講談社漫画賞(2002年)を受賞していることが証明している。

 映画版を見ても判るように、この漫画には多くのパロディが存在する。

 中でも登場人物はそのオンパレード。メカ沢新一(中沢新一)、フレディ(フィレディ・マーキュリー)、豪ヒロミ(郷ひろみ)、竹之内豊(竹野内豊)、石川淳(いしかわじゅん)、藤本貴一(藤本義一)などなど。

 さらにクロマティ四天王(なのに5人)はどう見てもKISSだし、マスク・ド・竹之内はミルマス・カラスかデストロイヤー。高校名は「デストラーデ」、「バース」、「マニエル」と外国人野球選手の名前をもじっているのは明白。

 それが仇となってウォーレン・クロマティに公開中止の訴訟を起されたのは周知の通り。

 しかしその「ピンチ」がこの低予算映画の「チャンス」になったのは誤算だったはずだ。

 監督の山口雄大は「地獄甲子園」(2003)で名を馳せた人物だが、はっきりいって映像センスはない。どこかインディペンデント映画の域を出ない荒さがある。だが、その「荒さ」が荒唐無稽な作品の場合に、怒涛の威力を発揮する。

 恐らく「感動のドラマ」は撮れないだろうけれども、「バカ」をクソ真面目に描くことでは他の追随を許さない個性がある。絵ずらからすると「地獄甲子園」も「クロマティ高校」も大差ない。同じ映画に見えるくらいだ。

 しかし映像を見れば、これが山口雄大監督によるものだと判るくらいの「個性」があるのだ。

「地獄甲子園」もまた映像化不可能といわれた漫画であったように、「クロマティ高校」も映像化不可能と思われていた漫画だっただけにその快挙は称えたい。

 だが、それは俳優陣の怪演によるところも大きいのも事実。原作そっくりなキャラクターもいれば、全く違うキャラクターもいる。しかし「バカ」を大真面目にやっていることで、そんなことはあまり気にならなくなる。

 特筆すべきは渡辺裕之のフレディと板尾創路のマスク・ド・竹之内。彼らのトボケぶりは最高で、「笑い」さえ起こらないがインパクトは大きい。

 残念なのはこの「笑い」を引き起こせていない点だ。

 これは漫画独特の「間」に起因する。

「クロマティ高校」が深夜帯にテレビアニメ化された時も言われたことだが、「間」を再現することは難しい。なぜなら「間」はコマとコマを読む読者の感覚に委ねられているからだ。

 原作の「クロマティ高校」においてこの「間」こそが「笑い」を引き起こす要因となっているため、その「間」のタイミングが観客とシンクロしないと「笑えない」のだ。

 視覚的におかしいことをしているとか、面白いことを言って笑わせるというパターンの作品でないのが致命的になっている。

 だが怒涛の短いエピソードをつなぎ合わせ、85分という短い上映時間が味方して、さほど退屈するほどではない。むしろバカバカしさが日頃の疲れを「なごませてくれる」くらいだ。

 往年の特撮ファンにとって感涙モノなのは敵役として「宇宙猿人ゴリ」が登場することだろう。

 もちろんこれは映画のオリジナル設定。宇宙から地球に攻めてくる「猿」という設定はもちろん当時大ヒットした「猿の惑星」(1968)によるもの。この「宇宙猿人ゴリ」は「スペクトルマン」といった方が判りやすいかもしれない。

 実は「宇宙猿人ゴリ」はスペクトルマンの敵役であるゴリをタイトルにしたもので、そこには原作者うしおそうじのこだわりがあった。それは「侵略者」の視点でヒーローを描くというものだった。

 ところが視聴者からのクレームが絶えず、放送から半年後「宇宙猿人ゴリ対スペクトルマン」にタイトルが変更され、さらに4ヵ月後「スペクトルマン」に変更されたといういわくつきの作品なのだ。

 ストーリーが2話完結というスタイルも、当時の1話完結の特撮ヒーロー物とは一線を介していた。

 今回ゴリの吹き替えを当時と同じ小林清志が担当しているのは嬉しい限り。「マグマ大使」や「怪傑ライオン丸」「電人ザボーガー」などを手掛けたビープロを設立したうしおそうじは、東宝の特撮部で円谷英二と同僚だった経歴を持つ変り種の漫画家だった。

 うしおそうじは、残念ながら33年ぶりのゴリの勇姿をみることなく昨年亡くなった。現在の人気漫画に「侵略」する姿を見たらさぞ喜んだことだろうと思いつつ、リスペクト。

  
Posted by matusan at 10:41Comments(3)TrackBack(10)

2005年09月22日

ビヨンドtheシー〜夢見るように歌えば〜

ズラ、カミングアウト!第218回

★★☆(劇場)

 メル・ギブソン主演の「テキーラ・サンライズ」(1988)。

 この映画はボビー・ダーリンの「ビヨンド・ザ・シー」で幕が開ける。

「ビヨンド・ザ・シー」はフランスのチャールズ・トレント作詞・作曲の名曲「La Mer」が原曲だが、ボビー・ダーリンの代表曲でもある。

 この歌は映画好みな楽曲で、「普通じゃない」(1997)や「X−ファイル」に使用されており、ボビー・ダーリンの歌は「ユー・ガット・メール」(1999)や「マッチスティック・メン」(2003)にも使われていた。

 歌手であるボビー・ダーリンは俳優としても活躍し、劇中では(その後妻となる)サンドラ・ディーと共演作「九月になれば」(1961)や、アカデミー助演男優賞にノミネートされた「ニューマンという男」(1963)が紹介されていたが、スティーブ・マックイーンのファンとしては「突撃隊」(1961)の印象が強いだろう。

「ビヨンドtheシー〜夢見るように歌えば〜」は、そんなボビー・ダーリンの伝記をケビン・スペイシーが製作・監督・脚本・主演の4役を引き受けて製作したワンマン映画だ。

 ここで描かれているのは残念ながらボビー・ダーリンの才能ではなく、ケビン・スペイシーの才能である。

 その根拠はケビン・スペイシーの「そっくり」ぶりと、歌を全てケビン・スペイシーが歌い直している点にある。モノマネを越えた入魂の演技、素晴らしい歌声は、まさに「ケビン・スペイシー・ショウ」だ。

 彼の多才ぶりはドーク番組「アクターズ・スタジオ・インタビュー」に出演した折にタップダンスなどの芸を披露していたことで証明済み。

 これまでにも「アルビノ・アリゲーター」(1996)を監督しており、俳優としては「ユージュアル・サスペクツ」(1995)でアカデミー助演男優賞、「アメリカン・ビューティ」(1999)で主演男優賞と、2度のオスカー受賞者として確固たる地位を築いている。

 だが、彼のフィルモグラフィーを見ると、ある共通点に気付く。

 それは彼の演じる役には必ず「秘密」が付きまとうということだ。

 例えば「ライフ・オブ・デビット・ゲイル」(2003)や「光の旅人/K−PAX」(2001)、「アメリカン・ビューティ」(1999)、「交渉人」(1998)、「LAコンフィデンシャル」(1997)、「真夜中のサバナ」(1997)など、主役を演じた役は全て「秘密」を抱えている。

 また、「シッピング・ニュース」(2001)や「ペイ・フォワード 可能の王国」(2000)では「心の傷」が「謎」=「秘密」となり物語を展開させていた。

 これは出演作にサスペンス映画が多いというだけでなく、彼が好んで「秘密」を抱える役柄を引き受けているからにほかならない。

 さらに、有名になる以前も「ユージュアル・サスペクツ」、「セブン」(1995)、「隣人」(1992)など秘密を抱えた役を演じていたのも偶然ではない。

 これは、実際私生活においても「秘密」を抱える自身を反映させていると考えてよいだろう。

 近年製作される「伝記映画」の特徴は「暴露」にある。

 これまで伏せられてきた事実を描くことで話題を呼び、新鮮味を出すのだ。

 今年公開された作品だけでも

・「五線譜のラブレター」(2004)のコール・ポーターや「愛についてのキンゼイ・レポート」(2004)のアルフレッド・キンゼイの両刀使い。

・「Ray/レイ」(2004)のレイ・チャールズや「ライフ・イズ・コメディ!ピーター・セラーズの愛し方」(2004)のピーター・セラーズ女癖の悪さ。

・「アビエイター」(2004)のハワード・ヒューズの強迫性障害。

・「ネバーランド」(2004)のジェームス・バリの家庭崩壊。

・「アレキサンダー」(2005)のアレキサンダー大王が同性愛者。

 などなど。これだけあればこの傾向は納得いただけるだろう。

 この「ビヨンドtheシー」においても、ボビー・ダーリン出生の秘密が鍵となる。

 このような傾向に不安を感じるのは、衝撃度ばかりにスポットライトが当たって、功績や武勇伝などがぼかされてしまう点だ。

 本来伝記は、我々の生活における「手本」となるべき「偉人」の功績を描いたものが多かった。だが、時代は変わり、闇に葬られていた部分も描けるというメリットはあるが、逆に言うと「恥部」を描くことで主人公となるべき「偉人」たちに共感できなくなっているのだ。

 もともと、人の人生を2時間で描くのにはどうしても無理がある。それは「ダイジェスト」になってしまうからだ。

「ビヨンドtheシー」においては、ボビー・ダーリンが自身の人生を演じ、それを子供時代の自分とが交互に「人生」を客観視するという3重構成の工夫がなされている。

 劇中「栄光」にはステージの後ろから撮影された「逆光」映像=「光に向かう」が挟み込まれ、「挫折」には客席側から、もしくは「逆光」なしの映像しか映し出されない。

 このような映像処理には意味がある。

 普通であれば混乱を起しそうなカット割りを、あえて不自然なセットや、あからさまに作り物っぽい色彩の衣装によって、観客に撮影意図を訴求しているのだ。その演出手腕は見事だ。

「夢」と「妄想」に「現実」が絡み、ミュージカルのような場面まで挿入して、単なる伝記映画にはしないという意気込みが感じられる。

 また、撮影監督にパトリス・ルコントの片腕であり、昨年公開された「真珠の耳飾の少女」(2003)における神業的映像で唸らせたエドゥアルド・セラを起用したり、音楽プロデューサーに大御所フィル・ラモーンを起用するなど、センスあるスタッフ採用も製作を兼任するケビン・スペイシーの功績。

 脇にはジョン・グッドマン、ボブ・ホスキンス、ブレンダ・ブレッシン、キャロライン・アーロンというバイプレイヤーを揃えたのもハリウッド映画らしくなくて良い。

 中でも1990年代に国際女優として活躍し、「推定無罪」(1990)や「プラスティック・ナイトメア/仮面の情事」(1991)、「抱きしめたいから」(1991)などのハリウッド映画で多くのヒロインを演じていたグレタ・スカッキが、久しぶりのハリウッド映画出演を果たしているのは嬉しい限り(サンドラ・ディーの母親役)。

 残念なのは前述通り、ケビン・スペイシーの熱演によって「伝記映画」ではなくなっている点だ。

 ボビー・ダーリンへの「愛情」は伝わるが、ボビー・ダーリンの「魅力」は伝わらない。観客が聞いているのはボビー・ダーリンではなく、ケビン・スペイシーの歌声だから当然だ。

 サントラに収録されているのもケビン・スペイシーの歌声ばかりで、本当にボビー・ダーリンをリスペクトしているのか疑問になる。確かにケビン・スペイシーの歌はとてつもなく巧いけれど・・・。

 ボビー・ダーリンの妻だったサンドラ・ディー(演じるはケイト・ボズワース)は、「避暑地の出来事」(1959)の主演でトロイ・ドナヒューとともに人気者となった女優だ。ボビー・ダーリンとはその後離婚したが彼の死後も再婚はせず、残念ながら今年2月に亡くなった。

 この映画のその後、彼女の人生は紆余曲折あったのだが、亡き元夫の伝記映画の完成を目にしたことがせめてもの救いだろう。

 映画後半、フォーク歌手に転向したボビー・ダーリンは観客からブーイングを受ける。ところが同じ歌をタキシード姿で歌うと、観客は熱狂する場面がある。

 中身は同じなのに、外見で判断する。

 この「内」と「外」における「理解」と「誤解」こそ、ケビン・スペイシーが演じてきた役柄に通じる、彼のメッセージなのだ。

  
Posted by matusan at 06:26Comments(3)TrackBack(12)

2005年09月21日

ファンスタスティック・フォー 〔超能力ユニット〕

フォ〜! by HG第217回

★★★(劇場)

「ムッシュメラメラ!」

「ムラムラ」のダチョウ倶楽部ではない、アニメ「宇宙忍者ゴームズ」である。

 ある程度の年齢の殿方なら、このアメリカ製アニメ番組をご覧になったことがあるはず。このアニメの原題名こそ「Fantastic Four」、そう「ファンタスティック・フォー〔超能力ユニット〕」だ。

 なぜ「ゴームズ」かというと、Mr.ファンタスティック(ヨアン・グリフィズ)がゴムのように伸びるからだ。ちなみにインビジブル・ウーマン(ジェシカ・アルバ)は「スージー」、ヒューマン・トーチ(クリス・エヴァンス)は「ファイヤーボーイ」、ザ・シング(マイケル・チクリス)は「ガンロック」だった(つまり「岩」=「ロック」)。

 各キャラクターの特技プラス、Mr.ファンタスティックの発明品を武器に悪と闘うというストーリーだったが、今回の映画版ではその誕生秘話が描かれている。

 日本に「特撮ヒーロー物」は数あれど、実は4人組みというのはトランプになぞえた「ジャッカー電撃隊」くらいしかいない(そんな彼らにも5人目のビッグワンがいる)。「雅楽戦隊ホワイトストーンズ」だって3+1の構成。

 それは日本において「4」が不吉な数字だとされることが起因している。

「4」=「し」=「死」とされ、ホテルやアパートの部屋番号に「4」が使われないことさえある。

 また「四国」は「死国」だとも言われ、四国八十八箇所巡礼は苦行の象徴だ。

 ところが「4」という数字は欧米において「四葉のクローバー」や「四天王」などいい意味で使うことが多い。

 さらにオリンピックやワールドカップ、大統領選挙は「4」年に1回という周期で開催されており、テニスは「4」大大会で、ゴルフも「4」大トーナメント、世界「四」大文明まである。

 地球規模で言うと、季節は春夏秋冬の「四季」、方角は東西南北の「四方」、四大元素は火・土・風・水の「4」つ。

 つまり、「ファンタスティック・フォー」=「素晴らしい4」なのだ。

 近年アメリカンコミック原作の映画が大ヒットすることによって、スターの登竜門的意義が生まれてきた。

 例えば「X−MEN」(2000)からはヒュー・ジャックマン、ハル・ベリー、「デアデビル」(2003)からはジェニファー・ガーナー、コリン・ファレル、「ハルク」(2003)からはエリック・バナといった具合だ。

 この「ファンタスティック・フォー」にも、全米の大ヒットによって今後の活躍が期待できる人材が出演している。

 Mr.ファンタスティックを演じるヨアン・グリフィズは「キング・アーサー」(2004)でランスロットを演じたイギリス人俳優。

 ヒューマン・トーチを演じたクリス・エヴァンスは「セルラー」(2004)の主演が記憶に新しい。

 そしてインビジブル・ウーマンを演じたジェシカ・アルバはテレビシリーズ「ダーク・エンジェル」で既に日本ではお馴染み。決して正統派な美女ではないが、映画初大役と思えない存在感で各メンバーを牽引しているのはさすが。近日公開の「シン・シティ」(2005)の助演も楽しみな「アクションのできる」女優だ。

 映画ファンとして注目はザ・シングを演じたマイケル・チクリスだろう。

 彼はかつて、ジョン・ベルーシの伝記映画「ベルーシ/ブルースの消えた夜」(1989)で鳴り物入りの主演デビューを果たしたものの、映画が酷評されて映画界から抹殺されてしまった人物だ。

 その後活動の場をテレビドラマに移し、カナダのテレビドラマ「コミッシュ」(1991〜)で人気を博し、2002年から始まった「ザ・シールド」ではエミー賞とゴールデングローブ賞の主演男優賞を受賞、ハリウッドに凱旋活動の真っ最中。いい俳優なので個人的に応援しています。

 また、脚本に「ツインピークス」のマーク・フロストの名前を久しぶりに見かけて喜んだのは僕だけではあるまい。

 あまりゴタクを並べることなく、前半はテンポ良く物語が展開する。宇宙へ旅立つ過程も、事故場面も、能力を発揮する過程もあっけない。

 だが中盤、ビクター(ジュリアン・マクマホン)がMr.ドゥームへと変貌するまでの展開になるとスピードが失速する。4人に大した困難が訪れる訳でもなく、ラストのバトルへと流れてゆくので少し物足りない。

 同じスタン・リー作品である「X−MEN」とどうしても比較してしまうのだが、特殊な力を持った者の「苦悩」や「悲しみ」が描かれておらず、登場人物はシリアスに悩むこともなく、どこかお気軽なのでストーリーに重みが無い。

 それどころか、忌み嫌っていた外見を一度元通りになったザ・シングは、仲間のために再び醜い姿に戻ってしまう。ここはあまりにも軽率で共感できない。

「仮面ライダー」でさえ、馬鹿力のため蛇口をひねる事が出来ないという苦悩が描かれていたというのに。

 また、変貌した外見に恐怖を感じ、婚約を破棄するザ・シングの婚約者の姿は、「外見偏重」の世の中へのアンチテーゼのように見えて、そこまでの深さを見出せなかったのがいただけない。

 一方で、主人公たちが学者であるコンセプトを生かし、結局は特殊な「力」ではなく科学の「力」によって勝利をもたらす点は評価できる。

 主人公の内面性や、正義の定義、善悪の狭間を描いたヒーロー物が多い中、単純に「正義 vs 悪」という図式で描ききったのは潔いというべきか、シンプルというべきか。

 ラストは確実に「続編狙い」であることがわかる。今回は無難な出来だったが、続編では発明兵器による戦いになると予想される。

 近年は特撮だけが売り物ではなかなか傑作にはならない。「スパイダーマン」(2002)のような人間ドラマとの融合によってのみ、傑作となり、メガヒットとなているのも事実。

 エンドロールに流れるオレンジレンジの「キリキリマイ」同様、どうせなら観客の我々をキリキリマイさせる続編にして欲しいものだ。

 ちなみに、Mr.ファンタスティックのびょーんと手足が伸びる特撮を見て、「ONE PIECE ワンピース」を実写化出来るのでは?と思ったのも僕だけではあるまい。

  
Posted by matusan at 03:47Comments(11)TrackBack(39)