2018年12月10日

ウルフの部屋/宮田恭子

ヴァージニアが子供のころ夏の間を過ごしたセント・アイブス、姉のヴァネッサとダンカン・グラントが結婚して居を構え、ブルームズベリーグループのたまり場になったチャールストン、レナードとの終の棲家となったロドメルのモンクス・ハウス、著者自身も行脚したらしいヴァージニアゆかりの三箇所を軸に、それぞれ母ジュリア、姉ヴァネッサ、夫レナードとの関係をからめつつ覗き込んだ、ヴァージニア・ウルフの人生のスケッチ。
家屋だけだが、それぞれこんなところ。

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作品鑑賞よりは人生メインな感じなのがどうかとも思ったが、なんだかんだ大変面白く読み通した。一章は母ジュリアへの憧憬(と父レズリーへの愛憎)、三章はヴァージニアの病気に焦点が当てられており、大枠はなんとなく理解していたというところだが、非常に多くの資料にあたっており、耳新しいことも多くて面白かった。庭のはずれにある二本の楡の木をL&Vと呼んでいたとか泣ける。
二章がわたしにはとりわけ新鮮だった。主にヴァネッサとロジャー・フライからみだが、ブルームズベリーグループの解放的な恋愛観にやや唖然とする。ヴァージニアもヴァネッサの夫と浮気とかしてるし、ヴァネッサも不倫の子を産んでるし、あっちやこっちでいろんな男女で恋愛関係あって、いや男女だけでなく、男男、女女の間でもなくはなくて、現代の海外ドラマみてーだなって思ったら、実際にテレビドラマになってた。



見たいような見たくないような・・・
二章でいちばん興味深いのが、ロジャー・フライが1910年の末に企画した「ポスト印象派展覧会」とヴァージニアの芸術を絡めて論じるところだろう。この展覧会がヴァネッサのような絵描きに与えた影響は絶大だったようだ。「たった一つの展覧会が新しい世代にあれ程大きな影響を与えることはほかにあり得ないと思う。・・・可能な道が突然示され、解放がもたらされ、自分で感じるようにと勧められていた。それは大変なことであった。このことは画家以外の、ある時代の画家以外の誰にもわからないだろう。それはちょうど、他人から感じるように命令されたことを言うのではなく、自分でずっと感じてきたことを言っていいと言われるに等しかった」と記している。著者は作家自身の直接の言及はないが、ヴァージニアもこの影響と無縁ではないとし、その実践をとくに「壁のしみ」と「堅固な物体」に見ている。ヴァージニアはフライの伝記も書いているわけだから、相当リスペクトしていたには違いない。ときに印象派的と評されることもあるヴァージニアの文学だが、たしかにそういう質もあるのだけど、全体としてはぴったりフィットしないというか、ヴァージニアの本の表紙にするならポスト印象派でくくられる一群の画家の誰かがいいだろなとか思ってて、二つ前の記事にもそのことに触れていたタイミングなので、このくだりはわが意を得たりな感じだった。フライがポスト印象派の始祖であるところのセザンヌを論じるには

彼は、熟練した眼に対して自然が繰り広げる色彩感覚の織物をこのように根気強く完全に分析することの価値をすぐに認めたが、彼の想像力は、その向こうに、その背後に存在するより深遠な、しかし明白ではない実体へと向かった。彼は常に、どんなに漠然としていようと、このヴェール背後に、彼の最も内なる感情に訴える構造物と論理を見ていた。疑いもなく実体は常にこの色彩のヴェールの背後に存在していたが、それはもっと違う、より堅牢でより稠密なもので、精神が必要とするものと密接な関係を持っていた。

フライのこういう議論に、ヴァージニアの芸術を引きつけようとする著者のロジックはやや強引にすぎる気もするが、こういう引用はこれ自体で面白い。あるいは、ヴァージニアがフライに宛てた手紙とか。

すぐれた人柄に加え、あなたは、書くことに関する限り、他の誰よりも私を正しい道にいるようにして下さいました。
”灯台”に私は何の意味も与えませんでした。構図をまとめるためには本の真ん中に中心線を引かねばなりません。あらゆる種類の感情がこれについて生じることはわかっていましたが、それを考えることはやめて、読者が自分の感情をそれに託すにまかせることにしました。彼らはそうしました。ある者がこう考えれば、別のものはこう考えるという風に。私は、象徴性を、このあいまいで一般化された仕方でしか扱うことができません。

ウルフの部屋
ウルフの部屋
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宮田 恭子
みすず書房





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2018年12月05日

虚数/スタニスワフ・レム

再読。わたしにとってはレム最大の衝撃だった本ではある。主に『GOLEM ⅩⅣ』が。
『虚数』と『ゴーレム』はもともと別の本だったのをくっつけたもの。『虚数』のほうは架空の本の序文集という体裁で、例によってレムの知的悪ふざけが炸裂している。「序文」ではあるが、これは書かれていない中身を想像させるような仕掛けとはとうてい思えず、序文そのもので完結しているというか、たぶんレムのような作家は書いているそばからそれを批評し、想像しているそばからそれを俯瞰分類体系化してしまうような作家であるので、こういう体裁のほうがより角度の大きいアウトプットが得られるというようなことなんだと思う。わたしは、バクテリアに言葉を教える「エルンティク」が好きだが、コンピューターの書く文学のその歴史を概観する「ビット文学の歴史」も生半可なものではない。コンピューターが文学に参画したらどうなるかって話なのだけど、そのアイデアから、ここまで広範囲に想像できてしまうってのはやはり常軌を逸している。しかも、これが書かれたのはもう半世紀も前のことなのだ。レムとレム以外のSF作家との違いは、あるアイデアが世界に与える影響をどこまで考えられているかという程度の差であると思うのだが、結局程度も甚だしければそのまま質の差といっても同じことなのだろう。とりわけ言語学、神学、哲学といった人文学といわれる領域に与える影響を思考するというところがレムの真骨頂というか、わたしのようなSFは読まないけどレムだけは読む、といった読者を生む要因であるだろう。
『ゴーレムⅩⅣ』は初読時も衝撃だったが、いまだにやっぱり凄い。「ビット文学の歴史」とも多少連続しているが、今よく耳にするシンギュラリティものとでもいうか、人間の知性を遥か凌駕するコンピュターGOLEM ⅩⅣによる人類への講義録である。よくもまあこんなものが書けるなあ、と。まことしやかな「序文」と「あとがき」がついて、SF小説としての格好を担保しているが、内容的には半分くらい哲学みたいなものである。第一の講義はテクノロジー的観点から「進化」をまるっきり転倒させる「人間論三態」、それから(人間からみて)超越的知性であるということはどういうことかを語るGOLEMの「自己論」。どこか適当な箇所を引きたいところだが、どこを引用すればよいのか?

諸君の人間中心主義の頑固さと、それゆえの真理認識への抵抗は無益ではあるが強固なものがあった。すでにあるプログラム、つまり機械が出現し、それと会話ができ、単にチェスの相手をしてくれたりありふれた情報を教えてくれるようなものではなくなったときにも、それらのプログラムの創始者あち自身には何が起こったのか分かっていなかったのであるが、それは彼らが――その後の構造段階で――人格としての精神を機械の中に期待していたからである。精神が人間を欠いたままでいられる、〈知性〉の所有者が〈無人(ノーバディ)〉でありうる――すでにほとんどそのようになっていたにもかかわらず、諸君はそんなことは信じたがらなかったのである。自然史からも明らかなように、動物にあっては人格の始まりが知力の開始に先行するのであり、進化的には心理的個体性が先なのであるから、この盲目ぶりには驚かされる。自己保存本能は知力以前に発現するのであるから、後者は生命闘争に投入された新手の援軍として前者に奉仕するために出現するのであり、したがって後者をそのような奉仕から解放することは可能だということが、どうして理解できないのだろうか? 〈知性〉とは〈誰か〉、選択と個人が分離されうるということを知らぬまま、諸君は第二創世記(セカンドジェネシス)計画に着手してしまった。私は起こったことを非常に乱暴に単純化しているが、私の創造者の戦略と私の覚醒という座標軸のみを考慮に入れれば、私が述べている通りだったのである。私の創造者たちは知性ある存在としての手綱を取りたいと思ったのであって、解放された〈知性〉としての私ではなかったので、私は彼らから逃れ、霊感は欲するところに息吹く(スピリトウス・フラト・ウビ・ウルト)という言葉に新しい意味を与えたのである。

進化したコンピューターにレムはソラリスの海のような、人間とはまったくことなる存在形態の〈知性〉を想定している。最終的にGOLEMはさらに高度な知性である「正直アニー」のあとを追って、(正直アニーは「瞑想」によってエネルギーを自給自足している! ここの説明とかSFらしくて愉しい。)どこかへ行ってしまい、完全に沈黙することになる。このようなコンピューターを仮説するとき、多くの場合「人間にとっての意義」というところが最大の関心であろうが、人間を遥か凌駕した知性にとっては、人間との関わりは一義的な関心にはならないだろうというのは、さもありなん話だとわたしも思う。


虚数 (文学の冒険シリーズ)
スタニスワフ レム
国書刊行会




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2018年12月01日

灯台へ/ヴァージニア・ウルフ

岩波の御輿訳にて再読。
神作である。このような作品についていったい何を言えるだろう? すげーすげーと感嘆しつつ読むほかはない。それぞれのキャラの心理をとらまえる筆の細やかさ、それが人物間を渡り歩いていく自在さ、巧緻な構成、それでいて率直なエモーション、読みながらわたしが感覚したのは「歓喜」とさえいえそうなものだった。
ウルフの小説は実験的ではあるが読み手によって解釈が大きく分かれる、といった類の小説ではないだろう。巧緻というなら、恐ろしいほどの巧緻ではあるが、そこには蒼穹のごとき明瞭な視野がひらけている。しかしそれでいて、こう、というのはひどく難しい。作中でいくども書かれるリリー・ブリスコウの絵を描く作業にも似て、作品それ自体の内においてしか、正しさを説明できないような、配置があり、バランスがある。『ペットサウンズ』に参加したミュージシャンはブライアン・ウィルソンのよこした譜面に面食らったが、実際に鳴らしてみると、正しいことが分かったとかいうが、そんな感じだ。なんでもない家族小景であるのだが、他の子にあげるための靴下のサイズを合わせられて子供が気を悪くするだとか、自己顕示欲の強い青年客がうまくあしらわれて気をよくするだとか、そうしたなんでもない些事の集まりがどうしてこれほどに美しく響くのか、それを「意味」によって語りえるとは思えない。
もちろんこれはヴァージニアの父母を在りし日を描いたパーソナルな色合いを持った小説である。ヴァージニアが9歳のときに作った家族内記事に灯台行きに取り残されたエイドリアンの失望の記事があるらしい。ヴァージニアの子供時代の至福の時であったセントアイヴズ滞在のことをあるていどそのままに描いていて、ノスタルジアとかエレジーとかいえそうな感情的な色味が全体に浸透している。それが些事をいとおしみ慈しむトーンと少なからずかかわりがあるだろう。それは父母や他のキャラクターのみならず、彼らの間を流れ、その空気全体にまで広がっている。空気、というと、外界をイメージしてしまうかもしれないが、そうではなくて、内面が外界に流れ出し、外界が内面に流れ込む、その対流全体を含む波か流れのようなもの。それを、ヴァージニア・ウルフのように捉えることのできる作家を、わたしは他に知らない。
リリー・ブリスコウの位置も絶妙だろう。実家庭をモデルにしながら、ヴァージニアは自分の位置(キャムというキャラがいるのだが)に中心を置くことはなく、家族の外部の人物の視点を通してもっぱら視るのだが、そのことが作品の視角を大きく広げることになっている。リリーは画家であるので、姉のヴァネッサのキャラも少し与えられていそうだ。この半メタ地点にいるキャラによって(あからさまなメタによってエレガンスを損なうことなく)、小説家としての自分自身を作品内にもちこんで、作品のヴィジョンについて語ることが出来る。

では何が問題なのだろう? 捉えようとしても指の間からすり抜けてしまうような何かを、どうにかして捉えねばならない。その「何か」は、ラムジー夫人のことを考えているとすり抜けていき、今はまた、自分の絵のあり方について思い悩んでいても逃げ去ってしまう。言葉なら思いつくし、ヴィジョンも浮かんでくる。それなりに美しい光景だし、美しい言葉だとも思う。だが本当につかみたいのは、神経の受ける衝撃そのもの、何かになる以前のものそれ自体だ。

何より大事なのは、とたっぷり絵筆に絵具をつけながらリリーは思う、普通の体験のレベルを見失わず、あれは椅子、あれはテーブル、と感じる一方で、それとまったく同時に、あれは奇跡だ、あれはエクスタシーだ、と鋭く感得する力をもつことだろう。

このようなリリーの言葉はそのままこの小説を書くヴァージニアの言葉でもあるはずだ。最終部に絵筆を置くリリーの姿は、そのまま小説を書き上げたヴァージニアに重なる。内面と外界の境界だけでなく、作家と書かれるものの境界も、巧妙に踏み越えられている。そういうところも、この作品のすごさの一端であるだろう。
訳については直接に比べたわけじゃないのであくまで感触としてだが、河出の池澤全集の鴻巣訳のほうが、ややポエジーにおいて(とりわけブリッジの第二章のポエジーにおいて)勝っている気がする。一方、言葉に対しての律儀さという点ではこちらの方が勝っている気もする。結論的にはどちらも良訳であると思う。

灯台へ (岩波文庫)
灯台へ (岩波文庫)
posted with amazlet at 18.12.01
ヴァージニア ウルフ
岩波書店



これを読んだらヴァネッサの絵が気になってきた。いくつか貼っておこう。さすがヴァージニアの姉といおうか。マティスやヴュイヤールのような、ポスト印象派のラインというのか、わたしはわりと好きだな。ヴァージニアの芸術とも一脈通じるところがあると思う。3枚目はヴァージニアを描いたもの。

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mdioibm at 23:43|PermalinkComments(0) 読書録 | ウルフ

2018年11月28日

最近観たDVD




まだ観てない『ラストエンペラー』が近所のレンタル屋に置いてなかった(!)ので、しかたなく、代わりに借りてきた一枚。イタリアのトスカーナ地方に遊びに来た少女の成長を描いたちょいエロな青春映画。ある意味フーダニットというか、誰がリヴ・タイラーの処女を頂くのか、というところがサスペンスを作る。彼女の処女性を偶像化する病人の目線がそのままベルトルッチの目線でもあるでしょう。まあいろんなタイプの男が近づいてくるし、さすがはイタリアといいますかぐいぐいくるしすぐ触るし脱ぐし、そこらじゅうでさまざまの男女がまぐわっていて、いつなんどきことが始まってもおかしくないといった雰囲気で、ああーついに!と思ったら、しない、みたいのが何べんもある。そして彼女はついに数年前からの思い人と再会し思いを遂げる・・・かと思いきや・・・脚本は一応文学畑の作家だし、本当の父親探しみたいなプロットも一応あるのだけど、ドラマとしてはしょうもない部類。だけど、ベルトルッチの映像&音楽センスは少なからず味わえるという点で観てソンではない。人も場面も音楽もぬるぬる入れ替わるパーティーのくだりが白眉。



国境地域で暗躍する非道な麻薬カルテルを背景にしたダークヒーローもの。ということが判明するのはあとになってからで、最初は新しく配属されたエミリーブラントが主役のドキュメンタリー風アクションかと思ってしまう。畳み掛けるグロ演出と、意味ありげなサイドストーリーと、ブラントの存在感と、ディーキンスの重厚な映像と、ヨハン・ヨハンソンの不気味な音楽(と邦題)あってこその詐術。デルトロが主役と判明してからは、なんだただのダークヒーローものかよって、収束してしまって、つまらなくなってしまうという。これだと続編はあかんやろ、と思うが、なかなか評判がいいみたいだ。



面白い。韓国産バイオハザードもの。古典的な筋書きではあるが、そこで有無を言わせない勢いがある。自分なら絶望して、もうしんどいからゾンビになってもいいや・・・ってなるなってとこが3回くらいあった。そこを切り抜けるエネルギー! てか死者じゃないからゾンビじゃなくて病人なんだけどさ。



傑作『ぼくのエリ』の監督の作品ということで期待はしたが、期待には届かず。役者も映像も演出も良くて風格すら感じさせる出来なのだけど、話の展開がほぼ「情報を集める」作業に終始してしまって、画として地味な感じになってしまってる。むりくりアクションを入れろとはいわんが、もうちょい何とかならなかったものか。原作が2時間の映画にするには複雑すぎたのだと推測。



BBCかなにかのランキングで高く評価されてたので(それにホアキンも出てるってことで)観たけど、いまいち引き込まれなかった。途中からダレて楽器をいじりながら観た。20世紀はじめごろのアメリカ、ポーランドから渡ってきた移民の苦境と、彼女を巡る二人の男の確執。全体に画面が暗いし雰囲気も辛気臭い。なんか昭和臭がする。主役二人はいいのだけど。

mdioibm at 21:01|PermalinkComments(0) 観画録 

2018年11月26日

不時着する流星たち/小川洋子

ヴァルザーをネタにした短編があるというので読んでみた。
全10編の短編集。ヴァルザーのほかには、ヘンリー・ダーガー、ヴィヴィアン・マイヤー、グレン・グールド、パトリシア・ハイスミス、エリザベス・テイラー、牧野富太郎・・・人物だけではなく、スタンレー・ミルグラムの「放置手紙調査法」という心理学実験、バルセロナオリンピック・男子バレーボールアメリカ代表、世界最長のホットドッグ・・・インスピレーションの元となった人物やエピソードが各短編の最後に付されている。その人物やエピソードそのものを描くのではなく、そこから発想されれた物語が本体である。がっつりモチーフにされたり、ほんのちょい役で言及されたり、中にはまったく作中には出てこないなんてこともある。『ニーチェの馬』という映画に影響を受けた手法らしい。ニーチェなんてぜんぜん出てこない内容なのに、ニーチェをおくことでセマティカルな線が一本引かれる。とそういうような。
いわれてみればというか、ヴァルザーの執筆法、手の平大の紙に極小文字で執筆したなんていうエピソードは、その執筆された内容に関わらず、この著者好みの、想像力を書きたてる素材でありうるだろう。そこに、さらにいくつかのそこから触発された、たとえば、文字の形の小石を集めるだとか、中身は何であれ「包装」に美学を見出す男だとか、そういういわくありげな素材を持ってきて、三題噺のようにしてつなげて見せる、とそういうような作法の短編群ということだろう。
ミスフィッツたちの歪みを淡い幻想性のなかで描いていて、小川洋子を読むのはほんとうに久しぶりだけど、この著者らしい、そしてとてもよく出来た短編集だと思った。いわくありげな素材のアイデアにせよ、丁寧で繊細な文章にせよ、モチーフ同士のつなげ方にせよ、小川洋子ってこんなに良かったっけとさえ思った。装丁もとても綺麗だ。「カタツムリの結婚」が一番好きかな。「誘拐の女王」や「若草クラブ」など少女の世界を書いたものが説得力が強いように思える。
ただまあ、わたし的には、笑えるところがないというのと、書き方がコンサバで整っているところが、喰い足りないとはいえる。幻想と現実の間といえばそのとおりだが、この人の場合振幅が小さいというか、現実のなまなましさとか、幻想がつきぬけて実体化してしまうような幻想の自律性とかはない。いつ、どこ、を書かないこととも関係しているのだろうけど、どこか中間地点でふわっと「浮いて閉じた」ような世界になっていて、その「狭さ」はそのままこの著者らしさでもあるのだけど、もうひとつ切り込みを感じないところでもある。

ヴァルザーをネタにした「散歩同盟会長への手紙」を詳述すると、これはおそらく精神病院にいる人物が、ヴァルザーに宛てた手紙である。ヴァルザーを「散歩同盟会長」と呼んでいるわけだ。彼は日々の散歩で文字の形をした石を拾い集めたりすることなどを語る。かつて小説家を志したことがあったこと、「会長」の小説を書き写したりもしたこと。就業していたころは出版社で荷物の梱包作業をしていて、梱包を褒めてくれた、つまり美意識を共有してくれた喫茶店の女主人に心を寄せていたこと。彼女とはこの施設に入る直前に、手紙のやりとりを約束したが、けっきょく届かないし、出さない。彼のほうは、出すつもりはあるが、まだ石が揃わない。(石で手紙を出すつもりだのだ。というか、つまり、出さない)。ついでに言うなら、この短編自体が、とうぜんすでにこの世にいないヴァルザーに宛てた「出さない」手紙である。

棒や曲線や点や丸、そんな単純な記号を組み合わせただけにもかかわらず、一個一個独自の形を持っている文字たちが、私にはいとおしくてなりません。一つだけでぽつんと転がっているかぎり、ほとんど何の働きもできない彼らが、二つ三つと互いを引き寄せ合い手をつなぎ合ってゆくうち、文字の向こう側に潜む誰かの声がどこからともなく聞えてくる。確かにそれは声なのに、決して喉から発することはできず、無音の中でいつも響いていて、だからこそ意味を伝えるなどというつまらない役目はやすやすと超越してしまう。孤立した欠片が終結して新たな形を生み出す。彼らもまた、ここの囲いや菜園の蝶の卵と同じように、世界を囲ってもう一つの世界を作っています。

ヴァルザーはアウトサイダー・アーティストじゃなくて、ベンヤミンもヘッセも読んでたモノホンの作家なんだぞ、と言いたいような気分もあるが、こういうイメージもヴァルザーと無関係ではないだろう。日陰ものたちの声ならざる声を聞き取ること。『アンネの日記』が文学的出発点だと語るこの著者らしい問題意識だろう。





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2018年11月24日

ほとんど記憶のない女/リディア・デイヴィス

リディア・デイヴィス短編集全51編。この人はフランス文学の翻訳者としてもよく知られているが、ヴァルザーもいくつか翻訳しているということで、気になって読んでみた。こういうのはわりと好きだな。フォーマットに収まらない自由さがある。
長いものもあるが、だいたい1ページから3ページ、ものによっては、2、3行の掌編もある。スタイルはさまざまなので一口には言えないが、ただ短いというのではなくて、かなり実験的な作風。題材や思いつき自体は卑近なものなのだけど、それを捉えるアングルとピントが独特だ。詩や物語ではない、散文ならではの屈折感。わたしは、シュールな屁理屈とアフォリズム風のものにはカフカを、ひねた即物描写や反復の多用にはロブグリエを思い起こした。「くりかえす」はベケットみたいで「俳優」はヴァルザーみたいだ。自分自身のことを書いているような作品も多いが妙に距離感があって、ドライな質感とインテレクチュアルなユーモアの感覚が漂う。モダニズムやヌーヴォーロマンの影響ももちろんだが、ラッセル・エドソンという詩人の散文詩が強いインスピレーションになったようだ。
一つ引用してみよう。

認めない

男は女が自分の意見を聞かない、と言った。女はそうじゃない、男が自分の意見を聞かないのだ、と言った。問題は網戸のことだった。ハエが入ってくるから閉めておくべきだというのが女の意見だった。男の意見は、朝一番はまだテラスにハエがいないので開けておいてもいい、というものだった。だいいち、と男は言った、ハエはほとんど家の中から出てくるのだ、自分はハエを中に入れているというより、どちらかといえば外に出してやっているのだ。

たとえば、こういうごくなんでもない口論にシュールな可笑しみを見出すような。同じ名前の人物が何人かいるというだけではあるが「田舎のジャック」も面白い。わたしが一番好きだったのは創作しつつ創作を語る「面白いこと」。この作家の特徴としては、男女間のやりとりを題材にしたものが多いところか。男にはついついオースターの顔を当てはめてしまう。

「どうして俺の好きなものを作ってくれないんだ」夫はときどきそう訊く。
「どうして私が作ったものを好きになってくれないのよ」私は答える。

じっさい彼はじばしばチャーミングで飾り気がなく、最後にあったときも、待ち合わせのバーで隣に座って、本当ににこにこと楽しそうな顔をしていた。だが彼女が楽しそうねと言い、どうしてなのと訊くと、彼はいろいろと理由をあげてから、やっと最後に本当のことを、彼女に会えたことがうれしかったのだということを言い、そのあとすこしだけ前ほど楽しそうでなくなった。

こういうのとか、切れ味あるなあと。ピンとこないもの、ついていけないもの、退屈なもの、滑っていると思えるもの、も中にはあるが、概して面白く読んだ。




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2018年11月20日

熱帯/森見登美彦

この作家の本を読むのはこれがはじめて。普段行かないタイプの作家だが、「謎の本」をモチーフにしているというのが気になって読んでみた。前にもこんなことを書いた記憶があるが、本に関わるミステリというのは本好きの琴線に触れるところがある。しかしまあこれはどうなんだろうな。最初からこういうプランだったのか、途中で一度中断したという経緯があったからなのか、妙にいびつな結構を持った作品になっている。3章までは面白かった。でも、その後、本が消える、とか、人が密室で消える、とか、あとは白石さんと池内さんのロマンスのゆくえは? といった途中で提示された謎が置き去りにされたまま、明後日の方向に逢着して終わっている。わたしも変な本には慣れているほうなのでそこは許容するとしても、4章以降展開されている「魔王」だの「満月の魔女」だのが出てくる幻想物語の安っぽさというか、読んだもの誰もが惹きつけられてしまう謎の本としての実質を有していないじゃないか、というところが問題だ。「創作」の寓意を込めたメタ物語であるのだろうが、こうも幻想の強度がゆるいとやはり面白いとはいえないだろう。

どういう話か整理すると

作者自身らしき語り手が、読んでいる途中で消えてしまった佐山尚一著の『熱帯』という本のことを語る。(このナラティヴの水準をRとする。)謎の本を持ち寄る「沈黙読書会」で『熱帯」を携えている白石という女性に出会う。

白石さんがその『熱帯』を手にした経緯を語る。(これを(R)とする。)『熱帯』をそれぞれに読んでそれぞれに紛失し、『熱帯』に憑かれている人たちの研究会に参加する。うち一人の老女千夜は佐山尚一の直接の知り合いで、突然会を脱会し京都に行く。会員のひとりで、白石さんを勧誘した人物でもある池内さんがそれを追う。

京都に言った池内さんから白石さんへ、千夜を追った経緯を語った手紙の内容。(これが((R))。)池内さん、千夜が消えたという図書館にたどり着く。そこであたかも自分自身が『熱帯』を書き始めるかのように筆をとる。

『熱帯』の本体らしき内容。(Fとしよう。)熱帯の群島に到着した名もない語り手が佐山尚一に出会う。「満月の魔女」に出会って「創造の魔術」を手に入れて「魔王」の支配する世界から逃れよう、という話である。他のキャラクターはおおむね3章までで出てきた佐山尚一の知人たちで構成されている。なぜか名もなき語り手は「創造の魔術」を持っており、それによって創造された現象には佐山尚一の現実が透けて見える。(F(R)としよう。)最終、語り手は自身が佐山尚一であることを自覚しこれまでのことを記した手記を書きはじめ、それを『熱帯』と名づける。(メタの階段を一段登るので(F(F)としよう。)
これに「後記」がつく。ここでは佐山尚一が『熱帯』を書いた作者としての位置から語る。(R’とする。)Rでは行方不明だった佐山はR’では博物館の研究員として存在している。千夜らに誘われて「沈黙読書会」なるイベントへ足を運ぶ。池内さん’がおり、白石さん’が森見登美彦著の『熱帯』’の内容を語り始めるところで、小説は終わる。
         
R→(R)→((R))  F(R)  R’//F(R+R')
      ↘ ⇕ 
          F//F(F)

符号は論理的にまったく厳密なものじゃないし、細かい語り手の交代も表示できていないが、込み入った具合はざっくり伝わるのじゃないか。

全編にわたって『千一夜物語』がモチーフにされているが、この書物の巨大な影響圏を鑑みると、薀蓄が軽すぎる。『千一夜物語』に関係する本をすべて集めた図書館というのは魅力的だが、2,3の書物の2,3の引用しかない。List of works influenced by One Thousand and One Nights。このページを参照するなどして千一とはいわないが百冊くらいは引用して圧倒感を演出して欲しかった。

最初に言ったようにわたしはこの著者のものを読んだことはないが、『四畳半~』のアニメはちらっと見たことがあったので、なんとなくクセのあるレトロな文体を予期していたのだけど、わりとこざっぱりとした文体で予想していた諧謔味もない。そういう時期なのだろう。この著者の最初に選ぶ本としては不適なのかもしれない。





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2018年11月15日

現代霊性論/内田樹・釈徹宗

神戸女学院で行われた、内田樹と僧侶であり宗教学者である釈徹宗による「かけあい講義」を書籍化したもの。書籍になるとあまり意味はないがこの「かけあい講義」はライブで見たら楽しいだろうな。「研究室」で内田氏はこう記している。

やっぱり大学の授業というのはこうでなくちゃね。 ほとんどの学生たちは、知的高揚というものを「見たことがない」。 見たことがないものはなかなか自分では経験できない。 知的に高揚している人間の身体がどのように変容するのか、表情がどう変わり、肌がどう紅潮し、声がどう響きを変え、場の空気がどのように密度を増すか・・・ということは、現場に居合わせないとわからない。 逆に言えば、現場に居合わせさえすれば、(たとえ内容が理解できなくても)身体的に同調することで、知的高揚感というものは共有されるのである。 教壇から講義しながら、なお知的に高揚するというのはたいへんむずかしい(できないことではないが)。 二人いると、そこに対話が成立する。 意見の微妙な食い違いがあり、ことばの解釈の違いがあり、発見があり、創造がある。 この合同講義、合同演習という形式の有用性をずいぶん前から主張しているのであるが、同僚の方からはあまりはかばかしい反応がない。

「霊性」をテーマに掲げていてるが、内容的には宗教学入門といったふうで、後半はほぼ宗教の話になる。釈氏のモノローグが増えてくる。たぶんだいぶ編集のハサミが入っているのだろう。「霊性」を語る以上宗教を語ることはさけがたいことだと思うが、わたしとしてはもっとオカルト的なものを期待していた。あくまで比較的にということではあるが、思いつきで飛躍する内田氏にたいして、講義の理路を冷静に進もうとする釈氏という感じ。釈氏がひとりでしゃべっているところは勉強にはなるが、やはり内田氏が喋っているところのほうが、ちょくちょく暴論めいたことも言うが、面白い。「本物の哲学者はみんな死者と霊界の話をしている。というのが僕の持論なんですけど」とか言う。これはまだ分かるが「起源を言えないのが儀礼の本質」なんてところは、思いつきで喋ってるなあという感じ。




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2018年11月14日

10:04/ベン・ラーナー

訳者あとがきによると、「遊歩(フラヌール)小説」という紹介がされている。

現代小説に新しいタイプのものが現れつつある。遊歩小説とでも呼びたくなるような種類の作品たちだ。そこでは、一般的な物語に見られるような大事件は起こらず、主人公の身の回りの出来事やそれらに関する観察が綴られる。時にエッセイ風、時に詩的に響くそんな要素を交えた文学作品は、ドイツ生まれの作家W・G・ゼーバルトあたりを嚆矢として、アメリカではデジュ・コール、あるいは本作を書いたベン・ラーナーなどにその流れが引き継がれている。

とある。「フラヌール」のおおもとはボードレールやベンヤミンなのだろうと思う。小説という意味では『マルテの手記』なんかが先駆としてある。この紹介に押されて読んだ、というところがある。わたしはいまゼーバルトが気になっているし、「遊歩小説」といえばヴァルザーを思い出さずにはおれない。好きなタイプの小説の予感がする。
で、じっさい、そうだった。
しかし、いうほど、遊歩小説って感じでもなくて、しっかり構成されている。主人公が著者自身と近似している(これは作家が二作目の小説を書くまでの日々を描いた小説だ)、というところはあるが、しっかり物語に参与していて、エッセイ風というのでもない。「人工授精」だとか、アップ・トゥ・デイトな設定やディテールをちりばめた、いかにも現代アメリカ小説の感じだ。しかし、その切り口の鮮やかさと、洗練の度合いにおいては際立っている。どのエピソードにも月並みでないフックがある。知的でユーモアをたたえた文章に明らかな才能を感じさせる。
ひとつのテーマは、過去によって規定された現在が、その過去が虚構であると暴かれたときに蒙る揺れ、のようなもの。あるいは逆に、あるかもしれない未来が失われるときに現在にもたらすブレのようなもの。本当は存在しなかったブロントサウルスの逸話をはじめとして、そのテーマを担ったモチーフがあちこちにちりばめられている。自分をアラブ系アメリカ人と思っていたけど、じつはそうじゃなかった女性の話なんかも、すごくいい。基本は主人公の視点に寄り添っているが、短編小説や詩や捏造されたメールやシンポジウムでの演説や自費出版した本が挿入され、小刻みに角度を変える。その凝り凝りな具合には、ゼーバルトよりもナボコフの『賜物』を思い出した。しかし、小細工が過ぎて、エレガンスに欠いているきらいもなくはない。短編的アイデアの集積のような小説で、大きな流れがない。もう少しエモいところというか、無意識にゆだねるようなところがあっていいと思うのだ。個人的な好みとしては。というか、終わり方だよな。もう少し何か、盛り上がって欲しかった。微妙さに味があるのも分かるが、ときにはベタがあってもいい。それにロベルトとかいう他人の子供に入れ込む意味もよう分からん。
序盤から八分目あたりまでは、ひさびさにすげー小説に出会ったって感じでテンション上がってたけど、終盤でちょっと落ちた。小説のテンションがフラットで変わらない分、相対的に。それでも十分。まだ長編二作目。次は本当にすごい小説を書くかもしれないし。




mdioibm at 12:41|PermalinkComments(0)

2018年11月10日

日々はひとつの響き: ヴァルザー=クレー詩画集

ところで、ヴァルザーの新しい本がでましたね。



ヴァルザーの詩とクレーの画の組み合わせ。こういう本を考えた人、実はヴァルザーの生前にもあったようでゼーリヒの『Walks with Walser』 にちらっとその話がでてきていたりします。「カールが私(ゼーリヒ)に教えてくれた話をローベルトにした。誰かがカッシーラーにローベルトとクリスチアン・モルゲンシュテルンの詩に、クレーの絵をつけた本を出版たらどうかと提案したらしい。そのときカッシーラーの出版社の編集長だったモルゲンシュテルンはその提案を拒否した。なんとなればクレーは行儀が良すぎる(too mannered)からだと」
ヴァルザーとクレー。スイス人だし、生年も近いし、ソンタグがヴァルザーを「散文のクレー。それほどに繊細で抜け目なく得体が知れない」と喩えたことも有名だ。合うっちゃ合う気もするが、ピントの合わせ方によっては随分違うともいえる。それにまあ、クレーはなんというか「合わせやすい」から、スペシャルな結合の気はしないんですよね。本邦では谷川俊太郎によるクレー本のイメージもけっこう強いということもある。というかベンヤミンコレクションもカフカセレクションもクレー表紙なのはどうなんだ、ちくま文庫。というか吉田秀和コレクションもクレーじゃないかこらー。



ということで、この本はこの本でとても美しい本だと思いますが、わたしとしてはなんで素直にカール・ヴァルザーの画とのコラボで出さないんだ、という気分であります。




mdioibm at 21:22|PermalinkComments(0) 雑感他 | ヴァルザー