May 14, 2007

SP:カツ丼日記

さて、唐突ではあるが、ここで説明をさせていただきたい。
なんの説明かというと、アタシの設定している意味不明な日記カテゴリの名前である。

【カツ丼】
とは何ぞや???

と思う方は非常に多いとは思うが、実は設定した張本人も良く分かっていないので、この場にて自分への再確認をしたいと思う。


【「カツ丼」について】

なぜ、カツ丼なのか。
原稿を見ながらブラインドタッチでキーボードを打つと誤字脱字は多が、原稿があるから修正はしやすい。しかし、原稿がない時に、伸びた爪で余所見をしながらキーを打ち、適当に漢字変換をしながら文章を綴ると、摩訶不思議な小説が出来上がる。

「・・・意味が分からぬ」

頭で考えている内容を、指先がツツツツツツと言葉に変えてモニターに映し出すから、脳みその中に残る文章はほとんどない。同時通訳と同じように、脳は文字をつむぎ出す作業に集中し指が文章を打ち出しているので、脳の中で深く考えている余裕などない。だから内容なんて、ほとんど印象に残らないのである。そのため、打った文章を最後に読み返し、「はて、オラは何を考えてこんなこと書いたんだっぺかな」と意味不明な表記を目の前にして「?」マークを思い描くことは、しばしばある。

さて、本題に戻ろう。
「なぜ、カツ丼なのか。」

多分、「カツ丼」ではなく「活動」と打ちたかったのだとおもう。

複雑な人間関係が網羅する封鎖的な環境を持つmixi(ミクシィ)に反吐が出るほど嫌悪感を抱いたのが、昨年末。それに依存する自分と、それに飽きる自分の存在に耐え切れなくて、ミクシィの中で築き上げた全ての人間関係を絶つという意味を示すが如く、2月1日の夕暮れ時に一人寂しく脱退ボタンをポチっと押した。その1プッシュは、1.5年間分の自分の記録と思い出を瞬時に消した。悔いはあるが悔いはない。矛盾。複雑な気分だったが、脱退した後は妙に気持ちが楽になった。日記へのコメント。メッセージの対応。毎日追い詰められていたものを"正式"にやらなくて良い。切迫感がなくなったことは、かなりの快感であった。

しかし、1.5年間、ミクシィというネットコミュニティに「依存」をしていたことが当たり前だったため、その期間に怠ってきたリアル世界での人間関係に完全復帰ができなくなった。ま、時代はテクノロジーの時代。ケータイやパソコンなどハイテク機械を使ってカチャカチャ文字打ち相手と交信することが近代社会でのコミュニケーションの一つだ。でも、知り合いの大多数が所属するミクシィを自ら脱退したということは、好んで村八分になったのと同じである。そのお陰で一人置いてきぼりを食らった気持ちを味わったのである。脱退してからしみじみと感じたことは、現代の日本社会において日本最大SNS「ミクシィ」に登録するということは、社会生活を送るにあたって案外必要なことなのかもしれない。

誰かに話を聞いてもらいたい。誰かに自分の存在を知ってもらいたい。誰かと繋がっていたい。誰かに、誰かに、誰かに。。。

ミクシィの利用目的は人それぞれである。自分の知り合いとの関係を密にするための道具として利用している人もいれば、起業するにあたって新しいビジネスパートナーを発掘したり、その事業の告知を大々的に行う人もいる。用途によって、自分のページの公開レベルを下げてプライバシーを守る人もいれば新しい出会いを求めて非常にオープンな関係を持つ人もいる。兎に角、ミクシィに登録している人数分の利用目的が存在するのである。しかしこれらの登録者全員に共通する「所属する意味」とはなんであるか、考えたことはあるだろうか。

【誰かと繋がっていたい】

という願望があるから所属するのである。単純な願いだ。

人は一人では生きて行けない生き物である。「人」という漢字が棒2本で支え合って成り立っているように、人は誰かに支えてもらわないと生きていけないのである。「あぁ。。。山奥で一人で自給自足の生活している人はどうなるんだ?」とか言う偏屈はいらない。「一匹狼だから誰の助けも要らないよ」というのは虚言である。「お前、コンビニで弁当買うだろ?それは誰かの手によって工場で作られてるんだ。従って、お前だって誰かに助けられて生きてるんだよ。」即ち、人間はイヤでも、この世に存在している限り死ぬまで誰かと繋がっていなくては生きて行けない、とても弱い生き物なのである。

だから、安易に他人と繋がっていられる環境は、とても有りがたいものである。そして、その環境を作り出しているのは、日本最高登録者数をもつミクシィである。

ミクシィは紹介者がいないと入れない。だから入る前から誰かと繋がっていることが条件である。そして、その環境に飛び込めば、更に色々な人と繋がることができ、それがもたらす影響は未知数である。ミクシィは、バーチャルリアリティの環境の中で「誰か」と「何か」をすることができる、非常に画期的な場所なのである。ところが、その便利な場所から一度抜け出すと一気に自分がちっぽけな存在であるということに気がつかされる。それは、ネット上で繋げた輪が「フッ」と消えてしまったからである。実世界では、どんな人でも1000人の友達を同時に作る事はできない。しかし、ミクシィではマイミクシィの登録限度1000人まで、友達を同時に作る事が可能である。「友達」の定義とは、人によってまちまちではあるが、親しい仲であることは間違いない。しかし、ミクシィの中での友達(マイミクシィ)関係は、実世界での親友からミクシィで偶然知り合って登録した人まで、親しみの度合いがバラバラである。しかし、そのバラバラな人々を一つにひっくるめて全員が「友達」という形としてミクシィでの友達関係の称号となる「マイミクシィ」に登録されるのだから、自分にはたくさんの仲間が増えたような気分になってとても嬉しい。マイミクが何百人と思うだけで有頂天となる。

でも、その輪から抜けてしまった身としては、その全ての繋がりが白紙となり人との繋がりとは如何に儚いものかと哀愁漂う気持ちだけが残るのである。


ところで、本題はなんであったか・・・


「なぜ、カツ丼なのか。」
記述ではあるが、活動を打ち間違えてカツ丼と打ったのである。

人は誰かと繋がっていたいという意味の裏に、自分を誰かに知ってもらい受け入れられたいという欲望を持っている。実社会において自己開示が上手にできる人、ネット社会だと素直になれるひと、はたまた何処に居ても自分を出せない人。人の性格は十人十色である。

アタシは「自己呈示」が下手な部類である。

人によると、アタシには「人見知りが無く社交的で誰とでも仲良くなれる」というイメージがあるそうだが、実は、面倒くさい人間関係と団体行動は大嫌いで極力避けたいものである。自分が相手して欲しい時に構ってもらわないと不機嫌にり、構って欲しくない時に構われても不機嫌になる。その上、構って欲しいとはゼッタイ自分では言えないくせに、構われないと不機嫌になるという、ワガママっぷりである。生まれつきのへそ曲がりには自分でも困る。

ところが「自己開示」は不得意ではない。

むしろ、自由奔放と言いたい放題なので失言が多い。そのお陰で、他人様の地雷は随時踏みっぱなしである。自分の意見を述べることが求められるアメリカ社会で鍛えられたせいか、生まれつき曲がったことが嫌いという性格のせいか、自分の心をオープンにさらけ出して、いつも自然体のままで相手と接したいという考えがある。

しかし「自己呈示」が苦手である。


だから、本当は、自分がどのように周りの人の目に映っているのかを知るのが怖い。

だけど、それをひっくるめて、ユイを受け入れて欲しいという願いを込めて始めたのが、ミクシィ日記ではなく【ばかは薬じゃ治らない the 三代目】なのである。元々ミクシィを始める前に同題名のブログを細々と綴っていたが、ミクシィでの濃厚な人間関係に明け暮れる毎日が続き、ブログの掲載を忘れてしまったので閉鎖してしまった。しかし、今となって、やはり、アタシには誰かに何かを訴え続ける場所が必要だと感じ、再度オープンしたのがこのブログである。

再度、問う。
「なぜ、カツ丼なのか。」

しつこいが、それは活動という文字を間違えて打った文字である。だけど、誤字であるということが重要なことではないことは、既にお分かりであろう。


【アタシは活動している】


自分という存在を明らかにして誰かにそっと知ってもらいたいだけなのである。相手は誰でもよい。ただそれだけのことだ。



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