2006年07月31日

まつさんの文化伝道師2006 7月号

今年ベストワンのアルバム!!第530回

 今回は月末恒例、「まつさんの文化伝道師」をお届けします。

【まつさんの文化伝道師 2006年7月号】

■まつさんのヘビーローテーション

★「耳鳴り」 チャットモンチー
 今年マイベストワン必至の推薦盤。単なるガールバンドでない多彩(=「多才」)さは、シングルではなくアルバムを通しての楽曲を聴けば自ずと理解できる。歌詞における内省性がヘビーなサウンドに反映されている点が、何とも末恐ろしい才能を感じさせる。


■CDアルバムこの5枚

★「ベスト オブ くるり TOWER OF MUSIC LOVER」 くるり
 ベストの中のベストな選曲で、過去のアルバムの購買意欲を欠くくらいのボリュームがある。それでいて初回盤に収録された未発表曲にファン心をくすぐらせ、ジャケット写真に「京都」への愛も感じさせる(「東京」でデビューしたことへの反動と捉えることが出来ないか?)のがいい。

★「Splurge」 PUFFY
 大したプロモーションも成されぬまま発売された、デビュー10周年を飾る久々のアルバム。ジョン・スペンサーの参加など、全米人気によって築いた新たな音楽関係が今後の大いなる展望を示唆しているといって過言ではない。

★「EVERY SINGLE DAY」 BONNIE PINK
 くるり同様、こちらも過去10年の音楽活動の総括的ベストアルバムで、最近ファンになった人達にとって過去のアルバムが必要ないくらいの充実ぶり。オリコン初登場2位という快挙(彼女にとって最高位)により、DVD付の初回盤は発売早々に売り切れた。

★「ジ・イレイザー」 トム・ヨーク
 レディオヘッドのフロントマンのソロアルバムだが、レディオヘッドのアルバムと遜色ない仕上がりになった所以は、もともとレディオヘッド向けに作った楽曲だったからという裏話。それでも電子音の少ない初期作品から程遠い作風ながら、個人的には好感が持てる。

★「cure jazz」 UA×菊地成孔
 曲者同士のコラボレーションが曲者のアルバムを作るのではなく、奇をてらうことなく意外とスタンダードな仕上がりになっているのがいい。このアルバムを聞けば、UAのヴォーカル力が個性的なだけでなく、本当に巧いことが再確認できる。


■CDシングルこの5枚

★「紅蓮の月」 柴田淳
 ビクターに移籍してからもメディア露出度が低いものの、タイアップの質は各段に向上している。本作は昼ドラ「美しい罠」の主題歌となっているだけでなく、カップリング曲「後ろ姿」の完成度も高く、ファンとしてこれからの展開が期待できる。

★「Magic Music」 木村カエラ
 天使に扮したカエラさんの姿がジャケットに選ばれているが、よく見ると彼女は便座の上にしゃがんでいる。天使の羽を「飛躍」と読むか、便座に座る天使を「反逆」と読むかで、彼女のこれからが占える気がする。

★「to U」 Bank Band
 再生紙を利用したジャケットにはこんなことが書かれている。「汚れたり、よれたりしても製品に問題ありません。触ってあげてください」と。この言葉に楽曲のメッセージとBank Bandの活動が集約されているように思える。オフコースのカバーとしてカップリングされている「生まれ来る子供たちのために」は必聴。ミスチル(桜井和寿)とリリイ・シュシュ(Salyu)のデュエットは奇跡的。

★「箒星」 Mr.Children
昨年の「四次元 Four Dimentions」から1年ぶりのシングルだが、上記「to U」や「ap bank fes06」など活動は精力的。桜井和寿の入院以来、マイペースな活動によって楽曲の温かみが増したと思うのは僕だけではあるまい。

★「Juice」 くるりとリップスライム
ひと夏限りの限定ユニットとして、レコード会社の垣根を越えたコラボレーションが実現。同日発売となったリップスライムとくるりの「ラヴぃ」の方がセールスは上だが、楽曲的にはこちらの完成度が高い。くるりのコーラスが入るサビは鳥肌が立つほど素晴らしい。


■書籍この1冊

 今月は傑作ぞろいにて、各3冊ずつ+1冊をご紹介。

(漫画)
★「虹ヶ原 ホログラフ」 浅野いにお
「素晴らしい世界」や「ひかりのまち」など、まつさん近年お薦めの漫画家、浅野いにお初の長編。子供たちの残酷な日常を描きつつも、そこには「希望」と「温かい」視点があり、「生きてゆくことの強さ」を静かに示唆している傑作。

★「DEATH NOTE 12巻(完)」 大場つぐみ・小畑健
 作品の人気が上がるとともに連載を長引かせる傾向にある出版界(漫画雑誌界)において、予定通り完結させた心意気は大いに買える。ただ、あのラストならもう少し続けてもよいのでは、と思った読者も少なくあるまい。

★「うつうつひでお日記」 吾妻ひでお
「失踪日記」で多くの賞を獲得した吾妻ひでおの最新作は、「失踪日記」執筆中のエピソードをエッセイ風にスケッチした続編的作品。「失踪日記」と比べるとお世辞にも傑作とは言えないが、何もないことを何もないと描く潔さと確信犯的な放棄は、かつての吾妻漫画のデタラメさに通じるものがある。

(小説)
★「灰色のピーターパン 池袋ウエストゲートパーク此廖\佚聴疥
 シリーズ最新作には、石田衣良が朝日新聞の企画で高校の授業に参加した時のアイディアが活かされた作品も収録。相変わらずひどい話が多いのだが、ラストは総じて感傷的にさせる心地よさが何よりもこのシリーズの魅力。面白くない訳がない。

★「日本沈没 第二部」 小松左京・谷甲州
 現在公開中の映画を見てから読むと混乱するので、映画ファンには薦められないが、原作を読んだ読者にとってはとてつもなく面白い「日本沈没」の続編。沈没後の「日本」ではなく「日本人」をフィクションとして描くことで、現在の世界情勢における「何か」を感じられるに違いない。ある種、良い「続編」のお手本のような作品。

★「うらなり」 小林信彦
 今年は夏目漱石の「坊ちゃん」が発表されて100年。宮藤官九郎脚本の傑作昼ドラ「吾輩は主婦」が「吾輩は猫である」の変化球であったのに対して、こちらも驚くべき趣向で書かれた「坊ちゃん」の「続編」とも「もうひとつの」とも捉えることが出来る異色作。これもまたある種、奇想天外な「続編」のお手本のような作品。

(ノンフィクション)
★「セックスと嘘とアダルトビデオ 村西とおるの七転八起人生」 丸茂ジュン
映画ファンにはお馴染みの映画題をもじったタイトルからも判るように、アダルトビデオの一時代を築いた村西とおるの波乱万丈一代記を「愛」を持って書かれたノンフィクション。黒木香と村西の関係がなんとなくフェリーニの「道」(1954)を想起させるのが面白い。


■注目の1品

収録時間の割りに値段が高いのが玉に瑕★「たかじんのそこまで言って委員会 SPECIAL EDITION 
「東京で放送されることになったら番組を辞める」と断言しているやしきたかじんの人気番組のDVD化作品だが、ネットでの限定販売だった本作が爆発的なセールスによって遂に一般発売された。日曜昼の放送にもかかわらず、関西では週間視聴率トップ10に入る人気ぶり。とにかくこの番組にはタブーがない。その分、聞いていて腹立たしいこともあるのだが、関西人ならこの番組を見ないとかなり損をする。本作は、放送を見ている人達には少し物足りないかも知れないが、番組の雰囲気を知るにはもってこいである。


と言うわけで今月も独断と偏見でお送りしました。来月もどうぞよろしく。

  

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2006年07月30日

ゆれる

是枝裕和のDNAは確実に継承されている。第529回

 巧い映画である。

「ゆれる」は、もうそれ以上何も語りたくないくらいの作品だ。

 例えば、派手なアクションがないとか、お金がかかっていないとか、地味だとかいう類の、ノータリンで低俗な感想でしか揶揄できないような文句の付け所のない完璧な作品。

 こんな完成度の高い映画は久々と言ってもいい。

 とはいうものの「映画伝道師」の使命として何も書かないわけにはいかず、恥ずかしくも駄文にて感想を書かせていただきます。

★★★★★(劇場)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

 僕には弟がいる。

 しかしその弟とはお互い割りと近くに住んでいるにもかかわらず、殆ど顔を合わせる事がない。会ったとしても年に一、二度といった程度。電話することもなければメールを送ることもない。それどころか僕は、弟が引っ越して以来その新居に行ったことがないくらいなのだ。

 そんな兄弟の姿を見て、父は「もしかしてお前たちは仲が悪いのか?」とまことしやかに聞いてくることがある。

 ところが我々兄弟は、別段仲が悪いわけではない。

 単にお互いを干渉せず、最低限必要でなければ顔を合わさないだけなのだ。

 不思議な事に、弟とは例え一年顔を合わさなくても、会った瞬間にその時間差が一気に縮まり、何事もなかったように前回会った瞬間の関係に戻れるのだ。

 会わなくても何となくお互いがどうしているのかが感じられるし、だからこそ心配もせず、お互いの生活を干渉しない。

 何となくお互いがお互いを理解しているのだ。

 僕にとって「兄弟」は、そういう関係として育ってきた。

「ゆれる」は、母親の一周忌に帰省した弟(オダギリジョー)が久しぶりに家族と対面することで、徐々に物語が転がり始める。

 そこに流れるのは「違和感」という名の、家族の「断絶」だ。

 兄(香川照之)は家業のガソリンスタンドを継ぎ、弟はカメラマンとして東京で活躍している。兄は実家で親の世話をし、弟は親と折り合いが悪い。

 事なかれ主義でおとなしい兄と、利発で感情の起伏が激しい弟。

 この性格の異なる兄弟は、お互いを思いやり認め合うことで何となく均衡を保っている。

 ところがお互いの内なる感情の「ゆれ」によって生まれた「屈折した何か」がその均衡を破る。その不穏さは、冒頭の一周忌会場でいきなり垣間見ることが出来る。

 本作が秀でているのは、台詞とは裏腹の微妙な表情が全てを物語っている点にある。

 母親の葬儀にも帰ってこなかった弟を疎ましく思う父親(伊武雅刀)との仲を取り持つのは兄であり、故郷を捨てた弟の代わりに実家を切り盛りしているのもまた兄である。

 兄は東京で活躍する弟を誇りに思いながらも一方で嫉妬している。反面、弟は故郷を捨て、兄が自分のために人生を犠牲にしている事に負い目を感じているのだ。

 このお互いの「遠慮」が「確執」へと変わってしまう兄弟の「業」を、本作は「性」と「殺し」という人間の基本的本能に翻弄されることで描こうとしている。

 監督の西川美和は、前作「蛇イチゴ」(2002)でも兄と妹の確執を「葬儀」という場で面白おかしく描いて見せた。

「蛇イチゴ」の場合、風来坊な(正確には詐欺を働き続ける)兄と、教師をしている(真面目な)妹という性格の異なる二人が肉親の死をきっかけに再会し、「蛇イチゴ」の真偽によって信頼関係を生むという、本作と同様の要素によって「家族」を描いている。

 これにより「性格の違う兄弟」÷「肉親の死」×「犯罪」=「家族の再生」と言う西川作品における公式を導き出せる。

 弟と兄、派手と地味、モテるとモテない、都会と田舎、気軽さと深刻さ、偽善と偽悪、献身と適当、遂行と諦念、それらが引き起こす信頼と裏切り。

「ゆれる」は、弟がかつての恋人である智恵子(真木よう子)と再会し、兄が彼女に思いを寄せていると知りながら不誠実に寝取ってしまうことから「不穏」な何かが牙を剥き始める。

 映画は3人で幼い頃家族で行った渓谷へ出かけ、そこで智恵子がつり橋から転落死することから悲劇が始まる。

 智恵子の転落事故によって殺人容疑で起訴された兄は、弟がかばおうとする気持ちを汲むことなく、徐々に内に秘めた「悪意」=「本性」を表に出し始める。

 そして裁判場面になると、それまで弟の持っていた「要領のよさ」を兄が体現し、兄の持っていた「誠実さ」を弟が体現するという逆転が生まれる。

 これを兄弟の持ちえる共通の資質と捉えるか、はたまた人間の本性と捉えるかで解釈はかなり異なってくる。それによって最終的には兄の「悪意」が、弟を想ってこそ装ったものと捉える事さえできるからだ。

 兄が智恵子を殺めたと思わせる所以は、智恵子が田舎でくすぶりたくないと願う姿を、自分自身の抑制された感情の写し鏡であるように兄が思ったからだ。智恵子が兄の人生への諦念に対して苛立つ姿が弟のそれとシンクロし、瞬間的に殺意へと変換されたと思わせるに至るのだ。

 確かな事は、観客も、弟も、本当に知りたいのは事件が殺人か事故かという真相ではなく、兄の本心だという事だ。

 それはこの映画が事件の真相ではなく、「人間の心」という漠然としたものを解体して見せようとしている点に言及できる。

 監督の西川美和は脚本も手掛け、「蛇イチゴ」だけでなくオムニバス映画「female」(2005)の一篇「女神のかかと」でも心理描写を映像で表現する抜群のセンスを見せていた。

 本作が兄弟の話であるにもかかわらず女性らしい「いじわるさ」を脚本に練りこみ、極力台詞を廃しながらも、言葉と裏腹な内面性を俳優たちの表情や動作から伺わせ、生活音という「ノイズ」を「不穏さ」に変換させているなど、演出に全く迷いを感じさせないのが何よりも素晴らしい。

「カインとアベル」の如き兄弟の確執を古典に乗じながらも、二転三転する証言によって真相が「藪の中」へと迷い込む「羅生門」スタイルを基本とし、森林と裁きの場、そこに横たわる「欲望」と「女」という踏襲を経ながら、実は観客の真実を見極める判断を「ゆらそう」と試みているのが見事。

 本作で兄弟を演じているオダギリジョーと香川照之の演技が映画を支えている事はいうまでもなく、ラストで兄の名を呼びながら走り続けるオダギリジョーの姿には魂が震える思いがする。

 また薄幸な美しさを秘めた真木よう子、執拗さを静かに演じた木村祐一、以下言葉以上に目線や動作で心情を体現して見せた助演陣の演技も特筆できる。

「兄弟」という名の鎖に繋がれた二人の関係が、過酷な状況下でも外すことが出来ないという事実は、兄弟の父親がその兄(蟹江敬三)と不仲であるという、兄弟の確執の「連鎖」と「継承」においても感じさせている。

 裁判後半、兄の嫉妬返しに、弟はある種の「決別」を試みる。

 しかし結果生まれたのは、捨てたつもりが、自分が捨てられていたという皮肉。

「ゆれる」で揺れているのは、人間の感情同士のぶつかり合いによる「疑心暗鬼」という心情ではない。

「揺らぎ」は外から受けたものによって生まれたのではなく、既に自分自身の中にあるものだからだ。

 つまり、つり橋が「ゆれ」て不安定なのは、外からの力ではなくその橋の上に立っている自分自身が「ゆれている」事によるものである事と同じなのだ。

「許してもらう」のか、それとも「許す」のか。

 許されるのは誰で、許すのは誰なのか。

 その「ゆれ」の答えは、最後のショットに集約されている。

 通りの向こう、そしてかき消される「笑顔」。

 この「隔たり」が、まさに「彼岸」であるからこそ、その向こう側にあるのが「再生」だと僕は信じたい。

 兄弟の「絆」は時間という「隔たり」を超越するものなのだから。

  
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2006年07月29日

人形霊

89分という短さが救いか。第528回

「人形霊」
出演:イム・ウンギョン キム・ユミ
監督:チョン・ヨンギ
(2004年作品・韓国)

★★(TV)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

 我が地元には、年に一度「人形供養」を行う神社がある。

 そこでは使わなくなった人形や、捨て場に困った人形が周辺地域の人たちによって集められ、七夕の後、境内で供養(つまり燃やす)されるのだ。

 境内の供養場に山と詰まれた人形たちの姿は一種異様である。

 日本人形の黒い眼(まなこ)がこちらを恨めしく見ているような気がするだけでなく、キティちゃんやプーさんの人形までもが悲しき形相を見せているように錯覚させるのだ。

 映画「人形霊」では人形の目に魂が宿る(目から魂が入り込む)と語られているが、それは何となく納得させられる。

 捨てられた人形たちの形状は、その扱われてきた「過程」=「人生」のように思わせる。ボロボロの人形よりも、外形はきれいなのに色がくすんでいたりする人形の方に悲しみを感じるのは、持ち主の「愛情」の欠落を感じさせるからかもしれない。

 全く使われたり飾られる事なく捨てられた人形は、どこか「冷たさ」を感じさせる一方で、ボロボロの人形は役割を果たした「達成感」のような「至福」の末の儚さを感じさせる。

 その「儚さ」の憂い具合を、人形の「眼」がなんとなくアピールしているように見えてくるのだ。

 もともと「人形」=「ひとかた」として宗教上人間の代用として使われてきた人形は、人の形を模しているだけでなく、誰かの代わりという意味合いが強い。

 誰か、であることは、漠然ではないモデルがいて、その姿を投影させている。つまり作り手の想いが込められているといえる。

 その人形が大量生産の産物ではなく、空想上の形をしているものでなく、人の手によって作られたものであれば、その「想い」は尚更である。

 その「想い」が買い手の手に渡り、持ち主の「想い」がシンクロした時、人形に何らかの「魂」めいたものが宿るような気にさせる。

 我々が何故か簡単に人形を捨てられない理由は、そんなところに在るのかもしれない。

「人形霊」は、韓国製のホラー映画。

 人形ギャラリーに人形のモデルとして集められた5人の男女が、精巧にできた人形に魅了されながらも、徐々に明らかとなる異様な雰囲気に戸惑い始めるという物語。

 本作の監督チョン・ヨンギはこれがデビュー作となるのだが、人形の美しさと異様さを併合して見せていることは評価できるものの、残念ながら映画的な目新しさは全く無い。

 ハリウッドにおいてホラー映画の製作には、昔から少し変わった理由がある。

 それは若手映画人育成という側面だ。

 低予算で作れるホラー映画は、新人監督の映画製作の場としてこれまで多く作られてきた。

 例えばクリント・イーストウッドの監督デビュー作はストーカー被害を描いた「恐怖のメロディ」(1971)だったし、他にもフランシス・フォード・コッポラの「ディメンシャ13」(1963)、オリバー・ストーンの「キラー・ハンド」(1981)、ジョン・マクティアナンの「ノーマッズ」(1985)、ピーター・ジャクソンの「バッド・テイスト」(1987)、レニー・ハーリンの「プリズン」(1987)など後に大作を手掛ける監督のデビュー作や初期作品が低予算ホラーである事は多い。

 これはホラー映画が「観客を驚かせる」または「恐怖を感じさせる」という観客をスクリーンに引き付ける演出の基本を学べるからでもある。

 低予算だからこそ必要な演出のアイディアや構図、カット割りなどはアルフレッド・ヒッチコックもサスペンス映画によって培ってきた。

 この努力が結果的に監督の腕を磨く事になるのだ。

 そういう意味で「人形霊」は、人を引き付ける演出がどうあるべきかという「悪例」として勉強にはなる。それは多くの恐怖場面で全く恐怖を感じられない理由が、観客にも判るからだ。

 何を見せて何を見せるべきでないのか。

 殺戮や血糊、死体だけでは「恐怖」が演出できないことが、反面教師的にこの映画から学べるだろう。

 韓国映画は儒教の教えが根付いているせいか、悪行は劇中必ず断罪される傾向にある。

 そのためアクション映画やバイオレンス映画において主人公が「死」を迎えることが多く、往々にしてラストが悲惨になりがちなのだが、それはホラー作品においても顕著である。

 この視点から、本作で「生き残る」登場人物の是非が正当でないことも、映画自体の弱さに通じていると思えるのだ。

  
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2006年07月28日

第1回 映画検定 結果報告

「イントレランス」と答えるほど簡単ではなかった。第527回

 毎度ご来店ありがとうございます。まつさんです。

 6月25日に開催された「第1回映画検定」の合否結果が各受験者に発送されているようで、多くのブログでその結果を報告されている方を見かけます。

 合格された方、不合格だった方、費用対効果を検証する方など三者三様。という訳で、本日はわたくしも「映画検定」の結果報告です。

 今月発売された「キネマ旬報」7月下旬号に、第1回映画検定の全問題と解答が掲載されていました。

 試験問題は持ち帰り厳禁だったので、自分の解答を思い出しながら答え合わせをした次第です。

 わたくしは3級と2級を受験したのですが、試験後の感触通り3級はほぼ全問正解していたのですが、邦画に弱いわたくしにとって2級はなかなかの強敵。分からなかった(また選択肢を絞り込んだ結果選んだ答え)答えをどう答えたのかを思い出せなかったこともあって、答え合わせの段階で正解確実なのは6割程度。

 つまり70%以上の解答が合格ラインなだけに2級は予想通り危ない状況。

 わたくし「映画伝道師」を勝手に名乗っておる故、不合格の折には人知れずブログのタイトルを「まつさんの洋画伝道師」に変更する所存でした。

 記者発表によると受験者の男女比は、男性:62%、女性:38% 。

 受験者数は4級:3855名、3級:3573名、2級が2162名。という事で総受験者数は当初主催者側が目標とした3000名を越す9590名だったそうです。

 そして第1回の総合合否結果ですが、詳細は主催者側から公表されていないので情報筋からの予測によると、合格率は4級が6割、3級が3.5割、2級が2割とのこと。

 大まかに計算すると4級の合格者は約2300人、3級の合格者は約1200人、2級の合格者が約400人となります。

 2級の合格者に限って言えば、若い受験者よりも年齢の高い受験者の合格が多いといわれているのも何となく納得できる試験内容だっただけに、400人も合格しているのに驚くと同時に、各級の受験者数を今後伸ばすために7割解答で合格は甘いという意見も耳にします。

 ともかく、合格者の皆様、合格おめでとうございます!

 今回合格されなかった方も、残念でしたが諦めるなかれ。

 結局映画の知識は大学受験のような詰め込みではなく、日々の映画鑑賞の賜物。知識ばかりでロクに作品を見てもいないのに、映画をけなすような映画への愛のない頭でっかちの輩になり下がらないよう、こつこつと映画鑑賞を楽しみましょう。

 そうすれば自ずと映画に対する知識も身についてくるものなのです。

 同じ見るなら楽しまなきゃ損です。

 さてそんな映画検定の「第2回映画検定」は今年12月3日に開催されます。

 第2回では1級の試験も実施。1級は2級の合格者のみ受験が出来るシステムとなっていて、次回は1級〜4級の試験が実施されることになります。

 また主催者側では受験者数の増加を見込んで、東京・大阪・札幌・名古屋・福岡以外の場所でも試験会場を設ける事を検討しているとのこと。

 そして9月中旬には「第1回映画検定試験 過去問題集」と「映画検定 1級公式問題集」が発売され、本格的な「検定」を目指す意気込みを感じられます。

 ま、商売上手とも揶揄できますが、映画ファンにとっての地位向上と映画振興の一貫と割り切って、気にしない気にしない。


 さて、わたくしの試験結果ですが、気になりますか?

 明言は避けつつ、いやらしくも証拠写真を添付。


 
2級合格いたしました。

 これからも「映画伝道師」としてよろしくお願いします。  
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2006年07月27日

バス174

ブラジルの貧困問題はもはや他人事ではない第526回

「バス174」
監督:ジョゼ・バジャーラ
共同監督:フェリッビ・ラセルダ
(2002年作品・ブラジル)

★★★★(TV)

(映画の感想になっていないので、ご注意あそばせ)

 これは近い将来、多分数年後の話だが、日本は一般庶民にとってとても住みにくい国になる。

 既に「負け組」とか「下流社会」とか「格差社会」というキーワードが浸透している中、今さらかと思うかもしれないが、今後金銭的な格差はさらに広がり、暗黙の了解の下で明確な社会的階層が生まれるに違いないからだ。

 現在、日本は「伊弉諾景気(いざなぎけいき)」を抜いて未曾有の経済的発展にあると言われているが、そんなものは「数字」上のまやかしで、実感のある人はごく僅かであるように思える。

 実際僕自身の生活が豊かになったようには思えないし、それどころか学生時代の方が様々な経済的成長を目にしていたような気さえする。

 例えば学生の方々ならバイト代がそんなに値上がりしない事に気付くだろう。時給700円〜800円という平均的なバイト代、実はこの20年ほど殆ど変動がない。

 かつて50円だったジュースが、ここ30年くらいで80円になり、100円になり、120円になった物価変動から考えると恐ろしく金銭的収入は停滞しているといえる(バイト代の停滞ぶりと同等の物価変動、はチロルチョコレートが今だ1個10円である事くらいしか思いつかない)。

 かつて収入は年々増えていくものだと当然の様に思っていたことは、もはや「夢話」となってしまった。

 また社会人、特にサラリーマンの方々は、今年から始まった「所得税の定率減税半減」、「住民税の定率減税半減」、さらに社会保険料のアップによって年収は増えたのに手取りが減ったという人がほとんどに違いない。

 ハローワークの状況などを見る限り、景気は確かに上向いてはいる。しかし庶民の生活が豊かにならないのは、小泉くんが訴えていた「痛みを伴う」痛みがボディーブローの如く徐々に庶民の生活にダメージを与えているからにほかならない。

 忘れた頃にやってくる「痛み」は、文句を言おうにも、その張本人が政治のトップから去ろうとしているのだから上手くできた話である。

 それでも税収が足りないと考えている政府は、消費税のアップだけでなく、労働時間規制を適用外として会社が残業代を払わないでよいとする「ホワイトカラーエグゼプション」と呼ばれる法制度を取り入れようと画策している。

 これは、いくら働いても時間内だけ分しか給料はもらえないだけでなく、逆に言うと労働組合のないような会社では極端な話、何時間でも残業を強要でき、労働者を「奴隷」並みにこき使えるという法律なのだ。

 これは単なる「夢話」ではない。厚生労働省は来年の国会で関連法案を提出する意向で、出来れば2008年には施行したいだけでなく、経団連が提言している事項でもあることからも、国だけでなく、会社も望んでいる事だと考えた方がよい(詳しくは割愛するので今後の新聞記事などを熟読頂きたい、一応コレ映画レビューなんで)。

 さらにゼロ金利の解除で突然のローン増に苦しむ方々が増えてきているなど、これらだけを考えても我々庶民の生活に対する未来は決して楽観視できない。

 凶悪犯罪の増加や家庭崩壊のあれこれをニュースで見るたびに、日本という国は悪い方向へと向かっていると感じている人は少なくないだろう。

「バス174」は、2000年にブラジルで起こったバスジャック事件の一部始終を撮影したドキュメント映画。

 本作は事件で人質になった人々へのインタビューや、現場にいた警察、マスコミ関係者へのインタビュー、さらに犯人の足跡を知る人物たちの話を織り交ぜる事によって、犯人サンドロが事件を起す経緯を克明に提示し、ブラジルの社会情勢を痛烈に批判している。

 監督は事件の一部始終を検証する一方で、犯人の生い立ちと犯罪者たちの処遇の現状を取材する。

 そこから明らかになるのは、社会が犯罪者を作り出すという構図だ。

 本作がやりきれないのは、犯人であるサンドロが本当は悪い人間ではなかったという事実が提示される事にある。

 彼もまた両親を目の前で殺された犯罪被害者であり、路上生活を経て犯罪に手を染めたという過去が、様々な人々の証言によって明らかにされる。

 更生しようにも更生しようがない社会の現状。持たざるものが決して這い上がれないほどの社会的な格差は、近い将来のわが国のようで末恐ろしくなる。

 驚くべきはその取材力で、若きサンドロの映像を発掘し、過去に起した事件の系譜、刑務所の悲惨な状況などが次々と映し出される。

 もちろん犯罪事自体は間違いだ。それはそれで断罪すべきだし、許されるはずもない。

 一方で社会が犯罪を生む構造を持っていることもまた断罪されねばならない。

 その責任は社会に暮ら人々にあるのか、行政を行う政府にあるのか、犯罪者を野放しにする警察にあるのか、犯罪を行う組織的なグループにあるのか。

 責任の重い軽いはあったとしても、実は全てにおいて間違いが存在している事に、本作の「やりきれなさ」が感じられる。

 犯罪者を退治すればそれでOKという、本来勧善懲悪なハリウッド映画なら万々歳であるこの事件における「結果」が、何とも後味が悪いのはそのためだ。

 よって「バス174」で許されざるものが「犯人」でないと感じてしまう点に、「犯罪被害者」が生み出す「犯罪被害者」という輪廻のような恐ろしさを感じずにはいられない。

 話は日本の事情に戻る。

 政治家たちは「日本には金がない」、「国債がこれだけ増えた」、「財政難だ」と増税を訴え続け、そのたびに我々国民は「将来のため仕方がない」と受け入れてきた。

 しかしいつまでたっても状況はよくなるどころか悪くなる一方。

 テレビに出演する議員は、社会保障を整備しようにもお金が足りないのだから税金から徴収するしかない、とのたまう。しかし一回ならず、これまで何度となく同じ言葉を聞いてきて、何年たっても国の赤字が減らないといわれてもこちらは納得など出来るはずもない。

 例えば家計が赤字になれば食費を切り詰めるなどして一般家庭は苦労をする。行政の無駄使いによって建築された様々な「箱物」の建設時期を見れば、消費税導入の結果が何であったかが一目瞭然といえる。

 よって今後増税したところで、我々の思惑通り使われる可能性は殆どないと言い切れる。

 例えばここまで財政問題があるなら、司法・行政・立法の他に「会計」という機関を設けて、独立した権限のある会計監査を国家予算においても設けるべき時期にきているような気がする。

 2006年の負担増は、本来援助されるべき65歳以上の方々にも重くのしかかっている。

 以下は全て65歳以上の方々が今年一年でうける負担増例だ。

「介護保険料の改定」=「平均900円のアップ」、「住民税の老年者控除の廃止」=「48万円が0円に」、「住民税の公的年金等控除の見直し」=「最低保障額が140万円から120万円に」、「住民税の非課税措置縮小」=「2008年までに段階的全廃」、「70歳以上の医療費自己負担額増」=「2割から3割へ」。

 ここまでくると老人イジメともいえないか。

 ある老人は桁ひとつ違う住民税の増加に仕事を探していると話していた。生活費ではなく、税金を払うために働かなければならないという老年者たちの実情。

 小泉くんはこれに対して「高齢の方は若い方よりも通院する頻度が高いので、負担割合が高くなるのは仕方がない」と発言している。

 ん?待てよ。

 高齢の方は通院頻度が高いからこそ負担額を減らすのが「社会保障」のあるべき姿ではないか?

「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」

 昭和天皇は、日本人の美徳をよくわかってらっしゃった、と今さらにして思うばかりだ。


  
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2006年07月26日

ハチミツとクローバー

スピッツの主題歌よりも、嵐のエンド曲が意外といい第525回

★★★★(劇場)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

 芸術作品を好きになることは「恋」における「一目惚れ」に似ている。

 それは対象物から受ける印象に、感情がノックアウトされるからだ。

 例えば人を好きになるとき、「一目惚れ」でない「恋」は「外側」の印象よりも「性格」や「才能」といった内面性によって心惹かれるようになるものだ。「外側」=「外見」とのギャップは「不可予測」という心理によって「高揚感」を生み出し、それが「恋心」へと昇華される。

 だが「一目惚れ」は、対象者の「外見」が第一要素となって人間の感情を揺らす。
 美術作品の良し悪しは評論家等々の知識人が論評する事によって高められる。またその金銭的価値もまた同様に高められてゆく。

 しかし美術作品の好き嫌いは、むしろ鑑賞者の第一印象によって決められる。

 そこには作品に対する考察や分析といった「能書き」は関係なく、単に「見た目」から受けた印象が良し悪しの判断材料となる。

 人が一目惚れによって「恋」することに理屈がいらないように、美術作品に対するそれにも理屈はいらない。

 誰かひとりが「良い」と認めてくれれば、実はそれで納得できるというメカニズムにおいても、それは「似ている」という所以になりえる。

「ハチミツとクローバー」は、人気少女漫画の実写映画化作品。

 ある美術大学に通う5人の男女の群像劇である本作は、お互いが皆「片思い」であるという相関関係によって成り立っている「純」な恋愛物語でもある。

 劇中、主要登場人物のあゆみ(関めぐみ)はこんな台詞で胸中を吐露する。

「自分の好きな人が自分のことを一番好きになってくれる。たったそれっぽちの条件なのに、永遠に揃わない気がする」

 芸大に通い、自らの「魂」とも言うべき芸術作品を作り出す主人公たちにとって、芸術的成功は、作品が多くの人の目に触れることにある。

 だが本音と建前が前提の「大人の事情」という世界において、芸術が「金」や「名誉」だけのためではないというのは綺麗事だ。が、その一方で「誰かのため」である作品や「誰かに認めてもらう」ための作品というものは、過去の偉人たちが作品として多く残しているという事実もある。

 この「芸術作品」のあり方に関するメタファーが「恋」のあり方に通じているのは言うまでもない。

 つまり「ハチミツとクローバー」という物語が「片思い」で「純粋な恋」を展開させることと、芸術を志す若者の物語である事は密接に繋がっているのだ。

 ここに隠された深遠なメタファーは、「乱れた若者の恋愛事情」=「恋愛における肉体関係」と「オークションによる美術作品の高騰」=「芸術における金銭的名誉と成功」という現代事情を劇中のエピソードから排除することによって静かに断罪しているようにも思える。

 原作コミックスが男女を問わず読まれていることもまた、多くの若者が心の中で気恥ずかしくも「本当は望んでいるものが何なのか」を伺わせるに十分だといえる。

 本作で主要5人を演じている櫻井翔、蒼井優、伊勢谷友介、加瀬亮、関めぐみというキャスティングの素晴らしさによって、それぞれのキャラクターが体現する「片思い」という映画のトーンに統一感を持たせているのがいい。

 中でも原作の「外見」からはミスキャストとも思える蒼井優の役作りには驚くべきものがある。まさに「外見」のイメージを役作りによってカバーしているアプローチには頭が下がる。

 また伊勢谷友介の天才肌のデタラメ振りな演技はこれまでのどんな作品よりも魅力的に見え(東京芸大出身ならではというバックグラウンドへの邪推は封印)、堺雅人演じる花本先生もよくキャラクターを掴んでいて好感が持てる。

 さらに原作のテイストを活かしながら、未完の原作を続編への布石にすることなく「未来」を予期させる脚本を手掛けた河原雅彦や、相変わらずいいスコアを書く菅野よう子、はぐみ(蒼井優)の描く絵画を担当したMAYA MAXの絵画など映画を支えるスタッフ面でも本作は恵まれている。

 惜しむべきは、2時間の物語を5人の登場人物にほぼ均等に振り分けたことで、原作にある「片思い」の切なさが表現しきれていない点。

 物語があまりにも平坦で、捉え方によっては何を描こうとしているのかが判らず、「学生生活スケッチ」にしか感じられないきらいがあるからだ。

 有名画家の伝記映画とは異なり、架空の芸術家を映画で描く場合、その芸術作品が観客の心を捉えるかどうかが作品(映画)の成功の大きな鍵となる。

 例えば、劇中森田(伊勢谷友介)が名前を出すピカソやバスキアのような画家の場合、伝記映画では本人の作品を画面に出せば(好き嫌いは別にして)それで事が足りる。なぜならば、彼らの作品は既に世で認められているからだ。

 だが架空の美術家の場合はそうはいかない。彼らが作り出す芸術作品が「一目惚れ」に近い魅力を持っていないと、映画自体が失敗に終わるからだ。

 そういう意味でも、映画「ハチミツとクローバー」は「初見」=「見た目」で好きになれる「一目惚れ」的要素が多い事が大きな味方になっている作品だといえる。

 そして本作を見た若者は「大学生活」への憧れを抱き、かつて若者だった人たちにとっては、何となく過去の記憶を呼び覚まされるような感覚に襲われるに違いない。

 それは、そこに介在するのが誰もが経験する甘い「片思い」であるから尚更かも知れない。

  
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2006年07月25日

パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト

本作は最後の最後まで見ましょう第524回

★★★(劇場)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

 結果的に大ヒットした「パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち」(2003)だが、実はある種「負け犬」たちの敗者復活戦的な様相があった。

 それは様々な意味で、多くの映画関係者が製作費を回収できるほど「大ヒット」するとは思っていなかったからだ。

 ハリウッド映画界のジンクスとして「水物はヒットしない」というものがある。

 これは海洋アクションにヒット作が少ないだけでなく、水中での撮影が困難を極め、製作費高騰(つまり製作費回収が難しくなる)に繋がるからだ。

「ジョーズ」(1975)という例外はあるものの、1作目のヒットにあやかったこのシリーズが回を重ねるごとに興行的成功から遠ざかっていることや、大ヒットした「ウォーターワールド」(1995)が莫大な製作費によって利益率が低かった事、また「ザ・デプス」(1989)に始まった「リバイアサン」(1989)、「アビス」(1989)という1989年にほぼ同時期に公開された海洋SF作品が軒並み失敗したこともそれを裏付けている。

 この「水物はヒットしない」の代表格がまさに「海賊映画」だった。

 ロビン・ウィリアムスの本格的初主演作として知られる失敗作「ポパイ」(1980)を筆頭に、関根勤も出演している「エリック・ザ・バイキング」(1989)やハリウッドの歴史的赤字を記録した「カットスロート・アイランド」(1995)など、海賊映画はヒットしないというのはハリウッドの「常識」だったのだ。

 また「パイレーツ・オブ・カリビアン」を製作したディズニーにとっては、企画不足に悩んだ末生み出した「ディズニーランドのアトラクションを映画化」という「カントリー・ベアーズ」(2002)の失敗があった。

 これまで人気映画をアトラクション化するという通例を逆手に取ったのが「カントリー・ベアーズ」という作品だったのだが、よくよく考えればアトラクションを一周するのに数分しかかからないものを長編映画にする事自体が本末転倒な訳で、ヒットするはずも無かった。

 さらに監督のゴア・ヴァービンスキーにとって「パイレーツ・オブ・カリビアン」は、古巣のドリームワークスを飛び出してディズニーでの映画製作を試みただけでなく、「マウスハント」(1997)や「ザ・リング」(2002)、さらにブラッド・ピットとジュリア・ロバーツが夢の競演を果たした「ザ・メキシカン」(2001)でその手腕を「企画」や「俳優」に頼っただけだと疑問視する声が上がっていただけに、面目躍如を果たさねばならなかったのだ。

 極めつけはジョニー・デップ。

 日本では早くから映画ファンの間で有名だったジョニー・デップだが、一般的な知名度は長い間低かった。

 それは彼がどちらかというとアート志向で、「金」になる作品よりも自分の演じたい作品、また自分が一緒に仕事をしたいクリエイターと映画を作る事を信念としていたために一般的なヒット作と無縁だったからだ。

 それを裏付けるように、ドラマ「21ジャンプストリート」でアメリカの十代に人気が出たにもかかわらず、初主演作がアングラ映画界の重鎮ジョン・ウォーターズ監督の「クライ・ベイビー」(1990)で、その後永くコンビを組む事になるティム・バートンとの初コンビ作が素顔の判らない「シザーハンズ」(1990)という作品であり、「シザーハンズ」のヒット後もエミール・クストリッツア監督の「アリゾナ・ドリーム」(1993)やラッセ・ハルストレム監督の「ギルバート・グレイプ」(1993)というアート志向の強さを滲み出していた。

 その後の数々の出演作については割愛するが、この姿勢によってジョニー・デップは「演技は巧いが収益を上げられない俳優」としてギャラのランキングも低く、製作費の高い「パイレーツ・オブ・カリビアン」には不似合いとされていたのだ。

 このどこか「負け組」的な要素を抱えた「パイレーツ・オブ・カリビアン」が、全世界でヒットした事は、ハリウッド映画界にとって「驚き」でもあったという訳だ。

 ジョニー・デップに至っては前作で初めてアカデミー賞にノミネートを果たし(これまでノミネートされなかったことが不思議で仕方がない)、一般的な知名度と人気を獲得した(さらにギャラも高騰した)。

 敵なのか味方なのかわからず、真面目なのか不真面目なのかもわからない本作の主人公ジャック・スパロウというデタラメなキャラクターは、ジョニー・デップの演技における真骨頂で、男前であるにもかかわらず3枚目を装い、それでいて色気を引き出すアプローチには頭が下がる。

 このアプローチが計算づくであることは、彼の過去の演技を見れば一目瞭然で、「パイレーツ・オブ・カリビアン」でファンになった人達が過去の作品を見て彼の才能を再確認し、さらにファンとなってしまうという構図を生み出している。

「パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト」はシリーズの第二作。
 深海の悪霊と恐れられるデイヴィ・ジョーンズ(ビル・ナイ)との「血の契約」に怯えるジャック(ジョニー・デップ)は、目論みを果たすためにひょんなことから彼の元に舞い戻ってきたウィル(オーランド・ブルーム)とエリザベス(キーラ・ナイトレイ)を騒動に巻き込んでゆく・・・。

 本作はアクションにラブロマンス、恐怖と笑いなど「何でもあり」の夏休み映画らしいサービス精神に溢れ、幾重ものエピソードを同時進行かつ重層的に展開させた上で最終的に物語を集約させており、2時間半の長尺大作として申し分ない。

 CGに頼るばかりでなく、実物大セットを組むなどした豪華さや、俳優陣の楽しそうな好演も光る。何と言ってもストレートな展開はわかりやすく、残酷場面も適度で万人に薦められる。

 しかし残念なのは、本作が3部作の中篇として中途半端な感が否めない事だ。

 これは撮影が第3作目(チョウ・ユンファとキース・リチャーズ、そしてラストのアノ人の出演に期待!)との同時進行であることが原因なのだが、続編が時間を空けずに公開されることは、1作目の時期に比べて大物になった俳優たちを再結集させる対応策として有効であるし、観客の興味を引く事、さらには製作費対策においても有効である。

 それはそれでいいのだが、本シリーズの場合連続する物語ではなく「インディ・ジョーンズ」シリーズのように、1作ごとの「冒険」でも十分良かったように思えるのだ。

 よって、前知識のない多くの観客は、唐突なラストの幕切れに戸惑うかもしれない。

  
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2006年07月24日

デビルズ・バックボーン

「ホワット・ライズ・ビニース」みたいな映画第523回

 早川雪舟以降、ハリウッドで活躍する日本人俳優(神戸生まれ)の先駆けとして活躍してきたマコ岩松が21日に亡くなりました。「砲艦サンパブロ」(1966)でスティーブ・マックイーンを慕う若者を演じてアカデミー助演男優賞にノミネートされ、日系人俳優の地位向上や育成にも力を注いだ偉大な人物でありながら日本での評価はいまひとつだったのが惜しまれます。昨年WOWOWで放送された「祖国」での姿は何となく彼自身の人生を感じさせました。ご冥福をお祈りします。


「デビルズ・バックボーン」
出演:エドゥアルド・ノリエガ マリサ・パレデス
監督:ギレルモ・デル・トロ
(2001年作品・スペイン)

★★★(TV)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

「誰ために鐘は鳴る」(1943)で描かれていたように、人民戦線政府が軍部による右翼勢力によって倒された「スペイン内乱」で、スペインという国はフランコ政権の専制政治が36年余りも続いた。

 このフランコ政権によって多くの自由が奪われた事は「蝶の舌」(1999)などでも描かれていたが、国内で表現の自由が奪われた事でスペイン映画界は大きな打撃を受けた。

「ミツバチのささやき」(1973)や「エル・スール 南」(1983)など10年に1本という寡作で知られるヴィクトル・エリセ監督の作品には、「子供」を題材にするという裏技で政権批判への監視の目を掻い潜り、傑作を生み出していた。

 弾圧を避けるため、子供を主人公にしたり、子供目線で政情を描く事により、政権批判という暗喩を「子供の戯言」という解釈も出来るような構成にしている苦労は、スペインという国の歴史的背景を知ればなお深く味わう事ができる。

 映画を娯楽作品として楽しむために、その国の歴史や背景は関係ない事なのだが、より深く理解するためには有効であると断言できる。

 スペインは1975年にフランコが死に、それによって王制が復活して1978年にやっと立憲君主制が確立した。バルセロナオリンピックを開催したような大国が、ほんの30年前まで自由が無かったことは、日本に住む我々にとって信じ難い事だ。

「デビルズ・バックボーン」は、孤児院にやってきた少年カルロス(フェルナンドティエルブ)が行方不明になったサンティという少年の幽霊に遭遇するという物語。

 いっけんすると本作はホラー映画のように思えるのだが、実体は「幽霊」を「スペイン内乱の犠牲者」というメタファーにした反戦映画であることが判る。

 孤児院という隔絶された「世界」を、世界から隔絶されたフランコ政権下の「スペイン」に置き変え、若者の暴力に無力な大人という姿をスペインの政情に例え、無垢な子供たちを民衆に例えていることも伺える。

 つまり「スペイン内乱」期のスペインを描きながら、孤児院という舞台に置き換えてその内実を解体して見せているのだ。

 それは根幹にある「恐怖」の正体を「幽霊」ではなく「人間のなす業」に言及している点においても裏付けられている。

 また本作は、異なる「二つの世界」を重層的に描いている。

 例えば「大人と子供」、「男と女」、「現在と過去」、そして「この世とあの世」。

 この異なる二つの世界が同時に存在し、それぞれの理屈と理由によって、人間の「悪意」と「裏切り」を引き出し、不条理と困難が混在する世の中を形成していることを提示して見せているのが素晴らしい。

 この「大人」と「子供」の視点の違いによって生まれる異なる物語が、孤児院という同じ舞台で同居しながら、「大人の事情」の「真相」と「学習」を練りこんできるのも見事。

 孤児院における子供の同士の葛藤という物語は、「怪奇談」→「その解明」→「悪党との闘い」という流れによって、「悪」の何であるかを提示し、子供視点による「戦争映画」に仕上がっている。

 本作の監督は、メキシコ出身ながら「ミミック」(1997)や「ブレイド2」(2002)、「ヘルボーイ」(2004)などハリウッドで活躍しているギレルモ・デル・トロ。

 本作はそんなギレルモ・デル・トロがスペインに招かれて2001年に撮影した作品。にもかかわらず、地味な内容が祟って日本では2004年になってやっと公開された経緯がある。

「デビルズ・バックボーン」の「悪魔的」なものは、「繰り返される悲劇」を匂わす展開にある。

 悪行を働く青年ハチント(エドゥアルド・ノリエガ)は年上である女院長への「恋」を語るのだが、その叶わぬ「恋」が狂気の原動力となっていることがわかる。

 この年上の女性への「恋」は、孤児院に暮らす少年の一人に運命的に引き継がれている。

 それは再び同じような事が起きる「予見」を感じさせずにいられない。

 この「繰り返される悲劇」が転じて「戦争」というメタファーになっていることはいうまでもない。

 よって結果的に本作で主人公の遭遇する「幽霊」の正体が、「戦争に巻き込まれた人々」が具現化されたものであると言えるのである。

  
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2006年07月23日

ふたりにクギづけ

映画はエンドロールが終わるまでしっかり見ましょう第522回

「ふたりにクギづけ」
出演:マット・デイモン グレッグ・キニア
監督:ボビー・ファレリー&ピーター・ファレリー
(2003年作品・アメリカ)

★★★★(TV)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

 ある障害者団体の取材に行った時、こんな話を聞いた。

「バリアフリー」という言葉が広く知られるようになって、街中の歩道には点字ブロックが敷かれるようになった。

 恐らく歩道の真ん中に黄色い突起のある色違いのブロックが敷かれている事を誰しも目にした事があるだろう。これは目の不自由な人たちにとって歩くための目印となり、以前に比べるととても助かるのだと話していた。

 このブロックは突起が一定方向に向けて敷かれてあるのだが、交差点や横断歩道などに差し掛かると、それを知らせるために組み合わせを変えている。

 ところが時折、歩道の途中でひとつだけ方向の違うブロックと遭遇して困っていると障害者団体の会長さんは話してくれた。

 これは何かを知らせるためではなく、単に工事中に間違えてはめ込み、そのままになっているものがほとんどなのだそうだ。

 例えばこの他にも、車椅子で建物に入るためにスロープが設置されているのはいいのだが、大回りをしないとスロープの入り口にたどり着けなかったり、腕の力で押すのが困難なくらい坂が急斜面だったり、スロープの横幅が狭かったりと障害者にとってありがたいはずの設備が思わぬトラブルを生むことがあるのだと苦言を呈していた。

 つまり「形」だけの「バリアフリー」では意味がないということだ。

 障害者の立場に立って、本当に必要な設備と設計を心がけなければ、結局は障害者を困らせることになる。

 アメリカへ行くと、その辺りの対応は日本に比べて進歩的であると感じる。どこへいっても障害者を特別扱いすることなく、当然のように設備が完備されている事には驚くことさえある。

 そういう意味で社会の中で誰もが平等に活動できるような考え方は、欧米の方が日本より勝っている。障害者たち自身も誇らしく実社会で活動している姿は、日本でなかなか目にできないもがある。

 ところが障害者に対する「偏見」や「差別」は、今なお一部の心ない人たちによって世界的に根絶できないという現実もある。

「ふたりにクギづけ」は、障害者が主人公のコメディ映画で見方によると非常にデリケートな作品だ。

 それは、一歩間違えれば障害者を笑いものにしていると誤解を受けかねない内容だからだ。

 結合双生児という腰の部分で繋がったままのボブ(マット・デイモン)とウォルト(グレッグ・キニア)の兄弟は、生まれてこの方いつも一緒に行動を共にしてきた。ある日、俳優を夢見るウォルトの願いを叶えるべく、引っ込み思案のボブは意を決して二人でハリウッドへ旅立つのだが・・・。

 これまでもブラックな身体障害者ネタを自身の作品に登場させていたファレリー兄弟監督作品の到達点とも言うべき本作は、倫理コードギリギリの「結合双生児」という題材に果敢に挑んでいる。

 それを社会派の伝記映画にする訳でもお涙頂戴の物語にする訳でもなく、あえて「コメディ」という笑いに挑戦する姿に、いぶかしく思う映画ファンもいるに違いない。

 だが作品を見れば、いつのまにか障害者のハンディキャップをネタに笑わされる後ろめたさがどこかへ行ってしまうほどの潔さを感じるに違いない。それは観客の深層心理にある差別的な考え方を逆手に取った高度な演出が施されているからだ。

 本作に登場する障害者(実際に障害を持った人も俳優として登場しているのは、過去のファレリー兄弟作を踏襲)たちは、皆総じてポジティブである。

 彼らが「賢い存在」であると描かれているからこそ、劇中で差別的な発言をする健常者が「馬鹿な存在」として感じられ、結果的に「笑い」における倫理的な毒を薄める事に成功している。

 この確信犯的な描写によって、障害者に対する偏見の諸悪を「笑い」で断罪して見せているのは見事としか言いようがない。

 あえて「見世物」とうそぶきながら、実は愛情たっぷりに描かれているからこそ、「笑い」と同時に見ている者が温かい気持ちにさせられる稀有な作品であるといえる。

 ボブとウォルトの兄弟が身体的に「繋がっている」ことが、二人の結束という「繋がり」のメタファーとなり、終盤離れ離れになる二人の「絆」を視覚的に見せていることが伺える。

 この全く性格の違う二人の兄弟愛が、究極の「繋がり」によって強められている事もまた素晴らしく、障害者と健常者の垣根をぶち壊して「普遍性」を見出せるのもまた見事。

 またエヴァ・メンデス扮する豊胸手術を公言する女優の卵や、シーモア・カッセル扮するインチキエージェントなど兄弟を支える「負け犬たち」を愛情いっぱいに描くことで、健常者や障害者に関係なく人間として誰もが持ちえる「喜怒哀楽」と人生の浮き沈みに普遍性を感じさせている点も評価できる。

 さらにシェール、メリル・ストリープという二人のアカデミー賞女優やグリフィン・ダン、フランキー・ムニッズといった有名俳優が、自虐的に本人を演じている懐の広さも感動につながっているのが心憎い。

 本作は身体障害に対するマスメディアの無責任や悪意をこき下ろしながらも、それを物語の起承転結の因子として取り込み、最終的に障害者が障害を乗り越えて成功するというハリウッド伝統的な「サクセスストーリー」に仕上げてしまっているのは感嘆に値する。

 人間の持つ「差別的」な感情を笑いに変換し、感動させるという荒業はなかなかできるものでない。

「ふたりにクギづけ」のエンドロールには撮影に参加した障害者のコメントが登場する。そこで彼は当初偏見に悩みながらも撮影に参加して良かったと語っている。

 本作は2003年に全米で公開されながらも、過去のファレリー兄弟作品の中では興行的に不本意な結果に終わった。そして日本では長らく公開されず、2004年の冬に限られた劇場でひっそりと公開された。

 それは倫理的に問題があるという誤解によるところが大きかった。

 うわべだけの理解や誤解がどういうことであるかは、本作を見れば自ずと理解できるはずなのに、だ。

 弱者に優しい本作は、何も「あざとい」と揶揄されるべきではない。

 むしろ同じ事を「やれるもんならやってみろ」というファレリー兄弟自身の兄弟愛があるからこそ出来たもので、何事にも偏見のない愛情を注ぐ事は残念ながら誰にも出来る技ではないのかもしれない。

  
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2006年07月22日

ラブ★コン

ウエンツ瑛二を探せ!第521回

★★★☆(劇場)

 古より「恋の障害」には王道のパターンがあった。

「ロミオとジュリエット」がそうであったように、家柄や身分はその代表例であり、他にも国籍、思想、学歴、年齢、最近では同性愛の一般化によって「性別」という「恋の障害」も珍しくなくなった。

 また異質な作品作り続けている「メリーに首ったけ」(1998)のファレリー兄弟は、「愛しのローズマリー」(2001)で「肥満」、「ふたりにクギづけ」(2003)で「身体障害」、「2番目のキス」(2005)で「趣味」という少し変わった恋の障害を描いてきた。

「障害」があればこそ盛り上がる恋。それは「いけない」と言われれば言われる程覗きたくなる「鶴の恩返し」の如く人間の性であり、世間への後ろめたさや嘲笑が「恋」の活力へと変換されるからにほかならない。

 所詮「恋のさやあて」は、恋をする当事者同士の「共通語」でしかない。

 つまり他人にとっては意外と大したことがない「障害」を、男女二人の間にだけに存在する悩みとして感情を共有し、二人で「障害」を転がしているだけなのである。

 人気少女漫画を映画化した「ラブ★コン」の障害もまた少し変わっている。

 それは三浦みつるの漫画「Theかぼちゃワイン」の如く男女の「身長差」が「恋の障害」になっているからだ。

 身長の高い小泉(藤澤恵麻)と身長の低い大谷(小池徹平)は、お互いに身長に対するコンプレックスがあるのだが、周囲も認める「ボケとツッコミ」の見事なコンビネーションを見せている。そんな犬猿の仲の二人だが、ふとした事をきっかけに小泉が大谷に恋をしてしまう。

 だが気になるのは二人の身長差、というのが本作の大筋。

 本作が不思議なのは、物語らしい物語がないにもかかわらずそれなりに面白い点にある。映画全体を見渡すと、本作はエピソードの羅列で構成され、小ネタを間に仕込む事でエピソードを連結し、全体が物語らしきものに仕上がっている事が判る。

 つまり「恋」を成就させることによって起こる主人公二人の感情樹曲線を起承転結に求めるのではなく、エピソード内の何気ない描写によって観客の中にある過去の思い出の中の感情曲線を揺らそうと試みているのだ。

 この「ラブ★コン」における少し変わったアプローチは、脚本を手掛けたのが放送作家の鈴木おさむであり、監督の石川北二以下多くのスタッフが映画初挑戦であるところに「目論み」と「成功の秘訣」が隠されている。

 映画の常識に囚われない映画らしからぬ映像表現の数々には、昨今のバラエティ番組やPVのような手法が使用されている。大胆な文字スーパーやイラストをCGで挿入するなど、この斬新さが「あざとさ」と紙一重なのは、出演俳優陣の徹底したデフォルメされたキャラクター作りがあるからこそである。

 谷原章介や温水洋一、寺島進、田中要次、南海キャンディーズのしずちゃん、はたまた畑正憲までがショートコントのような「漫画的」演技を披露し、フォトグラファー飯田かずなによるアートディレクションが「漫画の世界」と「現実世界」の狭間らしきニュートラルな世界観を構築させているのが見事。

 さらに十代に絶大な人気を誇る小池徹平が「ちび」な大谷役を潔く演じる事で、本作がコメディとして成立しているだけでなく、NHK連続テレビ小説「天花」での演技が酷評された藤澤恵麻が「奇談」(2005)に続いて演技開花して好演しているのが本作の成功に繋がっている。

 また適度に原作のエッセンスを詰め込みながらも、舞台を高校3年間に特化し、弟を姉に変更したり、二人の身長差を微妙に調整し直して原作ファンのイメージを崩さない点も好感が持て、関西弁の台詞がいいリズムを生んでいる(が、大阪出身の小池徹平、香川出身の藤澤恵麻、和歌山出身の玉置成美という関西周辺出身者をしても、やはり関西弁台詞は難しいようだ)。

 惜しむべきは終盤のバスケ対決で失速してしまっている点。

 急にデタラメぶりが影を潜め、二人の恋愛感情が高ぶる訳でもなく、全体の流れからするとクライマックスとして少し弱いのだ。

 それでも何とか観客に楽しんで欲しいというスタッフの意気込みは十分伝わり、昨今乱立する漫画原作映画化作品の中でも出色の出来となっている。

 本作の音楽を手掛けているのは川口大輔。ケミストリーや中島美嘉に楽曲提供している彼にとって初の映画音楽だが、その気概を感じさせず川口節も封印したキャッチーなスコアを披露している。

 また「風音」(2004)で加藤治子の少女時代を演じて個人的に注目していた加藤未央が主人公の元カノ役で出演。彼女は現在東京農大在学中で来年卒業予定。これからの本格的女優活動が期待できる。

「ラブ★コン」の上映館で印象的だったのは、若い女の子たちの「ため息」だった。

 まるでかつての「たのきん映画」=「田原俊彦・近藤真彦・野村義男主演のアイドル映画」の如く、小池徹平の表情の変化に騒ぎ、藤澤恵麻とのキスシーンでは悲鳴が上がる始末。

 本作のような類の作品が支持されることは、若者の間で援助交際などがもてはやされても、やはり誰もが「純愛」を求めている証拠でもある。

 僕はスクリーンの中のスターに陶酔する女の子たちを傍から眺め、何とも純粋で昔ながらの映画鑑賞する姿を微笑ましく思うのであった。

  
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