2007年02月12日

サンキュー・スモーキング

ありがとふ第600回

 まつさんです。

 本日で「まつさんの映画伝道師」は600回、そして2周年を迎えました。

 更新が不定期で滞りがちにもかかわらず、毎日ご来店頂いている皆様に感謝いたしております。

 昨年の入院以来、劇場鑑賞した映画の記事がなかなかアップ出来ていない状況にあり、ついにその数が50本を超えてしまいました。そこで2周年を機に、これからは少し短めのレビューもアップしてゆくことでブログを継続してゆきたいと思っておりますのでご理解いただければ幸いです。

 これからも「まつさんの映画伝道師」を宜しくお願いいたします。

と言うわけで今回は感謝の意を込めつつ「感謝」に関連して短めのレビューをお送りします。


変な日本趣味がイケてるロブ・ロウ「サンキュー・スモーキング」

★★★★(劇場)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

「分煙」が進んで、喫煙者は肩身の狭い思いをしているに違いない。

 かつて喫煙者であった僕はその気持ちを少なくとも理解できているつもりなのだが、世の中の流れなのだから仕方ない。

 個人的見解で暴言を吐くと、酒も煙草も人間の「弱さ」の象徴みたいなところがあって、「依存」と言う言葉が常に付きまとうものである。その「依存」という要素を巧妙に見抜いて、酒や煙草には莫大な課税がなされているという現実もある。

 その陰謀とからくりは、麻薬常習者を作り出す経済的構図と何ら変わらないという怖さがあり、酒も煙草も「健康」云々ではなく、「搾取」と言う意味で我々はその裏側を知る必要がある。

「サンキュー・スモーキング」は煙草業界のロビイストが、巧みな話術と情報操作によって煙草の正当性を世間に訴えてゆく過程を描いたブラックコメディ。

 煙草研究所のPRマンであるニック・ネイラー(アーロン・エッカート)は、ハリウッド映画を利用して煙草の好感度を上げる作戦を立て、イメージアップを図ろうとするのだが・・・。

 いっけんすると本作は「禁煙反対」、「喫煙推奨」のアンチ嫌煙家の映画のように思えるが、実は巧妙に禁煙を推奨する「裏論理」が繰り広げられているのが見事。

 それは主人公自身が「仕事のために煙草の正当性を説いている」だけであって、「喫煙はいいことだ」などと心にも思っていないという設定によって、主題となるべき主張を捻じ曲げて、裏の裏をかく主張が成されているのだ。

 メガホンをとったジェイソン・ライトマンは、80年代に「ゴーストバスターズ」(1984)や「ツインズ」(1988)などメガヒット作を連発したアイバン・ライトマン監督の息子である。本作では脚本も担当しているが、初監督作として膨大な映像情報を93分という短い時間にまとめ上げた手腕も大いに評価でき、父親譲りなアイロニカルな視点は作品に継承されている事も伺える。

 本作の軸となるディベート(討論)は日本人が苦手とするもののひとつだが、アメリカでは中学や高校で盛んに行われている。

 必ずしも自分が正しいと思う意見でなくとも、あえて賛成と反対に分かれてその正当性を相手に認めさせてゆくという手法は、長じてアメリカ大統領が某戦争を正当化させたことにおいても、世界を「騙す」ほどの「力」の源になっていることが伺える。

 ある種、ディベートは「ペテン師」の口上の養成所的な役割になっているのだが、相手をやり込めることは「すり替え」であることを本作でも指摘し、その善悪よりも「個人の判断」=「自由」と断罪して見せているのが興味深い。

 話は戻るが、酒と煙草を政府の「陰謀」とは言い過ぎと思いの方もいらっしゃるかもしれないが、煙草を独占販売していた日本専売公社は日本たばこ産業に変わり、都合が悪くなると民営化したという過去の事実がある。

 最近は糖分も敵視され「カロリーオフ」ブームになっているが、大げさではなく、百年後には「砂糖」の使用も規制される可能性だってゼロではない。

 世の中の情報はまやかしばかり。

 それは先日の「あるある」問題で、多くの日本人が何となく感じているに違いない(そういう意味ではいい機会であったのではないか)。

 何がどう悪くて、どう付き合ってゆけばよいのか、これは「知る」事によって自身の生活を向上させたり豊かにさせ、「無知」が何よりも怖いのだと本作は笑わせながら教えてくれる。

  

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2007年02月10日

テキサス・チェーンソー ビギニング

ラジー賞「ワースト続編」候補は当然!第598回

★☆(劇場)

(珍しく酷評しているので、ご注意あそばせ)

 酷い映画である。

 これは「面白くない」という意味ではない。描写があまりにも酷いのだ。

 直接的な映像は避けているものの、その殺戮方法の残酷さは目に余るものがある。

 僕はこの映画を誰にも薦めない。

「アルマゲドン」(1998)や「バッド・ボーイズ」(1995)などド派手なアクション大作で人気監督となったマイケル・ベイ。

 彼は「悪魔のいけにえ」(1974)のリメイクとして「テキサス・チェーンソー」(2003)を製作し、その味をしめて以来、過去のホラー映画の名作をリメイクした作品を次々とプロデュースしている。

 しかしながら「銀のこし」という手法によって独特の色彩を放つ作品の映像は現代的なアレンジが成されている反面、残念な事に「悪魔の棲む家」(2005)や現在全米公開中の「ヒッチャー」(2007)など、その作品群はどれもオリジナルを越える事がない。

 特に「ヒッチャー」は1985年のオリジナル版が「激突」(1971)の人間版ともいうべきルトガー・ハウワーの不気味さによって、映画としての面白さがカルト的な人気を呼んだ作品だが、リメイク版は男を女に置き換えた設定があまり活かされず、荒涼とした映像美もオリジナル版には及ばなかった。

 トビー・フーパーが監督したオリジナル版「悪魔のいけにえ」は、意味不明な恐怖が映画を崇高なものへと昇華させた稀有な作品として(美術館にフィルムが所蔵されるほど)スプラッタ系のホラー映画の金字塔として映画史にその名を残している。

 本作はそのリメイク作品「テキサス・チェーンソー」の「続編」でありながらその前日談を描いた、いわゆる「プリクエール」作品。シリーズの「怪人」であるレザーフェイス誕生秘話が判明するのが見所となっている。

 しかしながら「秘話」の数々は、どうにでも後付できる出来事ばかりで、さほど物語の面白さに繋がっていないのが痛恨。過去作品への敬意は感じられるものの、作品自体は「殺戮」をいかに残酷に描くかという事にしか興味がないような印象を与えている。

 レザーフェイスのモデルとなった殺人鬼は、「サイコ」(1960)の主人公と同じである事は有名だが、実際の事件を歪めて、レザーフェイスという殺人鬼をリアルな存在として「偽ドキュメント」な設定にしているのは「テキサス・チェーンソー」の世界観を踏襲させているからなのだが、それもまた「後付け」の感が否めず、映画としての甘さが全編鼻に付く。

 主演ともいえるジョーダナ・ブリュースターは「パラサイト」(1998)や「ワイルドスピード」(2001)でヒロインを演じ、「恋のミニスカウェポン」(2004)では伝説の盗人を演じていたが、彼女の「賢さ」が物語の展開に活かしながらも「生」に通じる事が出来なかったのは、血まみれの熱演なだけに勿体ない。

 それは本作が「テキサス・チェーンソー」に続いてゆく物語であるからなのだが、そのことによって、自ずとラストも予測できてしまうのは何とも陳腐。

 それにしても救いがなさ過ぎる。

 あまりにも残酷で残忍な終幕には、嫌な気分だけが取り残されてしまうほどだ。

 残酷なホラー映画を見たい人にとっては、やりたい放題で拍手喝采かもしれないが、その他の方には絶対に勧めない。

 劇場で「久々に怖かった」と言っていた女性客が「あまりにも怖くて笑いそうになった」とも言っていたのが印象的で、残酷な場面にどんどん無感覚になってしまう人間(自分自身も含めて)にある種の「恐怖」を感じてしまった。

 人を殺すことしか考えず、人を殺すことしか能がない映画なんて、嫌いなら見ないに越したことはない、と断言したい。

  
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2007年01月25日

ダーウィンの悪夢

日本も無関係ではない第595回

★★★★(劇場)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

 某百貨店のテナントで働いていた僕の知人は、家計が火の車だとよく嘆いていた。

 彼女が働いていたのはアパレルメーカー直営の店舗で、その店頭に立つにはそのメーカーの服を着用しなければならなかった。

 しかし貸衣装や制服はないため、社員割引で買った服を着て仕事をしなければならず、結果その代金は給料から天引き。さらに毎日同じ服を着れる訳もなく、その負担が相当な額だったことは想像に難しくない。

 彼女は「好きな服が着れるから」とか「仕事だから仕方ない」と自分を納得させて、長年勤務を続けていた。

 だが、それは果たして生活するために本当に「仕方のない事」だったのか?

「ダーウィンの悪夢」は、かつて人為的にアフリカのヴィクトリア湖に放たれた外来魚がもたらした顛末を描いたドキュメント映画。昨年のアカデミー長編ドキュメント賞にノミネートされていただけでなく、セザール賞やヴェネチア映画祭など多くの賞を獲得してきた話題作でもある。

 ここで描かれているのはダーウィンの唱えた「進化論」における弱肉強食による自然淘汰の結果「勝ち残った」進歩ではなく、「排他」という捻じ曲がった進歩の現状である。

 琵琶湖の100倍もの広さがあるヴィクトリア湖に放たれたナイルパーチという外来魚は、凄まじい繁殖力であっという間に他の魚類を壊滅に追いやってしまう。これは日本でブラックバスが繁殖した問題と似通っている。

 ところが本作で紹介されている事例は少し趣が異なる。

 ナイルパーチという巨大な魚はヨーロッパのみならず日本でも白身魚として重宝される事で、「生態系を破壊する魚」から「金になる魚」に変身する。ナイルパーチの繁殖は、産業のなかった現地の人々に職を作り出すだけでなく、貧困から抜け出せるかも知れないと思わせる思わぬ恩恵をもたらす。

 しかし、ナイルパーチはひとときの繁栄をもたらしても、生態系を破壊するために長期的観測では経済繁栄の先行きが暗い。それだけではなく、ナイルパーチが一握りの富裕層を生み出してもアフリカ全体の経済基盤を立て直すほどの力があるわけもなく、先進国の食卓を潤すための現地産業は現地住民の飢餓を解決できないというジレンマを引き起こす。

 つまり、自分たちが水揚げした目の前のナイルパーチが高値で取引されるため、地元の人たちはそれを口に出来ないだけでなく、先進国の経済的搾取によって更なる貧困を生んでしまっているのだ。

「排他」によって何かを掌握する外来魚と外来者という対比。

 本作が解き明かすのは外来魚による生態系破壊のからくりではなく、先進国に住む我々が安価でモノを手にする裏にある発展途上国の犠牲、というグローバルビジネスのからくりである。

 食べ物はそこにあるのに飢餓を生む歪み。

 その犠牲によって潤す食卓が生む廃棄食品の山。

 映画中盤、残飯とも思える劣悪な食品を再利用する姿が映し出されるのは衝撃的である。これを見れば、上辺だけの支援や視察の浅はかさと現地を知ることの重要さ、儲ける誰かを断罪すべく「不買運動」を起したとしても解決できない根の深さを感じられるに違いない。

 本作では魚を欧米に輸送するためにカラで飛来するはずの航空機の積荷の核心にも触れ、南北問題という世界情勢の暗部にも迫る。

 残念ながらそんな「ダーウィンの悪夢」という力作に何となく違和感を覚えるのは、問題を提起しながら解決を「丸投げ」しているからではない。ドキュメント作品は往々にして問題提起に留め、観客に「考える」事を強いるものだからだ。

 本作にはナレーションが全くなく、仰々しいBGMもない。それは製作側の「意見」を映像から読み取って欲しいからだと解するべきだ。そうしないと客観的な意見ではなく、発信側の押し付けになってしまう危険性があるのだ。

 では、なぜ違和感があるのかと言うと、「危険な撮影であったから」という理由があったにせよ、映像に「冷静さ」ではなく「冷たさ」を感じてしまうからだ。

 本編には衝撃的な映像が幾つか登場する。

 例えば自家製ドラッグで酩酊したり、食べ物を横取りする子供たちの姿をそのまま撮影しているのだが、撮影側が全くその行動を制止しようとしないきらいがある。

 それは「危険で制止できないから」ではなく「衝撃的な映像になるから」という計算を画面から感じてしまうからだと思える。それを裏付けるように、様々な人物に対するインタビューで時折聞こえてくる取材側の質問が当たり障りの無いもので、質問内容にジャーナリズムが感じられないのだ。

 それが本作の「弱さ」の正体であって、決して説明的でない事が「弱さ」ではない。

 同時にドキュメントとしては現場の映像を繋いだだけで、データが提示されないのが「説得力」を欠く原因になっているのも惜しまれる。

 より多くの人に問題を訴求するためには目で見てわかりやすい「数字」も時と場合によっては必要とされるからだ。

 しかしある意味、「見ているだけで何もしない」製作者の姿は、皮肉にもこの映画を見ている観客の分身と思えるのが先進国に住む我々にとって何とも居心地悪いのも事実。それは「あなただって何も出来ないだろう?」と暗に訴えているからにほかならない。

 とはいうものの、本作で紹介される貧困や不衛生を目の当たりにすると、経済の不均衡を耳で聞いたり目で読むのではなく、映像で「観る」力が単なる見聞きよりも大きいと感じるはずだ。

 その点で本作は、先進国に住む人間にとって見る価値ある、そして見るべき作品であるといえる。

 ここで描かれているのは他人事ではない。輸入に頼り、食品自給率の低い我が国だって将来的に同じような危機に直面しないとは言い切れないからだ。

 印象的なのは貧困の中で劣悪な生活を送っている子供たちや若者の中に「勉強がしたい」とこぼす者が少なくない事だった。

 学ぶ事を欲する者としない者、教育受けた人間とそうでない人間。作品中この両者の口から出る言葉の違いは大きい。

 映画終盤、命がけで警備をする男が「戦争が起これば金になるのに」とこぼす姿は、彼が本気であるだけにやるせなさを加速させる。

 本作は解決策を提示しないが、少なくともそこから学び、例え世界を救えなくても、日本の社会や自身の家庭に反映させる「何か」が確かにある。

 それが「悪夢」を見ないためのヒントであると思うのだ。

  
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2007年01月18日

デート・ウィズ・ドリュー

コリー・フェルドマン痛々しい・・・第592回

★★★☆(劇場)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

 彼女を見初めたのは病院の待合室だった。

 診察を待つ間、雑誌を手に取った僕は目の前の彼女に釘付けになった。

 まさに一目惚れ。

 目、頬、鼻筋、口元、顎のライン、そして髪型、その顔立ちは僕の理想そのもので、この世にこれほど理想的な顔立ちの女性がいる事に感動すら覚えた。

 しかし僕は彼女に想いを伝えられない。

 なぜなら彼女は雑誌の中で僕に微笑みかけていたからだ。


「デート・ウィズ・ドリュー」は、「E.T.」(1982)を見た6歳の頃からドリュー・バリモアのファンであるブライアン・ハーズリンガーという青年が、無謀にも30日以内にドリュー・バリモアとデートをしようと試みるドキュメント映画。

 日本でならかつて人気番組だった「進め!電波少年」で企画されそうな内容の「挑戦」を映画化したものだが、本作の主人公(?)であるブライアンは芸能人でも何でもない素人である点がミソ。

 本来なら誰も見向きもしないようなホームビデオ作品のような本作が、全世界で公開されているのは「結果」が素晴らしいからにほかならない。

 しかし本作がそれなりに鑑賞出来るのは「結果」云々ではなく、その「過程」が面白いからだ。


 僕が雑誌の彼女に恋した話には後日談がある。

 当時無名だった彼女は「注目のレースクイーン」として5センチ四方の小さな記事の写真の中にいたのだが、その後エロテロリストとして名を馳せる若きレースクイーンたちと同じ5人ほどの集団の中の一人として雑誌に掲載されていた。

 それから何ヶ月か経って、祝日の会社で同僚が読んでいた雑誌を覗き見した時だった。僕の目に飛び込んできたのは、病院の待合室で一目惚れしたあの彼女の写真だった。

「何たる偶然!」

 僕はある種の運命を感じた。

 同僚に頼んでその記事を見せてもらう。その記事はまたまた「注目のレースクイーン」と言う内容のものだったが、その雑誌に彼女はピンで映っていた。

 名前を確認する。

 そこには『吉岡美穂』と書いてあった。


「デート・ウィズ・ドリュー」でブライアンがドリュー・バリモアとのデートを取り付けようと決意したのは、あるクイズ番組で賞金を得た事に始まる。

 日本円にするとわずか11万ほどの金額だが、これを生活費に当てるのは忍びない。そこで彼はある運命的なキーワードからデートを取り付けるまでの過程をドキュメント映画にしようと考えたのだ。

 それはクイズ番組で賞金を得た最終問題の答えが「ドリュー・バリモア」、つまり自分が長年ファンだった女優の名前だったからで、その運命的な「勘違い」から、ひとつ間違えればスターストーカーになりかねない企画をスタートさせたのだ。

 お金の無いブライアンは母校の映画科で共に学んだ友人たちに撮影やコネ交渉を依頼、使用するビデオカメラも30日以内返品(よってデートにこぎつける期限も30日)可能なサービスを悪用して手に入れるなど、作品内容はホームムービー程度の低予算で低レベルな技術によるもの。

 しかし、コネやツテを利用してハリウッド映画人の出演もこぎつけるなど、劇中の緊張感を煽って飽きさせず、残り日数と残り資金を字幕でカウントダウンさせる事で、窮状を何となく観客に伝える事にも成功している。


 僕がある日、某公園を訪れた時だ。

 公園にある異様な集団が女性を囲んでいるのを見かけた。女性を囲む男性たちの手には大きなレンズのカメラ、カメラ、カメラ。

 それはいわゆる有料の「撮影会」と言われるものだった。

 世間ではまだ無名のモデルやアイドルたちが、有料でファンたちに写真を撮らせる「撮影会」は、鈴木京香や松嶋菜々子といった大物も無名時代には経験している。「撮影会」の資金は事務所の資金になり、無名タレントにとって一定の収入源になるからだ。

 ファンの欲望とタレントの実情が一致する事で成り立っている「撮影会」。その異様な雰囲気にその場を離れようとしたとき、僕はモデルになっている女性に釘付けになった。

 そう、男性たちの中でポーズをとっていたのは、僕が雑誌の中で恋した『吉岡美穂』なる女性だったのだ。

 近づいてみる。

 実物の彼女は写真の中よりもずっと透明感があって素敵だった。

 しかし、僕は僅か数メートルの距離にいながら、胸がドキドキして足が宙に浮いたような感覚に陥り、何も出来なかった。

 当然と言えば当然である。


 ブライアンもまた偽造パスで「チャーリーズ・エンジェル/フルスロットル」(2003)の公開記念パーティーに潜入し、見事ドリュー・バリモアを前にしながら何も出来ないという場面がある。彼が「ドリューとデートしたとして一体何を話す?」と不安になるのは正直な感想だろう。

 憧れの相手にあれこれ話そうと妄想しても、いざその場になると思い通りにいかないものだ。それは相手がスターでなくても、大好きな相手との初めてのデートでも同じ事だ。

 諦めず頑張り、アイディアさえあれば誰でもスターとデートが出来るかもしれないと思わせてくれる本作は、世界中に存在する多くの映画スターのファンの夢の実現と、その希望を与えてくれるような錯覚を与える。

 しかし、よくよく考えればブライアンと言う主人公は世間で言う「一般人」または「素人」である反面、小さな仕事でテレビや映画の現場を知る(少なくとも)ショービジネスの世界に身を置く人間でもある。

 彼はスターとの「距離」があるだけで、全く可能性が無いという立場の人間ではないのだ。

 例えばあなたが生まれてこの方ずっと「四国」や「北海道」の片田舎に住んでいたとして、いきなり木村拓哉や仲間由紀恵といった日本のスターとデートしたいと同じように行動したとしても、デートどころか会うことさえ難しいだろう。

 本作の中でスターとの距離を「〜度」という言葉で説明しているが、実はこれが大きなキーワードだと言える。

 この「〜度」という考え方は、もともと英語の中にある「Six Degrees of Separation」という諺に基づいている。

 これは「人と人との間には6人分の隔たりしかない」という意味で、要するに「知り合おうと思えば世界中の人間と仲良くなれる」という考え方で、その考え方をテーマにした舞台劇の映画化作品「私に近い6人の他人」(1993)の原題名にもなっている。

 例えば先述の木村拓哉と僕の関係を「度」で表すと、「僕」→「僕の友人」(1)→「友人を雇っている映画監督」(2)→「その監督作品の主演女優」(3)→「彼女が出演したドラマの共演者」=「木村拓哉」(4)ということで、その距離は「4度」になる。

 この「度数」が少なければ少ないほど相手に近くなるのだが、現実問題、相手が有名人であればあるほど地方に住む一般人がその「度数」を縮める事は困難だ。

 その点ブライアンは曲がりなりにもショービジネスで仕事をしており、ハリウッド映画人とのコネもゼロではない。さらに大学で映画について学んでいるので、映画製作について全くの素人でもない。

 つまり成功するか否かは運に任せたとしても、彼にはある程度の「確信」があってこの企画を実行した事が伺える。

 よって本作の夢実現を妄信して自分も実行してみようと思うのは危険であると言える。ブライアンのメッセージを鵜呑みにするのではなく、現実と則しながら「夢を忘れない」という点を見習うに留めるのが妥当だろう。

 本作を見れば、最終的にドリュー・バリモアの人柄の良さも感じられるに違いない。

 しかしこれも歪んだ見方をすれば、この企画が世間に認知されて盛り上がったからという要因があったからこそだといえる。つまりカメラが回ってなければ実現しないし、スターである彼女が安心して会ってくれるか否かも怪しいからだ。

 本作はある意味ドリュー・バリモアのファンの熱意によって、ドリュー・バリモアの人間性を宣伝できた作品だとも捉える事ができる。

 両者にとって利益が一致しているのは、あの「撮影会」と同じであるといえなくもない。


『吉岡美穂』なるレースクイーンはその後、ご存知のように「癒し系グラビアアイドル」として人気者となった。

 彼女はグラビアアイドルを卒業してタレントになり、映画やドラマに出演し、出来ちゃった結婚で只今妊娠中だが、人気者になる前の彼女の容姿が僕にとって「理想の女性像」である事には変わりない。

 自分にとっての理想と憧れ。

 スターとの「距離度」はそのくらいの方がいいのかも知れない。

  
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2007年01月08日

ザ・センチネル 陰謀の星条旗

マーティン・ドノヴァン怪し過ぎ・・・第585回

★★★☆(劇場)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

 時に映画は、鑑賞する側の「先入観」や「固定観念」を巧みに利用して思わぬ展開を導く事がある。

 例えば製作当時スターであったジャネット・リーが映画前半で惨殺される「サイコ」(1960)はその代表で、彼女が主人公であると思わせて大金を持ち逃げするサスペンス映画であると勘違いし、観客はまんまと騙されその後の展開に驚愕するのだ。

 しかし、鑑賞する側に制作側の意図しない「先入観」があったとしたらどうだろう?

 同じような展開を持つ作品にアクション大作であり傑作の「エクゼクティブ・デシジョン」(1996)がある。こちらも「サイコ」同様に、映画前半で登場人物の中で当時一番のスターであったスティーブン・セガールがあっけなく殉職してしまう。その突然の死によって観客はその後のピンチをカート・ラッセルが切り抜けられるのか不安に陥るというのが製作側の意図であったに違いない。

 ところが「セガール」=「不死身」という先入観を持った観客にとっては、高度1万メートル上空で散ったセガールが、飛行機にしがみついてラストでピンチを救いに来ると信じてやまなかったという後日談がある。

「ザ・センチネル 陰謀の星条旗」は、有能なシークレットサービスである主人公が大統領暗殺計画の首謀者であるとの汚名を晴らすべく、逃亡生活の中で真犯人を突き止めるというサスペンス映画。

 本作もまた「サイコ」や「エクゼクティブ・デシジョン」程ではないけれども、製作者の意図する鑑賞側の「先入観」と、製作者の意図しない鑑賞する側の「先入観」によって、不思議な感覚に陥る作品となっている。

 もちろん映画や映画俳優に対して全く知識のない人間が見れば「サイコ」や「エクゼクティブ・デシジョン」同様に驚きでも何でもない展開なのだが、ある程度の映画ファンが見ると、本作はマイケル・ダグラスの主演作ではなく、キーファー・サザーランドの主演作に見えてしまうのだ。

 なぜなら、この映画は「罠」にかけられたマイケル・ダグラスが逃亡しながら自身のスキルを活かして真相に迫ってゆくという物語なのだが、視点を変えると、容疑者であるマイケル・ダグラスを元相棒のキーファー・サザーランドが追いつめる物語と見ることも出来るからだ。

 この捩れの正体は、単にキーファー・サザーランドが人気テレビドラマ「24 TWENTY FOUR」でジャック・バウアーという当たり役を得て、その「捜査官」としての印象が強いからというだけではない。

「ザ・センチネル 陰謀の星条旗」をよくよく見ると、マイケル・ダグラスとキーファー・サザーランドの出演場面がほぼ半々で、逃亡するマイケル・ダグラスを中心に描いていない事が伺える。

 さらにマイケル・ダグラス扮するピートには、主人公にあるまじき「負」の要素が多いことも「捩れ」を増加させているように思える。

 例えば大統領夫人(キム・ベイシンガー)との不倫や、デビッド(キーファー・サザーランド)の前妻との浮気疑惑が伏線となって、射殺されたピートの同僚の妻がデビッドに漏らす「女性スキャンダル」が「裏切り」感を増殖させ、内通者情報をデビッドに捜査依頼するピートにますます怪しさを感じる事になるからだ。

 この二人を同等に描く演出によってデビッドの執拗さが描けた反面、「二人ともシロ」という「先入観」を観客に与えてしまっているのが痛恨。ある種「裏切り者」であるが「裏切り者」ではない、という主人公のジレンマが活かせていないのだ。

 比較すればよく判るのだが、追う者と追われる者の図式において、その描き方のバランス具合が「逃亡者」(1993)という作品でいかに優れていたかが改めて評価できるだろう(トミー・リー・ジョーンズ扮したジェラードはアカデミー賞当然の好演)。

 その点で、「24 TWENTY FOUR」でのヒーローぶりに対して、近年映画界では「フォーン・ブース」(2002)や「テイキング・ライブス」(2004)など得意の悪役が多かったキーファー・サザーランドにとってかなり役得であった(映画としては久々の大役!)反面、映画の面白さを削いだという反省が指摘できる。

 実は本作の原作と映画とのラストは大きく異なる。

 原作では更に本当の黒幕が登場するのだが、そのラストを鑑みると、(そこまで深読みすべきではないだろうけれど)映画のラストのある人物が向ける視線の意味が大きく異なるのだ(ご興味あれば一読あれ)。その違いが、本作における「先入観」をまた捻じ曲げているのも興味深い。

 映画ファンにとって感慨深いのは、キーファー・サザーランドが80年代後半の若手俳優から一躍主演俳優へと躍り出た作品、「フラットライナーズ」(1990)の製作総指揮を担当したのがマイケル・ダグラスであった事だ。

「フラットライナーズ」でスターの仲間入りをした(日本ではあまりヒットしなかったが)キーファー・サザーランドは共演者であったジュリア・ロバーツと知り会い、婚約に至るのだが、ご存知のように式直前にジュリア・ロバーツが逃亡。

 その後役者としても一気に下降線を辿ったキーファー・サザーランドだったが、10年以上のスランプを「24 TWENTY FOUR」で脱出、その人気によって再び映画界で大きな仕事(ハリウッドではTV界と映画界には大きな格差がある)を与えたのがマイケル・ダグラスであったのは何とも縁深い。

 監督であるクラーク・ジョンソンは「S.W.A.T」(2003)で名を馳せた人物だが、元々は俳優出身。本作でも射殺されるキーパーソンを俳優として演じているのも見所。

 本作がアメリカ人にとって新鮮であるのは(日本人には馴染みがないが)「アメリカの歴史上、シークレットサービスに国家の裏切り者はいない」という常識を覆して見せた点にある。

「シークレット・サービス」(1993)や「ホワイトハウスの陰謀」(1994)、最近では「ザ・インター・プリター」(2005)など、映画の中で常にシークレットサービスは正義の味方であった。

 しかし「スパイダー」(2001)辺りから、その描き方が微妙に異なってきた事が伺える。それはキーファー・サザーランドが主演している「24 TWENTY FOUR」においても、シリーズを重ねるごとにシークレット・サービスが単なる「善」と描かれていない事とも一致する。

 これはアメリカの政情と呼応するように9.11テロ以降の「隣人不安」が、味方に対する「不安」に変換され、その「捩れ」が映画にも反映されてきているからであると解する事ができる。

 つまり本作における鑑賞側の先入観がもたらす「主人公」視点という「捩れ」は、現代アメリカ社会の「捩れ」と微妙に繋がっているのである。

  
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2006年12月16日

硫黄島からの手紙

日系俳優が多すぎる・・・第579回

★★★★(劇場)

(政治的言動あるので、ご注意あそばせ)

 最近の日本はどんどんおかしな方向へと向っている。

 戦前の反省から「公」を重視した政策は、戦後「個」へとシフトしていたにもかかわらず、ここにきて再び「公」へと移行しているきらいがある。

 もちろんこれは現代社会の病理を解決する手立てのためではあるのだが、その決定理由があまりにも安易であることに辟易とさせられる事がしばしばだ。

 例えば昨日参議院で成立した「改正教育基本法」によって「愛国心」が明文化され、これによって「個」の持つ価値観を「公」が押し付けることになり、また教育密度を高める反面、飛び級によるエリート階級を生むような危険性を孕んでいる。

 残念ながら「愛国心」を声高に謳っている人間ほど、「愛国心」という言葉を利用しているだけで、どこまで本当に国を愛しているのかが疑問に思う事が多い。

「硫黄島からの手紙」でも「愛国心」を盾に玉砕を命じる伊藤(中村獅童)が自身の生に執着するという情けない場面が挿入されている。

 現代において人間は社会の秩序を保つため「公」の基に生活しているが、やはり重要なのは「個」の生活である。「公」の最小集団である「家族」という集合体は、何を置いても「公」よりも家族という「個」を守るのは誰もが当然だと考えている。

 しかし、かつて日本は「個」よりも「公」を重んじたために大変生きにくい社会になってしまった苦い経験がある。

 この「生きにくい社会」は、いきなり訪れたものではない。政府の思惑によって様々な法整備がなされた末に、結果「生きにくい社会」を生んでしまったのだ。

 歴史を振り返った時に気付くのは、「あの時」を境として徐々に悲劇を招いたという「きっかけ」が必ずあるということだ。

「公」の名のもとに「個」である納税者が増税によって家計が火の車になったり、「公」の名のもとに「個」である障害者が搾取されたり、「公」の名のもとに「個」である高齢者が暮らしにくくなるなど、最近は身の回りでも「公」優先の弊害は目に見えて現れている。

 戦後生まれの首相はフレッシュさをアピール出来る反面、戦前に対する認識の甘さがより濃くなったといえる。この現政権は目先の利益しか見ておらず、我々は国家の思惑に翻弄され続ける「捨て駒」になってしまう恐怖にさらされつつある。

「硫黄島からの手紙」は、公開中の「父親たちの星条旗」(2006)との「硫黄島2部作」として製作された作品。

「父親たちの星条旗」がアメリカ側からの視点で描かれたのと対を成すように、本作は日本側から見た視点で同じ戦場を描いているのが特徴。「父親たちの星条旗」で日本軍が「敵兵」として「影」や「駒」としてしか描かれていなかったことと同様に、本作では逆にアメリカ軍の姿が「影」や「駒」としか描かれていないという共通点がある。

 この客観的な視点によって、バロン西(伊原剛志)が捕虜とした瀕死の若きアメリカ兵の人物像が鮮やかになり、「鬼畜米英」と叩き込まれた日本軍兵士たちに敵も味方も同じ人間であるという事実が引き起こす「動揺」を生むことに成功している。

 また、ハリウッド映画というよりもクリント・イーストウッドが監督した日本映画といった趣の本作だが、日本映画ならセンチメンタルになりがちな場面においても残酷なまでに冷徹な戦死を描写することで、戦争のやるせなさを加速させている事がわかる。日本映画ではなかなかこうは描けない。

 何よりも70歳を過ぎてなお映画製作に貪欲で、ハリウッド映画にありがちだった外国人が突然英語台詞を喋り始めるという手法ではなく、あえて全編日本語で通したクリント・イーストウッドによる演出の潔さは賞賛に値する。

 本作は既に全米の賞レースでいくつかの作品賞を受賞しているが、ゴールデングローブ賞や放送映画批評家賞では「外国語映画」扱いになっているのが非常に残念。これはアメリカ映画界にまだ字幕映画に対する偏見が残っている事の証拠のようなものだが、それは同時にクリント・イーストウッド監督がアメリカ映画界の慣例に対して果敢に挑戦した事の証でもあるといえる。その姿勢は、今やハリウッドの巨匠となった彼であるが故、大いに評価したい。

 イーストウッド監督作品に流れる共通項のひとつに「家族の絆」というものがある。それは時に「血縁」ではなく「疑似家族」という形態として描かれることもある。

 例えば「許されざる者」(1992)の主人公と若いガンマンとの関係や「パーフェクト・ワールド」(1993)の犯人と子供、「ミリオンダラー・ベイビー」(2004)の師弟関係などがそれに当たる。

 本作でも栗林(渡辺謙)が家族に宛てる手紙によって「家族の絆」を描いているのと同時に、西郷(二宮和也)という下級兵との階級を越えた父子関係のような巡り合わせにおいて「疑似家族」を感じさせており、その相関関係が悲劇的な映画に救いや温かみを与えている。

 その二人を演じた渡辺謙の風格と二宮和也の演技力はこの大作を引っ張るのに十分で、「父親たちの星条旗」に続くトム・スターン(撮影)やジョエル・コックス(編集)などイーストウッド組スタッフの職人技も光っており、2部作の仕上がりに差が無い事は見事。

 また「ミリオンダラー・ベイビー」のクリント・イーストウッド、「クラッシュ」(2005)のポール・ハギス、「プライベート・ライアン」(1998)のスティーブン・スピルバーグという製作者としても監督としても活躍する歴代アカデミー作品賞絡みの三者が顔合わせになった意義も十分汲み取れる。

「硫黄島からの手紙」で描かれているのは過去の歴史でありながら、実は現代社会にも通じる「個」の喪失の恐怖を「戦争」という究極の場を舞台にして描いている事が判る。

 今年8月、NHKで「硫黄島玉砕戦〜生還者61年目の証言〜」というドキュメント番組が放送された。

 太平洋戦争の最激戦地であった硫黄島で起きた事実は、なかなか公になることが無かった。それは奇跡の生還を遂げた兵士たちが犠牲者たちへの配慮から長年口をつぐんできたからだ。

 この番組で印象的だったのは、生還者が61年目にして語る生々しい悲惨な証言の数々ではなく、生還者の「今」の姿であった。

 80歳を越える彼らの中には国のために命を捧げ、奇跡的に帰還したにもかかわらず、生活の保障も無く、未だ仕事を持って日々暮らしている人もいた。

「愛国心」を信じ、戦争の後遺症に悩み、誰にも相談できずに60年もの歳月を生きてきた彼らこそ、生活の保障と安息を与えてよいようなものだと思うのだが、「公」に滅することを命じられていた彼らは、今なお「個」を犠牲にして生きている。

 その姿に僕はやるせなさを覚えたのだ。

 栗林忠道中将は「一日でも長くこの島で戦い続ける事によって、本土への攻撃を遅らせることが出来る」と玉砕や自決を許さず、ただ死ぬために水も食糧もない灼熱の地下壕で「生き続ける」ことを兵士たちに強いた。

「公」のために「個」を犠牲にしたこの英断は、単なる美談として語り継がれるべきではない。むしろそれは「むごさ」を強調し、二度と同じことがあってはならないという「反省」でなければならないからだ。

 太平洋戦争において「公」のために滅される捨て駒であった「個」は、この硫黄島の兵士だけではない。空爆によって「個」の犠牲は結果的に日本に住む国民全員となってしまったのはご承知の通り。

 今、日本が「個」から「公」を重視しつつある傾向は、同じような悲劇を再び起す危険性を孕んでいる。

 後の歴史が今の日本を「あの時」と、悲劇の「きっかけ」になるよう記さない事を願うばかりだ。

  
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2006年12月01日

父親たちの星条旗

「硫黄島からの手紙」も全米で繰り上げ公開決定!第575回

★★★★(劇場)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

「あの人は今」という内容の番組を見るたび、「人生平穏で平凡な方が幸せなのかもしれない」と思ってしまう事がある。

 アンディー・ウォーホールが「誰もが15分だけ有名になれる」という言葉を残したように、多くの人間が名を馳せ、世に名を轟かせることを夢見るものだ。

 しかし、たとえ成功し、名を馳せ、有名になったとしても、その地位を維持する事は、有名になること以上に難しいという現実がある。

 例えばCDTVの過去ランキングなどを目にすると、10年間第一線で活躍することが困難であることが良くわかる。ヒット曲を世に送り出した多くのアーティストも10年経てば過去の人というのが常。賛否はあっても矢沢永吉や長渕剛が凄いと思えるのは、いつまでも「現役」である点に集約できる。

 それは芸能界だけではない。例えば街の喫茶店で長年営業している店の何と少なく、カルチャーセンターで教室を継続することが何と難しいことか。

 何事にも流行り廃りがあり、永劫に続く栄光なんてものは、宝くじに当たる以上に難しい事だと思えてくる。

 それは歴史の教科書を見ても判るように、たとえ「時の人」になっても、人生を常にトップであり続ける人間など1年に1人も生まれないからだ。

「父親たちの星条旗」でも「英雄は作られる」という台詞が登場するが、ヒーローは成ろうと思って成れるものではなく(目指す事はできるけれども)、大衆が支持して初めて「ヒーロー」=『英雄』と成れるものなのだという事が判る。

 つまり、大衆が認めれば「英雄」になれる反面、大衆が支持しなくなったり、忘れてしまうと、「英雄」は「過去」+「英雄」となってしまう容赦の無さがあるのだ。

 本作はクリント・イーストウッドが「ミスティック・リバー」(2003)以来となる監督に専念した作品で、第二次世界大戦における「硫黄島の戦い」とその顛末を描いた作品。

 ピュリッツアー賞を獲得し、アーリントン墓地の記念碑の元にもなった写真に翻弄された硫黄島の戦いに参加した若き兵士3人が、アメリカに帰還してから戦意高揚に利用されるという史実を描いた本作もまた、人生のひと時の輝きの残酷さを感じさせ、裏面史を描くことで「夢の国」アメリカの恥部をさらけ出すという側面を持っている。

 しかしながら、太平洋戦争におけるアメリカの「敵国」であった我々日本人にとって、日本が「悪」とも思える立場に描かれている故、正直後味があまりよろしくないのは致し方ない。

 それを考慮してか、劇中日本軍の姿が「鮮明」に描かれていないのが本作の特徴ともいえる。それは結果的に二部作として来月公開される「硫黄島からの手紙」(2006)で、日本軍側から「硫黄島の戦い」を描く事になったからだとも理解できる。

 その描き方に対して「言い訳がましい」という揶揄も成立するが、クリント・イーストウッドの作品群の遍歴を鑑みれば、実は彼の作品に対する「戦い」と「殺し」という「善悪」への想いの変化が感じ取れることになる。

 それは彼がスターダムへとのし上がった「ダーティハリー」(1971)の主役、ハリー・キャラハン刑事のイメージによってタカ派の象徴的俳優であったという点において、「ハリウッド俳優」におけるかつての立場を考察すれば、尚更その変貌を実感できる。

 もちろんこの視点の変化は、アカデミー賞を獲得した「許されざる者」(1991)における「善悪の不在と曖昧さ」において既に見出す事ができるのだが、彼が居住する地域の不満によって政治に目覚め、カーメル市長になった1986年に監督・主演した「ハートブレイク・リッジ/勝利の戦場」(1986)における好戦的とも取れる作品内容からは、到底本作のような「虚像」としての「英雄像」を見出す事などできない。

 彼の作品が初監督作品「恐怖のメロディ」(1971)から常に「殺し」をテーマにしていた事が判ると思うが、その「殺し」というテーマは「ガンレット」(1977)のようなエンタテインメント的な視点から、「許されざる者」以降は「生きる」という人間誰もが持つテーマに変換され、それは近年の傑作「ミスティック・リバー」や「ミリオンダラー・ベイビー」(2004)のような「英雄否定」という視点へと昇華されたことが伺える。

 結果、クリント・イーストウッドの時代の移ろいにおける視点の変化が、本作における「戦闘」、「帰還後」、「死後」という3つの時代を同時に描き、その「変化」と奇妙にも同期されていることも邪推できる。

 どちらかというとニュートラルな視点で本作が「敵・味方」という憎悪を描くことなく、淡々と戦闘の悲惨さを見せていることは、彼のこれまでの監督作品群があえて「感動」を喚起させない冷静さを持ち合わせているという共通点であると解せる。

 その上で「怒りの矛先」が敵国ではなく、自国に向けられているという「歪み」を描いて見せているのは見事で、その中でネイティブアメリカンに対する「差別」を全般にわたって練りこんでいるのがまた巧妙。

 その象徴ともいえるネイティブアメリカンのアイラを演じたアダム・ビーチが素晴らしく、彼はこのまま「ウィンド・トーカーズ」(2002)の役柄に繋がってしまうのではと思わせるくらいのハマリ役であった。

 また、出演場面が少ないにもかかわらず、アイラが敬愛していたマイク軍曹を演じたバリー・ペッパーの好感ぶりは、「プライベート・ライアン」(1998)における魅力的な狙撃兵から俳優として格段に成長したことが伺えて嬉しい限り。

 さらに、ポール・ウォーカー、ロバート・パトリック、ジェイミー・ベル、ジョン・ポリト、デビッド・パトリック・ケリー(悪役専門俳優が大統領を演じている!)などクリント・イーストウッド作品であるからと出演を決めた小さな脇役たちの好演も光り、クリント・イーストウッド自身による音楽は、朋友レニー・ニーハウスの指揮によって映画の雰囲気を的確に表現し、東京ローズの流す音楽の選択にも(ジャズに造詣が深いイーストウッドらしい)なかなかいいセンスを見せている。

 残念なのは時間軸をいじったポール・ハギスの脚本で、その是非はこの物語に「秘密」があまりなく、時系列をそのままで組み立てても物語が十分成立する点に弱さが指摘できる。

 もちろん本作の言わんとすることは、単なる「反戦」ではない。

 イーストウッドがこの題材を選んだのは、日本にとって終戦から60年の月日が流れたからではなく(それはアメリカにとっての終戦が、時代によってベトナム戦争であったり湾岸戦争であるという認識の違いに基づく)、今この題材を選んだことで、深遠なメッセージをアメリカ社会に投げかける事が出来るからだ。

「虚像」と「英雄」という題材における「嘘」は、現代アメリカにおける戦意高揚の「嘘」と繋がっている事は言うまでもない。

 本作は、アメリカはいくつもの「終戦」を迎えながら、その反省が全く生かされていないという「楽天志向」の戒めであると捉えれば、国家における国民の「国旗」に対する崇高さをアメリカ人がどう捕らえるべきかが学べるに違いない。

 また、「英雄」という名声が永劫でない反面、戦争の記憶における「葛藤」が人生を通じて永劫であるという対比によって、国家の功罪を示していることは世界共通のものであると受け止めなくてはならない。

 何よりも「アメリカ万歳」のハリウッドにおいて、あえて「勝ち戦」の暗部を描いた事は、賞賛に値する作品だといえる。

  
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2006年11月29日

氷の微笑2

シャロンの手の甲のシワに年齢を感じてしまう・・・第574回

★★★(劇場)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

 大ヒット映画であり、映画史に刻まれる異色作であった「氷の微笑」(1992)。

 原題である「BASIC INSTINCT」=「本能的欲求」が、「セックス」ではなく「殺戮」だったと示唆したラストの解釈は論議を呼び、B級女優だったシャロン・ストーンを一躍セックスシンボルのイコンへと祭り上げた。

 椅子の上で足を組みかえる彼女の「あの」仕草は数多の作品で模倣され、「悪女」が主人公の類似作品も多数作られたが、シャロン・ストーンが作り上げたキャサリン・トラメルという「悪女」に勝る作品は未だ登場していない。

「氷の微笑2」はその続編となる作品だが、前作からは既に14年が経過、30代前半だったシャロン・ストーンも50代手前、当然リアルタイムで鑑賞した映画ファン(公開時、「氷の微笑」は過激な描写のため成人指定だった)もそれなりの年齢になり、「今更」感が否めない。

 何よりも本作は、ある種、呪われた作品なのである。

 この十数年、映画雑誌の隅にある小さなゴシップ記事に、「氷の微笑 続編製作」という文字を何度となく目に留めていた映画ファンは僕だけではないはずだ。

 ハリウッドセオリー通り、大ヒットの続編は金のなる木として必ず企画されるものだ。本作も例に漏れず何度となく企画が立ち上がっては立ち消えたものの、幾度の困難を乗り越えて遂に製作されたという「歴史」がある。

 前作でマイケル・ダグラスが演じたシャロン・ストーンの相手役交代劇は凄まじいものがあり、マイケル・ダグラスの降板後、カート・ラッセル、ピアーズ・ブロスナン、ブルース・グリーンウッドに相次いで交代し、一時はベンジャミン・ブラッドということでGOサインが出ていた事もある。

 最終決定とまで言われたロバート・ダウニーJrに至っては、出演交渉中に麻薬の不法所持で本人が逮捕され企画が流れたという苦い経験まである。

 また、監督交代劇も前作のポール・バーホーベンからデビッド・クローネンバーグになったものの頓挫。それを引き継いだジョン・マクティアナンもシャロン・ストーンのダメ出しに根尽きて降板。一時はリー・タマホリがオリジナルキャストの一人も出演しないという「リスク・アディクション」というタイトルで(このタイトルはアメリカ公開時の副題となっている)続編を作るという噂まであった。

 結局シャロン・ストーン以外キャストもスタッフも参加者がいなくなった「氷の微笑2」という企画は、2001年の時点で中止され、この企画に振り回されて他の映画に出演し損ねたと激怒したシャロン・ストーンが映画会社を相手に1億ドルの損害賠償を訴えるという一大スキャンダルにまで発展してしまった。

 もはや泥沼である。

 その間、シャロン・ストーンはストーカーに狙われて裁判沙汰となり、彼女の夫はコモドトカゲに咬まれて全米の話題となり、子供に恵まれず養子を迎えるもその後夫婦は離婚、さらに彼女はくも膜下出血で再起不能と危ぶまれるなど散々な日々を送っていた。

「氷の微笑」は、今となってみれば単なるセダクティブ(そそのかし)映画ではない。

 オランダからハリウッドに渡ったポール・バーホーベンという奇才(鬼才ではない)が「ロボコップ」(1987)や「トータル・リコール」(1990)の世界的成功を獲得した勢いに乗った悪趣味と娯楽性が同居した作品であり、最高額脚本の先駆けとなるこけおどしの脚本家ジョー・エスターハスや、大作主義でその後身を滅ぼすマリオ・カサール率いる「カロルコ」という映画会社の勢いを感じさせ、撮影のヤン・デ・ボン、音楽のジェリー・ゴールドスミス、特殊メイクのロブ・ボッティンなどスタッフにも恵まれた上、シャロン・ストーン捨て身の悪女振りがポール・バーホーベンの悪趣味と化学反応を起した奇跡的大ヒット映画であったことが、作品の出来不出来関係なく再検証・再評価できる。

 その続編である本作を見れば、前作における「奇跡」がライティングやカメラワークによる映像美や悪趣味な演出において群を抜いていた事が伺えるはずだ。

 交通事故によるサッカー選手の死に関係しているとして容疑者となったキャサリン(シャロン・ストーン)の精神鑑定を依頼されたグラス博士(デビット・モリシー)は、彼女の危険に対する欲望を見抜き、連続殺人鬼である疑惑を抱きながら、彼女の魔性に魅せられてゆく・・・。

「氷の微笑2」がオリジナル版と比べてB級感が否めないのは、アメリカでなくイギリスを舞台にしたからではなく、演出そのものに雲泥の差があるからである。

 さらには騒動の末、シャロン・ストーンの相手役を勝ち取ったデビッド・モリシーの大根役者ぶりが痛々しく、全く魅力がないのもいけない(何故デビッド・シュリースが本作の刑事役を引き受けたのかも疑問だが、作品の責任を負わないという点においては賢明であったともいえる)。

 とはいうものの、本作は全くの駄作という訳ではない。

 面白くしようとする姿勢は脚本に十分反映されているし、前作から14年も経っているにも関わらず、シャロン・ストーンの艶は50代を前にして驚異的に衰えていない(手の皺と劇中のボディダブルはご愛嬌)。

 そのシャロン・ストーンが共演を熱望したといわれるシャーロット・ランプリングも、本作で60歳を超えても衰えない妖しい美貌を見せ、ハリウッド女優の実情を描いた傑作ドキュメント「デブラ・ウィンガーを探して」(2002)における二人の発言を参照するとなかなか興味深い考察が出来るのも一考。

 また、ジェリー・ゴールドスミスの作曲したオリジナルテーマが全編で使用されているのも前作への敬意が伺えて、続編製作がひとりよがりでない点(オリジナル版のテイストを否定した続編の何と多いことか)も好感が持てる。

 さらには前作のイメージを引きずった映画ファンを騙そうとする仕掛けも、ある程度巧妙で、驚きはないものの、それなりに楽しめるものになっている。

 残念ながらかつて映画ファン待望の続編であった本作は、映画ファンの興味をそそることなく全米での公開は惨敗、日本公開はビデオリリースという危機も、弱小配給会社「シナジー」によってようやく日本での劇場公開が叶ったという経緯がある。

 正直、この程度の脚本ならもっと以前に製作できたはず、と思ってしまうのも事実。

 全ては本作の製作遍歴における悲惨さを勿体なく思うのだが、逆に言うと、この程度の作品でいいので、これから「B級」丸出しの「キャサリン・トラメル連続殺人」シリーズを製作するくらいの貪欲さを見せて欲しいとも願うのであった。
  
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2006年09月25日

イルマーレ

細いわね、といわれるサンドラだが、決して華奢ではない第566回

★★★☆(劇場)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

 年齢を経るにつれ「運命の出会い」は「僻地のガソリンスタンド」のようなものだと例えることが出来る。

 つまり、「次の給油まで待ってはみたものの、結局『次』はなかった」=「最後のチャンス」ということだ。

 どの出会いを「運命」と見極めるのか、どの出会いを「運命」と追い続けるのか。それは「運命」を掴んだとしても、離してしまったとしても、意外と「時」が経過しないと自覚できないものだ。

 掴んだ結果、納得したり、離した結果、後悔したり、後から思えばそれが「運命」だった、という事は誰しも経験があるかもしれない。

 だからこそ「時」と「気運」を大切にしなければならない、と切に思う。

「オールド・ボーイ」(2004)や「箪笥」(2004)など、多くの韓国映画がハリウッドに映画化権を買われながら、なかなか映画化が実現できていない中、「ザ・リング」(2002)や「THE JHUON/呪怨」(2004)など、Jホラーをハリウッドで成功させたロイ・リーの手によってメジャー系映画会社で初めてハリウッドでリメイクされたのが、この「イルマーレ」。

 湖に建てられた家から引っ越すことになった研修医のケイト(サンドラ・ブロック)は、郵便受けに次の住人へとメッセージを残す。ところがそのメッセージは、時空を越えて2年前に住んでいたアレックス(キアヌ・リーヴス)の元へと届いたことから、二人の間に奇妙な関係が生まれる・・・。

 まだ韓流ブームの訪れる直前の2001年秋に日本で公開された韓国版「イルマーレ」(2000)は、人気女優になる前のチョン・ジヒョンが主演し、当時韓国映画界を席巻した岩井俊二の「Love Letter」(1995)の影響を色濃く受けた映像や音楽が特徴で、詩的で情緒溢れる作品だった(詳しくは過去記事 →  「イルマーレ」 を参照)。

 しかしリメイクされたハリウッド版は「情緒」とは無縁の、良くも悪くも「ハリウッドらしい」作品に仕上がっている。

 リメイクとあって、どうしても比較される運命にある本作だが、「動かさざる運命」を描いたのが韓国版であるとすれば、ハリウッド版は「運命を変えてゆく」物語として描かれている事が判る。

 よって、並行する二つの人生を「らせん状」に描いていた韓国版(劇中エッシャーの絵が登場する)に対して、ハリウッド版はひとつの行動が回りまわって変化を引き起こす様を「環状」に描いており、それを象徴するように「回転扉」や病院内など数々の場面におけるレール撮影によって「環状」を(韓国版以上に)視覚的に映し出していることが伺える。

 そのせいか、ハリウッド版は韓国版以上に辻褄の合わない点が増しているのはご愛嬌。細かいタイムパラドックスの一貫性を気にしなければ、充分「時間差愛」に酔いしれる事ができる。

 また「犬の足跡」、「雪の予言」、「新聞を読む隣のおっさんと目が合う」、「未来から届く作品集」など韓国版の踏襲(上映時間もほぼ同じ)がある一方で、舞台は「海辺」から「湖畔」へと変更されている。

 そのためハリウッド版の原題名は「The Lake House」=「湖畔の家」となっていて、「イルマーレ」=「Il Mare」=「海辺」という韓国版の持つ意味とズレが生じている(が、ハリウッド版には「イルマーレ」という名前を巧く活かした場面があるのが心憎い)。

 人物設定において職業や兄弟関係、恋愛相関図、物語設定においても家の造形や駅に忘れる物、二人が遭遇する場面、約束の場所等において違いが見られるが、父親との確執の描き方がハリウッド版の方に広がりがあり、「建築」に対する様々なうんちくが韓国版に比べて判りやすく、面白い点も指摘できる。

 しかし、映画前半早々にラストへの布石となる場面があり、二人が「出会う」だけでなく「寄り添う」場面も中盤に用意されている点において、韓国版と比べると物語の面白さを少し削いでしまっており、何よりも映像の美しさに欠ける点がかなり惜しまれる。

 映像に関しては「海」と「湖」という「光」の加減の違いによるところが大きく(その「光」の重要さが劇中語られていることが痛恨)、「海」という運命の広がりと、「湖」という運命の循環という違いが物語にも反映されているのは、何とも奇遇。

 キアヌ・リーヴスとサンドラ・ブロックの相性の良さは格別で(個人的には「金城武+ケリー・チャン」、「木村拓哉+松たか子」と並ぶ、私生活でも仲良くあって欲しいと願うカップル)、「スピード」(1994)以来とは思えないほど。

 また、印象的な場面で流れるポール・マッカートニーの「This never happen before」はエンドロールにも流れ、映画の効果に断然貢献しているほか、ローズマリー・クルーニーやスタン・ゲッツなどの選曲も渋くて通好みなのがいい。

 本作は「時間差」とともに、「待つ」ということを恋愛の障害として描いている。
 それを象徴するように、二人を繋ぐアイテムとしてジェーン・オースティンの古典小説「説得」が登場する。

 劇中でも説明されている通り、「説得」は愛し合う二人が周囲の思惑によって引き裂かれながらも互いを想い、再会を果たすという物語で、長きに渡る「時」と「待つ」ことが「恋愛」を成立させるか否かを描いた作品。

 このアイテムが物語の内容と呼応し、恋愛における「時」と「待つ」ことが普遍的であることを示唆しているのが見事。

 現代では携帯電話などの通信機器の発達で、「待つ」という行為(特に「恋愛」において)は解消されてしまった感がある。

 約束の居場所に遅れそうなら電話を入れればいいし、挨拶や礼状はメールで済んでしまう。相手が来ない理由をあれこれ考えなくてもいいし、手紙が来るか来ないかやきもきする必要もない。

 それはもちろん「便利」になって良いことなのだが、一方である種「キレやすい」事と同様に、恋愛において「待つ」ことへの耐性は、昔と比べてかなり緩慢になっているように思える。

 傍にはいない誰かを信じ、想い続けること。

「イルマーレ」を見ると、相手を思う気持ちだけでなく、手元に相手の気持ちが綴られ、「時間」が凝縮された手紙が残る事や、待つことへの「もどかしさ」も悪いものではない、と思えるだろう。

 そして、好きな相手に対して、少しだけ前よりも優しくなれるような気がするに違いない。

  
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2006年09月13日

X−MEN ファイナル ディシジョン

ラストのオチは余計だよね〜第560回

★★★(劇場)

(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ)

 我が家には「X−MEN AND ALPHA FLIGHT」という限定シリーズのアメコミがある。

 カナダの友人に「これは傑作だから」と言われて、20年以上前に無理矢理買わされたものなのだが、結局僕にはその面白さがさっぱり理解できなかった。

 他方、「ウルトラマン」シリーズが既にCATVを通して北米でも放送されていた当時、僕が「『ウルトラセブン』は傑作だ」と力説しても「子供だましだ」といって理解してくれない事が多かった。

 日本には古来より「見立て」という習慣が身についている。

 例えば「人形浄瑠璃」や「能」など、そこに実在しなくても観客が想像力の中で「表現すべきもの」を理解するという習慣が「見立て」で、「落語」などはその最たるものだろう。

 書割や衣装、セットが無くても成立する「舞台」は、欧米のそれとは大きく異なる。

 日本人にとって「ウルトラマン」は巨大な怪獣を倒すヒーローとして目に映るのだが、アメリカ人にとっては「見立て」という習慣がないため、「ウルトラマン」は着ぐるみがミニチュアの中で暴れているとしか見えないらしい。

 これはもともと国民性が持つ「情緒」の違いだ。

 藤原正彦が著書「国家の品格」の中で、松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」という俳句を引き合いに出し、日本人なら「静かな情景の中で、蛙が水の中に飛び込む音が響き渡る」ことを誰もが想像するのに、欧米人の多くは「蛙が飛び込むから何?」と考えるのだと指摘していた。

 よって、アメリカのヒーローは基本的に「人間」の造形をしている。

 それは常人が変装をした「バットマン」(1989)や「ザ・ファントム」(1996)、超能力を身につけた「スパイダーマン」(2002)や「ザ・フラッシュ」(1990)、変身した「ハルク」(2003)のようなヒーローが元々人間である事だけに留まらず、宇宙人である「スーパーマン」(1978)においても基本が「人間」である事が指摘できる。

 巨大化したり、ロボットに搭乗する類の作品は殆どなく、そして悪もまた「人間」の造形をしている事に気付くだろう。

 また、他作品との「交流」が盛んなのも特徴のひとつで、アメリカの2大コミックスである「MARVEL」と「DC」のキャラクターたちが、各々の会社の中で(例えばDCコミックの「スーパーマンvsバットマン」など)共演する作品は、(今のところ映画化作品はないものの)多く出版されている。

 近年、日本のヒーロー物も様々な過去キャラと共演する類の作品が増えてきたが、昔は最終回における常套手段であって(例えば「ウルトラマンレオ」や「仮面ライダー ストロンガー」の最終回に全ウルトラマンや全ライダーが集結する等)、基本は一人のヒーローや(「ゴレンジャー」シリーズ等における)定員のある戦隊が悪と戦うというパターンだった。

 かつて東映まんがまつりで「マジンガーZ」と「デビルマン」が共演したり、東宝チャンピオン祭りの「ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃」(1969)で多くの怪獣が「共演」していたのはファンにとっての「お祭り」のようなもので、近頃日本ではパロディとしての「共演」以外はあまり作品として目にしなくなった。

 この日米におけるヒーロー物に対する製作姿勢の違いによって、アメリカンコミックス(以下「アメコミ」と表記)のヒーローたちは日本では受け入れにくいという事情がある。

 ヒーロー物は日米どちらにおいても「子供向け」というレッテルが貼られているのだが、アメコミのヒーローたちにはどこか屈折した「悩み」が設定されている事が多い。

 この「悩み」が「現代社会の病理」というメタファーとして現代人に受け入れられ、特撮技術の向上によって「見立て」を必要としない映像が可能となって、アメコミのヒーローたちは1990年代以降全米で「ヒット作」の常連と化したといえる。

 実は日本のヒーロー物も「ウルトラセブン」における社会性(第43話「第四惑星の悪夢」における管理社会は必見!)や「仮面ライダー」のダークな一面(第2話で本郷猛がパワーを得たために蛇口が上手くひねられないという描写等)など、当時の脚本家たちが、子供向け作品を作りながらもメッセージ性を練りこもうとしていた時期がある。

 しかしその後「子供受けが悪い」や「難解」という評価によって、70年代以降のヒーロー物が平成に入るまで単純な「勧善懲悪」モノとなったのはご存知の通り。

 例えば「スパイダーマン」や「X−MEN」の原作が誕生した1963年(厳密には「スパイダーマン」は1962年)、アメリカではケネディ大統領が暗殺された。

 その背景にあったのは人種差別問題だ。

「X−MEN」の登場人物たちが突然変異のミュータントとして人間社会から阻害されるのは、もちろん「人種差別」の深遠なメタファーである事はいうまでもない。

「人類の歴史上、意の異なる新たな集団を受け入れた事は一度もない」と「X−MEN2」(2003)の冒頭で述べられているように、「戦争」や「闘争」の原因は、人間同士の「不和」にある。

「不和」による理解の阻害は、相手を理解できない事で「不信」を生み、それは形のない「恐怖」に変えてゆく。

 巨大な力を持つミュータントの中でも、人類との「共存」と「支配」という異なるグループに分裂してしまう事は、アメリカという大国の中の異なる「見解」として理解できるだろう。

 それはミュータントであれ人間であれ、結局は「戦う」ことでしか物事を解決できない愚かさを「X−MEN」が示している事からも伺える。

「X−MEN ファイナル ディシジョン」は、「X−MEN」シリーズ3作目にして最終章とされて製作された。

 あえて過去シリーズ未見の観客を置いてけぼりにして、徹底した「続編」として105分の短さに収めた脚本とフレッド・ラトナー監督の潔い演出によって、退屈させる事ない手堅い続編となっているのだが、言い換えればドラマ性に欠けアクションの連続でしかない印象も否めない。

 元々、現在公開中の「スーパーマン リターンズ」(2006)の監督を降板した経緯のあるブレット・ラトナーだが、「X−MEN」シリーズの立役者であるブライアン・シンガー監督が本作を降板して「スーパーマン リターンズ」を監督した因縁は実に興味深く、両作品に唯一出演しているサイクロプス役のジェームズ・マーズデンが、本作であっけなく「不在」となってしまう事への邪推も指摘できる(もちろん原作とは異なる)。

 また「続編」を期待させない程度の「布石」によって幕切れとなるラストも小気味良いのだが、残念なのは続編モノにありがちな新しいキャラクター達が物語の中で簡単に消費されて個々の描き方が甘くなってしまっている点だ。

 例えば「シックス・センス」(1999)や「ポストマン」(1997)、「天才マックスの世界」(1998)のオリビア・ウィリアムズは某科学者役で重要な役どころであるにもかかわらず、劇中殆ど画面に登場しない(映画はエンドロールが終わるまで見るべし)。

 逆にアカデミー賞受賞後にもかかわらず「X−MEN2」で出番の少なかったハル・ベリーは、髪が少し短くなって活躍が増えているのは嬉しい限り。

 また本作には「ハード・キャンディ」(2005)のエレン・ペイジや「ウルトラ・ヴァイオレット」(2006)のキャメロン・ブライトなど子役採用の先見の明、シリーズ中殆ど特殊メイクで美貌が隠され続けてきたレベッカ・ローミンの素顔、パトリック・スチュワート扮するプロフェッサーXの行方など、映画ファン的楽しみも多い。

 本作では「キュア」という薬剤によってミュータントが普通の人間に戻れるという設定が鍵となる。

「キュア」を受け入れる者は普通の暮らしを切望し、「キュア」を受け入れない者は、ミュータントとしての「力」を誇示したい、またはミュータントであるという事実を受け入れて生きてゆくという二面が描かれる。

 この「キュア」=「cure」=「治療する」という薬剤が示唆するのは、現実社会における「病魔」との闘いに対する姿勢だと捉える事も出来る。

 例えば「アトピー性皮膚炎」は長年の研究においてもいまだ万能な「治療方法」がなく、それどころか「原因」さえ解明されていない。

 なぜならば、その症状が千差万別であり、同じ治療を行っても直る人と直らない人がいるからだ。

 これは喫煙をしていても癌になる人とならない人がいる反面、喫煙していなくても癌になる(またはその煙によって疾患してしまう)ことがあるように、人それぞれの体調や特性があって、紋切り型な見方では「治療」できないことと同様である。

 つまり、皮膚炎に限らず様々な病気と付き合ってゆくことを決意をして生活している人々がいるのと同様に、ミュータントであることも「事実」を受け入れて現代社会と折り合ってゆくという前向きな姿勢が示されている(終盤、ローグ(アンナ・パキン)は人間になってしまうけれど・・・)。

 原題の「Last Stand」=「最後の抵抗」が示すもの。それは「決心が変わらない」という事の現れであり、それはあるがままを受け入れて「今を生きる」という意味であることは疑う余地もない。

  
Posted by matusan at 06:31Comments(4)TrackBack(14)