2006年05月10日

16歳の合衆国

日本公開まで2年もかかった本作。公開されただけでも御の字?第448回

「16歳の合衆国」
出演:ライアン・ゴズリング ジェナ・マローン
監督:マシュー・ライアン・ホーグ
(2002年作品・アメリカ)

★★★☆(TV)

 知的障害を持つ少年を殺害したリーランド(ライアン・ゴズリング)は矯正施設へ収容されるが、彼の殺した少年は恋人(ジェナ・マローン)の弟だった・・・。

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

 人生は記憶の断片の集合体だが、決して記憶の総和とは一致しない。

 例えば某CMのキャッチコピーのごとく、「一昨日の夕飯のメニューが思い出せない」人は少なくないだろう。例え一昨日のことを覚えていたとしても、1ヶ月前とか1年前のメニューを思い出せる人はそういない。

 このことからも「記憶」は常に不必要な情報の上に重要な情報を上書きして「許容量」を維持し続けている。

 つまり相反することだが、「忘却」は人の常ともいえる。

「16歳の合衆国」の主人公は殺人を犯すが、その理由は全く判らない。本人も劇中「そのときの記憶がない」と語り、殺人現場が映像化されることもない。

 物語は、主人公が矯正施設で教官(ドン・チードル)のカウンセリングによって、その真相に辿り着こうとするが、それも果たせぬまま物語はあっけなく終結する。

 だが観客にとって、主人公の「告白」の「断片」から真相の外郭は何となく見えてくるに違いない。

 それは記憶の断片が「人生」を形成しているメカニズムと似ていることに気付く。

 誰もがそれぞれの「人生」を持っているように、人生における「記憶」の取捨選択もまた人それぞれ。また「人生」における「意義」も人それぞれの価値観によりけりであることも伺える。

 本作において、事件の「答え」は提示されない。

 この映画自体、記憶の集合体のように主人公の逮捕から更生へと向かう直線を中心としながら、過去のエピソードの断片がそこにぶら下がり、時間軸をバラバラした構成になっている。

 それはまるで「記憶」を辿ることで事実を発見してゆくことが「無意味」であるかのようにさえ感じさせる。

 過去の事実は「事実」であって、「記憶」による解明には意味がないと言いたげなのだ。

 それはまた「少年犯罪」の解明のそれも同様とも思わせるフシがある。

 いっけんすると「16歳の合衆国」は、「16歳」という少年犯罪を描いた作品のように思えるが、実は「アメリカ」という国の病を「16歳の少年」や「その周囲の人間」に当てはめていることがわかる。

 本作の登場人物は老若男女を問わず、誰もが「悩み」を抱えている。

 それは「殺人」、「麻薬」、「家庭崩壊」などアメリカを「代表」する問題ばかりだ。そして誰もがその「明確な回答」を持ちえていない。

 深く悩むことなく短絡な行動に走る登場人物たちの「愚かさ」は、そのまま「アメリカ」という国の「愚行」と符合する。

 例えば「中東派兵」への責任を取らないどころか「ごまかそう」とし、過去の発言を曖昧にさせる最近のホワイトハウス周辺の人々を見れば、この「視点」には先見の明を感じる。

 悲観論者の巣窟のような本作。

 世界には「悲しみ」ばかり、といわんばかりに「優しさ」でさえも「悲しみ」をカバーできないでいる。

 それは「恋をすれば孤独や絶望がわかる」という台詞からも感じ取れるだろう。

 つまり「恋」は楽しいものである反面、いつか「終わり」がくるものだという側面を持ち合わせる。楽しいときは辛いことなど考えないものだが、ここでは「楽しいこと」=「恋」によって自分が一人でいることの辛さ、誰かに見放される辛さを理解できるのだという「負の理論」を打ち立てているのだ。

「きみに読む物語」(2004)や「完全犯罪クラブ」(2002)のライアン・ゴズリングが繊細な優しさを体現して、殺人者らしからぬ若者を好演しているだけでなく、子役から脱皮しようとしているジェナ・マローンやクリス・クライン、ミシェル・ウィリアムズなど若手の演技が光る本作。

 脚本にいち早く注目し、プロデューサーを兼任しているケビン・スペイシーの不敵な父親ぶりや、出番は少ないもののレナ・オリンや「ツイン・ピークス」(1989〜)や「トゥー・ムーン」(2988)で一時代を築いたシェリリン・フェンなどの脇役にも注目できる。

 そのシェリリン・フェン扮する人妻は終盤こんな言葉を主人公に告げる。

「人生は断片の総和よりも大きいのよ」と。

 つまり人生には様々なことが起こりえる、それは人の記憶や想像の粋を超えたものだということだ。

 これは「過去にこだわるな」ともとれるし、「過去から学べる」とも捉えることができる。

 どちらにせよ、困難に直面したときに「今」を見つめないと「過去」であれ「未来」であれ、「現実」に押し潰されてしまうということだ。

 主人公は殺人の動機を「悪は善を確認するための行為かもしれない」と考える。

 善であるが故の「悪行」が更なる「悲劇」=「復讐」を生むことを示唆したラストは、どんな「意義」であれ、悪は悪でしかないことを提言している。

 主人公の「思考」はとどのつまり「言い訳」でしかなく、「ダメなものはダメ」という結論に達する。

 その「若き過ち」を踏襲する「アメリカ」という国の功罪がこの映画のテーマであるからこそ、原題が「The United Sates Of Leland」=「リーランド合衆国」という「皮肉」であることが感じ取れるのだ。



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