2017年10月08日

回転木馬のデッドヒート/村上春樹

祖母の葬儀に出るために帰省したおり、かつてわたしの部屋だった部屋の本棚で発見した一冊。ああ、これここにあったのかって。村上春樹の本はたいてい実家を出る際に持って出ていたつもりだったが、これだけが置き去りにされていたのは、かつてのわたしが再読の価値なしと判断したのか、それともただたんに荷物に含め損なっただけなのか、いまとなっては分からないのだけど。
「ここに収められた文章は原則的に事実に即している。僕は多くの人々から様々な話を聞き、それを文章にした。もちろん僕は当人に迷惑が及ばないように細部をいろいろといじったから、まったくの事実とはいかないけれど、それでも話の大筋は事実である。話を面白くするために誇張したところもないし、つけ加えたものもない。僕は聞いたままの話を、なるべくその雰囲気を壊さないように文章にうつしかえたつもりである」、と前置きがある。かつてのわたしは、それを真に受けて、小説じゃないし、作品じゃないじゃん、と考えて、この本を他のものより一段下に置いたのかもしれない。
しかしまあ、いまとなってみれば、これは村上の作家的詐術であって、ほんとうに事実であるってことではないという判断も働くわけである。これは事実です、と断りを入れて作家本人が登場すること、この作品集のばあいそれは迫真性を担保するためというよりは、ふつう小説に要求されるような結構から自由であるような、一風違った形式の、なんというか帳尻の合わない余白の多い作品を置くための、額縁として機能しているという感じである。正面からご挨拶というのではなく、スッとやってきて、ある印象を残して、スッと去っていく、そんな通りすがり感が、味になっている短編集である。

とかいいながら冒頭の「レーダーホーゼン」は例外的に上手く「出来て」いる作品である。旅行先で夫への土産のズボンを買いにいったら、本人がいないとお売りできませんというので、似た体型の別人を見つけ出す。ということをやっているうちに離婚を決意する、という話。レーダーホーゼンは一見村上流のルートレスなメタファーで、なんで半ズボンと離婚が関係あるの?って思っちゃうけど、夫に似た体型の別人を探す行為は、「他者の目で自分の人生を見直す」契機であるので、そういう意味で小説的にきちんと意味が整っている。

「タクシーに乗った男」。この作品に限らず、この短編集はある種の「解離」の状況を扱ったものが多いというか、それは心理学的な解離と厳密に一致はしないのだろうけど、「かくあるべき自分」と「いまげんにある自分」との齟齬といったような意味なのだけど。ある画商が、画家を目指してニューヨークで暮らしていたときにある絵に出会って、彼女はその絵を購入して毎日毎日眺めて暮らすのだけど、やがて夢を諦めてニューヨークを出る際に、離婚もして、絵も焼き捨ててしまう。それから画商として成功した後年、その絵に描かれた人物と現実に出会うという話。これもよく出来ている部類だと思うのだけど、わたし的には、小説内で架空の絵や音楽に対する印象を描くとこって、あまりピンとこないってところもあってあまり買わないかな。

「プールサイド」は有名な「35歳問題」を扱った作品。つまり、35歳を過ぎたら、人生折り返し地点を過ぎたってことだって話なのだけど、経済的にも成功して満ち足りたはずの生活を手にしている男が、何が足りないというのでもないのに、ふと喪失感を感じて涙を流す、とそれだけの話。いかにもな村上的感受性を描いたもので、一人二役やってるようにさえ思える。男が涙を流すきっかけがビリージョエルの曲ってところが、架空の絵がモチーフであるよりはいいと思うんだな。「アレンタウン」ですかね。




「今は亡き王女のための」。「とりかえしのつかなくなるまでスポイルされた美しい少女」の没落。村上氏は彼女のことが嫌いだったのだけど、グループで一部屋に雑魚寝することがあって、一度だけあやうくセックスするところだったという思い出がある。「やれたかも委員会」である。後年彼女の夫と出会い、打ちのめされて別人になってしまった彼女の話を聞いて、それを思い出す。これはありそうな話ではある。「やれたかも」のくだりは生々しくてよいが、ユニークさに欠けるので印象は強くないかな。

「嘔吐1979」は友人の恋人や嫁と寝るのを趣味としている男が、嘔吐と、名前だけを呼ぶ謎電話に苦しめられる話。それは理由もなく始まり、理由もなく終わる。これもまた「解離」のひとつの「症状」のようなものとしてとらえられるだろう。謎電話は当然「もうひとりの自分」からの電話であるのだろう。サルトルをもじった(?)タイトルはいまとなってはさほどポップでもない。

「雨やどり」はこの作品中いちばん不出来なものに思える。かつて知り合った雑誌の編集者が休職期間中に(やりたくもない部署に配置換えされたので退職したのだ)、お金を貰って複数の見知らぬ男と寝た体験を村上さんに語る。彼女にとって、それは「解離」を癒す儀式のようなものとして作用したということなのかもしれない。「僕はその昔、セックスが山火事みたいに無料だったころのことを思い出した」っていうブローティガンちっくな結びが、なんだかなあって感じで。

「野球場」。自分に原稿を送ってきた素人と会って話をするってところが、なんだがありそうもないというか、太宰治とかならじつにありそうだけど、村上春樹はそんなことしそうもないよな。で、彼は村上さんに覗きの経験を告白するのである。彼がこんなことを言う。面白い部分だと思うので、引用すると、

「うまく説明できないんですが、のぞき見をすることによって、人は分裂的な傾向に陥るんじゃないかと僕は思うんです。あるいは拡大することによってと言ったほうが良いのかもしれませんけどね。つまりこういうことです。僕の望遠レンズの中で、彼女はふたつに分かれるんです。彼女の体と彼女の行為にです。もちろん通常の世界では体が動くことにとって行為が生じます。そうですよね? でも拡大された世界ではそうじゃないんです。彼女の体は彼女の体であり、彼女の行為は彼女の行為です。じっと見ていると、彼女の体はただ単にそこにあり、彼女の行為はそのフレームの外側からやってくるような気がしてくるんです。そうすると彼女とはいったい何か、と考えはじめるんです。行為が彼女なのか、あるいは体が彼女なのか? そしてそのまんなかがすっぽり欠落しちゃうんです。それにはっきり言って、体から見手も行為から見ても、そういう風に断片的に見ている限り人間存在というのは決して魅力的なものではありません」

こんな文章をリアルで喋る人間はいない、と思えるが、それはそれとして、引力のある文章だと思う。この後、彼はのぞき見をしていた当の女性とばったり出会うことになり、ひどく不快な、べたべたとした嫌な汗をかくことになる。わたしもまたうまく説明はできないのだけど、青年の異常心理が見た現実の風貌もまたひとつのリアリティであって、それはこちら側のリアリティとはかみ合わないものなのだ。あえていえば、「嘔吐1979」よりも、こちらのほうがむしろサルトルを引き合いにだすにふさわしいものが描かれているように思える。

「ハンティング・ナイフ」。「レーダーホーゼン」と並んで、この短編集の白眉と思える一編。休暇のリゾート地で、車椅子の青年の話を聞く。スケッチ的な作品のならぶこの短編集にあって、もっとも「筋がない」作品であって、したがって要約もできないが、にもかかわらず、というかそれゆえに、イメージの短編として成功している。青年の話といったって、さらっとした身の上話があるだけで、あとはハンティング・ナイフを手渡されるだけのことなのだ。これは完全にルートレスなメタファーというか、具体的に青年の何かを説明するのではなく、ただその冷ややかな暴力性のイメージだけが浮き残る。太った白人女のぶよぶよとした脂肪のイメージ、健康な人間と不健康な人間とがはっきり分かれる家系、車椅子の青年の「欠落」のイメージ、「夜は深く、時はやわらかな汁気のある肉体にようだった」と書かれる質感のある空気、そんなものに囲まれた中に。

回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)
村上 春樹

講談社 2004-10-15




mdioibm at 10:17│Comments(2)読書録 

この記事へのコメント

1. Posted by サム   2017年10月11日 01:14
大昔に読んだきりあらすじは完全に忘れていたのですが、この記事を読んでうっすら思い出しました。
村上春樹はねじまき鳥〜神の子供たちの辺りで作家としてワンランクアップしたような印象ですが、個人的に好きなのは初期の素人臭さ・胡散臭さが香る作品群です。国際的な作家になった今ではもうああいうのは書けないんでしょうね。
2. Posted by midioibm   2017年10月11日 20:53
ああいう気取りまくった洒落まくった文章とかはもう書けないでしょうねえ。「十六歩的世界において、僕は「世界でもっとも礼儀正しい酔っ払い」の称号を与えられている。」とかいったような。ねじまき鳥以降の作品から入ったなんて読者も、とくに欧米には多いんでしょうねえ。ちょっと待て、村上春樹はなにはともあれ「僕」三部作だろ。話はそれからだ。とか、言いたくなりますよね。それに、たしかにランクアップというか評価は拡大しましたが、それ以降『ねじまき鳥』より良いものは書けていないとわたしは思います。

コメントする

名前
URL
 
  絵文字