2006年02月28日

まつさんの文化伝道師2006 2月号

YUKIだってエロかわいかったりする第377回

 先月から始まった月末恒例の「まつさんの文化伝道師」。今回も今月お勧めの作品を勝手にご紹介させていただきます。

【まつさんの文化伝道師 2006年2月号】

■まつさんのヘビーローテーション

「メランコリニスタ」 YUKI

 音楽誌では「パーティチューン」などと紹介されているが、この楽曲の奥深さはYUKIの80年代ポップへの考察に真髄がある。「僕の書く下手な詩は多分世界を救えない」という自嘲的な歌詞や造語的なタイトルも秀逸。


■CDアルバムこの5枚

「KIZUNA」 木下航志

 NHKのドキュメント番組で話題となった鹿児島の盲目天才音楽少年が16歳になり、満を持してメジャーデビュー。粗削りな物足りなさは否めないが、今後十年かけて化けることは間違いない。


「Shiplaunching」 冨田ラボ

 先日「トップランナー」にも出演した冨田恵一のセルフプロジェクト3年ぶりの新譜。冨田が敬愛する高橋幸宏や大貫妙子、鈴木慶一という豪華な面々が参加し、ケミストリーの歌う「ずっと読みかけの夏」は珠玉の出来。


「シング・アロング・アンド・ララバイズ」 ジャック・ジョンソンandザ・フレンズ

 サーフミュージックの王様の新譜は何とアニメ映画版「おさるのジョージ」のサントラ!優しいサウンドがまだ冷たい海へと誘う魅力を放つ。しかし、このアニメ版ジョージは全く原形をとどめていないのだが何故?


「ダニエル・パウター」 ダニエル・パウター

 メランコリーな応援歌「Bad Day」で一躍注目を浴びているカナダ人ながらイギリスでブレイクした新人。可愛い物語になっているミュージッククリップも素晴らしく、日本でもヒット確実。日本盤は3月8日にリリースなので青田買いしたい方は是非。


「アット・ディズ・タイム」 バート・バカラック

 映画ファンにもおなじみのアメリカ音楽界の大御所が28年ぶりのソロアルバムを発売。エルヴィス・コステロやドクター・ドレーなど幅広いミュージシャンが参加し、来年のグラミー賞の台風の目となる予感!


■CDシングルこの5枚

「I believe」 絢香

 デビュー曲でいきなりドラマ「輪舞曲」の主題歌に抜擢された期待の新人。昨年MTVの特番で披露した生歌の素晴らしさがシングルからは伝わっていないのが惜しまれる。彼女の歌声と歌唱力は本物です。


「CRY NO MORE」 中島美嘉

 アメリカ南部音楽的な音楽アプローチと「あとどのくらい」と言葉遊びも巧みに取り込んだ遊び心も見事な1曲。


「サファイアの星」 東京スカパラダイスオーケストラ

 ゲストボーカルにCHARAを迎えた「歌モノ3部作」の第二弾。企画はよかったが楽曲が少しCHARAには不向きだったのが惜しまれる。美しいジャケットにも注目。


「予感」 ohana

 ハナレグミの永積タカシとクラムボンの原田郁子、ポラリスのオオヤユウスケという、これまでもそれぞれのアルバムなどでセッションしてきた3人が組んだ新バンド。昼下がりな癒し感満載の楽曲で、3月発売のアルバム「オハナ百景」も期待大。


「音速パンチ」 Cocco

 まさかの復活を遂げたSINGERSONGERで気をよくしたCoccoのこちらもまさかの5年ぶりのソロ復活シングル。渾身の歌声に絡むエッジの効いた楽曲がなかなかカッコいい1曲。


■書籍この1冊

(漫画)

「20世紀少年 21巻」 浦沢直樹

 終わりそうでなかなか終わらない本作だが、前巻あたりから確実にクライマックスに向かって疾走し始めている。本日発売にてまだ未読だが、それでも推しの1冊。


(小説)

「包帯クラブ The Bandage Club」 天童荒太

 6年ぶりの書き下ろし新作をちくま新書から出すという企画力に脱帽。いっけん低年齢層向けのように見えて、実は広い層に訴求する力強い物語はさすが天童荒太と唸らせる。若者の過激な行動を冷静に見つめ、それでいて優しい視線も忘れない深い考察力も見事。今年のベストの1冊になることは間違いない。


■注目の1品

英語力判定が一日一回しか出来ないのがミソ「英語が苦手な大人のDSトレーニング えいご漬け」

 ゲーセンでのハイパーオリンピックを最後にゲームとは無縁の生活を送ってきたわたくしですが、このソフトのためにわざわざDS購入を計画。が、DS本体がいまだ日本全国で品切れの状態で、どうにかアメリカの輸入盤を獲得。「えいご漬け」は、英語のヒアリングがかなり得意なまつさんもお勧めのカリキュラムと構成になっていて、これを確実に毎日続ければ駅前留学するよりも高い確率でヒアリングと書き取りが上達すること間違いなし。ヒアリングは得意でもスペルが苦手なわたくしにとって、大変勉強になっております。


 と言うわけで今月も独断と偏見でお送りしましたが、来月もよろしくお願いいたします。

  

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2006年02月27日

第78回アカデミー賞ノミネート大予想

最低映画を決める恒例のラジー賞は3月4日に発表第376回

 ついに来週(日本時間3月6日)開催される映画の祭典アカデミー賞授賞式。

 発表の1週間前になりましたので、昨年に引き続き主要部門のノミネートを独断と偏見で勝手に大予想。個人的欲望が強いため昨年は半分しか当たりませんでしたが、今年も気にせず予想したいと思います。

【第78回アカデミー賞大予想の巻】

〆酩幣沺А屮屮蹇璽バック・マウンテン」

 この作品が受賞することは「フィラデルフィア」(1993)が認められたことで、エイズを題材にやっとメジャーが映画を作れるようになったきっかけと同じくらいの意味合いがある。「カポーティ」は作品賞には弱く、「ミュンヘン」はノミネートだけでも快挙。という訳で対抗馬は内容的に「クラッシュ」、「ブロークバック・マウンテン」惨敗の場合はジョージ・クルーニーが活躍して「グッドナイト&グッドラック」が有利となりそうだ。


監督賞:アン・リー 「ブロークバック・マウンテン」

 映画ファンならお馴染みだが、アン・リーが既に獲得している「全米監督組合賞」を受賞した監督がアカデミー賞を取れなかったことは過去55年で6回しかない。そのうちの1回が「グリーン・デスティニー」(2000)でアン・リー自身だっただけに、今回はかなり可能性が高い。対抗馬は「なし」と言って過言ではない。


主演男優賞:ホアキン・フェニックス 「ウォーク・ザ・ライン/君につづく道」

 アカデミーは実在の人物を演じる俳優に甘い傾向がある。昨年の「Ray/レイ」(2004)をはじめ、「戦場のピアニスト」(2003)、「シャイン」(1997)、「運命の逆転」(1991)、「マイ・レフトフット」(1990)、「アマデウス」(1985)、「ガンジー」(1983)、「レイジング・ブル」(1981)と過去25年に8本もあるだけに有利。そういう意味ではトルーマン・カポーティを演じたフィリップ・シーモア・ホフマンは今夏公開の「MI:3」(2006)での悪役という話題も相成って有利か?個人的には兄・リヴァーの果たせなかった夢をホアキンにぜひ叶えて欲しい!対抗馬は「ブロークバック・マウンテン」が独占の場合ヒース・レジャーと予想。


ぜ膠藹優賞:フェリシティ・ハフマン 「トランスアメリカ」

 アカデミー賞は障害者や肉体改造をする俳優にも甘い傾向がある。過去にも男を演じた「危険な年」(1982)のリンダ・ハントが助演女優賞を獲得し、「ボーイズ・ドント・クライ」(2000)のヒラリー・スワンク、「モンスター」(2004)のシャーリーズ・セロンという前例もある。性転換した男性を演じたフェリシティ・ハフマンはテレビドラマ「デスパレートな妻たち」での旬な人気もかなり味方となりそうだ。対抗馬はリーズ・ウィザースプーンだが、ジュディ・デンチとシャーリーズ・セロンが既に受賞しているので残り3人の受賞確率は主演男優賞に比べてかなり高い。


ソ演男優賞:ポール・ジアマッティ 「シンデレラマン」

 三度目の正直となるポール・ジアマッティに同情票が集まり、ゴールデングローブ賞を獲得している本命のジョージ・クルーニーはまだ主演男優賞への可能性が今後あるので先送りになりそう。個人的にはマット・ディロンにあげたいのだが・・・。


助演女優賞:レイチェル・ワイズ 「ナイロビの蜂」

「マルコヴィッチの穴」(1999)以来アカデミー賞に縁のなかったキャサリン・キーナーだが、昨年4本の映画に出演している活躍ぶりも評価の対象になりえるのでゴールデングローブ賞などを獲得しているレイチェル・ワイズにとっては手ごわい対抗馬。話題性ならレイチェル・ワイズ、演技そのものならキャサリン・キーナーに。


Дリジナル脚本賞:ジョージ・クルーニー グランド・ヘスロヴ 「グッドナイト&グッドラック」

 作品賞も監督賞も助演男優賞も得られないであろうジョージ・クルーニーに同情票が集まる可能性が高い。また過去にも「グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち」(1997)でマット・デイモンとベン・アフレックが受賞しているが、「ロッキー」(1976)のシルベスタ・スタローン、「ザ・ロイヤル・テネンバウムス」(2001)のオーウェン・ウィルソンなど俳優が書いた脚本が受賞できなかった前例もある。対抗馬は同じジョージ・クルーニーの出演作「シリアナ」か。


┻喊Ь沺Д薀蝓次Ε泪マーティ ダイアナ・オサナ「ブロークバック・マウンテン」

 個人的には「ヒストリー・バイオレンス」を推したいのだが、良質の作品賞には脚本関係の賞がついてくるというジンクスがある(多部門受賞した「タイタニック」(1997)や「グラディエーター」(2000)が脚本賞を獲れなかったのはその好例)ので「ブロークバック・マウンテン」はやはり本命か。


長編アニメ映画賞:「ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!」

 過去短編賞を2度受賞している確率の高さと知名度はさすがの宮崎アニメも苦戦を強いられると予想。アメリカでの興行不振を考えれば主要スタジオのCGアニメ作品を差し置いてノミネートしただけでも快挙と思える。


 以上、個人的見解にて的中率には責任を負いませんのであしからず。

(総評)

 今年は小規模作品が主要部門を独占し、大作のノミネートは技術部門でさえも殆ど無い状態。これは昨年のアメリカ映画界興行不振を反映したもので、ノミネートや受賞をきっかけに大ヒットすれば今後のハリウッド映画の動向を左右しかねない。

 アカデミー賞はハリウッドの映画人が仲間内で祝う賞だ。つまり今回の小規模作品ノミネートという傾向はハリウッド映画人が「製作費」ではなく「内容」を重視し始めた証拠であるように思える。

「ミュンヘン」以外は全てがインデペンデント系映画会社作品であることは、逆に一般的な注目度を集めにくいという側面も持ち合わせている。よってアカデミー賞授賞式の視聴率云々で言うと厳しいという見方もある。

 しかし「ブロークバック・マウンテン」や「カポーティ」が受賞すれば世界的気運とともに「ゲイ映画」の一般化を加速させるかもしれないし、インデペンデント映画自体がメジャー映画に対抗できるようなハリウッド映画の体制改革が成されるきっかけになるかもしれない。

 これまで「ダンス・ウィズ・ウルブス」(1991)の時にケビン・コスナー、「許されざる者」(1993)及び昨年の「ミリオンダラー・ベイビー」(2005)の時にクリント・イーストウッド、「ブレイブハート」(1996)の時にメル・ギブソンと、俳優が監督賞と作品賞などを受賞して「今年の人」になった前例がある。

 そういう観点から考えると、プロデューサーとして作品賞、監督として監督賞、俳優として助演男優賞、脚本家としてオリジナル脚本賞と4部門でノミネートされているジョージ・クルーニーは、「ブロークバック・マウンテン」の同性愛描写に共感できないアカデミー会員の支持を得れば「今年の人」になる可能性が大きい。

 そういう意味で「ブロークバック・マウンテン」が独占出来なかった場合は、ジョージ・クルーニー関連作品が独占する場合もありえるだろう。

 さらに日本人としては「ウォレスとグルミット」という強敵に勝てば宮崎駿二度目の受賞を目撃できるかもしれないし、短編ドキュメンタリー賞にノミネートされている日系監督スティーブン・オカザキの二度目の受賞にも期待がかかる。

 このように地味ながら、今年のアカデミー賞も見所いっぱい!

 尚、その他各部門の分析は過去記事「第78回アカデミー賞ノミネート」に詳細を記載しておりますので、ご参照頂ければ幸いです。

 第78回アカデミー賞授賞式は3月6日(日本時間)に開催。式直前のレッドカーペットの模様はムービープラスにて7:25〜9:45に「E!アカデミー賞授賞式直前LIVE」で生中継。授賞式の模様はWOWOWにて8:50〜放送開始、授賞式は10::00〜放送予定です(当日21:00〜字幕付き再放送あり)。

 映画ファンの皆様、今年もチェックだぜい!

  
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2006年02月26日

ビッグ・スウィンドル!

日本って韓国人にとって逃亡先?第375回

★★☆(劇場)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

 目は心の窓であるといわれる。

 指名手配犯を捕まえるため、捜査員は常に指名手配犯の写真の束を単語カードの如く持ち歩いているという。

 だが、彼らは写真を持ち歩いているのは顔を覚えるためではない。「目」を覚えるためなのだ。

 歳を取ると顔は少しずつ変化する。中には整形する犯人もいる。しかし「目」=「まなこ」だけは変えられない。捜査員たちは写真の中の指名手配犯たちの「目」を覚えることによって何年も逃げている犯人の今の姿に惑わされないようにしているのだ。

 昔、某映画雑誌の付録に「映画クイズ」の冊子が付いていたことがあったのだが、その中に当時の人気俳優たちの目の部分だけを切り取った写真が並び「誰」であるかを当てるというクイズが掲載されていた。

「目」しか映っていないにもかかわらず、これが不思議と誰だかわかるのである。

「ビッグ・スウィンドル!」は銀行から大金を騙して盗んだ実話を基に構成された強盗映画。冒頭、主人公は警察に追われて交通事故を起して死亡、捕まった強盗仲間が回想する形で事件の真相に迫ってゆく。

 宣伝文句に「冒頭1分から騙される!」とあるように、この映画は観客を欺くことを主点に置いた展開になっている。つまり「頭から騙している」のだから自ずと展開が見えてしまう、そこが実に惜しまれる作品なのだ。

 特に映画前半から観客を騙すために、強盗とは全く関係ない「ある人物」が執拗に登場して過去を語り始める。この人物の「目」がいけないのだ。

 某チョコレートのCMで、SMAPの二人が入れ替わるという設定のものがある。ここで視聴者が騙されるのは、本人が本人の真似をしているからであって本当に「変装」しているのではなく、「変装」してましたというオチである点が重要なのだ。

 ところが「ビッグ・スウィンドル!」では明らかに本人であることが丸わかりなのだ。

 一目瞭然の「変装」を二重のひっかけにして、実は裏の裏をかいていたという展開ならわからなくもないが、恐らく観客のほとんどは「冒頭1分から気付いている」はずなのだ。

 映画後半は「復讐」という意外な展開を見せるのだが、それもかなり予定調和な演出で見せるために大した驚きには繋がっていない。結局は奇抜な展開を狙って時系列を組み替えたことが逆効果になった好例のような作品になってしまっている。

 この映画で面白いのは「謎解き」よりも数々の「詐欺」による「騙しのテクニック」だ。古今東西変わらぬその手口は人間の弱みに付け込んだものである。例えば、ダメだと言われればやりたくなるような人間誰にでもあるような深層心理を巧みに操ることで相手を騙すのだ。

 策略家、恋愛詐欺師、偽造の名人、麻薬中毒の二枚舌、彼らと組む主人公のチャンヒョク(パク・シニャン)、そこに絡む美人詐欺師(ヨム・ジョンア)とベテラン刑事。確実に誰かが騙され、誰かが得をする。果たして5億円の隠し場所はどこなのか?

 主人公を演じたパク・シニャンは、「リベラ・メ」(2000)のヤン・ユノ監督と学生時代に知り合い、ヤン・ユノ監督デビュー作にしてチョン・ジヒョンの初主演作でもある「ホワイト・バレンタイン」(1999)で注目され、チョン・ジヒョンとは「四人の食卓」(2003)で再び共演している。日本ではドラマ「パリの恋人」で一躍韓流ファンの間で人気者となった。

 以前「風のファイター」の撮影で来日していたヤン・ユノ監督と話す機会があったとき、僕が「リベラ・メ」のユ・ジテやチェ・ミンスのことを褒めると、当時はまだ日本で無名だった(1作も出演作は日本で公開されていなかった)パク・シニャンのことを「韓国にはいい俳優がいる」と語っていたのを思い出す(このときの4時間に及ぶ対話の一部はロングインタビューとして「風のファイター」の日本公開時に掲載予定)。

 また美人詐欺師を演じているヨム・ジョンアはミスコリア出身で、日本でも「箪笥」(2003)、「H」(2002)、「カル」(1999)など出演作が多く公開されている女優の一人。「ラストプレゼント」(2001)や「ひとまず走れ!」(2002)のイ・ムンシクも口先だけの詐欺師を好演している。

「ビッグ・スウィンドル!」はコメディタッチの作品でありながら、主要登場人物たちは何とも後味の悪い死を迎えることとなる。

 このシリアスさとお気軽さの同居は「今」の韓国を象徴しているように思える。

 徴兵制に否定的な若者が増え、一攫千金的な資本主義経済が蔓延している現状は、ひとときの優雅さのために計画性を見失っている主人公たちと符合する。

 結局そんな社会情勢で「勝ち組」となるのは、長い人生の先を見越した人間だ。

 この映画でも最後に笑うのは、先の先を見越した人間である。しかし「一番先」を見越しているのが、実は「観客」である点が、この映画を仕掛けた映画製作者たちという「詐欺師」たちにとって最大の失敗だったのが何とも物悲しい。

  
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2006年02月25日

ウォーク・ザ・ライン/君につづく道

遺作のひとつ「愛と呼ばれるもの」でリヴァーは歌手を演じた第374回

★★★★(劇場)

 兄の異変に動揺し、救急車を呼んだ時の音声が当時ニュースで何度も繰り返し流れた。

「お願いです、誰か来てください!」

 その悲痛な叫び声は、当時ジョニー・デップがサンセットストリップで経営していたナイトクラブ「バイパー・ルーム」近くの公衆電話から掛けられたものだった。

 声の主はリーフという少年。映画スターである兄の恩恵で子役俳優として活躍しようとしていた人物だ。

 騒ぎに気付いた野次馬たちがどんどん倒れた兄の周辺に集まりだす。腕や足をバタつかせる発作が何度か続いた後、彼は動かなくなった。救急車が到着し、救急隊員が応急手当をするも息を吹き返すことは無かった。

 兄の名前はリヴァー・フェニックス、享年23歳。

 リヴァーの死の現場に居合わせた弟リーフ、彼は後にホアキン・フェニックスと名を変え、若手の演技派俳優へと成長することになる。

「ウォーク・ザ・ライン/君につづく道」はアメリカの大物歌手だった故・ジョニー・キャッシュの自伝映画。本年度アカデミー賞に主演男優と女優の両方でノミネートされている話題作でもある。

 ジョニー・キャッシュの歌声そっくりに吹き替えをやってのけたホアキン・フェニックスだが、彼がこの役を引き受けたというニュースを聞いたとき、僕には理由がわからなかった。

 それは彼の外見がジョニー・キャッシュには似ていなかったからだ。あまり似ていると「物真似」と揶揄され、似ていないと逆に「似ていない」、「演技不足」と言われてしまう伝記映画において、ホアキン・フェニックスがジョニー・キャッシュを演じることは不利だと思ったのだ。

 だが、映画を見てその理由が判った。

 ホアキン・フェニックスはジョニー・キャッシュの境遇を自分の境遇と重ね合わせていたのだ。

 映画は冒頭ジョニー・キャッシュの回想シーンが映し出される。

 自分よりも優秀で優しい兄の死に際に幼いジョニーは立ち会ってしまう場面はまさにホアキンのそれと符合する。偉大な兄を持つプレッシャーに打ち勝ち、兄とは違う道を歩むことで勝ち得た栄光。

 僕はホアキンの活躍を目にするたび誇らしくなる。そして、リヴァーがこの世にいないことを惜しみつつも、悲しみは彼のおかげで払拭できるようになったのだ。

 ホアキン、いや、劇中のジョニー・キャッシュが亡き兄を想う場面が登場するたびに僕の胸も熱くなり、熱い涙がこみ上げる。

 この作品を見れば、ホアキン・フェニックスの兄・リヴァーへの想いが否応なしに理解できるだろう。

 だから、この映画は僕にとって特別な作品でもある。

 ジョニー・キャッシュは日本ではあまり馴染みがない歌手だが、アメリカでは生涯現役を貫いた疑いなき大物歌手。「刑事コロンボ」のファンなら、秀作エピソード「白鳥の歌」での犯人役として記憶があるかもしれない(「白鳥の歌」ではまさにカントリー歌手の役を演じており、これをベストに挙げる「刑事コロンボ」ファンもいる)。

 本作は紆余曲折の後に彼の妻となるジューン・カーターとの十年愛を軸とした構成となっているが、ジョニーとジューンはウィリー・ネルソンやクリス・クリストファーソン、メアリー・クロスビーなどカントリー歌手が大挙して出演したリメイク版「駅馬車」(1986)で仲良く共演しているので、機会あればご覧いただきたい。

 ジョニー・キャッシュが子供の頃から憧れていたジューン・カーターと出会い、愛を成就させるまでにかける十数年という長い日々。それはお互いが好意を抱きつつも本当の愛を恐れるためになかなか手に入れられないという少し変わった純愛として描かれている。

 この友情が愛へと変わる過程は、こちらがイライラするほど丁寧に描かれ、捉え方によっては最初の奥さんの描き方が一方的であるようにも思える。だが、たとえそれが「不倫愛」の結果であったとしても、これが実話であるから更に彼らの「愛」が愛おしくなってしまう。それは、人は人によって救われるという側面が描けているからにほかならない。

 ハリウッド映画人から大きな信頼を得ているジェームズ・マンゴールド監督は、「コップランド」(1997)、「17歳のカルテ」(1999)、「アイデンティティ」(2003)などこれまでの作品で大物俳優のアンサンブルを実現させてきた。

 今回はシェルビー・リンやジョナサン・ライスといった多くのミュージシャンを俳優として出演させ、ウェイロン・ジェニングス役には彼の息子であるシューター・ジェニングスをキャスティングするという抜群のセンスを見せる。

 また映画ファンとしては製作にジェームズ・キーチの名前があるのが見逃せない。

 兄のステイシー・キーチとともに俳優として活躍しながらも早くから「ロング・ライダーズ」(1980)など自身の出演作の脚本を手掛け、テレビドラマの演出家としても活躍。中でもクリント・イーストウッドが製作を担当した監督作「ヘンリエッタに降る星」(1995)は日本未公開ながら隠れた傑作として知られている。

 ホアキン・フェニックスのジョニー・キャッシュが似ていない分、微妙なそっくり(ロイ・オービソンはバディ・ホリーに見えてしまう!)俳優がエルビス・プレスリーなどを演じて均衡を保っているが、ジューン・カーターを演じたリーズ・ウィザースプーンもまた彼女には似ていない。

 だが、ホアキン・フェニックス同様、演奏と歌を吹き替えなしに演じた熱演は彼女らしい愛らしさと相成ってすこぶる魅力的。

 二人の楽曲を復活させ、得意のルーツミュージックをベースにしたアプローチを見せたT・ボーン・バーネットの音楽も素晴らしい。ボニー・レイットを復活させ、映画音楽としても「オー・ブラザー!」(2000)以降絶好調でハズレがない。

 タイトルの「ウォーク・ザ・ライン」とは決まった線の上しか歩かない、つまり「まっしぐら」という意味だ。ジョニー・キャッシュの生き様を見ると、苦悩しながらも「まっしぐら」であることがわかる。例え道をそれようとも向かう先は同じなのだ。

 それを印象付けるかのように、劇中多くの「歩く場面」が挿入されるが、その多くは直線の道の上を歩いている、そして「向かう先」が決まっている。逆に車など自分の足で移動しない場面では道が曲がりくねっている。

 一直線のラインに沿って作業をしていたジョニーの兄が、機械に巻き込まれて死んでしまったのもまた「自分で人生を歩む」ことへのアンチテーゼだ。

 道に迷っても「向かう先」さえ見失わなければ、人生は元に戻せる。

「まっしぐら」な純愛は、二つの道を一つにし、そして一本の道へと人生を紡いでゆくのだ。

  
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2006年02月24日

ブログキャスター

PC雑誌コーナーでなく経済雑誌コーナーに置いているのは何故?第373回

 荒川静香選手の金メダル獲得おめでとうございます。

 今回の冬季オリンピック日本選手団の期待を全て背負った重圧に負けなかった素晴らしい演技に感動された方も多いかと思います。特に生中継でご覧になった方々、まさに「早起きは三文の徳」ではなかったでしょうか。

 さて、大変手前味噌ですが、宣伝頂いたお返しということで今回は「ブログキャスター」という雑誌をご紹介します。

 既に全国の書店ほかコンビニや駅売店でも発売中のこの雑誌は、ブロガーが記事を書くという日本で初めての雑誌です。

 で、この「ブログキャスター」を出版している東洋経済新報社から当ブログへコメントがあり、「まつさんの映画伝道師」のURLを掲載したとご連絡いただきました。

 紙面を確認していただければ、20ページの下の方に「小さく」マイブログのアドレスがINDEXとして掲載されています。

 このような小さな記事についてここでわざわざ記載することでもないのですが、全ては毎日ご来店いただいている皆様の支持あってこそのことなので、感謝しつつ、ご興味あればご確認下さいませませ。

 あわせて「ブログキャスター」編集部の皆様、ありがとうございます。


 手前味噌ついでに、トラックバックやコメントを頂いているブログ仲間の皆様にご連絡です。

 実はここ20日ほどお返事が滞っている状態なのですが、本日から少しずつお返事させて頂く予定ですのでしばらくお待ちください。なお、トラックバック返しだけでも400件近く溜まっておりますので、コメントのお返事は今回出来かねるかもしれませんが、その点ご了承くださいますようご理解下さい。


 で、今回もこれで終わるのは忍びないので、昨日発売された気になる小説をご紹介します。



【木堂椎の「りはめより100倍恐ろしい」はちょっぴり恐ろしい】

文学の世界では既に「りはめ」と呼び捨てされている 原作者の木堂椎はテレビのお笑い番組で「いじられる」若手芸人を見て「いじられる」ことに恐怖を感じたそうだ。

 それは「いじられる」ことは「いじられ」キャラとして定着してしまい、他人に「いじられる」ことが一生付きまとうかもしれないからだ。

 逆に「いじめ」はある一定期間を乗り越えれば解放され、社会人になって挽回だって出来る。

 辛さは勿論同等だけれども、「いじられる」ことが本人にとって不本意であれば、もしかすると「いじめ」よりも辛いかもしれない。

 それはさしずめ「無間地獄」のように。

「りはめより100倍恐ろしい」という一風変わったタイトルは「いじり」の「り」と「いじめ」の「め」をとって「いじりはいじめよりも100倍恐ろしい」という意味のタイトルになっている。

 この小説を書いたのは東京在住の17歳の高校生。先月発表された角川書店主催「第1回野生時代青春文学大賞」を受賞した作品だ。

 綿矢りさと金原ひとみが芥川賞を同時受賞して以来、文学賞受賞者の低年齢化が進んでいるが、今回もまた高校生か、というのが正直な感想だった。

 この「野生時代青春文学賞」は候補作がネット上で公開されていたので既読の方もいらっしゃるかと思うが、決して一番の出来ではなかった。どこか「野ブタ。をプロデュース」を想起させる内容も斬新とは思えなかったのだ。

 しかし「いじり」と「いじめ」という一文字の違いが学生生活を舞台にしながら社会における「いじり」と「いじめ」を暗喩させる語り口が、高校生によるものだと考えれば、それは確かに凄いと思ったのも事実。

 作品の執筆に年齢は関係ないという評論家も多いが、過去の作家たちを作品の系譜として文学の歴史を検証していることを考えれば「年齢」は評価に左右しても仕方ないと僕は思っている(それは映画製作においても同様、年老いた巨匠が斬新な作品を手掛ければ評価が上がるのと一緒だ)。

 例えば、綿矢りさのデビュー作「インストール」や芥川賞受賞作「蹴りたい背中」は、高校生らしい視点の話ではあるが、世界観の狭さも指摘できる。それは実際に作者が高校生や大学生であるという「経験」の少なさが及ぼすものだ。

 しかし彼女と同じような視点を持ったり、文章表現が出来ることが特殊であることは、同じ世代の若者の文章を見れば自ずと気付くだろう。もちろん僕が高校生の時に同じものが何も無いところから書けるとは思えない。

 そういう意味で「年齢」を考慮した作品評価は「当然」というよりも「仕方ない」と思わせてしまう。

 とはいうものの、綿矢りさの場合は、その作家らしからぬアイドル的外見がセールスに大きな影響及ぼしているのだが(彼女の本が出るたびに掲載される新聞広告の写真がアイドル本なみに本の表紙ではなく彼女の顔写真を掲載していることが裏付ける)・・・。

 僕が危惧するのは若い才能を青田刈りして話題を作るだけ作って使い捨てにしないだろうかということだ。文学賞への応募数はここ数年どんどんと増えている。そして文学賞の数も同時に増えている。これはつまり年間のデビュー作家の数が増えるということだ。

 本を読む人が減少傾向にある中で、多くの若手がデビューすることは当然過酷な競争を生み出す。

 作品を作り出す側が消費されてゆく姿を僕は好ましく思えない。だからこそ読む側も若き才能には慎重にならなければならないと思うのだ。

 本を読む人口が減っている一方で、作家を目指す若者が増えているのは携帯電話の影響だと考えられている。

 つまり、これまで作文でさえ書くのが苦手であった若者が携帯メールによって文章を書くことの楽しさを覚え、作家になりたいと思うようになる人達が出てきたというわけだ。僕らのようなブロガーが600万人もいるのも同じような理由からなのかもしれない。

「りはめより100倍恐ろしい」が注目に値するのは、この小説が携帯電話によって「執筆」されたという事実にある。

 携帯メールの文字制限を一枚の原稿用紙に置き換えて執筆した作者の創作姿勢は、今後の文学の方向性を変えてゆく可能性を感じさせる。本作のみならず小学館主催の「きらら携帯メール小説大賞」など携帯発信の文学は既に始まっているからだ。

 また、この作品は変わったタイトルに作者の「違うものを作ろう」という意気込みを感じさせる。

「4TEEN」で直木賞作家となった石田衣良は「タイトルを考えるのは本編を執筆するのと同じくらい時間をかけていい」といて言ったように「タイトル」は「本」の命でもある。

 無数にある本の中から興味を抱かせるタイトルが記載された背表紙の本のみが客の手を呼び寄せるからだ。

 そういう色んな意味で「りはめおり100倍恐ろしい」はちょっぴり恐ろしい小説なのである。

  
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2006年02月23日

ナイト・オブ・ザ・スカイ

原作漫画は既にドラマ化され日本でもビデオが出ていた!第372回

★★★☆(劇場)

 コンピューターグラフィックの発達は映画に革新をもたらせた。

 ここ十年、かつて不可能といわれた映像表現が可能になったおかげで完成した作品は数知れず。

 だがその一方で、以前は「ヤング・シャーロック/ピラミッドの謎」(1985)のようにワンシーンの特殊効果場面だけでは客を呼べたのに対して、今ではCGによる描写は当たり前になり平均的に映画の質が向上しているため、CGによる映像表現は宣伝文句にならなくなった。

 その影響か、以前では話題になることさえなかった「ディープ・ブルー」(2003)や「皇帝ペンギン」(2005)といった大自然を映し出したドキュメント映画がヒットするという現象が世界的に現れている。

 これは観客がCGに食傷気味であることの現れであるように思える。

 CGは限りなく「現実」の映像と「似ている」が、やはりどこか違和感がある。それは「現実」の持つ多様性をコンピューターの計算上では「完全」に再現できないからだ。

 コンピューターは2進法で計算し、様々なデータを形成しているということはパソコンに詳しくない方でも耳にしたことがあるだろう。つまり「0」か「1」という信号の限りない組み合わせによってデータは形成されているのだ。

 しかし、いくらコンピューターの性能が良くとも、人間自身を再現するのは難しい。怪我をするのは一瞬でもその傷が治るのには時間がかかるように、人間の細胞構成は非常に複雑であり、人それぞれの顔が違うように多種多様であるからだ。

 このことは、CGアニメの雄ピクサーの作品においても人間は漫画的に描かれていることからも伺える。CG作品の中でも「ファイナル・ファンタジー」(2001)における人間描写がかなり精巧であったにもかかわらず、どこか「違和感」があったことは記憶に新しい。

 この「違和感」はコンピューターが「計算」によって「現実」を描き出そうとしているからにほかならない。

 わかりやすく言えばこういうことだ。

 例えば計算機で「1」を「3」で割ったとする。すると計算機の画面には「0.333333333・・・」と表示されるはずだ。ところがこの「0・333333333・・・」に「3」をかけても「0.999999999・・・」になるだけで「1」には戻らない。

 つまりこの「1」にならない微妙な「0.999999999・・・」という数字との誤差が「違和感」となっているのだ。

「ナイト・オブ・ザ・スカイ」は、戦闘機のエアバトル場面が見所のスカイアクション映画。一見ハリウッド映画のように思えるが、実はフランス映画である点が非常に興味深い作品。

 これまでハリウッドでスカイアクション映画といえば「トップガン」(1986)や「アイアン・イーグル」(1986)、最近では「エネミー・ライン」(2001)や「ステルス」(2005)など数々の作品が製作されてきたが、中でも「トップガン」は作品の内容はどうであれ完成度ではこれを越える作品はいまだ存在せず、それを証拠にいまなおスカイアクション場面では「トップガン」の名前が引き合いに出される。

 この「ナイト・オブ・ザ・スカイ」もまた宣伝文句の中に「トップガン」という文字が出てくるのだが、特筆すべきはCGではなく実写にこだわった撮影にある。その迫力は近年稀に見るものだ。

 フランス空軍の全面協力を得て撮影された空撮場面は、これまでに見たことも無い映像が満載。主演のブノワ・マジメル以下、俳優陣が実際にコクピットに搭乗して撮影されただけに、窓の外を流れてゆく風景の臨場感は格別。

 場面によってはCGが使われているが、何気ない俯瞰による空撮だけでもその臨場感の違いは明らか。近年のハリウッド映画におけるスカイアクションがCGによる斬新なカメラアングルを多用しているのと比較すると固定カメラを駆使した苦労が見られるが、「ナイト・オブ・ザ・スカイ」は圧倒的に「現実」の臨場感が伝わってくる。

 あえて「実写」にこだわったアンチハリウッドとも言える姿勢は、近年停滞気味なフランス映画界の意地を感じさせて頼もしい。

 またハリウッド製スカイアクション映画には必ず仮想敵国が絡んでくるが、本作は「敵は内にある」という「陰謀」を描くことで戦闘場面における嫌悪感を払拭させているのもいい。

 さらに軍需産業における企業競争も盛り込んで、ハリウッド映画では描かない一面を題材にしているのもアンチハリウッド的な姿勢が伺えて好感が持てる。

 監督のジェラール・ピレスは「TAXI」(1997)で注目され、レーサー出身ということもあって「スティール」(2002)でもスピードへのこだわりを見せている人物である。

「スティール」に続いて脚本も手掛けているが、多少の辻褄の合わない部分や時間の経過の甘さが目立つがきらいはあるものの、ハリウッド映画には出来ない作品に仕上げようとした心意気は大いに買える。

 また「ピアニスト」(2001)でカンヌ映画祭主演男優賞を獲得したブノワ・マジメル(柳樂優弥が獲得するまで最年少受賞だった)というフランスを代表する名実共に誇れる俳優を主役に迎えたキャスティングや、脇を固める「灯台守の恋」(2004)のフィリップ・トレントンや「IP5/愛を探す旅人たち」(1992)のジェラルディン・ペラスの好演もこの映画を支えている。

「ナイト・オブ・ザ・スカイ」には女性官僚や女性パイロットが登場し、男性同等(もしくはそれ以上)の活躍を見せる。

 これは一見ハリウッド以上の「女性台頭」または「女性の同権」を描写しているように思えるのだが、彼女たちは同時にグラマラスな肢体を持ち、男たちを誘惑する。

 この上っ面だけの「女性上位」という女性の描き方が結果的に「男性上位」を思わせ、そこがまたフランス映画らしく、その底浅さがある種アンチハリウッド的で微笑ましく思えるのだ。

  
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2006年02月22日

スタスキー&ハッチ

俺は「カンザス」でコイツは「トト」だ、だって!(笑)第371回

 日本未公開に終わった本作。改めて廉価版DVDで鑑賞すると、褒めあう事が多いメイキング映像が、あろうことか悪口を言い合うというありえない自虐的な趣向に大いに笑わせていただいたので、感謝を込めてご紹介。

「スタスキー&ハッチ」
監督:トッド・フィリップス
出演:ベン・スティラー オーウェン・ウィルソン
(2004年作品・アメリカ)

★★★(DVD)

(お楽しみをバラしているので、ご注意あそばせ)

 流行というのは時と共に「すたれる」運命にある。

 例えば少し前まで「茶髪」全盛だったのに、どこの誰かが「やっぱ黒髪」などと発言すると手のひらを返したように黒髪が流行りだすのは世の常。

 我々一般庶民は「流行」に踊らされ、「流行」を作り出す側だけが儲ける構図の常に末端にいる訳だ。

「スタスキー&ハッチ」は1970年代に大ヒットしたアメリカの刑事ドラマをリメイクした映画。舞台をあえて70年代のまま映画化し、とてもオリジナルとは似ても似つかない俳優がスタスキーとハッチを演じている(ポール・マイケル・グレイザーが演じたスタスキーをベン・スティラーが演じ、デビッド・ソウルが演じたハッチをオーウェン・ウィルソンが演じている)。

 元祖スタスキー役のポール・マイケル・グレイザーは、ボストン大学とハーバード大学を卒業した後、さらにイギリスへ留学して王立演劇アカデミーで学んだというインテリな経歴を持ち、一方のハッチ役のデビッド・ソウルは「ダーティハリー2」(1973)でハリーと対決することになる若き私刑警官役で一躍注目を浴び、「刑事スタスキー&ハッチ」で人気者となった。

 デビッド・ソウルのキャリアはB級映画への出演が殆どだが、スティーブン・キングの原作をトビー・フーパーが監督した黄金コンビの傑作「死霊伝説」(1979)の好演が忘れられない(この作品は日本公開された110分の短縮版があるが、実はテレビドラマを劇場公開しただけなので現在DVDリリースされている3時間の完全版をお勧めする)。

 ポール・マイケル・グレイザーは俳優としてよりも監督としての経歴が興味深く「刑事スタスキー&ハッチ」で出演と同時に演出を担当し始め、マイケル・マンと知り合ってからは「特捜刑事マイアミ・バイス」でも演出を担当(その何話かは、パム・グリアとKISSのジーン・シモンズがゲスト出演している「マイアミ・バイス2/ニューヨーク・コネクション」、「マイアミ・バイス3」として古いビデオを置いているレンタルビデオ店で確認できる)。

 その後マイケル・マン製作の佳作「マイアミ5」で監督デビューし、アーノルド・シュワルッツェネッガー主演のヒット作「バトルランナー」(1987)、「冬の恋人たち」(1992)、「アフリカン・ダンク」(1993)を手掛けている。

 デビッド・ソウルもその後「特捜刑事マイアミ・バイス」や「クライム・ストーリー」といったマイケル・マン製作のテレビドラマで演出を手掛けている共通点があるのも「相棒同士」として興味深い。

 テレビ俳優出身の映画監督のはしりのような存在だったポール・マイケル・グレイザーだったが、彼の妻が輸血でHIVに感染したのを知らず生まれてきた子供もHIVに感染していたという悲劇に見舞われる。

 二人の子供は結局二次感染で死んでしまい、妻とともにHIVの活動家として闘うも94年に彼の妻もHIVで亡くすという壮絶な人生を送っている。彼は今も小児エイズのための基金作りに活動していて、僕は俳優や演出家としてだけでなく、彼の生き方にも敬意を表している。

 リメイク版は「刑事スタスキー&ハッチ」のお気軽テイストを残しながら、コメディとして描いている点が特徴で、これは1970年代に流行した文化をバカにすることで「笑い」を引き出していることがわかる。

 つまり当時のかっこよさが時代の変化によってダサくなってしまうという事実が伺える。ということは、前述の「茶髪」なども30年後には「笑いの種」として登場するかもしれないということだ(事実80年代のワンレン、ボディコンなどは笑いの対象になりつつある)。

 劇中「イージー・ライダー」(1969)や「ミッドナイト・エクスプレス」(1978)などのパロディが盛り込まれているように、この映画はまともな刑事モノを作ろうとはしていない。どちらかというと「スクリーム」(1996)をベースにした「最終絶叫計画」(2000)や「大空港」(1970)をベースにした「フライングハイ」(1980)に限りなく近い志で作られている。

 同時に当時の音楽やファッションをふんだんに盛り込み、70年代のブラック・アクションスターであるフレッド・ウィリアムソンを上司にキャスティングし、スタスキーのトレードマークでもあるグラン・トリノを復活させているようにリスペクトも忘れていない。

 監督のトッド・フィリップスは日本未公開ながら「アダルト・スクール」(2003)や「ロード・トリップ」(2000)などのヒットコメディを手掛けてきたが、元々フィッシュの傑作ドキュメント映画「ビター・スウィート・モーテル」(2000)で注目されただけに暗喩を込めた単なる「バカ映画」を目指していない点が人気の秘密なのかもしれない。

 今回スタスキーとハッチを演じたベン・スティラーとオーウェン・ウィルソンは共に脚本を書き評価されてきたという共通点を持つが、コンビでもないのに意外と共演作が多い。

 だが、「ズー・ランダー」(2001)、「ザ・ロイヤル・テネンバウムス」(2001)、「ミート・ザ・ペアレンツ」(2000)、その続編「ミート・ザ・ペアレンツ2」(2005)と彼らの共演作はどれもおバカな作品ばかり。その肩の力抜いた作風に対する評価、好き嫌いは分かれそうだが、お似合いであることは誰もが認めるところだろう。

「最終絶叫計画」(2000)のカーメン・エレクトラや「バタフライ・エフェクト」(2004)エイミー・スマート(「ロード・トリップ」に続いてトッド・フィリップス監督作品へ参加)がお色気担当している他、ヴィンス・ボーン、ジュリエット・ルイス、フレッド・ウィリアムソン、クリス・ペン、ジェイソン・ベイトマン、リチャード・エドソンそしてウィル・フェレルと脇役の豪華さも魅力。

 特にかつて殺人騒ぎでミュージシャン以外での評価ばかりだったスヌープ・ドッグが「アダルト・スクール」に続いてトッド・フィリップ監督作品で不敵な魅力を放っているのは注目。

 映画の最後には「ORIGINAL STARSKY」及び「ORIGINAL HUTCH」とクレジットされている本家本元デビッド・ソウルとポール・マイケル・グレイザーが「ある役」で登場する(DVDの映像特典の未公開シーン集には更なるオマケあり)。

 この場面によって「スタスキー&ハッチ」は「刑事スタスキー&ハッチ」の「スタスキー&ハッチごっこ」であることがわかる。

 それが「笑い」でありながら同時に「敬意」を表した「リスペクト」である点が「刑事スタスキー&ハッチ」ファンも目くじら立てずに鑑賞できるポイントでもあるのだ。

  
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2006年02月21日

美しき野獣

出所時に渡した「豆腐」の代わりって何食べてんだ?第370回

 ブルース・ウィリスの出世作としても知られるマイベスト海外ドラマ「こちらブルームーン探偵社」が遂に日本でもDVD化!今回はNHK放映時の浅茅陽子と荻島真一の吹替版が収録されているということで、もう感涙モノです。4月26日リリースなり。

★★☆(劇場)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

 煙草を吸われる方に質問。

 一度火をつけた煙草を、あなたはどこまで吸い続けますか?

 この答えは人様々だろう。二・三回吸ったら後は灰皿の上で灰にしてしまう人もいれば、フィルターのギリギリまで吸う人もいる。

 この「吸い方」で、その人の人生がなんとなく想像できると言ったらどうだろう?

 例えば「蝋燭」はよく人生に例えられる。人間にはそれぞれの蝋燭があって、人生の長さがあらかじめ決まっているという話はどこかで聞いたことがあるだろう。火が消えることはその人の人生が終わったことを意味するのだ。

 煙草もまた長さが決まっている(ショートピースやキングサイズはどうなるの?という愚問は勘弁)。しかし同じ長さであるにもかかわらず、1本にかける時間は人それぞれであることに気付くだろう。

 煙草を吸う瞬間、その状況と場所などを考慮すると、実はその人の「根本的な行動」しいては人生観が如実に現れてくるのだ。

「美しき野獣」は異父兄弟を殺された荒くれ刑事チャン(クウォン・サンウ)と法を順守する知的な検事オ(ユ・ジテ)が、表向きは実業家でありながら犯罪組織の黒幕であるユ・ガンジン(ソン・ビョンホ)を逮捕するために意気投合するというハードアクション映画だ。

 この映画でも「煙草」は印象的に使われている。

 チャン刑事は事あるごとに煙草をふかすが、それは「ふてくされ」の意思表示方法であることがわかる。また彼にとっての「照れ隠し」のアイテムであり、煙草を満喫しているようには描写されていない。

 このパフォーマンスとも取れる「喫煙」は、彼の上っ面だけの「強がり」を感じさせる。これは彼の「暴力性」とも密接に結びついており、病床の母親を看病する場面と比較すれば自ずと理解できるはずだ。

 チャン刑事の心優しいが故の「凶暴さ」は、タイトルに秘められた「野獣性」が弱さを隠すための鎧であること示している。

 一方、知的で冷静沈着に見えるオ検事の方が実は本物の「野獣性」を持っていることが後半の行動から推測できる。

 そのオ刑事が愛用のライターをチャン刑事に贈る場面がある。このライターに込められた「煙草」を吸う事との因果関係が警官隊に包囲されるクライマックスで大きな意味を持ってくる。

 つまり「ライター」は友情の証でありながら、破滅という名前の駅へと旅立たせる切符の役目を担っているのだ。

 この「煙草を吸う」行為における深層心理を考えれば、黒幕を追い詰めながらも絶対絶命の危機に陥ったチャン刑事が取った行動の意味がわかるだろう。

 彼の喫煙がパフォーマンスである、つまり煙草を最後まで吸わずに消してしまうことは、彼の人生の顛末と符合するのだ。

 これが劇場映画監督デビューとなるキム・ソンス(「英語完全征服」(2003)や「MUSA」(2001)の監督とは別人らしい)は脚本も手掛けているが、ありきたりな展開で刑事物としての魅力に欠けているのが難。黒幕の姿を堂々と冒頭に見せてしまっているので、物語の驚きが全くないのだ。

 終盤、法を順守したはずのオ検事が、法に振り回され、結果法によって裁かれるという「もどかしさ」は見事なだけに惜しまれる。

 また、クローズアップを多用した撮影方法は俳優たちの演技を魅力的には描写しているが、映像での状況説明に欠けるために場面転換やアクション場面のわかりにくさが指摘できる。せっかくクウォン・サンウが極力スタントを使わずにアクションに挑戦した努力が活かせていないのも勿体ない。

 クローズアップは、多くの映像の中で印象的な挿入がされてこそ画面が映える。「リングにかけろ」や「聖闘士星矢」を描いた車田正美の漫画のようにキャラクターを見せたいがための手法でない限り、(ドキュメントは別として劇映画として)クローズアップ繋ぎの映像ではカット同士の持ちえるモンタージュが薄れてしまう。その好例となってしまっているのだ。

 もちろん、単純にクウォン・サンウのファンである方々にとっては嬉しいことなのだろうけれども、映像がスタイリッシュなだけに監督の今後に期待したい。

 本作で威光を放っているのは黒幕を演じたソン・ビョンホだ。表向きは家庭人でありながら冷酷非道なヤクザという設定に相応しい「笑み」が印象的で、本当に恐い人間は「いかつくない」ことを体現して見せている。

 この映画における「暴力」は、結局「冷静さ」に勝てないし、「怒り」は不敵な「笑み」には勝てない。巨大な組織を相手にしたとき、「暴力」による孤立よりも「冷静さ」による結束のほうが強いことが良くわかる。その上での「暴力」=「力」が有効なのだ。

 だが、過去の人間の歴史がそうであったように「暴力」による支配は、いずれ「暴力」によって排除、または圧制されてしまう。このスパイラルが人間の愚かさを痛感させ、「美しき野獣」では結局何も解決しないまま、死体の山を築き上げることになる。

 映画のラストでオ検事が復讐を果たし、煙草を吸う場面がある。

 彼のくわえる煙草の灰を見ると、そこには彼の「人生」の行く末が集約されている。

 それを狂わされた人生と捉えるか、本来持ち合わせた人生と捉えるか。どちらにせよ、彼の行動が人間の本能的「野獣性」を見せ付けていることだけは間違いない。

  
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2006年02月20日

バス男

エンドロール終了後延々と続く本編を見逃すな!第369回

 今回は正月企画「まつさんの2005映画ベスト10【各部門賞編】」のベスト未公開映画に推した作品をご紹介。

「バス男」
監督・脚本:ジャレット・へス
出演:ジョン・ヘダー ジョン・グライス
(2004年作品・アメリカ)

 見た目も中身もイケてないナポレオン・ダイナマイト(ジョン・ヘダー)は転校生ペドロ(エフレン・ラミレッツ)と仲良くなり、生徒会選挙に出馬するペドロの応援活動を始めるのだが・・・。

★★★★(DVD)

 先日放送された「探偵ナイトスクープ」で、「イケメンはパンツの中にシャツを入れる」という奇妙な法則を検証するという依頼が放送されていた。

 結果的にイケメンがパンツの中にシャツを入れるという確率は割合高く、お腹が冷えるからという理由だけでなく、シャツがずれない工夫としてパンツの中に入れているのだということが判明した。

 この映画の主人公ナポレオンもまた、確実にシャツをパンツに入れてそうだが、どう見たってイケてない。それどころか確実に「ダサい」。

 アイダホの片田舎を舞台にした「バス男」は、そんなオタク系アメリカ男子の生態を描いたコメディ。重要なのは笑わせようとしていないのに笑いを引き起こす点にある。つまり映画の中のオタク系たちはみんなそれぞれの価値観のなかで「真剣」なのだ。

 これまでにもハリウッドでは「ナーズの復讐」シリーズというダサ男たちの活躍(?)を描いた映画がヒットし、シリーズ4本が作られている(日本ではその殆どが未公開)。

「ナーズの復讐」シリーズのタイトルが示すように英語では、社会性に欠けるバカを「nerds」と呼び、流行おくれのバカを「geek」と呼び、世間知らずのバカを「jerk」と呼んでいる。

「バス男」に登場するのはそんな「nerds」や「geek」や「jerk」たちだが、愛情いっぱいに描かれている。

 この映画に登場する「オタク」たちが日本の「オタク」と違う点は、アキバ系に代表される「収集癖」がない点にある。精神的な幼さや成長が無い「バカ」なのに、それを自覚していない「誇らしさ」が痛々しいのだ。

 日本では「オタク」が「電車男」(2005)によって文化の中心にいるような錯覚をおこしているが、それは秋葉原を中心とした活動が出来る都会人だけであって、地方のオタクたちはいまだ肩身の狭い思いをしている。

「バス男」の舞台がアイダホという田舎に設定してあることは非常に意味深い。なぜなら、片田舎における「オタク」をいじめる「イケメン」たちもまた、実はイケてないからだ。

 この「いじめ」の構造、いわば「弱者を踏みにじる強者」という構造はアメリカの暗部と符合する。

 好意的に考えれば「オタク」の持つアイデンティティには他人に左右されない強さがある、と解することが出来るが、逆に言うと人の話を聞かないということになる。

 この映画に込められた風刺、実は「外部に左右されない頑固さと自己中」というアメリカという国そのものに対する痛烈な批判とも考えられるのだ。

 とはいうものの片田舎らしいのんびりとした風景と溶け合った「ゆるさ」によって生まれる「脱力」的な笑いがこの映画の「核」であり、前半で「オタク」の生態を描きながらも後半で挽回するというアメリカらしい展開を持たせているので、見ていて不思議と爽快感が残る。

 また物語の表向きに活躍するのが主人公のナポレオンでないあたりの「ゆるさ」が、逆にナポレオン自身の「ヒーロー」ぶりを印象付けている演出も見事。

 本作は製作費たった400万円で製作された超低予算映画ながらアメリカで約40億円を稼ぐ大ヒットとなり、公開当初はたった6館での上映が1000館にまで広がったという逸話まだある。

 にもかかわらず日本では劇場未公開扱い。先月やっとDVDとして初披露目となった。

 巷の映画ファンの間で非難轟々の「バス男」という邦題。

 カタカナ表記のタイトルが氾濫する昨今、劇場未公開のDVDリリースという限定した売り出し方であるのになぜ「電車男」を模したタイトルを付け、原題のまま「ナポレオン・ダイナマイト」というタイトルではいけなかったのかはやはり理解に苦しむ。と同時にこのタイトルが逆に見る気を削いでしまっているのが大変惜しまれる。

 オープニングを飾るタイトルロールのセンスの良さからして「この映画はどこかが違う」と思わせるのが素晴らしく、お金が無いなりのアイディアで勝負している。また、タイトルロールに込められたその意味も考察するとなかなか面白い(ヒントは登場人物と食べ物の関係)。

 この映画の功労者は何といってもナポレオンを演じたジョン・ヘダー。いつも口が半開きでうつろな目のもじゃもじゃ頭という冴えなさぶりを体現しているのだが、その「冴えなさ」のおかげで終盤の活躍が「栄える」のが見事(このキャラクター造形の原点は「バス男」の原案となった短編「Pelca」で確認できる)。

 同じことをやっても、冴えない男における意外性はイケメンのそれ以上に効果的であることを示唆しており、ナポレオンが大活躍する(といっても本人は全くマイペースなのだが)クライマックス場面を見れば、ジャミロクワイのCDを久々に聴いてみたくなるだろう。

 また不機嫌な子役を演じさせたら天才的だった「男が女を愛するとき」(1994)や「コリーナ、コリーナ」(1994)、「ウォーターワールド」(1995)のティナ・マジョリーノがヒロインを演じて成長した姿を見せており、ヒラリー・ダフの妹ヘイリーがいけ好かないマドンナ役でスクリーンデビューを果たしているのも見所。

「バス男」に登場する男たちは、30代の引きこもりであったり、過去の栄光にしがみつくインチキおやじだったりととても感情移入できないような「間抜け」ばかり。

 ところが結果的に彼らは人と出会い助けられて「微妙」な成長を果たす。

 そこで改めて考えられるのは、やはりアメリカは「自由の国」ということ。

「自己中なオタク」であっても自分らしく生きることが「良い」という堂々たるアメリカンドリーム的なオチには、「バス男」がアンチハリウッドテイストの映画でありながら「認められなきゃ意味がない」という「もうひとつの現実を」映し出しているように思えるのだ。

  
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2006年02月19日

PROMISE

何よりも純然たる「主演」の真田広之が誇らしい第368回

★★★(劇場)

 夜道を歩く一人の女性。

 あなたはひったくり犯で、いま彼女の持つ鞄を奪い去ろうと機会を伺っている。

 そこへ突然、暴行犯が女性を襲う。押し倒される女性を見たあなたは鞄を奪い去ることも忘れ、咄嗟に暴行犯を退治し、女性を助ける。

「PROMISE」とはこのような奇妙な「誤解」が物語の方向を思わぬ方向へと導き、運命に翻弄される作品だ。

「PROMISE」の原題名は中国語で「無極」である。

 つまり「果てがない」ということだ。これは転じて「果てがない」宇宙のことを示す。だが「PROMISE」を日本語に訳すと「約束」ということになる。

 本作を見れば判ることだが、この二つのタイトルは日本公開都合ではなく世界向けと中国圏向けとして同時に存在している。

 なぜ、このような意味の異なるタイトルとなっているのか?

 それを読み解く鍵は、この映画が多国籍なキャストによって製作されていること、そして観客が「誰」を主人公として視線を向けるかによって解釈が異なる点にある。

 将軍光明(真田広之)の奴隷昆崙(チャン・ドンゴン)は、傷を負った光明の代わりに傾城(セシリア・チャン)を救い出すが、王殺しの汚名を光明に負わせてしまう・・。

 映画は冒頭、傾城の幼少期が描かれる。彼女は「ファムファタル」=「運命の女」として劇中の男性たちの運命を翻弄する役割を担うのだが、演じるセシリア・チャンはこの映画の香港代表でもある。

 彼女を主人公と見立てた場合、傾城が神と交わした「約束」のために受ける試練は、真実の愛を得られないという、叶わぬ愛の無間地獄だと捉えることができる。

 韓国代表はチャン・ドンゴン扮する昆崙だが、彼は主人である光明に仕えるという「忠義」=「約束」を果たし、そしてまた叶わぬ愛のためにラストで「無極」の者となる。

 真田広之扮する光明こそは「無極」の象徴として、人間の「欲」を体現(時にそれは「強欲」ともなる)している。

 さらに「無極」とは「対極のものがない」、つまり主要登場人物達が「同じ穴のムジナ」であることを示しているのだ。

 そのもうひとりの「同じ穴のムジナ」である策略家・無歓を演じたニコラス・ツェーがこの映画で妖しさを放ち、色香のある悪役を好演して一番の役得なのがこの映画の難点。

 つまり、テーマであるべき「無極」を揺るがすのが第三者な無歓であり、彼が物語の振り子を左右することで主要3人による男女の三角関係の描き方が中途半端になっているのだ。よって彼らの「愛への渇望」があまり感じられなくなってしまっているのだ。

 どちらかというと、「約束」にも「無極」にも縛られない無歓の姿が魅力的になってしまい、彼の無いものねだりという「欲」こそが観客へ渇望感を煽っている。

 監督のチェン・カイコーは「黄色い大地」(1984)でデビューしていきなりロカルノ映画祭銀賞を獲得し、「さらばわが愛/覇王別姫」(1993)でカンヌ映画祭パルムドールを受賞して世界的名声を得た。

 だが再びカンヌで芸術貢献賞を受賞した「始皇帝暗殺」(1998)という大作に味を占めたチェン・カイコーはハリウッドの魅力に負けて「キリング・ミー・ソフトリー」(2001)というカイコーらしくない作品を作ってしまったのはご承知の通り。

「キリング・ミー・ソフトリー」が失敗したのは明確な理由がある。それはチェン・カイコー作品特有の「性描写」があからさまだったからだ。

 中国はいまだ検閲が行われている国だ。映画に暗喩された思想はもちろん、性表現に関しては非常に厳しい。そこでチェン・カイコーは裸を「見せない」エロティシズムという表現によって彼独自の映像美と色彩美を生み出した。

 ところが「キリング・ミー・ソフトリー」は検閲のないハリウッドでやりたい放題に「性描写」を挿入してヘザー・グレアムの裸のオンパレード。単なる「エロ映画」になってしまったのだ。

 この失敗を教訓にチャン・カイコーは故郷に戻り「北京バイオリン」(2002)を製作し初心に戻ったはずだったのだが、その次回作となったのが昨今のアジア武侠映画ブームに相乗りした本作「PROMISE」だった。

 例えばチャン・ドンゴンが超人の如くする疾走場面では、日本のアニメ的なスラプスティックで荒唐無稽なアクションを想起させるオリジナリティを感じさせるが、失笑手前ギリギリな微妙な感じが否めない。

 何よりも視覚的な美しさに囚われすぎて、前述どおり物語の「核」がずれてしまっているのが痛恨。

 その物語が、実は「足長おじさん」と同じ物語構造をしていることに気付くだろう。

 見えざる本当の姿を勘違いして「愛すべき人物」を見誤る悲劇。

 そこに横たわる「約束」=「PROMISE」もまた「足長おじさん」と符合する反面、「足長おじさん」の結末にある「永遠の愛」という「無極」とは相反する「PROMISE」における「無極」に、この映画の訴える「無極」=「果てしなき」本当の真意を見出すことが出来るのだ。

  
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