山村 楼

1.藤井彦四郎の経歴
 藤井彦四郎は明治9年(1899年)、近江商人三代目藤井善助の二男として滋賀県神埼郡北五個荘村大字宮庄で生れた。宮庄は金堂の北隣の村である。父は京都で店を経営していたので五個荘の本宅で母に育てられた。少年期は大変な腕白で村一番の餓鬼大将であったそうだ。
 大津に新設された県立商業高校(後の八幡商業高校)を中退し、朝鮮元山の近江商人宮原商店に奉公し修業を積んだ後、京都に戻り兄とともに父の家業に精励した。
 父の死後、明治40年(1907年)に藤井彦四郎商店を創業し糸商を営み、鳳凰印の『絹小町糸』等を販売し繁盛させた。

2.人造絹糸(人絹)の輸入販売
 藤井彦四郎は東京の西田嘉兵衛と共に日本の化学繊維(レーヨン)のパイオニアといわれる。彦四郎は研究心が旺盛で、海外の書籍、雑誌、文献等を研究していた。外国の新聞で1889年(明治22年)、フランスにおいてアーティフィシャル・シルク(人口絹糸)が発明され、光沢に優れ安価であるという記事を見て、日本市場での将来性を感じとった。彼はさっそく、フランス、ドイツから見本品を輸入して「人造絹糸(人絹)」と名付けて2千余りの京都西陣の機業者へ宣伝活動を行った。
 初期の人絹は品質が劣り、水濡れしたときの強度が弱く、光沢がありすぎるため天然の絹糸の風合いは及ばず、天然絹糸の代用品の扱いであった。しかし、藤井彦四郎や西田嘉兵衛等の必死の市場開拓の努力により次第に輸入量が増えていき、大正期に入ると帝国人絹(帝人)や旭絹織等により国産化につながって行った。 
 その後、彦四郎は毛糸の製造販売に事業の重点を移し、共同毛織株式会社、共同毛糸紡績株式会社を興して「スキー毛糸」のブランドで大成功を納めた。

3.近江商人のマーケティングとイノベーション
 ドラッカーは、企業の目的は顧客の創造であり、その基本的機能はマーケテイング(顧客の欲求を充足させる機能)とイノベーション(新しい満足を生み出す機能)であると述べている。
 江戸期の近江商人は、江戸や地方の顧客が求める古手(古着)や雑貨等を京・大阪から運んで供給した。帰路には、京・大阪の顧客が求める生糸や紅花等の物産を地方の産地から仕入れて供給した。いわゆるマーケティング機能を発揮して近江商人の地位を築いたといえる。
 藤井彦四郎は、生産量に限りある天然の繊維に代わる人造絹糸を輸入販売することにより新たな市場を開拓した。そして今日の巨大な化学繊維市場の礎を築いたパイオニアの一人であるといわれるようになった。彼はイノベーション機能を発揮した近江商人である。

4.藤井彦四郎邸
 滋賀県東近江市宮庄町に藤井彦四郎が昭和9年に建築した迎賓館が保存され公開されている。京都の宮大工を呼び寄せて、当時の金銭36,000円を投じて建造した敷地面積8155屐2500坪)、建物面積710屐215坪)の豪邸である。
 琵琶湖を模した800坪の回遊式庭園があり、東近江市市指定の名勝となっており多くの観光客が訪れている。
 東近江市ホームページ「近江商人屋敷 藤井彦四郎邸」  
 http://www.city.higashiomi.shiga.jp/0000000103.html


参考文献
 ・小倉栄一郎著『近江商人の系譜』1990年、社会思想社
 ・小倉栄一郎論文『江州商人の産業育成 −人絹工業−』
  インターネットPDF資料 http://ci.nii.ac.jp/naid/110006949692