2022年04月17日

エルサレム/ゴンサロ・M・タヴァレス

「ヴァルザー氏と森」のタヴァレス氏の出世作らしい長編小説。サラマーゴをして「三十五歳でこんなすごい作品を書くなんてずるいじゃないか。なぐりたい。」と言わしめた作品である。恐怖によって歴史を計測記述する法則を研究する精神科医テオドール、その妻となったミリアはやがて狂気を発症し精神病院に入れられてしまう。そこでエルンストという若者との間に望まれぬ子をもうけてしまう。それが足が不自由な子カース。それから身内に凶暴な衝動を宿す帰還兵のヒンネルクと売春婦のハンナ。この六人がいそがしい演劇みたいに入れ替わり立ち代わり登場する。精神病者の恐怖と痛みを描いて「ヴァルザー氏と森」から受けた感じとはだいぶ違う殺伐とした印象だ。プロットは切れ切れで、文体も硬質で冷たい。ヨーロッパのアート系の映画でも見るようだ。ぱっと適切な例が思いつかないのだけど、こういう狂気と暴力をモチーフにして、今にも銃弾が発射されそうな雰囲気をもった映画を、わたしは過去にいくつか観たような気がするのだ。作中の狂気と暴力には、今世紀最大の歴史の「狂気」であるホロコーストが意識されているのだとも思う。タイトルのエルサレムは「詩編」からの引用。曰く「エルサレムよ もしもわたしがあなたを忘れるなら わたしの右手はなえるがよい」。なんだかいろいろと重い。しかしまあ、わたしとしては、そこまで響くところなかったかな。テオドールの「恐怖の歴史」理論が、作品の思想的背骨になっているのだとは思うが、よくわからないんだな。恐怖を数量化するなんてことができるのだろうか? とか思ってしまってすんなり呑み込めないというか。わたしはタヴァレスはもうこれきりかなあ。翻訳も他に出てないしね。





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2022年03月23日

永遠の家/エンリーケ・ビラ₌マタス

ビラ₌マタスの翻訳はこれで四作目。88年の作だから書かれた順番的には『ポータブル文学小史』『永遠の家』『バートルビーと仲間たち』『パリに終わりはこない』の順であるようだ。『バートルビーと仲間たち』はわたしにとっては、これからはこういう作家たちを読んでいけばいいのだぞ、という指針を示してくれた特別な本だった。それ以来この作家には期待し続けているのだけど、先に出た『ポータブル文学小史』や『パリに終わりはこない』は期待ほどの満足は与えてくれなかった記憶がある。そういう意味ではこの『永遠の家』はだいぶ当たりだった。
『ポータブル文学小史』や『バートルビーと仲間たち』ほどにアナトミー的な性質をもった作品ではなく、比較的(あくまで比較的だが)ふつうのノベルの体裁に近いが、ところどころ破調し内側から枠を突っつくようにして、この作家のフィクションに対する問題意識が表現されていて、まあなかなかユニークで面白い本である。
まずもって主人公が腹話術師というのがいい。短篇連作のような感じなのだけど、腹話術人形との対話つまり一人芝居で短篇をひとつ語り通してしまう「お払い箱」でうならされた。ここでは舞台上の腹話術師が過去の恋愛について悔恨に満ちた告白をするわけだけど、それを話している相手は自分があやつる人形であり、人形はサムソンというキャラクターでありながらときに彼のもとを去った女性になりきったりもし、観客席にはそのやりとりを見ている観客がいる、というように、フィクションの層をいろいろともてあそんでいる構図がくすぐったい。腹話術師は小説を書く行為のアイロニカルな投影でもあるだろう。つまるところ小説なんて対話に擬した独語だろう?と自ら皮肉るような。それにつづく「底流」ではおそらく現実の作家に近いメタのレベルから腹話術師の物語の構想が語られる。のだけど、それもアンフェタミンのせいで口をきけなくなった作家のかわりに友人がでっちあげる口からでまかせのおしゃべりの中で語られる。という。このひねくれ方! 
どの短篇もそれぞれの仕方でひねくれている。つかみどころがないというのではなく、変な風にしかつかめないというようなひねくれ方である。全体にユーモラスでもあるが、不穏でペシミスティックな気配もある。いつなんどき落っこちてしまうとも限らない、狭いブロック塀の上を歩くような危うい感じがある。死んだふりをしているうちに本当に死んでしまった男の話を語って、それを「ぼくが願っている死に方」と題してしまう感覚はいったいどういうのだろう。前向きなのか後ろ向きなのか。背後に前進するような、あるいは前方に後退するようなひねくれ方。ある意味でそれこそが、わたしがこの作家に期待していたこの作家らしさであるのかもしれない。単純にメタフィクション遊戯をしているのではない。それは虚構の虚構性というか、虚構の不能性を背中にひしと感じつつ、虚構を語りうる可能性を模索するがゆえの身のよじりであるのだろう。






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2022年03月16日

精神と自然/グレゴリー・ベイトソン

祝岩波文庫化!
ということで再読。20世紀思想の基本図書がようやっとしかるべき位置に置かれたというべきか。この本は『サイバネティックス』とか『生物から見た世界』なんかと一緒に末永く読み継がれる本になることだろう。岩波文庫ならばそこそこの規模の書店になら置いてあるはずだし間口も広がったわけで、みなさんいまこそ読むときがきましたよ。
読み返すの久しぶりだが、心が洗われるような読書であった。さわやかで清々しいとかいう意味ではない。日々の慣行でくもった認識のメガネのくもりを綺麗に拭ってくれて、クリアな認識を取り戻す、そんな感じだ。正しく世界を見ることは思いのほか難しい。われわれの不完全な言語のゆえか、原因はひとつではないだろうが、われわれは誤った世界認識に絶えず晒され続け、その誤りは慣行的に強化され続けている。くもりをため込まないためには、定期的なクリーニングが必要なのだろう。すでにベイトソンに触れたわたしのような読者にとっては、ベイトソンを読むことはそういう意味がある。この本でベイトソンにはじめて出会う読者にとっては、わたしにとってそうであったように、天啓であることを望む。ここで内容を詳述はしないが、きっとあなたの世界観を塗り替える本だ。
ほんと、なんども言ってるけど論理階型理論くらい一般知になってもいいのに。この本でもあるように、義務教育のレベルで学ばれていたっていいはずなのに。たとえば語の意味はコンテクストが決定する、とそんなあたりまえのことすら、常識として浸透してはいないのだから思わず目の前が暗くなる。たとえば「才能」と「努力」は異なる論理階型に属する、というようなことにすらいつまでも説明を要し続けるのだわれわれの社会は。ほんとのことをいうと、わたしは軽く諦めている。だけどひょっとしたらとは思うことはあるよ、世界中の人々がベイトソン流の認識論を多少なりとも身に着けて、いまよりも一段階上の賢明さを身に着けたのなら、世界はすこしは違ったものになるんじゃないかってね。



以前の版よりも訳文も手を加えられてよくなっている印象だ。概念語をカタカナで残すか日本語にするか、そういうのもアップデートされている観がある。論文集『精神の生態学』も岩波文庫化が控えているらしい。ほんっとうにすばらしいことだ。わたしはこの本でベイトソンに触れるよりもあっちでベイトソンに触れた方がいいとすら考えている派なので。



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2022年01月29日

十二神将変/塚本邦雄

ミステリ小説だが著者は著名な歌人らしい。
歌人の書いた小説らしくというか、強い趣味性を感じさせるものだった。上流階級、お茶の作法、十二神将、宝石貴石、男色、罌粟の花の秘密結社・・・どこをとっても難読漢字が散りばめられた雅やかな文章で、耽美で淫靡、毒気のある強い花の匂いを嗅ぐような、こういう雰囲気の小説が好きなひとは少なくなかろう。カバーに書かれた「貴船家方陣九星花苑図」なんて言葉だけでも、ムムっとくる人は多いはず。小栗虫太郎とか、中井英夫とか、そういうマニエリスティックなミステリに近い傾向なのかなと。わたしとしては強い嗜好のある方面ではないけれど、それなりに楽しめた。
しかしまあ、ミステリの方法面では、それこそ『黒死館』とか『虚無への供物』みたくガチガチな感じでもなく、前半部は人こそ死ぬもののミステリらしい引きもなくかなり退屈、そこはやはりミステリ作家としてはしろうとであるというべきか、情報の出し順に難があるんじゃないか、もうちょっとパースペクティヴをコントロールしてサスペンスを効かせることもできたはずだろと、こちらもしろうとながら思わずにはおれない。後半、やっとのこと探偵役が定まってから、ぐぐっと面白くはなるのだけど、早い目に情報を出してしまってるから謎解きの愉しさもないし、真犯人の判明もごく唐突で、結局探偵役が活躍するわけでもなくなんとも肩透かしな幕引きだった。
けっきょく、言葉遣いを楽しむ小説だなと。

「へえつ。お父さんにそんな着物があつたの? 素晴らしいニュー・ファッションね。うちの家紋が背中のそれ?」
屈託のない嘆声には昨夜の名残もない。天童は両袖口を引張つて衣紋を調べる。
「影九曜と言つてね。もともとは細川家の紋所さ。幾何学模様でごまかしがきかないから悉皆屋泣かせ。あ、さうだ羽織を忘れた。煙草は袂に入れたし……」
 引込む天道の後姿を見ているところへ今度は空晶がのつそりと入つてくる。細い詰襟にコードの縁取りをした漆黒のメルトン地の上着、スラックスは共生地のクリーム色。角を丸く刳つた襟と上着の裾の諧調もなかなかのもので徽章代りにつけた両襟の七宝焼の小さな大蟲が奇妙な精彩を添へる。
「驚いた。またまた見事な扮装振り。私の見たこともない衣装を引摺りだしてくるんだもの、ぎよつとするわ。叔父さんのはどこの国の骨董品?」
 望月間道風の小物入れを指先に吊つてゆらゆらさせながら空晶は珍しく綺麗に際剃りした頬を綻ばせる。
「昔、米国海兵隊の正装だつたらしいな。古着屋に出たのをモデルにして二、三年前に造らせたんんだ。小うるさい会はこれに限る。その辺の俄有職故実家の辞書にないものだからけちのつけやうもなし、罷り通るんだ」

娘が父と叔父の正装の感想を言う何気ない情景だが「影九曜」「悉皆屋」「大蟲」「望月間道」等々、知らない言葉がいくらでもでてくる。




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2022年01月18日

波/ヴァージニア・ウルフ

新訳にて再読。
なんというか奇跡的な作品だと思うのだ。固有の主題を固有の形式で書く。単純に言うとそういうことだが、それはあまたの芸術家が行こうとして行けない極地のような場所である。あるものは自分用の形式を見いだせず既存の形式に充足し、またあるものは形式の探求に淫するあまり主題を置き去りにしてしまう。固有の主題に導かれ、必然として新しい形式へとたどり着くことのできる芸術家が、いったいどれほどいるのだろう。いや小規模の成功はいくつもあるだろうが、それをこれほどに遠く、だれも足を踏み入れていない地点にまで到達したものが? 別格の作家である。この世界に『波』という小説があるということが奇跡なのだ。それにくらべるなら、人が水面を歩こうが、水をワインに変えようが、そんなことはどうだっていいではないか? もうさ、この一年、ずっと『波』だけを繰り返し読み続けようか?

かつてわたしは「花や葉を書かずに根を書く小説」なんて表現したが、ふつうの小説みたく出来事を書かずに、出来事を完全に伏字にして、キャラの内的思惟のみを書く、という斬新な形式の小説だ。波という言葉に寄せるなら「水面下の小説」。われわれは水面下のばちゃばちゃをみることで水面上を流れるストーリーを読み取ることになる。もちろんそうしたいと思えばだが。今回再読してみて、書かれていないストーリーが思ってたよりもしっかり準備されていることを感じた。それからバーナードの言葉がこんなにもウルフの創作観を代弁していたのかと。

ああ、どれだけ物語にうんざりしていることか、現実に見事に着地するフレーズに、どれだけうんざりしていることか! それにノート半ページにいまく描かれた人生図も、どれだけ怪しく思っていることか。私はいまでは、恋人たちが使うような短い言葉、歩道で足を引きずるような切れ切れの言葉、不明瞭な言葉を切望するようになっているのです。私はいまでは、時折どうしようもなく訪れる屈辱的瞬間や勝利の瞬間に、よりぴったり嵌る図を、求めるようになっているのです。たとえば、雨の降り続く日に溝に横たわっていると、巨大な嵐雲がぐんぐん空を進んでくる。雲の欠片も、ちぎれ雲も。そんなときの雲の乱れ、高さ、冷酷さと激情、私にはそういったものが好ましいのです。絶えず形を変える雄大な雲、そして動き。あわただしく、輪転する、地獄の煙のような、邪悪な何か。それが高く聳え、たなびき、引きちぎれ、消えゆき、一方の私は、溝のなかの忘れられたちっぽけな存在。そこには物語や見取り図など皆目見当たらないのです。

当然ウルフは物語ならざる水面下の方が生き生きとして面白いと考えていて、それどころか人生の本質はそこにこそ明かされるとすら考えていて、だからこそこんな普通でない形式を用いたわけだ。その形式を「プレイポエム」と呼んだらしい。キャラたちがかわるがわる独白する劇のような詩のような小説。そこでウルフの提示する自己と世界の溶け合うようなヴィジョンは、わたしにはとてもなじみ深いもののように思える。

で、訳なのだけど、期待したほどではないというか、優はやれないなと。ダメでもないが、手元にないので比較はできないのだけど、かつての川本訳とくらべて良くなったという感じはしない。「フレーズ」や「セルフ」といったわりと肝心なところをカタカナで訳してしまうのはどうなのかというのと、終盤のバーナードの全編を総括する語りの語調が、上の引用がそうなのだけど、ですます調で訳してあるのがちょっと野暮く感じた。「不思議なものですな。」みたいなフィクション特有のジジイ口調みたいのいらない。透明度が下がる。川本訳はどんなだったっけか。訳注は詩句の引用元を多く示していてたすかる。





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2022年01月02日

2021年のよかった本

さて毎年恒例のよかった本選出の時期がやってきました。昨年からやむをえず栄えある殿堂本からさりげないよかった本選びへと変更したコーナーではありますが、読書観を変えてくれるようなガツンとくる本と出会い、殿堂本コーナーが返り咲いてくれることは期待し続けてはいくつもりです。力まずしかし虎視眈々と、藪にひそむ虎のように辛抱強く。
しかし毎回言ってますが今年もいや昨年も読書量少なかったですねえ。それについて思うところはいろいろとあるのですが、ひとつにはアークナイツというゲームに手を付けてしまって、それにどっぷりはまってしまったのがまずかった。おそろしく時間を吸い取ってしまうゲームなんですよね。まあゲームはゲームで楽しむのはよいとしても、読書は読書でやっぱり充実させたい。なにかこうわたし向きな、読書モチベアップの行いがないかななどと今考えております。基本他律的な人間なので外からの刺激をうまくとりこめるような仕組みづくりといいますか・・

とそれはいいとして2021年のよかった本ですがー

より大きな希望/イルゼ・アイヒンガー
路地裏の子供たち/スチュアート・ダイベック

の2冊を選ばせていただきましたー。ぱちぱち。
アイヒンガーは格別でしたね。殿堂本に肉薄するひさしぶりの「刺してくる」読書でした。迫害される準ユダヤ人の少女のストーリーですが、やはり特殊な切迫した状況でのドラマは深いところに差し込んできますね。非日常を描くばかりがシリアスな文学でもないとも思っていますが、やはり特殊状況でなければ見えてこない領域というのははありますよね。この作のほかにも、アイヒンガーは強度のある幻想小説も書くひとで、わたしは書き方からしてはっきり「好き」な作家なので、邦訳が乏しいのがうらめしい。今年は彼女も在籍したグルッペ47周りをもう少し読んでみようかな。同国のベルンハルトももう少し試してみたいかな。
『路地裏の子供たち』はいまのところわたし的にはダイベックのベスト。なんかここのところよかった本に毎回アメリカ作家の短編集を選んでる気がします。少年期を描いた短編ってある種の型みたいのが出来上がっているところあると思うのですが、同じコード同じ楽器を使ってもはっきりした個性を立ち上げることができるセンスの持ち主ってのが、やはりいるんですね。いろんなものと似てるんだけど違っていて新しい。新しいスタイルのイノベイターとかではないですし、ルシア・ベルリンやデニス・ジョンソンほどのマジカルな書き手ではないと思いますが、いい作家です。

アイヒンガーは悲しいことに動画とかほぼないのでダイベックを。「私たちはしなかった」の朗読ですね。インスピ元となったイェフダ・アミハイの詩も。






mdioibm at 13:59|PermalinkComments(0) 殿堂本 

2021年12月29日

凍/トーマス・ベルンハルト

たぶんここ二か月くらいずうっと読んでいたベルンハルトをようやっと読了。なにしろ読んでも読んでも読み終わらないのだこれが。ときにシモンやベケットなどとも比される散文の奇行種、あるいは文学の黒い太陽のひとり。いずれにせよ特異な書き手には違いない。これは彼の処女長編らしい。しかしなんだこれは? 
小説ではあるが物語らしい物語はない。語り手の研修医が師事している医者に、田舎の宿屋で隠遁暮らしをしている医者の弟の様子見を依頼される。その医者の弟である画家シュトラウホが研修医に延々語る「哲学」が本体を成す。宿屋に出入りする人の人間関係だとかの記述もあるのだけど、結局物語らしい物語を形作ることはない。『カフカとの対話』とか『ヴァルザーとの散策』とかの形式に近いかもしれない。インタビューに近いというか、師の哲学を弟子が聞き書きするメンター小説というか、わたしは読んだことないが『ゲーテとの対話』とかこういう形式なのかもしれない。だとすればひとつ伝統的な様式に裏打ちされているのかもしれない。なのだけど、この作品はその形式のゆがんだヴァリエーションというべきで、画家シュトラウホは過剰で異常なキャラクターで、要するにちょっとイカれているのであって、いくらかはわたしの読解力のせいでもあるのだろうが、まあほとんど言ってることの意味が分からない。分からないが、ひどくネガティヴで毒々しいものであることはわかる。どんな感じかちょっと引用してみようか。

「心して聞くがいい」と画家は言った「これが世界没落の吠え声だ。まがいようもなく世界没落そのものだ、この吠え声は。そしてこれがどれほど由々しげに人間の顔に、人間の顔、思考の顔、理性の顔に貼り付くことか、滑稽さの入り込む余地は皆無だ」。彼は言った「恐ろしくなってきた。さあ、もう帰ろう。宿に引き上げよう。もうこれ以上この吠え声を聴いてはいられない。」犬たちが日がな一日、そしてその前夜も徹してこんなに吠え続けたのは初めてだった。「この咆哮に何か予告可能なことがあるにしても」画家は言った「われわれがすでに知っており分かっていることでしかない。本当の世界没落を告げているのなら話は別だが」。彼は世界没落という言葉をそれこそ貴重極まりない宝物を扱うようにしたの先から根元まで転がした。この世界没落という言葉を、唯一無二の味わいの余韻を楽しむかのように、舌の先から根元までたっぷり時間をかけて引きずったのだ。ぼくたちはそれから黙しがちになった。切り通しの中で彼は言った「いまわしい! あの上に書かれているのがみえないかね、あのてっぺんの、われわれがおべっか使いもいいことに天空の母と呼んでいるものに、いまわしい! という文字が書かれているのが」。
 彼は、その言葉によれば「眠るためではなく、恐ろしい静けさの中でひとり泣くため、自分だけを相手にむせび泣くために」自室に引き下がる前に行った「何たることだろう、何もかもが解体され、すべてのよりどころが壊れ、確乎たるものすべてが塵と化し、何ひとつ存在しなくなり、ほんとうにもはや何ひとつ存在しなくなったとは。分かるかね、宗教からも、非宗教からも、「すべての神的存在に関する滑稽な長さに引き伸ばされた見解からも何ひとつ、まったく何ひとつ生まれず、いいかね、もはや進行も無信仰も存在せず、つまづきの石である科学、今日の化学、数千年も前菜であり続けている科学ときたら、一切を放り出し、一切を褒め殺し、一切を大気中に吹き飛ばしたのだ。いまでは一切が空気でしかない……耳を澄ますのだ、一切がいまでは空気でしかない。あらゆる概念が空気だ、あらゆるよりどころが空気だ、一切がもはや空気でしかない……」。しばらくして彼は言った「凍てついた空気、一切はもはや凍てついた空気でしかないのだ」。

とまあこんな感じだ。これがずうっと続く。ずうっと350ページにわたって。しかしまあ毎日毎日寝付く前の小一時間をこの言葉と付き合っていると、そこはかとない愛着を感じなくもなくなってくる。シュトラウホの「いいかね!」が小気味よく思えてくる。ひょっとするとこういうクレイジーな能弁はドイツ語文学に伝統的に流れている地脈なのかもしれない。(わたしは読了できなかったから確言できないが、カネッティとかグラスとかもこういうイカれた饒舌を得意とするのではなかったか?)言ってる意味はわからない。吟味すればもしかしたらそこから思想と呼べるような意味を引き出すこともできるかもだが、それよりも語感とテンション重視の「詩」なのだろうこれは。延々とまくしたてられる「拒絶」の言語なのだろうこれは。
たとえばわたしにとってはベケットのいくつかの作品がそうであったように、最後までがんばって読んだからといって意味が分かるようになるとかでも、結局なかった。女将とか皮剝人とかなんだったんだ。普通の意味での小説としては出来上がってはいないが、失敗作と片付けてできないくらいには強烈な個性を放っている。なんだこれは? は解き明かされなかった。ベルンハルトを、わたしは未だにつかみかねる。
しかしまあたびたび書いていることではあるが、なんだこれは?と思わせてくれる小説が、わたしはけっこう好きではある。




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2021年12月11日

路地裏の子供たち/スチュアート・ダイベック

いやこれは良かったな。
『マゼランと旅した』『シカゴ育ち』と遡って読んできたが、なんだったらこの第一短編集が一番かもしれない。
技巧的なところでは確かにまだ途上の感じだが、わかりやすく短篇小説らしい結構を持ったものが多く、シンプルで強い、そんな印象の作品がそろっている。『Childhood and other Neiborhoods』と題し、少年期を描いたものが多く、まあそれはほかの短編集も同様なのだけど、とくにこの本の前半部に集められた近所のヤベー大人たちを子供目線で描いた数編が素晴らしい。
冒頭のパラツキーとかいう駄菓子を売り歩く大人の後をつける「パラツキーマン」からして傑作。子供からしたら気味悪ささえある駄菓子売りに宗教的イメージをすっと重ねるところではっとした。この作家の書きたいことはこういうことなのかと改めて気づかされた感じだ。ラストでくるっと幻想味を纏うところも良き。それから「近所の酔っ払い」もとくによかったな。「近所の酔っ払い」とか、まあなんと身も蓋もないタイトルだが、どこの界隈にもヤベー大人がひとりかふたりいたよなあって思い出すのだけど、まあシカゴはそのやばさの度合いと数もわたしの「近所」とは段違いみたいなんだけど、そういうヤベー大人を通じて子供は常道からは見えないような世界をのぞきこんだりするものなのだ。というか正直ほかの「バドハーティンの見たもの」も「長い思い」もどれもこれもよくて、うなりっぱなしだった。
後半になるにしたがって、技巧的にはいろいろ試みられている印象だ。子供の感じる恐怖を文章に写しすために別のタッチが試みられている「ホラームーヴィー」も興味深いし、ラストの「見習い」も一通りでない短篇を書いてやろうという意欲があふれて、描いていることは清潔の反対なのだけど、どこかきらきらしている。うらぶれた小汚い情景を描きながら言葉の力でカラフルなポエジーをきらめかす。つまりそれがダイベックの詩学であるのだろう。いや傑作ぞろいの短編集なんじゃないだろうか。まいった。
ただ、中盤の「通夜」と「ザワークラウトスープ」「慈善」は少年期ものから逸脱した広がりを意図して置かれており、それ自体はなかなかリリカルで味わい深いものなのだけど、どうせなら少年期もので統一したほうが短編集全体としては強くなったかもしれないとは思ったかな。




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2021年12月01日

99999/デイヴィッド・ベニオフ

『卵をめぐる祖父の戦争』が素晴らしかったディヴィッド・ベニオフの短編集。ドラマシリーズ「ゲーム・オブ・スローンズ」を手掛けるなどすっかりそっちの人になってしまい、小説はやめちゃったんだろうなあ。ガチ文学でもなくて娯楽文学の類で、この手のものを手広く読んでいるわけではないのであれだけど、やはり抜群のセンスだと思う。些細だがフックのあるエピソードを作るのがとてもうまい。たとえば表題作「99999」は車の走行メーターが二十万マイルに変わるときを祝って登場人物がパーティするというところからきているわけだけど、そういう地味だがちょっと興味を引くエピソードの作り方がうまいのだ。(ちなみに原題は「When The Nines Roll Over」なのでそれを「99999」で「ナインズ」と読ませる邦題にしたのはたぶん訳者のセンスということになる。)そのうえ金持ちの家庭らしいし、顔もかっこいいというね。そりゃ売れっ子になるわなと。
で、小説を書くのはやめてしまったようなので、彼の本はどうやら三冊きりということになりそうだがこれもとても良いものだ。短編集なので設定はさまざま、バンドマンや詩人の失恋ものもあれば、戦場を舞台にしたものや、SF風の設定のもの、いろいろとある。突飛ではないが、かといってありきたりでもない、過剰にドラマティックでもなく、分かりやすいオチがつくというのでもない。ちょっと哀感漂う絶妙にうまくいかなかったことごと。全編に通底するのは「ぼんやりとしたあきらめ」だと訳者は言う。『卵をめぐる祖父の戦争』のほうはもっとコメディよりだったが、こちらはじんわり染みるマイルドビターな味わいである。この微熱的な温度感がわたしにはよくなじむ。それこそローレンス・ブロックの小説のように。訳者もおなじ田口俊樹さんだが偶然ではないのだろう。どの短篇も気の利いた短編映画みたいに読めて甲乙つけがたいが、推しとしては「悪魔がオレホヴォにやってくる」「獣化妄想」「ネヴァーシンク貯水池」を挙げようか。それぞれ、戦場にある民家を調査に向かう三人の兵士のエピソード、都会に出現したライオンに心を寄せるハンターの息子の話、遺言にしたがって遺灰を捨てるというお定まりのモチーフに一ひねりくわえた失恋物語、である。




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2021年11月16日

シカゴ育ち/スチュアート・ダイベック

『マゼランと旅した』がよかったのでこちらも。
読み味はだいぶ違うかもしれない。シカゴを舞台としたノスタルジックな空気感は共通だが、『マゼラン』の賑やかさよりもずっとシュールでリリカルな味わいがある。こういう短篇小説の洗練のされかたはアメリカならではなんじゃないかと思うのだ。もはや「お話」ですらないような、ただ詩情の発露としてのスケッチのような短篇というか。各短篇の間に挟み込まれるごく短い作品もそうだし、「荒廃地域」とか男の子三人でぶらぶらしているだけで、テーマをになう中心的出来事とかもなくて、ある意味でとっつきがぜんぜんない。キメキメの詩的イメージというのでもないし。即興演奏的というかスナップショット的というか。その素っ気なさがなぜかかえってよく出来た「お話」より物を言うという。短篇小説のより洗練されたテクニックなのだと思うし、アメリカ作家のほかではあまり見ないなと。どちらかというならわたしは『マゼラン』を獲るが、こちらはこちらで得難い味がある。
もちろん作品ごとの毛色の違いはある。「冬のショパン」は『マゼラン』諸作にも通じる音楽の聞こえるノスタルジックな作品だし、「右翼手の死」のようなシュールリアリスティックな掌編もあるし、「夜鷹」は短篇小説というより詩的スケッチ集だし、エクフラシスというのか架空の映画を描写した「珠玉の一作」のような作品もあるし、いちばん短篇小説らしい体裁をもっているのは「熱い氷」だろう。わたしは「夜鷹」がとくに印象的だった。初期村上春樹でも読むような、シュールでリリカルで文章そのものに酩酊しているかのような文章。この感覚はちょっと久しぶりだなと。ちょっと引用しよう。

恋人よ、今夜はすごい雨だ。流れる水の縞模様に飾られた夜は、百万もの水濡れに貫かれ、もう二度と戻りそうにない。君がいないこと、そのことが投げる影に似たかたちの夜。あらゆるひびから水は流れ出し、あらゆる張り出しからしたたり落ちる。夜鷹たちの叫びは、いまや雨がはねる音にとって代わられた。街灯の高みから雨は落ちる。一滴一滴が、それ自身の青い電球を含んでいる。

柴田氏の訳文も見事といわざるを得ない。オースターやミルハウザーのようなどちらかといえばアーティフィシャルな作風と相性のいい訳者と思っていたが、こういうのも上手い。『ジーザス・サン』も柴田さんだったしな。「いままで訳した本のなかでいちばん好きな本を選ぶとしたら、この『シカゴ育ち』だと思う」とまで書いているから軽くおどろく。




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