月山・鳥海山/森敦時の止まった小さな町/ボフミル・フラバル

2019年04月06日

死都ブリュージュ/ジョルジュ・ローデンバック

19世紀末のベルギー詩人ローデンバック。
灰色の街ブリュージュで鬱々と暮らしている男やもめが、死んだ妻と瓜二つの女性に出会う、というところから始まる浪漫主義風な中篇小説。ネタバレしてしまえば、最後には殺してしまうのである。結局近づくほどに違いも見えてきて、あげくに女が妻の想い出を冒涜してしまうものだから。妻の残した髪の毛でもって頸を絞めて。
いかにも19世紀的というかホーソーンとかワイルドとかあの辺を想起させる作品ではある。ピエールルイスも思い出したが、この人もベルギー人だったのか。暗い色調で塗りこまれた独特の磁力のある作品ではあるが、予定調和な筋書きにしても、宗教的な雰囲気にしても、いまとなってはいささか古色ばんでみえる。
はしがきでも強調される「都市」こそが主役である、という姿勢がいくらか新鮮で興味を引かれる。この作品にはゼーバルトのように写真(修道院のは絵にみえるが)がいくつも挿入されている。白黒写真なので、とうぜん灰色の街ではあるが、カラーで見れば綺麗な建物の多い風光明媚な街のようにも見える。運河の多い都市で、波のほとんどない水面に高い建物の反映が写っている写真が多いのが印象的だ。『死都ブリュージュ』の評判に、地元の人は「死都」なんかではないと苦い顔をしたらしいが、これがローデンバックのブリュージュの印象なのだろう。人と都市の照応という主題は魅力的だが、物語に意を乗せすぎている分、ちょっと力を殺がれているように思えなくもない。
それから六章あたりで展開される「類似の哲学」とでもいうべきもの。

ユーグはこう思っていた、類似というものはなんという不可解な力を持っているのだろう!と。
それは人間性の相矛盾する二つの要求、つまり慣習と新奇さに応えるものである。ひとつの掟である慣習は生の律動そのものなのだ。ユーグはそれを、救いようの無い彼の運命を決定した厳しさで経験したのだった。永遠になつかしい一人の女のそばで十年も暮してきたために、彼はもはや彼女なしの慣習になじめず、いまは不在の女をたえず重い、別の女の顔にその面影を求めつづけたのだ。
他方、新奇さへの好みも本能的なものである。人間は同じ宝を持つことに厭きる。人は幸福というものを、健康と同じように対比によってしか享受しない。そして愛もまた、それ自身の断続のなかに存在する。
ところで、類似はまさしくこの二つのものをわれわれの内部で和解させ、双方に等しい分け前を与え、はっきりとしない一点において結びあわせる。類似は慣習と新奇さとの地平線である。

このあたり立ち止まって考えたくなるよな哲学的な含意があると思う。何かと何かが似ていることそして異なることは人間の認知の根本なのだ。わたしが先に原章二による解釈(『人は草である』)を読んでいたことも影響あるだろうが、この小説は類似/差異/同一化をめぐる物語であるのだ。原章二によればこの小説は結局プラトニズム的な「オリジナル」への信仰に殉じて滅びる物語として解読されるわけだが、「ジャーヌのほうが、死んだ妻にもっと似ている」なんて述懐される箇所ではスリリングな破断が兆しもする。


死都ブリュージュ (岩波文庫)
G. ローデンバック
岩波書店


ベルギーの画家クノップフはこの本に触発され、ブリュージュの絵をいくつも描いたらしい。

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死都感がすごい。



mdioibm at 23:33│Comments(0)

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