2006年08月31日

まつさんの文化伝道師2006 8月号

ワイルドな一面が徐々にカミングアウト第556回

 今回は月末恒例、「まつさんの文化伝道師」をお届けします。

【まつさんの文化伝道師 2006年8月号】

■まつさんのヘビーローテーション

★「タイヨウのうた」 Kaoru Amane
 ドラマ版「タイヨウのうた」の主題歌は、主演の沢尻エリカが「役名」名義でリリース。ドラマ自体はさほど面白くないが、映画版をドラマにする折に不安視されていた「歌」は彼女の意外な歌唱力によって救われた(映画はYUIの出演前提の企画である故)。リリース前のダウンロード数が50万件を越えるなどCDセールスもかなり期待できる。CD不況な現状にあって、今が旬な沢尻エリカと楽曲の良さが相乗効果を上げた稀有な例であるといえる。


■CDアルバムこの5枚

★「Crispy Park」 Every Little Thing
 ファン泣かせな装丁となっていた初回限定盤デザインの無駄ぶりといい、発売延期になるもあえて発売した「スイミー」のシングルカットといい、結成10周年を迎えて絶好調な「強気」が伺える。確実に時代の変化と共に楽曲の変化が感じられる本作は、「静」と「動」が同時に楽しめるラインナップとなっている。

★「POLKA DOTS CANDY」 KAO
「文化伝道師6月号」でヘビーローテーションとして紹介したKAOが早くも新作をリリース。アルバム全体が根岸孝旨のプロデュースによって透明感を増した仕上がりになり、インスト曲の素晴らしさも冴えている。何よりも、個人的に好きな「青い空と海のあいだで」が再録されているのが嬉しい。

★「彼女」 aiko
 大塚愛にその地位を浸食されながらも、一貫して「モテない」側を歌い続けることで(一時期「幸せ」を歌ってファン離れを誘った)本作に納められた楽曲は粒ぞろいの傑作ぞろい。様々な楽器をそれぞれの楽曲で使用して、色鮮やかな印象を与えている。最近のセールス動向を見ていると平均的な結果を出しており、同性の変わらぬ支持によって不動の地位を築きつつある。

★「イッツ・タイム」 マイケル・ブーレ
 やっと日本でリリースされることとなったセカンドアルバム。全米ヒット曲である「ホーム〜きみのもとへ帰りたい」は珠玉のバラードで、単なるジャズボーカルではなく、ビートルズの「キャント・バイ・ミー・ラブ」をカバーさせるなどデビッド・フォスターらしいアルバムプロデュースにも注目できる。

★「アメリカ」 村治奏一
 姉・佳織がヨーロッパを拠点にクラッシック界へのアプローチを続ける一方、弟・奏一はアメリカ大陸を拠点にクラシックにとどまらず、ジャズやボサノヴァなどインスト界へのアプローチを試み、姉とは別の道を進んでいる。その経過が本作で垣間見られ、気軽に聞けるアルバムに仕上がっているのがとてもいい(その自信はタイトルに表れている)。


■CDシングルこの5枚

★「Progress」 kokua
 中島みゆきの「地上の星」を超えろという至上命令の元に作曲された本作は、NHKの人気番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」の主題歌。kokuaは、ボーカルのスガシカオ以下、武部聡志、根岸孝旨、屋敷豪太、小倉博和からなるスーパーバンド。諦めない事を訴える逆境へのメッセージが、スガシカオの歌声と呼応して「泣き」のサウンドにまで昇華させている名曲である。

★「チェリー・ザ・ダストマン」 勝手にしやがれ+オダギリジョー
 オダギリジョーの映画に対する選択眼の見事さは、ここでも発揮されている。東京スカパラダイスオーケストラでもなくPezでもなく、あえて「勝手にしやがれ」と組むセンスのよさは、楽曲のデタラメさがかっこ良さにまで繋がっている。しかし、忙しい人である。

★「Salamander」 ELLEGARDEN
「サラリーマンNEO」でも御馴染みとなった「Space Sonic」から9ヶ月ぶりのシングルは、近々発表予定となる5枚目のアルバムの仕上がりを期待させる熱い楽曲。畳み掛けるようなメロディは、ライブバンドならではの荒削りを誇り、聞けば芯から熱くなれる。インディーズのパワーを感じさせずにはいられない活動にも目が離せない。

★「ANSWER」 GLAY feat.KYOSUKE HIMURO
 GLAYとその先人にあたる氷室京介とのコラボ曲は売れない訳がないと思われたが、セールスでは苦戦を強いられている。週間チャートで嵐の「アオゾラペダル」に勝てず、2位に甘んじた結果は再考の余地あり。セールスの限界というよりも安易な楽曲に問題があったと思うのは僕だけか?

★「TEXAS」 安藤裕子
 大躍進の今年は、彼女のキャリアにとってターニングポイントとなる予感。切なさ誘う歌声は健在で、一人でいることの寂しさを歌い上げている。カップリングとしてライブで披露済みにもかかわらず初収録となる「ヘイディーズ」も聞き応えあり。


■書籍この1冊

(漫画)
★「説得ゲーム」 戸田誠二
 浅野いにおと並んでまつさんお勧めの新進漫画家の最新作品集。SF的なアプローチの短編が収録された本作は、彼の作品に流れ続ける「生きる事」と「幸せ」の何であるかを感じさせる傑作ばかり。中でも男性が妊娠できるようになる近未来を描いた「クバード・シンドローム」は感動!

(小説)
★「生きてるだけで、愛。」 本谷有希子
 劇団員は自分だけという「劇団、本谷有希子」を主宰する劇作家・本谷有希子が芥川賞候補となった注目作。「江利子と絶対」で個人的に注目していたのだが、笑いと切なさが同居した物語構成はクセになる。何と言っても筆致の独自性は「言葉選び」の上手さの賜物。ニートが自立する物語のように思わせておいて、実は「分かり合えること」を社会と人間関係の天秤にかけて考察している事が伺える。

(ノンフィクション)
★「美しい国へ」 安部晋三
 次期首相と名高い人物がタイミングよく出版していきなりベストセラーとなっている1冊。これを読むと「意外」にまともな意見を述べていて、日本の将来を任せそうな気にさせるが、本人曰く「戦う政治家」という主張に対して一抹の不安が過ぎるのもまた真。映画ファンにとっては、政治家らしからぬ様々な映画の引用にも注目できる。


■注目の1品

収録されている英語字幕もなかなか面白い★「オー!マイキー エクストラ」
 通算シリーズ10枚目となる「オー!マイキー」の最新DVDは、これまでの番外編や新作など13エピソードを収録した1枚。今夏開催された「オー!マイキーナイト」を見逃した方々にとっては、その上映作品の多くが本DVDにて確認できる。毎回思う事だが、「オー!マイキー」という番組自体が3分ほどしかないので仕方ないとはいえ、値段のわりに収録作品が少なすぎる。今回も収録時間は44分で、シリーズ全10枚は120分前後の収録で3枚か4枚に収められる計算になるのだが・・・。



と言うわけで今月も独断と偏見でお送りしました。来月もどうぞよろしく。

  

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2006年08月30日

僕の、世界の中心は、君だ。

チャ・テヒョンの歌う「瞳をとじて」は意外と上手い第555回

★★☆(劇場)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

 映画ファンの間では評判の良くなかった映画「世界の中心で、愛をさけぶ」(2004)だが、ご存知のように大ヒットを記録した。

 行定勲はメジャーな仕事を手掛ける人気監督となり、長澤まさみは人気女優となり、平井堅の主題歌「瞳をとじて」は年間ナンバーワンヒット、片山恭一の原作は結果的に320万部を売るベストセラーになった。

 綾瀬はるかのドラマ版、佐藤めぐみの舞台版を経て、「世界の中心で、愛をさけぶ」は韓国に渡り「僕の、世界の中心は、君だ。」となってリメイクされた。

 凡作と揶揄された映画版「世界の中心で、愛をさけぶ」だが、本作を見ると行定勲のアプローチが如何に素晴らしかったのかが伺える。そのくらい本作は残念なリメイクとなってしまっている。

 僕は世間の評判とは逆に、映画版「世界の中心で、愛をさけぶ」をある程度評価している。

 それはミリオンセラーとなった原作を読んだ人間でも楽しめる構成になっていた事と、岩井俊二のDNAを否定してきた行定勲が、岩井俊二っぽさを発揮した点にある。

「世界の中心で、愛をさけぶ」には、この作品の立役者のひとりである柴咲コウが出演している。

 彼女のコメントが原作の帯に記載された事で本の売り上げが飛躍的に伸び、ドラマ版の主題歌を歌うなど「世界の中心で、愛をさけぶ」を語る上で欠かせない人物でもある。

 彼女が映画版で演じた律子は、映画オリジナルのキャラクターである。律子が過去と現在を繋ぐ役割を担い、「謎解き」風の構成になっている事は、時系列が入り乱れることで物語の面白さを増幅させている。

 原作における「喪失感」の描き方はドラマ版に分があるのだが、映画版にある独特のノスタルジー誘う映像は(これが遺作となった)篠田昇によるところが大きい。

 この篠田昇は岩井俊二作品に欠かせない撮影監督。行定勲にとって岩井俊二の助監督時代から親交のある篠田昇とは初監督作品である「OPEN HOUSE」(1998)以来となるコンビで、篠田昇のカメラによって岩井俊二が得意とする逆光の中の温かさや、懐かしさが画面からにじみ出ていた事が分かる。

 この二点とヒロインを演じた長澤まさみの爽やかさによって、「世界の中心で、愛をさけぶ」はすこぶる魅力的な作品となった。

 それは「ロミオとジュリエット」(1968)+「ある愛の詩」(1970)という「叶わぬ恋」+「難病」という使い古され、何度となく作られてきたありきたりな物語に対する揶揄を払拭するくらいの「力」があったと個人的に評価しているからだ。

「世界の中心で、愛をさけぶ」における「ノスタルジー」は、若者だけでなく、主人公たちの時代をリアルタイムに過ごした30代の人間を引き付ける事に成功し、「使い古された展開」によってその上の世代の共感を生むことになった。

 携帯電話やメールの存在しない時代における、恋する者同士の意思疎通の即時性の欠落。そこから生じる「想い」が、純粋に感じられることが人々の琴線に触れたのだ。

「待つ」事と「待たせる」事。

 実はこの「待つ」という時間の中で、自己疑念や期待を思慮し相手の事を「想う」というプロセスが、文明の利器によって失われつつある。

「僕の、世界の中心は、君だ。」も、1995年の韓国を舞台にすることで「即時性」を否定した男女の意思疎通が描かれている。

 このことは、単なる昔を懐かしむ「ノスタルジー」というよりも、「恋愛」のあり方への懐かしみであるように思われる。

 例えば、恋愛映画における「すれ違い」は「めぐり逢い」(1957)や「君に名は」(1953)の昔から観客の心を掴む最適のツールである。

 だが、その「すれ違い」の多くが現代の通信機器によって解消されてしまう事が多く、「すれ違い」を描く事は昔に比べて難しくなっている。つまりそれは実際の社会においても「すれ違い」が少なくなっているということでもある。

 本作でもポケベルや音声メッセージによって「想い」の時差を描こうと試みている。

 しかし多くの設定が韓国用に変更され、日本人が「世界の中心で、愛をさけぶ」で感じたのと同様の「ノスタルジー」は感じられない。それは国の違いとして仕方のないことだが、本作は97分という短い上映時間によって、「あらすじ」といった印象しか受けない点も指摘できる。

 またソン・ヘギョ演じるヒロイン像も頼りない主人公を見守る「母性」=「お姉さん」的な役割を担うことなく単に「美少女」といった印象でしかなく、長澤まさみのキャラクター像の素晴らしさを再認識させられる。

 去る者と残された者。

 本作はその喪失の「痛み」を感じられるのが救いで、難病に対する描き方の甘さや、失い、残された者の再生が全く描かれていないことにおいても不満が残る。

 どうせなら韓国ドラマ風の恋愛劇に構成し直して「別作品」に仕上げても良かったようにも思うのだが、それはそれで批判の対象になるかもしれない危険性をはらんでいるのも事実。

 とどのつまり、多くのリメイク作品がオリジナルを超えられないことは、韓国映画界の力をもってしてもジンクスを崩せなかったということだ。

「クワイエット・ファミリー」(1998・韓国)を「カタクリ家の幸福」(2002・日本)に、「八月のクリスマス」(1998・韓国)を「8月のクリスマス」(2005・日本)に、そして現在放送中のドラマ「マイ★ボス マイ★ヒーロー」(日本)が「マイ・ボス マイ・ヒーロー」(2001・韓国)のリメイクであるように、韓流ブームに乗って韓国作品が日本でリメイクされる事も多くなった。

 昨年の「私の中の消しゴム」(2005)が日本のドラマを映画化したものであったように、その逆も増えつつある。

 ハリウッドのリメイク作品が、企画力の低下によるものであるという実情を踏まえつつ、日本と韓国のリメイク合戦も「粗製濫造」にならぬよう願いたいものである。

  
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2006年08月29日

UDON

ふたつで十分ですよぉ・・・頑固な人だなぁまったく第554回

★★★(劇場)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

 学生時代、香川が実家である友達の家まで車で貧乏旅行した事がある。

 その香川でカルチャーショックを受けたのは「うどん」の美味しさだった。

 初めて食べた天ぷらうどんは超美味で、それ以降「コシ」のない麺は食べる気がしなくなるほどの衝撃。僕にとっては「うどん」に対する認識が大きく変わる出来事だった。

 映画「UDON」でも描かれているように、香川へ行くと店舗ではなく単なる製麺所でも「うどん」が食べられ、椅子さえない屋外で立ち食いする姿にはこれまたカルチャーショックを受けたものだ。

 その友人とこの夏久しぶりに会う機会があって「実家近くで『UDON』の撮影があって、そのセット(松井製麺所のこと)はため池の横に建てられて、親戚もエキストラで出ている」と話していた。

 その映画「UDON」は、「うどん」というよりも「ちゃんぽん」のような作品である。

 それは例えるなら、麺のコシがしっかりしている美味しさというよりも、具の多さが麺を引き締めると言う要素が濃いからだ。

 つまり物語の根幹よりもその周囲に付随する描写に力が入っているのだ。

 ニューヨークでコメディアンとして成功できなかった香助(ユースケ・サンタマリア)は故郷の香川に戻り、親友・庄介(トータス松本)の紹介で地元タウン情報誌での仕事にありつく。そこで地元のソウルフードである「うどん」紹介記事を思いついた香助は、「うどんブーム」を仕掛けてゆくのだが・・・。

 地方発信の情報という東京中心の情報体系に対するアンチテーゼが見出せる本作は、「でかく当てる事が全てではない」という美徳を説いている。

 本作は単なる「うどんブーム」による成功物語ではなく、その向こう側にある顛末まで描いている。そうすることで、成功の光と影を見せようとしている事が分かる。

 だが、結果的には全ての要因が上手くまとまってしまうという一貫性の無さによって、本作の発したいメッセージがうやむやになっているのが残念。

 その一貫性の無さは、サービス精神満点な描写の数々においても言及できる。

 本作には本広克行監督作品らしい、いわゆる「リンク」の数々が挿入されている。

 例えば、うどん巡礼をする川岡大次郎、与座嘉秋、ムロツヨシの三人組は「サマータイムマシン・ブルース」(2005)の登場人物(衣装まで同じ!)で、「サマータイムマシン・ブルース」からは大学教授の佐々木蔵之介、写真部の真木よう子、未来からの訪問者だった本多力も同じ風貌で出演している。

 また「サマータイムマシン・ブルース」に登場したペンギンや「踊る大捜査線」シリーズでお馴染みの「カエル急便」のロゴが小麦粉袋にプリントされているのも確認できる。

 さらに、四国八十八箇所巡礼と間違ってうどん巡礼をする若者は「踊る大捜査線 THE MOVIE」(1998)で犯人役(名前も坂下そのままらしい)だった北山雅康というネタのこりよう(刑期を終えて贖罪の旅に出たと解される?)。

 特筆すべきは「ブレードランナー」(1982)のパロディとも言える「キャプテンUDON」の映像。その色彩やカメラアングルだけでなく、「二つで十分ですよ」という日本語台詞まで模倣する徹底ぶりは映画ファン心をくすぐられずにはいられない。

 これらの要素を楽しめれば、本作はとてつもなく楽しい映画なのだが、逆に言うと映画全体を通してのトーンの統一化が図れていないともいえる。

 物語が折り返し点にさしかかるにつれ、コメディ色は失われ、作り込んだ映像も登場せず、さらにはハウツー的な「うどん」雑学の面白さも失われ、展開の失速を感じてしまうのだ。

「フィールド・オブ・ドリームス」(1989)を想起させるラストに蛇足が付随しまくるこの雑多な感じもまた「ちゃんぽん」たる所以でもあるといえる。

 本作は主演のユースケ・サンタマリア、小西真奈美、トータス松本以外の脇役たちの好演が映画を支えると言って過言ではない。

 静かな演技ながらだらしない弟を見守る姉を演じた鈴木京香、寡黙な父を演じた木場勝巳、さらに大泉洋や寺島進、小泉孝太郎、藤澤恵麻、香川出身組の南原清隆や松本明子などその出演場面を探すのも楽しい。

 ユースケ・サンタマリアとトータス松本のコンビといえば、スペースシャワーTV黎明期の人気番組「夕陽のドラゴン」に、深夜番組「新橋ミュージックホール」の「ぢ大黒堂」と、実際のキャリアにおいても長年の親交がある仲で、そんなコンビネーションの良さは本作でも確認できる。

 香助は実家のうどん製麺業を否定して家を出たのだが、うどんを取材してゆくうちに地元回帰の意味を悟り、自身も変わってゆく。

 香川県出身である本広克行監督が地元に戻って製作した「故郷愛」(ちなみに「サマータイムマシン・ブルース」も香川で撮影)はそのまま主人公の姿に反映されているのだが、残念なことに「夢」を果たすために香助は再び故郷を後にする。

 情報発信と「夢」を叶える事の意味を「都会」に求めることなく地方発信の文化として描けたはずの本作は、結果的に地方の限界を感じさせてしまっている。

 それは延いて、本広克行監督が再び都会を舞台にした作品を手掛ける事を意味するように思えるのは僕だけだろうか?

  
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2006年08月28日

ラフ ROUGH

エンドロール後の蛇足は東宝の陰謀を感じ得ない第553回

★★☆(劇場)

(単なるアイドル談義になっているので、ご注意あそばせ)

 最近の長澤まさみは何をやっても可愛い。

 それは映画だろうが、CMだろうが、テレビのインタビューだろうが何時でも何処でも同じようなピュアピュア光線を放っているからだ。

 長身に小さい顔、長い手足に長い指先。膝下の長さは伊達でなく、佇む姿のかっこよさはまさにフォトジェニック。

 彼女がいかに画面栄えするかは、恋のライバル役である市川由衣と横並びになった場面で一目瞭然。

 これは市川由衣が可愛くないという意味ではない。彼女だって主演作の「サイレン」(2006)などを見ると画面栄えする演技力とオーラを持っていることが伺える。しかし「長澤光線」には太刀打ちできないのだ。

 彼女の最新主演作「ラフ」は、その魅力が大いに堪能できて、たいして面白くない映画を退屈させないのは「長澤光線」のおかげだと言って過言ではない。

 あだち充の人気漫画を映画化した本作は、昨年の「タッチ」(2005)に続いて長澤まさみがヒロインを演じているが、「あだち充×長澤まさみシリーズ」で今後も連作を作って欲しいくらい彼女は「あだち漫画」のヒロインに適役である。

 個人的には「ナイン」や「陽当たり良好!」、「みゆき」がぎりぎりリアルタイムである故、「ラフ」はかなり遅れて通読した身なのだが、「恋の告白」までの道のりを延々と展開させる原作に描かれる「想い」がほとんど観客に伝わらないのが痛恨。

 どうみても大和(速水もこみち)と亜美(長澤まさみ)が熱烈な恋をしているように見えないのだ。

 この原因となっているのは、物語を三角関係という描写に集約しなかったことにある。

 原作と比較するとかなりのエピソードを削ぎ落として分かりやすく展開させようと試みている事が伺えるのだが、全12巻のコミックスを2時間にまとめるのはなかなか難しい。

 映画では3年間の出来事が描かれているのだが、それを高校最後の年などに集約させる手法の方が時間の経過などにおいて適当であったように思える。それは3年間を描いたことで、それぞれのエピソードの繋ぎが粗くなり、感情の経過が観客に伝わりにくくなっているからだ。

 つまり3年間という高校生活を共にすることで相手への勘違いを理解し、過去の思い出と共に感情が揺らいでゆくという亜美の心境があまり伝わってこないのだ。本作が「一目惚れ」という外見に左右されない恋愛によるものであるから尚更だろう。

 もう一点は登場人物の描き方にある。

 本作は大和のライバルや水泳部の仲間を登場させない一方で、多くの脇役が原作そのまま登場しているが、その多くは殆ど映画版の物語を左右させる存在ではない。

 脚本を担当した金子ありさは、現在放送中の「サプリ」や「ナースのお仕事」、「女子アナ」というドラマで群像劇における脇役の描き方の良さが評価されている。

 彼女は「電車男」(2005)で初めて映画の脚本を手掛けて成功を手にしたのだが、この「脇役の描き方」が「電車男」のようにカット数の多い作品では相乗効果を上げたものの、「ラフ」のように中心人物たちの描写に特化しなければならない作品では効果を上げられなかったのだ。

 本作の脚本が、原作のまとめ方やラストへの布石などに関して素晴らしいだけに惜しまれる(ラストは長澤まさみの笑顔のアップで終わっても良かったと思うのだが・・・)。

 また監督の大谷健太郎は「NANA」(2005)の成功によって本作に抜擢されたのだが、同じ漫画の映画化とはいえ現在連載中の作品とすでに完結している作品とでは勝手が違う。

「ラフ」には映画の幕開けから大谷作品の特徴である「シンメトリー」の構図が伺え、それは多くの場面でも使われている。この左右対称の中に「仲たがい」という不対称な存在を置く事で、後半の関係性の「安定」を示唆させているのは見事。

 また映画版「タッチ」でも指摘したことだが、あだち漫画は「背景」を書き込まず、コマの中に「余白」が多いことが特徴だ。

 この「余白」という「間」が、あだち漫画の真髄なのだが、どうしても実写では「背景」が映りこんでしまう。

 このイメージの差異を払拭すべく、終盤の水泳場面では何も無い青い水の中で泳ぐ大和と仲西(阿部力)の姿を、光輝く水面をローアングルで捉えるという手法で、あだち漫画の「余白」的な「間」を生み出している。

 この場面に代表されるように水泳場面へのこだわりは多くのカメラアングルによって確認でき、その映像の出来はなかなかのものだ。

 原作との比較は映画の評価としては妥当ではないとはいえ、単に映画として評価した場合でも全体的な散漫さへの指摘は否めず、「何」を描こうとしているのが明確でないのが残念である。

 サンズの野田社長(元イエローキャブ社長)は、長澤まさみのことを「とんちんかんな受け答えをする変わり者」と評していたが、それは僕も認めるところでもある。

 彼女の「長澤光線」の所以はそういった「超天然」な性格にある。それはどこかデビュー当時の大竹しのぶを想起させる。

 大竹しのぶしかり、桃井かおりしかり、昔から大成する女優は撮影になると別のスイッチが入るタイプである事が多い。少し浮世離れした方が(人間性の問題は別として)女優の資質として相応しいのだ。

 名前が「ひらがな」である共通点があり、共に「東宝」で育てられ、共に明石屋さんまに好かれるという共通点は何とも奇遇ではないか?

 ところで「ラフ」には、今年「第6回東宝シンデレラ」でグランプリに選ばれた黒瀬真奈美が長澤まさみと共演する場面がある。

 グランプリ発表時から長澤まさみとのソックリぶりが揶揄されていたのだが、画面で見ると(アップで見るとそうでもないのだが)やっぱり似ている。

「東宝シンデレラ」は第1回の沢口靖子以降不定期で開催され、グランプリの小高恵美、今村恵子、野波麻帆、審査員特別賞の水野真紀、田中美里、大塚ちひろと小粒な人材しか生み出してないという実情がある。

 これはこれまで邦画自体が低迷していた事も大きな要因なのだが、逆に言うと女優発掘では邦画を救えなかったのだとも言及できる。

 第5回グランプリの長澤まさみと第6回の黒瀬真奈美との間には6年間のブランクがある。

「21世紀の裕次郎」の例が示すように、スターを生み出すのは芸能界側だが、スターを育てるのはファン側であり、そこに本人のスターとしての努力が伴わなければならない。

 なかなか役に恵まれず「ロボコン」(2003)によって女優開眼した長澤まさみに比べれば、黒瀬真奈美は恵まれた環境にいるわけで、邦画活性のためにも「似ている」ということ以外の評価がなされる日が来ることを心待ちにしている。

 願わくば、似ているのは「外見」だけではなく「キャリア」においても似ていると言われるくらいに成長して欲しいものだ。

  
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2006年08月27日

オー!マイキーナイト

入場者特典のステッカーは同デザインだっちゃ第552回

★★★★(劇場)

 映像表現における奇抜なアイディアは、映像の受け手に衝撃を与え、模倣と言う広がりによって「一般化」させるようになる。

 例えば「ウィロー」(1988)におけるモーフィング技術は「アビス」(1989)によって進化を遂げ、「ターミネーター2」(1991)の新型ターミネーターが変形する映像で一般化されることとなったし、「マトリックス」(1999)におけるブリットタイムと呼ばれる映像技術は、今やテレビドラマでも使われるようになった。

 このような映像表現の進化において、新たな映像技術によって「斬新さ」を訴求するのではなく、あえてそれまでにあった技術やアナログな映像表現によって「斬新さ」を訴求するクリエイターもいる。

 例えば「ウォレスとグルミット」シリーズや「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」(1993)に代表されるクレイアニメのように、粘土を使ってひとコマひとコマ作る手間のかかる映像作品は、本来2次元のアニメに3次元性を訴求する事によって目の前にあるリアリティを「手作り感」が「親近感」へと変換させている。

 その「温かみ」は実写に近い質感を誇るCGアニメとは明らかに異なるもので、CGアニメ全盛の現代だからこそ斬新さを訴求できるのだともといえる。

 その「温かみ」を逆手にとって、いっけんチープでありながら実は手の込んだ「静止画」(のような映像)によって、マネキンを使った実験的映像作品を作り続けているのが石橋義正。

 彼が手掛けた深夜番組のワンコーナー「フーコン・ファミリー」が人気を博し、そこから独立して2002年から深夜枠で放送されていたのが「オー!マイキー」と言う作品。

 1本たった3分強の短編ながら、不条理でシニカルな笑いを誘い、全く表情の動きがないはずのマネキン人形に演技をさせると言う「ゆるさ」が妙なおしゃれ感覚につながっているのも魅力のひとつ。

 鮮やかな色彩のセットや小ネタを仕込んだ美術の数々など、繰り返し見て楽しめる要素も満載。

 また人間の「いじきたなさ」という裏面をマネキンに演じさせて嫌味を緩和させているのも見事なのである。

 そんな「オー!マイキー」は2004年末に大阪でイベントが開催されて以来、夏になるとスペシャルプログラムが組まれて東京と大阪の劇場で「ワー!マイキー」と名付けた特集上映が恒例となっている。

 今年の夏も「オー!マイキーナイト」と名を変えて、渋谷と大阪でスペシャルプログラムが公開され、連日満席(大阪は今週水曜日まで上映が延長されているので、近隣の方々は是非!)。

 そんな「オー!マイキー」は、先日10枚目となる最新DVD「オー!マイキー エクストラ」が発売された。

 番外編ともいうべき本作は、放送できなかったエピソードや新作など13本を収録。今回の「オー!マイキーナイト」上映作品の多くはこのDVDからのものが多かったのだが、「マイキー・ザ・スターマン」は大いに笑わせる。

 本作のようなブラックな笑いが受ける理由は、多くの人が言いたい事をなかなか言えないことへの裏返しであると考察できる。

 心の中で思っていても体裁を保持するためにあえて「笑顔」を絶やさない現代社会人の表情は、マネキン人形の「大仰」な笑顔に投影されているのだ。

 そんな「心の闇」を笑い飛ばし、毎日のストレスを解消する事は、現代人の病のようでもあり、健全さの表れでもある。

 それを象徴するかのように、マネキンのマイキーは、どつかれようが、はたかれようが、川で溺れようが、車に撥ね飛ばされようが、ものともしない「強さ」を持っている(それは「人形」だからなのだが)。

 その強さが社会のストレスに立ち向かう現代人のシンボルであると考えるのは、行き過ぎだろうか?

  
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2006年08月26日

隣のリッチマン

エンドロールもしっかり楽しませてくれる第551回

「隣のリッチマン」
出演:ベン・スティラー ジャック・ブラック
監督:バリー・レビンソン
(2004年作品・アメリカ・日本劇場未公開)

★★★(TV)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

「帝都物語」(1988)で注目され、「THE JUON/呪怨」(2004)によって日本人として初の全米週間興行1位を成し遂げた映画プロデューサー一瀬隆重の新書「ハリウッドで勝て!」(新潮社刊)にこんなことが書いてある。

「私が六本木ヒルズに住んでみたり(中略)するのは、次世代の人に『プロデューサーって儲かるんだ』と思ってもらいたいという気持ちが強いからなのです」

 ハリウッド映画は、ビジネスモデルとして「儲け」を出す事システムが出来上がっている。この姿勢の良し悪しは別として、俳優や製作者だけでなく、映画に携わるスタッフまでもが「映画産業で儲ける(生活していける)」ことを可能にしているという事実がある。

 その一方で、日本の映画界は「好きな映画さえ作れれば儲けはいらない」という夢に対する姿勢が捻じ曲がって「個人が儲ける」ということを否定する傾向にある。

 一瀬隆重は「独立系映画の製作者が高級マンションに住んでいたり、高級車に乗っていると『あの人は悪い事をしている』と陰口を叩かれる。逆に貧乏そうに見える人は『質素で信用できる』という話になる」と語り、ハリウッドで信用を得るために製作者や俳優が試写会で高級車やスーツを身にまとって入場すると姿勢の真逆さを指摘していた。

 これは映画界のほんの一例だが、他人が儲けて金持ちになる事を、人は嫉妬し、妬む傾向にある。

 セレブと呼ばれる人々が日本でももてはやされるのはそのためだ。

「隣の芝生は青く見える」という歌詞で始まる「隣のリッチマン」は、そんな人間の「妬み」を題材にしたコメディだ。

 原題はずばり「Envy」=「妬み」と言う本作は、日本未公開扱いのせいなのか「隣のヒットマン」(2000)をもじったセンスのない邦題がいただけない。

 しかし監督が「レインマン」(1988)でアカデミー監督賞を受賞したバリー・レビンソン、音楽が元ディーヴォでウェス・アンダーソン作品でもお馴染みのマーク・マザースボウ、主演がベン・スティラーとジャック・ブラックで、共演がレイチェル・ワイズにクリストファー・ウォーケンという一流作品なだけあって、見所の多い作品に仕上がっている。

 隣人同士で同じ会社に勤務するティム(ベン・スティラー)とニック(ジャック・ブラック)は親友同士だが、ニックが犬の糞を消すスプレーを発明し、その誘いに乗らなかったティムは金持ちになってゆくニックに嫉妬を覚え始める・・・。

 仲の良い人間同士というのは往々にして同じ価値観や同じ経済状態によることが多い。

 それは子供より大人の方が強い傾向にあり、もちろんそこには何事においても「同等」であるという「妬み」と無縁である事が関係している。

 この「妬み」を微妙に「同等」でない二人の立場が逆転してゆく様と、「チャンスを逃す」という転機という判り易さによって、「笑い」を生み出そうとしている事が伺える。

 会社で上の立場にあるティムが徐々に嫉妬してゆく様が滑稽なのは、実は親友同士の二人が「同等」などではなく、ティム自身に隠された「優越感」があったことに起因しているからだ。

「儲ける事は悪」と思わせる本作は、後半にかけてニックの優しさ意外な展開を見せ始める。

「儲ける事は善」であり、「嫉妬」に対する回避策にまで言及しはじめ、「隣のリッチマン」は教育的作品へと変貌するのだ。

 ベン・スティラーとジャック・ブラックは、ベン・スティラーが監督した「ケーブル・ガイ」(1996)にジャック・ブラックが出演していたり、ベン・スティラーが「メリーに首ったけ」(1998)、ジャック・ブラックが「愛しのローズマリー」(2001)というファレリー兄弟作品に主演し、お馬鹿コメディが得意という共通点があるにもかかわらず、実はこれが初共演作。

 デタラメで暴走するキャラを得意とするジャック・ブラックだが、本作ではハチャメチャだが性格のよい親友を演じていて人の良さを感じさせているのが、それが映画のテンポを停滞させているのが痛恨。どちらかというとクリストファー・ウォーケン扮する謎の人物の方が暴走している。

 犬の糞を消すというアイディア商品の末路や、その宣伝方法に、アメリカ消費社会へのアンチテーゼを感じさせる本作は、「犬の糞」という「無意味」で「邪魔」なものを消すという行為に、アメリカ的な考え方の根本を感じさせて興味深い。

 本作はラストで映画のナレーター的役割の「歌」で、こんなことを言っている。

 人を妬む事があったら、正直にその妬みを相手に話してみよう。そうすれば自分らしい生き方を取り戻す事ができる、と。

 主人公が悪行を謝罪する事で「妬み」というテーマが曖昧になり、後半の展開が失速してしまっているきらいがあるのだが、逆に言うとその誠実さによって「妬み」に対する教訓として「友情」や「信頼」の大切さを感じさせる全うな作品に仕上がっている。

 ただし、映画的な面白さとは結びついていないのだが・・・。

  
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2006年08月25日

親密すぎるうちあけ話

男のレコードプレイヤーはなぜか東芝製第550回

★★★★(劇場)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

 ある日、あなたの事務所に女性が訪ねてくる。

 彼女は悩みを抱えている様子で、貴方に解決して欲しいと何かを依頼しに来たように見える。

 ところが彼女はおもむろにハンカチを取り出して涙ぐみ、自身の結婚生活の悩みを話し始める。

 夫とのセックスレス、冷え切った夫婦関係の不毛さ、夫の異常な性的欲求、等々。

 彼女の不遇を聞くにつれ、貴方は彼女に同情してゆく。

 美しい容姿、儚げな佇まい。貴方は彼女に女性の魅力を感じてしまうのだが、実は彼女の話を聞きながら気が気ではない。

 それもそのはず、貴方は心理カウンセラーなどではない。彼女は訪れるべき部屋を間違え、貴方をカウンセラーと思い込んで秘密を吐露しているのだ。

 貴方は彼女の話が核心に迫れば迫るほど、本当のことを言い出そうとして言い出せない。自分が会計士であることを・・・。

「親密すぎるうちあけ話」は、そんな絶妙なプロットから幕が開ける大人の恋愛ドラマだ。

 ハリウッド映画なら、男女の勘違いがトラブルを招いてゆくコメディ映画に仕上げてしまいそうだが、そこはフランス映画。

 彼女の勘違いが虚言かもしれないというサスペンスを盛り込み、誘惑と妄想の狭間を行き来する大人の恋愛劇に仕上げつつ、そこに性表現が介在しない上品な作風を心がけているのがとてもいい。

 欧米における病院事情は、日本とかなり異なる。

 例えば大病院などは日本と変わらないのだが、歯科医などの診療所は看板等が掲げられることなく、独立した建物ではなく、ビルのテナントである事が多い。

 しかもそれは普通の事務所の一室という場合が殆どで、入り口に「Dr云々」と書かれていればマシな方で、多くは1階のボードで部屋を確認してその部屋番号に訪ねていかなければならない。

「親密すぎるうちあけ話」は、そんな欧米の診療所事情を知っていると面白く見ることが出来る。

 パトリス・ルコントは、少し特異なプロットを用いた90分程度の恋愛映画で猛烈な威力を発揮する監督である。

 本作は彼の代表作でもある「仕立て屋の恋」(1989)でヒロインを演じていたサンドリーヌ・ボネールを再びヒロインに起用し、「陰」=「仕立て屋の恋」と「陽」=「親密すぎるうちあけ話」という対照的な作品として構成している。

 それはヒロインの女性の思わせぶりな態度の裏にある「真意」が陰であるか陽であるかの違いにおいて如実に現れている。

 この2作品に関しては、男を惑わすのが「言葉」だけでなく、女性の「仕草」である共通点と、どちらかというと寡黙で色男でない男性が女性に魅せられて行くという共通点があり、さらには「理想の女性」=「幻」と思わしき描写には全てのパトリス・ルコント作品における踏襲さえ感じさせている。

 彼の描く女性像は、「夢の女」であり、同時に「運命の女」でもあり、男は常に女を溺愛し、女の奔放さに振り回される事となる。

 女性は男に愛される事で美しさと輝きを増し、男はさらに虜になるというスパイラル。破滅的な恋の暴走は結果悲劇を迎えることが定番なのだが、パトリス・ルコント作品に登場する男たちは、なぜかそんな悲劇でさえも至福に変換させる屈折した溺愛という純情を観客に見せつけ、孤独の中の寂しさを誘うのだ。

 共通点のまるでなさそうな男女が愛を語るのは「髪結いの亭主」(1990)や「イヴォンヌの香り」(1993)、「橋の上の娘」(1999)でも描かれていたが、分かり合えないはずの二人が会話によって結ばれ、会話の欠如によって引き裂かれてゆくという悲劇が、現実の男女関係と同様に「相手への理解」に訴求されているのは、それが世の男女の普遍性であるからにほかならない。

 その誰もが感じえる男女の機微を、「会話」に練りこんだパトリス・ルコントの作品が長く支持されるのは当然と言える。

 本作は「カウンセリング」と勘違いした女性によって築かれてゆく人間関係が男女の恋愛に変化してゆく過程を、会話によって体感させてくれる。

 自分のことを話すことと、その話題を共有すること、そしてお互いが理解し合えること。

 このプロセスが「カウンセリング」という精神療法の形をとりながら、当初は一方的に女性の話を聞いていたものが、男性も話を聞いてもらい、お互いがお互いの話をする事でお互いがお互いによって精神療法を受けているという状態に変化してゆく。

 その変化が、恋愛のそれと符合する事は言うまでもなく、二人の関係はより「肉体的」ではなく「心の中で」親密さを増してゆくのだ。

 この二人の心境の変化を微妙な服装の変化によって視覚的訴求を促し、「うわべ」だけの言葉と対照的に描いているのが見事(女は身にまとう衣服が軽装になり、男はラストでついにネクタイを締めていない)。

 心境の変化は冒頭と終盤の事務所の変化においても見出す事ができる。

 自分が変わってゆく事。

 これは大人になればなるほど難しいことだ。

 だが、たとえそれが困難でも、誰かと一緒なら、誰かが理化してくれれば出来そうな気がする、それが「恋」または「愛」の成せる業である。

「親密すぎるうちあけ話」は、パトリス・ルコント作品には珍しいタイプの分かり易いハッピーエンドで結ばれる。

 しかしそれを単純に良しとしない彼の反骨精神は、エンドロールの後ろに俯瞰ショットで映し出される男女の姿によって提示されている。

 パリの影射す事務所から、明るい陽射しの射す南フランスへと転居した男は、女と再会し、明るい未来を予見させる。が、二人の姿は突然、幻のように姿を消してしまう。

 男が出会った女は幻想だったのか、それとも幸せな結末が夢の中の出来事なのか?

 どちらにせよ、男と女、二人の人生が少しだけ良い方向に変化したことに確信が持てるに違いない。

  
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2006年08月24日

箪笥

「箪笥」(たんす)って漢字で書ける?第549回

「箪笥」
出演:イム・スジュン ムン・グニョン
監督:キム・ウジン
(2003年作品・韓国)

★★★☆(TV)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

「後悔先に立たず」

 小学生の頃、僕が問題を起して謝ると、先生はいつも同じ言葉で諭した。

 この「後悔先に立たず」と言う言葉は、その場しのぎで済んだ子供の頃はあまり真の意味を理解出来ないでいたのだが、年齢を経るごとにその重要性が身に染みるようになった。

 それは自分勝手ではなく、相手の気持ちを考えられるようになり、相手の痛みを感じられるようになると、過去の行為に対する「後悔」が僕の心の中に猛襲してきたからだ。

 考えれば考えるほど逃れられない後悔に対する妄執。

 やり直そうにもやり直せないことを学ぶと、そのときそのときの行動の重要性を悟り、ひとつの行動の結果がどのようなものになるのかを自ずと想像するようになる。

 行動の末に生まれる結果。

 その結末は誰もが悪い方向に進んでほしいなどとは願っていないし、そうなるかもしれないと思いながらも、心のどこかでそうならないとも思っている。

 だが、一番たちが悪いのは「思いも因らない結果」を引き起こしてしまう事だ。

「箪笥」はそんな悔いても悔いきれない「後悔」の映画である。

 入院から帰ってきたスミ(イム・スジュン)とスヨン(ムン・グニョン)の姉妹は、継母(ヨム・ジョンア)の冷たい仕打ちに警戒するが、父(キム・ガブス)は傍観するばかり。そんな不穏な空気の流れる家庭に、不気味な気配が支配し始める・・・。

 いっけんすると、よくある韓国製ホラー映画のように思える本作だが、隅々に行きわたった演出を検証すると、監督自身の目指すところが別のところにあることが伺える。

 それは数々の小道具や映像が「恐怖」を生むための演出であると見せかけて、実際は「真実」を導くためのからくりであるからだ。

 オチが全てである映画において、そのオチにいたる過程の正当性は映画の評価の要となる。

 本作も終盤に二転三転する展開が待ち受けているのだが、同様のオチは「シックス・センス」(1999)以降、本作と同時期に公開された「アザーズ」(2003)など食傷気味であり、勘のいい映画ファンなら映画冒頭でそのからくりに気付くに違いない。

 しかし本作が優れているのは、「箪笥」がオチのために作られた物語でありながら、観客に感じて欲しいのはもっと別のところにある点だ。

 他人と上手くコミュニケーションが取れないことが生む悲劇。

 それは人の成す技であって、霊的な存在よりも現世では遥かに恐ろしいと感じさせるだけでなく、一生ついて回る「後悔」が、人生を狂わせてしまう恐怖と悲しみをも感じさせてくれるのだ。

 そして数々の伏線が悲劇の所以を黙して語ることなく、終盤になって雄弁さを見せつけているのは見事である。

 ただ、亡霊が亡霊であると気付くくだりや、亡霊に呪い殺されると思わせる場面は必要なかったようにも思わせるのが痛恨。

 徹底して人間の行動によって引き起こる「悲劇」と「後悔」に特化した作品にして霊云々を曖昧にすれば、霊や呪い大盛況のホラー映画に対するアンチテーゼにまで昇華させられたように思うのだ。

 監督のキム・ウジンは「クワイエット・ファミリー」(1998)以降、「反則王」(2000)、「THREE/臨死」(2002)そして「甘い人生」(2005)とキャリア絶好調。

 彼の描き続ける「不器用さ」が、本作でも物語の骨格として活かされていることがわかる。

 また姉妹を演じた「ピアノを弾く大統領」(2002)や「アメノナカノ青空」(2003)のイム・スンジュンと「マイ・リトル・ブライド」(2004)や「ダンサーの純情」(2005)で注目度の高いムン・グニョンの巧みな演技が映画を支えていると言って過言ではなく(イム・スンジュンとムン・グニョンは7歳も年の差がある!)、「KT」(2002)で日本とも縁深いキム・ガブス演じる物語を翻弄する父親、さらに「H〔エイチ〕」(2002)や「ビッグ・スウィンドル!」(2004)のヨム・ジョンアの鬼婆ぶりも見事。

 箪笥の中にしまうもの。

 それは「真実」ではなく、忘れようと思っても忘れられない「後悔」である。

「隠す」のではなく「しまう」後悔だが、隠しても隠しても隙間から漏れてくる後悔のひだは、霊や血糊に変換されて、忘れ得ぬ妄執へと突き進んでゆく。

 その心理構造が多重人格のそれと符合させる考察に脱帽させられ、観客はそこから引き起こる「寂しさ」に「後悔」の何たるかを考えさせられるのだ。

  
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2006年08月23日

あなたにも書ける恋愛小説

[第548回

「あなたにも書ける恋愛小説」
出演:ケイト・ハドソン ルーク・ウィルソン
監督:ロブ・ライナー
(2003年作品・アメリカ)

★★★★(DVD)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

【恋愛小説の書き方】

‘輿海僚于颪

 誰かを好きになる、という行為は人間誰もが共通して持っている感情である。

 よって、その過程はある程度パターン化されている。出会いがあって、恋心が生まれ、それを成し遂げようと確執が起こる。

「あなたにも書ける恋愛小説」は、男女の恋愛においてお互いが惹かれあうという前提において、「恋に落ちる」には一定の法則があるという姿を「恋愛小説」にたとえて構成された作品。

喧嘩

 借金返済のために30日以内に小説の完成を強いられるアレックス(ルーク・ウィルソン)は、口述筆記の偽広告を見た速記タイピストのエマに小説の完成を助けてもらえないかと懇願する。

 本作は、アレックスが物語を語り、それをタイプしながらツッコミをいれるエマの姿と、アレックスが紡ぎだす小説の物語とが同時進行で進んでゆく。

 エマがツッコミを入れ、アレックスが優柔不断で設定を変えてゆく度、劇中劇でケイト・ハドソンが演じる家政婦がどんどん変化してゆくのだが、この変化によって結果的にケイト・ハドソンは1人5役演じる事になり、嫌味なく彼女の演技の幅を見ることが出来る仕組みになっているのが面白い。

6Δ鵬燭を成し遂げる

「ALEX&EMMA」という他愛も無い原題を「あなたにも書ける恋愛小説」と言うタイトルにした日本語タイトルのセンスがなかなか好感が持ている。

 先日離婚したばかりのケイト・ハドソン(元夫はブラッククロウズのクリス・ロビンソン)は、母親であるゴールディ・ホーンの遺伝子を受け継いだコメディエンヌぶりが板についてきて、本作でも彼女の魅力が炸裂。恋敵であるソフィー・マルソーが霞んでしまうほどだ。

 奇遇な事に、ケイトの離婚は本作で競演したルーク・ウィルソンの兄、オーウェン・ウィルソンとの浮気ではないかと報じられているが、果たして?

 脚本を担当したジェレミー・レヴィンはこの後「きみに読む物語」(2004)で再注目される事になるのだが、元々はまだ新人だった頃のヴァージニア・マドセンが出演した「クリエイター」(1985)の原作者として映画脚本を手掛けた人物で、ジョニー・デップ主演の「ドンファン」(1995)では監督も務めている。

の敵の登場

 ロブ・ライナーは「スタンド・バイ・ミー」(1986)や「ミザリー」(1990)、「ア・フュー・グッドメン」(1992)など多ジャンルにわたる大ヒット作を手掛けてきた監督だが、どちらかというと「シュア・シング」(1985)や「恋人たちの予感」(1989)、「ストーリー・オブ・ラブ」(1999)などロマンティックコメディに定評がある。

 その語り口はウディ・アレン作品をおしゃれで判りやすくしたという点で不当に評価が低いのが惜しまれるが、本作でも彼のおしゃれセンスは二人が息抜きに街を散策する場面で発揮されている(ノラ・ジョーンズの「Those Sweet Words」が印象的に挿入され、映画の雰囲気に大きく貢献している)。

 また監督作のみならず多くの映画に俳優として出演しており、本作でもアレックスの出版社の担当を演じている。

ゼ困辰撞ど佞

 実はアレックスが紡ぎだす物語は、実生活を反映させた恋愛劇であることが終盤判明する。

 小説のラストを「二兎を追うものは一兎を得ず」というほろ苦い幕切れに仕立てたアレックスは、ポリーナ(ソフィー・マルソー)の出現によって、彼自身も恋の選択を迫られるだけでなく、結局「二兎を追うものは一兎を得ず」という恋の苦しみを味わう事になる。

 人の心の揺らぎを小説の中で自由自在に書き換えるアレックスも、実際の恋愛では相手だけでなく自分自身の心の揺らぎを操作する事ができない。

 パターン化された恋愛劇(小説)も、パターン化されているからこそ結局はその過程が大切で、それは実際の恋愛においても同じなのだ。

ξの行方

 アレックスは小説のラストを書き換える事を試み、その書き換えられた終幕は彼自身の心情の吐露としてエマに語りかける。

「あなたにも書ける恋愛小説」は、恋愛小説を書くという共同作業を描きながら、実はお互い好きな男女が「恋バナ」をするという、恋の初期段階のステップを踏んでいるのだという事が伺える。

 二人で話す事。

 お互いを知る事。

 相手を理解する事。

 この普遍的な恋愛を描いた本作は予定調和でありながら、観客の心を掴むのは、恋愛というものに普遍性があるからだということなのだ。

  
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2006年08月22日

スーパーマン リターンズ 【B面】

上映時間も1作目と全く同じ長さ!第547回

【B面:スーパーマン】

★★★☆(劇場)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

「スーパーマン リターンズ」は誰もが認めるであろう爽快感溢れる作品である。

 猛スピードで滑空するスーパーマンの姿は、物理の法則に裏打ちされたリアリティが追及されて心躍るほどの爽快感が味わえ、特撮技術の進歩はVFXによってかつては不可能だったカメラアングルによって、スーパーマンが猛スピードで落下する機体を救助する姿を可能にした。

 スーパーマンの確固たるイメージを確立させたクリストファー・リーヴ亡き後、本作が完成するまでには、これまで紆余曲折(詳しくは多くの雑誌記事に掲載されているのでご参照あれ)があったのだが、本作は「スーパーマン」と同じアメリカンコミックヒーロー物である「X−メン」(2000)シリーズを手掛けてきたブライアン・シンガーが「X−MEN ファイナル・デシジョン」(2006)を降板してまでメガホンをとった意気込みが否応無く感じられる。

 何よりも「スーパーマン」ファンのイメージを尊重し、1978年に大ヒットしたクリストファー・リーヴ版映画「スーパーマン」のオマージュとも思える演出の数々には目を見張るものがある。

 例えばレックス・ルーサー(ケビン・スペイシー)が語る土地に関する「父親の教え」と「ヅラ」コレクションや、ロイス・レイン(ケイト・ボズワース)の英単語綴りの苦手ぶりと喫煙癖、ジミー(サム・ハティントン)のカメラファインダー視線映像、さらにスーパーマン(ブランドン・ラウス)が語る「世界一安全な乗り物」に関する台詞等など1作目に対する踏襲がいたるところで確認できる。

 また、スーパーマンの父を演じていた(こちらも亡き)マーロン・ブランドの音声を巧みに挿入し、ジョン・ウィリアムスによるオリジナルテーマ曲をふんだんに使い(劇中曲の多くは1978年版のサントラをアレンジしたものばかり!)、3Dもどきのオープニングタイトルデザインにまで1作目への敬意を感じさせる。

 そしてエンドロールに流れる、共に過酷な晩年を過ごしたクリストファー・リーブ夫妻へのクレジットが否応無く涙を誘う。

 漫画としてスタートした「スーパーマン」は、これまで様々な形で作品化されてきたが、本作はあえて新たなシリーズとしてではなく、1978年の映画版の流れを汲む正統的な続編として製作されている。

 驚くべき点は、駄作と評されてきた3作目「スーパーマン掘‥纏劼陵弸鼻廖複隠坑牽魁砲硲敢醋棔屮后璽僉璽泪鵤粥〆廼の敵」(1987)をなかった事にして、2作目「スーパーマン極糎永圈廖複隠坑牽亜砲裡鞠後を描く続編とした大胆さ。

 地球に戻ってきたスーパーマンは、周囲を取り巻く変化と社会の変化に動揺を隠せないでいるという設定には、1作目が製作された約30年前の社会と価値観が変化していることを映し出している。

 ここに「バットマン」(1989)以降定番となったダークな「内面性」をあえて持ち込まず、単純に「正義は勝つ」という勧善懲悪を描いた本作の潔さは、物語に対する物足りなさの反面、映画的な爽快感を生むことに成功しているといえる。

 人間の弱さに対する描き方の甘さや、稚拙に思える表現の数々、さらには細かな矛盾点も指摘できるが、それにはあえて目を瞑って、ハリウッドらしい無邪気なヒーロー映画として鑑賞すれば文句無く堪能できる。

 何といっても全くの新人であるブランドン・ラウス演じるスーパーマン像が遜色無く受け入れる事ができるのが涙モノ。さらに驚く事にジーン・ハックマンの演じたレックス・ルーサーを今回演じたケビン・スペイシーのアプローチも素晴らしく、こちらも印象があまり変わらないほど。

 また「X−メン」シリーズでサイクロプスを演じているジェームズ・マーズデンに再び三角関係に悩む役をキャスティングし、マーロン・ブラントとは「波止場」(1954)で恋人役を演じていた往年の名女優エヴァ・マリー・セイントをクラークの母にキャスティングするなど、映画ファン心をくすぐることも忘れていない。

 これらのキャスティングは、製作当時大作だった1作目「スーパーマン」の興行面を支えるべく、マーロン・ブランドやジーン・ハックマン、グレン・フォードなどの名優を配したキャスティング(当時新人だったクリストファー・リーヴはクレジットが彼らよりも下だった)を施した点における踏襲とも考える事ができる。

 さらに「スーパーマン」ファンを唸らせる更なるキャスティングが本作にはある。

 例えば、1953年に放送が開始されたテレビドラマ版「The Adventure of Superman」でロイス・レインを演じたノエル・ニールがカメオ出演しており、彼女は「スーパーマン」でも列車を走り追い抜くクラークを車窓から発見する幼いロイスの母親を演じていて(出演場面はDVDのディレクターズカット版で復活)、1991年に放送されたドラマ「Superboy」にもゲスト出演している。

 またクラークとジミーが行くバーでバーテンを演じているのはジャック・ラーソン。彼もまた1953年に放送開始されたテレビドラマ版「The Adventure of Superman」で同僚ジミーを演じていた縁がある(つまり新旧のジミー役が共演している)のだが、「LOIS&CLARK/新スーパーマン」でも年老いたジミーとして出演していた過去を持っている。

 蛇足だが、後年は映画プロデューサーとして活躍し、「ブライトライツ・ビッグ・シティ/再会の街」(1988)や「パーフェクト」(1985)を手掛けているハリウッド映画人のひとりでもある。

 またヴァージングループの創始者リチャード・ブライソンがシャトルのエンジニア役で出演しており、「80デイズ」(2003)に続いて私生活を反映した冒険者的役柄を演じて見せている。

 新旧ファンの楽しめる要素が散りばめられた「スーパーマン リターンズ」は、宗教や人種によって争いの絶えない世界情勢のアンチテーゼとして「正義」を信じさせてくれる勇気と希望を感じさせる。

 そして劇場を出た瞬間から、勇壮なスーパーマンのテーマ曲が貴方の頭の中をリフレインし続けるに違いない。



【A面:クラーク・ケント】も是非ご参照下さい。

  
Posted by matusan at 23:59Comments(5)TrackBack(7)