第288回
★★★(劇場)
多重人格は「解離性同一性障害」と呼ばれる。
これは許容範囲を超える「人格・性格」の偏りによって周囲や本人が悩む「人格障害」とは別のものだとされている。
判りやすくいうと「ちょっとアイツおかしくね?」という極端な「頑固者」や「自信家」、「ネガティブな性格」や「キレやすい性格」は「人格障害」であって、「多重人格」はそこに該当しないということだ。
「解離」という言葉が示すように、「多重人格」の定理は、同一人物の記憶や感情などの「統一性」が破綻した状態のことにある。そして2人以上の「人格」が交互に入れ替わり、その人格のコントロールが出来ず、それぞれの人格はそれぞれの行動を記憶していないとされる。
「多重人格」になるプロセスは、「虐待」や「事故」などによって受けた心の傷(しかも自分自身では精神的に抱えきれないほどのもの)を麻痺させるために、別の人格が生まれるのではないかと考えられている。
しかし元は「ひとつの人格」であったので、その「根源」とされる「人格」から枝が伸びて様々な人格がぶら下がっているという説もある。そのことから「多重人格」のなかには、それぞれの人格がそれぞれの記憶を共有している場合もあるのだ。
この「多重人格」の治療法は、一般的に人格の「統合」にある。
つまり、「多重人格」である個人の人格をひとつずつ「消滅」させることによって、「根源」とされる人格に戻してゆくのだ。
「迷宮の女」は連続殺人事件の犯人として逮捕されたクロード(シルヴィ・テスチュ)が多重人格者であったため、心理カウンセラーであるブレナック(ランベール・ウィルソン)が診療を始めることとなるところから物語が始まる。
ここでもクロードの持ついくつもの「人格」をまずは見極めるところから始まる。そしてその人格を支配する「ミノトール」が事件を引き起こしたことを突き止めるのだ。
この「ミノトール」とは、ギリシア神話に出てくる怪物「ミノタウロス」のことだ。王の妻と交わった牡牛との間に生まれた牛頭人身の「ミノタウロス」は、迷路状になった牢獄に幽閉される。しかし王は人民に7人の若い男女を餌食として「ミノタウロス」に貢ぐことを命令し、その恐怖におびえた人民を見かねた勇者が「ミノタウロス」を退治するという物語だ。
「迷宮の女」にはこの物語が「謎解き」において重要な意味を持っている。とくにミノタウロスに貢がせる「7」という数字は劇中様々なキーワードとして現れる。
このような要素を物語の要所に張り巡らせ、「迷宮の女」は、真犯人逮捕の過程(過去)とカウンセリング(現在)の物語が同時進行することによって、終盤クロードの意外な実像が浮かび上がることになるのだ。
しかし、このような「多重人格」ものは出尽くした感が否めなく、本作における「真実」も目新しさを感じさせない。恐らく多くの観客は、前半数十分でそのからくりに気付くだろう。
それでもこの作品が優れているのは、「真実」における裏付けのための映像作りが成されている点にある。つまり犯人である「クロードの真実」を知った上で鑑賞したとしても、辻褄を合わせるための丁寧な演出が堪能できる仕上がりになっているのだ。
その演出を支えるのはクロードを演じたシルヴィー・テスチュの好演にある。入れ替わる人格を声色や表情だけでなく全身で感じさせる演技はフランスでの人気が計り知れる。日本でのフランス映画公開数が減っている中で「ビヨンド・サイレンス」(1996)や「点子ちゃんとアントン」(2000)など多くの出演作品が公開されていることからも出演作品の選択眼にも長けていることを証明している。
残念なのは彼女が日本で撮影したアラン・コルノー監督作品「畏れ慄いて」(2003)がいまだ一般公開されていない点だ。彼女の日本語台詞の上手さが話題になっていただけにDVD化が待たれる(もしくは劇場公開)。
また最近はハリウッドで悪役として活躍するランベール・ウィルソンや、「TAXI」シリーズのエミリアン役でお馴染みのフレデリック・ディーファンタールがサイコメトラーとして異色を放っているのも見所。
「迷宮の女」は不気味な谷間の映像がタイトルバックとして登場する。その谷間をカメラは縦横に動き回り、徐々にカメラが引いてゆくとそれが「指紋」であったことが判る映像になっている。
これは冒頭の台詞にもあるように「見たものの印象は、角度を変えてみると異なる」ということを表しているにほかならない。
この映画もまた、「全体」を通してみると、場面ごとの「部分」は「全体」をごまかすためのものだということがわかるだろう。
我々は日常生活において「部分」によって「全体」が把握出来ず「騙される」ことが多い。しかし、「部分」に目を向けず、そこにある「根源」を見出せばその先にある「どんでん返し」が映画の展開の如く読み取れるはずなのだ。
世の中は「騙す」トリックでいっぱい。
サスペンス映画も「騙す」トリックでいっぱい。
実は同じ構造なのだと気付けば、世の中「騙されずに」生きてゆけるのかもしれない。