2007年02月14日

DOA/デッド・オア・アライブ

石狩山脈って・・・第601回

★★★(劇場)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

 人気ゲーム「メタルギアソリッド」が映画化され、ゲーム版のクリエイター小島秀夫が製作総指揮を担当すると昨日報道されたが、ヒット作が少なく、採算性の悪いゲームの映画化作品は不思議と後が絶えない。

「バイオ・ハザード」シリーズというヒット作がある反面、誰もが駄作と謳う「スーパーマリオ」(1993)や映画史に残る赤字作品「ファイナル ファンタジー」(2001)を生み出しているのが現実。

 ゲームの映画化作品にヒット作が少ない理由は、ゲームの特性が映画の特性と相性が悪いせいだと考えられる。

 それは作品の「受け手」が参加するか否かにおいての違いが「物語」の行く末を左右するゲーム(特にロールプレイングの場合その傾向が強くなる)と異なり、映画は「受け手」が「物語」を一方的に受け入れなければならないからだ。

 つまり、映画のように「感情移入する」という事だけでは、ゲームの「物語」を楽しむには足りないのだ。

 逆に、例えば昨年末DVDが発売された「ファイナル・デッドコースター」(2006)のように、DVDソフトのインタラクティブ機能として「物語が選択できる機能」の付いているソフトがあるが、これは映画ファンが求める「物語」を楽しむ事とは別のベクトルを向いている。

 未来型メディアソフトとして、昔からオンデマンドな映画や参加型映画が企画されてきたが、これらが一般的になかなか受け入れられないのは、映画とゲーム、つまり「非参加型」と「参加型」のソフトでは求められているものが異なっているからだと素人でも推測できる。

「DOA/デッド・オア・アライブ」もまた、かつての人気ゲームを映画化した作品。

 いきなり中国・韓国・日本がちゃんぽんになった舞台で幕があける本作は、とても正視できないくらいドンデモ映画である、が、それに目くじらさえ立てなければそれほど面白くない訳でもない。

 女性上位時代を象徴するように、本作ではゲームのキャラクター中、女性キャラがダントツに強く、その姿は「強い」と「セクシー」を同居させてフェミニストたちを困惑させる設定になっているのが心憎い。

 リアルとは全く無縁の本作は、格闘技映画ではお馴染みの頂上決戦という単純なストーリー展開。誰が勝って誰が負けるかなどという予測は誰にでも簡単に見抜ける分、女優陣のハードなアクション場面が全ての見所となっている。

 本作はそんな「使い捨て」型の鑑賞作品ながら、キャストやスタッフに眼を向けると「トンデモ日本」という共通点があって映画ファンとしてはとても興味深い要素を持っている。

 脚本を担当したJ.F.ロートンは「プリティ・ウーマン」(1990)の脚本で一躍注目を浴びた人物だが、監督作に「ハンテッド」(1995)という作品がある。これはクリストファー・ランバートとジョン・ローンが主演して日本を舞台にした作品なのだが、劇中新幹線内での忍者とのバトルシーンなど、とても日本人では思いつかないほど「トンデモ日本」を描いたアクション映画だった(でも適当に面白い)。

 また本作の監督であるコーリー・ユンは武術指導の世界で著名であるが、本作同様に女性が活躍する「クローサー」(2002)やハリウッド映画としてヒットさせた「トランスポーター」(2002)など監督としての手腕も見せている。彼もまた1981年に若き真田広之主演で「龍の忍者」という「トンデモ日本」映画を監督している(これが監督デビュー作!)。

 出演陣に目を向ければ、デヴォン青木にケイン・コスギ(彼にとってのハリウッドデビュー作とされているが、厳密には子役時代に父親であるショー・コスギ主演作に息子役で既に何作にも出演している)と、「トンデモ日本」とは切っても切り離せない二人が出演しているし、最近ではキャスティングコーディネーターとしてハリウッドとの橋渡しに欠かせない、演出家の奈良橋陽子の名前をエンドロールに見付けることができる。

「DOA/デッド・オア・アライブ」の中では実質主役なのにクレジットは後方に甘んじているデヴォン青木だが、彼女の剣さばきはご愛嬌として、「シン・シティ」(2005)でも見せた無表情なクールさは、演技派女優の道は困難でもアクション女優としては更に花咲かせる逸材であると信じて疑わない。

 そんな女優陣の中でも一際目を引くのは、見えそうで見えない裸体を披露するホリー・ヴァランスである。

 彼女はカイリー・ミノーグとジェイソン・ドノヴァンをスターにしたオーストラリアの青春ドラマ「ネイバーズ」の後輩として名を馳せ、あまりの過激さにPVが放送禁止となった「KISSKISS」(ご興味ある方は今もCDショップの片隅で売れ残っているアルバム「ステイト・オブ・マインド」の初回盤に付いているDVDにて確認できる)で話題となった歌手でもある。

 彼女の「見えそうで見えない」バストのトップはこの「KISSKISS」のPVを踏襲していて、音楽ファンとしては興味深い限り。さらに劇中、彼女にマリリン・モンローやキャロル・キングなどの歌詞を練りこんだ台詞を喋らせている「遊び」も聞き逃せない。

 また敵役を演じるエリック・ロバーツは、妹を自身の主演作「ブラッド・レッド/復讐の銃弾」(1988)で映画デビューさせた功労者であるにもかかわらず、近年は「ジュリア・ロバーツの兄貴」という肩書きに甘んじてB級俳優と化しているが、「ベスト・オブ・ザ・ベスト」(1989)という主演作(続編もある)では本作と同じようなストーリーの主役を演じているという共通点もある。

 このようなネタがいっぱい詰まった本作は、ご都合主義な辻褄あわせや陳腐な演出さえ気にしなければ、86分という上映時間があっと言う間に過ぎてしまうこと請け合い。

 ま、あくまでも「男視点」での話ではありますけれど・・・。

  

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2007年02月12日

サンキュー・スモーキング

ありがとふ第600回

 まつさんです。

 本日で「まつさんの映画伝道師」は600回、そして2周年を迎えました。

 更新が不定期で滞りがちにもかかわらず、毎日ご来店頂いている皆様に感謝いたしております。

 昨年の入院以来、劇場鑑賞した映画の記事がなかなかアップ出来ていない状況にあり、ついにその数が50本を超えてしまいました。そこで2周年を機に、これからは少し短めのレビューもアップしてゆくことでブログを継続してゆきたいと思っておりますのでご理解いただければ幸いです。

 これからも「まつさんの映画伝道師」を宜しくお願いいたします。

と言うわけで今回は感謝の意を込めつつ「感謝」に関連して短めのレビューをお送りします。


変な日本趣味がイケてるロブ・ロウ「サンキュー・スモーキング」

★★★★(劇場)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

「分煙」が進んで、喫煙者は肩身の狭い思いをしているに違いない。

 かつて喫煙者であった僕はその気持ちを少なくとも理解できているつもりなのだが、世の中の流れなのだから仕方ない。

 個人的見解で暴言を吐くと、酒も煙草も人間の「弱さ」の象徴みたいなところがあって、「依存」と言う言葉が常に付きまとうものである。その「依存」という要素を巧妙に見抜いて、酒や煙草には莫大な課税がなされているという現実もある。

 その陰謀とからくりは、麻薬常習者を作り出す経済的構図と何ら変わらないという怖さがあり、酒も煙草も「健康」云々ではなく、「搾取」と言う意味で我々はその裏側を知る必要がある。

「サンキュー・スモーキング」は煙草業界のロビイストが、巧みな話術と情報操作によって煙草の正当性を世間に訴えてゆく過程を描いたブラックコメディ。

 煙草研究所のPRマンであるニック・ネイラー(アーロン・エッカート)は、ハリウッド映画を利用して煙草の好感度を上げる作戦を立て、イメージアップを図ろうとするのだが・・・。

 いっけんすると本作は「禁煙反対」、「喫煙推奨」のアンチ嫌煙家の映画のように思えるが、実は巧妙に禁煙を推奨する「裏論理」が繰り広げられているのが見事。

 それは主人公自身が「仕事のために煙草の正当性を説いている」だけであって、「喫煙はいいことだ」などと心にも思っていないという設定によって、主題となるべき主張を捻じ曲げて、裏の裏をかく主張が成されているのだ。

 メガホンをとったジェイソン・ライトマンは、80年代に「ゴーストバスターズ」(1984)や「ツインズ」(1988)などメガヒット作を連発したアイバン・ライトマン監督の息子である。本作では脚本も担当しているが、初監督作として膨大な映像情報を93分という短い時間にまとめ上げた手腕も大いに評価でき、父親譲りなアイロニカルな視点は作品に継承されている事も伺える。

 本作の軸となるディベート(討論)は日本人が苦手とするもののひとつだが、アメリカでは中学や高校で盛んに行われている。

 必ずしも自分が正しいと思う意見でなくとも、あえて賛成と反対に分かれてその正当性を相手に認めさせてゆくという手法は、長じてアメリカ大統領が某戦争を正当化させたことにおいても、世界を「騙す」ほどの「力」の源になっていることが伺える。

 ある種、ディベートは「ペテン師」の口上の養成所的な役割になっているのだが、相手をやり込めることは「すり替え」であることを本作でも指摘し、その善悪よりも「個人の判断」=「自由」と断罪して見せているのが興味深い。

 話は戻るが、酒と煙草を政府の「陰謀」とは言い過ぎと思いの方もいらっしゃるかもしれないが、煙草を独占販売していた日本専売公社は日本たばこ産業に変わり、都合が悪くなると民営化したという過去の事実がある。

 最近は糖分も敵視され「カロリーオフ」ブームになっているが、大げさではなく、百年後には「砂糖」の使用も規制される可能性だってゼロではない。

 世の中の情報はまやかしばかり。

 それは先日の「あるある」問題で、多くの日本人が何となく感じているに違いない(そういう意味ではいい機会であったのではないか)。

 何がどう悪くて、どう付き合ってゆけばよいのか、これは「知る」事によって自身の生活を向上させたり豊かにさせ、「無知」が何よりも怖いのだと本作は笑わせながら教えてくれる。

  
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2007年02月11日

世界最速のインディアン

「夢を追わない人間は野菜と同じだ」byバート・マンロー第599回

★★★★☆(劇場)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

「老いは夢を失った時に始まる」と誰かが言っていた。

「夢」の大小は人それぞれだが、「夢」は実現するだけでは終わらない。

 それは例えば、自分のお店を開店する事を「夢」とする人にとって、開店する事が全てではなく、それは「夢」の始まりでしかなく、店の経営を続けてゆく事が重要であることが示している。

 ある種「夢」を失うことは、人生の到達を終えた事を意味し、余生は「死を待つ」ことでしかないと揶揄できる。

 よって「夢」を抱く事に年齢も性別も関係ないし、それは明日死ぬとも判らない困窮の国に暮らすことと比べれば「幸せな生活」を送っている事の証であるともいえる。

「世界最速のインディアン」は、実話を元に1000cc以下の流線型バイク世界最速記録保持者であるバート・マンロー(アンソニー・ホプキンス)のあくなきスピードへの挑戦を描いた作品。

 タイトルによって内容を誤解されそうなのが難点だが、疾走するバイク場面のスピード感は絶品で、その迫力に手に汗握るだけでなく、明日を生きる希望まで与えてくれる傑作となっている。

 ちなみにインディアンとはバイクの名称。マンローは1962年に63歳で世界記録を達成して以来8年連続で世界記録に挑み、未だにその記録が破られていない事は驚異的。だがそれ以上に我々を驚かせるのは、彼のバイクがお手製であり、2輪で新幹線並みの速度を出していたという点だ。

 これらの諸事情に詳しい観客は別にして、僕のように知識のない観客にとって、映画後半になるまで本作はあえてマンローの挑戦が「無謀」であるのは「年齢」と「金欠」のせいであると思わせているフシがある。

 それは本作の舞台が、登場する人々の服装や髪型、「1920年代のバイクは40年前のもの」という台詞から明らかに「現代」ではなく50〜60年頃の「過去」であると推測できるからで、当時の世界最速記録がどのくらいかなのかを(当時既にロケットを飛ばしている事を考慮すれば自ずと推測できるが)我々が知る由も無いからだ。

 またニュージーランドに住むマンローは「年寄り」扱いされ、周囲が励ましてくれながらも、心のどこかで「無理」と思われていることを不快に思う。それは年齢的に「無理」であり、本場アメリカへ向うことが金銭的にも地理的にも「無理」であるからだ。

 観客が愕然とするのは、旅の途中でマンローを救う(素晴らしいと思わせる)技術の様々がローテクであると知らされるレース場面にある。

 それは「過去」であると感じさせた物語が、「現代」的なスピードトライアルのマシンたちの姿によって、実はそれほど遠い話ではないと感じさせるからに他ならない。

 更にマンローには「無知」から引き起こる「トラブル」が待ち受けている。遠路はるばるアメリカまでやってきて、苦労の末ボンヌヴィルスピードウェイに到着したにもかかわらず、彼は出場登録出来ていなかったのだ・・・。

「世界最速のインディアン」は逆境に負けない男の成功物語であると同時に、人間捨てたものではない、と思わせるエピソードの数々が心に残る作品でもある。

 本作はいっけんすると「いい人ばかり」によってマンローの困難を助け合う「善意」の物語のように思えるが、実際にはアメリカに渡ったマンローが目の当たりにする「悪意」の数々が示しているように、単純な善意の物語ではなく、本来「夢」を叶えるためのアメリカという国を意地悪く描いている作品であることが判る。

 実はこの「意地悪さ」には現代のアメリカの閉鎖的な傾向への暗喩が込められており、アメリカ人が積極的に善行をしているのではなく、マンローのある「行為」がそれを引き出している事を示している。

 マンローは常に見知らぬ相手に手を差し出し、握手を求め、自分の名前を名乗って挨拶をする。

 この「何でもない行為」が、劇中、国籍や性別を越えた者同士の軋轢や誤解を緩和している。

 よって本作は「夢を叶える」物語の体をとりながら、実は人間同士の「相互理解」を描こうとしている事が伺える。

 また劇中、様々な人間が登場する。

 ラテン系の中古車業者、秘薬を分けてくれるインディアン、モーテルの受付をする同性愛者、荒野で独居する女性。その誰もがマイノリティであったり世間から隔絶されていたりと、どこか世間から疎まれた存在であるように描かれている。

 しかし、初めは怪訝そうな彼らが、不思議とマンローの「挨拶」によって一気に打ち解ける様が挿入される。

 これは「隣の誰か」が「お隣さん」ではなく「見知らぬ誰か」となった現代に潜伏するテロリストの恐怖へのアンチテーゼと捉える事もできる。

 貧乏旅を続けるマンローに職務質問する警察もまた、自ら名を名乗り、手を差し出すマンローを結果的に咎める事がない。この「自分が誰であるか」という主張は、現代人のアイデンティティの喪失とは相反するものだ。

「自分は誰であるか」は「自分はここにいる」事の存在証明であり、それが「生きている証」となり「夢を叶える」事に繋がっている事は言うまでもない。

 奇しくも本作の製作には複数の国籍の人間が携わっている。

 監督・脚本のロジャー・ドナルドソンはオーストラリア出身、主演のアンソニー・ホプキンスはイギリス出身、脇役としてロジャー・ドナルドソン作品と縁のあるブルース・グリーンウッドやクリス・ローフォードといったアメリカ人俳優が出演、ニュージーランド出身のジョン・ギルバートは「ロード・オブ・ザ・リング」(2001)の編集で一躍有名になった人物、そして日本からもOLC・ライツ・エンタテインメントが資本参加。3人の日本人名が製作総指揮に名を連ねており、世界のいざこざとは無縁の映画作りが映画内の精神と符合しているのが何とも興味深い。

 共に名作である「戦艦バウンディの叛乱」(1935)と「戦艦バウンディ」(1962)をメル・ギブソン、アンソニー・ホプキンス、ローレンス・オリビエ、ダニエル・デイ=ルイス出演でリメイクした「バウンディ/愛と叛乱の航海」(1984)でハリウッドでビューを果たしたロジャー・ドナルドソンは「カクテル」(1988)というヒット作だけでなく、「追いつめられて」(1987)や「ホワイト・サンズ」(1992)、「リクルート」(2003)といった通好みでシャープなサスペンス映画で鳴らした監督だが、かつてドキュメント映画として「Offerings to the God of Speed」(1972)という作品を手掛けている。

 実はこの作品は本作の主人公であるバート・マンローを題材にしたドキュメントで、ロジャー・ドナルドソンにとって彼の伝記映画を作り、その功績を世の中に伝える事もまた彼の「夢」であったのだ。

 本作が魅力的なのは、現代社会で忘れかけている「夢」を諦めない姿と、その後も挑戦を続けたマンローの姿、そしてその姿に心動かされる人々との「つながり」が人間本来持ちえているものであるからだ。

「I think you are dead、you are dead」つまり「死んだらそれまで」と人生哲学を語るマンローの「死んだらそれまで」は「夢」だけでなく「人間関係」も指していることが分かる。

 機会は何事においても全て「一期一会」なのだという事だ。

 劇中、マンローは隣人の子供にこんなことを言う。

「危険が人生に味をつける」そして「リスクを恐れてはならない、それが生きるという事だから」と付け加える。

 誰もが同じような人生を送れる訳ではない。

 しかし他人のリスクをかけた人生をスクリーン上で見せられて、それがそれほど無謀だと思えない事は、誰にとっても同じ事であるように思えた。

  
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2007年02月10日

テキサス・チェーンソー ビギニング

ラジー賞「ワースト続編」候補は当然!第598回

★☆(劇場)

(珍しく酷評しているので、ご注意あそばせ)

 酷い映画である。

 これは「面白くない」という意味ではない。描写があまりにも酷いのだ。

 直接的な映像は避けているものの、その殺戮方法の残酷さは目に余るものがある。

 僕はこの映画を誰にも薦めない。

「アルマゲドン」(1998)や「バッド・ボーイズ」(1995)などド派手なアクション大作で人気監督となったマイケル・ベイ。

 彼は「悪魔のいけにえ」(1974)のリメイクとして「テキサス・チェーンソー」(2003)を製作し、その味をしめて以来、過去のホラー映画の名作をリメイクした作品を次々とプロデュースしている。

 しかしながら「銀のこし」という手法によって独特の色彩を放つ作品の映像は現代的なアレンジが成されている反面、残念な事に「悪魔の棲む家」(2005)や現在全米公開中の「ヒッチャー」(2007)など、その作品群はどれもオリジナルを越える事がない。

 特に「ヒッチャー」は1985年のオリジナル版が「激突」(1971)の人間版ともいうべきルトガー・ハウワーの不気味さによって、映画としての面白さがカルト的な人気を呼んだ作品だが、リメイク版は男を女に置き換えた設定があまり活かされず、荒涼とした映像美もオリジナル版には及ばなかった。

 トビー・フーパーが監督したオリジナル版「悪魔のいけにえ」は、意味不明な恐怖が映画を崇高なものへと昇華させた稀有な作品として(美術館にフィルムが所蔵されるほど)スプラッタ系のホラー映画の金字塔として映画史にその名を残している。

 本作はそのリメイク作品「テキサス・チェーンソー」の「続編」でありながらその前日談を描いた、いわゆる「プリクエール」作品。シリーズの「怪人」であるレザーフェイス誕生秘話が判明するのが見所となっている。

 しかしながら「秘話」の数々は、どうにでも後付できる出来事ばかりで、さほど物語の面白さに繋がっていないのが痛恨。過去作品への敬意は感じられるものの、作品自体は「殺戮」をいかに残酷に描くかという事にしか興味がないような印象を与えている。

 レザーフェイスのモデルとなった殺人鬼は、「サイコ」(1960)の主人公と同じである事は有名だが、実際の事件を歪めて、レザーフェイスという殺人鬼をリアルな存在として「偽ドキュメント」な設定にしているのは「テキサス・チェーンソー」の世界観を踏襲させているからなのだが、それもまた「後付け」の感が否めず、映画としての甘さが全編鼻に付く。

 主演ともいえるジョーダナ・ブリュースターは「パラサイト」(1998)や「ワイルドスピード」(2001)でヒロインを演じ、「恋のミニスカウェポン」(2004)では伝説の盗人を演じていたが、彼女の「賢さ」が物語の展開に活かしながらも「生」に通じる事が出来なかったのは、血まみれの熱演なだけに勿体ない。

 それは本作が「テキサス・チェーンソー」に続いてゆく物語であるからなのだが、そのことによって、自ずとラストも予測できてしまうのは何とも陳腐。

 それにしても救いがなさ過ぎる。

 あまりにも残酷で残忍な終幕には、嫌な気分だけが取り残されてしまうほどだ。

 残酷なホラー映画を見たい人にとっては、やりたい放題で拍手喝采かもしれないが、その他の方には絶対に勧めない。

 劇場で「久々に怖かった」と言っていた女性客が「あまりにも怖くて笑いそうになった」とも言っていたのが印象的で、残酷な場面にどんどん無感覚になってしまう人間(自分自身も含めて)にある種の「恐怖」を感じてしまった。

 人を殺すことしか考えず、人を殺すことしか能がない映画なんて、嫌いなら見ないに越したことはない、と断言したい。

  
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2007年02月04日

ユメ十夜

夏目漱石の旧千円札を持っていくと千円で鑑賞出来る第597回

★★★☆(劇場)

【総評】

 夏目漱石の文学は、一般的にその知名度から「わかりやすい」と語られがちだが、実は意外とそうでもない。

「吾輩は猫である」が「猫視点」というトリッキーさを持っているだけでなく、「坊っちゃん」や「三四郎」、「草枕」、「虞美人草」などに共通する「美女」というモチーフが導く謎解きのような恋愛劇、友人を裏切る愛を描いた「それから」や「こころ」のような不道徳さなど、実際には「わかりやすさ」よりも「考えさせる」ことの方が多いように思える。

 夏目漱石作品が「名作」として読み継がれているのは「わかりやすい」からではなく、そこに描かれる人間の普遍的な心情や感情が、今なお我々の琴線に触れるからこそであると理解できる。

 気になって調べてみたら、夏目漱石の映画化作品は1985年に森田芳光監督が松田優作主演で作った「それから」以来22年ぶりなのだそうだ。

 1970年代には新藤兼人が「心」(1973)、市川崑が「吾輩は猫である」(1975)、前田陽一が「坊ちゃん」(1977)と巨匠たちによって盛んに製作されていたのだが、それ以前を調べてみても同じような作品ばかりが何度も映画化されて、「門」や「草枕」といった作品が実は映画化されていない。

 その点においても、夏目漱石作品は解釈が難しく、映画化(映像化)にはあまり向いていない「わかりやすい」作品ではない事が伺える。

 そんな夏目漱石作品の中でも異色なのが「夢十夜」という十話からなる短編である。

 文庫本で33ページ(新潮文庫版参照)しかないこの短編は、自身の「夢」を題材にした不条理なエピソードばかりなのだが、同時にこれを「夢分析」という立場で読み解くと、当時の夏目漱石の潜在意識下にある欲望や願望などが垣間見る事ができて非常に興味深い。

「ユメ十夜」は、現在活躍する新旧の映画監督十人が十のエピソードを十分の短編作品として仕上げたオムニバス映画。

 原作そのままの世界を描いたものから、独自の解釈によって全くオリジナルな作品に仕上げた作品まで、それぞれの映像作家たちのセンスも感じられるのが興味深く、「同じ製作費」という条件下で製作された結果もそれぞれでまた面白い。

 以下、各エピソードをレビュー。

(エピソードによっては核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

■「第一夜」★★☆

 筆の進まない作家の百痢幣照スズキ)は、なぜか時間が遡っているような感覚に陥る・・・。

監督:実相時昭雄 出演:小泉今日子

 時間の経過は人それぞれに平等であるのに、その経過が自身の中で相対的でないと感じる事は誰しもあるに違いない。

 秒や分や時間といった経過ではなく、日や月や年といった経過があっという間であると感じても、その過ぎ去った時間の長さは秒単位も年単位も思い出の中で相対的でないという奇妙さを持つ。

 本作が持つ耽美的な照明による映像美には実相時昭雄らしさが炸裂。劇空間の中の劇空間を映像上で見せる事で、夢という虚構と劇空間の虚構を同時に表現しているのが「デタラメ」ではなく、「不条理さ」と感じさせているのが見事。

 本作の脚本は久世光彦が担当しており(彼の遺作となった)、奇しくも監督・脚本ともども現在故人となってしまっているのが感慨的。


■「第二夜」★★

 和尚に挑発された侍(うじきつよし)は、懸命に悟りを開こうと試みるが・・・。

監督:市川崑 出演:うじきつよし

 十作品の中では一番(限りなく)原作に忠実で、ラストの一言に製作側の感想が集約されているといえ、モノクロ基調でサイレント映画風の趣向が凝らされた本作は、市川崑作品に流れる実験性が感じられる。

 しかし残念な事に、他のエピソードがハチャメチャであるために丁寧な作品作りがありきたりな印象を与えてしまっているのが痛恨。

 冒頭のタイトルデザインからセットに至るまで、市川崑らしさは全編に漲っている。


■「第三夜」★★★

 6人目の子供を身ごもる妻(香椎由宇)は、漱石(堀部圭亮)に奇妙な話を始める・・・。

監督:清水崇 出演:堀部圭亮

 目の潰れた自分の子供を背負うという不気味な物語を原作忠実に描きながらも、ホラーに変換した清水崇の視点が素晴らしく、また彼自身が「呪怨」シリーズ等で牽引してきたJホラーの精神が活かされているのも見事な1篇。

 原作と漱石の史実を織り交ぜながら、我が子が生まれてくる不安を「この世にまだ生を見ない」=「この世のものでない」という奇談に仕立て、自分殺しという原作のオチを二重層にしているのが妙。

 また若くして嫁いだ漱石の妻を想起させる若き香椎由宇の母性も秀逸。


■「第四夜」★★★

 講演を依頼され田舎町へやってきた漱石(山本耕史)は、なぜか見覚えのある風景に出くわす・・・。

監督:清水厚 出演:山本耕史

「手ぬぐいが蛇になる」という原作のエピソードだけを抽出して、漱石の幼少の記憶と失われた時間を夢物語に転換させた脚本が興味深く、ノスタルジーを喚起させる作品になっている。

 原作における爺さんの話を少女の話に変えて、記憶の底に埋もれる終幕を哀愁的に描き、映画前半にも僅かに見える「しるし」が、記憶を「刻む」事に比喩させているのだが、同時に今の自分を見失わない事に例えているのも一考。


■「第五夜」★★★☆

 不気味な電話で目覚めた真砂子(市川実日子)は部屋に見知らぬ子供と男がいることに気付くが、それが自分の家族であると直感する・・・。

監督:豊島圭介 出演:市川実日子

 夢と現実、現在と過去。

 これらのエピソードの断片を交錯させ、夢における理由のつかない不条理さを映像化することで十夜の中で一番不気味作品となっている。

 また原作にある「馬に乗る女」と言う記述だけを抽出して、全く別の現代劇に仕上げたオリジナリティも随一。ループ的な展開に伏線的な説明と解読不能な不穏さを同居させ、そこに異形を登場させる事で「悪夢」を具現化させることに成功している。

 これを「夢物語」と捉えるか人間の「二面性」と捉えるかで解釈は異なるが、複数の世界を行き来する主人公を演じた市川実日子の演技が出色で、チープな世界観は製作費の所以とご愛嬌。


■「第六夜」★★★★

 運慶(TOZAWA)が仁王像を彫ると聞きつけた見物人が集まってくるが、運慶は突然ダンスを始める・・・。

監督:松尾スズキ 出演:阿部サダヲ

 いっけんすると原作に忠実なのだが、その表現はまさに松尾スズキらしい言葉遊びとハイテンションに溢れ、独特な世界観を構築しているのが見事。

 本作は木像をフィギュアに、運慶をアキバ系アイドルに例えれば、それに群がるオタクたちの姿を描いたとものだと解釈でき、彼らが発する時代劇には不似合いな「萌え」や「漏れ」、「キボンヌ」等の「ネット言葉」の所以が何となく理解できるかもしれない。

 何よりも運慶を演じたTOZAWAの見事なダンスパフォーマンスが見所。

 それまでの展開と全く関係ない唐突なラストに「夢」たる所以を見出すおかしさが、本作の最大の魅了やも。


■「第七夜」★★☆

 孤独の旅を続ける男は、船の上で可憐な少女と出会う・・・。

監督:天野喜孝 河原真明

 最近はアニメーターよりも原画販売で名前を見ることが多くなった天野喜孝が河原真明と組んで製作した、エピソード中唯一の全編英語台詞による3DCGアニメ作品。

 原作の船に乗る夢を幻想的なファンタジー世界として描き、その映像の美しさは、まるで「動く色彩画」のよう。

 しかしながら物語の語り口が甘く、映像を見せる事に特化し過ぎて作品の弱さに繋がってしまっているのが痛恨。


■「第八夜」★★☆

 田んぼで遊んでいる子供たちは、ちくわで巨大なチューブ状の生物を捕まえるのだが・・・。

監督:山下敦弘 出演:藤岡弘、

 原作の中で一番不可解な物語を不可解に仕上げた1作で、こちらは殆ど原作の原形を留めていない。

「リンダ リンダ リンダ」(2005)や「どんてん生活」(1999)の山下敦弘監督作品に流れる特有の「気まずさ」は健在で、「ユメ十夜」という作品自体に対する自虐的な台詞や爆笑には至らないナンセンスなユーモアも随所に挿入されている。

 外と内、想像と現実、幻と実態という二層構造を二段ベッドに例え、そこに横たわり「現状」を受け入れるのだが、現実に想像が襲い掛かる不可解さを、湧き上がらない「創作」に復讐させているのが漱石自身の苦悩と呼応して妙。


■「第九夜」★★★

 出征した父(ピエール瀧)のため、母(緒川たまき)はお百度参りを始めるのだが・・・。

監督:西川美和 出演:緒川たまき

「ゆれる」(2006)で今をときめく西川美和が監督・脚本を担当した本作は、彼女が得意とする人間の心の闇を「夜の物語」として、「明かり」の中にも「暗部」を訴求させているのが見事。

 物語の展開を原作に従いながらも時代設定やオチを微妙に修正して、子供の不安を母の不安に変貌させ「女の物語」に仕上げたのは天晴れ。

 女性らしい視点で僅かに覗く「かかと」によって「famale<フィーメール>」(2005)の1篇「女神のかかと」に通じる官能さを引き出しているのが素晴らしく、緒川たまきの艶っぽい演技が何とも魅力的。


■「第十夜」★★★★

 美女(本上まなみ)と出会い、大怪我をして町に帰ってきた庄太郎(松山ケンイチ)は、その顛末を語り始める・・・。

監督:山口雄大 出演:松山ケンイチ

 全エピソード中、原作に忠実でありながら破壊的でオリジナリティ溢れる稀有な作品。

 作品を包む「デタラメ」さは、これまでの山口雄大監督作品に通じるもので、原案の漫☆画太郎とは「地獄甲子園」(2003)から馴染み深い仲。本上まなみや安田大サーカス、更には平賀源内を演じた石坂浩二など意外性と妥当性が同居したキャスティングも魅力的で、主人公を演じた松山ケンイチも、これまでの数ある出演作品の中で一番光っている。

 時空を越えた終幕はやり過ぎの感も否めないが、夏目漱石原作という事を無視すれば掛け値なしに一番面白い作品に仕上がっているといえる。


【結果】

 ☆金メダル:なぜか石原良純
 ☆銀メダル:本上まなみのブタっぷり
 ☆銅メダル:オープニングとエンディングを飾るかわゆい戸田恵梨香

  
Posted by matusan at 01:47Comments(0)TrackBack(2)