狂月日誌

旧「実録・躁うつ病」。躁うつ病のリアルを書いていたのだが・・・

2012年06月

会社で倒れる

2007年2月。オフィスで仕事をしていた私は、頭を使い過ぎたのだろうか、脳が思考以外に作用しなくなったのだろうか。頭は動いているものの、全身の筋肉に力が入らない。椅子に座っていることすら出来なくなり、机に突っ伏して意味不明のことを喚きだした。「あ、もうすぐ死にます」とか。

あわてた周囲は保健室の保健師を呼びに行った。とりあえず運ぼう。歩けるか。無理だ。私は台車に乗せられてエレベーターで保健室に行った。「薬は持ってないの?」「あ、リスパダールの溶液があります」「すぐに飲んで」リスパダールを飲むと、1時間ほどで歩けるようになった。「今日は帰った方が良い」それはそうだろう、私は定時前に会社を後にした。

翌日病院に行き、そのまま3回目の入院。この時は、明らかに躁状態だった。次の株主総会で私は取締役になるという妄想があった。もちろん、あり得ない話だ。病院から友達に電話をかけまくった。仕事以外の趣味の仲間が5人でお見舞いに来てくれた。1時間ほどゲームをしたり卓球をしたりして遊んだ。精神病院へのお見舞い。優しい友達というか、興味本位だったのかもしれない。

教授回診で、誰かが興奮気味だと言ったために、私はまた保護室に入れられた。4日ほどで通常の閉鎖病棟に戻ったものの相部屋の人と仲良くなれなかった。最初の入院が運が良すぎたのだ。精神病の世界が薔薇色なわけがないではないか。

思えば、希望も無いのに仕事で頑張ったように思う。それは頑張らないと楽しくないからだ。それなりに画期的なシステムをいくつも作った。周りからも感謝されていた。しかし、常識的に考えて、病気をしたら終わりだ。そういう客観的な思考が出来なくなっていた。大逆転を夢見ていたのだろうか。だとすると、それは何故か。

人は誰しも、無意識のうちに自分の人生のシナリオを持っている。私はこの病気のために、何度もシナリオを書き換えないといけなくなったのだ。果たして、今の私のシナリオはどうなっているのだろう。それを追う前に、まだまだ過去の病相を整理する必要がある。なお、この後3回入院することになるが、妻が来てくれたのは、これが最後だった。

止まらない食欲、壊れて行く歯

ジプレキサという薬がある。発病後、薬の影響からであろう体重増加はあったが、ジプレキサほど強烈だった薬は他にない。2週間で10kg以上増えた。食べても食べても食欲がおさまらないの。満腹で体が受けつけなくなっても、それでも食べる。深夜のラーメン、焼きそば、食パン。昼食は2回分。流石に1ケ月で薬を変えてもらった。

それにしても、抗精神病薬はすぐに体重増加と結びつく。所詮すべては脳内物質ということなのか。薬による食欲は、自由な状態では抑えようがない。医者は「そこを意思で我慢してください」と言うが、意思などこの薬の前では無力だ。

鬱がひどい時、歯医者が驚いたことがある。月に3本、歯が折れた。「1週間でこんなに状態が悪くなるなんて、どいう薬を飲んでいるのですか?」とも言われた。薬の副作用ではないかもしれない。強いストレスでも歯は悪くなるらしい。

顏も変わった。知性の感じられない顏になった。また表情の変化が乏しくなったとも思う。鏡を見るたびに、やる気がなくなる。そして鏡を見ずに外出すると鼻毛を指摘されたりする。

薬の説明書には、副作用として糖尿病や肝臓への影響が示されているが、この注意事項を守る医者を見たことはない。私は糖尿病で肝臓の数字も悪いが、精神病を治す方が問うまでもなく重要ということなのだろう。

投薬治療の結果残ったのは、100キロを超える体重と、もうすぐ総入れ歯という歯の状態。そして今は、薬への依存傾向もある。もっとも処方されている薬なのだから、普通に飲むべきだと一般人は思うかもしれない。しかし、薬によって脳が壊れて行くような感覚を知る人なら、何をどう飲むべきか迷うはずだ。

「医者の言うとおりにしなさい」という無知な人も少なくない。この類の発言は、病気の治癒率や、医療の実態を知らない人の無責任な妄言である。大事なのは良い医者を、良い医療機関を選ぶことであり、周囲の精神科医療全般についての正しい理解だ。そして、意思決定権を医者や家族に委ねないことも重要だ。一度失った主体性を取り戻すのは大変なことなのだから。

2回目の入院

たしか2004年だった。躁うつ病の状態は安定していたと思う。軽躁状態ですらなかった。しかし、突然に妄想のスイッチが入った。追われている。そう思った。食事をした後の帰り道、私は急に走り出した。踏切の前に車が止まっていた。怪しい。遮断機がおりているのに、私は踏切を走って渡った。坂道で靴が脱げた。私はもう一方の靴も脱ぎ捨てて自宅に飛び込んだ。鍵をかけて、2階の小さな部屋にバリケードを作った。携帯電話で主治医に連絡し、入院の手筈を整えてもらった。早朝のタクシーを予約した。翌日は日曜日だった。

翌朝、タクシーで大学病院に逃げ込み入院した。そこには大御所の患者がいた。「ようこそ、お待ちしてました。もうすぐ貴方専用の個室が出来ますよ。貴方のことはA教授が誉めていました。ここで存分に研究なさってください」この言葉を私は真面目に受けとめてしまった。

数日後、医者と揉めた。医者は私を強引に「保護室」に連れ込んだ。「保護室」というと聞こえは良いが、鉄格子の刑務所のような個室だ。あるのは布団と便器だけ。食事の時も部屋から出ることはできない。普通の人ならば、こういう場所に来たというだけでショックを受けるだろう。入院中、自傷の恐れがある場合や、他の患者と揉める人にはこういう処置が法律で認められているのだ。

医療保護入院となり、遠くから別居中の妻(発病以前から単身赴任が続いていた)が来たが、この姿は見ない方が良いと言われて帰って行った。精神科で医者や看護婦に逆らって良い事は何一つない。患者との関係でもだ。ありもしないことを密告するような患者もいた。

それにしても、なぜ私は急に妄想が生まれて躁状態になるのだろう。普通なら、こういう症状での入院は3ケ月程度だと思う。しかし、ここの大学病院は違った。1ケ月程度の入院だった。退院したのは、4月27日だ。「シニナ」だから、この日は嫌だと言ったのを覚えている。ぜんぜん良くなっていないではないか。

退院し、会社に復帰したものの様子がおかしかったのだろう。部長に、もう少し休みなさいと言われてしまった。妄想はくすぶる。完全に消えないと、日常生活は難しい。まして仕事は。

楽しすぎた入院

1回目の入院は、2001年だった。1999年に躁状態になってから、さらに2回躁転した。しかし、いずれも入院には至らなかった。その間、会社は頻繁かつ長期に休んでいた。その後、長い鬱状態になった。1回目の入院は鬱での入院だった。経緯はよく覚えていないのだが、重症だということを会社にアピールしたいといった考えもあったように思う。ずる休みととられたら困るからだ。私は大学病院に入院した。

病棟には広いホールがあり、卓球台もあった。当時はテーブルを囲んで煙草を吸えるスペースもあった。ほぼ毎日、自由参加のリクリエーションがあり、カラオケや習字、絵など、多くの患者が参加していた。1回目の入院は、患者仲間に恵まれていた。躁うつ病や鬱病の人が多かったが知的には正常で、喫煙場所では会話が弾んでいた。年齢も高校生から40代くらいまでで男女数人がこの場所の常連だった。面会に来た人もまざることがあった。

普通に見れば、精神の病を抱えて生活保護というのは社会の底辺かもしれない。しかし、1本の缶コーヒーで楽しく一日中会話をしている様子は楽しげだった。会話もマトモだった。売上アップに目を血走らせている会社の人々よりもずっと健全だと思った。

消灯時間の9時を過ぎても、10時まで喫煙場所は解放されていた。まるで中学生か高校生のように、仲間がここに集まって話をした。「私たちは優しくて真面目なのよ。だから、オカシナ世の中の犠牲になるの」そんなことを言う人もいた。みんなでオヤツを分け合って食べていた。

安らぎの場所と新しい仲間。まるでオアシス。それが最初の入院のイメージだ。会社よりどれほど良いことか。私は退院したくはなかったし、仕事をする自信も気力も無かった。しかし、1ケ月ほどで退院させられる羽目になる。

「自信が無くても自信があると言いなさい。そうしないと社会復帰できなくなる。頑張れ」

とても精神科医の言葉とは思えないが、事実なのでしょうがない。私は退院して職場に復帰した。しかし、まったく治ってはいなかった。毎週必ず休む日があったように記憶している。そしてあの、911が起こった。

病前性格

さて、病前性格と書いたものの、いつから病気だったのかの判断が難しい。最初の異常を、プールに入るのに異常に脅えた幼稚園時代にするのか、全国模試で一桁に入りコンピュータ管理に恐怖を覚えた中学時代にするのか、喘息を理由に引きこもった高校時代にするのか、浪人時代の逃走エピソードにするのか。それとも、40代手前での初の精神科受診と投薬治療にするのか。

私はやや特殊な環境に生まれた。祖父は東大卒、父は大学教授、血筋は武士。貧乏だったが、特権階級意識のようなものを持って育ったように思う。少なくとも親族は私の才能に期待していた。しかし、才能が無いことは私自身が一番良く知っていた。中学の同級生には東大に行った奴が何人かいるが、そういう人を見るにつけ、私が努力するなど無駄でしかないと思った。二度とない青春時代は受験勉強ではなく遊びに使いたかった。

また、体も弱かった。いつ死ぬかわからないのだから今を楽しもう。刹那的な青春だった。少しの努力で優秀程度の成績ならとれただろう。しかし、優秀では満足できなかった。卓越でなければ普通以下と同じだ。そういう感覚がどこかにあった。

高校時代には大学生と遊んでいた。大学時代には町のギャンブラーと遊んでいた。ギャンブラーは憧れの職業だったが、資質的に無理だと思った。バブル前の明るい時代だった。特別な才能を見出せない私は、生きるためにはサラリーマンしかないと思った。一般サラリーマンになるということは、私にとっては決断であり、転落だとも感じていた。

私は穏やかで温厚な性格。ちょっとユーモアが過剰なところもあった。ある上司は、君は気分のいい時と悪い時がハッキリしているね、と言った。躁鬱気質。そうだったかもしれない。テンションの高い時期と、暗い時期がハッキリしていたようにも思う。

ちょうど30歳の手前頃だろうか。現代思想に興味を持った。1990年代のことだ。私は本を読み漁った。そんな中で、おかしな妄想が生まれた。ノストラダムスが予言した世紀末の大王とは私のことだ、と。1999年、私は世界的な名著の筆者として君臨するだろう。いわばホッブズの「リヴァイアサン」のような政治哲学の名著を書くだろうと。しかし、いっこうにその努力をせず、1999年は近づいてきた。この妄想の背景には、「私は卓越していなければならない」という家族から授かった信念(ビリーフ)があったのではないだろうか。

それが正しくない信念だと言うことは簡単だ。しかし、信念の正しい、正しくないという判断は微妙である。結果が出れば、どのような信念でも正当化されてしまうからだ。DNAの問題はわからないが、私の思考と行動を狂わせたものが「卓越への意思あるいは執着」だったことは間違いないと思う。それにしても、もう少し現実を客観的に見ることは出来なかったのだろうか。この果てしない乖離が「躁うつ病」という病気を生んだように思えてならない。
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きょうげつ

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