カオスの紡ぐ夢の中で/金子邦彦ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし/エステルハージ・ペーテル

2018年04月08日

マルテの手記/ライナー・マリア・リルケ

積年の積読本をついに読む。
この十年来手にとってはすぐに退散してを繰り返してきた本だが、このたびやっとのこと完読。
「手」の話のくだりまで読んだときに、今回こそは読めるかなと感じた。マルテが幼少期に床に落ちた鉛筆を拾おうとして、暗い机の下を手探りしたときのこと、ようやく暗さに眼が慣れてきて自分の手が床をまさぐっているのも見えるようになったとき、向かいの壁から、別の手が出てきて、同じように床をまさぐっていた、というような話。ある意味恐怖体験だが、それだけでもない。

この経験によって、僕が一生ひとりで負いつづけなければならないなにかが僕の生活へ、とくに僕の生活へはいりこんだことと、そのころの僕がすでに感じたかのように言うのは、むろんこれは言いすぎであろう。今でも目に浮かぶが、僕は格子の手すりのある小さなベッドに寝て、眠れなくて、人生はこんなであろうと想像した。なんということもなく漠然とそのように想像した。人生は僕たちがひとりで負いつづけなければならない経験、そして、言葉に言い表せられない不思議な経験にみちているのであろうと想像した。

このあたりを読みながら、詩人であるということは、なんという地獄なのだろう、とわたしは思った。なぜか胸をどきどきさせながら。詩人でなくたって、われわれは誰しも、自分だけで負いつづけなければならない経験を抱え込んでいるのだろう。というそのことが、なにかひどく恐ろしいことのように感じられた。それで、この箇所を読んだときに、リルケに近づけた、と思えた。

しかしまあ、いちばん近づけたのは、そのあたりで、あとは遠のいていくばかりでもあった。構成も散漫に思えたし、首尾一貫したテーマすら感得できない。無数の詩想を書き留めた散文の集積、よせあつめ、そんなようなものに見える。詩想はそれだけで値打ちのあるものだとは思うが、途中いくどか、流れを手繰れなくなって、退屈を感じずにはおれなかった。正直言うと、うとうとして本を取り落としたりもした。都市小説なんて言われているけれど、都市がモチーフになるのは部分的にだけで、わたしとしてはもっとリルケのパリを感じたかったというか、それに焦点を絞って欲しかった。著者は逆に絞りたくなかったのかもしれんが。華やかな大都会ではあるが、そこでリルケは、いや貧しいマルテはたぶん都会であるがゆえに激しい孤独に苛まれ、たぶん多種多様の人間がいるがゆえに現実のシビアさを痛感したのだろう。隣室の缶の蓋の音のエピソードなんかもいい。

缶の蓋は、缶がまともな缶であって、そのふちの曲がりようが蓋のふちの曲がりように一致していたら、その缶の上にかぶさっているほかに欲望を持たないにちがいない。これにはだれも反対があるまい。蓋にとってそれは無上の幸福であって、それにまさる喜びはないであろう。百の願いがそれによってみたされたことにもなろう。缶の小さな円いふちの上へ気長にやさしくはめこまれて、重みをそれへ平均して託しているのは、純粋ともいえる境地であるにちがいない。そして蓋は缶のふちが自分のなかへしなやかにはいりこんでいるのを感じている。ちょうど自分がひとりで立っているときに自分のふちを感じるのと同じくらいの鋭さではいりこんでいるのを。ああ、しかし、この幸福がわかる蓋はなんとすくないことだろう。

このヴァルザー的なトリビアリズム! ここに香るユーモアはむしろ例外的なものにも思えるが、リルケはこんなものも書くのだ。ヴァルザーは、詩人は古釘に引っかかったハンガーでもあれば詩が書けると言ったが、缶の蓋でもそれは同じことなのだろう。こんなふうにもっぱら感覚的なものをモチーフにしている、つまり見て聴いてしたことを描いている部分は、分かりやすい。思い出がモチーフとなる部分、ここもまだいいのだけど、やや概念的なものが膨らんでくるともいえる。それから、最後らへんとくに多くなってくるのだけど、シャルル六世や聖書あたりがモチーフになってくると、リルケが遠のいて、分からなくなっていった。

マルテの手記 (岩波文庫)マルテの手記 (岩波文庫)
リルケ 望月 市恵

岩波書店 1973-01




mdioibm at 20:53│Comments(0) 読書録 

コメントする

名前
URL
 
  絵文字
 
 
カオスの紡ぐ夢の中で/金子邦彦ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし/エステルハージ・ペーテル