2018年07月20日

夢の遠近法 山尾悠子初期作品選

伝説的な幻想小説の書き手。好きな人は好きなんだろうなという。わたしはこのジャンルには偏愛はないんだけと、たぶんそのせいで、なかなか刺激的な読書ではあった。なんというか、こんなのもアリなんだなと目を開かされる思いがあった。表現というよりは趣味性の強い文学だとは思うのだ。言語に淫するというか、こう修辞だけで、ひとつ世界を拵えてしまうところに第一義があるというスタンス。あまり普段行かないジャンルなだけに、なるほどなあという門外漢ゆえの感心がある。
これは作者自らが選んだ初期作品11編。いろいろとヴァラエティに富んだ作品集だが、わたしが好きだったのは「遠近法」と「透明族に関するエスキス」の二編。「遠近法」は「腸詰宇宙」なる無限に上階と下階が続く円筒形の世界(とひとまずは言っておく)を描いた作品。代表作ともされているようで、ぱりっと決まった一遍だと思う。作中に名がでるということも含めても、実にボルヘスが書きそうな作品ではある。「透明族に関するエスキス」は透明な小人を描写するという離れ業を試みた作品。小人がかなりキモいがそこがいい。(キモい小人は「月齢」にも再登場する。)透明な小人が風に吹かれたり、溝に吹きだまったり、窓にぶつかったりする、「見えないのになんかいる」感じを描いてて絶妙である。「プレデター」の光学迷彩のような感じだが、あれを言葉にするのってなかなかできないだろう。視覚の集中力という点でちょっとクロード・シモンを思い出しもした。わたしはこれがベストだと思う。
他、「私はその男にハンザ街で出会った」「月齢」「眠れる美女」あたりが良かった。比較的長めの、ストーリーを語ろうとする作品には、ややついていけないところを感じる。


夢の遠近法 山尾悠子初期作品選夢の遠近法 山尾悠子初期作品選
山尾 悠子

国書刊行会 2010-10-26




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2018年07月14日

カフカ全集7

ブロート版カフカ日記を通読。
1910年から1923年までの14年間の日記。

カフカの書いたものはどんなものでも!と意気込んでいたわたしではあるが、最初のほうはかなり退屈に感じた。具体的に言うと1912年まで。カフカが8月13日にフェリーツェと出会い、9月22日の深夜から23日にかけて「判決」を書き上げるまで。これまでいろんなところで引用されているのは読んでいるが、ここを読むためにこの日記を読んだのだよな、というような手ごたえもある。
事後的な目で見るなら、これまでの期間のカフカはいまだ「カフカ未満」のカフカであった。観劇を楽しむカフカ、ユダヤ人劇団のレヴィに入れ込むカフカ。(「旅日記」はまとめて巻末に置かれているが)ブロートと連れ立ってあちこち旅しては、ときにゲーテ館で出会った少女を口説いたりなんかもするカフカ。日記のトーンは基本的にずっとダウナーだが、その向こうに快活な青春するカフカが透けて見えなくもない。「本当にわたし一度あんたが裸でいるところを見たいわ。そうしたらあんたはきっと可愛くてキスしてあげたいほどよ」なぞと女性に言われたりもするモテモテなカフカ。まあ、別にそれはいいのだけど、このころ「ある戦いの記録」や『観察』の諸作を書いてはいたものの、まだセンスだけで書く作家にすぎないのであって、固有の主題を掴み取ってはいなかった。あるいは、書くものと生活が合致していなかった。それが、F.B.との出会いによって、劇的な変化を遂げる。「判決」の成就は、カフカ個人にとってもそうだけれど、大きなことを言えば20世紀の文学にとっての大転換点であったのかもしれない。カフカは多くの女性とめぐり合っているのに、なぜそれはF.B.なのか? それはだた「結婚」という観念の現実化ということだったのか。あるいはF.B.のたくましい顎にすがりつきたかったということなのか? それについてはいまもって得心が得られないが、この問いは全集11「フェリーツェへの手紙」を読むときまでぶらさげておこう。

これ以降、おそらくは怒涛の創作意欲を得て、それまではもっぱら「観察」的であった日記に、がぜん創作的な記述が増えてくる。カフカらしさが横溢してきて、面白くなってくる。書き出してはやめ、書き出してはやめ、を繰り返すカフカ。中にはうまく続いて形になったものもあるが、この日記に残された「あてずっぽうの素振り」めいた断片群は、同じ全集3の断片群ともども、出来上がった作品にもまして、カフカの特殊な創作法をよく表しているとはいえるだろう。
フェリーツェとのごたごたもあって私生活のぐらぐらは大きくなるのだけど、そのうちに第一次大戦が勃発、7月28日にセルビアに宣戦布告、7月31日の記述はこんなだ。

ぼくには時間がない。総動員だ。KとPが召集された。今やぼくは独身の報酬を手に入れる。もちろんこれはほとんど報酬とはいえない。独身は罰しかもたらさないからだ。それでもぼくはいかなる悲惨によってもほとんど動かれされないし、以前よりも断乎としている。午後は工場に行かなければいけない。家にもいられなくなった。Eが二人の子供をつれて移ってくるからだ。だが、ぼくは書くだろう、それらすべてにもかかわらず、絶対に。これはぼくの自己保存のための戦いだ。

数日後には『審判』に着手。外側がごたごたするほどに、創作意欲は高まっていたようだ。カフカと戦争はあまり結びつかないが、カフカは現状を打開するため兵役につくことも考えていたようだ。でも、公務員は免除されるから・・・とかでかなわなかったらしいが。でも、それ分かってて、兵役とか言ってた可能性もありそうなのがカフカではある。

残念なことに、全体的にカフカの自作に対するコメントは少ない。たとえばヴァージニア・ウルフの日記なんかに比べると。たとえば『城』についてなんか何もない。まあ晩年は日記の記述自体がほとんどないのだから当然だろうけど。それでも興味深いコメントはところどころある。「ある犬の研究」について、あまりにも早く『プヴァールとペキシェ』を書こうとしてしまった、とか。このあたりの、創作論ないし自作への批評の部分だけを抜き出して編集するのはありだと思った。

読んだ本についての記述はそれよりかは多い。若きカフカはゲーテ狂いだったが、なんだかんだでずっと愛着しているのはフローベール、グリルパルツァー、キルケゴール、ドストエフスキーといったところか。グリルパルツァーとキルケゴールは未読なので、読んでみたい気がしてきた。

それからわたしはこうした書き物の中に、ウォーリーを探すようにヴァルザーの名を探すのを趣味としているので、カフカの日記で唯一ヴァルザーに触れられる箇所を引用せずにはいられない。何を言っているのか、実のところよく分からないのだけど。

ディケンズの『コパーフィールド』(『火夫』は紛れもないディケンズの模倣だ。計画中の長編小説はなおさらだ。)トランクの話、人を幸福にし、魅惑する少年、賤しい仕事、田舎屋敷の恋人、汚らしい家々など。だが、とりわけ方法。いま判ることだが、ぼくの意図はディケンズふうに小説を書くことだったのだ。ぼくの加えたものはただ、ぼくが現代から奪いとってきた、より鋭い光と、たぶんぼく自身が発した、より鈍い光だけだ。ディケンズの豊饒さとためらうことを知らない力強い奔流。だがそのためにかえって、彼が疲れきってすでに得たものをごた混ぜに攪き回しているところは、ひどくだらけている。無意味な全体の印象は野蛮である。ぼくはこの野蛮さを、ぼくの弱さのおかげと亜流であるための知識のおかげで回避できた。感情の溢れ出る手法の背後にひそむ感情のなさ。この荒削りな性格描写の障碍物は、どの人物のところでも巧みに回収されるが、同時にこれなしにはディケンズはけっして一時的にも自分の物語をよじ登ることはできないだろう。(抽象的な隠喩のぼんやりした使い方におけるヴァルザーと彼の関係。


総じて、これまでわたしはこの日記の文庫化を切望してきたのだけど、これは文庫化されなくても仕方ないかなというか、読み物としての間口の広さとかまとまりとか考えると、カフカの日記は思ってたほどには「作品」ではなくて、やっぱり副読本的な位置がふさわしいのかなと。


決定版 カフカ全集決定版 カフカ全集
F. カフカ マックス ブロート

新潮社 1992-10-10






mdioibm at 22:05|PermalinkComments(1) 読書録 | カフカ

2018年06月30日

夢のなかの夢/アントニオ・タブッキ

これも数少ないタブッキの文庫化作品だが、毎度のことだがよくわからないまま読み通した。タブッキが心寄せる芸術家たちのみただろう夢を夢想するというような内容だ。『ベアトアンジェリコ』でもこういうのをやってたが、ひとつひとつがとても短い分、あれよりもだいぶ淡白な味わい。

目次
 
建築家にして飛行家、ダイダロスの夢
詩人にして宮廷人、プブリウス・オウィディウス・ナーソの夢
作家にして魔術師、ルキウス・アプレイウスの夢
詩人にして不敬の人、チェッコ・アンジョリエーリの夢
詩人にしてお尋ね者、フランソワ・ヴィヨンの夢
詩人にして破戒僧、フランソワ・ラブレーの夢
画家にして激情家、カラヴァッジョことミケランジェロ・メリージの夢
画家にして幻視者、フランシスコ・ゴヤ・イ・ルシエテンスの夢
詩人にして阿片中毒者、サミュエル・テイラー・コウルリッジの夢
詩人にして月に魅せられた男、ジャコモ・レオパルディの夢
作家にして劇評家、カウロ・コッローディの夢
作家にして旅行家、ロバート・ルイス・スティーヴンソンの夢
詩人にして放浪の人、アルチュール・ランボーの夢
作家にして医師、アントン・チェーホフの夢
音楽家にして審美主義者、アシル=クロード・ドビュッシーの夢
画家にして不幸な男、アンリ・ド・トゥルーズ=ロートレックの夢
詩人にして変装の人、フェルナンド・ペソアの夢
詩人にして革命家、ウラジミール・マヤコフスキーの夢
詩人にして反ファシスト、フェデリコ・ガルシア・ロルカの夢
他人の夢の解釈者、ジークムント・フロイト博士の夢

やっぱりこれらの作家たちの作品(と伝記的事実)にあるていど通じていないと、意味を取れないものも多いのじゃないかと。そういう点でも、目次を見ても知らない人の方が多いわたしとしてはピンとこなかった。たとえばペソアにとってアルベルト・カエイロが何者であるかを知らない人には、ペソアの夢は理解できないだろう。巻末のタブッキ自身による紹介文を読んでから、本体に向かうほうがよかったかもしれない。カラヴァッジョの夢のような作家のインスピレーションの現場を情景化したもの、マヤコフスキーの夢ように作家の人生を圧縮したスケッチのようなもの、フロイトやダイダロスの夢のようなパロディ的なもの。とくに姿勢を固定するのではなく、気ままに選び取られている。憑依というには遠すぎるが、批評というには近すぎる距離感。この辺のスタンスがタブッキ独特な感じだ。
しかしまあ、よく分からないまま読み通したものの、わたしがなんとなくではあるが知っているような作家についていえば、その表現のぼんやりとしたエトスかパトスのようなものの、薄いスープの煮こごりのようなものとして、うまくとらまえているなあと、なんとなく納得させられるところもある。あるいは、わたしはラブレーを読んだことはないけれど、ラブレーの夢のように読んだことないなりに、面白く読めてしまうものもあるにはあった。

夢のなかの夢 (岩波文庫)夢のなかの夢 (岩波文庫)
アントニオ・タブッキ 和田 忠彦

岩波書店 2013-09-19




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2018年06月25日

渚にて/ネヴィル・シュート

恐ろしい話だなあ。
ご丁寧に副題にもあるように、人類が滅びる話である。第三次世界大戦が起こり、地球が放射性物質に覆われ、北半球は壊滅、その後気流によって徐々に南下してくる放射性物質によって、人類に緩慢で確実な死が迫ってくる。大戦争では傍観的な位置にあった南半球のオーストラリアを舞台に、ある意味で状況から取り残されて、その上で巻き添えをきっちりくらった人々を描いている。設定がすばらしい。オーストラリア在住の作家ならではの想像力だろう。(真の最後の人類はアルゼンチンのウシュアイアにいる人間になるみたいだが。)作家が描くのは、終末ものにありそうな、起死回生のサヴァイヴァルを求める人類ではなく、避けがたい終末に対して打つ手なしの状況で、ただ日常を生きる人々の姿である。主人公は軍人なので、いろいろと作戦行動とかするわけだけど、結局のところそれは状況がいかにどうにもならないかの説明みたいなもので、焦点はそこにはない。庭に花壇を作る、職業訓練のために速記を習う、そんなごく日常的な行為が、どこかシュールな意味合いを帯びる。未来がないということが、現在の行為の意味をほとんど奪い去ってしまう。それでいて失われないものもわずかに残る。可笑しいのか、哀れなのか、それがゆえに尊いのか、不思議に入り混じったポエジーがある。アニメ界隈で「新日常系」なんて言葉もあるみたいだけど、その先駆的作品ということもできそう。面白く読んだ。そうとうに怖い話ではあるが、淡々として、過度にエモくならないところがいい。キャラに古さは感じるが、台詞回しもセンスがいい。「小切手でも、蜜柑の皮でも、なんなりと」ってところとか。そしてアメリカ人はやっぱり鱒釣りが大好きなのだなと。

渚にて【新版】 人類最後の日 (創元SF文庫)渚にて【新版】 人類最後の日 (創元SF文庫)
ネヴィル・シュート 佐藤 龍雄

東京創元社 2009-04-28


映画化も二度されている。向く題材だと思う。



音楽がうるさすぎるな。

mdioibm at 14:18|PermalinkComments(0) 読書録 

2018年06月21日

君の名は/新海誠

いまさら観ましたが、なかなか良かったですね。
ネタバレ含みますが、

ひとつの側面から見れば3年前に死んだ少女に夢で出会い、追い求める話。冒頭、諦めきった風な声で「ずっとだれかを探していた・・・」とか、「朝起きると泣いていることがよくある」とかの、朗読から始まって、いかにも新海きたきたって感じなのだけど、この作は鬱向き路線は控えめで、以降わりとポップで楽しくなってくる。要所要所コミカルなテイストが活かされていて、そういうのはこの監督としては一皮向けた部分なのかもしれない。売れ線エンタメを狙ってるという批判も耳にするけど、娯楽性が高いのは悪いことではない。この人が、青臭く感傷的な鬱映画をとり続けてどこへたどり着けるというものではない気がするし。映像の綺麗さは相変わらずだし、彗星綺麗だし、この作では組紐とか伝統工芸をモチーフにしているところがひとつ良いところで、飛騨の山の町の風物を描いた映像などとても美しい。それに、雨に濡れてネオンを写す歩道橋のタイルの画なんて、日常のなんでもないというかむしろ美しくもないものを、ああいう風に綺麗に見せてしまうってのは、それだけでこの監督の価値だと思う。相変わらず青臭さは残るものの、暗喩的な系の作り方も凝っているし、オカルト趣味も(わたしとしてはもっとこの路線を強めて欲しいのだけど)いい塩梅なのではないかと。あと、けっこう致命的な部分だと思うけど、劇中歌が要らない。こう何曲もかけられるとさすがにうっとい。もっと軽すぎずかつ広がりを感じられてかつ邪魔しない音楽を使うべき。この映画が駄作であるという意見には与しないが、こんな音楽を使ってよしとしている時点で、新海のセンスは絶望的である、という意見には賛成である。

「君の名は。」Blu-rayスタンダード・エディション「君の名は。」Blu-rayスタンダード・エディション
田中将賀

東宝 2017-07-26






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2018年06月15日

饗宴/プラトン

プラトンは初めて読んだ。
古代ギリシア人たちが、寝そべって酒を飲みながら、演説をぶちあうという話だ。エロス、すなわち恋と性愛の神を賛美しようというのがテーマだ。登場人物はいずれも実在の人物で、パイドロス、パウサニアス、エリュクシマコス、アリストファネス、アガトン、と演説していき、満を持してソクラテス(と最後に乱入してきたアルキビアデス)の順に。このとき、ソクラテスは53歳くらいで、パイドロス、パウサニアス、アガトン、アルキビアデスは若者、エリュクシマコス、アリストファネスは、その間くらいの年代じゃなかろうかと。
若者たちの演説は、フィクション(古代ギリシア神話)を論拠に、というかそれを解釈して、エロス神を賛美するという感じで、かなりの程度なんだそれ?って感じなのだけど、エリュクシマコスとアリストファネスの演説は面白い。エリュクシマコスは「エロス」を拡大解釈した内容で、医者らしくそれを病気と治療に関連付け、陰陽思想みたいに万象の根拠としてしまおうという感じだ。アリストファネスは、一個のファンタジーをぶち上げていて、これはもう相当有名なんだろうけど、かつて性別は女女と女男と男男の三種類あったのだけど、神がそれを真っ二つにしてしまって、いまの人間(男、女)ができたという話だ。

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だから、元女女の女は女を求め、元男男の男は男を求め、元女男は、互いを求めるのである、という。前半部は往々にして省略されがちな気がする。同性愛肯定のロジックでもあるわけだ。ぶっ飛んだ理論ではあるが、ある欠如の状態がエロスの根拠となる、というポイントはそのままソクラテスの論にも引き継がれる。この間読んだソローキンの『氷』にもそんなところがあるが、「かつてあった完璧な調和」という神話は、われわれのノスタルジアをツンと刺激する。
わたしはこの箇所を別のところで触れた知識でもってうろ覚えに記憶していたので、ソースを確認したい、というのが今回の読書の動機ではあった。わたしのうろ覚えていたのとはぜんぜん違った。わたしの捏造された記憶では、女女女、女女男、女男男、男男男、の四種類がいることになっていて、この記述法をつかって現代のややこしいセクシャリティを整理記述できないものかとか思っていたのだけど、そういうものでは全然なかった。
アガトンをかませ犬にして、満を持してのソクラテス、のところはさすがに面白い。まず得意の対話によって、アガトンのロジックをまるきりひっくり返しておいて、自分の演説をぶつのだけど、これをあえて自前の論理とせずに、ディオティマという巫女的キャラからの受け売りという体でするのが、ソクラテスの狡猾なところだ。一つには得意の対話性を持ち込むためだし、一つには自分の「無知」というガードを崩さぬためだし、一つには論理では上りにくい段差を一とびに飛躍するためでもある。有名なイデア論が開陳されるわけだが、これが、およそ二千年からのヨーロッパの思想史の原点であるとか思うといろいろと感銘も深い。
ソクラテスで終わらずに、アルキビアデスの乱入からのソクラテス賛美で終わるとこも、(美青年ふたりがソクラテスの取り合いをしたりするわけだけれども、)作劇的によく出来ているなと。



饗宴 (光文社古典新訳文庫)饗宴 (光文社古典新訳文庫)
プラトン 中澤 務

光文社 2013-09-20


光文社古典新訳で読んだけれども、とても平易で気楽に読めるので、とくにこれまでの訳に思い入れ等のないわたしのような読者には、悪くないものに思えた。まあなんかみんな楽しそうでいいですね、と。部屋の中のキャラの配置を図示するなど、懇切な解説もよい。

mdioibm at 00:25|PermalinkComments(0) 読書録 

2018年06月06日

島とクジラと女をめぐる断片/アントニオ・タブッキ

毎度さしたる手ごたえもなく読み終えてしまうのに、なぜだかまた別の本を手にとってしまう。というのが、わたしにとってのタブッキなのだが、めったにない文庫化ということもあって見過ごせなかった。さてあいかわらずのタブッキだなというか、つかみどころのなさという点ではこれまで読んだうちでもトップクラスなのだけど、それこそがタブッキの芸風であるのならば、もっとタブッキらしさの出た本ということになるかもしれない。

ポルトガルはリスボンからまっすぐ西に1450キロほどに位置する九つの島から成るアソーレス諸島、
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そこをおとなったことがこの本の成立のきっかけだろうが、「まえがき」でまっこう否定するように率直な「旅行記」ではもちろんなく、旅行記あり、短編小説あり、空想あり、随想あり、ご当地の詩人の人生のスケッチあり、先達たちの引用多数、アソーレス諸島をひとつの詩的トポスとしてよせ集まった、種々のスタイルの断片的な散文集、である。気ままに自由に書いたらそうなったという風でもあるが、やはり周到な文学的意図みたいのもあるのかもしれない。いっそまったくプロットのないぶん、タブッキの断片性の詩学がよく発揮されているということだと思う。

とりわけタブッキをひきつけたのは、彼の地で伝統的に行われてきた捕鯨文化であり(『白鯨』にもアソーレス出身の漁師が腕がいいとかいった記述があるようだ)、なんでそれに興味を持つのかと漁師に問われたタブッキが答えることには「たぶん、あなたがたは、あなたもクジラも、まもなく消えてしまう種族だからじゃないでしょうか」とくる。そもそもアソーレス諸島自体がどこか確固とした存在感のない場所で、というのは「たえまない地震活動の結果、アソーレス諸島はかなりな変遷をとげ、無数の島が浮上し、あるいは消滅した。これに関してもっとも興味深い事項が、イギリスの《サブリーナ》の艦上から一八一〇年に小さな島の誕生を観察した館長ティラードによって記録されている。彼はこの島に二人の水平にイギリス国旗を持たせて上陸させ、これをイギリス領におさめたというので、《サブリーナ》と命名した。だが、翌日、錨を上げる直前、残念なことに、ティラード船長は、サブリーナ島が消えてしまって、海はもとのように穏やかになっていることを確認しなければならなかった。」なんてこともあったようで、そういう存在感の希薄さをして、つまりその場所が喚起する象徴性をして、タブッキをこの地にひきつけたのには違いなさそうだ。

あいかわらずはっきりと確言できる手ごたえがあったわけではないのだけれど、わたしはたぶんこの本はけっこう好きだ。個別に言えば「アソーレス諸島のあたりを徘徊する小さな青いクジラ」と「捕鯨行」がとてもいいし、あとがきがクジラ目線なんてとこも気が利いているし。形式を定めないことからくる風通しのよさが好ましい。

島とクジラと女をめぐる断片 (河出文庫)島とクジラと女をめぐる断片 (河出文庫)
アントニオ タブッキ Antonio Tabucchi

河出書房新社 2018-03-03




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2018年06月02日

職業としての小説家/村上春樹

雑誌monkeyに連載された、村上春樹の創作をテーマとしたエッセイ集。
目次を列挙してみよう。
「小説家は寛容な人種なのか 」「小説家になった頃」 「文学賞について」 「オリジナリティーについて」  「さて、何を書けばいいのか?」  「時間を味方につける──長編小説を書くこと」  「どこまでも個人的でフィジカルな営み」  「学校について」  「どんな人物を登場させようか?」  「誰のために書くのか?」  「海外へ出て行く。新しいフロンティア」  「物語があるところ・河合隼雄先生の思い出」
著者はこれまでもその創作観をいろんなところで語っているが、それをひとところにまとめておきたいという気持ちもあったようだ。比較的新しい読者や、あるいは創作を志す若い人にとっては、大作家の舞台裏(というほどのものでもないが)を広く見渡せる、ハンディな本ということになりそうだ。「小さなホールで、だいたい二十人から三十人くらいの人が僕の前に座っていると仮定し、その人たちに語りかける」講演をイメージしているとはいっているが、その二三十人はどのみち寄りぬかれた文学通とかではなく、たぶん任意のサンプル集団であって、そこにはたとえば『海辺のカフカ』でムラカミをはじめて読んだヒスパニックの少年みたいな層も含まれていて、つまりは非常に広い読者層に向けて語られてる感じだ。有意義な本だと思うが、長年の読者からすると、もうそれ聴いたことあるよ、もっとマニアックな話をしてくれよ、という気分はどうしてもある。本人は河合隼雄のことなんてなにも知らなかったけど、奥さんが河合隼雄のファンで「あえて本を読む必要はないけど、この人とは合った方がいい。きっと良い結果が生まれるから」と熱心にすすめるので会うことにした、とかいう話とかをもっと聴きたい。

以下、一部引用。

また映画の話になりますが、スティーブン・スピルバーグの作った『E.T.』の中でE.T。が物置のがらくたを引っかき集めて、それで即席の通信装置を作ってしまうシーンがあります。覚えていますか? 雨傘だとか電気スタンドだとか食器だとかレコード・プレイヤーだとか、ずっと昔見たきりなのだ詳しいことは忘れたけど、ありあわせの家庭用品を適当に組み合わせて、ささっとこしらえてしまう。即席とはいっても、何千光年も離れた母星と通信をとれる本格的な通信機です。映画館であのシーンを見ていて僕は感心してしまったんですが、優れた小説というのはきっとああいう風にしてできるんでしょうね。材料そのものの質はそれほど大事ではない。何よりそこになくてはならないのは「マジック」なのです。日常的な素材やマテリアルしかなくても、簡単で平易な言葉しか使わなくても、もしそこにマジックがあれば、僕らはそういうものから驚くばかりに洗練された装置を作り上げることができるのです。


職業としての小説家 (新潮文庫)職業としての小説家 (新潮文庫)
村上 春樹

新潮社 2016-09-28




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2018年05月31日

サカサマのパテマ/吉浦康裕

これは面白い!
タイトルとパッケージからおおよその内容は予想できるが、真逆の重力が作用する男の子と女の子が出会って(女の子が地下から空へ落下するところを男の子が助けて)、悪者に追っかけられて、心を通わせて・・・っていうような話である。全体的にもラピュタ感あるが、とくにこのシーンを本歌取りして作られたものなんじゃないかと。

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これたとえばカルヴィーノの短編とかにあったみたく二つの重力圏の合間というのではなく、おそらく現代物理学では説明がつかない現象だろうと思うが、とある科学実験の結果として一群の地球上の人間というか物質もろともがまるまる反重力性とでもいうものを帯びてしまうという設定で、なかなかに頭がこんがらかる。最初のほうは、その体勢維持できるってどんな腕力なんだよ、とか、反重力カレーパンを消化できるのかよ、とか半ばつっこみ入れながら見てたのだけど、だんだんとそういうむずむずも前向きに感じられてくる。認識の土台がぐらぐら揺さぶられて、気色悪さが気持ちよい。上昇と落下を同時に体感する、というようなありえないことが、感覚的に体感できてしまう。One man's ceiling is another man's floorなんて歌もあったが、実際にそれを見せられてしまうと「認識の相違」なんて寓意に還元できない映像の作用があって、もはやある種の錯覚実験のようですらある。見終わって、テーブルの上にあるスプーンを見て、そこにスプーンがあるということ、つまり浮き上がったりしないで動かないでおそらくは下方からの重力に引かれて、あるということ、そのことが妙に不思議に感じられた。ニュートンがリンゴの落下を見て感覚したのもそんなだったかもしれないというような。
こまかいところはやや杜撰でB級感あって、悪役の動機とかぜんぜん説得力なかったりするし、もっと良くなりえた映画だと思うけど、とりあえずはこの大きな設定のもたらす効果という点だけでも、見る価値は十分にあるかと。

サカサマのパテマ 限定版 [Blu-ray]サカサマのパテマ 限定版 [Blu-ray]

KADOKAWA / 角川書店 2014-04-25





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2018年05月28日

夜の国のクーパー/伊坂幸太郎

伊坂幸太郎をはじめて読んでみた。
はじめてなのでこの作家がどういう作風なのかもいまいちわかっちゃいないが、この作品はかなりファンタジー色の強いもので(架空の国を舞台にし、猫が語る小説なので)、もしかしたら異色作なのかもしれない。が、どちらにせよ、どうということのない凡作だった。難破して異世界に漂流した「私」。そこで出会った喋る猫によって物語られる、壁に囲まれた町が蒙った敵国からの侵略の顛末。それによって明かされていく、なぞのモンスター「クーパー」の正体・・・
実は、この本のあとがきを先に読んで、それきっかけで『同時代ゲーム』に手を出したのだけど、あれと比べると、坦坦麺と素うどんほどにも濃度が違うただのエンタメ作品で、エンタメとしたって、世界観の作りこみも浅いし、メタフォリカルな意味も鳴らないし、キャラクタにさしたる魅力があるわけでもない。一応ミステリ仕立てというか、最後にそうであったと思っていたものが実はこうであったというひっくりがえしがあるのだけど、ファンタジー仕立てなところがあだになっていて、たいした驚きを演出できていないというか。つまり、Aが十分にもっともらしさを獲得できてないところを、Bに裏返したところでどれほどの意外性があるのだろう、ということで。伏線を張る手つきも見え透いているし。この人を人気作家たらしめている魅力ってのを、わたしはさっぱり感得できなかった。


夜の国のクーパー (創元推理文庫)夜の国のクーパー (創元推理文庫)
伊坂 幸太郎

東京創元社 2015-03-19




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