2006年05月31日

GOAL!

米でも最近は「サッカー」ではなく「フットボール」と呼ばれる第469回

★★★(劇場)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

 中田英寿が突出したサッカー選手である所以は、その「技術力」にあるのではない。

 もちろんドリブルやパスの正確さは評価されているが、「技術」的には例えば中村俊輔などの方に分があることは試合の流れを見ていれば良くわかる。

 ならば、何が中田英寿を「最高の選手」としているのかというと、それは「全体」を見渡せる彼の「分析能力」にある。

 これも試合を見ていると分かることだが、中田英寿は自分のプレーはもちろん、フィールド全体の動きを一瞬の内に察知し、誰が次にどこへ「動く」のかを分析し、パスを送っていることがわかる。

 恐らく彼の頭の中にはゲーム盤のようにサッカー場の全体図が頭の中で描かれていて、各プレイヤーの位置を俯瞰で見渡しているのではないかと思うのだ。そうすることによって、敵味方問わず各プレイヤーの「次の」動きを分析して試合運びに利用しているのだ。

 得点のきっかけとなるアシストに秀でているのはそのためで、常に全体を見渡し、先を読める「分析能力」が、彼を「最高の選手」たらしめているのである。

 野球の世界でもイチローという「最高の選手」がいるが、彼もまた「技術」だけでなく「分析能力」にも秀でた選手であるといえる。

 例えばイチローがフェンスぎりぎりの外野フライをキャッチする時、まず打者のバットの角度から飛んでくる方向を察知し、それがフライであればボールの着地点を計測して走ってゆく。そして壁によじのぼりファインプレーを見せてくれるのだが、この時彼はボールを目測しながら走っていないことに気付く。

 つまりイチローも全体を見渡して、「先」を読むことに長けているのだ。

 流動的と思われる試合の流れも、実は幾重ものパターンの組み合わせとして成り立っており、分析さえすれば、決して「予測不能」なことなどは確率的に殆ど起こらないことが立証できる(もちろん「予測不能」なことは時として起こるのだが、その確率は非常に低いからこそサヨナラ逆転などということが「珍しい」とされるのだ)。

 この「分析能力」は何もスポーツ選手にとっての「宝」であるだけではない。我々の日常においても、常に全体を見渡して、「次の」動きを分析出来る者が、株においても不動産においても、はたまた恋愛や会社においても「得」をするようになっているのだ。

 これはわかっていてもなかなか出来ないことで、だからこそ「成功者」は世の中に少ないという所以でもある。

 人は誰しも「今」を享受し、「後先考えない」傾向にあるからだ。

「GAOL!」はメキシコからの違法移民としてロスアンゼルスで育ったサンティアゴ(クノ・ベッカー)がサッカーの才能を見出されてイギリスに渡り、ニューカッスル・ユナテッドの選手へと成長してゆくという物語。

 国際サッカー連盟(FIFA)が公認したサッカー映画として、今後2作が公開される「3部作」の第1作となる本作。来年公開の「GOAL!3」(2007)は来月開催されるワールドカップドイツ大会で実際に撮影が行われることでも話題となっている。

 劇中にはベッカムやジダン、ラウールというサッカー界のスーパースターも本人として登場し、サッカーファンを自認しているオアシスが楽曲提供(既リリース曲の未公開バージョンが聴ける!)するなど映画ファンに留まらない関心も訴求しており、製作総指揮を担当したローレンス・ベンダーの「したたかさ」はここでも発揮されている。

 貧困層の少年が成功を手にするという、あまりにも単純で分かり易く先の読める展開でありながら、それなりに手に汗握る演出を手掛けたのは監督のダニー・キャノン。

「プレイデッド」(1993)で注目されながらも「ジャッジ・ドレッド」(1995)の失敗によって二流監督に甘んじていたのだが、全米で週間最高視聴率を記録しているドラマ「CSI:科学捜査班」を手掛けたことで評価が一気に上がり、彼が本来持っていた映像センスが良い方向で発揮されるようになったことが伺える。

 また本作はスター俳優に頼らず、サンティアゴを発掘する元サッカー選手を演じたスティーブン・ディレイン以下、アレッサンドラ・ディオラ(アメリカ)、マーセル・ユーレス(ルーマニア)、ミリアム・コロン(プエルトリコ)、トニー・プラナ(キューバ)、ショーン・パートウィ(イギリス)と言う通好みで国際色豊かなキャスティングが妙なリアリティと魅力を放っていることも特筆できる。

 難癖を付けるならば、本作だけで十分のように思えるので「3部作」にする必要性をあまり感じない点だ。今後レアル・マドリード、ワールドカップを舞台にすることは目に見えており、多少の挫折が描かれたとしても「成功談」を延々と見せられるのはいかがなものかという不安が過ぎるのだ。

「GOAL!」では、サンティアゴが厳格な父親(トニー・プラナ)から「夢」を否定されて育ってきたことが描かれている。

 人は「夢」を捨てて全うに人生設計をすべきだと諭す父親は、自分自身の苦労から得た教訓を息子にも伝えようとする。

 父親もまた「全体」=「人生」を見渡して、「先」=「将来」を読んでいるのだが、あまりにも「堅実さ」に固執し過ぎて、若者の「可能性」を摘み取ってしまっているのだ。

 本作は元サッカー選手であったグレン(スティーブン・ディレイ)の姿を通して、人生の「ひと時の輝き」の素晴らしさと哀しみを垣間見ることが出来る。それはもちろん「夢」を諦めることではなく、「夢」を諦めなかったからこそ後悔しないということを示唆している。

 その中でサンティアゴが真面目な選手として活躍して行くことが、実は厳格な父親の教訓が活かされていることが分かる。

 彼もまた「全体」=「サッカー人生」を見渡して、「先」=「成功」を掴もうとしているからだ。

 その姿勢が、父親と元サッカー選手だったグレンという「二つの父」のハイブリッドによって誕生したことが、「強さ」の源となっていることは疑う余地もない。

  

Posted by matusan at 17:34Comments(0)TrackBack(2)

2006年05月30日

まつさんの文化伝道師2006 5月号

ブレイクを願ってやまない香川のやんわりロック魂第468回

 本日、今村昌平監督が亡くなりました。「楢山節行」(1983)、「うなぎ」(1997)と二度のカンヌ映画祭グランプリに輝く世界的にも稀有な存在でありながら、映画製作資金においては苦労し続けたことが惜しまれます。世界の映画人がその苦労に驚いたと話すくらい、日本映画界の「儲け主義」の陰で映画振興と後進を育ててきた功績は称えるべきではないでしょうか。ご冥福をお祈りします。

 今回は月末恒例、「まつさんの文化伝道師」をお届けします。

【まつさんの文化伝道師 2006年5月号】

■まつさんのヘビーローテーション

★「chatmonchy has come」 チャットモンチー
 今月は残念ながらこれといって何度も繰り返し聴く新譜がなく、1ヶ月で一番よく聴いた旧譜を紹介。本作は7月に待望の1stアルバムをリリースするチャットモンチーのミニアルバム。普通の女の子が普通の生活のほんの些細なことを描きながら、それが人生や恋愛のメタファーとして歌い紡がれてゆく彼女たちの歌詞は絶品。来月7日に発売されるシングル「恋愛スピリッツ」は、次回まつさんのヘビーローテーションに予告先発確実。


■CDアルバムこの5枚

 今月は稀に見る洋楽豊作の月だったので、洋楽10枚+邦楽2枚としてご紹介します。

(洋楽)
★「スタンド・スティル−ルック・プリティ」 THE WRECKERS
 ミシェル・ブランチの新作は、なんと友人ジェシカ・ハープとのデュオアルバム。その意外性もさることながら、カントリーミュージックやルーツミュージックを取り入れながらもミシェル節となっているのが何とも素晴らしい。結婚・出産を経てもサンタナとの再デュエットなど貪欲な音楽活動を続ける彼女に拍手!

★「ザ・シングルズ」 FEEDER
 日本資本の弱小レーベルのため幅広い活動が出来ないきらいもあるのだが、それでもイギリスで着実にセールスを伸ばしてきたFEEDER活動10年目のベストアルバム。昨年ネット販売された「裏ベスト」とは異なり、まさにベストのベストともいうべき選曲で捨て曲なしの1枚。初回限定でDVD付も発売されているが、こちらはCDよりも多い26曲入り!フロントマンではないタカ・ヒロセをモデルにしたジャケットもクール!!

★「欲望」 フーバスタンク
 約2年ぶりの新作も前作「ザ・リーズン」(「亡国のイージス」(2005)のエンドタイトルとしても使われた)同様にらせん状に絡み合うようなメロディが力強くも哀愁を漂わせている。我々日本人としてはボーカルのダグラス・ロブの母親が関西人であることも応援要素のひとつ。

★「レット・ラヴ・イン」 グー・グー・ドールズ
 キャリアが失速しつつあった彼らの4年ぶりの新作は、グレン・バラードをプロデューサーに迎えたことで改心の出来となった!「再始動」という言葉に相応しいアメリカンロックの真髄が響き渡り、改めてグレン・バラードの凄さを実感。

★「ステイディアム・アーケイディアム」 レッド・ホット・チリ・ペッパーズ
ベスト盤とライブ盤を挟んで傑作「バイ・ザ・ウェイ」から4年ぶりとなる新作は、来月公開の「デスノート」(2006)のテーマ曲ともなる「ダニー・カリフォルニア」を含む怒涛の2枚組みアルバム。聴き応えがあり過ぎて、聞き終わる頃には疲れきってしまうほどの満身作。

★「PEARLJAM」 パール・ジャム
 デビュー15周年、しかも3年半ぶりとなる新作は、バンド名をアルバムタイトルにするという意気込みからもその自信の程が伺える。政治的メッセージもさることながら、その怒りがエネルギーとなったメロディラインは我々を圧倒させる力を噴出させている。

★「ザ・リヴァー・イン・リヴァース」 エルヴィス・コステロ&アラン・トゥーサン
 ハリケーンによるニューオーリンズの大洪水によって被災した1960年代R&Bの立役者アラン・トゥーサンと、彼を敬愛するエルヴィス・コステロが組み、南部ミュージック再生を願った1作。災害が結びつけた奇跡のセッションは皮肉にも極上の傑作となった。来年のグラミー賞も狙える1枚!

★「ムーヴ・バイ・ユアセルフ」 ドノヴァン・フランケンレイター
 ジャック・ジョンソンの人気にあやかって、コバンザメのように人気者となったドノヴァンの新譜は、サーフミュージックに留まらない軽快さと心地よさが同居した傑作となった。ジャケットデザインも出色の出来!

★「ライフ・アクアティック〜スタジオセッションズ」 セウ・ジョルジ
 映画「ライフ・アクアティック」(2004)で本編とは関係なく劇中ギターを抱えて歌声を披露していたセウ・ジョルジが、(映画内でも披露していた)デビッド・ボウイの楽曲をカバーしたアルバム。彼の歌声はラテンの小波のように心地よい。

(邦楽)
★「CATCH」 小谷美紗子
 トリオ編成でレコーディングされた新作は、これまでの神聖さを一変させた高揚感と共に張り巡らされた緊張感が一体となった変則的1枚として完成。メジャーから離れても着実に音楽性の幅を広げる小谷ワールドには目が離せない。

★「ハナダイロ」 元ちとせ
 結婚・出産を経て復活した歌姫の3ndアルバム。映画「初恋」(2006)の主題歌となる「青のレクイエム」やシングル「語り継ぐこと」など聴き所も多いが、ボーカル力の衰えが多少目に付くのが惜しまれる。昨年終戦記念番組で披露された坂本龍一プロデュース作「死んだ女の子」は必聴。


■CDシングルこの5枚

★「LOVEHOLIC~恋愛中毒症候群」 LOVEHOLIC
 遂に日本デビューを果たした韓国の人気グループの1stシングル。ボーカルのファン・ジソンにギターとベースが加わった3人編成。アナログ感覚なポップソングは日本でもじわりと浸透してゆくことを期待!彼らの軌跡もまた興味深く、その点についてはまたいずれ。

★「言錆の樹」 ジン
 インディーズからメジャー(しかもSony)で再プレスされた実質メジャーデビューミニアルバム。平均年齢19歳という若さでありながら、ボーカルひぃたんの気迫溢れる歌声にしばし呆然。歌詞における世界観も独特で、1曲目「創の手」でいきなりノックアウトされること間違いなし。

★「melody〜SOUND REAL〜」 絢香
 5万枚限定で発売されたセカンドシングル。彼女の歌声の驚異的な安定感は、収録されているアコースティックライブの音源によって確認できる。音程にブレが無く、全く狂いにない音感には寒気さえする。

★「milk tea/美しき花」 福山雅治
 コマーシャリズムに乗りながら、コマーシャリズムには流されない活動をしている福山雅治9ヶ月ぶりのシングル。彼の活動スタイルは多くのミュージシャンにとって大物であるべき姿の指針となりえる。たまりに溜まったCM曲など4曲を収録した本作は売れない訳がない。

★「Tower」 Salyu
 今年初めてのシングルは、リリイ・シュシュ時代から手を組む小林武史に加え、作詞が一青窈という強力作。salyuの持つ浮遊感は一青窈の世界観と調和し、見事な広がりを聴かせてくれる。


■書籍この1冊

(漫画)
★「銭 1〜3巻」 鈴木みそ
 知人に薦められながらも、その「萌えキャラ」な絵柄からどうしても手が付けられなかった旧作だが、読んでみると様々な商売のからくりが分かる展開で、絵柄とは裏腹に意外と面白い。現在も続刊中。

(小説)
★「陽気なギャングの日常と襲撃」 伊坂幸太郎
 昨年末から「砂漠」、「終末のフール」と怒涛の出版ラッシュを見せ、絶好調の伊坂幸太郎の新作は、現在公開中「陽気なギャングが地球を回す」の続編。彼にとって初のシリーズ物となる本作は、これからもまだまだ続けていけるシリーズの鉱脈としてご機嫌な展開と伊坂節が冴えわたる会話でラストまで一気に読ませてくれる。


■注目の1品

★「映画検定 公式問題集 2級・3級・4級」
1級の問題ってどんなんなんだ?

 遂に来月25日開催となる「映画検定」の問題集。以前紹介した公式ガイドブックとは異なり、級別検定内容に即した例題が網羅され、その問題レベルを確認できる。

 私まつさんは、戦後に公開された全洋画(成人映画や短編を除く)の30%以上を鑑賞しているのですが、実は若き頃は日本映画嫌いだったために1980年代以前の邦画はあまり見ていないのです。

 という訳で例題を解いてみたのですが、洋画は全く問題ないものの、古い邦画問題はかんり手ごわい事が発覚。検定合格は正直微妙な感じがしておる次第です。

 見ていないものは仕方がない。分からないものもしょうがない。

「伝道師」の称号を返上しようかしらん。


 と言うわけで今月も独断と偏見でお送りしました。来月もどうぞよろしく。

  
Posted by matusan at 16:41Comments(0)TrackBack(2)

2006年05月29日

デイジー

黒谷友香+吉岡美穂=チョン・ジヒョン?第467回

★★★★(劇場)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

 人との出会いは「偶然」でありながら「必然」であるといわれる。

 その出会いが「男女」によるものであれば、それは時に「運命の出会い」として「恋愛劇」を転がしてゆく要素となり、その過程は多くの小説や映画で描かれてきた。

 しかし、この「偶然」が「偶然」ではなく、仕掛けられたものだとしたらどうだろう。

 それはもちろん仕掛けた側にとって「偶然」などではなく、仕掛けられた側にとっては「偶然」になりえるという「倒錯」した構造が生じる。

「恋を仕掛ける」男や女の話は「源氏物語」のいにしえから多々存在するが、「仕掛けられた出会い」は果たして「恋」の「必然性」を生むのだろうか?

「デイジー」はオランダを舞台に、画家を目指すヘヨン(チョン・ジヒョン)が、見知らぬデイジーの花の送り主に「恋心」を抱く物語。

「インファナル・アフェア」シリーズで注目された香港のアンドリュー・ラウ監督が韓国映画界と手を組んで挑んだ意欲作で、日本からも音楽監督として梅林茂が参加し、国籍を越えた国際色豊かな製作姿勢は注目に値する。

 本作は「送り主の分からない善意」=「足長おじさん」+「送り主を勘違いすることが引き起す恋」=「シラノ・ド・ベルジュラック」という過去の「ストーカーまがい」の構造を持った名作のプロットを巧みに取り入れながら、香港映画が得意とするシャープなガンアクションと、三者それぞれの視点による物語の再構築というハーモニーが絶妙に溶け合い、「猟奇的な彼女」(2001)や「ラブ・ストーリー」(2003)の監督であるクァク・ジェヨンによる脚本の良さが引き出されている。

 かつて、「恋」を仕掛けたり、恋する相手の「素性」を探るなどと言う行動は恋愛映画には欠かせない展開であったが、近年はこれを「ストーカーまがい」として描かれるきらいがある。

 結果、好きな相手を「待つ」ことは、「待ち伏せる」というニュアンスで描かれるようになってしまった。

 愛する相手を思う気持ちは尊いはずなのに、なぜかそこに「異常性愛」を盛り込んでしまうのは、現代社会の「病理」であるように思える。

 が、現実的に社会問題として「ストーカー」的な犯罪が社会に暗い影を落としており、「秘めたる恋」における「純愛」は、日本においても「世界の中心で、愛をさけぶ」(2004)や「いま、会いにゆきます」(2004)などストレートな展開で共感を得るに留まっている。

「デイジー」はその「ストーカーまがい」の行動を「私の頭の中の消しゴム」(2005)で日本でも人気者となったチョン・ウソンという「男前」に演じさせているのだが、本作は相手が「男前」でありながら、主人公の心が揺らがないという潔さがある。

 そうさせることで本来「ストーカーまがい」と捉われがちな行動を「秘めた想い」へと昇華させているのが見事だ。

 相手を想うことは、自分の「物」にすることではなく、相手の「幸せ」を手助けすることだと思わせる展開は、物語を意外な方向へと導いてゆき、薄っぺらい「殺し屋」描写も、絵画に対する考察の甘さも吹き飛ばすそれぞれの「叶わぬ想い」はラストまで一気に突き進んでゆく。

「デイジー」は、これまで「世界の涯てに」(1996)や「ダウンタウン・シャドー」(1997)など欧州を舞台にした作品と相性のよかった香港映画のテイストが、海外を舞台にする作品で威力を発揮できなかった韓国映画にスパイスを与え、コンビネーションが活かされた形となっており、チョン・ジヒョンやチョン・ウソンという韓国スターが違和感なくオランダの街並みに溶け込んでいるのも特筆できる。

 中でもチョン・ジヒョンは「猟奇的な彼女」のイメージに苦しんで伸び悩んでいたが、彼女の持つ「芯の強さ」を「凶暴さ」でなく、女性の「凛」とした美しさとしてスクリーンに投影されているのがいい。

 場面繋ぎの「粗さ」は、香港・韓国映画両方における「難点」でるため、そこが解消されていないことだけは惜しまれる。

 例えば「仕掛けられた出会い」が「恋」を生み出したとしよう。

 しかし出会いを「仕掛けた」側は、「仕掛ける」前に出会っているからこそ、出会いを「仕掛ける」のであって、実はそこには既に「偶然」の出会いが存在することになる。

 それを「必然」とするために「出会い」を仕掛けることは罪か否か。

「結果よければ全て好し」と思える「仕掛けられた出会い」による「恋」は、それぞれの「勘違い」を引き起こして、「デイジー」では恋愛映画の王道ともいえる奇妙な「三角関係」を築き上げる。

「偶然」が「必然」となる出会い。

 それはやはり「仕掛けられる」べきものではなく、振り返ったとき結果的に「偶然」が「必然」であったと思えるものでなければ「負い目」を背負ってゆかねばならない辛さがあるのだということを、この映画では示唆している。

「恋」が「恋」であると時の経過が教えてくれるように、「出会いに」おける「偶然と必然」もまた時の経過が、その「是非」を証明してくれることはいうまでもない。

「運命の恋」は、人の意思によって仕掛けなくとも、必ず「運命的」に恋する二人を再び引き合わせるはずなのだから。

  
Posted by matusan at 20:13Comments(1)TrackBack(22)

2006年05月28日

間宮兄弟

本作でちょっとエロい沢尻エリカだが、めちゃめちゃかわゆい!第466回

★★★★(劇場)

 人の家を訪問したとき、僕は隙あらば必ずチェックする「もの」がある。

 それはその家の「ビデオラック」である。

 テレビ番組や映画の趣味はその家の雰囲気を代弁しているからだ。

 例えば、子供のいる家であってもディズニーアニメのビデオかスタジオジブリのビデオかで家庭の雰囲気は異なるし、「ポケモン」か「きかんしゃトーマス」かでも微妙に家庭内の趣味が異なる。

 もちろん中には全てが揃っている家庭もあって、その場合は子供に対してどんな「教育」や「お金の使い方」をしているのかを垣間見ることが出来る。

 また大人の場合でも「アルマゲドン」(1998)とか「タイタニック」(1997)しか置いていない家を見ると、ヒット作しか鑑賞しないであろうことから物事の「興味」の範囲が計り知れるし、その家庭の夫婦がそれなりの年齢なら、二人がまだ恋人同士だった頃に鑑賞したであろう事まで推測できる。

 さらに「ミナミの帝王」やミュージュシャンのライブビデオ、釣りやゴルフのビデオなら、単純にその家に住む人の趣味が分かる。

 多少コアな映画ファンなら、その作品群から性格がなんとなく分かるだけでなく、そこから「会話」を広げるという意味でも「ビデオラック観察」は非常に役に立つのだ。

 そして「ビデオラック」と同じように「本棚」もまた、その人となりを代弁しているといえる。

 小説などは、持ち主がそれぞれの作家が持つ主張に共感していることを示すし、専門書などはそれぞれの得意分野を示すことはいうまでもない。例えそれが漫画であろうとも、持ち主の「趣味」や「趣向」は如実に現れるものだ。

 スポーツが好きならその専門書や雑誌、絵画を趣味とするなら画集、それが鉄道であっても写真であっても園芸であっても専門書や雑誌は存在する(僕の友人のひとりはアーチェリーを趣味として、その雑誌が本棚いっぱいに並べてあったりする)。よって趣味は「本棚」に反映されるのだ。

 逆に「本棚」がないという家も当然ある。

 そんな家庭は大抵、世間の物事に興味のないタイプの人間が多い。視野が狭いことは当然、話の幅も狭く、趣味は「パチンコ」というのが関の山だということがしばしば。

「間宮兄弟」は30代を過ぎても同居している兄弟の日々を綴った作品。

 彼らの住む部屋には壁いっぱいの本棚があり、そこにはありとあらゆる書籍が並べられている。そのジャンルは統一感がなく「何にでも興味を持つ」という姿勢が伺える。

 間宮兄弟の会話には様々な「雑学」が登場するが、どれかを「極めよう」という姿勢は感じられない。

 この「こだわりの無さ」が、処世術という意味での「世渡り」や「世間の付き合い」に彼らの「興味の方向性」を指し示せない要因が隠されており、それが「女性」との「ぎこちなさ」に繋がっていることもわかる。

 兄・明信(佐々木蔵之介)と弟・徹信(塚地武雅)は決して「悪い男」ではない。

 その趣味から「マニア」=「間宮」のようにも思えるが、社会人としての常識や礼儀を持ち合わせていることも描かれ、商店街での「交流」において社交性も見出すことが出来る。

 彼らに「見栄」はあっても、「金」や「名誉」に頼らず、それでいて楽しそうな姿は殺伐とした世の中のささやかな「理想」のように思える。

 ただ、「恋人」が出来そうで出来ないことだけ「理想」から遠く離れてしまっているのだが・・・。

 本作は「兄弟愛」におけるほのぼのとした「至福感」と同時に、女性の「したたかさ」を意地悪く描いているのがミソ。

 間宮兄弟を取り巻く女性たちは「悪気」なく兄弟と接し、兄弟は「恋心」を抱きながらも、女性たちはあっさりと「恋愛」を拒否する。

「女は悪い男に惹かれ、優しい男を認めながらも惹かれるには至らないどうしようもない性を持つ」という江國香織作品に共通する女性像が、間宮兄弟の「妄想」を淘汰し、登場する女性はそれぞれの「幸せ」を上塗りした「不幸せ」へと帰ってゆく。

 これまで女性キャラを際だたせることに長けてきた森田芳光監督らしく、常盤貴子、沢尻エリカ、北川景子、戸田菜穂、岩崎ひろみ、そして間宮兄弟の母親を演じた中島みゆきと女性陣の「輝き」が、間宮兄弟のくすんだ「輝き」と対比されて、それぞれの「本音」に感情移入できるのが見事。

 このことによって、男の立場と女の立場、それぞれの「親切」と「身勝手」が、時に噛み合わない「ぎこちなさ」となって「笑い」へと変換されていることがわかる。

 近年の森田芳光監督作品を見ると、彼の作風は「文芸大作」であるように思えてしまう。

 しかし「そろばんずく」(1986)や「それから」(1985)がそうであったように、映像表現に対する実験的映像への考察が彼の根底にあり、また個人的見解によって人生を謳歌する「無頓着」さが持ち味であったことが思い出される。

「間宮兄弟」はそんな森田作品の「回帰」ともいうべき要素が詰まっていて、「家族ゲーム」(1983)に代表される「横並び」の家族の肖像がここでも踏襲されている。

「横並び」というキーワードは、間宮兄弟の本棚に納められた図鑑から漫画までの多彩な本の並びに例えられているように、それぞれの「関連性」や「関係性」の「希薄」を言及しているように思える。

 間宮兄弟が催した「ゆかたパーティ」で花火をする場面で「横並び」となるのは、その後の行方を案じているようにさえ感じさせる。

 ゲームに興じたり、食事を楽しむ時は「輪」になっているのだが、多くの場面において「横並び」の構図の後、その「集まり」が解散へと向かうことは「断絶」の前触れと解することができる。

 人と人との「触れ合い」が人と人を繋ぎながら、そこへ一歩踏み出せない間宮兄弟自身、兄弟二人で「楽しんでいる」時に「横並び」であることは、基本的に「相手の領域に踏み込まない」という礎が出来てしまっているからだと考えられるのだ。

 本作に多用される心地よい「シンメトリー」=「左右対称」の構図もまた「領域を侵さない」ことが要因となっていることはいうまでもない。

「間宮兄弟」は人間描写に重点をおきながら、殆どクローズアップが使用されておらず、観客がもう一人の客人としてどこか他人の家の中を覗き見するような趣向にしていることが伺える。

 この「客観的な視点」は、聞こえてこないものが聞こえてくるような気にさせてくれる感覚にも表れている。

 例えばMDから流れるドリス・デイの歌は聞こえてこなくとも、その歌声を聴いた先生の心情を察することと同じメカニズムで、間宮兄弟の「楽しさ」が観客に伝わってくる。

 逆に聞こえてこないはずなのに聞こえてくる感覚も見逃せない。

 瞬きや骨の関節、さらには心象を語る「独り言」まで、不自然な表現の数々は、本作がリアルでありながら「虚構」であることを示唆する要素ともなっている。

 それでも「間宮兄弟」が魅力的なのは、ありえないと思いがちな兄弟像でありながら、実は意外と人々の普遍的な「欲求」であることの証拠であるように思えるのだ。

  
Posted by matusan at 18:45Comments(4)TrackBack(19)

2006年05月27日

ジャケット

キーラ・ナイトレイのか細い裸体は全くそそらせない?第465回

★★★★(劇場)

(核心に触れる文面あるので、鑑賞後の通読をお勧めします)

「どんな映画?」と聞かれて、一言では説明できないやっかいな映画がある。

 あまり喋りすぎると内容をバラしてしまうことに繋がるし、かといって説明しなければその映画の魅力が伝わらない類の作品。

「ジャケット」はそんな映画の代表ともいえる1本である。

 ジャック(エイドリアン・ブロディ)は湾岸戦争出征中に負傷し故郷へと帰るが、そこで身に覚えのない殺人によって精神病院送りとなる。

 ところがこの作品は、ジャックが受ける矯正治療の過程でジャックの「精神」が未来へと飛んでゆくことから意外な方向へと向かってゆく。

 もちろんこれは、ありえない「嘘」を前提に作られているので、「そんなもんある訳ないがなぁ」と大木こだま・ひびきのようなボケツッコミをかますと成立しない作品として鑑賞しなければならない。

 ジャックはその「未来」で自分が既に「死んだ」ことを知り、その原因を突き止めようとするのが本作の大筋だ。

 物語全体の構成を再考察すると、あえて辻褄が合わないように構成されている箇所があることがわかる。

 それは本作が、どこか現代を舞台にした「神話」のような体をなしていることが要因となっている。

 ジャックは湾岸戦争の負傷で「一度死んだ」と映画の冒頭で語っている。そして「復活」を果たすのだが、運命的にいわれのない「罪」を背負わされることとなる。

 順序は逆だが、この「いわれなき罪」と「復活」は救世主のそれを思わせるフシがある。

 これを裏付けるように、ジャックの認識票(ドッグタグ)のアップが映し出されると、そこには誕生日が「12月25日」と記されている。

 ジャックが自分の「死因」を突き止めようとすると同時に、自分を救ってくれたジャッキー(キーラ・ナイトレイ)の人生を救おうとする「自己犠牲」においてもその片鱗が見出せるだけでなく、ジャックとジャッキーの関係が復活後の使徒の関係を想起させ、ジャッキーの母親(ケリー・リンチ)の名前がジーンであるなど「J」=「Jesus」と意味づけているのは単なる偶然ではあるまい。

 また子供時代のジャッキーが住む家の住所をアナグラムとして解読すると「BAD」=「不道徳」となり、その行いを正そうとするジャックの行動は「教え」=「手紙」における「予言」であると深読みできる。 

 さらに主人公の「苦行」と「不理解」を、デレク・ジャーマンの弟子として活動してきた監督ジョン・メイブリーのバックグラウンドと照らし合わせると興味深い「苦境」という「暗喩」が見えてくることも指摘できる。

 このように様々なキーワードが練りこまれた「ジャケット」は、一筋縄ではいかない物語展開とともに、隅々に隠された「メタファー」=「比喩」を読み解くと味わい深くなること間違いない。

 演出面においても映画館の暗がりを意識したブラックアウトと音響設計によって、引き出しの中に何度も閉じ込められる主人公の「閉塞感」を観客に味わせることに成功している点も見逃せない。

 ミュージックビデオ監督としても活躍するジョン・メイブリーらしいフラッシュバックの多用も効果的なのだが、U2繋がりで本作の音楽監督となったブライアン・イーノの音楽も出色の出来。

 その音楽においても、終幕時にルイ・アームストロングが歌った「女王陛下の007」(1969)の主題歌が使われるなどの「遊び心」が、映画ファンのみならず音楽ファンをもワクワクさせる。

 というのも、エンドロールで確認すると本作でこの歌をカバーしているのはイギー・ポップで、彼のアルバム「ラスト・フォー・ライフ」(「トレインスポッティング」(1996)でもお馴染み)が劇中ジャッキーの部屋に飾られているからだ。しかも子供時代の母親の部屋にはその朋友デビッド・ボウイのポスターが貼られてあり、監督のグラムロックへのリスペクトぶりが伺える。

 さらに本作には「007/カジノ・ロワイヤル」(2006)で新ジェームズ・ボンドを演じるダニエル・クレイグがジャックの精神病院仲間として出演しており、また「女王陛下の007」がシリーズとしては珍しい悲劇的作品であり(ボンドが果たせない「幸せ」はジャックのそれと符合する?)、ジョージ・レーゼンビーが唯一ボンドを演じた作品であることも、本作のラストの行方を示唆していて興味深い。

 死を迎えたジャックが、再びある場所に立つ「ジャケット」のラストに関しては、様々な解釈が予想される。

 これは「夢」でもあるように思えるし、走馬灯のような「幻覚」であるようにも思えるし、自己犠牲の末に得た「幸せな未来」であるようにも思える。

 ジャッキーの運転する車のミラーには「ドリームキャッチャー」が飾られているのだが、これは二つの異なる未来のどちらにおいても確認できる。

 本作のラストではこの「ドリームキャッチャー」に徐々に後光が射し、ジャックとジャッキーは光に包まれる。

 これはもちろん「光」=「希望」を「ドリームキャッチャー」が受け取ったと解釈できる。

 映画の冒頭でジャックが「認識票」のことを「自分が誰であるかを忘れたときのために必要」と語っているのだが、その「認識票」を大切にとっていたジャッキーは、ジャックにとっての「指標」であり、自分が自分であるための「存在証明」となっている。

 その二人の行く末が「希望」であって欲しいと願いつつも、これが「儚い夢」でしかないことをどこかで意識させる本作は、何となく切ない気持ちにさせるのだ。

  
Posted by matusan at 20:07Comments(1)TrackBack(6)

2006年05月26日

グッドナイト&グッドラック

ジョージの叔母ローズマリーをリスペクトした選曲が抜群第464回

★★★☆(劇場)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

 もうかなり前の出来事だが、これは事実である。

 僕は仕事で、ある議会の中継を撮影していた。

 実は当時、市民オンブズマンたちの間で「議員たちの居眠り」を糾弾するという動きがあった。

 市民オンブズマンたちとは、それまでに取材内容でひと悶着あったので、僕は毛嫌いしていたのだが、「議員たちの居眠り」糾弾に関しては納得できるフシがあった。

 議会中継では常に副調整室に議会事務局の人間や広報課の人間がチェックに立会い、様々な指示や駄目出しをするのだが、カメラが切り替わる瞬間に我々が「遊び」で居眠り議員のアップをチェックすると、すぐに注意を受けていたのだ。

 その年の議会は傍聴席に市民オンブズマンたちを立ち入れさせないなど、新聞沙汰になったくらい荒れていて、いつもに増してピリピリとした緊張感が漂っていた。

 にもかかわらず、ある大物議員は議会のたびに居眠りをし、ボートを漕ぐように頭は前後にゆらゆら、ある日彼は「いびき」をかき始めた。

 その「音」は中継マイクでも拾ってしまうほどで、議会を中断するわけにもいかず、さすがに副調整室も混乱している様子がインカムから聞こえてきた。

 そして指示が下った。

「(居眠りしている)○○○議員を絶対に映すな!」

 僕はその瞬間、急に頭にきた。「圧力」を感じたからだ。そしてカメラであえてその議員のアップを捕らえた。

 インカムからは「今すぐやめろ!」という怒りの声。しかし僕は無視した。様々な罵詈雑言が僕の耳をかすめ、僕はインカムのスイッチを切った。

 しばらくすると後輩社員がやってきてカメラを交代すると言ってきたが無視。やがて上司もやってきたがこれも無視。

 結局、議会が休憩に入るまで、その日はセンターの映像がないままの中継となった。

 これが、ただで済むわけがない。

 中継後、僕はこっぴどく怒られ、その日を境に中継には参加させてもらえなくなった。

 だが、話にはまだ続きがある。

 議会中継期間が終わり、中継機材を片付けていた時だ。

 ケーブルを8の字にまとめていると、男の影が僕を覆った。そう、あの議員である。付き添いの事務局員が「この子(?!)です」と僕を指差すと、その議員はしゃがみこんで僕の耳元でこう囁いた。

「あんまいらんことばっかりやっとると、どないなってもしらんど」

 脅しである。

 彼のバックグラウンドはいうよしもがな。

 僕はこの日から、味方のいない闘いを強いられることになったのである。

「グッドナイト&グッドラック」は「赤狩り」の時代を舞台に、マスコミでさえも恐くて反論できなかった「マッカーシズム」に反旗を翻し、マッカーシー上院議員の失墜に貢献したニュースキャスター、エド・マローの実話を描いた作品。

 真実に白黒つけられない不穏さをかもし出したモノクロの映像は、マッカーシー上院議員など実際のフィルムと調和して、見事に社会批判を訴求している。

 深読みすれば、当時のマスコミ体質と「世論」の多数決主義を基に「9.11テロ」以降のアメリカの体質を皮肉ったとも思えるのだが、純粋にマスコミのあり方について疑問を持った監督ジョージ・クルーニーの思いが作品に反映されたからだと考察できる。

 彼の父親はニュースキャスターであり、その「批判精神」は本作だけでなく、スターでありながら金儲けを軸としないこれまでの作品選びにおいて確認できる。

 また彼の叔母であるスタンダード歌手ローズマリー・クルーニーの影響を受けたジャズへの造詣は本作にも活かされており、ダイアン・リーヴスが劇中歌手として見事な歌声を披露し、映画内における場面繋ぎのアクセントとなっているのは出色。

 監督作として政治色の強い作品を選ぶことは「あざとい」との揶揄もあるが、「それならハリウッドの映画人がみなそうすればいい」と開き直るジョージ・クルーニーの心意気は清々しい(また資金調達に苦労した本作に日本の資本が参加しているのは誇らしい)。

 正しいと思う事も「力」によってねじ伏せられてしまうことは多々ある。しかし、そんな不埒な輩はいずれ淘汰される運命にあると僕は信じている。

 世間を欺き、自己のためだけに生きる輩は「張子の虎」でしかないからだ。

 人々がその「圧力」に涙し、その涙は無力であっても、徐々に張子の外郭を溶かしてゆくに違いないのだ。

 僕は「脅し」の後、社内で処分を受けた。

 そして「謝罪文」を書くことを命令された。

 自分は何も悪くないのになぜ謝罪をしなければならないのか。書くことを拒み続けると、さらに「給与」面での処分を受けた。

 何度も議員に呼び出され、何度も「恫喝」を食らった。

「グットナイト&グッドラック」が素晴らしいのは、そんな「その後」の出来事も単なる「美談」に終わらせず、包み隠さず描いている点にある。

 映画やドラマでは、主人公が「権力」に立ち向かってゆくものの、往々にして「処分」を受ける。「踊る大捜査線」の青島刑事だって何度も始末書を書かされていた。

 だが、実際の社会では、処分を受けて、始末書を書かされた後の「辛さ」が人間を弱くさせる。

 ドラマには最終回があるし、映画は2時間で物語を終えるが、人生には「最終回」などなく、問題を抱え続けねばならないのだ。

 僕は結局「謝罪文」を書いた。

 不本意だったが、心にもないことを文章にした。

 それは自分のためでもあったが、何よりも一緒に働く仲間に迷惑をかけることになったことが大きな理由だった。

 僕一人の「意地」で、同じ社内の人間は「迷惑」を被る。これだけは自分でも許せなかったのだ。「諸悪」を憎むつもりが、仲間にとって僕が「悪」になれば、本末転倒だからだ。

 だから、というと「事件」の規模があまりにも違うので恐縮ではあるが、本作のラストでエド・マローが不本意な待遇を迎えることは、社会の「常」のような気がして心が痛い。

 若く、そして不遇にして亡くなったエド・マローの心境は如何なものだったのか?

「グッドナイト&グッドラック」の全ては、映画の冒頭と終わりで語られるエド・マローが行った演説の言葉に集約されている。

 以下、抜粋しておりますのでご興味あれば一読下さい。また引用にあたって著作権の問題があればご指摘頂ければ幸いです。

【エド・マロー 報道番組制作者協会の演説より】

 ラジオとテレビの現状を率直に語りたいと思います。内容に問題があれば、全て私の責任です。

 歴史は自分の手で築くものです。もし50年後か100年後の歴史家が、今のテレビ番組を1週間分見たとする。彼らの目に映るのは、恐らく今の世の中にはびこる退廃と現実逃避と隔絶でしょう。アメリカ人は裕福で気楽な現状に満足し、暗いニュースには拒否反応を示す。それが報道にも現れている。

 だが、我々はテレビの現状を見極めるべきです。テレビは人を欺き、笑わせ、現実を隠している。それに気付かなければ、スポンサーも視聴者も制作者も後悔することになる。

 歴史は人間が作るもの、と言いましたが、今のままでは歴史から手痛い報復を受ける。思想や情報はもっと重視されるべきです。

(中略)

 もしテレビが娯楽と逃避のためだけの道具なら、もともと何の価値もない。テレビは人間を教育し、啓発し、情熱を与える可能性を秘めている。だが、それはあくまでも使い手の自覚次第。

 そうでなければ、テレビはメカの詰まった「ただの箱」だ。

(1958年10月 田草川弘・訳)


 この演説が50年も昔のものでありながら、現在でも決して古い考え方でないことが、皆様の中で様々な思いへと変換されることでしょう。

 僕が本作について語るべきことは殆どないので、今回は主に他人にとって退屈な体験談を書かせて頂いた次第です。

  
Posted by matusan at 13:57Comments(5)TrackBack(5)

2006年05月25日

クライング・フィスト

監督のリュ・スンワンと主演のリュ・スンボムは兄弟第463回

★★★★(劇場)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

「ジョージ・ファオアマンは45歳でチャンピオンになった」

 これは「クライング・フィスト」に登場する台詞のひとつだ。

 僕はこの試合を当時WOWOWの生中継で見ていた。にもかかわらず、全盛期のフォアマンを知らない僕にとっては、その「凄さ」だけしか伝わらず、その「素晴らしさ」に気付けずにいた。

 それは当時の僕が、まだ世間の恐さを知らない「甘ちゃん」でしかなかった証拠であるように今では思える。

 若き頃のジョージ・フォアマンは、「象も倒す」という強烈なパンチでKO勝ちを得意としたファイターだった(その重たい強打は往年も冴えわたっていた)。

 メキシコオリンピックで金メダルを獲得してプロに転向、ジョー・フレージャーを倒して世界チャンピオンになり、「キンサシャの奇跡」と呼ばれたモハメド・アリとの戦いに負けたことでチャンピオン交代となり、1977年に宣教師となるために引退した人物だ(ちなみにフォアマンがタイトルを奪ったジョー・フレージャーは、フォアマンが負けたアリに、初めて敗北を味あわせたという因縁を持つ)。

 プロボクサーは現在プロテスト受験資格が30歳までとなっており、ライセンス期限は原則36歳という「若手中心」の世界という現実がある。

 フォアマンは青少年厚生施設建設資金の捻出のため「金のために試合に出る」と宣言し、38歳で現役復帰した(世界挑戦経験者、現役ランカーなどは特例とされている)のだが、その道は平坦ではなかった。

 当時の世界チャンピオンであったイベンダー・ホリフィールドとはタイトルを掛けて善戦するも判定負け。「ロッキー5/最後のドラマ」(1990)でロッキーの弟子を演じたトミー・モリソン(ジョン・ウェインの甥でもある)ともタイトル戦に挑むも敗退。年には勝てないと揶揄され続けた。

 そんな世間の嘲笑をものともしないフォアマンの「挑戦」は、自分のためでなく、「青少年育成」という純粋な「信念」に基づくものであったから揺るがなかったことは想像に難しくない。「名誉」や「名声」のためでないからこそ、周囲があざ笑おうが「無謀」といわれた挑戦に突き進んでいったのだ。

 そして1994年、マイケル・モーラーの持つWBAとIBFのダブルタイトルを懸けた世界ヘビー級タイトル戦に挑戦。見事KO勝ちを収め、奇跡的とも言える最年長の世界王者となったのである。

 戦いは「勝つ」ためにある。

 他人の思惑や策略でもない限り「負ける」ために戦いに挑む者などいようはずもない。

 だが、「戦い」には必ず結果が訪れる。それは「勝つ」か「負ける」かという明確な「明暗」を分けることになる。

 必ずどちらかが「勝ち」、どちらかが「負ける」という宿命。

 例え「引き分け」という結果が存在したとしても、戦いに加わった者はその先に横たわる「運命」と対峙しなければならない。

 また、戦いに挑む者には、それぞれの「理由」が存在する。

 それぞれ個々の人生があり、そこには家族や生活がある。だからこそ「勝つ」ことに意義があるともいえないか。

「クライング・フィスト」は、借金で家庭崩壊を招いた元オリンピック銀メダリストの中年ボクサー(チェ・ミンシク)と、自分の非行によって家族の悲劇を招いた少年院で更生する若きボクサー(リュ・スンワン)が、それぞれの「理由」によってボクサーとして戦う物語。

 二人の人生を並行して描き、本来なら決して交わることのない二人の人生が、四角いマットの中で交差し、拳を交わらせる。

 本作が見事なのは、二人の人生の転落を克明に描き、その「挫折」を観客に刷り込ませることで、どうしようもない二人でありながらラストの試合で「どちらにも勝って欲しい」と思わせる計算された心憎い演出にある。

 いっけんすると「Fight」=「戦い」を、異なる二つの立場、異なる二つの理由という視点で「戦争」と深読みできるのだが、それを凌駕する「感動」がラストに待ち受けている。

 それは、勝敗に関係ない「人生を諦めない」ことへの「賛歌」である。

「勝つ」ために戦いながら、「勝つ」までの到達点めでの「過程」こそが、主人公二人のこれからの人生に「光」を与えるであろう事が想像できるからだ。

 人生の山と谷は誰にでも訪れる。

 頂点を極めれば、後は堕ちてゆくしかない。逆に底に転落すれば、それ以上堕ちることがなく、登ってゆくしかない。

 登るも堕ちるもそれぞれの速度があり、それでも後戻りできないからこそ「諦めてはいけない」ことは、判っていても心に余裕がなければなかなか自戒できないものだ。

 そんな自戒の念に対し、多くを語らず、「ワケありなのはお前だけじゃない」と一喝するそば屋の主人として、もうひとりの「ワケあり」男を演じたチョン・ホジンの演技が味わい深い。

 そして「春が来れば」(2004)、「親切なクムジャさん」(2005)、「オールド・ボーイ」(2003)と常に情けなさを演じながらも、それぞれ違った顔を見せ続けるチェ・ミンシク入魂の演技も光る。

 また、全編を覆う「泣き」のメロディを紡ぐパン・ジュウンソクの音楽も素晴らしく、監督リュ・スンワンは「ARAHAN/アラハン」(2003)の低調さとは比べ物にならない冴えた演出を披露している。

 日本で「殴られ屋」として借金返済を試みる元プロボクサー晴留屋明のドキュメントを見た監督が、ソ・チョルという少年院出身の韓国K−1ファイターの生い立ちを元に、二人が同じリングに立ったらどうなるかという「妄想」を映像化した本作は、「見栄」に頼らない潔さを感じる。

 これは「事実」を基にした、人生の真理が練りこまれているからだ。その普遍性は海を越え、2005年のカンヌ国際映画祭で国際批評家大賞を獲得したことに繋がったように思える。

 彼らの「クライング・フィスト」=「泣きの拳」に打たれ、きっと貴方の頬を熱い雫が流れ落ちるに違いない。

 それは、彼らがこれ以上堕ちることがない極限にいながら、お互いが勝敗に関係ない「何か」を勝ちとって、この上ない「笑顔」を見せているからにほかならない。

  
Posted by matusan at 15:01Comments(0)TrackBack(0)

2006年05月24日

ダ・ヴィンチ・コード 【B面】

ジュリー・デルピーのソフィーも見たかった第462回

【B面:ベストセラー作品映画化の問題点を考察】

★★★(劇場)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

 アカデミー賞では映画の脚本に対して「脚本賞」と「脚色賞」の二部門に分けられている。

 これは映画のために書かれたオリジナルの脚本に対して「脚本賞」が設けられ、原作のある作品を映画化したものに対して「脚色賞」が設けられているからで、それぞれが「別物」として考えられている証拠ともいえる。

 ご存知のように、小説が映画の原作になることは珍しくない。

 そして「大ヒット映画」の鉱脈として、ベストセラーの映画化権は争奪戦が繰り広げられている。

「ダ・ヴィンチ・コード」が全世界で5000万部以上を売り上げている「大」ベストセラーであることは、「人気」ということだけでなく、「多くの人が読んでいる」という側面を持ち合わせる。

 そのため、単に「人気」であるからヒットが見込めるのではなく、「人気」であるから原作との比較という宿命から逃れられないことになる。

 という訳で、「映画」は「映画」、「小説」は「小説」と評価をするべきところだが、本作においては「比較」されることを避けては通れない。

 小説を映画化する場合、原作が「短編」であるほど傑作になるというジンクスがある。

 それは映画の脚本は単行本の活字に直すと、長くとも100ページ足らずでしかないからだ(小説で100ページだと、短編や中編小説になる)。

 例えば、「ダ・ヴィンチ・コード」のように「上・下巻」あるような長編小説の場合、合計で600ページ以上あるので単純計算しても脚本に直す場合には、どうしても全体の17%くらいの内容になってしまう。

 よって「短編」小説なら原作のテイストをそのまま活かせるのだが、「長編」小説の場合は原作の内容を削るしかない。

「ダ・ヴィンチ・コード」は映画化にあたり、当然のことながら小説の内容を削ることによって脚本を完成させることになる。

 その結果、本作は物語を追うことに終始し、「ダ・ヴィンチ・コード」という小説の持つ長所を活かせていないのだ。

 小説「ダ・ヴィンチ・コード」の魅力は、数々の「トリビア」=「雑学」にある。

 レオナルド・ダ・ヴィンチ作品の裏話や「黄金比」関する記述などの「雑学」が物語の方々に散りばめられ、それが物語における「謎解き」と相成って、読者を引き付ける要因となっている。

 しかし映画版は、(大方の予想通り)それらの「雑学」が削ぎ取られ、「キリストの子孫は誰か?」、「マグダラのマリアの石棺がどこにあるのか?」という「謎解き」が中心となり、本来「ダ・ヴィンチ・コード」の持つ面白さが発揮できていない。

 また本作がサスペンス映画としても「弱い」のは、物語を転がしてゆく「鍵」が原作者であるダン・ブラウンの考え出したものであることが大きい。

 つまり小説版の「ダ・ヴィンチ・コード」は、考古学的視点におけるルネッサンス芸術の考察が「謎解き」における「鍵」と呼応しているのだが、映画に登場する「鍵」となる「暗号」はそれらと関わることがなく、単に原作者の創作でしかない。

 例えば、ダ・ヴィンチの遺した記述の中に「暗号」が隠されていることや、アレキサンダー・ホープの詩の中に「アナグラム」=「語句の並び変え」によって隠された「暗号」があることによって、次なる「鍵」に繋がってゆく展開であれば、それなりに面白くなったのかも知れない。

 しかし登場する「暗号」は現存するものではなく、全て原作者の創作なので「どうにでもなる」というサスペンスにおける「つまらなさ」に繋がってしまっているのだ(ラストから逆算することで、「言い伝え」や「暗号文」を都合よく創作できる)。

 それはラストにおける地下に潜む「オチ」でさえも「創作」としか思わせない点において如実に現れているのが痛恨。

 もちろんこれは原作通りなので仕方ないことなのだが、「雑学」を削除したことであまりにも「鍵」が薄っぺらく、説得力に欠けてしまったことは残念に思える。

 ただ、原作に忠実に脚本化した割には「よくまとめられている」ということは、それなりに評価できる。

 逆に「最後の晩餐」における解説場面を見れば、小説で何ページも費やしている記述も、映像ならば数カットですぐに説明できるという「映画」の強みも発揮されていることがわかる。

 無駄な部分を削ぎ落として、ストーリー展開に忠実であることに特化できたのは、この物語が長編でありながら、ほぼ1日の出来事であることが大きく影響している。

 長い年月を描いた長編小説である場合、エピソードの削除が困難で、映画化した場合にはどうしても「ダイジェスト」になりがちだ。

 だが「トリビアの泉」が「トリビア」のことを「無駄知識」と断言しながら人々を魅了しているように、「ダ・ヴィンチ・コード」における「無駄」=「雑学」を削り取ったことが、作品の魅力を欠いてしまったことは何とも皮肉である。

 どんでん返しのネタ晴らしとなるイアン・マッケランのキャスティングや、「寝返り」における分かりにくさを感じたのはご愛嬌だが、「ダ・ヴィンチ・コード」は決してつまらない映画ではない。

 多額の製作費をかけ、トム・ハンクスやオドレイ・トトゥ、ジャン・レノという人気俳優魅惑の共演、ルーブル美術館でのロケなど、映画をあまり見ない人達を巻き込んだ「イベント映画」としての見所も多い。

 ただ、ベストセラー作品、しかも「大」ベストセラーである「宿命」には勝てなかったことだけは確かである。



※総合的にご理解いただくため、是非【A面】もご参照ください。

  
Posted by matusan at 05:00Comments(0)TrackBack(28)

2006年05月23日

ダ・ヴィンチ・コード 【A面】

平日でもSOLDOUTなのは、内容はどうであれある種快挙第462回

【A面】

★★★(劇場)

(例え話であって映画の感想ではないので、ご注意あそばせ)

「真実」と「真相」の違い。

「知らぬが仏」と言う言葉があるように、世の中には「知らないほうが幸せ」と言うこともある。

 例えば、貴方が男だとして、かつての恋人と再会したとする。

 それは街角でも同窓会の場でも何だっていい。十数年ぶりに会った彼女はそれなりに年齢を経ているけれども昔と変わらず魅力的で、でも既に結婚をしていて、それなりに幸せな生活を営んでいると知る。

 もちろん貴方が彼女の人生に入り込む隙間などない。

 しかし貴方はひょんなことから彼女の「悩み」を知ることとなる。

 彼女の家庭には子供がいないのだ、いや、出来ないのだ。その理由は何だっていい。

 昔話に花が咲いた彼女から、貴方は突然驚きの提案を受ける。

 彼女は貴方の子供が欲しいというのだ。

 しかしそれは1回限り夜を共にすることで、その後は他言無用、墓の中まで持ってゆく「秘密」にして欲しいというものなのだ。

 旦那と血液型が同じであるからだけでなく、子供を持つなら一度は愛した男の子種であって欲しい、そして貴方の才能を子供に受け継がせたいのだと彼女は懇願する。

 彼女にとっては「今の家庭」が全てなのだ。

 結局、貴方は彼女の望み通り一夜を共にする。

 その後、貴方は風の噂に彼女に子供が出来たことを知る。それが本当に貴方の子供なのか否かを知る由はない。

 それから二度と彼女と会うことはなく、月日は流れ、貴方は彼女の訃報を聞く。

 そして貴方も老衰し、人生最期の時を迎える。

 その貴方がもし一生他言することなく秘密を守り通し、彼女もまた同じように守り通すだけでなく、旦那が疑うこともなく、何かのきっかけで「DNA鑑定」することもなかったとしたら、貴方と彼女の間に生まれたと思われる「子供」は、彼女と彼女の旦那の子供として、間違いなく次の世代を引き継いでいくに違いない。

「秘密」を守り通せば「真相」は藪の中へ、「嘘」は「まこと」になり、それが「真実」と成りえる。

「ダ・ヴィンチ・コード」における「真実」とはそういうことだ。

 本作はあくまでもフィクションであって、ここで語られていることは「真実」などではない。「事実」を基にしただけで、劇中も言及されているように、「歴史」は伝えられてゆくうちに捻じ曲げられてゆくものなのだ。

 それは、ほんの70年前に起こった太平洋戦争時代の「事実」においても、すでに「真実」と「真相」が錯綜し、解釈が分かれていることからも伺えるだろう。

 これが2000年以上も前の話なら尚更のことだ。

 よって、物語の面白さ如何に関係ないところで批判しあうのは片腹痛い。

「言論」や「思想」の自由を奪うことは、時代の逆行につながることは、いうよしもがな。

 もちろん「名誉毀損」という意味での反論はごもっともで、ある種反省の余地もあるのだが、反論をすればするほど、「世俗」=「世間」の興味を引くことに繋がることもまた知らねばならない。

 そういう意味で「隣人を愛せよ」という主の言葉を改めて思い出さねばならない人が多いことも指摘できる。

「ダ・ヴィンチ・コード」は、殺人事件をきっかけにキリスト教における「隠された真相」を暴こうとする物語だ。

 もちろん本作で語られているのは「真実」ではなく、「真相」における過程を考察したものである。

 よって「本当」の「真実」と「真相」を見抜くことは、それぞれ個々の判断に委ねられていることは言うまでもない。

 ドラマ版「野ブタ。をプロデュース」でこんなエピソードがあった。

 同じ事象に対して、二人が異なる二つの事実を述べている。つまり片方は嘘をついているのである(あるいは両方)。

 二人を「友達」と思う野ブタ(堀北真希)は、どちらを「信じ」ればいいのかを悩む。

 そこに登場した教頭(夏木マリ)は、スポンジで出来た赤い球を取り出して左手の中に隠し、握った右手と左手を見せて野ブタにどちらの手に隠したのかを尋ねる。

 確実に左手に中に入れたのを見た野ブタだが、もしかしたら「手品」で右手に移し変えたのではないかと疑う。

 どちらに隠しているのかを悩んでいる野ブタを見て、教頭は一言こう提言する。

「信じたいほうを信じればいいんだよ」

「ダ・ヴィンチ・コード」における「真相」とはそういうことだ。



※明日は原作との比較を中心とした【B面】をお送りします。

  
Posted by matusan at 12:27Comments(3)TrackBack(31)

2006年05月22日

チルドレン

「陽気な〜」に続き横浜みなとみらいロケと相性がいい伊坂作品第460回

 今回は「陽気なギャングが地球を回す」(2006)も公開中の、伊坂幸太郎原作映像化作品として「dramaW」で昨夜放送された傑作ドラマをご紹介。

「チルドレン」
出演:坂口憲二 大森南朋 小西真奈美
監督:源孝志
(2006年作品・WOWOW)

★★★★(TV)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

 例えば貴方が銀行へ行ったとする。

 そこで突然「銀行強盗」に遭遇、目隠しをされ手を縛られ、貴方は人質となってしまう。

 聞こえてくる声からなどから、犯人は2人組と思える。彼らは「おとなしくしていれば人質12人には危害を加えない」と言う。

 しかし時間が過ぎ、外が騒がしくなってきたのを貴方は感じる。どうやら警察が到着したらしい。犯人は警察と電話で交渉を始め、少しずつ人質を解放すると話しているのが聞こえてくる。

 何度か交渉が続き、貴方も目隠しをされたまま銀行の外へと解放される。助かったのだ。

 貴方は警察に事情聴取をされ、銀行内での出来事をありのまま話す。

 事情聴取が終わり、疲労困憊で家に帰ると、テレビを点け、貴方はニュース番組で銀行強盗事件の顛末を確認する。

 そこで報道されていたのは「犯人行方不明」という意外なニュース。

 人質が解放されたことで警察が強行突入すると、銀行内はもぬけの殻だったというのだ。

 さて、ここで問題。

 銀行強盗犯は一体どこへ逃げたのでしょう?


「ルパン三世」ファンならお馴染みの、この「逃亡方法」が「謎解き」となる伊坂幸太郎の小説「チルドレン」は、5作の短編からなる連作。

 伊坂幸太郎自身が本作のことを「短編集のふりをした長編小説です」と語っているように、全く関係の無さそうな5つのエピソードには、それぞれ同じ登場人物が違う視点、違う時間、違う場所に姿を現し、全編を読み通すとバラバラになったジグソーパズルが完成するような爽快感が味わえる。

 今回、映像化に当たっては「叙述トリック」によって読者を欺く手法を逆手にとって、原作の構成自体を解体して基本的なエピソードを踏襲しながら「新たな物語」として構築し直しているのが見事。

 原作の第1エピソードとなる「バンク」における「謎解き」は、ドラマ開始早々に解き明かされ、観客を物語にのめり込ませる「つかみ」として利用されているのも見事で、僕が冒頭に書いた「犯人」のゆくえを教えてくれる。

「チルドレン」の主人公である武藤(坂口憲二)は、家裁調査官。少年犯罪と向き合いながら、したたかな少年たちに「騙されてやっている」と優しい視線で接するよう心がけている。

 武藤は万引き少年(三浦春馬)の担当となったことから、訳ありの父親(國村準)との関係を探ろうと試み、あらぬ事件に巻き込まれてしまう。

 原作でもひときわ異彩を放ち、無骨な魅力を放つ武藤の先輩である陣内を演じる大森南朋の演技が素晴らしく、白と黒の中間とも言うべき「グレー」な魅力が爆発している。

 また「東京タワー」(2005)や「大停電の夜に」(2005)を監督した源孝志の映像も透明感があって好感が持て、原作を映像向けにアレンジした脚本も評価できる(ドラマ「ブラックジャックによろしく」や「アテンションプリーズ」の脚本家である後藤法子との共作)。

「チルドレン」=「CHILDREN」は「子供」=「Child」の複数形である。

 劇中「Child」が複数形になっても「Childs」でなく「Children」と変わるのは、子供が個人でなく集団になると「別物」になるからだ、と語られている。

 一人の時には問題がないことでも、集団になるとおかしくなるのは「集団心理」が働くからだ。

 しかしもっと深刻なのは、大人になって「集団」が成立しなくなる時期になっても「ひとり」で悩みを抱え続け、いつまでも「非行」から逃れられないことだ。その「悩み」は外からは判断しにくく、次第に「悩み」がおかしな方向へと一人歩きする危険をはらんでいるのだ。

 本作を見ると、殺伐とした子供たちの世界だって捨てたものではないと思えると同時に、人間関係よって生まれる「ささやかな奇跡」もいいものだと思えるに違いない。

 結局、人は人に助けられ、人は人に救われるという王道のメッセージは気恥ずかしいものではなく、人なら誰もが求めているものなのだと実感できる。

 よって、本作のラストに待ち構えているのは、意外な「大岡裁き」だ。


 さて、銀行強盗犯のゆくえだが、「チルドレン」ではこのように推理している。

 果たして犯人は本当に2人だったのか?

 貴方は目隠しをされていた。聞いたのは犯人の「声」だけだった。目隠しされる前に犯人を目撃していたとしても、それは「実行犯」であって「協力者」がいたとしたらどうだろう?

 そしてもう一点。

 本当に人質は「12人」だったのか?

 目隠しされた貴方は、もちろん人質が何人であったかなど数える暇はなかったはずだ。

 少しずつ解放された人質。

 その全員が解放されて、強行突入したらもぬけの殻だったということは、犯人は消えたのではなく、既に逃げたと考えられないか?

 ということは・・・。

 まだ銀行強盗犯の行方がわからない方は、是非「チルドレン」をご覧ください。



【番外】

ハズレのない作品を書き続ける伊坂幸太郎の傑作 WOWOWが企画する「dramaW」シリーズは、これまでにも大林宣彦監督の「理由」(2004)、原田真人監督の「自由戀愛」(2005)、市川準「春、バーニーズで」(2006)など映画監督によって製作された作品も多く、劇場公開もされた作品も少なくない。

 また石田衣良原作の「13TEEN」(2004)や角田光代原作の「対岸の彼女」(2005)、京極夏彦原作の「巷説百物語 飛縁魔」(2006)など直木賞関連作をいち早く映像化するという企画の強さも特筆できる。

 有料放送局による独自の映像ソフト制作の先駆けとして「良質」な作品を排出し、これからも目が離せない。

 ちなみに「チルドレン」は直木賞候補となった原作も傑作なので、機会あれば一読お勧めいたします。

  
Posted by matusan at 08:25Comments(0)TrackBack(0)