先日、私の大学時代の先輩から酒の席で、演劇関係者を紹介され、久しぶりに演劇論を闘わせるといいう機会がった。私の学生時代には、「アンダーグランド演劇」全盛で、赤テント(状況劇場)や黒テントなどをよく見に行った記憶がある。
また義理の叔父が脚本家であったため、多少、関心もあった。ただ、他にもっと好きなものあったので、学生時代以降は縁遠くなって、見に行く機会もほとんどなくなってしまった。数十年ぶりの演劇談義だったので、懐かしくもあり、わくわくもしたが、その演劇関係者が自分たちへの公的支援の少なさに言及したため、
私は若干の違和感を感じてしまった。ヨーロッパ諸国が実施している演劇支援策と日本の違いがその根拠なのだろうが、私は、ほぼ同時代を生き、活躍したシェーピクスピアと日本の近松門左衛門と比較して、反論した。誰もが認める偉大な芸術家・シェーピクスピアも「パトロン」の存在なしには、演劇活動を継続できなかったのに対し、近松門左衛門は特定の人の支援を受けることなく、「曽根崎心中」に代表される人形浄瑠璃の世界を確立し、庶民一人ひとりからいただく木戸銭(入場料)収入だけで、「劇団関係者」の生活を支えていたという。日本は、大衆芸能を庶民が支えてきたという歴史がある。この風土を大切にしてこそ、誰からも「自由な」演劇と言えるのではという反論だった。面白いもの、感動を与えるものは、たとえそれがどのような環境であろうと、人は必ず評価してくれる。これは演劇だけでなく、我々の仕事「建築」も同じだろうと思う。