2018年02月22日

穴/小山田浩子

つづけて『穴』。
「穴」は「工場」「いこぼれのむし」の続きみたいな気分で読んだ。職を辞して夫の実家の隣に住んで「主婦」みたいな暮らしをすることになる女主人公の話である。息苦しい職場から解放されたといって、万事良好となるわけでもなく、今度は他人の家に嫁入ることに対する不安みたいなものが、頭をもたげてくる。そしてその表象というか徴候としての謎の動物の出現。動物に導かれて「家」制度からドロップアウトした謎の「義兄」と出会うことになる・・・
しっかしなあ、とわたしは思う。相変わらずのもやもや感は素晴らしいのだけど、場所が都市から田舎へと移ったことで、「工場」であったモダンさも薄れてしまって、なにか当たり前の感じになってしまっている。単純に、工場や会社に謎の動物がいるのは違和感があって面白いが、田舎に動物がいても穴が開いていても、さほど違和感が生じないなあと。それに「工場」や「いこぼれのむし」でやっていた多視点的な書き方もやめてしまっていて、ますます普通だ。つまらない作品ではないし、芥川賞くらい貰ってもかまわないとは思うけれど、「工場」「いこぼれのむし」の次の一手としては不満というか、この作家に対する興味はやや薄れてしまった。
併載の「いたちなく」「ゆきの宿」は「ディスカス忌」に連なる連作。「ゆきの宿」は中心モチーフを欠いているためにやや上手くいっていない印象だが、「いたちなく」は「ディスカス忌」と同様に普通の意味でよく出来た短編といえるかもしれない。

著者のインタビューからの気に入った箇所の引用。

「そうですね。ただ、普段の生活の中で見ているものとか、やっていることでも、「書く」という行動を通すと、とても変なことに感じられることが多いんです。いつもやっていることを書いているだけなのに、それを後で読み返すと「こんな変なことをしているつもりはないんだけどな」と思うことがよくあります。 日常的なシーンであっても、文字に起こすと密度が違ってくるということは、作品全体を通してあるのかなと思います。」



穴 (新潮文庫)穴 (新潮文庫)
小山田 浩子

新潮社 2016-07-28




mdioibm at 18:14|PermalinkComments(0)読書録 

2018年02月20日

工場/小山田浩子

興味深く読んだ。
横光利一か、カフカを予感させるようなタイトルと装丁に引かれて手に取った。
表題作の「工場」は町ほどの規模のある巨大な工場で、役に立ってるのだかどうかも分からないような仕事をする末端事務員の非充足感とでもいったものを書いたもので、作者の実地の体験が題材にされているものと推測する。ストーリーはこれといってない。三人の視点人物を用意して、三者三様にぬるく働いていて、ところどころで接点を持つ。時系もやや複雑で、寄木みたいに一度ばらしてくっつけたみたいな体裁をしている。仕事の不毛さだとか、派遣だ正社員だといったやっさもっさや、職場の同僚との人間関係のもやもやだとか、したくもない共感をもよおすような、嫌な読み味で、伊井直行の会社小説なんかの感じにも近いかもしれない。で、カフカみたく大きく歪むのではないけれど、この作品の場合は、ややシュールに触れていて、工場の機構そのものがどこか非現実的だし、工場には独特の生態を営むウとヌートリアとトカゲが棲んでいるという話で、ストレートな幻想小説にはならないのだけど、なんか不穏で不気味なのだ。というより、「私」の抱えるここで自分は何をしているんだ?っていう不安や不満が、微妙に歪んだ現実という外部の表象を要請する、ということなのだろう。この作品自体はまだまだという感じだけど、その世界観は、心地よくはもちろんないけれど、気になる臭気を発してはいるというか、他のものを読んでみたい気にさせてくれた。
二つ目の「ディスカス忌」は熱帯魚狂いのボンボンの結婚にまつわる話。これも、表立ってではないけれども、半分怪奇小説みたいなものかと。嫁が酒のあてに炒り卵を作ってきたところに「味はつけたのかい?」って訊くとこなんか、良い。
三つ目の「いこぼれのむし」はこれも「工場」と似た感触を持つ作品だけど、幻想風味のない、リアリズムといっていい作品。出来としてはこっちの方がいいのかもしれない。会社のひとつの「部」内での話しで、使えない社員であることの屈託と子供を設けるかどうかの悩みみたいなものが主題になっている。この作品の場合内面の不安感は、虫の気色悪さという表象を得る。「工場」ほどに世界観に魅力はないけれど、話はまとまっているし、視点人物をコロコロ変えつつ話を進めるあたり巧いというか、けっこう読んでいて愉しかった。

工場工場
小山田 浩子

新潮社 2013-03-01




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2018年02月10日

SF的な宇宙で安全に暮らすていうこと/チャールズ・ユウ

円城訳ということで読んでみたのだけど、よく分からないし、面白くもなかったかなと。
タイムマシンとか出てくるけど、ガチのSFではなくて、メタSFというか、SFフィクション(つまりSFF)というか、そういうようなもんである。何しろガレージで釘とハンマーでタイムマシンを作るのだから無茶苦茶な話だ。というのも、主人公がいる宇宙が、我々がふつう現実と読んでいるところの宇宙ではなく、既にして「物語空間」みたいな宇宙であることが前提としてあるので、タイムマシンの原理といっても、つまるところ「過去の叙述」というだけのことに過ぎない。SF的な宇宙においては、語られつつある登場人物は、過去時制の物語の中にいるのか、現在の時点から回想されつつあるのかを、区別できない。読む立場からすればこうだ。今読みつつある記述が、回想されているものかなのか、タイムマシンで過去に遡った登場人物が目の当たりにしているものなのか、それを表示するマーカーがなければ、区別はできない。この物語の叙述行為をSF的に説明してしまうところが、この小説のユニークネスだと思うが、ガチなSF勢には白い眼で見られてしまうかもしれない。
で、主人公は自分で自分を撃ってしまってタイムループにはまり込んでしまう、とかいうことになるのだけど、これもあまり意味がないというか(ループに嵌った人物が記憶を保持できない場合、ループという設定のドラマ上の効果ってほとんどないような・・・)、結局主人公のひきこもり的精神状態のメタファーみたいなものなんだろう。そのループを抜け出すために、主人公は失踪した父親の行方を捜す。ということはつまり、父親の思い出を回想する。で、それによって当時は至り得なかった何かしらの理解にたどり着き、父親と直接再会するわけではないのだけど、その兆しみたいなものを受け取ることができて、おそらくループは脱することになるだろう、というところで話が終わる。
主人公に著者自身の名前が与えられてることからして、おそらくはパーソナルな思いのこもったものだと推察されるし、SFガジェットで盛大に目くらまししつつも、文学小説読むみたいなウェットな読み味が特徴ってことはいえると思う。しかしまあ、どっちをとっても一流というほどではなく・・・円城みたく豊富にアイデアがあるわけでもないし、家族ドラマとしてたとえば「フィールドオブドリームズ」みたく感動的ってわけでもないし、「並」の小説かなと。

SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)
チャールズ・ユウ 朝倉めぐみ

早川書房 2014-06-06


円城によるあとがきがないのが不満だが、このインタビューをみつけたので、あとがきの代わりとしてどうぞ。








mdioibm at 20:35|PermalinkComments(0)読書録 

2018年02月03日

ガラス玉演戯/ヘルマン・ヘッセ

ヘッセ最後の長編小説。これまで読んだ中では最も強力な作品といえそうだ。

カスターリエンという架空の州が舞台で、そこには国内からより抜かれた英才が集まり、国家の庇護のもと(世俗的な成功を放棄するかわりに)芸術科学人文学の自由な研究が許されている。プラトンのアカデメイアに比される学問都市であり、一種の宗教団体にも似たものであり、ヘッセの思い描く理想郷のようなものでもあったのだろう。音楽や文学といった分野は世俗の大学とも共有するものであるが、カスターリエンの他にない特色となっているのがガラス玉演戯(と瞑想)である。これがまあなんなのか、具体的にイメージするのは容易ではない。学術と芸術を統合する、これもまたアイデアルな、ファンタスティックなモチーフで、この本を異色なものにしている第一の要素ともいえそうだ。最初はガラス玉を様々に配置して遊ぶ学者たちの手遊びのようなものであったものが進化発展したものであるらしく、ラテン語の文法だろうが、何かしらの化学式であろうが、バッハの和声論であろうが、その演戯の構成に取り入れることができる。部屋で独りでもできるみたいだし、観客を前に演技することもある。入念な準備が必要だが、即興性もあるようだ。象形文字を使って、演戯の合間には瞑想の時間がある。というようなもので、あるらしいのだが・・・高度な(たとえば概念を駒に割り振るような)独り将棋、あるいは象形文字の付随した音階を奏でる楽器の独奏、あるいは即興で曼荼羅を描くよなパフォーマンスアート? いろいろと思い巡らしても、ぴったりなイメージは思いつかない。ヘッセはどんなものをイメージして書いていたのだろうか。
で、内容はといえば、幼少の頃に音楽名人によって資質を見出され、カスターリエンに招じられ、やがて異例の若さで「ガラス玉演戯名人」の地位を得ることになるヨーゼフ・クネヒトの伝記、ということになっている。正直、クネヒトがとんとん拍子に周りから認められ出世していく前半部はヘッセらしい気持ちの良さはあるのだけどいくらか凡庸だよなってあまり面白くもなく読んだのだけど、クネヒトがガラス玉名人を辞めようかと悩むあたりからやっと面白くなる。姿勢の良さもヘッセだけど、やはり熱い悩みこそがヘッセってところもある。しかもこの作品においては悩みの枠がパーソナルなものから、歴史的なものへと、ぐんと拡大している印象がある。執筆時のドイツの政治的状況が、ヘッセをそのような方向へと向かわせたことは想像に難くない。キリスト教の偉い僧侶との語らいを通じて、あるいは今は俗世で働いている旧友とのやりとりを通じて、クネヒトはカスターリエンは超越的な場ではなく、世界の一部にすぎないということ、そしてまた永続的な場でもないことを悟り、いわば還俗するのである。カスターリエン的精神を閉じていくのではなく、広げていくために。
そこで「継承」という主題が持ち上がる。こういう形で、つまり継承した者の自我、あるいは継承させた者の自我を問題化するのではなく、継承そのものが主題として扱われるってのは、あまり近代小説ではみない気がする。ヘッセ流神秘主義がいよいよ堂に入った、ヘッセにしかかけなかった小説、だと思う。
さてそれから上手い具合に格好の生徒にめぐり合ったクネヒトだが、およそ世界のことわりを知り尽くし万能に思えたこの聖人が、山の薄い空気に調子を悪くし、水の冷たさのために、生徒に教化をはじめるその矢先に、唐突に溺死するという、衝撃展開で伝記は閉じられる。なんという無常感。賛否あるエンディングだが、わたしはそこで一番興奮した。
伝記の後に、クネヒトの遺稿という体裁で、数編の詩と、三つの(クネヒトが自分の前世のでの生活を空想して書いたとされる短編小説が付される。いずれも「継承」を主題とした秘教的な内容の非近代的な短編であるが、単独でとりだしても良いものが揃っている。

ガルシアマルケスはヘッセはノーベル賞に値しないみたいなこと言ってて、わたしもそうかもしれないなんて思ってたけれど、これを読んだら実はそうでもないんじゃないか、と思えてきた。

ヘッセ全集〈9〉ガラス玉演戯ヘッセ全集〈9〉ガラス玉演戯
ヘルマン・ヘッセ 高橋 健二

新潮社 1982-12


mdioibm at 20:27|PermalinkComments(2)読書録 

2018年01月21日

ラブ&マーシー/ビル・ポーラッド

つまんねー映画でしたね。
60年代のブライアンと80年代のブライアン、なぜかポールダノとジョンキューザックの二人一役でやって、ペットサウンズ製作期あたりからのおかしくなっていくブライアンを描きつつ、その後悪徳精神科医に搾取されるところを、嫁になる人物が愛の力で救い出す、みたいな筋書きで。まず二人で演じ分ける必要性が皆無だし(ポールダノが似ている分、ジョンキューザックの似てなさにムカついてしかたがない)、時間を交互に行ききするのも、というか時間が飛んでいるのも(中途半端に10年くらいだけ)効果的ではない。なにがしたいんだか。存命中の人物の伝記映画だから難しいとこもあるのだろうけど、擬似ドキュメンタリーぽくするのか(スタジオを訪ねてきたマッカートニーとか出してさあ)、成功と凋落を描いた青春映画にするのか(スマイル頓挫で終わってエンドロールにサーフズアップ)、精神科医のエピソード活かしたいのなら(ウィキによると、一曲つくったらチーズバーガーを貰えるなんてこともやってたらしい)、きっちりブライアンの病気に焦点を絞るのか、どれかにすればまだましだったろうに、二番目の嫁とのなれそめとか、一番興味ないわって感じで。ちゃんと幼少期から描いてさあ、多少美化でもいいから、兄弟愛をフィーチャーするとかさあ、もういっそデニス主役の映画にするとかさあ、もっとやりようはあったろうに。あー萎えた。
ペットサウンズの擬似製作風景を観れるってところだけが、唯一の美点。そこだけは楽しい。不満を言うマイクも含めて。

ラブ&マーシー 終わらないメロディー [Blu-ray]ラブ&マーシー 終わらないメロディー [Blu-ray]

KADOKAWA / 角川書店 2016-01-29


エンドロールに現実のブライアンの演奏が流れるのだけど、この曲「ラブ&マーシー」も凡作だよな。ブー・ラドリーズでも聴いたようなメロだし。

mdioibm at 10:29|PermalinkComments(0)観画録 

2018年01月16日

エピローグ/円城塔

『屍者の帝国』をはぶけば、初長編ということになるのだろうか? 最初の『セルフリファレンシャルエンジン』は長編だったっけ? 質的にも分量的にも、円城の代表作となる作品、ということになりそうだ。
非常に錯綜しているというか、情報工学SFとメタフィクションが絡み合って、ある一面でくっついた二つのメビウスの輪みたいなふうに錯綜していて、一通り読んだところで、整理なんかできないわけだが、読み返すのも面倒なので、さしあたっての理解を書いておくと、OTC(オーバーチューリングクリーチャー)なるものの侵攻によって、人類がこちら側へ「退転」した世界での話である。
二人主人公格がいて、そのうちの片方のラブストーリー向け汎用エージェントであるところの朝戸連は、OTCからの宇宙の奪還を目論む組織に属していて、相棒のスマートマテリアルで構成されたアラクネを連れて、OTCの残存物?であるところのスマートマテリアルを収集する仕事をしている。歯に埋められたなんかの装置をきっかけに、あるいは天性のラブストーリー向けエージェントの資質ゆえに、宇宙の命運を左右する存在となる。もう一方の複数の宇宙に複数の自分を持つエージェントであるところのクラビトは、宇宙間をまたいでおこる連続殺人の捜査をするところの探偵である。おお円城もミステリ(のフレーム)を使うのか!って新鮮。舞城ばりの、というかそれ以上のトンデモ殺人事件で、宇宙間をまたぐバラバラ死体や、自作の小説の中で殺されるだとか、何度も殺され続ける女性だとか、果ては殺されなかった連続殺人事件!なんてこともやりだす。で、クラビトの妻がOTCの捕食種であるところのインベーダーであったために、やはり宇宙の命運に関わってくる、とも言えそうだ。
二つの物語は「セカハー」風(『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』のこと)にはっきり分かれているという感じもなく、正直読んでいてどっちがどっちか分からなくなる、というか二人必要か? どのみち「個人」なんてものがありえない世界なのに?って気になる。
いくぶんネタバレになるが、要するに(わたしの理解したところによるとだが)、人類はもう滅びており、物語自動生成装置であるイザナミシステムの紡ぎだす物語の中にしか生存していない。「退転」とは媒体というか生存領域の移行だろう。人類の、あるいは小説の終わりのあとがき、そういう意味での「エピローグ」なんだろう。OTCというのは、ストーリーの求心力に反する斥力であって、情報のエントロピーであって、ほっとけば瓦解するよりない人類の生存は、それに抗してストーリーを繋ぎ止めうるか、ということにかかっている。この作家の固有テーマであるところの、物語の自動生成である。あるいは、現実界のフィードバックなしに象徴界は自律しうるのか?ということでもあるかもしれない。そういう仕方でSF的設定が、必然的にメタフィクションというか小説論に結びつく。SF作家でありかつモダニズム作家であるところの円城の総力を感じられる作品である。
もちろん平易な作品ではないが、エンターテイニングであると思うし(SFってのは、よく分からないけどそれっぽいぞ、ってのを愉しむジャンルでもあると思うのだ)、解説キャラのアラクネは人類を超越した知性の持ち主なのにマスコット的に愛らしいし、コンピュータ用語を散らす文章も、言語パズルを散らすくだりも、さすがのスマートさで好知心(こんな言葉はないが)をぷすぷす刺激してくるし、こまごまとした小ネタも可笑しいし(「人間を兵器とした艦隊をコレクションする、なんて言葉が通用する時代がくるわけないだろ」とか。)で、たいへん面白く読んだ。
とくにSF側面は、(わたしはSFをあまり読まないので、あてずっぽうだけど)これ世界でも最先端なんじゃないの?(もうひとつ読もうと思って傍らに置いてた)カルヴィーノの『レ・コスミコスケ』なんぞ幼稚すぎて読めなくなるぞって感じで、非常にワクワクさせられた。しかしまあ、小説論の色が濃くなると、やや飲み込みづらくなるというか、やや鈍りを感じる。先端的なSFではありそうだが、先端的な小説であるかっていったらそうでもないんじゃないか、という気分になってくる。問題はそれが新しいかどうかではなく、そこに血が通っているか、メロディが流れているか、ということなのだけど、たぶん。
次は『プロローグ』読むぞ。

エピローグエピローグ
円城 塔

早川書房 2015-09-17






mdioibm at 20:01|PermalinkComments(0)読書録 

2018年01月07日

ナラトロジー入門/橋本陽介

タイトルのとおり、ナラトロジーを平易に紹介したもの。まえがきをそのまま引けば「ロシアのフォルマリズムから、ヤコブソン、ソシュール、バンヴェニストの言語学など、ナラトロジーに至るまでの系譜をたどった上で、バルトやジュネットなどの理論を体系的に説明していく」。わたしもかつては文学部に籍を置いていたので、なんとなくは聞いたことのある事柄が多いし、おさらいみたいなつもりで読んだ。こうして本の感想を書くブログをつけていると、そこで使われている技法みたいなものをどう言えばいいのかなあなんて迷うことがあるので、修辞や文学技法の用語が身についていればスマートだよなあ(つまり現状身についていない)とか思うのだ。たとえば「これはジュネットの言うところの「転説法」だね」とかいったふうに。ナラトロジーの本丸であるジュネットの理論についてはウィキペディアの「物語論」の項目と大体同じことが書いてある。が、用例がある分、この本で読んだほうが頭に入るだろう。ただちょいちょい「日本においては、ジュネットは正しく理解されていない・・・」みたいに、他を下げて自分を(棚に上げつつ)上げる(学者がよくやるこの手の修辞法にも適切なネーミングが欲しいところ)口ぶりが鼻につくのと、そのわりにちょくちょく日本語がまずいとこがあるのにイラつくが、入門書としてはいいのじゃないかと。やはり本式にナラトロジーに触れたいならジュネットの『物語のディスクール』を読むべきなんだろう。著者の創意であるところの「比較詩学」のさわり、つまり一番最後の「日本語における焦点化の仕方とオーバーラップ」の章は面白く読めた。日本語には日本語のナラトロジーがあるということだろう。他人の考えを紹介する本筋よりも温度がある。同じ著者の『物語における時間と話法の比較詩学―日本語と中国語からのナラトロジー 』という本が、おそらく本意気の仕事なんだろうな。

ナラトロジー入門―プロップからジュネットまでの物語論 (水声文庫)ナラトロジー入門―プロップからジュネットまでの物語論 (水声文庫)
橋本 陽介

水声社 2014-07-01




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2018年01月02日

ストーカー/アンドレイ・タルコフスキー

年越しタルコフスキー。
ということで、数日前タルコフスキー日記を読んでから、無性に恋しくなってしまって、今年は『ストーカー』を観つつ新年を迎えてしまいました。本当は先に原作を読んでからにしたかったのだけど(たぶん大幅に変えられてるんだろうし)、でもまあ原作はまた今度読もう。
かつてタルコフスキーにはまったときに一度観ているのだけど、この作品は印象の薄い部類でして、なんだかよくわからなくて、湿っぽいびちゃびちゃした場所をおっさんがさ迷い歩く映画くらいの記憶しかなかったのだけど、今回は原作こそ読んでいないものの、どういう話かっていう前情報はなんとなくあったので、少なくともストーリーを理解することはできたというか。「ゾーン」という突如出現した理解不能な場所を三人の禿頭のおっさんが歩き回るだけといえばそのとおりで、実質何も起こらない。何も起らないのに、雰囲気だけでゾーンの不気味さ不可解さを演出するというのが、ひとつ斬新な手法であると思うが、原作ではもう少し何か起るのだろうか? 作家、科学者、ストーカー(はフラットな信仰者)と三つの個性を配して、ゾーンにあるという願いのかなう部屋を巡って、人生の意義について哲学的な思想を戦わせる、というのがドラマになっているというわけだ。しかしまあ、タルコフスキーの魅力というのは、ほとんどドラマと関係ないとさえ思える審美的なショットにあるわけで、そういう部分でたとえば『鏡』なんかよりは薄いかなと思うのだけど、それでも汚水に沈むイコンのショットなんか観ると、わけもなくくらっとする。作中で主人公が、音楽は意味も目的もなく人の心を動かす、なんて述べる箇所があるのだけど、まさにそんなふうにして、タルコフスキーのショットは意味を介さず心に入ってくる。基本退屈な映画だと思うし、もうちょっと恐怖演出あってもいいんじゃねえかでもそれやったら別のある意味普通の映画になっちゃうしなあとか思いながら、鑑賞中いくぶんやきもきしてたと思うし、たとえばボルト投げなんかはいっそ馬鹿馬鹿しくすらあったのだけど(ボルトが空中で静止するとか、空間に飲み込まれるとか、そういうのないんかーとか思いつつ)、それに字幕翻訳の弱さもあってか、議論も十分にインテリジェンスを感じられなくて、ドラマの説得力もいまいちとか思うのだけど、最後の光の雨のショットですべてが赦される。



ここまでたどり着いたときわたしは涙が出そうになった。なぜなのか分からないが、ここまで観てきたものの目には、これが祝福か救済のように鳴り響く。映像のシークエンスが意味を超えて人の心を動かす、それがタルコフスキーの目指すところだろうし、もっと一般的に言っても映画芸術の本質はそこにあると思うが、このようなショットを撮れる監督をわたしはタルコフスキーしか知らない。たとえばベルトルッチの映像は音楽的に心地よいが、ここまでは刺さらない。エリエや溝口もいい線いっているが、ここまでは跳ばない。これはもうタルコフスキーの魔法といっていいのじゃないか。
その魔法の秘密のひとつはおそらく、タル自身が語るように、映画に極端にパーソナルなものを注入することにあるのだろう。個人の心というフィルターを通すことで、雨が、光が、精神性を宿すのである。他者の原作なのに、完全に自分仕様に染色し切っている。日記を読んだこともあって、物語そのものもタルコフスキー自身のことを言っているかのように思える。嫁と子供はラリーサとアンドリューシカなんじゃないか、そしてストーカーとはタルコフスキーなんじゃないかと。

ストーカー [Blu-ray]ストーカー [Blu-ray]
アンドレイ・タルコフスキー

キングレコード 2017-07-05




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2017年12月31日

2017年の殿堂本

さぁー今年も殿堂本選定の刹那がやってまいりました。
毎年その年に読んだ本の中で、わたしの読書ライフを画期づける本を選定しております。
しかしながらー、残念なことにー、今年は選定なしでしたー。
読書量も例年よりもずいぶん減っておりまして、全体としても手ごたえのない読書年になってしまいました。まことに遺憾であります。来年こそは、飢えた狼のように、戌年ですしね、名だたる大作名作に喰らいついてやろうと、目下牙を研いでいるところであります。まあ読書なんて強いてするものでもないわけですが、それでもときに、おまえは戦争と平和もユリシーズも失われた時を求めても特性のない男もヴェルギリウスの死も源氏物語もアレクサンドリア四重奏もベルリンアレンクサンダー広場も神曲も読まずに死ぬのか?と自問自答する時もないわけではないわけで・・・。その辺の牙城を一個でも崩していきたいものです。

殿堂本と別枠のよかった本としましては・・・

地図になかった世界』/エドワード・P・ジョーンズ
忘れられた巨人』/カズオ・イシグロ

の二冊を挙げておきます。
前者は主要国際文学賞を軒並み受賞しているいってみればモダンクラシックでありましてマストリードでしょう。新しさやモダニティというのはあまり感じませんが、王道な小説の力を感じさせてくれる傑作だったと思います。
カズオ・イシグロは読書家としては「逆にいま最も読んではいけない作家」ではありますが(つまりいま読むとぜったいニワカと思われるという町田さわ子的な意味ですが)、気にせず挙げておきましょう。こちらは、一見王道のストーリーテラーっぽくもありながら、どこかで小説を斜にみていてそれゆえに自由に振舞えているというか、微妙に傾いた椅子のようなヘンな違和感があって、そういうところがこの作家特有の味になっているんだと、わたしとしては思っています。『充たされざる者』はそのヘンさを前面に出してきた作品でしたが、一見とっつきやすいこちらの方がワナが見えにくいというか、作者の詩学がよく発揮されているように思います。
あとおととい読み終えた『タルコフスキー日記』もわたしにとってはすごくよかった本だったのですが、これはまあ副次的なものなので選外でした。

それでは、みなさまこの辺で。イシグロが歌詞を書いているステイシーケントのアイスホテルを聴きながら、古い年とお別れしましょう。いいですね、これ。




mdioibm at 18:31|PermalinkComments(4)殿堂本 

2017年12月30日

タルコフスキー日記―殉教録/アンドレイ・タルコフスキー

タルコフスキーの1970年4月30日(38歳)から、1986年12月15日(54歳)までの日記。
わたしにとっては、なんというか抱きしめたくなるような本であった。
タルコフスキーのまとまった芸術論としては無論『映像のポエジア』の方に詳らかだが、タルコフスキーの生き様そのものも彼の芸術とは切り離せない。映画とは違った、あるいは論文とも違う、こういってよければ小説的な感動すら感じられた。
年譜的には、『ルブリョフ』を撮った後、『惑星ソラリス』を手がけはじめている頃から始まっている。内容は、きわめて雑多だ。手がけている映画の実現した、あるいは実現しなかったプラン。予算やキャスティングや、ソ連の映画監督ならではのやっさもっさ。撮りたい映画を撮れないというのは現代の映画監督にとっても変わらぬ苦労だろうが、ソ連にあっては予算の問題のみならず、「当局」というやつも足枷になっていたようで、撮影はもちろん外国の映画祭に出品するのにも障害になったりしてるようで、この個人的な記録では、その辺もそうとうにぷんぷんした様子で書き付けてある。それから借金のリストだとか、村に立てつつあった家の費用だとか(火事にあったとも書いている)、愛する妻ラリーサと、この日記が始まるころに生まれた愛息アンドリューシカのこと。息子をチャーパほかいろんな愛称で呼びかえているところなんか子煩悩が伝わってきて微笑ましい。タルコフスキーとしては、外国で映画を撮っているときに、家族を一緒に連れて行きたいのだが、それが当局によって常に阻まれ続けるのだ。これは後半部の主調テーマですらある。それから、感銘を受けた本のことだとか、その引用。この辺はわたし的には格別熱い。ずっと映画化を目論見続けていたドストエフスキーはもちろん、ヘッセやマンも愛読していたようで(『ガラス玉演技』は読まねば)、加えて東洋の文学にもタルコフスキーはかなり親しんでいたようだ。徒然草をエピグラフに引くくらいに。後年は宗教的なもの、神秘主義的なものの読書が増えてくる。それから自身に寄せられた賛辞だとか、ファンからの手紙、各地で行った講演の際に受けた質問。それから体調。みた夢の内容。ところどころ、家族の写真や、ノート現物の写真も添えられて(絵とかも書き付けてある)いて、いろんな角度から生身のタルコフスキーに接近できる。この誇り高き芸術家の情熱、自負、苦労、喜びや不安、怒り、悲しみ、信仰心、そうしたものがつぶさに感じ取れる。すでに作品に触れたものには(というか、そうでない人がこの本を手に取ることはまずないだろうけど)それらが、実現した作品の中にも、どくどくと流れ込んでいることが分かる。
まあ、素晴らしい本だ。
生活と創作、自身の声と他者の声、いろいろに入り混じっているのが魅力ではあるので、どれか一箇所抜き出しても感じはつかめないだろうが、たとえば

1973年
一月二十七日 土曜日
 この世で生きていくことはなんと憂鬱なのことだろう! 国家とは無関係に仕事ができる人が羨ましい。実際、映画と演劇を除くと(テレビは別だ、これは芸術ではない)事実上すべての芸術が自由だ。金儲けにも縁がないが、少なくとも仕事はできる。
 なんと粗暴な政府なのだろう! この政府は文学や詩、音楽、絵画、映画をほんとうに必要としているのだろうか。していない、いや、その反対だ! いったいどれほど多くの困難を片づけなければならないのか!
 ボリース・レオニードヴィチ[パステルナーク]が言ったことは、どうやら真実のようだ。私が撮る映画はあと四本なのだそうだ。一本目はすでに撮ってしまった――『ソラリス』である。残っているのはあと三本。たったそれっぽっちなのか!
仕事がしたい、それだけでいい。仕事! イタリアの新聞が天才と讃えた監督がなんの仕事もできないでいるとは、あきれた話ではないか、犯罪ではないのか。
正直なところ、これは権力の座をやっと手に入れた凡人の復讐にすぎないのではないかという気がする。
 凡人は芸術を憎むものだ。そしてわが国の権力の座にあるのは一人残らず凡人だ。
『白い日』が撮影できるようになったら、ドストエフスキーについての映画のシナリオの申請書を提出する必要がある。もうそうすべき時期だ・・・。
あるいは何も意に介すべきではないのか。
 もっとも美しい樹はなんだろう。
 多分、楡だ。しかし楡は育つのに時間がかかりすぎる。もっとはやく大きくなる樹はなんだろう。セイヨウシロヤナギか、ウラジロハコヤナギか。
 ウラジロハコヤナギは美しい樹だ。
 フェージャを介して車を手に入れられないものだろうか。それしか方法がない。私一人ではいつまでたっても車は買えっこない。なんとしても村での生活が順調にいくようにしたいものだ!”

とこんな感じ。


タルコフスキー日記―殉教録タルコフスキー日記―殉教録
アンドレイ タルコフスキー 鴻 英良

キネマ旬報社 1991-07


かなり大部だが、これでもタルコフスキーの残した手稿の五分の一程度なそうで。『日記』も続刊が出ているし。読まねば。気になっていたレムとの口論の件だが、この本では一切触れられていなかった、残念。

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父アルセニーとアンドレイ。そして、アンドレイと息子アンドリューシカ。アンドレイもハンサムだが、アルセニーは超イケメンだなと。

mdioibm at 09:29|PermalinkComments(0)読書録