2021年02月14日

逃亡派/オルガ・トカルチュク

トカルチュク三冊目。三作目にしていよいよ馴染んできたというか、これは、好き。
『昼の家、夜の家』と同様の無数の断章からなる小説。いくつものストーリー、いくつもの随想、いくつもの雑学、いくつもの紀行的挿話がコラージュされる。解剖学者の伝記小説から、ナプキンの包み紙に書かれた文の引用まで、なんでもある。今作がテーマにするのは旅、すなわち移動と停止、あるいは解剖学、すなわちモータルとイモータル、あるいは部分と全体。そうしたテーマで、ばらばらの断片がばらばらのまま結びついている。「土地」が主題だった『昼の家、夜の家』とは対照的といえるかもしれない。
著者が「星座小説」と呼び、きわめて「中欧的」な形式だというこうした断章形式の小説は、小説=物語と考える素朴な読者は面食らうかもだが、現代においてはもはやイレギュラーな形式ではなくなっているのだろう。それはひとつの世界認識の表現であるし、作中でもいろんな仕方で表明されている。たとえば空港で行われている「旅行心理学」の講義といったような出し方で。

「……主要概念は」と彼が言った。「巡り合わせです。これは旅行心理学の第一のテーゼです。生のなかには、科学とちがって(科学にも、こじつけはたくさんあるとはいえ)、いかなる哲学的原動もありません、つまり因果律にしたがい首尾一貫している論拠の連なりなどというものは、けっして創造しえないし、ある出来事が前の出来事の結果としてつぎつぎに起こるなどといった、都合のよい物語もありえない。あるように見えても、それは近似に過ぎません。経線と緯線でつくった網が、見かけは地球の表面であるのといっしょです。むしろ、われわれの経験をより精確に再現しようと思うなら、部分から全体をつくることです。つまり、同一平面上の、同程度の異議や同心的配列をもたせて断片を並べて、大きな全体とするのです。一貫性ではなく、巡り合わせこそが真実です」

明らかなデメリットとしては持続性や吸引力の弱さにあるが、つまり一物語形式の小説のように長時間読みふけることの難しい形式であるのだけれど、(正直読みながらなんども寝落ちしてしまったわけだけど、)それに反して得られる混沌、攪拌、広がり、自由さの感覚が心地よい。むしろこういうのが純粋な小説であって、物語小説は出来合いの道を歩むような限定的な形式であったのだと思わされる。物語を意識して書かないというのではなく、その気になれば物語だって自由に使う。ある意味書きたいことを好きなように書くというシンプルな形式ではあるが、それを書くのが簡単かといえばそうではないだろう。どの断片も別のなにかのための助走や準備や説明ではなく、それ自体のために存在するという意味での密度が必要だし、物語の勢いを利用することもできないし、決め事がないぶん並べ方には非常なセンスを要求される。画家が画布に色を置くように、文章を書く。
短い断章をもひとつ引用。凝った文章というのではないが、着想のユニークさが魅力だ。

イルクーツク-モスクワ

 イルクーツク-モスクワ間の飛行機。イルクーツクを八時に飛びたち、モスクワにおなじ日のおなじ時間に着陸する。つまり、同日の午前八時。ちょうど日の出の時間だから、ずっと明るいなかを飛ぶことになる。大きくて、ひろびろとした一瞬がつづく。いま飛んでいる、シベリアみたいな。
 これはおそらく、全人生の告解のとき。時間は機内を流れる。でも、それが外にもれだすことはない。




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2021年02月01日

歌行燈・高野聖/泉鏡花

あまり得意なタイプの作家ではないのだが、これは(「高野聖」をのぞき)リアリズム調の作品を集めているということで読んでみた。「女客」「国貞えがく」「売色鴨南蛮」がそんな感じである。この作者にしては異色作、であるが逆に言えば作家性の薄い作品、であるかもしれない。泉鏡花を求めて、まず読む作品ではないだろうが、やはり文章の魅惑はこうしたリアリズム調の作品にもある。わたしがいちばん気に入ったのは「女客」で、これはいっとき滞在している知り合いの女房との何気ない会話劇で、長年秘めた実を結ばなかった恋情がさりげなく色っぽく描かれる。内容はどうということもないが、やはり文章は格好いいなと。

「じゃ階下は寂しいや、お話なさい」
お民はそのまま、すらりと敷居へ、後手を弱腰に、引っ掛けの端をぎゅうと撫で、軽く衣紋を合わせながら、後姿の襟清く、振り返って入ったあと、欄干の前なる障子を閉めた。
「此処が開いていちゃ寒いでしょう」
「なんだかぞくぞくするようね。悪い陽気だ」
と火鉢を前へ。
「開ッ放して置くからさ」
「でもお民さん、貴女が居るのに、其処を閉めて置くのは気になります」
時に燈に近う来た。瞼に颯と薄紅。

「時に燈に近う来た。瞼に颯と薄紅。」である。
「国貞えがく」がいちばん異色かもしれない。幼年期に自分が物理の教科書をねだったがために、祖母が売ってしまった母の形見の国貞の画を、買い戻そうという話。私小説にちかいらしい。物理の本を開くところの描写が印象的。「売色鴨南蛮」はリアリズムというにはやや作為が濃いが、若い頃に命を救われた遊女の思い出。幻滅と憧れを典雅に描いていて、いかにも浪漫主義的な短編。
「歌行燈」。解説には「神品」とさえ賞揚される鏡花の真骨頂らしいが、これは分からなかった。舞台劇、能とかそういうのを意識して書かれたのだろう。二つの話が別々に展開し、最後に全員集って鼓や舞や謡やが合奏する大団円となる。日本近世文学と強く連結し、その分ヨーロッパ的近代小説的な尺度では読めない作品であるかと。これを読むには、わたしの教養が不足している。
映画になっている。


つまりこういう世界観なんだろう。敷居が高い。
「高野聖」は代表作の怪異小説。こういうのが泉鏡花なんだろうな。たぶん読んだのは初めてではないだろうが、記憶にはない。蛭の森の描写がキモくてよいが、しかしやはり大して好むところではない。「雨月物語」とか思い出す。これは意外にも映画になっていないのだな。蛭の森とか、是非映像で見たいところだが。




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2021年01月24日

ララバイ/チャック・パラニューク

『ファイトクラブ』で名を上げたパラニュークのこれは5つめくらいの小説。初期の社会の規範にあらがう逸脱者の小説から、風刺的ホラーに舵きりされた作品だという。本国では変わらず読まれているみたいだが、これ以降は邦訳もされなくなったことを考えると落ち目の作品でもあるのかもしれない。しかし、わたしはそんなことを知らずに手に取ったわけで、それなら読む前に言ってくれよという話である。正直、読んでよかったと思えるような読書ではなかったかな。書き方にモダンなところはあるが、社会批評として固有の深みは感じない。いくらはとがってはいるが、いわゆる大衆小説の範疇の感じだ。唱えるだけで人を殺す(というか唱えなくても思い浮かべるだけで人を殺す)「子守唄」をめぐる話なのだけど、その設定が不出来な少年漫画なみにスカスカというかただ単にB級なのがわたしは悲しい。言葉で人を殺すなんていうから、ちょっと前に読んだ『言語の七番目の機能』みたいな文学的はったりも期待したが、そこにテーマ性はなくって、ただ主人公に即死チート能力を付与するだけの方便としてしか機能していないのが悲しい。つまりは図らずも殺意を即座に実現できてしまうことに対する主人公の逡巡が主題であるのだろう。この主人公はたとえば新世界の神になりたいとかいった明確な目的を持たないわけだが、やんわりと良くない力だから使うべきではないし存在してはいけないと考えつつ、結局のところ成り行きまかせにふらついて、その詩の書かれている本を回収処分して回るのだけど、だれがどう考えても本の存在よりも危険な「その詩の使い道を知っている人物」を放置するものだから、いたずらに犠牲者は増えていくばかりで、まあこういうホラー?の常として読んでいるものはやきもきさせられる。実のところそれは最後まで読んでも解決されない。この本が、(続きが書かれることのない戦いの)「序章」としてデザインされているのを知るのは、最後の最後になってからのことだ。その計らいに巧緻を感じる人もいるかもしれない。でもわたしが感じたのは不満感だったな。




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2021年01月15日

愛する人達/川端康成

川端の短編集。
雑誌『婦人公論』に連載したものを纏めたものらしい。
それをくくって『愛する人達』と表題をつけた。
養女の結婚、結婚相手の暗い過去、新婚旅行の汽車で見かけた混血の少女、妊娠した妻の変容・・・なんらかの形で結婚をモチーフにした短編が並ぶ。ある程度意識して揃えたのだろう。掲載雑誌を意識してか、総じて川端にしてはマイルドでソフトな印象だ。解説では、気を楽にして書かれたものにかえってよいものが出ることがある、なんて擁護しているが、つまりそこまで深くはないというか、川端の一級の作品にあるよな独特の鬼気を感じられるものはないかもしれない。なので、いくらか物足りなく思いつつ読んだのだけど、不思議なことに読み終わってみれば、いやそう悪いものでもない、と思い返される。いやむしろ良いのじゃないかこれ?「子供一人」とか「ゆくひと」とか、いまとなってはあまりに率直でありきたりだろうとか思いつつも、それでも、胸をついと衝かれてしまう。一見トロいのにいつのまにか投げられている。川端の場合にはしばしばそういうことがある。
とはいえ、わたしの好みとしてはストレートなものよりは変化球の「ほくろの手紙」をまず推したい。これは女の一人称で、ほくろをいじる癖についてあれこれと考えるというような話で、ちょっとシュールというか幻想に振れそうな兆しもあって、好みの作風。それから断然の一番手としては「夜のさいころ」。旅興行している一団の、踊り子と裏方、という関係性だと思うのだが、これもさいころを無心に振るという妙な癖をもつ女がでてくるわけだが、こちらは爽やかな恋愛譚といっていいかと。「伊豆の踊り子」に通じるような清冽さあると思う。さいころってモチーフがユニークだし、短い中で溜めて弾ける手際も見事。





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2021年01月07日

浅草紅団/川端康成

なぜこんなものを書いたのかと訝しんでしまうよな異色作だが、わたしはけっこう好きだった。
小説らしい結構は持っておらず、昭和初期の浅草の町に取材したルポルタージュ、スケッチ、見聞記ふうな作品だ。若き川端は浅草を気に入って近くに住んでいたこともあってよく通っていたらしい。1930年頃、関東大震災の傷跡もまだ癒えてはおらず、世界恐慌の時代でもある。出てくる人物といえばおおよそ浮浪者か娼婦か犯罪者かといったあたり。「浅草紅団」というからなんのことかと思えば、要は不良少年少女たちのグループ、というだけのことらしい。かれらかのじょらの一癖二癖ある履歴(三味線のために猫を殺していただとか)であったり、うさんくさい見世物(腹から飯を食う男とか)だったり、アングラな歓楽街(「エロエロ舞踏団」なんて名の劇団も登場する)であったり、猥雑でワイルドな当時の浅草を活写した情景61節。「浅草は大きい瘋癲病院だ。」とは作中の一文。いっとき主役格の弓子なる人物の物語が主導権を取りそうにもなり、うらみのある男に「亜砒酸の接吻」をするなんていう川端らしい?くだりもあったりするのだが、結局それも一情景として流れ去ってしまう。モダニズムへの志向もあった川端なので、話の筋に拠らない別様の小説を試行していたのには違いないが、どういうところを目指していたのかはいまひとつ分からない。作者にとっても必ずしも大満足の出来ではなかったようだ。語り手の感受性みたいのがもう少し出てきていれば随筆風な小説っぽくなりそうなのだが、語り手は登場はするものの観察者記録者にとどまり、ルポルタージュでも読んでいるかのような読み味なのだ。浅いといえば、そうなのかもしれない。しかしそれもまたひとつの味であるといえばそうでもある。とにかく文章はおそろしくスタイリッシュだし、キャラたちの台詞も気が効いている。表現はないが、スタイルはある。スケッチであるがゆえの涼しさと軽さがある。小説としてはまあどこへも行き着かないが、読んでいるとある種の空気が香るようで気持ちがいい。つまりはここに描かれている浅草が、汚くて騒がしそうで下品そうであるにもかかわらず、不思議に魅力的なのだな。
どこか引用しようか。

 東の窓は――目の前に神谷酒場。その左下の東武鉄道浅草駅建設所は、板囲いの空地。大河。吾妻橋――仮端と銭高組の架橋工事。東武鉄道鉄橋工事。隅田公園――浅草河岸は工事中。その岸に石向上と小船の群れ、言問橋。向う岸――サッポロ・ビイル会社。錦糸堀駅。大島ガス・タンク。押上駅。隅田公園。小学校。工場地帯。三囲神社。大倉別荘。荒川放水路。筑波山は冬曇りにつつまれている。
 春子は懐手のまま、窓々をぶらぶら歩いて、東京の屋根を見渡しながら、
「田舎だなあ。東京って、古下駄の市、その下駄も泥のついた――裏返しに並べたみたいな村だわね」
「村だっていいやがる。えらい」と、一人の男がいきなり彼女を抱いて接吻した。
第二の男は黙って彼女に接吻した。
後の二人も順番を待って静かに接吻した。
その間、春子は懐の手も出さずに、目を閉じて立っていたが、
「浅草の塔の花嫁なの、私。――お前口紅持ってない?」

わたしは古い作品集本で読んだので読めなかったが「浅草祭」なる続編も書かれているらしい。




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2021年01月01日

2020年の良かった本

あけましておめでとうございます。
さて毎年この時期にわたしの読書ライフの画期をなした本を選定する殿堂本企画なのですが、ここ数年は該当作なしが続いておりまして、今年も残念ながら選出ならず、企画自体の存続があやぶまれる段階になってきましたので、こっそりとタイトルから「殿堂本」をはずし、ふつうに良かった本を選ぶ企画にさりげなく変更していこうかという感じになっております。
わたしの中では「殿堂本」というのは、単に良かったというだけでなく、小説観を揺るがされるほどのインパクトのあった作品、もしくはわたしの心に牡蠣みたいに棲みついてしまった作品、でありまして、というかそれが決めていくうちに出来ていった基準でありまして、やっぱりそういうものとの出会いは読んだ本が増えるほどに寡くなっていくんですよねどうしても。年齢を言い訳にするのは大嫌いなのですが、小説に揺すぶられる体験ってのはやはり齢を重ねるほどに稀になっていくのかなあと、寂しい諦観とともに思っている次第であるます。いやまあヤバそうな作品に挑んでないってのも、もちろんあるわけですが。
昨年は、とりもなおさず「コロナの時代」に突入した年でしたが、個人的にはスマホゲーのFGOばっかやってたなという感じでした。ステイホームのメッセージが喧しい4月ごろ、よろしいならば篭ってやろうと、手を出してしまったのがまずかった。まあ愉しいですし無聊の時間をつぶしてくれるのは大変たすかるのですが、読書にあてるべき時間まで侵食してしまい、読書量の減少がますます亢進してしまう有様に・・・人生初の課金までしましたからねははは。まあでも昨年末に現アップデート分まで追いついたので、ゲームの方もおのずとペースダウンして、今年は読書量も多少は回復するかなとかとか思っているところではありますが、どうなることやら。
さて、良かった本ですが、この二冊ですね。もう決まってました。

掃除婦のための手引書/ルシア・ベルリン
プラヴィエクとその時代/オルガ・トカルチュク

アメリカ短編界の秘石ルシア・ベルリンは誰にも似ていない文章の魅力にしびれる。アデルなんかのシンガーを形容するときにトラフィックストッパーなんて言葉が使われたが、そんなような形容が似つかわしい。ストーリーとかでなしに一読であっと思わせる文章のセンス。読まれてなかったってだけでライターズライターって形容は、違うと思うんだな。テクニカルなのかというとそういうことでもない気がするし、むしろ文学的素養とか関係なしに、刺さる人にはサクっと刺さるタイプの作家だと思う。
トカルチュクはまだどういう書き手かもよく分からないのだけど、この本を読んで以来「この人はちょっと違う」とずっと気になっている。難解というのではないけれど、書き方もそのヴィジョンも独特。断片をいくつも連ねたファミリーサーガだが、日常性にありながら、人間の物語を越えた、神秘なる摂理を見通すような目がある。たとえばウルフの小説のように、普段使わないような感覚器を作動させてくれる類の作家であるのかもしれない。良かった本というよりは、気になる本枠で選出。

ノーベル賞受賞講演の映像。




mdioibm at 21:45|PermalinkComments(0) 殿堂本 

2020年12月27日

三体/劉慈欣

うーむ、まだ続きがあるのだから、これだけで判断するものあれなのだけど。星3つ、かな。
評判が喧しい分ハードルが上がってしまうよな。わたしの感想としては、いいところもあるが、駄目なところもけっこうある、いうほどではないだろ、というところ。①文革を発端に設定して、そっから何者かが「科学」を滅ぼそうとしている!って導入はいいし、②ハッタリの効いた新テクノロジー(ナノマテリアルで軍艦を切るところとか陽子サイズの万能AI智子とか)とか、③三つの太陽の三体問題に巻き込まれた惑星での文明の生育、みたいなところのアイデアは面白いのだけど、そしてそれらを古典的な異星人襲来のフォーマットに落とし込んでいるわけだけど、三色みごと渾然一体とはならず、ストーリーの結び目というかキャラの行動および心理もいろいろと粗雑で(とくに「三体」ゲームがらみのあたり)、あちこちが完全には噛み合っていない。SFということでいえば、わたしはとくに三体人の(形態はまだ明らかにされていないわけだが)文明とか思考とかの度合いが色の違う地球人類くらいの違いしかなさそうってところに萎えてしまう。いやそんな簡単に意思疎通できるのかよ、と。『ソラリス』とか『あなたの人生の物語』とか以後だというのに、そんなとこまで「古典的」でいいのかよと。それゆえにってのもあって、①のミステリ要素の謎解きもホワイダニットのところで、いやそうはならんだろっていう、不納得感でモヤる。智子があったら、そんなせこいことせんでもどうとでもできるやろ、って話である。寛容な目で見れば、いろんや要素を取り込んだ大柄なエンタテイメントとしてそれなりに愉しいが、「本格SF」とか銘打たれると疑問符がつく。まあ、先にも言ったように、これは三部作第一部なので、以後の展開しだいでひっくり返るかもしれないわけだけど・・・




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2020年12月20日

忘却についての一般論/ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ

これは面白かったな。IMPAC賞も受賞したアンゴラ作家の作品。
まずはアンゴラとは何処? というところからなのだが、アフリカ南西、アフリカ大陸を九州に見立てるなら熊本市あたりにある国だ。ちなみにいうとこの小説の舞台ともなる首都ルアンダは、別の国であるルワンダ(こちらは宮崎県の西側あたりか)と名前が似ていて紛らわしい。
17世紀くらいからポルトガルの植民地で、1975年に独立するがその後も2002年にいたるまでずうっと、キューバやアメリカといった各種勢力の介入が入り乱れる内戦状態であったという。この小説はそのころのアンゴラを舞台にしている。内戦が始まった時期にポルトガルの入植者は大部分本国に引き上げたのだが、本作の主人公ルドは不運な事情で取り残され、マンションの室に立てこもることになる。なんと三十年もの長きに渡り・・そして紙に、紙が尽きると今度は壁に、言葉を書きつけ続ける。それは日記からやがて詩に変わっていく。
というような設定であるので、内省的というか篭ったスタティックでポエティックな小説を想定していたのではあるが、そしてそれはそれでかまわないと思っていたのだけれど、読んでみるとそんなこともなかった。複数のキャラが入り乱れ、それぞれの行為の意図せぬ結果が、複雑なプロットを取り結ぶ話で、なんだろう、むしろガイリッチーとかタランティーノとかでも見ているような、シャッフル感とスピード感がある。もともと映画のシナリオのアイデアだったというのも頷ける話だ。共産政権の官吏、ポルトガルの軍人(はのちに遊牧民となる)、金持ちになった元活動家、失踪専門のジャーナリスト、浮浪孤児、チェ・ゲバラと名づけられた猿、それから「愛」と名づけられた鳩・・・。いろんなキャラがキープレイヤーとして登場し、バイオレントで政治的でもある狂騒が繰り広げられる。錯綜していてはじめは多少混乱するが、星型を一筆書きするみたくあっちいってこっちいってしてたかと思うと、最後には全部が見事に繋がって、感心してうなることになる。ルドも決してその外側にはいないわけだが、ただルドの詩だけが、まわりが騒がしいだけにかえって、内省的にしんと響くような効果もあると思う。ペソアの詩が引用されてたとこもツンときたな。「星たちは気の毒だ」と始まる詩行・・。
すぱっとひとまとめにできるような言葉は思いつかないが、この小説が提示する倫理があるとするなら、拒絶とは反対の方向へと向かうようなものであるのだろう。インタビューでの作者の言葉はこうだ。「最初から、彼女は植民地主義の終焉のメタファーだった。忘れられた人、帝国の孤児。他人を憎むが、最後にはその他人に救われる」。








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2020年12月12日

カフカ全集8

新潮版カフカ全集の第8集、「ミレナへの手紙」。

フェリーツェ・バウアーとの二度の婚約とその解消のあと、靴屋の娘ユーリエ・ヴォホリゼクと突然の通算三度目の婚約、しかしこれもまた父の大反対などもあり(これがきっかけで「父への手紙」が書かれる)頓挫しかけているころ、カフカの作品を(そのころまでに、「判決」「変身」「流刑地にて」それから『田舎医者』収録の短編をものしていた)チェコ語に翻訳している翻訳者からの手紙をうけとる。それがミレナ・イェセンスカである。このころカフカ36歳。ミレナはすでに結婚していたが、夫との関係はうまくいってはいなかった。二人は知り合い、やがて繁く手紙を交わし合うようになる。
この本に載せられているのはおおむね1920年の4月から12月くらいまでのものであるようだ。これ以前にもやりとりはあるようだが、残されていなかったのだろう。関係が深まり、やがて恋人同士となり、猛烈な勢いで手紙をやりとりし、お互いがなくてはならない存在となっていくわけだが、そこから先はというと、これ以上進めない距離まで行ったところで留まって、熱は冷え固まって、収まるべきところに収まってしまう・・・ある意味でひとつの典型的な恋愛の顛末を見るようで、ぴりっと切ない感じもなくはない。
典型的とは言ったが、カフカは例によってどうしようもなくカフカであるので、たとえば「旦那と別れて俺と一緒に暮らそうぜ」みたいなことを言うはずもなく、ミレナなしではいられないといったふうなのに、いざとなるとそれはちょっととしり込みし、難解で不確定なメッセージをよこす。ミレナは翻訳をするくらいだから、もともとカフカの作品の理解者なわけだ。それにドストエフスキーも大好きだし、強権的な父親を持っているという共通点もある。カフカのどの恋人よりも精神的にカフカに近づいた存在なのかもしれない。カフカは自身の日記を読ませさえしたらしい。しかしそんなミレナですら、立ち入れない領域がやはりカフカにはある。それはやはり作品にしかでてこない部分であるのだろうと思う。
なので作品ほどのカフカ濃度があるわけでもなく、概してマニア向けの読み物だと思うが、随所にカフカらしい、それだけで抜き出してみたいような箇所があるにはある。それに作品には表れないよな、カフカの幼少期や初体験の思い出が語られているのも読みどころだろう。変なスケッチもあったりする。残念ながら文学についての話題はほとんどない。たまに本の感想を言い合う程度で。
ミレナの側の応答がないので、文脈や人物相関がわからないところも結構あるので、その辺を解説してくれているので、あとがきを先に読むべきだったかもしれない。
どんな感じかいくつか引用。

私はあなたを愛していますから(ですから私はあなたのことを、分からずやさん、海が海底のちっぽけな小石一つを愛しているように愛しているのです。私の愛情があなたの上に溢れ漲るのも、これと寸分ちがわぬ有様です――そしてあなたの傍らでは私がまた小石でありたいものです、もし天の神々がそれを許してくれるならばですが)、全世界をも私は愛しており、その世界にはあなたの左の肩、いや最初は右の肩でした、あなたの右の肩も属しており、私の愛する世界にあなたの右肩が属しているからこそ、気に入れば(そしてあなたがやさしくブラウスをずらして下されば)私はそのあなたの右肩にキスし、こうして私の愛する世界には、あなたの右肩も、森の中で私の上になっていたあなたの顔も、森の中で私の下になっていたあなたの顔も、それからまた、ほとんど裸になっていたあなたの胸にもたれての憩いも、みんなそこに属しているのです。

昨日あなたの夢を見ました。こまかいことはもうほとんど覚えていません。ただ、私たちが終始相手に移り変わり、私があなただったり、あなたが私になったりしていたことだけは覚えています。最後にどうしてだがあなたに火がつきました。私は布切れで火を消し止めることを思い出し、古い上着をつかんで、それであなたを叩きました。ところがまた変身がはじまって、あなたはもう全然そこにおらず、燃えているのはこの私であり、上着で叩いているのもこの私だ、といったひどいことになりました。

この私自身でさえ、たとえ賄賂で買収されて自分の「不安」を弁護しているように見えることがよくあるとしても、結局最も深いところでは不安を正しいとしているに違いないからです。いや、私自身が不安から成り立っており、もしかするとこの不安が私の最善のものかもしれないのです。そして不安が私の持っている最善のものであるために、それがまた、あなたの愛している唯一のものかもしれないのです。他にこの私のどこが特に愛し得るというのでしょう。これだけはしかし愛される値打ちのあるもののなのです。

「それにもかかわらず」に感謝します。じかにこの血の中に入ってくる呪文のような言葉です。





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2020年11月29日

地図と領土/ミシェル・ウエルベック

初ウエルベック。これはどうなんだろうな。きわめて現代的な主題をもった新感覚な小説だが、この冷淡さとシニックをおいそれと肯定してよいものか。自分が思う「文学」はこうではないと、頭の固い年寄りみたいな言い分ではあるが、思ってしまうところがある。ウエルベックの別の本を訳した澤田直がこう言っている。

村上春樹の方がずっと真面目ですよね。村上春樹はやはり、文学を信じていると思う。対してウエルベックはもっとシニカルに笑いとばしてる感じで、文学を信じていない、少なくともそう装っている。そういう意味では、村上春樹よりウエルベックの方が21世紀的な作家なんじゃないかなと思います。

だよなあ。「文学なんて空虚だよ」といわんばかりのいかにもフランス風な厭世というか不遜というかアンニュイの身振りが堂に入っている。もちろんそれでも書くわけだから、何かしらの仕方で信じているのではあるのだろうが。
現代芸術家を主人公にした小説である。ひとりの芸術家の成功の過程を、要するに作品が高値で売れるようになるという意味だが、作品の製作過程から、いかに発見され商業的にマネジメントされ大金を得るようになるまでを、事細かに描く。実質のデビューはミシュランの本の地図を撮影した写真作品である。商業出版物を撮影したものが芸術になるわけだが、もはや衒いでも冷笑でもない。現代芸術ではいかにもありそうなことだし、なんだったら作者自身の芸術観と同期しているところがあるだろう。それから、ビルゲイツだとかを描いた「職業」を主題にした絵画作品でさらにブレイク。俗だし皮相だが、現代においてはもうそこにしか芸術の主題はありえないじゃないか? そんな問いが問いかけられ、実践されているわけだ。しかしまあこの辺とか、旧来の小説のように主人公の人間性みたいのを掘り下げていくみたいなこともなく、社会批評みたいな要素が強すぎて、わたしにとってはさして面白いものでもない。
ウエルベック登場から、小説としては面白くなる。主人公は、個展のカタログに寄稿してもらうために世界的に著名な小説家「ミシェル・ウエルベック」に依頼をすることになる。著者自身の登場。これは諧謔でもメタでもなく、いやどちらも少しはあるのだろうけど、それよりか外野への応答というか、「小説に描かれたくらいでがたがたいうな、おれは自分自身さえネタにするし、こんなえげつないことまでさせてみせるぞ」というような主張であるように思える。それからかなり意表をつく展開へ。ネタばれしてしまうと、ウエルベックは惨殺される。歴戦の刑事すら現場を見て具合を悪くしてしまい、現場写真をみた主人公が「ジャクソンポロックですか?」とか言ってしまうようなえげつない殺害方法で。あるいはこれはウエルベックが「作者の死? こうですか?」とバルトあたりを皮肉っているようでもある。さすがに苦笑いを禁じえない。

この一作だけではまだウエルベックは分からないなという感じだが、外交的タイプというか、たぶんわたしの嫌いなタイプの作家なんだろうなという、これは読む前からあった予感なわけだけど、それが引き続いて持続している。でも逆にもしかしたら愉しめるかも、という予感も本作を読んで芽生えた。もうひとつくらい読んでみるか。聞くところによると、これはウエルベックにしてはおとなしい部類の作品なんだそうで・・。





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