2019年05月23日

批評の解剖/ノースロップ・フライ

最近マンガをよく読むので、マンガもフライの理論で分類できるのん?という軽い気持ちで手に取ったのだけど、えらいもん読んじまったな。文学のぜんぶをぼこっと視野に収めようという、強烈に挑戦的な本である。まさに文学ジャンルのフルコース、その気もないのに、満漢全席頼んじまった圧迫感である。
アリストパネスからジョイスまで、独自の観点から、古今の文学を徹底的網羅的に体系化分類化した本。その都度いろんな切り口から、四つか五つに分割し、相互に関連付けていく様は、さながら文学の陰陽五行説といった風情だ。解説によれば、「『批評の解剖』とは何か――それをひと口で言うなら、アリストテレスの『詩学』に起源を発し、規模においてある意味でそれを凌駕する現代版詩学大全だと言えよう。」フライの文章が高圧的であるとかそんな意味ではないが、そのがつがつくる濃密さゆえに、読みながらときに怒号を聞くような気さえしたほどだ。

一章は有名なモードの理論。一般的に有名ってのではないだろうが、文学部なんかに在籍していたりすると、何かの折に耳にすることは必ずあるだろう。わたしもそうだった。フライはアリストテレスに倣い、主に主人公の行動能力によって、文学作品を5つに分類する。曰く「神話」「ロマンス」「高次模倣」「低次模倣」「アイロニー」。下るほどにリアリティの水位が下がっていく感じだ。これらはおおむね、時代が下るごとに遷ってゆき、現代はおおむね「アイロニー」の時代ということでありそうだ。(カフカやジョイスのように「アイロニー」から「神話」に回帰する契機も示唆されているところにも留意したい。)さらにそれを、プロットの様式によって、両断する。つまり「主人公が自分の属する社会から孤立させられる物語と、主人公が社会に包摂される物語」という区別に従って、前者を「悲劇的」後者を「喜劇的」とする。あたりまえだが、悲劇喜劇の区分は、笑えるか、泣けるかではない。しかし、実のところこれはフライの分類癖のほんのさわりにすぎない。一章ではさらに別の切り口でもって5つのモードを分析する。悲劇喜劇はプロットの様式だが、今度は主題に着目し、その扱われ方によって「百科全書的」と「挿話的」という区分を持ち込む。

二章は象徴の理論。ここでもフライの分類癖はとどまることを知らない。中世の聖書解釈の方法に倣って、象徴というか言葉の意味を「逐字相」「記述相」「形式相」「神話相(原型相)」「神秘相」と分類する。おおむね、後のが前のに対して上位のロジカルタイプに当たるものと考えてよさそうだが、「神秘相」あたりはそうとうぶっとんでいて難しい。さすがウィリアム・ブレイク研究者という感じか。

神秘相的批評観に従えば、文学は人生や現実に対する注釈ではなく、言語的関係の体系の中に人生と現実を包摂して、それ自身の宇宙に存在するものであるという文学概念に行きつく。この観点にたてば、批評家はもはや、途方もなく巨大な「人生」に挑むちっぽけな芸術の王宮として文学を語ることはできぬ。批評家にとって「人生」は文学の苗床、潜在的文学形式の巨大な塊となったのであり、そうした文学形式のほんの一意部が文学宇宙の大世界へと育っていくに過ぎないのだ。・・・マラルメは言っている、「この世のすべては一冊の本に帰するべく存在すると。

フライの力点は「原型相」にあるといってよく、原型批評なる方法を立ち上げるのである。ユングとか構造主義批評が思い浮かぶ。それは個別の文学作品を論じるのではなく、作品間で共有される「原型」を分析するマクロな批評になることになる。

三章はそれの実践ということなのか。おびただしい数の文学作品(劇作ばかりだけど)を、つまんでは整然と配置していく。この本の中心であるらしいが、わたしとしては読むのが辛かった部分。なにしろほとんど読んだことのない作品だもの。ひとついえるのは、少なくともアリストパネスとシェイクスピアに通暁していないものは、読むべきではない、といったところか。

四章でもこれまた文学ジャンルの独自の分割。「劇」「エポス(語られる言語」「叙情詩」「散文フィクション」。それからまた「散文フィクション」を4分割する。この辺りがわたしのような、小説しか読まないような読者にはいちばん興味深いところだろう。フライは「小説」=「散文フィクション」とはせずに、散文フィクションを、「ノベル」「ロマンス」「告白」「アナトミー」に区分けする。そしてそれぞれについて、短い形式も整理する。つまり「短編」「(ポーの)テイル」「エッセイ」「対話や会談」である。フライ独自の区分がどの程度の普遍性をもつのかはともかく、こうした整理によって新しい視角を得られるということは、確かにある。(たとえば円城塔の作品を「ノベル」ではなく「アナトミー」とすると、だいぶすっきりしたりする。)それにフライの分類は、分けるのが目的の分類というよりは、整理してお互いを関係づけることで、統合的ヴィジョンを得るための分類である。
学問としての文学を考えるひとには必読、かどうかは知らんが、これを(ちゃんと)読むのと、読まないのとでは、いろいろと違ってくるのじゃないかな、とは思う。



批評の解剖 〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)
ノースロップ フライ
法政大学出版局



読みながら何度も図にしてくれよ、いやむしろ曼荼羅か? と思わずにはおれなかったが、フライ自身は、少なくともこの本では図表を作ってくれていない。ウィキをあたるのでもしいし、このページにもいろいろ図表化されているので、参照されたい。たとえばこういうのとか載ってある。

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2019年05月14日

続・横道世之介/吉田修一

『横道世之介』の続編。
正直、かつて大いに期待していただけに、すっかり大衆小説作家となってしまった(そのくせ芥川賞の選考委員などしている)吉田修一には裏切られた気分なのだけど、そういうのを置いておくと『横道世之介』はいい小説だった。作者もずいぶん気に入っているようで、いつだったか自作をランキングしたときに一番に選んでいたはずだ。
あれが大学生のときの話で、こちらは二十代半ば、九十年代の初め、フリーターで、パチンコ屋の新台入替日に朝一で駆けつけるなどしているころの世之介。率直な印象を言えば前作ほど良くはなかったが、心地よい空気は引き継いでいるし、思わず微笑んでしまうようなやりとりがたくさんあって、まあまあ愉しい読書だった。濃いい物語や人間関係があるってのではない。寿司職人志望の女性と友達になったり、借家の隣室の中国人をちょっと助けたり、友人のおごりでアメリカ旅行にいった(けどもケンカ別れしてニューヨークに置き去りにされた)り、覗き見きっかけで出会ったヤンママと付き合うことになったり、そっからほぼ家族みたいな状態になるのだけど、結局プロポーズは断られたり、というような、どうということもない物語。世之介は相変わらずの世之介だし、周りもみんな好人物ぞろいで、なんでもない日常性が愉しい小説なのだけど、前作と比べると、やっぱり祥子ちゃんが足りない。(前作を読んだ人は分かってくれると思うが、それぐらい祥子ちゃんは代えのきかない魅力的なキャラだったのだ。)
人生の物語のわき道で出会った、実効的な役には立たないが記憶の中でふわりと明るい場所を作ってくれている善良な青年。世之介はそんな、ある意味脇役的な存在で、当人はそのことを

「とにかくひどい言い草なんですよ。そのコモロンって友達に言わせると、俺は、マラソン大会とかで、辛くて、いよいよ立ち止まって、レースから脱落しそうなときに横を歩いてくれる奴なんですって。息が整うまで一緒に歩いてもらって、自分の息が整ったら、俺を置いて走っていくんですって。ひどくないですか?」

と、明るく愚痴る。
この対象の捉え方というか、被写体の、斜め後ろの空間に小説を見る感覚は、この作家らしさというところか。わたしが好きだったこの作家らしさの、もう名残といったところではあるが。

とまあ、それはいいとして、こういう箇所を引けば、この小説の雰囲気は伝わるかな。

「俺、ハンドル握ると、性格変わるから! 普段以上に丁寧になるから!」
 と、世之介は唾を飛ばした。
「そっちに変わるやついるんだ?」
 真顔で驚く桜子である。



続 横道世之介
続 横道世之介
posted with amazlet at 19.05.14
吉田 修一
中央公論新社




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2019年05月09日

さまよえる影たち/パスカル・キニャール

読むには読んだが・・・。
〈最後の王国〉と称される一連の連作の第一作目。全13作を企画していて、現時点で10作目まで成っているようである。「同じ一冊の書物の中で、あらゆる形式を使おうとわたしは考えました」と作者が初発のアイデアを語っている。「できる限り誠実であるために、物語(コント)や小論、肖像(ポルトレ)、読書、回想、さらには哲学から語源、歴史から音楽にいたるあらゆるジャンルを使うのです」。古代の哲人や王の逸話、散文詩やアフォリズムのようなもの、書物からの抜粋、哲学的、思索的、あるいは政治的小論、等々からなる無数の断片の集積。似た形式のものを求めるならば、詩人の散文集のようなものに類例がありそうだが、ここまで徹底的なものはあまり思い当たらない。しかも、ここから似た形式で12冊も後が控えているとなるとなおさらに。解説ではモンテーニュの『エセー』、サン=シモンの『回想録』、ヴァレリーの『カイエ』、バタイユの『無神学大全』といった書物との類縁をみとめているが、わたしはどれも読んだことはない。サンプルとして一箇所引用。

時間は、捕食動物が待ち伏せの後に躍り出たことで生まれた。
時間の祖先は、最初の死の舞踏がとる二拍子の中に隠れて生きた。
時間の基盤となるのは、見張りのものが口にする誰何である。
警戒すること。
永遠の警戒状態にあること。
人類以前の純粋な状態の生命における時間の緊張状態。
誰何、それは原初の状態の経験だ。
誰何は獲物の生である。それは捕食を予期し、死を予期する獲物の生なのだ。

と、こんなような感じ。
正直、大部分について理解が届かないわけだが、わたしくらいになると、意味の分からない文章を読むのも嫌いではないというところはある。意味はともかくも、ある種、酔わせる文章がある。いまのところ、好き、とも言えそうにはないが。それに、分からないながら、著者の文章への態度には共感のようなものすら感じられなくもない。形式なき形式、それは文学の伝統の中ではラディカルかもしれないが、文章に向き合う姿勢としてはもっともプリミティブなものでもあると思うのだ。
断片ではあるが、完全にばらばらというのではないし、数をこなすほどに、著者の姿勢はなんとなく伝わってくるものだ。いくどもエコーするシアグリウスの最期の言葉「影たちはどこにいるのか?」は、この本の表題であり、元となったクープランの楽曲に通じる。




谷崎の『陰影礼賛』の引用をはじめ、「影」のイメージが幾度も反復される。それから、反政治的という意味で、きわめて政治的な社会批判の姿勢、そしておそらくその対極にあるものとしての「読書」のイメージ。ひとくちで言うことなどとても出来そうにないが、わたしが受けたこの本の印象をざっくりと表現するなら、芸術への隠遁のすすめ、というようなものだろうか。こういう箇所とかは、あるいは分かりやすいかもしれない。

なぜなら、頭蓋に根拠を与えたのは洞窟なのだから。
西洋を救ったのは僧院だった。
人類は武器異常に読書に負っている。インドでもそうだ。チベットでも、日本でも、アイスランドでも。中国では書物を読む行為が文明の基礎をなしている。誰も書物を読まなくなった暁には、文学はかえって重んじられるだろう。それに勝るいかなる経験もないのだから、その経験によって、ふたたび僧院が作られることだろう。
かつて存在したもっとも脱社会的な経験。
完璧な隠遁の経験。
その歴史はあまりにも秘められていたために、国を通して伝わることがなかった。ただ、僧院から僧院へと伝えられただけだった。
僧から僧へと。
単独者(モノス)から孤独者(ソルス)へと。
ひとりからひとりへと。

もう一箇所。

畑に戻ることしか頭になかったキンキナトゥスと同じく、
隠遁者は沙漠だけを、
魚は水だけを、
読者は本だけを、
影は片隅だけを、
求める。

「影は片隅だけを、求める」。随所に手ごたえを感じる、そういうような読書ではなかったが、たとえば、このフレーズとかは好きだな。

さまよえる影


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2019年05月06日

文字渦/円城塔

これまたなんとも斬新な。
文字を生物種に見立てた漢字学SFとでもいうのか。
もちよった漢字をバトルさせる「闘字」、本の層を掘って漢字を発掘する本層学を扱った「微字」、字が字を殺す殺字事件「幻字」、コンピューター時代の文字同士の領域闘争「誤字」等々、トリッキーなアイデアの溢れる連作短編。始皇帝、遣唐使、空海、王義氏、紀貫之、仏教の経典、古い東洋に材を採りながら、ノイローゼになる自動筆記ソフトウェアだとか、紙状のフレキシブルディスプレイ「帋」だとか、三次元の漢字状構造体だとか、「アミダドライブ」なる転生システムだとか、ハイテクも満載で、その両者の混交というか不思議な調和が魅力である。なんだろうバッハの音楽が中世的であると同時にスペイシーであるのとも似てるだろうか。
しかしまあ、相変わらず分かる人にしか分からないものを書いていて、わたしも半分くらいはちんぷんかんぷん、アイデアをまがりなりにもストーリーに仕立てているものはともかく、ものによってはストーリーがないというか人間がまるきり出てこなくて、(そういえばcharacterには「文字」の意味もあるのだったか)、言説そのものが語り手だったり、ルビが語り手だったりもあって、どう読んでいいか分からなくなる、というか、これはもう小説じゃないよなって気にもなる。
典拠の選択や題字の意図、各作品の繋がりについて、いろいろと企みもあるのだろう。濃い目の解説ブログがあったのでリンクを貼っておこう。web上のインタビューとかである程度辿れなくもないが、新たな代表作の風格あるので、文庫化したときには作者本人による『文字渦解説』が付録されるのが望ましい。でもまあ円城が分からないのはいつものこと、読める部分だけでも楽しめばいい、というのがわたしのスタンス。というか、そうなるほかない。「微字」の漢字の自己増殖のくだりとか超おもしろい。「 」←こんな文字があるってことがまず面白いが、そっからもっともらしく文字が文字を生むプロセスを解説するのが面白い。それから王義氏がデジタルななぞかけがされてある「符」を読み解く「天字」の悪ふざけぶりとか。レムっぽいと思えるが、漢字ネタなのでレムには絶対に書けない作品、であるだろう。
しかし漢字やばいな。「幻字」にでてくる「𠄔」とか「𢨋」とか正気かと。10万とかの種類があるとか。だいたい2600字あれば使用頻度の99パーセントは事足りるというから、漢字辞書やユニコードの海には、通常使われる漢字の30倍以上ものほぼ使われない漢字が、うぞうぞと蠢いているということになる。unicode/CJK統合漢字一覧。キモい意味での生命感ある。
変な漢字を検索するといろいろ面白い。漢字部屋とか。𦮙𡦹𢀓𠕲𠥓𡆢。とかなんだこれ。

文字渦
文字渦
posted with amazlet at 19.05.06
円城塔
新潮社




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2019年04月25日

宿命の交わる城/イタロ・カルヴィーノ

深い森の奥にある城、束の間の憩いを求めて旅人たちが身を寄せ、見知らぬもの同士卓を囲む。そうしてそれぞれがもちよった物語を語る。中世枠物語の形式だ。だが、どういう不思議か、そこでは誰も言葉を発することが出来ない。言葉を奪われた旅人たちは、それでも物語ろうと、卓にあったタロットカードに手を伸ばす。カードを一枚ずつ示し、並べていく。同席したものたちは、カードの絵を解釈し、語り手の身に起こったことを、何が正解かも不確かなままに、読み解こうとする。ひとりが、カードを並べ終えると、また一人、そしてまた一人と・・・

ことの発端は作家がタロットカードを眺めていたら、それに喚起されて物語がひとりでに思い浮かんだという経験だ。古来よりタロットはさまざまな人々の想像力を刺激してきたし、程度の差こそあれ、似たような空想に誘われた経験をもつ人は少なくないだろう。だが、凝り性のカルヴィーノはそれだけで納まらず、すべてのカードから満遍なく物語を読み解きたいと思う。そうして、上下左右にそれぞれ主要キャラを各三枚配し、おおよそ8×8の矩形に並べられたカードの配置が完成する。上から三つの、それから左から三つの物語は、こんどは同じカードを逆方向に辿って、下から三つ、右から三つのまた別の物語を描き出し、ぜんぶで12の物語が語られることになる。高度なクロスワードパズルのような短編集である。

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内容的には、貴婦人や騎士や悪魔や狂気や錬金術が入り乱れる、中世風ホラ話である。最初のいくつかは、新奇な企みに興味をそそられ、面白く読んでいったが、しだいに、これはあれだぞ、コンセプトが先に立ち過ぎて、内容の方がインパクトを欠くカルヴィーノの悪いところが出てる作品なんじゃないかと思い始める。発想と、それを完成させてしまう粘りには素直に感服するが、これ読むほうは、作るほどの楽しさはないぞ、と。
そんな風に感じつつ、「宿命の交わる城」を読み終えたのだが、つづく「宿命の交わる酒場」(この本は二部構成である)の最初の「優柔不断な男の物語」で一気に盛り返した。これは「選択」をテーマにしたカルヴィーノらしい形而上学ファンタジーで、カードの小細工なしに率直に面白く感じた。最初に発想されたのが、この短編であるようだ。つづく物語も、中世物語にひとひねりが加えられてあって、どれも面白い。「宿命の交わる城」とはコンセプトが変化していて、律儀にカードを並べることは、最重要ではなくなってくる。中世風なのに、コンピューターとかフロイトとか出てきたりと、想像も奔放になってくる。途中メタに行って、タロットと関係のない絵画論みたいなのもやりだす。しまいには、シェイクスピアの三つの悲劇を同じカードの配列から、立て続けに読み出してみせる、というようなことをする。「城」のほうは要するにパズルだが、「酒場」のほうは解釈の融通無碍性を謂ったメタフィクションにステップアップしてる感じだ。前言撤回、これはカルヴィーノの良い部分がきちんと出ている良作だった。

宿命の交わる城 (河出文庫)
河出書房新社 (2018-01-19)



本では白黒なので、彩色されたタロットを確認したくなる。「城」のほうで使用されたのはヴィスコンティ・スフォルツァ版というやつで、「酒場」のほうがマルセイユ版というやつだ。前者は15世紀に作られた骨董に属するもので「悪魔」と「塔」のカードが欠落している。後者はヨーロッパに広く普及している一般的な図柄のものらしい。これにくわえて、もうひとつメジャーなのではライダー版というのもあるらしい。

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知らない世界だったが、たしかに見てるだけで面白い。月のカードなのにエビがおるとか、ぱっと見で了解できないところが、想像を引き寄せる。専門店では500種類以上扱っているとか。変なのもの怪しいものいろいろある。ダリもタロットをデザインしてるらしい。ついでに荒木飛呂彦も置いとこう。それから三つ目はアランクラークというひとの、タロットをモチーフにしたイラスト作品だろうけど貼っとこう。

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2019年04月22日

やっぱり世界は文学でできている/沼野充義

沼野充義が、毎回ゲストを招いて行った連続公開講義の書籍化、のこれは第二弾。第一弾の『世界は文学でできている』もわたしは読んでいて、そのときの記事を見てみると、じつにそっけない反応しかしていなくて不思議だが、今回はとても面白く読んだ。
基本的には、沼野氏の「世界文学」観、ゲストたちの「世界文学」観を、互いに持ち寄って出し合うみたいな感じだろうか。外国文学好きにとっては、趣味を同じくする人たちが集まる場所であって、愉しく寛げる本である。
911からみで自身のスピ体験を語るクセものな亀山氏、野崎歓や都甲幸治ら翻訳家のプロならではの問題意識。綿矢りさや楊逸は対話というよりはただのインタビューめいているが、(というよりわたしがかのじょらの本を読んでないので興味が薄いのだけど、)わたしも好きな作家である多和田葉子回がとくに面白い。ある意味でこの本のテーマをもっともよく体現している存在がこの作家なんじゃないかとも思える。前半部は沼野氏のひとり講演で、いくつかの引用を踏みながら「亡命者」「越境者」の文学を語って多和田につなげていくわけだけど、こういうのはこの人は本当に上手い。多和田葉子との対話は、わたしも作品を読んでいるので興味深いし、「Hamlet no sea」という朗読のくだりとかは、はっとさせられた。朗読なんで、聴かなきゃ意味ないのだけど、それでも。声に出して読む、ということに対する意識が他の作家とは違うのだなと。それから最後にちょっとでてくる「言語を言語にしているのは穴の部分だと思うんです」というような問題意識とか。

この本で内容に触れられているわけではないが、沼野氏が若い読者に勧める英語文学10冊で選んでいるブロツキーの『レス・ザン・ワン』が読みたい。沼野さんが訳すべきはずのものなのだが。




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2019年04月16日

すごい物理学講義/カルロ・ロヴェッリ

たしかにすごい。
古代ギリシアのデモクリトスからはじまり、ろくでもないキリスト教のせいでだいぶ遅延しつつ、ニュートン、ファラデーを通過して、アインシュタインそれからその先へ・・・つまり現代物理学の二人の基礎をなす「一般相対性理論」と「量子力学」を、若い友人にでも語る調子で解説している本である。物理学に不可欠な計算の過程等ははぶかれ、着想と結果とに焦点が絞られ、専門的な教育を受けていないわたしのような読者にも難解な理論の大づかみのイメージを伝えてくれる。真摯で謙虚な姿勢と、知識への愛にあふれた達意の文章でもって。イタリアで文学賞を受けたというのもうなずける話だ。物理学の階段は教育なしには登れないが、すくなくともそれが帰結する世界イメージは、万人に開かれているはずだ。アインシュタインが想定した「三次元球面」としての宇宙と同じようなものを、ダンテの『神曲』は描いているというくだりもあるが、詩人や哲学者の直感を、著者は軽視しない。
わたしが小さい頃なんかは「相対性理論」がなにやらわけの分からない理屈の代名詞のようなものだったが、いまやその場所は「量子力学」にとって代わられているようだ。量子力学に比べれば、相対性理論はなんて清明ですっきりした理論なんだろうと、少なくともこの本を読んでいるうちは、そう思う。ファインマンをして「量子力学を理解している人は世界にひとりもいない」と言わしめた領域ではあるが、粒性、不確定性、相関性、をキーワードに簡潔に整理してくれていて、分かりやすいというか、多少なりとも分かったような気にはさせてくれる。
しかしまだその先がある。「相対性理論」と「量子力学」は双方十分に機能しつつも、根本的な部分で相容れない。こんな部分を引けばこの本の調子のサンプルになるかな。

不思議なのは、二つの理論の両方が、恐ろしいほど快調に機能しているという点である。自然界は一般相対性理論と量子力学の前で、ユダヤの老いた律法学者のように振舞っている。争いに決着をつけるために二人の男が律法学者のもとを訪れる。一人目の話を聞いて、老賢者はこうこたえる。「お前が正しい」。すると二人目が、自分の話も聞いてくれと要求する。律法学者は二人目の話を聞いて、こう答える。「お前も正しい」。そのとき、隣の部屋で聞き耳を立てていた律法学者の妻が、大きな声でこう叫ぶ。「二人とも正しいはずがないでしょうに!」老人は考え込み、頷き、こう結論を下す。「妻よ、お前も正しい」。二つの理論は、たがいに相反する前提にもとづいているように見える。それにもかかわらず、いかなる試験や実験を重ねてみても、自然は一般相対性理論に「お前は正しい」と言い続け、量子力学にも「お前は正しい」と言いつづける。明らかに、わたしたちはなにかを見落としている。

というわけで、本書の後半部は、一般相対性理論と量子力学のあとを引き継ごうとするいくつかの派閥のうちの、著者の与するところの「ループ量子重力理論」が説明される。このあたりはまだ相対性理論や量子力学のように研鑽を経ておらず、実証性の乏しい仮説的なアイデアであって、いつなんどき全く否定されるかもしれないような理論ではあるようだ。ループ量子重力理論が提示する要諦のひとつは、極小の限界を想定しているということで(プランクスケール(10のマイナス35乗メートルくらい))ある。つまり無限小はない。小ささには限界がある。これが意味することは決して小さいことではないだろう。
もうひとつは、世界はそもそも何からできているのか、という問題に関わることだが、これを量子重力理論は「共変的量子場」ただ一つであるとする。

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時空間の中に何かがある、のではない。何かとは時空をなすそのものであり、時間も空間もモノも同じ素材から世界をなす事態であるという。この世界イメージは魅力的に思える。といいつつこの辺の説明は実はさっぱり分からない。ただどうやら(時空感そのものも含む)世界は「スピンの泡」で出来ているらしい。「ふーん、泡かぁ。ひもよりはしっくりくるかもしれないなぁ」とわたしの理解などその程度のものである。

動画があった。




すごい物理学講義
すごい物理学講義
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カルロ ロヴェッリ
河出書房新社





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2019年04月15日

時の止まった小さな町/ボフミル・フラバル

ヌィンブルク三部作の二作目。『剃髪式』の続き。
『剃髪式』の主役は母マリシュカだとすると、こちらの主役はペピン伯父と父フランツィンである。決して仲良しというのではないが、なんだかんだ切れない絆で、人生の終りまでを一緒に歩んでいく兄弟。ここでもベルトルッチの『1900』を思い出してしまう。
語り手もマリシュカから息子フラバルに移されていて、フラバルが刺青を彫ってもらうエピソード(舟を頼んだのに、ふざけ毛むくじゃらの人魚の刺青を彫られてしまう)で始まり、フラバル参戦でさらににぎやかになるのかななんて予感したけれど、フラバルは次第にストーリーの表面にあまり出てこなくなる。
牧歌的だった『剃髪式』の時期は過ぎ、ドイツ兵の足音が、そして入れ替わりに共産主義政権が、この時の止まった小さな街にもやってくることになる。ビール醸造所も国家の名の下に接収され、屋敷も追い出されてしまう。激変の時期だが、ことさら湿っぽくなるわけではなく、ハインリヒ暗殺のニュースがあった日に得意のダンスを披露して役所から注意されるペピン伯父のエピソードや、銅像(スターリンかなんかだろうか)の除幕式のときの祝砲に巻き込まれて車が大破してしまうエピソードなんか、シリアスな状況だからこそふざける、フラバルリアリズムの本領の感じだ。
ペピン伯父が元気を無くしていく終盤は物悲しい。踏み切りのペンキを塗る男のエピソードとか、コメディなんだけど哀調が響く。ペピンとフランツィンがいた、もはや戻ってくることはない時代への、作者の愛惜の気分に満ちている。いくぶんセンチメンタルでパーソナルな小説だが、こういう「小さな歴史」を忘却の沼から掬い上げることは小説の本質的な機能なのかもなと思う。
訳者あとがきに代えて、訳者がヌィンブルクを訪れたときのことを記した紀行文が付されている。いまやすっかり「フラバルの町」であるようだ。近代化されてはいるが今も現役のビール醸造所には、足元の高さに記念碑がある。そこにはこう銘が彫られているらしい。なんともらしいというか。

「記念板なんて欲しくない。でも作るなら、犬がしょんべんする高さにしてくれ」





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2019年04月06日

死都ブリュージュ/ジョルジュ・ローデンバック

19世紀末のベルギー詩人ローデンバック。
灰色の街ブリュージュで鬱々と暮らしている男やもめが、死んだ妻と瓜二つの女性に出会う、というところから始まる浪漫主義風な中篇小説。ネタバレしてしまえば、最後には殺してしまうのである。結局近づくほどに違いも見えてきて、あげくに女が妻の想い出を冒涜してしまうものだから。妻の残した髪の毛でもって頸を絞めて。
いかにも19世紀的というかホーソーンとかワイルドとかあの辺を想起させる作品ではある。ピエールルイスも思い出したが、この人もベルギー人だったのか。暗い色調で塗りこまれた独特の磁力のある作品ではあるが、予定調和な筋書きにしても、宗教的な雰囲気にしても、いまとなってはいささか古色ばんでみえる。
はしがきでも強調される「都市」こそが主役である、という姿勢がいくらか新鮮で興味を引かれる。この作品にはゼーバルトのように写真(修道院のは絵にみえるが)がいくつも挿入されている。白黒写真なので、とうぜん灰色の街ではあるが、カラーで見れば綺麗な建物の多い風光明媚な街のようにも見える。運河の多い都市で、波のほとんどない水面に高い建物の反映が写っている写真が多いのが印象的だ。『死都ブリュージュ』の評判に、地元の人は「死都」なんかではないと苦い顔をしたらしいが、これがローデンバックのブリュージュの印象なのだろう。人と都市の照応という主題は魅力的だが、物語に意を乗せすぎている分、ちょっと力を殺がれているように思えなくもない。
それから六章あたりで展開される「類似の哲学」とでもいうべきもの。

ユーグはこう思っていた、類似というものはなんという不可解な力を持っているのだろう!と。
それは人間性の相矛盾する二つの要求、つまり慣習と新奇さに応えるものである。ひとつの掟である慣習は生の律動そのものなのだ。ユーグはそれを、救いようの無い彼の運命を決定した厳しさで経験したのだった。永遠になつかしい一人の女のそばで十年も暮してきたために、彼はもはや彼女なしの慣習になじめず、いまは不在の女をたえず重い、別の女の顔にその面影を求めつづけたのだ。
他方、新奇さへの好みも本能的なものである。人間は同じ宝を持つことに厭きる。人は幸福というものを、健康と同じように対比によってしか享受しない。そして愛もまた、それ自身の断続のなかに存在する。
ところで、類似はまさしくこの二つのものをわれわれの内部で和解させ、双方に等しい分け前を与え、はっきりとしない一点において結びあわせる。類似は慣習と新奇さとの地平線である。

このあたり立ち止まって考えたくなるよな哲学的な含意があると思う。何かと何かが似ていることそして異なることは人間の認知の根本なのだ。わたしが先に原章二による解釈(『人は草である』)を読んでいたことも影響あるだろうが、この小説は類似/差異/同一化をめぐる物語であるのだ。原章二によればこの小説は結局プラトニズム的な「オリジナル」への信仰に殉じて滅びる物語として解読されるわけだが、「ジャーヌのほうが、死んだ妻にもっと似ている」なんて述懐される箇所ではスリリングな破断が兆しもする。


死都ブリュージュ (岩波文庫)
G. ローデンバック
岩波書店


ベルギーの画家クノップフはこの本に触発され、ブリュージュの絵をいくつも描いたらしい。

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死都感がすごい。



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2019年04月03日

月山・鳥海山/森敦

この人については小島信夫の友だちであるということを知っているくらい。
「月山」は著者が62歳のときに、若い頃の体験を素材にして書いたものらしい。「死の山」とも形容される山形県の月山のふもとの寺に寄宿し、そこの部落の人々ともかかわりあう。秋から長い冬を抜けて春がきざすまでの、半年くらいの期間だろうか。異風習の部落での滞在ということで、ちょっと前に読んだ古井由吉の「栖」をちらと思い出すが、ああいうこってり感はない。文体もですます調だし、だいぶさらっとしている。「栖」が油絵とすると、「月山」は墨絵のようで、フォーカスがだいぶ広く遠く、一幅の絵の中にひとつの季節がまるっと描きこまれているといった風情だ。死の表裏である生を見つめる、というようなことが主題であるのなら、月山の冬はメタファーということを通り越して主題そのものであるかのようである。遠い昔に読んだシュティフターの「水晶」もこんな感じだったかしら。あと「イワンデニーソヴィッチの一日」とかも思い出す。冬を書くと、どこか全体感というか根源感あるよな。なにが書かれているかというと、まあカメムシをつぶしたり、寒いので使わなくなった祈祷簿の紙を使った蚊帳を作ったり、寺のじさまが菊を丹精したり割り箸を作ったりするのを眺めたり、たまに立ち寄ってくるひとと雑談したり、部落の花見というか酒宴に参加して人々の駄弁るのを聞いたり、とそういったような日常である。そうした中に、行き倒れた人を使ってミイラを作るとか、牝牛のために子種を貰いに吹雪の中出かけるとかいった、死に触れるようなモチーフが散りばめられている。「幽玄の世界を求めて別世界にあこがれ入った話」と解説でまとめられているが、根源的な主題を持ちながらエッセイみたいにさらっとしていて、そのさらっとした読み味の中にどこか異界感の立ち上がる、そんなような作品だった。とてもよい小説と思うが、あと一歩で傑作、というような不足感も感じた。しかしこの作品に点睛を画すエピファニー的なものを求めるのは、むしろ訳知らずなことなのかもしれない。
つづく「天沼」も面白い。「月山」と同じ舞台を使いながら、こちらは部落の爺さんと、雪山を歩いてひらすら駄弁る話。「月山」の本編からはみでた一挿話といった感じだ。時間的にも半日くらいだろう。しかし、まあ下手したら命を落とすかもしれない雪の中をなぜわざわざ出かけてゆくのか。「じさま」との会話に終始する作品で、体験談みたいな感じか、それにしても方言読みづらいなとか思いながら読むのだけど、読みすすめるほどに、雑談だけど妙に根源的なところに触れてきて、それによくよく見ればこの「じさま」の素性も良く知れないし、吹雪く雪山の舞台はいっそ現実離れしているように感じられるし、方言の違和感もいわれてみればどこか彼岸的な、異界の言葉として響くようでもあり、しだいに生身の人間ではなく夢中の幽鬼とでも会話しているかのような印象がかぶさってくる。その感じがとても面白い。
さらに付録されているのは、短編集「鳥海山」。こちらは月山ではなく鳥海山のふもとが舞台。エッセイのような位相で書かれたものも多く、「月山」ほどの稠密さは感じないが、悪くは無い。わたしはどこか志賀直哉風の「鷗」がいちばん良かった。めずらしく東北弁の聞えない、都会風(といっていいのか)な短編である。それにしてもほぼ全編で、方言を聞くことへの愛着を感じるが、地元の人が書いたら逆にこうはいかないというか、著者は長崎の出身らしいので、自分の言葉としてではなく聴くことが、つまるところエトランジェとしていることが、この風情を生んでいるのだろうと思える。
さらに付録される小島信夫の解説。もって回ったというか、まっすぐな筋道を辿ってしまうとウソになるといわんばかりのぐねぐねした、掴めない解説なのだけど、らしさがあって読み応えがある。解説なのに、家人が口を出してくるとか、なんなんだ。どこにいたんだ家人。本編でもないのに、引用。

ここで私の家人が、深沢七郎「楢山節考」に似ているが・・・といった。ああ、そうか、深沢七郎さんね、そういえば誰かそんなことをいっていると耳にきこえてきた。「だから、あれは恐ろしい物語なのだよ」「でも『月山』も美しいが空恐ろしいわねえ」といった。「だから、恐ろしさの意味も違うのだね。ああいう『楢山節考』のような物語は、あれはあれで恐ろしい。それにあれは傑作だろう。だが、『楢山節考』の物語は『月山』ではただの破片なのだ。そういうつもりで書かれているのが『月山』だ」

解説によると、「かての花」に登場する「若い人」は坂内正さんだそうで。カフカ研究者の坂内さんである。そういえば小島信夫論も書いているが、親交があったのだなと。

月山と鳥海山の写真。

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月山・鳥海山 (文春文庫)
森 敦
文藝春秋 (2017-07-06)




mdioibm at 10:16|PermalinkComments(0) 読書録