2018年09月21日

DVDメモ

ヘイトフル・エイト [Blu-ray]ヘイトフル・エイト [Blu-ray]

ギャガ 2018-03-02


マスターの称号をさしあげたい。イングロ>ジャンゴ>ヘイトフルエイトと縮小気味ではあるけれども、そして緊迫感も全二作ほどでなく、B級的に大げさな血しぶきブッシャーな趣味に走った展開ではあるけれども、もはや貫禄の話運びでもって、安定して高品質の映画を撮り続けていてすごい。ほぼ全員賞金首の一癖二癖あるならず者どもが、雪の荒野の一軒屋に閉じ込められる。なにも起こらないはずもない。役者の濃さと会話劇の楽しさ。

インフェルノ [AmazonDVDコレクション] [Blu-ray]インフェルノ [AmazonDVDコレクション] [Blu-ray]

ソニー・ピクチャーズエンタテインメント 2017-08-23


着実に劣化してきているシリーズ第三弾。今作のテーマはダンテ。トレジャーハンティングものというのか、まあこの映画の場合お宝を探すわけではないのだけど、謎を解いて、次の場所に行ってまた謎を解いて、みたいなのって大好きなのだけど、歴史的ないわくは必要だ。でも今作の場合、現代人が問題を作っているので、ほんとうにただの宝探しイベントでしかないという。導入は良かったが、どんどんつまらなくなっていく。悪役の動機も荒唐無稽で全体的にアホらしさすら漂う。ロケーションは素晴らしい。というか、もはやそこメインの映画というふしもある。

月に囚(とら)われた男 [Blu-ray]月に囚(とら)われた男 [Blu-ray]

ソニー・ピクチャーズエンタテインメント 2011-02-23


こないだみた「ライフ」なんかと比べると、ローテク感がすごすぎて、いまいち迫真性にかけるところがあるし、演出もいまいち冴えないけれども、話は面白い。月面でたった一人生活する作業員。基地外での作業の際事故にあって、なぜか治療室で目を覚ます、なにかがおかしい。誰が自分を連れ帰ったのか? 管理ロボを出し抜いて事故現場に行ってみると、そこには自分自身が横たわっている・・・「ソラリス」に想を得たのだろうか。クローンの哀しみ。この監督は「ミッション8ミニッツ」というユニークな小良作を撮った人か。なんとデヴィッド・ボウイの息子でもあるのか。であれば、タイトルをLife on Moon? にしなきゃという誘惑、あったろうなあ。

オール・ユー・ニード・イズ・キル [Blu-ray]オール・ユー・ニード・イズ・キル [Blu-ray]

ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント 2015-06-03


快作。リセット能力を身につけた主人公が死に戻りを繰り返して強くなって敵をやっつける。シューティングゲームに習熟していくあの感じ。予知ものは本能に訴えかける快楽あるよな。あー面白かった、はいおしまいで、ある意味後に何も残らないわけだけど、まさにそこがアクション映画の良さかと。

デジャヴ [Blu-ray]デジャヴ [Blu-ray]
ジェリー・ブラッカイマー

ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン 2010-09-22


そういえば、だいぶ前にこれも観た。これもスカッと楽しい予知ものの秀作。いやその機械で人間はタームワープできないだろとか深く考えちゃダメなんだと思う。映像もテクニカルだし、こまかい演出も秀逸。デンゼルワシントンが両手で口を覆ったりしつつ、やるせない表情で現場にやってきたところに、携帯が鳴って取り出すが、鳴っているのは自分の携帯ではなくてそばの死体袋の中のものだと気づくところとか、いい。冒頭の「ドントウォリーベイビー」も忘れがたい。そういや、これが良かったんで立て続けに『アンストッパブル』と『ジョンQ』も見たっけ。トニースコットとデンゼルワシントンのタッグ作。前者は、スカッと星4つだが、後者はちょっと社会派ぶってる分、後味わるくて、星3つ。

mdioibm at 22:18|PermalinkComments(0) 観画録 

2018年09月20日

プロローグ/円城塔

これはちょっと微妙だったな。いい意味でこの著者にしか書き得ない変な小説と思うが、『エピローグ』ほどには面白くない。
タイトル的にも『エピローグ』と対になる作品である。『エピローグ』はSF誌、『プロローグ』は文芸誌に連載されたということで、作者の中では「SF」と「純文学」の書き分け、というような意識があったみたいだが、前者がSF小説として行ききっているのに対して、後者が純文学として行ききっているというふうな均衡があるわけではない。そもそも「純文学」はジャンルではないはずなのだから当然のことなのだけれど。どちらかといえば、前者がロケットを飛ばす小説であるとするなら、後者はロケットを製作する技術者の日々の思惟や苦労や愚痴を書いた小説といった感じだろうか。小説の前の何かという意味でのプロローグ。
「名前はまだない。」と始まり、いま書きつつある「小説」そのものに「私」を名乗らせる、という意味での「私小説」。いつもの物語の自動生成のモチーフ。かりそめの登場人物たちを有らしめて、(彼らは登場人物としての、つまり書かれている存在としての自覚があるわけだが)、彼らをして小説の進行に介入させようとする試み。アメリカの学会に招かれたり、国内のオカルト史跡を訪ねたり、編集者とのやりとりだったりは、作者の実体験をそのままに書いたものだろう。それから、この本の中心をなす、文字言語に対する偏執的なこだわりと、アナログな環境とデジタルな環境のあいだにある断絶に対する愚痴と、プログラミングを駆使して行われる日本語の解析作業。コンピュータが出力する「小説」が、やがて「人間」を描きうるかもという倒錯したロマンティシズム。
いろいろの要素があると思うが、読みながらベケットやオブライエンやゼーバルトの名もちらついたが、読んでいる感じは、小説というよりは、学術的な新書本でも読んでいるのに近い。細かな薀蓄や言葉遊びは愉しい。類人猿のモチーフ、プログラミングや文字コードのくだりも分からないが、興味深い。しかしまあ、全体としては、小説的な有機的統一性を欠いている。なにがそれをもたらすかについては一考の余地があるだろうが(プロット、モチーフ、テーマ、キャラクター?)、とにかく全体が結びついてばちっと決まった感じがしない。それは全体を捕捉できていないお前の頭脳の問題だと言われれば否定はしないが、読みながら終始もやもやとした反感を覚えていたこともまた否定はしない。
たとえば、二冊の「文學界」が送られてくるくだり、わたしはその日常的かつミステリアスな感じがとても好きなのだけど、

勿論、この頃送られてきていた二冊の文學界が、同じ文學界であったらな話をここまで引っ張る必要などないのである。月号が違うという話ではない。みてくれは全く同じであるのに、どうもどこかが異なるらしい、というのが大問題だ。・・・(中略)・・・これがデジタルデータであったら、とあなたは思う。たとえテキストデータでなかったとしても、二つの文學界のデータの同一性を判定するのは一瞬だ。それこそMD5でもかけてハッシュ値を確認すればよい。別に一文字ずつ順に目視で突き合わせたってよいのだが。だからこれら二冊の文學界の間に存在する差異は、人間の記憶容量や情報処理速度と関係を持つ差異であり、空気投げのように明後日の方角から作用する言いがかりのようなものであり、言い抜けのようなものであり、否定できない可能性の中に生息している得体の知れない何者かだということになる。

徹頭徹尾テキスト的存在である語り手からすればそうなのかもしれないけど、人間の認知を「言いがかり」や「言い抜け」と言っているようでは、小説にはなれないだろう、と思う。これは精神論や神秘主義ではない。リダクショニズムは限定的にしか正しくありえない、という話だ。



プロローグ (文春文庫)プロローグ (文春文庫)
円城 塔

文藝春秋 2018-02-09




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2018年09月16日

分裂病と人類/中井久夫

これも中井久夫の代表的著作として挙げられることの多い本。
「分裂病と人類」「執着気質の歴史的背景」「西欧精神医学背景史」の三章から成り、どれもおおむね独立した書き物として読みうるものだ。わたしは二章が一番面白かった。天才による独創的な論文、というものの分かりやすい具体例であるように思える。
一章では、分裂病(いまでいう統合失調症)ではないが、原分裂気質というべき性質をもった人のことを、つまり「その失調の現代的な形態が分裂病であるような元のもの」、を有した人を「S親和者」と名づけ、おそらく著者自身もそれに属するであろうという自覚もあるのだろう、S親和者の特性が、人類の生存と歴史を支え続けている、ということを、農耕文化以前にまで遡って考察したものだ。どこか「スキゾキッズ」だとか言っていた浅田彰の議論を先取りしているような感じもしなくない。そういう意味でもわたしにとっては、驚きであるよりは、耳馴染みのある議論の感じだ。ただS親和者の特性の説明が「兆候空間=微分回路的認知の優位」というくらいのざっくりしたものであるところと、やはり先史時代をも含んだ議論であることゆえの、歩幅の大きさにやや説得力不足を感じなくもない。しかし枝葉の部分は相変わらずの豊かさで、イク族(定住を強いられた元狩猟民族らしい)やエティオピアを紹介した部分なんかはさすがの博識ぶりだし、また実経験を記述したこんなような記述とか、素晴らしい。

ターンブルのイク族誌は、向精神薬が到来する以前の巨大精神病院の雰囲気にどこか似通うものを持っていないであろうか。かつて私は実地研修生としてその一つを見学したが、明治時代に設立された病院の慢性病棟のなかを歩んだとき、そこには海底の静けさが領していた。人間は稠密に、しかし一定の距離を置いて佇立していた。われわれの一行が通過すると道はおのずと開かれ、われわれの背後で再び閉じた。私はゆらめく海草の林を歩む印象を抱いた。帰途、郊外電車の客たちは昼下がりのけだるさに身を任せていたが、彼らの存在はほとんどぎらぎらした欲望の塊のごとく私の目に映り、その熱気はほとんど直接に私の面を打ったのである。

二章では、ある意味S親和者と対極にある「執着気質者」の概念を軸に、主に江戸時代の二宮尊徳の「立て直し」を分析したもの。独創的な着眼だと思うし、あんた本当に医者かよっていうような、微細に入った歴史学的論述に圧倒させられる。執着気質的倫理の盲点を論じたところでは後のバブル崩壊を予見するような記述もあるし、最後には鴎外の詩の分析までするという。才気冴えわたった論文である。
三章はその名の通り「西欧精神医学背景史」。精神医学は狭義においては19世紀に発生したものであるが、syntagmatism(統合主義)とparadigmatism(範例主義)の対概念を軸にしながら、その母体となる「治療文化」を圧倒的な博識でもって古代ギリシアの古くから説き起こしていく。遠大な領域をカバーしつつも、知識の深さを感じさせる細部の綾も抜かってはいない。が、あまりに対象が大きいため素描の素描であるほかないし、やや教科書的に網羅的な記述であるために、小テーマの着眼のブリリアンスがやや損なわれているきらいはある。仕事としてはすごいものだと思うが、論考のダイナミズムが薄いので、わたしはやや退屈に感じた。わたしのグルであるところのベイトソンにも言及があったが

G・ベイトソンの二重拘束説が、臨床よりもラッセルの”階型の理論”によることはすでに知られているが、かかる単純な理論の受容を可能としたのは、一方では当時におけるアメリカ的秀才の存在、他方では”偉大なアメリカの母””女性崇拝”の反動であったろう。

と、素っ気無いというか冷淡ですらあった。残念。

新版 分裂病と人類 (UPコレクション)新版 分裂病と人類 (UPコレクション)
中井 久夫

東京大学出版会 2013-09-26




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2018年09月12日

花の命はノー・フューチャー/ブレイディみかこ

雑誌「波」に載ってあったエッセイをひとつ読んで、その気持ちのよい書きぶりに惹かれるところがあったので(息子とのやりとりがよかった)、著者の最初のエッセイ集を読んでみた。もともとはホームページに載せてた文章であるらしい。ここではまだ生まれてない息子はほぼでてこない。総じてどうということもない本だが、からっとしたユーモアでもって、英国の労働者階級の実態をよく伝えてくれる好エッセイである。
著者は福岡生まれで、高校卒業後かの地に渡り、そこで家庭など設けて、いまもブライトンに在住している。もともと貧しい家の出だったらしく、日本の中でもワイルドな気風のある福岡出身だし、ノエルギャラガーをして「福岡は好きだ。なぜなら名前にファックが入っているからな」と言わしめた福岡だし、日本にいるときからパンクミュージックを聞きまくっていたようだから、すんなり水が合ったということなのだろうか、真の労働者階級からすれば外部者には違いないが、日本における「代弁者」的存在になっているみたいだ。といってこの本にはとくに報道的な意図があるわけでもなく、ただそこにいて暮らしている様を活写しているというだけで、つまり大酒を飲みながらピストルズを聴いたり、ジャングル生活などして笑いものになっているジョンライドンの出てくるリアリティ番組を見たり、隣家の息子が盗品を売りつけてくるとか、旦那と分かれた友人とサンバを踊るだとか、猫が首のちぎれた鳩の死骸を寝室においてゆくだとか、イギリスの電車事情だとか、アイルランドの変わりようだとか、その他身辺周囲を「人生はクソだ」とか毒づきながら描いているといったものだ。
住みたいなとか行きたいなとか、憧れるような気持ちはみじんも起こらないし、自分のような人間はぜったいなじめないだろうなって思うけども、ポップミュージックを通じてなんとなく興味のあるところではあるし、いろいろといきぐるしい日本とは違うというか、雑で乱暴あるがゆえの懐の深さというか触れ幅の大きさがあるというか、まあ違った意味でだいぶいきぐるしいのではあるのだけど、なんだろう、したたかさ、頼もしさみたいのは感じるのである。

たとえば、こんな話とかが書かれている。旦那の同僚が、嫁が不倫して家庭がゴタゴタし始めたら、教会のコミュニティからハブられた、とかいう愚痴をはじめる。「こっちが一番神を必要としている時に、あいつらは門戸を閉ざしやがる。クソみたいなやつらだ」、「二度とあいつらとは関わらないと心に決めた」と。

「だが、ジーザスだけは違うんだよ」
「・・・」
「ジーザスだけは、今でも気になる。俺はもう、復活だの天国だの云うことは信じちゃいないし、そういうのははっきり言ってどうでもいい」
「あはははは。わたしたちは地獄行きを保証された身分だからね」
「ただ、どうしても気になるのが、あいつ、いつも死にかけてるだろう。しかも、あろう事か神を恨んだりしるし。あなたは何ゆえにわたしを見捨て給うのか、なんて言って」
「うん」
「納得できないままに、神と世間を恨んで、絶望して、死ぬことを怖がって、七転八倒しながら死んでいこうとしてるんだよ。そんなちっとも悟りを開いてない男がどうして神たり得るのか」
「うん」
「だが俺はもう、そういう男しか信じられない」

花の命はノー・フューチャー: DELUXE EDITION (ちくま文庫)花の命はノー・フューチャー: DELUXE EDITION (ちくま文庫)
ブレイディみかこ

筑摩書房 2017-06-06




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2018年09月09日

治療文化論/中井久夫

こいつはすげえ本だぜ。
なにやら質量のある大きな物体にどんと衝突されたかのような衝撃感すらある。

もともとは岩波講座の『精神の科学』の第八巻『治療と文化』の概説として書かれたものであるようだ。精神の病とその治療の営みを、文化人類学的視点によって捕捉しようという試みである。いや、文化人類学、というところにすでに西欧的なるものを中心、その外にあるものをエキゾティックなものと見る偏向があるとするなら、この本はまずそこのところの反省から筆が進められる。特定の地域にのみみられる精神病である「文化依存症候群」と、西欧精神医学によって確立分類された「普遍症候群」との関係をどのようにとらえるか、というのが序盤のテーマである。著者は、そこに「個人症候群」という概念を加えて、「三つの症候群とそれに関わる治療的アプローチと、それらを荷う人間的因子すなわち(広義の)患者と(広義の)治療者をはじめとする関与者とこれらをすべて縫合する一つの下位文化」、すなわち「治療文化」を構想する。これは精神科の病室に閉じたのではない、家族やコミュニティやシャーマンや宗教や、あるいは創造による救済といった、非医療的治療行為も含んだ、さらには「病」も「治療」もその文化の諸相であるというような、ホーリスティックなヴィジョンである。
その「治療文化論」を記述する過程で、実践的理論的のさまざまな小テーマについて考察がされる。どこをとっても著者の教養の大きさ、視野の広さ、思考の綿密さ、文章の上手さに感心させられる。とりわけ「病」や「治療」をその発生した風土と関連付けて地政学的(?)な視点から分析するあたり、この本の最大の読みどころだろう。中山ミキの登場を奈良盆地のコスモロジーとからめて説明するというようなところとか。カトリックの「告解」が精神分析の生育を準備していたなんて指摘もいわれてみればだがはっとさせられた。また著者自身が「私小説」ならぬ「私精神医学」だというように、すべてが客観的な学術の記述ではなく、著者の「私」性もだいぶ顔を出していて、それもまた魅力であるだろう。おそらく著者自身が属していただろうグループを分析対象として、精神医学的に語るところなんか、ちょっとヌーヴォーロマンでも読んでいるかのような感覚があった。精神科医の著作は往々にして小説的な何かを孕んでいるように感じられることがあるが、この本も例外ではない。大岡昇平はこれを読んで「小説が百書けますね」と賛辞したらしい。百はさすがに多すぎると思うが、激しく同意である。
読んでよかった。

治療文化論―精神医学的再構築の試み (岩波現代文庫)治療文化論―精神医学的再構築の試み (岩波現代文庫)
中井 久夫

岩波書店 2001-05-16


この人は「医者になるか、ヴァレリーの研究者になるか迷った」というほどのヴァレリー好きらしい。どうも『ムッシューテスト』を読んでから、ヴァレリーの名が妙にちらつく。丸山圭三郎もしきりにヴァレリーを引用していたし・・・

mdioibm at 00:26|PermalinkComments(0) 読書録 

2018年09月05日

最近観たDVDメモ


プリズナーズ [Blu-ray]プリズナーズ [Blu-ray]

ポニーキャニオン 2016-09-21



極上のサスペンス映画。傑作の水準だと思う。『ゾディアック』並み、といったら一般的には下げたことになるのかしら? 誘拐された少女を救おうとする父親と刑事の二様の奮闘。宗教的で重くるしくかつ迫真。脚本が非常によく練れている。これ見よがしの演出でなく、ねっとり品がある。150分と長いが、ずっとテンションが切れなかった。(欲を言えば真犯人のキャラがもうちょい濃ければというところだが。)『メッセージ』はいまいちだったが、この監督のほかのも見たくなった。ロジャー・ディーキンスによる画も美しい。


ライフ [Blu-ray]ライフ [Blu-ray]

ソニー・ピクチャーズエンタテインメント 2017-12-06



これもジェイク・ギレンホール。いくらなんでも火星生物が無敵すぎてありえないってのはあるが、面白くみれた。画期的なアイデアがあるというのじゃないが、全体としての質は高い。小惑星だかの砂粒を持って帰って欣喜雀躍している連中にみせてやりたい。みせてどうなるものでもないけど。


ネオン・デーモン [Blu-ray]ネオン・デーモン [Blu-ray]

ギャガ 2018-06-02



いまのところレフンの最新作か。らしいというのか、ダサさすれすれの変な美意識。ディスコ音楽とケバいネオンと、全裸金粉、部屋に獣、ストロボライト。天性の美貌を武器にスターモデルへと成り上がろうとする少女と、それを妬む周辺の女たちを描いたいやーなストーリー。筋書きはシンプルだが、いちいちアクが強い。リンチを思わせる悪夢的でアンキャニーなムード。面白くもないし、好きでもないけど、こういうくっきりした作家性をもった人ってのはやはり貴重かと。エル・ファニング綺麗。


【Amazon.co.jp限定】ベイビー・ドライバー (オリジナルカード付) [Blu-ray]【Amazon.co.jp限定】ベイビー・ドライバー (オリジナルカード付) [Blu-ray]

ソニー・ピクチャーズエンタテインメント 2018-07-04


天才的なドライヴィングテクニックを持つ「逃がし屋」のドラマ。冒頭の音楽とシンクロしつつ主人公が街を闊歩するショットからして凝り凝りで楽しいが、その密度が最後の最後まで維持されてるってのも凄い。ある意味スキのない映画。ただみっちりすぎるので、あと15分くらい短い方がいい。あとケビンスペイシーの突然の翻心のところがちょっとユルく感じた。エドガーライトはB級映画の雄といったイメージだったが、これはゲスいギャグが控えめで、なんだかメジャー感でてきた。007の後任なんて噂もあるが。



mdioibm at 23:05|PermalinkComments(0) 観画録 

2018年09月03日

わたしたちが孤児だったころ/カズオ・イシグロ

『充たされざる者』と『わたしを離さないで』の間に書かれた作品。

今度は探偵小説か!とまずは思う。作品順としたらこっちが先だが、すでに読んだ『わたしを離さないで』と『忘れられた巨人』がいずれもジャンル小説に間借りして書かれた小説であったので、この作品あたりからイシグロはジャンル小説に茶々を入れながら書くという人の悪いスタンスをはじめたのかもしれない。いわゆるオマージュとかパロディとかとは違う、あえて言えばヤドカリか寄生植物のような感じに、ちょっと土台は借りるけどあとは好き勝手にやってしまうという。逆に難しいことだとは思うのだ、フォーマットを借りておきながら、ぜんぜん別のセオリーで進めていくというのは。『充たされざる者』ほどではないが、いろいろとおかしい小説だ。

探偵小説を擬態してはいるが、読者の前に筋道立ったロジックを示そうという気は全然ないし、というか調査に乗り出すまでにだいぶあるし、そもそも調査すべき事件が読者に示されるまでにだいぶある。
飛び飛びに日付のついた探偵の手記(?)という体裁で、ちょっと前に起こった出来事を思い出しつつ書いていて、その上で「どういうわけかこんなことを思い出した」とか言いながら、ちょっとずつ主人公の子供時代のことが語られていくのだ。その上いちいち「あのようなことになろうとは、この時は思いもしなかった」とか勿体をつけつつも、みなまで言わないってのを続けるので、なんともやきもきする。
その上こやつは例の「信頼できない語り手」でもある。途中「なぜかわたしはこう言った」なんて反則的な文さえ(原文ではどう書いているのだろう?)飛び出す始末、こんなことは後になって分かることではあるが、この小説を読む読者は語り手が正直であるか、というのに加えて正気であるか、というところまで、裏読みしなければいけないんじゃないだろうか。いくつもの難事件を解決し、社交界に一目置かれる名探偵のはずなのだが、すぐ近くの場所にいくにも道に迷わずにはおれないあたり、『充たされざる者』のぐにゃぐにゃ感を思い出さずにはおれない。

以前イシグロがテレビに出てて、「わたしの場合、まず主題が決まる。設定はそれから考える。そこが大変だ」というようなことを言っていたのを見たことがある。してみると、こうだ。孤児による(空振りに終わるだろうという見通しの)父母探し、これがテーマだとすると、舞台は(東洋にルーツをもつ自分にはうってつけな)日中戦争期の上海で、探求の話であるから語り手はいっそ名探偵(笑)にしよう、曖昧な記憶によって主題が形成されるとなおよかろう、というようなことが後から決められたということだろうか。これはこの時期に黄金期を迎えたらしい探偵小説というジャンルへのいささかシニカルな批評でもあるだろう。

しかしぐにゃぐにゃしつつも、中盤には情報も出揃ってきて、ロンドンから(幼少期を過ごした)上海へ渡るところからは、怒涛の展開。わたしは前半分を一週間で、後半部を一日で読んだ。最終的には、現実感覚も歪んできて(『充たされざる者』みたく)シュールレアリスム絵画に迷い込んだかのような読み味になってきて、いかにもシアトリカルな住宅密集地域(わたしはブラジルのファヴェーラを想像したのだけど)で、まさかの旧友との再会など果たし、日中軍のドンパチに巻き込まれつつ、両親がいまだ幽閉されているとされる家へたどり着いてみれば・・・

いろいろと変ではあるものの、しっかりエンターテイニングであるし、最後はちゃんと収まっていて壊れていない。良作だと思う。ただまあ、好きかといわれると、そんなでもない。イシグロは主人公の狂気じみた動機に触れて、「壊れてしまったものをもとに戻したいという欲求」と説明している。

わたしたちが孤児だったころ (ハヤカワepi文庫)わたしたちが孤児だったころ (ハヤカワepi文庫)
カズオ イシグロ Kazuo Ishiguro

早川書房 2006-03-01




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2018年08月28日

言葉と無意識/丸山圭三郎

ふとソシュールのアナグラム研究とはなんだったのかが気になって。この本自体はソシュールの紹介ではなくて、ソシュールやラカンやを伝手に著者丸山自身の哲学を開陳するといった目的のものなのだけど。それでもたっぷり二章は使ってソシュールの紹介をしてくれている。

ときに「二人のソシュール」などと表現されることもあるらしい。言語学の俊英として革命的な理論を打ち立てたソシュールは、しかし、1894年あたりには言語学への絶望を感じ始めていたらしく、論文を著すことさえやめてしまい、(次に書かれると予告した本で)「何故言語学で用いられている術語のひとつたりとも私には意味があると思われないかを説明するでしょう」というような手紙を友人に送りさえしている。結局、その本すら書かれることはなく、それがどういう絶望であったのかは、周囲の人間にすら謎のままであったようだ。著者は「自らが構築した一般言語学理論自体がはらむ〈体系〉的学問への疑問からくる苦しみであり、言葉によって言葉を語る矛盾、さらには言語化することのできない〈非ー知〉を執拗に言語化せんとする戦い」に対する絶望であったと語る。で、いわば「二人目のソシュール」は、ニーベルンゲンの詩の研究や、ロマンド地方におけるゴルゴンド族について民俗学的研究だったり、交霊術にのめりこんだり、精神病者の報告する「火星語」の分析に没頭したりしたという。とりわけ熱中したのはアナグラム研究で、そのための研究ノートがギリシアラテン詩についてで120冊、ヴェーダ詩についてのもので26冊もの数、残されていたという。
意外なのは、有名な「一般言語学講義」がなされた時期というのは、アナグラムに熱中していた時期とだいぶかぶっているということで、アナグラム研究は1904-09年あたりで、講義が行われたのが1908ー11年、言語学のみならず周辺領域にも革命的な影響をもたらした講義を行ったとき、ソシュールはもはやぜんぜん乗り気でなくて、おそらく自分の理論を本気に信じていないというような状況だったということだ。別の観点から言えば、うさんくさい研究に没頭していた時期においても、学的に正統な講義をなしうるほどの頭脳の明晰さは保たれていたということでもあるだろう。
学問的な業績ということでは、ほとんど省みられることのない晩年のソシュールではあるが、筆者はそれをかなりの程度積極評価し、バルトやクリステヴァらのテクスト論や間テクスト性の議論を準備したものとして、あるいはラカンによるならフロイトが先取りした無自覚の精神分析家であり、この本のテーマでもある「言葉と無意識」の問題を提示していた存在、という位置づけを与えている。

しかしまあソシュールが後年熱中したのはいわゆる「詩学」であり、たとえそれが確かな成果に結びつかなかったといっても、なにかそれが「言語学」からのドロップアウトであるかのように言うのは、おかしな話で、言語の研究が言語の粋である「詩」に向かうのはある程度当然のことで、逆に「詩」も語れないような言語学なら、こっちから願い下げだよ、という話ではある。というのは、わたしの意見。

一般的なアナグラムといえば「玉蜀黍を十も殺し」といった単純な語の入れ替えだろうけど、ソシュールはそのテーマ語がより広範囲、すなわりテキスト中に散種するケースを、「パラグラム」と名づけて、そちらをより重視した。アナグラムはパラグラムの狭く集まったときのケースというわけだ。いくつもの具体例が挙げられているが、日本語話者にわかりやすい例は、『伊勢物語』の「かきつばた」の歌とかだろう。「かきつばた」ははっきり意図的だが、ソシュールは意図的だか偶然だかわからないようなそれを、ギリシアラテン語詩をあさって、「秘教的な詩の技法の発見」を目論んで、必死こいて探しまくっていたのだろうか。ああ、ソシュールにコンピューターを与えたまえ。ソシュールは自分の分析を、同時代の生きた詩人にも送って回答を求めたりもした。「さあ、偶然なんじゃないでしょうか」というような、返答で、続く第二信には返事すらもらえなかったという。それがアナグラム研究の挫折のきっかけになってしまったらしい。ネットで「ソシュールはルーセルに手紙を送るべきだった」と書いてる人もいた。言いえて然りである。意気投合してボルドーを酌み交わしていたことだろう。
 ソシュールはそれが意図的の「技法」であって欲しかった。と著者は考えている。そして、むしろそれが意図的でなく、無意識的に現れ出たものとして考えた方が、より議論は生産的なものになる。という論旨をとる。ヤーコブソンの言うとおり「ソシュールの第二の革命は「詩的言語が、本質的かつ普遍的に多声音楽的・多義的性格をもつことを明らかにした」のであり、あるいは、クリステヴァの〈間テクスト性〉の議論―「すべてのテクストは、これに選考する諸テクストお連関において、書かれかつ読まれる。現に存在する現象としての〈表層のテクスト(フェノテクスト)〉の背後には、このテクストを可能ならしめた発生としての〈深層のテクスト(ジェノテクスト)〉が「常に、すでに」存在する」―を下準備するのであり、あるいはマラルメが「純粋な作品においては詩人は発語するものとしての姿を消してしまう。彼は語にその主導権をゆずりわたすのだ」と言うような「主体の攪乱」であり、わたしの言葉で言うなら詩的テクストの「自律性」の問題も浮かび上がらせるというように。

著者の議論はこの後ソシュールから今度はフロイトの伝手を借りてなおも続くというか、本題の「言語と無意識」にいよいよ入っていくわけだが、すでにそうとう散らかってきているので、この辺で。全部を理解できたわけではないが、賛否でいうなら「賛」のほうが多い読書ではあった。ただ、わたしの趣味でいうなら、ロゴスとかパトスとかカオスとかコスモスとか、そういう「哲学的」術語を弄ぶ感じは好きではない。

言葉と無意識 (講談社現代新書)言葉と無意識 (講談社現代新書)
丸山 圭三郎

講談社 1987-10-19




mdioibm at 21:57|PermalinkComments(0) 読書録 

2018年08月26日

ムッシュー・テスト/ポール・ヴァレリー

なんじゃこりゃ。これほど徹頭徹尾意味不明な読書も久しぶりである。

「風立ちぬ、いざ生きめやも」でも有名な詩人であり批評家であるポール・ヴァレリーが唯一残した小説集とのこと。ムッシューテストは若きヴァレリーの精神の危機のときにふっと思いついた人物だそうである。「例外的な時期に例外的に生み出されたもの」と著者は「序」において述懐している。著者のある種の思想を体現し、小説を牽引する変な人物、ということでいえば他にもさまざま例があるだろうが、どれというならテスト氏は「超越者」あるいは「覚者」タイプのキャラではありそうだ。自画像というのとは違うと思う。たとえるなら、サリンジャーのシーモア・グラスとか、あんなような感じだろうか。先を行く人物の後姿、そんなぼやっとした感じである。勢いで最初の「ムッシューテストと劇場で」という短編を書いたのだけど、作者にとっては、その後もずっと引っかかりつづけたキャラのようで、折々その人物像なり思想なりを補強するような、作品ないしアフォリズムめいた手稿なりをいくつも書いた、でそれをまとめたのがこの本ということのようだ。
問題はそうしたキャラをいかに小説に受肉するかというところなのだけど、わたしの感受でいうと、失敗しているというか下手というか、上手く書けているとは思えない。社会の慣行を逸脱して、自分なりの信念に基づいて、自分自身の格率によってのみ生きている人物であるのだろう。興味深い。だが、言ってることは意味不明。意味不明だけど残るシーン、というのもない。あえて言うなら眠りながら喋るってとこくらいか。それとヴァレリー自身もそう言われたことがあるらしい「神なき神秘家」なんて表現も悪くない。しかし、延々理屈っぽいことを語っているのに、その理屈がまったくフォローできない。翻訳による取りこぼしなのか、わたしがアホなのか、ヴァレリーがイッちゃってるのか? まあ公平に三割負担といったところだろうか。解説でしばしば言及されるが「ミスティフィケーション」というのは、いい得ている。テスト氏の妻の手紙という体裁の「マダム・エミリー・テストの手紙」なぞは第三者の口を借りて必死こいてテスト氏をミスティファイするだけの短編である。(訳注にある「編集者覚書」ではマダム・テストの実在も疑っているってところはおもろい。)ただまあ、幽霊は小説の中では存在しうるので、「ミスティフィケーション」は「小説的には」意味がある。作者は「この種の人間の生存は現実では数十分以上つづくことはできないだろう」といっているが、それはいいのだ、そのとおりだ、でもミステフィケーションだけでは、そのような人物は小説の中でも生きながらえることはできないだろう。
はい、引用。

なにゆえにムッシュー・テストは不可能なのか?――この問いこそは彼の魂だ。この問いがあなたをムッシュー・テストに変えてしまう。というのも、彼こそは可能性の魔そのものに他ならないからである。自分には何ができるか、その総体への関心が彼を支配している。彼はみずからを観察する、彼は操る、操られることをのぞまない。彼は意識を意識自体の行為へと還元したときのふたつの価値、ふたつのカテゴリーしか知らぬ、――可能事と不可能事のふたつだ。哲学はほとんど信用されず、言語はつねに告発されているこの奇怪な脳髄のなかでは、束の間のものだという感情をともなわぬ思考はほとんど存在せず、そこに存続するものといっては、期待と限定されたいくつかの操作の実行のほかはほとんどない。彼の激しく短い生命は、既知と未知との関係を設定し組織する機制を監視することについやされる。それどころか、この生は、隠された卓抜な能力を行使して、無限というものが断じて姿を見せぬ孤立した一体系の諸特性を執拗に装うのである。

ムッシュー・テスト (岩波文庫)ムッシュー・テスト (岩波文庫)
ポール ヴァレリー Paul Val´ery

岩波書店 2004-04-16





mdioibm at 22:50|PermalinkComments(0) 読書録 

2018年08月23日

アウステルリッツ/W・G・ゼーバルト

まいった。これは素晴らしい。
これまで読んだゼーバルトには、好みのタイプなのだけどぴったりこないというような隔たりを感じていたが、これには没頭させられた。
なぜ代表作のこれをまず読まなかったのか。いや、というか、そもそもわたしはかつてこの本を手にとったことがあるはずなのだ。そういう記憶は確かにある。でもこのブログをつけ始める以前につけていた読書メモ(読んだ本のタイトルを記しただけのメモ)を見直すと、記録がない。ということは、手には取ったけど、読み通せなかったということなのだろう。読み通しはしなかったが、ただ合わなかったという記憶だけは残っていて、それでこの本をずっと済んだことにしてしまっていたのだろう。ゼーバルトの文章特有の静かさが、わたしには「動かない文章」といくぶん否定的に印象されたままに。
で、時を隔てての再挑戦なわけだけど、今回は自分でも驚くほどに引き込まれた。いつもの一人称エッセイ風ではなくて、書き手が旅先で出会ったアウステルリッツなる人物の物語を聞き書きする、という形式のためだろう。より小説的になっている、とも言えるだろうか。ワトソン式といってもいいし「こころ」式といってもいいこの形式のために、要するに物語る中間媒介を一つ多くするというだけだのに、どういうわけか一歩奥へ踏み入れたという感じがする。
序盤の建築学の薀蓄からすぐに引き込まれる。実在の建築物の歴史を語るこの辺りは、虚構性の薄い旅行記エッセイの感じだが、建築物がいかにそれを作ったものの観念を具現するのかを、あざやかに示していてぐいぐいと想像力を引き込む力がある。しかし、この作品が本格的に「動きだす」のは、最初の出会いから実に二十年後、アウステルリッツが自らの出自を語り始めてからだろう。幼少期を育った馴染めない牧師館の思い出から、自分の本当の名前を教えられるまでの経緯、学生時代の交友、ある種の成長小説のようにみずみずしい前半部。それから学者となっただいぶ後になって、彼を襲った精神的窮状を語る中間部。この辺は「アウシュヴィッツ以降」のドイツ人の書き手として、別様の語り方を発見せねばならなかったゼーバルト自身の精神史が写りこんでいるのかもしれない。その危機を契機に、アウステルリッツはずっと失われていたし、自分からも目を背けていた、五歳以前の記憶をたどり始める。それはつまり、彼はプラハにいたユダヤ人の子供で、ナチスによる強制収用のぎりぎり直前でイギリスに逃がされた子供のひとりであった、という事実である。この辺の設定はいまもドイツ文学で再生産されつづけているまあよくある設定ではあるのだけど、プラハに渡りかつての乳母(のような人)に再会し、行方のしれない(といってもどうなったのかは察しがつくが)両親の足跡をたどるくだりは圧巻である。ゼーバルトはエモくないと書いた前言は撤回、スタティックで端整な語りはあくまで維持しながら、それ自体の温度が高まっていき白熱するかのようだ。文章に写真を交えるというゼーバルトの手法もこれまでは首をかしげながら見ていたが、ここへきて記述が現実の風景と結びつくことの意義が身にしみてきた。とりわけ母親の行方を追ってテレジンを訪れたときの記述と、それに付されたいくつもの扉の写真には息が止まりそうになった。それは(アウステルリッツも感じたような)、過去が現前している、というような感覚であったろうか。あるいは記憶は事物に刻み込まれているというか。建築というモチーフもそのようなことを意味しているに違いない。建築物とは大きな視野でみるのなら記憶そのものであるのだろう。

けれども、私は、だんだんこう思うようになったのです、時間などというものはない、あるのはたださまざまな、高度の立体幾何学にもとづいてたがいに入れ子になった空間だけだ、そして生者と死者とは、そのときどきの思いのありようにしたがって、そこを出たり入ったりできるのだ、と。

アウステルリッツというキャラクターが創出されなければ、こういうようなダイレクトな飛躍のある言葉は、ゼーバルトは書かなかったのじゃないか、と思える。
アウステルリッツの探求がなんらかの終局を迎えて、物語が終わるものと思っていた。でも、母親らしき人物をナチスのプロパガンダ映画に発見したくらいで、アウステルリッツの探求はいわば結末を迎えぬまま、マイクは語り手に返されて、ダン・ジェイコブソンなる作家を引用した、そっけないような意味深なような記述で(そこにゼーバルト自身の誕生日の示す数字がもぐりこまされている)本は終わる。

アウステルリッツアウステルリッツ
W・G・ゼーバルト 鈴木 仁子

白水社 2003-07-25




mdioibm at 23:32|PermalinkComments(0) 読書録