2017年07月24日

忘れられた巨人/カズオ・イシグロ

これは傑作といっていいのでは。
カズオ・イシグロがまさかドラゴンや騎士の出てくるファンタジー!ということでまず驚くが、この人はどういう設定でも巧いのだな、と。中世ヨーロッパベースのファンタジーと、当然それの元になった中世英文学のアーサー王物語の世界、わたしはどちらにも親しんでいるわけではないが、そんなある意味出来上がっている領域に踏み込んでも、常套を踏まずに自由に立ち回れていて、出来合いのところに収まっている感じがしない。正統ファンタジーでもなければ古典のパロディでもない、そして自分自身の過去作の轍も踏むということもない。挑戦的であるし、またそれが見事に成功した作品だと思う。
過去を忘れた老夫婦の生活を描く初手は小川洋子でも読んだようなアブストラクトなファンタジーかなって感じだったけど、夫婦が息子に会いに旅立ち、サクソン人の村に着いたあたりで空気が変わってくっきりする。何も知らない二人が観察するサクソン人たちのがやがやはカフカのように不穏で素敵だが、そっからまさかの鬼退治である。鬼を退治した戦士と連れ立って、修道院へ向かう道には満を持してのガウェイン卿の登場。地元名士と結びついた修道院による陥穽から辛くも逃れ(ガウェイン卿は剣を振るって地下に潜む怪物の首を刎ね)、このあたりから視点も複数化してきて、老夫婦、サクソン人の戦士ウィスタン、竜に噛まれたサクソン人の子供、ガウェイン卿の秘めた意図も次第に明らかになってくる。ガウェイン卿の台詞はシェイクスピアの戯曲みたいで楽しいし、この辺のサスペンスの作り方(つまり情報の出し方)もいかにも巧い。
物語の全容が見えてくるのは、終盤になってからだと思うが、要するにアーサー王はブリトン人とサクソン人の和平のために、雌竜クエリグの「忘却の息」を利用した。二つの民族は他のすべてを忘れることと引き換えに、必ずしも仲睦まじいわけではないが、平和状態を保っている。そこへ記憶をつまりブリトン人への憎悪を取り戻すために竜を殺す使命を与えられてやってきたのが戦士ウィスタンである。ガウェイン卿は表向きは同じく竜を討伐する命を担っていたが、その実の目的はアーサー王の意志をついで竜を守ることにあった。
という大きなレベルの物語と、二人で過ごした記憶を取り戻したいと思う老夫婦の(とはいえ、いまの二人の仲は、むしろ過去の諍いを忘れていることのおかげではないのかと内心恐れているのだが)、パーソナルな愛情の物語と、二つのプロットが「忘却の倫理」とでもいうべきテーマを担っているわけだ。これはたとえば今起っている種々さまざまな紛争にも抵触するテーマだが、忘却は憎しみの治療薬になりうるだろうか?
作品の結論はきわめて両義的だが、それだけに残るものがある。暗く切なく、荒唐無稽なのに感傷的で品がある、そんなところはいつものイシグロというべきなのかもしれない。

忘れられた巨人忘れられた巨人
カズオ イシグロ Kazuo Ishiguro

早川書房 2015-05-01




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2017年07月06日

カフカ賞2017

カフカ賞もチェックや。
今年は、マーガレット・アトウッドさんやー。

margaret











名前は知っている。が、読んだことはないな。なんとなーく手が伸びないタイプの作家ではある。『侍女の物語』などのディストピア小説がカフカ的と言われたりすることはあるみたいだけど、読んでないのにいうのだけど、あまりカフカ臭が匂ってこない作家だと思う。60冊も著作があるということで、邦訳もたくさんでているかと思ったら、まあほどほどといったところ。読むかなあ、読まないだろうなー。



過去受賞者。 

2016 クラウディオ・マグリス(イタリア)
2015 エドゥアルド・メンドサ(スペイン)
2014 閻連科(中国)
2013 アモス・オズ(イスラエル)
2012 ダニエラ・ホロドヴァー(チェコ) 
2011 ジョン・バンヴィル(アイルランド) 
2010 ヴァーツラフ・ハヴェル(チェコ) 
2009 ペーター・ハントケ(オーストリア) 
2008 アルノシュト・ルスティク(チェコ) 
2007 イブ・ボヌフォア(フランス) 
2006 村上春樹(日本) 
2005 ハロルド・ピンター(イギリス)
2004 エルフリーデ・イェリネク(オーストリア) 
2003 ナーダシュ・ペーテル(ハンガリー)
2002 イヴァン・クリーマ(チェコ) 
2001 フィリップ・ロス(アメリカ) 
 
 

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国際IMPACダブリン文学賞2017

IMPAC賞決まってましたね。
今年は・・・これ!

A General Theory of OblivionA General Theory of Oblivion
José Eduardo Agualusa Daniel Hahn

Vintage 2016-05-18


ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザさんの『General Theory of Oblivion』でしたー!

mw-860







ポルトガル系アンゴラ人ということで、アフリカ作家初の授賞ですかね。
内容紹介。「アンゴラ独立の前日、ルドは(十一階の)アパートの部屋をレンガで塞ぎ、以降三十年をそこで過ごすことになる。野菜と鳩で食いつなぎ、家具や本を燃やし暖をとり、部屋の壁に(木炭で)彼女の物語を書き続ける。外の世界はゆっくりとルドの人生に這入りこんでくる。ラジオの断片的な音声や、隣部屋からの声や、ちらっと見えた逃げる男の姿、鳥の足に結わえた書きつけ、そんなものによって。そしてある日、ルドは路地から彼女のテレスまでよじ登ってきたサバルに出会うことになり・・・」
一応ルドという女性が中心キャラとしているようですが、これもかなり、たとえば『地図になかった世界』みたく、多声的というか、こまかい物語の集積みたいな小説のようです。「生物学者の中には、一匹の蜂や蟻は一個の細胞にすぎなくて、有機体の本体は巣であると論じるものもいるが、『忘却の一般理論』において、ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザは、ルアンダ(国のルワンダではなくてアンゴラの首都)とその直近の歴史の蜂の巣を提示している。」というような紹介もされています。賛辞では、ペソアやボルヘス、クッツェーやマルケスの名が挙げられることも。これはかなり面白そうですねー。


過去授賞作。
2016 『Family Life』 アキール・シャーマ (アメリカ)
2015 『Harvest』 ジム・クレイス(イギリス)
2014 『物が落ちる音』 フアン・ガブリエル・バスケス(コロンビア)
2013 『City of Bohane』 ケヴィン・バリー(アイルランド)
2012 『Even the Dogs』 ジョン・マグレガー(イギリス)
 2011 『世界を回せ』 コラム・マッキャン(アイルランド)
2010 『The Twin』 ヘルブラント・バッカー(オランダ)
2009 『Man Gone Down』 マイケル・トーマス(アメリカ)
2008 『デニーロ・ゲーム』 ラウィ・ハージ(レバノン出身カナダ)
2007 『馬を盗みに 』 ペール・ペッテルソン(ノルウェー)
2006 『THE MASTER』 コルム・トビーン(アイルランド)
2005 『地図になかった世界』 エドワード・P・ジョーンズ(アメリカ)
2004 『あやまちの夜 』 タハール・ベン・ジェルーン(モロッコ)
2003 『わたしの名は赤』 オルハン・パムク(トルコ) 
2002  『素粒子 』 ミシェル・ウェルベック(フランス)
2001 『彼方なる歌に耳を澄ませよ  』 アリステア・マクラウド(カナダ)
2000 『Wide Open』 ニコラ・バーカー(イギリス) 
1999 『器用な痛み 』 アンドリュー・ミラー(イギリス)
1998 『心獣 』 ヘルタ・ミュラー(ルーマニア)
1997 『白い心臓 』 ハビエル・マリアス(スペイン)
1996 『異境 』 デヴィッド・マルーフ (オーストラリア)

 


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2017年07月03日

HHhH/ローラン・ビネ

とても面白かった。
ナチスの高官であり、戦時中はチェコの事実上の支配者であったラインハルト・ハイドリヒの暗殺事件の顛末を描いた作品だ。歴史に疎いわたしはこの事件のことすら知らなかったし、ハイドリヒのこともよくしらなかった。ハイドリヒはヒムラーの部下でアイヒマンの上司といった位置で、純正ナチとでもいいたいような獣性と冷酷さと有能さとアーリア的金髪碧眼を兼ね備えた人物であったようだ。そのナチスの重要人物を、イギリスにあったチェコ亡命政府が選び出した二人のチェコ人とスロヴァキア人ヨゼフ・ガプチークとヤン・クビシュに命じて暗殺を計画する、通称「類人猿(エンスラポイド)作戦」である。
作者はフランス人だが、どういう契機かは知らないが(兵役でスロヴァキアに滞在していたらしい)、チェコ(とスロヴァキア)にほれ込み、とりわけこの「類人猿作戦」の類稀な物語性にほれ込み、やたらめったら資料を渉猟し、ついにはこの本を書くにいたる。そう、この作品は、通常のいわゆる歴史小説とは異なり、ハイドリヒやガプチークたちのことを語りながらも、資料を求めてガールフレンドと博物館に行ったことだとかを語り、あるいは同じ出来事を題材にした他の歴史小説にケチや疑念を投げつけ、歴史を虚構化することに対する屈託を逐一書きつけ、でありながらある意味シンプルな英雄譚にどうしようもなくほれ込んでいる作者自身の姿をも書く、というスタイルをとっている。
学者が物す研究発表のような小説。そういう意味では、扱う対象こそ違うが、わたしの好きな『バートルビーとその仲間たち』や以前に読んだマグリスの『ドナウ』や、後藤明生や、そんなような書き手たちを思い出させる。書き手と物語の関係項をそのまま作品に描きこんでしまうことで、別種のリズムが生まれる。著者の自分語りによって資料から物語を読み出していくプロセスのほうにも光を当てる。わたしも観測者不在の絶対的歴史なんてありえないと思うので、ある意味でこっちの方が自然に思えるというか、それにこういうドキュメンタリー風な書き方のほうが、事実の「事実性」を際立たせるってこともあると思う。事件の後、ナチがチェコ街中に貼ったポスターとかそうとうやばい。この著者も実験小説を書いているという意気でもないし、クンデラ等のちょいアヴァンギャルドな文学の影響上で、ごく自然に自分に合ったスタイルを見出したということなんだと思う。
で、肝心の内容であるが、これが面白い。ハラハラドキドキあると思う。知ってる人は知ってるんだろうけど、わたしは事件の顛末を知らなかったので、けっこうドキドキしながら読んだ。事件の顛末もそうだが、ヒトラーがリディツェ村に対して行ったことについての記述などには、身の毛がよだった。改めてナチスのやばさを痛感させられたし、チェコ(とスロヴァキア)の英雄譚にいたく心を寄せる著者の気分にシンプルに共感した。ガブチークとクビシュの名は覚えておこう。ハイドリヒは、もう嫌でも忘れないだろうな・・・

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)
ローラン・ビネ 高橋 啓

東京創元社 2013-06-28



タイトルのHHhHは「ヒムラーの頭脳はハイドリヒと言う」という文章の頭文字で、ハイドリヒのあだ名のひとつであったらしい。「ハーハーハーハー」と読めば良いのだろう。

映画化もされたようだ。面白そうだが、これは間違った選択、というか、売るなよ、と思う。こういう虚構化に対するアンチがひとつのテーマじゃなかったのかよ。この(英語を喋る)ハイドリヒを受け入れられるんだったら、あんたこの本で嘘を書いたことになるよ、とちょっとがっかり。



本物のハイドリヒの映像。虐殺シーンなどあるわけでもないのに、作られた映像の100倍怖い。





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2017年06月20日

ビリー・リンの永遠の一日/ベン・ファウンテン

イラク戦争から出た最良の小説のひとつ、なんて評判に惹かれて読んだが、わたしは二流の小説だと思う。
戦場での勇敢な行為をたまたまメディアが撮影していたことのおかげで、戦争の英雄として一時帰国させられ、戦意高揚のための広告塔としてあちこちに狩り出され、テキサスでのフットボールのハーフタイムのショーにも参加させられる、というような話。シュールにも思える設定だが、実際にあったことを基にして発想された小説らしい。イラク戦争という現実離れした現実と、高度に洗練されたアメリカのコマーシャリズムの現実離れした現実、その二つをかみ合わせた耳目を引く設定だ。「兵士たちが行進し、ビヨンセが踊る!」となかなかにキャッチーな謳い文句だが、思ってたほどには楽しい小説でもなかった。もっと笑えるものを期待したいのだけど。ビリー・リンという純粋善良な十九歳の兵士が視点人物として設定されているのだけど、そこに著者の(というべきか)シニカルなアメリカ社会批評の声が混ざってくる。随所で気の効いたふうな比ゆを飛ばしてくる。「プロテインの塊みたいだ」とかなんとか。それが魅力だという向きもあるだろうけど、そうした辛口の大人な声が混ざることで、ビリーというキャラの感受のなまなましさを殺ぐことになっていると思う。部分的には、つまりフットボーラーたちと、チームの備品一式を描写するところなんかとてもいいのだけど、全体としてはその辛口の大人なトーンが支配的に響くことで、小説の魅力であるところの「相対性の祝祭」性を損なっている。なんだろうな、辛口の社会評論家か、アメリカをフィールドにした文化人類学者の声のようなもの。しかし、わたしはそういうものを求めて小説を読んでいるのではない、と思う。そこが終始引っかかり続けるので、ノレない。ビリーはじつに好青年だが、おしいところで小説の主人公たるべきキャラではなくて、観察者の媒介であり、お仕着せのドラマを纏わされたキャラに成り下がっている。それにイラク戦争はともかく、フットボールやデスティニーズ・チャイルドってあたりも、アメリカ人の琴線には触れるんだろうけど、なんかローカルというか。よくいえばアメリカという国の特殊性を捉えているといえるわけだけど、けっきょくアメリカ人のアメリカ人によるアメリカ人のための小説なのかなって気がしてしまう。訳文もあまり良くもない。

ビリー・リンの永遠の一日 (新潮クレスト・ブックス)ビリー・リンの永遠の一日 (新潮クレスト・ブックス)
ベン ファウンテン Ben Fountain

新潮社 2017-01-31


アン・リー監督で映画化されているらしい。
興行的には失敗作だったらしい(日本公開もされていない)がどんなもんだろう。トレイラーを見る限りはあまり面白くなさそうだが。






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2017年06月04日

自分ひとりの部屋/ヴァージニア・ウルフ

ウルフがケンブリッジの女子カレッジで女子学生たちを前に行った二回の講演の内容を整理加筆したものであるらしい。ウルフの文学観があらわれたものとして興味深く読んだ。

フェミニズム批評と紹介されることが多く、実際そのとおりなんだろうけど、ウルフの場合「女性作家」とわざわざ冠する必要も必然もないただ偉大な作家であるので、その方面からの支持というのには同調できないというか、シェイクスピアが男のための作家でないのと同様にウルフは女のための作家ではない。じっさいウルフも本書のまとめに近い部分で「だれであれ自分の性別のことを考えながらものを書くのは致命的である」と書く。それから「創造の業を成就させるためには、精神の女性部分と男性部分の共同作業が欠かせません」と。

とはいえ、批評家としての面も持ち合わせるウルフであるので、立派に仕事はこなしているというか、きっちり「女性と文学」のお題はこなしている。まだものを書く女性が皆無だった十六世紀以前から男性文学に現れる女性の表象を論じ、それからシェイクスピアの時代に彼と同等の才能をもった妹がいたらどうだったろうといった作家らしい空想を立ち上げ(むろん彼女は無名のまま自殺するのだけど)、それからウィンチルシー伯爵夫人、マーガレット・キャベンディッシュ、ドロシー・オズボーンといった黎明期の女性詩人、英女性文学の転換点となったアフラ・ベーン、それから英女性文学のひとつの黄金期であったろうオースティン、ブロンテ姉妹、ジョージエリオットの時代を語り、それからメアリー・カーマイクルなる架空の作家の架空の小説をとりあげ、おそらくは同時代の女性の小説の諸特徴を批評してみせる。「あと百年経てば、彼女は詩人になるでしょう」といささか辛口に。後世の目から見れば、その時代の代表はウルフその人であるわけだが、さすがに「次はわたし」とは言わない。シャーロット・ブロンテを取り上げて「表現」が「作品」を妨げている、と評したところには、とても感心した。ふつう「表現」こそが「作品」でしょと思いそうなものだが、作家の個人的な意見みたいなものは、それが「焼き尽くされて」いないならば、ときとして作品の邪魔をするのだ。

有名な「女性が小説を書こうと思うなら、年収500ポンドと自分だけの部屋が必要だ」といったテーゼには、わたしはさほど思うところはない。不遇なシェイクスピアの妹のたとえばなしにも謂われているように、文学が生育するためには物質的な環境も必要である、というのは当然すぎるほど当然というか。ウルフの気分としては、文学史を見渡しても男ばっかりなのは、女性に才能がなかったわけじゃなくて、才能があってもつぶされ続けてきたんだよ、ということなんだろうが、当時の人々は、女性には文学の才能がないからだ、とマジで信じていたんだろうから意義もあっただろうけど、いまとなってみれば、まったくそのとおり、と頷く以上のことはない。

それにミクロなレベルでいえば例外もあろう。不遇な環境をこそ糧にした作家もいるだろうし、ウルフも口を極めて褒めるオースティン(「でも状況のせいで作品に少しでも傷がついたというどんな徴候も、見つかりませんでした。ジェイン・オースティンについて、たぶんいちばん奇跡的なのはそこです。一八〇〇年前後に、憎しみも怨恨も恐怖もなく、抗議したいとか何かを説き聞かせたいという気持ちもなく、ものを書いていた女性がいたのです」)からして自分だけの部屋など持たず居間や台所で執筆していたわけだから。年収も部屋もマクロな観点からの前提条件であって、それ以上のものではない。むしろウルフが「〈現実(リアリティ)〉を見据える」と表現した部分にこそ真の力点がある、とわたしは感じた。あるいは「財産や純潔を失うことは人的災害の中でも最大級のものと言われてきましたが、ご自分のヴィジョンを変更することに比べたら、ごく些細なことにすぎません」というような部分に。

結び部分、「もし各々が年収五百ポンドと自分ひとりの部屋を持ったなら――」の後には、こう続く。

「もし自由を慣習とし、考えをそのまま書き表す勇気を持つことができたなら――。もし共通の居室からしばしば逃げ出して、人間をつねに他人との関係におていではなく〈現実〉との関係において眺め、空や木々それじたいをも眺めることができたなら――。もしミルトンの作り出した化けものの背後を、どんなひとであれ視界を遮ってはいけないのですから、その背後を眺めやることができたなら――。もし凭れかかる腕など現実には存在しないということ、ひとりで行かねばならないということ、わたしたちは男女の世界だけではなく〈現実〉世界とも関わりを持っているのだということ事実として受け入れるのなら――。」

シェイクスピアの妹は蘇るであろう、と。

自分ひとりの部屋 (平凡社ライブラリー)自分ひとりの部屋 (平凡社ライブラリー)
ヴァージニア ウルフ Virginia Woolf

平凡社 2015-08-27




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2017年06月01日

地図になかった世界/エドワード・P・ジョーンズ

これはすばらしい小説。
ピューリッツァー、IMPAC、全米批評家協会賞の三冠も伊達ではない。
奴隷制期のアメリカが舞台ということで、説教臭い恨み言だったり、民族的アイデンティティの主張みたいなのだったら嫌だなとかいらぬ危惧をしていたが、そんなものは全部ふっとんでしまった。そういう「教育的」読書の対象としてもありうるとは思うが、わたしは単純に優れた小説として愉しんだ。

そこには白黒だけでは分けられない、われわれが「奴隷制」という言葉からは思ってもみないだろうような、多種多様の人間がいる。家具商で身を立て自分と家族の自由を買い取った奴隷がおり、妻以上に黒人奴隷の妾とその子供を愛する豪商がおり、肌の色は白人並に白い女教師がおり、歌を歌い森を彷徨う狂女じみた奴隷がおり、幾度も脱走を試みた手先の器用な奴隷がおり、有色人種の保安官助手や、天然痘で全てを失った白人もいる、それから胃痛を抱えた保安官がおり(彼は養女扱いしている奴隷の娘に劣情をいだいている)、自由黒人を攫って売買する人攫いはいるし、主人を亡くしてひとりで農場を切り盛りしなくてはいけなくなった未亡人の立場はあやういし、現場で奴隷を監督する奴隷監督もまた微妙な立ち位置だし、若い女を常に追い回している奴隷はやがて孤児院を設立しみなの尊敬を集めることになる。作家の目は彼らを平等に分け隔てなく行き来し、短編連作風というか、いくつもの糸をひと綴りのタペストリーとして編み上げる。個々の小さなストーリーを活かすディテールが素晴らしい。先端的な実験小説というのではないが、現代小説としては茨の道である神の三人称に真っ向挑んで、焦点人物をそれから時間を自在に行き来する語りを駆使し、それに偽史やマジックリアリズムなども織り込んで、これだけ説得力のある物語を作る技量ってのはやはりただごとではないだろう。

読み始めはフォークナーからの連想で黒人奴隷を所有する自由黒人ヘンリー・タウンゼントを中心とした物語になるのかなって想定したけど、そういうものではなかった。いろいろとフォークナーを連想させるところはあるのだけど、フォークナーみたくパーソナルな業というか求心的なテーマが物語を結びつけるというのでもなく、ある意味で中心テーマがないというか断片的というか、それはいくらか読みづらさにも繋がるのだけど、しかしそのことがかえって、この作品に固有の雰囲気をもたらしていて、それはもちろん旧約聖書的といってみてもいいけれど、そうでなければブリューゲル的というか、遠近法確立以前の絵画を見るような、不思議にフラットな広がりであって、注視する焦点次第で「中心」は容易に移り変りうるとでもいったふうで。考えてみればキャラクターを遠近法的に位階分けすることって作家によるひとつのディスクリミネイションではあるよなとか思えて、「神の前での平等」ならぬ「作者の前での平等」だなんて言葉が、この作品のひとつの倫理かもしれないとかも思うのだけど。まあなんというか、ことさら声高な主張などなくとも、ただそこに生きた人間を生き生きと描くこと、それだけのことでこんなにも感動的でありうるのだ。「歴史」の主役はたぶん「制度」なのかもしれないけど、文学の主役は「生きた人間」なのだ。

この作家は長編はこれしか書いていない。10年準備して、3週間で書いたらしい。

地図になかった世界 (エクス・リブリス)地図になかった世界 (エクス・リブリス)
エドワード P ジョーンズ 小澤 英実

白水社 2011-12-21




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2017年05月25日

ピューリッツァー賞フィクション部門2017

ううう、最近読書が滞っている・・・

とそれはさておき、ピューリッツァー賞決まってましたね。
コレダ!

The Underground Railroad: Winner of the Pulitzer Prize for Fiction 2017 (English Edition)The Underground Railroad
Colson Whitehead

Fleet 2016-08-02


コルソン・ホワイトヘッド氏の『Underground Railroad』でした。
これが6作目の小説ということで、過去作もどれもそれなりに評価されていたようですが、今作で、全米図書賞も同時授賞して、大ブレイクといったところでしょうか。ハーバード卒のエリートらしいですが、アフロ系の作家で、今作も南北戦争前の奴隷制化のアメリカを舞台にした小説のようで。逃亡奴隷が理想郷を目指す話らしいのですが、評を見ると、「奴隷制の恐ろしさ」とかいったお決まりのフレーズに加えて、ガリバーやボルヘスやカフカなんかの名前を出てきてて、どうも史実とは異なるいくぶんファンタスティックな設定が売りでもあるようで。たまたまわたしは今現在この賞の先輩でもあるエドワードPジョーンズの『地図になかった世界』を読んでて、それも奴隷制下の話なんだけど、黒人奴隷を所有する自由黒人の物語という点が新味で、なんというか奴隷制という「物語の場」にもいろいろと新しい視座がもちこまれているのだなとか思う次第です。本作は、今冬に早川から翻訳が出る予定ということですね。まあわたしが読むことになるかどうかは不確かではありますが・・・。

過去受賞作。
2016  『Sympathizer』 ヴィエト・タン・グウェン
2015 『すべての見えない光』 アンソニー・ドーア
2014 『ゴールドフィンチ』 ドナ・タート
2013 『半島の密使』 アダム・ジョンソン
2012 受賞作なし
2011 『ならずものがやってくる 』ジェニファー・イーガン 
2010 『ティンカーズ』 ポール・ハーディング
2009 『オリーヴ・キタリッジの生活 』 エリザベス・ストラウト
2008 『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』 ジュノ・ディアス
2007 『ザ・ロード 』 コーマック・マッカーシー
2006 『マーチ家の父 もうひとつの若草物語 』 ジェラルディン・ブルックス
2005 『Gilead』 マリリン・ロビンソン
2004 『地図になかった世界』 エドワード・P・ジョーンズ
2003 『ミドルセックス 』 ジェフリー・ユージェニデス
2002 『Empire Falls』 リチャード・ルッソ
2001 『カヴァリエ&クレイの驚くべき冒険 』 マイケル・シェイボン
2000 『停電の夜に』 ジュンパ・ラヒリ
1999 『めぐりあう時間たち―三人のダロウェイ夫人 』 マイケル・カニンガム
1998 『American Pastral』 フィリップ・ロス
1997 『マーティン・ドレスラーの夢 』 スティーヴン・ミルハウザー
1996 『Independence Day』 リチャード・フォード
1995 『ストーン・ダイアリー 』 キャロル・シールズ
1994 『シッピング・ニュース 』 E・アニー・ブルー
1993 『ふしぎな山からの香り 』 リチャード・オレン・バトラー
1992 『大農場』 ジェーン・スマイリー
1991 『さようならウサギ 』 ジョン・アップダイク
1990 『マンボ・キングズ、愛のうたを歌う』 オスカー・イフェロス
1989 『ブリージング・レッスン』 アン・タイラー
1988 『ビラヴド 』 トニ・モリソン
1987 『メンフィスへ帰る 』ピーター・テイラー
1986 『Lonesome Dove』 ラリー・マクマートリー
1985 『Foreign Affairs』 アリソン・ルーリー
1984 『黄昏に燃えて 』 ウィリアム・ケネディ
1983 『カラーパープル』 アリス・ウォーカー
1982 『金持になったウサギ』 ジョン・アップダイク
1981 『A Confederacy of Dunces』 ジョン・ケネディ・トゥール
1980 『死刑執行人の歌』 ノーマン・メイラー
1979 『ジョン・チーヴァー短編集 』 ジョン・チーヴァー
1978 『Elbow Room』 ジェームズ・マクファースン
1977 受賞作なし
1976 『フンボルトの贈り物』 ソール・ベロウ
1975 『The KIller Angels』 マイクル・シャーラ
1974 受賞作なし
1973 『マッケルヴァ家の娘』ユードラ・ウェルティ
1972 『Angel of Repose』 ウォーレス・ステグナー
1971 受賞作なし
1970 『Collected Stories』 ジーン・スタフォード
1969 『House Made of Dawn』 N・スコット・ママディ
1968 『ナット・ターナーの告白』 ウィリアム・スタイロン
1967 『修理屋』 バーナード・マラマッド
1966 『蒼ざめた馬、蒼ざめた騎手』 キャサリン・アン・ポーター
1965 『ハウランド家の人びと』 シャーリー・アン・グロウ
1964 受賞作なし
1963 『自動車泥棒』 ウィリアム・フォークナー
1962 『Edge of Sadness』 エドウィン・オコナー
1961 『アラバマ物語 』 ハーパー・リー
1960 『Advise & Consent』 アレン・ドルーリー
1959 『Travels of Jaimie McPheeters』 ロバート・ルイス・テイラー
1958 『A Death in the Family』 ジェームズ・アギー
1957 受賞作なし
1956 『Andersonville』 マッキンレイ・カンター
1955 『寓話』 ウィリアム・フォークナー
1954 受賞作なし
1953 『老人と海  』 アーネスト・ヘミングウェイ
1952 『ケイン号の叛乱 』 ハーマン・ウォーク
1951 『The Town』 コンラッド・リクター
1950 『The Way West』 A・B・ガスリーJr

昨年邦訳の出たドーアの『すべての見えない光』は本邦でも好評ですよね。日本翻訳大賞も受賞してましたね。

 




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2017年05月12日

騎士団長殺し/村上春樹

うーん、☆3つ半。
一人称に戻したってところはわたし的には好感触だし(『海辺のカフカ』や『1Q84』にくらべて書かれる世界の幅は狭まっているとしても、トラックの運転手だとか女警官だとかの無理をして書いている感じのキャラに引っかからないってところはよき一面ではあるだろう)、中盤はかなりわくわくしたというか、村上風完璧人間の免色氏と一緒になってふしぎ探検を始めるところとか(敵に回すとあれだけど味方であればこれほど心強いキャラもいない)、それから騎士団長が現れて、奇妙な日本語で喋りだすところとか(このキャラを出せただけでもひとつの成果といっていいほどだよな)、すごく楽しかったのだけど、そっからもう一段いけると思えたところを登らず、終盤は尻すぼみになってしまった。60章以降(女の子キャラまりえの体験を「私」が語り始める部分)は蛇足にすら思える。
いちばん肝心なところを言えば、まりえが免色に見つかっていたらどうなっていたのか、ほんとうに取り返しのつかないことになっていたのか?ってところの説得力がいまいち感じられないってとこかと。わたしはギャッツビーがスタヴローギンかハンバートハンバートになってしまう展開を予想しないわけではなかったが、そこまでのものは示されていないように思える。あるいはあえて書かれていないように思える。そんなおおごとじゃないじゃん、免色さんだったら、謝ったら礼儀正しく帰してくれたでしょって思えて、それだと犠牲になった騎士団長も浮かばれないではないか。

この作家はそもそもの初めから、書くことについて書く作家だったのだが、この作品は『1Q84』に続いて、と言うべきか、再び芸術家(でなければ創作家)を主人公にした作品で、そういう意味では外に世界を広げるよりか、いまの自分の手元にあるものを見つめなおすような作品になっているのだと思う。しかし、プロローグで掲げられた顔のない男の肖像画を描くという依頼というか約束は果たせなかった。作中でも、『スバル・フォレスターの男』と題される絵画はついに完成されずに終わった。これらはとうぜん免色の抱えるはずの闇と呼応するはずのモチーフであるだろう。それに対する語り手の姿勢は、何が何でも書かなくては、というものではなくて、いまはちょっと書けないんでそのうちにね、といったふうで、その代償も支払わないままに、むしろ過去に置き去りにして、ちゃっかり実入りのいい肖像画描きに復職し、なしくずし的に嫁と元鞘に収まり、幼い娘を幼稚園に送り迎えなぞして、ほくほくと凡庸な日常を送っているようだ。そういえばあんな不思議な体験もかつてあったよな・・・と、(しみじみとかどうかは知らないが)思い返している。してみると、これはひとつの創作の断念を書いた創作であるのか?
それとも(そのうち発表されるかもしれない)第三部以降で、再び顔のない男と、 あるいは免色の闇と対峙することになるのか。それは村上のみぞ知るところだが、わたしとしては『騎士団長殺し』はじつは燃えていなかったという展開を希望したい。なんというか芸術を愛好するものとして、人目に触れずに失われるべきだった傑作がある、なんていう観念は好かないから。

あるいは、数十年後、長じて美術史家となった「私」の娘が、雨宮具彦の画業を辿る過程で、失われた傑作『騎士団長殺し』の存在を知り、その調査を進めるにつれ、その絵との行方知れずの自分の父との数奇なかかわりがあることを、そしてそれが自分の夢でずっと付きまとっていた顔のない男とも関係があること、その秘密の鍵を握るのが山の中の邸宅に住むさる美しい女性であるということ・・・それから、なんだかんだで追い詰められた彼女の前に身長六十センチくらいの大きさの人?が現れて告げる。「『騎士団長殺し』はじつは燃えてはあらないのだよ」。

というところまでいま妄想した。

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編
村上 春樹

新潮社 2017-02-24

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編
村上 春樹

新潮社 2017-02-24

 
 

mdioibm at 21:34|PermalinkComments(0)TrackBack(0)読書録 

2017年05月07日

ノルウェイの森/村上春樹

これはリチャード・バックの『イリュージョン』に続くわたしの人生二つ目の殿堂本だ。
こういう大ベストセラーを殿堂本として挙げると本読みとして舐められるかもしれないとも思うのだけど、別にこんなブログで自分を偽ってもしかたないので、素直に白状しよう。わたしはこれを8回くらい読んだ。大好きな本だ。

他の多くの人にとってもそうなのだろうと思うけれど、村上春樹はわたしにとっては文学原体験みたいなもので、良くも悪くもわたしのその後の読書人生を方向付けてくれた作家である。村上春樹に出会わなければ、わたしの人生はいまと違ったものになっていただろうと誇張無しに思う。最初に読んだのは『風の歌を聴け』で、それに続く初期三部作もわたしにとっては同じくらい重要なのだけど、いちばん回数を読んだのはこの本だ。
実家のわたしの部屋は二階にあったのだけど、家の階段を下りながらこの本を読んでいたことを思い出す。何故本を読みながら階段を下りていたのか分からないし、(あるいは冷蔵庫に飲み物を探しに降りたのかもしれない)うちの階段は結構急だし本を読みながら下りたりすると危ないのだが、それぐらい熱中して読んでいたということだ。
この作品のエロい要素にも反応していたことは否定しない。高校の同級生が「ノルウェイの森読んだんやろ。あれ勃起したわ」とか言ってきたのを覚えている。しかしわたしとしては、そいつが勃起したかどうかは知ったことではないというか、どちらかといえば知りたくもないことの部類に入るわけだが。それから、この作品の全編に流れている孤独であることを肯定するような気分が、孤独な学生であったわたしの背中を支えてくれていたってこともあるだろう。もっと大きなことを言えば、これからどんなふうに生きるのだろう?と思い悩む一人暮らしの大学生にとって、この小説はひとつの指針ですらあった。それから中学生のころから熱心なビートルズファンだったわたしにとっては、正直タイトルだけでもほっとけない気持ちを掻き立てられたのだ。

いまとなってみれば、ある意味良さの語りやすい三部作に対して、この作品はなにがどういいのかというのがなかなか説明しがたいところがある。つまり文体と方法において明らかな画期であった三部作に比べて、いくらか鈍臭いメロドラマでしかないとすら思える。この作品を村上春樹のキャリアの上では二次的な作品としてみる評も多いように思う。それも分からなくもないが、わたしは文学とかなんにも知らなかったころにこの小説に熱中したあの頃の自分を裏切れない。やっぱりこの作品にはどこかとくべつな魅力があるのだと思いたい。
けっきょくこのメロメロこそがこの作品の本義であって、このメロディに酩酊できるかどうかということにすべてがかかっていて、メロディは何かしらの意味に還元できるものではないのだ。短編として書いた第二章から勝手に続きが出てきたと作家が告白しているのは有名な話だが、文学的意図とかそういうの関係なしに流れていく会話とエピソード、手を怪我して、ビリヤードをして、「やれやれ、それだけ確信をもって誰かを愛することができるというのはきっと素晴らしいことなんでしょうねえ」、「わたしはただ古風なだけよ」とかいったやり取りだとか、そういうのに身を浸しているというか、流れに身を任せているような感覚、『ライ麦畑』にも(あるいは『タンナー兄弟姉妹』にも)通じるどこにも行き着かないがゆえの「彷徨感」、この小説を貴重なものにしているのはそれだと思う。
それと、当時はそんなふうには考えていなかったけれど、『ノルウェイの森』はリアリズムを選択したこともあってキャラに実体感あって、物語のテーマに関係なく勝手なことをやっている感じがあって、つまりラジオ体操をする特攻隊とか、なべがないを歌う緑のことだけど、とかく自閉的なこの作家の作品世界にあって「外部」を感じさせる要素があって、それはこの作者の得意分野ではないがゆえに、この作品かぎりの特質になっているのかもしれない。

作中、いくども『グレートギャッツビー』を読み返しては「つまらないところなどひとつもなかった」とため息をつくワタナベくんと同じように、わたしはいくども『ノルウェイの森』を読み返してはうっとりし、甘い痛みを噛みしめるような気分に浸ったものだった。

昔々の話だ。

ただ『グレートギャッツビー』に比べても比べなくても、書き出しの冴えなさだけはいつも残念に思っていたかな。「ボーイング747」ってところとか美しくないし。



ノルウェイの森 文庫 全2巻 完結セット (講談社文庫)ノルウェイの森 文庫 全2巻 完結セット (講談社文庫)
村上 春樹

講談社 2012-03-13



 

mdioibm at 14:19|PermalinkComments(0)TrackBack(0)殿堂本