2009年09月11日

女の子ものがたり

★は客観的評価であって、個人的には高評価です!第614回

★★★★(劇場)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

「人はなぜ幸せになろうとしないのか?」

これは、黒澤明監督の言葉である。

その疑問と願いは、クロサワ映画の中に欠かせないメッセージとして練り込まれていた。

誰もが「幸せになりたい」と願いながら、世の中では諍いが絶えない。

「戦争は人間の歴史だ」と宣い、実際、永久な世界的平和など幻想だと殆どの人が自覚している。

それでも個人個人は「幸せでありたい」と願い、願わなくとも「幸せにこした事ない」と心のどこかで思っている。

今年亡くなった忌野清志郎も「人間は馬鹿だ」と前置きして、

「僕らが子供の頃から平和を訴えているけれど、未だ世界のどこかで戦争をやっている」

と世界の混沌を嘆いていた。

話がややこしくなるので、とりあえず世界平和だとか壮大な理想は置いておくとして、単純な話、例えば自分の友達が悪い男(または女)と付合っているのを知って「やめとけばいいのに」と思った類いの事は誰しもあるだろう。

しかし当の本人にとっては「幸せ」である事には違いなく「余計なお世話」とあしらわれるのが世の常。

「駄目だ駄目だ」と言われれば言われる程に天の邪鬼が顔を出し、それを「幸せ」とどんどん思い込むもの。

つまり、どんな状況であっても、結局「幸せ」なのである。

多くの人は「道を外す」というリスク回避を行うものだが、それが本当にいいのか悪いのかはまた別の話。

誰にだって幸せになれる権利はあるけれど、その「ものさし」は人それぞれなのだから。


「女の子ものがたり」も、そんなお話なのかな?と思っていたら、そうではなかった。


劇中、暴力を振るう彼氏に対して、きみこ(波瑠)は「良くない相手と解っているけれど」というような台詞を吐く場面がある。

「わかっているけどやめられない」のは植木等だけではない。

世の多くの人が「幸せになりたい」と願いながら果たせていないだけなのだ。

その「果たせない」事は、人生における目標や夢、にどこか似ている。

例えば、他人からすれば理解を越えた努力を重ねるスポーツ選手の日常は誰もが真似出来るものではない。

どちらかと言えば辛いもののように思えるが、本人にとってその辛さは「幸せ」の為であることは言う由もがな。


「女の子ものがたり」は、いっけん若き日々の感傷に浸る作品のように見える。

しかし、映画後半に繰り広げられる大げんかを挟んで、本作は「人それぞれ」である事の重要さと覚悟を観客に投げかけ、若き日々ではなく「今」を描こうとしている事に気付かされる。

それがこの作品を強いものにしているのだ。


天候に恵まれなかったせいで残念なショットがいくつかあるが、その分(恐らくあえて)色調にこだわった衣装の数々に登場人物の心情を内包させ、見事なサブリミナル効果を発揮しているのが見事(説明すると長くなるので割愛するが、主要登場人物それぞれの衣装に注目)。

3世代に別れてそれぞれの役を演じた少女たちの成長に違和感を持たせない細やかな演技(外見だけでなく、例えば同じ癖のようなものも含んだ役作り)は、即ち彼女たちへの評価へと繋がる事請け合いで、成長しながら友情を深める過程にも違和感がないのがいい。

あまりにも「スタンド・バイ・ミー」(1986)を意識しすぎた台詞の数々に気恥ずかしさを感じない訳でもないが、ラストで言及されるように、大人になると「ともだち」が出来にくくなるのは、残念ながら、本当である。


本作の勝因は、原作に無かった大人の「わたし」が過去のエピソードを繋ぐ「鎹(かすがい)」の役目を担っている点にある。

過去を描くノスタルジーだけでなく、時間を経た現在だから思える過去への反省や後悔は誰にでもある共通の想いだ。

それは誰もが抱えるものだといえる。


映画終盤はただ、ただ、泣けてくる。


「おんなのこ」の話でありながら、「おとこのこ」に置き換えても充分成立する人間の機微が、我々の琴線を揺らしまくるのだ。


今、高校生や大学生の人たちは、10年後くらいにこの映画を見て欲しいと思う。

今、社会人として世に出た人たちは、人生に悩んだり、立ち止まった時にこの映画を見て欲しいと思う。

今、30代後半以降の人たちは、今、この映画を見て欲しい。


きっと後悔した事や反省した事、昔は気付かなかったけれど今なら理解出来る事が走馬灯のように駆け巡り、取り戻せない何かに哀しみを感じながらも、明日生きてゆく覚悟を決意出来るに違いない。

僕にとって主人公「なっちゃん」が僕自身の分身であるかのように感じた如く、きっとこの映画を見た人にとって「なっちゃん」が自分自身だったり、遠くで頑張っている友人だったりするはずなのだ。


人生に正解は無いし、幸せの基準はひとそれぞれ。

アニメ映画「時をかける少女」(2006)でストーンズの曲を引き合いに出して、「Time Waits For No One」と訴えていたように、この映画でもまた、今を生きるしかない、と多くの人を鼓舞させてくれるに違いない。
  

Posted by matusan at 02:21Comments(6)TrackBack(0)

2009年09月10日

サブウェイ123 激突

SONYのPCが小道具なのは製作親会社の絡み第613回

★★★(劇場)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)


「地下鉄の方が断然速い」

この作品で何度か登場する台詞である。

ニューヨークといえば、地下鉄、というくらい街の風景や人々の生活に密着している印象があるが、実のところ広大なアメリカ国内で鉄道網が充実している場所は少ない。

実際、あれだけ多くの人間を運びながら、ニューヨークの地下鉄乗客数は世界第3位でしかない(我々の住む日本は東京が世界第1位だったりする)。

東京の街に暮らすと、(人口比からだけでなく)交通網として「鉄道」の利便さを実感せざるを得ない。

街中を移動するなら「車」よりも「鉄道」の方が確実なのは、地方都市に比べて東京人の多くが携帯電話で鉄道の乗り換え情報を検索している事からも伺える。

網の目のように張り巡らされた鉄道網を利用すれば「A地点」から「B地点」までの移動を様々な経路で行くことが出来、たとえどこかの路線で事故が起こって鉄道が止まっても別のルートで「B地点」まで移動出来るからだ。

これは第二の都市圏といわれる関西においてでも、なかなか成せない事である。

渋滞とは無縁で安価、更に移動に要する時間に見当がつく事は、何事においてもスピード化めまぐるしい現代社会において、鉄道は欠かせない足であり、都市圏の若者が車を買わない理由を納得させるに充分(もちろん経済的な様々な要素があるけれどここでは長くなるので、またの機会に)と思わせる。

まさに「地下鉄の方が断然速い」=「鉄道は便利だ」と解釈して問題ないだろう。


「サブウェイ123 激突」は、地下鉄を乗っ取り、身代金を要求する犯人とたまたま司令室にいた地下鉄職員との頭脳戦を描いた作品。


本作が一般市民にとっての地下鉄での恐怖を描きながら、同時に地下鉄の利便性を訴えている事で、ステレオタイプな印象を与えがちなハリウッド映画の「恐怖」を「緩和」しているのが出色。

その意図を脚本から読み取り、撮影に協力を惜しまなかったニューヨーク地下鉄の英断も見事であったといえる。

つまり本作を見たところで「恐くて地下鉄には乗りたくない」などとは思わせないのである。

これまでのパニック映画、例えば「エアポート」シリーズ(1970〜)の類いを見れば飛行機に乗る事を躊躇らわせるだろうし、「ジョーズ」シリーズ(1975〜)であれば、海へ出かけるのを躊躇わせる力を作品自体が持っている。

そういう意味で、本作が映画として欄客へ「恐怖」を植え付けられなかったのが作品自体の「弱さ」と解釈もできるが、同時に、単純にニューヨークを恐怖に陥れるというパニック映画とは一線を画した街に対する「愛」も感じさせるのである(ラストに登場する、ある野球球団に関する会話がその象徴ではないか!)。

多くの映画ファンが知っているように、本作は「リメイク」作品である。

つまり、映画史上に残る、見事な幕切れを持つ名作「サブウェイ・パニック」(1974)と比較される運命にある訳だ。

僕自身がそうであったように、恐らく、オリジナル版を知る映画ファンにとってこの映画は「凡作」であると評価するに違いない。

だからこそ、僕は「サブウェイ・パニック」を見た事がない観客の反応が知りたいと願う。

それはリメイクとしてオリジナル版には負けているけれど、演出面や台詞の応酬、演技合戦等、本作が映画としてそれほど悪い作品だとは思えないからだ。

脚本家としてのみならず「ペイバック」(1999)や「ROCK YOU! [ロック・ユー]」(2001)で監督としての手腕も発揮しているブライアン・ヘルゲランドの脚本は流石であるし、近年、個人的にはハズレ作品が無く、兄リドリーよりも面白い作品の多くなったトニー・スコットのシャープな演出は本作でも冴えている。

犯人の極悪さの対比として「負」の要素を盛り込んだデンゼル・ワシントンの役柄は秀逸で、そのことがまた観客の倫理観を微妙に麻痺させているのだ。

劇中の「日本」の役割や「ウォルター」という名前、デンゼル・ワシントンの服装など、リメイクとしてオリジナル版へのオマージュが要所要所に見え隠れするのも映画ファンの心をくすぐるが、無駄に多くの命が失われる点において、頭脳戦を装いつつもやはり「芸」がないと思わせてしまうのが痛恨。

魅力的な密室劇に仕立てられる設定でありながら脇役の描き方が雑であるとか、ウェブ映像のからくりの使い方が放りっぱなしだとか、穴がありまくりの展開ではあるが、全ては「なぜヘリコプターを使わないのか?」という(間抜けな)台詞にも集約されている(事故を起こすのは何なのか?)。


本作は鉄道におけるパニックを描きながら、結局は鉄道の利便性と安全性を説き、とどのつまり、大いにニューヨーク地下鉄の広告塔となっているのである。



※こちらもご参照下さい → 過去記事「サブウェイ・パニック」  
Posted by matusan at 00:38Comments(0)TrackBack(2)