2006年08月23日
Adios !
(officeの窓から)
すっかり更新をサボっている間に、アメリカでの生活も最終日を迎えてしまった。今年にはいってからは、毎月のように日本に出張したりして、ばたばたしてまして。。(言い訳です、、) 時々見てくれていた皆さん、ご無沙汰して、どうもすみません。
アメリカにきて2年間、長いようであっという間だった。アメリカにこようと思ったのは、国内の案件に携わっていても、そこらかしこらでカタカナの用語がそのまま使われていて、ますます影響力をましてきているアメリカの法的な考え方を、基礎から勉強したいと思っていた点。それと、国際化するリーガルマーケットの中で、日本という枠を超えて対応できるようになりたいと思っていた点だった。振り返ってみて、まだまだ道途中だけれど、2年前に自分が思い描いていたレベルにはある程度達することができたのではないかという気もしてる。なにより、英語という母国語とは違う言語で、かつ、共通のバックグラウンドのない相手とコミュニケートし、説得するということの繰り返しの中で、改めて自分の思考力や考え方を鍛え直すことができたのは大きな収穫だった。
(シカゴ名物ループの高架下)
勉強や仕事の面以外でも、アメリカで生活するなかで、いままで感じていなかった日本という国やその社会のことも、あらためて考えさせられた。いろいろと感じたことは、このブログでも書いてきたけど、一言でいえば、何が違うんだろうと考えてみた。
「何かあるかもしれない」と考えて過ごすのか、「何もないことが当然」と考えて過ごすのか、の違いかなという気がしてる。
これは、日常生活の細かいことから、社会全体のことまで。例えば、頼んだ商品がきっちりくるかどうか、ということでも、アメリカでは、「頼んだ商品が全部こないかもしれない、違う商品がくるかもしれない」とまず考えてしまう。「頼んだ商品がくるのが当然」な日本とは違う。
これは、契約の作成の仕方にもはっきりと現れていて、アメリカの契約書というのは、こういうことが起こったらどうするか、ということを細かく定めて、何10ページにも及ぶのが通常。要点だけ定めた数ページのものが殆どの日本のやり方と全く違う。日本のやり方だと、何もなければ、それでもいいのだけど、何か事が起こったときに紛争になってしまう。だから、契約関係の紛争の多くが契約書の解釈の争いだ。アメリカ風に、最初に、いろいろと想定して、侃々諤々やると、場合によっては契約自体流れる危険もあるけど、お互い、言いたいことを言い合って合意するので、後々の紛争は防げる。「そんな契約違反の想定ばかり、これから商売をしようとしてるのに、言い合ったら角がたつ」と考えるのが、日本人としてのメンタリティなんだろうけど、後々紛争になったときは、「そんなつもりではなかった」「相手もそう考えていると思った」ってことになるんだから、最初にいろいろ定めておいた方がいい。
(Michigan Avenue)
身の回りのことから、自分の権利のことまで。相手が、自分の権利をまもってくれるのが当然、と考えるか、相手は自分の権利を侵害しているかもしれない、と考えるか。アメリカでは、何も言わないでも、相手が自分のことを考えてくれる、なんて、はなから誰も思っちゃいない。自分の主張、自分の権利を守るのであれば、自分自身が声をださないと、そのままで、誰も気にもしない。そういう意味ではストレスフルな社会だけど、ただ、声をだして、それが正当なら、それが通る社会でもある。「言ったって、どうせ、変わりはしない」、というあきらめが先にたってしまう日本とは違う。
「何もないことが当然」という感覚は、すごく平穏だけど、「何をしても変わらない」という感覚につながる。「何かあるかもしれない」という感覚は、ストレスがたまるけど、「何か起こせるかもしれない」という感覚につながる。それは、日本とアメリカのそれぞれの社会の特色につながっているんだろう。そして、「何か起こしたい」と思って、世界中から人が集まってくる限り、アメリカという国はまだまだダイナミックであり続ける気がする。
これで、このブログのエントリーは最後にします。立ち寄ってくれた読者の皆さん、拙文、お付き合いいただきありがとうございました。好きなことを書いてきましたが、なにか感じていただく部分があったなら望外の喜びです。ブログは置いておく予定ですが、これまで以上に管理ができないかもしれませんので、あしからず。
最後に、留学やアメリカでの仕事を考えている皆さん、是非、挑戦して下さい。情熱とビジョンがあれば、チャンスが与えられる国ですから。
それでは!
2006年05月29日
お好み焼き
皆さん、こんにちわ。また、すっかり更新をサボっていましたが、先週から日本に出張で来てます。今年に入ってからは毎月のように、日米を行ったりきたり、時差ぼけにも慣れてきましたが、あれは、どうも日本に来るときは楽で、アメリカに帰ったときはしんどいですね。
日本に来て、何が嬉しいかと言うと、お好み焼きとか、たこ焼きとか、明石焼きとか、うどんとか、そばとか、普通に安くて美味しいものが食べれることです。アメリカに行く前は、こういうものを食べて、うまいときは、「美味しい」とは思っても、だから、「幸せ」だとは思わなかったけど、いや、今はホントに幸せですね。美味しいお好み焼きが食べれることは。だいたい、ファミレスに入って、1000円くらいのランチを食べて、デミグラスソースがかかっていて、うまいと思って、涙がでそうになりましたからね。ま、それだけ、アメリカのメシ(安いもの)がまずいといういことですけど、幸せが増えるということは、いいことです。いいのか、悪いのかわかりませんけど、得した気分になることは確かです。
てなことを思っていると、アメリカの自宅に、裁判所から陪審員として出廷せよという召還命令が! 陪審員?もちろん、アメリカの法廷ですから、アメリカの市民でないと、陪審員になれません。私は、もちろん、アメリカの市民ではありませんから、ソーシャルセキュリティナンバーか、何かから適当に抽出して、送ってるんでしょうね。アメリカらしい適当さです。でも、なれないならなれないと返事をしないと、罰則が科せられるらしく、ほうっておくわけにもいきません。
だいたい、アメリカには住民票というものも、住民台帳というものもありません。だから、どこに誰が住んでいるかというのは、正確にはわからないわけで、引っ越したとしても、転入手続きとか、そういったものもありません。だから、引っ越してまずしなければならないのは、電気などのユーティリティの申込みで、それができて、電気会社から請求書が送られてきたら、それを大切にもっていおいて、それで銀行口座を開くときなどに、そこに住んでいるという証明にしたりするわけです。なので、人口なども適当に数えていて、大体、このブロックには何人が住んでいるから、都市全体で何人だというレベル。だから、アメリカの人口なんていうのは、2億強で、日本に二倍くらいだと言われていますけど、本当はもっと多いのではないか、というのが実感です。裁判なんかでも日本では住民票を元に郵送で訴状なんか送達しますけど、アメリカだと、どっかに引っ越していたりすると、まず、探すのが大変です。
てなことを思っていると、滞在しているホテル(もちろん、日本のホテルです)のロビーでフロントに行こうとしていると、従業員の人が、"May I help you?"と声をかけてきました。私は、一体、なに人に見えてるんでしょうか???
日本に来て、何が嬉しいかと言うと、お好み焼きとか、たこ焼きとか、明石焼きとか、うどんとか、そばとか、普通に安くて美味しいものが食べれることです。アメリカに行く前は、こういうものを食べて、うまいときは、「美味しい」とは思っても、だから、「幸せ」だとは思わなかったけど、いや、今はホントに幸せですね。美味しいお好み焼きが食べれることは。だいたい、ファミレスに入って、1000円くらいのランチを食べて、デミグラスソースがかかっていて、うまいと思って、涙がでそうになりましたからね。ま、それだけ、アメリカのメシ(安いもの)がまずいといういことですけど、幸せが増えるということは、いいことです。いいのか、悪いのかわかりませんけど、得した気分になることは確かです。
てなことを思っていると、アメリカの自宅に、裁判所から陪審員として出廷せよという召還命令が! 陪審員?もちろん、アメリカの法廷ですから、アメリカの市民でないと、陪審員になれません。私は、もちろん、アメリカの市民ではありませんから、ソーシャルセキュリティナンバーか、何かから適当に抽出して、送ってるんでしょうね。アメリカらしい適当さです。でも、なれないならなれないと返事をしないと、罰則が科せられるらしく、ほうっておくわけにもいきません。
だいたい、アメリカには住民票というものも、住民台帳というものもありません。だから、どこに誰が住んでいるかというのは、正確にはわからないわけで、引っ越したとしても、転入手続きとか、そういったものもありません。だから、引っ越してまずしなければならないのは、電気などのユーティリティの申込みで、それができて、電気会社から請求書が送られてきたら、それを大切にもっていおいて、それで銀行口座を開くときなどに、そこに住んでいるという証明にしたりするわけです。なので、人口なども適当に数えていて、大体、このブロックには何人が住んでいるから、都市全体で何人だというレベル。だから、アメリカの人口なんていうのは、2億強で、日本に二倍くらいだと言われていますけど、本当はもっと多いのではないか、というのが実感です。裁判なんかでも日本では住民票を元に郵送で訴状なんか送達しますけど、アメリカだと、どっかに引っ越していたりすると、まず、探すのが大変です。
てなことを思っていると、滞在しているホテル(もちろん、日本のホテルです)のロビーでフロントに行こうとしていると、従業員の人が、"May I help you?"と声をかけてきました。私は、一体、なに人に見えてるんでしょうか???
2006年05月08日
少年とげんごろう(2)
前回に引き続き、1995年6月に書いた文章です。
* * *
解決のみちすじ
〜持続可能な発展への政治の責任〜
左の円グラフを見て下さい。(注:グラフは1997年のもの)ゴミ全体の6割が包装紙やトレーなどの容器包装ゴミなのをご存じでしょうか。
今年(1995年)6月、容器包装リサイクル法が成立いたしました。施行は97年以降になりますが、ドイツ、フランスなどで同様のリサイクルシステムが既に大きな成果を上げており、私たちの国でも資源循環型社会に向け第一歩が踏み出されました。
これは、容器包装物(びんや缶、プラスチックのトレーやペットボトル、空き箱、紙袋などの商品についてくる容器や包装物)について、その容器製造業者や中身メーカーはそれらのごみを全てリサイクルし、商品として販売できるような形にしなければならないというものです。
業者自身が回収、リサイクルするか、地方自治体が分別回収したそれらのごみを専門の指定公益法人(名前未定)(注:容器包装リサイクル協会)がリサイクルし、その費用を各業者が自分のところの売上高に応じて負担するということになります。
例えば、ペットボトル入りのウーロン茶を買うと、消費者はそれを分別して捨て、地方自治体が分別回収する。それを指定法人がペレット等の原料に再商品化し、その費用をウーロン茶メーカーとペットボトルメーカーが負担するということになります。業者としては、全てリサイクルしなければならないのですから、コスト削減のため、よけいな容器やリサイクルしにくい容器はつくらず、ビール瓶のようなリターナブル瓶(何度でも使える瓶)が見直され、省資源化が促進されます。リサイクル費用が商品価格に入ることで、リサイクル製品の方が新しい原料を使った製品より高価になるというおかしな事もなくなり、経済も循環すると予測されます。これがうまくいくと、ごみ全体の6割も占めている容器包装物がなくなり、深刻なごみ問題の解決のめどがつき、新たなリサイクル産業が興ることも期待されています。
>注:2005年7月に発表された環境庁の「容器包装リサイクル制度見直しに係る中間取りまとめ」よると、ペットボトルの回収率は、平成9年に9.8%だったおものが、平成15年には48.5%になっているとのこと、また、平成9年ではゴミ処理場の残余年数が11.2年だったが、平成14年には若干改善して13.1年まで延びたとのこと。他方で、リターナブル瓶の使用料などは年々減っていっているようだ。<
環境と経済の調和
この法律が画期的な点は、今まで経済の枠の外にあった「商品を使った後の過程」を超すととして商品価格にいれ、市場経済の中に組み込んだということです。地球環境問題の本質は、環境はタダで手に入るものとして扱われ、経済取引で本来その保全のために負担すべき費用が組み込まれなかったところにあります。
つまり、原材料を乱獲してその地域の自然を悪化させたり、商品を大量生産し、その廃棄物を大気や海に流したりしても、その環境悪化分は費用とならなかったので、企業は安く仕入れ、安くつくることだけを考え、前後のことは考えなかったのです。それゆえ、その証人を使う私たち自身が環境を悪化することになります。
いわば、地球が太っ腹であったので、後始末は全部地球にまかせ、人間は地球を汚した分の支払をせずに甘えてきたけれど、それが行き過ぎて地球が危なくなり気がつけば倒産寸前になっていたという状況です。地球が終われば当然私たち人類の生活も終わるのですから、反省してこれからは大人になり自分の後始末は自分でつけることが求められているのです。
環境問題を語るとき、よく経済発展と両立しないと言われます。確かに、現状では何も買わない、何もしないことが環境には一番良いかもしれません。しかし、これでは多少経済が縮小しようと本質的な解決にはなりません。手遅れになる前に、経済構造を環境保全と両立しながら発展しうる循環型経済に変革することが不可欠です。
要は、環境悪化費用をどんどん経済に組み込むシステムを創り、環境に悪いことは損で、環境によいことは儲かるようにすることです。そのためには、
1 前述の容器リサイクル法を他の製品・分野にも及ぼし、リサイクルを前提としたモノ作りを当たり前にする。
2 環境を税制の基本におき、環境を悪化する行為には課税し、その分所得税や法人税など正当な所得から減税する。
3 環境に配慮した設備投資には大胆に優遇税制を導入し、融資の基準にも取り入れる。
4 公共投資全体においての環境への配慮を組み込み、グリーンGDPを基本にするなど抜本的な改革が必要です。
>注:グリーンGDP:国内純生産(NDP、国内総生産=GDPから自然資源の減耗分を差し引いたもの)から環境に関する外部不経済を貨幣評価した費用(帰属環境費用)を控除した「環境調整済国内純生産」(EDP;Eco Domestic Product)のこと<
私たち自身が意識を変え、環境に優しい生活をすることが何よりも必要なことですが、政治が果たすべき責任は、環境と経済を調査させる方向へダイナミックに社会を変革することだと強く思います。一つ一つこれを実現し、経済発展と環境保全の調和をはかること以外に、私たちに未来はないといっても言い過ぎではないと思います。
日本の役割
〜環境の日本が地球を救う〜
今年(1995年)11月に大阪でAPEC(アジア太平洋協力会議)が開催され、ますますアジア経済と日本経済との交流が深まっていきます。しかし、アジアの発展が従来の大量生産、大量消費型の経済である以上、力強い発展は、反面では環境をどんどん悪化させていきます。
中国では既に深刻な公害問題が発生しており、アジア全体がかつての日本が経験した公害問題に直面しつつあります。さらに、日本海側の強度の酸性雨にみられるようにアジアの環境汚染は日本の環境汚染につながり、このままでは地球規模の破綻を招くことは確実です。
今こそ、日本による日本のための経済援助ではなく、アジアに住む人々を見据えた環境面からの援助を重視すべき時ではないでしょうか。私たちの国が、率先して循環型社会をつくりあげ、環境保全技術と共にそのシステムとノウハウをアジアの国々に大胆に、積極的に援助し協力関係を築くこと。これが日本経済の活性化となり、アジアの信頼を得る最大の貢献だと思います。
ルワンダの紛争も原因は環境破壊による農業基盤の破綻にあるように、これからの世界の問題は環境問題を抜きにして解決できません。日本が環境という顔をもつことは、世界に対するゆるぎない外交政策と安全保障にもつながります。そして、食料の70%・エネルギーの95%を輸入に頼っている私たちの国が、21世紀に地球を救うことになるのか、それとも輸入が途絶え危機に瀕するのか、この一点にかかってくるといってもいいと思います。
>注:2004年度の食料自給率は約40%。ちなみにオーストラリア230%、アメリカ119%、フランス130%、英国74%で、主要先進国の中で最低水準。2000年におけるエネルギー自給率は4%で、事情は変わっていない。<
難しいことはないはずです。私たちが伝統的にもっていた自然を愛し、調和する文化を取り戻し、それを世界に発するビジョンとすることに他ならないのですから。
ゲンゴロウや蛙が身を呈して教えてくれているのは、そういうことではないでしょうか。

* * *
ここまで読んでくれた皆さん、どうも青臭くて、説教じみた文章で恐縮です(自分で読み返すと、少し恥ずかしいものがありますが)。リサイクル関連については、その後、容器包装リサイクルだけではなく、家電製品、建設資材、食品、自動車など、この法律の主旨にそったリサイクル法が次々と成立してきました。その意味では、日本は循環型社会へ進んで行っているんだと思います。
他方で、この問題が、地球規模で解決していかなければならないという点は、まだまだ解決へのみちすじがたっていない気がします。今は、中国の目ざましい発展の記事しか目にすることはありませんが、近い将来、必ず大きな環境問題がクローズアップされることになるだろうと思われます。アメリカにしたところで、いつまでも目をそらしているわけにはいかないでしょう。
当時は、政治家(になったような気分で)大上段に、えらそうに書いていますが、トヨタが環境技術で先行し、結果、GMを抜いて世界最大の自動車会社になろうとしているように、この問題について将来を見据えて戦略を立てていくのは、ビジネスにも直結します。資源のない私たちの国が、これら環境の問題の先を見据えてビジネスにつなげ、同時に昔からもっていた自然との調和という文化を理念としていくのは、やはり日本のこれからのとるべき途なんだろうという気持ちは変わりません。
どうも、拙文に付き合っていただき、ありがとうございました
* * *
解決のみちすじ
〜持続可能な発展への政治の責任〜

今年(1995年)6月、容器包装リサイクル法が成立いたしました。施行は97年以降になりますが、ドイツ、フランスなどで同様のリサイクルシステムが既に大きな成果を上げており、私たちの国でも資源循環型社会に向け第一歩が踏み出されました。
これは、容器包装物(びんや缶、プラスチックのトレーやペットボトル、空き箱、紙袋などの商品についてくる容器や包装物)について、その容器製造業者や中身メーカーはそれらのごみを全てリサイクルし、商品として販売できるような形にしなければならないというものです。
業者自身が回収、リサイクルするか、地方自治体が分別回収したそれらのごみを専門の指定公益法人(名前未定)(注:容器包装リサイクル協会)がリサイクルし、その費用を各業者が自分のところの売上高に応じて負担するということになります。
例えば、ペットボトル入りのウーロン茶を買うと、消費者はそれを分別して捨て、地方自治体が分別回収する。それを指定法人がペレット等の原料に再商品化し、その費用をウーロン茶メーカーとペットボトルメーカーが負担するということになります。業者としては、全てリサイクルしなければならないのですから、コスト削減のため、よけいな容器やリサイクルしにくい容器はつくらず、ビール瓶のようなリターナブル瓶(何度でも使える瓶)が見直され、省資源化が促進されます。リサイクル費用が商品価格に入ることで、リサイクル製品の方が新しい原料を使った製品より高価になるというおかしな事もなくなり、経済も循環すると予測されます。これがうまくいくと、ごみ全体の6割も占めている容器包装物がなくなり、深刻なごみ問題の解決のめどがつき、新たなリサイクル産業が興ることも期待されています。
>注:2005年7月に発表された環境庁の「容器包装リサイクル制度見直しに係る中間取りまとめ」よると、ペットボトルの回収率は、平成9年に9.8%だったおものが、平成15年には48.5%になっているとのこと、また、平成9年ではゴミ処理場の残余年数が11.2年だったが、平成14年には若干改善して13.1年まで延びたとのこと。他方で、リターナブル瓶の使用料などは年々減っていっているようだ。<
環境と経済の調和
この法律が画期的な点は、今まで経済の枠の外にあった「商品を使った後の過程」を超すととして商品価格にいれ、市場経済の中に組み込んだということです。地球環境問題の本質は、環境はタダで手に入るものとして扱われ、経済取引で本来その保全のために負担すべき費用が組み込まれなかったところにあります。
つまり、原材料を乱獲してその地域の自然を悪化させたり、商品を大量生産し、その廃棄物を大気や海に流したりしても、その環境悪化分は費用とならなかったので、企業は安く仕入れ、安くつくることだけを考え、前後のことは考えなかったのです。それゆえ、その証人を使う私たち自身が環境を悪化することになります。
いわば、地球が太っ腹であったので、後始末は全部地球にまかせ、人間は地球を汚した分の支払をせずに甘えてきたけれど、それが行き過ぎて地球が危なくなり気がつけば倒産寸前になっていたという状況です。地球が終われば当然私たち人類の生活も終わるのですから、反省してこれからは大人になり自分の後始末は自分でつけることが求められているのです。
環境問題を語るとき、よく経済発展と両立しないと言われます。確かに、現状では何も買わない、何もしないことが環境には一番良いかもしれません。しかし、これでは多少経済が縮小しようと本質的な解決にはなりません。手遅れになる前に、経済構造を環境保全と両立しながら発展しうる循環型経済に変革することが不可欠です。
要は、環境悪化費用をどんどん経済に組み込むシステムを創り、環境に悪いことは損で、環境によいことは儲かるようにすることです。そのためには、
1 前述の容器リサイクル法を他の製品・分野にも及ぼし、リサイクルを前提としたモノ作りを当たり前にする。
2 環境を税制の基本におき、環境を悪化する行為には課税し、その分所得税や法人税など正当な所得から減税する。
3 環境に配慮した設備投資には大胆に優遇税制を導入し、融資の基準にも取り入れる。
4 公共投資全体においての環境への配慮を組み込み、グリーンGDPを基本にするなど抜本的な改革が必要です。
>注:グリーンGDP:国内純生産(NDP、国内総生産=GDPから自然資源の減耗分を差し引いたもの)から環境に関する外部不経済を貨幣評価した費用(帰属環境費用)を控除した「環境調整済国内純生産」(EDP;Eco Domestic Product)のこと<
私たち自身が意識を変え、環境に優しい生活をすることが何よりも必要なことですが、政治が果たすべき責任は、環境と経済を調査させる方向へダイナミックに社会を変革することだと強く思います。一つ一つこれを実現し、経済発展と環境保全の調和をはかること以外に、私たちに未来はないといっても言い過ぎではないと思います。
日本の役割
〜環境の日本が地球を救う〜
今年(1995年)11月に大阪でAPEC(アジア太平洋協力会議)が開催され、ますますアジア経済と日本経済との交流が深まっていきます。しかし、アジアの発展が従来の大量生産、大量消費型の経済である以上、力強い発展は、反面では環境をどんどん悪化させていきます。
中国では既に深刻な公害問題が発生しており、アジア全体がかつての日本が経験した公害問題に直面しつつあります。さらに、日本海側の強度の酸性雨にみられるようにアジアの環境汚染は日本の環境汚染につながり、このままでは地球規模の破綻を招くことは確実です。
今こそ、日本による日本のための経済援助ではなく、アジアに住む人々を見据えた環境面からの援助を重視すべき時ではないでしょうか。私たちの国が、率先して循環型社会をつくりあげ、環境保全技術と共にそのシステムとノウハウをアジアの国々に大胆に、積極的に援助し協力関係を築くこと。これが日本経済の活性化となり、アジアの信頼を得る最大の貢献だと思います。
ルワンダの紛争も原因は環境破壊による農業基盤の破綻にあるように、これからの世界の問題は環境問題を抜きにして解決できません。日本が環境という顔をもつことは、世界に対するゆるぎない外交政策と安全保障にもつながります。そして、食料の70%・エネルギーの95%を輸入に頼っている私たちの国が、21世紀に地球を救うことになるのか、それとも輸入が途絶え危機に瀕するのか、この一点にかかってくるといってもいいと思います。
>注:2004年度の食料自給率は約40%。ちなみにオーストラリア230%、アメリカ119%、フランス130%、英国74%で、主要先進国の中で最低水準。2000年におけるエネルギー自給率は4%で、事情は変わっていない。<
難しいことはないはずです。私たちが伝統的にもっていた自然を愛し、調和する文化を取り戻し、それを世界に発するビジョンとすることに他ならないのですから。
ゲンゴロウや蛙が身を呈して教えてくれているのは、そういうことではないでしょうか。

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ここまで読んでくれた皆さん、どうも青臭くて、説教じみた文章で恐縮です(自分で読み返すと、少し恥ずかしいものがありますが)。リサイクル関連については、その後、容器包装リサイクルだけではなく、家電製品、建設資材、食品、自動車など、この法律の主旨にそったリサイクル法が次々と成立してきました。その意味では、日本は循環型社会へ進んで行っているんだと思います。
他方で、この問題が、地球規模で解決していかなければならないという点は、まだまだ解決へのみちすじがたっていない気がします。今は、中国の目ざましい発展の記事しか目にすることはありませんが、近い将来、必ず大きな環境問題がクローズアップされることになるだろうと思われます。アメリカにしたところで、いつまでも目をそらしているわけにはいかないでしょう。
当時は、政治家(になったような気分で)大上段に、えらそうに書いていますが、トヨタが環境技術で先行し、結果、GMを抜いて世界最大の自動車会社になろうとしているように、この問題について将来を見据えて戦略を立てていくのは、ビジネスにも直結します。資源のない私たちの国が、これら環境の問題の先を見据えてビジネスにつなげ、同時に昔からもっていた自然との調和という文化を理念としていくのは、やはり日本のこれからのとるべき途なんだろうという気持ちは変わりません。
どうも、拙文に付き合っていただき、ありがとうございました
2006年05月05日
少年とげんごろう(1)
先週は、(スタンリーと共に)日本に出張していました。夜、机の中の昔のものをごそごそと整理していたのだが、昔選挙に出たときのチラシがでてきたので、ふと読み返してみた。環境問題について書いたもので、「少年とげんごろう」という題。今、読み返してみて結構考えさせられるものがあって、アメリカに住んですっかり忘れかけていたことが、自分で書いたものであるだけに、ぐさぐさと突き刺さってきた。自戒を含めて、そのまま載せてみようかと思いました。1995年6月に書いたものですので、今から10年以上前です。なので、今とは事情が異なることも、また、危惧した通りとなっているとこもあります。わかる範囲で現在の情報も注で入れました。(長いので、わけてupします)
* * *
次の世代のために必要なこと
〜環境と経済の調和を〜
少年とげんごろう
先日、テレビを見ておりました。タレントがふんする探偵が、視聴者からの様様な依頼を視聴者と共に解決するという番組です。(注:探偵ナイトスクープのことですね、もうやってないんだろうなぁ?)その日の依頼者は、小学校低学年の少年で、水中図鑑で見た「ゲンゴロウ」を実際に見てみたいというのです。
そこで、探偵と共にいろいろな池や川を探し回るのですが、一向に見つかりません。しかなたく、専門の研究機関に問い合わせると、なんとゲンゴロウの生息する池は近畿地方で一ヶ所しか残っていないということでした。番組では、少年は特別に案内してもらい、とうとうゲンゴロウを捕まえるのですが、最後に池に放すときの少年の悲しそうな顔が印象的でした。
今年五月、日本のトキの絶滅が確実と報じられましたが、トキだけではなく私たちに身近な生き物の種類がどんどん減っています。(注:日本産のトキは、2003年10月に絶滅しました)ツルも周りに図柄があるのでたくさんいるような気がしますが、一時は33羽のみとなり、現在は保護政策が採られ、628羽が確認されているものの絶滅の危機に瀕しています。(注:2002年2月現在808羽)空を飛ぶ日本のツルが日本航空の飛行機だけというのがもやは冗談ではないのです。
町を離れると、北摂地域でもまだまだ緑が多く自然があふれている気がしますが、目に見えないところで生態系の破壊が進んでおり、環境庁の調査によれば、昆虫をのぞいた動物の15%以上、植物の16・8%以上、なんと日本の動植物の約6種に1種が絶滅の危機にさらされているのです。(注:平成17年3月の環境白書に基づいて計算しなおすと、昆虫をのぞく動物の21%以上となっており、さらに状況は悪化しています)
最近、さっばりカエルの鳴き声が聞かれなくなったことにお気づきでしょうか。80年代から世界中でカエルが絶滅、激減しており日本でも88年の調査ですでにトノサマガエルが福岡、青森県で、ダルマガエルが大阪府、兵庫県で、モリアオガエルが宮城、千葉県で生息が確認できていません。(注:国際自然保護連合IUCNの2004年10月の報告によれば、両生類の劇的な減少、1980年以降、新たに122種が絶滅危機に―両生類の3分の1が絶滅の危機にあることが最新の研究で明らかになった。これは、壊滅的な状況下であり、過去数千年単位の絶滅と同様の規模の絶滅をわずか1世紀で経験したことになる)
今の子供たちは水中図鑑でゲンゴロウにわくわくし、トノサマガエルを捕まえようと思っても、実際に手にすることが出来ないのです。
気がかりなのは、子供たちへの心への影響です。
遠い昔、あなたが小さい頃、虫をわざとつぶしてみたりしたことはありませんか? 子供はそういうことをしがちなものです。私自身もその一人でした。今でも虫を殺した後の何とも言えな罪悪感を生々しく思い起こすことができます。もう動かないカエルをみて悲しくなり、嫌なことをしたという罪悪感が心から離れませんでした。二度と戻らない命の大切さというものを、そんななんでもない遊びの中から体験した気がします。
今の子供たちのヒーローはファミコンの中にいます。何度死んでもリセットすれば生き返り、相手をつぶしたからといって嫌な感じを抱くことはありません。級友を自殺に追い込むまでいじめる「いじめ問題」が多発し、人を殺すことを何とも思わない偏差値エリートの殺人鬼集団が生まれたことと、無関係といえるでしょうか。
「命の大切さを知る」「他への思いやりを知る」ということ以上に教育で大切なことがあるとは思えません。小中学校の時から変えればすぐに塾にやり、自然の中で遊ぶ余裕もない教育を子供たちに与え、一方で少年からゲンゴロウの夢を奪った私たちの社会は、一体何を目指しているのでしょうか。
豊かさとは
戦後、日本は空前の経済発展を遂げ、物質的に豊かな社会になりました。しかし、経済発展や便利さ、快適さを追求しすぎたことが、反面で日本人が伝統的に持っていた心の豊かさを失わせた気がします。
開発の名の下に、コンクリートで固められて見る影もない山や川、古い街並みが壊され、無味乾燥なビルが立ち並ぶ町、北斎に描かれた美しい景観がもはやどこにも残っていない国土、古くなればすぐ新しいものを買い、使い捨てを多用する大量生産、大量消費、大量廃棄の社会。モノはなくとも大切に長く使い、自然を愛し、小さな生き物を歌にし、自然と調和した生活を送っていた時代に比べ、今の時代がどれだけ豊かなのでしょうか。
自然を大切にするというのは生まれいずる子や孫、将来の命を大切にするということであり、モノを大切にする心も人を大切にする心につながります。環境を重視する心は、自分だけよければよい、ここだけよければよい、という心を乗り越え、将来を、他を思いやる心につながると思います。教育の問題は、大人自身の生き方、社会のあり方ぬきには解決できないと思います。簡素で不便であっても環境に優しい自然と調和した美しい国にこそ、個性を伸ばし、一人一人を大切にする教育があるのではないでしょうか。
地球からのSOS
豊かさの質を問うまでもなく、地球環境問題が今の大量生産型社会には未来がないことを示しています。
地域的な環境汚染、自然破壊のほか、地球温暖化、オゾン層破壊、酸性雨による森林破壊などが地球規模で深刻化しています。フロンガスを原因とするオゾン層破壊ひとつを取ってみても、有害な紫外線Bの増加により、皮膚ガンや白内障が発生し、動植物の生育に悪影響を与えています。
現実にオーストラリアやカナダでは、子供たちが直射日光を浴びることを極力制限する政策を採っており、校庭や公園に日光を遮るためのテントが張られたり、新聞の天気予報欄にはバーンタイム(一日に連続して直射日光を浴びてもよい時間・晴れで15分くらい)が載っています。さらに恐ろしいことには、フロンガスはオゾン層に到達するまで約15年かかるので、本格的な被害はこれからです。日光浴という言葉が輝きを失い、仕事なるのも時間の問題でしょうか。
(参照:オゾンホールの規模の経年変化 1974年-2004年)

さらに、環境庁の予測では、二酸化炭素(排気ガス等)の増加による地球温暖化の影響で、100年後の日本では平均気温が3度、海面も65センチ(最大1メートル)上昇し、砂浜の8割消滅、ブナ林の4割が枯れ、現品種の米栽培が西日本で困難となることが報告されています。その過程で世界では何千万という環境難民が発生し、食糧危機がくることが確実視されています。
これら地球環境問題は、数ある問題の一つなのではなく、放置すれば私たちの文明が滅びるのが確実というレベルに来ています。しかし、目に見える被害が数十年先であったり、私たちの経済生活それ自体が原因であることから解決が先送りになっているのです。
日本は先進国の中で最も対策が遅れている国の一つで、92年のブラジル地球サミットで地球温暖化防止のため、「先進国は2000年までに二酸化炭素排出量を90年レベルに戻す」という公約にサインしながら、昨年(注:1994年)10月早々に公約は達成不可能という報告を国連に出しました。
>注:同ブラジル地球サミットで締結された気候変動枠組条約の目的を達成するため、1997年、京都で開かれたCOP3(第3回締約国会議)で「京都議定書」が採択された。ここでは先進諸国に対して、2008年〜2012年の間に、1990年比で温室効果ガスの削減が数値として義務づけられ(日本は6%)、日本を含む140カ国と欧州共同体が締結し、2005年2月16 日、京都議定書は発効した。<
また、日本では有害フロンの「製造」は規制されているものの、今まで作られたフロンの「回収」は義務付けられておらず、私たちが環境に良いと思ってノンフロンの製品に買い換えるとき、前のフロンが全部放出されてしまうのです(アメリカ・イギリスやドイツではフロンの「回収」が義務付けられており、放出自体に数百万円の罰金が課せられます)。いらない規制ばかり多くて、必要な規制はない、政治は何をしているのかと思います。
>注:日本でも遅まきながら、家電リサイクル法に基づき、家庭用冷蔵庫・冷凍庫、ルームエアコンについては2001年4月から、フロン回収破壊法に基づき、業務用冷凍空調機器については平成2002年4月から、カーエアコンについては2002年10月から、これらの機器の廃棄時に機器中に冷媒として残存しているフロン類(CFC、HCFC、HFC)の回収が義務付けられた。<
加えて、現在経済発展が著しいアジアの諸国が今後も成長を続けると、問題はさらに深刻になります。特に、日本の10倍の人口をもつ中国が日本と同様の経済生活をすることを目標にすればその過程で地球環境が破綻してしまうことは明らかです。(日本は地球の資源の15%を消費していますから、中国が同じことをすれば地球の150%、すなわち地球が1・5個必要です)
既に資源を使い、環境を破壊してきた先進国側がこれから経済発展しようとする国へストップをかける権利はありません。ではどうすればよいか、このままでは私たちの地球はつぶれてしまいます。そして、人間にとって地球は不可欠ですが、地球にとって人間はいなくともいいのです。21世紀を見据えたせ維持に本当に必要なのは第一にこの問題意識とその解決能力だと思います。
(続く)
* * *
地球環境問題については、この記事を書いた1995年当時よりも、社会的な認知度はかなり高まっていると思う。温暖化対策において立ち遅れていた日本も、1997年の京都議定書の採択で議長国を務め、その後、2005年に京都議定書が発効することになって、一定の前進がみられる。ただ、世界最大の排出国であるアメリカが議定書から離脱したままであるし、締約当時に開発途上国と見なされた中国・インドなどが経済的発展を遂げ、非効率なエネルギー政策で大量に温室効果ガスを発生させて、世界有数の排出国となっているにも関わらず、何ら義務を負っていないのも問題だ。
アメリカという国は、環境問題という観点からは、最も遅れた国の一つではないかと思う。ゴミの分別すらされていないし、どこにいってもプラスチック容器だらけで、食事にしたってどう考えても食べきれない量がだされて、それが結局容器と一緒にゴミ箱に流れ込んでいる。ただ、ハイブリッド車の人気などからみても、少しずつ変わってきている気もしており、次期大統領選で民主党候補が勝てば、京都議定書に対する対応も変わってくるのではないかと期待してる。
こういった環境分野は、いまビジネスの分野にもなりつつある。京都議定書で定められた、排出権取引(排出量取引)などに絡む法律問題なども面白そうだ。せっかくだし、このあたりの分野ももうちょっと掘り下げてみようかと思っている。
10年ぶりにみた自分の文章、青臭いけど、今、環境問題についてこれと同じレベルのものを書けるか、と言われると自信がない。いろんなことについて、アンテナの感度を鈍らせてはだめだなと改めて思った次第。次は、これらの問題について、当時、自分なりに解決法を提示しています。
* * *
次の世代のために必要なこと
〜環境と経済の調和を〜
少年とげんごろう

そこで、探偵と共にいろいろな池や川を探し回るのですが、一向に見つかりません。しかなたく、専門の研究機関に問い合わせると、なんとゲンゴロウの生息する池は近畿地方で一ヶ所しか残っていないということでした。番組では、少年は特別に案内してもらい、とうとうゲンゴロウを捕まえるのですが、最後に池に放すときの少年の悲しそうな顔が印象的でした。
今年五月、日本のトキの絶滅が確実と報じられましたが、トキだけではなく私たちに身近な生き物の種類がどんどん減っています。(注:日本産のトキは、2003年10月に絶滅しました)ツルも周りに図柄があるのでたくさんいるような気がしますが、一時は33羽のみとなり、現在は保護政策が採られ、628羽が確認されているものの絶滅の危機に瀕しています。(注:2002年2月現在808羽)空を飛ぶ日本のツルが日本航空の飛行機だけというのがもやは冗談ではないのです。
町を離れると、北摂地域でもまだまだ緑が多く自然があふれている気がしますが、目に見えないところで生態系の破壊が進んでおり、環境庁の調査によれば、昆虫をのぞいた動物の15%以上、植物の16・8%以上、なんと日本の動植物の約6種に1種が絶滅の危機にさらされているのです。(注:平成17年3月の環境白書に基づいて計算しなおすと、昆虫をのぞく動物の21%以上となっており、さらに状況は悪化しています)
最近、さっばりカエルの鳴き声が聞かれなくなったことにお気づきでしょうか。80年代から世界中でカエルが絶滅、激減しており日本でも88年の調査ですでにトノサマガエルが福岡、青森県で、ダルマガエルが大阪府、兵庫県で、モリアオガエルが宮城、千葉県で生息が確認できていません。(注:国際自然保護連合IUCNの2004年10月の報告によれば、両生類の劇的な減少、1980年以降、新たに122種が絶滅危機に―両生類の3分の1が絶滅の危機にあることが最新の研究で明らかになった。これは、壊滅的な状況下であり、過去数千年単位の絶滅と同様の規模の絶滅をわずか1世紀で経験したことになる)

気がかりなのは、子供たちへの心への影響です。
遠い昔、あなたが小さい頃、虫をわざとつぶしてみたりしたことはありませんか? 子供はそういうことをしがちなものです。私自身もその一人でした。今でも虫を殺した後の何とも言えな罪悪感を生々しく思い起こすことができます。もう動かないカエルをみて悲しくなり、嫌なことをしたという罪悪感が心から離れませんでした。二度と戻らない命の大切さというものを、そんななんでもない遊びの中から体験した気がします。
今の子供たちのヒーローはファミコンの中にいます。何度死んでもリセットすれば生き返り、相手をつぶしたからといって嫌な感じを抱くことはありません。級友を自殺に追い込むまでいじめる「いじめ問題」が多発し、人を殺すことを何とも思わない偏差値エリートの殺人鬼集団が生まれたことと、無関係といえるでしょうか。
「命の大切さを知る」「他への思いやりを知る」ということ以上に教育で大切なことがあるとは思えません。小中学校の時から変えればすぐに塾にやり、自然の中で遊ぶ余裕もない教育を子供たちに与え、一方で少年からゲンゴロウの夢を奪った私たちの社会は、一体何を目指しているのでしょうか。
豊かさとは
戦後、日本は空前の経済発展を遂げ、物質的に豊かな社会になりました。しかし、経済発展や便利さ、快適さを追求しすぎたことが、反面で日本人が伝統的に持っていた心の豊かさを失わせた気がします。
開発の名の下に、コンクリートで固められて見る影もない山や川、古い街並みが壊され、無味乾燥なビルが立ち並ぶ町、北斎に描かれた美しい景観がもはやどこにも残っていない国土、古くなればすぐ新しいものを買い、使い捨てを多用する大量生産、大量消費、大量廃棄の社会。モノはなくとも大切に長く使い、自然を愛し、小さな生き物を歌にし、自然と調和した生活を送っていた時代に比べ、今の時代がどれだけ豊かなのでしょうか。
自然を大切にするというのは生まれいずる子や孫、将来の命を大切にするということであり、モノを大切にする心も人を大切にする心につながります。環境を重視する心は、自分だけよければよい、ここだけよければよい、という心を乗り越え、将来を、他を思いやる心につながると思います。教育の問題は、大人自身の生き方、社会のあり方ぬきには解決できないと思います。簡素で不便であっても環境に優しい自然と調和した美しい国にこそ、個性を伸ばし、一人一人を大切にする教育があるのではないでしょうか。
地球からのSOS

地域的な環境汚染、自然破壊のほか、地球温暖化、オゾン層破壊、酸性雨による森林破壊などが地球規模で深刻化しています。フロンガスを原因とするオゾン層破壊ひとつを取ってみても、有害な紫外線Bの増加により、皮膚ガンや白内障が発生し、動植物の生育に悪影響を与えています。
現実にオーストラリアやカナダでは、子供たちが直射日光を浴びることを極力制限する政策を採っており、校庭や公園に日光を遮るためのテントが張られたり、新聞の天気予報欄にはバーンタイム(一日に連続して直射日光を浴びてもよい時間・晴れで15分くらい)が載っています。さらに恐ろしいことには、フロンガスはオゾン層に到達するまで約15年かかるので、本格的な被害はこれからです。日光浴という言葉が輝きを失い、仕事なるのも時間の問題でしょうか。
(参照:オゾンホールの規模の経年変化 1974年-2004年)

さらに、環境庁の予測では、二酸化炭素(排気ガス等)の増加による地球温暖化の影響で、100年後の日本では平均気温が3度、海面も65センチ(最大1メートル)上昇し、砂浜の8割消滅、ブナ林の4割が枯れ、現品種の米栽培が西日本で困難となることが報告されています。その過程で世界では何千万という環境難民が発生し、食糧危機がくることが確実視されています。
これら地球環境問題は、数ある問題の一つなのではなく、放置すれば私たちの文明が滅びるのが確実というレベルに来ています。しかし、目に見える被害が数十年先であったり、私たちの経済生活それ自体が原因であることから解決が先送りになっているのです。
日本は先進国の中で最も対策が遅れている国の一つで、92年のブラジル地球サミットで地球温暖化防止のため、「先進国は2000年までに二酸化炭素排出量を90年レベルに戻す」という公約にサインしながら、昨年(注:1994年)10月早々に公約は達成不可能という報告を国連に出しました。
>注:同ブラジル地球サミットで締結された気候変動枠組条約の目的を達成するため、1997年、京都で開かれたCOP3(第3回締約国会議)で「京都議定書」が採択された。ここでは先進諸国に対して、2008年〜2012年の間に、1990年比で温室効果ガスの削減が数値として義務づけられ(日本は6%)、日本を含む140カ国と欧州共同体が締結し、2005年2月16 日、京都議定書は発効した。<
また、日本では有害フロンの「製造」は規制されているものの、今まで作られたフロンの「回収」は義務付けられておらず、私たちが環境に良いと思ってノンフロンの製品に買い換えるとき、前のフロンが全部放出されてしまうのです(アメリカ・イギリスやドイツではフロンの「回収」が義務付けられており、放出自体に数百万円の罰金が課せられます)。いらない規制ばかり多くて、必要な規制はない、政治は何をしているのかと思います。
>注:日本でも遅まきながら、家電リサイクル法に基づき、家庭用冷蔵庫・冷凍庫、ルームエアコンについては2001年4月から、フロン回収破壊法に基づき、業務用冷凍空調機器については平成2002年4月から、カーエアコンについては2002年10月から、これらの機器の廃棄時に機器中に冷媒として残存しているフロン類(CFC、HCFC、HFC)の回収が義務付けられた。<
加えて、現在経済発展が著しいアジアの諸国が今後も成長を続けると、問題はさらに深刻になります。特に、日本の10倍の人口をもつ中国が日本と同様の経済生活をすることを目標にすればその過程で地球環境が破綻してしまうことは明らかです。(日本は地球の資源の15%を消費していますから、中国が同じことをすれば地球の150%、すなわち地球が1・5個必要です)
既に資源を使い、環境を破壊してきた先進国側がこれから経済発展しようとする国へストップをかける権利はありません。ではどうすればよいか、このままでは私たちの地球はつぶれてしまいます。そして、人間にとって地球は不可欠ですが、地球にとって人間はいなくともいいのです。21世紀を見据えたせ維持に本当に必要なのは第一にこの問題意識とその解決能力だと思います。
(続く)
* * *
地球環境問題については、この記事を書いた1995年当時よりも、社会的な認知度はかなり高まっていると思う。温暖化対策において立ち遅れていた日本も、1997年の京都議定書の採択で議長国を務め、その後、2005年に京都議定書が発効することになって、一定の前進がみられる。ただ、世界最大の排出国であるアメリカが議定書から離脱したままであるし、締約当時に開発途上国と見なされた中国・インドなどが経済的発展を遂げ、非効率なエネルギー政策で大量に温室効果ガスを発生させて、世界有数の排出国となっているにも関わらず、何ら義務を負っていないのも問題だ。
アメリカという国は、環境問題という観点からは、最も遅れた国の一つではないかと思う。ゴミの分別すらされていないし、どこにいってもプラスチック容器だらけで、食事にしたってどう考えても食べきれない量がだされて、それが結局容器と一緒にゴミ箱に流れ込んでいる。ただ、ハイブリッド車の人気などからみても、少しずつ変わってきている気もしており、次期大統領選で民主党候補が勝てば、京都議定書に対する対応も変わってくるのではないかと期待してる。
こういった環境分野は、いまビジネスの分野にもなりつつある。京都議定書で定められた、排出権取引(排出量取引)などに絡む法律問題なども面白そうだ。せっかくだし、このあたりの分野ももうちょっと掘り下げてみようかと思っている。
10年ぶりにみた自分の文章、青臭いけど、今、環境問題についてこれと同じレベルのものを書けるか、と言われると自信がない。いろんなことについて、アンテナの感度を鈍らせてはだめだなと改めて思った次第。次は、これらの問題について、当時、自分なりに解決法を提示しています。
2006年05月04日
スタンリー、日本に行く
僕は、スタンリー。少々平べったいので、Flat Stanleyとも呼ばれる。今回、わけあって、世界各国に派遣されることになり、日本出張に同行させてもらうことにした。
日本らしいところに連れて行けという強い要望に、「いそがしいねんけど」とか言われながら、しぶしぶ連れて行ってくれたのが、住吉大社。1800年の歴史があるらしい。
。
僕にとっては、この橋を渡るのも一苦労だった。
ようやく渡りきって、一休み。
きっちり手を洗うようにと、口うるさいから、手を洗ったけど、はまっておぼれたらどうしてくれるんだ?
日本の猫は、アメリカの猫にくらべておとなしくていい。
夜は、日本料理に。大福さんに、気に入られて。

ここだけの話だが、ビールも飲ませてもらった。やっぱ、日本のビールはええわ、と言いながら僕をもっているのは、「もうかりまっか?」が口癖のアメリカ人弁護士。

やめてくれ〜! 僕はてんぷらのネタとちゃうし。Fried Stanleyはしゃれならんで!
* * *
「世界を知る」週というのが、Kindergarten(幼稚園)であって、園児たちがつくったたくさんのスタンリーたちが、ある者は、手紙にいれられ、ある者は、かばんに潜みこみ、世界各国の親戚や友人のもとへ飛び立つことになる。それで、現地にいったという証拠写真とともに、また、園児たちの元にもどってくるわけである。そして、それをもとに、園児たちは、世界の国や暮らしを勉強しようというプログラム。アメリカらしい。
スタンリーと私を見かけたみなさん、非常〜に、気味悪く思われたかもしれませんが、決して怪しい奴ではありませんので、念のため
2006年04月20日
宣誓式
ニューヨーク州の州都、アルバニーの州議会議事堂です。アルバニーに来るのは、昨年の夏、ここでニューヨーク州の司法試験を受けて以来。今回は、弁護士登録のためのインタビューと宣誓式に出席するためやってきました。州外に住んでいる人は、マンハッタンではなくて、ここアルバニーで宣誓式があります。
Bar Admissionのためのインタビューってことで、一体何を聞かれるのか?と、一応、少しは身構えてやってきたのだが、「今シカゴで働いているの?NYでは働かないの? あ、そう日本に帰る予定なの。日本でも弁護士なの? じゃ、日本でもNYの関係の仕事ってあるんだ?、、、」てな具合で世間話で終わって拍子抜け。
宣誓式も、みんなが前にあつまって右手を挙げて、合衆国憲法とニューヨーク州憲法を守り、弁護士の職分を全うする、云々ですぐに終わって、That's it?って感じでした。でも、まあこれで晴れてニューヨーク州の弁護士登録ができたわけです。アメリカ人の弁護士などは、家族総出でやってきて、記念写真など撮ったりしてたけど、もう少したいそうな式を期待していただろうに。。1月の宣誓式はもっと式らしい式で、盛大らしいのだが、準備に手間取って書類を遅く出したので、簡易版の宣誓式にまわされてしまったわけです。
ところで、日本で弁護士になるときは、このような宣誓などなかったように思うのだが、仮に日本国憲法を守ると宣誓していた場合、合衆国憲法も守ると宣誓した場合、相互の憲法が相反するような事態になったときどういう態度をとるべきなのか?と、しょうもないことを考えてしまいました。日本の憲法の場合、アメリカの憲法と同じようなものなので、特に相反するようなことはないと思うのだけど、他にも色々な国から来ているし、いろんな憲法があるだろうから。
結局は自分の信念に従って、正しいと思うことをやるしかないんでしょうね。
アルバニーという町は、州都なんだけどはっきり言ってなんにも見所がないところで、宣誓式がすぐ終わったので、飛行機の時間まで何をして過ごすか結構悩むものがあった。行きがけのタクシーの運ちゃんがJack'sというレストランが良いって言っていたので、そこでゆっくりランチでもすることに。ちなみに、前回試験を受けに来たときもそうだったのだが、アルバニーのタクシーの運ちゃんは、おしゃべりで、空港からダウンタウンに着くまで、なんやかんやとずっとしゃべっている。前にここに来たのは、夏に試験を受けに来たときだというと、「そうか!その時乗ったのはうちのキャブだろう?、そうに違いない。うちのキャブは縁起が良いんだ。乗ったらみんな合格だ!」と調子が良い。
前にのった時の運ちゃんは、「冬に又会いましょう!」なんて言っていたのだけど。

2006年04月17日
ラスベガス

ベラッジオのエントランス。次から次へと乗り付けられるリムジン。ラスベガスのカジノは、ホテルごとにあるけど、ここのカジノはいい雰囲気です。私が好きなのは、ブラックジャック。初心者でも、少し慣れてルールがわかってくると十分勝てるし、親の目と、自分の目をくらべてダブルダウンやスプリットなど、単なる札の善し悪しだけではない駆け引きが楽しめる。


噴水ショーも人気。雨が全然降らない砂漠の中で、これだけの水を集めて噴水ショーをすると言うこと自体、非合理的で、ラスベガスの象徴のようなものですね。
大人のためのディズニーランドのようなところです。
パリスホテルの噴水。ベラッジオのブッフェも良かったですが、ここのブッフェもなかなか美味しかった。
次の日は、ハマーで、デスバレーに行ってきました。ハマーは、レンタカー屋のお姉さんに、入りたての新車でcoolだから、是非是非とのせられて借りたものでしたが、砂漠には似合ってましたね、、(ちなみに、一日75ドルでしたから、割り勘すれば、お値打ちです)
ハーレーもこういう風景にはぴったりです。
デスバレーへ向かう道。こういう道が果てしなく続くところです。改めて、アメリカの広さを実感。何にもないところというのは、昔から、そして、未来も何にもないんでしょうね。
デスバレーの見所の一つ、devil's golf course(悪魔のゴルフ場)です。もとは、塩湖があったところが干上がって、ごつごつしているのは、全て塩の塊です。確かにここでゴルフすれば、ロストボールだらけでしょうが、悪魔もここではやる気おこらんでしょう。
その先にあるbad waterというところ。ここは、塩の平面が地平線まで続いているところです。さっきのdevil's golf courseとはつながっているのですが、こっちは平らです。ちなみに、海面下80メートルで、夏には、気温が50度を超え、地表近くでは90度近くなって、まさにデスバレーという状態になるらしい。信じがたい風景の一つですね。
ちなみに、下記は友人の感想です。皆さんも、日常を忘れて楽しむなら、一度は訪れてみられては?!
「いやいや、ラスベガスは楽しかったですわ。街そのものが徹底して観光客を楽し
ませようとしてるし、何もかもバカでかいし、日帰り圏内に「あり得ない風景」
の国立公園が有るし、三日足らずでは全然まわりきれないところですな。なんせ
滞在中は「ごっついなぁ」の連続でした。これってアメリカのでっかさそのもの
の様な気がしますなぁ。食べ物がでっかい、人間がでっかい、ホテルがでっかい
、風景もでっかい、国土なんかもっとでっかい、とにかく何もかもでっかい国なん
ですな。いやいや、その昔日本はこんな国に戦争を挑んだとは。そら勝てまへん
わな。よっぽどバカやったか、わかってたけどよっぽど捨て身やったか、どっち
かなんでしょうな。」
楽しんでいただいたようで、良かったです。ちなみに、カジノで勝つコツは? 唯一、勝っている時にやめることです。といっても、これが難なわけですが、勝った時にテーブルをたって、チップをキャッシュに換えると、頭が冷えて、もったいなくなって、またせこいかけ方で楽しめますので。
2006年04月01日
New York New York

そりゃ、シカゴの方が美しいし、綺麗ですよ。ゴミもないし、道も広いし、歩道の脇には花壇なんかもある。ビルもね、シカゴのビルの方が高いし、趣もある。
でもね、NY、面白いところですね、Excitingですね。アメリカの都会というより、世界の都会って感じ。世界中から人が集まって来ている。好きな街です。
パーティの次の日はぶらぶらとニューヨーク観光。
まずは、国連 United Nations
このモニュメントは、国連本部の入り口のところにあります。「鉄砲ダメ!」とね、小さい子供にもはっきりわかるこの力強さ。気に入りました。改めて、ここはアメリカではなく、国連の敷地なんだと思った。スーパーで鉄砲売っている国ですからね、ここは。
国連職員さんのツアーガイドに連れられて、国連本部の見学です。アフリカ出身のガイドさんらしく、民族衣装来ていましたが、なまりのない綺麗な英語でいろんな専門的な質問にも色々答えてくれました。
Security Council 安全保障理事会の会議場です。どうしても、この椅子に座りたいわけですね、日本は。座り心地はどうなんでしょうね。私としては、座ってもいいと思うんですよ。でも、それなりに気合いいりますよ。国民もね。
ご存じ、国連総会が開かれる総会議場です。それなりに、感慨深いものがありますね。休みの日だったので、丁度高校生たちが各国を代表する役割で、模擬総会をやってました。日本の子供の皆さん、こういうところで、堂々と意見を言えるような、そういう子供になって下さい。そのために勉強して下さい、世界で活躍できるように、世界平和のためにね。
廊下には、広島の原爆の惨状を示す写真やとけた生活用品などが並び、まだ、世界各地の紛争地の7,8才の子供がマシンガンをもった少年兵の写真がじっとこっちを見つめている。アメリカの正義だけではない、人間としての正義が、ここでは感じとれた。
行ってみてよかったですね、国連。60年たって、色んなところでほころびがでたり、その意味が問われたりしていますけど、最初につくったときの人々の気持ちがまだ息づいている気がします。理屈じゃなくて、みんな、その時は、情で共感したんですよね、もう、殺し合いはやめておこうって。
Sohoです。街並みは、なんというか、普通のアメリカの下町という感じですけど、いろんなセレクトショップやマニア受けする店が集まっていて面白いですね。大阪で言うと、南堀江みたいなとこですね。昼飯に手打ちそば食えたのは満足でした。
タイムズスクエアから、ブロードウェイにかけての風景です。アメリカで、一番日本の繁華街に近いところ。人混みと乱雑さ、活気が溢れています。
ミュージカルのライオンキングも観てきました。アフリカ出身の歌手の声量が圧倒的。さすが、ブロードウェイ、期待は裏切らん。
次の日も、観光の続き。ニューヨーク現代美術館(MOMA)から2点ほど。

Rene MargritteのThe Loversです。どうですか? 恋愛ってこんな感じじゃないですか?
DaliのRetrospective Bust of a Womanです。女性の胸の回顧、とでも訳せばいいのですかね? 額についている点々はアリです。シュールだけど、美しいですね。美と生命とはかなさ、というのを感じます。
最後はうってかわって、Barneys New York
確かに、シカゴにはいなさそうなお洒落な女性が沢山いましたね。ちなみに、私としては、たいがい疲れて、椅子だと思って腰掛けたら、展示品のオブジェで、もう少しでひっくり返ってえらいことになるとこでした。。。(冷汗)
2006年03月30日
Party in New York
今日は、アメリカでの弁護士生活の華やかな面を少しばかりご紹介。
先週、ニューヨークのウォルドルフ・アストリアホテル(Waldorf-Astoria)で開かれたニューヨーク知的財産権法律協会が主催する連邦裁判所判事とのディナーパーティに参加してきた。
ウォルドルフホテルをすべて借り切って行われ、男性は全員タキシード、女性はドレスのいわゆるブラックタイ・パーティで、各大事務所から来たIP関係の弁護士ら3000人以上が参加して行われた。
私も、タキシード持参! もはや、はまらないかもと心配していたズボンのホックも無事とまり、ボウタイをつけて、腹巻きよろしくカマーベルトをつけたところまではよかったが、シャツのボタンがない。。。
ドレスシャツは、ボタンが取り外し式になっていて、そういえばクリーニングに出した時に外してそのまま忘れてきたんだった。。 これじゃあ、ボウタイとカマーベルトの間でシャツがはだけて、胸が丸見えになってしまう。女性ならそれも喜ばれるかもしれないが、私じゃだれも喜ばんし、冷たい視線を浴びることは容易に想像ができた。う〜ん、、
仕方ないので、これはもう笑かしてやるしかないかと思って、安全ピンでも借りようとコンシェルジュに行ったのだが、初老のコンシェルジュは、ささっと引き出しからドレスボタンの一揃えを出してくれて、どうぞお使い下さいときた。さすがウォルドルフ。忘れる御仁も多いのだろう。
で、颯爽とパーティ会場に。
アメリカでは、弁護士の集まりでも、このようなフォーマルパーティが開かれることも多く、社交の場となっている。パーティ自体は、夕方のカクテルから始まり、夜8時くらいからディナー、そしてディナーが終わってから深夜2時、3時までみなお酒を片手に、立ったままぶっ続けでしゃべり続けている。
寝静まることのないNew Yorkの夜と、絢爛豪華なホテル、押しの強そうなアメリカ人弁護士がそこらあたりにあふれかえっている光景を目の当たりにして、弁護士の集まりといえば弁護士会の会派の集会くらいしか経験がなかった自分としては、なんというか圧倒されるものがあって、こういう世界もあるんだというカルチャーショックでもあった。
で、ビシッと決まったタキシード姿の私の写真も、アップしてお披露目しようかと、一瞬思ったんだけど、やめときます。(大木こだま・ひびきと間違われてもいけないし、いきなりカウンター数が下がってしまっても悲しいので)(話変わりますけど、あのチていう歌、笑えますよね)
2006年03月29日
中絶禁止法(3) Pro-Life vs Pro-Choice
では、中絶禁止法が成立した州で、やむを得ぬ事情で中絶をしたいと思う女性はどうしたらいいのか?
中絶が禁止されていない州にいって中絶手術を受けるのである。
そこで、例えば中絶が禁止されていない州で、中絶をするためには、少なくとも30日間の州内の居住が必要である、とするような法律の定めがあった場合、これが合憲かどうかが問題となり、アメリカの司法試験にでたりもする。こうすることによって、州外から手術を受けようとする人が来るのを事実上阻止しようとするわけだ。
この問題には、いくつか憲法上の問題がある。
まず、30日も居住要件を課すことが、Roe v. Wade判決で示されたPre Viability(胎児の胎外生存可能性時期以前)における中絶の自由に対する不当な制限(Undue Burden)とならないかどうか。この点では、24時間のウェイティングピリオドを合憲とした判決はあるものの、30日では長すぎて不当な制限となるだろう。だから、この点でプライバシーの権利に反することになる。
次に、こういう州法をつくることにより、「他州の人を差別しているのではないか」ということが問題となる。前回のエントリーで述べた第14修正は、Equal Protection(法の下の平等)も定めており、そこから認められる、Right to travel(移転の権利)の侵害ともなる。各州が各種の権利享受の要件に一定期間の居住要件を課して、新住民を旧住民よりも不利に扱うことは、この権利の侵害となり、州にcompelling interest(やむにやまれぬ利益)がないと制限ができない。
なので、司法試験的には、Right of PrivacyとRight to travelに反して違憲、というのが正解となる。ただ、現実的には、他州に行けばいいと、そう簡単に割り切れるものではない。実際に、やむを得ない理由で中絶を望む女性には、他州に行くお金も交通手段もないケースが多いと考えられるからである。
この問題については、アメリカ人の女性弁護士とも議論した。彼女は、Pro-Choice派だ。Roe v. Wadeで示されたように、妊娠初期においては完全な中絶の自由は女性個人の権利で、それに対する一切の制限はすべきではないとの立場。レイプの被害にあった女性にまで中絶を禁止し、産めというのは、10ヶ月間そのレイプ犯の子供をお腹にいれて耐えろということであり、肉体的にも精神的にも被害女性にとって耐え難い苦痛で、ばかげていると言っていた。胎児と生まれた人間では、権利の取り扱いにおいても差異があっても仕方ない話で、胎児と生まれた人間とで全く同じだと考えるのはおかしいと言う。
ただ、この話題は、一種のタブーで、相手がどちらの立場であるかわからない限り話をするのは躊躇するとも言っていた。Pro-Life派というのは、キリスト教に基づき、人間の誕生は、妊娠したときからだという強い信仰に近い確信から来ているため、Pro-Choice派と議論したところで、いつまでたっても平行線で、議論の結果何かが生まれるということは全く期待できないからだと。
キリスト教でも、カトリックが一番そうであって、プロテスタントは宗派によって温度差がある。そして、アメリカ人をPro-Choice派とPro-Life派に分けた場合は、55%:45%くらいでややPro-Choice派の方が多いくらいではないかと思うと。
最初のエントリーでの私の質問、Pro-Life派のサウスダコタの知事や議員は、「もし自分の娘が被害者となった場合でも、この理想論を押し切って、レイプ犯の子供を産んで育てなさいと言えるのであろうか?」という疑問については、おそらくそうだろうと。そして、産んで養子にだすだろうと思うと。もちろん、Pro-Life派にも温度差があるだろうから、皆がそういうわけでもないとは思うが、でも、他人の話という無責任な話ではなく、自分でもそうする覚悟があるというなら、もうこれはお互い話し合って結論を探ろうという話ではない。後は、これを他の人にも強制するかどうかという話で、これはもう宗教的信念だとしか言えない。
こういう真っ二つに議論が分かれた状況なうえ、お互い妥協することが期待できない問題なので、たとえ最高裁の判事に保守派の2人が加わったとしても、180度変わって中絶を合法とすることが違憲となるような事態は考えられない。ただ、Roe v. Wade判決のように妊娠初期において完全な中絶の自由を認める判断から、一歩距離を置いて、ある程度各州の裁量を認めるような判断を下すのではないか、と私自身は思ってる。
ここ何回か、中絶禁止法のことを書いてきたのは、アメリカにおいて政権選択の基準となるような重要な政治的、社会的問題であるのに、日本ではあまりその議論が紹介されてきていなかったから。
レイプ被害でも中絶禁止だって? なに考えてるんだアメリカ人は?
というのは簡単だが、アメリカ人のなかでも議論することすら躊躇するような微妙な問題であり、宗教的信仰と憲法上の自己決定権(プライバシーの権利)との対立があり、尊厳死や安楽死の是非にもつながる議論だということ、州により考え方が全くことなり、アメリカの分断という話もその延長線上に見え隠れしてくること。そして、こういった宗教的な信仰や政治的な問題においても、司法というのが深く関わり、全ての州をその管轄下におく連邦最高裁判所というのが、アメリカ社会に対してとても強い影響力を持っているということを伝えたかった。
中絶が禁止されていない州にいって中絶手術を受けるのである。
そこで、例えば中絶が禁止されていない州で、中絶をするためには、少なくとも30日間の州内の居住が必要である、とするような法律の定めがあった場合、これが合憲かどうかが問題となり、アメリカの司法試験にでたりもする。こうすることによって、州外から手術を受けようとする人が来るのを事実上阻止しようとするわけだ。
この問題には、いくつか憲法上の問題がある。
まず、30日も居住要件を課すことが、Roe v. Wade判決で示されたPre Viability(胎児の胎外生存可能性時期以前)における中絶の自由に対する不当な制限(Undue Burden)とならないかどうか。この点では、24時間のウェイティングピリオドを合憲とした判決はあるものの、30日では長すぎて不当な制限となるだろう。だから、この点でプライバシーの権利に反することになる。
次に、こういう州法をつくることにより、「他州の人を差別しているのではないか」ということが問題となる。前回のエントリーで述べた第14修正は、Equal Protection(法の下の平等)も定めており、そこから認められる、Right to travel(移転の権利)の侵害ともなる。各州が各種の権利享受の要件に一定期間の居住要件を課して、新住民を旧住民よりも不利に扱うことは、この権利の侵害となり、州にcompelling interest(やむにやまれぬ利益)がないと制限ができない。
なので、司法試験的には、Right of PrivacyとRight to travelに反して違憲、というのが正解となる。ただ、現実的には、他州に行けばいいと、そう簡単に割り切れるものではない。実際に、やむを得ない理由で中絶を望む女性には、他州に行くお金も交通手段もないケースが多いと考えられるからである。
この問題については、アメリカ人の女性弁護士とも議論した。彼女は、Pro-Choice派だ。Roe v. Wadeで示されたように、妊娠初期においては完全な中絶の自由は女性個人の権利で、それに対する一切の制限はすべきではないとの立場。レイプの被害にあった女性にまで中絶を禁止し、産めというのは、10ヶ月間そのレイプ犯の子供をお腹にいれて耐えろということであり、肉体的にも精神的にも被害女性にとって耐え難い苦痛で、ばかげていると言っていた。胎児と生まれた人間では、権利の取り扱いにおいても差異があっても仕方ない話で、胎児と生まれた人間とで全く同じだと考えるのはおかしいと言う。
ただ、この話題は、一種のタブーで、相手がどちらの立場であるかわからない限り話をするのは躊躇するとも言っていた。Pro-Life派というのは、キリスト教に基づき、人間の誕生は、妊娠したときからだという強い信仰に近い確信から来ているため、Pro-Choice派と議論したところで、いつまでたっても平行線で、議論の結果何かが生まれるということは全く期待できないからだと。
キリスト教でも、カトリックが一番そうであって、プロテスタントは宗派によって温度差がある。そして、アメリカ人をPro-Choice派とPro-Life派に分けた場合は、55%:45%くらいでややPro-Choice派の方が多いくらいではないかと思うと。
最初のエントリーでの私の質問、Pro-Life派のサウスダコタの知事や議員は、「もし自分の娘が被害者となった場合でも、この理想論を押し切って、レイプ犯の子供を産んで育てなさいと言えるのであろうか?」という疑問については、おそらくそうだろうと。そして、産んで養子にだすだろうと思うと。もちろん、Pro-Life派にも温度差があるだろうから、皆がそういうわけでもないとは思うが、でも、他人の話という無責任な話ではなく、自分でもそうする覚悟があるというなら、もうこれはお互い話し合って結論を探ろうという話ではない。後は、これを他の人にも強制するかどうかという話で、これはもう宗教的信念だとしか言えない。
こういう真っ二つに議論が分かれた状況なうえ、お互い妥協することが期待できない問題なので、たとえ最高裁の判事に保守派の2人が加わったとしても、180度変わって中絶を合法とすることが違憲となるような事態は考えられない。ただ、Roe v. Wade判決のように妊娠初期において完全な中絶の自由を認める判断から、一歩距離を置いて、ある程度各州の裁量を認めるような判断を下すのではないか、と私自身は思ってる。
ここ何回か、中絶禁止法のことを書いてきたのは、アメリカにおいて政権選択の基準となるような重要な政治的、社会的問題であるのに、日本ではあまりその議論が紹介されてきていなかったから。
レイプ被害でも中絶禁止だって? なに考えてるんだアメリカ人は?
というのは簡単だが、アメリカ人のなかでも議論することすら躊躇するような微妙な問題であり、宗教的信仰と憲法上の自己決定権(プライバシーの権利)との対立があり、尊厳死や安楽死の是非にもつながる議論だということ、州により考え方が全くことなり、アメリカの分断という話もその延長線上に見え隠れしてくること。そして、こういった宗教的な信仰や政治的な問題においても、司法というのが深く関わり、全ての州をその管轄下におく連邦最高裁判所というのが、アメリカ社会に対してとても強い影響力を持っているということを伝えたかった。